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所謂『邪馬臺國』論の福島雅彦・独創説総覧
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1:福島雅彦
:
2022/08/26 (Fri) 18:19:09
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序の壹
※古今の先哲の「邪馬臺國」論は全て間違っている、と断定する。その訳は…。
*江戸時代の新井白石や本居宣長らから論じられているが結論に至っていない。
・東京帝国大学・白鳥庫吉VS京都帝国大学・内藤虎次郎が「九州説と畿内説」
で論争し百余年、その弟子たちが幾多の論考を重ねても未だ決定打に至らず。
※最高の叡智を持つ人々が正鵠を衝き得ないのは、今までの研究手法が間違っている、と証明しているに等しい。
※私は、所謂「邪馬臺國」論解明の為に生まれてきたような生い立ちを持つ。
*文献派言語考古学を標榜し、理系の直感と閃きと屁理屈から導きだした。
・日本の植民地時代の台湾生まれで六歳まで、標準語の環境に居た。
・終戦で父の故郷に帰国し、即小学校一年生。「筑後弁」の洗礼を受ける。
・「筑後弁」と標準語のバイリンガルになるのが命懸けであった。
※中学生の時、鉱石ラジオの組み立てセットで制作した。
*受信した第一声は、今思えば釜山放送局の朝鮮語(当時は何語か不明)。
・その外国語のアクセントや抑揚は決死で習得した筑後弁に似ていると感じた。
※長じて、福岡県立浮羽工業高等学校建築科を優秀な成績で卒業。
*建築工事現場畑に、この道四十年務めた。
・その間、伊奘景気とか神武景気、朝鮮戦争特需、先のオリンピックと、業界は多忙を極めた。
・その様な中に在って、幾度かの「邪馬臺國」ブームがあり、寸暇を盗んで関連著書を読み漁った。
・著名考古学・文学者、作家、一般の好事家のどの著書にも納得が出来なかった。
※一念発起、これは自分が真説を発表する外はない、と決心した。
*謎が謎であるのは、中国正史に記載の「倭語」音写漢字の読みに在る、と看破。
・全ての研究者がこれらの「倭語」音写漢字を時の日本語読みしているのが元凶。
∵「倭語」の聴き取りをした「倭人」の使者は、「倭國の極南界」から来た、と。
∴中国正史の「倭語」音写の漢字は「筑後弁」で読み取るべきである、と気付く。
つづく
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18:福島雅彦
:
2022/10/15 (Sat) 21:23:25
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3.『隋書』の項—2.
※「朝命既達請郎戒塗於是設宴享以遣清復令使者隋清来貢物此後遂絶」
*(大業四年(608)来倭の裴世清が曰には)「既に朝命(煬帝の命令)は達したので、直ぐに帰国したい」と。そこで、宴享を設け以って清を帰国させた。復、裴世清に随伴して隋に来て方物を貢いだ。この後遂に(倭との通交は)途絶した。
・と、謂うことは「阿毎多利思比孤」の九州皇統が滅亡した、となる。
・小野妹子(蘇因高)も、九州皇統から派遣された事を意味する。
・「蘇因高」=「相(宰相)の妹子」=「阿毎多利思比孤」の宰相。
※「阿毎多利思比孤」は、聖徳太子と「畿内説」は謂うが…。
*「聖徳太子」は、用明天皇の皇子であり、太子と言うからには皇太子。
・用明天皇の崩御に際し皇位を継いだのは、欽明天皇の皇子=崇峻天皇。
・崇峻天皇の崩御に際し皇位を継いだのは、女帝の推古天皇。
※聖徳太子は幾度もの皇位継承の機会に皇位継承をしなかったのは何故か?
*聖徳太子は九州皇統の皇太子で、畿内の皇位継承の認証権を持って、畿内に派遣されていた、と観る。
*「遂に絶える」の数年後、聖徳太子の一家は全滅 ?
※『日本書紀』は畿内で「裴世清」を饗応した、とするが、隋の事を大唐と誤っている。
*『隋書』では、裴世清は畿内に行ったとは一言も述べていない。
・「竹斯國」の東十餘國を経ると海岸に達する=別府湾に至れる、である。行ってはいない、伝聞記事である。
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17:福島雅彦
:
2022/09/20 (Tue) 21:47:54
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3.『隋書』の項—1.
※「俀國在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」とは…。
*『後漢書(倭伝)』でも『三国志(魏志倭人伝)』でも、その前項の『韓傳』で述べた「倭」の情報の重複記述を避けていて、半島の「倭地」に触れていない(大海の中だけではナイ)とした。此処でもそれを踏襲している。
・「俀國は百済の東と新羅の南 (半島内)と水陸三千里(海峡を挟んだ大海の中)列島に在る」と。
※「國皆自称王」=『後漢書』の記述を踏襲(前述)。
・
※「夷人不知里数但計以日」=倭人は里数(距離)を知らず、所要日数を以って計る。此れは『後漢書』にも『三国志(魏志倭人伝)』にも無い記述である。
※「其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」=裴世清は現認。
*「魏志に所謂「邪馬臺」とは、(「臺」とは女王の宮殿の意かと)来て見たら東が高く西に下がる地勢の「邪靡堆」(黒髪靡く堆い小山)だった」と。
「東高西下」とは一望できる範囲の表現=水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を指している。
・此れは、前史の『後漢書』と『三国志(魏志倭人伝)』の誤謬を糺している。
・「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」=「(裴世清が)来て観た倭の都「邪靡堆」は(國の文字を外して)則ち魏志(『三国志(魏志倭人伝)』は無視)に謂う処の「邪馬臺」である」と、国名ではなかった、と合点している。
・この地は伊都國の南千五百里に在る=前史の否定はしていない。
※「明年上遣文林郎裴(世)清使於俀國」=「明年(無礼な國書の翌年=大業四年)上(煬帝)は裴世清を遣わして倭國に使いさせた」。行程は…。
*「度百済行至竹島南望[身冉]羅國経都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國」。
・「(黄海を横断)百済に渡って(陸路)竹島に至り、南に[身冉]羅國(済州島)を望み(再出航して)「迥か」大海之中に都斯麻國を見て(寄港せずに)東して一支國に至り又竹斯國(博多湾)に至る」である。半島南西の難所の航行を避けた記述であり、対馬海流に乗り「一支國」を目指している。
※裴世清は竹斯國から一歩も出ていナイ!
