東アジア討論室 172319


混み入った議論と一対一の論争は討論室で行いましょう。
投稿の大項目はスレッドで投稿してください。
そのスレッドに対するはレスとして投稿してください。
レスに対する意見もレスとして投稿してください。

スレッド作成での留意事項

●(新規作成の)スレッドには、タイトル(内容の紹介)と自分の名前を入れて下さい。
●みんなの関心事項については、「会」として、スレを(追加で)設けることもあります。

要望事項

●「返信・引用」を使う場合は、不要なところは削除したうえで、お使いください。(1回のみ)
●「返信・引用」は、多用すると、返信の返信となると、誰の発言か分かりにくいので、控えて下さい。
●また、文章では、適当なところで、右側に「改行マーク」を入れて下さい。(一行、45文字程度)
●また、一文(~。)の長さは、長くて3行まで、(およそ、150文字以内:推奨100文字以内)にして下さい。
●文章は、残ることを念頭に、マナーに気を付けて、楽しく(議論は熱く)投稿しましょう。


「栄山江流域」=任那 説

1:akaosa :

2022/12/18 (Sun) 11:27:46

 「栄山江流域」とは、韓国考古学における歴史的文化区分であり、洛東江流域、利根川流域のような地理的名称ではありません。
 年代的には、主に高句麗・百済・新羅の「三国時代」と重なり、伽耶もほぼ同時代。6世紀半ばに百済文化が浸透するまで独自の文化を有しています。

 では、なぜ「〇〇流域」などと表記するのか。理由は単純で、他地域と明瞭に区別できる文化がありながら、史書にこの地域の記載がないとされているからです。 

1 「栄山江流域」を特徴づける考古資料(遺物・遺構)

①甕棺
 三韓時代には木棺墓系が主流で、日常の土器を転用した甕棺が周溝に埋置されていましたが、墳丘の拡大とともに埋葬専用の甕棺が中心墓制となります。

 特異な点は、最初に作られた小さな墳墓の脇や上部に埋葬施設を付け加えて盛土をしていき、その継続の結果として大きな墳丘になっていることです(全羅南道の咸平礼徳里萬家村古墳群は水平方向に甕棺を埋めて墳丘がイモムシ形を呈する)。

 また、羅州伏岩里古墳群の3号墳の不定方形の墳丘(一辺最大42m)内には、3世紀頃から7世紀に至るまでの41基の埋葬施設(木棺・甕棺・竪穴式石槨・横穴式石室・横口式石槨などが混在)があり、埋葬を続けた集団は最初から最後まで同族であったと考えられています。

 このような姿は隣接する百済や伽耶には皆無ですが、甕棺をイモムシのように列状に埋葬する例は、時代は遡りますが、吉野ヶ里遺跡に類例があります。

②前方後円墳
 列島との関係が確実視されており、現時点で確実と思われる前方後円墳11基の分布は、栄山江流域を中心とする全羅南道と一部の全羅北道地域に限られています。石室に朱が塗布されているものもあります。

 築造は5世紀後半から6世紀前半に収まり、特に6世紀前半に集中。これは、列島の須恵器が半島南部に集中的に流入が始まる時期と符合しています。

 甕棺古墳が集中する地域とは一定の距離を置いており、海南方山里古墳の墳丘長80mは半島で最大規模(高句麗の太王陵:積石塚、一辺60m、百済の石村洞3号墳:一辺55m、新羅の皇南大塚:全長120m、二基の古墳が連接したもので、単独墳としては約半分)です。

 以上のような考古資料から類推されるのは、「栄山江流域」とは、史書にある「任那」ではないか、ということです。
 このことについて、検証を試みたいと思います。

 なお、関連する図や写真は、当会のFacebookの談話室が掲載しやすそうなので、適宜ご参照ください。
93:当世奇妙:

2024/12/19 (Thu) 08:52:11

トミーさんの「倭の五王」のスレッドに投稿した
「可能性が高いのは、筑紫を根拠地とする倭国の王でしょう」がakaosaさんの考えですね?
92:石見介:

2024/12/15 (Sun) 14:06:33

 akaosaさん

 『宋書』夷蛮伝の、倭王武の上表文の解釈について、いくつか質問があります。上表文自体、類書等の表現を借りた、文飾の部分と、倭国や半島の歴史を含む史実との、線引きというか、見極めも、当然、議論の対象でしょうが、ここでは、倭王武の上表文の内容が、おおむね、史実であろうとして、議論を交わしたいと思います。

 先ず、上表文を書かせた倭王武を含む、倭の五王の、本拠地の問題ですが、これは、「日本列島内」である事は、上表文前半の、文言から明らかです。
 倭の五王が、「海北」95ヶ国の地を、本拠とする、半島南部の王ではない事は、倭王権の求めた「都督諸軍事」の管轄範囲の地名を見れば、明らかです。

 質問①倭の五王を、近畿大和の王権とは異なる、とする根拠は、『宋書』からは、見出すのが困難のように思われますが、akaosaさんは、具体的には、倭の五王は、倭地のどの地域の王だとお考えでしょうか?

 質問②雄略天皇を、倭王武とする通説を否定されるのであれば、江田船山古墳出土鉄剣銘や、稲荷山鉄剣銘に現れる大王は、どのような存在とお考えでしょうか?

質問③倭王武の上表文の後半部分の解釈ですが、高句麗に対し、大軍事行動を起こそうとした時に、にわかに父兄を失ったので、服喪の為、軍事行動を中止したが、喪が明けたので、倭王武が、軍事行動を発動するつもりだと言う、決意の表出だと、私は、解釈しています。
 そこで、問題になるのは、武の父倭王済と兄の世子興の死亡が、①軍事行動発動前の死亡であり、そのために軍事行動が準備されていたのに、服喪の為、中断したのか、②軍事行動中の戦死であり、倭王武の軍事行動は、復讐の為の、別な軍事行動なのか?という、解釈上の問題です。
 akaosaさんの、大和王権の大王=天皇と、倭の五王とは異なる、と言う解釈の、有力な根拠としては、半島での高句麗・百済戦争中に、済と興が戦死した、という「解釈」が、前提のように思われますが、そのように、受け取ってよいのでしょうか?

 
91:当世奇妙:

2024/12/13 (Fri) 14:32:19

akaosaさん
なるほどですね。納得できる説明です。
では倭の5王とはどのような人と思われますか?

藤井寺市の文化財保護課のコラムは勉強になりますね。
https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/koramukodaikaranomemessezi/wanogoozidai/1387510263272.html
90:akaosa :

2024/12/13 (Fri) 14:15:17

当世奇妙さん

 長文になりますが、改めて、概略を説明します。

1 倭王武の上表文の後半部分は高句麗との抗争を示す

 『宋書』夷蛮の倭国条、昇明二(478)年の倭王武の上表文の後半は、つぎのようになっています。
「道逕百濟 裝治船舫 而句驪無道 圖欲見吞 掠抄邊隸 虔劉不已…壅塞天路 控弦百萬 義聲感激 方欲大舉」
(道は百済を逕て、船舫を装治す。而して[高]句麗は無道に見吞せむと図り辺隸を掠抄し、虔劉〔殺害〕やまず…天路を壅塞ふさぎ、弓弦を百万控へれば、義声に感激し、方まさに大挙せんと欲す)
とあり、高句麗を名指して非難しています。
 続いて、「奄喪父兄…居在諒闇不動兵甲…至今欲練甲治兵申父兄之志」
(にわかに父兄をうしない…居、諒暗〔喪中に住む小屋〕に在り、兵甲を動かさず…今に至り甲を練り兵を治め、父兄之志を申べんと欲す)
とあり、上表の年に父と兄の喪が明けたので戦いの準備をしています。「父兄之志」とは高句麗に対するものであることは文脈から明らかです。
 通常、父の服喪は三年なので、475 年の高句麗が百済を攻め、最終的に蓋露王を滅ぼした戦闘に倭王武の父と兄が関わって死亡したことになります。

2 倭と高句麗の抗争を裏付ける広開土王碑文

 倭と高句麗の敵対は、広開土王碑文にも記されています。391 年以降倭が海を渡り勢力を持っていた。396年に高句麗は百済を服属させた。399 年に百済が倭国と通じたため、翌400 年に新羅から倭軍を追い出し、404 年には帯方に侵入した倭を退け、407 年に百済へ出兵して6 城を奪った、という。
 以上を踏まえれば、倭王武の父と兄が朝鮮半島で死亡し、武自身も派兵する意欲に満ちていたことになります。

3 倭と高句麗との抗争を記録しない『日本書紀』

 もし、倭王武が雄略天皇であれば、少なくとも、その父と兄の外地での死亡は『日本書紀』に記録されるべき重大事ですが形跡もありません。
 また、書記編纂者が半島に関心がないはずがないのは、雄略紀廿一年春三月条の「天皇聞 百濟爲高麗所破。以 久麻那利(クマナリ) 賜汶洲王。救興其國」の記事や60年余り後の欽明紀では年代によっては百済聖明王の発言などが大半を占めていることでも分かります。

4 『日本書紀』は「日本国」の史書

 これまで多くの研究者が試みた、倭の五王と五天皇との比定はうまく整合できていません。
 倭王武の上表文が示す事柄を『日本書紀』が記さないのは、「倭王はヤマト王権と王統が異なる」ゆえであり、天皇比定がうまくいかないのはその証左と言えます。
 しかも、二つの王統が並立していたことを『旧唐書』の倭国条と日本国条が示しています。倭国条は7世紀まで、日本国条は8世紀からの外交記録があり、日本国条の冒頭に「日本国者 倭国之別種也」と説明しています。
 これを踏まえれば、先に掲げた雄略紀廿一年春三月条の記事は、蓋露王が滅びた後の戦後処理の一つであり、倭王武の再軍備とは異なる雄略天皇による補佐的行動という「役割分担」と捉えることができます。
89:当世奇妙 :

2024/12/12 (Thu) 16:33:46

akaosaさん
会員発表会に参加したある人は、akaosaさんの発表が歴史解釈的に、最も内容が充実していたと話してました。
私のために投稿された部分で、最後の結論、この解釈の導くところは「倭王は天皇ではありえない」をもう少し教えてください。
88:akaosa :

2024/12/11 (Wed) 19:10:03

米田さん

 討論室から離れていたので、反応が遅くなりすみません。

 発表会での拙い発表にご意見をお寄せくださり、ありがとうございます。
 ただ、誤解があるようですので、ご説明したく思います。

>新羅に来降して、新羅の領土になった「狭義の任那(金官国)」を「広義の任那」に戻そう。という話になります。これで、「二つの任那」の問題は、解決だろうと思います。<

 任那復興会議の主導者は聖明王であり、そこに任那カンキや執事、日本府の関係者が出席しています。
 「任那復興」を声高に叫ぶのは聖明王であり、任那関係者は非協力的です。聖明王の大きな目的は天皇による派兵にあります。
 この辺りは資料に記載した欽明紀二年から四年の記事でわかります。この年代の記事はほとんど聖明王の言葉、正確には百済側の記録で埋められています。
 聖明王が復興しようという任那は、任那カンキや日本府がある任那とは別物と考えざるをえないがゆえの「二つの任那」なのです。
87:akaosa :

2024/12/11 (Wed) 18:22:22

当世奇妙さん

しばらく討論室から離れていて申し訳ありません。
2024/11/19 のご投稿の件です。

 当スレッドのテーマでまとめたものを、当会の会員研究発表会で一時間余り説明しました。
 私の発表に関心をもって参加して下さった方もあり、手ごたえはあったと思います。まとめ役の方も「おもしろかった」と言ってくれました。

 発表会では、あらたなトピックとして、宋書の昇明二(478)年の倭王武の上表文を取り上げています。

 「奄喪父兄」(にわかに父兄をうしない)「居在諒闇不動兵甲」(居、諒暗〔喪中に住む小屋〕に在り、兵甲を動かさず)「至今欲練甲治兵申父兄之志」(今に至り甲を練り兵を治めんと欲し、父兄之志を申のべ)とあり、上表の年に父と兄の喪が明けたという。
服喪三年とすれば、倭王武の父と兄は蓋露王が殺された475年に長寿王率いる高句麗戦で死亡した可能性が高い。
事実、「奄喪父兄」の直前には高句麗が無道であると非難しています。高句麗と倭の確執は長寿王が建てた好太王碑に克明に記されています。

 この解釈の導くところは「倭王は天皇ではありえない」ということです。倭の五王と五天皇の比定に多くの研究者が苦慮しているのは、当然といえます。
86:石見介:

2024/12/11 (Wed) 15:02:30

  akaosaさん
 

 百済の複数王制については、12世紀中葉という、遅い時代に、先行の同じ王氏高麗時代の勅撰史書の旧三国史が存在するにもかかわらず、改めて勅撰史書として、撰述されたという、極めて不思議な経緯のある『三国史記』の、資料批判が、前提になります。
 NHKの大河ドラマが、偶々、同じ12世紀前半ですが、藤原道長『御堂関白記』、藤原実資『小右記』などの日記や当時の文学作品が、現代に伝わっていますが、朝鮮半島の状況は、全く異なります。

 『日本書紀』が、7世紀という編纂時の支配層の意図によって、撰述されているのと同様、『三国史記』も、12世紀の王氏高麗の支配層の意図に従って、書かれています。
 時代が大きくずれている以上、記紀よりも、更に信頼性の低い史書だと、評価すべきでしょう。

 では、百済の実態はどうだったのか?
 倭王武の上表文を、そのまま載せた『宋書』は、同じく、百済王の上表文も、載せています。
 その中で、百済王は、「左賢王」と「右賢王」に任命した王族の、正式な任命を、宋に求め、拒否されています。それも当然で、左右賢王は、匈奴の単于に次ぐ、有力な王族の爵号であり、百済「王」の下位の王侯号としては、不適切な爵号です。
 そもそも、百済が北朝に入貢し、百済王が、「単于」号を与えられたという事によって、百済王族が、百済王により、左右賢王に任命されたのだと思われますが、南朝劉宋としては、百済王が、北朝に朝貢した事には、素知らぬふりをしても、流石に、任命もしていない単于の、次位の左右賢王まで、容認は出来なかったのでしょう。
 しかし、南朝の後継国家では、百済王の要請に従って、王族や貴族を、王侯や郡太守に、任命しています。
 百済王自ら、百済領内に、中国南朝の王侯、郡太守を、正式任命するように、求めているのです。
 百済王が、王族や貴族の有力者を、王侯、郡太守に「仮授」し、南朝に申請して、正式任官、「除正」を、求めているのです。

 半島の史書と中国の史書の、何れを信ずるべきかは明らかです。
 日本の史書も、大王が、独りだけ、という虚構を、記述していますが、上代日本語では、「大王」「王」「女王」「大君」の訓は、全て「おほきみ」です。
 現代人の「常識」は、古代では、通用しないのです。


 
85:akaosa :

2024/12/11 (Wed) 11:34:21

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1733884679.jpg p君さん

 しばらく討論室から離れていたので失礼しました。

 2024/10/02 のご投稿、貴重な情報をありがとうございます。

 蛇行剣の出た金城里古墳のある「任実郡」は、地図で見ると蟾津江・栄山江・錦江の上流(源流)地方ですね。この地名がいつから使われているのか気になるところです。

>4世紀後半の富雄丸山古墳の蛇行剣が最古にして最大ですから、蛇行剣は大和から韓国の任実郡へ渡ったという事になります<
 富雄丸山の年代観は何を根拠にしているのか知りたいです。
 それはさておき、蛇行剣そのものは南九州に多く出ており、しかもほとんどが地下式横穴墓からです。その点からも南九州との関係に注目しています。

 添付の図は、宮崎県立西都原考古博物館研究紀要 第18号 2022「蛇行剣に関する一研究ノート」加藤徹 から転載。
84:akaosa :

2024/12/10 (Tue) 16:16:43

石見介さん

 しばらく討論室から遠ざかっていまして、失礼しました。

2024/08/03(土)ご投稿の
>「複数王制」(序列はある)であったと考えれば、漢城で大王が戦死しても、次位の王やより下位の王が、彼等に従う従属民(被支配層)と共に、新たに「百済王」なり、「南扶余王」なりを称しても、極めて自然な行為だと思われます。

 三国史記などを読む限り、少なくとも百済は複数王制とは考えられません。
 蓋露王の子である汶洲は、新羅に応援を依頼しに派遣され、帰ってきたら都が落ち、父王が殺されていた、という状況です。
 後世の史家が「遷都」などと飾っても、民のいない山地に一人王と名乗っても傀儡政権であることは必定です。王城とされる公山城(熊津城)には考古学的に王宮の後が発見されていませんし、漢城や扶余にはある羅城もありません。
 結局は彼を王にした解仇に殺され、汶洲の子を王位につけた解仇が反乱(おそらく政権簒奪)を起こしたので真男や真老が鎮圧したという状況です。その際の兵力は双方合わせて五千人前後と記されています。
 なお、この解仇や真氏は錦江流域の水運を牛耳っていたという論文を読んだ記憶があるのですが、確認できていません。
83:石見介:

2024/11/23 (Sat) 00:14:13

 米田さん 

 別スレ移行の件、了解しました。
 ただ、視力障碍の進行で、何時、投稿不能となるか、判りませんので、その節は、ご容赦お願いします。13日に、有料老人ホームに、入所し、手持ちの資料などは、一切、処分しました。
 コメントの誤打鍵や誤変換等の、訂正が遅れ、申し訳ありません。

 『東国輿地勝覧』の「正見母主」の伝承も、半島系資料の例に洩れず、李氏朝鮮時代の、16世紀か、その少し前、という時代の遅れた伝承であり、日本の記紀神話の千年近く遅い代物です。
 江戸時代初期の、日本の儒者の「記紀神話」解釈に対するのと同様の、「文献批判」が、必要なのですが、それを意識した解釈は、殆ど為されていないのが、現状でしょう。
 記紀神話より、合理的に見えるのは、朱子学や仏説のような後代思想の「解釈」の結果かもしれません。
 私は、半島南部倭種の神話伝承の痕跡なのか、韓族や朝鮮語族系の伝承なのか、判断に迷っています。
 天神「夷比訶之」の「之」を、「衍字」と考えて、「夷比訶」を「倭彦」という古代倭人名の音写とする「可能性の低い」仮説」も、用意してはいますが。

 
82:米田 :

2024/11/22 (Fri) 15:54:06


│Re: 「栄山江流域」=任那 説 - 石見介
│2024/11/21 (Thu) 23:27:12

│ 米田さん

│⑥百済武寧王「斯麻」を、「島稚子」仁賢天皇とされるのは、
│「呼称」の一致や類似を、国や氏族、性別の相違を、
│軽視される米田さんの方法論では、当然の類推でしょう。
│石和田秀幸、白石南花両氏に従い、私も、隅田八幡宮画像鏡
│銘文の「斯麻」は、仁賢天皇だと、この前、「変説」した
│のですが、流石に、百済王とは同一視は、出来ません。

(ここは、akaosaさんが立てたスレです。)
ですので、石見介への回答は、
別にスレを立てて、回答をしたいと思います。
また、回答には、少々、お時間をいただきたいと思います。


│③「冊奉」の時期は、中国南朝に莱するもので、三燕の
│ような「北朝」に対する朝貢や漢、晋等の中華中原王朝に
│対しては、形態も内実も異なっており、「倭奴国」が、
│AD57年で、高句麗は、遼東軍の属国、侯国でした。

半島の三国は、朝貢(遣使)のたびに、
「国号」が変わっていました。
ですので、少なくとも、「百済」と「新羅」という国号では、
こんな感じかな、というところです。
ですので、③の冊封については、(313年の)楽浪郡消滅後の
遣使(冊封)と考えて頂けるとありがたいです。
81:石見介:

2024/11/21 (Thu) 23:27:12

 米田さん

〉ご指摘の問題に入る前に、確認したいことがあります。<

 重要な問題提起を含んでいるように思われ、私も追加のコメントをします。

①「任那復興会議」の主題が、金官伽耶国が新羅に、併合されて、その「みつぎ(貢)」が、倭王権に入らなくなったことへの対処である事は、勿論その通りです。栄山江流沖は、勿論「任那」の一部、というより、主要部分ですが、「御調(みつぎ)」については、金官伽耶国とは、対応は異なっており、大和の弱体化した王権ー継体欽明皇統ーは、倭の五王の時代に、劉宋によって、「任那加羅」として、分離した本来の広域任那の東部や東北部に当たる「加羅」地域も、「任那」であると言う、倭国旧来の「認識」に、従った「用語」だったと思われます。

②「二郡」が、「韓」を滅ぼした、というのは、実態がどの程度、整っていたのか、不明です。三韓全域を、「郡県」化した、というような「面的支配」ではなく、諸韓国の首長は、邑君や邑長その他の、官に任ぜられ、固有の信仰も容認され、多くの「別邑」も存在した。それに比較すれば、高句麗の支配は、より強力で、直接的だったでしょう。

③「冊封」の時期は、中国南朝に対するもので、三燕のような「北朝」に対する朝貢や漢、晋等の中華中原王朝に対しては、形態も内実も異なっており、「倭奴国」が、AD57年で、高句麗は、遼東郡の属国、侯国でした。

④慕容鮮卑も、倭の大王や胡族と同一視される米田さんの方法論というか、認識ですか?まあ、私も、慕容鮮卑は、扶余と同系で、東胡の子孫で、言語学的には、ツングース語族で、「鹿」を「獣祖」とする神話伝承を、有していたと言う、独自説なのですが。

⑤「帯方国」や「楽浪国」は、実在せず、半島系の史書にのみ、現れる国名ですが、強いて考えれば、公孫氏のような、漢人の郡太守を、「王」と見做したものでしょう。
 百済王が、朝貢して、王侯号を得た時に、後漢などの中華中原王朝の故地に因んだ「郡」の王侯号が選択されるのは、北朝、南朝何れでも、ありふれた現象でしょう。

⑥百済武寧王「斯麻」を、「島稚子」仁賢天皇とされるのは、「呼称」の一致や類似を、国や氏族、性別の相違を、軽視される米田さんの方法論では、当然の類推でしょう。石和田秀幸、白石南花両氏に従い、私も、隅田八幡宮画像鏡銘文の「斯麻」は、仁賢天皇だと、この前、「変説」したのですが、流石に、百済王とは同一視は、出来ません。


 
80:米田 :

2024/11/21 (Thu) 07:03:17


│「任那」と「加羅」の混同? - 石見介
│2024/11/20 (Wed) 20:30:44

│ご引用のwikiの、「狭義」と「広義」の「任那」については、
│任那ではなく、むしろ「加羅」(「伽耶」)の方が、
│あてはまるように思われます。


ご指摘の問題に入る前に、確認したいことがあります。

(01):いわゆる「任那復興会議」の主題は、金官加羅が新羅に
__:編入されたことです。栄山江流域は、議題ではないはず。

(02):帯方郡太守弓遵が戦死したあと、二郡はとうとう
__:韓〔族〕を鎮圧した。(ここまでが、三国志韓伝)
__:この時、狗邪韓国も二郡に支配された。
__:二郡の支配は、313年以降は、高句麗の支配に移行した。

(03):冊封(朝貢)の時期。百済(416年)。
__:倭国(421年)。高句麗(435年)。新羅(565年)。

(04):燕王の(慕容)垂が、帯方王の慕容佐に云々。
__:(私の想像です。)
__:「慕容佐」=「大伴佐彦」=「仁徳天皇」

(05):
286年、百済本記、責稽王は帯方〔国〕の王女を夫人(云々。)
570年、高斉の後主が、威徳王を「帯方郡公」と認めた。

********************

:(03)については、漏れ落ちがあるかも知れません。
:(04)の人物特定については、私の想像です。
:この2点については、問題が、あるかもしれませんが、
:半島南部の推移として、確認ができると思います。

