東アジア討論室

126037

混み入った議論と一対一の論争は討論室で行いましょう。
投稿の大項目はスレッドで投稿してください。
そのスレッドに対するはレスとして投稿してください。
レスに対する意見もレスとして投稿してください。

スレッド作成での留意事項

●(新規作成の)スレッドには、タイトル(内容の紹介)と自分の名前を入れて下さい。
●みんなの関心事項については、「会」として、スレを(追加で)設けることもあります。

要望事項

●「返信・引用」を使う場合は、不要なところは削除したうえで、お使いください。(1回のみ)
●「返信・引用」は、多用すると、返信の返信となると、誰の発言か分かりにくいので、控えて下さい。
●また、文章では、適当なところで、右側に「改行マーク」を入れて下さい。(一行、45文字程度)
●また、一文(~。)の長さは、長くて3行まで、(およそ、150文字以内:推奨100文字以内)にして下さい。
●文章は、残ることを念頭に、マナーに気を付けて、楽しく(議論は熱く)投稿しましょう。

スレ「FC2のロビー・談話室02」 - (管理人)

2022/06/02 (Thu) 10:45:33

ここは、スレ「FC2のロビー(歴史談義)」の続きのスレです。
レスが50を超えたので、新しいスレを立ち上げました。

(59)新納先生ご講演 - 当世奇妙 2022/05/29 (Sun) 06:21:44

   新納先生の基本的研究分野は古墳時代です。

(60)「『日本書紀』紀年の再検討」新納泉 - 当世奇妙 2022/05/30 (Mon) 06:08:06

(61)「『日本書紀』紀年の再検討」新納 - 当世奇妙 2022/05/30 (Mon) 19:00:35

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 米田

2022/08/11 (Thu) 20:45:15



│カウンター - 当世奇妙 2022/08/11 (Thu) 19:43:49

│ここに入るにはHPトップ経由なのでHPトップのカウンターは
│それ以上になっているはずですね?

以下の頁には、「お気に入り(登録)」または、「リンク」によって、
「HPトップ(表紙)」を通らずに、入ることが出来ます。

FC2(討論室)
https://e-asia.bbs.fc2.com/

FB(談話室)
https://www.facebook.com/groups/415514953882458

PS:
FB(行事用)は、「お気に入り(登録)」からは、直接入れました。
FB(行事用)は、(リンクからは)失敗しました。

つまり、「お気に入り(登録)」をしていれば、
直接、それぞれの部屋に入ることが出来るようです。



│米田さん
│FC2で会の概要:沿革、規則、
│入会申し込みなどの記載はどこで出来ますか? 


プロトタイプ(試作品)を作ってみようと思います。

カウンター 当世奇妙

2022/08/11 (Thu) 19:43:49

ここに入るにはHPトップ経由なのでHPトップのカウンターはそれ以上になっているはずですね?

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 当世奇妙

2022/08/11 (Thu) 13:45:35

米田さん
FC2で会の概要:沿革、規則、入会申し込みなどの記載はどこで出来ますか?

管理者の簡単デザインでしょうか?

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 米田

2022/08/11 (Thu) 10:03:50

(カウンターの紹介)


最近、「カウンター」が付いていることに気が付きました。

画像では、[22603]に、なっています。

きのう一日分のカウントは、約255/日でした。

ご紹介まで。

虫1匹退治 管理人

2022/08/10 (Wed) 19:38:40

17時にアラシあり。
削除しました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 米田

2022/08/08 (Mon) 22:58:11


│米田さんへ - 当世奇妙 2022/08/08 (Mon) 17:15:03

│高川さんが4文字請求が無限に請求されて
│投稿出来ないそうです。

│何か分かりますか?


私は、普段は、「10キー付きのキーボード」を使っています。
ノートパソコンなどでは、「10キー」が付いていないことが多いです。

数字入力での「半角」・「全角」は、普段、気にしていませんでしたが、
おそらく、全角で数字入力をしていたのではないかと、推測しています。

私の経験では、数字の「全角/半角」と、画像の500KBオーバーの
二つが考えられます。

これ以外だと、ちょっと、頭を抱えます。
上記で、解決できるとよいのですが。


(PS:FBの方にも、「コメント」を書きました。)

米田さんへ 当世奇妙

2022/08/08 (Mon) 17:15:03


高川さんが4文字請求が無限に請求されて
投稿出来ないそうです。

何か分かりますか?

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 米田

2022/08/07 (Sun) 14:58:24

どんたくさんへ

8月1日付の(旧談話室の)二つの投稿文を
「旧討論室書庫」のほうに、追加保存しました。

(私自身、最終チェックをし忘れていました。失礼しました。)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 当世奇妙

2022/08/05 (Fri) 19:05:03

米田さん
無事7月分HP動向書き終わりました。
米田さんのお陰です。
談話室は米田さんの書庫のものを使わせていただきました。
討論室はFC2投稿を使用しました。
ありがとうございます。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 米田

2022/08/04 (Thu) 15:34:10


「旧討論室書庫」の見方について

談話室の投稿記録は、年単位、月単位で、ファイルにまとめてあります。
討論室の投稿記録は、スレ主ごとにまとめて、フォルダを作っています。

当世奇妙さんがスレ主のものと、「邪馬台国」関連のものは、
「邪馬台国関連のスレ」として、一つのフォルダにまとめています。

あと、例外的に、米田がスレ主の「東アジア海洋国家論(続)」に
ついては、おまけのつもりで、下記の3本を追加で保存をしていましたが
「>>>」が多くなりすぎて、判読が難しくなって、途中で、
ギブアップしています。
(本来のスレのファイルは、最後まで、保存しています。)


(一部分、追加で保存しています。)

│スレ「邪馬台国畿内説の論拠」__[525]~[585]:(2022-04-14)~
│スレ「高天原にあった卑弥呼の墓」[102]~[133]:(2022-04-16)~
│スレ“「魏志倭人伝」の正しい~” [15]~[25]:(2022-04-15)~

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 米田

2022/08/03 (Wed) 01:04:33


│旧討論室 - 当世奇妙 2022/08/02 (Tue) 16:49:22

│米田さん
│力作ご苦労様でしたね。
│ありがとうございます。


:何かをする時、(私は)毎回、何かしらチョンボをしています。
:今回も、気が付くと、旧討論室のメインスレッドの(6月4日以降の)
:投稿の部分を保存し忘れていました。(ヤッテしまいました。)
:なかなか、(完ぺきを目指すというか)上手くはいかないようです。

:旧討論室・旧談話室・行事案内については、上記のポカを除き、
:ほぼすべて、「旧討論室書庫」の方に、保管を終了しました。
:「旧討論室書庫」のファイルをダウンロードして、ご利用下さい。

旧討論室 当世奇妙

2022/08/02 (Tue) 16:49:22

米田さん
力作ご苦労様でしたね。
ありがとうございます。

福島雅彦さん 石見介

2022/07/24 (Sun) 00:58:39

 講演会のレジュメ、有難うございました。
 早速、4頁まで読み進みましたが、以後、時間が取れず、ストップしています。
 視力低下で、拡大鏡を必要とする事や、最近の、目の疲労で、持続的な読書が、困難になり、読書の中断が続いています。

 実は、ひと月以上前に、書店に行き、コミック6冊と、避雷針(平井進)さんの遺著『倭の原像、上』を、購入しました。避雷針さんのご本は、拡大鏡で何とか読める、と判断して、購入しました。現時点で、コミック4冊は読了しましたが、2冊は手つかずで、『倭の原像、上』は、前書きと目次の第一章部分のみを読んだ時点で、目が疲労し、以後、ストップしています。

 活字中毒なので、何か読まないとストレスがたまるのですが、現実には、紙に印刷したものは、数頁読むと疲労し、中断を余儀なくされます。
 55インチのDisplayで、文字を拡大して読めるPC画面では、何とか1時間ぐらい作業できます。
 そういう状況なので、ご恵贈戴いた玉稿は、何時読了出来るか、不明です。申し訳ありません。

 閑話休題
 邪馬台国位置論では、福島さんは九州説、私は一応近畿説と、はっきり立場が違いますので、御教示戴いたことの多くが、受容できず、精々、保留して、何かの時に、参考にさせていただく、という形になることが、現状です。
 「筑紫」の語義についての「千串」説は、先人の説くところで、地域名の地形起源という、最も理解しやすく、又、一般的な形式と考えられるので、他の有力な解釈が無ければ、この説に従う事にしています。

 今回、問題になっている「投馬国」は、九州説では、「妻」等の地域が、候補地である事は、知っていますが、近畿説だと、「鞆」という比較的狭小な地名以外には,候補地がない状況です。
 北條氏や長田氏の様に、「出雲」を宛てる場合でも、戸数5万戸には出雲や同じ方言(雲伯方言)地域とされる伯耆を併せても不足するので、他の山陰諸国も加えた広域を、設定する必要があります。

 但し、「出雲」は、「投馬」の音写にはなり得ないので、長田夏樹氏の様に、類書の記載を採って,「於投馬」を正しいとして、刊本『魏志倭人伝』の字句を、訂正する必要があります。
 「邪馬壹國」の「壹」を、「臺」とする校勘は、多くの証拠がありますが、「於投馬」は確か、一例しかないので、支持者は少ないでしょう。

 又、漢籍に音写された語彙が、どのような古代日本語であったかは、重要な問題であり、可能な限り、古代日本語に漢字から再構する必要があります。
 それを福島さんは、所謂「古代倭語」に求め、私は、7世紀頃を中心に記録されている「上代日本語」で代替しています。
 現代筑後弁に繋がる祖形の、上代日本語九州方言の資料が、律令期の戸籍の人名や『風土記』逸文等の地名ぐらいしか確証がないので、福島さんの「古代倭語」は、現代筑後方言と現代朝鮮語の混淆となり、私の場合も、殆どが、7世紀の上代日本語中央(畿内)方言になるという、制約があります。
 その為に、説得力が不足する事態となっているのが、現状でしょう。

 「於投馬」に関しては、九州説で、「於投馬」に対応する候補地があれば、九州説の邪馬台国位置論にも、新境地が開かれるかもしれません。

 尚、『魏志倭人伝』内の「方向」については、私は、上代日本語の方向語や色彩語の実態から、魏使が自ら踏破した確証の無い行程、道里の、方向は、信用できないと考えています。
 
 『三国志』『後漢書』何れの東夷伝の韓条でも、「馬韓の西方海上に、州胡が住む」と記述されていますが、州胡とは、済州島と考えられています。
 済州島は、「馬韓の南方海上」にある島です。
 「航路」の方向、それも、馬韓の港を出た直後の方向としてしか、正しくはない。
 漢籍の方向も、一部の人が考えるような、「正確無比」なものでは、あり得ないのです。
 前に書きましたが、項羽が「西楚の覇王」と称しましたが、その領域は、秦に滅ぼされる前の楚の領域の「西部」ではありません。むしろ、東部であり、「淮河以北を、西楚という」という、慣用?によるものです。
 
 中国でさえそうですから、古代日本で、どのように方向語が使用されたのかは、「現代日本人」の想像の範囲を超えている可能性は、十分にあります。
 漢籍の解釈には、一字一句もおろそかには出来ないが、しかし、それが無意味かも知れない可能性も、念頭に置く必要があります。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 福島雅彦

2022/07/22 (Fri) 21:48:03

石見介さんへ

※先ず「投馬國」の誤解から…。

*「投馬國」は「邪馬壹國」以北の九ヶ国=「狗邪韓國」「對海(馬)國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」と、北から順次南下して来て最後に記述されています。

∴「邪馬壹國」までの「萬二千餘里」以内に在ります。

・詰まり、「伊都國」から千五百里に東西に位置している事になります。

*「投馬(つま)國」=“두메”(tu-mæ)國=双山國(對馬國と同義)=水縄連山(耳納山地)と筑肥山地の間の國の意=八女郡=「上・下妻(つま)郡」(倭名類聚鈔)。

※「竹斯國」=「千串」とのお考えは絶妙です!

