東アジア討論室 126001


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スレ「東夷伝」と「倭人伝」

1:米田 :

2022/04/17 (Sun) 07:28:13

「東夷伝」と「倭人伝」

ここのスレでは、道程記事の解釈について、議論したいと思います。

そのために、まず、「東夷伝」の道程に関する記事のおさらいをします。

中国の史書の記述の特徴は、古い記述を否定することはほとんど無く、
新しい史書は、古い史書に、新しいことを追加するだけである、という
ことが見られます。


│楽浪郡(「後漢書郡国志」より:東洋文庫「東アジア民族史1」より)
│雒陽(洛陽)の東北五千里。

│「史記朝鮮伝」
│真番・臨屯はみなやって来て服属し、
│〔その支配地は〕数千里四方におよんだ。

│「後漢書韓伝」より
│(北は楽浪〔郡〕と、南は倭と接している。)
│〔韓の〕地は全体で四千余里四方である。東と西とは海である。
│〔これらの国々は〕みな古の辰国〔の領土〕であった。

※:つまり、帯方郡から狗邪韓国まで、七千余里というのは、
_:「魏志倭人伝」の前から、既定事実だったことが分かります。
36:福島雅彦 :

2022/08/11 (Thu) 12:40:25

※『後漢書』の「倭奴國」に就いて。

*『後漢書』には、「倭國」の中に「奴國」が在るとは述べられていない。

・『後漢書』倭伝なのに、「倭ノ奴國」では、稚拙な表記である。

・正史を編纂する様な文筆家はその様なヘマはしない。

∴「倭奴國」とは、「倭」の使者が「私の国」の意の筑後弁を音写したものである。

・自称大夫の弁=「我(わ)ン國」は「倭國」の極南界です、と。

※金印「漢委奴國王」=「漢ノ倭ン(の)國王」の意である。
35:福島雅彦 :

2022/08/10 (Wed) 21:37:51

※話が逸れています。元に戻します。

*范曄(『後漢書』)は陳寿(『三国志(魏志倭人伝)』)をパクっていません!

・『後漢書』=「自女王国東度海千餘里至拘奴國」。

・『三国志(魏志倭人伝)』=「次有此女王境界所盡其南有狗奴國」。

※全く異なる表現であり、パクっていません!

※『後漢書』の「拘奴國」=四国の高知県。

*『三国志(魏志倭人伝)』の「狗奴國」=熊本県。

・土佐のイゴッソ=“외-고집”(oe-go-jib)=依怙地、一徹。

・肥後モッコス=“목-곧이” (mog-goji) =一徹な人。

※「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」で両県の県民性が共通する事まで言い表せる。

∴拘奴國と狗奴國は別々に存在していて、パクリ損ねた訳ではナイ!
34:オヤジッチ :

2022/08/10 (Wed) 12:51:30

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1660103490.jpg 福島さん、こん○○は。
いつものように、横道に外れています。元に戻します。

> *「伊都國」に於いて聴き取りに応えているのは、「倭」の極南界から来た筑後人(自称大夫)ですョ!
↑『郡使の聞き取りに「倭」の“極南界”(筑後)から来た(C)』とされてますが。
 この“極南界”も“自称大夫”も後漢書東夷の一節ですね。
 『建武中元二年“倭奴國”奉貢朝賀使人“自稱大夫”倭國之“極南界”也“光武賜以印綬”』(“”はオヤジッチ付加)
“自称大夫”は「西暦57年に倭の奴國から奉貢朝賀に来た“自らを大夫と称する”使者」
“極南界”は「“使者は倭国の極南界の奴国”から来た、」と言うこと、
“光武賜以印綬”は「使者に印(志賀島の金印)を賜った」と言うこと、
魏志倭人伝の180年前のことです。「伊都國・邪馬壹國」なんか無関係だし時代が違いすぎる。

↑また、“極南界”は“倭奴國”にかかる修飾で、「邪馬壹國」とは無関係。
 魏志倭人伝『計其道里當在會稽東冶之東』を参考に、倭国を“極南界”としたか、
 魏志倭人伝『其餘旁國遠絶・・・次有“奴國此女王境界”所盡其南有狗奴國』の“奴国”を倭の“奴国”としたのでしょう。
 
 「私だったら、『伊都國・・・郡使往來常所駐』『特置一大率・・・常治伊都國』から「伊都國」において、“一大率”から聴き取りしたのだろうとします」と、塩を送ったのに、がっかりです。

もう一つ重要な間違い。
> ※『隋書』で現地踏査した「裴世清」が、所謂「邪馬臺國」へ直接訪問するまで、郡使(魏使)は「邪馬臺國」へも「邪馬壹國」へも行っていない!
↑「裴世清」が行ったのは「邪靡堆」です。
 この「邪靡堆」は第二回遣隋使・小野妹子の答礼使として来たのであって、当然ご存じの通り小野妹子は推古天皇が607年(推古15年)に、大唐国に国書を持って派遣されたのですヨ。つまり、「邪靡堆」は飛鳥(ヤマト)です。いつから近畿説になったのですか。

どちらも、書かれた時代を考えていらっしゃらない。
特に二つ目は、「記紀九州」に投稿される方とは思えない間違いです。
33:福島雅彦 :

2022/08/09 (Tue) 21:58:14

> *陳寿の『三国志(魏志倭人伝)』には「邪馬壹國」とあります。
> ・范曄は「邪馬臺國」としています。パクっていませんョ!
↑「古田武彦氏の説」こうゆうのを詭弁と言います。
 壹も臺も“ッ”です。音が同じ字をつかっただけです。

※此れは又、異な事を!

*「臺」=“t-ai”。

・「壹」=“yi”。

※他の類似記事=別々の資料・史料から得られる情報が似ているのは当然である。同じ国の情報成れば也。
32:オヤジッチ :

2022/08/09 (Tue) 15:50:51

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1660027852.jpg 福島さん、こん○○は。

> *陳寿の『三国志(魏志倭人伝)』には「邪馬壹國」とあります。
> ・范曄は「邪馬臺國」としています。パクっていませんョ!
↑「古田武彦氏の説」こうゆうのを詭弁と言います。
 壹も臺も“ッ”です。音が同じ字をつかっただけです。

 後漢書:『其大“倭王居”邪馬臺國』
 倭人伝:『邪馬壹國“女王之所都”』だけでなく、

 後漢書:『凡百餘國・・・使驛“通於漢者三十許國”』
 倭人伝:『舊百餘國・・・今使譯所“通三十國”』や、

 後漢書:『其地大較在“會稽東冶之東”』
 倭人伝:『計其道里當在“會稽東冶之東”』

 後漢書:『行來度海令一人不櫛沐・・・不近婦人名曰“「持衰」”』
 倭人伝:『行來渡海詣中國恆使一人不梳頭・・・不近婦人名之爲“持衰”』

 後漢書:『桓靈間倭國大“亂更相攻伐歴年”』
 倭人伝:『住七八十年倭國“亂相攻伐歴年”』

 後漢書:『有“一女子名曰卑彌呼”“年長不嫁”“事鬼神道能以妖惑衆”』
 倭人伝:『共立“一女子”爲王“名曰卑彌呼”“事鬼道能惑衆”“年已長大無夫壻”』

 後漢書:『自女王國東度海千餘里至“拘奴國”雖皆倭種而“不屬女王”』
 倭人伝:『其南有“狗奴國”・“不屬女王”』+『女王國“東渡海千餘里”・“皆倭種”』
 このくらいにしときましょう。
 これらの例は魏書を参考にしなければ知り得ないことです。
31:福島雅彦 :

2022/08/08 (Mon) 21:08:38

※言語明朗にして、意味不明!

>> ∵范曄が陳寿の記録をパクって居たら「邪馬壹國」になる筈!

