東アジア討論室

125643

混み入った議論と一対一の論争は討論室で行いましょう。
投稿の大項目はスレッドで投稿してください。
そのスレッドに対するはレスとして投稿してください。
レスに対する意見もレスとして投稿してください。

スレッド作成での留意事項

●(新規作成の)スレッドには、タイトル(内容の紹介)と自分の名前を入れて下さい。
●みんなの関心事項については、「会」として、スレを(追加で)設けることもあります。

要望事項

●「返信・引用」を使う場合は、不要なところは削除したうえで、お使いください。(1回のみ)
●「返信・引用」は、多用すると、返信の返信となると、誰の発言か分かりにくいので、控えて下さい。
●また、文章では、適当なところで、右側に「改行マーク」を入れて下さい。(一行、45文字程度)
●また、一文(~。)の長さは、長くて3行まで、(およそ、150文字以内:推奨100文字以内)にして下さい。
●文章は、残ることを念頭に、マナーに気を付けて、楽しく(議論は熱く)投稿しましょう。

スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 管理人

2022/10/23 (Sun) 21:00:24

ここは、スレ「FC2のロビー・談話室03」の続きのスレです。
レスが50を超えたので、新しいスレを立ち上げました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/03/26 (Sun) 15:36:17


│福島さんの解釈は、解釈(のひとつ)として、理解は出来ます。
│けれども、
│福島さんが「記紀の世界(にある矛盾)」をどう見ているのか。
│そこが(一番)知りたいところなのです。


│>(その1)
│※口述記録時の揺らぎに就いては、私見を持っていません。

│※太安万侶は「稗田阿礼」が暗唱した口述を文字に書き起こした、
│とありますが、「稗田阿礼」は『古事記』の全てを暗唱していたとは
│思えません。これは中国正史や韓国の歴史書に記載の「倭語」音写
│(当て字)の語句が筑後弁の訛りだ、として解説した事を言い表して
│いる、と観ます。現代でも水縄連山(耳納山地)北麓の「水縄校区」
│には「稗田姓」があります。


まず、レスありがとうございます。
「稗田」については、「日枝(神社)」のことだろうと考えています。

│比叡山は、滋賀県大津市の西南、滋賀・京都県境に位置する、
│標高848mの山である。古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の
│山として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきた。

「稗田阿礼」は、古代豪族系図集覧にも(その名前が)載っています。
系図の一番初めの「神統譜・天神系」の系譜の中に、あります。
世代的には、藤原鎌足(614年生)の1世代上に当たります。ですので、
(私は、)聖徳太子(574年生)ではないかと、想像しています。


│>(その1)
│※口述記録時の揺らぎに就いては、・・・。

福島さんは、「記紀の世界(にある矛盾)」を「口述記録時の揺らぎ」と
解釈されているようですね。
矛盾を「口述記録時の揺らぎ」と解釈されてしまうと、私としては
ああそうですか、としか言えなくなります。

討論室での議論(討論)は、(相手と)どこまで同じ土俵に立てるか、
または、なぜ、同じ土俵に立てないか、(その違いは何か)という、
「相手の土俵」の認識が、基本になります。

主張は、主張として、アイデアは、いただきます。
(土俵が違うので、議論・討論は難しいと思います。)

「今年の目標」
今年の目標は、毎月の講演会の講師の先生(&会長の北条先生)の
主張を、予習復習することにしています。

実を云うと、今年に入って、図書館で本を借りて目を通すのですが、
すぐに挫折しています。(読み切れずに返却しています。)
他人の主張をまず受け入れる、ということが、70歳近くになっても
なかなか出来ずに、苦労しています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 福島雅彦

2023/03/21 (Tue) 12:52:44

米田さんへ、返信が遅れて済みません!
2023/02/19 (Sun) 11:00:17 ご投稿への返信です。
   >(その1)
    ※口述記録時の揺らぎに就いては、私見を持っていません。

   >(その2)
この話は、航海の途中で、産気づいたために、急遽、(他国の)海岸の
「渚(波の影響を受けて砂がなだらかに盛り上がった状態)」に
「出産小屋」を作った話で、そこで生まれた子という意味です。

※ですから、半島の「大伽耶國」他の「伽耶諸国」の部族長(倭族)の統合に失敗して列島へ移動中に生まれた、ことをも併せている、と観ます。
  

>(その3)
>>・これは「大(う)伽耶(かや)不統合の尊」の意を後世の賢者が
_見破る様に太安万侶が仕込んだ鍵、と観ます。
*****
>古事記を調べてみると、半島の事はすべて「韓(から)」と
表現しているようです。
ですので、「茅(かや)」という文字も「伽耶(かや)」という文字も
(古事記では)使われては、いないようです。

>古事記の序文に書かれているように、伝承は、口承によって
受け継がれてきました。

※半島の事を「韓(から)」としているのは、「狗邪韓國」の事を「倭」の領域ではない、と思わせる作為と観ます。

*天孫降臨の地=「うきは市」で瓊瓊杵尊の弁。

・「此地は韓國(からくに)に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。

・「ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國(からくに)が真正面になる」、と強調。

・この「韓国」=「駕洛國」でもあり、「狗邪韓國」でもあり、「大伽耶國」でもある事を隠蔽している、と観る。

・「韓」を「から」とは、同胞(はらから)を想起させる鍵かと。

※太安万侶は「稗田阿礼」が暗唱した口述を文字に書き起こした、とありますが、「稗田阿礼」は『古事記』の全てを暗唱していたとは思えません。これは中国正 
史や韓国の歴史書に記載の「倭語」音写(当て字)の語句が筑後弁の訛りだ、として解説した事を言い表している、と観ます。現代でも水縄連山(耳納山地)北麓の「水縄校区」には「稗田姓」があります。

・筑後弁で「大」は「うゥ」です。
・「大風=うゥかぜ」(台風の事)、「大川=うゥかわ」(筑後川の事)。

・従って「大伽耶」=「うがや」になります。
「伽耶」を使わなかったのは、半島由来の隠滅の為、と観ます。

*又、「諸家に伝わる【帝記】に誤りがある」としているのは、諸家にも帝位に就いた者が居たとの記録が「万世一系」を謳い挙げるのには不都合だったので、焚書して捏造した事を意味している、と観ます。


2023/02/24 (Fri) 14:00:28
ご投稿への返信。
>┌
│Q:神武天皇の「皇后」は、誰ですか?
│(「媛蹈鞴五十鈴媛命」と「五十鈴依媛命」は、別人ですか?)

※同一人ではないか、と思います。
*「媛蹈鞴五十鈴媛命」とは、製鉄集団(「素盞嗚尊」の裔)の事だと思います。

・「素盞嗚尊」= 『後漢書』に登場の倭王「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」。

  「蹈鞴」が其れを言い表しています。
・「蹈鞴」の語源=“타다라 !”(tatara!)=「踏め!」、「燃やせ!」。
“더-타다 !”=もっと踏め!、もっと燃やせ!=製鉄の長の号令。蹈鞴製鉄の足踏みフイゴの操作用語。

*「五十鈴依媛命」とは、「素盞嗚尊」の裔との事実を隠蔽したい、との思惑が考えられます。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/24 (Fri) 15:49:12

続々 邪馬台国論争の新視点』⇒オンライン(ZOOM)ライブ配信のみ
■日 時 : 2 月 26 日(日) 14 時~16 時半 終了予定
■講 師 : 片岡 宏二先生(小郡市埋蔵文化財調査センター所)
■講師の言葉
昨年『続・邪馬台国論争の新視点』(2019 年刊)に書いた
邪馬台国時代の社会についてお話させていただいた。
今回は 3 部作最後の『続々―』(2021 年)で主張した
東アジア世界が当時の日本をどのように見て、「倭」と認識したものが
何であったのかをお話したい。まず私の考古学資料、
主に土器の年代観を述べる。その年代観をもとにした邪馬台国時代
(2 世紀中ごろから 3 世紀後半)の北部九州を中心とした
大陸系遺物や遺跡はどのように分布するのかを見る。
そうすると中国が「倭」を地理的にどのように認識していたのかが
わかる。こうして「倭」(倭種を除く)が北部九州を出ない範囲に
あること、そしてその中にある邪馬台国の筑紫平野連合説を述べたい。
ついでだが、倭には狗奴国も含まれるという見解も示したい。

(講演会レジュメ資料より)

│A、私は、倭国大乱が起きたのはAD 160 年代、
│卑弥呼即位は 180 年頃、卑弥呼の死は 247 年頃と考えて、
│この間の2世紀後半~3世紀中頃を邪馬台国時代と呼んでいる。

*****
私が注目しているのは、三国志関連のサイトで見つけた記事なのですが、
「168年12月鮮卑と濊貊が幽州とへい洲に侵攻する。」という記事です。

後漢書濊伝にも三国志濊伝にも、この記事は載っていません。
もしかしたら、小さな事件だったのかも知れません。
または、この前後にあった、夫餘・高句麗の事件に紛れているのかも
知れません。ただ、160年後半から197年にかけて、
高句麗を含む半島も、かなり混乱している気がしています。
もしかしたら、倭国大乱よりも、こちらの混乱の方が大きかったのでは
ないかと思っています。

霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。
(在位:168年~189年)
<「もっと知りたい!三国志」_のサイトの記事より>

『三国志演義』での霊帝(れいてい)は、汚職を蔓延させる宦官を
重用して民衆を苦しめ、黄巾の乱を引き起こして後漢王朝滅亡の
きっかけをつくった暗愚な天子として描かれています。

また、何皇后(かこうごう)の子・劉辯(りゅうべん)よりも王美人
(おうびじん)の子・劉協(りゅうきょう)を寵愛したために
外戚と宦官の対立を煽(あお)ることになり、このことが
董卓(とうたく)を朝廷に呼び込む原因となってしまいました。

この董卓(とうたく)による朝廷の支配は地方豪族の反感を買うことと
なり、いよいよ群雄割拠の時代に突入していきます。

そして、霊帝(れいてい)の跡を継いだ献帝(けんてい)
(劉協りゅうきょう)は、曹操(そうそう)の傀儡かいらいとなって
後漢王朝滅亡へと向かっていきました。

歴史史料に見る霊帝__霊帝の生い立ち
156年に生まれた霊帝(れいてい)は諱(いみな)を劉宏(りゅうこう)
と言い、曽祖父は河間孝王開(かかんこうおうかい)
(河間王・劉開:りゅうかい)で、第11代皇帝・桓帝(かんてい)の
祖父に当たります。

父・劉萇(りゅうちょう)は早くに亡くなっていたため、
劉宏(りゅうこう)は母の董氏(とうし)と2人で
貧しい生活を送っていました。

168年、桓帝(かんてい)に跡を継ぐことができる男子がいなかった
ために、桓帝(かんてい)と同じ河間王家の劉宏(りゅうこう)が
第12代皇帝(霊帝:れいてい)として選ばれます。

董氏(とうし)の他に後ろ盾となる人物もおらず12歳と幼い
劉宏(りゅうこう)は、桓帝(かんてい)の外戚としての地位を維持
したい竇皇后(とうたいごう)や大将軍・竇武(とうぶ)にとって
都合が良かったのです。

桓帝(かんてい)の死によって、貧しい皇族の1人として一生を終える
はずであった劉宏(りゅうこう)の周囲を取り巻く環境は、
一夜にして政争渦巻く世界へと変わってしまいました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/24 (Fri) 14:00:28

返信、ありがとうございます。

│Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」
│-福島雅彦 2023/02/23 (Thu) 17:32:51

│2月22日14:27投稿への返信
│米田さんへ
│貴殿のお考え(系図)は、『記・紀』が正しくない、
│とされていると解釈いたします。
│それの是非を論評したり、反論する知見を持ち合わせて
│いませんので、触れませんが悪しからずご了解下さい。

私は、『記・紀』を、正しいとか正しくないとかで、論じたつもりは
ありません。私(の気持ちは)は、もっとベタなところにあります。
「系図を書きたい!」「系図に書きたい!」「系図を書かせろ!」
という気持ち(だけ)です。
(どうしたら系図が書けるか、という、ただ、それだけなのです。)


│(日本書紀:綏靖天皇紀)
│・母は「媛蹈鞴五十鈴媛命」といい、事代主命の長女だ。
│(日本書紀:安寧天皇紀)
│・母は「五十鈴依媛命」といい、事代主命の少女である。
│(日本書紀:懿徳天皇紀)
│(懿徳天皇の母は、)〇〇命で、事代主神の孫で、鴨王の娘である。

│(古事記:神武天皇記)
│・(皇后になさる乙女は、)ほとたたら-いすすきひめ命といい、
│ またの名を、ひめたたら-いすけ-よりひめと申します。
│(古事記:綏靖天皇記)
│・(安寧天皇の母親は、)河㑨毘売である。
│・(河㑨毘売の同母兄は、師木県主の波延である。)

上記の記述をそのままに、系図に書こうとすると、
(私の読解力では)系図が書けないのです。

Q:神武天皇の「皇后」は、誰ですか?
(「媛蹈鞴五十鈴媛命」と「五十鈴依媛命」は、別人ですか?)

私は、この回答を探しています。つまり、試行錯誤をしています。

│・「天照大神」と「素盞嗚尊」の確執の舞台も解明した、
│ と自認しています。


福島さんの「~を解明した」という主張は、何回も聞いてきました。
主張に対しては、そうだと思うことも多々ありました。ただ、
私が知りたいのは、「正しいか・そうではないか、」ではなくて、
どうしてそうなるか、なのです。

「是非を論評したり、反論する知見」とか関係ないのです。
私が何を知りたいかというと、(例えば)下記の回答なのです。
「系図解読復元マニア」として、もう一度質問させて下さい。


│Q:神武天皇の「皇后」は、誰ですか?
│(「媛蹈鞴五十鈴媛命」と「五十鈴依媛命」は、別人ですか?)


