東アジア討論室

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東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 白石南花

2022/06/03 (Fri) 12:03:35

三国志東夷伝の「接」については、長い間地続きの意であると誤解されてきました。
二十数年前、私が大論争に参加したころから、この「接」は地続きではないと説明する人がいましたから、おそらくそのころから「接」が地続きの意味ではないことが、文献史家の間では定説になっていたのでしょう。
問題は何故こんなに長く在野での誤解が続いたのかですが、三木太郎氏などのそうそうたる文献学者が、接を地続きの意味に解して、市中にもそのように書いた啓蒙本が多数出回ってしまったことが原因と思われます。

ひとつには三世紀朝鮮半島に倭地があったとすれば、人の興味をひきやすく、面白いデマほど拡散力がある法則に従って、いつまでもこの誤解が収束しないのだと思われます。
つい最近も、比較言語学の知識を持った、おそらく専門家と思われる人物が、Youtubeに自説の論拠として、後漢書東夷伝の接を上げています。
もっとも後漢書の場合は、選者の范曄自体が、倭王権の半島進出があった五世紀の情報に基づいて、倭人が半島にいたとしていますから、ある意味確信犯と言えます。

ただ三世紀の状況に関して書かれた、三国志東夷伝の接に関しては、この様な誤解を解かなければ、この比較言語学者のようにミスリードが何時までも続く可能性がありますので、何としても訂正してゆく必要があります。

しかしもっと大きな問題は、なぜ文献学者までこのような誤解を行ってしまったのか、その原因を調べることです。
原因が分かれば、今後漢籍をもとに議論する際の戒めになり、誤解を避けることができるでしょう。
私の考える原因を列挙していくと下記のようになります。

1.日本人が漢字文化を共有している。

これは結構大きな問題で、日常使用している文字が使われていることで、なんとなくわかってしまうということです。
しかしその際に、現代日本人の感覚的理解が入り込んでしまうのです。
「接」の場合にも、現代日本人のぴったりくっついているという字義に対する感覚が、正しい理解の妨げになっていると思われます。
しかし漢籍は古代中国語で書いてあるのですから、自分の中の理解を全て白紙に戻して、一語一語漢籍の用例を調べて考えていく必要があると思われます。

この現象の最悪の例が、卑字説です。
ある文字が卑字であるという、客観的な根拠がないにもかかわらず、現代日本人の漢字に関する感覚で考えているのです。
その文字が漢籍中でどのように使われているか、一点一点調べていけば、卑字説など成立し無いのは明らかです。

2.調べた文例の範囲が狭い

文例を調べればよいのかというと、その範囲が狭いとやはり問題が起きます。
三国志東夷伝の「接」の場合、かって文献史家は当然文例を調べたのですが、東夷伝における用法のみを調べて、「接」は地続きと判断してしまったケースがあるようです。
東夷伝というか、中国は基本大陸国家ですから、漢籍全体として海を含んだ記述が少ないのです。
ただし漢書西域伝では、砂漠の中の都市国家の関係を接で表していますが、確かに間に水域はないものの、広大な砂漠を介して、その方向に行けば別の国があるという表現に、「接」を使用しています。
現代日本人の「接」の用法とは異なるものです。

東夷伝における「接」の意味を調べるのに、東夷伝の用例をあたるのはよいのですが、それだけでは狭すぎるということでしょう。
そもそもバックグラウンドとして、漢籍全体での「接」の用例を調べたうえで、東夷伝固有の事情を考えるのなら良いのですが、海を渡って接するの用例を見逃して、陸地中心の記述の東夷伝だけで判断すれば、誤った判断になります。
文章というのは、意を伝えるために書くものですから、読み手はまず一般的の用法で理解しようとするはずで、特異な用法であればそれが分かるようにしなければ、文意が伝達できません。
三国志東夷伝にはそのような特殊性を伝えるような仕組みは見えませんから、一般的な用法で書かれているということです。

3.時代背景に関する理解の欠如

三国志東夷伝だけを見て、「接」が地続きであるとの理解に達した重要な要因が、韓の東西が海によって限られているという文章です。
これを地形のみを評価していると捉えたため、海によって限られていない南は、地続きではないかと考えてしまったわけです。
しかし「接」の用例をあたり、航路があるところでは、海を介して「接」の用例があることを知り、かつ三世紀における主要な海を渡る航路は、島伝いしかなかったことを知れば、この「東西以海為[限]」は「南與倭[接]」に対する対句的表現であることがおのずと見えてきたはずです。

文献を読むには、そのバックグラウンドにある、社会情勢や文化、そして選者の立ち位置、そして取得できた情報の質などをできる限り調べる必要があるということです。


以上の点から考えて、下記のような対策が考えられます。

A.漢籍を読めると過信せず、日用的な漢字の用例や文字に対する感覚などを全て白紙に戻し、用語用例などを可能な限り調べる。

B.古代中国の文化社会等、漢籍のバックグラウンドについての理解を深める。

Aはかっては全て膨大な文献を目視してゆくしかなかったので、実際のところ専門家以外にはあまりにも高い障壁でした。
現在ではテキスト検索で、ある程度のことはできます。
近年は専門家ですら検索を利用しているようです。
もちろん専門家は、検索結果をうのみにせず、必ず原典に当たるようです。
一部のサイトでは、影印を参照できるようですが、専門家の場合可能な限りの版について確認するのが常識らしいです。

Bは実際さらに障壁が高く、専門家の書籍や翻訳などを参照する以外に、我々素人にできることはありません。

漢書地理志有倭人 - 白石南花

2022/08/28 (Sun) 08:24:28

>「種族名」の「倭」ではなく、「倭人」となっている事です。<

これは漢書地理志をレスペクトしたオマージュです。
なぜなら引き続いて、漢時の記事があり、地理志を背景にした表現であることを宣言しているからです。
そもそもそれに続いて、「從郡至倭」とあります。
「倭人」ではじまりますが、その目的地が「倭」で受けられているのです。
そもそも東夷伝で倭人はここ一か所だけです。
これで倭と倭人を区別してくれというのは、文章として無理があります。
倭人と倭が違うものなら、倭に関しては何の説明もないことになります。

「倭」と「倭人」の相違は何か? 石見介

2022/08/27 (Sat) 22:46:57

 陳寿の著した『三国志』には、夷蛮伝は、唯一巻、「魏書烏桓鮮卑東夷伝」しかなく、この巻もは、烏桓伝、鮮卑伝と東夷伝の3部に分けられるので、実質的に3巻あると強弁することもできるでしょう。
 が、正直な所、他の史書に比較して、夷蛮伝が少なすぎる、という印象は、免れないでしょう。
 私は、その部分にも、陳寿の執筆環境の厳しさ、窮迫ぶりを、感じ取ります。

 その『三国志』唯一の夷蛮伝の記述を読んで、誰しも、「違和感」を覚えるのは、各種族伝、或いは条の冒頭の書き出しで、唯一、「東夷伝倭人条」のみが、「種族名」の「倭」ではなく、「倭人」となっている事です。鮮卑伝、烏桓伝は勿論、東夷伝の各条も、唯一の例外の「倭人条」を除き、皆、種族名(或いは部族国家名?)で、始まります。
 このことを、不思議に感じない人は、少ないでしょう。

 実は、この問題をどこのスレに投稿しようか迷っていたところ、滑安房守さんと白石南花さんの議論を拝見して、皆様のご意見を伺うのによい機会だと思い、このスレにコメントを入れました。

 陳寿が、「倭人」という語彙のみを倭という種族について、使用していれば、特に議論は不要かも知れませんが、同じ種族に属する人々の集団(部族国家含む)について、「倭人」「倭」「倭種」の3種の表現があり、他に「倭国乱」で、「倭国」という言葉も使用されています。
 范曄『後漢書』東夷列伝では「倭」条であり、何故、陳寿は、所謂『魏志倭人伝』にのみ、自身の史書の夷蛮伝で唯一、「倭人条」のみに、冒頭に例外を設けたのか?
 「倭」条とした場合と「倭人」条とした場合、どのような意味の相違があるのか?

 いくつか、回答が考えられますが、どうもすっきりしない。皆様のご意見を、是非、お聞きしたい。
 仮の回答案としては、

①『漢書』地理志分野誌で、「楽浪海中倭人有り」と有るので、先例として、「倭人」を使用した。
 
②倭という種族の分布域の内、列島の倭人諸国、30ヶ国を対象に記述した為に、他の倭種族や部族国家を基本的に、除外したという意味で、「倭人」条とした。
 この場合、「倭人」以外の倭の種族として、東の海を渡った「倭種」と半島南部の「倭」、更には、范曄が「倭人国」に改めた鮮卑伝の「汙人国」などが、考えられ、『倭人字磚』の解釈によっては、大陸に移住していた倭人も含み得る。

 私は、一応、②で、半島中南部の倭種の存在を、陳寿は意識していたのではないか?と想像していますが。

 尚、スレの表題である「接」の解釈については、ほぼ全面的に、白石南花さんの解釈に従っています。
 この場合、楽浪郡が、半島沿海部の倭種と、陸路での接触が困難で、「海路」で接し得る状況を、想定する事になります。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 白石南花

2022/08/27 (Sat) 15:00:42

> そうすると、韓半島南部に倭人を主として構成された国が存在してもおかしくはない気がします。<

倭と倭人を分けて考える考え方は昔からありますが、そのように考える動機は、倭とは接するのに、倭人は大海中であるため、矛盾していると考えられたためです。
しかし接に海を渡って接の用例がある以上、そんなことを考える理由もありません。

東夷伝の構成として、韓との地理的関係を倭であらわして、それとは無関係な倭人の記述を続けるなどということはあり得ません。

歴史的事実としての、民族分布がどうであるかはともかく、文献事実としては、東夷伝は半島には倭人の国はないと言っているのです。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 滑安房守

2022/08/27 (Sat) 13:22:25

白石南花さん

早々にお教え下さり有難うございました。

>>しかし、陸繋がりで倭と接するとの解釈も、否定出来ないもののように思えてなりません。<

>接には明らかに海を渡っての接の例があります。
>たとえ海を挟んでいても、そこに航路がある場合は、接で表現されるのです。
>したがって接によって地続きかどうかはわからないということです。

 はい、「接」は単に、どこと、どことが、続いていると解釈した方が良いと言うことですね。

>では倭の場合に海を挟んでいるかどうかはどこで分かるかというと、倭人伝冒頭の倭人は帯方の東南の大海の中にあるという記述です。

 そうですね。
 その様に有ります。

>また地理や風俗などの記述の後にも倭の地を参問するに、絶域の海中の洲島の上に在りとあります。

 なるほど・・・

>したがって倭人は海中の人であり、海を渡らないと行けないことがわかるのです。

 こうなると、安房守は引っ掛かってしまうのです。
 倭人伝であって、倭国伝では無いので、「倭人とは」と述べている事は判ります。

 実態としては倭人の国はとの意味であろうと考えます。
 おそらく、倭人国として、独立した形態をした国ではなく、倭人で構成された多くの国々なので、倭人伝とせざるを得なかったと考えるのです。

 そうすると、韓半島南部に倭人を主として構成された国が存在してもおかしくはない気がします。


あ、ここまで書いて、判りました。
冒頭の部分にある内容は、これから述べる「倭人」と言うのは、帯方の東南の大海の中にある倭人が作った国のことを示していると定義しているのですね。
すみません、ようやく、判りました。
有難うございました。

これからも、お教え下さります様、宜しくお願い致します。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 白石南花

2022/08/14 (Sun) 12:50:55

「台与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還」

三国志呉書呉主権伝に引く韋昭呉書に
「其年宮遣皂衣二十五人送旦等還」
(その年、宮は皂衣の二十五人を遣わし秦旦らを送り還した)

秦旦は呉の使者として遼東に赴いたが、公孫淵に裏切られて高句麗に逃げたところを、高句麗王宮に助けられたのです。

>其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。

こちらは難升米が詔書と黃幢を郡から假授されるとあるので、帯方郡での出来事と考えられる。<

難升米が郡にいれば郡に付するとはなりません。

>少なくとも六年には詔書と黃幢が假授されている。<

郡に付されただけなので、難升米には渡っていません。
景初の詔にみるように、現地にいて直接渡せる場合には、郡に付したりしていません。
郡に付したものは、郡が使者をたてて本人に渡しに行きます。
だから黄幢は郡のたてた使者の張政によって、難升米に渡されています。
このあたり疑問のないところなので、ヘンテコ読みの余地はありません。

還について - かいじ

2022/08/14 (Sun) 12:12:16

一つ訂正です。
どなたかからご指摘がありましたでしょうか。
政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺

「還」が自動詞であれば、張政が帰国したという意味は成立する様です。
つまり
「壹與が倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を送り、張政等を還す」>× 
「壹與が倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を送り、張政等が還る」>〇 となる様です。
漢文は繊細ですね。
気になる点は調べなおして、間違いに気付けば改めます。

其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。

こちらは難升米が詔書と黃幢を郡から假授されるとあるので、帯方郡での出来事と考えられる。
景初二年の卑彌呼による遣使に対して、梯儁等が二年後の正始元年に倭国を訪ねたのは、曹叡の崩御が原因と考えられるが、難升米に対しても二年後の正始八年に現物が届けられたと考えるのは、韓の反乱だけでは説明できない。少なくとも六年には詔書と黃幢が假授されている。

石見さん - 白石南花

2022/08/12 (Fri) 12:36:57

> でも、ちょっと中国側の「建前」に傾き過ぎているような気がする、という軽い違和感を、感じている状況だということです。<

卑字説については、私も長らく振り回されていましたが、ある中文学者さんの文書を見て、目が覚めました。
私はこれについては集団催眠状態にあると考えています。
今も著名な考古学者や言語学者までも、卑字などと言って害悪を振りまいているのを見ると、何としても止めたくなります。

> そういう考えもあり、陳寿と范曄の比較が、気になり、二人の史書撰述の環境を、重視するようになりました。<

漢代から三国までの中華意識は、優越感というより超越感といったほうが近いような気がします。
無知な蛮夷は、あわれで嚮導してやれねばならないというような感じが、護羌校尉や護鮮卑校尉のような職位に見えます。
実際には暴走を止める、制圧する役割があったとしても。

> 現在残っている資料からは、「すでに消失した資料」の存在の仮定は、無意味なので、一般論しか言えませんが、范曄には、陳寿が入手できなかった東夷に関する何らかの資料、『倭人字磚』の内容に類似した情報とか、後漢末期の公孫氏の残存資料とか、何かの資料が、あったと私は推測しています。三国呉の遺臣の家譜などに残されていた可能性もあるでしょう。<

ただ実際に残された後漢書の文面からは、後漢の時代に残された史料だけが原史料とは思えないのが実情です。
以前指摘しましたが、北朝系と南朝系の史料は、ある意味文献批判に利用できる可能性があると思います。
たとえば南朝側の史料には、百済が遼西に領土を持っていたとか、北魏の大軍と戦って撃退したとか、歴史学者が首をかしげる記述がありますが、北朝側の史料にはありません。
例えば百済の出自については、南朝側の史料では、後漢書や梁書、南史のように馬韓を出自とし、北朝側の史料では魏書や周書、北史では夫余を出自とします。
ただし周書、北史では両論併記なのですが、隋書に至ると高句麗を出自とすることになります。

このあたりはさらに考察してみたいと思います。

白石南花さん 石見介

2022/08/11 (Thu) 00:33:04

 卑字説が、漢字、漢文世界に新規参入した夷蛮出自の人々の、「劣等感」を基盤とする、という認識では、合意しましたが、逆に、中華中原帝国の文化伝統を引く、所謂「漢民族」と後世呼称される人々の、夷蛮その他に対する「優越感」をも、同様に、中国史書において、認め得るか、という問題意識が、私と白石南花さんの認識ギャップになっているように思われます。

 私は、東アジア世界で、共通言語とされた漢文、漢字世界で、中国、半島諸国、日本などの文献を読む際には、中華意識と卑字説に代表される夷蛮側の歴史、文字感覚は、常に念頭に置く(「過度」に意識すれば、逆効果)べき文献批判の基本だと考えています。

 これは、実は私が、本来ゲルマン民族の大移動に興味があり、その関係で、西洋史関係の本を読み漁った後に、日本古代史に興味が移った事とも関係し、西洋世界の共通語のラテン語の記録者(教会関係者が多いが、統一的な大帝国は、ローマ滅亡後、遂に誕生せず、「帝国民族」と呼ぶべき種族や国家は、遂に成立しなかった)との「比較」が、有るからかもしれません。
 まあ、卑字説に関する議論は、ここで中止し、「見解の相違」で、お開きにしましょう。
 ほとんどの場合、私の最終的な漢文解釈は、実際には、白石南花さんのお説に従っているのが、現実ですから。
 でも、ちょっと中国側の「建前」に傾き過ぎているような気がする、という軽い違和感を、感じている状況だということです。


 范曄『後漢書』や陳寿『三国志』についての解釈の相違の一部は、先の文献批判についての「感覚の相違」にも類似している部分もあります。
 白石南花さんもお認めになっておられたと思いますが、中国史書の「中華意識の肥大」は、中国中原世界が、五胡のような異民族によって占領された六朝、南北朝時代以降、強くなります。
 范曄『後漢書』の岩波書店版(底本は『後漢書集解』)の解説を書いた吉川忠夫氏によれば、正史『東観漢記』があるにもかかわらず、范曄以前に七家後漢書群が成立し、又、范曄自身が後漢代史書を書こうとした共通の時代背景の存在を、指摘されています。
 秦漢という漢民族を形成した統一的な帝国が分裂し、更に、晋による短命な再統一後、中華民族発祥の地の中原の地、黄河流域は、夷蛮の割拠する地域となった。南北朝時代には、本来は異民族の諸越の地域の長江流域の地に、秦漢帝国の末裔が、建国している。
 このような状況が、統一帝国の後漢に対する興味を惹いたのだろう、と私は、吉川氏の解説から、考えました。
 この状況では、史書の撰述者の意識、或いは下意識に、先述の「中華意識」を、認めざるを得ない様な状況ではないのか?
 そういう考えもあり、陳寿と范曄の比較が、気になり、二人の史書撰述の環境を、重視するようになりました。

 現実には、陳寿の史書撰述の環境は、范曄に比し、極めて劣悪で、正直な所、まともに資料集めが出来たのかが、疑わしいとさえ、感じました。
 既に成立している王沈『魏書』と魚拳『魏略』という、正史として、失格した両書以外に、後援者の張華提供の『魏書東夷伝』の原史料群以外には、出身地の蜀関連の資料しかない、というのが、陳寿の蒐集し得た資料群だったと思われます。
 裴松之が、註に挙げた資料は、陳寿が集め得た資料を、はるかに上回る。
 そう考えるようになったので、范曄『後漢書』の東夷列伝には、当然、陳寿の集め得なかった後漢代の資料も反映されている、と考えるようになりました。
 逆に、陳寿の余裕の無さが、前述の「中華意識の反映」とも無縁になり、范曄には、その可能性を考慮する必要がある、とも考えるようになりました。

 どのような史書にも、撰述時の時代的背景が、投影されるのは、ある種の宿命だと私は、感じています。
 陳寿には、司馬氏の功績を称えるために、他氏の功績を無視し、曲筆も場合によっては、せざるを得ない。
 范曄は、支配層におもねって、曲筆する必要はないが、5世紀の時代の思想がどうしても、入らざるを得ない。逆に言えば、その部分が、他の八家後漢書群をしのいで、世人の共感を得たからこそ、范曄の『後漢書』の、「独り勝ち」状態になったのかも知れない。

 現在残っている資料からは、「すでに消失した資料」の存在の仮定は、無意味なので、一般論しか言えませんが、范曄には、陳寿が入手できなかった東夷に関する何らかの資料、『倭人字磚』の内容に類似した情報とか、後漢末期の公孫氏の残存資料とか、何かの資料が、あったと私は推測しています。三国呉の遺臣の家譜などに残されていた可能性もあるでしょう。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 白石南花

2022/08/10 (Wed) 10:50:29

>攻撃には「非難する」という意味もある(戦闘などで攻め撃つという意味ももちろんある)と申し上げました。<

三国志の用例は戦闘を伴うもののようです。

>檄を以て告諭で対面で渡していると言える文例を他に挙げて下さいと言っても何も出してこないのは、他には見つからなかったのでしょう。<

檄というのは足があって自分で歩いていくものなんですか。
単に告諭という用例が対面で行っているものであれば、檄を以て告諭とは、檄を持って言った人物が対面で告諭しているのでしょう。

>これなんか不特定多数に対して檄文で告諭すると書いてあります。<

代表者を集めて告諭すればよい話です。

>難升米が日本に居て大陸には戻らなかったという証明にはなりませんけど。<

ですから正始元年には倭に戻り、正始六年には郡にはおらず、正始八年には倭から郡に送った使者の返使を受けています。
文面上郡に行ったケースは、景初三年の使者だけです。
文献上郡にずっといた根拠は何ですか?

攻撃と告諭について - かいじ

2022/08/09 (Tue) 23:26:10

各位

情報量が多すぎて処理しきれない様なので捕捉説明です。
気になる人だけ読んでいただければ結構です。

通説とはかなり違う話をしているので、反発を受けるのは予定通りですが、論理的で筋道の通った反論がほとんど帰ってこないのが残念です。
大学教授とか、自分で研究をされている方はもっと真摯に聞いてくれるんですけどね…。



攻撃には「非難する」という意味もある(戦闘などで攻め撃つという意味ももちろんある)と申し上げました。

「攻撃」Weblio日中中日辞典 日中・中日
https://cjjc.weblio.jp/content/%E6%94%BB%E6%92%83

告諭とは「教え諭すこと」これだけで対面で説教するという意味になるのに、檄(文書)でもって告諭するとした場合、どういう意味が付与されるのか、或いは意味が変わるのか?。

張旣傳
乃檄告諭諸羌

これなんか不特定多数に対して檄文で告諭すると書いてあります。お触書や高札みたいなものでしょう。
使者を個別に送ったとは思えませんが。
文書を残すという事は記録が残る、時間や距離に縛られない、多数の相手に同時に送れる事などのメリットがあります。

檄を以て告諭で対面で渡していると言える文例を他に挙げて下さいと言っても何も出してこないのは、他には見つからなかったのでしょう。
倭人伝の他に檄を使用して告諭する文例はこれしか見つかりませんでした。
中国電子哲学書計画のサイト内ではですがね。

壹與は不特定多数の相手では無いと仰るかもしれませんね。仮に壹與には直接手渡ししていたとしても、難升米が日本に居て大陸には戻らなかったという証明にはなりませんけど。

率善というのも善にしたがうという意味です。ご参考までに。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240136/1/shirin_093_4_541.pdf

かいじさん - 白石南花

2022/08/09 (Tue) 10:17:38

>相応の解釈は互いに相手(の意見)を認め、受け入れる。
この状態をして仲が良いと考える事もできますが、それは一面的な考え方です。<

なにをごちゃごちゃ言っているのですか?
仲がいい意味にもとれるでしょう?
文脈を考えましょう。
素不和の前に狗奴国男王は女王に属せずとあり、後には相攻撃状とあるのです。
不和はうまくいっていないの意です。

>告諭の文例について白石様が仰っていたような物が発見できませんでした。
異体字の問題もあるかもしれませんので、挙例をお願いします。存在するのならですが。<

何のことでしょうか。
告喻とも書く様ですが?

