東アジア討論室
スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/03/30 (Wed) 08:24:12
┌
│関口宏の一番新しい古代史
│投稿者:MUSASHI
│投稿日:2022年 3月27日(日)10時27分54秒
│2022/4/2(土)スタート
│BS-TBS 毎週土曜 ひる12:00~12:54
└
MUSASHIさんへ
ご紹介ありがとうございました。。
さっそく、録画予約しました。
『関口宏の一番新しい古代史』(以下、ウィキペディアより)
:同番組は、日本の古代史の謎を、令和時代につながる
:新たな視点と最新の研究成果を交えて掘り下げながら、
:日本の歴史の原点を探っていくというものである。
吉村 武彦(よしむら たけひこ)
:吉村 武彦(1945年〈昭和20年〉 - )は、日本の歴史学者。
:文学博士(東京大学・論文博士・1997年)
:(学位論文「日本古代の社会と国家」)。
:明治大学文学部史学地理学科名誉教授。専門は日本古代史。
松岡 正剛(まつおか せいごう)
:松岡 正剛(1944年1月25日 -)は、日本の実業家、編集者、
:著述家。株式会社松岡正剛事務所代表取締役、
:編集工学研究所所長、ISIS編集学校 校長、
:角川武蔵野ミュージアム館長。京都市出身。
:東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。 (約435文字)
「『日本書紀』紀年の再検討」新納 - 当世奇妙
2022/05/30 (Mon) 19:00:35
私はあまり自信がないので新納先生の論文にあたっていただけませんか。
『考古学研究68-2』2021年AUTUMN
「『日本書紀』紀年の再検討」新納
取り敢えずの新納論文にかんするコメント:
『古事記』は正しいと思う内容で筋を通した。
『日本書記』は多くの資料を取り入れ、統一せずに異説も紹介し
て伝えようとした。
倭においては5世紀頃には年代を示す干支は未だ浸透しておらず、
多くは「応神5年」のように即位から何年目かで記していたと推定。
書紀はそのような原典史料を干支の中に位置づける作業をした。
『日本書紀』の応神紀・雄略紀と好太王碑文、宋書、三国史記などと比較分析するとかなり一致する。
但し『日本書紀』の干支は海外史料とはずれが出ている。
以上がざっと見た私の理解ですが、出来れば新納先生の論文を当って紹介いただければと思います。。
「『日本書紀』紀年の再検討」新納泉 - 当世奇妙
2022/05/30 (Mon) 06:08:06
『考古学研究68-2』2021年AUTUMN
「『日本書紀』紀年の再検討」新納泉
上記の論文を昨日3部頂き、会場にいた方にお渡しした。
私もざっと読んだが、以下のように理解した。
日本書紀と海外史料(広開土王碑、宋書など)との比較から
倭の五王の讃は応神で在位は385~425、武は雄略で在位は466~489。
430年の倭王は仁徳の可能性、興は安康の可能性があるとした。
私には良く理解できないが、『日本書紀』編者は応神に関する倭系原典史料にあった紀年より115年古く位置づけて記載し、干支でも5年のズレが生じさせて
いるとした。
新納先生ご講演 - 当世奇妙
2022/05/29 (Sun) 06:21:44
新納先生の基本的研究分野は古墳時代です。
それに考古学研究方法に対して、GPS情報、先端的計測技術、コンピューターによる分析
を取り入れた「空間考古学」を追求されています。
最近では『日本書記』と海外の碑文、正史、歴史的文書などの
比較研究など文献分野にも功績を残されています。
長い間考古学研究会の代表委員(会長)を務められ、
現在も常任委員である。
このような総合的な研究力を活かして、古墳時代について
1.権力の中心地は王宮か、前方後円墳築造地か?
2.大型古墳造営地の移動は何を意味するか?
3.百舌鳥古墳群と古市古墳群で輪番的に大型古墳が築造されている意味は何か?
などについてお考えを述べられた。
結論として
古墳時代のヤマト王権の政権のあり方の変化について述べられた。
会場やZOOM視聴者からも鋭い質問が投げられ、議論は非常に豊かな
内容だった。
シュレディンガーの猫 - 白石南花
2022/05/25 (Wed) 13:44:43
シュレディンガーの猫について解説しました。
よろしければどうぞ。
https://ameblo.jp/shiroi-shakunage/entry-12744656779.html
国会図書館の新サービス - 白石南花
2022/05/24 (Tue) 17:07:38
https://www.ndl.go.jp/jp/use/digital_transmission/individuals_index.html
従来通りのリモートからの論文複写郵送サービスもあります。
景初三年説と暦法について - 白石南花
2022/05/23 (Mon) 11:18:26
以前卑弥呼の魏への最初の朝貢年について、暦法の問題から話したことの続きです。
魏の景初年間は、後漢以来使われていた四分暦を改め景初暦と呼ばれる暦を使用していました。
これは大雑把に言うと、四分暦の月の巡りを一月早めたもののようです。
つまり四分暦の十一月が、景初暦の十二月になっていたようです。
明帝は景初暦の景初三年一月に崩御し、曹芳が即位したのち、景初四年を改め正始元年に改元する予定が、直前の景初三年十二月になって、四分暦に戻すことになりました。
そのため改元も一月遅れ、景初暦で正始元年になるはずだった月は、景初三年十二月となり、十二月が二回繰り返されることになりました。
実は西晋王朝の開始された、泰始元年に再び改暦があり、泰始暦という暦が使われるようになりますが、これは内実景初暦と同じものです。
すなはち泰始元年正月は、四分暦では咸熙二年の十二月ということです。
日本書紀神功紀に引用された晋の起居註には、泰初二年十月に倭の女王が朝貢してきたとありますが、晋書帝紀には泰始二年十一月になっています。
このことから、起居註では使い慣れた四分暦をそのまま使用し、正史ではそれを泰始暦に改めていた可能性があります。
このことから、晋書帝紀の正始元年春正月条にある、倭の朝貢記録が泰始暦に基づいて記述されていたとすると、これは景初三年十二月のことであるとなります。
つまり、朝貢が続けて二度あったのではなく、同じ出来事が異なる暦法で記録されていたと言うことです。
わざわざ暦法を変えてまで、正始元年のこととしたのは、いつの時代から晋の歴史として記述するかを議論する、晋書限断論という議論が当時あって、有力説ではないのですがその一論として、正始元年以降とする説が唱えられていたことがあると思われます。
つまり、卑弥呼の朝貢を司馬懿の功績にしたいためであると思われます。
実は司馬懿は宮廷政治を苦手としていたという説があり、明帝死後実績は抜群でも、政治の実権は曹爽の手にあったようなのです。
実際蜀征伐は、曹爽が司馬懿の反対を押し切って実行しています。
曹爽は実績面で負ける司馬懿を抑え込むために、実績を積みたかったようで、卑弥呼が親魏倭王の別格の扱いを受けたのは、曹爽の父曹真が大月氏の朝貢を実現させ、親魏大月氏王の称号を与えたことに倣ったものでしょう。
正始十年に司馬氏は政変により、曹爽政権を打倒し、関連したものを誅殺します。
その後東夷政策の策源地は、襄平から右北平に後退し、倭人を含む東夷の朝貢もながらく絶えてしまいます。
つまり曹爽政権の政策は否定されるわけです。
これが転換されるのは、曹髦がクデターに失敗して殺され、魏王朝を完全に組み敷いた後です。
これ以降倭の朝貢は、司馬懿の功績とされていくことになります。
晋書帝紀にわざわざ泰始暦を使ったのも、そのためでしょう。
もっとも、景初三年の改暦には、多くの混乱が伴ったでしょうから、実際に正始元年の記録があってもおかしくはないでしょう。
ところでそれよりも、注目すべきはこの正始元年の朝貢記事の内容です。
「正始元年春正月,東倭重訳納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來献。」
つまり卑弥呼の朝貢は、正始改元を祝う行事の一環で、曹爽が呼び寄せたものだったわけです。
突然の改暦でそれが狂ってしまったのでしょう。
この朝貢は三国志帝紀には記録されていません。
倭の朝貢で記録されたのは、正始四年の俾弥呼の朝貢だけです。
三国志帝紀と王沈の魏書の逸文をもとに、三国志帝紀の原史料は王沈の魏書であるとの研究があります。
王沈は曹髦のクデターで司馬昭に寝返った人物で、東夷関係の記事は司馬氏に阿って必要最小限にされ、景初三年の親魏倭王の話などは、まったくすっ飛ばしているわけです。
「邪馬・邪靡」=「天(あま・あめ)」の筑後弁訛り - 2 - 福島 雅彦
2022/05/21 (Sat) 12:05:36
『三国志(魏志倭人伝)』の「倭」の三十ヶ国に25番目の「邪馬國」は何?