系図屋というのは、こんなところで、「フリーズ」してしまうのです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 福島雅彦

2023/02/23 (Thu) 17:32:51

2月22日14:27投稿への返信
米田さんへ
貴殿のお考え(系図)は、『記・紀』が正しくない、とされていると解釈いたします。
それの是非を論評したり、反論する知見を持ち合わせていませんので、触れませんが悪しからずご了解下さい。

>福島さんは、「日向3代」などの、記紀が内包している問題を
何も検証されずに、(記紀を)解釈されています。

※私は、『古事記』冒頭の「高天原」の「天」は「天(あま)」と読め、とする太安万侶の註に反応しています。
即ち、半島由来と九州の故事来歴を隠蔽するために、地上の痕跡が判らなくなるように「天上界」を思わせていると観ます。
*日本中の研究者が、「日向三代」の「日向」を宮崎が舞台であると解釈する様に仕向けています。宮崎の「日向」(ひゅうが)は、景行天皇巡幸の際の名付けで神話と無関係。
・「日向」は「うきは市」の「ひむき」である、と私が看破。
・「うきは市」には「○○日向」の地名が十二ヶ所現存しています。
・「日向」は妹川小学校が在る処で、朝日の当たる処です。
・「高天原」=「うきは市」の狭隘な山間(やまあい)に「○○原」の地名が百箇所近く犇めいています。
・「高天原」の「高」=「集(たか)る」の当て字。
*「うきは市」の「浮羽」=“욱일벌”(u-kil-beol)=「旭日原」の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」。
∴「高天原」以降の神話は全てが何かしらの隠蔽をしている、と観ます。

>石見介さんのように、神代の時代は、検証不能、とする立場もあります。
数年前に、文京区の「男女平等センター」で、東大の先生の話を聞く機会
があって、その先生によると、日本書紀の時代は、検証が出来ないので
学問(の対象)ではないと、述べておられました。

※検証不能で片付けるのは、研究放棄で科学的ではない、と観ます。

>私は、記紀は、意図的に改ざんをしている所もあるが、系図集である
「古代豪族系図集覧」や、風土記・先代旧事本紀・神社伝承や三国史記
等を比較することで、(シンメトリック論を含め、)場合によっては、
性別を変え、夫婦同名・連れ子の実施扱いなど、系図をいじくることで、
記紀を解明出来ると、信じて作業をしています。
(系図を見ていくと、案外、これが正確なのです。)

※検証不能で片付けない姿勢を高く評価致します。

>福島さんの解釈は、解釈(のひとつ)として、理解は出来ます。
けれども、福島さんが「記紀の世界(にある矛盾)」をどう見ているのか。
そこが(一番)知りたいところなのです。

※「高天原」を天上界から地上に引き戻した、と謂う自負で終わっています。
・「天照大神」と「素盞嗚尊」の確執の舞台も解明した、と自認しています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/22 (Wed) 14:27:28

(つづき)
「日向3代」の名残りは、「高忍日賣神社」の
伝承に残っています。
また、「尾張氏」の系図の中にも残っています。

│:この「高忍日賣神社」の神話・伝承によると、
│:「忍日女」は、弟の「彦ナギサ」が生まれる時に、
│:(出産の)お手伝いをしたという話になっています。

系図によると、「忍日女命」は、「天香語山命」の孫です。
「彦ナギサ」は、「忍日女命」の弟です。

「ニギハヤヒ」──「天香語山命」──「天村雲命」──「忍日女命」

「オシホ耳」───「ニニギ尊」──「彦ホホデミ」──「彦ナギサ」

この二つの系図が成立していて、「忍日女命」と「彦ナギサ」が姉弟で
あるためには、「天村雲命」は、(系図的には)女性になります。
(これが、私の立ち位置です。)

古代の系図(系譜)が間違っているとか・不確かである、とも言えます。
ですが、
私は、記紀(&先代旧事本紀)の編集に当たっては、何人かの人物で、
女性を男性に、(確信犯的に)ごまかしている気がしています。

*****


│※「神武天皇」東征の出発地は「筑紫の日向」=「うきは市」である。
│*父親の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命を宮崎に残し、末っ子の
│「神武天皇」 が、九州の不穏分子から背後を衝かれない様に平定して
│いる。宇佐から「岡水門」へ廻り込んでいるのはその順路である。 

福島さんは、「日向3代」などの、記紀が内包している問題を
何も検証されずに、(記紀を)解釈されています。

石見介さんのように、神代の時代は、検証不能、とする立場もあります。
数年前に、文京区の「男女平等センター」で、東大の先生の話を聞く機会
があって、その先生によると、日本書紀の時代は、検証が出来ないので
学問(の対象)ではないと、述べておられました。

私は、記紀は、意図的に改ざんをしている所もあるが、系図集である
「古代豪族系図集覧」や、風土記・先代旧事本紀・神社伝承や三国史記
等を比較することで、(シンメトリック論を含め、)場合によっては、
性別を変え、夫婦同名・連れ子の実施扱いなど、系図をいじくることで、
記紀を解明出来ると、信じて作業をしています。
(系図を見ていくと、案外、これが正確なのです。)

福島さんの解釈は、解釈(のひとつ)として、理解は出来ます。
けれども、
福島さんが「記紀の世界(にある矛盾)」をどう見ているのか。
そこが(一番)知りたいところなのです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/22 (Wed) 13:56:08


│Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田
│2023/02/15 (Wed) 22:31:47

│ただし、日本書紀・古事記・風土記に書かれている「瓊瓊杵尊」は、
│ひとりで、(その行動は)ほぼ同一人物として、描かれています。
│ただ、私には、「瓊瓊杵尊」と、「神武天皇」は、(別人ですが、)
│何となく同じに見えてしまう、ということはあります。
│(ここでは、深入りはしませんが。)

神武天皇の先祖の話をする時には、注意することがひとつあります。

わたくしごとで、いいますと、うちの一族の系図です。

┌─私(69歳)──(子) 
└─姉(75歳)──姪──(女)──〇(2022年生) 


それを踏まえて、神武天皇とニギハヤヒを見比べると、
そして、手研耳命は、おそらく15歳程度に見えます。

┌─(兄)ニギハヤヒ(火明命)──宇摩志麻治命 
└─(弟)彦ホホデミ尊──彦ナギサ尊──神武天皇──手研耳命  

この、手研耳命を連れた神武天皇が、ニギハヤヒに会えるのだろうか。
本当に、(この世代差で、)会えるのか?

そうすると、この系図は、「実現不可能」ということになります。
そこで、(古事記などでは、)「日向3代」という話が出て来ます。
でも、私は、話が逆だと思っています。

「日向3代」を入れると、「神武東遷/東征」という話は、
成立しません。風土記では、12世の孫として、特定不明にしています。
記紀では、「ニギハヤヒ」の「天の磐船」を「神武東遷/東征」の
モデルにしています。そして、ここからは、私の想像ですが、
記紀は、(後漢書の)拘奴国の王の東征を「神武東征」にしています。
(卑弥呼も拘奴国の女王です。)
そして、「日向3代」は、日本書紀の「一書」の中に、封じ込められて
しまいました。

(つづく)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 福島雅彦

2023/02/20 (Mon) 22:08:57

つづき、です。
>次に、「筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯」の場所についてです。
私は、「瓊瓊杵尊」には、モデルが複数いると思っています。
ですので、神代の時代の「瓊瓊杵尊」の(複数の)モデルのひとりが、

│*二所(ふたかみ)の峰とは、「水縄連山(耳納山地)」の
│ 最高峰の「鷹取山」と次峰の「発心山」の事。

という、福島さんの主張の通りである可能性を(私は)否定はしません。
ただし、日本書紀・古事記・風土記に書かれている「瓊瓊杵尊」は、
ひとりで、(その行動は)ほぼ同一人物として、描かれています。
ただ、私には、「瓊瓊杵尊」と、「神武天皇」は、(別人ですが、)
何となく同じに見えてしまう、ということはあります。
(ここでは、深入りはしませんが。)

>:出発地点としての「南九州」について (2023-02-13、作り直し)
────────────────────────────────
(その1):各地域の『風土記』に登場する「ニニギ尊」について
>◎:『風土記』東洋文庫版から見た、各地の『風土記』に残っている
:「天孫降臨のモデル(ニニギ尊)」の移動の伝承

(頁数)登場人物_地域__内容
(343)_天孫_豊前国_宮処(みやこ)から日向の旧都に天降った。
(__)________天照大神の神京(みやこ)である。
(350)ニニギ尊_日向_天降りなされた。(『釈日本紀』より)
(353)ニニギ尊_薩摩国__土地の娘との間に、男子2人を
______________もうける。_日向から薩摩にうつる。

※「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」=水縄連山(耳納山地)との愚説を否定していないと観ます。
*>「日向の旧都」=「高天原」(愚説のうきは市)=「天照大神」の神京も整合します。
・「天照大神」=「天(あま・あめ)出自の大神」=歴代複数、男女不問。
*「天」=国の東の聖地。(山は、これの筑後弁訛り)=「うきは市」。
・「照」=古代倭語“딸리다”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の意。

>『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』(ウィキペディアより)
:『釈日本紀』は、鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書。
:『釈紀』の略がある。全28巻。
『風土記(ふどき)』(ウィキペディアより)
:奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が
:編纂し、主に漢文体で書かれた。
:『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が
:風土記編纂の官命であると見られている。ただし、この時点では
:風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から
:上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていたようである。なお、記すべき内容として下記の五つが挙げられている。
:国郡郷の名(好字を用いて)___:産物
:土地の肥沃の状態_:地名の起源_:伝えられている旧聞異事
*****
※既に地名の原義が失われていて、後世のこじ付けが観えます。
*・佐賀県神﨑郡(現・神﨑市)=「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖ン(の)國」=徐福(秦人)が興した国の意=漢前(さき=祖)郡=神崎郡(好字二字令)=吉野ヶ里がある所。『三国志(魏志倭人伝)』の「倭」の国名は殆どがこの伝で、国情説明文言の一部を国名と誤認したものである。

>(追記)日本書紀の神武東征の図を見ると、「筑紫国の岡水門」に寄っています。
約1か月半逗留しているようですが、兵士でも集めていたのでしょうか。
ちなみに「岡水門」は遠賀川河口付近だそうです。*****

※「神武天皇」東征の出発地は「筑紫の日向」=「うきは市」である。
*父親の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命を宮崎に残し、末っ子の「神武天皇」 
 が、九州の不穏分子から背後を衝かれない様に平定している。宇佐から「岡水門」 
 へ廻り込んでいるのはその順路である。
∵東征するのであれば宇佐から瀬戸内海へ向かうはずである。
・安芸の宮島以降の滞在各地が、兵力の増強、武器の拡充に費やした、と観ます。

>※:「イザナギ・イザナミ」が、作られた名前であることを、見つけた人がいました。
 :(全邪馬連会員:白崎勝氏の考察)

│伊邪那岐、伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニの国名から、
│一文字ずつ採った名であることを発見した。
│各順1 伊―伊都国
│各順2 邪―邪馬台国
│格順3 那―奴(那)国
│格順4 美―不弥(宇美)国
│格順5 岐―壱岐国
│3、伊邪那美岐の文字順は、クニの格順になっている。
│伊邪那美岐の文字並びは、採用したクニの格順になっている。
└*****

 ※これこそ、こじつけの標本だと観ます。
・「伊都國」=「伊奘諾尊」が列島の橋頭保に築いた都、の意。
・「邪馬壹國」=「卑彌呼」の居所説明文言の一部を国名と勘違いしている。
・「奴國-1」・「奴國-2」=“논”(non → nun)國=野(棚田)國と説明した。
旧・筑紫郡=那珂川市から春日市に亘る、背振北麓一帯。と同伝の水縄連山(耳納山地)北麓。北麓は冬の積雪があり、雪解け水は棚田稲作の用水を必要量必要期間供給するダムの役割を持つ。
・格順4 美―不弥(宇美)国・格順5 岐―壱岐国=無理があります。
 抑々、「壱岐国」とは何処にも記載されていません。「一大國」ですから…。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/19 (Sun) 11:00:17

『カヤ (草)』(ウィキペディアより)
:茅(かや。「萱」とも書く)は、古くから屋根材や
:飼肥料などに利用されてきた草本の有用植物の総称。
:概要
:「茅」と呼ばれるのは、細長い葉と茎を地上から立てる草本植物で、
:チガヤ、スゲ、ススキなどがその主要なものである。
:イネやムギなどの茎(藁)は水を吸ってしまうのに対し、
:茅の茎は油分があるので水をはじき、耐水性が高い。
:「茅」の名をもつ植物
:カヤが和名に付く種は多く、ほとんどがイネ科である。


│<茆の解説 - 日本漢字能力検定協会 漢字ペディア>より
│「茆」 (音読み)ボウ(訓読み)じゅんさい・ ぬなわ・ かや
│_①じゅんさい。スイレン科の多年草。ぬなわ。
│_②かや。ちがや。 [類]茅(ボウ)


『スイレン属』(ウィキペディアより)
:スイレン属は世界中に分布し、50種ほどが知られる。
:日本にはただ1種、ヒツジグサ(未草)のみが自生する。

『卯』(ウィキペディアより)
卯(う、ぼう)は、十二支のひとつ。いわゆる「うさぎ」。
伝承
『漢書』律暦志によると卯は「冒」、
『史記』律書によると「茂」(ぼう:「しげる」の意味)。
草木が地面を蔽うようになった状態を表しているとされる。

『ウガヤフキアエズ』(ウィキペディアより)
:鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと、
:うがやふきあえずのみこと)は、日本神話の神。
:地神五代の5代目、日向三代の3代目。神武天皇の父。
:名
:彦波瀲武「鸕鶿草」葺不合尊_____(うがや) - 『日本書紀』
:天津日高日子波限建「鵜葺草」葺不合命(うがや)-『古事記』
:彦波瀲武「鸕鶿草」葺不合尊_____(うがや) - 『先代旧事本紀』
:彦瀲尊(ひこなぎさ の みこと) - 『古語拾遺』



│鸕鷀・鸕鶿(読み)ろじ
│精選版 日本国語大辞典「鸕鷀・鸕鶿」の解説
│ろ‐じ【鸕鷀・鸕鶿】
│〘名〙 鳥「う(鵜)」の異名。


▼日本書紀 巻第十九 欽明天皇紀
今河内國更荒郡鸕鷀野(うの)邑新羅人之先也。

▼日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
持統天皇高天原廣野姫天皇、少名鸕野(うのの)讚良皇女、

*****************************

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 福島雅彦
2023/02/18 (Sat) 11:30:24

*片岡さんの定義が正しいか否かは別にして、私は『記・紀』神話は
_時代を古く見せる作為がある、と観ています。
_畿内説を古く見せかける為と半島由来と九州由来の隠蔽が目的か、と。
(その1)
・「伊奘諾尊」は「大伽耶國」建国王の伊珍阿岐王の事ではないか、と。
(その2)
・「神武天皇」の父親の「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」とは、
_産屋の屋根を鵜の羽根で葺き合わせなかった故事に擬えていますが、
_これも捏造と観ます。
∵鵜の羽根の建材は如何見てもあり得ません。
_茅葺きが既に存在していた筈ですから…。
(その3)
・これは「大(う)伽耶(かや)不統合の尊」の意を後世の賢者が
_見破る様に太安万侶が仕込んだ鍵、と観ます。
_(隠蔽を命じられた事への反骨精神から…)