>①邪馬台国と狗奴国は戦争していたのか 
・両国が戦争していたと解釈すると、正始六年と八年に難升米に対して詔書、黃幢を与えたとする記述が理解できなくなる(文脈が繋がらない)。<

素より不和なのですから、最初の朝貢時から国内事情を訴えていたとすれば問題ないです。

>・正始八年、卑彌呼の訴えに魏が動いた結果が、難升米に対して詔書、黄幢を与える事。理由は記述されていないが、因果関係として成立している。<

理由は相攻撃状となっています。

>・韓の反乱(投降後に反乱を起したとは考えられない)のタイミングを考えれば、正始六年には難升米は帯方郡に居たか、呼ばれたと考えるのが自然である。<

正始六年には、詔と黄幢は難升米に直接 渡すことができず、郡に付したと書いてあるから、難升米は郡にいなかったと立証できます。

>・倭國乱時は「相攻伐」、卑彌呼亡き後は「相誅殺」、これらは戦闘に関する記述である事は間違い無いが、「攻撃」には相手を非難するという意味がある。<

三国志の相攻撃の用例を見てみますか?

董卓、李傕、郭汜伝
「相攻撃連月、死者万数」
公孫サン伝
「與胡相攻撃五六年」
王脩伝
「兄弟還相攻撃、是敗亡之道也」
「譚不聴、遂與尚相攻撃、請救於太祖」
張既伝
「自號 将軍,更相攻撃」
鮮卑伝
「後数與軻比能更相攻撃」
「後與東部鮮卑大人素利及步度根三部爭闘、更相攻撃」
「素利與比能更相攻撃」
呂蒙伝
「於是将士形勢自倍、乃渡江立屯、與相攻撃、曹仁退走、遂拠南郡、撫定荊州」

全部戦っていますね。

>正始八年の記述は「卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼は素より承諾せず、共に非難する様を魏王朝に訴えた。
と読めるのですよ。<

なんで女王に不属で、相攻撃する二人が仲良く訴えるのですか?

>・帯方郡太守が帯方郡内の地方役人の人事を行い、配置する事は通常の業務の範囲内。帯方郡内であっても、倭人の元に派遣するのであれば「遣」と表現されるのも問題なし。<

問題大ありです。
なんで郡内の内政の使者の名前が、正史のこんなところに出てくるのですか?

>倭国に派遣されるのはイレギュラーな対応なので、その場合は目的地は省略されないはず。<

なんで倭国に「遣」がイレギュラーなのですか?
このあたりは遣使とその応答使の話なのですから、倭に行くのは当たり前で、だから省略されただけです。
とにかくかいじさんは文脈が読めない人ですね。

>・景初二年の朝貢で派遣された難升米は卑彌呼の代理であり、倭人の代表として派遣されるに十分な能力と地位を最初から有していた人物であったと考えられる。
中国王朝に与えられた官位の高さ、皇帝からの賜物の目録を預かった事から考えても、外交と軍事に関する倭人側の一番高い地位と権限を持っていた事が判る。
この様な重要人物が大陸側に常駐、或いは列島と大陸側を往来していた事は想像に難くない。<

前回言ったように、半島に留まっていたという論拠は全くないです。
正始元年に卑弥呼への贈り物を託されて戻り、正始六年には半島に不在、正始八年には倭から郡への使者にたいする応答使を受けています。

>倭人は大陸側の産物や文物を求める為、朝貢以外にも何度も往来していただろう事も三国志の記述から判断できる(考古遺物的にも確認できているのでは?)。<

何度往来したとしても、文面上の節目には全て倭にいたことは明らかです。

>もう白石様と議論するつもりはありませんので、スレッドを見に来られる方の為に自身の論拠を示すためにも論点を整理して書き残しておきます。<

もう一度整理された方が良いのでは?
屁理屈をこねて自分の言い分を通そうとしているだけのように見えますよ。
歴史の考察で、実は卑弥呼と卑弥弓呼は争っていなかったというような言い分ならいいですが、文章を無理やり捻じ曲げて読むのは良くないです。

論点の整理 - かいじ

2022/08/09 (Tue) 00:56:09

もう白石様と議論するつもりはありませんので、スレッドを見に来られる方の為に自身の論拠を示すためにも論点を整理して書き残しておきます。


①邪馬台国と狗奴国は戦争していたのか 
・両国が戦争していたと解釈すると、正始六年と八年に難升米に対して詔書、黃幢を与えたとする記述が理解できなくなる(文脈が繋がらない)。
・正始八年、卑彌呼の訴えに魏が動いた結果が、難升米に対して詔書、黃幢を与える事。理由は記述されていないが、因果関係として成立している。
・韓の反乱(投降後に反乱を起したとは考えられない)のタイミングを考えれば、正始六年には難升米は帯方郡に居たか、呼ばれたと考えるのが自然である。
・倭國乱時は「相攻伐」、卑彌呼亡き後は「相誅殺」、これらは戦闘に関する記述である事は間違い無いが、「攻擊」には相手を非難するという意味がある。
・「相」には互いに、共に(一緒に)の意味がある。
・倭国乱の時、卑弥呼が亡くなった後、どちらも中国王朝が介入した記録が無く、倭人側から介入を求める記述も無い。何故、卑彌呼と卑彌弓呼の時だけ、介入を求めたと考えられるのか?。

正始八年の記述は「卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼は素より承諾せず、共に非難する様を魏王朝に訴えた。
と読めるのですよ。

②塞曹掾史張政等の派遣先について
・帯方郡太守が帯方郡内の地方役人の人事を行い、配置する事は通常の業務の範囲内。帯方郡内であっても、倭人の元に派遣するのであれば「遣」と表現されるのも問題なし。倭国に派遣されるのはイレギュラーな対応なので、その場合は目的地は省略されないはず。

③難升米は何処にいたのか?
・景初二年の朝貢で派遣された難升米は卑彌呼の代理であり、倭人の代表として派遣されるに十分な能力と地位を最初から有していた人物であったと考えられる。
中国王朝に与えられた官位の高さ、皇帝からの賜物の目録を預かった事から考えても、外交と軍事に関する倭人側の一番高い地位と権限を持っていた事が判る。
この様な重要人物が大陸側に常駐、或いは列島と大陸側を往来していた事は想像に難くない。
倭人は大陸側の産物や文物を求める為、朝貢以外にも何度も往来していただろう事も三国志の記述から判断できる(考古遺物的にも確認できているのでは?)。

和の解釈について - かいじ

2022/08/09 (Tue) 00:52:47

説文解字には以下の様にあります。

口部:和:相譍也。从口禾聲。和とは相応の事である。

相応の解釈は互いに相手(の意見)を認め、受け入れる。

この状態をして仲が良いと考える事もできますが、それは一面的な考え方です。
相手を嫌っている、憎んでいるとしても、相手の主張に真があると認めらる、或いはひとまず信用してみる事ができれば、この条件は成立します。
相手が信用できるか判らなくても条件を決めて約束事をする、例えば停戦協定などです。
成立すれば「平和」になります、かりそめかもしれませんが。
「和」を仲が良いと訳すのは狭義の解釈とも言えます。
後者の意味で考えれば承諾する、(相手を)受け入れるという解釈が可能です。
この相手を受け入れる事を「和」とするならば、「不和」は相手を受け入れない、承諾しないという意味になります。
「和」には従うというニュアンスもあるのです(当時の字義解釈、感覚として)。
倭人の「倭」は天性従順とされる性質からとって付けられた呼称です。
和、倭、委(ゆだねる)、順(まつらう)…これらに共通する意味は従う、従順などの意味です。
倭人に関連して出てくる漢字ですね。



春秋繁露の話は天候不順が原因で、結果として五穀が不和になったと言ってるのですが、
五穀は天により人の為に生まれたのに、天候が不順で五穀が人に従(順)わない(生育しない)。
という意味でしょう。

聖徳太子の憲法十七条にはこんな読み方もある様ですよ。
http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2014/01/post-3433.html

金文の研究が進んで、説文解字が秦代以前の字義解釈を必ずしも反映していないという事は存じ上げておりますが、許慎の時代には金文が読める人も稀になり、古代には許慎の時代に使われていたのとは違う形の文字が存在し、その意味を知る事が難しくなっていた事は許慎自身が説文解字の中で記述している事です。そうやって時代の流れと共に漢字の字義解釈が失われていかない様に、その時代に残っている古くから伝わる字義解釈を残そうとしたのが説文解字ですよね。
古文経系と今文経系の争い白虎観会議とか、白石様はご存知だと思いますが。

告諭の文例について白石様が仰っていたような物が発見できませんでした。
異体字の問題もあるかもしれませんので、挙例をお願いします。存在するのならですが。

石見さん - 白石南花

2022/08/08 (Mon) 10:22:49

>しかし、漢字、漢語、漢文の世界に、卑字、好字彌差別意識を、「感じ取る」特に夷蛮出自の人がいても、不思議はないと、私は考えます。<

まさに卑字を憎むのは蛮夷の人々です。
「或曰:倭国自悪其名不雅,改為日本。」
好字二字もその延長でしょう。
ようするに漢字を輸入した側のコンプレックスです。

>その結果、「伯済国は馬韓の一国」だという、記述しか出来なかった。<

後漢代に百済の史料がなかったからそうなったのでしょう。
そもそも後漢代の記述をしようとする史書において、後漢代に記録のなかった国の話をすることがおかしいのです。
そんなことをするのは、五世紀の情報に惑わされていた動かぬ証拠と言えます。

>私は、馬韓の王であった時期があったと推測していますが。<

辰王の地位は、「明其為流移之人故為馬韓所制」という魏略の記述に尽きています。
馬韓の王が辰王を兼任していたかどうかは、人によって見解の変わるところです。
しかし辰韓人自ら王になることができず、馬韓人によって制せられている存在が、三韓の王であるわけがありません。
「馬韓最大共立其種為辰王都目支國盡王三韓之地」という表現には、三国志魏略との間に大きな差があり、意図的なものとしか思えません。
魏略に語られる辰国と辰王の来歴とは相いれず、後漢代史料を用いたとは考えられません。

>白石南花さんは、范曄が倭条で挙げた、僅か3ヶ国のみの倭人諸国の一つ「拘奴国」を、『魏志倭人伝』の「狗奴国」と、あっさり同一視されておられるが、用字の相違,位置・方向の相違から、同じ倭人国名の音写ではあるが、同一の国名が、二つあっても良いと考える私には、同意できない。<

別に同じ国だとは言っていません。
五世紀情報による位置推定の修正だと言っているだけです。
もし三世紀に別の拘奴国存在したなら、なぜ三国志では全く触れないのでしょうか。

三国志:
「其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王」
「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」

後漢書:
「自女王国東度海千餘里至拘奴国雖皆倭種而不属女王」

これが後漢代の別の国の情報をもとにしたなどとは、到底考えられないです。

白石南花さん 石見介

2022/08/08 (Mon) 00:23:23

 7月25日未明の私の投稿に対する同日のコメントへのレスです。
 29日東京から同好の士を迎え、旧ヤフー掲示板時代のオフ会メンバー(奈良の大和緑狸さん)と、一泊二日の歴史談義等を楽しみましたが、その下準備と、帰宅後,PC不調で、レスが遅れました。
 申し訳ありませんでした。

 卑字説については、予想通りのご反応でした。
 卑自説に何らの根拠がなく、其れを支持する中文学者もいないとのご見解には、私も同意しますが、それでも、尚、卑字説を支持するのは、将に、「感覚」の問題で有るからこそです。
 史書を書いた中国人史家は、特に卑字を使用したという「意識」「感覚」は、おそらく持たなかったでしょう。従って、漢籍の解釈に、卑字説を持ち出すのは、ある意味、場違いです。
 しかし、漢字及び漢文を、自国の事績の記述に使用すべく、新規に習得し、いわば、漢語・漢文世界に,新規参入を果たした、夷蛮の人々は、中国中原の読書人と同じ様に、漢字、漢語(熟語)について、「感じる」のか?という、問題意識に帰着します。

 自国や自種族に、「倭」「夷」の様に、「ニンベン」が付されているのではなく、「ケモノ偏」で「貊」「狄」或いは「虫」偏の「蛮」が付されていれば、「好字(佳字)」「卑字」「蔑称」とかの感覚を持つ人々が、現れて当然だと、私は、考えます。
 繰り返しますが、その漢文を書いた中国読書人の「文章」の、「解釈」に、卑字説を、持ち出すのはむしろ、誤解釈に繋がる可能性が大きいとさえ、言い得るでしょう。
 しかし、漢字、漢語、漢文の世界に、卑字、好字や差別意識を、「感じ取る」特に夷蛮出自の人がいても、不思議はないと、私は考えます。
 また、中華の人でも、近現代や異民族出身者で、それを理解する人がいても、不思議はないでしょう。
 張莉氏の様に、「匈奴」と「倭奴国」の「奴」の使用について、中国では、入れ墨は奴婢などや刑罰に、主に使用されたので、「文身」を特徴とする匈奴や倭人に、「奴」が付された、という「解釈」をするのはその一例でしょうし、本来漢化鮮卑の出自らしい唐が、日本の「スメラ・・」の音写に、「主明楽・・」と言った、好字を使用した可能性があるのも、例証になるかと思います。

 他の問題についていえば、范曄が、その『後漢書』において、特に馬韓の一国として,「伯済」国を特記した事に、百済人の「介入」などを考慮する必要はないと思わtrます。
 范曄は、正史たる『東観漢記』が不評で、七家後漢書群が世に現れている状況下で、いわば、決定版『後漢代史書』を、書こうと思い立ちました。
 当然、倭国や百済などの劉宋への朝貢があり、世人の関心が、向いている事で、後漢代のそれらの情報の紹介も、念頭に在ったでしょう。
 何らかの独自情報があり得た倭国に対し、百済については、何もなかった。その結果、「伯済国は馬韓の一国」だという、記述しか出来なかった。
 そういう事だろうと、私は考えます。
 范曄は、後漢代の「情報」に拘ったが、集めた情報に、5世紀のものが紛れ込む可能性は、排除できません。その部分は、資料批判でしか、対応できないし、それで明確な結論が出ない事も多々あるでしょう。
 その部分は推測しか出来ず、解釈を保留せざるを得ないのが実情でしょう。

 「辰王」についても、詳細は全て、推測でしかない。常識的に、馬韓の月支~目支国に居住し、辰韓とそれから分離した弁辰諸国の本来の「王」であり、馬韓の大人達によって、選出されるのであれば、少なくとも、馬韓の一部の王でもあった、という推測は、かなり蓋然性は高いでしょう。馬韓全域の王であったかもしれないが、その確証はない。
 私は、馬韓の王であった時期があったと推測していますが。

 范曄が集めた半島や倭国の情報は、陳寿よりは多く、裴松之の集めた情報とほぼ匹敵するか、「学徒」の評価次第では、それ以上になると思われます。
 范曄の学徒で名の残っている謝儼は、既に[十志」を完成させ、本紀、列伝を書く范曄に供覧した事は判明しているが、その志は現在は失われ、地理誌や郡国志のような、倭人,倭種、倭地に関する貴重な追加情報もあり得ただけに、范曄の情報源推測の手懸りの消失と併せ、残念に感じています。
 范曄は、陳寿に比し、倭に関心があったように私には思われるので、「鮮卑伝」の「倭人国」や倭地の情報の記載の可能性のある遼東、楽浪、帯方などの地誌的情報の欠落は、特に残念です。

 白石南花さんは、范曄が倭条で挙げた、僅か3ヶ国のみの倭人諸国の一つ「拘奴国」を、『魏志倭人伝』の「狗奴国」と、あっさり同一視されておられるが、用字の相違,位置・方向の相違から、同じ倭人国名の音写ではあるが、同一の国名が、二つあっても良いと考える私には、同意できない解釈です。
 むしろ、先行史書たる『魏志倭人伝』は、范曄がその『後漢書』に付け加え、且つ「六夷」の最初の巻に置いた、いわば、力の籠った巻である以上、何らかの明確な根拠が、存在しての、『魏志倭人伝』との「相違」であると、考えた方が、良いと、私は考えます。

 「狗奴国」「拘奴国」は、古代日本語の、「kuna][kuma」と言った地名の音写であると考えられるが、「クマ」であれば、九州の「肥」「熊・隈・球磨」、近畿の「熊野」などがあり、勿論、「クナ」の音写で「久努」「久能」など、候補地は多い。
 何故、同じ国名~地名が、二つあってはいけないのか、律令国制で「アハ」国は、阿波、安房の2ヶ国が存在する例も挙げられます。

滑安房守さん - 白石南花

2022/08/06 (Sat) 18:06:21

>しかし、陸繋がりで倭と接するとの解釈も、否定出来ないもののように思えてなりません。<

接には明らかに海を渡っての接の例があります。
たとえ海を挟んでいても、そこに航路がある場合は、接で表現されるのです。
したがって接によって地続きかどうかはわからないということです。

では倭の場合に海を挟んでいるかどうかはどこで分かるかというと、倭人伝冒頭の倭人は帯方の東南の大海の中にあるという記述です。
また地理や風俗などの記述の後にも倭の地を参問するに、絶域の海中の洲島の上に在りとあります。

したがって倭人は海中の人であり、海を渡らないと行けないことがわかるのです。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 滑安房守

2022/08/06 (Sat) 14:14:35

お教え有難うございます。
漢籍を理解するには程遠いのですが、「接」について、考えを改めることが出来ました。

>読み手はまず一般的の用法で理解しようとするはずで、特異な用法であればそれが分かるようにしなければ、文意が伝達できません。
>三国志東夷伝にはそのような特殊性を伝えるような仕組みは見えませんから、一般的な用法で書かれているということです。

 あらためて、「接」を調べてみると、
 接の元の意味:まじわる、ちかづく、つづく、と白川静氏の字統にありました。
 明解国語辞典には、つづく、つなぐ、あう、ちかづく、とありました。

 安房守は、日本語の感覚的理解で、「つながっている」であるとか、「接触している」、これが元々の意味であろうと誤解しておりました。

南は、(海を隔てて、)倭と接するとの解釈は、理屈上、問題無く可能であることが理解できました。
しかし、陸繋がりで倭と接するとの解釈も、否定出来ないもののように思えてなりません。
理解不足で申し訳ありません。
お教え願います。

かいじさん - 白石南花

2022/08/04 (Thu) 11:46:38

>政等が列島に渡ったと言える根拠にはなりません。<

台与に告喻したのに、倭に渡っていないというのは無理です。
「政等以檄告喻台与」なのに告喻したのは政でないとか、それはもう文面無視です。

>詔書と檄文では扱いが異なるでしょうが、使者が届けたという事は否定しません。<

前回は詔書も告諭される例を挙げましたが、これは例外的なことでしょう。

>文中に記述されていない事でも明白な事は有る訳ですが、その辺の事情を白石様は一切考慮していませんね。<

考慮してもこうなります。
景初三年の使者は詔書によって、卑弥呼への贈り物を託されたのですから、帰らなければいけません。
これらは目録と共に封印され、卑弥呼のもとに届けられます。

正始六年には、詔書黄幢は郡に付されたのですから、難升米は郡にはいません。

正始八年には、倭国からの使者が来て、それに対して郡太守が張政を応答使に立てたのですから、張政は倭国に行きます。
当然このやり取りを行う難升米は倭にいます。

>帯方郡に難升米が居ないとなぜ決めつけるのですか?<
>帯方郡に居たのなら張政は直接難升米に渡せるので問題ありません。<

帯方郡にいたのなら、郡太守は難升米に直接渡します。
いないから使者を立てるのです。
詔書は倭からの使者に付することのできないものなので、わざわざ使者を立てるのです。

>では、どの様に解釈するのが正しいですか?。<

文面はそのままに読むべきで、帯方のはるか南、会稽東冶の東、つまり九州南方の大海中です。
そこにありえないのなら、何らかの原因で文献が間違っているだけです。
無理読みして場所を合わせようと言うのが間違いです。

>使者が遠くへ行くものと決めてらっしゃる様ですが、そうとも限らないでしょう。距離の問題ではなく、相手との関係性とかも考えないと。<

詔書中に在る通り、率善中郎将の銀印は対面で与えられています。
卑弥呼には詔書によって後付けで知らせられるのです。
現地にいないから使者を立てるのです。
特に詔書は直接に渡されるべきものを、離れたところにいる人物に渡すために、封印してかつ魏の使者によって届けられるのです。

>郡に預けて假授したのですから、帯方郡で假授されてるんですよ。<

ですから帯方郡で假授されるのなら、郡に付されることはないのです。

>おかしいですね、使者は帯方郡に居るわけですから、応答使も帯方郡で相手するはずですが。<

告喻は帯方郡の立てた使者の行動ですから、帯方郡でできるなら、最初から使者など立てずに呼びつけて対面で行います。

>「倭女王卑弥呼と狗奴國男王卑弥弓呼は素より承諾せず(受け入れず)」と訳すんです。<

かいじさんは文章を読むということができませんね。
そのあとに說相攻撃状と書いてあるのと、文章が全くつながらないではないですか。
しかも狗奴国は女王に属せずとあるから、とうぜんこれはもとから仲が良くなかったという意味です。

