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『大和王権の北部九州平定時期と古代史ファンの邪馬台国諸説』

1:ヲワケノ臣 :

2022/04/29 (Fri) 10:41:38

『大和王権の北部九州平定時期と古代史ファンの邪馬台国諸説』

はじめに
 邪馬台国論は、研究分野に位置論、王権論、国家形成論があると良く言われます。今回のテーマ、『大和王権の北部九州平定時期と古代史ファンの邪馬台国諸説』は国家形成論の分野にあたり、邪馬台国から大和王権成立に至る過程を考える試みです。大変、重要なテーマであると思います。

目次
1.大和王権の北部九州平定時期と
 古代史ファンの邪馬台国諸説
2.邪馬台国の国制と首都の構造
3.纒向遺跡出土の土器
4.大和王権の半島進出と制海権
5.建国9ヶ国と「旁国」21ヵ国
6.中心地、都の考え方
7.新類型とは
8.神武伝承の成立要件は何か
9.騎馬民族説に思うこと
10.まとめ

1.大和王権の北部九州平定時期と
 古代史ファンの邪馬台国諸説
 古代史ファンが、邪馬台国の自論を投稿する場の一つに全国邪馬台国連絡協議会のHpがあります。この中で邪馬台国の位置に関する投稿を通観すると、いくつかの類型に別れます。北部九州説、畿内説、吉備説などです。これら主要な諸説を大和王権が、北部九州を平定したとする時期で類型化すると、諸説間の合致点や対立点が明確になります。今回、このことを取り上げ、邪馬台国の位置を考えてみたいと思います。

 先ず、北部九州平定の時期区分を漢籍が記す西晋遣使266年、西晋滅亡316年、及び、「百済記」が記す倭国、百済国交開始364年を画期とし定めます。266年以前、266年から316年、316年から364年、364年以後の4区分となります。ここでは、多くの説に従い、邪馬台国は、266年から316年のいずれかの時期に消滅したとします。又、大和王権は、布留0年代に近接し創業したとします。布留0年代は、C14測定の見解が240年から260年、290年から340年に割れているため、二つに場合分けして考えたいと思います。
 
 先ず、266年以前の場合、邪馬台国=初期大和王権とする畿内説があります(畿内説)。 
 次に、266年から316年の場合、第一に北部九州の邪馬台国が、266年遣使後の3世紀内に東遷・東征する説が多くあります(東遷・東征型)。
第二に布留0年代を240年から260年に置き、266年遣使後に大和王権が北部九州の邪馬台国を西征する説があります(西征型)。第三に布留0年代を240年から260年に置き、266年遣使後に大和王権が吉備の邪馬台国を西征し、その後、北部九州を平定する説があります(西征型.吉備説)。
 316年から364年の場合、布留0年代を240年から260年に置き、北部九州の邪馬台国と大和王権が併存していたとする伝統的な説があります(北部九州説.並立型)。
 364年以後の場合、第一に北部九州の邪馬台国が大和王権を支配していたとする自説があります(新類型)。第二に布留0年代を240年から260年に置き、北部九州(前半は邪馬台国、その後分裂)、吉備、出雲、丹後、畿内等の地域勢力が360年代まで150年強の間、分立していたとする説があります(北部九州説.分立型)。第三に布留0年代を290年から340年に置き、大和王権が北部九州の邪馬台国消滅後に成立したとする伝統的な説があります(北部九州説.直列型)。

 主要な諸説、8類型間の合致点や対立点を明確化するために、いくつか切り口を設けたいと思います。第一に前回触れた、邪馬台国の国制と首都の構造であり、第二に纒向遺跡出土土器の問題、第三に大和王権の半島進出と制海権、第四に建国9ヶ国と「旁国」21ヵ国、及び、3世紀社会の広域性、第五に中心地、都の考え方です。順次、観て行くことにします。
69:石見介:

2022/06/16 (Thu) 23:30:26

 ヲワケノ臣さんと白石南花さんの、白熱した議論を、興味深く、拝読させております。

 問題の一つの、旁国、或いは、遠絶、或いは、次有諸国、21ヶ国の音写時期については、中国語学者の森博達氏が、これらを、上古音から中古音に移行する時代の、中国語の音韻変化と、『魏志倭人伝』に記録された語彙群の上代日本語との共通性等を考慮して、後漢代以前の、「前漢代」に、「音写」されたとし、更に、東鯷人20余国と同じ国々ではないか?という推測をされています。
『月刊日本語論終刊号』の特集「日本語の起源をさぐる」の、森博達〈「魏志倭人伝」と弥生時代の日本語」が、その論考です。

 実は、「奴」の音価の変遷について、頭子音の変遷と誤って記憶しており、白石南花さんから、母音音価の変遷だと指摘され、読み直して、その通りである事を,確認した恥かしい思い出があります。

 尚、森氏は、奴国重出説を、採っています。

 後、長田夏樹氏が、その著書『邪馬台国の言語』で、『魏志倭人伝』の、古日本語は、「洛陽古音」で読むべきだと、主張されていますが、その「洛陽古音」というものが、もう一つ、理解できませんでした。
 「卑弥呼」を「ヒムカ」、「投馬」国は「於」の脱落と見て、「於投馬」を、「エドモ」と読み、「出雲」に、比定しています。
68:白石南花 :

2022/06/16 (Thu) 09:44:49

>因みに、遣隋使は行程の実見記録を残しました。この例から、魏遣使も対馬国から邪馬台国に至る8ヶ国に関して、各国の実見記録や伝聞記録を残したと考えます。<

これは「明年,上遣文林郎裴清使於 倭國。」で始まる文であり、主体が明記されています。
現れる漢字音は隋の字音ではありませんが、これは下記をご覧ください。

https://ameblo.jp/shiroi-shakunage/entry-12481616276.html

>対馬、一支から末盧国に至る古い旅行記などを継ぎ接ぎするまでもなく、シンプルに魏や西晋の遣使の実見記録や伝聞記録を使えばすむと思います。私見は、やはり通説に従う立場を採りたいと考えます。<

そんな通説があるんですか。
私が論争を見聞きし始めた二十年前以上から、倭人伝の里程は魏使のものではないと、主張する人はいました。
これが魏使のものであるとの根拠はどこにもなく、倭人伝では異質な外交記録が後半に接続されているために、そう思い込んでいるだけです。
これが倭人伝に対する議論における、混乱の大きな原因になっています。
まずそれが本当に魏使の記録なのかを、疑うところから本来は始めるべきでしょう。

>「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文を巡る論議は、ほぼ尽くされたと思います。<

もちろんこの「今」が、陳寿の「今」でないことは確定です。
従って傍らの二十一国が、西晋の時代に下るなどということはないです。
67:ヲワケノ臣 :

2022/06/15 (Wed) 23:25:12

30ヶ国 国名表記(音写文字)つづき
 白石南花さまは、「旁国」21ヶ国の前漢期、又は、公孫氏期の国名リスト、対馬、一支、末盧3ヶ国の古い旅行記、伊都、奴、不弥3ヶ国の後漢期の記録、投馬国の魏晋期(音)の記録をあげています。

 その上で、『魏略』は、時期の異なるこれら各種の記録を寄せ集め「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文を生成したとします。何故、生成したかに関しては、中国の史書編纂で良くあることであり、特別な理由はないとします。

 因みに、遣隋使は行程の実見記録を残しました。この例から、魏遣使も対馬国から邪馬台国に至る8ヶ国に関して、各国の実見記録や伝聞記録を残したと考えます。

 対馬、一支から末盧国に至る古い旅行記などを継ぎ接ぎするまでもなく、シンプルに魏や西晋の遣使の実見記録や伝聞記録を使えばすむと思います。私見は、やはり通説に従う立場を採りたいと考えます。

 「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文を巡る論議は、ほぼ尽くされたと思います。
66:白石南花 :

2022/06/13 (Mon) 15:15:55

> ただ、私見は、対馬国から邪馬台国に至る8ヶ国に関して、各国の描写が生々しいことから、通説通り魏遣使の実見記録と考えます。国名表記(音写文字)は、当然、魏遣使の時期に為され魏晋音であろうかと思います。<

残念ながら、漢字音や用語の状況からして、魏使の記録とは考えられません。
まず前半の里程には、女王という代名詞が登場しますが、親魏倭王の称号を刻んだ印を運ぶ勅使の記録とは思えません。
後半の外交記録では、親魏倭王、倭王、倭女王と呼ばれています。
また「一支」がイキで、「末盧国」がマツラなら、「支」や「盧」は三世紀の中央音ではありえません。

各国の描写が生々しいのは末盧国までで、この記録はいつの時代にか、北部九州に渡った人物の旅行記であろうと思います。
末盧国が日本列島の表玄関であったのは、紀元前になります。
断言はしませんが、この部分は漢の四郡成立時に、半島南端にまで至った漢人が、初めて北部九州に渡った記録がもとになっているのではないでしょうか。
そこに伊都国に楽浪郡の漢人が常駐する時代に追記されたのが、伊都国、奴国、不弥国などではないでしょうか。
公孫氏時代かもしくは、その滅亡直後に邪馬台国と狗奴国の記述が追記され、最後におそらく魏の中央音を持つ人物が、投馬国経由で邪馬台国に至るルートや人口などを追記したと考えます。

>ここで、不可解なのは、『魏略』が時期の異なる2つの記録を混合してまでして、「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文を生成したことです。<

古い漢籍ではそういうことが良く行われます。
爾雅や山海経などは複数の人物が書き加えて成立しているのです。

>『魏志倭人伝』であれば、この生成も理解できなくはありません。陳寿は、西晋の司馬氏を称えるために、邪馬台国の朝貢を大々的に記しています。<

このあたり渡邉氏は混乱している部分があります。
三国志は司馬氏の政権下に書かれていますが、卑弥呼の朝貢は曹爽のもとで行われたものです。
親魏倭王は父曹真の親魏大月氏王にちなんだものでしょう。
この点には渡邉氏は触れているのですが、そのあとでなんだかうやむやに、司馬懿の功績のように話をもっていっています。
しかし司馬氏が政変を起こして曹爽を殺して以降、東夷政策が完全にストップしてしまうことから、司馬氏が曹爽氏の功績を否定したと考えるよりありません。
これが再開されるのは、263年以降になります。
卑弥呼の朝貢が司馬懿の功績とされるようになるのはこの後のことでしょう。

> 国名表記(音写文字)の面からは、『魏略』に「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文があったとは、考え難いと思います。<

「今使訳通ずる所三十国なり。」は確実に、地の文に「今」を使用する、魏志の原史料に遡るはずです。
つまりこれは陳寿の文ではないことは確定です。

>尚、三国志に「今云々」の使用例は、1000例強あり、内、東夷伝に地理関係で12例あるとのこと。又、三国志にない西戎伝(魏略)に地理関係で17例あるとのこと。ご教示ありがとうございます。
ただ、同じ記録を(地理関係も含めて)『魏志倭人伝』、『魏略』が夫々、採録したとする説もあり、『魏略』の「専売特許」というわけではないと思います。<

すくなくとも、陳寿が地の文に「今」を書くことはないでしょう。
ちなみに三国志は、陳寿が一人で短期間に膨大な史書を書き上げたことから、原史料をそのまま利用した可能性が高いのです。
特に東夷伝に関しては、蜀人の陳寿にしてみれば、過去の遠い世界の出来事で、ほぼ原史料をそのまま書き写したものと思います。
このことが用語や文体がばらばらになっている原因と思われます。
陳寿が独自に文を起こしたのは、文頭の書稱や文末の評がほとんどでしょう。
このような編纂姿勢は、別に変ったことではなく、司馬遷の史記においては、本文はほとんどが前史や書簡などの文面をそのまま引いたものとされています。
司馬遷は前漢の国内を広く旅して、様々な情報を持っていたはずですが、それは主に文末の賛に書き込まれ、その内容が本文に矛盾している事すらあるのです。
陳寿はこの古風な撰述姿勢をとり、ストイックに史料を纏めていったのでしょう。
陳寿自身が、地の文の「今」を書いたり、べたべたと「水行陸行」などを書き込むことはあり得ません。
そもそも陳寿は魏の著作郎として、政府文書にアクセスできますから、「今句麗王宮是也」などという誤情報を書くはずがないのです。
ちなみに魚豢は、正始年間の早い時期には、魏の郎中をやめて在野にいた可能性があり、高句麗王の交代を長く知らなかった可能性もあります。
三国志東夷伝に関する議論が混迷する大きな理由の一つが、これが全編陳寿の著作と読んでしまうことにあります。
陳寿は選者として史料を纏めているだけなのです。
もう一つが、この記録が魏使の倭国行の記録だと思い込んでしまうことです。

魏略の成立年が、魏志と大差ないとされていた時代には、魏略や魏志が共通して魏の政府文書を採用したとする説がありました。
魏の時代には、官選の歴史書編纂の事業があり、その事業は最終的に王沈によって魏書にまとめられました。
満田剛氏によると、三国志の帝紀は王沈の魏書に近く、多くを引用している可能性があるとのことです。
三少帝紀には、景初三年の卑弥呼朝貢の記事がなく、もちろん親魏倭王にも触れていません。
そしてそこに書かれた、王名は俾弥呼となっていて、三国志東夷伝の原史料は、政府史料とは別ものと考えられます。
ちなみに王沈の魏書にも、そんなにべたべたと地の文の「今」は出てきません。
この使い方に非常に特徴があるので、古くからこの字の文の「今」に注目されてきたわけで、現在では魏略と断定できます。

>太宰府本に関して、渡邉は、『翰苑』に引かれた『魏略』に奴国、不弥国、投馬国がない蓋然性が高いとしており、あった可能性も留保していると思います。<

いや渡邉氏は後文で、それがなかったはずだという理由を説明しており、そこでは里数で記録した部分との用語の違いから、陳寿が「水行」「陸行」を司馬遷の史記にならって書いているのだと言っています。
逸文に関して、用語や文体などの特徴から、現在の史料との関係を議論することは普通にありますが、この議論には致命的な欠陥があります。
陳寿が行ったことを魚豢が行えなかった理由がないのです。
魚豢にしてみれば、既存の北部九州の国々から、邪馬台国までの道のりを完成させたかったのでしょう。
ちなみに「水行」という用語は、三国志の中では倭人条にしか使用されていませんが、魏略西戎伝にも使用されています。

功成り名を遂げた研究者が、一般受けして本も売れる、「倭人伝」関連の話題で本を書くことはしばしばありますが、優れた研究者であっても、変な本を書いてしまうことが多いです。
渡邉氏は古典の世界に詳しく、古代の世界観、信仰、政治史に詳しいですが、「魏志倭人伝の謎を解く」は史料の扱いがずさんで、やっつけ仕事に見えます。
三国志を含む古典に関して多くのバックグラウンドがあるため、問題はそれでも少ない方ですが、P104の初めに「魏略」の逸文として載せているものは、後漢書からの引用として翰苑に引かれたものです。
これは魏略に関する議論の材料なのですから、かなり大きなミスです。
65:ヲワケノ臣 :

2022/06/12 (Sun) 08:55:20

30ヶ国 国名表記(音写文字)
 白石南花さま、国名表記(音写文字)に関する返答、ありがとうございます。

 「旁国」21ヵ国は、国名表記(音写文字)から前漢期、又は、公孫氏期の記録によるとのお考えと理解しました。
 ただ、私見は、対馬国から邪馬台国に至る8ヶ国に関して、各国の描写が生々しいことから、通説通り魏遣使の実見記録と考えます。国名表記(音写文字)は、当然、魏遣使の時期に為され魏晋音であろうかと思います。

 ここで、不可解なのは、『魏略』が時期の異なる2つの記録を混合してまでして、「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文を生成したことです。
 『魏志倭人伝』であれば、この生成も理解できなくはありません。陳寿は、西晋の司馬氏を称えるために、邪馬台国の朝貢を大々的に記しています。
 更に、遠絶な「旁国」21ヵ国を敢えて掲示し、『魏志倭人伝』を通して司馬氏の徳が、遠い国々にとどいていることを示そうとしたと考えられるからです。多くの国々(30ヶ国)が魏晋に朝献する(使訳通ずる)様子を記したと考えます。

 国名表記(音写文字)の面からは、『魏略』に「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文があったとは、考え難いと思います。

 尚、三国志に「今云々」の使用例は、1000例強あり、内、東夷伝に地理関係で12例あるとのこと。又、三国志にない西戎伝(魏略)に地理関係で17例あるとのこと。ご教示ありがとうございます。
 ただ、同じ記録を(地理関係も含めて)『魏志倭人伝』、『魏略』が夫々、採録したとする説もあり、『魏略』の「専売特許」というわけではないと思います。

 太宰府本に関して、渡邉は、『翰苑』に引かれた『魏略』に奴国、不弥国、投馬国がない蓋然性が高いとしており、あった可能性も留保していると思います。

64:白石南花 :

2022/06/10 (Fri) 17:17:37

>・内藤湖南の引用
平野邦雄編『古代を考える 邪馬台国』所収、池田温「東洋学からみた『魏志』倭人伝」101ページ
 内藤湖南は、魏志の「今」は『魏略』の「今」との共用が多いが、全てがそうだとは限らないとも言っていると思います。<

これは内藤虎次郎からの引用ですね。
「陳寿の三国志の今でないことがある」
これは一般的に三国志に書いてあるのであれば、陳寿の言に違いないと思われることに対する注意です。

実際三国志に「今」の用例は1052例ありますが、そのほとんどが上疏・上奏・詔・言・曰などに続くもので、それ以外も「夫親親恩義,古今之常。」のように熟語をなすか、慣用的な表現ばかりです。
地の文の「今」のように、選者の現在を示すものは、三国志の中では東夷伝にしかありません。
これはご自分で検索して確認してみれば、実感として史書における地の文の「今」がいかに癖のあるものであるか、実感できると思います。
そしてその癖のある用例が、三国志では東夷伝にだけ集中的に現れるのです。
その数12例。
そして魏略西戎伝にはそのような用例が17例もあります。
これに加えて三国志東夷伝と同内容の、地の文の「今」を含む魏略の逸文が知られているわけです。

これらを俯瞰的に見れば、三国志東夷伝の大きな部分が魏略の引用によるものであり、その結果三国志の中では例外的に、地の文の「今」が集中しているのであることが断定できます。
三国志東夷伝の地の文の「今」が、魏略由来のものであることは疑いありません。


>・渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』129ページ
 渡邉義浩は、太宰府本の逸文を考察して、書写の対象が倭国を含む蛮夷部であったとする。にも拘わらず、奴国、不弥国、投馬国が書写されていないと指摘する。このことから、太宰府本のもととなった翰苑に引かれた『魏略』には、奴国、不弥国、投馬国の記述がなかった蓋然性が高いとする。<