*****************************
<データをして語らしめよ。>

(その1)
・「伊奘諾尊」は「大伽耶國」建国王の伊珍阿岐王の事ではないか、と。
*****
私は系図解読マニアとして、人名を色々と扱ってきました。
古事記の序文に書かれているように、伝承は、口承によって
受け継がれてきました。
その口承を文字に起こすときに、何が起きたかを、考えてみました。

諸石宿禰(もろいし-すくね)→「もろ-すく」→「但馬-諸助」
大御日足尼(おおみひ-すくね)→「ひ-ね」→「多遅摩-斐泥」

同じように、「伊珍阿岐(き)王」を考えてみました。
加耶阿豉今悩窒朱日(内珍朱智・「伊珍阿豉(こ)」・正見母主次子)

天児屋根命(あめの-こやね)→「あ-こ」→「伊珍-阿豉王」


(その2)
・「神武天皇」の父親の「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」とは、
_産屋の屋根を鵜の羽根で葺き合わせなかった故事に擬えていますが、
_これも捏造と観ます。
∵鵜の羽根の建材は如何見てもあり得ません。
_茅葺きが既に存在していた筈ですから…。
*****
今回、調べて気が付いたのですが、記紀には、「茅(かや)」という
漢字は使われてはいませんでした。
また、耳から文字への、文字起こしで考えれば、日本書紀よりも古事記の
方が古いです。そうすると、「うがや」は、「鵜葺草」になります。
記も紀も「〇〇草」なのですから、葺く材料は、「草」です。
どちらも「う-草」と書いて「うがや」と読ませています。
油分があって水をはじく材料の、草を使ったのだろうと思います。

この話は、航海の途中で、産気づいたために、急遽、(他国の)海岸の
「渚(波の影響を受けて砂がなだらかに盛り上がった状態)」に
「出産小屋」を作った話で、そこで生まれた子という意味です。
現代の話にすると、実家でお産をしようと帰省したら、間に合わなくて、
タクシーの中で生まれた子、と、(偉くなっても)呼ばれた、という
程度の話に見えます。


(その3)
・これは「大(う)伽耶(かや)不統合の尊」の意を後世の賢者が
_見破る様に太安万侶が仕込んだ鍵、と観ます。
*****
古事記を調べてみると、半島の事はすべて「韓(から)」と
表現しているようです。
ですので、「茅(かや)」という文字も「伽耶(かや)」という文字も
(古事記では)使われては、いないようです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 福島雅彦

2023/02/18 (Sat) 11:30:24

>福島さんの考察は、一つ目は「豊」の付く人名です。
二つ目は、「筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯」の場所特定に関する
考察になります。
*****
>まず、いわゆる「邪馬台国時代」の定義と「豊」についてです。

│(片岡宏二氏の定義)
│筆者は、邪馬台国時代を、倭国大乱から臺与の即位までの
│80~90年間と考えた。(だいたい、AD160年頃~250年頃)

>私は、片岡宏二氏の定義に基づいて、ほぼ同時期と思われる時代に
生きていたと思われる人物を探しました。(多少の逸脱はありますが。)
それに対して、福島さんは、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神
(いざなみのかみ)までの、「神世七代」の二番目の神の異称を持ち
出してこられました。たとえ彼らが実在したとしても、その時代は、
「AD160年頃~250年頃」の時代よりも、数百年(200年以上前)前の
時代になります。(これでは、同じ土俵に立てないのです。)

*片岡さんの定義が正しいか否かは別にして、私は『記・紀』神話は時代を古く見せる作為がある、と観ています。畿内説を古く見せかける為と半島由来と九州由来の隠蔽が目的か、と。
・「伊奘諾尊」は「大伽耶國」建国王の伊珍阿岐王の事ではないか、と。
・「神武天皇」の父親の「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」とは、産屋の屋根を鵜の羽根で葺き合わせなかった故事に擬えていますが、これも捏造と観ます。
∵鵜の羽根の建材は如何見てもあり得ません。茅葺きが既に存在していた筈ですから…。
・これは「「大(う)伽耶(かや)不統合の尊」の意を後世の賢者が見破る様に太安万侶が仕込んだ鍵、と観ます。(隠蔽を命じられた事への反骨精神から…)

>話としては、大昔の神様の名前も「豊」が使われていた、という話(指摘)は、理解しました。この話に乗っかると、例えば、「大日本豊秋津洲(くに)」、「筑紫洲(くに)」などから、「豊」は、「出雲」ではないか、とか話がまとまらなくなってしまいます。(話としては面白いのですが。)

  ※「豊」=「出雲」は、強ち荒唐無稽ではありません。以下は愚説の部分抜粋です。
・≪水(み)縄山(のやま)の古称に蓑(みの)尾山(おやま)がある。水縄も蓑尾(雨具)も水が滴る、の意。
高良山の古称「高牟礼山」も「“다가-물”(taka-mul)山」=「集る水の山」。「彌烏邪馬國」も「水生山國」=「水を生む山」の「倭語」。『韓傳』に記載されているが、元「倭地」=「拘邪韓國」か。「大伽耶國」建国王「伊珍阿岐王」=「伊奘諾尊」で「倭人(神)」。半島と列島に同じ地名。両方の「みの(お)やま」に区別をつけるために、定冠詞“구름의”(ku-reum-e)=「雲の…」を付けたのが「久留米」の語源。水縄山の山頂の小峰には「白雲台、紫雲台、凌雲台、碧雲台、渓雲台」がある。春夏秋冬朝昼晩照っても降っても雲が沸く。彌烏邪馬國が在ったと比定する「高霊郡」は「高良山」と対応する。そこの地名に「箕山(きざん)里(り)」があるが「倭語」の「箕山(みのやま)」と同義であり、「星山面」ともあるのは「星野村」と対応する。≫
・≪「天照大神」(あまてらすおおみかみ)=「天」は前述。
・「照」=古代倭語“딸리다”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の当て字である。即ち、「高天原所属(出自)の大神」であり棚田での稲作農耕神。固有名詞ではないので、何代も何人(神)でも襲名できるし、性別は問わなくて良い。『隋書』に登場の倭王「阿毎多利思比孤」も同伝(前述)。
*「素盞嗚尊」=“쇠상”(soe-sang)王=[鉄上(直訳)王]⇒製鉄王。 
『後漢書』に登場の倭王 「帥升」=「素盞嗚尊」。(14頁)
・“쇠”(soe)[鉄;真金<雅>、金属の総称]『民衆書林・韓日辞典』。
“쇠-”(soe)[“牛の”]同義。建速須佐男命の「建速」は「たてはや」と読んできたが、「牛頭(ごず)」の当て字か。即ち、素盞嗚尊=牛頭天王とも。  
職掌名であり何代も何人も襲名し得る。日本書紀の一書に、素盞嗚尊は乱暴狼藉のために高天原を追放になり、新羅国の「曽尸茂梨」(そしもり)の処へ行く、とある。
・曽尸茂梨“쇠씨-머리” (soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)の意。地名ではなく「製鉄の長(かしら)」の処へ行ったのである。≫

*両神の確執から「素盞嗚尊」が追放になりますが、「高天原」と「出雲」が隣接している設定になっています。

*即ち、「天照大神」と「素盞嗚尊」が隣接地に居ないと、地響きをたてて迫る神話の描写が成り立ちませんから…。

長くなりますので、つづく

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/15 (Wed) 22:31:47

今、片岡宏二氏の「続々邪馬台国論争の新視点」を読んでいます。
なかなか読み応えがあります。

気力・体力の関係&自説との比較・確認をしながら、読んでいるので、
なかなか読み進めていないのですが、いくつか紹介します。

(その1:原秀三郎氏の説)
稲荷山鉄剣の文字と、雄略天皇の8世前を比べて、
祟神が活躍する時期を230年代から250年代とした。(P-100より)
(P-101)図24「四道将軍の派遣地域と纏向遺跡出土土器産地の範囲」
纏向遺跡に土器が供給された地域と先にあげた四道将軍の派遣記事に
出てくる地域とが、ほぼ重なっていることがわかると思う。
*****
:私は、日本書紀の系図には、2世代の重なりがある。&「倭姫世紀」
:&「シンメトリック論」などより、祟神天皇の時代を
:300年~331年としています。
:年代の違いはありますが、考古学と文献との比較が、
:出てきたことは、うれしいことだと思います。

(その2:邪馬台国について)
(P-86)
邪馬台国を近畿としながら、九州に違う別勢力の存在を認めるという
考え方、あるいはその逆に吸収を邪馬台国としながら、近畿に別勢力を
求めるという考え方は昔からあった。
(P-90)
前章では、邪馬台国時代の日本には二元的な政治勢力が存在し、前漢時代
の倭とは、筑紫平野北部より北側の北部九州を指すという主張を述べた。
「倭」といっても時代によってその領域が変化するものである。
*****

:まず、『高忍日賣神社』の紹介をします。

○:<『高忍日賣神社(たかおしひめじんじゃ)』
_:(ウィキペディアより)>の伝承

祭神_主祭神_高忍日賣大神(たかおしひめのおおかみ)
配祀_天忍男命(あめのおしお)、天忍女命(あめのおしひめ)、
___天忍人命(あめのおしひとのみこと)
:神話
:当社には固有の神話がいくつか残る。初代神武天皇の父君
:日子波限建鵜葺草葺不合命が生まれる際の伝承である。
:日子穂穂手見命と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡る際に、妻神が
:急に産気づき近くの海岸で産屋を建てて、出産することになった。
_(つづきは、wikiで。)

※:この「高忍日賣神社」の神話・伝承によると、
_:「忍日女」は、弟の「彦ナギサ」が生まれる時に、(出産の)
_:お手伝いをしたという話になっています。
_:(自作の系図ではありますが、)「彦ナギサ」=「伊賀津臣命」と
_:すると、「神武天皇」は「難升米」になります。そして、
_:「彦ナギサ」の母と妻は、「葉江」の娘になります。
_:つまり、海神「綿積豊玉彦命」は、ニギハヤヒ(黒速)の子どもで、
_:「葉江(天香語山命/宇摩志麻治命)」ということになりました。
_:記紀では、「難升米(梨迹臣命)」は、神武天皇ではありません。
:神武天皇の、(複数の)モデルのひとりが「難升米」と考えています。

:「四道将軍の派遣地域」は、陸上の交通路に当たります。
:彦ナギサ尊の話、ニギハヤヒの天の磐船、神武東征、すべて、
:(四道将軍派遣の前は、)基本的に、船による移動です。

:そうすると、「近畿」と「筑紫の北九州」の二つの勢力とは別に、
:「トヨ」を名乗る、船を持つ勢力がいたのではないか。つまり、
:この海神「綿積豊玉彦命(ニギハヤヒの子)」の集団(物部氏)
:こそが、ナゾの「邪馬台国」の主体だったのではないか。
:そんなことを考えています。

:図書館から本を借りて読んでいるのですが、
:「予約待ちあり」になっています、ですので、
:この本だけでも早く読み終えて、返却しなくては・・・。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/14 (Tue) 12:17:48


│後漢書について - 白石南花
│2022/11/24 (Thu) 16:26:42

│三世紀ごろまでの高句麗を調べていて、やはり後漢書東夷伝は、
│警戒を要する書物であると思いました。

│後漢書は漢書を引いているため、反乱の前にも高句驪侯が出てきて、
│内部矛盾に陥っています。
│漢書は班固の作で、東観漢記の光武帝の時代あたりまでは、
│同じく班固が重要な役割を果たしたとされます。
│王莽伝についてまったく別の史料があったとは信じがたいです。
│このことから後漢書東夷伝は、撰者の歴史理解によって、
│原史料を根本的に書き変えてしまう傾向があることが分かります。



│後漢書東夷伝を裴松之註三国志と比較する - 白石南花 URL
│- 当世奇妙  2023/02/13 (Mon) 13:53:34

│URLをざっと読まさせて頂きました。
│『後漢書』はやはり要注意だと言うことが良く理解
│出来ました。


私は、『三国史記:高句麗本紀』(東洋文庫)を読んでみて、
後漢書の記述は、正しいと感じています。

『三国史記:高句麗本紀』の記述が、すべて正しいとは、言いませんが、
(『三国史記:高句麗本紀』も、後漢書も、)
史料としての価値は十分にあると思っています。そして
そのように、(私は、史料として)活用しています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/13 (Mon) 23:33:36


│Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」
│-福島雅彦_2023/02/12 (Sun) 21:15:05

│米田さん、私は以下の様に愚考します。

│>:もと筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯より、
│>:三野(美濃)の国の引津根の丘においでになった。

│※これは、「水縄連山(耳納山地)」の事だと思います。

│*二所(ふたかみ)の峰とは、「水縄連山(耳納山地)」の
│ 最高峰の「鷹取山」と次峰の「発心山」の事。

さっそく、レスをいただき、ありがとうございます。
不意を突かれたものですから、何を回答するか悩んでいたら、
返事が遅れてしまいました。すみませんでした。

福島さんの考察は、一つ目は「豊」の付く人名です。
二つ目は、「筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯」の場所特定に関する
考察になります。
*****
まず、いわゆる「邪馬台国時代」の定義と「豊」についてです。

│(片岡宏二氏の定義)
│筆者は、邪馬台国時代を、倭国大乱から臺与の即位までの
│80~90年間と考えた。(だいたい、AD160年頃~250年頃)

私は、片岡宏二氏の定義に基づいて、ほぼ同時期と思われる時代に
生きていたと思われる人物を探しました。(多少の逸脱はありますが。)
それに対して、福島さんは、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神
(いざなみのかみ)までの、「神世七代」の二番目の神の異称を持ち
出してこられました。たとえ彼らが実在したとしても、その時代は、
「AD160年頃~250年頃」の時代よりも、数百年(200年以上前)前の
時代になります。(これでは、同じ土俵に立てないのです。)

話としては、大昔の神様の名前も「豊」が使われていた、という
話(指摘)は、理解しました。
この話に乗っかると、例えば、「大日本豊秋津洲(くに)」、
「筑紫洲(くに)」などから、「豊」は、「出雲」ではないか、とか
話がまとまらなくなってしまいます。(話としては面白いのですが。)
*****

次に、「筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯」の場所についてです。

私は、「瓊瓊杵尊」には、モデルが複数いると思っています。
ですので、神代の時代の「瓊瓊杵尊」の(複数の)モデルのひとりが、

│*二所(ふたかみ)の峰とは、「水縄連山(耳納山地)」の
│ 最高峰の「鷹取山」と次峰の「発心山」の事。

という、福島さんの主張の通りである可能性を(私は)否定はしません。

ただし、日本書紀・古事記・風土記に書かれている「瓊瓊杵尊」は、
ひとりで、(その行動は)ほぼ同一人物として、描かれています。

ただ、私には、「瓊瓊杵尊」と、「神武天皇」は、(別人ですが、)
何となく同じに見えてしまう、ということはあります。
(ここでは、深入りはしませんが。)