:さて、あとは、神功皇后の新羅親征(三韓支配)と、
:倭王武の478年の上表文の問題です。(これは、保留です。)

:ここで、さらに、百済「武寧王」は「仁賢天皇」であるとか、
:私が声高に主張しても、議論にはならないと思います。
:ですので、ここでは以下のように、主張したいと思います。

<ご指摘の問題への回答> 

:「加耶」は、「正見母主」が作った国(連邦国家)である。
:「任那」は、二郡の支配の後、高句麗がその支配を受け継いだ
:時に、金官加羅(「崎離営(キリエイ/イリエイ)」)を
:中心として、「加耶+金官加羅」の地域を支配した。
:(高句麗支配による)この地域を「任那」という。

:(以上、私の理解・解釈です。)
79:石見介:

2024/11/20 (Wed) 20:30:44

 米田さん、

 ご引用のwikiの、「狭義」と「広義」の「任那」についての文言は、任那ではなく、むしろ「加羅」(「伽耶」)の方が、あてはまるように思われます。

 或いは、「大伽耶/大加羅」の、時期や文献による相違で、狭義、広義の相違では、無いのかもしれませんが。

 いずれにしろ、「任那」が、朝鮮語族の国家名の可能性は少なく、日琉語族の領域国家名のように、思われます。
 伽耶諸国は、「任那」を自称した例は殆どありません。「任那」は、日本の史書、高句麗碑文、中国史書等に、現れますが。

 ちなみに、上代日本語「から」は、モンゴル語やツングース諸語の,kala、xala、halaという、父系血族集団(氏族)と同源語と考えられ、漢字「柄」が宛てられ、現代日本語では、「家柄」「柄が悪い」などの用法が、僅かに残る程度ですが、古代では、「うから」「やから」「はらから(同胞、兄弟姉妹の語義)、「ともがら」のような複合語を形成し、又、沖縄の親族組織「門中」が、地域によっては、「ハラ」と呼ばれる事も判っています。

 私は、「カラ」は、本来、日琉語族の語彙(アルタイ系から借用?)で、「伽耶」が朝鮮語族の同源同義語ではないか?と疑っています。
 「大加羅」~「大伽耶」が、高霊伽耶国か、金官伽耶国かの「時代による相違」があり、本来は「大伽耶山」を領域内に持つ高霊伽耶から、六伽耶の代表国として「金官伽耶」に、呼称が変化したのでしょう。
 同時に、倭種の居住地だった「加羅」地域は朝鮮語族の弁辰系諸部族の進出により、言語を取り換えることになったのでしょう。

 
78:当世奇妙 :

2024/11/20 (Wed) 15:44:10

片岡宏二さんの九州古代史3回シリーズが始まります。
邪馬台国時代ー
倭の五王の時代ー
磐井の時代です。
当然朝鮮半島との関わりも話されるはずです。
任那についての彼の意見が聞ければと
思います。
77:米田 :

2024/11/19 (Tue) 17:07:05

<当会会員研究会発表会>

│『三国時代における「栄山江流域」とは何か……
│「栄山江流域」=任那 説』

:まず、「任那」の話と「栄山江流域」の話は、
:それぞれ別の話として、書いていこうと思います。

:「二つの任那」については、このスレで、それなりに
:討論・議論されてきたと思っていたのですが、
:今回、話を聞いていて、少し追加しようと思いました。

*****
『任那(みまな/にんな)』(ウィキペディアより)
:狭義の任那説
:狭義の任那は、任那地域に在った金官国(金海市)を指す。
:広義の任那
:広義の任那は、任那諸国の汎称である。
*****

:『三国史記・新羅本記』532年に下記の様な記述があります。
:金官国王の金仇亥が、王妃および三王子とともに国の財物や
:宝物をもって来降した。
:(新羅)王は彼らを(云々)、本国をその食邑として与えた。

:そうすると、欽明2年(541年)の「任那復興会議」は、
:何を話し合っているかというと、新羅に来降して、新羅の
:領土になった「狭義の任那(金官国)」を「広義の任那」
:に戻そう。という話になります。

:これで、「二つの任那」の問題は、解決だろうと思います。


:次は、『三国時代における「栄山江流域」の話です。
:これは「日本と半島の交易ルート」の話として考えてみます。

:「日本と半島の交易ルート」については、いろいろなルートが
:存在したと考えられます。

:一つ目:「栄山江流域」~「済州島」~九州北西部(百済)
:二つ目:「狗邪韓国」~対馬~壱岐~末盧国(漢魏の時代)
:三つ目:「金官加耶」~沖ノ島~大島~宗像(狭義の任那)
:四つ目:「釜山/半島東岸(高麗)」~出雲・越(高句麗)

:このように見てくると、日本列島と半島の間には、
:いろいろな「交易ルート」があったのではないかと
:思えて来ます。

:そうすると、百済の武寧王の時代には、「栄山江流域」と
:九州北西部を結ぶルートがあったのだろう。そして、
:もしかすると、当時の「筑紫の磐井」の勢力によって、
:対馬や沖ノ島のルートが使えなかったのかも知れません。

:そんなことを考えながら、赤尾さんの発表を見ると、
:なかなか面白いのかも知れません。
76:当世奇妙 :

2024/11/19 (Tue) 08:35:19

akaosaさん

昨日の会員発表会は行けませんでしたが、小原さんから17名参加との報告がありました。akaosaさんの報告への反応はどうでしたか?
HP動向で、ここでの投稿が会員研究会でも発表されると紹介しました。
会員研究会の参加者の反応、お聞きしたいですね。
75:石見介:

2024/10/10 (Thu) 02:07:07

 白石南花さんのコメントへのレスの続きですが、前半部分に、白石南花さんがレスされ、投稿予定だった後半部分の内容に、修正を迫るような、鋭い指摘(森博達氏の説を引用しての、地名論議)も含まれていました。
 当初の予定の変更も、考えましたが、「討論室」なので、将来的には、例によって、白石南花さんのお説に従う可能性が高いと思いつつも、敢て、予定通りの内容の、コメントを、投稿します。
 私は、自説を正しいと思われる方向へ、新しいデータ、仮説解釈などが提示されれば、直ちに修正する、職業的習性が、身に染みついており、同時に、並行的に、いくつかのやや異なった解釈、仮説も、常にストックしています。内科の臨床医が、自分の最初の診断に固執して、病状の変化や新しい検査データ、他の医師の診断などを、無視しては、仕事になりません。 趣味の分野ですので、多少は自説に甘い傾向は、有りますが。

 さて、前回のコメントの続きです。

 朝鮮語の古い時代の様相については、白石南花さんも、私と同じ認識を、お持ちだと了解出来ました。
 個別の語彙(半島の地名など)の解釈の相違は、先の、民族や言語についての、基本的な考えの相違により、依拠する専門家の説への評価や、他分野のデータなどの評価の相違が、影響している部分が、大きいと思われます。

>あと倭奴国が倭国の極南界と言うのは、北郊の儀式を寿ぐものとしての倭人を演出するための、漢王朝側の理由によるもので、実態をあらわしていないと考えています。<

 この考えには、私も蓋然性のあるprobableと評価したこともありましたが、范曄『後漢書』に於いては

>倭人は漢書地理志依頼、一貫して海中の存在です。<

 という「認識」ではなく、これは『東観漢記』の光武帝紀を撰述した『漢書』の撰述者でもある班固の認識である、という解釈を、採っています。
 范曄は、『後漢書』鮮卑伝で、おそらく原史料では「汙人國」となっていたであろう部分を、「倭人國」に書き換えていますし、東鯷人や夷洲、澶洲も、倭種の可能性を、考えていたように、思われます。
 范曄は、「多くの学徒を集め」、その『後漢書』を撰述しました。森博達氏の評するように、范曄は、自身の撰述した書内で、齟齬の無いように、校勘、考証し、達意の文章で、まとめたのです。
 『漢書』の著者の一人である班固の父班彪の門下の王充『論衡』の諸篇に現れる「倭人」も、「楽浪海中」とは、無縁です。
 范曄は、南陽郡を本貫とする范氏の出自で、会稽郡で生まれています。
 范曄は、倭人,倭種の分布域を、班固とは異なって、広域と考えていたのです。
 おそらく、半島南部の倭種も、想定していたでしょう。

>「任」は日本漢字音でニンですが、中古音では末尾子音がmですので、ニムのような音価でしょう。ニムがニリムに遡ることは,分かっている数少ない例の一つのようです。<

 上記については、以前から、疑問を持ってはいません。「任那」を、日本側が、「ミマナ」と読む根拠が、何かについての、解釈、仮説に対する疑問です。
 一応、漢字「任那」に対する、上代日本語の「訓読」であると、認めましたが、上代日本語の、万葉仮名や地名に宛てられた「漢字」の使用法は、借音、借訓、和歌や故事来歴を踏まえたものなど、多様多彩です。
 半島、特に南部の地名を、漢字で表記した者が、一体,何者なのかが、問題になります。
 白石南花さんや多くの人は、漢人か半島の朝鮮語族の人々を、おそらく推定され、日琉語族の識字者は、想定外だと思われます。
 また、漢字音で、音写される地名が、どの言語に属していたかも、問題です。
 半島北部の旧高句麗領の地名が、多く日琉語族に属する事は、今や世界の日本語学者のほぼ、共通の認識です。
 半島南部の「みまな」地名が、朝鮮語族到来以前の、日琉語族の遺残地名であった可能性は、十分存在します。
 また、河野六郎や伊藤英人氏の「濊倭同系説」も考慮すれば、日琉語族の話者が、「みま」の音写に選択した漢字が、「任」であったとすれば、「ミム」mimの音写の可能性も、考えられます。
 「任」の頭子音の音価が、「n」「m」のいずれなのか、子音交代を許容し得たのか、中国語学者の統一見解が、欲しい所です。

 尚、議論が、スレッドの主題とずれて、『後漢書』東夷列伝の内容等になるようであれば、スレ主に御迷惑になりますので、白石南花さんか、私のスレに、場を移したいと思います。

 

 
74:白石南花:

2024/10/09 (Wed) 12:57:45

>私は、まさにその説の信奉者ですが、勿論、「通時的に」ではなく、「ある一定の時期」に、「限定」しての話です。白石南花さんも、時期を限定すれば、お認めだと思います。その「時期」の設定では、互いに、相いれない部分が、多いとしても。<


残された文字資料からみると、『三国志』東夷伝の韓条と倭条の固有名詞に用いられた文字を分析した、森博達氏の研究がまず挙げられます。用いられた文字には韓では文字の末尾に子音の立つものが多く、倭に関してはかなり少ないというものです。

その中で特に文字の末尾に「m」の立つものを探すと、倭にはなく、韓では全部で11例あるということです。『日本書紀』の韓地名を見ると、爾「林」、支「浸」など語末に末尾「m」の立つものが目立ちますが、万葉仮名ではそのような文字はほとんどなく、私の確認できる範囲では、あっても「品陀和氣」の「品」のように語中に有って、二合仮名もしくは連合仮名として用いられたと思われるものだけです。

この語末の「m」は、『三国史記』地理志の地名でもよく見かけられ、新羅時代の郷歌の語末の「音」字が示すように、韓語ではよく見られるもので、中期朝鮮語から現代韓国語の終声に続くものです。つまり文字資料として残されたものからすると、すでに三世紀に遡って、半島と日本には言語差があり、その特徴の一部は現代の韓国語と日本語に引き継がれていると思われます。

古代中国人が、倭人を海中の人とし、韓を倭人の住む海の北岸までとしたのは、意味のないものではなかったということです。人種的にも言語的にも、常識的には混交していたことは明らかと思われますが、差異も見とめられたと言うことでしょう。

列島で発展した倭の文化の半島への侵入も、四世紀までは半島南岸部だけで、交流があった以上当然の状況を上回るものではないでしょう。五世紀に入ってかなり内陸まで浸透してゆくのは、倭王権の影響力が及び始めたためと思います。

その始まりは神功紀の伝説的な、璧の山と古沙の山での誓いによって、現在の井邑市あたりを境にして、南北の縄張りを分けたことに始まると思います。『日本書紀』の百済王に降った「比利辟中布彌支半古四邑自然降服」は本来「比利・辟中・布彌・支半・古四・邑自然降服」と区切るべきで、このうち「布彌・支半・古四」は『三国志』東夷伝韓条の、「不彌國支半國狗素國」に対応すると思われます。一見「狗素」と「古四」は違うようですが、唐の一時支配した時代に、「古四州」として「古沙」を含む一帯が管理されており、「古四」は「古沙」をあらわしたと思われます。実際「四」は朝鮮漢字音で「サ」に近く発音されます。また「狗」は倭人上で「卑狗」でヒコを表すとすればコであり、「素」の上古音は「沙」の中古音に近似するため、「狗素」は「古四」であり「古沙」であり、現在の井邑にあたります。「辟中」が金堤を指すとすれば、この地名の並びは北から南に向かっており、井邑がその南の端と言うことです。ここまでが百済の縄張りとなり、このさらに南の海岸沿いの地域、つまり宋山江下流域として言われている地域が、任那四県に相当すると思われます。

任那は初見の好太王碑では、明らかに金海周辺と思われますが、倭王権の影響範囲を表す語として拡大解釈されることがあり、さらに479年倭王権が、加羅王を嚮導して南朝に朝貢してからは、倭王権の側では加羅王を名目的に、南朝中心の冊法体制で、倭王に従うものと扱う様になり、それが後に任那日本府や任那の調などの政治的な用語を生むことになるのでしょう。

加羅王の得た爵位は、輔国将軍であり、倭や百済が臣下に要求した地位になっています。
73:石見介:

2024/10/09 (Wed) 04:48:53

 白石南花さん

〉私も古代の半島の言語はあまりよく分かっていないと考えていますよ。<

 ある程度、半島の言語状況について学べば、常識人は、皆基本的には、そう考えるようになると思われます。
 しかし、そこから先は、その後の読書や、関連する諸分野の学習の相違、職業などの人生経験からの思考法の癖、その他で、大きく異なってくるように、思われます。

>むしろ一部の単語をもとに、半島には倭語が行われていたとか、実は半島南部は倭人の土地であったとかいう説には反対です。<

 私は、まさにその説の信奉者ですが、勿論、「通時的に」ではなく、「ある一定の時期」に、「限定」しての話です。白石南花さんも、時期を限定すれば、お認めだと思います。その「時期」の設定では、互いに、相いれない部分が、多いとしても。

>古代の事ですから、そもそも民族の境目がそんなにはっきりしてなかったと思った方が良いと思います。<

 日本古代史に興味を持つ前に、欧州のゲルマン民族の大移動や、その前の印欧語族の大移動に関心があり、本を読み漁って、「民族」「部族」「支族」「氏族」「種族」などの概念に馴染み、特に,言語の分化が、民族の生成の要素として、国家の形成以上に、重要だと言う、認識に、至っていた私と、白石南花さんの、根本的な相違部分ですね。「民族の境目がはっきりしない」のは、言語学的には、「語族」「語派」「個別言語」の「共通基語」(祖語)の段階か、或いは、異言語が接触して、クレオール、ピジンの状態であり、何れは、新言語、方言として形成されるまでの、過渡期でしょう。
 ですから
>韓人も日本人も、その地で歴史的に形成されてきたと言うほうが実態に近く、<
 は、正しいとしても、実際には、白石南花さんは、「実態の解明」は、不明として、その努力は放棄されておられるとしか、思えません。
 まあ、労多くして、功少ない分野ですが、「不要」ではなく、歴史学の「重要」な分野である事は、間違いありません。

>民族移動の考えは妥当ではないと思っています。<
 上述のように、民族移動や、言語の形成、国家の形成は、常時、関連して、考えるべき問題でぁり、恣意的に、その中の一つを棄却できるものではないと思っています。
 勿論、議論やコメントの際には、主題を絞らざるを得ないのですが。

 残りの部分については、次回、投稿します。

 
72:p君 :

2024/10/07 (Mon) 22:34:24

●韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/49367.html

「1500年余り前に日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。」

5世紀前半の遺跡だそうです。
韓国側は技術者なんて言ってますけど、
392年の羽田八代宿禰達による百済の辰斯王への恫喝、
臣下による辰斯王の殺害から阿花王擁立の後、
倭人の駐留があったのでしょう。

そして高句麗に圧迫され、475年の熊津遷都、
任実の少し北が熊津と言われる公州ですね。

その公州には地下式横穴墓、任実に蛇行剣が出土、
なんだか朧気ながら「任那」が見えてきたような気がします。
71:白石南花:

2024/10/07 (Mon) 19:59:55

石見介さん

私も古代の半島の言語はあまりよくわかっていないと考えていますよ。むしろ一部の単語をもとに、半島には倭語が行われていたとか、実は半島南部は倭人の土地であったとかいう説には反対です。古代の事ですから、そもそも民族の境目がそんなにはっきりしていなかったと思ったほうが良いと思います。韓人も日本人もアイヌも、その地で歴史的に形成されてきたと言うほうが実態に近く、民族移動の考えは妥当ではないと思っています。

韓語についてのまとまった資料は、中期朝鮮語が最古のもので、そこを起点に、郷歌などの一部の史料から新羅時代について推定できるだけが実態でしょう。

それ以前に関してはさらに怪しいですが、日本語との関係はもっと怪しいというのが印象です。昔某掲示板で詳しい人が言っていましたが、日本語と韓語の系統関係に関する議論は死屍累々とのことです。

あと倭奴国が倭国の極南界と言うのは、北郊の儀式を寿ぐものとしての倭人を演出するための、漢王朝側の理由によるもので、実態をあらわしていないと考えています。

倭人は漢書地理志依頼、一貫して海中の存在です。

任は日本漢字音でニンですが、中古音では末尾子音がmですので、二ムのような音価でしょう。二ムが二リムに遡ることは、分かっている数少ない例の一つのようです。

https://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/kodai.html
70:石見介:

2024/10/07 (Mon) 00:22:38

 白石南花さん

 誤打鍵、誤変換の見落とし等による誤記だらけのコメント、申し訳ありません。投稿直後は、文章をチェックしても、脳が勝手に、正しく変換するので、見落としやすく、基本的に翌日、編集機能で、訂正しています。「編集未済」は、エラーチェック前、「編集予定」は、追加記事がある場合とし、これが消えていない場合は、引用は控えてほしいという、お願いの意味が、有ります。

 さて、「任那」の読み、「みまな」が、上代日本語の「訓」読である、という考えには、私も、おおむね、賛成です。
 但し、万葉仮名や地名などに使用された「漢字」の用法からは、日本語固有語彙の表記法は、「漢字は所詮、当て字に過ぎず、借音・借訓の万葉仮名に、故事来歴を踏まえた用字法(「春日」「飛鳥」「明日香」など)も混在し、古代の日本語表記は、一筋縄では解釈できない複雑な問題」だと、感じています。

 「任那」「任実」の「任」の解釈については、白石南花さんと私の考えの、決定的な相違は、「半島在住倭人」の存在についての、認識だと思われます。
 以前、「狗邪韓国」が「倭の北岸」にあるという,『魏志倭人伝』の記事の解釈についてのご論考を読み、私は、渡来系弥生人≒倭人≒日琉語族とする考えから、半島に倭人,倭種が、広汎に存在し、それが、朝鮮語族やツングース語族に、置換して行く過程に関して、白石南花さんとは、基本的認識が異なる、と感じました。
 白石南花さんは、半島に於ける日琉語族の存在が、私よりもはるかに早く、朝鮮語族に置換したと、お考えのようで、従って、言語学的には、ほとんど資料のない「古代朝鮮語」を、安易に?想定される。
 私は、日韓両国語同源論を信じていたのですが、その関連の本を読む過程で、日琉語族の上代日本語に相当する「古代朝鮮語」の、欠如に気付き、「古代朝鮮語」を根拠にした仮説、解釈の大半は、他の確固たる根拠がない限り、「可能性が低い」ものと、見做すようになりました。
 鮎貝房之進の説は、学史上は重要ですが、言語学的には、証明困難です。半島に、日本の古代相当の時代やそれ以前の「漢文資料」が存在しても、その中に、朝鮮語を音写したものが、相当量存在しなければ、古代朝鮮語の実態の解明は、困難なのですが、どうも、そのあたりの認識が、日本の古代史愛好家には薄く、日本の南北朝時代末期の朝鮮語で、7世紀以前の日本の古典を解読する、という本が、ベストセラーになったりする。

 『三国史記』の、旧高句麗地名から再構された語彙群は、現在では、主に日琉語族の言語に属すとされ、朝鮮半島全域に、日琉語族の残した地名の存在が確認され、一方、満州全域に、朝鮮語族の地名が、認められている状況です。

 半島南部に、倭人が濃厚に分布していたと解釈した場合、例えば、AD57年の、「倭奴国」記事の解釈も、変わり得ます。
 范曄は、倭奴国を「倭国の極南界」にあるとしましたが、後漢初期の資料作成者が、倭国を、朝鮮海峡の両岸を、居住域とする倭人諸国群の総称と考えたとすれば、海の向こうの「奴国」は、「極南界」にある、という認識だったのかもしれません。
 「奴」が、上代日本語「な」(中、地など、多くの語義がある)の音写であれば、「中の国」という呼称の国名は、複数存在しても、不思議はなく、半島側にも、同名の国が、存在したかもしれません。
 『三国遺事』では、新羅第4代王、昔脱解は、「建武中元5年」に即位していますが、後漢光武帝は、建武中元2年に、倭奴国の朝貢を受けて、間もなく死亡しています。脱解の即位年は、誤記だとして、訂正されますが、実は、新羅側は、後漢光武帝から、王号を得たのは、自国だったと言う、主張があったのかもしれません。まあ、妄想、トンデモ説の一つです。


 
69:白石南花:

2024/10/06 (Sun) 11:34:27

>今回の「任実」の5世紀代~7世紀の音価推定については、「任那」の解釈の、鮎貝房之進の解釈同様、「任」を「ニリム」と、「朝鮮語」で魚むことには反来で、時代が近い「上代日本語」での読みである「みま」とすべきだと思います。<

「任那」をミマナと読むことについて、音転説もありましたが、日本語の専門家と思われる方が反論していました。
私もミマナは音ではなく訓読のようなものと思います。
「任」をミマと呼ぶ訓は見たことがないので、「任那」は本来韓語の漢字表記で、その韓語の日本語訳がミマナだと思います。
「任」ですが、本来韓語の二ム、さらにさかのぼれば二リムであろうかと思います。
二リムは古代韓語の主ですから、「任那」は主の土地ぐらいの意味ではないでしょうか、ミマナはその日本語訳ではないかと思います。
任実については、顕宗紀に任那人がここで活躍しています。
「任那」自体は、各種文献でその指す領域が変わっていると思われますが、栄山江流域もそこに含まれることがあったのではないでしょうか。
泰仁を顕宗紀の帯山とした場合、爾林(二リム)は任実の可能性があります。
68:石見介:

2024/10/06 (Sun) 03:06:25

白石南花さんの文献批判は、研究史を踏まえた緻密なもので、私も、当初は異議を唱えても、結局は、お説に従うことになるのが、実情です。
 ただ、資料批判の基本的な考え方について、撰述者の境遇や世評も含めた情報も重視する私に比し、白石南花さんは、同時代人の評判などは、あまり重視されず、文言自体に、「語らしめよ」とするご姿勢で、その相違が、解釈に大きく影響する場合には、私は、白石南花さんの、解釈には、従いません。

 今回の「任実」の5世紀代~7世紀の音価推定については、「任那」の解釈の、鮎貝房之進の解釈同様、「任」を「ニリム」と、「朝鮮語」で読むことには反対で、時代が近い「上代日本語」での読みである「みま」とすべきだと思います。