>漢文が判らなくても直感的に判りそうな文章ですが、不和の意味が分からなければ訳せませんよ。<

同じ語でも文脈で意味は変わります。
倭人伝のは当然仲良くなかったことを言っています。

ひとつ前の投稿についてですが、
>告諭とは教え諭す事の意で、文書の発行者と対象者が対面すると限った話では無い様ですよ。<

告諭自体は形式的な場合もあるでしょうが、文書によって告諭する側が、相手の使者に対して文書だけを渡すケースはないです。
それでは告諭ではないです。
遠隔地に対して告諭する側が、使者を立てない場合などありません。

「正元中,毌丘儉、文欽反,毓持節至揚、豫州班行赦令,告諭士民,還為尚書。」

これも鍾毓が節を持って揚州豫州に派遣されて、土民に告諭しています。
土民に文書を渡したわけではないでしょう。

白石様へ - かいじ

2022/08/03 (Wed) 23:30:16

檄文と告諭については先述した通りです。
「政等以檄告喻台与」は
政等が列島に渡ったと言える根拠にはなりません。

詔書と檄文では扱いが異なるでしょうが、使者が届けたという事は否定しません。

難升米等が倭国からの使者として半島と列島を行き来する事は当然考えられる事ですし、全ての移動が記録されている訳では無い事は指摘しました。
文中に記述されていない事でも明白な事は有る訳ですが、その辺の事情を白石様は一切考慮していませんね。

>倭国の政治体制や、魏がそれにどうかかわったのかは、これだけではわからないと思います。

この点は確かに不明な部分が多いですが、三国志は正史です。記述された文章には意味がありますよ。

>だから帯方郡に難升米がいないから、使者を立てるのでしょう。

違いますね、中国に訴えたいことがあるから倭人側は帯方郡に使者を立て、難升米に詔書と黃幢を渡すために塞曹掾史張政等が派遣されただけです。
帯方郡に難升米が居ないとなぜ決めつけるのですか?。この時、難升米が列島に居たという記述はありません。帯方郡に居たのなら張政は直接難升米に渡せるので問題ありません。

>「卑弥呼以死」この言い方が、そもそも親魏倭王に対する表現ではないでしょう。

卑弥呼は夷民族で、魏に臣従を誓った配下なので、一々称号を付けて呼ぶ必要も無いのではないですか?。しかも三国志は陳寿の時代の編纂ですよ?。

>場所が決まらんから、読み方がおかしいとか言い出したのが、そもそもの間違いなんです。

では、どの様に解釈するのが正しいですか?。

>帯方太守がなんで帯方に使者を出すのですか。

使者が遠くへ行くものと決めてらっしゃる様ですが、そうとも限らないでしょう。距離の問題ではなく、相手との関係性とかも考えないと。

>景初の卑弥呼の朝見使者にたいする、復遣使ですから当然洛陽です。

目的地が明白であれば省略は可能でしょうね。
私の選択ミスを認めても良いですよ。
この一文だけでこちらの主張は崩せませんけどね。

>>・其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。<
>郡に付したのですから、別の目的地などありません。

郡に預けて假授したのですから、帯方郡で假授されてるんですよ。

>>・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。<
>詣郡ですから郡です。

そう書いてありますよね?。私張り付ける場所間違えましたか?。

>>・遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。<
>倭から郡に来た使者に対する応答使ですから倭です。

おかしいですね、使者は帯方郡に居るわけですから、応答使も帯方郡で相手するはずですが。
拜假難升米とあるから手渡しですね。難升米が帯方郡に居ればこれもなんの問題もありません。

>「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和」は文脈を読めば、卑弥呼と卑弥弓呼が天候不順とは読めないことは分かると思いますが。

まだそんな事言ってるんですか?。
不和の意味は仲が悪いだけではない、元々は別の意味だったと申し上げたんですけどね。
何度も同じ事を言わせないで下さい。
古い時代の使われ方を知っていれば、春秋繁露の文章も判る筈ですよ。
倭人伝の解明ももう少し進んでたのではないでしょうかね?。

「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和」は
「倭女王卑弥呼と狗奴國男王卑弥弓呼は素より承諾せず(受け入れず)」と訳すんです。
何を受け入れないのか?、太守王頎の着任ですよ。
これが塞曹掾史張政等を派遣しなければならなかった理由です。

白石様は私より漢文が得意でしょうから、ぜひ訳してみて下さい。
漢文が判らなくても直感的に判りそうな文章ですが、不和の意味が分からなければ訳せませんよ。

嗟!天生五穀以養人,今淫雨太多,五穀不和。

告諭について - かいじ

2022/08/03 (Wed) 22:54:05

三国志における「告喻」が使われている文章は倭人伝を除いて13例ありました。
その中で檄、詔書、勅令等、文書を使って「告喻」したと考えられるのは以下の3例のみ。
その内で文書を発行した者が対象者に会って「告喻」したと読める文は1つ(孫亮傳の詔書)だけ。
詔書なので、正確には発行者とは言えないかもしれませんが、詔書だからこそ使者が届けなければならないのですよね。

張旣傳
西羌恐,率衆二萬餘落降。其後西平麴光等殺其郡守,諸將欲擊之,旣曰:「唯光等造反,郡人未必悉同。若便以軍臨之,吏民羌胡必謂國家不別是非,更使皆相持著,此為虎傅翼也。光等欲以羌胡為援,今先使羌胡鈔擊,重其賞募,所虜獲者皆以畀之。外沮其勢,內離其交,必不戰而定。」乃檄告諭諸羌,為光等所詿誤者原之;能斬賊帥送首者當加封賞。於是光部黨斬送光首,其餘咸安堵如故。
「ただ麴光らが造反しただけで、郡人が悉く同心したとは限らない。もしたちまち軍事で臨めば、吏民や羌胡は必ず国家が是非を分別しなかったと謂い、更めて皆が著しく保持し合おう。これは虎を翼で傅けるようなものだ。麴光らは羌胡を援けにしようとしている。今は先んじて羌胡に(麴光を)鈔撃させ、その賞募を重くし、虜獲した者には皆なそれを畀(あた)えるのだ。外はその勢いを沮喪させ、内ではその交わりを離せば、必ず戦わずに鎮定しよう」
かくして檄して諸羌に告諭し、麴光らに詿誤(過誤)された者はこれを原(ゆる)し、賊帥を斬って首を送った者には封賞を加えた。ここに麴光の部党が麴光の首を斬って送り、その余衆を咸な安堵すること以前通りとした。

孫亮傳
綝遣使以詔書告喻欽、咨等,使取據。
孫綝は遣使して詔書にて文欽・唐咨らに告喩し、呂拠を討取らせた。

鍾繇傳子名毓
正元中,毌丘儉、文欽反,毓持節至揚、豫州班行赦令,告諭士民,還為尚書。

檄等の文書を使用せず「告喻」のみで記述されている場合には、直接会いに行き「告喻」していると考えられる文章が多いです。

董昭傳
太祖令昭單身入城,告喻洪、尚等,即日舉衆降。以昭為兾州牧。
曹操は董昭に単身で入城するよう命じ、薛洪・繆尚らに告喩させた処、即日に手勢を挙げて降った。董昭を冀州牧とした。

吳書十二陸瑁傳
昔尉他叛逆,僭號稱帝,于時天下乂安,百姓殷阜,帶甲之數,糧食之積,可謂多矣,然漢文猶以遠征不易,重興師旅,告喻而已。
昔、尉佗が叛逆して僭称した時は、天下は太平で百姓は殷賑とし、帯甲兵も糧食も充分に多く、それでも漢文帝は遠征を容易とはせず、告喩しただけでした。

吳書十五賀齊傳
齊因告喻,為陳禍福,升遂送上印綬,出舍求降。
賀斉が告喩して禍福を陳べると、商升は印綬を送上し、官舎を出て受降を求めた。

告諭とは教え諭す事の意で、文書の発行者と対象者が対面すると限った話では無い様ですよ。
私が見落とした、白石様の説を説明できる文例がありましたらアップして下さい。

かいじさん - 白石南花

2022/08/03 (Wed) 15:02:22

>なるほど、告諭については私も検証が甘かったかもしれませんが、檄を以て告諭するという事は、檄文を使者に届けさせて使者に告諭させるという事も考えられるのでは無いですか?。<

「政等以檄告喻台与」だから檄告したのは政等ですから、政の一行です。
政だけが行かなかったとか、無理すぎます。

>詔書については皇帝の命令書なので、儀式的な形式はあるかと思いますが、通常の範囲内の人事異動などであれば、あえて告諭する必要も無く、渡すだけの場合もあるのでは無いですか?。<

告喻と書いてない場合は渡しただけということもあるかもしれません。
しかし詔書などは、皇帝のホットラインですから、使者が運ばなければなりません。

>告諭に関する問題はひとまず置くとして、他の部分では張政が日本に渡ったとは言えない証拠がいくつもありますよ。<

どんな証拠ですか。

>難升米が倭国に居たのなら、なぜ卑弥呼なり卑彌弓呼なり最高位の存在が使者を派遣しなかったのですか?。倭人側が使者を送る場合は卑弥呼や壹與で無いのでしょうか?。戦争中で救援を求めるなら代表の名前を使うでしょう。<

>ここもおかしいのですよ。難升米が倭国に居たのなら、なぜいきなり難升米に届けるのか?。
卑弥呼と卑彌弓呼の戦争が負けそうなら旗だけ送るのもおかしいし、中国側が認めた代表は卑弥呼なのだから、卑彌弓呼は中国に対しても弓を引いた事になる。一大事になるはずなんですけどね。戦争の記述前から送る約束をしているのもおかしいです。<

これはおかしいと思いますが、難升米が半島にいたことにはならないでしょう。
難升米が卑弥呼の下にいるなら、普通は卑弥呼に渡して、卑弥呼から渡すべきでしょう。
倭国の政治体制がどうなっていたのか分からないので、はっきりとしませんが、かいじ説のように、難升米が魏と直接結びついているようにも見えます。
倭国の政治体制や、魏がそれにどうかかわったのかは、これだけではわからないと思います。
卑弥呼は祭祀だけを行う神聖王で、実際の政治は軍関係は難升米、内政は掖邪狗などと分担していたのかもしれません。
かれらは大夫で領主ですから、倭国はそのような領主が祭祀王を共立していただけで、そのような倭国の実情を魏は掌握していたのかもしれません。
あとこのときの使者は大夫でもなく、洛陽ではなく帯方郡への使者で、だいぶ格落ちしています。

>太守王頎が帯方郡に派遣されているからといって、倭人側の使者なり、難升米なりに対して塞曹掾史張政等を派遣して対応させるという事は矛盾しませんよ。<

だから帯方郡に難升米がいないから、使者を立てるのでしょう。
いれば対面して詔書を渡すはず。
いないから勅使をたてて詔書を運んだのです。
詔書は載斯烏越に付するわけにはいかないのです。

>卑弥呼に称号が付かなくなったというのは後漢書の記述からですか?。<

「卑弥呼以死」この言い方が、そもそも親魏倭王に対する表現ではないでしょう。
魏の臣下が敵対する孫権に対して「今権以死、託孤於諸葛恪」と言っているのと同じ感覚でしょう。
また年次記事の書き方なら、「復立卑彌呼宗女台与」は「復立倭王宗女台与」、「政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗」
は「政等以檄告喻倭王台与,倭王遣倭大夫率善中郎將掖邪狗」になるでしょう。
「卑弥呼以死」以降全く倭王、倭女王の言い方は出てこなくなります。

>倭人伝を正確に完ぺきに翻訳した人がいるのなら、未だに邪馬台国がどこにあるのか?<

場所が決まらんから、読み方がおかしいとか言い出したのが、そもそもの間違いなんです。

>①塞曹掾史張政等が派遣される際は目的地が記述されていない(「詣倭國」等の記述が無い)。
 よって目的地は帯方郡までと考えるのが自然。<

倭から郡への使者への応答使なのですから、倭に行くでしょう。
帯方太守がなんで帯方に使者を出すのですか。

>②壹與は卑弥呼同様列島から離れていないと考えられるが、張政等が列島に来ていない。
 以檄告喻とあるが、拜假も無いので使者に檄文を渡しただけと考えられる。<

告喻したと報告する以上行かなければ話になりません。

>目的地書いてない
・其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,<

景初の卑弥呼の朝見使者にたいする、復遣使ですから当然洛陽です。

>・其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。<

郡に付したのですから、別の目的地などありません。

>・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。<

詣郡ですから郡です。

>・遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。<

倭から郡に来た使者に対する応答使ですから倭です。

>不和に関する反論は完全に的外れでしたが。<

「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和」は文脈を読めば、卑弥呼と卑弥弓呼が天候不順とは読めないことは分かると思いますが。

告諭と目的地の省略について - かいじ

2022/08/03 (Wed) 12:39:26

>私の確認したところで、三国志中に対面していない状況で告喻したという例は見えません。

なるほど、告諭については私も検証が甘かったかもしれませんが、檄を以て告諭するという事は、檄文を使者に届けさせて使者に告諭させるという事も考えられるのでは無いですか?。

詔書については皇帝の命令書なので、儀式的な形式はあるかと思いますが、通常の範囲内の人事異動などであれば、あえて告諭する必要も無く、渡すだけの場合もあるのでは無いですか?。
何らかの賞罰など伝えておきたい事があれば告諭されるのではないかと考えます。

告諭に関する問題はひとまず置くとして、他の部分では張政が日本に渡ったとは言えない証拠がいくつもありますよ。

倭載斯、烏越等を派遣したのが難升米であるという貴方の私見について

難升米が倭国に居たのなら、なぜ卑弥呼なり卑彌弓呼なり最高位の存在が使者を派遣しなかったのですか?。倭人側が使者を送る場合は卑弥呼や壹與で無いのでしょうか?。戦争中で救援を求めるなら代表の名前を使うでしょう。
主語が省略されるのは既出であったり、詔書を発行するのは皇帝(実作業は別にして)のみ等、間違いようがない場合に限られると思いますが。
難升米や載斯、烏越等は必要に応じて大陸側と列島側を行ったり来たりしてると思いますよ。
倭人側には鉄を始め、大陸から手に入る文物を持ち帰るという大事な目的がありますし、大陸側で起きていることを卑弥呼に報告するでしょう。朝貢だって、記録にある以外にも卑弥呼や壹與は使者を送り行っているはずです。

>詔書は魏の王朝から難升米に渡すもの
ここもおかしいのですよ。難升米が倭国に居たのなら、なぜいきなり難升米に届けるのか?。
卑弥呼と卑彌弓呼の戦争が負けそうなら旗だけ送るのもおかしいし、中国側が認めた代表は卑弥呼なのだから、卑彌弓呼は中国に対しても弓を引いた事になる。一大事になるはずなんですけどね。戦争の記述前から送る約束をしているのもおかしいです。



>使者は立ち会えないから送るのですよ。
意味が良く判りませんが?。
太守王頎が帯方郡に派遣されているからといって、倭人側の使者なり、難升米なりに対して塞曹掾史張政等を派遣して対応させるという事は矛盾しませんよ。


>その倭国にいない人物を台与が使者に立てるのですか?
>そもそも難升米は帯方郡にいたと言いますが、魏の詔書には詔書と金印以外の卑弥呼への贈り物は、封印して難升米、牛利に付していますが、正使の難升米はほっぽり出して帰らなかったのでしょうか。

難升米は一旦帰国した後、再度大陸に戻ったと考えられますと記述しました。
正始元年の梯儁等も倭国に行った後、帰国したという記述はありませんが、そのまま残ったのでしょうか?。省略されてる部分は多いのですよ。


>軽くなっているのです。
>卑弥呼にも称号がつかないということは、倭国の扱い自体が変わっています。

卑弥呼に称号が付かなくなったというのは後漢書の記述からですか?。
後漢書が記述されたのは宋代の話ですから、扱いが違っていても原因が同じとは言えませんよ。
倭人伝内であれば、省略されているだけではないですかね。
扱いが軽くなっているのならば、中国側が倭国までわざわざ使者を送る可能性は低減しますね。

「壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺」
>なんで間だけ政が主体になっているのですか。

景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。

これと同じです。求詣天子朝獻は省略されていますが、主体の太守劉夏が難升米等を京都に送り詣でる。
率善中郎将掖邪狗等二十人を送り、政等が還(巡ら)す。
張政等がどこにいたのか?が省略されているので判り辛いですが。
省略の規則があるか、そして守られているか?が解決の鍵だと思います。



>だいだい自分は読めると思っている人の論はめちゃくちゃになります。
>文脈を読むべきです。
>卑弥呼と卑弥弓呼は天候不順なのですか。

はい、倭人伝では天候の話も五穀の話もしていません。不和という言葉が「不仲」だけを表す訳では無いと申し上げております。明らかなミスリーディングですね。わざとですか?。
私は自分でも漢文が読めるとは思ってませんので、辞書を引いたり、他の人の読解文を参考にしたり、色々周辺情報も調べながら答えを出しています。

倭人伝を正確に完ぺきに翻訳した人がいるのなら、未だに邪馬台国がどこにあるのか?で揉めている筈はないですよね。少なくとも文献上では~とか、考古遺物的には~との答えは出ている筈ですよね。
倭人伝周りに関しては、専門家の方が訳した内容でも、時々ここは丸めて訳してるなとか、無理があるのでは?。と気づく時があります。ピンポイントで倭人に関する事を掘り下げているからと、岩元学説というお手本があったからです。岩元学説も完璧で誤謬が無いとは申しませんが…それはこれから私たちが検証していければと考えています。専門家の方や他の研究者の意見を伺うためにも、論文などの形で公的な場で発表するのが良いのではとも考えています。
白石様のスレッドに書込みさせていただいたのは、以前にも書込みさせていただいたのと、間違いに気付いた点があったからでもあります。
議論にお付き合いいただけるのなら、こちらもできる限り対応したいと思います。
ご面倒をお掛けしますが、これ以上は続けたくないという事であれば、いつでも中断なさって下さい。

目的の省略について私の説明にもあいまいな点があった様なので、要点をご説明します。

先日の上野先生のお話にもありましたが、倭人にとって帯方郡(楽浪郡)まで出かけていくのは、コストやリスクを差し引いてもメリットがありますが、中国人が列島に出掛けるのは、コストやリスクに見合ったメリットがありません。視察も一度行けば十分でしょう。

帯方郡が韓と倭の窓口である以上ここで落ち合うのが双方に合理的であり、どちらも目的地が帯方郡なら行き先は省略しても意味が通じます。
ただし、倭人が王都洛陽まで出かける時、中国人が列島に出掛ける時は、何処まで行くか記述する必要があります。帯方郡以外の目的地を省略すると、どこまで行ったのか判らなくなるからです。
(通説はここが曖昧なままです。提唱された方はどの様にご説明されてるのでしょうか?。) 

①塞曹掾史張政等が派遣される際は目的地が記述されていない(「詣倭國」等の記述が無い)。
 よって目的地は帯方郡までと考えるのが自然。

②壹與は卑弥呼同様列島から離れていないと考えられるが、張政等が列島に来ていない。
 以檄告喻とあるが、拜假も無いので使者に檄文を渡しただけと考えられる。

目的地書いてある
・太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國
・政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺

目的地書いてない
・其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,
・其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。
・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。
・遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。


告喻に関する反論は良かったですよ。
こちらでも少し調べてみます。
不和に関する反論は完全に的外れでしたが。
論理的な反論は歓迎いたします。

主語や目的語の省略について意見はありますか?。

かいじさん - 白石南花

2022/07/30 (Sat) 18:29:40

>ても基本的な事ですが、檄とは檄文の事です。
政等以檄告喻壹與は「文書を以て告諭する」と言う事です。
わざわざ断るという事は会ってませんね。<

ですから告諭というのは対面で語ることです。
檄文をもって教え諭しているのです。
史記殷本紀「盤庚乃告諭諸侯大臣曰(以下告諭の中み)」
詔書をもって告喻するというのもあります。
呉書孫亮伝「綝遣使以詔書告喻欽、咨等,使取據」
倭人伝では、詔書を示すだけならわざわざ告喻など書いていません。
たとえ形式的でも告喻したと報告する以上、対面していなければ嘘つきになります。
私の確認したところで、三国志中に対面していない状況で告喻したという例は見えません。

>弥呼と比べると扱いが軽くなった感が否めません。<
軽くなっているのです。
卑弥呼も台与も、「卑弥呼以死」以降まったく称号がついていません。
卑弥呼にも称号がつかないということは、倭国の扱い自体が変わっています。

>い、この分の主体は壹與です。壹與が掖邪狗等二十人を遣使し、政等(出入国管理官)が還すのです。<
「壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺」
台与が掖邪狗等二十人を遣り、政等を送り、そのまま台に詣でさせたということです。
台に詣でたのは、掖邪狗等でしょう。
そして詣でさせたのは台与ですよね。
なんで間だけ政が主体になっているのですか。
歴史論はともかく、漢文の読みは専門家の読みを参照したほうが良いです。
だいだい自分は読めると思っている人の論はめちゃくちゃになります。

>弥呼が使者を送るとは書いてませんね。では、誰が派遣したのですか?<
これは私見ですが、応答使が難升米に返っているのですから、難升米でしょう。
だから使者が太夫でもなく、郡どまりの使者で、応答使が身分の低い張政なのでしょう。
そういう意味で、かいじせつのように、魏が難升米と直接の主従関係を結んでいるようにも見えます。
はっきりはわかりませんが。

>キが派遣したのなら、なぜ自分が対応しなかったのか?。
帯方郡に来ている使者を無視するのもおかしいと申し上げたはずですが?。<

そりゃ難升米が倭国にいて、直接渡せなかったのでしょう。
しかも詔書は魏の王朝から難升米に渡すもので、黄幢も魏王朝の地位をあらわすものですから、勅使が運ぶべきものですから、倭の使者に付するわけにいかないのです。
だからたとえ地位が低いとは言っても、張政が使者に立てられたのです。
黄幢が軍事的意味を持つものなので、塞曹掾史が選ばれたのでしょう。