渡邉義浩は高名な文献学者ですが、これが本当なら逸文に対する分析としては落第レベルです。
私の持っている『魏志倭人伝の謎を解く』には、蓋然性が高いとしか書いて無く、理由は書かれていません。
逸文をもとに何が書いてなかったか議論するには、残された逸文の性格やその思想的背景から、書かれていなかったことを推定するか、もしくは本文に対する逸文の引用状態から、引かれるべきものが引かれていないときに推定できます。
魏略の里程に関するものとしては、下記があります。

本文「分職命官統女王而列部」に対する註で、帯方から伊都国までを書き、最後に女王に属すとあります。
これはこれは女王が官を任命し、それを統べることに対する註ですから、ここまでで十分なのです。

本文「文身黥面猶太伯之苗」に対する註で、女王国が万二千里の南にありその南にも狗奴国があるとして、太伯の末裔で入れ墨をしている記述が続きます。
これは入れ墨にと太伯の末裔であるということに対する註ですから、倭人の領域がはるか南にあり、太伯の末裔で入れ墨をしているという文を引けば十分です。
狗奴国に言及があるのは、女王国のさらに南にも国があるということで、倭人が南方の人であり、だから呉の太伯と関連があるとしているのです。
これも十分な引用でしょう。

> 私見は、このことから、元々、『魏略』には、「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文がなかった可能性が高いと考えました。
 以上、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」は魏朝の「今」とは限らず、太康年間の「今」も考えられます。<

「今」は魏略に遡ることは確定で、魏略にはすでに三十国の国名が出そろっていたことが分かります。

>国名表記(音写文字)の差異から狗邪韓国から邪馬台国に至る、9ヶ国は、魏の時代の国々であり、「旁国」21ヵ国は、前漢の時代の国々とお考えのようですが、その論拠が私には、理解できません。国名表記(音写文字)は、同種のように思えます。<

倭人伝の音訳文字に対する分析では、これらの表音文字が移したのは、上代日本語と共通する特徴があることが分かっています。
そして特に二十一国については、魏晋期の文献から推定される音価からは、オ列甲類音が多数を占めることが分かっています。
これには二つの問題があります。

1.上代日本語ではオ列甲類音が連続することがないという特徴があるが、二十一国はそれから外れる。
2.自然言語では、日本語のア列音に相当する母音が多数を占めるもので、オ列甲類が多数を占めるのは不自然である。

言語には子音ばっかりの言語など、変わった言語もありますが、他の部分では基本的に上代日本語の特徴を示すことを考えると、魏晋期の推定音で考えたことが誤りであると思われます。
二十一国の表記においてオ列甲類の評価になる文字は、前漢時期までさかのぼると、ア列音の評価ができるようになり、このことから中央の文献に残る音であれば、前漢時代の音写となるだろうということです。
また方言音に関しては、史料不足で分からないため、地方の方言で音写されたものである可能性もあります。
しかし魏晋期の王朝からの使者が、都に報告したものでないことは確定的です。

>それとも、30ヶ国全てが前漢の時代の国々とお考えなのでしょうか。<

上記のように方言音の可能性もあります。

>邪馬台国も既に前漢の時代にあって、239年の魏への遣使に至るまで少なくとも250年位、続いていたとお考えなのでしょうか。<

それも不明ですが、邪馬台国関連の音写に関しては、稲荷山鉄剣との類似性もあり、魏の東夷進出の前に、楽浪や帯方との交流で記録された可能性もあります。
魏略については、地方政権である公孫氏の時代に、記録されたものが含まれている可能性もあると思います。
63:ヲワケノ臣 :

2022/06/10 (Fri) 08:42:16

白石南花さま
30ヶ国 中結の補足2
 「今使訳通ずる所三十国なり。」を取扱う上で、白石南花さまとスタンスが、大きく異なると感じましたが、その素となる出典は下記です。

・内藤湖南の引用
平野邦雄編『古代を考える 邪馬台国』所収、池田温「東洋学からみた『魏志』倭人伝」101ページ
 内藤湖南は、魏志の「今」は『魏略』の「今」との共用が多いが、全てがそうだとは限らないとも言っていると思います。

・渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』129ページ
 渡邉義浩は、太宰府本の逸文を考察して、書写の対象が倭国を含む蛮夷部であったとする。にも拘わらず、奴国、不弥国、投馬国が書写されていないと指摘する。このことから、太宰府本のもととなった翰苑に引かれた『魏略』には、奴国、不弥国、投馬国の記述がなかった蓋然性が高いとする。
 私見は、このことから、元々、『魏略』には、「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文がなかった可能性が高いと考えました。
 以上、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」は魏朝の「今」とは限らず、太康年間の「今」も考えられます。

 太康年間の「今」の場合、「旁国」21ヵ国は、魏朝時代、邪馬台国の加盟国でなく、その後加盟したことになります。魏朝時代の国々と魏朝後に加盟した「旁国」21ヵ国とは、加盟時期の差から分離できることになります。
 ここで、女王国以北の国々は、魏朝時代の国々であり、「旁国」21ヵ国は、女王国以北の国々に含まれないことになります。ただ、大率は、魏朝時代と同じく諸国を検察していたと考えれば、「旁国」21ヵ国は検察対象となります。

 国名表記(音写文字)の差異から狗邪韓国から邪馬台国に至る、9ヶ国は、魏の時代の国々であり、「旁国」21ヵ国は、前漢の時代の国々とお考えのようですが、その論拠が私には、理解できません。国名表記(音写文字)は、同種のように思えます。
 それとも、30ヶ国全てが前漢の時代の国々とお考えなのでしょうか。邪馬台国も既に前漢の時代にあって、239年の魏への遣使に至るまで少なくとも250年位、続いていたとお考えなのでしょうか。
62:白石南花 :

2022/06/07 (Tue) 11:15:54

三国志東夷伝は、ほとんどがいろいろな時代に成立した、多数の原史料の丸写しを繋ぎ合わせたものと思われますが、陳寿が書いた分と思われるものもあります。
それは一大率に関する下記の文の中にあります。

「自女王国以北,特置一大率,倹察諸国,諸国畏憚之。常治伊都国,於国中有如刺史。王遣使詣京都、帯方郡、諸韓国,及郡使倭国,皆臨津捜露,伝送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。」

この文が不自然なことは、明治の時代に那珂通世氏によって指摘されていました。
冒頭女王ではじまり、文末は再び女王に関する記述で終わるのに、途中で「王」が現れること、また「常治伊都国」につづいて「於国中有如刺史」が続くと、この国中が伊都国のことになってしまって、文脈的に不安定になります。
「王」は「女王」の脱字であるとか、「国中」は「中国」の倒置であるとか、いろいろ言われてきましたが、佐伯有清氏はこれを下記のように分解しました。

A:「自女王国以北,特置一大率,倹察諸国,諸国畏憚之。常治伊都国[Bの挿入]伝送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。」
B:「於国中有如刺史。王遣使詣京都、帯方郡、諸韓国,及郡使倭国,皆臨津捜露」

つまりBは、一大率に関する前文に対しての説明と言うのです。

佐伯氏の考察はここまでですが、これに関して二十年近く前に掲示板で議論があり、これは原文に対する註だったのではないかとされました。
そしてもし一大率が諸国を検察し諸国に恐れられるものであるとすると、それを刺史の如きものと註するのは、時代的に限定されるとされました。
詳しい人がいて、刺史というのは時代によってその権能が変わり、このような強力な権力を持つとすれば、その時代は西晋の太康年間であろうというのです。
そこから、これこそが陳寿が原註として付けたものが、後に本文として書写されたものではないかとされました。

三国志の時代、すでに記録メディアは紙になっていた可能性があり、紙面にまとめた文面の余白に細注したものでしょう。
そのため「及郡使倭国」のような、文法的に不穏な表現があるのではないかと思われます。
また太康年間には、倭国の王は女王ではなかったため、「王」という表現尚なのかもしれません。
61:白石南花 :

2022/06/07 (Tue) 10:42:06

>次の点で白石南花さまとスタンスが、大きく異なると感じました。内藤湖南は、「今云々」に関して、『魏略』で多用されるが、そうでない場合もあるとします。<

これは出典は何でしょうか。
添付は内藤湖南の卑弥呼考です。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/4643_11096.html

>私見は、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」が、この例と考えます。『魏略』逸文に「今使訳通ずる所三十国なり。」はないが、元々の『魏略』にあったとし、魏志がこの構文を流用したと、このように断定できないと考えます。<

断定はできませんが、地の文の今は、史書にはあまり見かけないものです。
会話文の中にはよく見かけますが、地の文の場合、時代を選者の時代に特定することになって、時代を超えて伝える目的にはあまり向かないからであると思います。
関連する漢籍の中で、王沈の魏書に一か所発見しましたが、例えば三国志東夷伝に引用される魏略西戎傳は、丸ごとの引用で、その中では盛大に使用されています。
使用のされ方も文体にも共通点があります。

>因みに、三国志の研究学者、渡邉義浩は、太宰府本の『魏略』逸文を考察し、元々の『魏略』には、奴国、不弥国、投馬国、「旁国」21ヵ国の記述がなかった蓋然性が高いとする。<

出典は何でしょうか。
逸文の取り扱いは難しく、逸文に見えないということと、原典になかったとすることとは全く違います。
常識的には逸文から、書いてなかったことは結論できません。
それどころか逸文にあっても、実は誤りであったとされることも良くあります。
例えば魏略は長らく、その逸文の最も新しいものから、三国志と成立年代な近いとされていましたが、江畑氏の考察によって魏の末年成立というのが現在有力となっています。
つまり、一点時代の離れた逸文は間違いだったとされています。

https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I3504889-00

このように逸文から、原典を考察するのは難しく、渡邉義浩氏が何とおっしゃっているのか気になります。

>ところで、魏志は、魏朝の歴史書なので、魏の時代以降の邪馬台国の期間は、基本的に記述の対象外であったと考えます。例外の一つが倭人伝の書き出し部にある倭人世界のあらましで、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」と考えます。<

地の文の「今」が魏略に遡るものかどうかはおいておいても、銭大昕の指摘するように、高句麗伝に「今句麗王宮是也」とあり、高句麗王が「位宮」の時代であり、太康年間に下ることはあり得ません。
また東夷伝全てにおいて、正始八年以降の年次は現れず、二郡が韓を滅ぼした後のことも書かれていません。
そもそも、紛争の発端は二郡が、辰韓の八ヵ国を楽浪に所属させようとしたことなのですから、発端に関しては細かく書かれているのに、戦後処理が何も書かれていないのはおかしいのです。
その他にも、東夷伝の情報が一部を除いて、途中で切れていることを示すものは多くあります。

>これは、魏志編纂時の太康年間の「今」であり、30ヶ国の中に新たな情報「旁国」21ヵ国を含むものです。『晋書』が、太康年間を含む276年から291年に渡り記す、東夷入貢記事の中に邪馬台国の外交が、あったと考えられ、「旁国」21ヵは、この時の西晋遣使の伝聞記録によるものです。<

それは本来晋書に書かれるべきことであり、魏の歴史ではありません。
東夷伝倭人条には、例外的に司馬昭が相国になった咸熙年間以降の記事が含まれると思われますが、正始十年以降断絶していた東夷外交が、再び活発になるのは咸寧年間以降で、それは晋書に書かれています。

>邪馬台国連合に新たに加わった「旁国」21ヵ国は、女王国以北かどうか不明ですが、大率の検察対象国です。狗奴国は連合の国でなく検察の対象に含まれません。<

ですから文献事実として、「自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。」ですから、21ヵ国は女王国以北ではありません。
したがって検察対象国ではありません。

>尚、狗邪韓国から邪馬台国に至る、9ヶ国の道程は、3世紀中頃に記されました。<

どうしてそれが分かりますか?

>この時期から太康年間の間は、半世紀足らずの期間です。この間に、これら9ヶ国と「旁国」21ヵ国との国名表記(音写文字)上の差を見出すことは無理があると考えます。<

晋魏の推定標準音と見なしがたいのですから、西晋遣使の報告などではありえないのです。
漢字音のみからは、国名表記がなされたのは紀元前か、あるいは朝鮮半島などで行われた方言音による、地方記録です。

東夷伝は様々な時代の記録を繋ぎ合わせたもので、倭国のある時代の政治的断面などは表していません。
そう考えるから、狗邪韓国が韓の国であるという明白な文献事実が受け入れられないのです。
60:ヲワケノ臣 :

2022/06/06 (Mon) 18:16:48

30ヶ国 中結の補足
 次の点で白石南花さまとスタンスが、大きく異なると感じました。内藤湖南は、「今云々」に関して、『魏略』で多用されるが、そうでない場合もあるとします。
 私見は、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」が、この例と考えます。『魏略』逸文に「今使訳通ずる所三十国なり。」はないが、元々の『魏略』にあったとし、魏志がこの構文を流用したと、このように断定できないと考えます。

 因みに、三国志の研究学者、渡邉義浩は、太宰府本の『魏略』逸文を考察し、元々の『魏略』には、奴国、不弥国、投馬国、「旁国」21ヵ国の記述がなかった蓋然性が高いとする。とすれば、元々の『魏略』に「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文はなかった可能性が高いと考えます。

 ところで、魏志は、魏朝の歴史書なので、魏の時代以降の邪馬台国の期間は、基本的に記述の対象外であったと考えます。例外の一つが倭人伝の書き出し部にある倭人世界のあらましで、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」と考えます。

 これは、魏志編纂時の太康年間の「今」であり、30ヶ国の中に新たな情報「旁国」21ヵ国を含むものです。『晋書』が、太康年間を含む276年から291年に渡り記す、東夷入貢記事の中に邪馬台国の外交が、あったと考えられ、「旁国」21ヵは、この時の西晋遣使の伝聞記録によるものです。

 邪馬台国連合に新たに加わった「旁国」21ヵ国は、女王国以北かどうか不明ですが、大率の検察対象国です。狗奴国は連合の国でなく検察の対象に含まれません。
 尚、狗邪韓国から邪馬台国に至る、9ヶ国の道程は、3世紀中頃に記されました。この時期から太康年間の間は、半世紀足らずの期間です。この間に、これら9ヶ国と「旁国」21ヵ国との国名表記(音写文字)上の差を見出すことは無理があると考えます。
59:石見介:

2022/06/05 (Sun) 23:12:16

 狗邪韓国を、卑弥呼共立の、女王国の主要構成国9ヶ国の一国とされるのは、板主のヲワケノ臣さんです。

 私はそれに異議申し立てを、したのですが、その主要な論拠は、狗邪国が、狗邪「韓」国、或いは、「弁辰」狗邪国と、表現されている事であり、基本的認識は、白石南花さんと同じく、『三国志』の著者、陳寿の認識が、狗邪国を、倭人,倭種の国として、捉えていない、という事に因ります。

 狗邪韓国は、「伽耶諸国」の一つではあるが、「大加羅国」=高霊伽耶国ではなく、「南加羅国」=金官伽耶国である、というのが、私の立場です。

 尚、このスレッドは、ヲワケノ臣さんの所説に対する反論の場ですので、以後の福島さんとの議論は、行いませんので、ご了承ください。
58:白石南花 :

2022/06/05 (Sun) 15:16:00

>この見方に従えば、狗奴国は、『魏志倭人伝』編纂の太康年間時点では、使訳通じない国交の途絶えた国となっていたが、陳寿が元々は漢、又は、魏に使訳通ずる国と「推測」していた可能性もあると考えます。<

ここはおそらく魏略をそのまま引いているところです。
魚豢は景初年間を最後に野に下った可能性が高く、倭国と魏朝との外交の詳細も分からなくなっていたと思われます。

>狗奴国は邪馬台国の南にあることから、女王国以北の国でなく検察の対象に含まれません。従って、使訳通ずる国に該当せず30ヶ国に含まれないことになります。<

そうすると、傍らの二十一国も女王国以北と異なって詳細は分からないと書いてあるので、使訳通ずる国に該当せずとなりますがそれでよいのですか。

>狗奴国に関する情報が(邪馬台国経由で)伝わっていたことから、使訳通ずる所の内に狗奴国を含めたとする点に関しては、一方で、魏は邪馬台国との外交中、邪馬台国と狗奴国の間に紛争、争乱があったことを認識していたことからみて、可能性が低いと考えます。<

上述しましたが、ここは魏略をそのまま引いているところです。
この時代の著作というのは、現代の著作とは大きく異なり、先史をそのまま引いていることが多いのです。
それは史記と漢書の比較などでも見ることができます。
南北朝もしくは唐代あたりから、傾向が変わってくるようです。

>陳寿は、漢文に多い対句表現として、『漢書』に100余国、時に朝見するとある構文を引き、これに「今使訳通ずる所三十国なり。」を対置したと考えられます。このことから、陳寿が、狗奴国を漢の時に朝見した国の一つと「推測」した可能性が高いと考えます。<

陳寿は推測していないと思います。
陳寿の手元には、倭と魏の外交に関する史料は非常に少なかったと思われます。
外交関係に関しては、「景初二年」以下に書かれていますが、これは魏の起居註を利用していると思われます。

>清の学者やそれに準じた内藤湖南は、「今云々」は、『魏略』で多くみられる常套句と考えました。しかし、『魏略』逸文に「今使訳通ずる所三十国なり。」はありません。『魏略』で多く使用される常套句なら何故、「今使訳通ずる所三十国なり。」を記さなかったのか疑問です。<

逸文というのは、註として引くことで残るもので、註する対象によってどのような文を引くかが決まります。
残るかどうかは運によります。

>第一に、『魏略』は「旁国」21ヵ国を記していないこと。編纂時点より後にあたる、太康年間の最新情報、「旁国」21ヵ国を反映できなかったと考えられます。<

この二十一ヵ国の音写文字は、上古音の傾向が強く、太康年間に新たに出てきたような情報とは思えません。

>第二に、『晋書』が、東夷入貢記事を276年から291年に渡り記していること。この中に倭の遣使もあったと思われることから、266年の台与による遣使以降も西晋との冊封関係が、太康年間まで続いていたと考えられます。<

正始十年の政変以降一時東夷外交は断絶します。

>因みに、張華は、282年から287年の間、北京に赴任し北方方面軍総司令官の要職にあって、とりわけ朝鮮半島の諸国の朝貢に力を入れたとされます。<

正始末年の魏韓戦争で、韓の情勢は大きく変わりますが、韓伝には反映されていません。
東夷伝の記述は倭人伝の一部を除いて、正始八年を最後にぷっつりと絶えています。
57:福島 雅彦:

2022/06/05 (Sun) 11:46:22

>①狗奴韓国が、女王国連合の「建国9ヶ国」に入らないと考えられる理由:

石見介さん、横レス失礼します!

※「狗邪韓國」が「女王國連合」の「建国九ヶ国」とは何処に記載があるのでしょうか?

*単純に、詳らかになる「倭」の九ヶ国=「狗邪韓國」「對海(馬)國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」では?