*「又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又経十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀(倭)」。
・「(竹斯國に居て)又東すれば秦王國(京筑)に至れる、其の人は華夏(中華)に同じで夷洲と為すも疑わしく明らかにする能わざるなり。又(竹斯國の東に)十餘國経ると海岸(別府湾)に達する。竹斯國より東は皆(秦王國+十餘國は)倭に附庸する」=伝聞記述で、裴世清は行っていない。
∵前項と「竹斯國」が二回登場するのは、最終目的地に居る事を意味している。
・「竹斯國」とは前史の国名の「末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺(壹)國、(彌奴國)」を包括しているというか、それらが国情説明文言の一部であって国名で はなかった、と看破しての表記である。
*「秦王國」とは、「「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖(秦)ン(の)國」=神崎郡が発展的に京筑地区へ展開。「倭の五王」讃・珍・済・興・武を排出した、と観る。
*倭國には、都斯麻國、一支國、秦王國、十餘國とあるが、「阿毎多利思比孤」の他には王は居ないのである。
※「倭王遣小徳阿軰臺從数百人設儀仗鳴鼓角來迎…」とは…。
*「倭王は(博多湾に)小徳阿軰臺を遣わし、数百人の儀仗を従えて鼓と角笛を鳴らして迎えさせた(大宰府に逗留)…」。小徳(阿軰臺)=倭王の官僚。
※「後十日又遣大禮哥多[田比]從二百餘騎郊勞既至彼都」とは…
*「十日の後、大禮哥多[田比]を遣わし二百騎を従えて郊勞、都に至った」
=「(大宰府に)十日待たされて、倭王の都に着いた」=待たせた理由は…
「稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使」=「境内(大宰府)に待たせて即逢わなかったのは、道路を清め館を飾って大使を待つ故です」と、ある。
・大宰府から十日で道路が清められる処に「阿毎多利思比孤」の館は在る。それは、高良山である。大禮哥多[田比]=倭王の官僚名。
※「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩雞彌」とは、固有名詞ではナイ!
*「天照大神」の異字表記である。「阿毎=「天(あま・あめ)」」の意である。
・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“딸리다”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。
∴「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」。
・「天照大神」=「天(あま・あめ)地方」「照=“딸리”(ttal-li)=付く、属する」」大神。
つづく
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16:福島雅彦
:
2022/09/17 (Sat) 20:32:09
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石見介さん、ご高覧戴きコメントも賜り多謝 謝々!
>伊都国の官「爾支」を、筑後弁の「にき」と解釈されたのを読み、昔、郷里(島根県邑智郡)で、側、傍、横の意味合いで、「ねき」と言っていたことを,
思いだしました。
島根県の石見地方は、出雲の雲伯方言と異なり、他の中国地方の方言と共通しているようです。
*「にき」と「ねき」は訛りの範囲で同義ですね。
・筑後弁の一人称「わ」は、稲作北上のルートに観られる様に思います。秋田まで辿れるか、と。
>現代日本語方言は、九州方言、西日本方言、東日本方言に、大別されますが、九州方言の下位方言の筑後弁と、西日本方言の下位方言の石見弁の「にき」と「ねき」の音の近さから、或いは,それらの祖語の、上代日本語の九州方言と中央(畿内)方言に、遡るかも?と思い、『時代別国語大辞典上代篇』で、「にき」「ねき」を検索しました。
結果は、「ニキ」(キ甲類、ニは甲乙なし)は、【和,柔】形状言。動詞ニキフ(石見介注、馴れ親しむの意)を派生し、また接頭語的に他の言葉と複合して、穏和な・おだやかなの意味をあらわす。(以下略)と、記載されていました。
ニニギ、ニギハヤヒや「ニギミタマ(和魂)」の「ニギ」と関連するかもしれませんが、どうも既知の上代語には、語義は、直接は、辿れない様です。
「ねき」は収載されておらず、「ねぎ」(禰宜)がありましたが、これは勿論神職の禰宜であり、意味も違います。
*貴重な資料提示に深謝いたします、が…
・「禰宜」は宮司・神主の「側に仕える」(次席)の意味ではないか、との思いで取り上げました。
今後ともご教示賜ります様に宜しくお願い致します。
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15:石見介:
2022/09/16 (Fri) 23:52:22