*「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」に由来するのでは、と秘かに思っていました。

・水縄連山(耳納山地)の事を表現しています。

・「筑紫の日向の」=「高天原」=「うきは市」。

・「襲の」=“서”(seo)=「西の」。

・「高千穂の」=山頂がノコギリの歯状に小峰が千連なっている様。「高」=「集(たか)る」の当て字。

・「槵触嶽」=千の小峰の間から山腹に千筋の谷沢が刻まれている様。

*「筑紫」=「竹斯」=「千槵」=「千の歯の櫛で梳った」の意。

・「触る」=“훑”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)でもある。

※以上の様に愚考いたします。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

「筑紫」の語義は何か? 石見介

2022/07/21 (Thu) 22:34:03

 邪馬台国位置論や古代史で、問題になる地域について、その「地域名」の意味が、重要な手掛かりになる。
 投馬国の有力候補地の「吉備」は、穀物の「キビ(黍)」で、律令制の国名の「備前、備中、備後、美作」の4ヶ国に、分割された。

 纏向古墳群の構成要素の先行的特徴の一部は、「阿波(アハ)」にもみられるが、上代日本語では、「アハ」は、やはり、穀物の「アハ(粟)」しか、該当する語彙がない。
 「泡」は上代日本語では、「アワ」であり、律令制下の国名「阿波」「安房」と同音の「アハ」という語彙は、『時代別国語大辞典上代篇』には、「粟」の一語のみしか、収載されていない。
 何よりも、記紀にある四国島の名称「伊予の両名島」では、四国の4面の国名、伊予、讃岐、土佐、阿波にそれぞれ、別名として、神格と思われる名称が記載されているが,「阿波」の別名は、ハイヌヴェレ型神話として有名な、スサノヲに殺された穀物神「オホゲツヒメ」であり、この点からも、「阿波」の国名が、雑穀の「粟」に由来していることが、明確になる。
 尚、「伊予」の別名は「ヱヒメ」即ち「愛比売」「愛媛」である。

 九州島(筑紫島)にも、四面があるとされているが、「火の国」「豊の国」の語義は、明確だが、「熊曽國」と「筑紫国」は、語義が、判然としない。
 「クマソ」はどうやら、倭種の中の別種族の名称のようだが、そうではない「筑紫国」の語義は、一体、どういう意味なのだろうか?

 「筑紫」という漢字は、「好字」2字の国名なので、漢字自体には、意味はなさそうで、日本語の訓としての「チクシ」(漢籍の「竹斯国」から見ても、「ツクシ」が、原型ではなさそうである)の意味が、問題となる。
 福岡平野や筑後平野のデルタ地帯の河川の状況を意味する「千串」という解釈で、良いのだろうか?

 地元の九州の方のご意見を、伺いたい。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 福島雅彦

2022/07/21 (Thu) 11:43:09

米田さんへ

※PC音痴の私としては、大変有難いことですが…。

*余りに長講ですので、読んで下さる方が果たして居られるか、の心配があります。

・以前、当世奇妙さんから、長文は誰も読まないから、四行に纏めたら、と提言を頂いていますし…。

*それに、資料としてはアナログになり、変換にお手を煩わせるのも恐縮です。一考させて頂きたく存じます。

・なにか、アドバイスを賜りますれば幸甚に存じます。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 米田

2022/07/20 (Wed) 10:15:39

雑記

今朝の保存で、旧討論室&旧雑談室の保存は、ほぼ一段落しました。
「旧討論室書庫」の方に、(ほぼ)すべて保管(移管)しました。

2~3日(しばらく)は、ぼーっとしていたい気分です。

福島さんへ

きのう、講演会の資料が届きました。(上記の通り)
今は、文字を(目で)追っても、頭に入ってこない状態です。

今後の予定ですが、福島さんの「久留米学(歴史と環境)」を
FC2の新しいスレとして、スレを立てて、俎上に載せたいのであれば、
お手伝いはしたいと思っています。
(データ添付でのメールか、またはFC2用に私の方で入力しますが。)
福島さんがどこまでやりたいのかの、本気度をお知らせ下さい。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 北条先生の講演

2022/07/19 (Tue) 09:40:37

でれなくて残念でしたが、当世さんや米田さんのおかげで、概要分かりました。
ありがとうございます。

「投馬国」の位置論 石見介

2022/07/18 (Mon) 23:26:11

 当世奇妙さんと米田喜彦さんの、このスレへのご投稿で、北條芳隆新会長が、邪馬台国位置論では、邪馬台国近畿説論者である事が、よく理解できました。

 投馬国については、吉備ではなく、出雲説という、近畿説派内では、少数派に属する事も判り、投馬国・邪馬台国の距離についてもクリア出来、専門の考古学者として、考古学的にも、説得力がある、と感じました。

 投馬国を、出雲に比定する説は、言語学者長田夏樹氏が、その著書『邪馬台国の言語』旧版で、「於」の脱落として、「於投馬」を「エドモ」と読み、出雲に比定した事は、承知していました。
 投馬国から邪馬台国への日程を考慮すると、私も魅力を感じましたが、出雲の方言が、富山のジージー弁や東北のズーズー弁に近いので、「鞆の浦」の地名から、吉備を「投馬国」と考え、日程については、魏使が、伊都国止まりで、本州には足を踏み入れていない事の他に、鞆から備前、播磨、摂津の海岸沿いに東進し、上陸後は、淀川沿いに其北岸を東上し、山城国に入って、南下して、大和に入る、という迂回路を、想定したりしました。

 しかし、吉備や阿波などが、纏向古墳群の重要な要素の先行者であるとしても、その地域名、具体的には、律令制下の国名などが、「黍」「粟」という「穀物」名である事から、「紀伊」=「木の国」同様、どうも中央政権へ、貢納品として、黍,粟、木材を納める地域、という、何か同盟国などより格下の従属的扱いのようにも思え、「河内」「やまと」「山背」等のような、地形に根差した自然発生的な国名ではなく、蔑称的な語感もあるようで、気になっていました。

 もう一度、投馬国位置論も、考え直す必要が、有りそうです。

2015年の講演の記録より - 米田

2022/07/18 (Mon) 15:41:18

北條先生の「邪馬台国=ヤマト」論

北條先生の講演 投稿者:当世奇妙 投稿日:2015年 4月19日(日)09時

本題の稲束(貨幣)、東西軸、前方後円墳も面白かったが、
最後の狗奴国論が絶品だった。
先生は邪馬台国=ヤマト論で私と異なるが、
論理的には整合していると思った。
吉備ー熊本連合が狗奴国、北九州ー日本海ー唐子・鍵遺跡連合が
邪馬台国。
これは鉄技術の流れとも一致している。
投馬国は出雲。東海は独自の勢力だが
経済的に邪馬台国連合と繋がっていた。
熊本ー吉備は貝の道でも繋がっている。

幹事様

討論室3のほうに、「北條先生の講演記録(最後の約20分)」を
(まだ、途中までですが)勝手に、載せさせていただいでおります。
事後報告になりましたが、このまま、続けてもよろしいでしょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北條先生の講演記録(最後の約20分)

ご質問、非常にたくさん、あると思いますが、幹事さんからも
リクエストがあるものですから、残り20分の間、
「狗奴国論」と、「邪馬台国と狗奴国の話」で、いいですか。

「狗奴国と邪馬台国」を考えるということで、これは、奈良女子大学で
(2013年に)講演させていただいた話ですが、私は、
邪馬台国を「大和説」が一番良いと思っているのですが、
理屈の上で、邪馬台国大和説を維持するとすれば、
狗奴国は吉備と熊本の連合としか考えようがないんだ。という理屈から
入りますし、それで、少し状況がそれで合っているという話です。

まず、最初に
(邪馬台国大和説の)定説は、狗奴国=東海説ですが、
東海説には不利な資料的な状況があります。
「たい・・(大陸と)」の窓口を弥生時代に持っていたのは、
愛知県とか滋賀県とかではなくて、
長野県であったり、千葉県であったりするのです。
ここ(長野・千葉)が狗奴国だというのであれば分からないでもない。
けれども、ここ(愛知・滋賀)は、大和と同じで、
鉄の希薄な地域(エリア)なのです。
(愛知・滋賀は)大和と非常に密接な関係を持っているものですから、
ここで、前方後方墳と前方後円墳の世界が対立したら、
という構図は無理だろう、ということです。
これが、第1点です。

そして、西日本における貨泉
(AD1世紀、新の王莽の時代にだけ発行された銭)は、このような
分布をしています。有明海沿岸・そして瀬戸内にもあります。
当然、大和(大阪平野)にもあるわけです。(そして、)
狗奴国というのは、貨泉の分布圏内にあったと見るべきだろう。
(つまり、)大陸との窓口で、なおかつ、
狗奴国の問題を考える際に避けて通れないのは

(れきにんかんの)伊藤あつしさんの説ですが、狗奴国には王がいた。
王とは、自称とか僭称とかではなくて、一度、古代の中国側から
王として認定されたという実績を持つ、そういうエリアなのです。
ということになると、(狗奴国は)大陸との窓口がある場所で
なければ、狗奴国は成り立たないのです。

その意味でみると、愛知県が狗奴国と云うのはありえない。
考古学的な資料からもあり得ない。
(狗奴国は、貨泉の分布エリアのどこかである。)
(最近、貨泉の出土エリアが注目されています。)
私は、熊本と吉備との連合が狗奴国側の勢力だろうと考えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北條先生の講演記録(2)

もう一つ(次の問題です)。
「(墓には)棺あるも槨なし」という(倭人伝の記載です)。
紀伊とか瀬戸内を邪馬台国の側だと考えると、この事象は、
説明出来ません。
何故かというと、すでに「槨(石槨)」が広く採用されているからです。
瀬戸内側を通って(大和の)邪馬台国に行くのであれば、
「(墓には)棺あるも槨なし」は、あり得ないのです。

