東アジア討論室
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「古事記のウソと日本書紀の齟齬」
-
1:米田
:
2025/07/06 (Sun) 01:11:44
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1751731905.png
「古事記のウソと日本書紀の齟齬」について
このスレで、書いていこうと思います。
・稗田阿礼
・太朝臣安万侶
・万葉仮名
・「天皇の歌」という虚構(脚色)
・口承(人名)の文字化での差異を見る
-
19:米田
:
2025/07/12 (Sat) 17:41:03
-
┌
│いずれにしろ、米田さんの系譜復元が、
│一次資料ではなく、2次的、3次的資料に
│因っていた可能性が、でてきましたので、
│その場合は、当然、信頼性は低下します。
└
:私の系譜復元の資料(史料)という話では、
:二つのアプローチがあります。
:ひとつ目は、古代豪族・神社の史料です。
:ふたつ目は、このスレの表題の話です。
:
:ここからは、ふたつ目の「このスレの表題」の話です。
:
:私の系図解読・復元というのは、系図集の復元ではないのです。
:私の系図解読・復元は、「古事記」であり「日本書紀」の復元の
:系図(続柄)なのです。
:(現代語訳ではありますが、)「古事記」や「日本書紀」の
:系図解読・復元ですから、一次資料の系譜復元なのです。
:
:ただ、一次資料の「古事記」や「日本書紀」をひとつずつ
:系図解読・復元していると、視覚的にも、考察するうえでも
:煩雑で不便なので、便宜的に、「古代豪族系図集覧」や、
:記紀の系図を借用しています。
:
:特に、「古事記」と「日本書紀」の間でも、齟齬が多いため、
:「古事記のウソと日本書紀の齟齬」を中心にして、
:このスレに書いていこうとしています。
:
:古事記でも日本書紀でも先代旧事本紀でも、神社伝承でも、
:同じ人物を扱っていれば、生物学的な系図(血統)は、
:同じになるはずなのです。
-
18:米田
:
2025/07/12 (Sat) 17:22:16
-
┌
│Re: 「古事記のウソと日本書紀の齟齬」 - 石見介
│2025/07/12 (Sat) 13:42:09
│
│宝賀氏の著書は『和珥氏』など、購読しています。
│肝心の『古代豪族系図集覧』が、各種系図を収めた、
│史料集的性格も併せ持ち、且つ、著者の考察を加えた
│復元系図をも、提示した書籍なのか、それとも、
│一次資料の引用はあるが、復元系図の提示を主眼として、
│一次資料提示は、著者の主観的取捨によるものかが、
│どうも判明しません。
└
:「古代豪族系図集覧」は、私のような系図の復元はしていません。
:「古代豪族系図集覧」をはじめとする(市販の)「系図集」は、
:系図の「辞典」のようなものです。
:取捨選択は、していても、追加・創作は、していないはずです。
┌
│また、著者のプロフィールも不明です。
│近藤安太郎氏と敏喬氏のどちらが、著者なのか、
│米田さんのコメントからは、はっきりしません。
│
│御面倒でしょうが、そのあたりを、
│ご説明いただければ、有り難いです。
└
:著者のプロフィールは、不明です。
:ネットでは調べられませんでした。
:
:私の推測で良ければ書きます。
:近藤安太郎(故人)は、在野の系図研究者になると思います。
:自分で、出版社も作っていたようです。
:
:近藤敏喬氏は、そのご子息なのだろうと思います。
:「古代豪族系図集覧」の編者です。
:東京堂出版は、神保町にある本屋「東京堂」の出版部だろうと
:思います。
-
17:米田
:
2025/07/12 (Sat) 17:13:15
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1752307996.gif
:前述のように、一次資料であっても、文献(史料)によっては、
:(矛盾があったり、)差異がありすぎて、古代の系図は、
:史料として使えない、というのが、今までの流れでした。
:
:で、これをどうやって使えるようにするか、という話です。
:私は、違います。
:私は、記録は、「すべては、正しい。」というスタンスです。
:(あからさまな偽書は、相手にしませんが。)
:
:昔、高校時代、物理の勉強をしたときに、
:法則を見つければ何とかなる、というのがありました。
:
:系図の世界では、(現在では)どんなにあり得ないと思われても、
:古代の世界には、その時代の常識があった。
:その常識(暗黙のルール)が分かれば、系図の謎は解けます。
:
:いろいろと、試行錯誤をした結果、古代の系図には、
:いくつかの法則があることに気が付きました。
(その1):夫婦同名。(同名は、親子・兄弟でもありますが、)
____:系図で、妻の位置に夫が書き込まれることがあります。
(その2):異父同母の兄弟姉妹は、ある父の子どもにされる。
(その3):どんな男でも、婿養子の扱いで、妻の兄弟になる。
*****
:掲載図の右側の図は、私の見つけたルールに基づいて系図に
:補助線を入れたものです。
:「同母」と書いてあれば、異父同母を疑います。
:男系にずれがある場合には、異父同母を疑います。
:掲載図の右側の図が、絶対に正しいというわけではありませんが、
:「これなら、矛盾は解消出来るよね。」
:という程度の復元系図です。
:この系図復元を私は、しています。(私のオリジナルです。)
:「古代豪族系図集覧」は、こんな系図の復元はしていません。
:「古代豪族系図集覧」をはじめとする「系図集」は、
:系図の「辞典」のようなものです。
:取捨選択は、していても、追加・創作は、していないはずです。
-
16:米田
:
2025/07/12 (Sat) 16:26:23
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1752305184.gif
┌
│いずれにしろ、米田さんの系譜復元が、
│一次資料ではなく、2次的、3次的資料に
│因っていた可能性が、でてきましたので、
│その場合は、当然、信頼性は低下します。
└
:私の系譜復元の資料(史料)という話では、
:二つのアプローチがあります。
:ひとつ目は、古代豪族・神社の史料です。
:ふたつ目は、このスレの表題の話です。
:まずは、ひとつ目の話です。
:
:学問の世界では、対称を「真・偽」で判断しています。
:学者は、「真・偽」の判断に、命を懸けているように見えます。
:
:私は、違います。
:私は、記録は、「すべては、正しい。」というスタンスです。
:(あからさまな偽書は、相手にしませんが。)
:アニメ「名探偵コナンの名言」のひとつに、次の言葉があります。
(工藤新一)
:不可能な物を除外していって
:残った物がたとえどんなに信じられなくても
:それが真相なんだ。
:系図の世界では、(現在では)どんなにあり得ないと思われても、
:古代の世界には、その時代の常識があった。
:その常識(暗黙のルール)が分かれば、系図の謎は解けます。
<その前に、「一次資料、2次的資料、3次的資料」のはなし>
:掲載図の右側の図は、「一次資料」です。
:掲載図の左側の図は、これらを基にした「2次的資料」です。
:掲載図の中央の系図は、「古代豪族系図集覧」の系図で、
:流れ的には、「3次的資料」になるのだろうと思います。
:
:見ていただくと、分かりますが、掲載図の左側(上下)の系図は、
:(「2次的資料」ですが、)論理的には、破綻しています。
:(その1):同じ系図の中に、「天忍男命」が二人存在します。
:(その2):建田背命(建田勢命)の系統が二つ存在しています。
:これらの問題を解決しないことには、「一次資料」すら
:使えないことになります。
:それに比べると、掲載図の中央の系図は、「3次的資料」ですが、
:穏便な書き方をしています。
:「古代豪族系図集覧」の立ち位置は、こんな感じです。
*****
:話は、少しずれますが、
:「稗田阿礼」の名前は、古い史料には、載っていたはずです。
:多くの系図研究者は、その名前はありえないとして、存在を
:カットしてなかったことにして、研究をしているようです。
:近藤敏喬氏の「古代豪族系図集覧」は、どんなに理不尽であっても
:「一作」とか「一伝」とかで、なるべく、多くの「異伝」を
:残してくれているように、思います。
-
15:石見介:
2025/07/12 (Sat) 13:42:09
-
米田喜彦さん
情報有難うございます。
ただ、コメント完成前の誤記誤変換の多いものの引用は、ご容赦お願いします。
宝賀氏の著書は『和珥氏』など、購読しています。
肝心の『古代豪族系図集覧』が、各種系図を収めた,史料集的性格も併せ持ち、且つ、著者の考察を加えた復元系図をも、提示した書籍なのか、それとも、一次資料の引用はあるが、復元系図の提示を主眼として、一次資料提示は、著者の主観的取捨によるものかが、どうも判明しません。
また、著者のプロフィールも不明です。
近藤安太郎氏と敏喬氏のどちらが、著者なのか、米田さんのコメントからは、はっきりしません。
御面倒でしょうが、そのあたりを、ご説明いただければm有り難いです。
編集未済
-
14:米田
:
2025/07/12 (Sat) 10:32:32