※「高天原」の更に東の国=大分県山国町である。
*其処には、「一尺八寸山」がある。
・「一尺八寸山」=「みのやま」と読む難読で知られる。
・水縄連山(耳納山地)と同じく、水源の山か。
・官営用水路の幅が「一尺八寸」に因むかと、推測(福島雅彦説)。
・「高天原」の更に東の「天(あま・あめ)」か、と。
「邪馬・邪靡」=「天(あま・あめ)」の筑後弁訛り - 福島 雅彦
2022/05/19 (Thu) 21:32:23
※『韓傳』の「彌烏邪馬國」は何?
・『三国志(魏志韓伝)』登場の国々の中に水(み)縄山(のうやま)(耳納山地)と同義の国名を発見した。
・「彌烏邪馬(みおやま)國(こく)」。
・水(み)縄山(のやま)の古称に蓑(みの)尾山(おやま)がある。水縄も蓑尾(雨具)も水が滴る、の意。
・高良山の古称「高牟礼山」も「“다가-물”(taka-mul)山」=「集る水の山」。
・「彌烏邪馬國」も「水生山國」=「水を生む山」の「倭語」。
・『韓傳』に記載されているが、元「倭地」=「拘邪韓國」か。「大伽耶國」建国王「伊珍阿岐王」=「伊奘諾尊」で「倭人(神)」。半島と列島に同じ地名。
・両方の「みの(お)やま」に区別をつけるために、定冠詞“구름의”(ku-reum-e)=「雲の…」を付けたのが「久留米」の語源。
・水縄山の山頂の小峰には「白雲台、紫雲台、凌雲台、碧雲台、渓雲台」がある。春夏秋冬朝昼晩照っても降っても雲が沸く。
・彌烏邪馬國が在ったと比定する「高霊郡」は「高良山」と対応する。
・そこの地名に「箕山(きざん)里(り)」があるが「倭語」の「箕山(みのやま)」と同義であり、「星山面」ともあるのは「星野村」と対応する。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
Re: 福島さん発想プロセス - 福島 雅彦
2022/05/19 (Thu) 08:00:14
>福島さんの発想、思考方法およそ理解出来ました。
>頑張ってください。
※ご理解と激励を頂き、多謝 謝々!
*「邪馬・邪靡」が「天(あま・あめ)」の訛りであれば「彌烏邪馬國」は如何に? のご下問を期待していましたが…。
・次回、勝手にその答えを投稿します。
Re:東 - 福島雅彦
2022/05/17 (Tue) 12:37:58
>福島さん
>韓国語は全くしりませんが、ネットで検索すると
>東は동で発音はトンとありますが?
※[東]=「トン」は漢字音です。日朝語では約半数以上の語彙が漢字音で共通です。
>「あ」が東と言うのはどこから来ましたか?
※東西南北の方位の語彙を研究しました。
④方位
イ).“아・앗”(a・ad)=平面は「端・東」、立体的には「上・上方」と。
・根拠は、筑後弁の 礼拝詞「アッ」から閃いたが…。
・朝日、月の出を拝む時、敬服する方(村長・駐在)と遭遇したとき、最敬礼して「アッ」という。
*「朝」は漢字音で「ちょう」である。「あ(東)さ(処)」=夜が明ける所。
・朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付く。
*檀君の朝鮮建国神話の「阿斯(あさ)達(だル)」の「阿斯(あさ)」も「倭語」の「朝」が疑われる。
・「達(たル)」=「嶽(たけ)」の意とする説(故・金達寿)があるが、「倭訓」であろう。
・「嶽(たけ)」=漢字音「ガク」、朝鮮語=“악”(ak)で、「倭語」。
∴「阿斯達」=「東の山」で「朝焼けの山」でもあり「高天原」と同義語。
*「天(あま、あめ)」は、「東・山(前項)」「国の東の聖なる山」の意。
*「山」が「やま」なのは「東の聖なる山」=「水縄連山(耳納山地)」限定用語だったのが一般の「さん」に敷衍したものであろう。
・“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
・安心院(大分県宇佐市)は、九州島の朝がくる方位でもある。
・阿波(四国の東)・阿漕が浦(紀伊半島の東)・安房(房総半島の東端)。
NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号 10~11頁。
[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ、と。≪一部抜粋≫
ロ).“서”(seo)=西。(『民衆書林・韓日辞典』)
「東・西彼杵郡(そのぎ)」⇒「長ノ崎(ちょのぎ)」=長崎の語源。
・佐田岬=(seo-ttang)岬は四国最西端。
ハ).“사”(sa)=南。巳(十二支の第六『民衆書林・韓日辞典』)。
佐多岬=(sa-tang)岬は、九州最南端。
二).“노”(no)=北、北方(船乗り用語=『民衆書林・韓日辞典』)。
能登半島=(no-ttang)半島は、北へ突き出ている。
能古(残)島は、博多湾の北に在る。
ホ).“아(a)서(seo)”=東西。
・阿蘇山は九州島の東西の中心。
・浅茅湾は対馬を東西に抜ける。阿蘇海は天橋立の砂洲で宮津湾と東西にし切られている。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
東 - 当世奇妙
2022/05/17 (Tue) 11:39:57
福島さん
韓国語は全くしりませんが、ネットで検索すると
東は동で発音はトンとありますが?
「あ」が東と言うのはどこから来ましたか?
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 福島雅彦
2022/05/16 (Mon) 21:39:14
>>「天(あま・あめ)」とは…。
>>(“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。
>上記は理解できません。
>朝鮮語では“아-”(a-)は朝の意味ですか?
>あ・さ と分けている意味は何ですか?
>「さ」 はどこから来ましたか?
※「あ」=「東」の意、「さ=処」⇒夜が明ける所=夜明け(日田市=「高天原」の東)⇒明日香(奈良県)
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 当世奇妙
2022/05/16 (Mon) 19:15:00
福島さんへ
私はハングル文字、ハングル語は全く
理解できません。
「天(あま・あめ)」とは…。
(“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。
上記は理解できません。
朝鮮語では“아-”(a-)は朝の意味ですか?
あ・さ と分けている意味は何ですか?
「さ」 はどこから来ましたか?
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 福島 雅彦
2022/05/16 (Mon) 15:52:56
>>「邪馬臺國」の「邪馬」は、「卑彌呼」の居所説明文言の筑後弁で「天(あま・あめ)」の訛りの音写。
>実際に発音聞かないと理解できませんね。
>朝鮮語で同じのは何ですか?
※「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」です。
*「天(あま・あめ)」とは…。
(イ)“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。
東(あづま)(あ・詰(つま))=東の端。朝(あした)、明日 (あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。
朝鮮語の朝=“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号。
[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ。≪一部抜粋≫
(ロ)“메-”(mæ-)の母音は現代朝鮮語では“e”となっているが、本来は「ま・め」の中間音。故に「天(あま・あめ)」の両方に読める。
“메”=「山」の古語的表現(民衆書林・韓日辞典)。
※「高天原」は、上記の「天(あま)」の前に「高」と後ろに「原」を付けたもの。
*「高」=高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字で 朝鮮語“다가-”(taka=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る]と同じ語幹。
*「原」=“벌”(beol)=[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」である。
※従って、「高天原」=「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」。
・水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇(ひしめ)いている。
・此地に「日向」の地名が現存。朝日に向いた地の意で「筑紫の日向」(国生み神話の舞台)である。「○○日向」の地名が十二ヶ所。
・「浮羽」の地名も[旭日原] =“욱일벌”(u-kil-beol)の語尾子音欠落発音である。漢字音由来なのは、「徐福」渡来後の影響か。
・「高天原」=「阿斯達」とも同義。旧・浮羽町役場の地名は「朝田」=「阿斯達」と同義=「朝日に輝く」の意。
≪「水縄連山(耳納山地)」は谷沢に刻まれた東西25㎞の保水力のある水源の山である。水耕稲作に必要な水量を必要な期間供給、棚田稲作の穀倉を潤した。
『記・紀』神話は弥生文化を背景に語られている。今の平野部は未だ低湿地の荒野である。『記・紀』が古く見せたがっても馬脚を現している=太安万侶の仕込んだ鍵≫
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
歴史の組立 - 当世奇妙
2022/05/16 (Mon) 07:18:42
歴史の流れの大筋はなんとか分かる。
しかしデイテールを語り出すと問題が発生する。
江上波夫初代会長の騎馬民族説も、大きな
流れとしては納得出来るが、人物を当てはめると
可能性はあるが、そうだとは断定出来ない状況になり、批判が渦巻く。
市民歴史家の論は途中まではついていけるが
最後は「まあ、一つの可能性ではあるね。でも
他の可能性も大いにあるね」となってしまう。
さて、歴史はどこまで断定すべきか?