>↑『後漢書』東夷傳の“倭”の冒頭を読まれたことがないのですか。その為に画像をアップしたんですけどね。再度、『後漢書』東夷傳の冒頭部分をアップします。
 『倭在韓東南大海中・・・其大倭王居“邪馬臺國”』とあります。パクってますネ。

*陳寿の『三国志(魏志倭人伝)』には「邪馬壹國」とあります。

・范曄は「邪馬臺國」としています。パクっていませんョ!
30:オヤジッチ :

2022/08/08 (Mon) 13:48:11

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1659934091.jpg 福島さん、こん○○は。

> ※勘違いの二乗ですか?
↑三重かも。(-_-;)

> *范曄と陳寿の長幼と編纂時期の前後論には与しません。
↑長幼は関係ありません。
 およそ文献を検討するのに編纂時期の前後を加味しないのでは、話になりません。
 「何時」「誰が」「何処で」「何のため」と言うのは基本です。

> ・『後漢書』は後漢時代の歴史記録。
> ・『三国志(魏志倭人伝)』は三国時代の歴史記録。
> ∴「邪馬臺國」と聴き取られたのは、「倭國」の極南界(筑後)から来た自称大夫の「「天(あま・あめ)」たィ!」の訛りの音写である。
> 「*「伊都國」に於いて聴き取りに応えているのは、「倭」の極南界から来た筑後人(自称大夫)ですョ!」
↑↑あなたが挙げられた“自称大夫”の元記事は『後漢書』東夷傳でしょう。再記します。
 『建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人“自稱大夫倭國之極南界也”光武賜以印綬』
 「倭奴國から奉貢朝賀しにきた使人」ですよ。
 建武中元二年は西暦57年

> ∵范曄が陳寿の記録をパクって居たら「邪馬壹國」になる筈!
↑『後漢書』東夷傳の“倭”の冒頭を読まれたことがないのですか。その為に画像をアップしたんですけどね。再度、『後漢書』東夷傳の冒頭部分をアップします。
 『倭在韓東南大海中・・・其大倭王居“邪馬臺國”』とあります。パクってますネ。
 パクってますと言うのは語弊があります。『漢書』地理志や『三国志』魏志・倭人伝の影響をうけています。
29:福島雅彦 :

2022/08/06 (Sat) 16:51:19

※勘違いの二乗ですか?

*范曄と陳寿の長幼と編纂時期の前後論には与しません。

・『後漢書』は後漢時代の歴史記録。

・『三国志(魏志倭人伝)』は三国時代の歴史記録。

∴「邪馬臺國」と聴き取られたのは、「倭國」の極南界(筑後)から来た自称大夫の「「天(あま・あめ)」たィ!」の訛りの音写である。

∵范曄が陳寿の記録をパクって居たら「邪馬壹國」になる筈!
28:オヤジッチ :

2022/08/06 (Sat) 14:35:51

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1659770213.jpg 福島さん、こん○○は。
> *「伊都國」に於いて聴き取りに応えているのは、「倭」の極南界から来た筑後人(自称大夫)ですョ!
↑予想通りのレスですネ。
 予想外なのは、『筑後が「倭」の極南界』っていうところです。
 『建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人“自稱大夫倭國之極南界也”光武賜以印綬』(“”はオヤジッチ付加)は『後漢書』東夷傳の一節ですね。光武から金印を授かった“奴国の使い”ですよ。57年のことですよ。邪馬台国より180年まえ、ちなみに、後漢書が書かれたのは邪馬台国より約200年あと、「魏志倭人伝」が混入しています。
 私だったら、「『特置“一大率”檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史』(“”はオヤジッチ付加)の“一大率”から“邪馬台=ヤマト=山門”と聞いた」としますけどネ。(^^♪

蛇足)後漢書東夷伝の方が魏志倭人伝より後に書かれたのですから、(←よくある勘違い)
> ※:つまり、帯方郡から狗邪韓国まで、七千余里というのは、
↑「魏志倭人伝」からの引用で、

> :「魏志倭人伝」の前から、既定事実だったことが分かります。
↑既定事実だったわけではありません。
27:福島雅彦 :

2022/08/05 (Fri) 21:28:10

※今度は、短絡+勘違いですか?

>> *何でそんなに短絡的思考に成るのですか?
>> ・「伊都國」に於いて聴き取りですョ!

>↑短絡的ですか。糸島弁(伊都国)と築後弁は今でもとても違います。アリをヤリなんて言わないし、アマ(天)をヤマ(邪馬)なんて言いません。

*「伊都國」に於いて聴き取りに応えているのは、「倭」の極南界から来た筑後人(自称大夫)ですョ!
26:オヤジッチ :

2022/08/05 (Fri) 15:44:11

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1659681851.jpg 福島さん、こん○○は。
> *何でそんなに短絡的思考に成るのですか?
> ・「伊都國」に於いて聴き取りですョ!
↑短絡的ですか。糸島弁(伊都国)と築後弁は今でもとても違います。アリをヤリなんて言わないし、アマ(天)をヤマ(邪馬)なんて言いません。
また、福島さんがよく言う「猿田彦」、「さるく=歩き回る」博多弁では「そうつく」です。
確かに、「猿田彦」=「さるく+部族長」だとして、それで終わっては意味がないです。
「方々を移動する民」=「縄文人=在地系弥生人」ってとこまで行けば「在地系弥生人」が「渡来系弥生人」を拒否せず受け入れたことの記憶といえます。
ここからも、天孫族は渡来系弥生人でその故地“記紀”で言うところの“高天原”は“朝鮮半島”と言えます。こうして文献史学と考古学が整合します。
25:福島雅彦 :

2022/08/04 (Thu) 21:42:48

米田さん、以下のご意見に意義がります。

>:「イザナミ尊」は、女神ですから、「金首露」とは別人でしょう。

※半島由来の隠蔽ですから女神に代えている、と観ます。

>:「イザナギ・イザナミ」が、(おそらく、記紀編纂時に)作られた名前であることを、見つけた人がいました。全邪馬連会員:白崎勝氏の考の「い・ざ・な・み・き」説


│伊邪那岐、伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニの国名から、
│一文字ずつ採った名であることを発見した。
│各順1 伊―伊都国
│各順2 邪―邪馬台国
│格順3 那―奴(那)国
│格順4 美―不弥(宇美)国
│格順5 岐―壱岐国
│3、伊邪那美岐の文字順は、クニの格順になっている。
│伊邪那美岐の文字並びは、採用したクニの格順になっている。

※少し、無理があります。

・「奴」≠「那」、他もコジツケでしかありません。

>:例えば、「スサノオ」は、「伽耶」から「新羅」に下って、出雲にやってきます。この「スサノオ」は、「倭人」といえるのか。

※『後漢書』に倭王 「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」として登場しています。

・「高天原」(うきは市)を追放になり、新羅(記編纂時の国名)の曽尸茂梨❝쇠씨-머리❞(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)の処へ行きます。

・現出雲は後世の付会でしょう。元・出雲は水縄連山(耳納山地)と観ます。春夏秋冬朝昼晩降っても照っても雲が湧く。鋸の歯状の小峰に、白雲台 紫雲台  凌雲台  碧雲台  渓雲台の名もついています。

24:福島雅彦 :

2022/08/01 (Mon) 16:24:19

*何でそんなに短絡的思考に成るのですか?