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福島雅彦さん
伊都国の官「爾支」を、筑後弁の「にき」と解釈されたのを読み、昔、郷里(島根県邑智郡)で、側、傍、横の意味合いで、「ねき」と言っていたことを,
思いだしました。
島根県の石見地方は、出雲の雲伯方言と異なり、他の中国地方の方言と共通しているようです。
現代日本語方言は、九州方言、西日本方言、東日本方言に、大別されますが、九州方言の下位方言の筑後弁と、西日本方言の下位方言の石見弁の「にき」と「ねき」の音の近さから、或いは,それらの祖語の、上代日本語の九州方言と中央(畿内)方言に、遡るかも?と思い、『時代別国語大辞典上代篇』で、「にき」「ねき」を検索しました。
結果は、「ニキ」(キ甲類、ニは甲乙なし)は、【和,柔】形状言。動詞ニキフ(石見介注、馴れ親しむの意)を派生し、また接頭語的に他の言葉と複合して、穏和な・おだやかなの意味をあらわす。(以下略)と、記載されていました。
ニニギ、ニギハヤヒや「ニギミタマ(和魂)」の「ニギ」と関連するかもしれませんが、どうも既知の上代語には、語義は、直接は、辿れない様です。
「ねき」は収載されておらず、「ねぎ」(禰宜)がありましたが、これは勿論神職の禰宜であり、意味も違います。
念のため、電子辞書で『広辞苑』を索引したところ、「ねき」【根際】(上方方言)きわ。そば。(以下略)、と有りました。
どうも、石見も筑後も、江戸時代の上方弁の影響を受けたか、それ以前の共通の方言から、引き継いだかして、ほぼ同義の類似した語形が、筑後、石見、京大阪に、残ったのでしょう。
現在の日本の共通語たる、関東の言葉に無いので、九州や筑後の独自の方言形と思われたのかもしれませんが、上方の「ねき」が、筑後で「にき」に訛った可能性もありそうです。
蛇足:電子辞書版『広辞苑』で、「にき」は、【二気】しかなく、これは,陰と陽、の意味であり、外来語(漢語からの借用語)と考えられるので、無関係(*)だと思われます。
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14:福島雅彦
:
2022/09/15 (Thu) 22:50:03
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『三国志(魏志倭人伝)』つづき―6.
※各國の官・副官などの語源は…。
*「狗邪韓國」=九倭韓國で、九人の族長が治めるとして居て、国家の体裁ではなくので官職名の記載が無い。伽耶諸国の系統。
*「對海(馬)國」
・大官=「卑狗」=「彦=日子」=八百万の神々の皇子。
・副(官)=「卑奴母離」=“힘-머리”(him-mori)=「頭・守(かみ)」。
「母離」=曽尸茂梨“쇠씨-머리”(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)の「茂梨」と同義・同音。
*「一大國」=同上。
*「末盧國」=「伊都國」の統治下にあり、官職不在。
*「伊都國」
・官=「爾支」⇒筑後弁ては「にき」=「側・近く」=「男弟」か。
宮司の次の禰宜の発音の揺らぎ。
・副(官)=「泄謨觚」=“쇠메-곳”(soe-me-kot)=「鉄山処」(直訳)。
・「柄渠觚]=思案中
*「奴國-1」
・「兕馬觚」=“쇠메-곳”(soe-me-kot)=「鉄山処」(直訳)。発音のブレ?
・副(官)=「卑奴母離」=“힘-머리”(him-mori)=「頭・守(かみ)」。
*「不彌國」
・官=多模=思案中
・副(官)=「卑奴母離」=“힘-머리”(him-mori)=「頭・守(かみ)」。
*「投馬國」
・官=彌彌=彌奴國(「奴國-2」)の尊。
・副(官)=彌彌那利の「那利“나:리”(na-ri)」=王子に対する尊称。
彌奴國(「奴國-2」)の尊の皇子か。
*「邪馬壹國」
・官=伊支馬=伊都國の「支馬」“쇠-메”(soe-me)=伊都國の鉄山(製鉄の長)。
・次官=彌馬升=思案中
・次官=彌馬獲=思案中
・次官=「奴佳鞮」=奴國の「佳鞮=“jia”てィ」=卑彌呼の舎弟。(「鞮」は、通訳の意。=卑彌呼の言辞を伝える役目)。
※中国側は「邪馬壹國」を「投馬國」+「奴國-2」と混同している。
∵「邪馬壹國」七万戸=「投馬國」五万戸+「奴國-2」二万戸である。
※伊、彌、奴、狗の付く役職名は夫々「伊都國」「彌奴國」「奴國」「狗奴國」の略、か。
*その他の役職
・「難升米」=奴ン“sheng-mi”=奴國の三位(さんみ)=男弟の次の位。
・「都市牛利」=年寄り(後の⇒若年寄り・老中・大老)。
・「伊聲耆」=伊都國の“쇠-기”(soe-ki)=伊都國の鉄器(製鉄関係者)。
・「狗古智卑狗」=高(氏)ン國の日子。
※以上、示してきた通り全て役職名である。個人の固有名詞ではナイ!
※倭王 「帥升」も「卑彌呼」も職掌名である。(前述)
※唯一、固有名詞が中国正史に登場しているのは「壹與」のみである。
*これは、壹與が「卑彌呼」職に即位するに際して「塞曹掾史張政」が後見したことに拠る。
・・「載斯烏越」=「宰相ノ越」の意であれば、壹與に続いて二人目の固有名詞か?