────────────────────────────────
※:出発地点としての「南九州」について (2023-02-13、作り直し)
────────────────────────────────
(その1):各地域の『風土記』に登場する「ニニギ尊」について

◎:『風土記』東洋文庫版から見た、各地の『風土記』に残っている
_:「天孫降臨のモデル(ニニギ尊)」の移動の伝承

(頁数)登場人物_地域__内容
(343)_天孫_豊前国_宮処(みやこ)から日向の旧都に天降った。
(__)________天照大神の神京(みやこ)である。
(350)ニニギ尊_日向_天降りなされた。(『釈日本紀』より)
(353)ニニギ尊_薩摩国__土地の娘との間に、男子2人を
______________もうける。_日向から薩摩にうつる。

『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』(ウィキペディアより)
:『釈日本紀』は、鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書。
:『釈紀』の略がある。全28巻。

『風土記(ふどき)』(ウィキペディアより)
:奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が
:編纂し、主に漢文体で書かれた。
:『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が
:風土記編纂の官命であると見られている。ただし、この時点では
:風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から
:上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と
:呼ばれていたようである。
:なお、記すべき内容として下記の五つが挙げられている。

:国郡郷の名(好字を用いて)___:産物
:土地の肥沃の状態_:地名の起源_:伝えられている旧聞異事
*****
(追記)
日本書紀の神武東征の図を見ると、「筑紫国の岡水門」に寄っています。
約1か月半逗留しているようですが、兵士でも集めていたのでしょうか。
ちなみに「岡水門」は遠賀川河口付近だそうです。

*****

※:「イザナギ・イザナミ」が、作られた名前であることを、
_:見つけた人がいました。
※:(全邪馬連会員:白崎勝氏の考察)

│伊邪那岐、伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニの国名から、
│一文字ずつ採った名であることを発見した。
│各順1 伊―伊都国
│各順2 邪―邪馬台国
│格順3 那―奴(那)国
│格順4 美―不弥(宇美)国
│格順5 岐―壱岐国
│3、伊邪那美岐の文字順は、クニの格順になっている。
│伊邪那美岐の文字並びは、採用したクニの格順になっている。

*****
『 続々 邪馬台国論争の新視点』
■日 時 : 2 月 26 日(日) 14 時~16 時半 終了予定
■講 師 : 片岡 宏二先生(小郡市埋蔵文化財調査センター所))
■会 場 : なし(オンラインのみ)
■講師の言葉
昨年『続・邪馬台国論争の新視点』(2019 年刊)に書いた
邪馬台国時代の社会についてお話させていただいた。今回は 3 部作
最後の『続々―』(2021 年)で主張した東アジア世界が当時の日本を
どのように見て、「倭」と認識したものが何であったのかをお話したい。
まず私の考古学資料、主に土器の年代観を述べる。その年代観をもとに
した邪馬台国時代(2 世紀中ごろから 3 世紀後半)の北部九州を中心
とした大陸系遺物や遺跡はどのように分布するのかを見る。
そうすると中国が「倭」を地理的にどのように認識していたのかが
わかる。こうして「倭」(倭種を除く)が北部九州を出ない範囲にある
こと、そしてその中にある邪馬台国の筑紫平野連合説を述べたい。
ついでだが、倭には狗奴国も含まれるという見解も示したい。
*****
このスレでの投稿の目的は、今月の当会の(予習を含む)講演の紹介です。

(私は、神武東征は、あったとしたら、150年頃と考えています。)
(この神武東征の年代観は、人によって違うと思います。)

後漢書東夷伝を裴松之註三国志と比較する - 白石南花 URL 当世奇妙

2023/02/13 (Mon) 13:59:07

このURL(白石楠花さんの投稿からクリックしてください)は大変重要な指摘をされている。
白石楠花さんの文献に関する学問力は図抜けている!
以下の指摘も重要。
「後漢書東夷伝は、撰者の歴史理解によって、原史料を根本的に書き変えてしまう傾向があることが分かります。
(略)
范曄は筆力はあったのかもしれませんが、それがたたって原史料を自分の歴史解釈に合わせて書き変えている可能性が高く、歴史を構成するにあたっては、他の史書以上に十分に注意を払う必要のある書物であると言えそうです」

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 福島雅彦

2023/02/12 (Sun) 21:15:05

米田さん、私は以下の様に愚考します。

>:もと筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯より、
:三野(美濃)の国の引津根の丘においでになった。

※これは、「水縄連山(耳納山地)」の事だと思います。

*二所(ふたかみ)の峰とは、「水縄連山(耳納山地)」の最高峰の「鷹取山」と次峰の「発心山」の事。

・三野(美濃)の国の引津根の丘とは、三野も美濃も箕面も蓑尾も水縄連山(耳納山地)の別稱で、「水生む」=「水源の山」です。彌烏邪馬國の「「彌烏」も同源。

※この山出自の神名が『記・紀』に在ります。

*愚説講座のレジメから抜粋します。

*『記・紀』に歴代「卑彌呼」の異称か、太安万侶は此処にも伏線を忍ばせている。

*『古事記』⇒「神世七代」の二番目の「豊雲野の神」
・「豊雲野の神」=豊かな雲の「野=奴國」の神とは、天(あま)に坐します「卑彌呼」。 水縄連山はよく雲が湧く。

*『日本書紀』⇒「豊国主尊、豊組野尊、豊香節野尊、浮経野豊買尊、豊国野尊、豊齧野尊、葉木国野尊、見野尊」と「神世七代」の二番目の神の異称がある。

・「豊国主尊」=豊かな「国=軍(く)尼(じ)」主尊=豊かな「扱(くじ)った山容・山態」の水縄連山(耳納山地)の主の尊とは「天(あま・あめ)」に坐します「卑彌呼」。

・「豊組野尊」=豊かな組み合った棚田(野=奴國)の尊とは「卑彌呼」。「組」は「雲=“구름”」の音写であれば(記)の「豊雲野の神」と同じになる。

・「豊香節野尊」=豊かな「香節=谷沢」の棚田(野=奴國)尊とは「卑彌呼」。

・「浮経野豊買尊」=浮羽の棚田(野=奴國)と豊かな「買=“메”(me・mœ)山の古語」の尊とは「天(あま・あめ)」に坐します「卑彌呼」。

・「豊国野尊」=豊かな「国=軍(く)尼(じ)」の棚田(野=奴國)の尊とは「卑彌呼」。

・「豊齧(かぶ)野尊」=豊かな「齧=槵触」の棚田(野=奴國)の尊とは「卑彌呼」。「齧る」=水縄連山(耳納山地)の山腹の様の表現。

・「葉木国野尊」=木の枝葉垂れ「国=軍(く)尼(じ)」の棚田(野=奴國)の尊とは「卑彌呼」。水縄連山(耳納山地)の山肌は貝塚息吹の枝葉模様に似ている。

・「見野尊」=水縄連山の尊は「天(あま・あめ)」に坐します「卑彌呼」。

以上の様に愚考いたしています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/12 (Sun) 15:40:00

片岡宏二氏の本を読んでいて、
気になったので、「トヨ」について
(まとめて)書いておきます。

私は、「トヨ」の地域(領域)がどの程度か
よく分かりませんが、(地名としては)
「筑紫」よりも「トヨ」に興味があります。
────────────────────────────────
:<『風土記』豊前国:東洋文庫、(P-343)>
:宮処(みやこ)の郡。むかし天孫がここから出発して日向の旧都に
:天降った。おそらく天照大神の神京(みやこ)である。云云。
────────────────────────────────
:『風土記』から見た、『風土記』に残っている移動の伝承
:<『常陸国風土記』の話>(東洋文庫_P-28)
:(綺日女命:かむはたひめのみこと、神機姫命:はたおりむすめ)

:古老がいうことには、
:「すめみまの命(皇孫瓊瓊杵命)が天からお降りになったとき、
:御服(みぞ)を織るために従って降った神、み名は、綺日女命は、
:もと筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯より、
:三野(美濃)の国の引津根の丘においでになった。
:後、みまき天皇(崇神天皇)のみ世になって、
:長幡部の遠祖多弖(たて)命は、三野(美濃)を去って、久慈に移り、
:機殿(はたどの)を造り立てて初めてこれを織った。云々。
────────────────────────────────
:<『風土記』伊勢国:東洋文庫、(P-285)>
:そもそも伊勢の国は、天御中主尊の12世の孫の天日別命が平定した
:所である。天日別命は神倭磐余彦の天皇(神武天皇)が、
:あの西の宮(日向)からこの東の州(くに)を征討されたとき、云々。
────────────────────────────────
「日本書紀」(神武天皇紀:太歳は甲寅:推定114年。)
:さらに行き、筑紫の国の菟狭についた。菟狭国造の祖先の、
:菟狭津彦、菟狭津媛というのがいた。(云々)このとき勅して
:菟狭津媛を、待臣の天種子命に妻として賜った。
:天種子命は、中臣氏の遠祖である。
:(その子どもは、宇佐津臣命で、天御中主尊の12世の孫でもある。)
────────────────────────────────

:いわゆる「邪馬台国」と思われる時代で、記紀にでてくる女性の
:名前を(意図的・恣意的に)抜き出してみます。

「記・紀」などより
「豊秋狭太媛」・「天豊津媛命」・「台与(トヨ)」

「先代旧事本紀」より
「豊吾田津姫(とよあたつひめ)」___・「豊玉姫(とよたまひめ)」
「豊御気主命(とよみけぬしのみこと)」・物部目大連の娘の「豊媛」
「萬幡豊秋津師姫(よろずはたあきつしひめ)」

*****

わたしとしては、「筑紫(ちくし)」に関連する名前をもつ女性が
思い浮かばないのです。

ということで、この時代に「筑紫(ちくし)」に関連する名前を
持つ女性が(記紀などに)いたら、どなたか、教えてください。

PS:私は、神武東征は、2世紀の中頃と考えています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/11 (Sat) 23:48:54


│Re: <シンメトリック論の紹介> - 滑安房守
│2023/02/11 (Sat) 18:26:34
│米田さん
│天皇の在位期間の、実年代を確定させるに当たって、シンメトリック
│論が正しいとして、シンメトリック論に当て嵌めるとどうなるか
│などと、比べ併せての判断が可能になるということだったのですね。

│何回か、お教えを戴きながら、ここで、ようやく、判りました。
│有難うございました。

シンメトリック論(三部作)をご理解いただき、ありがとうございます。


シンメトリック論の中核は、干支にあります。それは、

________:即位年_。実際の年。(期間)
孝霊天皇(辛未):BC290年。251年。┐481年。本当は。121年。
(仲哀の前年)_:AD191年。371年。┘←(干支は辛未)

仲哀天皇(壬申):AD192年。372年。┐481年。本当は、301年。
壬申の乱(壬申):AD672年。672年。┘

481年は、(干支は60年ですから。)
60×8+1=481年です。また、481÷13=37_でもあります。

つまり実際には、421年の期間しかないものを(倍以上の)
(60×16)+1=961年_に、期間を引き延ばしています。

さらに、日本書紀は、(稗田阿礼は、600年頃の人物ですから、)
600年頃に作られた「古事記」の原型をもとにして、7世紀の歌人たち
の協力を得て、(日本書紀を)叙情豊かな物語に、創作しています。

つまり、日本書紀に書かれている、「悲恋・悲劇の物語」のほとんどは、
創作、つまり、(死亡記事のほとんどは)ウソ(の話)です。

ここまでを理解するのに、私もじつは、頭の中の血管が2~3回、
(頭の中で)ぷつっと切れた音を聞いた気がしています。
(コンピューターに例えると、何回もシステムがフリーズしています。)


そうそう、(日本書紀には)もう一つ(大事な)話が残っているのです。

中国では、新しい国が出来ると、前の王朝の歴史を編纂します。
同じように考えると、日本でも、251年から672年で、ひとつの国が
終わっているはずなのです。(それが、国史のはずなのです。)

もともと、中国の皇帝に指名された「難升米」が、倭国の王に
なるはずでした。ですが、死んでしまいました。
後継者争いは、起こりましたが、結局、「難升米(梨迹臣命)」の
息子の「開化天皇(大綜杵命)」が王になりました。その後、
「武埴安彦命」の反乱などがありましたが、日本武尊などのおかげで
「祟神天皇」が王位(皇位)に就くことが出来ました。
その後、慕容氏のところに人質として行っていた、伊賀津臣の子孫が、
仁徳天皇の父親(高雲)で、その後、仁徳天皇は、大雀皇帝を
名乗りました。
最後、7世紀の「壬申の乱(672年)」で、何が滅んだのでしょう。

藤原鎌足(669年)は、仁徳天皇の男系子孫です。
藤原鎌足の死後、天智天皇系と天武天皇系とで、争っていますが、
藤原鎌足の系統は、争いに加わっていません。
つまり、「難升米(梨迹臣命)」の父親(伊賀津臣)の男系子孫が
治める国は、672年(ここに)滅んだのです。

「古代豪族系図集覧」には不思議なことが、いっぱい書いてありますが、
一番不思議なことは、系図の一番最初に載っている系譜は、皇室ではなく
藤原氏の先祖の系譜なのです。

もともと、日本書紀というのは、251年から672年まで続いた、
「日本」という国の栄枯盛衰の話だったはずです。
ところが、持統天皇(~700年)まで、ずるずると完成が遅れたために、
(701年、)中国に持っていく時には、話が変わっていて、
「倭国」が「日本」になりました、という話に変わっていました。

(神武天皇のBC660年即位の話は、ここでは省略しました。)
こんなことを漠然と考えていました。


PS:下記のような言い方のほうが、スッキリとするかも知れません。
:(日本国は、天照大神を始めとして、女王の治める国でした。)

Re: <シンメトリック論の紹介> - 滑安房守

2023/02/11 (Sat) 18:26:34

米田さん

>※:「難升米」は、247年のあと、名前が出て来ません。
>_:また、孝霊天皇の即位を、紀の干支(太歳:辛未:251年)と
>_:風土記(東洋文庫P-283:癸酉:253年)と、
>_:シンメトリック論の解釈より、251年と、想定しています。

>※:本来ならば、251年に、「難升米」が、倭国の王になるはずです。
>_:ですが、王になれなかったのは、251年より前に「難升米」は、
>_:亡くなったのだろうと考えてみました。

 シンメトリック論の意義が、初めて理解出来た気がします。
 シンメトリック論の年代構造自体の理屈は判っていましたが、「それが、どうしたの!」程度の、脳力しかありませんでした。

 天皇の在位期間の、実年代を確定させるに当たって、シンメトリック論が正しいとして、シンメトリック論に当て嵌めるとどうなるかなどと、比べ併せての判断が可能になるということだったのですね。

何回か、お教えを戴きながら、ここで、ようやく、判りました。
有難うございました。
 

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 滑安房守

2023/02/11 (Sat) 18:11:27

石見介様

>おそらく、藤原氏に繋がる系統は、「鹿島」「香取」「春日」と、「か(鹿)」のついた神社を、尊崇している点から、卜骨に、亀卜ではなく、鹿卜を行っていたのではないか?とか、
>「鹿」を氏族の「獣祖」とする、扶余系に近い伝承を、持っていた可能性もある様にも、思える。

 卓見であると存じます。
 「鹿島」「香取」「春日」全て、「か(ka)」で始まり、現代語でも「かのこ」は鹿の子を示して言ることもあり、鹿の意で間違いないと思います。

 「『鹿」を氏族の『獣祖』とする、扶余系に近い伝承を、持っていた可能性もある様にも、思える。」までは、全く考えつきもしませんでした。

そのような感覚(知識・能力)を安房守も持ちたいものと考えますが、無理なこととの思いがします。

単行本出版 当世奇妙

2023/02/09 (Thu) 20:22:12

今日は某大手チェーンの本屋に立ち寄った。
歴史コーナーで邪馬台国関連の書籍をみた.
市民歴史愛好家の本もかなりあったが、
内容のレベルは低い。
当会の投稿を読んでいるほうがはるかにまし
と思った。
一方的な思い込み・論理・手法がはびこっている!