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 藤盛紀明
2022/05/16 (Mon) 07:09:16
「邪馬臺國」の「邪馬」は、「卑彌呼」の居所説明文言の筑後弁で「天(あま・あめ)」の訛りの音写。
実際に発音聞かないと理解できませんね。
東北弁でもあいまいな発音が多くありますが、
聞かないと分からない、聞いても聞き分けできない
ですね。言語学の方法で何か表記することは
出来ませんか?
朝鮮語で同じのは何ですか?
Re:福島説の論拠 - 福島雅彦
2022/05/15 (Sun) 21:22:22
>私見:先ずは幾つかの典型例に絞って、
誰でもなるほどと分かる説明方法を考える。
※藤盛紀明さん、永らく其の積りで論を展開してきました、か゛権威主義の壁を感じています。
*福島雅彦如きが真説を掴める筈がナイ、との先入観に阻まれています。
※「邪馬臺國」の「邪馬」は、「卑彌呼」の居所説明文言の筑後弁で「天(あま・あめ)」の訛りの音写。
・筑後弁で「蟻」=「ヤリ」と訛る。
※「邪馬臺國」の「臺」は、筑後弁の強調の語尾「…たィ」、「…てェ」。
・“tai”=一音節である。「たい」の二音節ではナイ。
※「邪馬・邪靡」=「天(あま・あめ)」の筑後弁訛。
*『古事記』で太安万侶は「天」は「あま」と読め、と註を付けたが何故だとは述べていない。
・「稗田阿礼」は漢籍の「邪馬・邪靡」は「天(あま・あめ)」の訛りであると、太安万侶に伝えた、と。
*太安万侶は、後世の賢者が此の事に気付くのを期待して註を付けた、と。
・福島雅彦が其れに応えて解明した、と。
※筑後弁が解らない方には理解困難か、と。
福島説の論拠 - 藤盛紀明
2022/05/15 (Sun) 16:46:57
「中学の時、鉱石ラジオを組み立てたら、第一声は「朝鮮語」(釜山局?)=死ぬ気で覚えた筑後弁とアクセント・イントネーションが酷似」
福島さん、これは非常に強い説得力がありますよ!
あとはその理論的解析の、他の人への説明の仕方。
福島さんの今までのやり方では納得する人は
出ませんね。
私見:先ずは幾つかの典型例に絞って、
誰でもなるほどと分かる説明方法を考える。
是非やってみては如何ですか。
Re: 福島説 - 福島 雅彦
2022/05/15 (Sun) 13:46:24
>福島さんの説はどうやって出来たのですか?
>神のお告げ!!かな?
※お気に留めて戴き多謝 謝々!
*私の生い立ちと環境が背景にあります(何度も触れています)。
・学齢まで標準語で植民地時代の台湾で過ごす。
・終戦で父の故郷の小学校に。
・筑後弁の洗礼=バイリンガルに成るのが死活問題。
・中学の時、鉱石ラジオを組み立てたら、第一声は「朝鮮語」(釜山局?)=死ぬ気で覚えた筑後弁とアクセント・イントネーションが酷似。
*長じて建築現場監督=地方出身の職人の方言に触れる。
・所謂「邪馬臺國」ブームに乗り、片っ端から諸説を乱読。
・全部納得がいかなかった。
※中国正史の「倭語」音写(当て字)の漢字を時の標準語よみばかり…。
*それらの語彙に「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」と命名し、解読したら真説に辿り着いた。
以上が概略です。
※追記、何たって理系脳の[直観と閃きと屁理屈]です!
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 福島 雅彦
2022/05/15 (Sun) 12:38:24
・古今の研究者の説は、先哲の轍を踏んだ説ばかり。
・手垢に塗れた既存の説の延長線(轍)を堂々巡りしている。
・福島雅彦説は、それらと一線を画している。
・中国正史に記載の「倭語」解明から説き起こしていて、唯一の独創説である。
・コペルニクスの地動説同様、世に容れられるには今少し時を俟つしかなさそうである。
歴史観の成立 - 藤盛紀明
2022/05/15 (Sun) 11:10:39
市民歴史愛好家(専門家も)
一度組み立てた自説はほぼ100%変更することはない。その説を正当化する材料を次々と探しだす。あるいは創造する。異論には先ず感情的に反発する。
その自説はどのようにして創られるのか?
大変興味深いので、少し考えてみた。
1.最初に聞いた・見た意見・説の影響が大きい。
2.尊敬する先生などの影響を受ける。
3.故郷愛がある。
4.政治信条(右派・保守・民主・左派等)が
影響する。
5.家庭環境の影響を受ける(両親・兄弟・親戚)
6.青年期までの外部環境の影響を受ける。
7.自身の歴史研究手法にはまり込む。
8.文献批判が出来ない。
9.論文・文献などを常に批判的に見ると言う
習慣がない。
10.自身が発見したと思う事実(間違いでも)に酔
う。増幅する。
11.歴史の答えは一つと思っている。
私の場合1と2
森浩一先生の影響が大きい。
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/05/13 (Fri) 18:11:01
「そもそも邪馬台国はどこか、」(仮説:邪馬臺国は、狗奴国だった。)
後漢書倭伝:後漢(AD25年~220年の、国の歴史)
:大倭王は、邪馬臺国に居住している。(←小さなクニです。)
:拘邪韓国から、7000余里離れている。(←もしかすると、水行7日。)
:桓帝・霊帝の治世(147~189)の時代に、卑弥呼を共立した。
:(これを女王国という。)
:女王国から東へ海を渡ること1000余里で、拘奴国に至る。
魏志倭人伝:魏(220~265年の、国の歴史)
:狗弥韓国から、女王国に至る間の距離は、5000余里である。
:邪馬壹(やまいつ)国は、女王の都している所である。
:(〇〇から、水行10日・陸行1か月)
:奴国は2万余戸。投馬国は、5万余戸。(←、合わせると、7万余戸)
:邪馬壹(やまいつ)国は、7万余戸。 (←、ほぼ、九州島の大きさ)
:伊都国には、代々国王がいて、女王国に統属している。
:女王国の南に、「狗奴国」があり、男王がいる。
:女王国の東、海を渡ること1000余里のかなたに、また国がある。
:いずれも倭種の国である。
********************************
※:そもそも、日本書紀では、連続した複数の天皇が、
_:同じ都を使ったということは、ないのです。
※:ですから、後漢の時代に、拘邪韓国から、水行7日の処にあった、
_:大倭王が居住していたという、「邪馬臺国」という国は、後漢の
_:時代の末期には、つまり、魏の時代の前には、(「邪馬臺国」は、)
_:(似た名前の邪馬壹国はあるが)無くなっていたのです。
※:そして、女王国の東にあった国は、「拘奴国」から「倭種の国」に
_:変わったのです。そして、「邪馬臺国」のあったところには、
_:(女王国の南に、)「狗奴国」が出来ていて、男王がいるのです。
※:国の変遷というものは、こんなものでしょう。後漢書に出てくる、
_:邪馬臺国に居住している「大倭王」は、男王だったと考えます。
※:それにしても、この後漢書倭伝を書いた人物は、相当のへそ曲がり
_:ですね。「読めるものなら、読んでみろ。」感、満載です。
ヲワケ臣論 - 当世奇妙
2022/05/10 (Tue) 09:27:51
そうでしたね。
十分可能性のある説ですね。ヤマト王権の歴史を
直ちにダントツ中心勢力と理解するのは
かなり無理ですね。
中央・地方論にも行き着きます。