となると、(このエリアの中に、邪馬台国を求めざるを得ないのです。)
大和は、じゃあ、どうなんだ、というと、(大和は)槨なしです。
筑紫(九州)はというと、ここも同じく(槨は)ないのです。
だけれども、吉備には(槨は)有るのです。ですから、
吉備は、邪馬台国から除かなければならない。
説明不可能だということです。
(・・・・・これは置いておきましょう。)
(正始元年鏡が・・・から)出土しました。
あらためて、これによって・・・。

紀年銘鏡(年号がしるされています。)政治的な事績があった時の
年号が刻まれていますから普通の鏡よりは特別な意味を持つ。
と考えるのが普通です。ということで、あらためて
日本海側と瀬戸内側の中国地方に焦点を当てて、
紀年銘鏡(魏の紀年銘鏡)の分布をみるとこうなるんです。
ようするに、投馬国が出雲にあって、(使者が)丹後半島から上陸して
そして、淀川をさかのぼるか、大和川をさかのぼるか、
(大和に向かうとすると・・・)
いずれにしても(魏の紀年銘鏡の分布をよくみると)
瀬戸内が空白じゃないですか。
ということになりましたら、投馬国が出雲だと考えると考えるのが、
自然らしい。

そして、水行20日、陸行1月、(を考える時に)瀬戸内を通るという
定説では、大和川をさかのぼらざるを得ないとして、
(淀川としても)1日で済むのです。
1日で済むのに、なぜ1月と書いたのか、ということですが、
ご覧の(丹後半島からの)ルートをたどるとすれば、
1月というのも無理ではない距離になる。ということなのです。

(魏の)紀年銘鏡の分布から見たら、岡山(重要な)が抜けている。
日本海側に濃厚な分布があるのと、もう一つ着目したいのが、
丹後半島からの南下しているルート上に、(紀年銘鏡の分布が)
集中している。
これを重視すべきだろうな。ということです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

北條先生の講演記録(3)

となると、・・・・。
で、外国の国使を迎える時に、最後に陸行1月というのは、どう考えても
不自然だと思いませんか。もし瀬戸内海が開いているのだったらば、
そのまま素直に大阪湾へ上陸して、(大和へは)1日で済むはずです。
そうなっていないとなると、
何故、ここ(瀬戸内海)は通らなかったかというと、
ここ(瀬戸内海)は、閉じていたからだ。と考えるべきではないか。

先程の「(墓には)棺あるも槨なし」という話と似ております。
「槨」があるエリアはここ(:おそらく瀬戸内)なのです。
「槨」がないエリアはここなのです。筑紫と大和の近辺、そして
それより東側の地域というのは、「槨」がないエリアですね。
ということからしても、吉備という地域は、(邪馬台国のエリアから)
除かなければ、説明がつかないでしょう。ということです。

で、さきほどの「貨泉」の流入ルートの話ですがこの時期には、
瀬戸内は、閉じていなくて、開いていた可能性があるということです。

そこで、邪馬台国論との絡みでいうとどうなるか、ということですが、
狗奴国とそれから卑弥呼の邪馬台国というのは、平素から和せず。
ですが、「平素から(和せず)」だけに、こだわってしまうと、
意味が解けなくて、なぜ、邪馬台国と狗奴国の対立が起こったのか、
というところに 改めて考えてみる必要があるのではないか。
何故かというと、卑弥呼が女王にすいさんされた時には、
「共立」になります。
倭国大乱の状況から、合議の上で共立された。
そして、世の中が安定していたわけですが、
それでは、なぜ狗奴国と邪馬台国の対立が激化したかというと、
これは、まさしく景初3年の魏への朝貢を期に、対立が激化したと
考えるべきであろう。(そう)でなければ、
対立の理由が説明出来ないのでは、ないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一段↓(9分46秒)

北條先生の講演記録(4)

これは、亡くなられた「森浩一先生(1928年生・2013年没)」が、
晩年に取られた説でもあるのです。
ようするに、当時の日本がアジアから統治されるのではなくて、
アジアの情勢をしっかり見据えながら、日本の行く末を
どうすべきかということで考えた場合にまだ、(魏は、)楽浪郡と
帯方郡を滅ぼしただけで、まだ国家の統一が出来ていない魏に、
邪馬台国(日本)のすべての命運をかけてしまうべきなのか、
それとも、時期早尚ではないか。
もうちょっと、(様子を)みましょうよ、
という政治対立といいますか、外交上の対立とみたら
これはどうだろうか。という、これは、「森浩一先生」の説なのですが、
これは、正しい説かなと思います。

じゃあ、狗奴国側(の政治的な主張は何だろうかというと)ですね。
日本の命運を魏にゆだねてしまうには、時期早尚ではないか。
呉もあるし、蜀もあるじゃないですか。
何よりも、高句麗もまだあるんですね。で、高句麗とつながっていた
エリアの人々にとってみればまだ魏と呉と蜀とが並び立っている状況は、
かつての漢のエリアの安定的な状況から比べてみればきわめて不安定
ですね。と、なるので、その慎重派側が狗奴国として、
魏の王朝の方にすり寄ってしまった邪馬台国側との政治的対立が生じた。
きわめて一時的な、なので、「平素より和せず」というのは、まさに、
卑弥呼が魏への朝貢を始めたというところがきっかけになって、
不和が生じた、というふうに解釈する。
(つまり)はじめから、瀬戸内が閉じていたのではなくて、
きわめて一時的な状況なのである。
まさに、魏への朝貢そのものが、起爆剤になったのではないか。
というところなのです。弥生時代の中期の動向で、
中国の情勢と情報がどのような形で日本列島に入ってきたか、
ということを、あらためて整理してみますと、二つに色分けが出来る。

ひとつは、楽浪郡を媒介とした、後漢王朝との大陸とのつながり。 
←(黄色のエリア)
これは、筑紫を介して、瀬戸内のライン。

それとは別に、燕の地域(後の高句麗のエリア)で、
沖縄の貝のルート(貝の道なのですね)。
この太いルートが、もうひとつ並び立っていて、
さきほどの吉野ケ里遺跡というのは、青いルートになります。
有明海沿岸も青いルートになります。なので、大陸側の状況(情勢)と
いうのは二つの大きな柱のもとで、日本側にも届けられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一段↓13分16秒

北條先生の講演記録(5)

当然、これは経済交流ですからね。
稲モミもありますし、青銅器の原材料もあるということですね。
弥生時代の後期段階になりますと、多様化してくるのですね。
いろんなものが錯綜してくるという状況になりますけれども、
やはり、太い二つのパイプというものは、そのまま流れています。
そして、卑弥呼は、独自のルートを新設してきます。
それは、青いルートとの間のバイパスを二か所に作るんですね。
そして、もう一か所、海のルートで沖縄へのルートも開かれていた
ことが分かってきました。
で、ここまでくると、お分かりいただけると思いますが、
この青で示したエリアの所を狗奴国連合、で、
黄色のエリアで示したところが、邪馬台国連合に後になっていくという、
その状況というのが、2世紀の頃でも、実はもうすでに、
伏線としては、エリアが出来ている。
愛媛大学の村上さんからの入れ知恵もあっての話なのですが、
鉄のルートそのものが
2色に大きく塗り分けられるということなのです。
で、それを背景にしているのだろうな。ということです。

(もう一つですね。)
で、2世紀の中ごろに、黄色のエリアを模索したもう一つのバイパスが
四国の高知を介して、紀伊半島から高知・豊後水道をいくという
エリアですね。これが九州側から銅矛がやって来て、大和側から
銅鐸がやってくるという、そんなような形で、開かれてきたのですが、
それは、何かというと、青の存在が構造的に、対立関係を
持つからだというふうに考えられるんじゃないか。ということですね。
ということで、邪馬台国連合と狗奴国連合というような形で魏への朝貢を
「是」とするか、「非」とするか、をめぐって顕在化した対立関係。
その背後には、そもそも鉄の資源をどうやって入手していくか、
というところに二色に塗り分けられて、それぞれが、
大陸の情勢にものすごく精通している。
これを前提として考えてみれば、
239年から247年頃までの一時的な抗争であった可能性は、
高いだろうなということなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・15分04秒

北條先生の講演記録(6)

で、卑弥呼の擁立の時には、競合しつつ連携。で、
ここ(239~247年頃)で対立関係になり、また、
ここ(台与の時)で、競合しつつ連携するというような形です。
この対立関係が深くなると、抗争になり、競合しつつ連携というのは、
卑弥呼が死んだあとで、一度男王が立ちます。
男王が立ったのでは国中が服さずに、結局、競合しつつ連携という
状況になってくる。で、この時には、(こちら側の)有明海沿岸の
右側が・・・狗奴国と邪馬台国の戦いの方では、(狗奴国の方が)
優勢に勝った可能性も考えられるということです。

何故かというと、「もって卑弥呼死す」と、あります。
(で、「もって」の前、・・・)
「もって」というのは、因果関係を示す接続詞です。
その(「もって」の)前に、何があるかと、狗奴国との抗争ですから、
狗奴国との抗争があって、「もって卑弥呼死す」なので、
卑弥呼は敗戦の責任を負って(取って)、自殺をしたのか、
あるいは、殺された可能性も考えられるということです。
で、その次に、じゃあ、どこで男王が立つか、というと、
戦勝国側だと考えるのが一番自然ではないでしょうか。

となると、次に立つ男王というのは、卑弥呼の遺体を丁寧に
葬ることによって、で、男王として君臨する。
(そうなると)箸墓に突如、特殊器台、吉備産の埋葬施設の
象徴のものが出来上がり、吉備の要素が一番色濃く出てくるという様相は
今、申しましたような・・・・・・考えられると思うわけですね。

(ここまでが、「狗奴国は吉備と熊本の連合」という、
 私の説の概略になります。)

(質問):・・・。

(時系列をさかのぼりますが、)吉備と熊本が、非常に深い連携を
 持っているのではないかという話の背後にありますのは、
(実は、私本来の専門としていう)貝製品・腕輪型貝製品の祖形の
流れですね・・・。
(何を申し上げたいかと言いますと)(今、画面がないのですが)
岡山県の岡山市にある「南方(みなみがた)遺跡」から
「ごほうら」と「いも貝」を加工した跡が分かってまいりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・一段↓18分00秒

北條先生の講演記録(7)

どういうことかいうと、
(図)この青い色(道)が、「貝の道」と云われているのです。
で、沖縄産の貝を北に流す。で、途中、北部九州を介するのですが、
このルートと並行して、豊後水道を上がって、岡山まで到達するという
もう一つの枝葉(ルート)が、弥生時代の中期の後半には、出来ている
ということが、分かってるわけです。