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1752283953.gif
┌
│当該書籍や著者について、情報のご提供を、
│お願い申し上げます。
└
「系譜学」wikiより
:
:通俗的には系図(家系図)を調査研究する学問を指す。
:その具体的な活動は、先祖の住んでいた地域の寺院や役所、
:その親戚を訪ね、縁戚者名の収集・確認、種々の証拠
:(洗礼簿や過去帳などの個人記録、公文書、史料、姓、
:_苗字、名、地名、また近年はDNA鑑定による遺伝的証拠も)
:に基づくそれらの関係の確定、さらに系図の作成を含む。
:
:日本で類似のものとしては
:太田亮が設立した系譜学会、
:丹羽基二の日本家系図学会、
:丸山浩一の家系研究協議会などがある。
・日本家系図学会の再発足について(ネットのHPより)
:
:故近藤安太郎氏の後援で近藤出版社から、云々。
:こうした動きのなかで、平成21年3月14日、東京都港区南麻布で
:発起人会を開催し、新生の日本家系図学会の会則と組織を決定し、
:当日委任を受けていた発起人会欠席の方々にも結果報告を行い、
:改めてご了解をいただきました。
:
:役員人事については、3月末までに発起人代表をつとめた
:宝賀寿男氏を会長に選出し、副会長に岸芳男氏(兼事務局長)
:ほか4名、云々。
:今後は具体的に会としての活動を進めていくことになっています。
-
13:米田
:
2025/07/12 (Sat) 10:30:18
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1752283819.png
┌
│Re: 「古事記のウソと日本書紀の齟齬」 - 石見介
│2025/07/11 (Fri) 14:38:36
│
│米田喜彦さん
│
│史料批判の常道として、『古代豪族系図集覧』の信憑性の
│評価が、米田さんの系図復元の最初の段階になると思われます。
│
│実は、私は、この本は、『群書系譜部衆』同様種々の史料の
│系図類を、集めた本だと思い込んでいましたが、
│最近、不審に思い、先程、検索しました。
│
│どうやら、著者の近藤敏隆氏の「著作」であって、系図集では
│なく、近藤氏の「考察」した復元系図集のようにも思われます。
└
・古代氏族系譜集成(上・中・下):宝賀寿男編著
:古代氏族研究会(大阪)発行:1986年4月(総1752頁)
・系図研究の基礎知識(全4巻):近藤安太郎著
:近藤出版会:平成元年(1989年)3月20日初版発行(約2821頁)
・古代豪族系図集覧(全1巻):近藤敏喬編
:東京堂出版:平成5年(1993年)9月25日初版発行(約437頁)
┌
│著者の履歴等も不明で、私には、評価不毛です。
│専門の研究者ではなく、古代史愛好家の可能性もあります。
└
・近藤安太郎(P-156より)
:他方、古代史研究の現状をみると、『古事記』『日本書紀』
:『続日本紀』『新撰姓氏録』など、主に官選の史書の記述に
:忠実であろうとするあまり、それからはみ出すような系図が
:発見されても、きわめて慎重であった。
:また上古の皇統譜についていうと、欽明天皇以前の天皇の実在は
:疑わしいとか、祟神天皇以後は、実在の天皇であるが、それ以前の
:天皇は架構であるとか、ただ古い天皇を“抹殺”しようとする
:空気が強く、『記紀』の古い部分の批判に精力を注いで、
:氏族の系図はどちらかというと冷淡であった。(云々)
┌
│当該書籍や著者について、情報のご提供を、お願い申し上げます。
└
-
12:石見介:
2025/07/11 (Fri) 14:38:36
-
米田喜彦さん
史料批判の常道として、『古代豪族系図集覧』の信憑性の評価が、米田さんの系図復元の最初の段階になると思われます。
実は、私は、この本は、『群書系図部集』同様種々の史料の系図類を、集めた本だと思い込んでいましたが、最近、不審に思い、先程、検索しました。
どうやら、著者の近藤敏高氏の「著作」であって、系図集ではなく、近藤氏の「考察」した復元系図集のようにも思われます。
著者の履歴等も不明で、私には、評価不能です。
専門の研究者ではなく、古代史愛好家の可能性もあります。
いずれにしろ、米田さんの系譜復元が、一次資料ではなく、2次的、3次的資料に因っていた可能性が、出てきましたので、その場合は、当然、信頼性は低下します。
当該書籍や著者について、情報のご提供を、お願い申し上げます。
-
11:米田
:
2025/07/10 (Thu) 23:56:32
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1752159392.png
.
