東アジア討論室
縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ
2022/05/15 (Sun) 13:01:50
16) 試しです
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ
2022/06/04 (Sat) 02:27:04
22)
tura ドラ・トゥラの語を他の辞典に拾ってみる。
・田村『アイヌ語沙流方言辞典』「...と一緒に」「...を同伴する」の関連語 turano, turapa, turare, turasi, turasino の項がある。
・茅野『茅野茂のアイヌ語辞典』ドラ・tura の項が二つたてられ、「連れて行く」と「...と」の文例が示されている。
・平山『アイヌ語古語辞典』トゥラ 「連づれ」「連れる」
・知里『地名アイヌ語小辞典』turasi ドらシ 「それにそうてのぼる」
・知里『著作集 別巻Ⅱ 分類アイヌ語辞典 人間編』 結婚・夫婦・夫・妻などの項に各地の多数の関連語があげられている。しかし、tura の呼称はない。
Re: エミシ・アイヌ - オヤジッチ
2022/06/03 (Fri) 14:45:29
「そんべ」さん、当世さん、こん○○は。
お二人のお陰で、認識を新たにしました。m(__)m
アイヌは、北は樺太から、北東の千島列島・カムチャツカ(勘察加)半島、北海道を経て、南は本州北部にまたがる地域に居住していた民族,
エミシは、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団。
と言うことですね。一般的に、アイヌは誤解されている、と言うか認識がないですネ。日本のアイヌは“北海道アイヌ”と言うべきでしょうネ。
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ
2022/06/03 (Fri) 03:04:49
アイヌ語は地方によって異なり標準語と呼ぶものはないから、辞書も理論的には地方ごとみなければならない。したがって、辞書らしい辞書は、北海道、樺太、千島を10地区に別けて個別にみる服部四郎編『アイヌ語方言辞典』が辞典らしい辞典ということになる。
ただし文例は他の辞書に当たる必要がある。
というわけで、今日(昨日)は、アイヌ語の tu・ド(二つ・複数)につながる語を探したのだったが収穫は多くない。
「××と・with 」を表す語は tura ドラで7区にあった。同じく「××と・and」を表す語は sewa セワで6区にあった。千島はここでは調査からはずれているらしいので、この2語は北海道ではほぼ全域で流通するとみてよいかと思われる。
sewa について思いつく縄文語・古代語は今のところ何もない。ドラについては「連れ」を考えてみたい。「連れ立って」「連れあい」「つるぶ・(交尾)」「つれなし」など。
エミシ語 - 当世奇妙
2022/06/02 (Thu) 20:30:37
オヤジッチさんへ
エミシ語はエミシと呼ばれた人々の言葉
と言う意味で、どんなものだったか、そんな
ものがあったかは不明です。
縄文人が日本列島にいたのは確実ですね。
しかし列島内でもかなり分れていたでしょうね。
エミシと呼ばれた人は古墳時代から関東以北
にいた人との認識で、徐々に北に追いやられ
(と言うよりも南は和人が進出)平泉藤原氏
以北、更には北東北、更には秋田ー盛岡以北
になる。
アイヌは早くても12世紀~13世紀の成立で
北海道から東北に分布。オホーツクの影響を
受ける。
秋田ー盛岡以北の北東北で考えれば
縄文人ーエミシ(古墳時代~)ーアイヌ混入(12世紀~)ーエミシとなる。もしエミシ語があれば、縄文語を
受け継ぎ、アイヌ語へ受け継がれたとなる。
従ってアイヌ語と言われるものの中に「エミシ」が
話した言葉があり、更には縄文語の痕跡があるとなる。
しかし倭人がかなり早くから「エミシ」領域に
入り込み、アイヌにもオホーツクの文化が入りこんで
いる。それらをどの程度かで議論が分れる。
私の故郷(秋田県大館市花岡町ー火内(比内)に近い)にはアイヌ語と言われる単語がかなり残っていた。
オヤジッチさんへ - (フレイルそんべ)当世代行
2022/06/02 (Thu) 15:36:43
お久し振りです。ずっと以前よく拝聴しておりました。今回
お目に留まり恐縮です。
エミシ語なる言語が存在したわけではないことを承知して
おります。タイトルの都合から縄文語、アイヌ語にならべている
だけで、政権からエミシとよばれた人たちの言語をアイヌ語と
みるか和語とみるか、いずれ決めなけれえばならないと思って
います。
松本建速氏が15年ほど前「季刊 東北学」にエミシ論を発表さ
れてから八木光則氏との厳しい論争に注目してきました。(4年前
東北のあるシンポ会場で私は入場券がなかったのに、追っかけマン
の権利?を行使して、先生の付き添いです、と宣言して入場した
こともありました)
『縄文語の発見』は読みました。著者の小泉氏は日本音声学会、
日本言語学会の会長をされた方ですが、縄文語彙発見は書かれて
おりませんでした。そのことを鈴木健氏がどこかに指摘していました。
『縄文語の発掘』のあと出版社が彼の書の出版にがんとして応じ
なかったのは、この彼の小泉批判を取次店あたりが許さなかったことに
あるのだろうかと思ったことがあります。鈴木さんからは自家版