(で、なやましい話なのですが、)この「南方(みなみがた)遺跡」は、
20年前に発掘調査をしています。
だけれども、非常に大きな溝があって、・・・。溝の中の土を全部
(研究のために)持ち帰ったのですね。(教育委員会が)
だけれども、(その土が)あまりにも大量だったものですから、
まだ~がないまま、まだ報告書が出てないのですね。
だけれども、その後、毎年毎年、とにかく土を洗っていたのです。
そうしましたら、5年前から、突如、貝が出始めた。で、その貝が
「ごほうら」だったんです。
なので、まだ、(報告書が出てないので)学会で知られていない話
なのです。だけれども、最初に、熊本大学の木下尚子さんが聞きつけて、
(海人伝承考 : 「貝の道」譚復元の試み:2000年)
(概要: 弥生時代から古墳時代にわたり、
 奄美・沖縄の大型巻貝を九州以東に届けた海上交易路、「貝の道」。
 連綿たる交易が生んだ黒潮海域を専門に往来する海人が
 語り伝えたと考えられる一つの説話についての試論である。)

(負けちゃったんで、くやしいのですが)木下尚子さんが、
やっているというのを耳にして、負けてはならないということで、

去年ぐらいから、(私・東海大学も参加している?)なんですが・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・19分00秒

北條先生の講演記録(8)

毎年毎年、まだ、土を洗っているのですね。
それも、(地方自治体の)公共事業
ですから、毎年度の年度末に余ったお金があれば、若干の人件費を、
土を洗う方に回せるということで。
まだですね、全体の2/3に達していないという話で、
担当者も定年退職を迎えそうなのですけれども、・・・。
そういう重要な発見が、今、ありまして、なので、
岡山というところは、やはり、弥生時代の中期にですね、
「貝の道」にしっかり接していて、で、沖縄でしか
採れない特産物を、岡山まで持ってきて、(だけれども)
岡山の場合にはですね、「腕輪」にはしていないのです。

あの~、メインルート(北部九州)は、全部「腕輪」に
行っちゃうんですけど、枝葉なもんですから、こんなでかい
「ごほうら」をこれぐらいの(小さい)ペンダントにしてしまうんです。
ペンダントにして、(だけれども)おそらく東に回していますね。
ということで、これは、(岡山から)東側に沖縄の文物を回す
拠点として(岡山は)、かなり重要な意味を持っている。

で、申し上げたいのは、
こういう図式であれば、「貝の道」つながりで、有明海沿岸の集団と
吉備の集団が結びつくという、背景は理解できるだろう。

それから、もうひとつですが、古墳時代の5世紀になりましたら、
「直弧紋」
(大陸から渡来した紋様ではなく、我が国独自に作られた紋様が直弧紋
 です。弧紋を直線と組み合わせたものを、直弧紋と呼ぶそうです。)
という、「貝製品」にも、刻まれる文様が、発達する場所が
どこかというと、吉備と熊本ですね。で、
熊本と吉備は、非常に深い結びつきがあります。と、

弥生時代の後期になりましても、何故か、有明海の沿岸に
吉備の集団が集団移住したとしか、考えようがない、
吉備の土器しか出てこない遺跡が一か所だけ見つかります。
おそらく、今後も見つかってくる可能性が高い。

そんなことから、「狗奴国:肥後・吉備連合説」というのは、
最初は、理屈の上で始まりましたが、ようやく、少し、
情報(証拠立て)が積み上げられる状況に来てるんじゃないかなと、
いうふうに考えている次第です。(どうもスミマセン。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北條先生の講演記録(9)

(質問):
宮崎の西都原の古墳群ですが、弥生時代後期の集落はあるけれど、古墳
時代の集落はないので、困っているという話を(資料館で)聞きました。
西都原の古墳群を弥生時代後期の人のお墓にしてほしいのですが・・・。

(北條先生)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ただ、面白いことに、(宮崎は、今、非常に私も注目しておりまして、)
あそこのところが、さっき、言いました、熊本から阿蘇の南側を越えて
豊後水道側におりる(通じる)太いパイプがあるのではないか、
と思うのですけど。そこにですね、免田式土器(鉄器を持っている集団)
の土器が点在し、で、その延長線上(宮崎に入ったところで)
いも貝製の貝輪を持っているんですね。
そのルート、というところで、今、注目されるべき場所で・・・・・。

(質問):
狗奴国側の男王が立ったというのは、分かるのですが、
その次に、宗女「台与」が立ったというのは、
どういう風に、考えたらよろしいでしょうか。

(北條先生):ありがとうございます。
狗奴国と邪馬台国の対立というのが、実は、卑弥呼の死によって
収束し、で、吉備の連中が王を立てる、それが男王です。
だけれども、吉備(の男王)が立ったのでは、国が治まらないと
いうことで、おそらく、その男王を廃されて、
で、立ったのが宗女「壹与(台与)」で、で、その段階で、・・・・。

宗女「台与」の前方後円墳は、「西殿塚古墳」ではないかと、
考えています。で、その裏側にある、ひっそりと隠れたように
あるのが、廃された男王の墓ではないかもしれないな・・・。
何を申し上げたいかと言いますと、箸墓古墳の段階では、
吉備発の特殊器台が非常に吉備的な特徴を明瞭に持っている。
まさに、吉備オリジナル。あれだったら、まさに、
吉備が王権の中枢に立ちましたよ。と言えるんです。

:西殿塚古墳(にしとのつかこふん/にしとのづかこふん)は、
:奈良県天理市中山町にある前方後円墳。
: 宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として
:第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

北條先生の講演記録(10)

次の西殿塚古墳になった瞬間に、吉備色が急速に抜け落ちて、
普通の円筒埴輪に(急速に)展開していく、と。そういう中に、
まさに、妥協という産物・・・「壹与(台与)」というのは、
2代目の「卑弥呼」、「(初代)卑弥呼」のコピーという図式で
展開し、ようやく、「壹与(台与)」の段階になると、
高句麗のほうがヤバくなって来るものですから、そういう中で、
とりあえず、魏との朝貢というところに、落ち着く。
で、だけれども、それも長続きしないです。長続きしないというのは、
それも、日本側が選んでいる可能性があるんじゃないかな。
(そんなところで、よろしいでしょうか。)

(質問):御諸山、名前を変えたのは・・・。

(北條先生)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
日本は、東西の重視(日の出・日の入り)。3世紀に
中国の影響がもろに入って来ていたら、南北の重視のはずなんです。
それが、東西の方を重視するというのが実はミソで、古代中国では、
すでに捨て去ってしまった古層のものの方を重視している。何故か
というと、水稲農耕民にとって、もっとも説得力のある「宇宙観」は、
こちら(東西重視・太陽信仰)だからです。太陽の運行だからです。
だから、中国の方は、無理して抽象化しているんじゃないかな。
(天空の1点にとどまっている)北極星(皇帝)が、中心にある
というのは、農耕民の発想の中からは、出てきません。
ようは、(太陽は)めぐるんですね。
だけれども、夜になって、はじめて方位が定まるというのは、
遊牧民であったりとか、海洋航海民なんです。なので、
そちら側の思想を入れることによって、抽象化させる。
そういったことをしながら、中国の王権というのは、非常に
クリミティブな(プリミティブ (primitive)とは、「原始的」「素朴な」
「幼稚な」という意味。)原始的な所から、何とか飛躍しよう、
ということで、労力を積み重ねてきて、だから、抽象的になって
きているのだけれども、もっとも説得力のあるのは、
こっち、「東西方位」と、いえるのではないか、
と私は思うのですが・・・。
(終了:約30分)

講演会の感想 - 米田

2022/07/18 (Mon) 00:33:57

講演会の感想

│1. 戦後歴史学・考古学が求めた「科学的歴史学」 
│(4)神武東遷の実在性を追求した原田大六
│(6)学界からの無視
│しかし原田は、(云々)説いたのです。
│この後段の主張を展開したことにより、原田説は当時の
│日本考古学界から完全に無視されました。上述のとおり
│戦後の考古学は記紀神話との決別および科学的な歴史学を
│標榜していたため、神話と考古学との直結を主張する
│原田の主張とは相容れなかったのです。

<自己紹介>
:「邪馬台国」や「神武東遷」については、不明(保留)の立場です。
:ニギハヤヒの東遷は、あったと思っています。
:「記紀神話」と「考古学」と「(主に)風土記」を直結させています。
:「系図」と「シンメトリック論」と「風土記」・「三国史記」等の史料を
:アマチュアとして、好き勝手に研究している人間(オタク)です。

(感想)
:戦後歴史学の流れがよく分かりました。
:「平気法」・「定気法」は、理解が追いつけませんでした。


│2. 大和弥生文化の日の暦と大和東南部古墳群
│(2)唐古・伴遺跡と日の出暦の導入
│たとえば山桜が咲き始めた日の朝日が昇った峰に照準を合わせれば、
│4月上旬と共に9月上旬が自動的にセットされるという仕組みです。
│この原理に沿って稲の生育期間との調整を図ればよく、日の出暦は
│奈良盆地に適した農事暦としても運用されたに違いないのです。


『後漢書韓伝』
:毎年五月の耕作が終わると、鬼神を祭り、云々。
:十月にも、農作業が終わって後、云々。
:辰韓の老人たちは〔つぎのように〕言っている。
:〔私たちは〕秦から逃れてきた亡命者です。

<「三正」(ウィキペディアより)>
:戦国各国は夏正を採用した。秦は他国とは異なる顓頊暦を採用していた。
:月配置は夏正によるが(健寅月が正月)年始が正月の健寅月ではなく
:建亥月となっていた。←(旧暦の10月を正月にしている。)
:この顓頊暦(せんぎょくれき)が秦から前漢初期にかけて用いられて
:いたが太初の改暦にて年始を正月の建寅月とし、現在に至るまで
:2000年以上中国暦(旧暦・農暦)の年始には夏正が用いられている。

(感想)
:「4月上旬と共に9月上旬」が、旧暦の「5月・10月」だとすると、
:神無月(10月)→出雲の「神有月」に関連しているように見えます。

:秦からの亡命者(移住者)が、倭国にも流れ込んできたように
:思います。(時期は、不明ですが。)

:東殿塚古墳や西山古墳などは、勉強不足ですが、箸墓古墳から
:北に向かって、祭祀の系統の違う集団が、移っていく話は
:興味がわきました。(150年くらいの時間の経過でしょうか。)

:学生さんの、「天照大神」が男に見えるという話でしたが、
:「天鈿女命」を若い娘と考えると、そう見えますが、私の
:系図研究では、年齢的には「乳飲み子」で、むずがっていて、
:肌着がほどけた。「天照大神(母)」は、我が子の泣き声に
:負けて「天の岩窟」から覗いた。そんなことを考えました。

北條会長「初期大和政権成立プロセス論」私的メモ 当世奇妙

2022/07/17 (Sun) 08:53:10

昨日の北條会長のご講演は景観史・考古天文学による初期ヤマト政権成立プロセス論であった。
以下はその筋である。
その中で:
「三雲遺跡の様相を熟知した人物「日知り=聖」が直接奈良盆地を訪れた」とあるが、それはどのような人だったか?会長は質問に答えて伊都国の人と話されたと記憶しているが、色々な可能性があるのではないか?