:出来た! と、思ったら、
:さっそく、系図の修正です。
:「黒田(一伝勝海弟)」が、気になっていました。
:これで、少しは、良くなったと思います。
:系図解読復元マニアは、系図の作図(復元)と修正という
:こんな事ばかりを、しています。
-
10:米田
:
2025/07/10 (Thu) 23:13:30
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1752156811.png
┌
│Re: 「古事記のウソと日本書紀の齟齬」 - 石見介
│2025/07/07 (Mon) 11:44:55
│
│次に、語り部とされる「稗田阿礼」について
│米田さんご提示の系譜では、
│中臣氏の系譜に接続されていますが、
│これまで、私はそのような系譜は見たことがありません。
│
│藤原鎌足が、中臣連の本宗家に近い存在だったかは、
│私は疑問の余地があると考えていますが、中臣連の一員で
│あった事には、疑問は持っていません。
│
│しかし、稗田阿礼が、中臣連の一族だとは、思えないのです。
│根拠をご提示お願いします。
└
>これまで、私はそのような系譜は見たことがありません。
:私も、この系図を見た時には、とても驚きました。
:古本屋で、この「古代豪族系図集覧」のこの系図を
:見つけたことで、この本を買う決心をしました。
┌
│しかし、稗田阿礼が、中臣連の一族だとは、思えないのです。
│根拠をご提示お願いします。
└
:根拠は、系図を復元して、その系図が成立しているかどうかです。
:復元した系図を、掲載していますので、ご確認下さい。
:この系図の復元には、約20年、挑戦してきましたが、
:今回(今日)の作図が、一番、腑に落ちています。
:どこまで正しいかは、分かりませんが、提示します。
-
9:米田
:
2025/07/10 (Thu) 17:36:10
-
┌
│Re: 「古事記のウソと日本書紀の齟齬」 - 石見介
│2025/07/07 (Mon) 11:44:55
│
│「古事記序文偽書説」については、米田さんは、
│どのようにお考えでしょうか?
└
:(ひとつ前の投稿で、)p君さんへ書いたように、
(その1)
:聖徳太子=稗田阿礼、で、彼らが『天皇記』『国記』等を作った。
(その2)
:28歳の人物は、稗田阿礼ではなくて、太安万侶だった。
:まず、ここまでは、事実の改変(ウソ)だろうと思います。
:さらに、三つ目を考察します。
(古事記序文より):伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、云々。
:おかしいのです。
:皇帝陛下は、男性のハズです。
:少なくとも元明天皇ではないはずです。
:それで、「古代豪族系図集覧」を見ると、
:諡号ではありますが、「皇帝」がいました。
:「舎人親王(676年生・735年没)諡号:崇道尽敬皇帝」です。
:それで、生前で、「皇帝」を名乗っている人物はいないか
:調べてみました。当然ですが、いませんでした。
:ただ、舎人親王も就いていた役職がありました。
:それが、「知太政官事」でした。
:古事記の献上は、712年です。
:その時の、「知太政官事」は、「穂積親王」です。
:
:私の結論は、太安万侶が献上した相手は、元明天皇ではなく、
:「知太政官事」の「穂積親王」だったに違いない。
*****
「知太政官事(ちだいじょうかんじ)」wikiより
知太政官事は、飛鳥時代・奈良時代に存在した
律令制の令外官のひとつ。
太政官を統括するものとして、
刑部親王(大宝3年)、穂積親王(慶雲2年)、
舎人親王(養老4年)、鈴鹿王(天平9年)
の4人の皇族が任命された。
大宝2年(702年)12月に持統太上天皇が崩御した。
(文武天皇、この時、20歳。)
大宝3年(703年)1月、刑部親王、知太政官事に任命される。
慶雲2年(705年)5月、刑部親王は薨去した。
慶雲2年(705年)9月、穂積親王、知太政官事に任命される。
和銅8年(715年)7月、穂積親王が薨去した
┌空位____(元正天皇:715~724、680年生)
└養老4年(720年)8月、不比等は右大臣のまま死去した。
┌
│『続日本紀』、養老4年(720年)5月に次のようにある。
│先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷
│以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に
│当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した。
└
養老4年(720年)8月、舎人親王が知太政官事に任命された。
天平7年(735年)11月、舎人親王は薨去した。
_舎人親王(676年生・735年没)諡号:崇道尽敬皇帝
ふたたび知太政官事は空席となった。
天平9年(737年)、鈴鹿王は、知太政官事に登用された。
天平17年(745年)9月、鈴鹿王は、薨御した。
*****
:wikiを読んでいて、疑問に思います。
:720年の時の天皇は、元正天皇(女性)です。
:「元正天皇」に、養老4年(720年)5月、知太政官事にはまだ
:任命されていない「舎人親王」が撰上しているのです。
:
:私の推測では、舎人親王は、715年に、任命されたが、
:(または、不比等によって、任命されなかったため、)
:不比等の死後、ようやく(正式に)知太政官事に任命された。
:(ひとつ前の投稿で、)p君さんへ書いたように、
(その1)
:聖徳太子=稗田阿礼、で、彼らが『天皇記』『国記』等を作った。