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/08 (Wed) 11:04:10

(つづき)

<物部氏についての考察(その2)>

*****
『彌彦神社(やひこじんじゃ)』(ウィキペディアより)
社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜
(現・長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの
産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に
祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。
*****

そうすると、物部氏とは何か、になります。
図を見ると分かると思いますが、

神武東征(2世紀中ごろ)、つまり、九州北部の国々に、昔、「王」は
いたのだが、大乱が起きて「王」はいなくなり、「一大率」が支配
監督するようになった。
そして、2世紀中頃(神武東征)から4世紀末(神功皇后)にかけて、
(神々の子孫が)九州の農耕民を引き連れて、近畿・中部・関東に
移住・定住していきます。

弥生時代(青銅器)の文化圏は、
九州北部の「銅剣・銅矛・銅戈」文化圏。←←←:「もののふ」
瀬戸内海の「平形銅剣」文化圏。
近畿山陰の「銅鐸」文化圏。の三つに大きく分かれます。


支配階級としての、物部氏は、そのほとんどは、末端の下級貴族です。
けれども、日本各地に存在する「天照大神」などを祭る「神社」の
氏子(地元民)の大半は、九州北部の「農耕民」(もののふ)が、
支配階級に連れられて、全国各地に移住・定住していったと、
考えています。

それは、極端な言い方をすると、下記のようになります。

「神々の子孫」は、天界から地上に降りてきて、
先住民(縄文人)を支配したのではありませんでした。
「神々の子孫」は、天界から地上に降りてきて、九州北部の農耕民を
引き連れて、(支配を受け入れない)先住民(縄文人)を殺しながら、
(東へ)移住・定住して、いった。

銅鐸文化圏の人たちは、(おそらく)交易が中心の人たちだった。
出雲の銅鐸文化圏の人たちは、東海地方(三遠式)への移住・定住は
したが、狭い地域への移住で、終わった。
そのため、人口の爆発的な増加は、見られなかった。

水運(交易)関係・漁業関係の民は、「港」に縛られるために、
移住は、限られていて、そのため、人口の増加は、あまりしていない
と考えています。(農民と比べての話です。)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/08 (Wed) 10:54:11

<物部氏についての考察(その1)>


│勿論、饒速日後裔を称する氏族群の起源は。それ以前に
│なりますが、「物部(連)氏」や、配下である
│「○○物部」の起源は、上記年代を、遡ることは、
│あり得ない、と私は、思います。


図を見ると分かるように、物部氏というのは、おおよそ
伊香色雄命の孫の世代の人物を「始祖(氏上)」として、
(分割・分離)独立させられています。
この作業は、7世紀の後半に、日本書紀編纂の事業と並行して
おこなわれたと(私は)見ています。
ですので、ここの部分においては、石見介さんと、
意見(認識)の相違は(まったく)ありません。


│新撰姓氏録(神別)
│「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族
│のことで、404氏が挙げられている。
│神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に
│付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代の間に
│分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた
│神々の子孫を「地祇」として3分類している。


米作りの民の移住・定住は、弥生時代と同時に、始まっています。

それとは別に、神武東征、景行天皇・日本武尊の関東遠征、など、
各地の神社(特に一宮)を見ると、民が集団で移住・定住している
ことが分かります。
この移住・定住は、神功皇后の時代で、だいたい終わります。

というのは、応神天皇・仁徳天皇の時代以降の移住・定住は、河内への
移住が多い事と、彼らは、自分たちが祭る神様を別に持ってきています。
ですので、(祭られている)神社をみると、区別が出来るのです。

────────────────────────────────
:『風土記』東洋文庫版から見た、『風土記』に残っている移動の伝承
 <『常陸国風土記』の話>
(東洋文庫_P-28)(「綺日女命」:かむはたひめのみこと
:神機姫命、つまり、「はたおりむすめ」)
────────────────────────────────
:古老がいうことには、「すめみまの命(皇孫瓊瓊杵命)が天から
:お降りになったとき、御服(みぞ)を織るために従って降った神、
:み名は、綺日女命は、もと筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯より、
:三野(美濃)の国の引津根の丘においでになった。後、
:みまき天皇(崇神天皇)のみ世になって、長幡部の遠祖多弖(たて)命
:は、三野(美濃)を去って、久慈に移り、機殿(はたどの)を
:造り立てて初めてこれを織った。云々。←(橘比売命か?)
────────────────────────────────

*****

『天富命(あめのとみの~)』(ウィキペディアより)

:天富命(あめのとみのみこと)は、太玉命の孫。
:神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。
:神武東征においては、手置帆負・彦佐知の二神の孫の
:讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、
:畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて
:種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、
:そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。
:そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、
:阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。 
:続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、
:麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国と言われ、穀の木の
:生育したところは結城郡と言われ、阿波忌部が住んだところは
:安房郡と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てた。

*****

阿波忌部氏の同族は、「あわ」の名前を残しているので、
物部氏の部族とは、違うことが分かります。

(つづく)

物部氏という「氏名(うぢな)」 石見介

2023/02/07 (Tue) 22:28:19

 旧掲示板時代の「討論室」で、同じ邪馬台国近畿説派のp君さん(大野さん)と、何時までも合わなかったのが、「物部氏」についてでした。

 私は、物部氏や大伴氏(大部氏と表記する例もある)などは、多くの伴造(の諸氏)を、統率する為の、いわば、「伴造宰領氏族」であり、従って、「部民制」確立以前に、そのような氏族名があるとは。考えられない、大和政権が成立後に、部民制を布いた時期(5世紀?)か、その前段階とされる「ヒト制」(4世紀?)制定以前には、遡及し得ない、と主張し、物部氏は、「穂積臣」から、分出したとしました。
その後、卑弥呼の「鬼道」という祭祀形態を考慮し、上代日本語の「もの」mono2(モは甲乙無し)に宛てられる漢字が、「物、者、鬼」である事を考慮して、畿内邪馬台国の女王卑弥呼の下、鬼道祭祀に関わった氏族である可能性を考慮して、3世紀中葉以降に、生じた氏族である、としました。
 勿論、饒速日後裔を称する氏族群の起源は。それ以前になりますが、「物部(連)氏」や、配下である
「○○物部」の起源は、上記年代を、遡ることは、あり得ない、と私は、思います。

 物部本宗家以外の支族や、その配下の「○○物部は、更に起源が遅れ、特に、物部本宗家と同祖関係に無い諸々の各地の部民の「物部」は、在地の豪族が、物部氏の品部として、大和政権の地方進出に伴って、設置された可能性が高く、その「移住時期」を、論ずることは、即、大和朝廷(の前身)のその地域への進出時期を、論ずることになる、と私は考えます。

 騎馬民族説を前提にして、「民族移動」として、氏族名や地名の移動を、想定するのは、有りかも知れませんが、その場合でも、その時代に存在し得ない様な名称を追求するのは、非科学的に思われます。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/07 (Tue) 12:13:51

(参考資料図)

(頭の中を整理するために、投稿しています。)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/07 (Tue) 11:35:15

別件(資料図)

「馬見物部」などの物部氏は、いつ頃、
畿内に移住したのだろうか?

まず、移住(の時期)の可能性について、考えてみます。

(その1):ニギハヤヒの「天の岩船」と同時期である。2世紀中頃。
(その2):神武天皇の東征と同時期である。_____2世紀後半。
(その3):卑弥呼死去の__混乱期である。_____3世紀中頃。
(その4):景行天皇の即位と同時期である。_____3世紀末。
(その5):神功皇后の三韓征伐の後である。_____4世紀末。


「馬見物部」の移住先は、大和川の合流点で湿地帯のはずですので、
湿地帯が乾いてきてから、新しく出来た場所に、移住が行われたと
想像しています。ですので、移住の時期は、私は、「その5」の
神功皇后の時代ではないかと、考えています。

先代旧事本紀は、話を盛っていますので、
ニギハヤヒと同時期での移住は、早すぎると思っています。

なお、引用した「先代旧事本紀(現代語訳)」は、
安本美典氏監修・志村裕子さん(執筆)の本からの引用です。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/02/07 (Tue) 11:31:23

(転載)&別件(資料図)

**************************

小原理一郎 FC2023-02-05 

岩波書店の岩波講座【世界歴史06】ユーラシア東部 ~8世紀 
中華世界の再編(2022年刊行)に掲載の論文 
冨谷至の【中華と日本 日本国の成立】は極めて興味深く
説得力のある論文があります。

中国では周辺諸国に【王】とういう称号を一貫して与えてきているが
決して【国王】という称号は与えてきていない。
また<国王>という称号は存在しない。

倭国から日本への変更は武則天長安2年(702年)大宝2年、
武后、倭国を改め日本国となすとある。
従って<漢委奴国王>の金印は<漢の委奴国の王>と読むべきで
【国王】と読むべきでない。同じよう中国雲南省滇池出土の金印の
蛇鈕の<滇王之印>。<親魏倭王>も【国王】とは称していない。
この学説は中国の歴史と言葉の全体で総合的に論じており説得力がある。また<日本>という言葉もそれだけを抽出するのではなく、
中国語の論理構造から説明している。
2010年西安市で発見された禰軍(でいぐん)百済人の墓碑に<日本>という文言があり<<日本余噍>は<東方の残党>を指す意味でここではすなわち滅亡した百済を指すとある。
漢語として存在していた<日本>を倭国がこれを国号としたと説明している。
倭,大倭、和、大和、日本の漢字をすべてヤマトと読む。
日本国内の漢文の解釈で理解したり、韓国文献で<日本>の文言を
抽出して<日本>の国号と無媒介的に論述することは
学問的でないことが理解できた。

*************************

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - (管理人)

2023/02/07 (Tue) 11:01:14

**********************
『 続々 邪馬台国論争の新視点』
:会報「古代文化ニュース」より
**********************

■日 時 : 2 月 26 日(日) 14 時~16 時半 終了予定
■講 師 : 片岡 宏二先生(小郡市埋蔵文化財調査センター所長)
■会 場 : なし(オンラインのみ)
■参加料 : ZOOM 視聴代:1000 円
■照会先 : inagaki34214590@yahoo.ne.jp 稲垣
■講師の言葉
昨年『続・邪馬台国論争の新視点』(2019 年刊)に書いた 
邪馬台国時代の社会についてお話させていただいた。
今回は 3 部作最後の『続々―』(2021 年)で主張した
東アジア世界が当時の日本をどのように見て、
「倭」と認識したものが何であったのかをお話したい。

まず私の考古学資料、主に土器の年代観を述べる。その年代観を
もとにした邪馬台国時代(2 世紀中ごろから 3 世紀後半)の北部九州
を中心とした大陸系遺物や遺跡はどのように分布するのかを見る。
そうすると中国が「倭」を地理的にどのように認識していたのかが
わかる。こうして「倭」(倭種を除く)が北部九州を出ない範囲にある
こと、そしてその中にある邪馬台国の筑紫平野連合説を述べたい。
ついでだが、倭には狗奴国も含まれるという見解も示したい。
********************************

「韓」族の謎 石見介

2023/02/03 (Fri) 23:53:32

 「延烏郎と細烏女」の伝承を、成り行きで紹介した事から、以前からの疑問「韓族とは何者/何物なのか?」という、重大な疑問が、脳裡を占め、他の事に、手が回りません。この説話の紹介は、私の『日本神話を考える』スレッドで、取り上げたので、関連のコメントも同スレで行おうかと考えましたが、スレの主題とのずれが大きくなるように思われ、また、この談話室の米田さんのご投稿内容に関する異議?申し立ての都合もあり、此処に投稿する事にしました。
 米田さん主宰のスレは、何れも系図が主な論旨になっている為、系図関連で直接の議論を避けたい私としては、拝読していても、敷居が高く、コメントできないのが、実情ですので、ご了承お願いします。

 『三国遺事』の『延烏郎 細烏女」の伝承は、日本の鎌倉時代に相当する半島の王氏高麗時代の13世紀後半に、半島に於ける民族的統一が形成途上にあった可能性を示すようにも、思えます。
 日本列島でも、当時、北海道や南西諸島、東北北部は、日本語圏外でしたが、それは、半島でも、現在の平安南北道、咸鏡南北道が、ツングース語族の女真族の居住域であったのと同様な、経過状況でした。
 しかし、「延烏郎、細烏女」の神話は、新羅という半島国家の中心地域での、支配層と被支配層の民族的一体性に、疑問を投げかける深刻なものに思われます。

 そこで,『三国遺事』をもう少しチェックすれば、前にこのロビーで紹介した「九韓」のような、「韓」の意味が、中国文献とは異なった意味合いで使用されているらしいことや、更には、その順序に見られる「日本、中華、呉越」という「中華」(おそらく黄河流域の中原、南北朝期の北朝の領域)や「呉越」(おそらく南北朝期の長江流域の南朝の領域)よりも、「日本」を、より強く、意識している事が判ります。
 これらを、モンゴルの元王朝の属国である高麗の現状に対する反発という、一然の意図の現れと解釈する事も可能でしょうが、私には、それだけではなく、「韓」という漢字の解釈を含めて、疑問を提示している様に思えます。

 一然が引用する海東(どこを指すかもはっきりしません)の安弘なる賢者の「韓」は、その「九韓」に、中国、日本、濊貊等を含み、「東夷」と中華+αで、「韓族」を意味するものではありません。勿論、三韓を包摂する広域の概念ではあっても,三韓という地域でもありません。

 そこで、中国史書で半島の「三韓」に代表される「韓」とは、抑々、何を意味していたのか、何らかのの現地の非漢民族の言語の音写でないのならば、漢語の語義は何なのか?現地もしくは隣接民族の語彙の音写で有るならば、種族/部族/民族名なのか、それとも他の語義の語彙だったのか?