北條会長初期大和政権成立プロセス論メモ
1.弥生文化の倭人が重視したのは日没方位の「去にし」ではなく日の出側の「日向かし」だった可能性が高い。
2.北部九州の弥生文化に限れば、後漢の暦が倭人側の日の出・日の入暦に模倣・転写された可能性は高い。
3.田原本町唐古・鍵遺跡は紀元前5世紀代(板付2b式期)頃、北部北九州の日の出暦を導入した。
4.日の出・日の入暦は北部九州から奈良盆地に二次的に波及。
5.唐古・鍵遺跡に稲佅をはじめとする稲作体系を導入したのは北部九州地域の渡来系弥生人。
6.弥生時代中期後半の前1世紀になると、中国王朝の郊祀からの影響や冬至祭との関わりで、冬至の日の出の峰である三輪山が重視された。
7.弥生終末期ないし古墳前期初頭を迎えると、初期大和政権は唐古鍵遺跡を放棄して 龍王山の山麓地帯に本拠地を新設する。それが桜井市纒向遺跡であり、成立は西暦2世紀末頃。
8.太陽や月の運行に沿わせる伝統的な坐東朝西の方位観念を古相と呼べば、纒向古墳群では古相を採用するものが圧倒的に優勢。
9.纒向古墳群は総じて弥生文化の伝統を色濃く反映するもの。
10.中国側の太陰太陽暦に精通した人物が2世紀のどこかで伊都国を訪れ、平原遺跡を含む三雲遺跡の要所に柱(圭表)を用い、日の出・日の入暦に転写する恰好で、倭人向けの暦計を設置した可能性は高い。
11.三雲遺跡の様相を熟知した人物「日知り=聖」が直接奈良盆地を訪れ、東側の山並の情景が故地と類似する場所を探し求めた結果で誕生したのが纒向遺跡の大型建物D。
12.纒向遺跡の大型建物Dは、三雲・平原暦計からの二次的な移植によって成立した祭礼空間であった可能性が高い。
13.纒向遺跡の大型建物群は唐古・鍵遺跡からの日の出暦を破棄し、山際に観測点を移設することで成立したとも評価される。
14.纒向遺跡の大型建物群は箸墓古墳の築造を最後に遺跡自体が衰退し、布留1式期 の4世紀前半には消滅。
15.その代わり活性化したのが巨大前方後円墳の造営で大和東南部古墳群の誕生を迎える

全ての系統は、絶滅に向かう 石見介

2022/07/16 (Sat) 23:23:23

 米田喜彦さんの系譜復元で、私に理解できなかった、古代の氏族が、すべて大王家に一元化され、個々の「氏(うぢ)」が成立し得なくなったり、或いは、大陸、半島の君主と日本の大王の自在な入れ替わりの、根本的な発想の根拠が、やっと呑み込めました。
 ヒトの「ネズミ算式増加」が、根底にあったのですね。
 おそらく。米田さんのご家系は、生殖力が旺盛で、ご一族が、どんどん増えておられる状況なのでしょう。

 
 生物学の有名な格言で、「全ての系統は、絶滅に向かう」というものがあります。もう老いぼれてフレイル状態の私には、誰の言葉だったか、思い出せません(ヘッケルだったかな?)が、生命発生以来、多くの種が滅び、又、多くの系統が、滅んで行った状況を、俯瞰した言葉です。

 又、遺伝人類学でも、同世代で、子孫を残すのは、1/3程度かそれ以下とされています。
 「ネズミ算」は、「数学」上の話であり、他種や同種内での厳しい競合、所謂「生存競争」という環境下にある「生物」界では、通用しない、即ち、「生物学」上の話ではないのです。
 まあ、ヒトはかなりその制約を、免れてはいますが、同時に、同種大量殺戮の可能性も、近づき始めています。

 古代や中世でもそうですが、食糧その他の資源の制約は絶対的で、それがおのずから、支配層の数も制限します。全員が王族で、徒食するわけにはいきません。農耕その他、各種の労働が必要です。
 王族は、先ず自分を食わせるというか、養う人々がいて、初めて、王族足り得るのです。
 「みぶ(乳部)」が必要なのです。
 王族が、臣籍降下して、養育氏族=乳部になったり、地方や中央の豪族になるのは、何処でもあることですが、王族以外の「うぢ(氏)」が、存在しなくなるような事態は、極めてまれであり、事実上存在し得ないと、私は、考えます。

 まして、父系氏族外婚制社会を形成する、遊牧民では、ほぼあり得ない状況です。
 とは言っても、有る父系出自血縁集団(氏族)が、肥大化する場合もあり、ツングース系民族の例では、「氏族の分割」が行われる場合もあります。
 この場合、通常の「ハラ」という名称は避け、分割した分枝は。それぞれ「モクン」と呼ばれます。
 氏族の分割に際しては、シャーマンが、祖先を両者に分けるそうです。
 逆に、弱体化した氏族(ハラ)は、他のハラに、吸収される事もあるそうです。

 余談ですが、昔、このことを書いた本を読んだ時に、物部氏の祖先とされる「ニギハヤヒ」後裔を称する氏族群と、神武に続く日向三代の系譜が、「氏族分割」された可能性を、検討した事があります。
 ニニギとニギハヤヒ、ホデリ、ホスセリ、ホヲリとホアカリ等の、名称の類似に目を付けたのですが。

 上記、氏族の分割や統合吸収の事例は、環境の厳しい遊牧民地域の話で、農耕民の地域ではありませんが、アルタイ系の父系出自集団、氏族を意味する語彙のハラ、カラ、hala、kala,xalaは、上代日本語の親族を意味する「から」(うから、やから、はらから)は、現代でも「家柄」とか、沖縄の親族組織「門中」の方言形「から」に残されています。

RE: 新羅の過大評価 - 米田

2022/07/13 (Wed) 23:11:41


│新羅の過大評価 - 石見介  2022/07/12 (Tue) 01:30:49

│米田さんと、系図抜きの話が、不可能なので、どうやっても、
│議論が噛み合わない。
│正史に記載のある人物の、「性転換」や、複数人の同一視も、
│私には受容できない。
│せめて、中国側史書に登場する人物(半島や日本の人々)の性別や、
│同一視は、当人が中国本土に足を踏み入れている場合は、
│「無い」という事ぐらいは、米田さんにも、認めてほしいものだと思う。

:石見介さんとは、系図抜きでも、議論が出来ると思っているので、
:(討論では、)その可能性を探っています。
:(以下、系図に対する考えは、いちおう書いておきます。)

:「複数人の同一視も、私には受容できない。」
:(ここから先の数字は、でたらめな数字による発想と思って下さい。)
:日本書紀に書かれている時代をAD1年からAD700年とすると、
:その700年の間に、人口は、増えたとしても10倍程度でしょう。
:700年頃の貴族の数は、中央で、約200人、全国で約2万人。

:極端な言い方をすると、『古代豪族系図集覧』や「記紀」は、
:新撰姓氏録の約1200人の(男系の)先祖は、100人以上と推定。
:私は、(男系の)先祖はせいぜい10人程度だろうと推定しています。

:ねずみ算を持ち出すまでもなく、700年もあれば、一人の男子から
:1000人以上に増えるのが当たり前の筈なのです。

:歴代の天皇家の子孫だけでも、AD700年頃には、1万人くらいは、
:いても不思議ではありません。彼らはどこに消えたのでしょうか。

:消えたのではないとすると、考え付く先は、近親結婚の日常化。と、
:内輪もめ(相続争い)による淘汰。(後は臣下に下る。)

:さらに、系図の改ざんとして物部〇〇と蘇我〇〇は、同一人物だろう、
:と考えました。(記紀は、系図の改ざんをしている。)

*****

「当人が中国本土に足を踏み入れている場合は、「無い」という事ぐらいは」

:個々の部分について、(意見の述べると、)
:遣唐使(702年)の「栗田真人」と(717年)の「多治比縣守」は、
:新唐書の方でも、同一人と書いているし、『古代豪族系図集覧』でも
:父親の名前は、「粟田島」・「多治比島」ですから、同一人物と
:考えられます。
PS
:天武14年(685年)直大肆(従五位上)粟田朝臣真人は、位を父〔嶋〕に
:譲ろうとした。しかし、詔して許さなかった。(日本書紀)
:和銅元年(708年)大宰帥に任ぜられ、元明朝末の和銅8年(715年)
:正三位に至る。元正朝の養老3年(719年)2月5日薨去。(wiki)

:(比較の例):天武天皇──舎人親王──御原王(正三位)

:宣化天皇──上殖葉皇子──十市王──多治比島(正二位)──多治比縣守

:粟田朝臣真人(縣守)の正三位は、天皇の孫に匹敵する地位だったと、
:思います。おそらく母親の地位がかなり高かったのだろう。


│あえて言えば、唐や新羅は、日本側上陸部隊が、百済の遺民を伴って、
│「列島に撤収する」のを、歓迎、もしくは、黙認したとも、考えられる。

│もしそうだとすれば、唐や新羅の目的は何か?
│半島南部の支配の妨げになる、列島の軍勢と、抵抗勢力≒百済の遺民
│(のある部分)の「退去」が、目的だったのだろう。

│そのような状況下では、新羅の「日本占領」とか、「一時的な統治」
│などは、あり得ない。


『蘇 定方(そ ていほう)』(ウィキペディアより)
:蘇 定方(592年 - 667年)は、中国の唐の軍人。
:定方は三カ国を滅ぼし、いずれもその王を捕らえたため、賞与の珍宝は
:数えきれず、子の蘇慶節は尚輦奉御の位を加えられた。
:まもなく定方は遼東道行軍大総管となり、また平壌道行軍大総管に転じた。
:高句麗の軍を浿江で破り、馬邑山の敵営を落とし、平壌を包囲した。
:大雪に遭って、包囲を解いて帰還した。涼州安集大使に任ぜられて、
:吐蕃や吐谷渾とも戦った。乾封2年(667年)に76歳で死去すると、
:高宗はかれの死をいたんで、左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈した。

※:石見介さんの考え方には、基本的には賛成です。ただ、
_:結論は、違います。この辺りは、私は、「小林惠子(やすこ)」氏の
_:影響を受けていますので、「蘇定方」と「新羅」は、
_:何らかの裏取引き(&茶番)をしていたのだろうと、考えています。
_:20年以上前に、読んだので、記憶は定かではありませんが・・・。


│又、百済王族が、将来的に、羈縻州の都督になることが判っていても、
│尚、抵抗する「百済遺民」とは、一体、どのような存在なのだろうか?
│私は、半島倭種に属する人々ではなかったか?と、想像する。

※:私は、どちらかというと、魏志韓伝に出てくる小国の支配者たちの
_:末裔たちが、抵抗する「百済遺民」の中心だったと、考えています。


│封禅に参加した「倭国」使は、実際の倭国のどの水準の支配者の
│「使者」だったのか?