・「伊都國」に於いて聴き取りですョ!
23:オヤジッチ :

2022/08/01 (Mon) 15:38:32

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1659335912.jpg 福島さん、こん○○は。
横槍すみませんm(__)m
> *郡使(魏使)は「伊都国」から先へは行っていない。
↑と言うことは、郡使は筑後弁は聞いていないということですネ。(“邪馬”が“Y天⇒Yあま”だとか)
22:米田 :

2022/08/01 (Mon) 11:39:03


│Re: スレ「東夷伝」と「倭人伝」 - 福島雅彦 2022/07/30 (Sat) 12:24:30

│※九州皇統の定義。

│*故・古田武彦氏の九州王朝説とは無関係である、の意。

│*『古事記』序文の『諸家のもたる帝記と本辞と既に正実に違ひ、
│多く虚偽を加ふといへり』=『諸家の家系に皇位に就いた記録が
│在るが事実でない虚偽である』と断定。
│「卑彌呼」談合共立以来の仕来りは、万世一系の否定になるので、
│諸家の記録を焚書した記録であろう。



│*故・古田武彦氏の九州王朝説とは無関係である、の意。

:勉強不足のため、「古田武彦氏の説」は、自分は分かりません。


│『諸家の家系に皇位に就いた記録が在るが事実でない虚偽である』
│と断定。

:『諸家の家系に皇位に就いた記録が在る』という調査を自分は
:していません。でも、これは、事実だろうと思っています。

(例):伊香色雄命=崇神天皇。 武内宿禰=成務天皇

*****

│*「朝鮮半島由来の隠滅」=神話の世界へ放逐している、と観る。
│・「伊奘諾(イザナギ)尊」=「大伽耶國」建国王の伊珍阿岐王。
│・「伊奘冉(イザナミ)尊」=「駕洛國」建国王の金首露王、か。


:「イザナミ尊」は、女神ですから、「金首露」とは別人でしょう。
:私の推測は、下記のとおりです。

「伊奘諾(イザナギ・男神)尊」=「天背男命(日本書紀の一書)」
「伊奘冉(イザナミ・女神)尊」=「正見母主の母親」


※:「イザナギ・イザナミ」が、(おそらく、記紀編纂時に)作られた
_:名前であることを、見つけた人がいました。
※:全邪馬連会員:白崎勝氏の考の「い・ざ・な・み・き」説


│伊邪那岐、伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニの国名から、
│一文字ずつ採った名であることを発見した。
│各順1 伊―伊都国
│各順2 邪―邪馬台国
│格順3 那―奴(那)国
│格順4 美―不弥(宇美)国
│格順5 岐―壱岐国
│3、伊邪那美岐の文字順は、クニの格順になっている。
│伊邪那美岐の文字並びは、採用したクニの格順になっている。

*****

│*この二神は「韓国古典刊行会」編『新増東国輿地勝覧』に
│「伽耶山の女神・正見母主」の子供で兄弟とある。

│・「伊珍阿岐王」=内珍朱智。
│・「金首露王_」=悩室青裔。

:この兄弟は、異父同母兄弟だろうと、考えています。


│「倭人」の隠蔽か?国生み神話へ。

│・初代天皇「神武天皇」の父親=「鵜葺草葺不合命」として神格化。
│ 半島「倭人」の伽耶諸国統合に失敗した事の隠喩。
│即ち、「大伽耶(うがや)不統合命」の意。太安万侶一流の真実に
│辿り着くための「鍵」と観る。歴代天皇の和風諡号にも
│「鍵」を忍ばせている。


:「高忍日賣大神」(ウィキペディアより)
:神話
:当社には固有の神話がいくつか残る。初代神武天皇の父君
:日子波限建鵜葺草葺不合命が生まれる際の伝承である。
:日子穂穂手見命と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡る際に、妻神が
:急に産気づき近くの海岸で産屋を建てて、出産することになった。
:そこで、鵜茅(ウガヤ)で産屋を葺いてその中で出産するが、
:海から多くの蟹がはい上がり産屋まで入り大変な難産になった。
:(云々)

:「鵜葺草葺不合命」の名前の由来は、
:この神社の神話(エピソード)が由来と考えています。
:ですので、「大伽耶(うがや)不統合命」とは考えていません。


│※「河・川」が「かわ」なのは、「行ったり来たりする処」の意の
│「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」である。倒置形
│「若・稚・幼(わか)」も同義「来たり行ったり」の縮約形である。

│・初代「神武天皇」諡号「若御毛沼命」の「若」も半島と来たり
│行ったりの意。別の諡号「神倭伊波毘古命」の「神=韓」の当て字。
│「神=韓」は騎馬民族の族長の意“khan・haan”の意。
│「倭(やまと)」=「天(あま)ン処」=「天の分国」の意の
│筑後弁訛り。
│「大日本・日本(やまと)」も同義。


:「河・川」が「かわ」、「若・稚・幼(わか)」も同義、については、
:勉強不足のため、コメント出来ません。


│「神=韓」は騎馬民族の族長の意“khan・haan”の意。

・「神倭伊波毘古命」の「神」
・「神淳名川耳命」_の「神」

:この2例をもって、何かを結論づけるのは、難しい気がします。


│半島「倭人」の伽耶諸国統合に失敗した事の隠喩。
│「倭(やまと)」=「天(あま)ン処」=「天の分国」の意の
│筑後弁訛り。
│「大日本・日本(やまと)」も同義。
│∴「大伽耶國」も「狗邪韓國」も「駕洛國」も「倭地」である。


:「倭人」に対する「5W1H」の条件付けの定義が抜けていること。
:支配者層(5部)と、被支配者層、「海の民」・(騎馬隊・水軍)・
:「山の民」(鉱山系)と、多数を占める水田耕作民など。
:さらに、真番郡などの遺民の現地化(在地化)など。

:例えば、「スサノオ」は、「伽耶」から「新羅」に下って、
:出雲にやってきます。この「スサノオ」は、「倭人」といえるのか。
:それとも、「スサノオ」の孫の世代から、「倭人」の扱いにしようか。

:というようなことを考えると、「倭人」・「倭地」について
:即断できない自分がいます。

21:福島雅彦 :

2022/07/30 (Sat) 12:24:30

米田さん、愚説の掘り下げに誘(いざな)って戴き、多謝 謝々!

※九州皇統の定義。

*故・古田武彦氏の九州王朝説とは無関係である、の意。

*『古事記』序文の『諸家のもたる帝記と本辞と既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふといへり』=『諸家の家系に皇位に就いた記録が在るが事実でない虚偽である』と断定。
「卑彌呼」談合共立以来の仕来りは、万世一系の否定になるので、諸家の記録を焚書した記録であろう。

*「朝鮮半島由来の隠滅」=神話の世界へ放逐している、と観る。

・「伊奘諾尊」=「大伽耶國」建国王の伊珍阿岐王。

・「伊奘冉尊」=「駕洛國」建国王の金首露王、か。

*この二神は「韓国古典刊行会」編『新増東国輿地勝覧』に「伽耶山の女神・正見母主」の子供で兄弟とある。

・「伊珍阿岐王」=内珍朱智。

・金首露王=悩室青裔。

「倭人」の隠蔽か?国生み神話へ。

・初代天皇「神武天皇」の父親=「鵜葺草葺不合命」として神格化。
 半島「倭人」の伽耶諸国統合に失敗した事の隠喩。
即ち、「大伽耶(うがや)不統合命」の意。太安万侶一流の真実に辿り着くための「鍵」と観る。歴代天皇の和風諡号にも「鍵」を忍ばせている。

※「河・川」が「かわ」なのは、「行ったり来たりする処」の意の“갔다-왔다”(ka-tta-wa-tta)の縮約形=「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」である。
倒置形「若・稚・幼(わか)」=“왔다-갔다”(wa-tta-ka-tta)も同義「来たり行ったり」の縮約形である。

・初代「神武天皇」諡号「若御毛沼命」の「若」も半島と来たり行ったりの意。別の諡号「神倭伊波毘古命」の「神=韓」の当て字。
「神=韓」は騎馬民族の族長の意“khan・haan”の意。
「倭(やまと)」=「天(あま)ン処」=「天の分国」の意の筑後弁訛り。
「大日本・日本(やまと)」も同義。