※「卑彌呼以死」の意味は、「卑彌弓呼と不和で相攻撃状」との窮状打開の為「塞曹掾史張政」が派遣される。
*「塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米為檄告諭之」に掛かっている。
・「以」には、「……にも拘わらず」の意味がある。
∴「卑彌呼」の窮状打開の為に「塞曹掾史張政」が派遣されたにも拘わらず、(間に合わずに)「卑彌呼」死す、である。
つづく
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13:福島雅彦
:
2022/09/10 (Sat) 21:47:06
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『三国志(魏志倭人伝)』つづき―5.
※「倭國」の国名の音写の中の「奴」の用例は二通りあるが、大方の研究者は理解していない。
*其の一は、格助詞の「の⇒ン」への当て字である。
・彌奴國=「みンこく」=「彌烏邪馬國」の「彌」=水縄連山(耳納山地)の「水」の國。
「尊」=「水事・米事」⇒「水の國・米の國」の意。
・姐奴國=「そンこく」=“서”(seo)=「西」の國。
・蘇奴國=「そンこく」=同上(発音の揺らぎ?)。
・華奴蘇奴國=「かンそンこく」=「漢ン(の)祖ン(の)國」。
・鬼奴國=「くぃンこく」=「基肄ン國」。
・狗奴國=「くォンこく」=「高(氏)ン國」=菊池郡。
*其の二は、「野=棚田の意」の当て字である。
・「奴國-1」=「ぬンこく—1」=“논”(non → nun)國=野(棚田)國、の意。
脊振山北麓の棚田國。
・「奴國-2」=「ぬンこく—2」=“논”(non → nun)國=野(棚田)國、の意。
水縄連山(耳納山地)北麓の棚田國。
・烏奴國=「うゥンこく」=大分県大野郡、岐阜県と福井県に跨る大野郡。
「大川」=「うゥかわ」と筑後弁。「大きい奴國」の意。
つづく
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12:福島雅彦
:
2022/09/09 (Fri) 21:55:12
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『三国志(魏志倭人伝)』つづき―4.
※「倭國」の国名は、「倭人」の国情説明文言の一部を、中国書記官が国名と勘違いしている。
*詳らかになる九ヶ国の中に飛び地を持つものが二ヶ国在る。
(1).「伊都國」の飛び地は宮崎県の「西都原」(さいとばる)である。
・地元の人は、語源が忘れられた後の後世のこじ付けしか知らない。
・「斎殿原」(さいとんばる)の発音に当て字したもの。本当の語源は…。
・「“사”(sa)伊都ン(の)原(ばる)」=「南伊都の原」である。
*「伊都國」(伊都市)の人も「南伊都の原」(西都原)の人も、「せ」の発音が“se”で共通である。他の九州弁=大概“sye”と訛る。
(2).「投馬國」の飛び地は鹿児島県である。
*「投馬國」=“두메”(tu-mæ)國=「對海國」と同義=筑肥山地と水縄連山(耳納山地)の間國=八女郡(上・下妻郡)倭名類聚鈔とした。
・薩摩(さつま)=“사-두메”(sa-tu-mæ)=「南・投馬」である。
・「狗奴國」を南へ飛び越えた飛び地である。
・薩摩の北の隣接地=阿久根=「“아-”(a)狗奴」で、「狗奴國」の南端。
・地元の人は「カゴンマ」と言う=“가것-마을”(kagon-maul)=行った者の村。
※「其の余の旁国は遠絶にして詳らかにするを得ず」=遠方に在るのでハッキリしない、のではなく、「倭人」の説明を聴き取るのが面倒だ、との意味。
(1).「斯馬國」=糸島市の構成国、怡土郡と志摩郡の「志摩」の事である。
*“쇠-메”(soe-mæ)=「鉄・山」(直訳)。九州大学伊都キャンパスの移転開発工事の際に、製鉄遺構が出土。古代からの製鉄に因む地名と観る。
(2).「巳百支國」=思案中
(3).「伊邪國」=「いやこく」=四国愛媛県の伊予(祖谷渓)?
(4).「都支國」=「つきこく」=思案中
(5).「彌奴國」=「みンこく」=久留米市御井町「奴國―2」の一部に包含。
「彌烏邪馬國」の「彌」=水縄連山(耳納山地)の「水」の國。
「尊」=「水事・米事」⇒「水の國・米の國」の意。
(6).「好古都國」=「ほことこく」=博多?
(7).「不呼國」=「ふここく」=思案中
(8).「姐奴國」=「そンこく」=「“서”(seo)ン(の)國」=「西ン國」。
「東・西彼杵郡」か。女王國から観て西に在る。
(9).「對蘇國」=「つそこく」=土佐?
(10).「蘇奴國」=「そンこく」=(8)の発音の揺らぎ?
(11).「呼邑國」=「こゆこく」=児湯郡
(12).「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖ン(の)國」=徐福が興した国の意の説明文言の一部。秦人の「徐福」は漢の祖(前の代)、と。
(13).「鬼國」=「きぃこく」=「基肄国」
(14).「為吾國」=「うィごこく」=
(15).「鬼奴國」=「くィンこく」=紀伊?
(16).「邪馬國」=「ィあまこく」=「山国町」一尺八寸山(みのうやま)が在る。
(17).「躬臣國」=「くじンこく」=「玖珠郡」は玖珠川が大地を深く「抉って」(くじって)いる。
(18).「巴利國」=「はりこく」=針摺り。
(19).「支惟國」=椎葉村?