>は帯方郡で張政と倭の使者が会見したと考えているからですよ。文章を読んでください。<
使者は立ち会えないから送るのですよ。
そもそもおかしいでしょう。

>と韓の領域の間に置かれそうな気がしますが、<
その倭国にいない人物を台与が使者に立てるのですか?
そもそも難升米は帯方郡にいたと言いますが、魏の詔書には詔書と金印以外の卑弥呼への贈り物は、封印して難升米、牛利に付していますが、正使の難升米はほっぽり出して帰らなかったのでしょうか。
詔書が命じていることに従わなかったということですか。
正始四年にも掖邪狗はたくさんの贈り物を受けていますが、当然これは卑弥呼への贈り物で、封印して掖邪狗に付されたものですよね。

>普通は新しい意見を聞いたら、本当かどうか裏を取ったりするものだと思いますが、ろくに検証もなさらずに「ありえない」とか簡単に言いますね。<

このスレに書いている以上は、わたくしの意見を求めているのでしょうが、漢文の読みレベルであり得ないので、そう回答するしかないですね。
歴史の論の段階ではないです。

>説に基づいてとか、あんな話を聞いた、こんな説もあるとあやふやな話ばかりですが、きちんと整合性のある説明を、ご自身の考えに基づいて行ってください。<

ですから私は歴史の論のレベルに達しているものについては、あんな説もあるこんな説もあるとして認めています。
それ以前の段階だからあり得ないと言っています。

>れも五穀の仲が悪いと訳しますか?。<
文脈を読むべきです。
卑弥呼と卑弥弓呼は天候不順なのですか。

>に私の意見が絶対正しい、他の意見は認めないという事では無いのですが、通説に対してこういう見方もあるんだと意見を提示しているので、「ありえない」の一言で片づけないで、もう少し話を聞いてみようかとはなりませんかね?。<

十分話を聞いていますよ。
かいじせつの、難升米が魏から直接何らかの命を受けていたという主張には、可能性ありと考えていますが。

調べてますよ - かいじ

2022/07/30 (Sat) 11:16:58

白石様

とても基本的な事ですが、檄とは檄文の事です。
政等以檄告喻壹與は「文書を以て告諭する」と言う事です。
わざわざ断るという事は会ってませんね。
大体、倭人は朝貢する側なのです、帯方郡の隣に邪馬台国があったならまだしも、海を越えて邪馬台国まで出かけるのは危険も伴いますし、詔書とか重要な物があるならまだしも、檄文(公的な物から私的な物まであるでしょうが、ある程度誰でも書ける)だけですからね。それでも列島まで行ったのなら詣倭国とか記述されるでしょう。帯方郡に来た使者に預けて終わりだと考えられますよ。

そもそも、この後王都まで詣でている訳ですから、何か大事なものが与えられるなら王都で授与されるはずです。ですが、王都で何かを与えられたという記述がありません。
檄だって王都で与えた方が権威付けできるはずなんですけどね?。なぜ列島まで行く必要があるのでしょう?。

卑弥呼と比べると扱いが軽くなった感が否めません。
そして帯方郡までは倭人が単独で辿り着けるでしょうが、その先はやはり中国の許しが無ければ辿り着けないのです。あちらも戦争の途中ですから、入出国管理はされているでしょう。臺まで行くには案内人が必要です①の構文と同じですよ。

「壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺」

はい、この分の主体は壹與です。壹與が掖邪狗等二十人を遣使し、政等(出入国管理官)が還すのです。

其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。

確かに卑弥呼が使者を送るとは書いてませんね。では、誰が派遣したのですか?卑彌弓呼素ですか?。それだと、話がまた違ってきますね。

>国の使者は郡に来ていて、そこに対して使者を立てるわけはない

お忘れかもしれませんが塞曹掾史張政はここが初出なので、どの様な経緯で出てきたのか説明は必要でしょう。
王頎が派遣したのなら、なぜ自分が対応しなかったのか?。
帯方郡に来ている使者を無視するのもおかしいと申し上げたはずですが?。
突然張政が倭国に向かうのは不自然だし、一人で行けるはずないのです。船団を率いて行く事になるでしょう。それで届けるのが詔書と黄幢だけでは、つりあいが取れません。軍を派遣するならともかく…。

>詔書、黄幢はすでに正始六年に郡に付されていたものでしょう。

最初の朝貢の時は贈り物も多かったし、偵察と示威行為を兼ねた物だったので時間が掛かるのは判りますが、通説の言うところの倭国内の戦争は八年の記述なんです、六年に送られた詔書、黄幢とは別問題なんですよ。戦争が理由でもらったのなら、まず戦争の話をしないと話の辻褄が合わないのです。なぜここを短絡してしまうのかが判りません。
逆に同じ理由でもらったといえる論拠は何ですか?。
きちんと説明して下さい。

>なんで使者を立ち合いの上送るのですか?

私は帯方郡で張政と倭の使者が会見したと考えているからですよ。文章を読んでください。
王頎が直接対応できなかったのは、王頎が卑弥呼や卑彌弓呼素に嫌われているからです。代わりに倭人との窓口になる人物が必要になって張政が派遣されたのです。

其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人

掖邪狗は正始四年に少なくとも帯方郡までは出掛けてるでしょうね。
その後帰国したという記述はありませんので、一旦帰国したのか、それともそのまま現地に留まっていたのかは判りませんが、率善中郎將掖邪狗は同一人物だと考えます。
現地に駐留した人達は当然いたと思いますが、帯方郡の領地内に居たのか、その近傍に居たのかは判りません。魏と韓の領域の間に置かれそうな気がしますが、この辺りは記述も無いので判りませんね。

一つ言えるのは卑弥呼に比較して壹與の扱いは軽くなっていますが、派遣される率善中郎將以下の使者が増えている事です。
壹與の共立により戦争は終わり、何らかの称号や官位も貰えるわけではないのに、使者の数が増える理由はなんでしょう?。

>文例は山ほどあって大変ですが、ちゃんと調べましたか。

通説がどんなものかは存じ上げております。
矛盾だらけでおかしいなと思い、何年も掛けて調べ上げました。白石様の方はご自身で調べてますか?。
普通は新しい意見を聞いたら、本当かどうか裏を取ったりするものだと思いますが、ろくに検証もなさらずに「ありえない」とか簡単に言いますね。
通説に基づいてとか、あんな話を聞いた、こんな説もあるとあやふやな話ばかりですが、きちんと整合性のある説明を、ご自身の考えに基づいて行ってください。

では、判り易い例文を差し上げましょう。
漢代の春秋繁露 止雨編の一節です。

嗟!天生五穀以養人,今淫雨太多,五穀不和。

これも五穀の仲が悪いと訳しますか?。
この不和は不順に近いかな…五穀の成長が悪いという意味ですよね。これはほんの一例です。

別に私の意見が絶対正しい、他の意見は認めないという事では無いのですが、通説に対してこういう見方もあるんだと意見を提示しているので、「ありえない」の一言で片づけないで、もう少し話を聞いてみようかとはなりませんかね?。

かいじさん - 白石南花

2022/07/28 (Thu) 17:45:50

>壹與が大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を帯方郡に送り、張政等が還(めぐら)す、よって臺(うてな、この場合は王宮/王都を表す)を詣でる。
張政の役割は列島からやって来た掖邪狗等二十人を洛陽に送り届け、更に列島へ送り返すまでの手配です。<

いやこれは無理ですよ。
張政は台与に檄告喻していますから、倭国に来ています。
このとき張政は詔ももっていませんね。

「壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺」

この文の主体は明らかに台与ですから、台与が掖邪狗等二十人を遣使したのですよ。
同時に政等を送還し、また使いを臺に詣でさせたのです。

>卑弥呼が使者を帯方郡に送り訴え出る。
・王都からの詔書、黄幢は張政が難升米に届ける(拜假とあるので、おそらく対面でしょう)。
この時張政、難升米はどこにいたのか?。<

卑弥呼がとは書いてないのです。
応答使の張政は、難升米に詔書を与えているので、使者はそもそも難升米が立てたものでしょう。
そして王頎到官以下の文脈で、倭国から郡への使者に対する応答使として遣なのですから、当然王頎が張政を使者に立てたのです。
倭国の使者は郡に来ていて、そこに対して使者を立てるわけはないですから、張政は倭国に向かったとするしかないです。
詔書、黄幢はすでに正始六年に郡に付されていたものでしょう。

>張政は地方の下級役人、帯方郡で雇われた人物の可能性が高いですが、帯方郡にて王頎立ち合いの元、倭からの使者に詔書が送られるのが筋では無いでしょうか?。<


なんで使者を立ち合いの上送るのですか?
正始元年には太守弓遵が梯儁を使者に立てますが、立ち合いの上ではないでしょう。
使者を立ち合いの上で派遣するってどういうことでしょうか。

>というか、本来帯方太守王頎の仕事だと思うのですが…?。<

難升米が帯方郡に来ていたら、使者なんか立てずに王頎がやったんでしょう。
郡にいないから、使者をたてたんでしょう。

>何らかの働きを期待されての事でしょうが、列島に居ては中国王朝の為に働く機会はほとんど無いでしょう。
卑弥呼が最初に朝貢した時に「中郎將」になっていますし、狗奴国との戦争に備えての対応であれば、この時点で戦争の話題も出はずで、その後の推移も報告されなければ不自然です。<

掖邪狗は正始四年に率善中郎将を受けていますが、半島にいたのですか?
台与の遣使した率善中郎將掖邪狗は別人ですか?

>とりあえず、こんな事なども論文にまとめて発表してみたいと思います。話題には事欠きませんので。
採用されて、全国の専門家の方達の俎上に載せていただければ期待しています。<

もうちょっと練らないと相手にされないか、されても一蹴されて終わりだと思いますよ。

>あ、素から不和とあるのは、素から従わないという意味ですよ。この場合、和=従に近いです。<

文例は山ほどあって大変ですが、ちゃんと調べましたか。
一見しておかしいですよ。

>問題は、この文脈の中で何が起きているか?という事です。倭人伝だけでは全てが判明せず、他の伝や紀も参照する事で全容が見えてくるのはお判りのはずです。<

かいじさんは参照されたのでしょうか、私の調べた限り、この二例でなんか言うのは無理です。

答え合わせ? - かいじ

2022/07/28 (Thu) 15:37:40

倭人伝文中の朝貢により列島と大陸を行ったり来たりする文章について確認します。

①景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。
②今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還
③正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王~,倭王因使上表荅謝恩詔。
④其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
⑤其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。
⑥其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。
⑦復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺

①は最初の朝貢の記述であり、省略無く丁寧に記述されています。
・倭女王が大夫難升米等を帯方郡に派遣して詣で、天子への朝獻を求める。
・太守劉夏が吏を派遣し、將を京都に送り詣でる。
辺境の夷民族の窓口は近傍の郡が対応する事になっているそうで、韓と倭(正始7年から濊も)の場合は帯方郡が担当です。
まず倭人側は帯方郡まで使者を送り、そこから先は帯方太守の派遣した使者が洛陽まで案内する様子が記述されています。使者は行ったままで、まだ帰還してません。(この構文の形を覚えておいて下さい)

②は王宮で偉い人に会って、お土産を色々貰って、帰国するまでの流れですね。
・難升米を率善中郎將とし、牛利を率善校尉とし、謁見を許し労い使者を還す(一巡りし、元の場所に返す意)
「還」を使っているので、難升米等は王都を訪問した後、元居た列島に帰ったのでしょう。

⑦は壹與が立てられて初の朝貢を行います。文章は短くなってますが、行動パターンは①と同じです。
・壹與が大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を帯方郡に送り、張政等が還(めぐら)す、よって臺(うてな、この場合は王宮/王都を表す)を詣でる。
張政の役割は列島からやって来た掖邪狗等二十人を洛陽に送り届け、更に列島へ送り返すまでの手配です。

⑥で塞曹掾史張政が初めて登場しますが、誰が何処から張政を派遣したのか?主語が抜けています。主語が明らかで間違い様が無い場合など省略される場合があります。この時張政は詔書を届けていますので、張政を派遣したのは王都の偉い人です。話の流れは以下の通り。
・太守王頎が帯方郡に着任する。
・卑弥呼が使者を帯方郡に送り訴え出る。
・王都からの詔書、黃幢は張政が難升米に届ける(拜假とあるので、おそらく対面でしょう)。
この時張政、難升米はどこにいたのか?。
王頎が帯方郡にいて、使者も帯方郡まで来ているのに、いきなり張政が列島に出掛けるでしょうか?。
張政は地方の下級役人、帯方郡で雇われた人物の可能性が高いですが、帯方郡にて王頎立ち合いの元、倭からの使者に詔書が送られるのが筋では無いでしょうか?。
というか、本来帯方太守王頎の仕事だと思うのですが…?。
何故、こんな風に難升米に詔書と黃幢が届けられたのかはその官位によると考えられます(後述)。


難升米はいつ帯方郡に戻ったのか?は③の正始元年~倭王因使上表荅謝恩詔。の時だと考えられます。
そもそも難升米が最初に貰った官位は率善中郎將。
「率善」とは帰服した夷民族に対して与えられる称号で、三国志では韓と倭にしか与えられた記述が残っていません。鮮卑とか、珠崖などに例がありますが同属の反乱を制して中国王朝に寄与した人物などに与えられる様ですね。
「中郎將」は将軍に次ぐ高位の軍人に与えられるもので、やはり三国志内では韓と倭にしか与えられていません。出土遺物では、西晋末頃の鮮卑(犭+奇 宀+也 部。名前が出ないので旁だけ)の銀印が存在しますが、こちらは時代的に北方の騎馬民族が精強な時代だったので、軍事統括権も与えられていた可能性が高いとの事です。
後漢末以降は戦乱の時代で「中郎將」が多く輩出される様になるそうですが、夷民族に与えられた異例な官位授与が形だけだったとは考え難いです。反乱を起すまで、韓や倭が中国王朝に対して反抗的だったという記述も無いので、反王朝的な韓人や倭人を制圧したご褒美でも無いでしょう。
何らかの働きを期待されての事でしょうが、列島に居ては中国王朝の為に働く機会はほとんど無いでしょう。
卑弥呼が最初に朝貢した時に「中郎將」になっていますし、狗奴国との戦争に備えての対応であれば、この時点で戦争の話題も出はずで、その後の推移も報告されなければ不自然です。
正始八年まで戦争の話???は出てきませんよね?。

そして④正始四年には卑弥呼が大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を送っています(行き先は無いですが洛陽まで行った事は間違いないでしょう)。
ここで興味深いのは、持参品の中に「短弓」がある事です。
倭人の弓は「上長下短」とあります。これは現代まで通じますが、矢をつがえる所が中心よりやや下にあり、とても長いのです。
「短弓」は騎馬民族が良く使うものですね。
騎馬民族の武器を送るという事は、つまり騎馬民族と戦い倒した証に戦利品として提出したものでしょう。
そうであれば、この後掖邪狗等が率善中郎將の印綬を受ける事も理解できます。
韓や倭に「率善中郎將」が送られていたのは、既に彼らが中国王朝に反旗を翻す者達と戦って居た事が考えられるのです。

そういうさ中に、部従事呉林が韓を楽浪郡直轄にすると言い出し、韓は怒り、反乱を起こす訳です。
数年の間に反乱と投降を繰り返すというのは考えにくいです、再起する余裕があるなら全面的な投降はしないだろうし、中国王朝側もそんな事は許さないでしょう(そんな状況が起きるのは王朝が滅びる時でしょう)。
難升米は倭人で最初に「率善中郎將」の印綬を受けた人物ですから、倭の同じ官位の中では最上位に居るでしょう。
正始六年に反乱が起こり弓遵が亡くなったとしたら、直ちに難升米の元に詔書と黃幢が届けられるのは必然では無いでしょうか?。
正始七年に韓が投降し、高句麗征伐もある程度目途が立ったので、正始八年帯方太守王頎を派遣する。
卑弥呼の訴えが狗奴国との戦争ではなく、太守王頎着任に対する批判であったとしたら、王頎には対応させずに、塞曹掾史張政を派遣し、難升米の元に詔書と黃幢を送りこれまで通りで頼む。という流れが自然です。

以上、漢文の解釈と官位の役割、権限を検討した結果ですが、邪馬台国の戦争と狗奴国の戦争があったとした場合、これらの文章や官位について適切な説明はできるのでしょうか?。
三国志はまがりなりにも正史ですから、仮に虚実が混ざっていたとしても意味の通らない文章は記述されていないと考えますが。
とりあえず、こんな事なども論文にまとめて発表してみたいと思います。話題には事欠きませんので。
採用されて、全国の専門家の方達の俎上に載せていただければ期待しています。

あ、素から不和とあるのは、素から従わないという意味ですよ。この場合、和=従に近いです。
統計的に処理されるのも結構ですが、漢字の意味は時代によって引伸します。
古い時代の資料からよく調べてみて下さい。

付郡假授という語は検索しても出てきません、他では見られませんが、何らかの事情で太守が不在になり、郡に預けて…という事は他にも当然あったでしょう。
問題は、この文脈の中で何が起きているか?という事です。倭人伝だけでは全てが判明せず、他の伝や紀も参照する事で全容が見えてくるのはお判りのはずです。

毎日のようにやり取りをするのはしんどくなってきたので、この辺でいったんお開きにしたいと思います。
色々とお騒がせしましたが、博識で論理的に思考できる方と議論するのはこちらも勉強になるのでありがたかったです。暑い日が続きますが、体調にお気をつけてお過ごし下さい。

かいじさん - 白石南花

2022/07/27 (Wed) 17:12:26

>正始六年の時点では、郡に付して難升米に假授しただけと仰いますが、それでは何故この年に難升米に黄幢を假授する事が決まったのでしょうか?。
今度は原因の説明が抜け落ちていますよ。<

それは実際に届けたときの理由が、倭の内乱なので、素よりとあるようにすでにその時点で狗奴国との争委が報告されていたのでしょう。

>可能性の存在を匂わすのではなく、具体的にご説明をお願いします。<

可能性があると言っただけでそうだとは言っていません。
正始六年の段階で二郡によるワイの征討があり、その後韓の征討の前に高句麗やワイを征討しているのなら、そうしなければならない理由があったのではということです。

>これは中国王朝が張政等を派遣し、難升米に詔書、黄幢を渡したという記述です。<

倭から使者が来て、それに応えて張政を派遣したのなら、当然倭に向かったのでしょう。
お説では張政は下級役人なので、出張はしないとなっているようですが、下文では

「台与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還」

となっていて張政は倭国から送還されています。

>王頎到官で記事が切れていて、後ろは別の原史料であるとの説があります。<

これは私の説ではありませんが、

>正始年間の記事中においては両国の戦争の話は無かったと論証可能です。<

というのなら、ここで切れていることになりますね。
つなげて考えるなら、正始八年には狗奴国と卑弥呼の抗争が伝えられていることになります。
私もここはつながっていると考えているので、抗争は正始八年に帯方郡に伝えられ、そのため郡に付されたままになっていた黄幢が、勅使を立てて倭国にもたらされたのだと思います。

卑弥呼に対する詔書を見ると、親魏倭王の身分証明である金印は、封印して帯方太守に付され、その他の賜物は同じく封印して難升米一行付されています。
一方率善中郎将の銀印などは、直接渡しているようです。
直接渡せる人物には直接渡し、渡せない人物には封印して預けているということです。
したがって正始六年に郡に付したということは、そこで直接難升米に渡せなかった、つまり難升米は郡にはいなかったということです。

特に金印のような地位を認めるようなものについては、郡に付された後、勅使が選任されて運ばれたと考えます。
正始八年の倭国の使いは、誰が使者を立てたのか明示していない上に、郡への使者となっており、使者は大夫でもありません。
それに対する答えが難升米に対する詔書、黄幢なのですから、使者を立てたのも難升米でしょう。
私は難升米が倭国の軍権を握っていたのだと思います。
そのため勅使もまた、塞曹掾史となったのでしょう。

或る意味で魏の政権と、難升米が直接結びついているようではありますが、難升米は半島にいたのではなく、倭国にいたことは明らかです。
黄幢は素より不仲な狗奴国との抗争に対するものとして、正始六年には送ることが決まっていたのでしょう。
ただ私の説ではありませんが、狗奴国との抗争は韓の反乱に対して、魏に援軍を送らなかった言い訳だという説があります。
その場合は黄幢は魏が、なんらかの軍事的意味で難升米に与えたものとなって、かいじ説に近くなるかもしれませんね。
ただその説でも難升米は半島にいたとはなっていなかったと思います。

それから付郡假綬で、郡太守が死んでいたというのは、無理じゃないでしょうか。
正史全体をしらべてみても、「付〇〇假」の形の文自体がほとんどありません。
三国志東夷伝にある「付帶方太守假」と「付郡假」の二例だけ、あと宋史に文をまたいでたまたまそうなっている例が二例あるだけです。
そのときすでに亡くなっていたかどうかは、これだけではわからないと思います。
「假授」で調べても用例が少なく、何かを結論できるようには思えません。
「〇〇假」で調べると当然極めて用例が多いですが、必ず人名が入らなければならないとは思えないです。
確認してみてはいかがですか。

追伸 - かいじ

2022/07/27 (Wed) 11:39:53

白石様

前出の記事を読み返してみると、色々記述されていましたね。
ただ、いろんな可能性の話をされていて白石様の結論が良く判りません。
ワイを平定すると韓を平定した事になるのも因果関係が判りません。
それを示すような記述が三国志中にあるのでしょうか?。
難升米に黄幢が送られた理由はどの様にお考えですか?。
お互いに意見を出し合っている間に枝葉の部分も増えてきましたし、すれ違いになってしまっている部分も出てきました。
簡潔にまとめてご返事いただけると助かります。
この辺りは倭人伝解読に重要な場面です。

とりあえず回答です - かいじ

2022/07/27 (Wed) 10:32:22

景初三年十二月に金印などが帶方太守に付して假授とありますが、卑弥呼は日本に居ます。「目録を送るので受け取りなさい」と記述がありますね。難升米達が先行して目録を持って帰り、正始元年に太守弓遵遣建中校尉梯儁等が詔書印綬を倭國に届けたとありますね。後のは配達した訳です。

正始六年の時点では、郡に付して難升米に假授しただけと仰いますが、それでは何故この年に難升米に黄幢を假授する事が決まったのでしょうか?。
今度は原因の説明が抜け落ちていますよ。

正始五年(244)   :毌丘倹破高句麗(高句麗伝)
正始六年(245)   :毌丘倹高句麗再征討、王頎位宮追討(毌丘倹伝)
        :樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降
        :部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。
        