そのヤマトも連合政権で、色々な意見があります。
今月の新納先生の意見も期待大です。
Re: 721年日本紀講莚 - ヲワケノ臣
2022/05/08 (Sun) 18:10:45
当世奇妙さま
721年日本紀講莚 その2
伝統的閥族の間で暗黙知を形成していた事柄は、応神の王統が、北部九州の邪馬台国の血筋をひく点、応神に始まる「倭の五王」の倭王権、及び、血筋をひく邪馬台国が、中国王朝との冊封外交を行っていた点にあると考えています。
邪馬台国の系図、卑弥呼ー台与ーXと初期大和王権の系図、崇神ー垂仁ー景行は、併行関係にあったと考えます。自説は、邪馬台国と初期大和王権は、支配・被支配関係にあり、先進地、北部九州の邪馬台国が、初期大和王権を支配していたと考えます。統治機関は、「大倭」であり、丸邇氏の遠祖、日子国夫玖命が派遣されたと考えます。大和の地に設置された「大倭」は、代々、丸邇氏が統轄し、初期大和王権との間で婚姻を重ねたと思います。
応神は、后紀の丸邇氏、矢河枝日売を介して邪馬台国の系図、卑弥呼ー台与ーXに繋がる大王です。一方、応神は、后紀の中日売を介して初期大和王権の系図、崇神ー垂仁ー景行にも繋がります。ここで、「神功」は、邪馬台国の系図、卑弥呼ー台与ーXを統合した象徴的人物として、記紀編纂時に創造されたと考えます。
その上でβ群の編纂者は、β群の編纂起点を魏遣使来倭の年次240年と定め書き進めた。神功紀40年条の注記がこれであり、上手く冊封外交がカモフラージュされています。
次に、崇神期の建波邇安王の反逆征討、及び、応神期の忍熊王・香坂王反逆征討を「史実の核」として、又、「武の上表文」をモチーフとして神武、四道将軍、倭建命の伝承と神功伝承を創造したと考えます。
筑紫平定、海北の三韓征伐、筑紫(日向)からの移動(東征)と畿内平定、東西の夷狄平定からなる一連の国土統一の物語です。伝統的閥族は、これら一連の物語が意図するところを、天武のイデオロギーとして理解していたと考えます。
先に、「神功」は、邪馬台国の系図、卑弥呼ー台与ーXを統合した象徴的人物として、記紀編纂時に創造されたとしました。記紀の中では、200年から389年まで活躍したとされます。約200年の寿命ということになります。ところで、長寿とされた「建内宿禰」も景行期から仁徳期まで活躍し、記紀の中では「神功」と併行関係にあります。「建内宿禰」は、葛城、平群など畿内南西部の豪族七子統合の象徴的人物であるとされ、七子は地名を氏の名としています。
邪馬台国を出自とする丸邇氏系の応神の王権は、崇神ー垂仁ー景行の初期大和王権系勢力、「建内宿禰」七子との三大勢力から成る連合王権であったと考えます。丸邇氏族の春日、「建内宿禰」七子など、これらの氏族は、天武朝を支える伝統的閥族でもあり、このことが暗黙知形成の背景にあると考えます。
尚、丸邇氏族は、大王家に多くの后妃を入れた皇親氏族とされ、貴種性が窺われる氏族です。後漢の年号を刻む「中平刀」が、この氏族の奥津城、東大寺山古墳から出土しています。この刀は、卑弥呼が外交で手に入れたものとされ、このことからも、邪馬台国と応神から始まる「倭の五王」の王権との強い繋がりが推察されます。
721年日本紀講莚 - 当世奇妙
2022/05/07 (Sat) 19:55:48
ヲワケ臣さん
投稿ありがとうございます。
「伝統的閥族の間で暗黙知を形成していた事柄」
と言うことは天皇家の先祖は九州から来たことを
皆納得していたと言うことですね。
卑弥呼に触れていないことは、天皇一族(を構成する
人々)は卑弥呼の後に来たと思っていたと
言うことでしょうか?
Re: 記紀の記述 - ヲワケノ臣
2022/05/07 (Sat) 08:46:31
当世奇妙さま
この問題は次のように思います。
◇律令期の学制と任官、そして日本紀講莚
721年、日本紀講莚時から812年、日本紀講莚時の時代背景の変化を観たいと思います。先ず、100年弱の年月が経ったこと、又、王統が天智王統の桓武系に代わったことから、天武の影響力が小さくなったと考えます。加えて、812年、弘仁期の日本紀講莚は唐風化に熱心な嵯峨天皇の基で開催されたため、日本国に純化した天武の観念は馴染まなかったと考えます。
一方、唐への朝貢外交は、停滞期にあり、直近の804年から最後の遣唐使838年をむかえます。最終的に遣唐使は、道真の建言で894年に停止されます。これらの時代背景から、過去の中国との冊封外交は、風化していたと考えます。このため、日本紀講莚を受講した公卿や高官にあった位階5位以上の貴族は、神功紀の倭女王の魏、西晋との冊封外交や応神紀、雄略紀の呉との外交も抵抗なく受容されたと思います。
更に踏み込んで、嵯峨天皇の日本紀講莚の狙いは、未だ根強い天武ファンに対する意識変革だったと考えます。桓武王系を盤石にしたいとの思い、このことが嵯峨天皇の本音かと思います。おそらく、教科書となった『弘仁私紀』は、この目的に沿って創られたと考えます。
ところで、721年、日本紀講莚時の受講対象者を観たいと思います。律令期の学制に則り任官できた中央官僚が対象になりますが、先ず、地方出身豪族は、基本的に学制の対象外であり殆どいなかったと考えます。対象は、藤原氏や丸邇氏氏族の春日氏などの伝統的閥族、及び、百済、高句麗系の亡命氏族であり、又、中央出身の下級氏族と考えます。
律令期、伝統的閥族は学制や位階、官位の制度で優遇され、最上層の位階、官位を専有することが保証されていたとされる。これら、天武朝で大臣級であった氏族の子弟は、伝統的閥族の間で暗黙知を形成していた事柄に関して、英才教育機関である家内の私塾や親から聞かされていた。これらは、神武伝承や神功紀の倭女王の魏、西晋との冊封外交に係る象徴的人物「神功」や応神紀、雄略紀の呉との外交であった。このため、日本紀講莚の場でも抵抗なく受容したと思います。
百済、高句麗系の亡命氏族は、史実と異なることを知りながら、生き残るために、これらのことを黙認したと思います。下級氏族は、官位を守ることに必死であり、唯々『日本書紀』を記憶することに専念したと考えます。
以上、721年、日本紀講莚は、天武の称賛一色であったと思われ、この雰囲気に圧倒され、その内容に異を唱える氏族はいなかったでしょう。『日本書紀』編纂者は、苦労して冊封外交の表現を避けたが、平安時代に至って、もはや平安貴族は天武のイデオロギーに縛られる必要性がなくなったと思います。ある面で嵯峨天皇の日本紀講莚は、記紀に対する異議申立の場であったと考えます。
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 当世奇妙
2022/05/04 (Wed) 06:17:19
「日本」(=倭国+高句麗+百済+新羅+任那)
豪族は、みな天皇家の子孫である。的な、(今は没落した、氏族の)
上記が米田ざんの基本的考えですね。
私の考えとは全く異なるので、この話はこれで終わりに
します。
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/05/03 (Tue) 22:54:37
┌
│神武東遷 - 当世奇妙 2022/05/03 (Tue) 19:45:11
│
│「天皇家の先祖は九州から来た・ヤマトの豪族を
│ 退治したと言うことは、律令政府全体が納得していたことになる。
│ これはどう言うことだろうか?」
│
│米田さん
│私の質問の一つは上記です。これはどのように考えますか?