・第二代「綏靖天皇」=「神淳名川耳命」。

・第四代「懿徳天皇」=「大日本彦耜友尊」。

・第六代「孝安天皇」=「日本足彦国押人尊」。

・第七代「孝霊天皇」=「大日本根子彦太瓊尊」。

・第八代「孝元天皇」=「大日本根子彦国牽尊」。

・第九代「開化天皇」=「稚日本根子大日日尊」。

・第十三代「成務天皇」=「稚足彦尊」。

・第二十一代「雄略天皇」=「大泊瀬幼武尊」。

・第二十二代「清寧天皇」=「白髪武広国押稚日本根子尊」。

∴「大伽耶國」も「狗邪韓國」も「駕洛國」も「倭地」である。

・弁辰「彌烏邪馬國」も、旧・「倭地」か、と。
20:米田 :

2022/07/28 (Thu) 06:14:18

福島さんへ

:討論室での「議論/討論」は、お互いの意見の相違を、
:お互いに確認することですので、
:「郡庁(楽浪郡徼=帯方郡庁)」についての「議論」は、終わります。
:ありがとうございました。

:よろしければ、次の議題に、移りたいと思います。
:私の議論に、お付き合いくださるようでしたら、ありがたいです。


│「うきは学」(序)
│『古事記・日本書紀』の編纂目的は、
│天皇家の万世一系と天武天皇即位の正統性を謳い上げて、
│且つ九州皇統の故事来歴を畿内皇統一元に見せかける為と観る。
│不都合なことは隠蔽。


:ここの部分に対応するように、自説を書くと次のようになります。

*****

白村江の敗戦による唐への従属関係を打破するために、壬申の乱が
起きた。そして、「倭国」から「日本国」に生まれ変わった。
新しい独立国家「日本国」は、滅んだ「倭国」の歴史をまとめた。
それが、701年頃の「(元)日本書紀」である。
少なくとも、「(元)日本書紀」は、そう主張しています。

この「(元)日本書紀」をもとにした「日本国の成立」を則天武后に
報告した処、案外、すんなりと「日本国の独立」を認めてもらえた。
そうすると、「(元)日本書紀」の存在意義は、なくなりました。
その後、「倭国の歴史=(元)日本書紀」を「新しい日本国の歴史」
に、作り直す作業が始まりました。
作り直す作業の中で、聖徳太子の「国記」をもとにしたのが「古事記」、
「(元)日本書紀」をもとに書き直したのが、「(新)日本書紀」。

「古事記」にしても「(新)日本書紀」にしても、「倭国」から
「日本国」への、すり替わりは、気づかれないように、
存在しない「天皇」をはじめとして、(万世一系や豪族の)
系図そのものを(とことん)改ざんしています。
「九州皇統」などというものは、ありませんでしたが、
「九州地方」を治めていた(西の)勢力が、大和の勢力に取って
代わるという政変は、何度も、起きています。

「天智(倭国側)」と「天武(日本国側)」は、異父同母兄弟でした。
ふたりとも「日本武尊」の(男系)子孫です。
*****

:「天皇家の万世一系と天武天皇即位の正統性を謳い上げて、」
:という点は、共感出来ますが、
:「九州皇統」という存在を、私は認めておりません。
:また、「不都合なことは隠蔽」というよりも
:「不都合なことは、徹底的に改ざん」と、思っております。

:議論にお付き合い下さるのであれば、「九州皇統」という
:存在(証拠)を、提示していただけるとありがたいです。

(この議題の次は、「高天原」についてを考えています。)

(1文字削除)失礼しました。(2022-07-28:20:58)

福島さんへ(2022-07-29:22:26)
再度のご指摘、ありがとうございます。大変失礼しました。
(いちおう、直したつもりです。)

PCでの画面の作業(読み書き)は、普通に出来ますが、
乱視と老眼のため、本(活字)を読んだり、さらに、それを
PCに入力するところで、(最近)苦労をしています。
多少、思い込みも強いものですから、直したものと
思い込んでおりました。本当に失礼しました。
これからも、よろしくお願いいたします。(米田)
19:福島 雅彦 :

2022/07/27 (Wed) 21:21:57

※再度のご下問を賜り、多謝 謝々!

>もう一度質問します。

>(質問4)
:地図の[楽浪郡](郡治)は、何県にあるでしょうか。

*知りません。

・「邪馬臺國」オタクとしましては重要事項では無い、と存じます。

>(質問5)
:地図の[帯方郡](郡治)は、何県にあるでしょうか。

*知りません。

・「邪馬臺國」オタクとしましては重要事項では無いと、存じます。

>(質問6)
:地図の[楽浪郡徼=帯方郡]は、何県か、考えたことがありますか。

*ありません。

>:帯方郡の郡治(〇県)から千五百里も離れた[楽浪郡徼=帯方郡]が
:同じ県(帯方郡の〇県)に、見えますか。

*楽浪郡徼=帯方郡、と認識しています。


>(質問7/意見)
:「楽浪郡の郡治」と「帯方郡の郡治」とでは、
:「邪馬壹国」への行程は違うはずですが、
:それでも、「萬二千餘里」の出発点が同じであり、と、
:『後漢書』の倭伝を持ち出す、何かメリットはありますか。
:(もしメリットがなければ、『後漢書』の倭伝は、不要でしょう。)

*「邪馬臺國」=「邪馬壹國」⇒楽浪郡徼からも帯方郡からも「萬二千餘里」てす。゜
18:米田 :

2022/07/27 (Wed) 06:18:02

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1658870462.png
│:『漢書地理志』では、楽浪郡は25県。(大楽浪郡)
│:『後漢書郡国志』は、楽浪郡は18城(県のこと)。
│:『晋書地理志』では、楽浪郡は6県。帯方郡は7県。


『三国志韓伝』
:建安年間(196~220)に、公孫康が帯方郡を建てた。
:この後は、倭も韓も遂に帯方〔郡〕に属するようになったのである。

(魏 ・曹氏)
文帝(220~226)帯方郡太守 公孫模 張敞(ちょうしょう)

明帝(227~239)   太守 劉昕   (238年 公孫氏滅亡)                                
            太守 劉夏(238年頃)   
少帝(240 ~253)240年太守 弓遵✕(梯儁)    
         247年太守 王頎 (塞曹掾史張政) 
○公(254 ~ 259)                                 
元帝(260 ~264)   太守 張氏  

(西晋・司馬)                                    
武帝(265 ~ 290) 

**************************

(後漢:AD25~220年)( 205年頃 帯方郡 設置)

:『後漢書』は、205年頃の「帯方郡設置」を記録はしていません。
:また、「帯方郡設置」は、正確に云うと、大楽浪郡(25県)の内、

:元「臨屯郡」だった6県を廃止。←(この廃止の時期は、不明。)
:元「玄菟郡」だった1県を廃止。←(この廃止の時期は、不明。)

:こうして、後漢の時代には、「楽浪郡」は、「18県」になりました。
:その後、205年頃に、
:元「真番郡」だった7県を「帯方郡」として、再編独立させました。

:ですので、
:107年の倭国王帥升の朝貢では、_楽浪郡の郡治に出かけています。
:206年以降、倭国の使者(朝貢)は、帯方郡の郡治に出かけます。


│(質問1)
│:(三国志の時代の)「邪馬壹国」への行程を調べるのに、
│:なぜ、『後漢書』を持ち出すのですか。

│※「萬二千餘里」の出発点が同じであり、
│ 時代が下っても行程は同じと観ます。

│*楽浪郡が広大すぎるとして、その南端を帯方郡にしていますから
│ 起点は同じと観ます。


もう一度質問します。

(質問4)
:地図の[楽浪郡](郡治)は、何県にあるでしょうか。

(質問5)
:地図の[帯方郡](郡治)は、何県にあるでしょうか。

(質問6)
:地図の[楽浪郡徼=帯方郡]は、何県か、考えたことがありますか。
:帯方郡の郡治(〇県)から千五百里も離れた[楽浪郡徼=帯方郡]が
:同じ県(帯方郡の〇県)に、見えますか。

(質問7/意見)
:「楽浪郡の郡治」と「帯方郡の郡治」とでは、
:「邪馬壹国」への行程は違うはずですが、
:それでも、「萬二千餘里」の出発点が同じであり、と、
:『後漢書』の倭伝を持ち出す、何かメリットはありますか。
:(もしメリットがなければ、『後漢書』の倭伝は、不要でしょう。)
17:福島 雅彦 :

2022/07/26 (Tue) 17:41:31

米田さん、愚説の転載並びにご下問賜り多謝 謝々!