正始七年(246) 二月:毌丘倹高句麗征討(斉王紀)
正始七年(246) 五月:毌丘倹ワイ貊征討、韓数十国投降(斉王紀)、二郡韓を滅す。

時系列はこうなりますね。直したところは原文のままです。
韓の反乱の原因は韓伝に記述されている通り、部従事呉林による韓の楽浪郡編入です。高句麗征討の間ではありますが、毌丘倹は幽州における夷民族を軍事力で制圧していこうとしていた事が良く判りますね。
白石様が仰る高句麗やワイの間に何らかの関係があったとするのは、具体的にどんな内容でしょうか?。
可能性の存在を匂わすのではなく、具体的にご説明をお願いします。

其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。:詔賜倭難升米黄幢、付郡假授

この文中において、倭が載斯、烏越等を帯方郡に派遣したとは書いてありますね。
ただし「遣塞曹掾史張政等」ここで張政等を倭に派遣するとは記述していません。
張政も塞曹掾史も初出です。これは中国王朝が張政等を派遣し、難升米に詔書、黃幢を渡したという記述です。

なぜ高句麗を征伐した毌丘倹に任せなかったのか?という件ですが、毌丘倹は高句麗征伐にもかなり苦労しています。途中兵糧が足りなくなって一時撤退し、王頎に扶余で兵糧を調達させている位です(本国からの支援は無いという事です。)。本格的に韓とも戦争をする事になったら、毌丘倹は高句麗征伐に成功したとは思えません。韓の反乱が毌丘倹由来である以上、中国王朝に従順で韓にも近い倭人に仲裁を任せるのは理にかなっています。

>王頎到官で記事が切れていて、後ろは別の原史料であるとの説があります。

これは正しいと証明されたのでしょうか?、漢文が読めないから文章を繋げ直したのだと考えているだけではないですか?。文章の切り貼りをされたとなると、よほどの確証がない限り、倭人伝全体の信用性が無くなりますが。そういう可能性の存在は否定できないとしても、ひとまずは文章をあるがままに認めたうえでどの様な解釈が可能であるかを考えるのが文献史学だと考えますが。

難升米の名前と職掌についてのご説、倭人伝と記紀では時代背景も随分と異なると思うのですが、一緒に扱って大丈夫ですか?。三国志と後漢書以上に同一性が保証できない様に思えますが。
とりあえず本論とは離れてしまうので、また別の機会にお願いします。

ひとまず、韓の反乱について整理します。
韓の反乱前に投降したというご意見についての論証をされておりませんが、そちらをまず説明するのか、取り下げるのかを教えて下さい。
問題は一つ一つ片づけていきましょう。倭人の戦争は無かった事の論証はその後にさせていただきます。
(ヒントは出しますので、考えてみて下さい。)

韓が反乱を起こすまでの流れ
・後漢の時代には楽浪郡に属していた(帯方郡はまだない)
・公孫氏による支配(兵伐韓濊,舊民稍出)が始まり、韓と倭は帯方郡(公孫氏が設置)に属する。
・司馬懿仲達が密かに楽浪郡と帯方郡に使者を送る(司馬懿仲達のターゲットになるのは韓と倭)。
 諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。
 村長クラスにまで印綬を施し、千人以上が衣幘を着て帯方郡を詣でると記述されている。
・弁辰傳には以下の記述があります。
 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。
 鉄が産出され、韓、濊、倭がこれを取りに来る。市では鉄が銭の代わりになる。鉄は二郡にも供給される。
 弁辰は韓の領域と見なされていますが、濊や倭もやってきて鉄を取る権利が認められている様です。中国王朝への上納も忘れていません。
 司馬懿仲達が公孫氏を攻める前に密かに印綬を施すという事は、公孫氏に味方せず魏王朝に帰順すれば、それまでの立場を保証するという事になります(倭の代表卑弥呼は、その後金印を貰っています。それだけの価値=役割がある)。
・その後、後漢代の事績を理由に部従事呉林(楽浪郡)が韓を楽浪郡による直接支配に変更しようとする。
(既に帯方郡に属する形のまま、公孫氏から魏に帰属先を変えている。外属する夷民族の内政に干渉する事はないのに、辰韓を八つに分割統治しようとしている。これは韓にとっては納得できない事)。
・反乱により太守弓遵戰死、二郡が遂に韓を滅す(実際は投降により反乱鎮圧)。

・年号は書いていないが、部従事呉林を原因とする反乱までは朝貢に来ているのが判る。
・反乱を起こす前に投降するのは考え難い。
・中国王朝は夷民族の内政に干渉しない。
・倭国大乱にも、卑弥呼亡き後の男王が立った時も介入していないし、倭人側も介入を求めた記録が無い。
・壹與が立った後でその就任を認める事しかしていない。
・仮に邪馬台国と狗奴国が戦争をしている状況を訴え出たのだとして、その後どうなったかが記述されていない。※記録として不自然ですが、ここも削除されているんですか?
・訴え出た結果が難升米への詔書、黃幢を再假授する事のみ。何を訴えたのか?。
 ※白石説ではここでは届けられただけなのでしょうか?。正始六年の時とは状況が大きく変わっていますが、戦争の訴えが出た後で、二年前の届け物を渡すだけで、戦争に対する返事は何も貰えなかったのでしょうか?
・黃幢とは何か判っていますか?。
・攻撃、不和とはどんな意味ですか?。
字義解釈について調べてみて下さい。これらの漢字には共通の意味があります。和=倭=委=順。











かいじさん - 白石南花

2022/07/26 (Tue) 12:52:48

難升米の黄幢までを時系列で追ってみます。

景初三年(239) 六月:難升米等詣郡,求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都
景初三年(239)十二月:難升米為率善中郎將、假銀印青綬、(卑弥呼)為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝
正始元年(240)   :梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王
正始四年(243)   :遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、掖邪狗等壹拜率善中郎将印綬
正始六年(245)   :詔賜倭難升米黄幢、付郡假授
正始八年(247)   :王頎到官、戴斯烏越等詣郡說相攻撃状、遣張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻

>正始六年の詔書、黄幢。正始八年(247年)の詔書、黄幢。 
両方とも韓の反乱に基づくものだと考えています。<

正始八年の記事は、載斯烏越を郡に派遣して、狗奴国との争いについて報告の後、張政を倭国に派遣して詔書、黃幢を拜假したとありますから、韓の反乱が原因ではないのではないでしょうか。

>正始六年の時には「付郡假授」とありますが、卑弥呼や壹與の時など、他の時は必ず太守なり、曹掾史なり假授した相手が明記されていますが、この時は郡に預けて假授したと記述されているのです。<

景初三年十二月に金印などが帶方太守に付して假授とあり、それが正始元年に梯儁が倭国に行って、倭王が拜假したとあります。
それに倣えば、正始六年の時点では、郡に付して假授しただけであり、正始八年になって初めて、張政によってもたらされ、難升米が拜假したと思えます。

>正始六年の詔書、黄幢が假授された時期は不明ですが「付郡假授」の記述から帯方太守弓遵が殺害された事が判じられます。<

正始五年(244)   :毌丘倹破高句麗(高句麗伝)
正始六年(245)   :毌丘倹高句麗再征討、王頎位宮追討(毌丘倹伝)
        :二郡ワイ征討(ワイ伝)
        :韓の反乱弓遵死<かいじ説>
        :詔賜倭難升米黄幢、付郡假授
正始七年(246) 二月:毌丘倹高句麗征討(斉王紀)
正始七年(246) 五月:毌丘倹ワイ貊征討、韓数十国投降(斉王紀)、二郡韓を滅す。

こんな時系列になりますか。
すると毌丘倹の高句麗征討は、一方で韓の反乱が起こって帯方太守が戦死しているさなかでのことになりますね。
これを前提とすると韓の反乱と高句麗やワイの間に何らかの関係があった可能性がありますね。

>事態収拾に向けて現地に居た難升米に白羽の矢が立ったという考えです。<

一番の疑問は、事態収拾に高句麗を破るほどの力を持った毌丘倹が動いているのに、なんで難升米なのかです。

>なんで難升米が朝鮮半島にいたんだ?とか疑問はあるでしょうが、一つ一つ説明しないといけないので、それは後で。<

これも大いに疑問です。
しかも八年には倭国で詔書、黄幢を受け取っていますが、半島で異民族の取りまとめをしていたはずでは?

>卑彌呼と狗奴國男王が仲が悪かったか、戦争をしてたか史実は判りませんが、正始年間の記事中においては両国の戦争の話は無かったと論証可能です。<

関心がありますので論証を願いします。
昔から王頎到官で記事が切れていて、後ろは別の原史料であるとの説があります。

>難升米が個人名ではなく職掌と名であるというご説は、倭人世界の職掌も判然としない中で想像に想像を重ねたもので、返事に困ります。<

要するに難升米と伊聲耆掖邪狗は、政権内部での役割が違うと考えるということです。
それゆえ最初の難升米の遣使は成功と言えるのに、二回目には伊聲耆掖邪狗が使いに立てられ、しかも引き続いて黄幢が難升米に渡された原因であると考えています。
倭人伝の人名分析と記紀に残る人名記録との対応で考えてみました。

韓の滅亡について - かいじ

2022/07/26 (Tue) 06:32:17

書き忘れたので新しくコメントし直します。
帯方郡太守弓遵が殺害された以上、韓はお咎め無しとはいかなかったでしょう。
首長達は投降後何らかの処分がなされ、難升米軍による統制下に入る事で領民はそれまでの生活が続けられたとしても、建前上馬韓辰韓等の政治的な旧体制は「滅した」という事になったのかも知れません。
王頎が逃げた王を地の果てまで追討した高句麗も、実際は滅ぼされた訳では無く、数十年後には盛り返して平壌辺りまで奪い返されてしまっていますから。
従順な夷民族に反乱を起こされる時点でかなりの失策だと思いますが、その後きちんと解決したよというアピールなんでしょう。後始末には倭人の協力も必要だったし、その事も記述されているのに、解読されていないのは残念ですね。

異なる時代の資料の取り扱いについて - かいじ

2022/07/25 (Mon) 22:18:00

後漢書と三国志の記事を一緒に扱ってはいけない

この点に関して、私は白石様と同意見です。
三国志も後漢書も、記述されていることがすべて真実とは限らず、記述されていない情報もあるでしょう。
どちらも先行する資料を意識しながら、その時代の都合や事情を加味して編纂されているはずです。
単純に時間が経過した過程で変化する事もあるはずです。
例えば江戸末期の日本と明治の日本は同じ国と言えるでしょうか?。これは定義の仕方にもよりますが。
漢書と三国志の間には倭国大乱もありますし、三国志と後漢書の間にも卑弥呼亡き後の争乱、倭の五王の登場などがあります。国のあり方も、それぞれの勢力の本拠地だって変わっていても不思議はありません。
それら変遷の過程が全て正しく記録された資料でも無い限り、国や領地の同一性は保証できないはずです。
なので、魏史倭人伝と後漢書東夷伝の記述はほぼ同じ時代を記述している様に見えても、同じ内容とは限りません。同じ理由で後漢初期に貰った金印が倭の奴国と判じるのも確定はできないのですが、通説ではそうなっているんですかね。
専門家の先生方も通説は否定されませんが、通説がしっかりと論証されているとは限りませんし、こういった答えが見つかり難い問題は、専門の先生方は中々進んで調べようとはなさいませんでしょう。
答えが見つかるかどうか判らない難問を、いくらでも時間を掛けて掘り下げられるのはアマチュア研究者の特権とも言えます。難しい事は専門家でなければできないとの意見もありましたが、アマチュアだからできる事もあると思います。まぁ、どちらにしても楽しみながらやるのがのが一番だとは思いますが。

正始年間の記事と韓の反乱について - かいじ

2022/07/25 (Mon) 21:49:17

白石様

正始六年の詔書、黄幢。正始八年(247年)の詔書、黄幢。 
両方とも韓の反乱に基づくものだと考えています。
正始六年の時には「付郡假授」とありますが、卑弥呼や壹與の時など、他の時は必ず太守なり、曹掾史なり假授した相手が明記されていますが、この時は郡に預けて假授したと記述されているのです。
この時期であれば、帯方太守弓遵のはずですが。
濊傳の以下の記述によりこの年まで弓遵が存命なのは判ります。
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。
齊王紀
七年春二月,幽州刺史毌丘儉討高句驪,夏五月,討濊貊,皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。
韓が投降する正始七年五月までのどこかで殺害されたものと考えられますが、時期は不詳です。
正始六年の詔書、黄幢が假授された時期は不明ですが「付郡假授」の記述から帯方太守弓遵が殺害された事が判じられます。事態収拾に向けて現地に居た難升米に白羽の矢が立ったという考えです。
韓も倭も、どちらも自ら朝貢に訪れるほど従順な存在でしたが、どちらも外属扱いなんです。
民族としては独立したまま中華王朝に忠誠を誓っているのであって、領地を含めて中国の一部になった訳ではありません。部従事呉林による八つに分けて楽浪郡の元に統治するというのは内属になってしまいます。
(韓の王達はお役御免になるか、呉林の配下にされたでしょう)それが嫌だから、韓は反乱を起こしたのです。
司馬懿仲達が印綬を施して夷民族を懐柔したのは無駄な戦いを避ける為です。
韓が反乱を起こしたからと言って、それを武力で鎮圧して攻め滅ぼしたところで得られる物は無いのです。
むしろ、辺境の夷民族に反乱を起こされるなんて魏は弱ってるんじゃないのか?と周辺の騎馬民族や呉を刺激する事になるでしょう。
朝鮮半島は領有しても得られる物は少ないですが、敵に押さえられると厄介な事になるのです。できるだけ穏便に済ませたかったのは中国側も同じなのです。
なんで難升米が朝鮮半島にいたんだ?とか疑問はあるでしょうが、一つ一つ説明しないといけないので、それは後で。

韓伝の「滅する」と齊王紀の投降で記述が一致しないという事ですが、さほど大きい問題とは思えません。
齊王紀は王室に関わる記述ですので正確に記載するでしょう。
韓伝や倭人伝などは辺境の夷民族ですし、全体的に不正確な内容が多いのは明らかです。

そして何より、韓は反乱を起こすまでは魏に対しても朝貢をしています。従順なんです。
こんな大規模な投降にいたる理由が存在しません。
この投降は反乱の結果によるものです。

それと、半島の日本海側に東南部に至る直通ルートは最初からあったと考えられますよ。
帯方郡から狗耶韓国までの距離が七千里、朝鮮半島が方可四千里(実際の距離とはかけはなれていますが、三国志内ではこうなっているので尊重しましょう。白石様言うところの文献事実ですね。)
これでは朝鮮半島の外周沿いに進めば八千里を越えてしまいますので、循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國のルートは最初海沿いを進み、その後二つの川(朝鮮半島で1,2番目に大きい川です)を通って狗耶韓国を目指すルートと考えられます。
時代は下りますが、秀吉の朝鮮出兵や朝鮮通信使も使ったルートです.韓が後漢や公孫氏に朝貢していた時にも使われていたでしょう。

卑彌呼と狗奴國男王が仲が悪かったか、戦争をしてたか史実は判りませんが、正始年間の記事中においては両国の戦争の話は無かったと論証可能です。

難升米が個人名ではなく職掌と名であるというご説は、倭人世界の職掌も判然としない中で想像に想像を重ねたもので、返事に困ります。
白石様自ら後漢書と三国志の内容を一緒に扱うべきでないと仰ってるではないですか。
難升米の話はそれ以上の乖離が見られますよ。
長文を読んで読解するのにとても時間が掛かるので、次回は結論を簡潔に書いていただき、理由の説明など必要なら後に付け足してもらえますか?。

追記
韓が反乱を起こした時、倭に何の影響も無かったとは思えません。韓と倭は「接して」いるからです。
中国に朝貢するにしても、この時代は韓を経由しなければ辿り着くのは難しかったでしょう。
韓の反乱による影響が、倭人伝にも婉曲的に表現されていると考えます。
陳寿はこの部分に関して意味不明な文章を残したわけではないですよ。

石見介さん - 白石南花

2022/07/25 (Mon) 14:24:24

>卑字論は、いわば、セクハラ、パワハラ問題と似た側面があり、同じ行為をされても、好意を持つ相手だと、うれしい行為や忠告、配慮と思える行為が、相手次第で、唾棄すべきおぞましい行為や不当な権力行使にしか思えないという、双方の関係性、立ち位置の問題もあり、おそらく、白石南花さんとは、「見解の相違」で、終わる問題だと、私には思えますので、基本的に、議論は避けます。<

私にとって卑字説は、史書に客観的根拠がかけらも見当たらず、逆に卑字説では説明しがたい例があることから、受け入れがたいもので、これがしばしば論拠にされている現状はあきれるほかないのです。
中文学者でこんなことを言っている人はいるのでしょうか。
感覚の問題ではありません。

>私は、范曄という人物の性格や、その『後漢書』編纂の状況から考えて、又、百済人の関与も、先ずあり得ないのではないかと、考えるので、その部分について、反論します。<

漢籍の議論でよく見るのですが、選者の才能や周辺人物についての考察から、正しいことを書いているに違いないというような議論をよく見かけます。
しかし私に言わせれば、それは正しいことが書いてあってほしいという、希望的観測にしか見えません。
どれほどに優れた人であっても、また集団であっても、得られる情報に偏りがあれば、正常な判断ができません。
正常な判断が出来なければ、正しいと信じて誤った記述を行うことになります。
それを見抜くのが文献批判であると思います。

私は范曄が政治的阿りで書いていると言っているのではありません。
むしろ最大限情報を集め、三国志の良くわからない情報を、分析しようとしているのだと思います。
後漢書東夷伝固有の記述の内、范曄が東観漢記をもとにした部分は、当然あると思います。
例えば私見では、倭奴国の倭国の極南界や、だいたい会稽東冶の東でタン耳珠崖に近いなどという記述も、巷間の説とは違って東観漢記に遡るものと思っています。
最近では倭奴国や倭面上帥升の朝貢などは、東観漢記の帝紀ではなく、何らかの列伝にまとまってあったものと考えるようになっています。
しかし東夷伝の大半が三国志を引いていることも間違いなく、差分については一点ずつ考察する必要があると思います。

なにを原史料にしたか、それは書かれた文面自体がもっとも直接的に物語るものです。
そこに現れた用語、用字、文体、書き癖、内容の検討によるべきです。

何といっても三国志で数多く出てきた国の内、伯済だけを取り上げるのは尋常ではありません。
そんな情報源が後漢代に遡るとすれば何だったのでしょうか。
後漢書が百済と言わず匂わせになっているのは、あくまで後漢時代の記述としたいためでしょう。
梁書ではあからさまに百済は馬韓の一国であったとしています。
出自が夫餘であるというのは、時代的には魏書が初めてで、周書でも夫餘の別種であるが馬韓の属国であったとなっています。
隋書に至って初めて出自が高麗國であると出てきます。
つまりより古い時代の記録では、馬韓と結びつける記述が勝っているのです。

三国志本文にも裴松之註にも、三世紀以前の事柄が多く含まれています。
そこで引かれている魏略などには、韓について過去のことも書かれていますが、伯済について特記する様な史料があったとはとても思えません。

辰王については、三国志も裴松之註の魏略にも、大いに関心を以て記述されています。
辰王が古の辰国である辰韓の王でありながら、自らは王位に着けず馬韓人によって制せられていることは、当時の漢人にとってとても不可解なことだったのです。
衛氏朝鮮の時代に遡って、辰国の話を書き、王莽時代の辰韓廉斯邑の話を書き、後漢の時代には邑君の称号を受けたことは書いてあっても、そこにかって辰王が三韓の王であったなどということや、それを思わせることは一切書かれていません。

この漢人にとって不可解な情勢を、分かりやすくしたのが後漢書なのです。
そして三国志の記述を覆すために用いることができた情報は、明らかに百済よりなのです。
そして後漢書の描く半島の政治地図が、まさに五世紀の半島情勢にマッチしていることも、このよい証拠であると思います。

倭人について大海中としながら、その北の境界は半島の狗邪韓国とし、弁辰は辰韓の南と言いながら、弁辰と辰韓が混在すると書くなどの混乱は、多くを三国志によらざるを得ず、情報のすり合わせに失敗したためであると思われます。
そもそも後漢書と三国志の違いを、後漢代の情報によるとすると、狗奴国は邪馬台国の東の海の向こうから、三世紀までに邪馬台国の南に移動したのでしょうか。
私はこの狗奴国の情報の変化は、五世紀初頭までに倭国で勢力を得て、東海方面に展開した渡来系氏族の、ヤマトタケル伝説のもとになった、尾張の英雄の東海地方への征討伝説と、その地の久奴の地名をもとにした推測情報を、反映したものと思います。

追記:今思いついたのですが、百済は夫餘の出であるとか、高句麗の出であるとか、むしろ北朝側の史料が古いようです。そもそも高句麗と同祖と言うのは、高句麗側のプロパガンダの可能性がありそうです。

かいじさん - 白石南花

2022/07/25 (Mon) 12:22:34

かいじさん

かいじさんの問題意識は下記の部分に示されているのでしょうか。

>正始八年に卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼素が戦争をして、載斯、烏越等を派遣したのならば、何故その後難升米に詔書、黄幢を拜假し、檄文を送ったのか?。
壹與が立てられた時は、使者を送るも檄文等は壹與に送られている。難升米に送るのは不自然。
またそれに先んじて正始六年にも難升米に詔書、黄幢を假授しているのはなぜか?。<

これは確かに議論の対象になっていたと思います。
かいじさんは、この正始六年の詔書、黄幢を韓の反乱と結びつけ、正始八年(247年)の詔書、黄幢を卑弥呼と狗奴国の抗争に関するものとしておられるように思います。

これを論ずるに、二郡が韓を滅したのが何時かがかなり問題になってきますが、三国志にはその年次は書かれていません。
おそらく巷間有力な説は、正始八年(247年)にこの戦争で亡くなった、弓遵の後任として王頎が着任しているので、戦争はその前に終わっているとして、この戦争の時期を正始七年頃としているようです。
ワイ伝には正始六年(245年)に楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵が、嶺東ワイが高句麗に属しているので討ったとあって、すくなくともこの時までは弓遵は生きていたことになります。