└
※:質問の趣旨が、いまひとつ、腑に落ちていません。(今もですが)
_:質問とのことなので、(私なりに、趣旨を想像して)回答します。
:「納得していた」ということは、実際には、納得していなかった。
:「律令政府全体」とは何か。
・天智天皇(文武王)の父は、孝徳天皇(新羅太宗武烈王)
・天武天皇の父は舒明天皇(義慈王)。祖父は百済武王(彦人大兄王)。
・藤原鎌足の父は蘇我馬子(真平王)。祖父は蘇我稲目(新羅銅輪)。
・斉明天皇の子「漢皇子」は、高句麗の宝蔵王(在位:642~668)。
(言ってみれば、みんなよそ者だった。よそ者の子孫の集まりだった。)
:私の20余年の系図研究は、上記の仮説(妄想)の証明・解明でした。
:「日本」(=倭国+高句麗+百済+新羅+任那)と考えています。
:壬申の乱以降、桓武天皇(781年即位)まで、ずっと、国内は
:内部分裂という爆弾を抱えていました。
:(天照大神と仏教だけでは、なかなか国家統一を図れなかった。)
:721年、いまさら、百済だ、新羅だ、高句麗だ、と言って分裂する
:わけにはいかなかった。
:豪族は、みな天皇家の子孫である。的な、(今は没落した、氏族の)
:神武東征の話を律令政府全体が納得するしかなかった。
PS:(民への周知という意味では、それなりに、浸透していた。)
:700年頃の雰囲気を伝える『風土記』には、次のように記述。
:伊勢の国の風土記にいう、――そもそも伊勢の国は、天御中主尊の
:十ニ世の孫の天日別命が平定した所である。天日別命は神武天皇が、
:あの西の宮(日向)からこの東の州(くに)を征討されたとき、云々。
PS:
:日本書紀は、最初は、「易姓革命」を意識して作られていました。
:しかし、(内紛&)天武天皇系の男系が、途絶える事態になって、
:日本書紀の編集が、国内融和に方針が変更になった、と考えます。
Re記紀の記述 - i石見介
2022/05/03 (Tue) 22:39:36
律令制下で編纂された正史『日本書紀』完成直後から、講義が行われたのは、勿論、橘さんの仰るように、「史観の統一」が目的であり、特に官僚には、「公式見解」を周知徹底せしめる必要があったからでしょう。
実際に、物部氏系の様に、中臣⇒藤原氏主導の「歴史」に批判的な集団は、「本朝史書の初め」を詐称した『先代旧事本紀』を著し、成功をおさめていますし、明らかにそれより古い『古語拾遺』や、或いは『古事記』も成立しています。
中国の王朝の交替を、日本の支配層は、日本にとって、好ましい先例、模範とは考えず、禅譲、放伐と言った「王朝交代」=「革命思想」を、「否定する」と言う意思統一があり、それが、日本の王権の起源を、中国皇帝の叙爵=王号授与ではなく、「神話」に置く「歴史の叙述」として、表現される事になった、と思われます。
世界的に、殆どの民族は、民族や王権の起源を、天上の神々の子孫の「降臨」とする神話、伝承を、もっています。北欧、インド・イラン系、アルタイ系、トンガ等々。
日本にも、アルタイ系に近いそのような神話があり、それを、「歴史化」した。
歴史化された王権の担い手に、現大王家に繋がるよう、各氏族の「墓記」にある氏族の起源や、王権との接点を繋いだ。
現大王家等の不利にならない限り、各氏族の伝承の多少の異同は、史書編纂に当たった史官達の心情も考慮して?「異説」の記載も認めた。
その結果、『日本書紀』の神代などには、多くの「一書群」の記載が、残された。
私は、そのように考えています。
大和朝廷の「現支配層」は、多少の利害の対立はあっても、中国流の「易姓革命」を忌避する点で合意した。被支配層は別にして、支配層は、納得していた。
神武東遷 - 当世奇妙
2022/05/03 (Tue) 19:45:11
「天皇家の先祖は九州から来た・ヤマトの豪族を
退治したと言うことは、律令政府全体が納得していたことになる。これはどう言うことだろうか?」
米田さん
私の質問の一つは上記です。
これはどのように考えますか?
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/05/03 (Tue) 15:44:33
┌
│卑弥呼と公孫氏政権 景初二年の虚実 - 白石南花
│2022/05/01 (Sun) 17:17:46
│
│昨日の「卑弥呼と公孫氏政権 景初二年の虚実」を聞いて
│思ったことを書きます。
└
┌
│『卑弥呼と公孫氏政権-景初二年の虚実- 』
│■日 時 : 4月30日(土)14時~16時半終了予定
│■講 師 : 仁藤 敦史先生(国立歴史民俗博物館)
└
※:私も、講演会について思ったことを書きます。
※:米田の自説は、景初三年「正月」は、景初三年一月ではなく、
_:景初三年十二月のことだろう、ということです。
※:講師の先生の話は、(自分は)景初二年説である、ということと、
_:うるう十二月のことは、理解しているが、そのことについては
_:秋(次回)の講演会にお話ししたい、と、話をしたように、
_:米田は理解しています。
_:ですので、秋(次回)の講演会を楽しみにしています。
_:ということで、暦の話には、何のわだかまりもありません。
※:(旧)討論室に書いたように、私は、高句麗と楽浪郡について
_:自分の中で、まとまっていなかった(間に合わなかった)ことに
_:対して、「巧遅拙速」で、自分に対して、けじめをつけました。
橘さんへ - 当世奇妙
2022/05/02 (Mon) 16:48:43
「何故、講義がされたか?日本書紀は正しい歴史書であると言えば役人に登用され出世できた。
今の邪馬台国畿内説と同じですよ。」
これ、上出来!上出来!
流石ですね!
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 秋の花(橘)
2022/05/02 (Mon) 16:38:04
再掲
>倭人伝に明確に記されている卑弥呼や他の人名も
全く出てこない。
これは何故だろうか?
*日本書紀は、歴史書ではなく物語だから。
これこそ、物語である証拠。
何故、講義がされたか?日本書紀は正しい歴史書であると
言えば役人に登用され出世できた。
今の邪馬台国畿内説と同じですよ。
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/05/02 (Mon) 14:10:25
┌
│『日本書記』講義 - 当世奇妙
│
│2022/05/01 (Sun) 12:08:07
│
│『日本書記』の講義は完成翌年(養老5年721)から
│天皇の命による公式行事として行われた。
│博士・学生の他 大臣 公家 官人も参加したと
│言われる。天皇家と各豪族の歴史が語られるので
│天皇家の先祖は九州から来た・ヤマトの豪族を
│退治したと言うことは、律令政府全体が納得していた
│ことになる。これはどう言うことだろうか?
│
│倭人伝に明確に記されている卑弥呼や他の人名も
│全く出てこない。
│これは何故だろうか?
└
(その1):この講義での、重要議題は、何か。
(その2):天皇家と各豪族の歴史とは何か。
(その3):卑弥呼やほかの人名は、どうしたか。
*****
(その2):天皇家と各豪族の歴史とは何か。
:律令制の根本、天皇制の根本は、「公地公民」である。
:豪族の歴史は、「私有地・部民・私兵」である。
:神武天皇&歴代の天皇は、神武天皇以降、「公地公民」制であった。
:ということを、天皇の世襲とともに、天下に示すことであった。
:(持統天皇前後の、天皇制の正統性の根拠です。)
*****
(その3):卑弥呼やほかの人名は、どうしたか。
:「卑弥呼」の存在は、特例とはいえ、男系相続の観点から、抹消する
:しかなかった。又、異父同母兄弟の存在(相続)も、抹消したかった。
:政権の併存も、認めることが出来なかった。(なるべく消し去った。)
:卑弥呼については、卑弥呼の父親(于氏)を初代天皇にすることで、
:藤原氏(中臣氏)と鴨系(安倍氏/息長氏)との対立を避けた。
*****
(その1):この講義での、重要議題は、何か。
:『続日本紀』の養老4年5月、「日本書紀」完成。
:「中臣大島」(693年没)。父は「中臣許米(壬申の乱・張本人)」
:「忌部子人(首)」:死没:養老3年(719年9月)(鴨系)
:「阿倍宿奈(少)麻呂」:死没:養老4年1月27日(720年3月)
: (推測:シンメトリックの仕掛け人)
:「藤原不比等」養老4年8月3日(720年9月9日)死没。
:「山田史御形(みかた/三方)」:722年以降に死去。
┌
│「(持統)六年(692年)冬十月壬戌朔壬申。授山田史御形務廣肆。
│ 前爲沙門學問新羅。」というものであり、「山田史御形」という
│人物を「還俗」させ冠位を与えたことが書かれています。
└
(天皇制の問題)
※:天皇制における、正当な(次の)支配者は、誰になるか。
(その1)
:壬申の乱の原因のひとつは、天皇の正統性である。
:相続の順番を見ると、「藤原鎌足」や「中臣大島」が「天皇」に
:なってもおかしくなかった、はずである。(自信はないですが。)
(その2)
:天武天皇以降、男性の天皇が続くはずであった。
:それが、70年まで、臨時臨時、例外例外で、政権を運営してきた。
(その3)
:720年。良いも悪いも、実質的に日本書紀を作ってきたメンバーは
:どんどん亡くなってしまった。
(その4)
:720年。元正天皇の孫には、井上内親王と孝謙(称徳)皇女が二人。
:次は、「聖武天皇」で良いとして、その次をどうするか。
:その時、国内(在野)の豪族たちを、どう納得させられるか。
:「誰」を婿養子の形で、天皇にすることが、日本のためになるか。
:『日本書記』の講義といいながら、権力の継承の正統性を
:勉強していたと思われます。
記紀の記述 - 当世奇妙
2022/05/02 (Mon) 08:58:28
「記紀本文に、卑弥呼や倭の五王が現れないのは、記紀編纂時の支配者が、過去の中国への朝貢を、否定した勝ったか、その記憶を持っていなかったからになります」
記紀の編纂者は「卑弥呼や倭の五王」の中国史での記述は知っていたと思われます。講義に参加した人の幾人かも知っていたと思われます。当時の天皇家がその記憶を持っていなかったならば、何を意味するのでしょうか?また卑弥呼が天皇家と無関係ならば、否定も
不要ですね。卑弥呼と無関係で九州から来たとすると誰が、どのような集団が来たのでしょうか?