│(云々)。勿論、中央の政権は、出先の交渉は承知し、
│大まかな指示も出していた可能性が高い。
│にもかかわらず、「偽使」が横行した、室町時代的な、「倭国使」を、
│私は、想定したくなる。
│『善隣国宝記』等を見ても、京や近江の朝廷は、及び腰で、
│「現場」の筑紫で、大体は、対応しているように、思われる。


(修正:2022-07-11)記述を下記のように、修正します。

:「守(君)大石」は、倭国王の名代(全権大使)だったのだろう。
:「坂合部磐積」と「境部宿禰(このしろ)」は、同一人物だろう。

*****

:前回の投稿の後、それなりに調べてみました。

(その1)
:「守(君)大石」は、その素性は、分かりませんでした。

(その2):「坂合部磐積」と「境部宿禰(このしろ)」について
:蘇我稲目(570年没)──境部魔利勢(628年没)
:系図を調べると、「境部魔利勢」がいました。
:この人の子孫の可能性が高いと、考えます。


(その3-1):筑紫の支配に関して。(「橘氏」)

:敏達天皇──難波皇子──栗隈王(筑紫率)──美努王(太宰大弐)

:─美努王─┬─橘諸兄(左大臣正一位)
:_____└─牟漏女王(藤原房前室)


(その3-2):「橘」について

:「用明天皇」の名前は「橘豊日天皇」です。「橘」ですので、
:「日本」に取って代わられた「倭国」の王族は、この「橘」の
:系統(&蘇我氏の一部)だったのではないかと想像しています。


(その他):「嶋皇祖母命」について(「歴史読本1993年9月号」より)

:「日本書紀」において「嶋皇祖母命」と尊称されたのは、吉備姫王と
:糠手姫皇女の二名いたと思われ、両名とも天智・天武天皇の祖母に
:あたる。
:「倭国」から「日本国」に代わる時に、
:「吉備姫王」から「糠手姫皇女」に「嶋皇祖母命」の尊称が代わったと
:思われます。これは、国の変更による、「国母」の変更と推測します。

新羅の過大評価 石見介

2022/07/12 (Tue) 01:30:49

 米田喜彦さんと、系図抜きの話が、不可能なので、どうやっても、議論が噛み合わない。
 正史に記載のある人物の、「性転換」や、複数人の同一視も、私には受容できない。
 せめて、中国側史書に登場する人物(半島や日本の人々)の性別や、同一視は、当人が中国本土に足を踏み入れている場合は、「無い」という事ぐらいは、米田さんにも、認めてほしいものだと思う。

 史書は、編纂者或いはそれを命じた者の、意図が、当然反映している。それは、大陸、半島、列島の、何れの時代の何れの国においても、同じ事で有る。
 『三国史記』は、王氏高麗の儒臣、慶州金氏の末裔、金富軾の手になる。
 当然、新羅やその王家慶州金氏、外戚の金海金氏は、美化され、過大評価されて、描写されていることは、前提で、記事を読まなければならない。

 白村江の戦いは、海戦としては、日本側の大敗である。戦略目的の「百済復興」にも、失敗している。
 評価が難しいのは、「陸戦」である。
 大敗したにもかかわらず、百済の遺民の多くと、上陸していた日本軍の相当部分が、日本に、引き揚げている。
 海峡を、唐・新羅水軍が、遮断、封鎖して、取り残された上陸部隊を、包囲殲滅、或いは降伏させた、という、当然考えるべき戦略が、実施された形跡は、はっきりしない。
 あえて言えば、唐や新羅は、日本側上陸部隊が、百済の遺民を伴って、「列島に撤収する」のを、歓迎、もしくは、黙認したとも、考えられる。

 もしそうだとすれば、唐や新羅の目的は何か?
 半島南部の支配の妨げになる、列島の軍勢と、抵抗勢力≒百済の遺民(のある部分)の「退去」が、目的だったのだろう。
 そのような状況下では、新羅の「日本占領」とか、「一時的な統治」などは、あり得ない。
 又、百済王族が、将来的に、羈縻州の都督になることが判っていても、尚、抵抗する「百済遺民」とは、一体、どのような存在なのだろうか?
 私は、半島倭種に属する人々ではなかったか?と、想像する。

 封禅に参加した「倭国」使は、実際の倭国のどの水準の支配者の「使者」だったのか?
 記録のはっきりする中世日本の、「京の朝廷」ではなく、その「遠の朝廷(みかど)」たる「筑紫の大宰府」に相当する存在、筑紫大宰のような者の使者ではなかったのか?
 勿論、中央の政権は、出先の交渉は承知し、大まかな指示も出していた可能性が高い。

 にもかかわらず、「偽使」が横行した、室町時代的な、「倭国使」を、私は、想定したくなる。
『善隣国宝記』等を見ても、京や近江の朝廷は、及び腰で、「現場」の筑紫で、大体は、対応しているように、思われる。

RE:白村江の敗戦処理 - 米田

2022/07/10 (Sun) 23:42:35

RE:白村江の敗戦処理

『羈縻政策(きびせいさく)』(ウィキペディアより抜粋)
:羈縻政策とは、中国の王朝によっておこなわれた
:周辺の異民族に対する統御政策の呼称。
:古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。

:概要
:これらの具体化は、領域化(内地化)・羈縻・冊封などの形態を取った。
:次に、冊封とは、周辺民族・国家の首長に王や侯といった中国の爵号を
:与え、形式的な君臣関係の元に中国の支配秩序に組み込むことである。
:両者に対し、羈縻とは、特に中国に近い友好的な国王・首長を選び、
:都督・刺史・県令などに任じ、彼らがもともと有していた統治権を
:中国の政治構造における官吏であるという名目で行使させたものである。
:このような羈縻政策が適用された地域を羈縻州あるいは羈縻衛所という。


『三国史記・新羅本記』(文武王)
:(663年4月)大唐はわが国を鶏林大都督府とし、わが王を鶏林州大都督とした。
:(665年8月)扶餘隆を熊津都督とし、(云々)。そこで劉仁軌は、
:わが国(新羅)の使者および百済・耽羅・倭人の四国の使者を
:ひきつれて、海上にでて、西方にかえり、会盟して泰山を祭った。


『遣唐使』(ウィキペディアより)
:665年12月に(定恵や郭務悰と共に)来日した唐使の劉徳高らを送る。
:送使であるが、旧唐書本紀などに拠れば高宗の封禅の儀(即位式)
:への参列を求めた使節であるとされる。翌666年1月に
:封禅の議は既に行われており、道中日程を考えれば時機を
:逸しているが、劉徳高に比べ守大石の官位がかなり高いこと、劉徳高が
:封禅の儀の会場である泰山に近い地域の役人であったことなどから、
:送使とは言いつつ、式典参列を意図した使節である可能性が高い。
:これは白村江の戦い以降に悪化していた唐との関係改善を、
:日本側が求めていた動きであると推測される。
:667年11月、唐の百済鎮将(旧百済占領軍)の劉仁願が派遣した文官
:(熊津都督府熊山県令)の司馬法聡と共に帰国。
:ただし帰国の際の代表は坂合部磐積となっており、
:守大石は唐に留まったか、現地で死亡したと推測される。

『劉 仁軌(りゅう じんき』(ウィキペディアより)
:龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を
:白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。
:さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。
:麟徳2年(665年)高宗が泰山で封禅を行った際には、
:新羅・百済・耽羅・倭4国の首領を率いて参加し、大司憲を拝し、
:右相兼検校太子左中護に進み、楽城県男に封ぜられた。
:総章元年(668年)には熊津道安撫大使兼浿(ばい)江道総管となり、
:李勣に従って高句麗を平定。金紫光禄大夫を拝し、云々。
:上元元年(674年)には鶏林道大総管に任ぜられ、新羅の文武王を
:討って(唐・新羅戦争)大勝し、
:上元2年(675年)には左僕射となって朝政に参画した。
:光宅元年(684年)、楽城郡公に封ぜられた。
:垂拱元年(685年)正月、(云々)として在職中に没した。享年84。

********************************

拙論「善徳・宝姫・智祥」についての考察(2016年)より
(倭国と新羅の奇妙な一致:女を男に、書き直していると思われる人物)

(その3):沙門『智祥』についての考察
(沙門:バラモン階級以外の出身の男性修行者)

天智天皇3年(664年):是日(10月1日)、
中臣內臣〔鎌足〕、「沙門智祥」を遣わし、物を郭務悰に賜わった。
※:藤原鎌足(614年生・669年没)
※:金庾信_(595年生・673年没)『三国史記・列伝』より
_:673年秋7月、〔庾信は〕私邸で薨去した。享年は、79歳であった。
_:〔庾信の〕妻は、智炤(:ちしょう)夫人で、太宗大王の第三女である。
_:〔庾信の薨去の〕のち、智炤夫人は髪をおろし、あら布の衣を着て尼僧になった。
_:(:712年)庾信の妻に毎年穀一千石を賜る。
(新羅本紀_:685年):大阿湌の福世(ふくせい)を〔菁州の〕摠管にした。

:天武朱鳥元年(686年):正月、この月、新羅の「金智祥」を饗応する
:ために、川内王、大伴安麻呂、藤原朝臣大嶋、境部宿禰(このしろ)、
:穂積朝臣虫麻呂らを筑紫に派遣した。
:天武朱鳥元年(686年):5月、「金智祥」らを筑紫で饗応した。
:そして筑紫から退〔去〕した。

│〔庾信の〕妻は、智炤(:ちしょう)夫人で、太宗大王(:孝徳天皇)
│の第三女である。5人の子を生み、長男は三光伊湌、二男は元述蘇判、
│三男は元貞海干(波珍湌)、四男は長耳大阿湌、五男は元望大阿湌で
│女子が4人いた。
│また、庶子の軍勝阿湌は、その母の姓氏を伝えていない。
│〔庾信の薨去の〕のち、智炤夫人は髪をおろし、
│あら布の衣を着て尼僧になった。

※:簡単に書くと、これだけです。

********************************

│武烈王の遺言を見れば、日本を警戒していることは明らかなので、
│日本側が、新羅ではなく、唐との協調に傾いていたことは、
│間違いないだろう。

:(663年)わが王(新羅王)を鶏林州大都督、云々ですから、
:百済(都督)・倭国(?)は、新羅より格下になると思われます。

※:結論としては、倭国は『羈縻政策(きびせいさく)』というよりも
_:(一時的には)新羅の支配下にあったと、考えられます。


│:麟徳2年(665年)高宗が泰山で封禅を行った際には、
│:新羅・百済・耽羅・倭4国の首領を率いて参加し

:なお、この記述を読む限り、系図解読マニアの感覚からすると、
:遣唐使の「坂合部磐積」・「守(君)大石」、
:新羅の「金智祥(智炤夫人)」を饗応した「境部宿禰(このしろ)」
:の3名(さかいべ)は、同一人物で、
:なおかつ、倭国王の名代(全権大使)だったのでは、ないだろうか。