この東ワイ討伐は、毌丘倹による高句麗攻撃と関連があると思われます。
毌丘倹による高句麗攻撃は、三国志東夷伝では正始五年(244年)、毌丘倹伝には正始六年(245年)、帝紀には正始七年(246年)二月にも高句麗を征討し、続いて五月にはワイ貊を討ちます。
諸説あるようですが、何年かにわたる軍事行動であったとするのが、素直な解釈であると思います。

毌丘倹による高句麗攻撃と、二郡の韓との戦争に大いに関係があると思われるのは、反乱の後にやってきた王頎が、毌丘倹に敗れた高句麗王を追って、はるか粛慎まで追ったとあることからも分かります。
それどころか、かいじさんのおっしゃる通り、韓の反乱を引き起こした原因であるかもしれません。
原因となった部従事呉林は、私も幽州刺史の毌丘倹の配下にあったと思います。
ただ若干気になるのは、この時代まだおそらく平州が存在していたかもしれないので、平州の配下であった可能性もあります。
晋書地理志には下記のようにあります。

「後漢末,公孫度自号平州牧。及其子康、康子文懿並擅拠遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。」

平州は漢書地理志や後漢書郡国志にありませんから、巻末の混乱期に公孫度が平州牧を自称したのが始まりでしょう。
太和六年(232年)に平州刺史の名が見えますから、魏は名目上は平州を認めていたのでしょうが、公孫氏滅亡後は東夷校尉を置いて平州として治めていたようです。
それが何時幽州に統合されたのか、今のところ分かりません。
ただ平州に属するはずの玄菟太守が、毌丘倹のもとで動いていますから、部従事呉林は毌丘倹の配下にあったと考えるのが、素直な見方であると思います。
そうすると韓の反乱は、その原因から結末まで毌丘倹が関係していることになります。

結末までというのは、晋書地理志の人口記録によれば、楽浪帯方あわせても八千六百戸に過ぎず、韓の大国一か国にも及びません。
弓遵が戦死するのも無理ない訳で、反乱鎮圧には毌丘倹軍が関係したはずです。
だからこそ、王頎が後任としてやってきたのでしょう。

さて韓の反乱の時期ですが、正始六年(245年)の高句麗とワイの討伐の後となりますが、何月のことなのか分かりません。
正始七年(246年)の高句麗とワイの討伐の際には、五月に韓那奚等など数十国が投降したとありますから、これが韓伝の韓を滅すにあたるのなら、正始七年五月以前には終了していたことになります。
自説ではこの時の征討で、半島の日本海側に東南部に至る直通ルートができ、これが部従事呉林の辰韓分割案につながったと見ています。
したがって韓の反乱はこの後となります。

もしも正始六年(245年)の何処かで韓の反乱がおこったなら、この正始七年(246年)のワイの平定が、同時に韓の平定であったことになると思います。
そうでなければ、韓を滅すという表現と、正始七年(245年)の韓の数十国の投降という表現が合いません。

どちらであったかは、確定できないというのが私見ですが、どちらにせよ正始六年に果たして難升米に反乱平定のために、詔書、黄幢を渡し激を告げるかは疑問に思います。
もしそうだとすれば、正始六年のワイ討伐に続いて韓の反乱がおこり、これを収める目的で皇帝に報告し、詔書、黄幢を取り寄せて難升米に仮綬し、その翌年になって平定したことになります。
私見ではどうもタイムテーブルが忙しく、また難升米に詔書、黄幢を与える意味も腑に落ちません。

>正始八年の記述は太守王頎の帯方太守着任から始まる。
卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼素の戦争との因果関係は何か?。どう繋がるのか?。(帯方太守王頎はその後登場しない。)<

巷間広く言われている説では、正始六年(245年)に決まった詔書、黄幢が、ちょうど半島に届くころに韓の反乱がおこり、倭への使者を選定する予定の弓遵が戦死してしまったため、難升米には届けられなかったとします。
自説の正始七年(246年)以降に反乱がおこったとすれば、正始六年(245年)の詔書、黄幢が難升米に届かなかったかの説明が難しくなりますので、見直しが必要ですね。
やはり帝紀の正始七年(246年)の記事が、東夷伝の韓の平定の別の記事であると考えるべきかもしれません。
この場合後任の太守が着任したところで、倭国の側から督促したことになるでしょう。
卑彌呼と狗奴國男王の争いは素よりとなっていますから、すでに二回目の正始四年(243年)遣使の時には報告されていて、魏がそれに対応して黄幢を与えることを決めたのでしょう。

>壹與が立てられた時は、使者を送るも檄文等は壹與に送られている。難升米に送るのは不自然。<

何故難升米に黄幢が送られたかについては、下記に自説を述べています。

https://shiroi.shakunage.net/ronbun/wajinmei.htm

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 米田

2022/07/25 (Mon) 00:52:43



│何を仰る、米田さん! - 福島雅彦 2022/07/24 (Sun) 12:36:47

│>:つまり、馬韓や弁辰の人たちは、漁業をしないのである。そして、
│>:朝鮮半島の南岸及び島々に、(クニとはいえないほどの)倭人の
│>:集落が点々とあって、彼らは、漁業を生業としていた。
│>:これが、「接する」の実態だった。(倭国ではなくて、倭人。)

│※半島に於ける「倭」「倭人」の経歴からして南岸の漁労民をして、
│ 「韓は南を倭に接す」の「倭」に置き換えるのは如何なものか、
│ と存じます。

│*以下に半島に於ける「倭」「倭人」の痕跡を羅列いたします。


福島雅彦さんへ

福島雅彦さんへのレスは、(書こうと思っては、いるのですが)
気力・体力の低下のため、作業が遅れています。

ここは、白石南花のスレですので、別のスレで、いろいろと書こうと
思っています。もうしばらく、お待ちください。

Re:後漢書の取り扱い 石見介

2022/07/25 (Mon) 00:41:10

 白石南花さん

 このスレも、興味深く拝読しています。
 いつも手堅い考証で、殆どの場合、御説に従うというか、従わざるを得ない、と感じていますが、「卑字論」に対する考えと、今回の范曄『後漢書』の評価については、異論があります。

 卑字論は、いわば、セクハラ、パワハラ問題と似た側面があり、同じ行為をされても、好意を持つ相手だと、うれしい行為や忠告、配慮と思える行為が、相手次第で、唾棄すべきおぞましい行為や不当な権力行使にしか思えないという、双方の関係性、立ち位置の問題もあり、おそらく、白石南花さんとは、「見解の相違」で、終わる問題だと、私には思えますので、基本的に、議論は避けます。

 范曄『後漢書』の評価については、白石南花さんは、その「東夷列伝」が、百済人の影響を受けている事、又、5世紀の当時の劉宋時の状況の反映を、考えておられると、理解しました。
 私は、范曄という人物の性格や、その『後漢書』編纂の状況から考えて、又、百済人の関与も、先ずあり得ないのではないかと、考えるので、その部分について、反論します。

 ご承知のように、范曄は、六朝貴族の一員で、『三国志』の撰述者陳寿とは対照的に、史書編纂に必要な、金銭的資源、人的資源にも恵まれ、又、陳寿の様に、当時の支配者の不都合なことは、書かないか、曲筆せざるを得ない状況にもなく、利害関係者の存在しない後漢代の史書を、撰述しました。
 一切の「紐付き」無しに、自由に書ける立場でした。
 まあ、強いて言えば、劉宋の帝室が、後漢の帝室劉氏の同族だと称していたので、その配慮は必要だったかもしれませんが、当時の皇帝文帝の希望する琴の演奏を拒む反骨を有し、同時代人に史才を含む才能を、高評価され、左遷中なのに、後漢代史書の撰述を思い立つと、「多くの学徒」が、協力者として、集まる状況でした。従って、特に後漢の帝室劉氏や劉宋の重臣の後漢代の先祖に対する配慮も、范曄が払ったとは思われません。

 范曄は、本紀と列伝を自ら書きましたが、その時には、学徒の一人、「志」の編纂責任者謝儼の手元には、「十志」は完成し、范曄もその出来栄えには、満足していていたと思われます。范曄の書いた本紀、列伝の中に、詳細は「志」に書いて在る、という文面が、残されています。
 残念ながら、范曄の刑死により、連座を怖れた謝儼が、「十志」を廃棄した為、後人が、司馬彪『続漢書』の志と表で、補ったものが、現行范曄『後漢書』です。

 范曄の集めた「多くの学徒」は、それなりの史書等の漢籍や学問的知識を有していたと思われます。
 人数は不明ですが、「多くの」という以上、数十人から、100人ぐらいまではいて、現代の外国の大著の翻訳の下訳者の様に、分担し、担当部分の資料を集めていたのではないか?と思われます。

 『東観漢記』や七家後漢書の本紀や列伝部分の併記、当時存在したであろう後漢代の皇帝の起居注、或いは、学徒の家や親族の家譜などの記載なども、集めたでしょうが、『三国志』の裴松之注のような目録がない以上、想像しか出来ませんが、孤独な『三国志』の著者陳寿とは異なって、撰述の環境は、大幅に整っていたでしょう。
 
 范曄が、その文章を獄中から自慢した「六夷」と称される「夷蛮伝」の最初の巻が、「東夷列伝」です。
 陳寿『三国志』の「東夷伝」序文から察すると、『東観漢記』には、「東夷伝」はなかったと思われます。その為、石原道博氏の様に、『後漢書倭伝』等を、『魏志倭人伝』を下敷きにした「剽窃」というか「パクリ」という、低評価をする人もいます。
 しかし、私は、范曄の皇帝の要望すら意に染まなかったら拒絶する反骨精神は、剽窃を良しとするような安易なものではなく、飽く迄も、「後漢代」の資料に拘った、と考えます。
 剽窃でないのは、「東夷列伝」倭条に、倭人諸国の名が、僅か、3ヶ国しかなく、又、「拘奴国」という国の位置が、『魏志倭人伝』の狗奴国と異なっている事からも、何らかの独自資料に基づいていることが、判ります。これを、5世紀の情報の混入と安易に解釈することは、出来ません。

 「東夷列伝」の資料は、『東観漢記』の本紀、列伝等の他、他の史書や資料からも集められたでしょうが、劉宋に朝貢した高句麗、百済、倭国の使節と応対した人々や家に伝わった文書等の他、使節団にも、接触した可能性は十分にあり、その為に、5世紀の情報が、後漢代の物として、誤記載された可能性はあります。
 当然、それは、文献批判として、考慮されるべき問題です。しかし、さしたる明確な根拠もないのに、「5世紀の情報だ」と決め付けるのも、又、誤りです。
 白石南花さんの「百済人の情報が『後漢書』東夷列伝のネタになっている、というのも、誤解だと私には、思われます。

 抑々、百済は、扶余の出自で、高句麗と同源だ、というのは、国書で述べている公式見解です。それを使節団の百済人が、否定するような見解を、劉宋の人々に伝える可能性は、先ずあり得ないと、私は考えます。

 辰王の件についても、『三国志』でも、確かに、辰韓、弁辰各12か国の半数の支配者として、描かれていますが、同時に、馬韓人であり、馬韓の人々によって選ばれ、馬韓の目支国(月支国?)に、居住しています。 目支国や辰王を選んだ馬韓諸国の人々は、辰王の支配下に無く、自立していたのか?
 常識的に考えれば、遊牧民のクリルタイなどの選挙で選ばれた王は、選挙民の王となる。
 三国時代に、辰韓、弁辰各12か国の半数の計12ヶ国しか支配していなかったとして、その当時でも、辰王は、目支国を含む「馬韓の数カ国」は、当然支配していた、と考えるべきでしょう。

 三国時代の前、後漢代、辰王が、辰韓、弁辰全域の王であったとき、彼は、おそらく、本来は、「馬韓王」でもあったと考えるべきでしょう。
 既に馬韓の全域の支配権は、保有していなかったかもしれませんが、ここは、『三国史記』新羅本紀で、辰韓六部が、朴氏の初代赫居世を王に推戴した時に、「馬韓王」に自立を宣言したという、あの倭人匏(異体字が出せません)公の逸話にある通りに、解釈するほうが、正しいでしょう。

 范曄『後漢書』「東夷列伝」韓条には、『三国志』韓条同様、確か、「辰韓と弁辰雑居」という記述もあったと記憶しています。
 弁辰は、辰韓部族連合から分離して、南下を開始するのですが、その時期は、後漢代でしょう。
 辰韓地域にまだとどまって、「辰韓と雑居」していると表現せざるを得ない弁辰部族と、先住の倭種の居住地内に南下した、「辰韓の南に居住」していると表現すべき弁辰部族国家の双方が、入り混じっていれば、当然、『後漢書』は、両様の表現はあっても、不可思議ではありません。
 5世紀になれば、辰韓と弁辰は、完全に、領域が接触はしていても、分離した状況になるのでしょう。

 白石南花さんは、「接」の解釈は正しいのですが、半島南部の「倭地」、倭種の存在を否定はされておられないのに、「無視」された為に、矛盾が生じたのではないか?と私には、思われます。

何を仰る、米田さん! 福島雅彦

2022/07/24 (Sun) 12:36:47

>:つまり、馬韓や弁辰の人たちは、漁業をしないのである。そして、
>:朝鮮半島の南岸及び島々に、(クニとはいえないほどの)倭人の
>:集落が点々とあって、彼らは、漁業を生業としていた。
>:これが、「接する」の実態だった。(倭国ではなくて、倭人。)

※半島に於ける「倭」「倭人」の経歴からして南岸の漁労民をして、「韓は南を倭に接す」の「倭」に置き換えるのは如何なものか、と存じます。

*以下に半島に於ける「倭」「倭人」の痕跡を羅列いたします。

 古来、朝鮮半島には遍く「倭人」が居た。その痕跡は…。

所謂「倭・倭人・倭国」の範疇は日本列島のみを指すのではナイ!

・「韓」は中国戦国時代の七雄の一つ。七雄は「秦・楚・斉・魏・趙・韓・燕 」
 秦の始皇帝の中国統一。敗れた韓は始皇帝の万里の長城建設等の労役に駆り出されるのを嫌って、馬韓の山側に入植。「朝鮮語」の文法が「倭語」と同じであるのは、入植地の回りの「倭語」に合わせたから、か。

・檀君神話の古朝鮮建国の古地名「阿斯達」の「阿斯」は「倭語」の「朝」由来。「達」は「嶽」の意の「倭語」音写。
天帝の子、桓雄が地上に降りて建国したことになっている。人になりたがった、熊と虎に方法を伝授する。熊は女人と化すが虎はなれずに逃亡。この熊と虎とは倭族の「濊・貊」を指す、と観る。熊女と桓雄の間に生まれたのが古朝鮮初代王檀君王倹。

・中国の古書『山海経』に「蓋國は鉅燕の南、倭の北にあり倭は鉅燕に属す」とある。
 蓋國を白頭山南麓の「蓋馬高原」と観れば、その南の倭とは朝鮮半島全域の事となる。

・「扶餘」は「ふ(幸運の意の九州弁)餘(あまる)」の「倭語」漢字表記。

・「高句麗」建国王「朱蒙(ちゅもん)」は漢に滅ぼされた古朝鮮遺民。その誕生は卵生とされるが「倭」由来の隠蔽か。夫餘王の「金蛙」が育てる。金蛙の「蛙=倭」と同音。
「朱蒙」は「弓を能くする者」の意とか。「朱(矢の射出音)蒙(もん=者)」の「倭語」。

・「朱蒙」の姓は「高氏」。高句麗とは「高(氏)のグル(仲間)」の意「倭語」。
「高句麗」の古地名に「倭数詞」に因むものが在ることが知られている、これは「倭語」話者の「倭人」が名付けた地名が残存。因に「倭数詞」は漢数字の書き方説明を古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)で述べたもの。一例に「九つ」を。

・「九つ」=“컸-걷(ノ)乙”(keod-geod-no-otsu)。“커 ・컸”(keo keod)=「大きく(なって)・大きく(なった)」の語幹、「一」の位より一桁上の「十」を意味し、“걷-”(geod)は「取り除ける・取り去る」の意の語幹。「乙」=「一つ、一」の意味(大修館書店・大漢語林)。即ち、『大きい位「十」から、取り除ける、乙(一)』。字形「九」の成り立ちは「ノ・乙」。朝鮮固有数詞九つ“아홉”(a-hob)「アホッ=阿呆」も少し足りないの意。

・「高句麗」の壁画に相撲の図柄が在る。丁髷に褌姿は、日本相撲協会に継承されている。

・「百済」=朱蒙の皇子が建国。百済は「ペクヂェ」であって「くだら」とは読めない。「高(氏)“딸”(ddal=属する)羅(くに)」=「高(氏)に属する国」の意の「倭語」。

・『三国志(韓伝)』の国々の中に「彌烏邪馬國」=「水生む山」の意の倭語を発見。
水縄連山(耳納山地)の古称に蓑尾山がある。水縄も蓑尾(雨具)も水が滴る意の同義。高良山の古称「高牟礼山」も「“다가-물”(taka-mul)山」=「集る水の山」。前身の「大伽耶國」建国王「伊珍阿岐王」とは「伊奘諾尊」の事で「倭人(神)」。この両方の「みの(お)やま」に区別をつけるために定冠詞“구름의”(ku-reum-e)=「雲の…」を付けたのが「久留米」の語源。水縄連山(耳納山地)の山頂には「白雲台、紫雲台、凌雲台、碧雲台、渓雲台」がある。
高霊郡の地名に「箕山里(きざんり)」があるが、「倭語」の「箕山(みのやま)」と同義。「高天原」(「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」)と「高霊郡」に似た地名が現存。
「高天原」=「楮原 新川 内ヶ原」⇔「高霊郡」=「楮田里 新里 内上里」と配置の方位も同じである。

※「狗邪韓國」は「倭地」である。

*「倭」の三十ヶ國は「狗邪韓國」と「奴國-1」と「奴國-2」もカウントして成り立つ。

*狗邪韓國=九倭韓國(九人の「倭」の部族長)の意の国情説明文言の一部。
「…到其北岸狗邪韓國七千餘里」の「其」=「倭」の事である。

・朝鮮の古民話に、王が臣下に「九つの頭の竜が王の意に従わないので誰か退治する者は居ないか」と問いかけるのがある(概略)。「九つ頭の龍=九部族の倭人の意」

・「韓」とは、騎馬民族の「王や君主」の意の“haan・khan”の事である。

・官職が記載されていないのは、部族並立で国家の態を為していないから。

・『三国遺事』の『駕洛國記』には、この地への首露王降臨神話に「亀旨峰に集う「九干」の上空から降臨」とある。「九干」=九人の部族長の意。

*瓊瓊杵尊は「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触る嶽」に天孫降臨して述べている。

・「筑紫の日向の」=妹川地区の日向の。(妹川うきは市小学校前の元・日向バス停)

・「襲の」=“서”(seo)の=「西の」。

・「高千穂の」=「高」は「集(たか)る」の当て字。「千穂」は、水縄連山(耳納山地)の山頂がノコギリの歯状を呈しているのを「千の穂」と描写。

・「槵触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、千本の櫛の歯で梳った様相をしている描写である。「触る」⇒“훑”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)でもある。火瓊瓊杵尊は「膂宍の胸副國」を丘続きに歩いた、ともある。

・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と肋骨が浮き出た(櫛触る)様、のことである。水縄連山(耳納山地)の稜線描写である。

※其処で、瓊瓊杵尊は「此地は韓國(からくに)に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。

・ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國(からくに)が真正面になる。これは、内陸部なのに韓國(からくに)が真正面に在る、と強調。

*「韓国」(からくに)=半島「倭人」の故地=「大伽耶國」=「狗邪韓國」=「駕洛國」  
 の事を指している。

※「神武天皇」の父親=鵜葺草(うがや)葺不合命=「大伽耶(うがや)國不統合命」の意。

*倭人の伽耶諸国統合に失敗した命、の意である。

・「神武天皇」の和風諡号=「若御毛沼命」の「若」も半島と来たり行ったりの意。

・別の諡号「神倭伊波毘古命」の「神=韓(からくに)」の当て字であり、「倭(やまと)」=「天(あま)ン処(と)」=「高天原」の分国の意。

*「川(かわ)」=“갔다-왔다”(ka-tta-wa-tta)「行ったり来たり」する所、の意。倒置形「若(わか)」=“왔다-갔다”(wa-tta-ka-tta)=「来たり行ったり」の意。「若・稚・幼」(わか)は同義。

・第二代「綏靖天皇」=「神淳名川耳命」。

・第四代「懿徳天皇」=「大日本彦耜友尊」。

・第六代「孝安天皇」=「日本足彦国押人尊」。

・第七代「孝霊天皇」=「大日本根子彦太瓊尊」。

・第八代「孝元天皇」=「大日本根子彦国牽尊」。

・第九代「開化天皇」=「稚日本根子大日日尊」。

・第十三代「成務天皇」=「稚足彦尊」。

・第二十一代「雄略天皇」=「大泊瀬幼武尊」。

・第二十二代「清寧天皇」=「白髪武広国押稚日本根子尊」。

※半島由来の隠蔽が解ける様に太安万侶が仕込んだ「鍵」か、と。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 米田

2022/07/23 (Sat) 15:24:14


│後漢書の取り扱い - 白石南花 2022/07/23 (Sat) 14:13:09

│米田さん

│東夷伝の地理記述を考える際に、
│後漢書と三国志を混ぜて考えるのは禁物です。
│後漢書は三国志とまったく違った地理記述をしているからです。


:投稿しながら、だんだんと(自分の)主張が変化しているのですが、
:私の変化に、気付いておられないようです。ですので、
:下記のように、「三国志東夷伝」の記述のみを採用して考察します。

:白石南花さんの問題提起のおかげで、
:「接」に対する考えが少し変わってきました。

『三国志韓伝』より 
:馬韓は〔三韓の内で〕西にあって、人々は定住した生活を送り、
:〔五穀を〕植え蚕を飼い桑を栽培することを知っていて、
:綿布を作っている。〔国々は〕
:山の間や海上に散在していて、城郭は築いていない。