(質問1)
:(三国志の時代の)「邪馬壹国」への行程を調べるのに、
:なぜ、『後漢書』を持ち出すのですか。

※「萬二千餘里」の出発点が同じであり、時代が下っても行程は同じと観ます。

*楽浪郡が広大すぎるとして、その南端を帯方郡にしていますから起点は同じと観ます。

(質問2)
:「韓地+狗邪韓國」は、(三国志倭人伝では)7千余里なのに、
:なぜ、五千五百餘里にするのですか。

※郡庁から七千餘里ですから、郡治の海岸に沿って南下水行が千五百里です。陸行が五千五百餘里 です。

(質問3)
『後漢書』の倭伝:「其大倭王居邪馬臺國、樂浪郡徼去其國萬二千里、」
『三国志』の倭人伝:「自郡(帯方郡)至女王國萬二千餘里。」

:出発地点は、帯方郡なのに、なぜ、楽浪郡からの千五百里を
:わざわざ、加えているのですか。

※その様な解釈はしていませんが…。質問1に同じ。
16:米田 :

2022/07/26 (Tue) 15:24:55

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1658816696.png 福島さんへの質問、「楽浪郡徼=帯方郡庁」について


│福島雅彦(代筆 米田)
│郡庁(楽浪郡徼=帯方郡庁)から「邪馬壹国」への行程図

│┌─────────┐
││楽浪郡徼=帯方郡庁│
│└─────────┘
│ ↓ 従郡至倭海岸水行(郡治の海岸・千五百里=六日)
│ ↓ 歴韓國乍南乍東 (陸行)
│ ↓(韓地+狗邪韓國=五千五百餘里=二十七日半)≒二百里/日


│『後漢書』の倭伝
│「其大倭王居邪馬臺國、樂浪郡徼去其國萬二千里、←:「徼」
│ 去其西北界拘邪韓國七千餘里、~」


│『三国志』の倭人伝
│倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑、舊百餘國、
│漢時有朝見者、今使譯所通三十國。
│從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、
│到其北岸狗邪韓國、七千餘里。


:「徼」という文字は、『後漢書』には出て来ますが、
:「三国志・倭人伝」には使われていません。

:そうすると、福島さんは、『後漢書』での「楽浪郡徼」と、
:『三国志』での、「帯方郡庁」は、同じである、と主張しています。

(質問1)
:(三国志の時代の)「邪馬壹国」への行程を調べるのに、
:なぜ、『後漢書』を持ち出すのですか。

(質問2)
:「韓地+狗邪韓國」は、(三国志倭人伝では)7千余里なのに、
:なぜ、五千五百餘里にするのですか。


(質問3)
『後漢書』の倭伝:「其大倭王居邪馬臺國、樂浪郡徼去其國萬二千里、」
『三国志』の倭人伝:「自郡(帯方郡)至女王國萬二千餘里。」

:出発地点は、帯方郡なのに、なぜ、楽浪郡からの千五百里を
:わざわざ、加えているのですか。
15:米田 :

2022/07/25 (Mon) 22:39:36

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1658756376.gif

掲載図:「朝鮮半島南部の地図」

***********************

東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー
- 白石南花   2022/06/03 (Fri) 12:03:35

三国志東夷伝の「接」については、
長い間地続きの意であると誤解されてきました。
二十数年前、私が大論争に参加したころから、この「接」は
地続きではないと説明する人がいましたから、おそらくそのころから
「接」が地続きの意味ではないことが、
文献史家の間では定説になっていたのでしょう。

問題は何故こんなに長く在野での誤解が続いたのかですが、
三木太郎氏などのそうそうたる文献学者が、接を地続きの意味に
解して、市中にもそのように書いた啓蒙本が多数出回ってしまった
ことが原因と思われます。

ひとつには三世紀朝鮮半島に倭地があったとすれば、人の興味を
ひきやすく、面白いデマほど拡散力がある法則に従って、
いつまでもこの誤解が収束しないのだと思われます。

***********************

何を仰る、米田さん! - 福島雅彦 2022/07/24 (Sun) 12:36:47

>:つまり、馬韓や弁辰の人たちは、漁業をしないのである。そして、
>:朝鮮半島の南岸及び島々に、(クニとはいえないほどの)倭人の
>:集落が点々とあって、彼らは、漁業を生業としていた。
>:これが、「接する」の実態だった。(倭国ではなくて、倭人。)

※半島に於ける「倭」「倭人」の経歴からして南岸の漁労民をして、
「韓は南を倭に接す」の「倭」に置き換えるのは如何なものか、と存じます。

*以下に半島に於ける「倭」「倭人」の痕跡を羅列いたします。

 古来、朝鮮半島には遍く「倭人」が居た。その痕跡は…。

所謂「倭・倭人・倭国」の範疇は日本列島のみを指すのではナイ!

・「韓」は中国戦国時代の七雄の一つ。
 七雄は「秦・楚・斉・魏・趙・韓・燕 」
 秦の始皇帝の中国統一。敗れた韓は始皇帝の万里の長城建設等の
 労役に駆り出されるのを嫌って、馬韓の山側に入植。「朝鮮語」の
 文法が「倭語」と同じであるのは、入植地の回りの「倭語」に
 合わせたから、か。

・檀君神話の古朝鮮建国の古地名「阿斯達」の「阿斯」は「倭語」の
 「朝」由来。「達」は「嶽」の意の「倭語」音写。
 天帝の子、桓雄が地上に降りて建国したことになっている。
 人になりたがった、熊と虎に方法を伝授する。熊は女人と化すが
 虎はなれずに逃亡。この熊と虎とは倭族の「濊・貊」を指す、と観る。
 熊女と桓雄の間に生まれたのが古朝鮮初代王檀君王倹。

・中国の古書『山海経』に
 「蓋國は鉅燕の南、倭の北にあり倭は鉅燕に属す」とある。
 蓋國を白頭山南麓の「蓋馬高原」と観れば、その南の倭とは
 朝鮮半島全域の事となる。

・「扶餘」は「ふ(幸運の意の九州弁)餘(あまる)」の「倭語」漢字表記。

・「高句麗」建国王「朱蒙(ちゅもん)」は漢に滅ぼされた古朝鮮遺民。
 その誕生は卵生とされるが「倭」由来の隠蔽か。
 夫餘王の「金蛙」が育てる。金蛙の「蛙=倭」と同音。
 「朱蒙」は「弓を能くする者」の意とか。
 「朱(矢の射出音)蒙(もん=者)」の「倭語」。

・「朱蒙」の姓は「高氏」。
 高句麗とは「高(氏)のグル(仲間)」の意「倭語」。
 「高句麗」の古地名に「倭数詞」に因むものが在ることが知られて
 いる、これは「倭語」話者の「倭人」が名付けた地名が残存。

 因に「倭数詞」は漢数字の書き方説明を古代倭語
 (九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)で述べたもの。

 一例に「九つ」を。

・「九つ」=“컸-걷(ノ)乙”(keod-geod-no-otsu)。
 “커 ・컸”(keo keod)=「大きく(なって)・
 大きく(なった)」の語幹、「一」の位より一桁上の「十」を
 意味し、“걷-”(geod)は「取り除ける・取り去る」の意の語幹。
 「乙」=「一つ、一」の意味(大修館書店・大漢語林)。
 即ち、『大きい位「十」から、取り除ける、乙(一)』。
 字形「九」の成り立ちは「ノ・乙」。朝鮮固有数詞
 九つ“아홉”(a-hob)「アホッ=阿呆」も少し足りないの意。