『三国史ち』が、先行した、所謂「旧三国史」等、半島伝来の,資料群を利用した事は、認め得ても、それは、純然たる「漢文」資料であり、言語資料は、14世紀末のハングル制定時の、中期朝鮮語(中世韓国語)まで、わずかな郷歌などしかなく、吏読や諸方言からの、古代朝鮮語再構も、ほとんど、行われていません。古代朝鮮語の語彙など、日中の史書に残された、僅かな断片と郷歌、仏足跡歌ぐらいです。

 勿論、任那の地名を遺した人々が、日琉語族だったのか、朝鮮語族だったのか、古アジア語族その他だったのか、と言う、根本的な問題があり、鮎貝の説は、その部分の欠如が、致命的です。

 『三国史記』自体も、1140年代前半の成立で、同じ王氏高麗の勅撰史書「旧三国史」が、先行して存在したのにも拘わらず、勅撰史書として撰述され、当時存在したはずの、原史料群や「旧三国史」も、失われます。
 放映中の大河ドラマ「光る君へ」は、まさに12世紀前半が舞台ですが、登場人物達の、日記、作品は、多数、現代迄伝わっています。
 半島での、この資料の残存率の低さは、戦乱等の影響ではなく、故意の焚書が行われ、『三国史記』が先行史書を、改竄した史書である蓋然性が高い事を、示しています。

 編集:2024,10/06.21時40分
 引用後の誤記訂正となり、申し訳ありません。
67:白石南花:

2024/10/05 (Sat) 20:54:34

>5世紀なら「イムシル」などという呼称ではなく、この任実をなんと呼んだのか私にはわかりませんが、<

鮎貝房之進は爾林に比定し、二リムの村の意で二リムシルとしていましたね。
韓語では語頭のnが落ちます。
李明博の李がイになる見たいな感じです。
66:p君 :

2024/10/05 (Sat) 18:59:18

2024/10/03 木曜日 18:51
石見介さん
>御説の主旨には、私も、ほぼ賛成です。

ありがとうございます。
恥ずかしながら、今回、蛇行剣をいろいろ検索していて、
「任実(イムシル)」地名なるものを初めて知りました。

任那日本府を考える時に、もっともっと知られてても良いはずの地名だと思いますが、
なぜか、あまり知られてはいない地名のようです。

5世紀なら「イムシル」などという呼称ではなく、この任実をなんと呼んだのか私にはわかりませんが、
現代韓国人からすれば、感情的に、任那日本府なるものは存在しない、としたいので、
あまり表立って話題にしなかったのか、などと穿った見方もしてしまいます。

半島にも展開していた地下式横穴墓を日向日下部と仮定し、この「大伴+日下部」の撤退と入れ替わるように、
5世紀後半から6世紀前半にかけて、韓国に前方後円墳が出来ますね。
大伴金村の失脚と相まって、物部の穂積臣押山が半島に渡ったりしている事と符合しているような気がします。
65:石見介:

2024/10/03 (Thu) 00:03:37

p君さん

 貴重な情報、有難うございます。
御説の主旨には、私も、ほぼ賛成です。
九州の倭人は、地理的条件もあり、半島残存倭種との、繋がりが強く、半島西南部の、後の百済領となる地域は、九州西部、南部の、火の国、熊曽国(『古事記』の筑紫島の四面の内の2面)の人々と同系で、半島東部の三国時代の新羅の領域や伽耶の地域に残存した倭種は、筑紫島四面中の、筑紫国(別名「白日別」)と、種族的繋がりが、強かったのではないかと、私は、考えています。
 紀にも、五島列島の海人族は、隼人に習俗が類似しているとの記述が、有ったと思いますし、火の国の内、肥後には、「クマ」地名が,濃厚に分布していま
す。

 お説の「任実」地名が、「任那」の残存地名だと言うのも、賛成です。ただ、上代日本語では、「みま」という地名は、「水間」の語義なので、倭人の居住地域の、何処にでも、あり得ますが。
 「任実」地名が、新羅景徳王の地名改訂時以前に、遡るのであれば、当然、上代日本語で解釈されるべきであり、室町時代前期以降の言語資料しかない様な韓国語での解釈よりは、遥かに、妥当だと思われます。

 
64:p君 :

2024/10/02 (Wed) 20:14:02

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1727867642.jpg akaosaさん、こんばんは。

facebookにも投稿したのですが、ここにも再投稿したいと思います。


富雄丸山古墳から超大型の蛇行剣が出ましたが、
韓国でも任実(イムシル)郡から出ているようです。
任実郡とはここですね。(画像)

4世紀後半の富雄丸山古墳の蛇行剣が最古にして最大ですから、
蛇行剣は大和から韓国の任実郡へ渡ったという事になります、
つまりこの任実郡までは任那であったのではないでしょうか。

気になるのは任那と任実の名称の類似です。
任実って任那の名残りではないのでしょうか。

> 列島独自の墳形とされる前方後円墳が、朝鮮半島西南部の栄山江流域を中心として現在までに14基確認されていることに加え、熊津や泗沘地域に、列島独自とされる地中に墓室を穿つ地下式横穴墓ないしは横穴墓の存在が確認されている。ちなみに、栄山江流域に横穴墓は発見されていない。
 この地下式横穴墓は南九州の東側から内陸のえびの市、鹿児島県北部大口盆地を中心に分布する。<
> 百済王のいた熊津などの公州や扶余周辺に、南九州の文化を有する人々がいたことは、栄山江流域の前方後円墳に並ぶインパクトがあると思います。<

南九州で、祖先が地下穴から出てきたという、おそらく日本でも唯一独自の伝承をもつ一族は、日向日下部ではないかと思います。
大型蛇行剣の富雄丸山古墳のほど近く、生駒山の西側、今の東大阪市日下あたりを本貫とするようで、仁徳の妃で美人の誉れが高かった髪長媛ゆかりの地のようです。
任那四県割譲の大伴と、その日下部に接点があったのかと言えば、堺の草部の日部神社(式内社)は、この辺りを支配した豪族の日下部首氏創建の神社で、祭神に道臣もいますから、大伴と日下部に接点はあったのではないかと思います。
63:石見介:

2024/08/03 (Sat) 20:57:17

 akaosaさん

 百済の熊津「遷都」が、現実には、「百済の滅亡」であり、又、「任那が、二つ、存在する」という、ご主張に、特に異論がある、というのではなく、元来、欧州のゲルマン民族の大移動を、東アジアでの民族移動のモデルとして、並行的に比較考察して来たので、若干の、用語の相違というか、表現のずれがある、という程度の、問題のようにも、思います。

 ゲルマン諸部族には、王制(王家が確立し、王に即位できる王族が、明確化)と、首長制(有力な貴族中から、最高指導者が選抜される)があり、民族移動初期では、東ゴート族は王制、西ゴート族は首長制でした。
 東ゴート族のアマーラー王家の3兄弟が、それぞれ、部族民を率いて、別行動をし、その後、合流する、というようなことも、記録されています。
 この場合、分離行動中の各集団には、王がいないのではなく、兄弟それぞれが、各集団の「王」として、行動していたと、考えられます。

 百済滅亡時の場合、諸王間の序列が、親子等の関係で、確定していて、明確なので、「百済王は、独りだけ」という『三国史記』の儒教的イデオロギーに、惑わされてしまいますが、欧州の家産国家、ユーラシアの遊牧民同様、倭も半島諸国も、「複数王制」(序列はある)であったと考えれば、漢城で、大王が戦死しても、次位の王やより下位の王が、彼等に従う従属民(被支配層)と共に、新たに、「百済王」なり、「南扶余王」なりを称しても、極めて、自然な行為だと思われます。
 新王が、倭の大王に頼って、その従属民を伴って、「倭」或いは「任那」の「別邑」に、移住したのでしょう。

 中国の史書『宋書』や『梁書』百済伝には、百済国王が、南朝に対して、自身以外に、王族や家臣にも、「軍郡」の授与を求めた記事がありますが、「郡号」には、左賢王や邁蘿王のような王号や侯号、郡太守号もありました。
 北朝にも朝貢し、「単于」号を得た百済王が、左右賢王を任命し、宋にその追認を求めたらしいのは、流石に、追認されませんでしたが、梁には、王族や家臣の軍号の他に、王侯号や太守号も、承認されています。

 上記のような実態を考えると、王都が陥落し、王が戦死し、国土の大部分が占領されても、下位の王やその属民が地方の別邑や牧草地などに残存する限り、「王国の滅亡」とは、表現し難い、というのが、私の立場です。
 半島の国家を、つい、純粋な、「農耕国家」と、考え過ぎているのではないか?
 百済は、北朝から、「単于」号を受けた、扶余の後裔を自称する、遊牧民国家の体質も、持っています。
 倭国は、そのような体質は、希薄です。

 「二つの任那」についても、欧州の民族移動時の、「地名」「国名」「種族名」の、移動や変遷の事例から、複数の「任那」や,時期による実態の相違は、当然、存在すると、私は、考えています。
 欧州での事例は、省略しますが、多種族、異民族支配に慣れた、百済の「列島支配」、特に「九州島」支配の「野望」への、警戒心を抱いた、安閑天皇と日蘿の話には、注目しています。

 
 
62:akaosa :

2024/08/03 (Sat) 13:55:31

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1722660931.jpg 1 熊津と任那の関係
   *史料の引用に施した下線や太字が反映しないため、読みにくくてすみません。
 
 『三国史記』百済本紀の文周王の条に
「文周王〈或作汶洲。〉蓋鹵王之子也。…高句麗來侵、圍漢城。蓋鹵嬰城自固、使文周求救於新羅、得兵一萬廻。麗兵雖退、城破王死、遂卽位。性柔不斷、而亦愛民、百姓愛之。
冬十月、移都於熊津。
二年春二月、修葺大豆山城、移漢北民戶」 *<>は注。以下同じ。
とあります。

 本文には、文周王(汶洲王)が熊津に都を移したとありますが、翌年の春に、「漢北の民戸を移した」とあり、それまで王についてきたきた農民などがあまりいなかったと思われます。 

 これに対応した記事が雄略紀廿一年春三月条にあります。
「天皇聞百濟爲高麗所破。以久麻那利賜汶洲王。救興其國。時人皆云『百済国雖属既亡聚憂倉下(ヘスオト)。実頼於天皇。更造其国』
〈汶洲王蓋鹵王母弟也。日本舊記云。以久麻那利賜末多王。盖是誤也。久麻那利者任那國下哆呼利縣之別邑也〉」。

 久麻那利(クマナリ)を汶洲王に賜った。時の人は皆「百済国はその属が既に亡び、衆が倉下で憂いていると雖も、実に天皇を頼り、また其の国を造った」という。このクマナリは熊津と対応します。
 注に、コムナリは任那国のアロシタコリ県の別邑とあり、錦江周辺に任那国の一部があったと認識されていたことを示します。

 なお、『三国遺事』の文周王の記事には「移都熊川」とあります。

 熊川の記事が、継体紀廿三年四月是月条にあります。
「遣使送己能末多干岐并詔在任那近江毛野臣「推問所奏和解相疑」。於是。毛野臣次やどる于熊川クマナレ〈一本云。次于任那久斯牟羅クシムラ〉…自熊川入任那己叱己利コシコリ城」。

 熊川は一本に任那のクシムラとあるほか、毛野臣は熊川から任那のコシコリ城に移るなど、いずれも任那と関わるか隣接していることを示しています。


2 熊津、泗沘地域にある南九州の地下式横穴墓

 熊津・泗沘地域が倭と関わることを示す考古学的遺物があります。
 引用図の出典は、歴博研究報告第217集(古墳時代・三国時代における日朝関係史の再構築-倭と栄山江流域の関係を中心に-)所収の「古墳からみた栄山江流域・百済と倭」金洛中2019 で、以下は論文の抜粋要約です。

 列島独自の墳形とされる前方後円墳が、朝鮮半島西南部の栄山江流域を中心として現在までに14基確認されていることに加え、熊津や泗沘地域に、列島独自とされる地中に墓室を穿つ地下式横穴墓ないしは横穴墓の存在が確認されている。ちなみに、栄山江流域に横穴墓は発見されていない。
 この地下式横穴墓は南九州の東側から内陸のえびの市、鹿児島県北部大口盆地を中心に分布する。
 これに先立ち、縄文時代晩期に、朝鮮半島西南部で最盛期を迎えた支石墓は、九州西北部にも営まれはじめ、支石墓の上部構造は弥生時代には消滅するが、下部埋葬施設としての箱式石棺は北部九州を中心に中国地域へも分布を広げる。

 4世紀代には九州西北部の箱式石棺をベースに板石積石室墓が生みだされ、南下して鹿児島県北部、内陸は熊本県人吉盆地から宮崎県都城盆地の一角まで分布を広げたと考えられている。
 この板石積石室墓は、内陸部のえびの盆地に顕著な竪穴上部板石閉塞の地下式横穴墓のように、地下式横穴墓の誕生に影響を与えた。
 板石積石室墓も地下式横穴墓も、南九州固有の墓制として営まれた。

 百済王のいた熊津などの公州や扶余周辺に、南九州の文化を有する人々がいたことは、栄山江流域の前方後円墳に並ぶインパクトがあると思います。
61:akaosa :

2024/08/03 (Sat) 13:23:25

石見介様

いつも貴重なご意見をありがとうございます。

>後漢の地方の官職は、郡の太守が、秩「二千石」で、最高位であり、数郡をまとめた「州」の長官である「刺史」は、当初は、郡太守よりも格下で、郡太守の「監察」が任務でした。

この様子は、時代は下りますが、律令にいう国守(刺史)と郡司(郡太守)の関係を思い出しました。職田をみると、郡司は国守の倍以上に定めら、郡司は世襲が一般です。

60:米田 :

2024/07/07 (Sun) 06:23:15

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1720300995.gif .

│Re: 「栄山江流域」=任那 説 - 石見介
│2024/07/07 (Sun) 01:42:15


:ご指摘(&解説)、ありがとうございました。
:たいへん勉強になります。

:「三国志」は、中国劇画(4巻)で、20年位前に
:買って読みましたが、ちんぷんかんぷんでした。

:誤字脱字の件は、ほぼ問題なく、読めております。
59:石見介:

2024/07/07 (Sun) 01:42:15

 意外に、皆さんが、歴史小説としての『三国志』、即ち、羅貫中『三国志演義』や、それを種本にした吉川英治『三国志』、陳舜臣『秘本三国志』、周大荒『反三国志』等を、読んでおられないことに、びっくりしました。年代差というか、時代差で、娯楽が少なく、貸本屋で、漫画を含め、大人向けの吉川英治『三国志』や作者不明の股旅物風の妙な『西遊記』や、漫画を、小学校高学年時に、富むしかなかった私との世代差を、感じました。
 中高校生の6年間は、貸本屋ではなく、推理小説、SFが中心で、春夏の休みには、中之島の府立図書館で、民族移動史や世界文化地理体系等を読み、大学進学後は、コミック,SF、歴史小説等を読む、というような、読書歴でした。

 小説の三国志ものを読めば、後漢代や三国時代の官職への基本的理解も、ある程度、身に付きます。
 勿論、正確な知識は、『後漢書』『三国志』の「志」で、時代の変遷も含め、チェックする必要がありますが。

 後漢の地方の官職は、郡の太守が、秩「二千石」で、最高位であり、数郡をまとめた「州」の長官である「刺史」は、当初は、郡太守よりも格下で、郡太守の「監察」が任務でした。秩禄は、同じく「2千石」でしたが、時期により、「良」「比」など、若干の相違があり、又、郡治とは別に、「州治」も、置かれるようになります。

 本来、行政官の「郡太守」「州刺史」は、軍権は持たなかったのですが、後漢末になると、治安が乱れ、郡太守や刺史が、兼任で,軍号(将軍、中郎将等)を帯びるようになり、地方軍閥化します。
 州の刺史で、軍官を兼任すると、「州牧」と呼ばれるようになります。

 更に、乱世が進むと、州牧や郡太守などの「群雄」が、勝手に、官職を任命したり、贈り合ったりします。後漢朝廷には、事後報告で済ませるか、無視する場合もあります。
 その延長戦上に、「新郡」の設置があり、群雄が、勝手に郡を分割し、新設の郡の太守以下、属官を、任命します。勿論、既存の郡の太守に、親族や部下を任命し、前任者を追い出して、自身の支配地域にする事も横行します。
 この頃になると、「州牧」が、州内の郡太守より、上位と見做され、州内の郡は、州牧の支配地域と見做されるようになりますが、例外も、多々、存在します。

 繰り返しますが、帝国では、本来、皇帝が、州牧や郡太守を任命するのが、原則なのですが、乱世で、実効支配出来ない場合に、群雄が、勝手に、郡太守を、任命する事態が生じます。
 公孫氏は、群雄の一人であり、実効支配している地域に、新郡を設置し、太守以下を任命したのです。

 官職の中で、「○○従事」というのは、いわば、ラインの職というより、スタッフ職に近く、名誉職的な場合が多いのですが、直属長が、実力者の場合、その威を借りて、政策を実現する場合もあります。
 「部従事」呉林が、楽浪郡太守より、官職で上位という可能性は少なく、その献策が、魏の実力者たちの意に叶い、献策者に実施させた、というのが、真相でしょう。

58:米田 :

2024/07/06 (Sat) 11:42:10

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1720233730.gif .

│三国史韓伝にみる地元社会の姿 - akaosa
│2024/07/03 (Wed) 20:01:20

│三国志魏書韓伝に次のようにあります。(云々)

│帯方と楽浪の太守は海を越えて二郡を定めたとあるので、
│山東半島から渤海を越えて遼東半島方面へ渡ったと考えられます。
│つまり、遠征です。(云々)

│呉林の言葉を地元民に伝える際、通訳の不手際で地元民を怒らせた、
│とするが、彼の話は弁韓八国の楽浪郡併合なので地元民の抵抗は
│当然であり、通訳への責任転嫁ではないか。
│「部從事呉林」は、部従事という役職の呉林と解されますが、
│役職の内容は不明で、少なくとも郡の太守より上位者といえます。


<「三国史韓伝にみる地元社会の姿」について>

:akaosaさんの「地元社会の姿」について、若干の違和感を感じて
:います。その違和感が何なのか、自分なりに考えてみました。

(その1:「漢・魏」の統治システムについてです。)
:まず、楽浪郡は、幽州の領郡のひとつです。ですので、
:楽浪郡の太守は、幽州のボスが任命していたと考えました。

:その上で、公孫度は、袁尚や黄巾党の残党の影響で、「漢」の
:支配力の低下を見て、帯方郡の設置を決めたり、のちに、
:「幽州」地域の独立を計ります。
:そして、公孫度の独立においても、
:領郡の太守は、公孫度の部下になります。

「景初中、明帝密かに帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣を遣わし、」

:ここで、面白いのは、楽浪郡・帯方郡の太守を(形式的にも)
:皇帝が任命していることです。これは、死んだ「弓遵」も玄菟郡
:から異動の「王頎」も、直接、任命されているように見えます。

:地元社会にとっては、公孫度配下の郡太守が、皇帝任命の郡太守に
:変わっただけです。

:「王頎」は、その後、天水郡の太守に異動になっています。
:「王頎」の後の「太守」は、幽州のボスの任命にもどったのでは
:ないかと、想像しています。

:郡の太守の仕事には、郡外での軍事的には「将軍」の任務もあります。

│つまり、遠征です。

:私は、形式的には「太守の異動(交代)」だろうと、考えています。

(その2:「部從事呉林」について)

│「部從事呉林」は、部従事という役職の呉林と解されますが、
│役職の内容は不明で、少なくとも郡の太守より上位者といえます。

:殺されたのが、「呉林」ではなく、皇帝任命の「弓遵」だったことに
:多少の疑問が残っていますが、「弁韓八国の楽浪郡併合」は、
:幽州の支配地域の拡大を意味しています。(もしかしたら、)
(東夷諸国の「皇帝の直接支配」をねらっていたのでしょうか。)

:「漢・魏」の支配システムにおいて、楽浪郡は、「幽州の領郡」
:ですから、「部従事という役職」は、「幽州」に属する役職だった
:かも知れません。(私の勝手な想像です。)

(PS)
:弓遵が殺されたのは、「帯方郡の崎離営」で、これは、
:狗邪韓国の中(港)に、あったのではないかと、考えています。
:また、「弁韓八国の楽浪郡併合」の強硬派は、
:「弓遵」だったのではないかと、勝手に想像しています。
:また、「王頎」の動きなど(東夷伝・三国史記)を見ていると、
:「王頎」の動き(言動)に、違和感を感じています。
:「弓遵」殺しの黒幕は、本当は「王頎」ではないかと、
:勝手に空想しております。
57:米田 :

2024/07/05 (Fri) 06:39:04

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1720129144.png
│「南扶余」は建国宣言ではないか - akaosa
│2024/07/03 (Wed) 19:46:02

│石見介様

│> 「百済」「新羅」は、そのまま、半島の2大国です。

│少なくとも、蓋鹵王が高句麗軍に漢城で攻め殺された時、
│百済は滅んだというべきでしょう。
│史家は「遷都」と体裁を繕っていますが、
│たまたま義慈王の子が存命で、
│それを利用して「百済」の名を残したとするのが、
│三国史記の百済本紀の記すところと思います。

│武寧王を継いだ聖明王は、熊津から扶余に遷都し、国号を「南扶余」と
│したとあります。これは国号を変えたというより、大胆に言えば、
│倭のくびきを脱しようとした一種の建国宣言ではなかったか。

│660年に義慈王が殺されるまで、国号は正式には「南扶余」のはずです。
│ちなみに、武寧王は、発掘しても王宮が確認できない熊津で
│22年在位しました。

:横レス、失礼します。
:仮に、百済は、滅んだ(が、正しい)としましょう。

│少なくとも、蓋鹵王が高句麗軍に漢城で攻め殺された時、(475年)
│百済は滅んだというべきでしょう。

(その1):「百済王」の復活
:570年、高斉の後主は、威徳王に「帯方郡公・百済王」を認めた。

(その2):高句麗の内乱(「安」から「磐井」へ、王統のシフト)
:531年、高麗、その王「安」を殺した。(日本書紀)
:545・546年、高麗は大乱。(日本書紀・欽明天皇紀)

(その3):金官国(任那日本府の中核)の新羅への編入
:532年、金官国王の金仇亥が、新羅に来降した。(新羅本記)

(その4):新羅の内乱
:572年、王太子の銅輪が死去した。(娘婿として、新羅に入る。)
:(銅輪は、高向塩古であって、法興王・真興王の息子ではない。)


※:このように見てくると、百済だけが滅んだというよりも、
_:半島全体が混乱していると、見た方が良いと、思います。
_:これは、「在来宗教(騎馬民族風)」対「南方仏教」の対立と
_:見ても良いですし、「高向」の娘「難波の小野王」の子孫が、
_:日本(高麗・新羅・百済・倭国)を乗っ取った、と見ても
_:良いかも知れません。

※:私の系図は、このような観点から、系図を作っています。


:537年、大伴磐は、筑紫に留まって、その国政を執〔行〕し、
:三韓に備えた。狭手彦は、行って任那を鎮め、加えて百済を救った。
::もしかすると、百済の都は筑紫にあったのかも知れません。
56:石見介:

2024/07/04 (Thu) 01:16:42

 akaosaさん

 私は、元来、民族移動史に興味があり、以前書いたように、移動の時期や移住地、周辺諸国・諸部族・種族との、混淆や交流の状況等については、記録の豊富な欧州の事例を参照し、同様の事象が、東アジアでも、一般的に存在し得る、という認識なので、akaosaさんと、基本的認識は、そう異なっていないと、思っています。
 ただ、私の投稿を読まれて、akaosaさんが、違和感を覚えられたとすれば、「時代」による「変遷」と、地域差による「変化」についての、解釈が、相違している事と、半島の「先住者」について、或いは、大きく考えが、異なっているからかもしれません。