『三国志弁辰伝(第一)』
:〔弁辰の〕土地は肥沃で、五穀や稲を植え〔育てる〕のに適している。
:蚕を飼い桑を植えることを知っていて、けん布を作り、牛馬に乗る。

『三国志魏書倭人伝』(松盧国)
:〔この国の人々は〕魚やアワビを捕らえることが得意で、云々。

*************

:つまり、馬韓や弁辰の人たちは、定住で農業をしているのです。
:ですから、(三韓の人たちは、)漁業をしていないのです。
:そして、朝鮮半島の南岸及び島々に、(クニとはいえないほどの)
:倭人の集落が点々とあって、彼らは、漁業を生業としていた。
:これが、「接する」の実態だった。(倭国ではなくて、倭人。)

:(三国志東夷伝だけを使っていても、)以上の結論になりました。
:(もちろん、倭人の中にも、農業はありますが。)

後漢書の取り扱い - 白石南花

2022/07/23 (Sat) 14:13:09

米田さん

東夷伝の地理記述を考える際に、後漢書と三国志を混ぜて考えるのは禁物です。
後漢書は三国志とまったく違った地理記述をしているからです。

例えば狗奴国は三国志では邪馬台国の南となっていますが、後漢書では海を渡った東となっています。
これは誤写誤刻や誤解などとは思えず、なんらかの別情報があったとしか思えません。

ほかにも三国志で弁辰と辰韓は雜居となっているのに、後漢書では弁辰は辰韓の南となっていますし、三国志で海中の倭の北側の岸にあると書いてある狗邪韓国は、楽浪郡の境界から七千里にある、倭の北の境界であるとしています。
三国志で倭国に属さない狗邪韓国が、後漢書では倭の国になっているのです。
馬韓にも南の境界が倭に近いという、三国志にない記述があります。

後漢書は建前上後漢代のことを書いているので、これらが何らかの後漢代の史料によるものであれば、後漢の時代と三国志の時代の民族分布の違いとして受け取ることも可能ですが、情報源が何であったかには注意を払う必要があります。
それを示唆するのが、伯済は馬韓の一国という記述です。
そもそも伯済は三国志では数ある馬韓の国の一つとして、名前だけが出てくる国です。
范曄はそれを知ったうえで、伯済だけを取り上げているのです。
伯済と百済は、この時代同音ですからこれは百済が、もとは馬韓の国であると言っているようなものです。

百済は後の史書では高句麗と同祖と言ってるとされますから、これが何の意図に基づくものかを考える必要があります。
この問題を理解する手掛かりが、辰王に関する記述です。
三国志では辰韓の十二国が属するにすぎず、辰韓人自ら王になれず、馬韓人がその地位についているなど、けっして強大とは思えない辰王が、馬韓人が自らたった王でありかつ、三韓の王という扱いになっています。
これをつなげて考えると、百済が古くから馬韓にいてその後継者であり、馬韓は古くは半島南部全体の支配者であったという意図があると思われます。

これは当時高句麗と半島支配を争っていた、百済の政治的プロパガンダであると思われます。
高句麗と同祖では、半島支配においてなんの政治的アドバンテージもありませんが、先住者でありかっての支配者の後継者であるならば、半島南部の正当な占有権があることになります。
つまり後漢書において、三国志と異なる記述は、五世紀ごろに朝貢してきた使者の政治的宣伝を受けたものと考えられるのです。
倭国もまた南朝に朝貢していますが、稲荷山鉄剣の文字使いを見れば、対中国外交は百済系漢人の力によるものと思わざるを得ません。
東夷伝の記述自体が、百済人によるフィルターをかけられていると思われます。

したがって後漢書の地理的記述は、五世紀百済人の認識を伝えたものと言えましょう。
ですから後漢書の辰韓は新羅、弁辰は伽耶、馬韓は百済をイメージしたものなのです。
五世紀初頭の新羅は高句麗の属国でしたが、その領域は慶尚北道にひろがり、慶尚南道の伽耶の北に当たります。
そして百済の南、全羅南道の後に前方後円墳の築かれるあたりには、五世紀ごろには倭王権の進出があり、その際半島での倭王権の足掛かりになっていたのが、狗邪韓国すなはち金海あたりの任那加羅だったのでしょう。
これが馬韓の南が倭であり、狗邪韓国が倭人の国であるとの記述になっているものと思います。

考古学的には三四世紀の倭系遺物は、半島南岸に分布し主に交易によるものであると考えられるのに対し、五世紀ごろからは分布が北に広がり、倭王権の半島への政治的進出が始まった状況がうかがえるようです。
三国志は中華王朝が直接かかわった時代の同時代史料であり、正確さもありますが、流動する情報を未消化のままに記載したきらいがあり、非常に難解になっています。
後漢書はそれを五世紀百済人が、対高句麗同盟国の倭国の立場も立てながら、自分に都合よく線引きをし、分かりやすくしたものなのです。
南朝はこの時代、直接半島に足掛かりを持っていませんから、朝貢使頼みになるのは致し方ないでしょう。
井上先生の描いた三世紀の半島の地図は、馬韓を百済、弁辰を伽耶、辰韓を新羅に置き換えれば、半島南部については、おおよそ五世紀の図とみなせるものと思います。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 米田

2022/07/23 (Sat) 08:08:02

RE:東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー

│3.時代背景に関する理解の欠如

│三国志東夷伝だけを見て、「接」が地続きであるとの理解に達した
│重要な要因が、韓の東西が海によって限られているという文章です。
│これを地形のみを評価していると捉えたため、海によって限られて
│いない南は、地続きではないかと考えてしまったわけです。

│文献を読むには、そのバックグラウンドにある、社会情勢や文化、
│そして選者の立ち位置、そして取得できた情報の質などを
│できる限り調べる必要があるということです。

│以上の点から考えて、下記のような対策が考えられます。

│B.古代中国の文化社会等、漢籍のバックグラウンドについての
│ 理解を深める。

│Bは実際さらに障壁が高く、専門家の書籍や翻訳などを参照する
│ 以外に、我々素人にできることはありません。


:白石南花さんの問題提起のおかげで、「接」に対する考えが少し
:変わってきました。


『後漢書韓伝』より
:〔馬韓の〕北は楽浪〔郡〕と、南は倭と接している。
:〔辰韓の〕北は濊貊と接している。弁辰は辰韓の南にあって、云々。
:〔弁辰の〕南もまた倭と接している。
:馬韓人は、耕作や養蚕の知識があり、綿布を織ることができる。

『三国志弁辰伝(第二)』(東洋文庫:東アジア民族史1)
:〔弁辰の〕瀆盧国は倭と〔境界を〕接している。
:(注)瀆盧国を慶尚南道巨済島にあてる説があり、云々。
『三国志弁辰伝(第一)』
:〔弁辰の〕土地は肥沃で、五穀や稲を植え〔育てる〕のに適している。
:蚕を飼い桑を植えることを知っていて、けん布を作り、牛馬に乗る。

『魏志倭人伝』(松盧国)
:〔この国の人々は〕魚やアワビを捕らえることが得意で、云々。

*************

:つまり、馬韓や弁辰の人たちは、漁業をしないのである。そして、
:朝鮮半島の南岸及び島々に、(クニとはいえないほどの)倭人の
:集落が点々とあって、彼らは、漁業を生業としていた。
:これが、「接する」の実態だった。(倭国ではなくて、倭人。)

:以上が、私の結論になりました。(ありがとうございました。)

RE:帯方太守王頎について - 米田

2022/07/23 (Sat) 07:37:12


│帯方太守から天水太守に異動するまでに
│何が起きたのかが判ると良いのですけどね。


:『三国志魏書夫余伝』:正始年間(240-249年)、幽州刺史の
:母丘儉が高句麗を討つため、玄菟太守の王頎を扶余に訪問させた。

:『毌丘倹』(ウィキペディアより)

:経歴
:毌丘倹は父の功績もあって曹叡(後の明帝)に即位前から仕え、
:厚遇された。曹叡が即位すると尚書郎となり、羽林監に昇進した。
:その後、洛陽の典農となった。曹叡が何度か土木工事を行なったことを
:諌めたが、その後まもなく荊州刺史に転じた。
:以後、幽州(高句麗遠征)・豫州・揚州の刺史を歴任することになる。

:252年、鎮南将軍・豫州刺史であった毌丘倹は孫権の死に乗じて、
:王昶・胡遵と共に呉征伐を計画し上奏した。


『三国志韓伝』
:建安年間(196~220)に、公孫康が帯方郡を建てた。
:この後は、倭も韓も遂に帯方〔郡〕に属するようになったのである。

(魏 ・曹氏)  ( 205年頃 帯方郡 設置)                          
文帝(220~226)帯方郡太守 公孫模 張敞(ちょうしょう)

明帝(227~239)   太守 劉昕   (238年 公孫氏滅亡)                                
            太守 劉夏(238年頃)   
少帝(240 ~253)240年太守 弓遵✕(梯儁)    
         247年太守 王頎 (塞曹掾史張政) 
○公(254 ~ 259)                                 
元帝(260 ~264)   太守 張氏  

(西晋・司馬)                                    
武帝(265 ~ 290)
(285年頃)王の依慮の子弟は沃沮に亡命して「東夫余」を建国した。
(286年~慕容氏)  扶余後王の依羅は国を回復することができた。
恵帝(290 ~ 306) 
懐帝(307 ~ 312)   太守 張統 
愍帝(313 ~316)  (太守 張撫夷)(313年 帯方郡 廃止?)

*****

:「王頎」は、毌丘倹の部下の(将軍の)扱いですから、毌丘倹の
:異動に伴って、太守を異動になったのだろうと思います。

:以後、帯方郡は、「張氏」の支配下にあります。
:塞曹掾史「張政」とは、同族なのだろうと思います。

帯方太守王頎について - かいじ

2022/07/23 (Sat) 00:34:15

米田様

レスありがとうございます。
少し言葉が足りなかったかもしれませんが、正始八年以降に登場しないのは帯方太守としての王頎です。
東沃沮傳に東川王を追った王頎が海に辿り着き、その場に居た古老に「海の向こうにも人が居るのだろうか?」と問いかけ、古老が言葉が通じない女だけの国とか、袖の長さ三丈もある人達の国があるなどと答える様子が出ています。東夷伝序文にある古老の話もこのエピソードが元でしょう。
帯方太守から天水太守に異動するまでに何が起きたのかが判ると良いのですけどね。
陳寿は毌丘倹を才能のある素晴らしい人物と評価しているそうなので、忖度して都合の悪い事はぼかして書いてるのかも知れませんね。



Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 米田

2022/07/22 (Fri) 22:21:15

RE:東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー

『後漢書韓伝』より
:〔馬韓の〕北は楽浪〔郡〕と、南は倭と接している。
:〔辰韓の〕北は濊貊と接している。弁辰は辰韓の南にあって、云々。
:〔弁辰の〕南もまた倭と接している。

『三国志弁辰伝(第二)』(東洋文庫:東アジア民族史1)
:〔弁辰の〕瀆盧国は倭と〔境界を〕接している。
:(注)瀆盧国を慶尚南道巨済島にあてる説があり、云々。

※:巨済島でしたら、(海を挟んでいても、)「接して」いる、と
_:言えそうな気がします。

RE:漢文解釈の難しさ - かいじ - 米田

2022/07/22 (Fri) 21:56:47

RE:漢文解釈の難しさ - かいじ

│正始八年の記述は太守王頎の帯方太守着任から始まる。
│卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼素の戦争との因果関係は何か?。
│どう繋がるのか?。(帯方太守王頎はその後登場しない。)

(少しスレから脱線しますが、)帯方太守王頎を追いました。

かいじさんへ

<帯方太守「王頎」の行動を追う>

:「王頎」は、玄菟郡太守→魏の将軍→帯方郡太守→天水郡太守

:『東夷伝』「諸国を周(あまね)く観てまわったので云々。」は、
:『三国志東夷伝』の中では、「王頎」しか見当たらない。

*****

:『三国志魏書夫余伝』:正始年間(240-249年)、幽州刺史の
:母丘儉が高句麗を討つため、玄菟太守の王頎を扶余に訪問させた。

:『高句麗本記』(246年):魏は、(毌丘倹を派遣し、)玄菟〔郡〕
:から出発し、〔わが国に〕侵入してきた。
:(高句麗東川)王は、これを撃破した。〔毌丘〕倹は、
:必死に戦った。〔そのため〕わが軍は大敗し、王は逃げた。
:(246年)冬10月、〔毌丘〕倹は、丸都城を攻めおとした。
:そして、将軍王頎に追撃させた。

:『三国志東沃沮伝』:高句麗王の宮は、沃沮に逃れた。
:〔高句麗王〕宮は〔沃沮から〕北沃沮に逃れた。
:王頎は別に軍隊を派遣して、〔北沃沮に逃れた高句麗王〕宮を
:追討した。〔その軍隊は〕すすんで、東の果てに至った。


:『三国志韓伝』:(247年頃)〔帯方〕太守弓遵と楽浪太守劉茂は、
:軍隊を率いて〔韓諸国の臣智たち〕を伐った。〔この戦いで弓〕遵は
:戦死したが、二郡はとうとう韓〔族〕を鎮圧したのである。

:『三国志東夷伝』:(公孫氏滅亡の)その後、高句麗が叛いたので、
:また少数の軍隊を派遣して征伐し、云々。
:こうして諸国を周(あまね)く観てまわったので、国々の掟や習俗、
:国の大小、その相違などを(云々、)
:詳しく記載することができる〔ようになった〕。
:(東洋文庫:注)
:(毌丘倹は、)逃げる東川王を玄菟太守の王頎に追わせた。

:『魏志倭人伝』:(正始8年=247年、)〔帯方郡の〕太守(長官)
:王頎が新たに任官されると、倭の女王卑弥呼は、云々。
:〔そこで太守王頎は〕塞曹掾史張政らを遣わして、云々。

:『三国志濊伝』
:その(正始)8年(247年)〔不耐候の遣わした使者が〕魏の朝廷に
:朝貢したので、云々。
:(:この朝貢に、王頎も同行して、諸国の様子を報告したと、想像。)


「My三国志百科事典」:その後(王頎は)、天水太守となり、
:姜維による北伐に対して鍾会に従軍し参戦している。
:(勉強不足ですが、250年頃には、天水に異動したのではないか。)


「姜維(きょう い)」:出典: フリー百科事典『(Wikipedia)』
:姜維(202~264年)は、中国三国時代の人物。魏・蜀漢に仕えた。
:涼州天水郡冀県の出身。
:253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、
:姜維は、数万の兵を率いて北伐を敢行した。

「毌丘倹」(かんきゅうけん、? ~255年)は、
:中国三国時代の魏の武将。

「司馬懿」(しばい、179年~251年)は、
:後漢末期から三国時代曹魏にかけての武将・政治家。

*****

:「王頎」(「タバタユウスケ」さんのネット記事より)
:字は孔現。東菜の生まれ。朝鮮半島の喉元を抑える玄菟郡、
:蜀攻めの拠点となった天水郡、さらに倭国外交の窓口だった
:帯方郡など、辺境の地の太守を歴任した人物。

:演義の王頎
:蜀征伐に参加した一人で、攻略の際に、鄧艾(とうがい)の指示
:により、1万5千の兵を率いて省中へ攻め込みました。

:蜀の姜維に対しては「魏の兵は100万、上将は1000人、20の方向から
:攻めて来たぞ」と、大音声で降伏を呼びかけ、姜維が討ちかかると、
:少し戦っては敗走しました。

:やがて魏の別軍を率いる鍾会が陽平関をやぶるという働きがあった
:ため、結果として蜀軍を追い詰めています。

:さらに鄧艾の指示で伏兵として諸葛誕の子である
:諸葛睛(しょかつせい)を破り、綿竹城を陥落させました。

:綿竹城落城後、蜀は滅亡し、王頎は天水に戻っています。

*********************

│張政は塞(とりで)曹掾史とあるので、帯方郡かその周辺の辺境の
│塞で夷民族相手の窓口的な存在と考えられるが、他に塞曹掾史の
│記述が見られないので詳細は良く判らない。
│地位的に見て、海外出張はしないと考えられる。

ここの部分は、勉強になりました。
ここの部分については、別のスレで、書こうと思います。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー 福島雅彦

2022/07/22 (Fri) 21:07:58

>こちらの方が倭人伝の『倭人在帶方東南大海之中』と整合します。

※『倭人傳』と同じ正史の『三国志(魏志韓伝)』で記述した「倭」の情報の重複記述を避けているだけである!!!

*韓は東西を海に限り南は「倭」と接す。

・百万言を労しても韓と「倭」は半島で地続きに接して居るは覆りませんョ!

漢文解釈の難しさ - かいじ

2022/07/22 (Fri) 17:31:00

白石様
漢文の解釈は色々難しいですね。
自説の展開ばかりでは仕方ないので、官位のお話と狗奴国との戦争についての疑問点などあげておきます。

塞曹掾史張政について。
曹掾史は地方の下級役人(三百石、七品官。ちなみに太守は二千石、四~五品官)であり、活動地区と職掌範囲は限られている。現代風に言えば、曹が部署で掾は長に相当、曹の前にある一字が役職を表す。
例として以下の様な物がある。

戸曹掾:戸籍、宗教行事、農業と養蚕の管理する。
金曹掾:貨幣・塩鉄の管理する。
賊曹掾:盗賊を取り締まる。
兵曹掾:兵の管理する。
騎兵掾:軍馬と家畜の管理する。
鎧曹掾:武器・鎧の管理する。
法曹掾:駅逓えきてい(郵便・配送)を管理する。
奏曹掾:奏議そうぎ(上奏)を管理する。

張政は塞(とりで)曹掾史とあるので、帯方郡かその周辺の辺境の塞で夷民族相手の窓口的な存在と考えられるが、他に塞曹掾史の記述が見られないので詳細は良く判らない。地位的に見て、海外出張はしないと考えられる。

正始八年に卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼素が戦争をして、載斯、烏越等を派遣したのならば、何故その後難升米に詔書、黃幢を拜假し、檄文を送ったのか?。
壹與が立てられた時は、使者を送るも檄文等は壹與に送られている。難升米に送るのは不自然。
またそれに先んじて正始六年にも難升米に詔書、黃幢を假授しているのはなぜか?。

正始八年の記述は太守王頎の帯方太守着任から始まる。
卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼素の戦争との因果関係は何か?。どう繋がるのか?。(帯方太守王頎はその後登場しない。)

倭人記事が天文に関する資料を元にしているというのはある意味正しいです。漢書地理史倭人の条はそのまま天文(占星術)に関する記事ですから。

「卑弥呼以死」私も最初は卑弥呼以て死すかと思いましたが、漢和辞典等調べていましたら、卑弥呼の死を以て(墓を築造した)だと判りました。判らないとミステリアスに感じて色々な意味がある様に考えてしまいますが、実際はシンプルだったりしますね。

倭人伝は色々矛盾を抱えた文献資料です。
その矛盾をどの様に解釈すれば整合性のある、そして編纂者本来の意図を読み解く事ができるのか。
挑戦しがいのある資料ですよね。

漢籍を理解するための教訓 - オヤジッチ

2022/07/22 (Fri) 14:44:36

福島さん、こん○○は。
> ★半島の地続きに「倭地」が在る、と申して居る。他の事は論じていません!
↑ なのに、「『日本書紀』の、八岐大蛇の記述がある一書第4」から「素盞嗚尊」のとんでもを持ち出しても、反論にはなりませんよ。
 『古事記』には素盞嗚尊は出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降ったと書かれていますし。

> *板主さんは、半島内で韓と「倭地」は地続きに接して居ない、と主張されている事への反論だけである。
↑白石南花さんは『地形のみを評価していると捉えたため、海によって限られていない南は、地続きではないかと考えてしまったわけですが、「接」の用例をあたり、航路があるところでは、海を介して「接」の用例がある』と論証してらっしゃいます。
 こちらの方が倭人伝の『倭人在帶方東南大海之中』と整合します。

同じような誤読に「二倍暦」があります。
『魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀』
「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」を「“春から秋”“秋から春”をそぜぞれ一年としている」と誤読していますが、正しくは、
「正しい節気(春分、夏至、秋分、冬至)を知らず、耕作の季節と収穫の季節だけを年の単位(一年)としている。」
つまり、「正月を年の初めとすることや四つの季節の区別、絶対年号は知られておらず、春に耕し秋に収穫するの(春から春や秋から秋)を一年と大ざっぱに考えている」と言っているだけで、この記述を根拠に史書に記された年数を二倍に解釈するのは牽強付会である

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー 福島雅彦

2022/07/19 (Tue) 19:13:35

※ 『國出鐵韓濊倭皆從取之』

*『韓傳』なのに、態々「倭」を述べているのは、半島に「倭地」が存在しているからに他ならない!

・韓半島では鉄が摂れる「韓も濊も倭も從(ほしいまま)に是をとる。

*「素盞嗚尊」が「天の原」を追放になり、「新羅(紀編纂時の国名)の曽尸茂梨の処へ行く」(『日本書紀』)=「大伽耶國(「倭地」=「狗邪韓國」)」の「倭人」の製鉄の長(おさ)の処へ行く、である。

★半島の地続きに「倭地」が在る、と申して居る。他の事は論じていません!

*板主さんは、半島内で韓と「倭地」は地続きに接して居ない、と主張されている事への反論だけである。

Re: ー漢籍を理解するための教訓ー - オヤジッチ

2022/07/19 (Tue) 16:16:00

福島さん、こん○○は。またやっちゃいましたネ。(~_~メ)

> ※『三国志(韓伝)』に、半島南部は「倭地」と明記されています。
> *「韓は東西を海に限り南は「倭」に接す」、と。
> ・半島南岸まで韓であれば「韓は東西と南を海に限る」、となる筈。
↑白石南花さんの記事をちゃんと読んでるんですか!
 無断ですが再記します。
 その趣旨を全く理解していませんね。
「三国志東夷伝だけを見て、「接」が地続きであるとの理解に達した重要な要因が、韓の東西が海によって限られているという文章です。
これを“地形のみを評価していると捉えたため”、海によって限られていない南は、地続きではないかと考えてしまったわけです。
しかし「接」の用例をあたり、“航路があるところでは、海を介して「接」の用例がある”ことを知り、かつ三世紀における主要な海を渡る航路は、島伝いしかなかったことを知れば、この「東西以海為[限]」は「南與倭[接]」に対する対句的表現であることがおのずと見えてきたはずです。

“文献を読むには、そのバックグラウンドにある、社会情勢や文化、そして選者の立ち位置、そして取得できた情報の質などをできる限り調べる必要がある”ということです。
(“”はオヤジッチ付加)

> *何も態々「倭」を持ち出す意味が無い、です!!!!!韓伝の“倭”
↑韓伝に出ている“倭”は以下の五か所です
 『韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接』
 『是後倭韓遂屬帶方』
 『國出鐵韓濊倭皆從取之』
 『今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身』
 『其瀆廬國與倭接界』
↑白石南花さんの記事をちゃんと読んでから、レスしましょうヨ。
 読んで理解できないのだったらレスしない方が恥をかかなくて済みます。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー 福島雅彦

2022/07/19 (Tue) 15:17:07

※『三国志(韓伝)』に、半島南部は「倭地」と明記されています。

*「韓は東西を海に限り南は「倭」に接す」、と。

・半島南岸まで韓であれば「韓は東西と南を海に限る」、となる筈。

*何も態々「倭」を持ち出す意味が無い、です!!!!!