『日本語になった縄文語』をいただきました。
片山龍峯氏『日本語とアイヌ語』は参考にすべき本だと思って
います。アイヌ語と古語の同源証明に単語個々の比較でなく、単語
家族(グループ)間で比較したうえでなければ根拠十分といえない
としていたのです。60歳で病没。惜しまれる早逝でした。
新討論室への書き込みがむつかしいのでこちらに書かせてもら
いました。
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - オヤジッチ
2022/06/01 (Wed) 17:15:45
ピント外れかもしれませんが、「エミシ語」と「アイヌ語」の違いは、地域差ですか、時間差でしょうか。
時間差とするとどちらが縄文語に近いでしょう。
話がかわりますが、小泉保の「縄文語の発見」(1998、青土社)はおよみになりましたでしょうか。
お読みになっていたら、意見、感想、評価をお聞きしたいのですが。
片山龍峯の「日本語とアイヌ語」(1993,すずさわ書店)もお願いします。
写真は、「縄文時代竪穴住居跡=富山県砺波市の徳万頼成遺跡」
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ(代当世)
2022/06/01 (Wed) 16:15:56
縄文語・エイシ語・アイヌ語を語る
20)
ここ1週間ばかし地図を眺めて過ごしている。早稲田のハセ・タを考えながらである。早稲田・ワセダは青森県にも2か所あって、青森市の早稲田には新宿の早稲田に弦巻・ツルマキがあるように鶴ヶ坂がある。弦も鶴も縄文語では turen で現代語の「連れる」「連れ立つ」の意とされる語である。漢字化が進んで鶴をさらに鳥にしてしまった例もあるらしい。「鳥海山」の鳥・海はその手の改変を受けた結果のすがたかもしれない。
新宿区は昭和22年まで淀橋区であった。牛込区と四谷区が加わって新宿区ができた。淀橋区も淀橋町もなくなったがその場所は今の新宿4,5,6にあたる。残っているのは中野区との境の橋の淀橋。誰かが懐かしがって命名した「ヨドバシ・カメラ店」。
淀橋区時代の町名には高田、早稲田の名称がない。西落合、下落合、落合、上落合、柏木、戸塚町、西大久保、東大久保、百人町で埋まってしまっていた。
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ(代当世)
2022/06/01 (Wed) 16:14:47
縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る
19)
数千年前のことばが残ってある一方で最近の100年200年のあいだに大きく変化したことばが多くある。早稲田の戸山とやま富士が→富山とやま富士→富山とみやま富士に変わった例は前回書いた。
200年前秋田県鳥海山の麓に保呂内沢川があったが漢字化の過程でホロ(大きい)ナイ(沢・川)のナイが内・沢・川の3字にされているのだった。
この川の現在の名称はホーラ沢川という。ちょっと苦労して私がみつけたとき、私には horror に結びつく音のようで受け入れにくかったらしく、ほどなく私のあたまのなかではホローナに変わってしまい、賀状にホローナ沢川発見せりと書いたようなありさまだった。
ところで、鳥海山の山名も奇妙と言えば奇妙である。山名に鳥と海が乗っかっている。
これも2度か3度の転訛を受けた結果らしく、turen nomi トリノミ山 が本来の名称だという説がある。ツレンは「神が来る」「神の恵みを受ける」の意でノミは「祈る」の意。toren は神との合体をあらわすから「連れ」「連れ合い」「連れ立つ」として現代語に残っているとみなせようか。
トリノミが漢字化で鳥と海に当てられたのであろうか。
縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ
2022/05/26 (Thu) 00:57:37
RE 穴八幡 - 当世奇妙
当世さんは二重に穴八幡宮に因縁をもっているのですね。
旧称高田八幡宮といわれますが、元から早稲田(西早稲田)に鎮座していたのではないでしょうか。高田馬場が拡大するなか、1636年的場が西早稲田(?)に造られ、八幡宮が守護神とされた。
1641年宮守の庵を造る際社僧が山裾の横穴から金銅の神像をみつけ、以来穴八幡宮と称した。
穴守神社の名称はネットなど探してもみつかりません。早くから一般の人たちの知識からは消え去っていたのかとおもいます。
今日『アースダイバー』(2005 講談社)を開いてみたら、中沢新一氏はさすがに、水稲荷神社(穴守神社)の旧社地(大隈講堂の100メートルほど南)を地図に入れてありました。
地名は音声と漢字表記がよく変わるため用心が必要です。早稲田の地名の戸山トヤマが富山トヤマに綴られ富山トミヤマと読まれるような例です。しかし早稲田に重要な縄文地名があるようです。
穴八幡 - 当世奇妙
2022/05/25 (Wed) 11:20:22
懐かしい名前聞きました。
穴八幡宮の随身門は私の研究所で構造実験し、
伝統的手法で再建しました。初代清水喜助が
幕末に棟梁で建設し、図面が1枚残ってた。
創設は11世紀、源義家が後三年合戦勝利を記念して
建立。我が家は後三年合戦で兄義家を助けた弟義光(甲斐源氏の祖)の子孫の家来で、僅かだが因縁を感じた記憶あり。
ところでこれは高田穴八幡で、本来早稲田には関係
無いのでは?