(その2)
:28歳の人物は、稗田阿礼ではなくて、太安万侶だった。
:まず、ここまでは、事実の改変(ウソ)だろうと思います。
:この2点で、「古事記序文偽書説」云々に該当するかどうかは、
:私には分かりません。
-
8:米田
:
2025/07/10 (Thu) 16:54:20
-
┌
│Re: 「古事記のウソと日本書紀の齟齬」 - p君
│2025/07/09 (Wed) 21:03:55
│
│稗田阿礼
│>『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、
│_28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の
│_誦習を命ぜられたと記されている。
│_元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを
│_筆録し、『古事記』を編んだ。<
│
│何でしょうかこれ。
└
*****
「日本書紀」wikiより
歴史的背景
まず言及されるのは「帝紀」と「旧辞」
(それ以外に伝わる昔の物語)である。
「元々は口承で伝えられていた伝承が6世紀にまとめられたもの」
と一般的には考えられている。
「書かれた歴史」を編纂する修史事業の記録は推古朝に登場する。
『日本書紀』によれば皇太子(聖徳太子、厩戸皇子)と嶋大臣
(蘇我馬子)の監修で推古28年(620年)に『天皇記』『国記』
『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』がまとめられた。
推古朝において日本における修史事業が始められたことは
当時の東アジアの潮流と軌を一にする。
上に述べた新羅の修史事業は真興王6年(545年)に「国史」を
まとめたものであり、高句麗は嬰陽王11年(600年)に『新集』
と呼ばれる史書を撰述している。
百済については修史事業の具体的な記録は残っていないが、
『三国史記』の記述からは近肖古王(在位:346年-375年)代
以来、何らかの「記録」があったことがうかがわれる。
『日本書紀』の記録によれば、皇極天皇4年(645年)の
乙巳の変(いっしのへん)において中大兄皇子(天智天皇)、
中臣鎌足らによって蘇我本宗家が滅ぼされた際、
蘇我蝦夷は私邸に火を放って自害した。
この時、蝦夷の私邸に保管されていた 『天皇記』『国記』も
珍宝と共に焼かれたが、『国記』は船史恵尺によって
火の中から取り出され中大兄皇子に献上されたとされる
(皇極天皇4年6月13日条)。
これに関連する情報は『新撰姓氏録』の序文にもあり、
『国記』が焼かれたために各氏の出自が失われ偽る者も現れたが、
船史恵尺が焼かれようとする『国記』を奉ったとある。
しかし、これらの伝承が事実であったとしても、
『国記』は『天皇記』と同じくに現代には伝わっていない。
*****
:上記の記述に、いくつか書き加えようと思います。
(その1)
:聖徳太子=稗田阿礼、で、彼らが『天皇記』『国記』等を作った。
(その2)
:船氏王後は、舒明天皇の父、押坂彦人大兄皇子=百済武王である。
:そして、舒明天皇は、百済義慈王(在位:641~660)である。
船首
│
├─刀羅古
├─王後首(百済武王)──舒明天皇(義慈王)
└─龍─────────船恵釈(尺)←『国記』を献上。
────────────────
:『船氏王後墓誌』の紹介
「・・・首(おびと)之子也生
_於乎婆陁(おさだ)宮治天下天皇之世奉仕
_於等由羅(とゆら)宮治天下天皇之朝至
_於阿須迦(あすか)宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲
_於阿須迦(あすか)天皇之末歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅故
_戊辰年(668年)十二月殯葬於松岳山上共婦・・・」
────────────────
┌
│稗田阿礼
│>『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、
│_28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の
│_誦習を命ぜられたと記されている。
│_元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを
│_筆録し、『古事記』を編んだ。<
└
この文章を、私なりに、加除修正しようと思います。
┌
│>『古事記』の序文(を書き換えると、)
│そもそも、『天皇記』『国記』等は、620年頃に
│稗田阿礼=聖徳太子(蘇我蝦夷)らによって、作られた。
│太朝臣安万侶は、天武天皇に舎人として仕えており、
│天武天皇10年(681年)、28歳のとき、記憶力の良さを
│見込まれて、『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられた。
│(日本書紀の編纂をしていたが、事情により外された。その後、)
│元明天皇の代、詔により太安万侶が『古事記』を編んだ。<
└
:文章に、ウソを加える時には、そのウソは、少ないほど
:真実味があります。というわけで、
:一つの対案として、書いてみました。
-
7:米田
:
2025/07/09 (Wed) 23:40:26
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1752072027.gif
.