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー - 白石南花

2022/07/18 (Mon) 11:02:18

かいじさん
お久しぶりです。

御説伺いました。
私見は異なりますが、史書に対しては様々な歴史解釈があり得ると理解しています。

私の無念に思っているところは、漢籍における「接」には原義として交わるという意味があり、現代日本語のぴったりくっついているという理解とは違い、砂漠や海を挟んで交流路が直接つながっているとの意味であることが、よく伝わっていないことです。
これが理解されていれば、大海中に在る倭人と、地続きなどという矛盾した解釈に陥ることはないのです。

北岸についても同じで、漢籍においても陸地から川や海などをはさんで向かい側に対しては、対岸という使い方があり、何々の岸という場合の主語は、海川湖などに限られるのです。

ですから其北岸の其は、大海中の倭人であって、其北岸は一般論として其に含まれないのです。

こういった一般的な要素理解に関しては、常に正していきたいと思っています。

あと弁辰の鉄や卑字説についても、歴史の理解というレベルの話ではなく、漢籍に対する要素的理解として、どうしても正していきたいと思っています。

東夷伝の「接」について - かいじ

2022/07/17 (Sun) 21:51:56

ご無沙汰しています、旧掲示板ではお世話になりました。
今年の三月に岩元先生は他界されましたが、研究会では先生の遺志を引き継ぎ、岩元学説の検証と魏志倭人伝についての研究を続けています。
まだ検証も研究も道半ばですが、いくつかの間違いに気付きましたのでお詫びを兼ねてご報告いたします。

・卑弥呼の帯方郡太守任命について
「制詔」の使い方が官位等任命の時とは若干違いがあり、並び順からその様な解釈が可能な様に判断していましたが、その様な解釈は成立し得ない可能性が高い事が判りました。

韓の反乱に際して帯方太守弓遵が亡くなった後、難升米に対して黃幢が假授されたと考えられる事から半島に駐留していた難升米が魏と韓の仲裁役として、帯方郡において緊急避難的に軍事統括権を与えられた事と関連して、卑弥呼が帯方郡太守に任命されたと誤読していた様です。

韓が反乱を起こした原因は毌丘倹による自治権の侵害と考えられます。
司馬懿仲達による公孫氏討伐に先立って、毌丘倹が公孫氏を攻めています。不利とみて撤退した様ですが。
その後司馬懿仲達と毌丘倹を副将として公孫氏討伐に動き、司馬懿仲達は先立って楽浪郡、帯方郡に太守を送り込み、周辺の夷民族達に印綬を与え、公孫氏から魏に鞍替えする様に根回しをしています。
この時、それまでの地位や財産などはそのまま保証する(外臣として扱う)とでも話していたのでしょう。
公孫氏討伐後、部従事呉林が韓を八つに分け、楽浪郡の元に統治を行うと宣言をします(部従事とは刺史の部下、この場合は毌丘倹の部下)。
通訳は困ってしまい、しどろもどろになります。通訳がきちんとした説明ができないのを不審に思い、韓の長達は反乱を起こし、帯方太守弓遵を殺害してしまったのです。
元々、韓も倭も自ら朝貢に来るほど漢王朝に対して従順な民族達です。それが反乱を起こすのはよっぽどの事でしょう。
現地に駐留していた難升米に白羽の矢が立ち、緊急時のまとめ役として軍事統括権が与えられます。
二年後落ち着いた頃に帯方郡太守として王頎が着任しますが、王頎は毌丘倹が高句麗を攻略していた時に扶余で兵糧を調達したり手下となって働いていた人物です。卑弥呼や狗奴国王は納得できずに載斯、烏越等を派遣し苦情を申し立てました。その結果塞曹掾史張政が詔書と黃幢を再度難升米に届けます。これは韓人の取りまとめをそれまで通り難升米に任せる、異民族の自治権を難升米に委任するという意思表示です。

王頎は正始六年まで玄菟太守だった事と、正始七年の五月以降に韓、那奚等の数十国がそれぞれ種族を率いて魏に落ち降った事(韓は滅ぼされていなかった?政治体制的に滅ぼされたという事ですかね)が三国志には記事が残っていますので、正始六年に韓が反乱を起こし、帯方太守弓遵が殺害されたとすれば、正始六年に難升米が緊急避難的に異民族のまとめ役に取り立てられたという可能性は十分視野に入ります。

狗耶韓国が倭の領土である様な話をしてしまいましたが、こちらも弁韓の國邑リストに入っていますし、倭の領域という認識は誤りであったと認めます。行程叙述の解釈や前後の歴史などから朝鮮半島に倭の領土があったのではないか?という認識がありましたが、そちらの問題も解決しました。狗耶韓国が倭の領土であるという事は事実誤認です。
島伝いでも「接」と表現される場合があるという認識の方が正しいように考えられます。

計量文献学 - 白石南花

2022/06/16 (Thu) 17:28:27

世の中には計量文献学という分野があって、文章の特徴を品詞の割合や文長などで数値化し、残された文献の関係や、作者や成立順などを調べるものです。
計量文献学のようなしっかりしたものでなくとも、文献に残された語彙や文体、そして言語的特徴からその文献の素性に迫ることは重要な課題であると思います。

漢籍中に現れる単語や書き癖、そして表音に用いる漢字は、言ってみればその文章を書いた人物などの、フィンガープリントとして利用できるもので、強力な情報を与えてくれます。
これまで漢籍を評価する際にあまり重要視されてきませんでしたが、漢籍研究の画期になる可能性があります。

私は計量文献学には詳しくないですが、そのような観点での調査で、ある程度今まであまり見なかった結果を得ることができています。

下記は三国志東夷伝に見られる、其〇〇年という表記について、各正史での出現頻度を見たものです。

史記秦始皇本紀第六:4例
史記匈奴列伝:1例
史記列伝二十五:1例
史記高祖功臣侯者年表第六:10例
史記十二諸侯年表第二:1例
漢書百官公卿表第七下:1例
漢書天文志第六:12例
漢書五行志第七:1例
漢書匈奴列伝:1例
漢書列伝六十四:1例
後漢書志第二律暦中:3例
後漢書志十一天文中:6例
後漢書志第十二天文下:2例
後漢書志十三五行一:1例
三国志東夷伝:5例
晋書列伝二十一:1例
晋書列伝二十七:1例
晋書志二天文中:3例
晋書志三天文下:1例
晋書志十九五行下:1例
魏書列伝四十:1例
魏書列伝八十三:1例
魏書列伝六十六:1例
魏書列伝天象志:2例
北史列伝三十四:1例
隋書列伝七:2例
隋書志十四天文上:1例
隋書志十六天文下:13例
旧唐書本紀十:1例
旧唐書列伝百四:1例
旧唐書列伝五十五:1例
旧唐書志二十三:1例
宋史列伝二百二十:1例
宋史志七十八:1例
宋史本紀三十四:1例
新唐書志十七上暦:1例
明史列伝百二十七:1例
元史本記十三:1例

各史書には多くの巻がありますから、上述しかないということは、かなり珍しいということです。
しかも1例しかないものがほとんどです。
複数例あるものを見ると、天文志や表など事物を淡々と並べるタイプのものであることが分かります。
始皇本紀の第六に多くあるのは、この巻が本紀の最後の巻で、始皇帝に先立つ先祖の一覧を書いている部分があるからです。

こう見ていくと、三国志東夷伝の5例というのは珍しいケースであると分かります。
三国志には他に見えないので、東夷伝には淡々と事件を時系列にまとめた、他に用いられなかった史料が用いられていることが分かります。

そしてこれを魏の官選史書の系譜を引くとされる、三国志帝紀の東夷外交の行われた時期にあたる、斉王紀の倭国の取り扱いに大きな差があることや、卑弥呼の音写文字が俾弥呼になっていることから、通常の政府記録とは別のものであることが分かります。

これまでは一般的に、この倭人伝後半の外交記録は、政府記録に違いないとされてきましたが、官選史書には用いられなかった、特異な史料であることが分かるのです。
しかもそこには、詔書が現れていますから、皇帝に非常に近いところで成立したことも間違いありません。
このような時系列的記録として考えられるのは、魏の起居注であると思われます。

後漢末には献帝起居注があったことが知られていますから、魏にも起居注があり、王沈ら官選史書に関わる人々の史料とは別に保管されていたのでしょう。

Re: 記録メディアと文献 福島 雅彦

2022/06/06 (Mon) 21:26:52

>錯簡と呼ばれる現象です。

※故・奥野正男会長は「水行十日陸行一月」は錯簡ではないか? と述べられていました。

*私は、「伊都國」~「投馬國」=南「水行二十日」
が先に記されたので、郡庁~「伊都國」の所要日数を追記することで、「萬二千餘里」の全体所要日数を知らしめた、と解釈します。

・即ち「萬二千餘里」の総所要日数=「水行十日陸行一月」+「水行二十日」である、と。

※「水行十日陸行一月」の「水行」=郡治の海岸と対馬海峡横断の外洋航行。

*南至「投馬國水行二十日」=内陸河川航行=陸行不能の意。

∵「末盧國」~「伊都國」陸行五百里=行くに前人を見失う様な獣道。

・南至「投馬國」=後に筑紫平野となる低湿地の荒野横断=衣冠束帯の貴人は歩けない、の意。

*現に郡使(魏使)は「伊都國」から先へは行っていません。

*「水行二十日」=「伊都國」~瑞梅寺川~今津湾~博多湾~御笠川⇒宝満川~筑後川~有明海~矢部川遡上[八女福島]=「投馬國」。

・「邪馬壹國」へは、筑後川~巨瀬川遡上=「うきは市」=「高天原」。

∴「邪馬壹國」七万戸=「投馬國」五万戸+「奴國-2」二万戸、の誤通訳。

∵「邪馬臺國」も「邪馬壹國」も郡使(魏使)は観ていない=実態を知らない=倭人の大倭王・「卑彌呼」の居所説明の発音に当て字しただけ。

・『隋書』で裴世清が現地踏査して『古(いにしえ)の魏志に謂う「邪馬臺」(國の文字を外して)は来て観たら「邪靡堆」だった』と、国名ではなかった、と前史の誤謬を指摘している。

※旧討論室の「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」=「高天原」に詳述しています。

記録メディアと文献 - 白石南花

2022/06/06 (Mon) 10:34:08

漢籍の記録は古くは竹簡で行われていたことは良く知られています。
史記と漢書には、同じ原史料によって書かれたと思われる部分がありますが、一部二十数文字入れ替わっている部分があります。
両書の元の史料は竹簡という竹の札に書かれ、ひもで巻に閉じられていたと思われますが、竹簡は比較的丈夫なのに対して、ひもは弱く切れてばらばらになることが多かったようです。
そのようなばらけた史料は、もう一度ひもで閉じられるのですが、その時に竹の札が入れ替わってしまうのが原因とされます。
錯簡と呼ばれる現象です。

後漢の中期に蔡倫が比較的安価な紙の製法を発明し、漢籍の記録は次第に紙で行われるようになりました。
紙は中国でも、紀元前には使用されていましたが、きわめて高価で、薬のような貴重品の包装に使われ、表面に薬の名前を記録する様な用途に使用されました。
それ以前には、とても文献などを記録するメディアには使用できなかったのです。

竹簡以外にも中国では絹織物、世界では粘土板や羊皮紙などに記録されることがありましたが、竹簡の特徴は紐を外せばばらばらになることです。
ここからは私見に過ぎませんが、このことは中国の古い文献記録に、特徴的な性格を与えたのではないかと思います。

古い文献の代表として、中国最古の辞書である爾雅をとりあげると、この辞書は一人の人間が作ったものではなく、複数の人間が関与し、次々に記述を追加していったものであるとされています。
そもそも古い時代の記録は、特定の作者があるようなものではなく、複数の人々が関係するのは普通のことですが、竹簡の場合記録を追加するのが非常に容易であったと思われます。
他のメディアの場合、すでに出来上がっているものに情報を追加するには、かなりの部分を一から書き直す必要がありますが、竹簡の場合はちょうど一枚の札で、文が切れているところであれば、簡単に文章を追加できます。
別に切れ目でなくとも、間に文章を挟んだうえで、少数の文字文の表面を削れば、簡単に内容を追加できます。
このように、先行する文章をそのまま生かして、記事を追加していった例としては、山海経なども挙げられます。

後漢中期以降、漢籍の記録は次第に紙に移っていき、おそらく三国志の時代にはすでに紙であった可能性が高いです。
しかし移行期が終わったばかりとも言え、いまだに古い時代の記述文化が残っていて、原史料の記録をそのまま使用する傾向が強いです。
そのため三国志東夷伝は用字や用語、文体などがばらばらで、原史料の寄せ集めの様相をしているのであると思われます。

Re: 文献事実と史実 福島 雅彦

2022/06/05 (Sun) 16:48:30

>倭人伝については、邪馬台国までの里程からその位置は九州遥か南方になります。

※全体を通して拝読しましたが、何が述べられているのか理解に苦しみます。

*九州の遥か南方にはなりません!

∵何故なら、郡庁から「邪馬壹國」まで「萬二千餘里」ですョ。

*「伊都國」までで「萬五百里」ですから、残りは千五百里です。福岡県内に収まります。

・「投馬國」は「邪馬壹國」以北ですから、「伊都國」から「水行二十日」圏に「邪馬壹國」も在る、と読めます。文脈を読むと…。

>近年では井上博士が、辰韓の鉄を、弁辰の鉄と読み違えた例があります。
後漢書では辰韓の鉄、梁書でも井上博士の第一弁辰伝の内容は、辰韓の記事とされていますから、おそらく史上初のトンデモ誤読であったと思われます。

※上記の記述は何処の何と謂う書物の記事がは知りませんが…。

※強ち間違いではないのではないかと、愚考します。

*弁辰「彌烏邪馬國」が、旧「倭地」である、と前述しました。

・「素盞嗚尊」が「高天原」を追放になり、新羅(紀編纂時の国名)の曽尸茂梨❝쇠씨-머리❞(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)の処へ行きます。

∴「新羅」領に成る前は弁辰「彌烏邪馬國」であれば、弁辰の「鉄」は有り得ます。


文献事実と史実 - 白石南花

2022/06/05 (Sun) 14:46:22

ときとして文献事実と史実を混同するケースがあるように思います。
例えば今回の話題では、倭を大海中の人として、対して韓をその北側の陸地である、半島にいる人としていることは明らかで、文献事実です。
従って三国志東夷伝の選者が、狗邪韓国を倭の三十国に数えないことも、動かぬ文献事実です。

しかし三世紀の民族分布の実際は、文献だけではわかりません。
事実は考古学や言語学、あるいは遺伝子解析などを結果を待つべきです。

そもそも韓人と倭人をどのように判別しているのかもはっきりしません。
それぞれの人々に対して、色々と書いてありますが、漢人にとって倭人のもっとも目に付く特徴は、入れ墨にあったようです。
しかし韓伝では、辰韓人は倭人に似て、入れ墨をしているとあります。
倭人と韓人をどう区別しているのか、判然としないところがあります。
言語が同じなのか異なるのかも書いてありません。
そもそも言語について、何を基準に同じとか、異なるとか言っているのかも分かりません。

極論すれば、大海中の島に住む人を倭人としている可能性すらあるのです。
もしもそのように倭人を捉えていたのなら、半島の倭人は語義に矛盾している可能性すらあります。
漢書においても、楽浪海中の人としているのですから、その可能性は否定できません。

文献事実と、実際の歴史考察を混同して、文献事実をゆがめてはならないのです。

倭人伝については、邪馬台国までの里程からその位置は九州遥か南方になります。
これは会稽東冶の東とも符合しますので、文献事実として動きません。

しかしそこには、大きな陸地はありませんから、戸数七万戸の邪馬台国が実在したとすれば、文献に誤りがあります。
文献に誤りがあろうとも、文献事実は動きません。
かってに読みを変えたり、変な解釈はこのケースでは成立しません。
里程が直列読みであることも、その後の史書がすべてそのようにとらえていることから動かしがたい事実です。
文献は想定読者に対して、文意を伝えるために書くのですから、古代中国人がそう読んだなら、書いた方もそう意図したはずです。

これが間違っているとして検証を加えるとしたら、選者の立場、著作の時代背景、原史料などを考察して、本来の情報がどうだったかを抽出することになります。
いわゆる文献批判的な作業になります。
ただし情報が抽出されたり、考古学などで修正されたとしても、もともとの文献に何が書かれていたかは、文献事実として変わりありません。
そこをごちゃごちゃにしてはいけないのです。

とはいえ文章が誤読され、へんてこな解釈により書き換えられてしまうことももちろんあります。
しかし原典と比較すればおのずと分かります。
近年では井上博士が、辰韓の鉄を、弁辰の鉄と読み違えた例があります。
後漢書では辰韓の鉄、梁書でも井上博士の第一弁辰伝の内容は、辰韓の記事とされていますから、おそらく史上初のトンデモ誤読であったと思われます。

私も長いこと騙されていましたが、イリヒコ氏の指摘に従って、原典を見直せば疑問の余地がないことが分かりました。
イリヒコ氏はだいぶ悩んでいたようです。
その理由は、最古級の鉄の冶金遺跡が、弁辰と考えられていた、金海釜山地域にあったからです。
しかし今や三世紀の半島南部の鉄器生産の中心が、慶州にあることが分かり、文献事実と考古学的な見地が一致しました。

百科事典なども修正されてきているようで、今後は正しい見解が広まるでしょう。

Re: 東夷伝の「接」ー漢籍を理解するための教訓ー 福島 雅彦

2022/06/03 (Fri) 15:59:12

白石楠花さんは、根本的な事柄を誤解をされていませんか?

半島の「倭」「倭人」の痕跡は、列島から進出した、と。

※半島には古来「倭」「倭人」「倭語話者」が遍く住んでいた、証拠があります。

*「高句麗」の古地名に倭数詞に因む物がある=「倭語話者」が残したもの。

・「高句麗」壁画の相撲図=褌に丁髷=日本相撲協会に継承されている。

*『三国志(韓伝)』の中の国名に、「倭語」の国名がある=元「倭地」が韓に取り込まれている。

・それは弁辰「彌烏邪馬國」です。

※「彌烏邪馬(みおやま)國」=「水(み)生(お)山國」の意の「倭語」。

・この地=「大伽耶國」、「拘邪韓國」、「駕洛國」に該当。

・「大伽耶國」建国王=「伊珍阿岐王」=「伊奘諾尊」=「倭神(人)」。

※「伊奘諾尊」は列島に移住。移転地名が水縄山(みのやま)。

・水(み)縄山(のやま)の古称に蓑(みの)尾山(おやま)がある。水縄も蓑尾(雨具)も水が滴る、の意。

・高良山の古称「高牟礼山」も「“다가-물”(taka-mul)山」=「集る水の山」。

・「彌烏邪馬國」も「水生山國」=「水を生む山」の意の「倭語」。

・『韓傳』に記載されているが、元「倭地」=「拘邪韓國」。「大伽耶國」建国王「伊珍阿岐王」=「伊奘諾尊」で「倭人(神)」。

・半島と列島に同じ地名。両方の「みの(お)やま」に区別をつけるために、定冠詞“구름의”(ku-reum-e)=「雲の…」を付けたのが「久留米」の語源。

・水縄山の山頂の小峰には「白雲台、紫雲台、凌雲台、碧雲台、渓雲台」がある。春夏秋冬朝昼晩照っても降っても雲が沸く。

・彌烏邪馬國が在ったと比定する「高霊郡」は「高良山」と対応する。

・そこの地名に「箕山(きざん)里(り)」があるが「倭語」の「箕山(みのやま)」と同義であり、「星山面」ともあるのは「星野村」と対応する。

※水縄連山(耳納山地)=「高天原」=天孫降臨の地でもある。

*「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」に瓊瓊杵尊は降臨した。

・「筑紫の日向の」=妹川地区の日向。(妹川小学校前の元・日向バス停)。

・「襲の」=“서”(seo)の=「西の」。

・「高千穂の」=「高」は「集(たか)る」の当て字。「千穂」は、水縄連山の山頂がノコギリの歯状を呈しているのを「千の穂」と描写。

・「槵触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、下り尾根と谷沢に刻まれ、千本の櫛の歯で梳った様相をしている描写である。「触る」⇒“훑”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)でもある。

*火瓊瓊杵尊は「膂宍(そじし)の胸副(むなそう)國」を丘続きに歩いた、ともある。

・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と肋骨が浮き出た(櫛触る)様、のことである。水縄連山(耳納山地)の稜線描写である。

※其処で、天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國(からくに)に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。

*ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國(からくに)=半島「倭人」の故地が真正面になる、と。内陸部なのに立地が整合する事を強調。

・韓国(からくに)=半島「倭人」の故地=「大伽耶國」「狗邪韓國」「駕洛國」のことである。

∴「韓は東西を海に限り南は「倭」と接す」=半島内の陸続きに「倭」が在る、の意である。

・半島の「倭」「倭人」は勢力争いに押されて南下の一途を辿っています。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

・彼方此方の投稿文を引っ張り出したので重複記述に成っています。

≪蛇足≫「高天原」=水縄連山(耳納山地)=「邪馬臺國」=「うきは市」である。

*旧討論室の◇「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」=「高天原」、に詳述。

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