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ
2022/05/25 (Wed) 01:15:47
縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る
18) 早稲田の森の穴守神社と穴八幡宮
昭和14年に刊行され57年に復刻版の出た著述の記載によれば、早稲田はハセ・タ、大神・居住地のことであり、その大神のお社は穴守神社とされていた。
今その穴守神社は地図でもネットでも見つからない。しかし2・5万分の1地図を一日中ながめていたら西早稲田町の早稲田水稲荷神社が当の神社であることが見えてきた。移転があって旧社地名の字地が残っている。
穴守・アナモリを縄文語のひとつと想定してアイヌ語辞典にあたってもなにも浮かんでこない。昭和になって残っていた穴守・アナモリ自体江戸期あたりの新しい言葉でなかったとも言えないのかもしれない。
新宿区に穴の付く神社を探すと出てくるのは穴八幡宮である。羽振りの良い神社だが建立は高田の地に馬場ができて武士の好みの流鏑馬が広まってからのことだった。ところが馬場の責任者が吾居住地に館を作るとき地中に穴があって金塊がでてきたことから穴八幡宮の始まりになったという伝承がある。
穴守と穴八幡の穴とはおそらく偶然の一致ではあるまい。
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ
2022/05/25 (Wed) 01:15:47
縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る
18) 早稲田の森の穴守神社と穴八幡宮
昭和14年に刊行され57年に復刻版の出た著述の記載によれば、早稲田はハセ・タ、大神・居住地のことであり、その大神のお社は穴守神社とされていた。
今その穴守神社は地図でもネットでも見つからない。しかし2・5万分の1地図を一日中ながめていたら西早稲田町の早稲田水稲荷神社が当の神社であることが見えてきた。移転があって旧社地名の字地が残っている。
穴守・アナモリを縄文語のひとつと想定してアイヌ語辞典にあたってもなにも浮かんでこない。昭和になって残っていた穴守・アナモリ自体江戸期あたりの新しい言葉でなかったとも言えないのかもしれない。
新宿区に穴の付く神社を探すと出てくるのは穴八幡宮である。羽振りの良い神社だが建立は高田の地に馬場ができて武士の好みの流鏑馬が広まってからのことだった。ところが馬場の責任者が吾居住地に館を作るとき地中に穴があって金塊がでてきたことから穴八幡宮の始まりになったという伝承がある。
穴守と穴八幡の穴とはおそらく偶然の一致ではあるまい。
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ
2022/05/20 (Fri) 01:28:36
縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る
17)
もっと調べたうえ書くべきだが、どこまで調べられるということもないので、今少し書いておく。
長谷はナガタニと読む形状地名を覗けばハセと読むがその意義はなんであろうか。
上代語辞典、語源辞典、国語辞典6冊をみても記載がない。岩古(岩波古語辞典)は初瀬、泊瀬の古称とし、長谷寺ができてからの地名とみなしいるらしい。
その初瀬、泊瀬は墓地が広がり寺が建ってから果てるのイメージを負う語になったとみなせよう。
早稲田大学のある早稲田の森がハセからワセに変わったという主張がある。稲種のわせ・早生は馳せる・走るからきているとされるので、早稲田の森のワセとは関連しない。単にハセの音がワセに変わったのである。
ハセは神の中の大神を表すという説であるが、詳細を理解しなければならず、他の例もさがしてみなければならない。
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - 当世奇妙
2022/05/19 (Thu) 08:10:49
喉の奥を広げた彼らのドの音は伊勢の生まれの武四郎にはあいまいなオに響いた可能性があったのではないか、と考えたのだった。
可能性ありですね。
北東北方言はドイツ語のウムラウトのような
発音など、発音の仕方が多彩です。
Re: 縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る - フレイルそんべ
2022/05/15 (Sun) 23:22:07
縄文語・エミシ語・アイヌ語を語る
16)
松浦武四郎は、津軽藩と南部藩(盛岡藩)の住民たちが渡島をオシマと呼んでいるからと称して、渡島(オシマ)国、渡島(オシマ)半島の名称を造った。
いつか八木先生に、ワタリシマでしょうか、オシマでしょうかとお訊ねしたら、個人的にはトシマだと思うというお話でした。
それで昨日、ふと、津軽半島や下北半島の漁師たちがもしトシマ、ドシマと言ったとして、喉の奥を広げた彼らのドの音は伊勢の生まれの武四郎にはあいまいなオに響いた可能性があったのではないか、と考えたのだった。
武四郎にワタリシマにしたくない理由があれば、話はまた別ですが・・。