(20).「烏奴國」=大分県大野郡、岐阜県大野郡と福井県に跨る大野郡。
(21).「「奴國-2」」=水縄連山(耳納山地)北麓の棚田國。
・“논”(non → nun)國=野(棚田)國、の意。
“논”=田、水田、小田<雅>『民衆書林・韓日辞典』=古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)=草野、竹野、「大野原古墳群」、星野。
※女王に属さない國=「狗奴國」=「高(氏)ン國」=菊池郡。
・「朱蒙」の姓の高氏に由来する國。
つづく
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11:福島雅彦
:
2022/09/06 (Tue) 21:44:25
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『三国志(魏志倭人伝)』つづき―3.
※魏使(郡使)は伊都國から先へは行ってナイ!
*「郡使往来常所駐」=郡使が來倭し常に留まる所=単に「滞在する」だけの意味ではなく、「駐」の旁の「主」は「留まる意味。馬が立ちどまる意味を表す」『大漢語林』(大修館書店)。
・其の先の「東南至奴國百里…東行至不彌國百里」の解釈=行程の書き順が「方位+距離+国名」が「国名+距離」に変わり「又」の記述が無い。
・「東南に百里で奴國に至れる、更に東に行けば百里で不彌國に至れる」の意。
*「行」が不彌國にだけ使われている。郡使は伊都國から先へは行っていないが、陸行の続きで行ける、と。=投馬國水行への段落の為の表現である。
・「從郡至倭海岸水行…東行至不彌國百里」の「從」と「行」が連続行程の始
点と終点を意味している。
・≪【説文解字】「从彳亍。彳,小步也。亍,步止也。」より抜粋≫即ち、行人偏の「彳」は、「小步也=歩き始め」で「亍」は「步止也=歩みを止める」と。この解釈から重要な事が判った。
*「水行十日陸行一月」=帯方郡~伊都國までの萬五百里、の行程だと。
・多くの研究者は「投馬國」~「邪馬壹國」の所要日数と解釈している、が
此の間には距離がない(前述=東西に位置していて「伊都國」から等距離)。
・「伊都國」~「投馬國」(「邪馬壹國」)=残りの千五百里=「水行二十日」と先に所要日数を述べた。従って、「帯方郡」~「伊都國」の所要日数を追記している。
※魏使(郡使)は伊都國から先へは行っていない証拠が明記されている。
*「参問倭地…周旋可五千余里」=郡使(魏使)が実地に踏査した「倭地」の総延長である。「周旋」=一回りではなく、歩き回った、の意である。
・狗邪韓國(千五百里=逆算)+三海峡横断(三千餘里 )+末盧國~伊都國(五百里)=五千餘里 。
*「狗邪韓國」千五百里の根拠は…。
・「楽浪郡徼=帯方郡」~「狗邪韓國」=七千餘里。
・その内韓地は「四千里」=残り三千餘里。
・郡治の海岸水行と「狗邪韓國」で仮に按分=千五百里。
郡庁(楽浪郡徼=帯方郡)から「邪馬壹國」への行程図
楽浪郡徼=帯方郡郡庁
↓ 從郡至倭海岸水行(郡治の海岸・千五百里=六日)
↓ 歴韓國乍南乍東 (陸行)
↓ (韓地+狗邪韓國=五千五百餘里=二十七日半)≒二百里/日
狗邪韓國=倭地まで(七千餘里)
↓ (洛東江沖巨済島経由・水行二日)
「對海(馬)國」(千餘里)
↓ (水行一日)
一大國(千餘里)
↓ (水行一日)
末盧國(千餘里)
↓ (東南陸行五百里=二日半)累計=萬五百餘里
↓ (從郡至倭(郡使常駐の倭地)……水行十日陸行一月)
伊都國 → 奴國 → 不彌國
↓ (東南至百里) (東行至百里)
↓≪郡使往来常所駐≫=伊都國より先へは行っていない。
↓(千五百餘里 )
↓(水行二十日=瑞梅寺川→今津湾・博多湾→御笠川
↓ →宝満川→筑後川→有明海→矢部川⇒投馬國)
↓ ↓→巨瀬川→筑紫の日向↓
以北が成立する⇒投馬國(西) ⇔ (東)邪馬壹國
つづく。
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10:福島雅彦
:
2022/09/05 (Mon) 23:13:18
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『三国志(魏志倭人伝)』つづき―2.
※詳らかになる九ヶ国の位置関係の方位は間違っていない!
*「拘邪韓國」=郡庁の東南(半島南部)七千餘里に在る。
・「對海國」=「南北に市糴」するとは、隣接の「拘邪韓國と一大國」に。
・「一大國」=「對海國」から「又南渡一海」。
・「末盧國」=「又渡一海」と、南が省略されている。言わずもがな、と。
*現代の地図からは、東南を「南」と認識。真夏の日の出の方向を東と認識した結果で、間違いとは言えない。日の出の方向≒28°30”北に振れる。
・「伊都國」=「末盧國」の東南陸行五百里、も整合している。「末盧國」の上陸地は呼子港。東は真東より≒28°30”北に振れていて整合。
・「奴國-1」も「伊都國」の東南、同伝で整合。(順路ではナイ=後述)。
・「不彌國」への東も同伝で整合。此処にだけ「東行」とある訳は(後述)。
・「投馬國」=「東南至水行二十日」=「伊都國」からの方位で整合。
・「邪馬壹國」への行程記述は省略されている。
∵詳らかになる九ヶ国=北から順次南下した記述である。
・「狗邪韓國」「對海國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」とは、「投馬國」は「邪馬壹國」以北とあり、両国は東西に並んでいて、「投馬國」の行程で萬二千餘里が完結している、と。
∴「伊都國」の「南至投馬國水行二十日」「邪馬壹國」は包含している、と。
*「投馬國」への「水行二十日」=陸行不能、の意である。
・「末盧國」~「伊都國」の陸行五百里=行くに前人を見失う程の獣道。
・「水行二十日」=後の筑紫平野(筑後平野+佐賀平野)は、低湿地の葦原の荒野である。古代に在っては、河川航行が最善の移動手段である。
・「川・河」が「かわ」なのは、“갔다-왔다”(ka-tta-wa-tta)「行ったり来たり」する所、の意の縮約形。
※「南至投馬國水行二十日」の南は所在の方位で、初動が南の意ではナイ!