『三国遺事』では,箕氏朝鮮の王準が、「韓王」と称したとするが、それは,三韓ではなく、馬韓の王の意味だとする。中国史書も、準と「韓」という姓氏の関連は、認めています。

 ここで、ツングース語族やモンゴルにも共通する父系親族組織で、特にツングース語族で、外婚制の基本的単位となる、kala,hala,xala「ハラ」が、「韓」に音写された可能性は無いのか?というトンデモな考えが、思い浮かびます。その場合は、「馬韓」≒「馬」族、「辰韓」≒「辰」族、「弁韓」≒「卞/弁」族という事になり、箕準は「部族(種族)の王」と称した事になります。その意味の「韓」ハラ⇒ハン?を、中国側が、種族名や姓氏のように誤解した、というかなり無理な解釈ですが、しかし、『三国遺事』に引用される「九韓」の「韓」の解釈としては、それなりの論理性があると、私は、考えています。
 「漢字」は、中国で開発された文字体系ですが、東アジア世界に拡散する事に因り、中国に於ける語義、用法、字体など、変容する可能性が、存在します。
 私は、実は、商(殷)と周の交替でも、大きく変容したのではないか?と疑っています。漢字の起源地が、中原ではなく、山東のような、東夷文化圏であった可能性も、想定され得ます。

 いずれにしろ、私は、半島中南部の馬韓以外の地には、先住者として、倭人,倭種が、広汎に居住していたとは考えていますが、古アジア語族系などの、他の種族も、分布していた可能性も高い、と考えています。

 
 延烏郎、細烏女の名については、「烏」は「倭」の音通で、「延」は長大、「細」は細少を意味する対語的なものだと考えています。
 つまり、「延」「細」は、氏姓ではないという考えです。この部分が、「延烏郎」の名から、「延」氏という氏姓を想起された米田さんとは、異なります。
『三国史記』雑志巻七職菅志冒頭に、新羅の官職が記されていますが、儒理王9年(AD311年)に定めたとする官位十七等の第一伊伐サン(〈シ食〉)の別名に、伊罰干、角干など、「干」字の付く官職は、赫居世の称号が「居西干」だったりする様に、実際には、複数王制下での、「王」の称号の一つだったのではないか?と考えています。この官位十七等の十五番目に「大烏」、十六番目に「小烏」というのがありますが、これは被支配層の倭種の頭だった者に与えられた官位ではないかと考えています。尚,「大烏」「小烏」は「大烏知」「小烏知」とも言う、と分注があります。
 倭に関連した新羅の官職、官庁では、領客府や倭典があります。

 日本が、高句麗「こま」、百済「くだら」、新羅「しらぎ」と半島各国を、固有の名称で呼びますが、「韓」に宛てた訓は、まさに「から」であり、一見、「加羅」で、伽耶諸国を指すようにも思えますが、上代日本語には、「から(柄)」があり、現代日本語では、「柄が悪い」「家柄」等の言葉に、痕跡的に残っていますが、上代には、複合語「うから」「やから」「はらから(同胞、兄弟姉妹)」「ともがら」のように、複合語を形成し、「から(柄)」が、本来、父系の親族を意味する語彙で、ツングース語族やモンゴルの父系親族集団を意味する前記「ハラ」hala,kala.xalaと同源と考えられ、沖縄の親族組織「門中」が、「ハラ」とも称されてることが判明し、日本の親族組織が、北方系の父系制の流れを汲んでいる事が、認識されるのですが、どうも、平安期以降の,[氏の時代」から「家の時代」に移行した以後の親族組織の観念が強く、『魏志倭人伝』に記載されている「宗族」という父系氏族社会の古代に於ける存在を、否定する論者(米田喜彦さんの多夫多妻制もその一つ)が多く、私と話が噛み合わないので、なかなか,氏族論が合意に至らないのが、実情です。

Re正史 石見介

2023/02/02 (Thu) 01:28:03

 当世奇妙さん

 「正史」の定義について、私も,wikiを先程読み、確認しました。仰る通り、「二十四史」は、半島の『三国史記』や日本の『日本書紀』同様、「正史」として、問題はないと思われますが、wikiにも記されているように、司馬遷『史記』、班固『漢書』、陳寿『三国志』、范曄『後漢書』、沈約『宋書』など、私撰で、個人もしくは親子等近親者(門下生も協力?)の手(*)になるものが、『南斉書』まで、行われていました。しかし、私撰の時代にも、「四史」と言われた『史記』『漢書』『(東観)漢記』『三国志』や、それに『宋書』等は、正史的な位置付けに在ったと思われます。

 その状況が変わったのは、唐代で、律令制とともに、学者を動員しての、官撰の史書が、『北史』『南史』『梁書』『陳書(*)』『北斉書』『隋書』など、一気に撰述され、この時に、『史記』なども、併せて、「正史」とする観念が、成立~確立(*)したと思われます。
 やや遅れて(*)、唐の章懐太子李賢が注釈した范曄『後漢書』が、それまでの正史的立場にあった『漢記』(東観漢記)と入れ替わって、正史になったと考えられます。
 勿論、史官やそれに相当する官人は、春秋時代以来、各国に置かれるのが常態(*)であり、司馬遷やその父もその役目にありました。
 律令国家唐の成立後は、正史は、官撰で、王朝が交替すると、前王朝の断代史を出すことが定着します。

 しかし、菅撰の「史書」が、『東観漢記』以外なかった時代は、私撰の史書が、特に「野史」と意識される事もなく、併存していました。唯一の菅撰の史書のある後漢時代を対象とする(*)史書の乱立は、その典型で、正史が確定した?唐代以降、正史認定されなかった私撰の史書は、「野史」とされ、特に、刊本の時代以降、急速に失われます。沈約『宋書』に対する裴子野『宋略』、陳寿『三国志』に対する王沈『魏書』、魚拳『魏略』、范曄『後漢書』に対する多くの後漢代を扱った史書群。

 陳寿の『三国志』は、西晋の前代の三国の史書として、王沈『魏書』、魚拳『魏略』が、世評に耐えら(*)れなかったり、制約の為、基本的な王朝公認の史書、後の正史的なものとなるような史書を求めた、西晋の張華や杜預の支援下に、司馬氏の不利益にならぬよう、制約された形で、編纂されました。
 范曄の『後漢書』編纂には、そのような制約は、ありません。資料蒐集も、「現存」以外の(*)、多くの失われた先行史書や資料群を、「多くの学徒を集め」得た范曄が、それら資料を「窮覧した」と、唐代の史論、史評家劉知幾が評価しています。 それを、現存の史書の内容のみから、范曄の蒐集し得た資料群を評価するのは、現在出土している遺物遺跡だけしかないという前提で、その時代を語るような危険性があると、私は考えています。

 中国の「正史」と言う概念は、基本的に、唐代以降に、確立した概念であり、その観念自体は、前漢代の儒教の国教化を経て、後漢代にはほぼ出現し(*)ていたと、私は考えています。

編集:2月3日未明
 誤変換、脱字等多く、文意の判りにくい所もあり、訂正しました〈 (*)で示した箇所 〉。

正史 当世奇妙

2023/01/31 (Tue) 20:38:00

石見介さん
あまり深く考えたものではなく、WIKIの正史解説
「東アジア諸国において、主に国家によって公式に編纂された王朝の歴史書のことである。中国の二十四史が代表的なものとしてあげられる」
を見て記したものです。
これは間違った解説ですか?
教えて頂ければ幸いです。

後漢書の拘奴国 - 白石南花

2023/01/31 (Tue) 17:09:13

後漢書拘奴国については以前も書きましたが、ここのところ後漢書東夷列伝烏桓鮮卑列伝を、逐語レベルで裴松之註三国志の、本文および引用文と比較する試みを行っていて、いろいろと示唆に富む結果を得られましたので、それに絡んで私見を述べます。

重要な結論を言うと、後漢書東夷伝の後漢代の桓帝までの記述は、東観漢記によったものであるということです。
まあ予想どおりですが、東夷伝と呼んでいたかどうかはともかく、東観漢記には東夷諸族と後漢王朝の、朝貢や争いを通した交渉の記録をまとめたものがあった可能性が高そうです。

一方で地理・言語・生業・政治・社会・風習等をまとめた、民族的記述に関しては、三国志を原史料とする部分が大半であることも分かりました。
東観漢記に東夷伝的なものがあったとしても、民族的記述を欠いた、宋書蛮夷伝のようなものだったかもしれません。

両者の民族的記述は、一見違った文章に見えるほど、言葉の順が異なっていますが、逐語レベルでみると、同一の原史料を用いたことが明らかで、とくに夫餘伝から濊伝までは、一部漢書地理志によった部分と、夫餘の始祖伝説に関する部分を除くと、ほぼ完全に三国志に包摂されます。
韓伝と倭伝には、後漢書独自の情報がありますが、項目的には三国志と同じで、下敷きになっているのは濊伝までと同じ史料でしょう。

たしかに韓伝と倭伝には独自情報が現れているのかですが、韓伝で七十八国の内伯濟だけが取り上げられていること、辰王が三韓の王とされていて、馬韓が持ち上げられていること、地理的記述が五世紀の情勢に有っていることから、百済や倭の南朝朝貢使いによる情報を用いているのでしょう。
そう考えるとなぜ韓伝と倭伝だけに、後漢書独自情報が現れているのか理解できます。

そして後漢書東夷伝には、三国志東夷伝に引かれている、魏略逸文と対応するものが、わずかに夫餘の始祖伝説に関する部分だけで、しかもこの部分に用いられた用語や言い回しに違いがあることから、後漢書東夷伝と魏略には接点がないことが分かります。
同一の原史料から後漢書と三国志と魏略が撰述されたとすると、三者相互に重なる部分があるはずですが、三国志と後漢書、三国志と魏略にはあるのに、後漢書と魏略にはないという事情は、後漢書の原史料は三国志そのものであったことを物語ります。

そこで後漢書の拘奴国ですが、三国志の文面と比較できる文面で、その位置だけが南から東に変わっています。
これはおそらく朝貢使によってもたらされた、五世紀の倭国情報であるに違いありません。
私はこの情報には秦氏(というよりものちに秦氏となる渡来人集団)のもたらしたものだろうと思います。
この時代の倭国の文書外交は、稲荷山鉄剣の銘文の文字使いからすると、百済系の漢人が行っていたものと思います。
秦氏については後世史料によると、弓月の君に従ってきた人々であるとされます。
弓月の君は応神紀に見え、五世紀前半に後に秦氏に合流する渡来人が、やってきたのでしょう。
雄略の時代まで下ると、秦氏がすでに日本列島に広く、展開していたように見える記事があります。

静岡県静岡市には久能山という地名がありますが、これは秦氏の久能忠仁が開いたことが由来となっています。
しかし後の苗字のように、地名を人名に冠することはよくあるので、もともと「クノ」という地名があったのでしょう。
そしてこの地の近くには草薙神社や、やや西には焼津があります。
焼津はヤマトタケルの東征伝承で、唯一戦いの場面のあらわれるところです。
この伝説はおそらく本来、熱田神宮と結びついており、愛知の豪族がこの地の豪族と戦った話が、もとであろうと思われます。
現在の知見では、愛知の首長は纏向の初期大和政権の支持者であったようです。
そして天竜川以東には愛知県方面とは異なる土器様相があり、それは相模川の西まで広がっているようです。
ところが相模川の東には、愛知県方面の土器が展開しており、人によっては両者がせめぎ合っていたという人もいます。

百済系渡来人が久能山のあたりにやってきて、そこに伝わる大和政権を支える豪族がやってきて戦ったという伝承を、地名の「クノ」が五世紀ごろの狗奴の読みに当たることもあって、三国志の狗奴国であると判断したのではないかと思います。
そしてそれが渡来人の間を伝わり、朝貢使がそれを南朝に伝えたのではないでしょうか。
もちろんそれが三世紀の狗奴国であるという保証はありませんが、八世紀の日本文献だけから考えるよりは、幾分かましかもしれません。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/01/31 (Tue) 11:34:56

<「延烏郎」について、再考しました。>

「延烏郎」を「延氏」と考えました。
「三国史記」に登場する「延氏」を集めてみました。

(その1)
「卒本扶餘の王(延陁勃)」(BC59年、五竜車に乗り、云々。)
「召西奴(扶余王の次女)(BC66年生・BC6年薨去)」の父親。

(その2)
「延丕:AD12年被殺」=「高句麗候:騶(すう)」。この人物は、
AD18年に亡くなったことになっている、「瑠璃明王」だろう。
(王子がAD18年に亡くなっているため、父子で一人分に纏められた。)

つまり、朱蒙(東明聖王)の男系の「氏」は、「延氏」だろうです。

(その3)
「延優(骨正・安寧天皇)」。この人物は、
手研耳命(伐休王)の子であり、卑弥呼の同母弟でもあります。

*****
丁酉(157年)に、東海のほとりで、夫婦が住んでいた。とありますが、
AD157年には、ニギハヤヒ(婆娑王)による「天の岩船」があります。
ですので、「于氏」で、「天の岩船」に乗っていた人物を探せば良い
ことになります。
(調べましたが、不調でした。)
*****
「延氏」を見て来ましたが、そもそもAD157年に、「天の岩船」という
大移動が起きたのか、よく分かっていません。

この船に乗っていたと思われるのは、宇佐津臣命(逸聖王・135年生)と
(延氏)手研耳命(130年頃生:延優の父)になります。
(さらに、もう一人、手研耳命の弟「岐須美美命」もおります。)
綏靖天皇紀には、「手研耳命が久しく政にあずかってきた。」と
ありますから、「手研耳命」=「延烏郎」の可能性が高いと思われます。

:158年、倭人が来り訪れた。

そうすると、158年に新羅にやってきた倭人は、
「逸聖王」と「阿達羅王」の父子の可能性が高いです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/01/30 (Mon) 17:28:22


│「延烏郎と細烏女」(貴妃庫)ー『三国遺事』より -
│ 石見介  2023/01/30 (Mon) 00:24:42

│ 今回は、討論室のロビーで触れた隣国の神話
│「延烏郎と細烏女」(貴妃庫)の神話を、紹介します。

*****
 「延烏郎 細烏女」(韓国朝鮮人)

(新羅)第8代阿達蘿王の即位四年丁酉(157年)に、東海のほとりで、
延烏郎と細烏女という二人に夫婦が住んでいた。
延烏郎が海に行って藻を採っていると、急に一つの岩が(彼をのせて)
日本へ運んでいってしまった。そこの国の人びとが見て、
これはただならぬ人物だとして、王にたてまつった。
細烏女は、夫が帰ってこないのを変に思い、(云々)。
そこの国の人たちが彼女を見て驚き、王に申しあげたので、
(ようやく)夫婦が再会し、(彼女は)貴妃に定められた。(云々。)
延烏が、「私がこの国にきたのは、天がそうさせたからである。云々。」

*****
「延烏郎」「細烏女」の二人を、自作の系図の中に取り込んでみました。

新羅本記を見ると、阿達羅王の在位は、(在位:154~184)です。
けれども、母親の生年が、141年ですから、どうみても、
阿達羅王の生年は、せいぜい157年(±3年)です。

新羅本記では、154年に、王は継元に軍事や国政を委任しています。
168年に、継元が死去して、興宣を伊飡にしています。

そうすると、173年来訪(倭国)のあと、時期不明ですが、
新羅に戻って、阿達羅王は、王(阿湌/伊飡)になったと思います。

私は、「南堂朴昌和と彼の遺稿」の史料(婆娑尼師今記)を
利用しています。
「三国史記」や魏書・後漢書などと組み合わせると、
系図を作っていて、系図線が、しっくりと繋(つな)がります。

「正史」とは何か? 石見介

2023/01/29 (Sun) 02:06:59

 当世奇妙さん

 〈『後漢書』は正史です。〉
 と書かれていますが、この場合の「正史」とは、一体。どういう意味でしょうか?