・「高句麗」の壁画に相撲の図柄が在る。
 丁髷に褌姿は、日本相撲協会に継承されている。

・「百済」=朱蒙の皇子が建国。百済は「ペクヂェ」であって
 「くだら」とは読めない。「高(氏)“딸”(ddal=属する)羅
 (くに)」=「高(氏)に属する国」の意の「倭語」。

・『三国志(韓伝)』の国々の中に「彌烏邪馬國」=「水生む山」の
 意の倭語を発見。

水縄連山(耳納山地)の古称に蓑尾山がある。水縄も蓑尾(雨具)も
水が滴る意の同義。高良山の古称「高牟礼山」も
「“다가-물”(taka-mul)山」=「集る水の山」。前身の「大伽耶國」
建国王「伊珍阿岐王」とは「伊奘諾尊」の事で「倭人(神)」。
この両方の「みの(お)やま」に区別をつけるために定冠詞
“구름의”(ku-reum-e)=「雲の…」を付けたのが「久留米」の語源。
水縄連山(耳納山地)の山頂には
「白雲台、紫雲台、凌雲台、碧雲台、渓雲台」がある。

高霊郡の地名に「箕山里(きざんり)」があるが、「倭語」の
「箕山(みのやま)」と同義。
「高天原」(「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」)と
「高霊郡」に似た地名が現存。
「高天原」=「楮原 新川 内ヶ原」⇔「高霊郡」
=「楮田里 新里 内上里」と配置の方位も同じである。

※「狗邪韓國」は「倭地」である。

*「倭」の三十ヶ國は「狗邪韓國」と「奴國-1」と「奴國-2」も
 カウントして成り立つ。

*狗邪韓國=九倭韓國(九人の「倭」の部族長)の意の
 国情説明文言の一部。
「…到其北岸狗邪韓國七千餘里」の「其」=「倭」の事である。

・朝鮮の古民話に、王が臣下に「九つの頭の竜が王の意に従わないので
 誰か退治する者は居ないか」と問いかけるのがある(概略)。
 「九つ頭の龍=九部族の倭人の意」

・「韓」とは、騎馬民族の「王や君主」の意の“haan・khan”の事である。

・官職が記載されていないのは、部族並立で国家の態を為していないから。

・『三国遺事』の『駕洛國記』には、この地への首露王降臨神話に
 「亀旨峰に集う「九干」の上空から降臨」とある。
 「九干」=九人の部族長の意。

*瓊瓊杵尊は「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触る嶽」に
 天孫降臨して述べている。

・「筑紫の日向の」=妹川地区の日向の。
 (妹川うきは市小学校前の元・日向バス停)

・「襲の」=“서”(seo)の=「西の」。

・「高千穂の」=「高」は「集(たか)る」の当て字。
 「千穂」は、水縄連山(耳納山地)の山頂がノコギリの歯状を
 呈しているのを「千の穂」と描写。

・「槵触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、千本の櫛の歯で
 梳った様相をしている描写である。
「触る」⇒“훑”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)でもある。
火瓊瓊杵尊は「膂宍の胸副國」を丘続きに歩いた、ともある。

・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と
 肋骨が浮き出た(櫛触る)様、のことである。
 水縄連山(耳納山地)の稜線描写である。

※其処で、瓊瓊杵尊は「此地は韓國(からくに)に向ひ笠紗の御前に
 ま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。
 かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。

・ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して
 韓國(からくに)が真正面になる。
 これは、内陸部なのに韓國(からくに)が真正面に在る、と強調。

*「韓国」(からくに)=半島「倭人」の故地
 =「大伽耶國」=「狗邪韓國」=「駕洛國」 の事を指している。

※「神武天皇」の父親=鵜葺草(うがや)葺不合命=
 「大伽耶(うがや)國不統合命」の意。

*倭人の伽耶諸国統合に失敗した命、の意である。

・「神武天皇」の和風諡号=「若御毛沼命」の「若」も
 半島と来たり行ったりの意。

・別の諡号「神倭伊波毘古命」の「神=韓(からくに)」の
 当て字であり、「倭(やまと)」=「天(あま)ン処(と)」
 =「高天原」の分国の意。

*「川(かわ)」=“갔다-왔다”(ka-tta-wa-tta)
 「行ったり来たり」する所、の意。倒置形「若(わか)」
 =“왔다-갔다”(wa-tta-ka-tta)=「来たり行ったり」の意。
 「若・稚・幼」(わか)は同義。

・第二代「綏靖天皇」=「神淳名川耳命」。

・第四代「懿徳天皇」=「大日本彦耜友尊」。

・第六代「孝安天皇」=「日本足彦国押人尊」。

・第七代「孝霊天皇」=「大日本根子彦太瓊尊」。

・第八代「孝元天皇」=「大日本根子彦国牽尊」。

・第九代「開化天皇」=「稚日本根子大日日尊」。

・第十三代「成務天皇」=「稚足彦尊」。

・第二十一代「雄略天皇」=「大泊瀬幼武尊」。

・第二十二代「清寧天皇」=「白髪武広国押稚日本根子尊」。

※半島由来の隠蔽が解ける様に太安万侶が仕込んだ「鍵」か、と。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
14:福島 雅彦 :

2022/07/25 (Mon) 18:14:38

米田さんへ

※討論するには、相手と同じ土俵に立て、との仰せですが…。

*私としては、或る意味土俵が違ってはいませんか、との思いです。

・「拘邪韓國」は「倭地」である、の一点張りです。

・他の事は論じていません。

・郡庁~「狗邪韓國」まで七千餘里。

・韓は方四千里=歴韓國乍南乍東=陸行。

・差引三千餘里余ります。

・郡庁から海岸に沿って水行するのは、郡治の海岸=千五百里と仮に按分。

・残りの千五百里=「狗邪韓國」(「倭地」)陸行と仮に按分。

※参問倭地…周旋可五千余里=「狗邪韓國」千五百里(按分)+海峡横断=三千餘里+「末盧國」~「伊都國」五百里=郡使(魏使)が実地に踏査した「倭地」の総延長。

*以上の考察で「狗邪韓國」は「倭地」として『倭人傳』に述べられている、と観れます。

・仮に按分は正しい、と認識できます。
13:米田 :

2022/07/25 (Mon) 06:09:23

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1658696963.gif RE:何を仰る、米田さん! - 福島雅彦 2022/07/24 (Sun) 12:36:47

『後漢書韓伝』より
:〔馬韓の〕北は楽浪〔郡〕と、南は倭と接している。
:〔辰韓の〕北は濊貊と接している。弁辰は辰韓の南にあって、云々。
:〔弁辰の〕南もまた倭と接している。
:馬韓人は、耕作や養蚕の知識があり、綿布を織ることができる。

『三国志弁辰伝(第二)』(東洋文庫:東アジア民族史1)
:〔弁辰の〕瀆盧国は倭と〔境界を〕接している。

ネットで見つけたもの「古代史レポート」より(原文と訳文)

│一、魏志韓伝(馬韓)

│韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 
│有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也

│「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、
│ 南は倭と接す。およそ四千里四方。
│ 三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、
│ 三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

******************************

:(韓は)東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。四千里四方。

:この文章を証明するには、一辺4千里の海岸について、
:次のような「証明(検証)」をする必要があります。

├─(一千里)─┼─(一千里──┼─(一千里)─┼─(一千里)─┤
├─(一区画)─┼─(二区画)─┼─(三区画)─┼─(四区画)─┤
(馬韓南_珍島)│(コフン_ヨス)│_(巨済島)_│(金海_釜山)┤


(その1):これらの四つの区画に、三韓のクニがないこと。
(その2):これらの四つの区画に、倭人が住んでいること。


:証明としてのベストは、その1&その2の両方を証明することです。

:「一区画」を見ると、ここは、海の難所ですから、
:人が住めそうもないですから、「不明」にしておきます。

:「四区画」は、倭人が住んでいそうである。ですので「OK」。


:そうすると、「南は倭と接す。」の証明には、四つの区画の内
:せめて、三つの区画において、「倭人が住んでいる」とか
:「韓人が住んでいない」とかの証明をしたいわけです。