・さすれば、「拘邪韓國」は「倭國」の事でしか在り得ません。

∴「倭國」の三十ヶ國とも整合します。
56:ヲワケノ臣 :

2022/06/05 (Sun) 08:20:23

30ヶ国 中結つづき
 狗奴国に関して、意見交換の内容を基に私なりに整理してみました。
①『魏志倭人伝』、『魏略』は、狗奴国の王と記しています。王の呼称は、中国の王朝から与えられるものであり、狗奴国は、中国王朝と通交した国だとする見方があります。
 この見方に従えば、狗奴国は、『魏志倭人伝』編纂の太康年間時点では、使訳通じない国交の途絶えた国となっていたが、陳寿が元々は漢、又は、魏に使訳通ずる国と「推測」していた可能性もあると考えます。

②女王国以北に大率を置き諸国を検察していたとあり、当然、外交も検察され統制されたとされます。私見は、使訳通ずる国々とは、この統制された外交の対象となった国々と解釈します。
 狗奴国は邪馬台国の南にあることから、女王国以北の国でなく検察の対象に含まれません。従って、使訳通ずる国に該当せず30ヶ国に含まれないことになります。

③狗奴国に関する情報が(邪馬台国経由で)伝わっていたことから、使訳通ずる所の内に狗奴国を含めたとする点に関しては、一方で、魏は邪馬台国との外交中、邪馬台国と狗奴国の間に紛争、争乱があったことを認識していたことからみて、可能性が低いと考えます。

④陳寿は、漢文に多い対句表現として、『漢書』に100余国、時に朝見するとある構文を引き、これに「今使訳通ずる所三十国なり。」を対置したと考えられます。このことから、陳寿が、狗奴国を漢の時に朝見した国の一つと「推測」した可能性が高いと考えます。

⑤清の学者やそれに準じた内藤湖南は、「今云々」は、『魏略』で多くみられる常套句と考えました。しかし、『魏略』逸文に「今使訳通ずる所三十国なり。」はありません。『魏略』で多く使用される常套句なら何故、「今使訳通ずる所三十国なり。」を記さなかったのか疑問です。
 勿論、『魏略』は逸文が残るのみであり、後代の写し忘れも考えられます。しかし、最も大事な書き出し部を写し忘れるだろうかと思います。元々、『魏略』に「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文は、なかった可能性が高いと考えます。陳寿は、『魏略』に多い常套句「今云々」とは別に独自の「今」によって、この構文を書き記したと考えます。

以上、①から⑤に鑑みて、狗奴国は30ヶ国に入らないと考えます。
 尚、⑤からみて、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」は、やはり太康年間の「今」である可能性が高いと考えられます。論拠は、⑤に加えて、次のようになります。

 第一に、『魏略』は「旁国」21ヵ国を記していないこと。編纂時点より後にあたる、太康年間の最新情報、「旁国」21ヵ国を反映できなかったと考えられます。

 第二に、『晋書』が、東夷入貢記事を276年から291年に渡り記していること。この中に倭の遣使もあったと思われることから、266年の台与による遣使以降も西晋との冊封関係が、太康年間まで続いていたと考えられます。

 第三に、陳寿と恩人の張華の間に密接な関係があること。即ち、張華から得た、貴重な韓、倭の地理に関する最新情報を尊び、倭人世界のあらましを記したと思います。
 因みに、張華は、282年から287年の間、北京に赴任し北方方面軍総司令官の要職にあって、とりわけ朝鮮半島の諸国の朝貢に力を入れたとされます。
55:ヲワケノ臣 :

2022/06/05 (Sun) 08:09:48

オヤジッチさま
 討論室への再訪、ありがとうございます。質問に関して、本スレッドNo10「4世紀初頭、倭の国家体制の変容、変動」を参照ください。

 意見交換のポイントは、邪馬台国=筑紫王権とする筑紫王朝説が、さきたま「稲荷山鉄剣銘」のワカタケルは、雄略であり倭王武とする定説を反証できるか否か。又、大和王権が「金海貿易」を興したことと矛盾しないか否かだと思います。

54:石見介:

2022/06/05 (Sun) 00:05:04

 5月25日のコメント後、時間が取れず、表題の件について、ヲワケノ臣さんと、質疑の予定でしたが、その間に、白石南花さん、福島雅彦さん、米田喜彦さんのコメントがあり、私の質問内容の殆どを、網羅しておられるので、私が、更にコメントを重ねる意味が、殆ど、無くなりました。
 そこで、ここでは、狗邪韓国が、女王国連合建国9ヶ国に入らないと思う根拠を、挙げるとともに、旁国と、ヲワケノ臣さんの挙げる「建国9ヶ国」との、性格の相違についての私見や、その他雑感を、書きます。

 ①狗奴韓国が、女王国連合の「建国9ヶ国」に入らないと考えられる理由:

 これは、最初から述べているように、「倭人/倭種」を、従属民として、抱え込んでいるか否かにかかわらず、狗邪「韓」国(『魏志倭人伝』)、或いは、「弁辰」狗邪国(『魏志韓伝』)と、明確に、陳寿が、「倭人」あるいは「倭種」の国ではなく、「韓族」の部族国家だと、「記述」している点にあります。

 陳寿は、蜀の出身で、東夷に関する基礎知識もなく、蜀の儒家の流れを汲む史家として、西晋の張華や杜預に見出だされ、前代の三国の歴史を、撰述するよう、求められました。
 先行する王沈『魏書』や魚拳『魏略』が、同時代史の側面から、正史にふさわしい、公平さを欠くという世評があり、魏の出身ではない、陳寿が、選択されたのでしょう。
 勿論、陳寿の史才も評価されたと思われます。
 しかし、陳寿には、人的資源(弟子や同門の学徒)も、金銭的資源もなく、晋の帝室司馬氏や当時の支配層の意向も、当然、配慮すべき立場でした。

 司馬懿の功業を讃える為に、それまでの「前三史」と言われた正史『史記』『漢書』『(東観)漢記』に無かった「東夷伝」を、特に、書き著すことになった。陳寿には、全く基礎知識も、土地勘も、ない。
 正直、東夷伝の内容を見れば、陳寿が、情熱をもって書いたとは、思われません。
 あの「韓伝」(韓条)の混乱ぶりを見れば、適当な資料の継ぎはぎだとわかる。

 所謂『魏志倭人伝』、東夷伝倭人条については、倭の魏への朝貢は、司馬懿の一大功績として、顕彰、称揚すべき事績として、位置付けられた。
 そのように、書かざるを得なかったと思われます。

 民族移動期、半島中南部は、種々の民族に属する、部族国家群が、雑居し、それらを統一的に支配する「大王」とも言うべき、王権は存在しなかった。 辰王の様な、曖昧な存在はあったが。

 陳寿は、当時半島に存在したであろう、倭人~倭種の部族国家の情報が、存在したとしても、列島の倭の朝貢という大功業を曇らせる可能性があれば、そこは書けなかったでしょう。
 精々、韓条記載の「別邑」と見做す程度だったでしょう。

 このような状況下では、狗邪韓国は、「倭人諸国」として、記載され得る筈もない。
 私は、狗邪韓国は、卑弥呼の女王共立時、半島南部の、倭地に進出した直後だったのではないか?と想像していますが。

 現実には、狗邪韓国は、「弁辰」彌烏邪馬国の様に、倭種或いは倭韓混血?の支配者が、「弁辰部族連合」に加盟したもので、ヲワケノ臣さんの仰るような、前代の安定した男王の治世7~80年間は、倭王の配下にあった可能性も考えられるが、先の弁辰「彌烏邪馬」国が、「御倭山」のような、日琉語族の語彙で、解釈し得るのに比し、「狗邪」が「くや」の音写であるとすれば、上代日本語では解釈し難い語形なので、韓族の国家である可能性が高い、と考えています。

②行程8ヶ国と旁国21ヶ国の相違

 ヲワケノ臣さんは、私の言う「行程8ヶ国」と「狗邪韓国」を、国名のみ列挙された、遠絶、旁国と記された21ヶ国と区別され、前者の九カ国のみを、卑弥呼を共立した主導的な構成国とされた。
 私は、旁国、遠絶21ヶ国も、大倭王卑弥呼の「共立」に参加した国々であると、考えます。
 行程8か国との相違は、『魏志倭人伝』の記載通りに、女王の都のある、邪馬台国への行程に無く、「郡使が常駐」している「伊都国」に、その情報がないだけ、と文字通り、解釈します。

 これは、邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸という戸数記事と道里記事を、一応信頼した事にもよります。
 この万戸の大国を数カ国認めれば、それらに属さない、共立参加国が、存在しない方が、不自然です。
 同時に、邪馬台国近畿説に、傾く事にもなりますが。

③「倭人」諸国は、半島や列島の東部や南部の、「倭種」の国々を、「除外」したj表現ではないのか?

 ご承知の通り、『魏書鮮卑烏桓東夷列伝』では、基本的に、各種族の名称に、「人」がつくことはありません。唯一の例外が、東夷伝末尾の「倭人」条です。
 学史的にも、議論はありますが、何故、「倭人」条のみ、このような語句で始まるのか?

 私は、陳寿が、「倭」諸種族中、列島西部の,「使訳通ずるところの30ヶ国」に限定して、記述した、という意味が、籠っているのではないか?と、考えています。
 従って、半島の倭種にも直接言及せず済むし、東の海の先の国々も、「倭種」ですよ、という説明で済ませる。
 或いは、陳寿は、夷洲、亶洲や東鯷人についても、倭種の可能性を示唆する資料を目にして、握りつぶしたのかもしれませんが。まあこれはないでしょう。しかし、范曄の生きた劉宋の時代と異なり、陳寿の生きた時代には、安徽省亳県の曹氏一族の墳墓の地も、西晋の領域内にあり、例の会稽曹君墓出土の「倭人字磚」関連の情報も、入手し得た可能性もあります。

 倭人に関心のあったらしい范曄とは異なり、陳寿は、東夷にそう関心がなかったと思われますが、魚拳の文章を引き写したとして、「倭」を「倭人」に改めたのは、陳寿だと考えられるので、多少、想像を膨らませたくなります。

 以上、とりとめのない事を書きましたが、「倭人」を、大海中の住民と「定義」し、半島や鮮卑領域の「汙人国」などを、「倭」種族から外した、陳寿の執筆態度が、もう一つ、判り難いので、ぼやいたまでで、ヲワケノ臣さんのコメントは、ご省略下さって結構です。

 漢文の解釈としては、「接」の用法等、白石南花さんのご解釈に、基本的に、従います。
 但し、民族移動に関する考えは、白石南花さんと、相当、相違しているように、感じています。
53:オヤジッチ :

2022/06/04 (Sat) 15:25:53

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1654323954.jpg まず、【平定】と言うことを考えてみましょう。
平定とは「敵や賊を討ち平らげること」「反乱を—する」「天下を—する」
「大和王権が北部九州を平定した」とは、大和王権と北部九州が“敵対していた”と言うことになりますが、そのようなことは、日本書記の「筑紫君磐井の乱」しかありません。それ以前は互いに交通関係にあったことが考古資料(土器)に現れています。

卑弥呼を共立した三十余國の連合国が統合されたのが筑紫国であり、その中心(都)は邪馬台国時代に卑弥呼が都していた八女でしょう。

「地域民衆の直接支配」をもって平定と言っているのであれば、屯倉が置かれた時が平定(正しくは支配)時期でありましょう。
北部九州に最初に置かれた屯倉は、日本書記の磐井の乱(大和の言い方、筑紫から言うと防衛戦争)のあと、葛子が贖罪のため、乱後に献したとある糖屋屯倉(継体天皇22年(528年))であり、その後、安閑二年(533)には磐井の乱に関与し、磐井の勢力圏にあったと考えられる筑紫・豊・火の八ヶ所をはじめ、列島各地への屯倉の設置されています。
52:白石南花 :

2022/06/03 (Fri) 13:54:58

>①から⑤に鑑みて、倭人の生活地は、帯方の東南海中に加えて、狗邪韓国にも生活地(交易の基地)が、あったとする余地はないでしょうか。<

ヲワケ臣さん
実際に倭人がどのように分布し、どのように生活していたかは、文献とは別の話です。
文献が誤っている可能性もあるためです。

ただ文献上、倭人は交易のために半島に渡っていたことは明らかだけれど、半島は韓の土地、倭の土地は大海中と区別していることは明らかです。

したがって、大海中の倭の国として、狗邪韓国を数えることは、撰述者の意図にかなっていません。

狗奴国は国名だけの二十一ヵ国に比べて、官名や王名まで伝わっていて、これが原史料にあったとすると、選者が使訳が通っていたと表現することは自然だと思います。

そもそも下敷きにしている漢書の百国も、朝見したものがあると言っていますが、漢書には分かれて百余国が、季節ごとに献上品を持ってきたということを、伝聞で伝えているだけで、実際に百余国が朝見したことを確認しているわけではありません。

前にも書きましたが、ジャーナリストではありませんので、史料をかき集めて推定しているだけなのです。

追記:
倭人伝は用語も用字も文体もばらばらで、寄せ集めの情報であると思われます。
特に国名の出てくる前半はその傾向が強く、卑弥呼のことを単に女王と呼んでいますが、通常代名詞は固有名詞の後に出てくるものですので、前半分の完成時には、まだ卑弥呼の名は分かっていなかったのでしょう。
つまり魏使の情報によったのではないと思われます。
後半部分の卑弥呼の代名詞は、倭女王、倭王ですからこれなら、親魏倭王から不自然ではないですが、単なる女王は時代も違うと思われます。
すなはち、原史料の魏略に基づいた部分でしょうが、この部分ができた段階で、各国と魏との関係は明白ではなく、ほとんどが伝聞などでかき集めた情報であると思われます。
したがって、使訳の通じるの意味も、形式的なものであると考えてよいでしょう。

この時代の文人は、文飾してなんぼの評価ですから、そうそう事実に即して書いているとは思わないほうが良いでしょう。
51:ヲワケノ臣 :

2022/06/03 (Fri) 12:49:12

白石南花さま
30ヶ国 中結
 地方豪族に関心があり、森公章の著書『古代豪族と武士の誕生』(2012年)は読んでいましたが、律令期の研究者の印象が強く、邪馬台国時代の論考は、正直知りませんでした。

 ここ数日の意見交換は、30ヶ国が実体のある実数とすれば、狗邪韓国、又は、狗奴国が、この構成国に加わる必要があるとするところから始まっています。福島さま、米田さまをまじえた意見交換で深まりました。ありがとうございます。この内容を私なりに整理してみました。

①陳寿は、倭人条として倭人に関することを記した。
②倭人の生活地は、帯方の東南海中にある。
③「其の北岸」と「南倭と接す」は、表裏の関係にある。
④狗邪韓国と対馬国は、「南北市糴」の関係にある。
⑤陳寿は、④を重要視した。

 ①から⑤に鑑みて、倭人の生活地は、帯方の東南海中に加えて、狗邪韓国にも生活地(交易の基地)が、あったとする余地はないでしょうか。
 「岸」や「接」という用法上の問題もあるかと思いますが、あくまでも陳寿が倭人伝とした大意が優先すると思います。不用意に大意と合わない形のまま、綴り合せた可能性もあります。

 この余地がないとすれば、30ヶ国構成国の残り1ヶ国は、不明と考えざるを得ないと思います。いずれにしろ、この論議は、ほぼ尽くされたと考えます。
 尚、白石南花さまの、この問題に関連した新しいスレッド、拝読しました。今後の展開、楽しみにしています。
50:白石南花 :

2022/06/03 (Fri) 09:28:17

>※其れでしたら、韓と「倭」は陸続きに接しています。
*同じ『三国志』中の『韓傳』には「韓は東西を海に限り南は「倭」に接す」とあります。<

その件はもう説明しています。

やはり福島さんは、議論の相手になりませんね。
まあ昔からそうですが。

[接]は漢籍において、その原義の[交]の意味でつかわれることが多いのです。
東夷伝では、地形をあらわすことに主眼がなく、民族の間の交流関係をあらわしているのです。

例えば「高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、ワイハク,東與沃沮,北與夫餘接。」であれば、
南は朝鮮ワイハクと、東は沃沮と、北は夫餘と交わると理解すべきです。
この場合は「通じるルートがある」と意訳しても良いと思います。

単に海に面しているのであれば、「東西有大海」とか「東西臨大海」ですむはずです。
実際東沃沮では「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居」と、単に大海に面した平地にいると書いています。
なぜ[限]なのかというと、文中の[接]に対する対比と考えられます。

「韓在帶方之南,東西以海為[限],南與倭[接]」

つまり南は航路があるので倭に交わるですが、その対比で東西には交わる相手がないことを、あえて表現する[限]なのです。
同じようなことはワイ伝にもあります。

「ワイ南與辰韓,北與高句麗、沃沮「接」,東「窮」大海」

ワイが南は辰韓、北は高句麗、沃沮に[接](交わる)にたいする対比表現で、東は大海に[窮]まるとしているのです。

このスレはヲワケノ臣さんのスレで、内容が主題からずれてしまいましたから、ここで終わりにして、別スレにてなぜこのような愚かな誤読が起こったのかについて分析します。
49:福島 雅彦:

2022/06/02 (Thu) 16:46:42

>>※地理の説明に於いて、二ヶ國が接する=陸上ではあり得ない、と仰っているのですか?<

>地続きの場合も海を挟んだ場合もあります。

※安心しました。限定されているかと疑いました。

>地続きという限定した意味ではないということです。したがって大海中の倭と接するなら、海を介した場合ということになります。

>>*二カ国が接しているとの表現は、必ず海を挟んで居なければならない、とでも?<

>そんなことは誰も言っていませんよ。

※其れでしたら、韓と「倭」は陸続きに接しています。

*同じ『三国志』中の『韓傳』には「韓は東西を海に限り南は「倭」に接す」とあります。

・同じ『三国志』の『韓傳』の次項に『倭人傳』が述べられています。前項の『韓傳』で述べた「倭」の情報は重複記述を避けているだけです。

∴前項の『韓傳』の記述は生きています。

・其の証拠は私が縷々述べた通りです。

・何なら再掲しましょうか?

48:白石南花 :

2022/06/02 (Thu) 11:15:45

>※地理の説明に於いて、二ヶ國が接する=陸上ではあり得ない、と仰っているのですか?<

地続きの場合も海を挟んだ場合もあります。
地続きという限定した意味ではないということです。
したがって大海中の倭と接するなら、海を介した場合ということになります。

>*二カ国が接しているとの表現は、必ず海を挟んで居なければならない、とでも?<

そんなことは誰も言っていませんよ。
47:福島 雅彦:

2022/06/01 (Wed) 20:27:44

※地理の説明に於いて、二ヶ國が接する=陸上ではあり得ない、と仰っているのですか?

*二カ国が接しているとの表現は、必ず海を挟んで居なければならない、とでも?