 時代の相違としては、『三国志』魏書東夷伝の対象とする3世紀は、半島中南部に、扶余系集団によって組織化された古朝鮮領域からの、移住者集団が、到達した段階であり、やや先行移住した馬韓諸国や、広く半島に分布していた先住民の「倭種」「倭人」を含め、諸種族の集落が、確たる境界もなく、混在していた時期だと、捉えています。
 この状況が、「辰韓と弁辰雑居」「国々に、別邑が存在」する(国の主邑居住者と、別邑居住者が、同族ではなく、異部族、異種族、異民族である)、「狗邪韓国が,倭の北岸」(弁辰部族連合の一部族国家が、倭地の最南部、沿岸部迄、他の弁辰諸部族の居住域を離れて、到達し,建国・占有した状況)等と、表現されていると、捉えています。

 3世紀段階でも、満州から半島北部にかけての地域には、扶余、貊族(主流が、高句麗)、濊族、沃祖等の諸種族は、ほぼ一定の領域を、占有していたと思われます。

 倭の五王の時代である、5世紀の『宋書』東夷伝の描く世界は、3世紀とは異なり、馬韓の伯済国を母体とする「百済」、辰韓の斯盧国を母体とする「新羅」が、高句麗に続く領域国家として、成立していた時代です。圧倒的な国力の高句麗の為、新興の両国は、しばしば、苦渋を舐めますが、それでも、領域国家として、存続します。
 ミニ領域国家として、六伽耶も形成されます。
 倭国は、領域国家として、中国南朝や北朝に公認されていない諸地域を、「任那」「慕韓」「秦韓」という「三領域」に分けて、認識しますが、その実態は、ミニ領域国家群に、3世紀段階とそう変わらない、諸部族混住地域の集合だったと思われます。

 以上が、私の、半島中南部地域に対する、基本的認識ですが、勿論、「百済」については、その王家の出自(扶余?貊≒高句麗‽?)も含め、謎が多く、半島側と日本側の史料の信憑性の判断も、困難です。

 以前から気になっているのが、客観的には、どう考えても、倭国の支援なしには国が持たない様な百済を、中国の南朝や北朝が、倭国以上に、評価している事です。
 半島南部に、全く使節が、足を踏み入れていないとも、思えないのですが。

 
55:akaosa:

2024/07/03 (Wed) 22:58:08

福島雅彦様

 ご意見ありがとうございます。

 魏使は伊都国に駐するとあり、そこから先には移動していないと私もみています。

 気になるのが、
>*其処で、天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。
>・ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國(からくに)が真正面になる。

 朝日が海から直接射す地域であり、夕陽で真っ赤に染まる所とは、東が開けていて朝日を遮る山などがなく、西に夕陽を眺められ、遮るような高い山がない所はどこか。

 ご指摘の三笠山などが候補地になりますね。
54:akaosa:

2024/07/03 (Wed) 20:01:20

米田様
 ご見解をありがとうございます。

三国志魏書韓伝に次のようにあります。
「景初中、明帝密かに帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越え、二郡を定め、諸韓國の臣智、邑君印綬を加えて賜う。其の次、邑長與う。」

 帯方と楽浪の太守は海を越えて二郡を定めたとあるので、山東半島から渤海を越えて遼東半島方面へ渡ったと考えられます。つまり、遠征です。

 「臣智」については、
馬韓条に「馬韓…各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借。散在山海間、無城郭。」、
弁辰条に「弁辰、亦十二國。又有諸小別邑、各有渠帥。大者名臣智、其次有險側、… 次有邑借」
とあるので、馬韓や弁辰の大きな勢力の首長に邑君の、その次には邑長の印綬を与え、その数は韓全体で千人余りだったようです。

「其の俗、衣幘を好み、下戸郡に詣り朝謁す、皆衣幘假り、自ら印綬、衣幘を服す、千有餘人。

部從事呉林、樂浪本は韓國を統べたを以て、辰韓八國を分割し、以て樂浪に與う。吏譯、轉して異同有り。臣智激し、韓忿り、帶方郡、崎離營を攻す。時の太守弓遵、樂浪太守劉茂、兵を興し之を伐す。遵戰死、二郡遂に韓を滅す。」

 呉林の言葉を地元民に伝える際、通訳の不手際で地元民を怒らせた、とするが、彼の話は弁韓八国の楽浪郡併合なので地元民の抵抗は当然であり、通訳への責任転嫁ではないか。「部從事呉林」は、部従事という役職の呉林と解されますが、役職の内容は不明で、少なくとも郡の太守より上位者といえます。

「其の俗、綱紀少なし、國邑主帥有る雖も、邑落雜居し善く相い制御能わず。」
国邑は雑居状態で、治安維持が困難であったようです。

 以上からみで、当時の朝鮮半島の社会(集団)の様子は小集団の集まりで、我々がイメージするような領域国家とはほど遠い姿と思われます。
53:akaosa:

2024/07/03 (Wed) 19:46:02

石見介様

 ご見解をありがとうございます。
 気になるのは、古代の朝鮮半島や日本列島で、国境を接するような「国家」が存在したかのような議論です。
 おそらく、コロニー程度の集団がまとまったものではなかったか。原野のなかに大小の集落(邑、城など)があり、それらをまとめる指導者がいた、というような。
 伽耶や任那も、それなりのアイデンティティを共有する人々の緩やかな連携を考えています。高句麗の五部の騎馬軍団のような統率性とは次元が違う。

 > 「百済」「新羅」は、そのまま、半島の2大国です。

 少なくとも、蓋鹵王が高句麗軍に漢城で攻め殺された時、百済は滅んだというべきでしょう。史家は「遷都」と体裁を繕っていますが、たまたま義慈王の子が存命で、それを利用して「百済」の名を残したとするのが、三国史記の百済本紀の記すところと思います。

 蓋鹵王の子の文周は助けてくれた解仇(この名は後世の当て字でしょう)に暗殺され、その子の三斤は解仇のクーデタを真氏の力で制圧しましたが、その時の真氏の兵力は2000+500人です。解仇側もそれに拮抗するような人数と思われ、これが熊津時代の当初の百済の兵力でしょう。大国からかけ離れています。(この部分の文献記事は6月5日の投稿にあります)

 武寧王を継いだ聖明王は、熊津から扶余に遷都し、国号を「南扶余」としたとあります。これは国号を変えたというより、大胆に言えば、倭のくびきを脱しようとした一種の建国宣言ではなかったか。
 660年に義慈王が殺されるまで、国号は正式には「南扶余」のはずです。
 ちなみに、武寧王は、発掘しても王宮が確認できない熊津で22年在位しました。
52:福島雅彦 :

2024/06/30 (Sun) 17:36:15

※お邪魔致します。
akaosaさんと米田さんと石見介さんの交信内容は愚説の補強になります。

*「狗邪韓國」=「倭地」。『後漢書』、『三国志(魏志倭人伝)』。

・郡庁から狗邪韓國=七千餘里。

・其の内の韓地=方四千里。

・残りの三千餘里を郡治の領域と「拘邪韓國」領域とで仮に按分=千五百里づつ。

*郡使(魏使)が踏査した「倭地」の総延長=五千餘里。
以下愚説レジメから転載。

※参問倭地…周旋可五千余里=実際に郡使が観て廻った倭地は延べ五千餘里 。  
狗邪韓國(千五百里=逆算)+三海峡横断(三千餘里 )+末盧國~伊都國(五百里)=五千餘里 。故に、郡使(魏使)は「伊都國」から先へは行っていない。
∴「仮に按分」したが「仮」が取り除ける。

*「拘邪韓國」=「狗邪韓國」韓半島南部とは、栄山江流域も包含する、かと。

・倭王 「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」

・「素盞嗚尊」は「高天原」を追放になり韓半島の曽尸茂梨の処へ行く『日本書紀』。

・曽尸茂梨“쇠씨-머리”(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(おさ)の処=(地名では無い)。

・韓は「國出鐵韓濊倭皆從取之」=「国は鉄を産出韓も濊も倭も皆從(ほしいまま)之を取る」。

*即ち、「素盞嗚尊」は半島「倭地」の曽尸茂梨の処へ赴いている。

※天孫降臨の後の言葉は…

*其処で、天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。

・ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國(からくに)が真正面になる。

・この韓国とは「駕洛國」でもあり「狗邪韓國」でもある。韓(から)=同胞(はらから)の意でもある。
51:米田 :

2024/06/30 (Sun) 11:26:01

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1719714361.gif

│Re: 「栄山江流域」=任那 説 - 石見介 
│2024/06/23 (Sun) 23:42:52

│「任那」についての、倭国王権の認識も、
│時代によって、変遷していますが、それは、
│記紀のみならず、中国史書にも、明白に、現れています。

│akaosaさんの仰る様に、「任那」の領域は、本来、広域であり、
│半島諸国、特に、百済と新羅の成長によって、その領域が蚕食され、
│縮小して、遂には、消滅した、という歴史的経過を辿ったと、
│理解すべきでしょう。


:「任那」の領域についてですが、「任那」を「朝鮮半島南部」と仮に
:定義して、これからしばらく、ここで、考察してみたいと思います。
:「朝鮮半島南部」とは、東夷伝の「韓」と「濊貊」と「帯方郡」を
:合わせた地域を、ここでは、「朝鮮半島南部」としておきます。

<三国志・魏書・東夷伝>
:韓(馬韓・弁辰・辰韓)と濊貊(←:と、帯方郡)

<三国志韓伝>(:建安年間:196~220)
:公孫康が帯方郡を建てた。韓・濊を攻撃した。云々。
:倭も韓も遂に帯方〔郡〕に属するようになった。

<三国志韓伝>
:部従事の呉林は、辰韓の八国を辰韓から分離して、←:(ここ重要!)
:楽浪郡の領有とした。(云々。)
:韓諸国の臣智だけでなく韓人たちが激怒して帯方郡の崎離営を
:攻撃した。このとき、帯方郡太守弓遵と楽浪太守劉茂は、
:軍隊を率いて臣智たちを伐った。この戦いで弓遵は、戦死したが、
:二郡はとうとう韓族を鎮圧したのである。

『三国志魏書濊伝』
:〔濊には〕大君長はいない。
:正始6年、領東の濊が〔高〕句麗に臣属したので、云々。
:その(正始)8年(247年)〔不耐候の遣わした使者が〕魏の朝廷に
:朝貢したので、〔斉王芳は〕詔して、改めて不耐濊王に任命した。

*****

│呉林は、辰韓の八国を辰韓から分離して、楽浪郡の領有とした。

:250年頃から313年にかけて、「朝鮮半島南部」の地域は、
:楽浪郡(高句麗)と帯方郡が、まだらに支配していたことが
:分かります。
:そして、楽浪郡・帯方郡が313年に消滅したあと、
:「朝鮮半島南部」の地域で、楽浪郡が支配していた地域は、
:そのまま、高句麗が支配していた。
:残りの地域は、小国家群として、新羅になっていったり、
:朴堤上の先祖が一部を支配していたりと、バラバラであったようです。


「新羅(しらぎ/しんら)」(ウィキペディアより)
:文献史料で確認できる新羅の初出記事は、『資治通鑑』巻104・
:太元2(377年)年条にある、高句麗とともに前秦に朝貢したと
:いう記事である。

「百済(くだら/ひゃくさい)」(ウィキペディアより)
:建国
:百済は中国の歴史書『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を
:母体として、漢城(現在のソウル)を中心として、少なくとも
:4世紀前半頃までには成立していたと見られ、日本の学界では
:この4世紀前半頃の成立とする説が定着している。
:高句麗と百済の戦争
:391年に高句麗で広開土王(好太王)が即位し、百済に占領された
:領土の回復を図り、396年には漢江以北、大同江以南の地域を奪回した。

:この間の事情は広開土王碑文に詳しく、それによれば391年以来、
:倭が海を渡り百済と新羅を臣民としたが、
:高句麗は396年に百済を破り百済王を服属させた。

*****

:その後、380年頃の神功皇后の三韓征伐。そして、391年以来、
:(応神天皇による)倭が海を渡り百済と新羅を臣民とした。

:それから、413年、仁徳天皇(大雀皇帝)即位によって、
:倭国から高句麗までを支配する(皇帝による)「日本国」が誕生。

:427年、仁徳天皇(大雀皇帝)の崩御。息子の「住吉仲皇子」の
:暗殺。もう一人の息子「大草香王(=任那の国司:田狭)」を
:半島へ追放。これによって、皇帝の支配する「日本国」は、瓦解。

:高句麗は、「安」で、武内宿禰の子孫が支配。
:新羅は、允恭・雄略・星川皇子が支配。のちに、宣化天皇が支配。
:百済は、大草香王(牟都)・昆支王・仁賢天皇(牟大)が支配。
:金海を含む任那の地域は、安閑天皇が支配していた。

:安閑天皇の死後、任那の地域は、「春日山田皇女」の財産になった。
:安閑天皇の皇后「春日山田皇女(497年頃生・562年没)」には、
:子どもがいなかったため、「春日山田皇女」の財産(任那)を
:みんなが蚕食した。「春日山田皇女(権妻)」は、財産(任那)の
:保護を欽明天皇に求めたが、最終的に、「春日山田皇女(権妻)」の
:死去によって、任那は、562年、消滅した。

*****
:以上が、私の任那に対する認識です。
:多少、あやふやかも知れませんが、こんな感じです。
50:石見介:

2024/06/23 (Sun) 23:42:52

 akaosaさん

 「任那」についての、倭国王権の認識も、時代によって、変遷していますが、それは、記紀のみならず、中国史書にも、明白に、現れています。
 akaosaさんの仰る様に、「任那」の領域は、本来、広域であり、半島諸国、特に、百済と新羅の成長によって、その領域が蚕食され、縮小して、遂には、消滅した、という歴史的経過を辿ったと、理解すべきでしょう。

 倭王権、特に、最初に、高句麗に対抗して、半島に進出した5世紀の倭王権、「倭の五王」の「任那」についての認識は,『宋書』倭国伝の、倭王珍の求めた称号と、倭王武の上表文に、良く表れています。
 倭王珍は、「都督六国諸軍事」として、その軍事管轄権の及ぶ「六国」として、倭、百済、新羅、慕韓、秦韓、そして「任那」を、挙げています。
 高句麗好太王碑文にあるように、4世紀末、百済、新羅を、「属民」として、朝鮮半島制覇目前だった高句麗に、おそらく半島在住の倭種の救援要請に応え、列島の大半を統一した倭王権が、出兵し、安蘿等の積極的協力者もあり、半島の三国時代を、決定づけたのです。

 後の、倭王武の上表文の「渡平海北95ヶ国」の文言からは、半島中南部に95ヶ国が存在したと言う認識があり、『魏志韓伝』の、三韓78か国以外に、倭種の17ヶ国が、倭王権には、認識されていたのでしょう。
 ここで、倭王珍の「六国」中、本国の「倭国」を除いた「五ヶ国」が、半島中南部地域に、存在した、と認識されていたことが、判ります。
 「百済」「新羅」は、そのまま、半島の2大国です。「慕韓」「秦韓」は、通説通り、それぞれ、百済に併合されていない「馬韓諸国」と、新羅に併合されていない「辰韓諸国」(「辰韓と弁辰雑居」記事からは、弁辰の一部も含まれていた可能性あり)を、意味すると、考えられます。
 それ以外の地域が、「任那」という事になります。
 即ち、三韓の内、明記されていない、弁辰=弁韓諸国と、馬韓の南方、栄山江流域を含む倭種残存諸国が、最初の「広域任那」だったのです。
 これには、安蘿をふくむ、伽耶諸国も、「任那」の一部だと、倭王権には認識されており、これら六国の全領域の「大王」が、倭国王であると言う、認識が、伴っていたと考えられます。

 しかし、宋は、倭国の要求した「百済」の軍事管轄権を承認せず、辻褄合わせに、代わりに、「加羅」を加えて「都督六国諸軍事」を、認めます。
 以後、倭王は、「任那加羅」を併記して、「百済」も加えた「都督七国諸軍事」を要求しますが、遂に、「百済」については、認められませんでした。

 中国南朝との関係で、「加羅」地域を、「任那」から除外した倭国は、宋の府官制下では、常に、百済より、下位の官職を、受けますが、それでも、百済を、支援し続けています。
 その百済は、対高句麗戦で、恒常的に不利となり、本来の拠点馬韓地域を捨て、倭王武の後援で、任那地域に、再興後は、倭王武=雄略天皇没後の、倭王権の弱体化に乗じて、「任那」地域の領土化を図り、成功します。
 かくて、倭種地域の統治経験を蓄積した百済は、筑紫島にまで、領土的野心を持つ様になり、何とか、列島内を統一した、継体天皇の長子安閑天皇に、警戒されるように、なります。

 同様に、加羅地域には、この間、新羅が進出し、列島統一政権として、再度「任那」確保を企図した、継体王権に、新羅が同盟していた、筑紫君磐井が、叛乱します。
 畿内の王権の混迷期に、半島の百済と新羅は、それぞれ、倭地の筑紫嶋に、領土的野心を、持つに至り、同盟者を、獲得していたのです。
 時期的には、雄略天皇の時代ですが、江田船山古墳の鉄剣銘文は、百済の筑紫島進出の意図の、証拠でしょう。


49:米田 :

2024/06/23 (Sun) 10:28:59

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1719106140.png
│Re: 「栄山江流域」=任那 説 - akaosa
│2024/06/23 (Sun) 00:18:40

│問題は、地名比定の根拠です。地図に活字を置くと、
│いかにも面積が広そうですが、本来はもっと狭いのではないか。
│そして、そこに伝承や考古的資料があるのかどうか。
│2種類の図を見比べても、ある下敷きがあり、
│それに付け足した感があります。


│(掲載図は、下記の抜粋です。)
│:「韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇」(中央公論社)
│:監修:森浩一  著者:東潮、田中俊明 


:末松保和氏の「任那興亡史」は、読んだことはないのですが、
:図の「韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇」は、むかし読みました。

:「任那復興会議」が2回、開かれたと日本書紀に書いてあるそうです。
:百済の立場からすると、「日本」から貰った「任那4県」などは
:任那に還すつもりはないが、とにかく、任那日本府(金官加羅)を
:新羅から取り戻すには、どうしたら良いか、任那日本府(金官加羅)
:以外にも、どんどん蚕食(さんしょく)されています。
:これをどうにかしようという会議を百済が中心になって、任那の
:残った構成国が集まって(会議を)開いたと、私は解釈しています。

:ですので、「任那」の面積は、案外広いのではないか、と
:思っています。
48:akaosa:

2024/06/23 (Sun) 00:18:40

当世奇妙様
 コトバンクで「任那」を検索すると、日本大百科全書(ニッポニカ) の井上秀雄氏の解説とともに、小学館の商標のついた図がありました。ありがとうございます。

米田様
ご意見をありがとうございます。
図は白石南花さんご指摘の末松保和氏の「任那興亡史」などをもとにしたもののようですね。

問題は、地名比定の根拠です。地図に活字を置くと、いかにも面積が広そうですが、本来はもっと狭いのではないか。そして、そこに伝承や考古的資料があるのかどうか。
2種類の図を見比べても、ある下敷きがあり、それに付け足した感があります。
しかも、栄山江流域の前方後円墳は6世紀前半に集中し、栄山江流域特有の甕棺墓は7世紀まで存続するのに、百済領域とされており、いい加減な気がします。


47:米田 :

2024/06/21 (Fri) 15:44:06

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718952247.png (一部省略して、再掲します。)

Re: 「栄山江流域」=任那 説 - 米田
2022/12/30 (Fri) 22:11:02


│「栄山江流域」=任那 説 - akaosa
│2022/12/18 (Sun) 11:27:46 

│「栄山江流域」とは、韓国考古学における
│歴史的文化区分であり、洛東江流域、利根川流域の
│ような地理的名称ではありません。

│1「栄山江流域」を特徴づける考古資料(遺物・遺構)

│以上のような考古資料から類推されるのは、「栄山江流域」とは、
│史書にある「任那」ではないか、ということです。
│このことについて、検証を試みたいと思います。


***********************

:「韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇」(中央公論社)
:監修:森浩一  著者:東潮、田中俊明    P-16より

南遷と再興__強まる王権
~。
熊津時代の始まりである。漢城時代の基盤を失った流転の政権であり、
当初は王権も安定しておらず、また同時にそれまで勢力を持っていた
解(ヘ)氏・真(チン)氏も、基盤を失っての移住であったから、云々。
479年、云々。
このころ熊津地方に基盤があったとみられる新興貴族 沙(サ)氏・
ペク氏・燕(ヨン)氏が旧勢力にかわって台頭してくる。

泗沘への遷都
(北方・中方・東方・西方・南方の五方)‥、方にはおよそ10郡が属し、
郡には郡将を3人派遣した。これはさきの22檐魯(チヨムノ/たんろ)制
を発展させたもので、のちには地方も五部に分けられた。
(南方は、久知下城:くちは)

***********************

投稿図は、任那の領域を示した図です。出典は、
山田宗陸訳、原本現代訳:日本書紀(中)、ニュートンプレス発行です。

:これ(任那の縮小)は、定説になっていると思っていました。
:系図ばかり扱っていたので、私はその他については疎いのですが、
:「栄山江流域」は、512年に、割譲した4県の流域であることは
:今、確認しました。
46:白石南花:

2024/06/21 (Fri) 14:31:33

末松保和の任那興亡史が元ですかね。
45:当世奇妙 :

2024/06/21 (Fri) 12:08:44

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)について
です。
44:akaosa:

2024/06/20 (Thu) 21:56:44

3 熊津とクマナリ
 『三国史記』百済本紀の文周王の条に
「文周王〈或作汶洲。〉蓋鹵王之子也。…高句麗來侵,圍漢城。蓋鹵嬰城自固,使文周求救於新羅,得兵一萬廻。
麗兵雖退,城破王死,遂卽位。性柔不斷,而亦愛民,百姓愛之。
冬十月,移都於熊津。
二年春二月,修葺大豆山城,移漢北民戶」 *<>は注。以下同じ。
とあり、文周王(汶洲王)は熊津を都としたと記している。

 これに対応した記事が『日本書紀』にある。
雄略紀廿一年春三月条
「天皇聞百濟爲高麗所破。以久麻那利賜汶洲王。救興其國。
時人皆云『百済国雖属既亡聚憂倉下。実頼於天皇。更造其国』
〈汶洲王蓋鹵王母弟也。日本舊記云。以久麻那利賜末多王。盖是誤也。久麻那利者任那國下哆呼利縣之別邑也〉」。

 久麻那利(クマナリ)の古訓はコムナリで、汶洲王に賜った。時の人は皆「百済国はその属が既に亡び、衆が倉下(ヘスオト)で憂いていると雖も、実に天皇を頼り、また其の国を造った」という。

このクマナリは熊津と対応する。
「日本旧記」の引用部分はどこまでか判然としないが、コムナリは任那国のアロシタコリ県の別邑とあり、錦江周辺に任那国の一部があったと認識されていたことになる。

 また、この記事に従えば、百済と「天皇」の関係は深く、漢城を落ちのびた人々を救うために、任那の一部を割譲したことになる。

 なお、『三国遺事』の文周王の記事に「移都熊川」とあり、熊川は『日本書紀』に次の記事がある。
 継体紀廿三年四月是月条に
「遣使送己能末多干岐并詔在任那近江毛野臣「推問所奏和解相疑」。
於是。毛野臣次于熊川〈一本云。次于任那久斯牟羅〉…
自熊川入任那己叱己利城」
とあり、熊川クマナレは一本に任那のクシムラとあるほか、毛野臣は熊川から任那のコシコリ城に移るなど、いずれも任那と関わる。   続く
43:akaosa:

2024/06/15 (Sat) 22:10:43

当世奇妙様

添付の図の出典は何でしょうか。
このような変遷となる根拠を知りたいです。
42:当世奇妙 :

2024/06/13 (Thu) 11:06:12

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718244373.png 任那の範囲は時代によって変化しますね。
立場(倭国の立場か否かなど)によっても変わります。
広義の任那ですか?
添付の図のようでしょうか?
41:akaosa:

2024/06/13 (Thu) 10:41:10

当世奇妙様

このスレッドの発端は、三国時代の朝鮮半島で、なぜ、韓国考古学が「栄山江流域」という地理的名称で呼ばなくてはならないほどの独自固有の文化を持ちながら、その地域の名称が史書に登場しないのか、ということです。

そのうえで、この地域の名称の可能性が高いのが「任那」ではないか、というのが立論の主旨です。

今回、日本書紀を詳しく読んでいくと、聖明王が任那日本府や任那執事に向かって、任那再建の方策を相談している詳細な記事が何回か出てきました。これは、何を意味するのか、というのが、「二つの任那」論です。

ご質問の「渡来人」「渡来文化」の発進地は、倭人との混血(韓子)が多く登場するという親近性からみて、任那(栄山江地域)以外の地ということになります。

「二つの任那」論は、任那が二か所ある、ということではなく、百済の熊津周辺までを含めた広範囲の地域が、当時は任那と認識されていた、というのが結論になると考えています。
40:当世奇妙 :

2024/06/06 (Thu) 16:25:45

akaosaさんのこのスレッドの主旨は「渡来人」「渡来文化」の発進地はどこかでしたよね。加耶ではなく「栄山江地域」と言うことでしたね。

任那が二か所あると渡来人の出所はどうなるとの考えですか?
39:akaosa:

2024/06/05 (Wed) 12:24:58

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1717559618.png 一年半も過ぎてしまいましたが、その間、日本書紀の任那関連記事を少しづつ読んでいました。その過程で、任那は二つの意味で使われているのではないかと気づきましたので、以下に、まとめたものを何回かに分けて載せます。

 『日本書紀』における二つの「任那」論

 日本書紀には「任那」が、垂仁紀の「弥摩那」を含めて220個[崇神2、垂仁3、応神2、雄略6、顕宗4、継体16、宣化3、欽明133、敏達9、崇峻4、推古29、舒明1、皇極1、孝徳7。神功紀は0]ある。群を抜いて多いのが欽明紀の133個(全体の6割)であり、百済聖明王の時期と重なる。
 任那には、日本府の「任那」と聖明王のいう「任那建国」という二つの任那があることに気づいたので、以下に検証する。 

1 百済の都の流転
 百済の王都は漢城(現ソウル)から熊津(現公州市)、さらに泗沘(現扶余郡)へと移動する。その経緯を概観する。
 371年、近肖古王は高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させた。
 その後、広開土王碑文によれば、391年以来倭が海を渡り勢力を持っていた。396年に高句麗は百済を服属させた。399年に百済が倭国と通じたため、翌400年に新羅から倭軍を追い出し、404年には帯方に侵入した倭を退け、407年に百済へ出兵して6城を奪った、という。
 475年、高句麗の長寿王が漢城を包囲し、蓋鹵王を捕えて殺害。この間の事情は、雄略紀廿年冬条や蓋鹵王廿一年九月条(『三国史記』百済本紀)に記されている。
 救援を求めて新羅に派遣されていた王子文周が戻った時には漢城は陥落しており、翌月、熊津(現忠清南道公州市)にて百済王に即位。兵官佐平の解仇が実権を握り、477年に解仇により暗殺された。13歳の太子三斤が即位したが、実権は解仇が握った。その後、真氏により解仇は排除された。
 479年に三斤王が死去し、東城王(在位479-501年)が即位。
 501年に東城王が暗殺され、武寧王(在位502-523年)が即位。
 523年に没した武寧王の跡を継いだ聖王(聖明王、在位523-554年)は、538年に都を熊津から泗沘シビ(現・忠清南道扶余郡)に遷し、国号を南扶余に変えた。

2 百済の熊津時代の実態
 熊津は錦江支流の済民川周辺の狭隘な空間であり、錦江に面して公山城[北側は錦江に接し、東西に800m、南北に400mの長方形をなす。熊津城とされ、高麗時代から公山城と呼ばれる。従来は土城だったが、李氏朝鮮時代に石城に改築された]が、その西方に王陵区域である宋山里古墳群がある。60年余り百済の都であったが、王宮の位置さえ考古学的には検出されておらず、漢城や泗沘で確認されている羅城が存在した可能性はほとんどない[韓国考古学会編『概説韓国考古学』同成社2015(二刷)p260-261]。
 『三国史記』百済本紀の三斤王二年条に「二年,春,佐平解仇與恩率燕信聚衆,據大豆城叛。王命佐平眞男以兵二千討之,不克。更命德率眞老,帥精兵五百,擊殺解仇。燕信奔高句麗,收其妻子,斬於熊津」(佐平解仇と恩率燕信が反乱を起こしたので、佐平眞男に命じて兵二千で討つが克てず。更に德率眞老に命じて精兵五百を帥いて鎮圧した)とあり、当時の百済の兵力が敵味方あわせて四、五千ほどと推測でき、それから40年、2世代を経ても大規模な土木工事などを控えざるをえなかったと考えられる。
 ちなみに、解仇が根拠地とした大豆城は、文周王が熊津に入る際に修復した大豆山城で、王宮であったと思われる。混乱した時期に血筋だけで王権が維持できたかどうか。三斤王を継いだ東城王の出自は『南斉書』に詳しく、『梁書』は簡素で、『三国史記』はそれらを批判し異を唱えている。『日本書紀』の「昆支之子」は『三国史記』も踏襲し、『三国遺事』はそれを言い換えている.

<参考>
『南斉書』(蕭子顕489-537撰)は長いので省略。

『梁書』(姚思廉 ?-637撰)「宋元嘉中,王餘毘;並遣獻生口。餘毘死,立子慶。慶死,子牟都立。都死,立子牟太。齊永明中,除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王」。*牟太(大)は東城王にあたるが、牟都などは不明。

『日本書紀』(720年成立か)雄略紀廿三(479)年四月条「百済文斤王薨。天皇以昆攴王五子中。第二末多王幼年聡明。勅喚内裹。親撫頭面誡勅慇懃。使王其国。仍賜兵器。并遣筑紫国軍士五百人。衛送於国。是為東城王」。

『三国史記』(1145年金富軾撰)百済本紀
「東城王,諱牟大〈或作摩帝〉。文周王弟昆支之子。膽力過人,善射,百發百中。三斤王薨,卽位」。
 東城王末文の注に「〈『冊府元龜』云、南濟建元二(480)年,百濟王牟都,遣使貢獻。詔曰「寶命惟新,澤被絶域,牟都世蕃東表,守職遐外,可卽授使持節都督百濟諸軍事、鎭東大將軍。」又永明八(490)年,百濟王牟大遣使上表。遣謁者僕射孫副,策命大襲亡祖父牟都,為百濟王,曰「…行都督百濟諸軍事、鎭東大將軍、百濟王」
而《三韓古記》無牟都為王之事。又按牟大,盖鹵王之孫,盖鹵第二子昆支之子,不言其祖牟都,則《齊書》所載,不可不疑〉」  

『三国遺事』(僧一然1206-1289の私撰)「東城王、名牟大。一云麻帝。又余大。三斤王之堂弟。己未立。理二十二年」。 *堂弟:いとこ。
   続く
38:akaosa :

2023/01/12 (Thu) 23:55:34

1月10日の白石南花さんの、任那に関する考察、1月11日の石見介さんの、地名移動に関するご意見は、非常に示唆に富んでいて、刺激になります。ありがたいです。

朝鮮半島に関する考古資料として、時代は遡りますが、支石墓の分布が人の動きのヒントにならないかと思い調べています。半島では広域に分布していますが、それでも濃淡はあります。列島では九州西北部が分布の中心です。
37:石見介:

2023/01/11 (Wed) 23:32:18

 私は、中高校生時より、世界史の「ゲルマン民族の大移動」に興味を持ち、その関係の本を読み、一方で、日本人、日本民族の形成史にも、興味があり、民族の根幹を為す「日本語の起源、形成史」の本も、そこそこ読んでいました。但し、語学の才能はないので、日本語で書かれた一般向けの、日本語起源論を、読むしかありませんでした。
 医学部に進学した事もあり、自然人類学(形質人類学)にはそれなりの関心を持ち、その後の分子人類学から遺伝人類学の成果には、強く影響され、その成果を無視した歴史学は、成立し得ないとさえ、感じています。

 大学卒業時に読んだ古田武彦氏の『邪馬台国はなかった』が、私の日本古代史に関する興味の点火薬となり、以後、邪馬台国問題から、騎馬民族征服王朝説など、日本古代史が、主要な関心事になり、ずっと続いています。

 欧州の民族移動史の知識から、騎馬民族説も、最初は、その東アジア版と思い、受容していたのですが、その後、種々の本を読むようになり、現在では、否定的に考えています。勿論、古代に、民族移動が無かったというのではなく、江上波夫氏の言うような、扶余系の騎馬民族の征服王朝が、日本の大王家になった、という部分について、否定的に考えるようになったのです。
 支配層の一部、中臣⇒藤原氏などは、或いは、渡来系の可能性を、考えています。

 同時に、ユーラシア大陸の東西で、時期的に同期するか、多少ずれて、民族移動があり、それが、古代の東アジアの諸民族や国家の興亡と、関連がある、と考えています。
 日本は、島国なので、イギリスが参考にはなるが、泳いで渡れる英仏海峡と、海流の流れる日本と半島の交通事情の相違は、意外に大きい、と感じています。

 あと、違和感があるのは、「民族移動」について、欧州の例から考えると、「地名の移動」その他が、当然考えられるのに、東アジアの満州や特に半島で、余り、それを意識した考察が多くない、と感じる事があります。
 何故か、半島などの地名が、ずっと長く継続していた、という、私から見れば、文献で確認されない限り、単に「錯覚」に過ぎない、と思えるのですが、そのあたりが、余り厳密ではないように、思われます。
 ローマ帝国、キリスト教関係の修道院、教会関係の記録が整備されている欧州の事例で、種族、部族の移動によって、地名が変わり、同一、或いは同源の地名が、移動する。
 同じように半島の地名も、時系列で、移動・変容しているのが、当然だと私には、思えるのですが、文献に記録された地名、あるいは、種族が、先験的に、同じ地域に、永く「固定」しているように、捉えられている。文献に記録された時点から、どのくらい前まで、遡り得るのかは、個々に検討を要し、文献が無い場合、決定できない場合は、留保せざるを得ない。

 このスレッドで問題になる「任那」、「加羅」「伽耶」、「馬韓」「慕韓」、「辰韓」「秦韓」「新羅」、「弁辰」「弁韓」。これらが、『三国志』の時代から、白村江の時期まで、ずっと同じ地域を指していた保証など、全く無い。

『三国志』魏書東夷傳では、「辰韓と弁辰は雑居」と明確に、記載している。この時代、辰韓と弁辰は、領域として、明確に区分出来てはいなかった。
 狗邪韓国≒弁辰狗邪国は、半島南部の「倭地」に進出したからこそ、「倭の北岸」と記載された可能性が、十分にある。

 8世紀半ばの新羅景徳王の地名改名により、漢風地名になる以前の地名が判明するが、その非漢族地名が、何時まで時代的に遡及し得るかは、難問であり、特に、韓国朝鮮語地名は、容易にその年代を、遡及できない。日琉語族系の地名は、おそらく朝鮮語族系の地名より古い時代まで、遡るとは、考えられるが。
 それでも、統一新羅の領域の北方にも、唐代に日琉語族系の地名が、少数ではあるが、残っている。地名だけで、もはや、倭種/倭人は、存在しなかったとは思われるが。
36:akaosa :

2023/01/11 (Wed) 21:04:35

『新羅真鏡大師塔碑銘』について

 白石南花さんに教えていただいたURLで、当碑の拓本と釈文をみました。

 建碑された年は、釈文では「龍德四年歳次甲申四月一日」ですが、拓本では年号部分が切れて判読できません。元号「龍徳」は不明で、歳時「甲申」は924年(後唐の同光二年、高麗の天授(918~)七年)が該当し、URLの高麗大学校海外韓国学資料センターの解説では「新羅景哀王一年(924)」とあります。この王の代で事実上新羅は滅んでいます。

 碑文をみると、真鏡大師は「大中九年十二月十日誕生」とあり、唐の大中九年は855年。諱は審希、俗姓は新金氏、其先は任那王族。その次の「草拔聖枝毎苦隣兵投」は読めませんが、続く「於我國遠祖興武大王」は金庾信とされ、その二十数字の後に「終平二敵(遂に二敵を平ぐ)」とあるので、建国の苦労話と思われます。金庾信は伽耶王家の血を引く金舒玄を父に、真興王の弟の金粛訖宗の娘を母にもつようです(Wikipedia「金庾信」)。

 「終平二敵」に続く「永安兎郡之人」が父親と思われ「克奉三朝遐撫辰韓之俗」(よく三朝に奉え辰韓の俗を遐撫(ながくたもつ)した」とあります。その二十五字後に一字空けて「妣朴氏」と母の記述になります。この一字空けは真鏡「大師」の時に励行されており、母系を重視している印象です。
 
 問題は、大師の「其先は任那王族」とは、おそらく父親の系譜であり、彼は「永安兎郡之人」であることです。あるいは、そこが任那と関わる可能性があるのではないか。
35:白石南花 :

2023/01/10 (Tue) 15:21:44

任那は日本書紀に最も詳しいんですが、任那が他の地域と関連して出てくる例をみると、下記のようになります。

崇神紀六十五年:任那は鶏林の西南にある。
応神紀二十五年:木羅斤資が新羅を討った時にそその国の女を娶って生まれた子が木滿致で、任那にいた。
雄略紀七年:田狹が任那国司に任じられ、その間に妻をとられたので、新羅をたよった。
雄略紀八年:新羅王が高句麗に攻められて、任那王使いを送り、日本府行軍元帥に助けを求める。

ところがこの状況が大きく変わるのが顕宗紀で、顕宗三年に紀生磐宿禰は高句麗と通じ、任那の左魯・那奇他甲背が策謀して、百済の適莫爾解を爾林で殺し、 紀生磐宿禰は帯山城(現在の全羅道北道井邑市)を築いて、東道を守るとしています。
はじめて任那と百済が絡みます。
しかもこの時に、高句麗と結び三韓の王になろうとしたとありますから、百済国の転覆を狙っているわけです。

百済と倭はここまで蜜月の同盟を結んできましたが、このあたりから変調し始めます。
百済と倭国の間には、三国史記にも日本書紀にも、人質をはじめ濃厚な交渉があったのですが、顕宗以降には武烈五年まで其の記述が無くなり、しかも武烈五年には百済は年を経ても貢職を修めていないとして、使者を捕えてしまいます。
いつから関係が冷却したかですが、雄略二十三年に百済文斤王が亡くなった際に、倭国にいた東城王に兵士をつけて即位させていますから、この時までは同盟は健在です。
この年は479年ですが、中国史書によるとこの年に加羅王が朝貢しています。

中国史書の国名は倭や百済の申告によるものでしょうが、前回指摘したように日本書紀もその原史料になる百済系史料からも、この加羅は高霊の加耶であることは明白です。
倭王武の上表文をみると、倭国の南朝朝貢に際して、百済に立ち寄り、そこで船を調達したことがうかがえます。
倭国ですら百済の助力なしには南朝朝貢を果たせなかったのです。
高霊の加耶は地勢的に百済勢力圏ないし、倭の勢力圏を通らずに朝貢できません。
したがって両者のどちらかの嚮導のもとに朝貢したと思われますが、479年に百済の朝貢の記録はなく、倭国の嚮導によるものと考えられます。
ながく479年の倭王朝貢は実際には行われなかったとされていましたが、近年新史料の発見により、朝貢が実際にあったと考えられるようになっています。

倭国は漢城の落城以降、百済に対して優位な立場にあったと思われますが、弱体化した百済に変わって半島南部のパートナーとして、高霊の加耶すなはち加羅を利用しようとしたのでしょう。
とうぜんそれは百済にとって面白いはずはなく、百済との関係は冷却に向かいます。
そしてそれ以降百済は次第に、倭王権の領域を侵食するようになります。
任那が広い意味で、倭王権の及ぶ範囲に使用されるようになったのは、南朝から半島南部の広範囲の軍事権を認められた時からかもしれませんが、それが歴史書に現れたのは、このような領域の浸食がはじまったためであると思います。

漢城落城で弱体化した百済も、東城王武寧王の時代を経て、国力を立てなおし、全羅道南部の内陸部には百済城塞が築かれます。
結果全羅道南部の、慕韓に相当する地域は東西に分断されてしまいます。
この状況を見て、親百済的な政策に転じた倭王権は、まず分断された地域の倭から遠い部分である、全羅道南西部を百済に割譲しようとしたのでしょう。
やがて倭王権は、全羅道南東部に当たる、己汶と帯沙も割譲することになり、百済の支配権は全羅道を覆います。

任那の概念は、本来の金海周辺の地名から、倭王権の及ぶ領域に変化し、しかも時代とともにその領域は変化を続け、任那滅亡後の欽明紀における任那十国などは、広域任那概念の残像ともいうべきものとなっていると思われます。
このように任那は非常に複雑な概念で、特定の地域に比定できるようなものではないと思います。

宋山江流域は、古く四世紀ごろに盟約により、名目上倭王権の支配地域になり、倭の五王の時代には慕韓と呼ばれていましたが、百済との同盟決裂後は、広域の任那の一部とみなされ、六世紀初めには百済領域になったと思われます。
そしてこの領域の前方後円墳において、もっとも面白いのは、倭王権が同地域を放棄した後の六世紀前半になって、その最盛期を迎えたことです。
このことは古代の王権の実像に対して、非常に多くの示唆をもたらすものと思います。

>『新羅真鏡大師塔碑銘』の原文<

下記でいかがでしょう。
http://kostma.korea.ac.kr/viewer/viewerDes?uci=RIKS+CRMA+KSM-WH.0000.0000-20090720.AS_SA_419&bookNum=&pageNum=
http://kostma.korea.ac.kr/dir/list?uci=RIKS+CRMA+KSM-WH.0000.0000-20090720.AS_SA_419
34:akaosa :

2023/01/10 (Tue) 00:31:59

白石南花様

『新羅真鏡大師塔碑銘』の原文

「大師諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國遠祖興武大王鼇山稟氣鰈水騰精握文符而出自相庭携武略而高扶王室▨▨終平二敵永安兎郡之人克奉三朝遐撫辰韓之俗」
をご教示くださり、ありがとうございます。

維基文庫でも見つからないため、出典を教えてくださると助かります。
33:akaosa :

2023/01/10 (Tue) 00:20:41

石見介様

 ご投稿をありがとうございます。

 1月5日の「私も、以前から「任那」は、栄山江流域を中心とした地域であり、且つ、半島南部の倭人/倭種の居住域だろうと考えていました。」
とのご意見に、意を強くしました。

 通説は「任那加羅」=金官伽耶とするため、「任那」が雲散霧消した状態です。そして、考古学的に独自の文化を有する「栄山江流域」だけが歴史的空白地帯であると感じていました。

 ただ、『日本書紀』以外にないに等しい史料上の「任那」と考古学上の「栄山江流域」を結び付けるのは、消去法しかないだろうと考えています。 

 『三国史記』について、
「『日本書紀』に比し、時期的に400年も遅れて成立しています。先行する史料が引用されていても、裏が取れず、安易に信じ込むのは、記紀以上に危険にも思われます。」
というご意見に賛成です。

 5~6世紀の事柄を扱うにしても、2~300年の時代差がある『日本書紀』はいろいろ批判されるのに対し、『三国史記』はあまり史料批判されずに、そのまま用いられているようで、不思議です。

 1月8日の倭王武の上表文に関連して、
「さて、三韓は、馬韓54ヶ国、辰韓12ヶ国、弁韓12か国で、合計78ヶ国になります。海北95ヶ国から、三韓78か国を引いて、17ヶ国が余ります。これらの国々は、「三韓の種」では無い事になります。古アジア語族系の国家を想定する事も不可能ではありませんが、中国史書『三国志』『後漢書』の東夷伝の記事から考えて、これらの17ヶ国は、馬韓や辰韓などが、南で接している「倭」種、倭人の小国群と考えるべきでしょう。」
というご意見、大変刺激的です。
 倭王武は三韓全部のほか、新たな国を平らげたと誇示していることになりますね。
32:米田 :

2023/01/09 (Mon) 10:45:15

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1673228715.png ┌(投稿図の出典情報)

│『アジアからみた古代日本』(新版「古代の日本」)
│田村 晃一 (編集), 鈴木 靖民 (編集)

│内容(「BOOK」データベースより)
│青銅器文化の受容、日本稲作の起源と
│伝来ルートなどを東アジア世界に探る。
│金印授受の意味するもの、中国皇帝と周辺諸国の冊封システムを解明。
│大加耶連盟と百済・新羅・倭、6世紀の東アジアの国際情勢とは?
│日本律令国家の特質は?
│中国・朝鮮半島諸国の律令法に継受関係を探る。
│登録情報
│出版社 ‏ : ‎ 角川書店; 新版 (1992/5/1)
│発売日 ‏ : ‎ 1992/5/1
│単行本 ‏ : ‎ 446ページ



│Re: 「栄山江流域」=任那 説 - akaosa
│2023/01/07 (Sat) 22:53:48

│だが、「栄山江流域」の考古資料は
│当時の百済とは全く違う文化を示しています。 

│「任那」はどこにあったのか。主題はそこにあります。
│「任那日本府」は役所(官衙?)であり、
│「任那(地域)」とは分けて考える必要があると思います。 


※:私の系図解読の中から、Akaosaさんの意見に近いものを書きます。
_:(同一人物に比定。)

_______牟都________牟大・武寧王__(己能末多干岐)
大伴佐彦──大伴山前──大伴室屋──大伴金村────大伴狭手彦
蘇我石川──蘇我満智──昆支王───蘇我高麗────蘇我稲目
仁徳天皇──大草香王──昆支王───仁賢天皇────宗賀之倉王


(大草香王・牟都)
──上道田狭─┐_文周王___三斤王___東城王__(任那王)
──吉備稚姫─┴─葛城韓媛─稚足姫皇女──末多王──己能末多干岐
_(百済蓋鹵王)


※:「大草香王」は、「蘇我満智」・「上道田狭」とも呼ばれています。
_:(大草香王は、ほかにも色々な名前を持っています。)
_:
_:ここで、注目するのは、「田狭」です。
_:「田狭」は、「帯沙」・「多沙」など、任那の地名です。
_:
_:そこで、次に出てくる名前は、「佐魯麻都(サロマツ)」です。
_:欽明天皇紀によると、韓〔女の〕腹(に生まれたの)だけれども、
_:位は大連の居り、日本の執事の間にわりこみ・・・。
_:この時代の「大連」は、物部尾輿(と、大伴金村)です。
_:
_:私の考察では「佐魯麻都(サロマツ)」=「稲目」=「尾輿」です。
_:今、気になっているのは、下記の「佐魯縣」です。
_:今までは、新羅を表す「斯蘆(さろ)」のことかと思っていたのです
_:が、さらにいうと、「蘇我稲目」=「新羅の銅輪」にしていました。
_:白石南花さんの投稿(「佐魯縣」)を見て、驚いているところです。
_:(白石南花さん、「佐魯縣」をもう少し解説をお願いします。)
_:
_:私の結論としては、仁徳天皇の子孫は、任那の地名の名前で、
_:呼ばれていることがあるということです。