:そうすると、コフン・ヨス・巨済島の地域は、どうなのかが、
:問題になります。

:掲載図を見ると、弁辰(辰韓)の国は、川のそばにクニがあります。
:ですので、基本的には、弁辰(辰韓)の国は、海岸にはないことに
:なります。・・・「その1」の証明。

:コフン・ヨス・巨済島の島々や半島に住むとすれば、それは漁業を
:生業にしている人たちになります。・・・「その2」の推測。


:>※「狗邪韓國」は「倭地」である。

:「四区画」の証明だけをすれば、この問題は解決するのだ。
:福島さんの投稿の印象としては、そんな風に見えてしまいます。

:私があえて、「(第)四区画」の証明を声高に書かないのは、
:四つの「区画」の海岸・島の証明を念頭に置いているからです。

:白石南花さんとの議論(討論)をするのであれば、
:相手と同じ土俵に立って、議論をしなくてはなりません。

:白石南花さんの土俵に立たないのであれば、
:共通の土俵を見つけなくてはなりません。

:「一辺4千里の海岸」という考え(切り口)は、白石南花さんを
:はじめ、すべての人に「共通の土俵」として成立します。



│Re:後漢書の取り扱い - 石見介 2022/07/25 (Mon) 00:41:10

│ 白石南花さん

│白石南花さんは、「接」の解釈は正しいのですが、半島南部の
│「倭地」、倭種の存在を否定はされておられないのに、「無視」された
│為に、矛盾が生じたのではないか?と私には、思われます。


:私は、口ベタのため、石見介さんのような上品な文章は書けません。

:「四区画(金海・釜山)」の一千里の証明だけでは、
:「四千里」の証明にはならないことをご理解ください。

:そして、他人との議論(討論)をするためには、
:「共通の土俵」が必要であることも、ご理解ください。

:私が他人と議論(討論)をしているのは、「共通の土俵」を
:見つけることが自分の勉強になると思っているからです。

12:米田 喜彦 :

2022/05/03 (Tue) 14:53:09

              福島雅彦(代筆 米田)
【32】
郡庁(楽浪郡徼=帯方郡庁)から「邪馬壹国」への行程図

┌─────────┐
│楽浪郡徼=帯方郡庁│
└─────────┘
 ↓ 従郡至倭海岸水行(郡治の海岸・千五百里=六日)
 ↓ 歴韓國乍南乍東 (陸行)
 ↓(韓地+狗邪韓國=五千五百餘里=二十七日半)≒二百里/日
┌──────────────┐
│狗邪韓國=倭地まで(七千餘里)│
└──────────────┘
      ↓ (洛東江巨済島経由・水行二日)
┌──────────┐
│「對海(馬)國」(千餘里)│
└──────────┘
      ↓ (水行一日)
┌───────┐
│一大國(千餘里)│
└───────┘
      ↓ (水行一日)
┌───────┐
│末盧國(千餘里)│
└───────┘
      ↓ (東南陸行五百里=二日半)累計=萬五百餘里
      ↓ (従郡至倭(郡使常駐の倭地)‥‥水行十日陸行一月)
    ┌───┐_______┌──┐_______┌───┐
    │伊都國│→→→→→→→│奴國│→→→→→→→│不彌國│
    └───┘(東南至百里) └──┘ (東行至百里) └───┘
       ↓
       ↓《郡使往来常所駐》=伊都國より先へは行っていない。
       ↓(千五百餘里)(水行二十日)
       ↓ 端梅寺川→今津湾・博多湾→御笠川→宝満川
       ↓ ┌筑後川→→→→→巨瀬川→→→→筑紫の日向(東)
       ↓ └筑後川→有明海→矢部川→投馬国(西)
          ┌─────┐  ┌──────┐
以北が成立する│投馬國(西)│⇔│(東)邪馬壹国│
          └─────┘  └──────┘
                 郡庁より萬二千餘里女王之所都


※倭(伊都国=郡使常所駐)に至るには水行十日陸行一月。

※参問倭地‥周旋可五千余里=実際に郡使が観て廻った
_倭地は延べ五千余里。
_狗邪韓国(千五百里=逆算)+三海峡横断(三千餘里)
_+松盧国~伊都国(五百里)=五千餘里。
_韓地は方四千里《陸行六千餘里÷一月≒二百里/日》

*郡使(魏使)は「伊都国」から先へは行っていない。

*****
 2021年度 久留米大学 公開講座 「うきは学」
『邪馬台国と「うきは市」その1・その2』 2021年12月4日(土)
            講師 - 福島雅彦(81歳)
11:米田 喜彦 :

2022/05/03 (Tue) 08:39:46

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1651534786.gif
              福島雅彦(代筆 米田)
【15】
2.『三国志「魏志倭人伝」』の記述から・・・

1).「和人在帯方東南大海之中・・・」
   =倭人は列島のみに居るのではナイ!

*同じ史書の前項『三国志「韓伝」』で述べた、
 倭に関する記述の重複を避けている。

・曰く「韓は東西を海に限り南は倭に接す」と。
 半島の南部は倭の領域である、と。

・又、曰く「國出鐵韓濊倭皆従取之」=国は鉄を産出する、
 韓も濊も倭も従(ほしいまま)に 之を取る、と
 倭が半島の倭の領域で現地生産をしている。
 従って 輸入しているのではナイ!
 前項の「素戔嗚尊」が行った曽尸茂梨が居る所である。

2).「従郡至循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千里」
   とは、「七千餘里」全てが水行のみの表現ではナイ!

・方四千里の韓の海岸伝いに南下東進すれば
 狗邪韓国まで七千里に収まらない。
・「乍南乍東」が西岸を南下東進のジグザグとすれば
 海岸に乗り上げてしまう。
・百歩譲って、西海岸に沿って南下し南岸を東進したら、狗邪韓国へ
 寄港するのは遠回りで無意味である。
 対馬海流に乗って壱岐直行が理に適っている。
 『隋書』では、将に都斯麻國に寄らない航路である(後述)。
・『梁書』には「乍東乍南」の記述があり、
 陸路の行程の表現でしかありえない。
・元・宋の時代の交易船でさえも、半島西海岸の新安沖で沈没した
 記録がある。他にも莞島、道里浦、飛雁島沖の沈没船が知られている。
・後世の造船技術も航行方法も勝る、朝鮮通信使でさえも全十二回、
 すべて陸行である。
・角川春樹氏が古代船『野生号』の航行実験経過『わがヤマタイ国』を
 出版。生口したと述べているが、どう見ても失敗としか読めない。
 危ないところは伴走の動力船が曳航。夜間は洋上で母船に係留、
 乗組員も母船で宿泊酒盛り。珍島沖では動力船に曳航されていたにも
 関わらず引き潮の速さに負けて座礁。
 南岸に回り込んでは台風接近の気象予報で安全地帯に避難。
 洛東江の河口横断では激流に揉まれ、漕ぎ手が疲労して難破寸前。
 漸く入港した釜山港からは潮汐流に翻弄されて自力では出航できず、
 動力船の曳航で出航。副題『古代船野生号の鎮魂歌(レクイエム)』
 が失敗を物語る。
・記憶に新しい処では、この海域での“セウォル号”の遭難がある。
 上階に増築改造をして重心が上がり、過積載のためバラスト水を
 抜いたのが航行の安定を欠いたとし、未熟な女性の三等航海士が
 操舵していたのが原因、とされるが、この海域まで何とか航行して
 きた。熟練の一等航海士の操舵をしても転覆は免れなかった、と観る。
 仁川から済州島へ向かうには、直進の筈。右に舵を切ってバランスを
 崩したとか。高低差八メートルの引き潮で座礁を避ける為、か。
 即ち、古代船では朝鮮半島西岸南下航路はあり得ない、
 と断ずる所以である。