卑弥呼と天皇家が関係あるとすれば、中国史の記述を全く無視したことを、講義に集まった大臣・、公家・官人に、(記載ないうことを)どのように説明したのでしょうか?
九州島からの諸氏族、諸部族の東遷 - i石見介
2022/05/01 (Sun) 23:44:14
記紀にある神武東遷/東征を含む、諸氏族や諸部族の
九州から、近畿を含む東方への「移住」は、その核となる史実を含む伝承であり、大王家を含むほとんどの豪族は、その氏族の古伝承として、信じており、特に違和感は、無かったと私は、思います。
日琉語族が、日本列島内で発生したのではなく、トランスユーラシア語族の遼河流域西部からの南下、もしくは山東半島方面からの、半島西海岸経由の、「弥生時代開始期」の渡来系弥生人の、列島移住で、日本列島に流入したと考えられる以上、列島の「日琉語族化」は、即、その東方への移住拡大です。
在来縄文系の人々が、言語を取り換えた場合でも、伝承上は、西からの「移住」として、記憶される事になります。
記紀本文に、卑弥呼や倭の五王が現れないのは、記紀編纂時の支配者が、過去の中国への朝貢を、否定したかったか、その記憶を持っていなかったからになります。
私は、前に談話室に投稿した「〈華夷変態〉と倭国の〈中国化〉と〈日本〉志向」で、考察したように、支配層の「中国朝貢否定の意思」が、主因だと考えていますが。
卑弥呼と公孫氏政権 景初二年の虚実 - 白石南花
2022/05/01 (Sun) 17:17:46
昨日の「卑弥呼と公孫氏政権 景初二年の虚実」を聞いて思ったことを書きます。
私は以前このサイトで、シロさんというハンドル名の方と論争したことを思い出しました。
確か2005年ごろのことだったと思います。
シロさんとの論争の発端は、倭人伝の用語に関するもので、いわゆる里程を含む前半部分と、景初二年以下の外交記録の間の、不一致に関するものでした。
私は前半部分の特に里程の中では、卑弥呼の代名詞が女王であり、外交記録では親魏倭王となった後は、倭王と呼ばれていたことから、里程は魏使によるものではないとしました。
魏が正式に親魏倭王とした人物を、単に女王とするはずがないと考えたのです。
そのうえで下記論稿を示して、里程には特異な漢字音が表れており、報告対象は公孫氏であろうとしました。
下記の論稿は、そのころ個々の掲示板に投稿したものをまとめたものです。
https://shiroi.shakunage.net/ronbun/himiko.html
もし報告対象が魏政府であれば、その当時の魏の正音によるはずであるとしたのです。
論稿では簡単に「おそらくK群、疑K群を含む記事が成立したのは、公孫氏が極東に割拠していた時代であろう。」としています。
昨日の公演では仁藤先生もこの称号の問題に触れておられましたね。
現在の私の考えでは、里程は後漢代以来の地理情報の積み上げでできていると考えています。
本当は景初二年の件に関しては、質問したかったのですが、込み入っているので説明できずやめました。
卑弥呼の朝貢が景初二年であったかどうかについては、二つのポイントがあると思います。
ひとつは実際の朝貢が景初二年なのか三年なのかということで、もうひとつは三国志には当初景初二年と記されていたのか、三年と記されていたのかです。
仁藤先生は、三国志は西晋の時代に編纂され、司馬氏におもねって景初三年とした可能性があるとおっしゃいました。
とすると卑弥呼の朝貢は景初二年だけれども、三国志には最初から景初三年とあったことになります。
ところがもし三国志に景初三年とあったとすると、景初二年説の積極的論拠はなくなってしまします。
そもそも現三国志刊本に景初三年とあったとすれば、景初二年説というのは存在すらしなかったでしょう。
文献的には景初二年の記述は、南宋までしか遡れませんが、景初三年は唐代まで遡れます。
したがって景初三年が有力となっているわけです。
明帝景初三年についても言及されていましたが、日本書紀は多く漢籍を引いて文飾されていることが知られています。
文飾に利用されたのは、研究者によると元の史書ではなく、それを引用した類書であるとされています。
実際史書の名まえを上げて引用しても、類書からのまたびきであることがあります。
日本書紀の神功紀は、三国志や晋の起居中を引いていますが、実際にはそれらを引いた類書からの、またびきの可能性があります。
類書の場合、本来の史書の文面を省略したり、語を変えたり加えたりすることがあります。
六世紀ごろから、年号にその年号を立てた皇帝の名をかぶせることが、しばしば行われるようになります。
これはそのケースであるとすると、明帝が生きていたことを意味するものではないことが分かります。
そもそも三国志にはこのような記述はないわけですから、これを矛盾ととらえる必要はないのです。
『日本書記』講義 - 当世奇妙
2022/05/01 (Sun) 12:08:07
『日本書記』の講義は完成翌年(養老5年721)から天皇の命による公式行事として行われた。
博士・学生の他 大臣 公家 官人も参加したと
言われる。天皇家と各豪族の歴史が語られるので
天皇家の先祖は九州から来た・ヤマトの豪族を
退治したと言うことは、律令政府全体が納得していた
ことになる。これはどう言うことだろうか?
倭人伝に明確に記されている卑弥呼や他の人名も
全く出てこない。
これは何故だろうか?
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/04/30 (Sat) 01:03:28
┌
│スレ「高天原にあった卑弥呼の墓」で、
│[107] 2022年4月19日(火)以降、p君さんと、討論をしました。
│その中で、「味鉏高彦根命」と「事代主命」は、別人である、という
│p君さんの主張を確認し、私は受け入れました。
│その議論の中で、分かってきたことを中心に、書いていきます。
└
※:まず、私の考える、「神武東征」の一連の流れを書きます。
_:(神武天皇本人は、ほとんど出て来ません。)
(その1)
:五部族の移動の話です。(先住者の話は、出てこないです。)
:阿波忌部氏の先祖のグループと、味鉏高彦根命のグループが、まず
:先に、東遷・移住してきた。ナガスネ彦は、味鉏高彦根命の子だろう。
(その2)
:五十鈴依媛命を中心としたグループが、三輪山の周辺に住み着いた。
:媛蹈鞴五十鈴媛命を中心としたグループが、葛城地方に住み着いた。
(その3)
:内紛により、(葛城地方にいた)味鉏高彦根命のグループが、没落。
:「手研耳命」と「卑弥呼」の争い(190年頃)
:その中で、7世紀の天皇の先祖の一人である「名草媛」が殺される。
:ニギハヤヒの息子二人が、(出雲と越国に)左遷させられる。
(その4)
:卑弥呼が、巻向地方に住んだ。(196年頃~234年)
(その5):卑弥呼(234年没:拘奴国)のあと、
:「天女の妹」の娘(奈是理比売)=「伊賀津姫(細媛命)」が
:畿内(または、伊賀郡。または、伊勢国。)を領していた。
┌
│天皇の祖先は九州から来て、ヤマト在住の豪族を征服したと
│言うことは、当時の人にどのように受け止められたのであろうか??