│『新羅』(ウィキペディアより)
│呼称
│当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」、
│現代朝鮮語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。


*****
Re: 「栄山江流域」=任那 説 - 白石南花 2022/12/27 (Tue) 14:38:54

asaokaさん
>少なくとも、当時の洛東江下流域は金官伽耶が想定されていますが、
 そこを「任那加羅」とする根拠はないと思います。<

私は日本書紀では継体紀の任那四県が、栄山江下流域と関連すると思います。
(省略)
そこで地名の探査となるのですが、対象となる三国史記地理志の地名は、音訓入り混じった複雑なものです。
しかも音は古代朝鮮漢字音、訓は古代朝鮮語ですから、ほとんど解けないパズルです。
上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁について、井邑市の南の古地名を三国史記に探すと、「佐贊縣,本上杜」という地名があることが分かります。
この地名は「古四州,本古沙夫里,五縣」に含まれる県名で、
井邑市に近いことが分かります。
現在の推定地は井邑市の西南西にある興徳市とされます。

この「上杜」の「上」には別名の「佐贊」からすると、
「佐」が対応しそうなのですが、別の例もあります。
三国史記に「佐魯縣,本上老」とあることから、
「上」と「佐」の対応が見て取れるのです。
*****
31:石見介:

2023/01/08 (Sun) 23:32:41

 米田喜彦さんが、倭王武の上表文を、取り上げられたので、タイミング良くコメントできます。

 倭王武の上表文は、畿内大和の大王の征服平定事業を、倭国王権の立場から、中国南朝劉宋に報告し、特に半島南部における軍事管轄権を、要求しています。
 東方の「毛人」、西方の「衆夷」は、列島内の諸国、おそらく前者は、古代日本語東国方言を中心とした地域の国々、後者は、古代日本語九州方言に中四国の中央方言(近畿方言)とやや趣の異なる地域も含んでいたと思われます。5世紀代の古代日本語の方言差やその分布状況は、不明ですが、森博達氏、長田夏樹氏らの、3世紀代の倭人伝語と7世紀の上代日本語のとの同系説は、説得力もあり、他の日本語学者、国語学者からの大きな否定論もなく、5世紀代の列島内西部~中央部の大まかな日琉語族内諸語の分布は、上代日本語の3大方言の分布が、参考になると思われます。

 海北95ヶ国は、勿論、半島中南部の諸国ですが、この「95」は、武の上表時の現実の国数よりも、かつて存在し、当時は既に滅亡したものを含んだ数字だと、思われます。それは倭国王の自称した「都督〈  〉七国諸軍事」の〈  〉内の地域名に、表されています。

 さて、三韓は、馬韓54ヶ国、辰韓12ヶ国、弁韓12か国で、合計78ヶ国になります。海北95ヶ国から、三韓78か国を引いて、17ヶ国が余ります。これらの国々は、「三韓の種」では無い事になります。古アジア語族系の国家を想定する事も不可能ではありませんが、中国史書『三国志』『後漢書』の東夷伝の記事から考えて、これらの17ヶ国は、馬韓や辰韓などが、南で接している「倭」種、倭人の小国群と考えるべきでしょう。

 さて、倭王武は「倭・百済・新羅・任那・加羅;秦韓・慕韓」七国諸軍事を要望し、例によって、百済を除かれた「六国諸軍事」は承認されています。
 三韓の内、馬韓54ヶ国=百済+慕韓、辰韓12ヶ国≒新羅+秦韓、弁韓≒弁辰12ヶ国≒新羅or百済+六伽耶で、新羅や百済に併合されていない弁韓が「加羅」であると考えられます。
 消去法で、残る倭種の海北の17ヶ国が、「任那」という事になります。

 任那が,倭種/倭人の国々であれば、「みまな」という地域名も、当然、倭語、日琉語族の言語で解釈をすべきでしょう。
 「な」は、ツングース語族の「土地、所」を意味する[na,naa」と、おそらく同源の上代日本語の「地」を意味する「な」(古語では、複合語「なゐ(地震)」の「な」で、母音交替形の「ぬ」「の」は「野」に転義)でしょうが、「みま」の部分の解釈は、「御間」「三間」など、種々の解釈の余地が残ります。
 記紀にある大王名、ミマキイリヒコイニヱ、或いは、ミマツヒコなどと、実際に関係があるかは、今後の問題です。
30:米田 :

2023/01/08 (Sun) 17:03:24

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1673165004.png
│Re: 「栄山江流域」=任那 説 - akaosa
│2023/01/07 (Sat) 22:53:48

│だが、「栄山江流域」の考古資料は
│当時の百済とは全く違う文化を示しています。 

│「任那」はどこにあったのか。主題はそこにあります。
│「任那日本府」は役所(官衙?)であり、
│「任那(地域)」とは分けて考える必要があると思います。 


│『上表文(じょうひょうぶん)』(ウィキペディアより)

│倭の五王の最後の倭王武は、宋の昇明2(478年)5月、
│宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。

│「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。
│ 昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、
│ 山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に
│ 遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。
│ 西は衆夷を服すること六十六国。
│ 渡りて海北を平らぐること、九十五国。・・・」



│(晋書・百済伝)
│:百済は、そのはじまりが東夷の三韓国(さんかんこく)
│:〔の中の一国〕である。〔三韓国とは〕
│:一を馬韓、二を辰韓、三を弁韓といった。弁韓と辰韓には、
│:それぞれ12国があり、馬韓には54国があった。(省略)
│:百済も遼西・晋平の二郡の地方を占拠し、みずから百済郡を
│:設置した。
│(晋書・地理志)
│:高雲は幽・冀二州牧を肥如に、幷州刺史を白狼に鎮守させた。



│「任那」はどこにあったのか。主題はそこにあります。

この答は、「日本書紀・仁徳天皇紀」(即位前紀)にあると思います。

誉田天皇41年春二月、誉田天皇が崩じた。(←:時期は、不明です。)

______(銀王)
丹波道主王┬日葉酢媛┐┌大中比売命
_大碓命_└神大根王┴┴誉田別尊──応神天皇─履中天皇─御馬皇子
______彦人大兄_去来真稚皇子_若野毛二俣王_斉__倭王武

************************
『屯倉(みやけ)』(ウィキペディアより) 

屯倉は、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を
表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。

概要
「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では
「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。
「官家」もミヤケと読まれることもあり、後に(云々)。
ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の
倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と
呼ぶようになった。屯倉は、(云々)。大化の改新で廃止された。

屯倉の経営
屯倉制度は、土地支配でなく、地域民衆の直接支配である。管理の
仕方や労働力は多様であり、屯倉の経営は古墳の発達と関係しており、
概観すると5世紀を境に前期屯倉と後期屯倉に分かれている。

前期屯倉は、顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)朝以前にできたと
いう伝承をもつ屯倉であり、その設置地域は、朝鮮半島を除き畿内
またはその周辺部に限られている。たとえば(云々)。

これらの屯倉は大王自らの力で開発され経営された。
たとえば、倭屯倉は、(云々)。
また、屯倉は王室の財産であり、直接支配する土地であった。(云々)

***********************
「ウィキペディア」では、朝鮮半島を除き、と書いてありますが、

「Re: 「栄山江流域」=任那 説 - 米田 2022/12/30 (Fri) 22:11:02」の
投稿図の範囲は、「武」の曾祖父に当たる「誉田別尊」が、直接
支配した処(地域)になります。

ですので、「任那」は、(半島における)倭の大王の直轄地だった。
で、よろしいかと思います。(日本書紀の建前では、「天皇」に該当。)

ちなみに、倭王武は、「御馬皇子(新羅智證王:437年生)」に
(私は)特定しています。
29:白石南花 :

2023/01/08 (Sun) 16:13:20

>については、加羅が浦上八国に襲われ、六千人も捕虜になったので、新羅に救援を求めた記事であり、つぎの伽耶が王子を質に出したのは、加羅の様子をみて、浦上八国のような外敵から守ってもらうため、と考えられませんか。<

そうするとそれまで全く関わりのなかった、加羅の王子が突然新羅に救援を求め、その後は全く関わりを持たず、しかもなぜか加耶の王子が人質に来たのでしょうか。
しかもその加羅が日本書紀にも、中国史書にも盛んに出てくるのはどうしてでしょう。
日本書紀では加羅は新羅と関わりを強く持っているのです。
あまりに不自然でしょう。

>「伽耶」は『日本書紀』のみならず、中国史書にも出てきません。おそらく、「国」としての外交をしなかったのかと思います。<

半島南部で重要な政治勢力として扱われているものが、そこへ進出していた倭王権と没交渉というのはあり得ません。

>「加羅」の場合、『南齊書』列傳 東南夷 加羅に、「加羅國三韓種也。建元元(479)年、國王荷知使來獻」とあり、「輔國將軍本國王」が可授されています。ただ、「本国の王」とあり、国名が明記されていません。<

加羅國三韓種とあって、これは三国志の三韓を受けたものでしょう。
半島南部に三韓があって、三国史記では新羅百済に対する加耶があるのですから、加耶と加羅が混用されているとみるべきでしょう。
しかもその三国史記地理志には、「古金官國一云伽落國,一云伽耶」ともあるのです。
疑う余地ありません。

日本書紀には、加羅と南加羅の二つの加羅が出てきます。
南加羅は継体紀に継体二十一年には、新羅に滅ぼされていたとあり、三国史記では大加耶が滅んだのは、眞興王二十三年となっています。
紀年を信ずれば南加羅の滅亡は527年、大加耶が滅んだのは三国史記年表によれば562年、三国史記地理志によれば、この時滅んだ大加耶は新羅の高霊郡となっていますから、区別のために高霊の加耶と呼んでおきます。
日本書紀によると、加羅王は百済への多沙津の割譲を、倭国への朝貢路であるとして拒んでおり、この多沙津は三国史記地理志の、「河東郡本韓多沙郡」との記述から、地理的に考えて日本書紀の加羅は高霊の加耶でしょう。
日本書紀の南加羅はそれより南で、新羅や倭との関係の深さから考えて、金海中心の地区となります。
三国史記地理志には下記のようにあります。

「金海小京,古金官國一云伽落國,一云伽耶,自始祖首露王至十世仇亥王,以梁中大通四年,新羅法興王十九年,率百姓來降,以其地爲金官郡,文武王二十年,永隆元年,爲小京,景德王改名金海京,今金州 」

法興王十九年は532年で、三国史記では法興王「十一年,秋九月,王出巡南境拓地,加耶國王來會。 」とあります。
実質的には法興王十一年524年には、金海は新羅勢力下にあったのでしょう。

三国史記では加耶は区別されることなく、金海や高霊を含む地域を指すようです。
その中心はある時までは、金海である時期からは高霊になっていると見えます。

>なお、『新羅真鏡大師塔碑銘』の原文をご存知でしたら、<
「大師諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國遠祖興武大王鼇山稟氣鰈水騰精握文符而出自相庭携武略而高扶王室▨▨終平二敵永安兎郡之人克奉三朝遐撫辰韓之俗」

別稿にしますが、任那は雄略紀あたりまでは、金海の加耶をあらわし、その後倭王権の及ぶ広域の意味に転じていると思われます。
28:akaosa :

2023/01/08 (Sun) 00:17:12

白石南花様

 いろいろご指摘をいただくおかげで、文献に向き合うことができ、感謝しています。

 「伽耶」は『日本書紀』のみならず、中国史書にも出てきません。おそらく、「国」としての外交をしなかったのかと思います。

 「加羅」の場合、『南齊書』列傳 東南夷 加羅に、「加羅國三韓種也。建元元(479)年、國王荷知使來獻」とあり、「輔國將軍本國王」が可授されています。ただ、「本国の王」とあり、国名が明記されていません。

 新羅と伽耶について、
 ご指摘の「奈解尼師今六年の和を請うた話は、新羅本記で加耶と新羅が和を結んだ初めてのケースです。そこまでの全てが、加耶と新羅の争いの話になります。例えば奈解尼師今六年の直前の加耶の記事は下記のようなものです。
祇摩尼師今五年秋八月,遣將侵加耶,王帥精兵一萬以繼之。加耶嬰城固守,會久雨,乃還。」

について、例示をみる限り、新羅に和を求めたのは、伽耶が侵される立場であったからだと思います。

 ついで、「つまり加羅の記事は、加耶と新羅が争いをやめて初めて和を結んだ後、新羅が加羅王子の要請で加羅を助けた話で、その次にあるのが加耶王子が人質として送られてきた話なのです。」

については、加羅が浦上八国に襲われ、六千人も捕虜になったので、新羅に救援を求めた記事であり、つぎの伽耶が王子を質に出したのは、加羅の様子をみて、浦上八国のような外敵から守ってもらうため、と考えられませんか。

 『三国史記』は正史の扱いであり、「原史料の加羅が紛れ込んでしまった」のを、金富軾がそのまま放置したとは思えません。

 なお、『新羅真鏡大師塔碑銘』の原文をご存知でしたら、教えていただけませんか。検索しても出てきませんでした。
27:石見介:

2023/01/07 (Sat) 23:19:21

 『三国史記』という史書は、正史ではあるが、12世紀という、日本側の正史『日本書紀』に比し、時期的に400年も遅れて成立しています。先行する史料が引用されていても、裏が取れず、安易に信じ込むのは、記紀以上に危険にも思われます。
 
 その3本紀中、最も詳しい新羅本紀は、王家たる慶州金氏の末裔金富軾が、撰者でもあることから、慶州金氏の事績は、記紀における大王家=天皇家同様に、修飾されていると思われます。
 『三国史記』は、統一新羅末期の後三国時代の、高句麗後継を称した、王氏高麗の時代に成立し、王氏は新羅王家との姻戚関係を結び、三国⇒統一新羅⇒王氏高麗を,正統とする史観が基本となります。
 結果、百済は、新羅や高句麗よりも、貶めて扱われる傾向が、生ずる様に思われます。

 金富軾は、中国史書を十分に読み込んでいますが、それは、日蝕等の天文記事が、新羅本紀等の記事に引用され、おそらく記紀同様年次を遡及させた初期の王たちの「年代」に信憑性を与える効果も、計算されていたと思われます。
 その為、『三国史記』新羅本紀の法興王以前の記録は、記紀の応神仁徳以前同様の、慎重な取り扱いが、必要だと思われます。

 慶州金氏も、何時から金氏を称したのかも不明で、おそらくは、金官国の金海金氏と縁戚となり、金氏を称した可能性が高く、法興王は、慕(募)泰(秦)、即ち、馬韓出自の氏族であったのではないか?と思われます。
 倭国の王や王族が、中国に対して、「倭讃」「倭隋」のように称し、高句麗の王は,「高」氏を称し、扶余の王族の後裔を称する百済王家は、「扶余」、又は「余」を称する。
 このような、王家が、国号(漢風国号)の一部または全部、或いは出自種族の名称を称するのは、一般的な法則であり、金官国の王族が、「金氏」を称するのは、極めて妥当であり、金海金氏が慶州金氏より先に,称姓したと思われます。
 新羅等の辰韓諸国は、辰王に支配下にあり、辰王は馬韓の目支国にいた。辰韓諸国に、馬韓出自の支配者が送り込まれ、王となるものもいたでしょう。
 新羅3王姓の最後の慶州金氏は、実際は、馬韓出自の氏族であり、それ故に、最初に中国に朝貢した王は、「慕韓」(馬韓諸国の内、百済に属さない諸小国が、慕韓と称された)の「慕」を、姓としたのではないか?
 後に、金海金氏が、中国の少昊金天氏に出自を求めた事もあり、新羅王家も、金氏に呼称を変えたのではないか?

 逆に、扶余隆の墓誌にある「百済辰朝」という、辰王と百済王家の関連を思わせる所伝は、新羅に不都合なため、抹消された可能性も考えられます。
 百済王家の血統も、扶余王尉仇台、高句麗王朱蒙と、諸説あるが、一系ではなかった可能性もある。
26:akaosa :

2023/01/07 (Sat) 22:53:48

米田様 

いろいろ調べていただきまして、ありがとうございます。
加羅と伽耶の近似性からか、「任那加羅」を一地域として伽耶にみることの学問的根拠が問題なのです。

『宋書』の倭の五王の六国諸軍事に含まれる「任那加羅」は、必ず「任那」と「加羅」に分けます。これは、当時の倭と南朝宋の認識であり、広開土王碑とほぼ同時代です。

そして、学者が「伽耶」に注目すればするほど、異質ながら豊かな考古資料のある「栄山江流域」が歴史的な空白地帯になっていくのです。ただ、漠然と「百済の一部だろう」くらいにしてお茶を濁しています。

だが、「栄山江流域」の考古資料は当時の百済とは全く違う文化を示しています。

そして、それは新羅中心の史書である『三国史記』からみれば当然なのです。三国を統一するまでは新羅から最も遠い地域であり、おそらくほとんど交渉がない地域であったでしょう。

「任那」はどこにあったのか。主題はそこにあります。
「任那日本府」は役所(官衙?)であり、「任那(地域)」とは分けて考える必要があると思います。

25:米田 :

2023/01/07 (Sat) 15:44:28

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1673073869.png
│Re: 「栄山江流域」=任那 説 - 白石南花
│2023/01/06 (Fri) 14:16:29
│三国史記の加耶と加羅について調べてみました。

│つまり加羅の記事は、加耶と新羅が争いをやめて初めて和を結んだ後、
│新羅が加羅王子の要請で加羅を助けた話で、その次にあるのが
│加耶王子が人質として送られてきた話なのです。
│どうみても加羅は加耶をめぐる一連の文脈の中にあります。

│おそらく三国史記は、用語を加耶に統一しようとしたのでしょうが、
│この一文のみ原史料の加羅が紛れ込んでしまったと考えられます。


「浦上八國」を調べようと、ネット検索をしたら、
下記の掲示板(投稿)を見つけました。
(地図もあって、読みやすかったです。)


│KJCLUB - 浦上八国の戦争
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/3466475 
│ウェブ古代の韓国は本来盟主である 目支国と 4個の 臣智国が
│統治する国家だった.新羅と百済はその下に属している 小国だった.
│目支国の統治体制が崩壊さ...  メル友 掲示板 フォー …
│*****
│浦上八国の戦争 ライター 3 booq 作成日2022-01-18 01:44:07 参照189

│三国史記には 209年‾212年に起こった戦争だと記録するのに,
│三国史記初期新羅の年代は不正確なのが多い.

│最小 目支国の滅亡後, 3世紀後半, 4世紀にあった戦争だと思う.


<209年頃に、韓半島南部で何が起きていたか。>

(高句麗本記:209年、春3月)‥(カッコは、私個人の解釈です。)
:王后(卑弥呼)は、王が酒桶村の娘を寵愛したことを知って、
:嫉妬し、ひそかに兵士を派遣してその娘を殺そうとした。(云々)

(新羅本記:209年、秋7月)
:浦上の八国が連合して加羅(韓・カラ:金海)を侵略しようとした。
:加羅の王子(助賁王)が救援を求めてきたので、王は太子の
:于老(赤ん坊)と伊伐湌の利音(婆娑王の子・猪手:朴堤上の祖先)
:とに命じ、云々。
:(:赤ん坊を追加する手口は、記紀にもよく使われる手口です。)

(三国志高句麗伝)
:建安年間(196~220)、公孫康は軍を派遣して〔高句麗を〕討ち、
:その国を破り、邑落を焼き払った。抜奇(伐休王・手研耳命)は、
:(卑弥呼の)兄でありながら王になれなかったことを怨み、
:涓奴〔部〕の加とともに、云々、〔公孫〕康のもとに詣り降伏した。
:(云々。)伊夷模(卑弥呼)は場所を移して新しい国を建てた。
:(:卑弥呼は、纏向を都として、後漢書の「拘奴国」を建国した。)

*****
<209年頃に、韓半島南部で何が起きていたか。>

系図を作っている時に、「高句麗の抜奇=新羅伐休王=手研耳命」
であることに気が付きました。

高句麗は、魏の時代・晋の時代に、北部系の部族は、滅んでいます。
そして、(倭国を含む)南部系の高句麗人が、高句麗を再建・発展
させていきます。

ですので、三国史記と記紀を合わせて読むと、
この時代のことが見えて来ます。

*****
加耶王子・加羅王子など、人物の特定は、私も自信は、ないです。

「カラ(韓)」は、(広義として)朝鮮半島南部を指す言葉。
「カラ(加羅)」は(狭義として)金海付近を指す言葉。

「伽耶」は、解氏の「烏孫公主」と孫が、土地を貰って所有した領地で、
女系の「正見母主(天照大神)」を始祖として、「伽耶山」を
「心のふるさと」にしている、母系の強い支配集団と見ています。

「貊(ハク)」は、(于氏の)「朱蒙」を始祖として、「金剛山」を
「ふるさと」としている(日本では、阿波忌部氏の)集団です。

「金氏」は、帯素の従弟を始祖とする集団で、「金首露(大国主命)」
の子孫は、日本の天皇家や新羅王の大半を占めています。
(以上、私見です。)

PS:
:掲載図は、自作の系図です。
:三国志の時代の、「有名人」の相関図になります。
:だいたい(系図的に)網羅していると、思います。
24:白石南花 :

2023/01/06 (Fri) 14:16:29

三国史記の加耶と加羅について調べてみました。

新羅本紀の加耶の出現場所
脫解尼師今二十一年
婆娑尼師今八年、十五年、十七年、十八年、二十七年
祇摩尼師今四年、五年
奈解尼師今六年、十七年
照知麻立干三年、十八年
法興王九年、十一年
眞興王十二年、二十三年
文武王八年、二十年
哀莊王三年

新羅本紀の加羅の出現場所
奈解尼師今十四年

もしも加耶と加羅が使い分けられているのなら、加羅はほとんど存在感のない、前後の脈絡のない存在です。
これが日本書紀や中国史書で、大きな意味を持つ存在になるとは考えられません。

加羅の出現の前後をもう少し細かく見てみると下記のようになります。

奈解尼師今六年,春二月,加耶國請和。
奈解尼師今十四年,秋七月,浦上八國謀侵加羅。加羅王子來請救。王命大子于老與伊伐飡利音,將六部兵往救之。擊殺八國將軍,奪所虜六千人,還之。
奈解尼師今十七年,春三月,加耶送王子爲質。

奈解尼師今六年の和を請うた話は、新羅本記で加耶と新羅が和を結んだ初めてのケースです。
そこまでの全てが、加耶と新羅の争いの話になります。
例えば奈解尼師今六年の直前の加耶の記事は下記のようなものです。

祇摩尼師今五年秋八月,遣將侵加耶,王帥精兵一萬以繼之。加耶嬰城固守,會久雨,乃還。

つまり加羅の記事は、加耶と新羅が争いをやめて初めて和を結んだ後、新羅が加羅王子の要請で加羅を助けた話で、その次にあるのが加耶王子が人質として送られてきた話なのです。
どうみても加羅は加耶をめぐる一連の文脈の中にあります。

おそらく三国史記は、用語を加耶に統一しようとしたのでしょうが、この一文のみ原史料の加羅が紛れ込んでしまったと考えられます。
23:石見介:

2023/01/05 (Thu) 19:52:43

 akaosaさん

 私も、以前から「任那」は、栄山江流域を中心とした地域であり、且つ、半島南部の倭人/倭種の居住域だろうと考えていました。
 akaosaさんが、このスレッドを立ち上げられた時に、直ちに、その旨書き込んだのですが、入院中でタブレットから、投稿できず、皆さんのコメントを拝読する事しか出来ませんでした。