46:白石南花 :

2022/06/01 (Wed) 20:17:59

>※異なる書物の文例の解釈が間違っています。<

意味不明です。

>海を渡って接する以外の用法が無い、とでも?<

接が地続きであるとの解釈が、大海中の倭との解釈矛盾を生み出し、長い不毛の論争を生んだのです。
海を渡って接する例がいくつも上がってきたことで、文脈が無理なく解釈できることが分かったのですから、韓と倭の接は海を挟んだ接で決まりです。

>また海を渡って接の例は、その時代の航路があったケースに限定されており、韓は東西を海に限りは韓の東西の黄海や日本海はその当時渡れなかったことを示します。

>※その様な事実は有りません。「高句麗」が剣呑海路を採っています。<

高句麗と呉の交流のことでしょうか。
船を出していたのは呉ですよ。
しかもその経路は、途中山東で魏に捕捉された話などから、山東半島から遼東半島であることは文献から明らかであり、海を介しての接の例に挙げた経路ですよ。

以下は誰にも理解できない、独り言のような話ですので、回答は致しませんね。
悪しからず。

>※同じ書物の中に、同一記述を重複させていないだけです!

*文脈を読むとはこの様な事も含まれる。<
45:福島 雅彦:

2022/06/01 (Wed) 17:02:01

>接に海を渡って接するの文例がある以上、地続きとは言えません。

※異なる書物の文例の解釈が間違っています。海を渡って接する以外の用法が無い、とでも?

>また海を渡って接の例は、その時代の航路があったケースに限定されており、韓は東西を海に限りは韓の東西の黄海や日本海はその当時渡れなかったことを示します。

※その様な事実は有りません。「高句麗」が剣呑海路を採っています。


>>∴「倭」は帯方郡東南(「狗邪韓國」)と大海の中に在り、と文脈で述べています。<

>どこから「と」が出てくるのでしょうか。誰が読んでも、倭は帯方東南の大海中に在りです。
大海の中、海中に生活する人々だから「依山島為國邑」なのです。

※同じ書物の中に、同一記述を重複させていないだけです!

*文脈を読むとはこの様な事も含まれる。

※*『日本書紀』の「「素盞嗚尊」が「高天原」を追放になり「新羅」(紀編纂時の国名)の曽尸茂梨の処へ行きます。」

・『韓傳』には此れと呼応する記載があります。

・「國出鐵韓濊倭皆從取之」=国は鉄を産出する、韓も濊も倭も從(ほしいまま)に之を取る、と。

・半島の「倭地」で好き勝手(ほしいまま=従)に製鉄しています。

*倭王 「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」

・曽尸茂梨❝쇠씨-머리❞(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)。

※参問倭地…周旋可五千余里=郡使(魏使)が実際に踏査した「倭地」の総延長。

*「狗邪韓國」領域千五百里(逆算)+対馬海峡横断三千餘里+「末盧國」~「伊都國」=五千餘里。

・郡庁~其の北岸=七千餘里-韓の方四千里=三千餘里。

・残り三千餘里=郡治の海岸水行千五百里と「狗邪韓國」千五百里に仮に按分、が成立している。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
44:白石南花 :

2022/06/01 (Wed) 15:27:11

> *『三国志「韓伝」』=韓は東西を海に限り南を「倭」に接す、としています。
・陸続きに「倭」に接している表現です。<

接に海を渡って接するの文例がある以上、地続きとは言えません。
また海を渡って接の例は、その時代の航路があったケースに限定されており、韓は東西を海に限りは韓の東西の黄海や日本海はその当時渡れなかったことを示します。

>∴「倭」は帯方郡東南(「狗邪韓國」)と大海の中に在り、と文脈で述べています。<

どこから「と」が出てくるのでしょうか。誰が読んでも、倭は帯方東南の大海中に在りです。
大海の中、海中に生活する人々だから「依山島為國邑」なのです。
43:福島 雅彦:

2022/06/01 (Wed) 14:15:08

*『三国志「韓伝」』=韓は東西を海に限り南を「倭」に接す、としています。

・陸続きに「倭」に接している表現です。

∴「倭」は帯方郡東南(「狗邪韓國」)と大海の中に在り、と文脈で述べています。
42:白石南花 :

2022/06/01 (Wed) 09:23:13

>『魏志倭人伝』は、『魏略』の書き出し「倭は帯方の東南海中にあり、」と異なり、「倭人は帯方の東南海中にあり、」と書き出しています。陳寿は、倭人伝であり、倭人に関することを記しますよと宣言し、書き出しており強い意思が感じられます。<

その通りです。
倭人は大海中の人として位置付けています。

> この大意の基に、魏志が、狗邪韓国を「其の北岸」としたことは、韓や弁辰が「南倭と接す」としたのと表裏の関係にあるとされます。ここで、「接す」は、地域と地域が境を「接す」の語義とする。従うべきと考えます。<

これは大間違いです。
接の原義は交わるです。
説文解字:「接交也」

> 因みに、ここ数日述べた私見は、主に平野邦雄の説に準拠して考えています。周知のように、戦後、金石文に関しては、新たな発見や解読の進展がありました。又、考古学の分野では、目覚ましい発掘成果がありました。
 内藤時代とは異なり、戦後の歴史学者は、このような、新たな知見を総合し古代史を深めて来たと考えます。ここでは、用字法の統計問題も踏まえた上で、総合的に結論付けた、戦後の歴史学者達の見解を尊びたいと思います。<

森公章氏だったと思いますが、接は地続きの意味ではないと公言されています。
実際、三国志魏書十二の崔琰伝に引く、九州春秋には山東半島と遼東が接するという記述があります。

「欲附山東、外接遼東、得戎馬之利、建樹根本、孤立一隅、不與共也。」
(山東に附すことを欲し、外の遼東と接し、戎馬の利を得て根本の方針を建て、一隅に孤立し共となさず。)

唐會要の倭國には下記のような接用例が現れてきます。

「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接。」
(倭国は北は大海に限られ、西北は百済に接し、真北は新羅に触れ、南は越州に相接する。)

ほかにも旧唐書にはカンボジアとジャワ島が接するという記述もあります。
現在では接が地続きの意味でないことは、文献学者の定見となっています。
きちんとした専門家監修により、近年著作された歴史本でみてみてください。

もう一度繰り返しますが、漢籍において岸とは、海、湖、川などに対する陸のヘリを意味します。
下記の例のように、其(南北東西)岸、という場合、其は水域を指します。

「池州大江,乃上流網運所経,其東岸皆暗石,多至二十余所」

従って倭人伝の其北岸の其は水域をあらわします。
冒頭に倭人は帯方東南大海中の島の上を生活域にすると断っていますので、これは同時に倭人のことです。
そして狗邪韓国は、それに対する北側の陸の上にあるので、倭人の地ではありません。
韓の南岸は海に面していて、「始度一海」でついに倭に渡るのだという明快な文章なのです。

長い間、南接倭と帯方東南大海中の関係に関して混乱がありましたが、近年完全に解決されたのです。
古い啓蒙書が残っているので厄介ですが、ブリタニカが弁辰の鉄を辰韓の鉄に改めたように、正しい理解を浸透させていく必要があります。

三世紀に戻って調べてみたら、狗邪韓国は倭人でいっぱいだったかもしれません。
しかし倭人伝の著者は、北の陸地の韓人と、南の大海中の倭人を明確に区別しており、この認識で書かれている限り、狗邪韓国を倭人の国の一つとして数えているなどということは、絶対にありえないのです。
41:米田 喜彦 :

2022/05/31 (Tue) 22:37:55


│30ヶ国 その3 - ヲワケノ臣 2022/05/31 (Tue) 18:32:29

│30ヶ国 その3
│福島さま、米田さま、討論室への訪問、ありがとうございます。
│米田さま、質問への回答はNo35後半部(3番目の■)と
│同じ内容となります。参照ください。 

│30ヶ国 - ヲワケノ臣     2022/05/29 (Sun) 10:04:17

│■『魏志倭人伝』は、あくまでも倭人伝であり、倭人に関することを
│記したと考えます。後の倭国伝とここが違うと思います。
│倭のテリトリー、領土という考えは、陳寿になかったと思います。
│狗邪韓国は倭人集団の居住地であり、又、交易のため盛んに倭人が
│出入りしていた、このようなことを背景にした文面と考えます。


ヲワケノ臣さま、レスありがとうございました。
40:ヲワケノ臣 :

2022/05/31 (Tue) 18:32:29

30ヶ国 その3
 福島さま、米田さま、討論室への訪問、ありがとうございます。
 米田さま、質問への回答はNo35後半部(3番目の■)と同じ内容となります。参照ください。

白石南花さまへ
■内藤が清の学者の研究を踏まえて、魏朝の「今」に思い至ったこと、納得できました。この清の学者の説に従う、畿内説の日本の歴史学者は、「今」が魏朝の今では、邪馬台国がいつまで続いたのか判らず、邪馬台国が崇神朝や神功・応神朝に続くのか確信できなかったと思います。
 そこで、卑弥呼を崇神朝や垂仁朝に結びつける道を選んだのではないかと思います。加えて、畿内説の考古学者は、纒向遺跡を畿内説の歴史学者が選んだ道に結びつけ、畿内説を盤石なものにしようとした、このように考えます。
 この意味で畿内説は、危うさがあるように感じられます。

■『魏志倭人伝』は、『魏略』の書き出し「倭は帯方の東南海中にあり、」と異なり、「倭人は帯方の東南海中にあり、」と書き出しています。陳寿は、倭人伝であり、倭人に関することを記しますよと宣言し、書き出しており強い意思が感じられます。
 この大意の基に、魏志が、狗邪韓国を「其の北岸」としたことは、韓や弁辰が「南倭と接す」としたのと表裏の関係にあるとされます。ここで、「接す」は、地域と地域が境を「接す」の語義とする。従うべきと考えます。

 因みに、ここ数日述べた私見は、主に平野邦雄の説に準拠して考えています。周知のように、戦後、金石文に関しては、新たな発見や解読の進展がありました。又、考古学の分野では、目覚ましい発掘成果がありました。
 内藤時代とは異なり、戦後の歴史学者は、このような、新たな知見を総合し古代史を深めて来たと考えます。ここでは、用字法の統計問題も踏まえた上で、総合的に結論付けた、戦後の歴史学者達の見解を尊びたいと思います。
39:福島 雅彦:

2022/05/29 (Sun) 19:04:18

>倭人伝は冒頭で、倭人は帯方東南の大海中に有って、島の上に国邑をなすとあります。
冒頭で倭人は海の上を住処とする人だと言っておいて、其の北岸と言っているのですから、北側の陸のへりにある狗邪韓国は、疑う余地なく倭ではありません。

※何と、料簡の狭いお考えである事か!

*同じ書物の『韓傳』(『倭人傳』の前項)で、韓は南を「倭」に接す、と述べています。

・同一書物の中で同じことを重複して記述していないだけです。

・「邪馬壹國」以北の詳らかになる倭の九ヶ国=「狗邪韓國」「對海(馬)國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」として「狗邪韓國」も含まれています。

・北から順次南下していますが、最初に記載があります。

・文脈を読めば判る事です。

*『日本書紀』の「「素盞嗚尊」が「高天原」を追放になり「新羅」(紀編纂時の国名)の曽尸茂梨の処へ行きます。」

・『韓傳』には此れと呼応する記載があります。

・「國出鐵韓濊倭皆從取之」=国は鉄を産出する、韓も濊も倭も從(ほしいまま)に之を取る、と。

・半島の「倭地」で好き勝手(ほしいまま=従)に製鉄しています。

*倭王 「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」

・曽尸茂梨❝쇠씨-머리❞(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
38:白石南花 :

2022/05/29 (Sun) 14:29:26

>■『魏志倭人伝』に関する文献考証、拝読しました。この中で、早くに内藤が魏朝の「今」に思い至っていたことを知りました。ありがとうございます。<

これを最初に主張したのは、清朝の学者銭大昕だったと思います。

>「其の」を倭とみるか、海上とみるか、二つの説の対立が長く続いて来ましたが、<

いえ、其のは海上の倭なのです。
対立も何もないのです。
倭人伝は冒頭で、倭人は帯方東南の大海中に有って、島の上に国邑をなすとあります。
冒頭で倭人は海の上を住処とする人だと言っておいて、其の北岸と言っているのですから、北側の陸のへりにある狗邪韓国は、疑う余地なく倭ではありません。
そもそも何々の北岸(南岸でも東岸でもあるいは対岸でも)が何々に含まれる例なんて見出せません。

この問題がこじれたのは、一重に「接」の誤解によるのは明らかです。
37:米田 喜彦 :

2022/05/29 (Sun) 10:51:25


│すべては井上先生の誤読が招いた混乱なのです。


ネットで見つけたもの「古代史レポート」より(原文と訳文)

│一、魏志韓伝(馬韓)

│韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 
│有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也

│「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、
│ 南は倭と接す。およそ四千里四方。
│ 三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、
│ 三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

白石南花さんへ

原文(漢文)を見て、そして、誰が訳しても、
韓は南において、海に面していません。      以上。


ここはヲワケノ臣さんのスレなので、ここへの書き込みは、終了します。
これ以降は、
スレ“「弁辰の鉄」に関連して”の方にお願いします。
(お邪魔しました。)
36:白石南花 :

2022/05/29 (Sun) 10:26:31

>_:反論については、上記『韓伝』の部分に「岸」という文字が、
_:使われていることを明示したうえで、お願いします。<

ここには「岸」は出てこないので、質問の意図がわからないのですが、この韓伝の記述は、倭と韓が地続きであるとの主張の根拠に使われているところから、なぜこんな記述が行われたのか説明します。

これに関連するのが「接」です。
井上先生はこれを地続きと解釈されましたが、「接」の本義は交わるです。
東夷伝では、韓ワイ倭のような大項目の民族の関係だけに使用されています。
例えば韓の細項目である、馬韓と辰韓の関係や、馬韓と州胡の関係に「接」は使用されていません。
問題は倭と韓の間の「接」ですが、これは海を介して、対島や壱岐を経由しての交流と考えられます。
三国志にはこのほかに、山東半島と遼東半島の間に「接」が使用されています。
これは山東半島と遼東半島の間に、廟島群島があり、島づたいに渡ることができるからです。
三世紀の航法では、黄海や日本海を渡る航路はなかったので、韓の東西には、交流を持つほかの民族はなく、これが東と西は海を持って限りとするという表現の意味です。

唐代以降日本は遣唐使船を東シナ海を超えて、中国南部に派遣しました。
このためこの時代以降の記録には、日本は越州と接するという記述が表れるようになります。

すべては井上先生の誤読が招いた混乱なのです。
この「接」については、すでにかなり前に地続きなどという解釈をする専門家はいませんが、いまだに在野では井上先生の著作が混乱のもとになり続けています。
弁辰の鉄というひどい誤読については、つい最近まで著名な考古学者まで誤って理解していあのですが、ようやく若手研究者から認識が改まり、ついにブリタニカのような出版物でも辰韓の鉄に改められたようです。
ひとまず安心です。

どんな素晴らしい研究者でも、間違えたり、学説が訂正されたりするのは当たり前のことなので、井上先生を中傷したくはないですが、漢籍の誤読のレベルがあまりに低く、個人的には氏の著作は、すべて洗いなおさなければ使い物にならないと思っています。
35:ヲワケノ臣 :

2022/05/29 (Sun) 10:04:17

白石南花さまへ
■『魏志倭人伝』に関する文献考証、拝読しました。この中で、早くに内藤が魏朝の「今」に思い至っていたことを知りました。ありがとうございます。

 ところで、「今」が魏朝の今とすれば、布留0年代240-260年では、纒向は30ヶ国の1ヶ国を構成する可能性がありますが、290-340年では、構成できないと思います。邪馬台国=纒向とする畿内説は成立しないことになります。
 「今」が魏朝の今と考えていた内藤が、今日生存していたら、果たして畿内説を主張したかどうか疑問です。邪馬台国論争もなかったでしょう。

 因みに、内藤は、末松が主張した、『古事記』崩年干支に基づく崇神崩年318年説を支持していました。このことは、内藤が当時、問題の「今」を魏朝の今とすることに確信が持てていなかったことを示すように思います。

■狗奴国に関する情報が(邪馬台国経由で)伝わっていたことから、使訳通ずる所の内に狗奴国を含めたとする点に関しては、一方で、魏は邪馬台国との外交中、邪馬台国と狗奴国の間に紛争、争乱があったことを認識していたことからみて、可能性が低いと考えます。

■『魏志倭人伝』は、あくまでも倭人伝であり、倭人に関することを記したと考えます。後の倭国伝とここが違うと思います。倭のテリトリー、領土という考えは、陳寿になかったと思います。
 狗邪韓国は倭人集団の居住地であり、又、交易のため盛んに倭人が出入りしていた、このようなことを背景にした文面と考えます。
 
 「其の」を倭とみるか、海上とみるか、二つの説の対立が長く続いて来ましたが、遠因は倭人伝とみるか、否かかと思います。勿論、「岸」という用法上の統計問題もあるかと思いますが、あくまでも陳寿が倭人伝とした大意が優先すると思います。不用意に大意と合わない形のまま、綴り合せた可能性もあります。
34:米田 喜彦 :

2022/05/28 (Sat) 12:06:22


│Re: 『大和王権の北部九州平定時期と古代史ファンの邪馬台国諸説』
│ - 白石南花   2022/05/28 (Sat) 11:18:48

│>先ず、狗邪韓国を推す論拠を観たいと思います。
│ 「其の北岸」とあることから、狗邪韓国は
│ 倭人集団の居住地であり、交易の基地であったとされます。<

│この北岸というのが紛らわしいのですが、北岸、南岸、西岸、東岸
│などの唐代以前の正史中の用例を調べると、岸というのは
│水に覆われた領域に面する、陸のへりという意味になっています。
│これは現在と同じですね。
│其北岸の其の指すのは、北岸に対置する水域のことです。詳しくは
│下記を見ていただきたいのですが、すなはち海中の倭なのです。

『後漢書韓伝』
:〔韓の〕地は全体で四千里四方である。東と西は海である。
:〔これらの国々は〕みな古えの辰国〔の領土〕であった。
『魏書韓伝』
:韓は帯方〔郡〕の南にあって、東西は海をもって境界とし、
:南は倭と〔境界を〕接している。

※:上記の記述には、「岸」という文字は、使われていません。

_:反論については、上記『韓伝』の部分に「岸」という文字が、
_:使われていることを明示したうえで、お願いします。
33:白石南花 :