(現時点での、妄想だらけの想像図です。)
(忌部)
─佐賀斯─┬──忌部首(719年没)
──女──┘┐
─平群宇志─┴─平群子首_______(享年75歳として)
(多品治)────(太朝臣安万侶:723年没)←(649年頃生)
日本書紀(645年)
:忌部首子麻呂を美濃の国に遣わし、云々。
(何らかの系図操作で、忌部首子麻呂=平群宇志=多品治、だろう)
**************************
<「(歴史の素人である)私」の歴史に対するスタンス>
・中学校の数学(図形)の時に、図形の中に、補助線を書き込むと、
_今まで見えなかった事象が見えてくることがありました。
・「生年or没年」の不明な人物に対して、享年を75歳(75±10歳)に
_設定することで、その人物の活躍時期を想定する。
・虫食い算やパズルを解く感覚で、(多夫多妻の)系図を見た時に、
_複数の系図に現れる人物が、同一人物であることに気付く。
*****
・「シンメトリ」や「干支」を使って、年代の復元を模索し、
_「系図復元」&「同一人物の特定」から、記紀の見直しを図る。
・図形に補助線を書き込むように、記紀の登場人物を同一人物に
_まとめていくことで、記紀が隠していることが見えて来ます。
_これが、(系図解読・復元という)私の歴史へのアプローチです。
**************************
<「古代豪族系図集覧」の謎>
:系図上の謎は、他にもたくさんありますが、系図を「一目」
:見ただけで、分かること(不思議に思うこと)があります。
:それは、「金」と「目」です。
:この二つは、まるで、(系図に埋め込まれた)記号か暗号です。
:で、ここでは、「金」について、書きます。
:系図は、生物学(血統)的な記録ではなくて、社会的な記録です。
:私の一族は、養子だらけです。
:叔父(二人)は養子。兄は養子。甥っ子の一人は、養子。
:だから、感覚的に分かるのです。
:
:「古代豪族系図集覧」の一番最初の頁「系譜」は、「天皇家」
:ではなくて、藤原氏の先祖の「天神系(中臣氏)」なのです。
:そして、(同じように、天皇家・源氏・平氏を除くと)豪族では、
:この中臣氏(物部氏・大伴氏)を先祖に持つ豪族が大半なのです。
:これは、私の感覚的なもので、数値化したものではありませんが。
:
:それで、「中臣氏(物部氏・大伴氏)」の家系を「朴氏」、
:大国主命・天之日矛・日本武尊の家系を「金氏」とします。
「朴氏系の豪族の系図」の構造
──────金氏の男─┬──「金」
朴氏の男──朴氏の女─┘┐
─────朴氏の男───┴─「○○」
:「朴氏」の系図の中に「金氏」が混入するには、条件があります。
(その1):「金」のひとつ上の人物は、女性である。
(その2):「金」は「金氏」。「○○」は「朴氏」である。
____:つまり、「朴氏の女」の夫は、複数いることになります。
PS:
:では、「目」は、どうなのか。
:「目」は、ポジション的には、「め=女」だと思うのですが、
:「大連」ですので、「夫婦同名」を利用した、夫婦のすり替えを
:しているような気がしています。
:
:「金」にしても、「目」にしても、系図上の人物を記紀に
:書かれている人物に、特定すると、何か見えてくると思います。
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6:p君
:
2025/07/09 (Wed) 21:03:55
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稗田阿礼
>『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだ。<
何でしょうかこれ。
稗田阿礼が28歳の時には『帝紀』『旧辞』が存在してたわけで、なんでわざわざ【誦習】しなければならなかったのでしょうか。
そんなことする必要はないわけです。
太安万侶も『帝紀』『旧辞』の複写をすればよかっただけですね。
つまり古事記は(日本書紀も)『帝紀』『旧辞』から大きく書き換える必要があり、それは『帝紀』『旧辞』に書かれてた時代を大きく書き換えることであり、案の定、古事記でも神武137歳、崇神168歳などと時代を大きくごまかしており、後世の人間が「そんなアホな…」と訝しがっても、いやあくまで稗田阿礼の記憶ですからとの理由をつける為でしょう。
7世紀の朝廷は、最初から『帝紀』『旧辞』を焚書したいという意図があった事が分かります。
それがなぜかは、私がこの掲示板で何度も言ってますが、帥升、卑弥呼、台与、倭の五王、すべて誰なのかがわかっており、卑弥呼の墓も分かっており、それらの屈辱の史実をそのまま後世に伝えるわけにはいかなかったからだと思われます。
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5:米田
:
2025/07/08 (Tue) 11:42:00
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https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1751942521.gif
<「太朝臣安万侶」は、誰か?>
:今まで、このスレでは、「稗田阿礼」について書いてきました。
:そして、「稗田阿礼」なる人物を、約100年あとの時代の人物の
:ように書いていたのではないかと、調べて来ました。
:
:次は、古事記の編者「太朝臣安万侶」についてです。
:まずは、「太(おお/おお-し/おお-の)」についてです。
▼日本書紀 巻第十四 雄略天皇紀
九年春二月、遣「凡(おお-し)河内」直香賜與采女、祠胸方神。
▼日本書紀 巻第十八 安閑天皇~宣化天皇