 私は、「加羅」と「伽耶」については、基本的に同じ地域を指し、「加羅」は日琉語族系の語彙で、「伽耶」は朝鮮語族側の呼称という相違があり、同時に、「加羅」と「伽耶」の史料への出現時期、頻度等から、当該地域の住民の交替もしくは、言語の置換があっただろうと考えています。

 上代日本語からは、「から」と「かや」という語彙の混同は、考え難いが、半島側の朝鮮語族では、「ら」「な」「や」という音韻の弁別が、明確だったとは思われない。現代の韓国朝鮮語でも、語頭子音の流音(r/l)は、[n」音になるか、脱落する。
 人名の盧泰愚などは、「ノ」になるし、李承晩の「李」は「イ」になる(北朝鮮では「リ」の発音らしいが)。
 渡来系の人々では、「安蘿」の地が、「あら」「あや」「あな」のように、日本語では、3通りの音価を採り得る。それを、日本語でも同様であったと即断している人々が存在し、結果、任那と加羅の区別が、曖昧化した学説が、主流になっているのではないか?
 私には、そのように思えます。
 『三国史記』を読む限り、編者の金富軾は、基本的に、「伽耶」を使用し、加羅の使用は、例外的だと考えるべきだと私には、思えます。
 地名の意味する範囲が、広域、或いは、隣接するが異なった領域をを意味したり、かなり離れた複数の地域を時期によって指す場合が有ったりするのは、民族移動などがあった場合、よく見られる現象であり、それが、先住者や更なる後来の移住者の言語の影響で、微妙に変容するのも、欧州のゲルマン民族の大移動時に、観察された、ありふれた現象でもあります。

 「加羅」と「伽耶」の相違が、言語差が主として反映しているとすれば、「任那」と「加羅」「伽耶」は、明確に、音韻が異なり、これが同時期に、使用された場合、その地名の命名者の問題は別にしても、異なった地域名(重複の可能性等は、ある)である事は、自明のように思われます。
 「任那」が、日琉語族側の名称であると思われる「加羅」と同時期に現れ、同時代資料たる高句麗広開土王碑文で、倭と関連付けて現れる以上、「任那」も、「加羅」同様、日琉語族の話者が、命名者と想定され、「みまな」は日琉語族の言語として、解釈されるべき語彙となります。
 これは、所謂「高句麗地名」の解釈と同じで、地名より再構された「高句麗語」なる語彙群の多くが、現在では、多くの言語学者が、「高句麗語」ではなく、日琉語族に属する一言語の語彙群だと見做すのと同じ、視点になります。

 しかし、悩ましい事に、継体紀に現れる百済に割譲された任那4県の名称は、どうも上代日本語で簡単に解釈出来たり、列島内に、類似地名がある、というものではない。そうなると別な説明が必要だが、どうもよい解釈が思い浮かばない。
 古アジア語族系の別な種族の存在が、あるのか、ご都合主義で非論理的な思考は、採りたくはない。
 袋小路に入って、抜け出せない状況です。
22:白石南花 :

2023/01/05 (Thu) 18:21:20

強首伝については、この人物は七世紀後半から、八世紀前半の人物で、すでに歴史時代の人であり、同時代に文献に記録されたものが原史料になっていると思われます。
これを含めて、朝鮮系の史料に任那が現れる例は、好太王碑と新羅時代祭末期十世紀前半の、新羅真鏡大師塔碑銘がありますが、後者では新金氏其先任那王族とります。
新金氏とは、新羅が金官伽耶を併合して後、新羅政権中枢に迎えられた一族で、すでに新羅に金氏がいたため、新金氏となっています。
その碑文にもとは任那の王族とあることからも、金海地域が任那であったと考えられます。

これらのことから、朝鮮半島においても、任那という地名は新羅時代までは使用されており、高麗時代以降の史書からは、排除されたと考えられます。
三国史記の一例は、おそらく原史料からの編纂時に、紛れ込んで残ったものでしょう。

好太王碑の任那加羅に相当する任那加良が史書に見えること、その地名が新羅や安羅とともにあることなどから、金海地区に任那加羅の地名があったことは間違いないでしょう。
唐代の翰苑の記事も、加羅任那の故地が南にあるのであれば、距離はともかく方位的には金海であっています。
辰韓弁辰二十四國と任那加羅慕韓は時代の違う地名であり、慕韓は三世紀の馬韓に当たると思われますから、任那加羅は馬韓ではないことになりこれも合致します。

振り返って日本書紀を見ると、最初の記述が鶏林の西南となっていて、是も金海地区で無理がありません。
日本書紀における任那は、継体紀から欽明紀にかけて急増しており、いわば倭王権の後退に伴って、関心が強まっていることが分かります。
百済との由縁を述べた神功紀には一度も現れません。
おそらくもともとは朝鮮半島で、倭王権と古くからの関係のあった金海地区を中心とした地名であって、それが倭国において次第に国家意識が高まるにつれ、倭王権の関心の及ぶ地域に拡大適用されていったのでしょう。
これをすべて実在の任那としてとらえたのが、末松保和説であると思います。

そのような日本側の国家意識の高まりと、日本書紀における天皇中心の任那の存在が朝鮮側に跳ね返って、高麗時代以降に編纂された史書から、任那の表記が無くなったのではないかと思います。

21:白石南花 :

2023/01/05 (Thu) 17:06:24

>まとめると、『三国史記』本文では、伽耶と加羅は明確に使い分けられており、<

二つの用語が使い分けtられるとは、それぞれの使われる文脈が異なることを言いますが、三例でそれが示せているでしょうか。
一の例も異なる年次の話しであり、単に混ざって使われているだけとも取れます。
しかも三例のうち一つでは、一作伽耶であって、まさに使い分けられていない、単に混在しているだけであることを示していると思われます。
20:米田 :

2023/01/05 (Thu) 13:44:05

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1672893845.gif
│田中俊明先生の説は、任那=金官国のようですが、
│その根拠がどこにあるのか、よくわかりません。


『馬韓(ばかん)』(ウィキペディアより)

:馬韓は、〇〇から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に
:存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、(云々)。
:後の百済と重なる場所にあった地域である。

:馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。
:それぞれの馬韓諸国には首長がおり、(云々)。

:集落に城郭は無く、五十余国が存在した。通説では、
:その内の伯済国がのちに百済になったと考えられている。


『任那(みまな/にんな)』(ウィキペディアより)

:任那(?-562年)は、古代に存在した朝鮮半島南部の地域を指す
:歴史地理的地名。主として『日本書紀』に代表される日本の史料に
:おいて用いられる他、広開土王碑文等に用例がある。一般的に
:伽耶と同一、または重複する地域を指す用語として用いられる。

:領域については、相異なった二つの見方=広義と狭義とがある。

:狭義の任那説
:狭義の任那は、任那地域に在った金官国(慶尚南道金海市)を指す。
:田中俊明や熊谷公男は「金官」の名は『日本書紀』継体天皇23年4月条
:にこの国を構成する4つの邑の1つとして登場することから、
:「金官」の国名を首邑のあった邑名に由来すると説き、本来は
:「任那」と称される邑に首邑があったが、400年の高句麗の侵攻に
:よって本来の首邑「任那」を失って金官に首邑を移したために国名も
:「金官」と変更されたが、日本側では引き続き旧称の「任那」が
:用いられたとする説を唱えている。中国及び朝鮮史料の解釈では
:こちらの用法が多いが、『日本書紀』では532年に金官国が新羅に
:征服されてからも、それ以外の地域が相変わらず任那とよばれて
:いるから『日本書紀』の用法は後述の「広義の任那」である。

:広義の任那
:広義の任那は、任那諸国の汎称である。
:後述の諸史料のうち日本史料では任那と加羅は区別して用いられ、
:任那を任那諸国の汎称として用いている。

:田中俊明は、朝鮮・中国の史料では任那を加羅諸国の汎称として
:用いることはなく金官国を指すものと結論し、『日本書紀』においても
:特定国を指す用法があるとともに、総称としての用法が認められるが
:それは『日本書紀』に独自の特殊な用法だと主張した。
:権珠賢は、日本、朝鮮、中国の金石文を含む23種類の史料における
:任那と加羅の全用例を精査し、任那は特定の小国の呼称ではなく、
:百済にも新羅にも属さなかった諸小国の総称であること、
:任那の範囲と加羅の範囲は一致しないこと、
:任那という呼称は倭国と高句麗による他称であると主張している。
:吉田孝は、『日本書紀』が加羅諸国を総称して任那と呼んだとする
:田中説が一般化したことを批判し、『日本書紀』の任那の用法は、
:「ヤマト」が大和国を指すと同時に倭国全体を指すのと同様に、
:任那加羅(金官国)を指すと同時に任那加羅を中心とする
:政治的領域の全体を指したものであると主張している。

:森公章によると、現在(2015年)は任那は百済や新羅のような
:領域全般ではなく、領域内の小国金官国を指す場合が多く、
:それらの複数の小国で構成される領域全般が加耶と称すという
:学説が有力視されているという。

****************************
┌─────┐
│楽浪郡__│:313年には高句麗に滅ぼされ、云々。
│帯方郡__│:(313年)高句麗は楽浪と帯方郡を征服した。
├──┬──┤
│貊_│_濊│:濊王は、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。
├──┴──┤
│馬│加│_│:馬韓は、部族集団である三韓の一つ。(辰国が支配。)
│韓│羅│新│
│諸│諸│羅│:伽耶(かや)、加羅(から)、または加羅諸国は、
│国│国│_│:洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。
└─┴─┴─┘
(三国志韓伝):辰韓の八国を分離して、楽浪〔郡〕の領有とした。


│かん〔クワン〕【官】 の解説:出典:デジタル大辞泉(小学館)

│1:国の政務を執行する機関。朝廷・政府など。役所。おおやけ。
│_「―も商売上手やが」〈上司・太政官〉

│2:役所における職務・地位。また、それをつかさどる人。
│_:役人。官吏。「―に就く」「―を辞す」

│3:「太政官 (だいじょうかん) 」の略。



│にん【任】:読み方:にん
│[音]ニン(呉) ジン(漢) [訓]まかせる まかす
│[学習漢字]5年

│1 引き受けた役目。
│2 ある役目に当てる。
│3 自由にさせる。まかせる。
│4 気力をたのみにする。

│にん【任】:読み方:にん
│1 まかせられた役目。任務。
│2 任務を行う期間。任期。

│まけ【▽任】:読み方:まけ

│《動詞「ま(任)く」の連用形から》
│任命すること。任命して差し遣わすこと。

****************

│<「崎離営は、どこにあったか」>

│「崎離営(キリエイ/イリエイ)」は、『三国志韓伝』に登場します。
│246年頃、帯方郡の太守「弓遵」は、戦死したことになっています。

│私の考えは、「崎離営は、金海(狗邪韓国付近)にあった。」です。


私の考えは、「官国」も「任那」も、楽浪郡(帯方郡)の
「役人が仕事をする、クニ(役所・出張所)」と考えています。

そうすると、楽浪郡・帯方郡が亡くなった後は、郡の代わりに
ここが「高句麗」の出張所の役割を担っていたと、考えられます。


つまり、百済の責稽王(:286~298)が帯方の王女の宝菓を
夫人としていたので、云々。の頃に、(辰国は、消滅して、)
特に313年以降、帯方郡・濊貊・馬韓諸国・加羅諸国の地域を
「草刈り場」として、百済・新羅・高句麗が領地争いをした。

409年以降、仁徳天皇(大雀皇帝)の時代には、
百済と新羅の間の地域は、高句麗から分離して、任那といわれる
ようになって、その中心が、「任那日本府」だったと考えています。

その任那も、562年に消滅した。

PS:
:伽耶諸国(5国)は、「正見母主」及びその子孫が、作ったクニです。
:息子の首露王はAD42年生ですので、首露王が一時的に支配していた
:狗邪韓国(金海市付近)、のちの金官国を伽耶諸国に含めて
:伽耶諸国(6国)とすることもあります。(私見です。)

以上、「任那=金官国」について、考察してみました。
19:akaosa :

2023/01/04 (Wed) 18:06:15

米田様

ご投稿をありがとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

先ほど投稿した二本の原稿作成に専念していたので、お礼が遅くなり、申し訳ありません。

田中俊明先生の説は、任那=金官国のようですが、その根拠がどこにあるのか、よくわかりません。

末松保和先生の図は参考になります。ありがとうございました。

18:akaosa :

2023/01/04 (Wed) 17:44:34

2 加羅と伽耶は同義か

 『三国史記』において、伽耶と加羅が同義として扱われているかどうかを検討する。
 『日本書紀』には「加羅」のみで「伽耶」はないが、『三国史記』には、「伽耶」は数十の用例があるのに比べ、「加羅」は次の数例しかない。

① 新羅本紀第二(奈解尼師今)六年春二月、「伽耶國」請和。
十四年秋七月、浦上八國謀侵「加羅」、「加羅王子」來請救。

 六年春二月、伽耶國が和を請う。十四年秋、浦上八国が「加羅」を侵したので、「加羅王子」が新羅に救援を求めた。
 このように伽耶と加羅を使い分けており、異なる地域であることは明白である。

② 列伝第四(斯多含) 斯多含、系出眞骨、奈密王七世孫也。(中略)眞興王命伊飡異斯夫襲「加羅」【一作伽耶】國。時斯多含年十五六、請從軍。(中略)及抵其國界、請於元帥、領麾下兵、先入旃檀梁【旃檀梁城門名。「加羅語」謂門爲梁云】。其國人不意兵猝至、驚動不能禦。大兵乘之、遂滅其國。洎師還、王策功賜「加羅」人口三百、受已皆放、無一留者。

 加羅の注に「一に伽耶に作る」とあり、異伝の存在をうかがわせる。ただ、「旃檀梁」の注に「旃檀梁は城門の名。加羅語で門を謂うに、梁と為すと云う」とあり、加羅語の存在を示している。

③ 列伝第六(強首) 強首、中原京沙梁人也。父昔諦奈麻。(中略)王驚喜、恨相見之晩、問其姓名。對曰、臣本任那加良人、名字頭。 

 *中原京は685年に慶州を中心に設置された五京の一つ。現在の南漢江上流の盆地に位置し交通の要衝である忠州(忠清北道北部の都市)に比定される。
 *新羅を建国した六部は、慶尚北道慶州市・同月城郡にあたる慶州盆地と周辺の五つの谷間にあり、新羅王畿として梁部(楊山村)、沙梁部(高墟村)、本彼部(珍支部)、牟梁部(大樹村)、韓祇部(加利村)、習比部(高耶村)の六村からなる。

 強首は「中原京沙梁人」とあり、中原京に移った沙梁部(高墟村)の人か。新羅王に姓名を問われて、「本は任那加良人」と称している。
 撰者の金富軾は「伽耶」と「加羅」を使い分けていることから、この場合、「任那の加良の人」と考えられる。音通のみで加良が加羅と同義とはいえないであろう。

 まとめると、『三国史記』本文では、伽耶と加羅は明確に使い分けられており、「一に作る(云う)」などの異伝を示す注をもって両者を同義と解するのは無理があろう。

 以上の検討により、①任那と加羅は異なる地域であること、②少なくとも、『三国史記』本文の加羅と伽耶を同義とすることはできないこと、を示した。
 したがって、「任那加羅」は「金官伽耶」であるという学説は、より明確な根拠を示さない限り、成立しえないことになろう。
17:akaosa :

2023/01/04 (Wed) 17:23:36

 「任那加羅」について
 広開土王碑第二面の永楽十(400)年条にある「至任那加羅 從抜城 城即歸服」の釈読にあたり、通説は「任那加羅」を一つの地域名と解して「金官伽耶」に比定する。
 その妥当性について、中国史書などから検討する。

1 中国史書等における任那と加羅の認識
(1)『宋書』の倭の五王の記事
①太祖元嘉二(425)年 讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱「使持節、都督倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王」。
 任那を一国と数え、秦韓・慕韓と並べて、合わせて六国とする。

②同二十八(451)年 加「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東將軍如故」
 任那と加羅をそれぞれ一国と数え、秦韓・慕韓と並べて六国とする。

③世祖大明六(462)年 興死、弟武立、自稱「使持節、都督倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王」。
 任那と加羅をそれぞれ一国と数え、秦韓・慕韓と並べて七国とする。

④順帝昇明二(478)年 詔除武「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」。
 ②と同じ。

 ①から④までのいずれも、倭、(百済)、新羅に次いで、任那、加羅、秦韓、慕韓と並置している。そこに「伽耶」はない。

(2)その後の中国史書の記事
⑤『南齊書』(東南夷倭国) 建元元(479)年 進新除「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」。武號爲鎭東大將軍。

⑥『梁書』(東夷) 興死、立弟武。齊建元中、除武「持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍」。高祖即位、進武號征東將軍。
 ⑤・⑥とも、①~④と状況は同じ。

⑦『通典』(邊防一 新羅)其先附屬於百濟、後因百濟征高麗、人不堪戎役、相率歸之、遂致強盛、因襲加羅、任那諸國、滅之。並三韓之地。其西北界犬牙出高麗、百濟之間。
 新羅は、「加羅任那諸国」を襲いこれを滅ぼす。其の西北の境界は高麗と百済の間で、犬の牙のように入り組んでいる、とある。ここでは「加羅任那の諸国」とあり、「加羅と任那の諸国」と解するのが妥当であろう。

(3)『翰苑」(新羅)の記事
⑧括地志云、案『宋書』、元嘉中、倭王彌自稱「使持節、都督倭・百濟・新羅・任那・秦・慕韓六國諸軍事」。
 ①②④⑥と同様に六国とあるが、百済があるので、任那、秦韓、慕韓と並び、加羅がない。

⑨地惣任那 『(南)齊書』云、加羅國三韓種也。今訊新羅耆老云、加羅任那昔爲新羅所滅、其故今並在國南七八百里。此(北)新羅有辰韓弁(卞)辰廿四國、及任那加羅慕韓之地也。
 『齊書』に「加羅国は三韓の種也」とあるのを引用し、「新羅の6、70歳の老人の云うには、加羅と任那は昔新羅が滅ぼした所で、今は新羅の南七、八百里に在る。新羅は、辰韓と弁辰の24国、及び任那・加羅・慕韓の地を有する」とある。

 語順が「加羅任那」「任那加羅」と入れ替わっているものの、文意に齟齬はないことから、辰韓、弁辰の24国と加羅、任那、慕韓は異なる地域として認識されていることが分かる。

 以上を総括すると、任那と加羅は異なる地域(国)であり、秦(辰)韓・慕韓とも違うと認識されていることから、ほぼ同時代の広開土王碑の「任那加羅」もその認識の範疇にあると解すべきであろう。

(4)広開土王碑の「任那加羅」の文面の釈読
 広開土王碑碑文は3段で構成され、第1面の半分から3面の半ばまでの第2段は、広開土王の在位中の対外戦争を8か年条に編年し、なかでも百済の背後にあって新羅を襲い、百済とともに高句麗に敵対する倭との戦いに多くの字数を用いている。

 「任那加羅」のある碑文の前後の釈文を行ごとに示す(学習院大学東洋文化研究所の甲乙両本(デジタル画像)を参考に、適宜「 」を付した)。

碑文① 第二面 時違使還告以■■十年庚子 敎遣「歩騎五萬」 住救「新羅」 從「男居城」 至「新羅城」「倭」満其中 官兵方至「倭」賊退
 「・・・(永楽)十年庚子、歩騎五万を派遣し、とどまりて(駐屯して)新羅を救わしめた。男居城よhり新羅城に至るまで、倭が城内に満ちていた。(高句麗の)官兵がまさに(あまねく)「倭」に至り、賊は退却した。」

碑文② ■■■■■■■■來背息追 至「任那加羅」 從抜城 城即歸服 「安羅人戍兵」抜「新羅城」■城 「倭」満 「倭」潰城六
「・・・(倭を)追って任那や加羅に至り、よりて城を抜くと、城はすぐに帰服した。(ところが)安羅人戍兵(ジュヘイ国境守備兵)が(すでに敵を除いたはずの)新羅城を抜いた(高句麗の官兵が敗走した)。倭が満ち、倭が城を潰した。」

碑文③ ■■■■■■■■■■■■■■■■■九盡臣有■「安羅人戍兵」満■■■■■■■■■■■■■
「・・・安羅人戍兵が■に満ちている。・・・」

碑文④ 第三面 ■■■■「(安)羅人戍兵」 昔「新羅」(安)錦未有身來朝(貢)■■■■■(開)土境好太■■■■■■■■■■
「安羅人戍兵を■した。昔、新羅は未だ来朝して(朝貢に来て)いなかった。・・・開土境好太(王)・・・」

碑文⑤ ■■■■朝貢 十四年甲辰 而「倭」不軌 侵入「帯方界」■■■■■石城」■連舩■■■■■■■■■平穰
「・・・朝貢した。(四年後の永楽)十四年甲辰 而して倭が無軌道にも(高句麗のお膝元の)帯方界に侵入した。・・・舩を連ね・・・平壌」

 以上のように碑文を大づかみに通読すると、「至任那加羅 從抜城 城即歸服」の文は、「(高句麗が)任那や加羅に至り、よりて城を抜くと、城はすぐに帰服した」と解すると文脈が通じると思われる。

 しかし、「(高句麗軍が)任那加羅の從抜城に至ると、城は即座に(戦うことなく)帰服した」と読むと、碑文①②の倭が新羅城に滿ちる、碑文⑤の倭が帯方界に侵入するなどの前後の文脈からみて、從抜城の主であるはずの倭が戦うことなく帰服しており不自然である。

 一方、安羅人戍兵が新羅城を抜いたことは、文脈上から高句麗の官兵が敗走したことを意味し、高句麗にとっては大失態なので、ここで「任那や加羅まで逃げた倭の追跡」から「安羅人戍兵が新羅城の高句麗の官兵を敗走させた」ことへとテーマと場面が移る(碑文③④)。
 総括すると、碑文には、「任那加羅」と「安羅」ましてや「金官伽耶」を同一あるいは隣接地域とする根拠は示されておらず、碑文から言えるのは、後世の倭の六国諸軍事に含まれる「任那・加羅」は倭の勢力地の一部であり、安羅人戍兵は倭の仲間だということである。
16:米田 :

2022/12/30 (Fri) 22:11:02

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1672405862.png
│「栄山江流域」=任那 説 - akaosa
│2022/12/18 (Sun) 11:27:46 

│「栄山江流域」とは、韓国考古学における
│歴史的文化区分であり、洛東江流域、利根川流域の
│ような地理的名称ではありません。

│年代的には、主に高句麗・百済・新羅の「三国時代」と重なり、
│伽耶もほぼ同時代。
│6世紀半ばに百済文化が浸透するまで独自の文化を有しています。

│では、なぜ「〇〇流域」などと表記するのか。理由は単純で、
│他地域と明瞭に区別できる文化がありながら、
│史書にこの地域の記載がないとされているからです。 

│1「栄山江流域」を特徴づける考古資料(遺物・遺構)

│①甕棺
│②前方後円墳

│以上のような考古資料から類推されるのは、「栄山江流域」とは、
│史書にある「任那」ではないか、ということです。
│このことについて、検証を試みたいと思います。


***********************

:「韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇」(中央公論社)
:監修:森浩一  著者:東潮、田中俊明    P-16より

南遷と再興__強まる王権
~。
熊津時代の始まりである。漢城時代の基盤を失った流転の政権であり、
当初は王権も安定しておらず、また同時にそれまで勢力を持っていた
解(ヘ)氏・真(チン)氏も、基盤を失っての移住であったから、云々。
479年、云々。
このころ熊津地方に基盤があったとみられる新興貴族 沙(サ)氏・
ペク氏・燕(ヨン)氏が旧勢力にかわって台頭してくる。