2022/05/28 (Sat) 11:18:48

>先ず、狗邪韓国を推す論拠を観たいと思います。「其の北岸」とあることから、狗邪韓国は倭人集団の居住地であり、交易の基地であったとされます。<

この北岸というのが紛らわしいのですが、北岸、南岸、西岸、東岸などの唐代以前の正史中の用例を調べると、岸というのは水に覆われた領域に面する、陸のへりという意味になっています。
これは現在と同じですね。
其北岸の其の指すのは、北岸に対置する水域のことです。
詳しくは下記を見ていただきたいのですが、すなはち海中の倭なのです。

https://ameblo.jp/shiroi-shakunage/entry-12631680513.html

倭人伝は冒頭で、倭人は大海中にいるとして、倭人の領域は大陸人の中国人の目から見た海中であるとし、それに対する北の陸のへりに狗邪韓国があるとしているわけで、文脈からして狗邪韓国が倭人に属するとは書いていないのです。

>対馬国の「南北市糴す」、倭が「弁辰の鉄をとる」ためには倭人が居住する基地が必要だったと。私見も同様に「其の北岸」の記事は、このことを示していると考えます。<

国境などひかれていない時代のことですから、民族言語は入り混じっていたでしょうが、文献的には漢人は半島は倭人のテリトリーではないと明示しています。
考古学的に見てもこれは、四世紀ごろまでの倭系遺物南岸地域に集中する傾向が見え、倭人はいたことは確実ですが、多くは交易目的の滞在者の可能性があります。
これは弥生土器セットの状況からも裏付けされるようです。

>従って、使訳通ずる国に該当せず30ヶ国に含まれないことになります。<

倭人伝は漢書などそれ以前の文献を用いて修辞されています。
問題の文は「旧百餘国,漢時有朝見者、今使訳所通三十国。」ですから、漢書の文章に対する、対比的な表現でしょう。
狗奴国についても、情報は来ているのですから、選者はこれをして、使者が通ったことがあるのだと考えたのでしょう。
かれもまた古い文献史料をかき集めて、撰述しているだけなのです。
ジャーナリストのように、リアルタイムで現地に赴いて、取材しているわけではありません。

>ここにある「今」は、『魏志倭人伝』編纂時点の太康年間の今であり、この時期、国交断絶状態にあった狗奴国は、30ヶ国に含まれないと考えます。<

これは非常に危うい点で、地の文の今に関しては、歴史書の書き方としては珍しく、逸文などを見れば、魚豢によるものである可能性が非常に高いと思われます。
戦前からこの今は、魏の正始め年中以前であろうとする意見があります。
このあたりは、長文で申し訳ないですが下記論稿にまとめました。

https://shiroi.shakunage.net/ronbun/itaru.htm
https://shiroi.shakunage.net/ronbun/sousou.htm

近年では魏略は、魏の末年頃成立とするのが有力です。
32:ヲワケノ臣 :

2022/05/28 (Sat) 10:23:34

白石南花さまへ
 討議室への訪問、ありがとうございます。狗邪韓国は、「韓国」との指摘、私もそのように思います。その上で、「今使訳通ずる所三十国なり。」を扱う際、『魏志倭人伝』が三韓と異なり倭人に関して記したとする先学に習い考えて来ました。

 「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文は、深く論議されていない印象があります。30ヶ国は区切りのいい数にしただけだとする、乱暴な説もあるやと思います。
 30ヶ国が実体のある実数とすれば、狗邪韓国、又は、狗奴国がこの構成国に加わる必要があります。

 先ず、狗邪韓国を推す論拠を観たいと思います。「其の北岸」とあることから、狗邪韓国は倭人集団の居住地であり、交易の基地であったとされます。対馬国の「南北市糴す」、倭が「弁辰の鉄をとる」ためには倭人が居住する基地が必要だったと。私見も同様に「其の北岸」の記事は、このことを示していると考えます。

 次に、狗奴国を推せない論拠を観たいと思います。女王国以北に大率を置き諸国を検察していたとあり、当然、外交も検察され統制されたとされます。私見は、使訳通ずる国々とは、この統制された外交の対象となった国々と解釈します。狗奴国は邪馬台国の南にあることから、女王国以北の国でなく検察の対象に含まれません。従って、使訳通ずる国に該当せず30ヶ国に含まれないことになります。

 最後に、陳寿は史官であり、歴史家であったと考えます。倭国乱から西晋遣使までの倭国の歴史を『魏志倭人伝』に記し、更に、謂わば現代史にあたる太康年間の史実を貪欲に追求し、書き記したと考えます。この結果が、『魏志倭人伝』冒頭に記された倭の地のあらまし、「今使訳通ずる所三十国なり。」の構文と考えます。
 ここにある「今」は、『魏志倭人伝』編纂時点の太康年間の今であり、この時期、国交断絶状態にあった狗奴国は、30ヶ国に含まれないと考えます。
31:白石南花 :

2022/05/27 (Fri) 16:54:16

またよこやりを入れるみたいで申し訳ないですが、狗邪韓国は「韓国」ですよ。
韓伝の弁辰トクロ国は、文中で其トクロ国となっていますから、この弁辰が註であることは明らかでしょう。
したがって弁辰狗邪国は狗邪国です。
狗邪韓国は、夫租〔ワイ〕君や小水貊などと同様に、国名に民族名を付けたものでしょう。
ちなみに私は韓伝の弁辰は国名の前についているのではなく国名の後に付けた註だと考えています。
30:ヲワケノ臣 :

2022/05/26 (Thu) 12:32:19

石見介さん

 石見介さんの上代特殊仮名遣いや古代のユーラシ史を踏まえた地名のなりたち、大変参考になります。
 私の歴史の関心は、邪馬台国時代から江戸時代に至る地方豪族の移り代わりにあります。このため、地域も日本中心、分野的にも限られたものと自覚しています。
 因みに、関心事は、邪馬台国時代のクニの王が古墳時代の県主、国造になり、律令期の評・郡司、更には鎌倉時代の守護、地頭、最終的に江戸時代の大名にどう代わって来たのかというものです。このことに興味が湧き色々調べるようになりました。古代では県主、国造の地域別分布やその地域の墳墓、古墳の消長を調べました。
 現在、伊都国と伊都県主に関して、県、県主制の研究史から伊都県主を捉え直そうと思い、あらためて調べています。だいぶ脇道にそれました。

 九州の8ヶ国と遠絶な「旁国21ヵ国」を加えた「今使訳通ずる所29ヶ国」に関しては、実体として同じお考えと理解しました。又、「今使訳通ずる所三十国なり。」が実体のある国々で実数とする点に関しても、同じお考えと思います。とすると30ヶ国を構成する残りの1ヶ国が、どの国か問題となります。
 残る1ヶ国の比定は、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」を何時に置くかで変わると思います。陳寿が『魏志倭人伝』を編纂した太康年間の今か、魏が存続していた期間中の今かによって見解が分かれると思います。
 私見は、太康年間の今とみて、狗奴国でないとし、あとは、消去法で残る1ヶ国は狗邪韓国とするものです。
 3世紀中頃、卑弥呼の死の前後に邪馬台国と狗奴国の間で争乱があり、魏が邪馬台国を支援する様を描いていることから、この時期以降、狗奴国は魏や西晋と国交断絶状態にあったと考えるからです。

29:石見介:

2022/05/25 (Wed) 00:46:23

 ヲワケノ臣さん

 やはり、見解の相違は、埋まりませんので、これで、旁国の「奴国」の国名に関する議論は、終了したいと思います。
 以下、最終的な私の見解の明確化と、私の理解する、ヲワケノ臣さんの、同一国名2国存在否定説の論理を、書きますが、誤解しているようであれば、ご指摘ください。

 私の、「奴国」という同一国名の二国存在説の論理

①「奴国」の「奴」が、おそらく、古代日本語の「な(中)」を意味する、ありふれた名詞の、地名からの「国名化」であり、同様の経過で、その地域内で、国名化した例は、列島内(列島外の半島の倭人/倭種地域でも、おそらく存在し得たと推測)各地方で、存在し得た。
 別に、2ヶ国しか、存在し得ない様な、特別な固有名詞ではない。

 「な(地)」が、「地」「所」を意味する、ツングース語族のna,naaと同源の語であれば、更にありふれた語彙であるが、逆に、地名、国名としては、区別の必要上、接頭語が、付されて、「〇奴国」の様な地名⇒国名化が進行する。この語義の「な(地)}は、上代日本語段階では、既に、「なゐ(地震)}という複合語の中に残存するのみで、その母音交替形で、語義の変化した「野」を意味する語彙は、音韻も「ぬ」「の」となった語彙しか残っていない。
 「中」の語義の「な」は、「場所」を意味する「か」と複合して、「なか」(中)という語形に変化している例が大半で、行程8ヶ国の「奴国」の「なのつ」=「中/ 儺の津」の様に、地名がそのまま、単音節語として、一部ではあるが保存されたのは、むしろ、稀有な例であり、この地域でも、河川や郡のなとしては、「なか」となっており、「なか」地名は列島各地に、存在する。
 邪馬台国近畿説の場合の、旁国の「奴国」の候補地の一つ、紀ノ川流域の那賀(川)も、その一つである。

②地域交流範囲の拡大と共に、国名や、ある程度広域の地名の「同一」呼称は、区別する必要が生じ、名称に、新旧,方向その他、何らかの識別の為の言葉が、冠されて、新しい(複合)地名が、発生する可能性が、極めて高い。
 『魏志倭人伝』の国名では、烏奴国、蘇奴国、狗奴国などは、そのような経緯で成立した可能性がある。
 しかし、旁国の「奴国」は、「遠絶」と記載され、北部九州からはるかに離れた地域に存在する為、冠語の接頭を受けず、国名として、記載された。

 くどい説明を付けましたが、上代日本語から推測した、3世紀頃の古代日本語の状況をも、視野に入れた推論です。
 ここで、ある部族(部族国家)の「移動」に伴う、「地名」「国名」の移動を、主張しているのではない事に、ご注意ください。
 先の私の投稿では、ヒトの移動に伴う国名を含む、地名の移動の話も混ぜた為、ヲワケノ臣さんに。誤解を与える結果となり、申し訳ありませんでした。
 この部分は、邪馬台国や邪馬国の、九州からの、東遷、という別な可能性のある仮説との関連から、つい書き込んでしまった部分です。

 ヲワケノ臣さんの、同一国名複数存在説への、ご反論の要旨は、私の理解する限りでは、主に、次の2点です。

①人の移住によって、地名は、当然移転し得るが、識別の為の言葉が付され、同一呼称になることはない。

 例として、ニューヨークを挙げられましたが、これは、地理的に世界が拡大した、大航海時代以降の事例なので、もう少し古い時代が良いように思われますが、一般則として、ほぼ、認め得るとは思います。
 ただ、ゲルマン民族の大移動の時代などでは、故国と区別を要する必要がある時にのみ、識別用の冠言葉を、付した場合が、多いように思われますが。
 例えば、ライン川流域の小国家群、「ラインヴァルネン」、「ラインヘルーラー」などは、ドイツ語読みですが、北欧のヴァリン族(ノール諸部族の一つ)やアゾフ海のヘルール族の移住者で、移住当時は、当然故地に、同族が残っていました。
 ブリテン島に移住し、7つの王国を築いた、アングル、サクソン、ユート3種族のサクソン族は、西、東、南を冠した、ウエセックス、エセックス、サセックス3王国をつくりましたが、勿論、ドイツ地域には、ザクセン族が、残っています。
 イタリアに、東ゴート族の王国が成立した時に、その故郷の、スエーデンには、ゴトランド島や、ヨータラント(ゴートランド)の地名が残りました。
 これなどは、移住先も、故郷にも、同じ地名や国名が、残った例になるかと思います。
 発音は、変化しますが。
 後のスウエーデン国王は、スヴェーア人とゴート人の王と、称していました。
 デンマーク王が、アンデルセンの時代に、「デーン(ダーン)人とヴァンダル人の王」を称したのよりは、実態がありそうですが。

②行程8ヶ国の「奴国」は、後漢光武帝から、金印を受けた、北部九州、或いは、倭国の中心国家だった歴史があり、それと、同一国名を呼称する筈がない(許されない筈)。

 この②は、強力な論理だと、私も思います。
 但し、王号を受けた奴国王の、血統的後継者を含んだ、奴国からの移住者が、遠隔の移住地で、「奴国
」を称した可能性はある、と考えます。

 東ゴート族は、ゴート族という複合的大種族の中心的存在で、その王家「アマーラー王家」は、東ゴート族のみならず、西ゴート、ゲピードという、ゴート系3部族の支配者だったのですが、フン族の西進で、その王国が崩壊した後、一時期、3兄弟が、それぞれ、個別に移動した時期があります。
 別々な地域に、東ゴートが、3つ、分立して存在しました。
 最終的には、合流して、テオドリク大王の時代となり、イタリアに王国を建設しますが、分立時も、彼らは、東ゴート族と呼称せざるを得ないし、王制でもある。
 イタリアに建国するまで、名目上の従属(東ローマ皇帝)はあったかもしれないが、自立した状態だった。
 こういう状態の部族を、どう表現すべきか?

 『魏志韓伝』の記載内容の判断に、比較対象になる、とずっと昔から考えているのですが、同時代の日本列島の倭人/倭種世界では、どの程度、参考になるのか?

 いずれにしろ、同一国名の国家が、二つ(以上)存在したのかについては、互いの立論の根拠や思考の方向が、理解できれば、お開きです。
 もっと重要な、狗邪韓国が、女王国連合の「構成国」、特に、建国「9」ヶ国だという、お説への、異議申し立ての追加質問などが、あります。

 
28:ヲワケノ臣 :

2022/05/22 (Sun) 08:44:01

まとめ その2
 前回、邪馬台国連合国の都、邪馬台国は北部九州にあり、九州島内に留まらない版図を持つと言えるとしました。
 新類型は、この版図を最大化したものであり、東限を畿内とします。北部九州説の並立型、直列型は、版図を小型化して東限を吉備、出雲など中国地方とするものです。

 新類型は、先に成立要件とその論拠で述べたように『魏志倭人伝』や『日本書紀』、『古事記』の文献、及び、金石文「中平刀」の史料に基づき論証できます。
 これに対して、北部九州説の並立型、直列型は、史料として『魏志倭人伝』を唯一の論拠とします。勿論、新類型と同様に考古学の裏付けは、ありますが文献等の史料は、この限りです。

 加えて、神武伝承の成立要件の節で観たように、新類型は、記紀の神武伝承を解釈できます。しかし、上記の2つの型は、何故、神武伝承が記紀に記されたのか説明出来ないと考えます。
 北部九州を出発し東征で移動した地点が、版図の東限、中国地方になってしまい、畿内の支配は不可能だからです。ただ、神武伝承を邪馬台国論から分離すれば、当然ですが欠点になりません。

 尚、新類型は、「中平刀」が北部九州の邪馬台国から大和へ伝来した過程を上手く説明できます。
 又、新類型は、丸邇氏の貴種性も上手く説明できます。丸邇氏は、邪馬台国の出自だからこそ、大和王権の大王家に多くの后妃を入れることができ、皇親氏族とされました。
 
◇あとがき
 白鳥は日数記事を所在地の比定に使用せず、解釈すべき対象と考え邪馬台国の所在地を論じました。邪馬台国は、北部九州の地としました。ただ、白鳥は、日数記事の解釈に成功していません。
 一方、内藤は日数記事を道程に用い、邪馬台国の所在地を論じました。邪馬台国は、大和の地としました。

 この白鳥と内藤の論を踏まえて、新類型により日数記事の解釈を考えてみたいと思います。
 北部九州の邪馬台国が、統治機関「大倭」設置を通じて、初期大和王権を支配していたことから、日数記事は大和纒向の「大倭」に至る西晋遣使の伝聞の道程であり、陳寿が故意に転用したと考えられます。
 陳寿は、敢えて邪馬台国の所在地を敵国、呉の背後の遥か南方に移動させたとする説に從いたいと思います。

 ところで、日数記事解釈の要点は、①何のために日数記事が記され、②情報源はどこか、加えて、③この情報源に係わりを持つ史実を明らかにすることであると考えます。
 先に触れたように、①は呉の背後に移動させるためであり、②は大和纒向の「大倭」への西晋遣使の伝聞の道程です。最後に③は「7.新類型とは」の節で述べた『邪馬台国の興亡と大和王権』が、これにあたります。

 新類型は、北部九州説、及び、神武伝承の解釈や日数記事の解釈が可能な唯一の説です。北部九州の邪馬台国が、初期大和王権を支配していたとする、新類型の「出現」は、倭国乱から続く必然的な歴史の流れです。新類型は、大きな難点がなく、又、矛盾もなく成立することがわかります。

 最後に、今回採り上げた切り口の設定に関して、触れたいと思います。先ず、切り口「4世紀大和王権の半島進出」、切り口「3世紀社会の広域性」の設定に関しては、北部九州説の自説と異なる畿内説の立場ですが、山尾幸久先生の著書を通じて導かれたものです。この二つの切り口の設定は、邪馬台国論に不可欠であり、大事な視点と思っています。
 次に、切り口「中心地、都の考え方」の設定に関しては、この会のHpを通じた意見交換の中で多くのヒントを得ることができました。ありがとうございます。

 新類型は、邪馬台国論の一つの試案であり、今後も研究を深めて行きたいと思っています。
         2022.5.22 了
27:ヲワケノ臣 :

2022/05/20 (Fri) 20:14:48

10.まとめ

 古代史ファンの邪馬台国諸説、8類型間の合致点や対立点を明確化するために、5つの切り口を設け順次、観て来ました。その結果は以下の通りとなります。

 切り口、邪馬台国の国制と首都の構造に対しては、畿内説、西征型.吉備説が対立します。
 切り口、纒向遺跡出土土器の問題に対しては、東遷・東征型が対立します。
 切り口、大和王権の半島進出と制海権に対しては、畿内説、西征型が対立します。
 切り口、建国9ヶ国と「旁国」21ヵ国、及び、3世紀社会の広域性に対しては、邪馬台国の版図を九州島の中に押し込めて考える説は、斥けられ、北部九州説.分立型が対立します。
 切り口、中心地、都の考え方に
対しては、畿内説、東遷・東征型、西征型.吉備説が対立します。

 以上をまとめると、布留0年代に拘わらず新類型は、全ての切り口に対して対立せず成立します。
 布留0年代が240-260年の場合に北部九州説.並立型が、又、布留0年代が290-340年の場合に北部九州説.直列型が、全ての切り口に対して対立せず成立します。

 いずれにしろ、邪馬台国連合国の都、邪馬台国は北部九州にあり、九州島内に留まらない版図を持つと言えそうです。
 次に、新類型の成立要件、即ち、北部九州の邪馬台国による初期大和王権支配の成立要件と判ったことを整理します。

◇新類型成立要件の整理
 成立要件とその論拠、及び、ここから判ったことに分別、整理し簡潔に明示しました。これは、崇神期、建波邇安王の反逆・征討が史実であることを実証した過程の整理でもあります。