 中国で伝統的に、「正史」とされた、という意味でしょうか?所謂「二十四史」の一つが、范曄の手になる本紀と列伝、司馬彪の手になる志からなる現行『後漢書』ですが、官撰ではありません。
 官撰の後漢時代史書としては、消滅した『(東観)漢記』が、それにあたります。
 米田喜彦さんがスレで、「正史」とされた『日本書紀』と『三国史記』は、ともに、官撰で、撰述された時点で、「正史」と位置付けられ、その後も、その地位を保っていましたが、范曄『後漢書』は、私撰の史書で、先行する『東観漢記』や私撰の七家後漢書群との、いわば,市場競争を経て、勝ち残って、唐代に李賢注が付され、押しも押されもせぬ「正史」的立場を、獲得した経緯があります。

 「正史」という言葉からは、日本の『日本書記』以下の官撰的色彩の濃い「六国史」的な側面を、つい思い浮かべますが、中国の史書は、「二十四史」それぞれ、個々に来歴をチェックしないと、誤解してしまいます。
 范曄の『後漢書』は、時代の要請に応えた側面はありますが、私撰で、自由人范曄の考えが、反映されています。むしろ、陳寿の『三国志』の方が、三国時代の正史たるべき期待の元、西晋支配層の意思を反映した側面が大きく、半官撰と言い得るかもしれません。

 我々、日本人は、つい日本に関する情報の量や質で、中国の史書の評価を決めてしまいがちですが、そのようなバイアスは、避けるべきだと、私は、感じています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/01/28 (Sat) 13:22:39


│狗奴国はどこか? - 当世奇妙
│2023/01/23 (Mon) 06:54:34

│愛知県の専門家が東海は狗奴国ではない(考古では)と話された。
│では邪馬台国=畿内説では狗奴国はどこになるのだろうか?


早野先生のお話で、気になったのは、
「後漢書・拘奴国」と「魏書・狗奴国」を区別していただろうか、です。

手研耳命(=綏靖天皇=伐休王:196年没)の支配を考えると、
畿内・東海地方は、(後漢の時代)拘奴国だったと考えられます。 


│大野克浩(FB版_新談話室、1月27日投稿)

│卑弥呼墓最有力の箸墓古墳がある纏向古墳群は
│奈良盆地の低い位置ですね。
│各地域には始祖王らしき人物の墓が高地にある場合がほとんどなので、
│本当に纏向古墳群に卑弥呼やその王族の墓があるのかという疑問が
│昔からありました。

│この全国鴨神社の総本社・高鴨神社のご神体も小山なのです。
│径は50mほどでしょうか。

│●高鴨神社「祭神」
│阿遅志貴高日子根(アジスキタカヒコネ)命(=迦毛之大御神)を
│主祭神とし、下照比売命・天稚彦命、事代主命、阿治須岐速雄命(
│主祭神の御子)を配祀する。

│高鴨神社ご神体の小山が墓なら、祭神である阿遅志貴高日子根
│(アジスキタカヒコネ)命=迦毛之大御神の墓ではないでしょうか。


大神神社の主祭神は、大物主大神です。
高鴨神社の主祭神は、味鉏高彦根命です。
実は、両者とも、事代主命のことで、同一人物を祭神にしています。
(これが、私の結論です。)

つまり、何をしているかというと、手研耳命と女王卑弥呼の間で、
196年頃(または、179~196頃)に、争いがあったというか、

高句麗本記によると、神武天皇(新大王)と「媛蹈鞴五十鈴媛命」は、
同母姉弟のため、その子どもである「手研耳命(新羅伐休王)」は、
「不肖の子」として国王になれなかった。
そのため、妹である「女王卑弥呼」と(倭国にいる)自分の妻子を
殺そうとしています。

:「梁書倭伝」には、〔後〕漢の霊帝の光和年中(178~183)に、
:倭国に戦乱が起こり、互いに戦って何年かが過ぎた。
:そこで卑弥呼という一人の女子を、皆で王に擁立した。

これがその「倭国大乱」のひとつだろうと思います。

『後漢書』 当世奇妙

2023/01/27 (Fri) 09:20:41

石見介さん
レスありがとうございます。
体調・視力大変なのに投稿ありがとうございます。

『後漢書』は正史です。倭国・倭人に関しても
他の文献にはない貴重な記載があります。
尊重すべき歴史書だと思います。
多くの方も『後漢書』を重要視していると思います。

しかしどのような資料も批判的に検証しながら
見ることも必要ですね。著者(群)の思想、視点、
環境、時代差、他文献の影響など多くあります。

古田さんのように『倭人伝』を100%信ずるのも一つの方法で、新しい発見をする手法かもしれませんが、多様な見方をすることも必要ではと思います。

狗奴国と拘奴国 石見介

2023/01/27 (Fri) 01:29:43

 当世奇妙さん

 以前、范曄『後漢書』トピでも、書いていますが、私は、kuna/Kumaという地名(*)が、列島内に複数存在した、という考えです。
 「狗奴」国を、倭地の地名「くぬ/くな」の音写と考えるか、「くむ/くま」の音写と考えるか、ですが、上代日本語の段階で、「カムヌナカワミミ」という大王に擬せられるような人名が、「神沼河耳」のようにも、借訓の万葉仮名で、表記されるような、言語学な状況(*)があります。。
 古代日本語の経時的変化なのか、それとも方言差なのか、或いは,n/mの中間的な音価だったのか、原因は、明確ではありませんが。

 邪馬台国九州説の方は、おそらく、狗奴国は、肥後あたりとする論者が多いと思われますが、このあたりの地名は、熊本、球磨川のように,[kuma」だったり、『肥人書』の「肥人」の読みも、「こまひと」だったり祖ます。[n」の音は、地名的には、余り、見られない様です。

 「くま」のような、第二子音をmで読むのであれば、「くま」地名は、各地にあります。
 出雲、紀伊の熊野が代表的ですが,久能山、久努のような、「クナ・クヌ」と読める地名もあります。
 又「出雲」の「雲」も、「八雲立つ」の歌謡から考えると、「狗奴」とのか関係(*)も、有るかもしれません。
 地名比定は、異言語の中国語で、倭語の音を、音写したものを、また、日琉語族の言語に変換して行う為、余り絞り込むのは、無意味にも思えます。
 考古学的遺物や文献などから、候補を絞るしかないと思われます。

 范曄『後漢書』の評価に就いては、私は、日本の研究者は、邪馬台国問題の基本文献である『魏志倭人伝』を、いわば、聖典化した為に、范曄『後漢書』の評価が、下げられ過ぎた(*)、と感じています。 何度も言うように、陳寿と范曄の、編纂環境の相違は、極めて大きく、陳寿の編纂環境は、ヒト・モノ・カネと言う必要資源に欠け、且つ、政治的制約も、大きなものでした。
 范曄の場合は、政治的制約も殆どなく、多くの学徒を集め、諸書を窮覧し、と後世の史論で評されるように、ヒト・モノ・カネに不自由せず、十分に、資料も集められた、という評価が、下されています。
 しかし、不幸なことに、范曄が参考にした謝儼らの手になるその本来の「十志」が失われた(*)為、范曄の情報源が、現代では、確認できないことで、『魏志倭人伝』の「パクリ」だと評価される状況に、陥っています。
 范曄『後漢書』の本来の「地理志」でも残っていればと思うと、残念です。

 編集、増補:1月27日午後10時。

 誤記誤変換の見落としを訂正し、その部分に、(*)を付しました。申し訳ありません。お詫びします。

 范曄の集めた謝儼以下の「多くの学徒」が、范曄『後漢書』の編纂に、如何なる役割を果たしたのかは、明確ではありませんが、本紀と列伝は、范曄の手になった事、范曄が『漢書』の「志」については高く評価し、自身の『後漢書』にも、十志を悉く備える意思があった事は、明確です。おそらく、志にも手を入れる予定だったと思われますが、刑死した為、それは果たさず、連座を怖れた謝儼の手によって、廃棄されます。范曄が獄中から一族のものに宛てた書簡の内容からは、志については、これで良しとする旨の記述があり、おそらく、多くの学徒の協力により、志は完成し、范曄が本紀、列伝を書く際の参考にされた事も判明しています。
 范曄は、『漢書』自体は、それほど評価していなかったように、吉川忠夫氏は、記されています。しかし、十志には高評価を与え、自身の『後漢書』にも、悉く備える方針でした。范曄自身の先人の資料の扱いについては、華嶠の先行書の列伝の一部などが、ほぼそのまま、彼の『後漢書』に採用されるなど、良いと思った部分などは、改変するような小細工は、していません。李賢注で、それは判明しています。
 従って、范曄の記載が、先行史書(『魏志倭人伝』含む)と異なっている場合、何らかの根拠があった可能性は、大きいと判断すべきである、というのが、私の判断です。石原道博氏のように、[巧妙を極めた改変」と見做すのは、大きな誤謬だと考えます。
 勿論、范曄の根拠が、新しい時代の情報を、古い時代のものと誤解したりした可能性は、当然、考えるべきです。しかし、先験的に、『魏志倭人伝』が絶対的に正しいという、決め付けは、止めるべきでしょう・

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 当世奇妙

2023/01/26 (Thu) 09:59:29

『後漢書』
「女王国から東へ海を渡ること千余里で拘奴国に至る」の「拘奴国」が存在したとすれば米田さんの説もあり得ますね。『後漢書』を大事にする石見介さんはどうお考えかな?

濊倭同系説 石見介

2023/01/23 (Mon) 23:20:49

 滑安房守さん

 弥生時代中期以降から、律令制定期までの、日本の古代に於ける半島と列島の、言語分布、特に、日琉語族、中国史書で言う、倭人,倭種の分布について、私と滑安房守さんの認識が、ほぼ一致しているようで、心強く感じました。
 相違点としては、縄文人の言語と、日琉語族の諸言語との関連について、私は、現在の日本語や琉球語の基層言語にはなったが、基本的に、渡来系弥生人の言語が、日琉語族の言語であり、弥生時代に、縄文人の言語(単数ではなく、複数の語族レヴェルでの相違のある言語が、併存していたと仮定)と、置換したと考えています。
 それに対し、滑安房守さんは、縄文人の一部が、半島に進出し、弥生時代開始期に、列島に帰還した可能性がある事から、縄文語(の一部?)が、日琉語族の形成に、深く関与した可能性を、想定しておられるように、思われる事です。
 日琉語族の「起源論」ではなく、「形成論」を重視されたお考えのようにも、思われます。

 私は.所謂「高句麗語」と称される、『三国史記』その他の地名より再構された、一群の語彙群が、実は高句麗語ではなく、日琉語族の残存語彙だと考えており、近年の欧米の言語学者も、これを、日琉語族に属する一言語と見做し,「Peninsular Japonic」(半島日琉語?半島倭語?)とするなど、おおむね、半島北部にまで、日琉語族の言語の分布域が、拡がっている事が、コンセンサスとなっているように思える事もあり、やはり、縄文語は、基層言語であり、半島のみならず、大陸部の満州や或いは、渤海・黄海沿岸部にも、日琉語族の存在を仮定する言語学者の説などもあり、置換説を採りたいと思います。

 以前、滑安房守さんに御紹介頂いた、伊藤英人氏の「濊倭同系説」の論文を読み、伊藤氏が、日琉語族の言語だとする「濊語」の分布を、半島の全域から満州(唐代資料中に日本語系の地名があるが、場所は特定できない)にまで想定し、「濊倭共通祖語」の再構も試行されており、且つ、半島の日琉語族の言語は、倭の五王時代など、濊語であると想定している事をしりました。
 正直な所、再構された「濊倭祖語形」は、どうも、閉音節語で、濊語形に近く、現存する日本語、琉球諸語が、文献的には、著明な開音節語(例外的に語末子音単独で発音され、認識される「ん」nは、漢訳仏典を読誦する過程で、獲得されたとされる)なので、濊語の音写に使用された漢字が、閉音節でも、元の濊語が閉音節ではなく、開音節語であった可能性が高いのではないか?という疑問が、有ります。
 比較言語学の本で、同一言語でも、経時的変化で開音節と閉音節は、容易に移行し得る、とは承知していますが、早田輝洋氏によれば、現在は閉音節の蒙古語や満州語でも、蒙古文語や満州文語は、開音節で、語末子音の弱化⇒消失の過程を経て、閉音節化したとされています。早田氏によれば、現代の北京語も、かなり開音節的だとの事です。「北京」は、ローマ字表記のビンインでは、確か「Beijin」で、日本語同様、語末子音[n」がありますが、複子音や語中の単独発音される子音はありません。
 トランスユーラシア(大)語族は、開音節的な言語であった可能性が高いのかも?と私は、考えています。

 もう一つ、伊藤氏の論考で、半島の日琉語族話者が、皆、濊語系だという仮定にも、違和感があります。韓族分布域の北方の濊族と、南方の半島南岸域の倭種の言語の類似性を考えるのか、海を挟んだ上代日本語九州方言などとの連続性を、重視するかの問題です。
 私は、濊族が日琉語族に属していた可能性を認めますが。韓族分布域の北側が、濊族の居住域で、韓族分布域の南側は、倭人の分布域の可能性が高い、と考えています。
 もっとも、宮本一夫氏のように、韓族も本来、日琉語族で、後に、朝鮮語族(扶余族?)の南下により、朝鮮語族化した、という考えが正しければ、韓族の言語置換が生じた時期によっては、伊藤氏の想定が正しい事にもなります。
 いずれにしろ、現在の言語学者は、朝鮮語の基層に日琉語族の言語が存在した可能性を、認める方向にあり、その時期が、意外に遅い可能性も否定できず、悩ましい限りです。
 現時点では、私は、統一新羅の時代、8世紀半ばの景徳王の漢風地名への改定時期前後、11世紀の『三国史記』成立前後、3~5世紀頃、の3案の間で、迷っています。

 伊藤氏は、濊族が、中国史書によれば、最も早期に「漢化」した種族であり、また、扶余や高句麗に服属した事から、当然、その言語も習得し(扶余語が日琉語族の言語ではないと仮定する必要がある)、これに馬韓語なども含め、trilongualどころか、四言語、五言語併用し得た交易の民だとされています。
 私は、方言差しかない同族言語であればともかく、明確な異言語、漢蔵語族の漢語(中国語)、おそらくツングース語族の扶余語~貊語、朝鮮語族の馬韓語?、それに日琉儀軸の言語、古アジア語族系の言語などを、一個人が使用するのは普遍的ではないが、styy団というか、チームとして、交易、朝貢等に派遣された人々が、4言語、5言語を理解することは,可能だと考えています。
 いわば、現在の総合商社的機能を、濊族が、担っていたのでしょう。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/01/23 (Mon) 17:28:20


│狗奴国はどこか? - 当世奇妙
│2023/01/23 (Mon) 06:54:34

│愛知県の専門家が東海は狗奴国ではない(考古では)と話された。
│では邪馬台国=畿内説では狗奴国はどこになるのだろうか?