泗沘への遷都
(北方・中方・東方・西方・南方の五方)‥、方にはおよそ10郡が属し、
郡には郡将を3人派遣した。これはさきの22檐魯(チヨムノ/たんろ)制
を発展させたもので、のちには地方も五部に分けられた。
(南方は、久知下城:くちは)

***********************

投稿図は、任那の領域を示した図です。出典は、
山田宗陸訳、原本現代訳:日本書紀(中)、ニュートンプレス発行です。

:これ(任那の縮小)は、定説になっていると思っていました。
:系図ばかり扱っていたので、私はその他については疎いのですが、
:「栄山江流域」は、512年に、割譲した4県の流域であることは
:今、確認しました。
15:白石南花 :

2022/12/30 (Fri) 15:29:46



asaokaさん

>1 「背急追 至任那加羅 従拔城 城即帰服」の主語が高句麗軍であるのに対し、次から「安羅人戌兵」を主語とするテーマに変わるのではないか。<

これはそもそも高句麗王の業績をたたえる碑文なので、出来事の主体は高句麗です。
新羅を救援し倭人を追って任那加羅に至ったところに現れるのが安羅人なら、すくなくとも任那加羅は新羅や安羅の近辺にあったとするのは、自然な推理になります。

>2 三国史記の「加耶〈或云加羅〉」について探してみましたが、次のような例しか見つかりませんでした。<

他にもあります。
下記に以前三国遺事駕洛國記の五伽耶についてまとめたものを示します。

https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/hahe.htm#LINK2

>3 「加羅」と「伽落」「駕洛」、そして「伽耶」は、音が通じることで、同じ地域を指すと言えるのかどうか。集団の移動による地名の移動も考えられ、日本書紀はともかく、編者の金富軾(1075-1151)は用語(地域名)を整理して使い分けたのではないか。<

そもそも使い分けたというほど、加羅は出てきません。
金庾信伝の記述を見れば、伽耶の別名に加羅があることは明らかで、しかもそこは後の金官になるわけです。
「加羅の名は」で示したように、加羅と伽耶は言語ないし方言の違いであると思われます。
日本書紀に二つある加羅の内の南加羅が、おそらく任那加羅とみてよいと思います。
三国史記強首伝に、王に名を問われた強首が、本は任那加良の人であると答えています。

>4 高句麗は、「任那」と「加羅」の隣接地域をまとめて「任那・加羅」と呼んだと考えられる。少なくとも、任那は百済と接している地域ではないか。<

好太王碑文で任那が出てくるのは、この10年庚子条のみですが、ここに百済は出てきません。
したがって好太王碑文から、任那加羅が百済の近くというのは無理があります。

>文献(日本書紀)から、栄山江流域が任那の候補地となりうるのであれば、任那加羅のうち、加羅が金官伽耶に当てはまると思いますが、いかがでしょうか。<

末松保和氏の「任那興亡史」はご存じでしょうか。
昭和四十年の刊で、内容は古いですが、文献的に任那を網羅しています。
どうしても日本書紀に依存しているので、任那を慶尚南道から全羅道にいたる広域にとっています。
かなり以前の書籍では、この説に従った地図をよく見かけました。

しかし批判も多くあります。
任那に関しては多くの研究がありますが、日本書紀の全ての任那を、単一の地名と考えるのは無理があると思います。
任那というのはなにがしかの概念としてはあったのでしょうが、明快にある地域をあらわすものとして、矛盾なく理解することは難しいと考えています。
14:当世奇妙:

2022/12/30 (Fri) 13:53:01

akaosaさん
了解です。
栄山江は会の百済遺跡巡りで行きましたが
朝鮮半島南端の方ですよね。
夕陽が美しかったです。
13:akaosa :

2022/12/30 (Fri) 12:24:30

当世奇妙様

 原稿をまとめる際には、下線や太字など、見やすくしているのですが、ここに書き込むとそれらの付加機能が取れてしまい、のっぺりした表記になって読みにくいと思います。

 ご質問の
①古代韓国・日本書記などの地名と現在の地名のあてはめには色々議論があると言うことですか?
 
韓国の地名は古記録がないので、木簡などの文字資料が出ないと決め手がないと思います。
類推は可能ですが、そこで人により意見が分かれるようです。

②白石楠花さんの意見は、栄山江流域は倭の関係する領域より北になるのではと言うことですか?

 12月25日の白石南花さんの
「倭王権と百済王権の間での、テリトリー分割の南限が現代の井邑市のあたりであったということです。
 これが五世紀にその南の地域に、倭系墳墓が現れ、六世紀には前方後円形墳が現れることと関連すると思います。」
との見解は、全羅北道南部から全羅南道にかけて(つまり、「栄山江流域」)が倭の領域である、と理解しています。
12:当世奇妙:

2022/12/30 (Fri) 06:40:38

akaosaさん
皆さんの投稿には知識が無くてついて行けませんが、
要するに
古代韓国・日本書記などの地名と現在の地名
のあてはめには色々議論があると言うことですか?
白石楠花さんの意見は、栄山江流域は倭の関係する領域より北になるのではと言うことですか?
教えてください。

11:白石南花 :

2022/12/29 (Thu) 16:34:11

asaokaさん

>表記において、その前にある「…加羅七国」と比べて「邑」が唐突に付け足されたような感じがします。<

それは最もな指摘です。
ただこの神功紀の記述には、木羅斤資や千熊長彥のような人物が出てきますが、この両者の役割が整合していないとの指摘があり、両者について一運60年の年代差を認める立場もあります。
古四と古沙の表記の違いもあり、もともとは異なる時代に、異なる出来事に関して書かれた原史料を、つなぎ合わせて書き上げている可能性が高いと思われます。
表記の一貫性のなさは、そのような原史料の表記のばらつきが、そのまま残っているものと思います。
つまり四邑の話と境界祭祀の話は出自が別で、同時に七国の話しとも元が違うということです。
この話は日本書紀の物語世界では、神功の時代に百済との勢力圏の盟約が結ばれ、継体の時代にそこが百済に譲られたとなっているということで、それが「考古学的な知見に整合している点がポイントであるわけです。

ところで、朝鮮半島西南部には多島海があり、ここはセウォル号の事故でもわかる通り、海流や風が複雑なうえに、暗礁も多く海運の難所です。
難所なんだからこんなところを通ったはずがないという人もいますが、それは誤りで、こういったところを生活圏としている人々は、それらを熟知しており、そのような人びとを水先案内人に立てれば、安全に通行できるばかりか、荒天を避けるための入り江や島影も多く、重要な交易路となるわけです。
これが倭人伝の倭国に至る海岸ルートであるわけです。

ただしこのような難所でかつ、重要な交易路には、水先案内人を生活の糧にする水上勢力が発生します。
たとえば戦国時代の村上水軍のような人々です。
百済と倭が同盟を結ぶには、この地域の海人を味方につける必要があるのです。
それが神功紀の「仍移兵西
10:akaosa :

2022/12/29 (Thu) 16:27:38

白石南花様

 12月27日付けのご意見、ありがとうございます。

 広開土王碑第二面の「任那加羅」を「金官伽耶」と読み変える根拠について、
「全体の流れを見ると、新羅を救援し、倭兵を退け、それを急追して任那加羅に至ったと読めます。従抜城をどう読んだとしても、城が帰服して後は今度は安羅人戌兵が現れます。つまり新羅から任那加羅、そして安羅という地名のつながりがあるわけで、三国史記に「加耶〈或云加羅〉」と加耶が加羅とも書かれていること、同じく「號曰加耶,後改為金官国。」とあることも考えると、任那加羅が金海を意味することには十分な妥当性があると思います。」
とのご説明をありがとうございました。

 これについて、いくつか疑問があります。
1 「背急追 至任那加羅 従拔城 城即帰服」の主語が高句麗軍であるのに対し、次から「安羅人戌兵」を主語とするテーマに変わるのではないか。
 なぜなら、次の行(二面最後)と第三面一行目にも「安羅人戌兵」があり、安羅と新羅の関係を示している。

2 三国史記の「加耶〈或云加羅〉」について探してみましたが、次のような例しか見つかりませんでした。
 地理志に「金海小京、古金官国。(一云、伽落国。一云、伽耶)」
 同金庾信伝に「十二世祖首露。不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅登龜峯。望駕洛九村。遂至其地開国。號曰加耶。後改爲金官国。」

3 「加羅」と「伽落」「駕洛」、そして「伽耶」は、音が通じることで、同じ地域を指すと言えるのかどうか。集団の移動による地名の移動も考えられ、日本書紀はともかく、編者の金富軾(1075-1151)は用語(地域名)を整理して使い分けたのではないか。

4 高句麗は、「任那」と「加羅」の隣接地域をまとめて「任那・加羅」と呼んだと考えられる。少なくとも、任那は百済と接している地域ではないか。

 任那の地域について、日本書紀をもとに検討され、
「私は日本書紀では継体紀の任那四県が、栄山江下流域と関連すると思います。四県の割譲に対して、物部の妻は息長足姬の置いた海表の蕃屏であるとして反対します。大兄皇子も、胎中天皇の置いた官家であるとしています。
日本書紀の記述の中で、神功の時代に百済と結んだ領域に関する盟約と言えば、辟の山と古沙の山の祭祀しかありません。そして百済テリトリーの南限が古沙の山、現在の井邑市のあたりとなると、任那四県の位置も決まってきます。」(12月27日)
とのご意見は説得力があります。

 文献(日本書紀)から、栄山江流域が任那の候補地となりうるのであれば、任那加羅のうち、加羅が金官伽耶に当てはまると思いますが、いかがでしょうか。
9:akaosa :

2022/12/29 (Thu) 11:55:10

白石南花様

 貴重なご意見をありがとうございます。勉強になります。

 12月25日付けの「さて辟の山、古沙の山の祭祀は、両者の軍が会合した時の話ですから、両者のテリトリーに関する何らかの盟約を結んだものと思われます。… 三国志馬韓伝の国名はおおむね北から南に並んでいるとの説があり、それに従うと「狗素」は最も南になるでしょう。これは日本書紀文中に現れる辟中の比定地が金堤、で古沙の比定地が井邑であることと矛盾しません。」について

 神功紀摂政四十九年春三月条の
「因以平定、比自火+本・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国。仍移兵、西廻至古爰津。屠南蛮忱弥多礼。以賜百済。於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍来会。時比利・辟中・布弥支・半古四邑自然降服。」
の最後の部分を、韓国では「比利・辟中・布弥・支半・古四、邑」のように区切り、これは、『三国志』韓伝の馬韓国名中の「不弥国、支半国、狗素国」と比定でき、合理的とのご指摘ですが、表記において、その前にある「…加羅七国」と比べて「邑」が唐突に付け足されたような感じがします。

 先の引用の後に、
「唯千熊長彦与百済王。至于百済国登辟支山盟之。復登古沙山。共居磐石上。」
とあり、辟支山が金提市(辟中)に、古沙山が井邑市(古沙)周辺にご指摘のように比定されており、両市から3~40㎞ほど西の半島に竹幕洞祭祀遺跡があります。

 倭や百済・伽耶等、中国江南の遺物が多数出土し、5世紀中頃から6世紀前半が最盛期とみられています。盟約を結ぶ祭祀の地(当時は複数あったか)としての伝統が考えられます。
8:白石南花 :

2022/12/27 (Tue) 14:38:54

asaokaさん

>少なくとも、当時の洛東江下流域は金官伽耶が想定されていますが、そこを「任那加羅」とする根拠はないと思います。<

問題の部分は下記のようになっているようです。

「十年庚子,教遊歩騎五万,往救新羅,従男居城至新羅城,倭満具申,官兵方至,倭賊退□
□□□□口口□来背急追,至任那加羅,従抜城,城即帰服,安羅人戌兵,抜新羅城口城,倭満
倭潰城□」

途中欠文があるのでわかりにくいですが、全体の流れを見ると、新羅を救援し、倭兵を退け、それを急追して任那加羅に至ったと読めます。
従抜城をどう読んだとしても、城が帰服して後は今度は安羅人戌兵が現れます。
つまり新羅から任那加羅、そして安羅という地名のつながりがあるわけで、三国史記に「加耶〈或云加羅〉」と加耶が加羅とも書かれていること、同じく「號曰加耶,後改為金官國。」とあることも考えると、任那加羅が金海を意味することには十分な妥当性があると思います。
すくなくとも根拠がないとは言えないと思います。
日本書紀には何度も任那が出てきて、新羅と隣接しているような記述も多くあります。

私は日本書紀では継体紀の任那四県が、栄山江下流域と関連すると思います。
四県の割譲に対して、物部の妻は息長足姬の置いた海表の蕃屏であるとして反対します。
大兄皇子も、胎中天皇の置いた官家であるとしています。
日本書紀の記述の中で、神功の時代に百済と結んだ領域に関する盟約と言えば、辟の山と古沙の山の祭祀しかありません。
そして百済テリトリーの南限が古沙の山、現在の井邑市のあたりとなると、任那四県の位置も決まってきます。

そこで地名の探査となるのですが、対象となる三国史記地理志の地名は、音訓入り混じった複雑なものです。
しかも音は古代朝鮮漢字音、訓は古代朝鮮語ですから、ほとんど解けないパズルです。
上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁について、井邑市の南の古地名を三国史記に探すと、「佐贊縣,本上杜」という地名があることが分かります。
この地名は「古四州,本古沙夫里,五縣」に含まれる県名で、井邑市に近いことが分かります。
現在の推定地は井邑市の西南西にある興徳市とされます。

この「上杜」の「上」には別名の「佐贊」からすると、「佐」が対応しそうなのですが、別の例もあります。
三国史記に「佐魯縣,本上老」とあることから、「上」と「佐」の対応が見て取れるのです。
「上杜」の「上」を「佐」に変えると、「佐杜」という地名が現れます。
これが娑陀に対応するのではないでしょうか。
するとその南に武尸伊郡/武霊郡(現在の霊光)という地名も見えてきます。
この「尸」は三国史記ではしばしば「ル」のような音に読まれます。
これが牟婁ではないでしょうか。

哆唎については末松保和氏が、様々な該当地名を挙げられていますが、現在の霊巌にあたる月奈郡がありそうです。
月の音は韓語の音韻から考えて、語頭には立ちにくいので、訓と考えられますが、月の中期朝鮮語の読みはタルのようになるのです。
これらが正しければ、任那四県は全羅北道南部から、全羅南道にかけての西海岸地域になります。
7:akaosa :

2022/12/26 (Mon) 11:28:33

白石南花様

 貴重なご意見をありがとうございます。文献を駆使する真摯な姿勢に触れて、前に進む意欲が出てきます。

 FBの談話室にありました『加羅の名は』を拝見しました。伽耶と加羅は音の時代差で、同じ地域とされています。
 また、「2.大加耶の本名は?」にある、「『広開土王碑』によれば、そのころ金海地区は高句麗による侵入を受けたものと思われる。」という認識は、今月11日に終わった歴博の伽耶展に展示された年表(図録p63)の五世紀初頭(400年)の欄に「・高句麗が一時的に金官伽耶へ侵攻。それによって金官伽耶は徐々に衰退していく。」と同じで、学界の通説と思われます。

 この通説の根拠は、広開土王碑第二面の最後から二行目の
「至任那加羅従拔城城即帰服安羅人戍兵拔新羅城□城倭満倭潰城六」
の部分で、前半は「任那加羅の従拔城に至れば、(その)城はすぐに帰服した」と釈読されています。

 これには、二つの問題があります。
 一つは、この「任那加羅」を「金官伽耶」と置き換える根拠です。これは、「伽耶と加羅は同じ」という“公式”を当てはめ、「任那はなかった」という観念から導かれたのではないか。
 「任那」は、その実態が不明なだけであり、当時は新羅や百済(百残)と異なる地域を認識した呼称であり、それは「加羅」と並び称される所であった、と考えられます。

 二つ目は、「任那加羅に至り従(追う)いて城を抜く。城はすぐに帰服した」と読めることです。「従拔城」という固有名詞ではなく、名が不明の城を抜いたと。そして、「安羅人の戍兵が新羅の城を抜いた。□城倭満倭潰城六」と倭の描写が続きます。
 つまり、「任那加羅」は、高句麗になじみのない地域であり、倭人が多い、あるいは、倭人の根拠地の一つであったと考えられます。

 任那はどこにあったのか。朝鮮半島南部の考古資料から、消去法で考察するしかないようです。
 少なくとも、当時の洛東江下流域は金官伽耶が想定されていますが、そこを「任那加羅」とする根拠はないと思います。

 なお、広開土王碑第二面の写真をFBに載せます。
6:白石南花 :

2022/12/25 (Sun) 11:25:09

asaokaさん
任那に関する調査期待しております。
いつかは取り組みたいと思っておりますが、どうも文献によって指す範囲が違うように思えます。
時代差や用語の使用主体によって、意味が違う可能性もあり、今のところ私には決定的アイデアがありません。
ただ日本書記では、倭王権の及ぶ地域の中核として使われているようではあります。

栄山江流域と倭王権の関わりという意味では、私は内藤湖南の指摘した、日本書紀と三国志馬韓伝の地名の一致についての指摘が興味深いものと思っています。
これは以前にも指摘したことですが、湖南は神功紀の四邑投降の下記記述について、三国志馬韓伝の国名記述と比較しました。

日本書紀:於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會、時比利・辟中・布彌支・半古四邑自然降服。
(ここにおいて、その王肖古と王子の貴須もまた、軍を率いてやってきて会った。すると比利・辟中・布彌支・半古の四つの邑が自然に降伏してきた。)

内藤湖南は上記の神功紀一節の内、後半の「布彌支半古四邑」を三国志馬韓伝の国名表記の下記部分と比較しました。

三国志:不彌國支半國狗素國

湖南は三国志は邑名の区切りを間違えていて、日本書紀で訂正できるとしています。
つまり馬韓の国名は次のように区切るべきであるというのです。

三国志:不彌支國半狗國素捷盧國

しかし三国志の記述には間に國の字が入っていて、間違えにくいことから、韓国では日本書紀の記述、もしくは伝統的読み方にあやまりがあるとして、「布彌、支半、古四、邑」のように区切りを訂正しています。
日本人は「古四」という邑名に違和感がありますが、三国史記地理志には下記の記述があります。

「古四州,本古沙夫里」

つまり古沙を古四とも書いたわけです。
日本書紀では、上にあげた神功紀の一節に続き、千熊長彥と百済王が辟の山、古沙の山で祭祀を行った話が出てきます。
辟の山は投降した辟中、古沙の山は同じく古四であると思われます。
有力な説では、この千熊長彥の出てくる話は、邑の自然降服の話しとは、干支の一運60年時代の違う話であるとします。
地名の記述が古四と古沙で異なるのは、時代の違いであるとも考えられますが、内容的には深いつながりのある話であると思われ、韓国の学説の信憑性は高いと思います。

ちなみにこの対応では、「布彌」=「不彌」、「支半」=「支半」、「古四」=「狗素」となります。
前二者の対応は自然に見えます。
三番目の対応では、古=狗となり、倭人伝の「卑狗」が古事記などの比古に対応することを考えると理解できます。
また四=素は、別表記の古沙の沙が、素の上古音に通じることで納得できます。
おそらく三国史記にも三国志東夷伝にも、方言漢字音が介在していると思われます。

さて辟の山、古沙の山の祭祀は、両者の軍が会合した時の話ですから、両者のテリトリーに関する何らかの盟約を結んだものと思われます。
百済は北方で高句麗の南下に苦しみ始めており、南方での勢力圏の安定のため、倭との間に軍事同盟を結んだのでしょう。
三国志馬韓伝の国名はおおむね北から南に並んでいるとの説があり、それに従うと「狗素」は最も南になるでしょう。
これは日本書紀文中に現れる辟中の比定地が金堤、で古沙の比定地が井邑であることと矛盾しません。

すっかり話が長くなってしまいましたが、ようするにあくまでも日本書紀の文献上の話ですが、倭王権と百済王権の間での、テリトリー分割の南限が現代の井邑市のあたりであったということです。
これが五世紀にその南の地域に、倭系墳墓が現れ、六世紀には前方後円形墳が現れることと関連すると思います。
5:akaosa :

2022/12/23 (Fri) 22:31:19

 先に掲げた前方後円墳のその他の要点を列記すると、

・西南海岸沿岸や島嶼部に立地する、5世紀前半までさかのぼる竪穴式石槨をもつ古墳(高興雁洞古墳、高興野幕古墳、海南外島古墳、海南新月里古墳、新安ペノルリ3号墳など)は、その構造や鏡の副葬から倭人の墓と推定されているものが多い。
 
・5世紀前半以降の、全羅道南海岸近くに立地する竪穴系埋葬施設をもつ円墳には、倭系甲冑(衝角付冑、眉庇付冑、帯金式短甲)の副葬が多い。

 これら倭系古墳の被葬者が後の前方後円墳の被葬者と関係があるなら、横穴式石室への追葬が可能であることから、他の古墳を含めて被葬者が世代的に連なっていると考えられます。

・6世紀中葉になると、全羅南道地域の土器や古墳に百済の影響や規制を思わせる要素(石室の構造と規模の均質化、百済官人を示す銀花冠飾の出土)が現れる。
 新徳1号墳に隣接する2号墳(円墳)は典型的な百済後期型横穴式石室で、前方後円墳の築造停止と符合する。

・円筒形土器(埴輪形土製品:埴輪)は在地の技法(タタキで器面調整)で作られ、変形品も多い。

 埴輪が巡る例として羅州新村里9号墳がある。墳丘の上下層に甕棺11基があり、下層の埴輪を埋めるように盛土して再度埴輪を樹立していた。

・墳丘の傾斜がきつく、墳頂部に平坦面がほとんどない。これは半島では墳頂部での祭祀行為を想定していないことの反映であろう。

・集落からは、列島から持ち込まれた須恵器、祭祀遺跡からは子持勾玉などが出土。須恵器を模倣した土器も定着しており、羅州五良洞遺跡に窯跡がある。

 以上から、列島により近い対馬、伽耶、新羅などに存在しない前方後円墳が、なぜ、点的・時限的に栄山江流域に分布するのか。

 興味深いのが咸平新徳1号墳です。半島南部では珍しい葺石と段築があり、石室は佐賀県関行丸古墳と似た九州系横穴式石室。他の古墳の石室も九州系と関りが深い(ただし、霊岩チャラボン古墳は横口式石室、大破している高敞七岩里古墳は石棺系)。
4:akaosa :

2022/12/22 (Thu) 19:02:18

藤盛様
 早速に投稿をありがとうございます。
 今回の問題提起のきっかけは歴博の伽耶展でした。

 従来の渡来人や渡来文化の出自は、朝鮮半島からと漠然と思っていましたが、歴博は伽耶が渡来文化の中心と断言していました。

 そこで、伽耶の歴史を調べ始め、その過程で「栄山江流域」の存在を知りました。

 また、任那については、好太王碑というほぼ同時代の金石文に「倭」や「任那加羅」の文字がある以上、「任那は存在しない」はずはありません。そして、それが「伽耶地域」の紛れというのも解せません。
3:当世奇妙:

2022/12/21 (Wed) 20:20:49

akaosaさんが投稿する前にフライングですが
「栄山江流域」と交流した倭の側の勢力を
倭王権を主とするか、北九州・日本海沿岸地域集団
などを重視するかで議論が随分異なってきますね。
2:当世奇妙:

2022/12/18 (Sun) 19:45:43

akaosaさん
多いに期待しています。
談話室のFBに図・写真投稿は良いアイデアですね。
私もトライします。

歴博の高田さんの意見と比較しながら読みたいと
思います。

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.