※:そんな気がします。


(修正:2022-07-11)上記の記述を下記のように、修正します。

:「守(君)大石」は、倭国王の名代(全権大使)だったのだろう。
:「坂合部磐積」と「境部宿禰(このしろ)」は、同一人物だろう。

白村江の敗戦処理 石見介

2022/07/05 (Tue) 23:52:17

 米田喜彦さんの遣唐使の分析は、面白いが、日本・半島をまたいだ、天皇/大王、半島3国等の国王系譜の話が、入って来ると、私には、受容不可能となる。

 天智天皇(新羅系)、天武天皇(百済系)というのも、天智が「親百済系」、天武が、「親新羅系」というのが、一般的な説のように思え、違和感がある。

 しかし、白村江の敗戦後の、戦争処理は、一体、どの程度の危機感が、日本側にあったのだろうか?
 百済式山城を、九州などに築城しており、近江への遷都も行っているので、それなりの危機感はあったと思われるが、戦後すぐに始まった,唐と新羅の半島南部の主導権争いは、当然、倭国も、認識していただろう。

 唐の対外政策の基本が、羈縻政策であり、仮に、倭国が占領されても、筑紫や大和に「都督府」を置き、倭国王が、都督に任じられるだけである事は、理解していただろう。
 天智としては、倭国が分割され、「海東都護府」を大和に設置され、「竹斯都督府」「吉備都督府」「尾張都督府」「毛野都督府」などが、分置されるような状況を、怖れたのかもしれない。

 しかし、列島内が分裂しない限り、海を越えての遠征など、あり得ない事は、理解していたと思われる。
 新羅の動きは、日本側の記録には、あまり見えないが、白村江戦前の金春秋の動きを考えると、水面下で、接触を図っていたであろうことは、想像するに難くない。
 武烈王の遺言を見れば、日本を警戒していることは明らかなので、日本側が、新羅ではなく、唐との協調に傾いていたことは、間違いないだろう。
 白村江敗戦後、多くの百済系渡来人(おそらく、実際には、倭種だった可能性も高い)を受け入れた関係もあり、新羅との連携は、困難だったのだろう。

白石楠花さんへ 当世奇妙

2022/07/01 (Fri) 08:08:00

台与の墓でも可能性はありますが、卑弥呼の墓の候補がないですね。

邪馬台国畿内説では纏向型古墳のどれかとする説
がありますね。

卑弥呼の墓の候補がなければ邪馬台国は畿内で
ない可能性もありますね。

敗戦から独立への流れ - 米田

2022/06/29 (Wed) 17:39:41

敗戦から独立への流れ
(α群と遣唐使・粟田真人の考察)


│1945年8月15日。日本国民にとって敗戦の日となる(終戦の日)。
│1951年9月。連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。
│      通称はサンフランシスコ講和条約。
│この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認。国際法上、
│この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。


│663年。白村江の戦い。
│救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。
│この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という。

│660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を
│羈縻支配(きびしはい)の下に置いた。
│唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、(云々。)


│「白村江の戦い」で負けた後、倭国と唐の関係は、どうなったか。

:5次から7次の遣唐使の派遣は、敗戦国のご機嫌伺いに見えます。
:8次の遣唐使は、さしずめ、サンフランシスコ講和条約でしょうか。

:粟田真人は、出来上がったばかりの「日本紀」を持参したかどうか
:分かりませんが、全巻α群で書かれた「日本紀」に沿った話を
:粟田真人は「則天武后」に伝えたようです。(新唐書:日本伝)

:おそらく、壬申の乱(672年)によって、唐に歯向かった勢力は
:一新され、あの敗戦倭国は、倭国から日本国に生まれ変わりました。
:ですので、独立国(友好国)として、認めていただきたい。

:そう考えると、捕虜の帰国が認められたのも、納得がいきます。


******************************

『遣唐使(けんとうし)』(ウィキペディアより、抜粋)

:遣唐使とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では
:唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢を
:とろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や
:『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。


第5次:天智4年(665年)
665年12月に(定恵や郭務悰と共に)来日した唐使の劉徳高らを送る。
送使であるが、旧唐書本紀などに拠れば高宗の封禅の儀(即位式)
への参列を求めた使節であるとされる。
送使とは言いつつ、式典参列を意図した使節である可能性が高い。
これは白村江の戦い以降に悪化していた唐との関係改善を、
日本側が求めていた動きであると推測される。
667年11月、唐の百済鎮将(旧百済占領軍)の劉仁願が派遣した文官
(熊津都督府熊山県令)の司馬法聡と共に帰国。

第6次:天智6年(667年)
副使・笠諸石。同年11月9日に来日した唐使の司馬法聡の帰国
(熊津都督府=旧百済国の占領地へ帰還)を送る使節で、
11月13日に任命。唐本土には行かず?

第7次:天智8年(669年)
唐に高句麗平定の祝賀を述べる。
第5次から第7次は、唐との交渉のためとする。この時期、
日本と唐は、唐の対新羅問題を巡って軍事的緊張が続いている。

第8次:大宝2年(702年)
701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも
風浪が激しく渡海できず。翌702年6月に改めて出立するも、
高橋笠間は別の任(大安寺造営)に充てられ渡航せず、
元副使の坂合部大分を大使とした。

栗田は自らも編纂に関わった大宝律令を持参していた。
初めて対外的に「日本」の国号を使用し、(云々)
白村江の戦い以来の正式な国交回復を目的としていた。
この目的のため、朝廷での格も高く、大宝律令の編纂に関わった
粟田が使節として派遣されたと推測される。
一行は楚州に到着し、どこからの使者か、との問いに「日本」と
返答している。当時、唐は武則天(則天武后)の簒奪により
周王朝となっていたが、この社会混乱を把握していなかった
遣唐使一行は混乱するも、703年に武則天と謁見した。
粟田真人らは慶雲元年(704年)7月、白村江の戦いで捕虜に
なっていた者を連れて五島列島福江島に漂着帰国した。

******************************
:と、すれば・・・。

:702年に、唐から独立国(友好国)として、認めてもらった以上、
:コソコソした「日本紀」をそのまま完成させる必要はなくなった。

:さて、どうするか。
:と、いいながら、
:実は、天武天皇(百済系)の系統があやしくなってきた。
:天智天皇(新羅系)の系統が盛り返してきた。

:少なくとも、白村江の敗戦は事実だから、淡々と書き残すけれど、
:壬申の乱(672年)の真実は、ごまかすしかないのだろう。


│記年論:2005/11/17(木)
│(「16/YXRFBRM」氏が発見したシンメトリック論)
│:孝霊紀から壬申紀まで(合計962年)の(在位年数)は、
│「133/60/68/99/121」/「121/99/68/60/133」と区切れて面白い。

:日本書紀における、シンメトリックを見る限り、壬申紀(672年)
:を一区切りにしているのは、事実です。

:壬申紀(672年)に、ある一つの国が滅んだ。次に
:新しく出来た国が、その滅んだ国の歴史をまとめた。そう考えると、
:その滅んだ国の歴史書の名前は「倭国書」になるはずです。

:そのように考えると、697年に譲位していますが、
:(本来、)日本国は、697年に滅んだ。(そう考えられます。)

:そうすると、
:「日本国」は、昔からあった。
:そして、その「日本国」は、697年に滅んだ。
:その国の「歴史」は(720年に)「日本書」にまとめられた。

:けれど、不思議なことに、新しく出来た国の名前は「日本国」だった。
:本当に不思議(ややこしい)です。
:ややこしいですが。こんな感じでしょうか。

歴史愛好家の出版本 当世奇妙

2022/06/28 (Tue) 10:49:43

時々、市民の歴史愛好家から出版した本を送っていただく。
折角なので必ず一読する。

大変興味深い内容や大いに参考になるものも多い。
全体構想や大筋の流れは納得できる場合が多いが
細部に渡った記述、人物を特定した記述となると
ついて行けないケースもある。

石見介さんのレベルの
4.possible(可能性がある)
5.それに達さない水準(ほとんど可能性がない)
のいずれにも属さない主張も多い。
6。否定は出来ないが、なんとも言えない。
のレベルが必要かもしれない。

歴史の具体的な事実については、見方・視点によって
見解が異なるケースも多く、場合によっては何とでも
言えるとも言える。それらを「確定的」に論ずる市民歴史愛好家の
出版本の場合は途中で読むのがつらくなるが、
先ずは読破するようにしている。

どのような内容でも、ご本人は出版出来て大満足と思われ、
老後の楽しみ・達成感も味わっておられると思う。
送っていただいた事に大いに感謝し、私もいつかはと思うが
さてさて??

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 - 白石南花

2022/06/27 (Mon) 08:28:02

当世さん
適当ですが。

>1.歴博C14測定結果(240~260、卑弥呼の墓説)
2.寺沢さんの布留ゼロ(260~280)(箸墓=壱与または崇神説)<

これらを合わせ考え、土器編年の相対編年のアバウトさと、理化学年代に残る課題点を考えると、概ね両者をあわせた40年の内としておいていいのではないでしょうか。
卑弥呼の墓は十分可能性があると思います。
台与の墓でも可能性はありますが、卑弥呼の墓の候補がないですね。

白石楠花さんへ 当世奇妙

2022/06/26 (Sun) 16:43:05

箸墓の築造年代はいつ頃との考えですか?
またその根拠は何でしょうか?

卑弥呼の没年 - 白石南花 URL

2022/06/26 (Sun) 13:34:03

>1.歴博C14測定結果(240~260、卑弥呼の墓説)
2.寺沢さんの布留ゼロ(260~280)(箸墓=壱与または崇神説)<

当世さん
討論室に書きましたが、自論では卑弥呼の没年は、266年の朝貢が台与のものだとすると、下限で260年代まで下がります。

追記:とはいえ254-256年あたりかと思います。

布留ゼロ年代 当世奇妙

2022/06/26 (Sun) 11:56:10

私は従来寺沢説だった。
布留ゼロを提案したのは彼。
多くの庄内式土器の中に布留式土器が
僅かに入っている状態との定義。
彼は最初280年が中心としていたが
次第に260年まで下げてきた。

しかしJCALで4世紀の可能性が出てきたので
迷っている。

箸墓築造年代 当世奇妙

2022/06/25 (Sat) 15:30:35

初期ヤマト政権成立プロセス探索を最大の課題としている。
その場合箸墓築造年代が重要である。

会のHP投稿者の箸墓年代論はおよそ3つになるのでは?
1.歴博C14測定結果(240~260、卑弥呼の墓説)
2.寺沢さんの布留ゼロ(260~280)(箸墓=壱与または崇神説)、
3.最近のJCALで4世紀も確率が出てきたので関川説(安本等)
  (新JCAL以前は、関川4世紀説支持者は少なかったと思われる)

科学的思考法とは何か? 石見介(当世奇妙代)

2022/06/21 (Tue) 06:17:55

科学的思考法とは何か? 投稿者:石見介 投稿日:2022年 6月21日(火)01時16分51秒
 自然科学の分野の中では、数学や、物理、化学などの物性科学分野に比し、生物学~生命科学分野は、比較して、未知の部分が多く、科学性、客観性が、まだ不十分だと言うのが、事実だろう、と私は、考えています。