└
※:五部族が移住してきて、一部は通過し、一部は定住した。
_:手研耳命の反乱と、女系の争いと、男系の争いの中で、
_:親戚同士の争いがおこった。(支配者層からの脱落が始まった。)
┌
│神武東征に何らかの史実があるか否か。
│もし全く史実と異なるとすると何故
│このようなことを記したか?
└
※:神武天皇は、150年頃に、畿内を通過しただけである。
_:翌年、卑弥呼が生まれた。(母は、五十鈴依媛命。)
_:その後、神武天皇は、高句麗新大王として、半島で活躍した。
※:五部族の移動と内紛の話を「神武天皇」の東征の話にまとめた。
_:卑弥呼の拘奴国を、日本国の建国の話に持ってくるため。
┌
│日本書紀は完成直後から講義が行われたようだが
│その時、このことはどのように説明したのであろうか?
└
※:清和源氏が臣下に下ったときに「源氏」姓をもらったように、
_:懿徳天皇の子孫は没落して「和珥氏」を名乗った。さらに没落した。
※:講義を受けるメンバーは、皇子たちと藤原氏だとします。
※:藤原氏の先祖は「伊香色雄命」になります。しかし、物部氏の
_:ニギハヤヒの男系子孫ではなく、阿達羅王の男系子孫になります。
_:(系図の乗っ取り、系図の改ざん。)
※:天智天皇の先祖は、味鉏高彦根命ではなく、事代主命になります。
_:(先祖の隠滅)
※:日本書紀の天皇は、五部族の族長から、選ばれていますが、各部族の
_:族長は、世襲ではなく、一族の中で、力のあるものが選ばれる。
_:また、天皇家などという男系は、なかった。
※:もしかしたら、シンメトリックの話もあったかもしれません。
※:『風土記』には、「神武東征」が史実のように、書かれています。
_:卑弥呼(日子八井命:拘奴国)は、日本書紀から、消された。
_:手研耳命(伐休王・綏靖天皇)と卑弥呼の争いは、矮小化された。
_:九州にあった「邪馬台国/女王国」の話も、消された。
※:五部族の移住と、内紛の話を、(ニギハヤヒの天の磐船と)
_:神武天皇(の神武東征)を中心とした話に、書き換えた。
神武東征 - 藤盛紀明
2022/04/29 (Fri) 19:57:46
神武東征に何らかの史実があるか否か。
もし全く史実と異なるとすると何故
このようなことを記したか?
日本書紀は完成直後から講義が行われたようだが
その時、このことはどのように説明したのであろうか?
天皇の祖先は九州から来て、ヤマト在住の豪族
を征服したと言うことは、当時の人にどのように
受け止められたのであろうか??
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/04/28 (Thu) 09:28:06
邪馬台国論争(邪馬台国九州説)が持つ「誤謬」
┌
│私の好きな邪馬台国九州説:再スタート - 当世奇妙 2022/04/17 (Sun)
│今までの投稿の中で私が好きな邪馬台国九州説を
│ここに整理しておきたいと思います。討論・議論・畿内説は
│他のスレッド または新設スレッドでお願いします。
└
(その1):邪馬台国は、(畿内ではなく、)九州だと思います。
(その2):後漢書に出てくる、女王国は、九州国である。
(その3):後漢書に出てくる、拘奴国は、畿内の国である。
(その4):魏志倭人伝の女王国は、九州である。
(その5):魏志倭人伝の狗奴国は、熊本県地方である。
(その6)
:九州・丹波・韓半島を支配する「五部」の支配集団が発生した。
(その7)
:九州は、「五部」に支配されて、「国の王」は、いなくなった。
(その8)
:畿内(丹波)地方は、もともと、濊(高句麗)の支配下にあった。
(その9):「卑弥呼」は、例外的な存在である。「鬼道」とは何か。
(その10):「鬼道」なるものは、存在しない。OR軽視してよい。
(その11):「卑弥呼」は、形式的に同母弟と「夫婦」の形態を採った。
(その12):「卑弥呼」は、234年、太后として、畿内で亡くなった。
(その13):畿内(伊賀)は、「伊賀津姫」が領していた。(240年頃)
(その14):九州(半島)には、「天豊津媛命」がいた。 (240年頃)
(その15):「伊賀津姫」_は、一書6長媛で、「天女の妹」である。
(その16):「天豊津媛命」は、一書5渟名城津媛「天女」の娘である。
(その17)
:新羅助賁王(4懿徳天皇)の妻は、天豊津媛命と奈是理姫である。
(その18)和知都美命は、安寧天皇の孫である。(訂正)
(その19)
:淡路の御井宮の主は、「天女の妹」の娘の⑦細媛命で奈是理姫である。
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - ヲワケノ臣
2022/04/27 (Wed) 09:35:49
◆BS-TBS 邪馬台国を視聴して
先日、土曜日の「関口宏の一番新しい古代史」邪馬台国を視聴しました。以下、感想です。
①邪馬台国の国制と首都の構造
これまでの邪馬台国論では、国制と首都の構造に関して、あまり議論されて来なかった気がします。畿内説の首都、纒向遺跡に引きずられて、邪馬台国の首都は、大がかりな都市型の構造を持つとの前提で、その位置を探してきたように思います。今回、『魏志倭人伝』に立ち帰って国制を読取ることにします。
先ず、外交、国防、治安機能は伊都国にて「大率」が担ったことが知れる。外交は、言うまでもないでしょう。又、治安は、刺史に準えられた通りです。国防は、対馬国、一支国、奴国、不弥国に置かれた卑奴母離を統轄して、伊都国が制海権を有した。因みに、この制海権は、誰に対してか考えるに、敷かれた制海ラインからみて、半島、及び、不弥国以東の九州島外の地域と考えます。外交、国防、治安の機能として、時に魏や西晋の軍事力の利用も念頭にあり、又、期待していたと考えます。この期待は、大陸に近接していた、北部九州ならではのことと思います。遠い畿内は、魏や西晋の軍事力を利用しようにも利用出来ないと考えます。
次に、『魏志倭人伝』は、「国国に市有り。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。」と記す。「大倭」は、邪馬台国が派遣した大官で、重要物資の鉄、銅鏡等を対象に管理交易を行ったとされる。考古学は、この時期、伊都国の今宿・今山、奴国の博多を交易拠点とした「博多湾貿易」が展開され、広く列島西半部の交易があったことを明らかにした。このように交易機能は、伊都国、奴国を中心に諸国の「大倭」が担ったことが判ります。
次に、国制の重要な機能の一つである祭祀機能は、邪馬台国の宗教施設を拠点とし、卑弥呼が担った。婢1000人ほどの宗教拠点であり、鬼道を厳かに行う様が覗われます。
最後に、政治の機能ですが、これは、各国の談合であり、卑弥呼の男弟が議事進行を担ったと考えられ、この例が卑弥呼の共立です。『魏志倭人伝』は、国々の談合で卑弥呼を共立して倭国乱を収束させたことを記す。このように、国益に係る重大事は、主要国の談合で決定したと思われます。主要国は、卑弥呼を共立した建国9ヶ国で狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬國、邪馬台国である。通信手段のない、この時代、広域に渡ると考えられる30ヵ国の談合は困難と考えます。談合の場所は、利便性がある伊都国や奴国と思われます。
以上、邪馬台国の国制は、機能分担型であり、纒向遺跡にみられるような大規模な都市構造の「首都」を特に持つ必要がなかったと考えます。そして、これらの機能は、主に、伊都国、奴国、邪馬台国が担ったように観られます。国制から視た邪馬台国の位置は、博多湾岸の北部九州説を支持します。
②纒向遺跡出土の土器
この放送の中で纒向遺跡から出土した搬入土器の地域別分布が示されました。色々な地域からの行き交いがあるとされ、又、北部九州系の土器がない(少ない?)ことから、纒向遺跡が、邪馬台国の首都である可能性が高いとの通説が示されました。
しかし、邪馬台国の中心地、首都であるなら、北部九州系土器の出土が、相当量あるはずです。又、北部九州勢力と纒向を中心とする畿内勢力が没交渉的であり、分立していたとする違った解釈もできます。この北部九州系の土器の出土状況から言えることは、単に北部九州の邪馬台国が纒向に東征や東遷した事実がなかったことを示すだけであると考えます。武力支配や遷都に伴う入植があったなら、日常生活に関連する北部九州系の土器が多量に出土するはずです。
ところで、自説は、北部九州の邪馬台国が、纒向の初期大和王権を支配していたと考えています。支配は、武力によるものでなく、鉄や銅鏡など重要物資の管理交易、及び、鉄器製造や土木などの先進的な生産技術の供与を通じたものであり、北部九州の邪馬台国が優位に立っていたとするものです。