*「(伊都國の)南の投馬國へは水行二十日で至れる」=「不彌國」の後に記述されているが「伊都國」からの行程である。
・≪伊都國(三雲遺跡)~瑞梅寺川~今津湾~博多湾~御笠川で源流近く~船毎担いで(「只越」)宝満川~筑後川~有明海~矢部川遡上=八女福島≫で二十日である。
・「邪馬壹國」へは、≪筑後川~巨瀬川遡上~うきは市(「高天原」)≫である。
つづく
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9:福島雅彦
:
2022/09/04 (Sun) 21:21:36
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『三国志(魏志倭人伝)』
2.『三国志』の項の続きー2. [漸く半島の「倭地・倭人」の説明が終わった]
※「倭人在帯方東南大海之中依山嶋為國邑」とは…。
*「倭人は帯方郡の東南(半島内)と大海の中に山や島で國邑を為す」である。
・半島内の「倭地」に就いては前項の『韓傳』で述べているので記載が無い。
・同じ書物の中での重複を避けているだけなのに、「倭」は列島のみとしか解釈出来ない研究者がいる!!!
※「…今使譯所通三十國」とは…。
*「(漢時は朝見する者、百余國有ったが)今(魏に)使譯通ずるのは三十國」。
・「倭の三十ヶ國」とは、倭人が筑後弁で述べた国情説明文言の一部を国名と勘違いしている。
*詳らかになる九ヶ国を北から順次南下する記述=「狗邪韓國」「對海國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」。
(1)「狗邪韓國」=半島南部の九人の倭の族長が治める國の意=「九倭韓國」
中国正史の記述で単独の「韓国」は存在しない。「歴韓國乍南乍東」の韓国は馬韓諸国の意。九倭韓國の「韓」は騎馬民族の族長の“khan”“haan”の音写。
(2)「對海國」=“두메”(tu-mæ)國=双山國(上県・下県)の意。
(3)「一大國」=對馬國の峻険で良田無しに対比して、島中「一帯が國邑」。
(4)「末盧國」=遣使・郡使の往来の無事を「祀る処」と説明した。
「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭國皆臨津捜露伝送文書賜遺之物詣女王不得差後錯」=「王使いを遣わし洛陽や帯方郡や諸韓国に詣でたり、郡から倭國に使いある時、(末盧國の)皆海岸に出て捜露(難破・漂流しても探し出し)し文書・賜遣物を女王に伝送差錯を得ず」。
「伝送」=郡使(魏使)は直接「卑彌呼」に合ってナイ!
伊都國の配下に在るから官職者は居ない。
唐津では海峡渡航船の捜露はできナイ!
漕ぎ手は疲労困憊=呼子の最短コースである。
(5)「伊都國」=「伊奘諾尊が都した國」の意の縮約形。
(6)「奴國-1」=背振山北麓の棚田國。福岡市西区~春日市。
(7)「不彌國」=徐福が開いた國で「尊不在」の意。
(8)「投馬國」=“두메”(tu-mæ)國=「對海國」と同義=筑肥山地と水縄連山(耳納山地)の間國=八女郡(上・下妻郡)倭名類聚鈔。
(9)「邪馬壹國」=「やまいちこく」ではナイ!