■成立の要件とその論拠
①邪馬台国は北部九州である。
(論拠)5つの切り口から導かれた結果。
②「大倭」は鉄、鏡の管理交易を担った邪馬台国の派遣官である。
(論拠)『魏志倭人伝』
③邪馬台国は纒向に「大倭」を設置した。設置時期は古墳時代開始期(布留0年代)である。
(論拠)以下の考古学所見である。纒向遺跡、「博多湾貿易」、「津」・「市」の存在、北部九州からの鉄器生産技術の供与、移転

④「中平刀」は卑弥呼が外交で入手した。
(論拠)「中平刀」の研究史を総括した吉田晶
『卑弥呼の時代』
⑤「中平刀」は丸邇氏が伝世した。
(論拠)東大寺山古墳、丸邇氏の研究史を総括した 
 宝賀寿男『古代氏族の研究 和珥氏』
⑥丸邇氏遠祖の日子国夫玖命は、実在した。
(論拠)持統期上程の丸邇氏墓記、東大寺山古墳群の消長

⑦崇神期は布留0年代に近接する。
(論拠)寺澤薫『日本の歴史02 王権誕生』
⑧崇神期に建波邇安王の反逆があり、丸邇氏遠祖の日子国夫玖命を派兵し征討する。
(論拠)『日本書紀』、『古事記』崇神の巻

■判ったこと
①卑弥呼か台与、日子国夫玖命、崇神が、同じ時期(布留0年代)に存在した。
②卑弥呼か台与は、日子国夫玖命を「大倭」に任命し、纒向に派遣した。その際に「中平刀」を下賜した。
 根拠として、「中平刀」の大和伝来は、「大倭」設置時とする考えが自然である。
③建波邇安王の反逆・征討事件は「大倭」設置に伴い発生した。
26:ヲワケノ臣 :

2022/05/20 (Fri) 12:54:08

石見介さんへ

奴国の名
 議論のぶり返しになってしまうきらいもありますが、少しだけ続けさせてください。北部九州の奴国と旁国の奴国は、遠絶で距離が離れているから、識別の表示をする必要がないという部分です。

 歴史分野での統計処理の難しさに関しては、認識しているつもりです。又、古代の人の移動に関しても現代同様、大きな外的環境変化で比較的短期間に集中的に大量な移動があっと考えています。戦禍を避けるため、又、自然災害や気候変動を避けるために移動したと考えます。

 当時、世界的な冷涼期にあったとされることから、ゲルマン民族移動同様に倭の地内や倭の周辺地域を含めた移動は可能性があると考えます。
 又、ニューヨークに移動した英国のヨーク地方の人は、新しいヨークと呼称した例があり、移動先で故郷の地名を名のったことは承知しています。

 ところで、北部九州の奴国は、57年に漢に朝貢した国として、300年位にあった旁国21ヶ国中の奴国とは約250年の時間差があります。この間に移動し、北部九州の奴国と同じ名を名のったとすれば、300年位の時点で倭の地に奴国が二つあったことになります。最大250年の時間差は、大きいと考えます。
 ここで、最大250年の時間差とニューヨークの例を鑑みると、「新しい」奴国や「東方」奴国と呼称した可能性が大きいと思います。実際、英国のヨークと米国のニューヨークは、相当「遠絶」です。移動に伴う同名としたとしても「□奴国」の欠け字説の公算が強くなると考えます。
25:i石見介:

2022/05/20 (Fri) 00:23:28

 ヲワケノ臣さん

 前回より、1週間以上、間を空けて、時期を失したコメントになりますが、ご海容お願いします。
 尚、今回のコメントで、「奴国」の「同一国名二国説」についての、お互いの立論の根拠は、理解できた、ということで、この問題については、ご異論がなければ、打ち切りにしたいと存じます。

 「奴国」の「奴」の語義が、基本的に、単音節か、精々、2音節が、基本という古代日本語の状況下では、同一の地名⇒国名が、存在しない可能性は、むしろ少ない、というのが、抑々の、私の発想です。
 上代日本語では、事物の名称以外、基礎的語彙や、動詞語幹は、基本的に、単音節か、2音節で、3音節以上の単語は、複合語か、借用語で、解釈できます。

 「安房国」と「阿波国」は、母数が、100近いから、という御批判は、あまり意味は無いように思われます。
 統計学でよくある、標本(試料)を、対照(コントロール)群設定により、有意差を導けるか否かの、問題ですが、自然科学と異なり、人文/社会科学の分野では、どうも、客観的、科学的な、皆が認める基準が、不明確の様に思われます。

 律令制下の「国名」という母集団で、同一国名例が、一組、という状況の評価で、3世紀の「30國」より、母数が大きい、100近いので、「同一国名」があり得るが、「30」という母集団では、可能性が少ない、というのは、正直、主観的だと、私には、思われます。

 母集団の規模を、正確を期する為に、大きくして、律令制下の、「国郡里」名全部で、同一名称のセットを探せば、結果は見えています。

 仮に、律令制下の「国名」のみに絞るにしても、例えば、「備前、備中、備後、美作」4カ国を、「吉備」、越前、越中、越後、加賀、能登は「越」という、国名にまとめたり、或いは、太平洋岸沿いの、南海道、東海道の両道諸国だけに、限定する。その方が、3世紀の女王国連合の領域と、面積が近くなる、という論法も、成立し得ます。

 同一国名二国説の否定には、統計学はなじみません。
 後は、現実的に、近接した地域で、同一の国名など、存在困難で、必ず、区別の為に、「方角」「新旧」等の識別語が、付される筈だ、という論理は、当然、有りrます。
 私が、『魏志韓伝』の「弁辰弥離弥凍国」と「難弥離弥凍国」という、「辰韓、弁辰、合計24ヶ国」の名に注目するのは、まさに、民族移動期に、同一部族国家が、分離し、まだ、近接して存在していた時期の状況を、物語っている、と判断しているからです。
 「難」は、「弁辰」の同一国名の国との混同を避けるために付された、方向語や、元、新旧、等、何らかの、区別を示す語彙でしょう。

 翻って、「奴国」の場合は、「旁国」の奴国は、「遠絶」と有りますから、同一国名を区別する接頭語は不要です。
 むしろ、「狗奴国」「烏奴国」などの国名も、元は、「奴国」、「中の国」、「野の国」などであり、それに、他の奴国との区別をつけるための、接頭語が、付加された可能性もあります。

 私が、同一国名二国論を採る根拠を、同意されなくとも、理解されれば、この議論は、終りです。
 もっと本質的な、旁国という言葉の解釈などの議論に、移りたいと思います。

 後、私が、同一国名二国説を、採る根拠の一つには、范曄『後漢書』倭伝の、倭奴国極南界説がありましたが、この点については、白石南花さんご紹介の、祭祀との関係で説明も可能であり、現時点では、むしろ、部族(部族国家)の移動期の、一般的な、地名、国名の並存を、想定したいと考えています。


 ゲルマン民族の大移動期、故国と移住先に、同一部族国家名の国が、存在していました。
 日本や、半島でも、そのような状況は、あっただろう、というのが、私の考えです。
24:ヲワケノ臣 :

2022/05/19 (Thu) 09:20:05

9.騎馬民族説に思うこと

 古代史ファンの中に騎馬民族によって建国された大和王権が、邪馬台国を滅ぼしたとする説が時にあります。このことを考えてみたいと思います。騎馬民族説は、4世紀初頭の五胡の華北侵入に伴い、扶余が半島内に侵入し、百済、新羅を建国したとします。これに連動して、倭国も同様に、扶余の侵入、征服によって大和王権が創始されたとみます。建国の時期は、4世紀初頭の崇神期と後半の応神期とに割れました。

 論拠は、考古学の所見が主であり、古墳時代前期から後期(二分法)の急激な変化が、古墳の構造(封土の形態、内部主体)、副葬品に認められるとするものてす。但し、古墳の構造に関しては、前方後円墳の倭と百済、新羅のそれとの共通性が否定され、装飾品や馬具等、副葬品の変化に留まるとされました。
 
 又、文献からも支持できるとされましたが、高句麗、百済の王の出自は、扶余系で問題ないものの、新羅に関しては、『三国志』と『魏略』、『後漢書』で解釈が割れました。又、大和王権の大王の出自に関しては、文献から扶余であるとの明証はないとされました。

 尚、言語学の所見からは、否定的な見解が出されました。即ち、邪馬台国時代の音韻組織は、北方系の言語であり、上代特殊仮名遣いに類似していたとされました。『魏志倭人伝』が記す人名や官名の字音仮名に、上代特殊仮名遣いに類似した北方系の言語が使用されていたのです。扶余の侵入以前の邪馬台国時代に、北方系の言語が使われていたことになります。

 今日では、騎馬民族論によらず、古墳時代前期から後期(二分法)の副葬品の変化が、論じられることが多いようです。4世紀後半から5世紀に大和王権が、半島に進出したことで、官人や技術者等、多くの渡来人が移住し、土着した。この結果、副葬品の変化が生じたとされる見解です。
23:ヲワケノ臣 :

2022/05/16 (Mon) 09:32:22

布留0年代の数字に文字化けがあるため、全文を差し替えます。

8.神武伝承の成立要件は何か
 神武伝承に関する説は、津田の机上の造作説、直木等の後代の史実反映説、和辻の史実の記憶を核とした説に分かれます。古代史ファンの邪馬台国論では、この伝承を史実として北部九州の邪馬台国が、畿内の大和へ東遷、東征したとする論が多く見られます。ここで、神武伝承が史実として成立するための要件を探ってみたいと思います。

 神武伝承は、邪馬台国の存続期間外を対象とします。『魏志倭人伝』は、邪馬台国の存続中に遷都という重大事を記していないからです。当然のことながら、邪馬台国の建国以前も対象外です。以上、神武伝承は、邪馬台国が北部九州にあるとした上で、神武東征を邪馬台国の消滅後に想定することになります。

 その時期は、台与の西晋遣使266年後の3世紀内か、又は、西晋滅亡の316年後の4世紀内のいずれかになります。しかし、4世紀内の東征は、成立し難いと考えます。歴代大王の平均在位年数10年強からみて、神武と欠史ハ代の合計で約100年の治世年数が必要となります。しかし、360年代に在位する応神を考えれば、神武と崇神が近接することになるからです。
 又、布留0年代が240ー260年代の場合、東征は成立し難いと考えます。神武の在位が、崇神の在位から約100年前となり、邪馬台国の成立以前となってしまうからです。

 以上、神武伝承が史実として成立するための要件は、第一に神武の実在性が論証されること、第二に邪馬台国が北部九州にあり、邪馬台国の終わりが、266年、台与の西晋遣使後、3世紀内であることです。第三に布留0年代が290ー340年代であることです。多くは、第一の要件、神武の実在性が論証できず、行き詰まってしまいます。

 ところで、和辻は、「国家を統一する力が九州から来た」とし、卑弥呼の邪馬台国が所在する西方からの風に注視しました。先ずは、和辻の立場に立ち王権創業当時の史実に眼を向け、解釈すべきと考えます。『古事記』、『日本書紀』は、祟神朝に王権創業の事績を記します。祟神は、おおやまと地域の王墓、王宮の伝承と結びつけられ、初期大和王権の初代大王として比定されてきました。

 ここで、自説の新類型は、和辻の史実の記憶を核とした説に立ちます。崇神の王権創業の記憶が、神武の王権創業に転化されていると考えます。神武の王権創業の記事は、畿内平定と東征から構成されます。崇神期の畿内平定は、建波邇安王の反逆征討です。又、東征は、西方の北部九州、邪馬台国からの働きかけであり、崇神期、大和纒向への「大倭」設置です。神武伝承は、卑弥呼の邪馬台国から祟神の大和王権への「大倭」設置等の働きかけを祖型としていると考えます。
22:ヲワケノ臣 :

2022/05/16 (Mon) 09:17:17

8.神武伝承の成立要件は何か

 神武伝承に関する説は、津田の机上の造作説、直木等の後代の史実反映説、和辻の史実の記憶を核とした説に分かれます。古代史ファンの邪馬台国論では、この伝承を史実として北部九州の邪馬台国が、畿内の大和へ東遷、東征したとする論が多く見られます。ここで、神武伝承が史実として成立するための要件を探ってみたいと思います。

 神武伝承は、邪馬台国の存続期間外を対象とします。『魏志倭人伝』は、邪馬台国の存続中に遷都という重大事を記していないからです。当然のことながら、邪馬台国の建国以前も対象外です。以上、神武伝承は、邪馬台国が北部九州にあるとした上で、神武東征を邪馬台国の消滅後に想定することになります。

 その時期は、台与の西晋遣使266年後の3世紀内か、又は、西晋滅亡の316年後の4世紀内のいずれかになります。しかし、4世紀内の東征は、成立し難いと考えます。歴代大王の平均在位年数10年強からみて、神武と欠史ハ代の合計で約100年の治世年数が必要となります。しかし、360年代に在位する応神を考えれば、神武と崇神が近接することになるからです。
 又、布留0年代が240&#12316;260年代の場合、東征は成立し難いと考えます。神武の在位が、崇神の在位から約100年前となり、邪馬台国の成立以前となってしまうからです。

 以上、神武伝承が史実として成立するための要件は、第一に神武の実在性が論証されること、第二に邪馬台国が北部九州にあり、邪馬台国の終わりが、266年、台与の西晋遣使後、3世紀内であることです。第三に布留0年代が290&#12316;340年代であることです。多くは、第一の要件、神武の実在性が論証できず、行き詰まってしまいます。

 ところで、和辻は、「国家を統一する力が九州から来た」とし、卑弥呼の邪馬台国が所在する西方からの風に注視しました。先ずは、和辻の立場に立ち王権創業当時の史実に眼を向け、解釈すべきと考えます。『古事記』、『日本書紀』は、祟神朝に王権創業の事績を記します。祟神は、おおやまと地域の王墓、王宮の伝承と結びつけられ、初期大和王権の初代大王として比定されてきました。

 ここで、自説の新類型は、和辻の史実の記憶を核とした説に立ちます。崇神の王権創業の記憶が、神武の王権創業に転化されていると考えます。神武の王権創業の記事は、畿内平定と東征から構成されます。崇神期の畿内平定は、建波邇安王の反逆征討です。又、東征は、西方の北部九州、邪馬台国からの働きかけであり、崇神期、大和纒向への「大倭」設置です。神武伝承は、卑弥呼の邪馬台国から祟神の大和王権への「大倭」設置等の働きかけを祖型としていると考えます。
21:ヲワケノ臣 :

2022/05/15 (Sun) 17:54:25

7.新類型とは
『邪馬台国の興亡と大和王権』

はじめに
 邪馬台国と初期大和王権は、支配・被支配関係にあった。先進地、北部九州の邪馬台国が、初期大和王権を支配していたと考える。統治機関は、「大倭」である。
 『魏志倭人伝』は、「国国に市有り。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。」と記す。「大倭」は、邪馬台国が派遣した大官で、重要物資の鉄、銅鏡等を対象に管理交易を行ったとされる。

① 邪馬台国の初期大和王権支配
 「大倭」は、国々の一つ大和纒向の「某国」にも設置された。纒向遺跡は、運河の遺構や広範囲な地域から搬入された土器の出土、大市の古地名の存在等、「市」の機能の痕跡がある。又、古墳時代開始期に北部九州から鉄生産技術の移転、供与と鉄素材供給体制の整備が為されたとされる。加えて、2世紀後半から3世紀前半に編年される画文帯神獣鏡がホケノ山、黒塚等、古墳時代初現期や前期の大和の古墳から出土している。

 上記の鉄、鏡は、伊都国の今宿、今山、奴国の博多を拠点とする「博多湾貿易」を通じて、もたらされたと考える。この時期、半島、列島西半部の広域に渡る活発な交易が行われたとされる。因みに、大和纒向以外の畿内地域において、「博多湾貿易」に連なる交易拠点は、中河内の中田遺跡、摂津の安満宮山遺跡、南山城の椿井大塚山古墳周辺など想定できる。これらは、いずれも「津」・「市」の機能が確認できる遺跡である。おそらく邪馬台国の「その余の旁国」に該当し、「大倭」が設置された国々と考える。

 さて、大和纒向への「大倭」の設置は、纒向遺跡で鉄生産が開始された古墳時代開始期と考える。古墳時代開始期に近接し在位した、初期大和王権の大王は、崇神とされる。このことから、邪馬台国の連合に加盟し、纒向への「大倭」設置を推進した大王は、崇神と考える。
 ところで、記紀は、崇神期に建波邇安王反逆の征討を特記している。この事件は、北大和、南山城、南河内を舞台にした争乱で、崇神は、丸邇氏の遠祖、日子国夫玖命に命じ反逆者を討ち取らせた。この争乱は、邪馬台国と結び大和纒向の開発を進めようとした、開国、開明勢力と交易の既得権益を死守しょうとした、木津川ー淀川系勢力の路線対立が主因と考える。

 丸邇氏に関する研究によれば、この氏族は、東大寺山古墳群を奥津城とし、北大和に勢力を張ったとされる。又、大和王権の大王家に多くの后妃を入れた皇親氏族とされ、貴種性が窺われる氏族である。
 東大寺山古墳から、後漢の年号を刻む「中平刀」が出土している。この刀は、卑弥呼が外交によって手に入れたとされる。これらのことからみて、「中平刀」は、卑弥呼、又は、台与が丸邇氏に下賜したもので、宝器として長く氏族内に伝世され、最終的に東大寺山古墳に副葬された蓋然性が高い。となれば、下賜された丸邇氏の族長は、崇神期に活躍した日子国夫玖命と考えることが自然であろう。卑弥呼、又は、台与は、日子国夫玖命に「節刀」として「中平刀」を与え、大和纒向に大官「大倭」として派遣したと考えられる。丸邇氏の貴種性は、その出自が邪馬台国であることによると考える。

②支配・被支配関係の必然性
 次に、邪馬台国と初期大和王権が、支配・被支配関係を構築した双方の動機に関して考えたい。
 
 先ず、北部九州の邪馬台国は、可耕地が少なく、開発も限界に達していた。加えて、この時代、世界的に冷涼気候が、続いていたことから邪馬台国は、慢性的な食糧不足にあった。倭国乱の発生もこのような厳しい環境に起因していたと考える。
 この国難の中、邪馬台国が進めた改革は、第一に、倭国乱再発の抑止力としての魏との冊封関係の構築であり、第二に、「博多湾貿易」機構の創始であった。とりわけ、畿内地域の国々への「大倭」設置は、重要であったと考える。この管理交易によって鉄、鏡等の重要物資が、稲束、籾等の穀物貨幣に交換された。このことによって、慢性的な食糧不足が、解消されたと考える。

 一方、崇神の初期大和王権は、農業、土木等の生産技術に不可欠な鉄、及び、首長継承祭祀等の精神文化に係わる神獣鏡を安定的に得るために、邪馬台国の同盟に加わったと考える。加えて、北部九州、邪馬台国の先進技術を用いた、纒向の大規模開発への期待もあったと考える。以上、支配・被支配関係の構築は、邪馬台国、大和王権双方にとって必須であり、必然的なものであったと思う。