この場合、人の移動は、管理交易官の「大倭」や技術者などに限定され少数であり、労働者は現地採用であったと考えます。このため、日常生活用の北部九州系土器の使用量は少く、発掘し難いと思います。又、重要物資の鉄素材や鉄器は、輸送船内に直に置くか、搬入容器は木箱だった可能性があると考えます。因みに、ウワナベ古墳陪塚から木箱に収納された鉄挺が出土している。又、もう一つの重要物資の銅鏡は貴重品であり、搬入容器として土器が使用されることはなかったでしょう。
以上、自説にあっても、北部九州系土器の出土は限りなく0に近くなります。纒向遺跡出土土器の地域別分布に関しては、色々な解釈ができるため、邪馬台国の位置決めの論拠にならないと考えます。
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/04/26 (Tue) 22:46:05
※:土曜日の講演会の資料が届きました。(印刷しました。)
_:予習のために、目次を作りました。(自由にお使い下さい。)
『卑弥呼と公孫氏政権-景初二年の虚実- 』
■講 師 : 仁藤 敦史先生(国立歴史民俗博物館:にとうあつし)
■講師の言葉
卑弥呼は魏王朝との交渉以前にも、
帯方郡を介した公孫氏との長期間の交渉が想定される。
その背景として、公孫氏による東夷諸国との交渉は、
これまで考えられていたような軍閥的な地方独立政権の独自な
支配政策ではなく、後漢王朝および魏の武帝(曹操)からも
一定程度容認された、絶域に対する辺境支配権によるもので、
公的性格が強かったことが指摘できる。
卑弥呼の朝貢目的が「共立」に由来する脆弱な王権の後ろ盾および
威信財の供給先として外国王朝を絶えず必要としていたこと、
公孫氏による辺境支配に公的性格が強かったとするならば、
卑弥呼に対して与えられた王号の位置づけについても
これまでとは異なった理解が可能となる。
目次
P-01 はじめに
P-01 一 卑弥呼と公孫氏
P-03 二 公孫氏政権
P-04 三 公孫氏と魏・呉王朝
*****************
P-10 景初二年説の虚実
P-11(地図)3世紀前半の東アジア
P-12(年表)関連資料
P-13(資料)三国志魏書東夷伝
P-14(資料)三国志魏書倭人伝
P-15 同上 + 漢書・後漢書
P-16(資料)楽浪郡の変遷
P-17(分類)漢鏡1期~8期
P-18(地図)中国鏡の分布の変化
P-19(表) 日本で出土した紀年鏡
P-20(地図)問題の鏡と出土地
Re:邪馬台国の放送 - ヲワケノ臣
2022/04/19 (Tue) 09:26:41
当世奇妙さま
当スレッドNo.1で紹介されたBS-TBSの番組で、「関口宏の一番新しい古代史」、毎土曜昼12時から1時間の放送番組です。第1回縄文時代、第2回弥生時代でした。平安時代位まで放送するかと思います。主任教授の一人、吉村教授は、「倭の五王」時代の著書を多く出されています。
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 米田 喜彦
2022/04/18 (Mon) 21:13:40
┌
│Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - ヲワケノ臣
│2022/04/17 (Sun) 16:52:28
│操作の確認です。
│・午前中、このロビーで「新規投稿」したところ、
│ 自分のスレッドが建てられようです。
│ このロビーに留まるか、どうか「返信」で書込みます。
│ ところで、次回、4月23日の放送は邪馬台国のようです。
│ 楽しみです。
└
※:ヲワケノ臣さんの投稿と、白石南花さんとのやり取りは、
_:「新討論室」でのやり取りに、ふさわしいと思っています。
_:「(スレ)神功を考える」については、そのうち、
_:私も参戦したいなと思っています。
_:ぜひ、討論(質疑応答)を続けて下さるようにお願いします。
*****
┌
│4月23日 - 当世奇妙 2022/04/18 (Mon) 19:45:20
│すみません。 どこのTVですか4?
└
※:MUSASHI さんが(談話室で、3/27に)紹介してくれました。
┌
│関口宏の一番新しい古代史
│2022/4/2(土)スタート
│BS-TBS 毎週土曜 ひる12:00~12:54
└
※:私は、毎週録画にしています。
_:4/16の分は、まだ見ていませんが、気軽な感じで見れる番組でした。
*****
※:さっき、初めて「管理」に入りました。今回は、
_:難升米さんの同意があったので、「削除」は出来ました。
※:「新談話室」の管理については、総会のあと、暗号さんと少し
_:話をしました。管理のメインは暗号さんでよろしくと。
_:私は、幹事ではありませんので、あくまでも、お手伝いです。
_:何と言いますか、「便利屋さん」ということで、お願いします。
Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - ヲワケノ臣
2022/04/17 (Sun) 16:52:28
操作の確認です。
・午前中、このロビーで「新規投稿」したところ、自分のスレッドが建てられようです。このロビーに留まるか、どうか「返信」で書込みます。
ところで、次回、4月23日の放送は邪馬台国のようです。楽しみです。
RE:歴史談義の談話室 - 米田 喜彦
2022/04/16 (Sat) 08:37:19
┌
│ここは歴史談義の談話室ですね。
└
そうですね。
そんな感じで、このスレを使っていただけるとありがたいです。
<見やすい投稿画面の工夫>
〇:1行に、30~34文字。(右端に、必ず“改行”を入れる。)
〇:1投稿は、30行以内で収める。
〇:1~3行に1回は、句点「。」を入れる。
_:1文は100文字以内。1回の投稿の目安は、650文字以内。
(1行26文字×25行=650文字、5行空け)
*****
┌
│関口宏の一番新しい古代史 2022/4/9(土)
└
第2回目も見ました。(録画ですが、)面白かったです。
この投稿は、B5縦、(.DOC&余白:やや狭い)の書式のワープロで
書いたものを、コピペしています。
私のパソコンでは、この分量が画面を動かさずに、
一度に表示できる範囲です。
改行を多く入れていますので、この投稿で、約360文字です。
読まれること・読みやすことを意識して、投稿しましょう。
Re: 「FC2のロビー」 - 米田 喜彦
2022/04/04 (Mon) 09:11:12
┌
│Re: 「FC2のロビー」 - 橘
│2022/04/04 (Mon) 07:43:10
│
│米田様にはこれは届いておられるのかな?
│ご参考までに貼り付けておきます。
└
┌
│ブログの記事をエクスポートしたい
│
│現在は、無料版のAutoPageブログでも
│ご利用いただけるよう開放しております。
│
│AutoPageブログのエクスポートをご希望の場合は、
│以下の手順をご確認ください。
│
│※teacup.無料掲示板ではご利用いただけません。
│ご了承ください。
│
│1.ブログの「投稿・管理画面」へログイン
│2.「動作の設定」タブをクリック
└
橘さんへ
情報は、いただいております。(ありがとうございます。)
(その1):掲示板のエクスポートについて
※:無料掲示板では、利用できませんとのことでした。
※:また、使えたとしても、画像の保存は出来ないみたいです。
_:ですので、去年と同じように、保存をしております。
Re: 「FC2のロビー」 - 橘
2022/04/04 (Mon) 07:43:10
米田様にはこれは届いておられるのかな?ご参考までに貼り付けておきます。
このメールは重要なお知らせのため、2022年3月時点で有効な、teacup.IDをお持ちの管理者登録アドレス宛にお送りしております。何卒ご容赦ください。
----
いつもteacup.をご利用いただき、誠にありがとうございます。
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BS-関口宏の一番新しい古代史 - 米田 喜彦
2022/04/02 (Sat) 23:53:00
┌
│関口宏の一番新しい古代史
│
│2022/4/2(土)スタート
│BS-TBS 毎週土曜 ひる12:00~12:54
└
第一回目を見ました。(録画を見たのですが、)
気軽に見ることが出来て、あっという間の1時間でした。