・中国書記官の認識は「壹」の音価は“yi”である。倭人の「卑彌呼」の居所説明文言の音写である。
・「天(あま)の上(うィ)」の意の筑後弁「「天(ィあま」ン上(ウィ)」と一本指で上方を指した。それで「壹」と表記された。
・「邪馬臺國」も「邪馬壹國」も二者択一の正誤論ではなく、どちらも中国書記官の脳裏にしか存在しない。
つづく
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8:福島雅彦
:
2022/09/03 (Sat) 18:59:36
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2.『三国志』の項の続き
※『三国志(韓伝)』の国名の中に「倭語」の国が在るのを発見した。
*弁辰「彌烏邪馬國」=「水生山國」の意の「倭語」である。
・「邪馬」=「天(あま)」の筑後弁訛り「天(ィあま)」=「山」の音写。
・「天(あま」=「東の聖なる山」=「大伽耶國」(高霊郡)を疑う。
・「大伽耶國」建国王・「伊珍阿岐王」=「伊奘諾尊」=半島倭人・神。
・列島に渡来して「水縄山(みのやま)」と名付ける。
・「彌烏邪馬」は中国正史の書記官の音写。
・「水縄山(みのやま)」は、「倭語」の字義に合致している。
*水縄連山(耳納山地)は東西≒25㎞の一重の単山。
・山頂はノコギリの歯状に小峰が連なり、千の穂が集る=「高千穂」。
・山腹は下り尾根と谷沢が千筋=千本の櫛の歯で梳った様=「櫛触る」。
*北斜面の冬の積雪は、棚田稲作の用水を必要量・必要期間供給する。
・将に「水生む山」=「水生山」である。
*此の半島の「水生山」と列島の「水縄山(みのやま)」に区別を付けるために、列島の方に定冠詞“구름의”(ku-rum-e)=「雲の…」を付けたのが「久留米」の語源。
・この山は、春夏秋冬朝昼晩降っても照っても雲が湧く。
・校歌に、旧・田主丸中学校「朝日に仰げ鷹取の峰に沸き立つ雲の如…」や、県立浮羽工業高等学校「朝に仰ぐは水縄の白雲…」と歌われている。
※「伊奘諾尊」の故地は「大伽耶國」=「彌烏邪馬國」=「高霊郡」と観る。
*故地の「彌烏邪馬國」と渡来地の「水縄山(みのやま)」に類似の地名が。
・「高霊郡」⇒「高良山」。
・「耳山」⇒「水縄連山(耳納山地)」。
・「玉山」⇒「玉山」
・「御井」⇒「御井」(三井の三泉=徳間清水・磐井清水・朝妻清水)。
・「箕山里(きざんり)」⇒「箕山(みのやま)」(水縄山の別称・古称)。
・「楮田里、新里、内上里」⇒「楮原、新川、内ヶ原」(福島雅彦説高天原の地名)。
(配置の方位も似ている!!!)
つづく
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7:福島雅彦
:
2022/09/01 (Thu) 16:22:22
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2.『三国志』の項
1).『三国志』の『倭人傳』の前項『韓傳』に記載の「倭」の情報。
※「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」
*「韓は帯方郡の南に在り、東西は海を以って限りとし、南は倭と接す」と、明らかに地続きに接して居ると述べている。
・『三国志(魏志倭人伝)』には、同一書物の中の情報であり重複記載を避けて記載が無い。
・『三国志(魏志倭人伝)』だけの記述しか観ていない論者は、これに惑わされて、「倭人在帯方東南大海之中」を「倭人は列島のみに居る」としか解釈できないでいる。
∴「倭人は帯方郡の南の韓の南(地続き)と大海の中に在り」と読める。
・紀伝体の漢文では「主語省略、品詞不問、時制無視」で「接続助詞」も見かけない様に思う。然らば「南與倭接」の「與」は「倭と(・)接」の助詞ではなく、象形としては「狼の歯」とか。上顎の犬歯と下あごの犬歯は互い違いに交差=境界が入り組んでいる様の表現ではないだろうか?
※「國出鐵韓濊倭皆從取之」=とは…。
*「韓(半島)は鉄を産出する、韓も濊も倭も皆、從(ほしいまま)に之を取る」である。『後漢書』にも、「國出鐵濊倭馬韓並從市之凡諸貨易皆以鐵為貨」と、同様な記述がある。
・韓半島の「倭地」で「倭」の曽尸茂梨“쇠씨-머리” (soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)が從(ほしいまま)に製鉄している、と記述。
・「高天原」を追放された「素盞嗚尊」は新羅(紀編纂時の国名)の曽尸茂梨“쇠씨-머리” (soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)の処に行く。
*倭王 「帥升」=「素盞嗚尊」は紀元107年に後漢に朝貢している。
*初代「卑彌呼」は恒霊の間の倭国大乱の後談合共立されて女王となる。
・「卑彌呼」=“힘”(him)尊(みこと)=最高位の尊、の意(福島雅彦説)。
尊(みこと)=水事・米事、で弥生時代の水稲稲作に由来すると観る。
∴記紀神話の「素盞嗚尊」=製鉄王も「天照大神」=「天(あま)出自の大神」=「卑彌呼」も、神代の話ではなく、弥生時代の事である。
・「素盞嗚尊」も「天照大神」も「卑彌呼」も職掌名であり、性別は関係なく、何人も何代も襲名可能である。
つづく
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6:福島雅彦
:
2022/08/28 (Sun) 19:46:19
-
本論の壹
1.『後漢書』の項
1).『後漢書』の『倭伝』の前項『韓傳』に記載の「倭」の情報。
※「弁辰在辰韓之南亦十有二國其南亦與倭接」とは「弁辰は辰韓の南に在って十有二國その南は亦倭に接す」、と地続きに「倭」は在ると述べている。
*此の情報は同じ『後漢書』内の次項『倭伝』では重複記述を避けていて記載がない。
・此れを見落として、「倭」は列島のみとしか解釈出来ない論者がいる。
2).「國皆称王」とは、倭國の使者全員が自らを「王」と自称しているのではナイ!
* 筑後弁で「我ン(の)國」=「私の國」の意で各自が口々に云う様を誤解したもの。
3).「大倭王居邪馬臺國」とは、倭人の倭王の居所説明文言の一部を国名と勘違いしたものである。来倭の使者「梯儁」が現地に行っていない証拠でもある。
*倭王の居所を問われて「天(ィあま)てェ!」と筑後弁で答えた。
・筑後弁は「蟻」を「ィあり・やり」と訛る。
・「…てェ!」は筑後弁の強調の語尾。「臺」=”t-ai”であり「たい」ではナイ!