前庶妃「大(おお-し)」河内稚子媛、生一男、是曰火焰皇子、
是椎田君之先也。
▼日本書紀 巻第二十七 天智天皇紀(661年)
九月、皇太子、御長津宮、以織冠授於百濟王子豐璋、
復以「多(おお-の)」臣蔣敷(こもしき)之妹妻之焉。
▼そして「太(おお-の)朝臣安万侶」(723年没)
*****
(検証できない命題)
:今まで、系図をいじって来た経験(感覚)からすると、
:天武10年の「平群臣子首」と「太朝臣安万侶」は、
:同一人物ではないか? ということです。
:そのくらい、日本書紀と古事記は、表裏一体です。
:(細かい処まで、記紀を知り尽くしています。)
:
:つまり、「平群臣子首」は、日本書紀の編纂に携わってきたが、
:700年頃に天皇が変わって、日本書紀の編集方針が変わった。
:そのため、日本書紀編纂から外された「平群臣子首」は、
:(「太氏」に系図の付け替えをされたうえ)編纂から外された。
:その後、「平群臣子首」は、「太朝臣安万侶」として
:「古事記」を書きあげた。
:どこまで、正しいのかは分かりませんが、
:勝手な想いを、ここに残しておきます。
:今回、「子首」で、検索をしていたら、
:[PDF]忌部首・ - 国立情報学研究所
:
:忌部首・同子首をめぐっての考察をしている
:[PDF]が見つかりました。(7/07に、見つけました。)
:(論文の紹介です。[PDF]は、ダウンロード出来ます)
:読むのが難しい論文ですが、興味のある方は、どうぞ。
(現時点での、妄想だらけの想像図です。)
(忌部)
─佐賀斯─┬──忌部首(719年没)
──女──┘┐
─平群宇志─┴─平群子首(太朝臣安万侶:723年没)
(多品治)
PS:「稗田阿礼」について
:稗田阿礼は、中臣氏ではありません。
:つまり、系図の中に、女性が紛れ込んでいるために、
:男系が、接ぎ木のように変わっている(紛れ込んでいる)のです。
:この問題については、また、後日、書こうと思います。
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4:石見介:
2025/07/07 (Mon) 11:44:55
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米田喜彦さん
興味深いテーマですが、米田さん独自の方法論にどうしても違和感が残り、コメント出来ない可能性も、高そうです。
私の理解できると言うか、許容範囲内で、コメント可能な部分については、ご迷惑かも知れませんが、コメントさせていただきますので、ご了承お願いします。萬葉仮名や上代日本語についてのご意見、楽しみにしています。
最初の意見、と言うより異見ですが、
まず、『古事記』撰述者について
ご承知の通り、太安万侶は、その墓誌が発見されていますが、それには、『古事記』について、一切言及がありません。『先代旧事本紀』のような、明白な偽書とは異なり、『古事記』には、上代日本語の時代に著作された証拠としての、万葉仮名が、歌謡や人名、地名等の表記に使用されており、本文著述時の時代は、保証されています。
従って、「序文」のみの「偽作」説が、成立するか否かが、問題になります。
「古事記序文偽書説」については、米田さんは、どのようにお考えでしょうか?
次に、語り部とされる「稗田阿礼」について
米田さんご提示の系譜では、中臣氏の系譜に接続されていますが、これまで、私はそのような系譜は見たことがありません。
藤原鎌足が、中臣連の本宗家に近い存在だったかは、私は疑問の余地があると考えていますが、中臣連の一員であった事には、疑問は持っていません。
しかし、稗田阿礼が、中臣連の一族だとは、思えないのです。根拠をご提示お願いします。
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3:米田
:
2025/07/07 (Mon) 07:42:12
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https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1751842442.gif
(その3):古事記は、なぜ推古天皇の時世までの記録なのか。
:推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』
:『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
:稗田阿礼を推古天皇の時代の人物とすると、
:稗田阿礼が関わったであろう「原古事記」は、
:厩戸皇子が編纂した、上記の3作品だろうと、推測します。
:
:そうすると、「太朝臣安万侶」がしたことは、
:上記の作品をもとにして、日本書紀に書ききれなかったことや、
:万葉歌人たちが創作した、スサノオたちが詠ったとする
:たくさんの歌を追加することで、古事記を文学作品に
:作り上げたのだと思います。
:系図的には、日本書紀や古事記などを矛盾を含めてすべて正しい
:とした時に(系図改ざんの法則性などによって)正しい系図が
:あぶりだされてくるように作られたと思っています。
「『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)」wikiより
:井上亘は『法華義疏』に提婆達多品の解釈が抜けていることを
:指摘した上で、その原因として『法華義疏』が鳩摩羅什が
:将来(持って来ること)・漢訳した『法華経』(『妙法蓮華経』)
:をテキストにしているからであるとする。
:
:巻一の巻頭の表紙の裏には別紙を継ぎ、
:「此是大委国上宮王私集非海彼本」と書き込まれている。
:この書き込みは
:「此れは是れ、大委国(やまとのくに)の上宮王(かみつみやの