*****
 2021年度 久留米大学 公開講座 「うきは学」
『邪馬台国と「うきは市」その1・その2』 2021年12月4日(土)
            講師 - 福島雅彦(81歳)
10:米田 喜彦 :

2022/05/02 (Mon) 22:23:16

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1651497796.png (FC2)「東夷伝」について
(米田の問いかけ)2022-04-17(日)


│真番郡(ウィキペディアより)
│前108年(元封3年)、衛氏朝鮮を滅ぼした
│漢朝により幽州刺史部の下に設置され、
│15県からなり、郡治が置かれた霅県の位置は
│長安を去ること7,640里という。
│管轄する領域の範囲は諸説があって
│確定していない。『茂陵書』の記載による。
│計算にもよるが これはほぼ慶尚道か全羅道の
│中心もしくは南端に達する距離である。

地図のように、〔韓の〕地は全体で四千余里四方である。
ですから、五千里と比べると、「狗邪韓国」の位置は、
九州の東南の海上に来ます。

さて、これをどう解釈したらよいか。
皆さんのお知恵拝借です。

*************************

              福島雅彦(代筆 米田)

郡庁(楽浪郡徼=帯方郡庁)から
「邪馬壹国」への行程図

※倭(伊都国=郡使常所駐)に至るには水行十日陸行一月。

※参問倭地‥周旋可五千余里=実際に郡使が観て廻った
_倭地は延べ五千余里。
_狗邪韓国(千五百里=逆算)+三海峡横断(三千餘里)
_+松盧国~伊都国(五百里)=五千餘里。
_韓地は方四千里《陸行六千餘里÷一月≒二百里/日》

*郡使(魏使)は「伊都国」から先へは行っていない。


上記のお問い掛けですが、・・・。

*A-B間の洛陽東北五千里は、或る程度の軍隊が隊伍を組んで
 行軍できる公道での所要日数を基準にしている、と観ます。
 即ち、誰も実測の測量はしていない、と。
 一日(二百里行軍)×(二十五日)=五千里、と仮定。

*翻って、「韓は方四千里」も誰も実測測量はしていない、と。
 別添付【32】頁 行程図に仮定。

・「韓地」四千里+「狗邪韓国・倭地」千五百里
 (七選餘里から按分仮定)=五千五百里=二十七日半と置きましたら、
 スケールが合致するのでは、と愚考いたします。

9:米田 喜彦 :

2022/04/27 (Wed) 07:14:53

「千里=水行一日」について 米田

一渡海=一日=千余里、ついては、
オヤジッチさんの意見に私も賛成です。

地図をざっと見て、700㎞ぐらいでしょうか。
帯方郡から狗邪韓国までは、7日ですから、1日100㎞位でしょうか。

そうすると、
一渡海(約25㎞から約100㎞)くらいの間隔でしょうか。

MUSASHIさんの陸路の話をもっと聞きたい気もしますが、
「水掛け論」になりそうなので、いったん終わりにしようと思います。

そうは言っても、このまま、狗邪韓国以南に話を進めても、
面白くないので、ちょっと話題を変えます。

それは、「三国志韓伝」に出てくる「崎離宮」の場所です。
今まで、「崎離宮」の場所は、話題になった記憶がないのです。

実は、この「崎離宮」の場所は、「狗邪韓国(orその付近)」に
(出張所・出先機関として)あったのではないかと思っています。
それで、帯方郡の管轄から、楽浪郡に管轄が移るという話だったと
(私は)考えました。
この金海(「狗邪韓国」)には、楽浪郡・帯方郡の将軍・兵隊は、
船で移動したと、考えます。
(つまり)「崎離宮」との間には、連絡船のような船があって、
倭の使者は、狗邪韓国からは、帯方郡までは、往復、それに乗って
いたと、考えるのです。どうでしょうか。
8:オヤジッチ :

2022/04/25 (Mon) 17:26:29

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1650875189.jpg 魏志倭人伝には『始度一海千餘里至對海国』⇒『又南渡一海千餘里・・・至一大國』⇒『又渡一海千餘里至末盧國』とあるように、
①金海⇒対馬=千余里
②対馬⇒壱岐=千余里
③壱岐⇒松浦=千余里
と三つの距離全部が千余里となっています。
実際の距離をGoogleMapで見てもらうとわかる通り、
①=約60Km
②=約50Km
③=約25Km
と、大きな差があります。
距離はバラバラですが、共通するのは渡海ということです。
この時代、羅針盤も天測航法もありませんから、目視航法するしかありません。
したがって、天候を見(風待)て昼間の間に航行するしかなく、さらに考えると、引潮で出港し、満潮で入港するのが合理的でしょう。
何にしろ、一渡海=一日=千余里となります。
7:オヤジッチ :

2022/04/23 (Sat) 09:28:59

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1650673739.jpg MUSASHIさん、○○は。
投稿した通り、魏志倭人伝に『郡至倭“循海岸水行”歷韓國』とある通り、“海岸に沿って水行”です。
卑弥呼の時代、
魏の詔書・金印紫綬を配下の梯儁に持たせて卑弥呼のもとへ送った太守・弓遵は、韓族に帯方郡の崎離営を襲われ、戦死しています。
このように、この時代には、陸路を行くよりも水行の方が安全であるのは、あきらかです。
まして『絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張倩絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤』などを運ばなければなりますんから、りくろはむりです。
6:MUSASHI :

2022/04/22 (Fri) 17:21:43

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1650615703.png 私は、帯方郡治は風納土城(ソウル近郊)、狗邪韓国は馬山(金海湾)と考え、風納土城から牙山までは船、牙山から馬山までは陸路を進んだと考えています。
5:米田 喜彦 :

2022/04/21 (Thu) 14:59:48


│Re: 帯方郡~狗邪韓国 - オヤジッチ 

※:水行(船で航行)したら、実際に、7日かかったのだろうと、
_:思っています。

※:倭人の主張は、帯方郡から狗邪韓国まで、7日掛かった。としか、
_:しゃべっていないはずです。

(投稿、ありがとうございます。)
4:オヤジッチ :

2022/04/21 (Thu) 13:54:52

『郡至倭“循海岸水行”歷韓國“乍南乍東”到其北岸“狗邪韓國”七千餘里』
とある通り、韓国の西海岸に沿って南に水行し、東に水行したわけで、「〔韓の〕地は全体で四千余里四方で」なので、「南へ水行四千里(西南端)+東へ水行三千里(東南端まで1千里≒釜山・金海)=七千里」でしょう。
ここでの里数は、「千里=水行一日」にあたると考えます。
3:米田 喜彦 :

2022/04/17 (Sun) 07:52:37

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1650149557.jpg 「倭人伝」の道程記事の解釈について、

(図をクリックすると、図が大きく表示されます。)
旧討論室で、紹介したように、「連続式」と「放射式」の二つの説が
あります。
福島さんの説は、「連続式」&「邪馬台国は、九州の中にある」と、
理解しました。

討論としては、まず、「狗邪韓国」の位置を討論したいです。
そのあと、倭人伝での「邪馬台国」の位置を討論したいです。
2:米田 喜彦 :

2022/04/17 (Sun) 07:36:12

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1650148572.gif 「東夷伝」について

│真番郡(ウィキペディアより)
│前108年(元封3年)、衛氏朝鮮を滅ぼした漢朝により幽州刺史部の
│下に設置され、15県からなり、郡治が置かれた霅県の位置は長安を
│去ること7,640里という。
│管轄する領域の範囲は諸説があって確定していない。
│『茂陵書』の記載による。計算にもよるが
│これはほぼ慶尚道か全羅道の中心もしくは南端に達する距離である。

地図のように、〔韓の〕地は全体で四千余里四方である。ですから、
五千里と比べると、「狗邪韓国」の位置は、九州の東南の海上に来ます。

さて、これをどう解釈したらよいか。皆さんのお知恵拝借です。

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