“ai”の二重母音を「あい」とは発音しない習慣。「愛媛=えひめ」の如し。
・「天(ィあま)」=「天(あま・あめ)」=「高天原」の意である。
4).「楽浪郡徼去其國萬二千餘里去其西北界拘邪韓國七千餘里」とは…。
*「楽浪郡の境から(大倭王の居所まで)萬二千餘里、(楽浪郡の境から)其(倭地の)西北界の拘邪韓國まで七千餘里」である。「拘邪韓國」は「倭地」の認識。
∴残り五千餘里では、金輪際畿内へは届かナイ!
・海峡横断に三千餘里を費やせば残り二千里=福岡県内で収まる。
5).「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自称大夫倭國之極南界也」とは…。
*『後漢書』に於いて「倭國」の中に「奴國」が存在するとは認識していない。
∴「倭奴國」は「倭の「奴國」」の意ではナイ!
・「倭傳」の中で「倭の奴國」の様な稚拙な表現はしない!!!!!
・自称大夫の使人の弁の音写であれば、「(私の国は)倭國の中の極南界です」と述べている。「倭奴國」=「我ン(の)國」(前述)の意の「倭語」音写である。
6).「安帝永初元年「倭国王帥升」等献「生口」百六十人願請見」とは…。
※「卑彌呼」共立前に倭王として「帥升」が居るが「すいしょう」ではナイ!
*「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」である。
・「生口」は奴隷ではナイ!
∵列島から身体の自由を拘束した奴隷を160人も移送するのは物理的に不可能。
・逃亡、反乱を抑止、食事・排泄の世話をしながら、海峡を渡海したり野宿して萬二千餘里の移動は不可能。
・「素盞嗚尊」は「高天原」を追放になり、「新羅(紀編纂時の国名)の曽尸茂梨❝쇠씨-머리❞(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)の処へ行く」=半島の「倭地」に倭 人の製鉄の長(おさ)が居る。
∴「生口」は、半島に居る「倭人」の製鉄技術者である。
・「漢」に、時の最先端技術の製鉄技術者を献上したのである。
・「漢帝国」は以後苦戦していた「匈奴」との戦いに勝利している。
7).「桓霊間倭国大乱更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁……是共立為王」とは…。
※「卑彌呼」は固有名詞ではない、と文脈で述べている。
*「卑彌呼」が固有名詞なら「一女子」は蛇足。
・「卑彌呼と謂う名の女子を共立して王と為す」で良いではないか。
∴「一女子を名付けて「卑彌呼」と謂わしめ王と為す」である。
8).「自女王國東度海千餘里至拘奴國」とは…。
※范曄が陳寿の記事をパクリ損ねたのではナイ!
*「女王國」の東に海を渡った所の「拘奴國」は四国の高知県である。
・陳寿の「狗奴國」=「女王國」の南に隣接の熊本県である。
∵両方の県民性は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」で同じ表現。
・土佐イゴッソ=“외-고집”(oe-go-jib)=意地っ張り、依怙地、頑固一徹。
・「肥後モッコス」=“목곧이”(mog-goji)=一徹な人『民衆書林・韓日辞典』。
つづく
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5:福島雅彦
:
2022/08/28 (Sun) 11:08:46
-
序の参
※全ての研究者か現代日本語のみで考察している。
*漢籍に音写されている「倭語」は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」である。此処で謂う「方言」とは、概ね「筑後弁」である。
・「朝鮮語に片鱗を留める」とは、日本固有の語彙と目されるものにハングル表記で発音か採れ、意味としても相通ずるものが在る、現象を指す。
・本論の中でハングル表記する物が該当する。
・尚、「邪馬臺國」論には直接登場しない日本固有の語彙が数多存在するが此処では取り上げない。
つづく
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4:福島雅彦
:
2022/08/27 (Sat) 22:33:02
-
序の弐
※学術的な記述に拘泥して、本質を見失っている物が多い。
*漢籍の文字面に「書いてある」とか「書いてない」的論考が多い。
・文章には、直接文言に因らない文脈や行間を読まないと解らない事がある。
・漢籍の多くに渉猟するあまり、「邪馬臺國」論から遠ざかっているものがある。
・所謂「邪馬臺國」論は、『後漢書』、『三国志』、『隋書』の三篇で片付く。
*『後漢書』の『倭伝』だけしか観ない研究者が居る=同書の前項『韓傳』にも「倭」の情報が記載、重複記載を避けて『倭伝』には書かれていない。
*『三国志』も『倭人条』の前項『韓傳』に記述の「倭」の情報は同伝である。
*『隋書』は、禁を犯して前史の誤謬を糺している。つづく
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3:福島雅彦
:
2022/08/27 (Sat) 22:12:46
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当世奇妙さん、激励を賜り多謝 謝々!
>直感は大切ですね。
多分かなりの眞実を含んでいるでしょう。
ただその後の論理の組立は慎重、事実の積み上げ
が期待されます。
10%でも何か直感で得たものを根拠づける
ことが出来れば大成功。
無理すると折角の成果も無視される恐れがあります。
今後の研究に期待します。
※ご期待に応える様にがんばります!
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2:当世奇妙:
2022/08/27 (Sat) 19:54:10
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直感は大切ですね。
多分かなりの眞実を含んでいるでしょう。
ただその後の論理の組立は慎重、事実の積み上げ
が期待されます。
10%でも何か直感で得たものを根拠づける
ことが出来れば大成功。
無理すると折角の成果も無視される恐れがあります。
今後の研究に期待します。