:おおきみ)の私の集にして、海の彼かなたの本にあらず」と
:読め「日本の聖徳太子の自著であって、海外の本ではない」
:との意である。
*****
:『三経義疏』および、「書き込み」は、漢文で書かれています。
:この時代には、まだ漢文で書くことが主流であったと思われます。
-
2:米田
:
2025/07/07 (Mon) 07:41:04
-
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1751841665.gif
┌
│「稗田阿礼(ひえだのあれ・生没年不詳)」(wikiより)
│
│稗田阿礼は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人。
│『古事記』の編纂者の1人として知られる。
│暗誦する役割をもつ人たちの集団とする説もある。
│活動期間__7世紀後半から8世紀初頭
│雇用者___天武天皇←(没年686年)
└
:果たして、wikiの記述(稗田阿礼の活動時期)は正しいだろうか。
:私の予想は、NOである。
(その1):系図からのアプローチ
:下の系図は、「古代豪族系図集覧」の最初の頁の系図からです。
:一見すると、稗田阿礼は、藤原鎌足よりも二世代上の人物です。
鎌子─┬─常盤──可多能枯──御食子──藤原鎌足(614年生)
___└─忍立──稗田阿礼
___(仮に、稗田阿礼が574年生とすると、28歳は、601年。)
:この系図が正しいとすると、(一世代20年とすると、)
:稗田阿礼の生年は、574±○年が、思い浮かびます。
:そして、28歳は、601年になります。
:
:推古9年(601年):皇太子は、はじめて斑鳩に宮室を建てた。
(その2):万葉仮名からのアプローチ
:額田王(634±3年)が、薬草狩りで、恋の歌を詠んだとして、
:(万葉仮名が使われ始めるのが)650年頃。
:歌人として、日本書紀や古事記の手伝いをしたとすると、
:681年以降、(長くみても)710年頃まで。
:5・7調の歌が、スサノオの時代に作られるはずもなく、
:もし、詠われたとしても、その歌を記録する手段もなかった。
:(万葉仮名の登場は、7世紀です。)
:だいたい、スサノオに、5・7調の歌を詠む才能があったとも
:思えません。
「万葉仮名(まんようがな)」wikiより
:万葉仮名の歴史
:7世紀初めの推古期になると上宮聖徳法王帝説や金石文に
:多くの事例が見られる。
:ただし、これらの推古期遺文は年代についての異説も多い。
:7世紀中頃の木簡
:(大阪市中央区の難波宮跡出土。652年以前と推定)に
:「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」と
:和歌の冒頭と見られる11文字が記されている。
・天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)wikiより
:このように天寿国繍帳の服装は推古朝、遅くとも唐風改革の
:始まる天武朝より前の服装を表しており、
:服飾史では制作時期もその頃をするのが通説となっている。
○○明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩
于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天
皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使
明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩ず。
時に多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)、悲哀嘆息し、
天皇の前に畏み白(もう)して曰く、之を啓(もう)すは
恐(かしこ)しと雖も懐う心止使(とど)め難し。
「時、武素戔嗚尊歌之曰、
_夜句茂多兔(やくもたつ)、伊弩毛夜覇餓岐(いづもやへがき)、
_兔磨語昧爾(つまごめに)、夜覇餓枳都倶盧(やへがきつくる)、
_贈廼夜覇餓岐廻(そのやへがきゑ)。」
「額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ)」wikiより
:額田王(生没年不詳。女性)は、飛鳥時代の日本の皇族・歌人。
:生年は不詳であるが、まず孫の葛野王が669年(天智天皇8年)
:の生まれであることは確実である。
:このことから、娘の十市皇女の生年は諸説あるが、648年
:(大化4年)から653年(白雉4年)頃の間の可能性が高い。
:更に遡って、額田王は631年(舒明天皇3年)から
:637年(同9年)頃の誕生と推定される。
_____(天武妃・万葉歌人)
___┌─額田王(634±3年)─十市皇女──葛野王(669年生)
鏡王─┤
___└─鏡女王(天智妃・万葉歌人)←(天智天皇は、626年生)
「日本書紀」wikiより
:歴史学者坂本太郎は、天武天皇10年(681年)に天皇が
:川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じ
:たという『日本書紀』の記述を書紀編纂の直接の出発点と見た。
「聖徳太子(しょうとくたいし)」wikiより
:厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに
:『法華義疏』(伝:推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』
:(伝:推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』
:(伝:推古天皇21年(613年))を著した。
:これらを「三経義疏」と総称する。