 尚、③邪馬台国の終わりと大和王権成立の過程に関しては、4.節で触れた大和王権の半島進出と制海権があたる。
 これらの半島政策によって、弁辰との交易が安定し、大和王権のサプライチェーンは、束ねられた。以降、大和王権は、増大する東国等の鉄の需要に応えることを通じて、列島全体に力を及ぼすことになったと考える。
 以上が、邪馬台国の興亡と大和王権成立のあらましである。
20:ヲワケノ臣 :

2022/05/15 (Sun) 09:50:27

◇民族やethnic groupなどからの考察

 社会の生活様式から中心地、都を考えてきました。次に集団の帰属意識を扱う方法によって観たいと思います。「集団」の確定に重要な集団帰属感情(主観的な属性)は、共通の言語、共通の生活様式などです。加えて、統治組織の整備が争点になると考えられます。即ち、民族やethnic groupなど、互いに我々という集団帰属感情を持つ「集団」意識の形成は、統治組織があって始めて成立するのか否かの問題です。私見は、井上光貞などの歴史学界の先学に従い、統治組織の整備が先行し、その後「集団」意識が形成されるとみます。

 例えば、民族やethnic groupなどと異なるものの、後の鎌倉武士の集団帰属意識は、1186年「地頭」の設置、1191年「御家人」の編成、加えて1192年「征夷大将軍」補任、幕府設置など一連の統治組織の整備によって、始めて形成されたと考えます。因みに、倭の民族やethnic groupなど帰属意識の形成は、かなり遅く6世紀末と考えます。統治組織としては、国造制、部民制が、ほぼ全国に設置されました。この時期、中心地、都は大和の地です。

 『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国時代の統治組織は「大率」と「大倭」です。「大率」は伊都国のみに、「大倭」は各国に設置されたと記します。考古学が明らかにした「博多湾貿易」の展開地域からみて、「大倭」の設置地域は列島西半部と考えます。邪馬台国時代に、集団帰属感情を持つethnic groupのような「集団」意識の形成があったとしても、その範囲は列島西半部に留まると考えます。

 共通な言語に関しては、言語学が邪馬台国時代の音韻組織を明らかにしました。これによれば、『魏志倭人伝』が記す人名や官名の字音仮名に、上代特殊仮名遣いに類似した北方系の言語が使用されていたとする。この言語の倭の各地域への広がりが、実証できるのか否かポイントです。

 字音仮名の上代特殊仮名遣いが、『魏志倭人伝』の人名や官名から3世紀に、又、さきたま「稲荷山鉄剣銘」の人名などから5世紀後半に辿れるとされます。問題は、言語の普及地域です。「稲荷山鉄剣銘」の出土地が北武蔵である点、及び、東国方言のアクセントが銘文に認められる点から、5世紀後半、東国への広がりは確認できるとされます。しかし、邪馬台国時代、個別地域への広がりは、現在、実証できていないと考えます。

 共通な精神文化に関しては、先に触れた通りであり、倭の広域を束ねることができなかったと考えます。
鬼道、神仙思想とも広がりは限定的であり、前方後円墳の全国分布も在地主体の受容であり、大和が必ずしも中心地でないと考えられます。精神文化からは、倭の中心地を求められないと考えます。

 以上、共通の言語や共通の精神文化を含む、民族やethnic groupなどから邪馬台国時代の中心地、都を求めることは難しいようです。この時代の中心地、都は、社会の生活様式の一つ、生産技術に基づき考える方法が確実であると考えます。

19:ヲワケノ臣 :

2022/05/14 (Sat) 15:12:14

6.中心地、都の考え方

 中心地、都の所在地がどこか問題となります。この考え方として、学問的にみた場合、集団の帰属意識を扱う方法や社会の生活様式にフォーカスする方法があるようです。前者は、共通の言語、共通の生活様式など、互いに我々という集団帰属感情(主観的な属性)を持つことが、「集団」の確定に重要だと考えます。ここでは、先ず、二つの方法に共通する社会の生活様式を取り上げて考えて観たいと思います。
 社会の生活様式は、衣食住の物質側面に係る稲作、鉄器、土器等の生産技術と道徳、信仰の内的、精神的側面に係る精神文化から成るとされます。

 この時代の倭は、斉一の精神文化で広域を束ねることが難しい社会だったと考えます。西欧では、330年、ローマ皇帝が今のイスタンブールの地にキリスト教の新都を開設し、宗教、政治、経済、軍事の中心地となった。ローマ帝国時代でも、キリスト教が国教となった時期は、4世紀前半と遅いことがわかります。因みに、日本の仏教は、伝来後かなり年月を経た飛鳥時代に至っても、未だ社会に浸透していません。
 一神教の社会と異なり、古代日本の精神文化は、大衆を真に束ねる力になっていなかったように思います。この意味で卑弥呼の「鬼道」も又、建国9ヶ国内の限られた広がりであり、列島西半部を束ねる力になっていないと考えます。
 この時期、畿内は、神仙思想が盛んであったとされ、3世紀前半、銅鐸祭祀に代わって、この思想が急速に広まり、神獣鏡は、神仙思想に欠かせない宝器として人々が希求したものとされます。神獣鏡の分布に精神文化の広がりをみて、邪馬台国=大和王権とする説も又、一神教の西欧と異なり、民衆への浸透に難易度が高く否定的です。
 同様に古墳時代の精神文化に関して、首長継承祭祀に係る前方後円墳の全国分布は、各地域社会が主体的に受容した結果と考えられ、必ずしも大和纒向が精神文化の中心地であったとは言えないと考えます。円形や方形の墳墓の形や、棺の多様性等、地域社会に相応しいものが採用されていることからも判ります。

 概して、古代日本社会の生活様式は、精神文化に比べ、衣食住の物質側面に係る稲作、鉄器、土器等の生産技術が優先されたと考えます。日本社会を形作る特性は、列島の地政学と稲作共同体にあるとされます。地政学的に観ると、日本列島は、大陸の縁辺にあり、先進文化の流入口が、基本的には、半島経由に限定されていました。このため、先進文化中心地への求心力が生まれ、稲作、鉄器、土器等技術の地域への伝播に同時性、等質性が、みられるとされます。列島の地政学と稲作共同体の特性から、倭の地は韓の地に比べて早くまとまり、邪馬台国により列島西半部が束ねられたと考えます。

 邪馬台国時代、特に農業や土木技術を支える鉄器が重要であったと考えます。又、畿内等、一部の地域では、威信財の鏡が希求されたと思われます。このことから、重要物資である鉄や鏡等のサプライチェーンを束ねる力を有する地が、この時代、邪馬台国時代の中心地、都だったと考えられます。サプライチェーンが、有効に機能するために、中心地、都は、大陸、半島に近く地の利のある先進地、北部九州が、東限の畿内に勝り敵地と考えます。

 ここで遷都の問題を考えてみます。上記のように、サプライチェーンの運営、管理面で難点があることから、又、『魏志倭人伝』が、何故、遷都という重大事を記していないのか不自然であることから成立しないと考えます。中心地である都、邪馬台国は、2世紀末に始まった建国9ヶ国時代から、拡大、発展した4世紀初頭の30ヶ国時代まで、変わらず北部九州にあったと考えます。

この切り口に対しては、畿内説、東遷・東征型、西征型.吉備説が対立します。
18:ヲワケノ臣 :

2022/05/13 (Fri) 09:17:38

5.建国9ヶ国と「旁国」21ヵ国 追記
狗奴国の国交

『魏志倭人伝』は、3世紀中頃、卑弥呼の死の前後に邪馬台国と狗奴国の間で争乱があり、魏が邪馬台国を支援する様を描いています。このことから、この時期以降、狗奴国は魏や西晋と国交断絶状態にあったと考えます。
「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」が、太康年間の今とすれば、当然、狗奴国は30ヶ国の対象外の国となります。このことから、30ヶ国は、卑弥呼を共立した建国9ヶ国(北部九州8ヶ国+狗邪韓国)と遠絶とされる、その余の「旁国21ヶ国」から成ると推察されます。

 ところで、『魏志倭人伝』は、狗奴国の王と記しています。同様に『魏略』も狗奴国の王と記しています。王の呼称は、中国の王朝から与えられるものであり、狗奴国は、魏と通交した国だとする見方があります。この見方に従えば、狗奴国は、『魏志倭人伝』編纂の太康年間時点では、使訳通じない国交の途絶えた国となっていたが、元々は魏に使訳通ずる国であった可能性もあるように思います。
17:ヲワケノ臣 :

2022/05/12 (Thu) 09:05:04

5.建国9ヶ国と「旁国」21ヵ国 つづき
②3世紀社会の広がり
 『魏志倭人伝』は、邪馬台国に係わって、遠絶とされる「旁国21ヵ国」、邪馬台国の戸数15万、周旋5000里など記載します。この戸数15万は、韓地15万戸・方4000里との対比から、邪馬台国が広い国土を持っていたことを示すものと考えられます。同様に他の二つも邪馬台国の広がりに係る記事と思われます。
 一方、考古学は3世紀社会に関して、列島西半部の広域に渡る地域間交通、地域間結合があったことを明らかにしました。このことから、『魏志倭人伝』は、遠絶とされる「旁国21ヵ国」、戸数15万、周旋5000里などの記事を通して、東西に広がりのある、3世紀社会の実像を写実したと考えられます。

 3世紀の社会は、列島西半部の広域に渡る、活発な地域間交通、地域間結合があった。このことから、邪馬台国連合の版図は、九州島内に留まらず、一定の広がりを持つと考えられます。北部九州、吉備、出雲、丹後、畿内などが首都、邪馬台国の候補地になり得ると考えます。

 建国9ヶ国と「旁国21ヵ国」、及び、3世紀社会の広がりに関する切り口からは、九州島の狭い範囲で邪馬台国を捉える説は斥けられます。
16:ヲワケノ臣 :

2022/05/11 (Wed) 18:43:02

5.建国9ヶ国と「旁国」21ヵ国

①「今使訳通ずる所三十国なり。」
 陳寿は、西晋の太康年間(280ー289年)に『魏志倭人伝』を編纂したとされます。「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」は太康年間の今か、魏朝の今が考えられます。この記事は、『魏志倭人伝』書出しの倭人世界の節にあることから、陳寿は、太康年間の最新情報を記載したと考えます。この記事の「今」は、西晋の太康年間の今であり、陳寿は、最新情報「旁国」21ヶ国を反映して記したと考えます。
 
 ところで、『魏志倭人伝』に先行する『魏略』は、三十国の文言がありません。又、445年に編纂された『後漢書』は、三十国に「許」(ほど)を付加し、「今」に対応する項が「漢」にと記す。
 この異同を考えるに、『魏略』は編纂時点より後にあたる、太康年間の最新情報、「旁国」21ヵ国を反映できなかったことによります。『後漢書』は、『魏志倭人伝』の「今」を後漢末、邪馬台国建国時点の「今」と解釈し、更に、漢全体の時代に遡及して「漢」に使訳する三十国と記した。付加された「許」(ほど)に関しては、漢全体の時代が、後漢末の「今」の三十国より国の数が多かったとの意であろう。陳寿は、恩人の張華から得た、貴重な韓、倭の地理に関する最新情報を尊び、倭人世界のあらましを記したと考えたいと思います。因みに、張華は、282ー287年の間、北京に赴任し北方方面軍総司令官の要職にあって、とりわけ朝鮮半島の諸国の朝貢に力を入れたとされます。

 次に、三十国は、実数か、虚数のいずれかが考えられます。使者や帯方郡の報告に基づく事実の記述であり、音だけを当てて、ある国名について、何らかの操作を加える必要性は陳寿にはないとされます。実数とする見解に従うべきと考えます。
 因みに、「その余の旁国21ヶ国」は、国名だけであり、付加された情報がない。新井白石以来、この国名を手掛かりに「和名抄」のデータ等を用いて、所在地の比定が試みられてきたが、支持を得られていないように思います。「和名抄」のデータは、律令時代の郡郷里に係わるものであり、邪馬台国時代とは500年以上の隔たりがあるため、直接、具体的に所在地を定められない。国名を手掛かりに邪馬台国の版図を求める道はないようです。

 ところで、「今使訳通ずる所三十国なり。」の「今」が、太康年間の今とすれば、2世紀末の邪馬台国建国から約100年後のことになります。だとすれば、この間に邪馬台国は拡大、広域化したと考えるのが自然であろうかと。因みに、『晋書』が、東夷入貢記事を276ー291年に渡り記していること、この中に倭の遣使もあったと思われることから、266年の台与による遣使以降も西晋との冊封関係が、4世紀初頭まで続いていたと考えられます。
 以上、卑弥呼を共立した建国9ヶ国(北部九州8ヶ国+狗邪韓国)に、その後、遠絶とされる、その余の「旁国21ヶ国」が加わり、最終的に邪馬台国の版図は、最大、畿内を東限とする列島西半部に渡っていたと考えます。

15:ヲワケノ臣 :

2022/05/10 (Tue) 12:47:02

石見介さんへ
 
 奴国を含めた「その余の旁国21ヶ国」は、扱いづらいと思ってきました。これらの国々は、国名だけであり、付加された情報がありません。新井白石以来、この国名を手掛かりに「和名抄」のデータ等を用いて、所在地の比定が試みられてきたが、支持を得られていないように思います。「和名抄」のデータは、律令時代の郡郷里に係わるものであり、邪馬台国時代とは500年以上の隔たりがあるため、直接、具体的に所在地を定められないと思います。
 
 ただ確かなことは、21ヶ国は実体のある実数である点です。二つの奴国同名説は、確率的にないかなと思っています。例示の「アワの国」は、約70国の中の2ヶ国であり、確率的にオーダーが約1桁違います。ところで、国名を手掛かりに21ヵ国の所在地を比定する試みは、邪馬台国の版図を求めることにありますが、即ち、九州に留まるのか、九州を越えて広がるのかですが、この道はないと考えます。
14:i石見介:

2022/05/10 (Tue) 00:43:07

 ヲワケノ臣さん

 ある程度予期していたころではありますが、質疑応答で、とめどなく、議論が拡散する可能性があり、収拾がつかなくなるのは、避けたいと思い、それで、談話室でご了解を得るまで、新討論室では、コメントを控えていました。
  3世紀の日本列島の政治的力学というか、現状認識に関して、かなりの相違がある以上、合意点は、限られると思われますので、質疑で、お互いの意見を確認し、その立ち位置が理解できれば、当面の議論は、そこで打ち切って、次の疑問に回答をお願いする、ということにしたいと思います。

 狗邪韓国を、女王共立の「建国9ヶ国」とされることについての、私の異議の主な根拠は、基本的に、狗邪韓国が、倭人諸国ではなく、「韓国」即ち、韓族の国家である事、又、「弁辰」狗邪国と『魏志韓伝』で記載されている事です。

 しかし、ヲワケノ臣さんが、狗邪韓国の位置付けについて、『具志倭人伝』の解釈として、

 ①私が常用する「行程8ヶ国」=邪馬台国への行程にあり、距離や戸数が記載してある国々=と、「次有」で、以下国名のみの列挙してある、「遠絶」にして、戸数、道里を略載することも出来ない「旁国」21ヶ国について、「旁国」諸国群は、「共立」の少なくとも主要メンバーではなく、従属的な存在だと認識されている事、

 ②女王国連合と敵対する「狗奴国」は、「使訳通ずる倭人30ヶ国」に入らないので、行程8ヶ国+旁国21ヶ国+「狗邪韓国」=30ヶ国であり、これが、狗邪韓国を、女王共立主要9カ国に加えられた根拠であるとする、

 ③関連して、「旁国リスト」に載る、「奴国」について、「重出説」は採らず、「〇奴国」の「○」の脱漏とする「脱漏説」を、採用する。

 以上、三つの私の 『魏志倭人伝』解釈とは異なる、ご説明がありました。
 狗邪韓国の、「倭韓」両属性自体は、大きなテーマですが、『魏志韓伝』の解釈についての、根本的相違があると思わっれ、ここでは、これ以上の議論は、避けたいと思います。
 ①,②については、次回以降、議論したいと思いますが、付属的な議論として、③について、コメントします。

 先ず、旁国の「数」については、同じく、「21」ヶ国です。
 ただし、「〇奴国」の「脱漏」ではなく、勿論、女王国連合の国数が減少する「重出説」でもなく、「同一国名二国説」即ち、同じ名商の「国名」が、二つあった、という解釈です。

 ご承知の通り、律令制下での、国郡里名には、同一の物が、見られます。
 私は、欧州史の「ゲルマン民族の大移動」に興味があり、民族、部族の移動に際しては、国名を含む地名の移動もあり、むしろ、それが、常態だと考えています。
 欧州の例を挙げるまでもなく、同じ『三国志』の「魏書」の「東夷伝」の「韓伝」にも、半島南部の辰韓、弁辰地域の「民族移動」を窺わせる、「辰韓と弁辰が雑居」していると言う記述があり、また、「弁辰弥離弥凍国」と「難弥離弥凍国」などは、本来、「弥離弥凍」という、部族(部族国家)であった可能性が高いと考えられます。
 律令制下の「阿波国」と「安房国」は、漢字こそ変えていますが、同一国名です。
 「奴国」の「奴」が、上代日本語の「な」「ぬ」「の」のどの音の音写かは不明ですが、上代日本語からは、「な(中)」「な(地)」、後者の母音交替である「ぬ/の(野)」など、ありふれた名詞で、地名になり得ます。

 勿論、脱漏説でも構いませんが、何故、同一の国名や種族名が、異なった場所に現れないと、決め付けられるのか、不思議です。
13:ヲワケノ臣 :

2022/05/07 (Sat) 18:37:40

石見介さんへ
・狗邪韓国
 先ず、「旁国21ヵ国」は、実数か、虚数のいずれかが考えられます。使者や帯方郡の報告に基づく事実の記述であり、音だけを当てて、ある国名について、何らかの操作を加える必要性は陳寿にはないとする(渡邉)。実数とする見解に従うべきと考えます。
 次に、奴国は重出か、「□奴国」で欠け字か意見が別れます。重出の場合、20ヶ国となり、狗邪韓国から邪馬台国の9ヶ国、及び、狗奴国を加えて「今使訳通ずる所三十国なり。」と考えざるを得ない。しかし、狗奴国が魏や西晋と通行していたとは考え難いため、欠け字説に従いたいと思います。
 狗邪韓国は、倭と韓の地の結節点にあたり、両属的な地域だったと考えます。邪馬台国にとっては、外交、交易など国制上、欠かせない国であり、力も持っていた国でもあったことから、卑弥呼共立の談合に加わっていたことは明白です。
 陳寿は、このような邪馬台国の成り立ちに鑑みて、九州内の8ヶ国、遠絶な「旁国21ヵ国」に狗邪韓国を加えて「今使訳通ずる所三十国なり。」とし、倭の地のあらましを示す冒頭の記事にしたと考えます。
12:i石見介:

2022/05/06 (Fri) 23:56:31

 ヲワケノ臣さん、
 早速、質問させて戴きます。

 先ず、「国制」で挙げられた、「建国9ヶ国」に、狗邪韓国が入っていますが、この国が、『魏志韓伝』に見える「弁辰狗邪国」と同一であることは、どなたも異論がないと思われます。
 「弁辰」と有る様に、弁辰部族連合を構成する、弁辰12か国の内の一国であり、『魏志倭人伝』に、「倭の北岸」に位置する国だと記述されているとしても、国名にわざわざ、狗邪「韓」国と、「韓族国家」である事を、念押ししています。

 『魏志韓伝』では、民族移動の状況が読み取れますが、それを考慮すると、倭種・倭人の居住地域に、弁辰部族連合の一国が進出し、占拠した状況の表現が、「倭の北岸」記事であり、狗邪韓国が、倭国や女王国連合を構成した国々の一つ、と見るのは、無理だと思われます。
 『魏志韓伝』では、半島南部の倭人/倭種の居住を認めつつも、倭人/倭種の半島における部族国家名を、一つも挙げていません。
 しかし、狗邪韓国の住民に、倭種が多く存在するとしても、その国家(部族)の所属は、「倭国」ではなく、明白に「弁辰」部族連合体だと思われます。
 この点についてのご説明を、お願いします。
11:当世奇妙7:

2022/05/04 (Wed) 17:10:52

1.266年西晋遣使から316年西晋滅亡の間に邪馬台国連合国が崩壊する。布留0年代、290-340年に初期大和王権が発足する。北部九州の東部勢力に中・四国、近畿、東海地方の多くの勢力が同盟する。
2.女王として、台与、又は、その血筋をひく者が共立される。
3.その後、364年百済との国交開始以降に応神が、北部九州西部勢力を併合し半島に進出する。このような経緯になろうかと思います。いかがでしょうか。この場合、北部九州説.直列型に当るかと思います。

締め切り間際の原稿2つあって、深く考えてませんが、直感的には以下です。
1.は◎ 2,は○ 3.は△(可能性あり)

仮説の仮説ですが、
2の時に卑弥呼を箸墓に移したと発想したことが
あります。まあ確率1%ですが。
10:ヲワケノ臣 :

2022/05/04 (Wed) 09:18:23

◇4世紀初頭、倭の国家体制の変容、変動

 邪馬台国の国制は、分権的な機能分担の体制であり、基本的に邪馬台国を束ねる力は、統治機関「大率」、「大倭」によるものと考えます。「大率」は魏、西晋との冊封外交による倭国乱再発防止の抑止力を担った。時に、狗奴国に対する国防や建国9ヵ国に対する治安のために魏や西晋の力を借りたと考えます。又、「大倭」は、重要物資の鉄、銅鏡などの管理交易を担ったとされます。

 3世紀後半、又は4世紀初頭に冊封外交が消滅し、国防や治安の抑止力を失った。又、4世紀初頭の奴国主体の自由交易への移行により、重要物資の鉄、銅鏡などの管理交易の力を失った。この二つの力を失ったことで、邪馬台国の求心力がなくなり、邪馬台国=倭の国家体制は変容、変動したと考えます。
 通説は、このことを邪馬台国が分裂、解体したとする。尚、卑弥呼の「鬼道」は、広がりがなく、北部九州内の建国9ヵ国内の普及に留まったと考えます。

 一方、邪馬台国=大和王権とする畿内説は、支配力が弱体化したものの約50年間耐え、360年代の応神を経て「倭の五王」の王権へ変貌したと考えることが多いように思います。この場合、邪馬台国=大和王権は北部九州西部勢力を避け、4世紀後半、新航路による「金海貿易」を興したとする見方をとることになります。
 ここでは、大和の勢力は、少なくとも北部九州から後退しており、実質的には分裂、解体したと考えざるを得ないと思います。4世紀初頭、国家体制の変容、変動によって支配を解かれ=支配力を失い、分裂、解体したことと同じと考えます。

 同様に、邪馬台国=筑紫王権とする筑紫王朝説は、支配力が弱体化したものの約50年間耐え、360年代の応神を経て「倭の五王」の王権へ変貌したとします。しかし、この説は、大和王権が「金海貿易」を興したことと矛盾すると考えます。加えて、さきたま「稲荷山鉄剣銘」のワカタケルは、雄略であり倭王武とする定説を反証できないと考えます。
 以上、邪馬台国は、4世紀初頭に分裂、解体したものと考えます。

9:ヲワケノ臣 :

2022/05/03 (Tue) 08:10:11

当世奇妙さま
 討論室への訪問、ありがとうございます。当世奇妙さまが、以前に講演された説に関して、どの型に当るのか私なりに考えてみました。

 266年西晋遣使から316年西晋滅亡の間に邪馬台国連合国が崩壊する。布留0年代、290-340年に初期大和王権が発足する。北部九州の東部勢力に中・四国、近畿、東海地方の多くの勢力が同盟する。
 女王として、台与、又は、その血筋をひく者が共立される。その後、364年百済との国交開始以降に応神が、北部九州西部勢力を併合し半島に進出する。このような経緯になろうかと思います。いかがでしょうか。この場合、北部九州説.直列型に当るかと思います。

 上記の経緯の中で、邪馬台国出自の女王と初期大和王権の創業者、崇神との共治の体制がどのようなものであったか、又、記紀はどのように記したか、興味が湧きました。

 尚、布留0年代に関しては、全国邪馬台国連絡協議会、鷲崎前会長時代のC14測定値考察に基づき、240-260年、290-340年を使用しています。

◇追記
 上記の共立された女王に関連し思いを巡らせました。
 常々、邪馬台国のタテ系図は、伊都国の「世々の王」ー平原一号墓の女王ー卑弥呼ー台与ー丸邇氏系后妃ー〃であろうと考えてきました。
このタテ系図の中で、神功は、卑弥呼ー台与ー丸邇氏系后妃を統合した象徴的人物と考えます。『日本書紀』は、この象徴的人物を「倭の女王」と表記しβ群編纂上の起点とし、又、「胎中天皇」の説話に展開しています。

 ところで、卑弥呼の倭国乱を通じた北部九州平定と神功の北部九州巡幸には、親和性があると思います。又、神武伝承の「日向」(筑紫)を起点とした東征と神功の筑紫から大和移動による忍熊王、香坂王の反逆征討にも、親和性があると考えます。これらのことは、邪馬台国のタテ系図の象徴的人物「神功」から説明できるような気がします。おそらく、応神5世の継体朝から欽明を経て天武朝へと、このタテ系図は、言い伝えられていたと思います。この言い伝えが、『日本書紀』の中に暗黙知となって埋め込まれたと思います。
8:当世奇妙:

2022/05/02 (Mon) 19:49:07

随分昔ですが高淳日さん(故人)の「シルクロードの会」で以下の説を講演したことがあります。
ヲワケ臣さんの分類と異なる発想です。
単なる仮設ですが。

邪馬台国連合が乱れ、連合を構成していた
九州の一部人々は吉備などと連係し、ヤマト
周辺(近江・東海・河内・四国の一部など)
も仲間に入れて初期ヤマト政権連合政権
を立ち上げた。
(従って東遷説ではありません。邪馬台国連合
崩壊説で、その中の有力者が東に移動したと言う
仮設です)

初期ヤマト政権の初代支配者は九州から来た
人物だが、名目トップは女性巫女にした可能性
がある。

大変アバウトな説で、九州のどこら来たか、
かつぎ挙げられた女性巫女王は誰かについては
語りませんでした。
7:当世奇妙:

2022/05/02 (Mon) 19:33:50

布留ゼロは寺沢さんの提案です。
彼とは奈良市に左遷されたころからのの付き合いです。

最初にあった時は布留ゼロは280年としてました。
その後260年まではあり得るとしてました。

最近の彼の考え聞いてませんが260~280
の考えと思います。
参考までに。
6:ヲワケノ臣 :

2022/05/02 (Mon) 18:44:45

4.大和王権の半島進出と制海権
 313年に楽浪、帯方の二郡が滅亡し、次いで316年に西晋が滅亡しました。4世紀前半は、燕との抗争によって高句麗の南進が止まり、
4世紀中頃に、百済、新羅の建国がありました。その後、高句麗の南進が再開され360年代、半島情勢は、一段と悪化しました。定説は、360年代を記した「百済記」、金石文「七支刀」と『古事記』応神記から、百済と結んだ大和王権の半島への軍事進出が導けるとします。372年、百済からの「七支刀」の授受は、修好の証であるとされます。
 
 二郡滅亡後、弁辰は、二郡に代わる鉄の輸出先を倭国に求めたとされます。この結果、鉄の需給は、大幅に緩和されたと考えます。ところで、「博多湾貿易」は、奴国の西新町に拠点を集約し、4世紀中頃に全盛期を向かえ、列島全体に渡る交易が行われたとされます。このことは、従来の邪馬台国による管理交易の体制が機能しなくなり、奴国主体の自由交易に代わったことを意味すると考えます。邪馬台国は、国を束ねる二つの力、冊封外交と管理交易の体制を失い、4世紀初頭に分裂、解体したと考えます。

 考古学は、4世紀後半、大和王権が、弁辰との直接外交、直接交易による「金海貿易」を興したことを明らかにしました。大和王権は、宗像などの北部九州東部勢力と同盟して、従来の伊都国、末盧国経由の『魏志倭人伝』航路とは異なる、沖ノ島、又は、一支国経由の新航路を開発して、弁辰との直接外交、直接交易を行ったと考えます。ここでは、西部勢力が制海権を持つ奴国-伊都国-末盧国-一支国ルートを避けたと考えました。ただ、玄海灘は潮流が急なため、沖ノ島ルートは困難とする見解もあり、宗像-一支国経由対馬から金海に至るルートもあると考えます。

 ところで、半島への軍事進出には多くの人員、物資の輸送が不可欠であり、多くの船舶が必要とされます。先にみた海人勢力の北部九州東西両勢力の分裂状態では、半島進出の大事は、成せないだろうと考えます。そこで大和王権は、「魏志倭人伝」航路を運営する西部の海人勢力と「金海貿易」航路を運営する宗像などの東部の海人勢力を統合、結集し、玄海灘一帯の制海権を掌握したと考えます。「広開土王碑文」にある高句麗との果敢な大和王権の戦闘は、この海人勢力の統合なしには成し得ないものと思います。

 仲哀紀が記す大和王権への岡県主、伊都県主の恭順は、海人勢力統合という史実の反映と考えます。但し、記紀批判に従えば、仲哀は実在しない大王であり、又、県主制度は5世紀後半のことであるとされます。応神が、これら一連のことを実行したと考えます。

 ここで、邪馬台国=大和王権とする畿内説は、成立しないと考えます。理由は、次の2点です。第一に、強力な「大率」による約120年間に渡る長い支配が解かれて、奴国主体の自由交易に移行した点、第二に、邪馬台国=大和王権が、新たな航路を開発しなければならなかった点です。これらのプロセスは非現実的であり、畿内説は成立しないと考えます。同様に西征型も成立しないことになります。

 尚、大和王権が、316年から364年の間に北部九州を併合したとする、北部九州説.並列型に関しては、次のようなプロセスになると考えます。併合後、交易は「博多湾貿易」に委ねた。その後、4世紀後半に大和王権は、弁辰との直接外交、直接交易の「金海貿易」を興した。その結果、一時的に交易の航路は、2本立てになったが、最終的に大和王権は、二つの航路と海人勢力を統合し半島へ軍事進出した。

 このように、北部九州説.並列型は、この切り口に対して対立しないと考えます。この切り口に対しては、畿内説、西征型が対立することが判ります。
5:ヲワケノ臣 :

2022/05/01 (Sun) 11:18:51

3.纒向遺跡出土の土器 (再掲載)
 この放送(関口宏の古代史)の中で纒向遺跡から出土した搬入土器の地域別分布が示されました。色々な地域からの行き交いがあるとされ、又、北部九州系の土器がない(少ない?)ことから、纒向遺跡が、邪馬台国の首都である可能性が高いとの通説が示されました。
 しかし、邪馬台国の中心地、首都であるなら、北部九州系土器の出土が、相当量あるはずです。又、北部九州勢力と纒向を中心とする畿内勢力が没交渉的であり、分立していたとする違った解釈もできます。この北部九州系の土器の出土状況から言えることは、単に北部九州の邪馬台国が纒向に東征や東遷した事実がなかったことを示すだけであると考えます。武力支配や遷都に伴う入植があったなら、日常生活に関連する北部九州系の土器が多量に出土するはずです。

 ところで、自説は、北部九州の邪馬台国が、纒向の初期大和王権を支配していたと考えています。支配は、武力によるものでなく、鉄や銅鏡など重要物資の管理交易、及び、鉄器製造や土木などの先進的な生産技術の供与を通じたものであり、北部九州の邪馬台国が優位に立っていたとするものです。
 この場合、人の移動は、管理交易官の「大倭」や技術者などに限定され少数であり、労働者は現地採用であったと考えます。このため、日常生活用の北部九州系土器の使用量は少く、発掘し難いと思います。又、重要物資の鉄素材や鉄器は、輸送船内に直に置くか、搬入容器は木箱だった可能性があると考えます。因みに、ウワナベ古墳陪塚から木箱に収納された鉄挺が出土している。又、もう一つの重要物資の銅鏡は貴重品であり、搬入容器として土器が使用されることはなかったでしょう。
 以上、自説にあっても、北部九州系土器の出土は限りなく0に近くなります。纒向遺跡出土土器の地域別分布に関しては、色々な解釈ができるため、邪馬台国の位置決めの論拠にならないと考えます。
         
 この切り口に対しては、東遷・東征型が対立する。
4:ヲワケノ臣 :

2022/05/01 (Sun) 11:10:10

2.邪馬台国の国制と首都の構造 (再掲載)
 これまでの邪馬台国論では、国制と首都の構造に関して、あまり議論されて来なかった気がします。畿内説の首都、纒向遺跡に引きずられて、邪馬台国の首都は、大がかりな都市型の構造を持つとの前提で、その位置を探してきたように思います。今回、『魏志倭人伝』に立ち帰って国制を読取ることにします。

 先ず、外交、国防、治安機能は伊都国にて「大率」が担ったことが知れる。外交は、言うまでもないでしょう。又、治安は、刺史に準えられた通りです。国防は、対馬国、一支国、奴国、不弥国に置かれた卑奴母離を統轄して、伊都国が制海権を有した。因みに、この制海権は、誰に対してか考えるに、敷かれた制海ラインからみて、半島、及び、不弥国以東の九州島外の地域と考えます。外交、国防、治安の機能として、時に魏や西晋の軍事力の利用も念頭にあり、又、期待していたと考えます。この期待は、大陸に近接していた、北部九州ならではのことと思います。遠い畿内は、魏や西晋の軍事力を利用しようにも利用出来ないと考えます。

 次に、『魏志倭人伝』は、「国国に市有り。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。」と記す。「大倭」は、邪馬台国が派遣した大官で、重要物資の鉄、銅鏡等を対象に管理交易を行ったとされる。考古学は、この時期、伊都国の今宿・今山、奴国の博多を交易拠点とした「博多湾貿易」が展開され、広く列島西半部の交易があったことを明らかにした。このように交易機能は、伊都国、奴国を中心に諸国の「大倭」が担ったことが判ります。

 次に、国制の重要な機能の一つである祭祀機能は、邪馬台国の宗教施設を拠点とし、卑弥呼が担った。婢1000人ほどの宗教拠点であり、鬼道を厳かに行う様が覗われます。

 最後に、政治の機能ですが、これは、各国の談合であり、卑弥呼の男弟が議事進行を担ったと考えられ、この例が卑弥呼の共立です。『魏志倭人伝』は、国々の談合で卑弥呼を共立して倭国乱を収束させたことを記す。このように、国益に係る重大事は、主要国の談合で決定したと思われます。主要国は、卑弥呼を共立した建国9ヶ国で狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬國、邪馬台国である。通信手段のない、この時代、広域に渡ると考えられる30ヵ国の談合は困難と考えます。談合の場所は、利便性がある伊都国や奴国と思われます。

 以上、邪馬台国の国制は、機能分担型であり、纒向遺跡にみられるような大規模な都市構造の「首都」を特に持つ必要がなかったと考えます。そして、これらの機能は、主に、伊都国、奴国、邪馬台国が担ったように観られます。国制から視た邪馬台国の位置は、博多湾岸の北部九州説を支持します。
         
 この切り口に対しては、畿内説、西征型.吉備説が対立する。

3:ヲワケノ臣 :

2022/04/30 (Sat) 10:09:58

オヤジッチさま
 討論室への訪問、ありがとうございます。2点回答します。
・筑紫は長く独立国だとのお考えかと思います。今回、通説に従い、364年百済と国交開始し半島へ進出した倭は、5世紀の「倭の五王」の王権に繋がる大和王権であるとした上で話を進めたいと思っています。筑紫の独立性に関しては、別途、意見交換が必要な大きなテーマと思います。

・北部九州の東西海人勢力に関しては、近日中に投稿する予定です。投稿内容をもとに意見交換できればと思います。
2:オヤジッチ :

2022/04/29 (Fri) 15:45:54

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1651214754.jpg ヲワケノ臣さん、こん○○は。

浅学の私の考えです。
議論の方向性が異なるかと思いますが、悪しからず。
> 1.大和王権の北部九州平定時期と古代史ファンの邪馬台国諸説
↑平定と言うと武力による征服という感がありますがその場合は、6世紀(527-8)の磐井の乱(←大和の言分)と考えます。
この場合、邪馬台国連合(女王国連合=魏志倭人伝の倭)は消滅のではなく、筑紫(隋書に言う竹斯)に発展、統一、大和の言う“つくし国”になったと思っています。九州全体を“筑紫島”と表記する程の大国でったと考えています。

> 2.邪馬台国の国制と首都の構造
↑1.魏志倭人伝に『女王之所都』とある通り、邪馬壹國は女王の都するところであり、女王国連合の拠点都市です。EU(ヨーロッパ連合)におけるブリュッセル(「ヨーロッパの首都」と呼ばれる)のようなものです。
ようするに、6世紀までは大和と筑紫が並立していたと考えます。

> 大和王権の半島進出と制海権
↑大和王権の半島進出は宗像沖ノ島祭祀が開始された4世紀後半と思われ、対馬の北部九州型製の幅広型銅矛の大量の埋蔵祭祀に見るようにそれ以前は伊都国側が優勢だったと思われます。
また、制海権と言うより松浦海人(海洋民)と宗像海人(海洋民)の力関係でしょう。

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