 「科学」は、先ず、「疑う」事から出発する、という教育を受けて来たので、「科学的思考法」=「基本的に全て、疑って、事実か否かを、検証する」事だと、理解しています。

 疑う対象は、全てですから、応用生物学の一分野としての、臨床医学やその実践の場である、医療現場では、「自他」を共に、疑う。
 特に、先入観に囚われて、誤診することを防ぐことの重要性から、「まず、自説を疑う」即ち、自分の診断を、常に間違っていないか、絶えず、チェックする。
 私が、病院勤務医だった時期には、医師としては新米の、研修医の診断を聞き、私の診断と一致していれば、ほっとした、というのが、正直な所でした。
 勿論、経験の差で、研修医の診断は、皮相的なものにとどまって、鑑別すべきいくつかの疾病を、失念している事も多かったが、「他者の診断」「他人の目で見る」視点の提示は、大きな意味があります。

 例示した,ARA(アメリカリウマチ協会)の診断基準は、各医師によって異なる、慢性関節リウマチ(RA)という「疾患」についての、研究などの際の、標本(試料)の「バラツキ」が、実験、研究、治療などに、及ぼす影響を軽減する目的もあり、学界の最大公約数的なものとして、提示された代物です。
 いわば、議論のたたき台になる「疾患」というか、患者というか、それを、まず、統一した。

 古代史の場合でも、同じ言葉で、実態の異なる事象を、議論している場合もあるように思えます。
 それで、自分の「診断」はさておき、学界、専門家の、最大公約数的な、「判定基準」が、やはり、必要だろう、と考えて、ARAのRAの診断基準を、準用した。

 自説に絶対的確信を持つ方には、当然、権威主義的だという批判は、浴びせられる。
 真意は、「自説」のトンデモ度の判定にあるが、当然、他者の説も、学界や専門家の大勢との「ズレ」の判定には、適用できる。
 新しい文献や考古学的発見があれば、当然、基準は、変わる。
 あくまでも、当座の「判定基準」に過ぎない。
 自説を、「疑わない」福島さんには、不要の代物でしょう。
 しかし、絶えず、修正している私には、有用なものです。

 まあ、趣味の世界なので、多少、自分には、甘い判定になりがちですが。

古代史真偽判定レベル 福島(当世奇妙代)

2022/06/21 (Tue) 06:16:32

古代史真偽判定? 投稿者:福島 雅彦 投稿日:2022年 6月20日(月)15時57分10秒

※特に、所謂「邪馬臺國」論に限定すると、先ず、判定者が…、

①「己は、他説を判定する定見(見識)を持っている」との思い込みがある。

②他説を上から目線で観る癖が付いている。

③己が、固定観念・権威主義に陥ってるとの自覚が無い。

④己の理解を超える説は全て「トンデモ説」で退けてしまう。

※私は、今まで以上の様な方々にしか遭遇していない、気がするが如何に?

※【久留米大学・大矢野名誉教授】は、例外!!!

※日本で唯一人、所謂「邪馬臺國」問題を解明した、男の感懐です!

古代史真偽判定レベル 当世奇妙

2022/06/20 (Mon) 08:51:00

以下のようなものはどう考えるか?
1.発想・構想は良いが、分析方法・内容・結果
  が問題。
2.分析手法は良いが、結果が問題。
3.分析手法は良いが、その活用・仮定が問題。
4.途中までは良いが、だんだん問題が増える。
5.発想・構想・分析手法・歴史知識は良いが
  分析・活用のベースとなる資料・文献が問題。

古代史真偽判定レベル(石見介さん) 当世奇妙

2022/06/20 (Mon) 06:17:07

石見介さんの以下の考え重要
古代史真偽判定レベル(慢性関節リウマチ診断基準)
1.classical(古典的)
2.definite(確定的)
3.probable(蓋然性のある、可能性が高い)
4.possible(可能性がある)
5.それに達さない水準(ほとんど可能性がない)
皆さんこれを認識して議論すると議論がかみ合いますね。

三角縁神獣鏡紀年銘鏡 当世奇妙

2022/06/19 (Sun) 16:43:24

三角縁神獣鏡紀年銘鏡4面のうち2面は日本海傍、
更に日本海から高崎へ、山口の瀬戸内海沿の古墳で
発見された。景初四年の鏡も日本海に近い古墳から。
キナイ中心からは出ていない。

上野先生はキナイ中枢から出ない理由について
これらの年号に意味を認めなかったからではないかと
されたと話された記憶。
三角縁神獣鏡は明らかにヤマト政権と大きな関係がある鏡である。ヤマト政権は何故卑弥呼遣使の年号に興味を持たなかったのだろうか?

画文帯神獣鏡の分布 当世奇妙

2022/06/19 (Sun) 06:19:50

今日の上野先生の講演で
下垣さんの画文帯の分布図は後の摸倣鏡も入っているので
公孫氏時代の話には使えないと話してました。

この件は1999年に京大岡村秀典氏が『三角縁神獣鏡』を発刊した直後、小山田さん(当時弥生博、奈良大教授、今は狭山池博館長)に講演
お願いしました。上野さんと同じく岡村分布図は後代の画文帯(踏替えし・摸倣)が
多く入っているので使えないと話してました。
(ご自分がオリジナルと考える画文帯出土分布発表しましたがキナイ中心の分布ではありませんでした)

岡村さんには1999年『三角縁神獣鏡』発表直後に当会で講演お願いしています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 当世奇妙

2022/06/14 (Tue) 20:03:33

どんたくさん
歴史の談話室はこちらです。FBの談話室は日常会話、軽い歴史会話用です。
こちらに宜しく。

新納泉先生のZoom講演 - どんたく

2022/06/14 (Tue) 11:06:00

このFacebookの「東アジア討論室」の中に、どうやら「談話室」らしきものがあるようですので、ここに初めて投稿を試みさせていただきます。

もしかすると、このようなところに投稿するのは間違っているのかもしれませんが、その時は、管理人さんの方でこれを削除していただければ有り難いです。

2022年5月28日(土)の新納泉先生による「大型古墳群の移動と大王系譜」と題するZoom講演会、興味深く拝聴しました。

大型古墳の築造場所が「輪番」的に変えられた状況があり、その背景には大王系譜の問題があったのではないか、というお話でした。

私はこれをお聞きしながら、次のようなことを考えました。

もし大型古墳の築造を一カ所に集中しておこなったとすると、どうしてもその地域に大きな負担をかけることになりましょう。
このような負担を少しでも和らげるためには、大型古墳の築造場所を輪番的に変更するのが、合理的な対策なのではなかろうか、というように考えました。

以上、新納先生のZoom講演を視聴しながら考えついた、単なる思いつきに過ぎませんが、Facebookの新しい「談話室」への投稿の試行を兼ねて書かせていただきました。うまく投稿できたらよいのですが・・・。

会の創設エピソード 当世奇妙

2022/06/09 (Thu) 11:36:57

そんべさんの会の創設に関する2010年の投稿があり、以下の記述がありました。
「昭和47年2月鈴木武樹、後藤孝典のふたりが「日本古代文化奉賛会」をつくり」

会の歴史を纏めた『市民が開く東アジアの古代文化』1992、25周年実行紀年行事委員会 編によれば

創設は鈴木武樹、後藤孝典の他に久保・佐久間が最初から参画しており、
4人の創設とされています。
二人説は鈴木武樹の記述によったものとされています。

『市民が開く東アジアの古代文化』は私の提案でしたが、弘中芳男氏
が責任者となり、私と熊田久恵さんが参画して作成したものです。

4人と記したのは編集責任者の弘中氏で、氏は元三菱電気広報部で、
『古地図と邪馬台国』を出版され、今でも専門家に引用されている。

江上先生会長就任は鈴木・後藤の依頼によるものは事実。

市民歴史愛好家タイプ追加 当世奇妙

2022/06/09 (Thu) 06:18:55

13.会合の後の飲み会が主目的なタイプ

こんな人いませんか?(^0^)

Re:歴史愛好家のタイプ - 米田 喜彦

2022/06/07 (Tue) 23:56:44



│郷土史家、市民歴史愛好家には以下のようなタイプがあるとした。


:私は、系図解読・復元マニアですから、
:「系図」をパズル・虫食い算の対象と見ています。
:ですから、私は「1.」と「9.」だろうと思います。

1.見る視点を定めて歴史の真実を究明する(研究者タイプ)
  (正史などは支配者の視点からの歴史)
9.歴史の謎解きが趣味(謎解きタイプ)

私のタイプ?? 当世奇妙

2022/06/07 (Tue) 20:06:05

先に投稿した市民歴史愛好家のタイプで私は何か?
以下の順位か??

12.ただただ歴史が好きなタイプ
4.郷土の歴史を外部にPRし、観光・移住に役立てる(地域振興タイプ)
6.歴史好きな仲間と交流する(仲間づくりタイプ)
5.郷土史の特定分野に焦点を定めた追及(深掘りタイプ)

まあそれほど真面目な郷土史家ではない。
健康長寿のための薬の一つ。

郷土史家・市民歴史愛好家 当世奇妙

2022/06/07 (Tue) 14:01:05

北羽歴史研究会(北秋田地域の郷土史の会)の
創設者が亡くなった時に彼を称える講演を行った。
その時に郷土史家、市民歴史愛好家には以下のような
タイプがあるとした。

1.見る視点(市民の視点・立場など)を定めて歴史の真実を究明する(研究者タイプ)
  (正史などは支配者の視点からの歴史)
2.郷土の歴史を掘りおこし、文献探索・考古学究明・現状探索調査・保存活動を
  「地道」に実施(本物の郷土史家タイプ)
3.市民に郷土の歴史を啓蒙し、郷土愛を育てる(郷土愛タイプ)
4.郷土の歴史を外部にPRし、観光・移住に役立てる(地域振興タイプ)
5.郷土史の特定分野に焦点を定めた追及(深掘りタイプ)
6.歴史好きな仲間と交流する(仲間づくりタイプ)
7.歴史の会のリード役・世話役(世話役タイプ)
8.単行本出版、学会活動など歴史分野で一旗上げる(旗揚げタイプ)
9.歴史の謎解きが趣味(謎解きタイプ)
10.自説のPR第一(自己主張タイプ)
11.歴史でビジネスをする:講演会・遺跡めぐり主宰(ビジネスタイプ)
12.ただただ歴史が好きなタイプ
13.会合の後の飲み会が主目的なタイプ

Re: スレ「FC2のロビー・談話室02」 当世奇妙

2022/06/05 (Sun) 06:21:42

そんべさんのスレッドにオヤジッチさんが投稿してたが、そもそも蝦夷とは何か、アイヌとの関係は?
11月12日の「縄文人からエミシ・アイヌへ」の
ZOOMシンポがあります。HPにアナウンスします。是非参加ください。

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