早野先生のお話で、気になったのは、
「後漢書・拘奴国」と「魏書・狗奴国」を区別していただろうか、です。

手研耳命(=綏靖天皇=伐休王:196年没)の支配を考えると、
畿内・東海地方は、(後漢の時代)拘奴国だったと考えられます。

*****
(後漢:AD25~220年)後漢書
:女王国から東へ海を渡ること千余里で拘奴国に至る。
(曹魏:220~265年)魏書
:帯方郡より狗邪韓国に到着する。七千里である。
:(女王の支配している国の)その南に狗奴国がある。
(西晋:265~316年)晋書
:〔後〕漢の末期に倭人は〔の国〕は乱れ、攻伐しあって云々。

(後漢書夫餘伝)
:六つの家畜の名前を官名にしており、狗加などがある。

***************************
私は、「卑弥呼」は、196年頃に、ヤマトに都した可能性があると
思っています。(卑弥呼の母親の可能性もありますが、・・・。)

また、卑弥呼は、234年に、太后の于氏として薨去しています。
ですので、魏志倭人伝に登場する「卑弥呼」は、幽霊になります。
正確に云うと、197(or196)年に、新しい男王が即位する時に、
母(義母を含む)の霊力(支配権)を男王がもらい受ける、という
儀式をしているようです。
一度授かってしまうと、母の生死に係わらず王の権威は保たれます。
男王に女王(太后)が憑依しているという感覚に近いと思います。
卑弥呼が亡くなって、「天女の姉」・「天女の妹」のどちらの女系を
女王にするかで、もめていたのかも知れません。

そうすると、当世奇妙さんの設問である、邪馬台国=畿内説は、
(そもそも邪馬台国は、卑弥呼の都なので、卑弥呼と伴に消滅します。)
(私のように、卑弥呼は死んでいる、という人間にとっては)
意味をなさないと思います。女王国=畿内説、はあるとは思いますが、
その時には、女王は、畿内と九州にそれぞれ住んでいた。
そのため、誰を「統一した女王」にするかで、争乱(大乱)が起きた。
そんな事を考えました。

*****
(高句麗本記)
:165年、王位についた。このとき王の年は77歳であった。
:165-76=89。    (←:玉櫛媛の生年)

(日本書紀:神武天皇紀)
:太歳甲寅(114年)年45歳になって、云々。
:114-44=70。    (←:下照姫命の生年)

(推測図)
──────陶津耳命─┐
───────────│─事代主命─┐(新大王・仇鄒角干)
─天鈿女命─下照姫命─┴─玉櫛媛──┴─神武天皇
(53年頃生)_(70年生)__(89年生)__(高句麗:165~179)

狗奴国はどこか? 当世奇妙

2023/01/23 (Mon) 06:54:34

愛知県の専門家が東海は狗奴国ではない(考古では)
と話された。では邪馬台国=畿内説では狗奴国はどこになるのだろうか?

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/01/22 (Sun) 17:16:29

「象鼻山古墳群」の古墳の主について、
勝手に想像してみました。

*****
『国譲り(くにゆずり)』(ウィキペディアより)
建御名方神の服従
建御雷神は建御名方神を追いかけ、
科野国の州羽の海まで追い詰めて殺そうとした。
すると、建御名方神は「恐れ入りました。どうか殺さないでください。
この土地以外のほかの場所には行きません。私の父・大国主神や、
事代主神の言葉には背きません。天津神の御子の仰せの通りに、
この葦原中国を譲ります」と言い、建御雷神に降参した。
*****

系図(『古代豪族系図集覧』の系図に、生年等を加筆しています。)

____________┌─媛蹈鞴五十鈴媛命(115年頃生)
大国主命─┬─事代主命─┴───五十鈴依媛命(138年頃生)
_____├─建沼河男命(越君祖)
_____└─建御名方命(洲羽国造祖)‥[‥ナガスネ彦]


私は、ナガスネ彦の没年を159年にしていますが、
ナガスネ彦の男系子孫は文献的には、行方不明です。

130年頃に亡くなった人物としては、(私の直感としては)
「建御名方命(洲羽国造祖)」だろう、という感じです。

あと考えられる人物は、伊勢国の風土記に出てくる「伊勢津彦」です。
この人物は、私が考える神武東征(151年頃)の時代ですから、
少し後の時代になります。(この人物は、不明です。)
≪伊勢津彦の神は、近くの信濃の国に住まわせた。≫

PS:
:地図の「伊吹山」というと、景行天皇紀に出てくる近江の
:「五十葺山〔伊吹山/胆吹山〕」の話を思い浮かべます。
なお、日本武尊の生年は、272年生を考えています。
311+(3-1)+(9-1)=321。(武内宿禰は、321年生。)
380-(52-1)=329。(仲哀天皇は、329年生です。)


│『伊富岐神社(いぶきじんじゃ)』(ウィキペディアより)

│伊富岐神社は、岐阜県不破郡垂井町にある神社である。
│式内社で、旧社格は県社。美濃国二宮とされる。

│社殿は東南東を向いており、伊吹山を背後にした形で造られている。

│祭神
│伊富岐神社の祭神ははっきりしていない。幾つかの説があるが、
│古代、この地域に勢力があった伊福氏の祖神を祭っているという。
│説としては、

│多多美彦命(夷服岳神、気吹男神、伊富岐神ともいう 伊吹山の神)
│八岐大蛇
│天火明命
│草葦不合尊  
│などがある。


空想をたくましくすると、「建御名方神」=「八岐大蛇」
ということも考えられそうである。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/01/22 (Sun) 16:53:38



│(FB新談話室)藤盛 紀明
│今日の早野先生のご講演は大変論理的で
│納得出来るものであった。
│赤塚さんが主張した狗奴国ー東海説は
│考古学的には成立しないとの講演と理解した。
│では日本古代史にあって東海地方はどのような位置づけか?
│初期ヤマト政権成立にあってはどのような役割を果たしたか?
│関東などにはどのような影響をもたらしたかをお聞きしたが、
│ヤマト政権成立後の東海の役割のお答えだった。
│早野土器編年は大変役に立つ。


今回の講演で、(私には)ひとつ発見がありました。

21日の講演の中では、(たしか)出て来ませんでしたが、土器編年に
「象鼻山古墳群」が書いてあって、__私の読解力では、
その古墳群は、130年頃に作られた、「前方後方墳」らしいです。
つまり、いわゆる「卑弥呼」の邪馬台国よりも100年くらい前に、
「前方後方墳」が造られていたそうです。
「象鼻山古墳群」の存在については、(恥ずかしながら、)
今回、初めて知りました。
これは、古墳の出現時期を、約100年、繰り上げることになります。
拘奴国・狗奴国よりも、古墳出現の方が、重大なことだと思いました。

Re: 百済とのやりとりは全く通訳不要だった - 滑安房守

2023/01/21 (Sat) 19:08:54

石見介さん

お教え、有難うございます。
気付くのが遅れ、年を越しての事となりまして、申し訳ございませんでした。

>FBに紹介されていたヤポネシア・ゲノムの、風間伸次郎氏のエッセイ?、興味深く拝読しました。貴重な情報、有難うございました。

 いいえ、どういたしまして、読んでみて、ビックリしましたので、他の方はどう見るかを知りたかったのです。


>通訳の有無のみで、江上波夫氏の騎馬民族説に全面的に依拠したような、半島南部を、大和朝廷にとって、「取り返すべき(この部分までは、私にも異論はありません)⦅本拠地⦆」というのは、正直、風間氏の言い過ぎだと、感じました。

 仰るとおりで、同感です。


>東国(東北地方を含まない、上代日本語東国方言の分布域)と、東北地方≒蝦夷の領域という「異種族居住域」とは、当時、境界は曖昧でも、区別されていたと思います。
>半島南部、特に、所謂、任那、加羅地域は、大和政権の「みやけ」(屯倉)として、いわば、直轄領で、江戸時代の天領同様、政治的、経済的に、重要な意味があり、大王家にとっては、東国よりも、重要だったかもしれませんが、それは、必ずしも、風間氏の予想するような、民族的な同種性が、東国よりも、強かったことまでは、意味しない、と私は、考えています。

 安房守も、民族的(言語的)同種性によるものと言えるのかなと、疑問に感じました。


>勿論、渡来系弥生人=倭人=日琉語族だと、私は、考えますので、未だ、弥生化が進展しない、在来縄文系人の世界は、言語が異なり、当然、訳語=通訳は必要であり、半島南部に残存し、未だ、日琉語族系の言語を使用している、或いは、理解する集団とは、通訳は、不要で有るのは、当然でしょう。

 在来縄文系人と日琉語族の間の、言語学的な違いについては、安房守は判りませんが、仰るとおりと考えます。


>7世紀頃の、倭人/倭種世界の実態を、どう考えるかが、問題であり、短兵急に、騎馬民族征服王朝説と、結び付けて、考えるべきではないと思います。

 朝鮮半島にも日琉語族と似通った言語はあったであろうと、安房守は見ています。
 高句麗語、日本語とは、祖語が同じであった可能性について語られていますが、それと、これは、別と見ています。


>さて、大和朝廷と百済の場合は、どうであったのか?
>政治的に優位であったのは、大和側です。百済は、倭国の援助で、唐や、新羅に対抗しました。
>言語学的には、どうだったのか?
>日本列島の、東北や南島方面を除いた大和政権統治下では、上代日本語には、著明な方言差は認められるが、一部の渡来人など以外、異言語が優越したという地域の存在は、認められません。大和朝廷の言語、上代日本語畿内方言を代表とする日琉語族の言語が、列島内の蝦夷地域などへ、浸透しつつある状況を、示しています。

>一方、半島の状況は、どうか?
>高句麗、百済、新羅、伽耶諸国などの角逐が続き、言語的状況は、明確化できないが、百済については、支配者の言語と、被支配層の言語が、異なっているという、記録には、事欠きません。
>百済の支配層は、自分たちの本来の言語と、被支配層の言語の、2言語を、併用する、将にバイリンガルの状況にあったと考えられ、逆に、被支配層の人々は、その言語(馬韓語?)の他に、百済支配層語の理解や使用が、要求される状況でした。それに加え、被支配層の言語が、同一言語群のみだという保証もありませんでした。百済が併合した「任那4県」の言語、或いは栄山江流域などは、倭種、日琉語族の言語世界であったかもしれません。

 安房守もその可能性が高いと考えています。
 可能性が高いことと、全く通訳が不要だったと言い切る事には大きな違いがあります。


>日本側と、百済側の交渉で、「通訳不要」というのは、庶民同士の会話の記録ではなく、おそらく、公的な、官吏、支配層間の交流だと考えられます。

 安房守も同じ様に考えるのですが、風間伸次郎氏(言語学者 専門はアルタイ諸言語研究)が、「百済とのやりとりは全く通訳不要だった。」と仰る根拠が、なんであるか全く不明なのです。


>風間伸次郎氏の説くように、日本と百済(或いは、伽耶や新羅とも?)の上層部の交流に、通訳が不要だったとすれば、風間氏の暗黙の言いたい事と思われる、大和側の支配者の、「バイリンガル」による、通訳不要ではなく、百済側支配層が、「バイリンガル」で、日本側の言語を、理解した、という可能性の方が、高いというのが、私の推測です。

 安房守も、そう考えるしかないと思っています。


>では、仮に、百済支配層が、日本語を理解したとして、それは、百済支配層語が、日琉語族の言語だったからなのか、それとも、百済民衆語(被支配層語、馬韓語?)が、日琉語族の言語に属していたからなのか?
>どちらも可能性があり、現時点では、私には、判断できません。

 それが、ごく、普通の見方だと思います。


>百済支配層は、扶余系とされるが、これが、或いは、中国史書で、扶余系とされながら、河野六郎、伊藤英人氏らが説くような、「濊倭同系説」で、日琉語族の話者の可能性が指摘される「濊」族であり、民衆語は、韓国朝鮮語、朝鮮語族に属していたのか?

>それとも、百済支配層語は、ツングース語族の扶余系であり、民衆語の、馬韓語などの韓族の言語が、まだ、朝鮮語族の言語に置換していない、日琉語族の言語だったのか?

 仰るとおりで、判断できる材料が、殆どない状態であると、安房守も見ております。


>未確認ですが、考古学者の九州大学教授宮本一夫氏は、韓族の言語は、本来、日琉語族に属し、後に扶余、高句麗他の朝鮮語族の言語によって、置換された、という説だと、wikiにありました。
>私は、扶余族は、基本的にツングース語族と考えるので、韓族の言語を、朝鮮語族化したとすれば、別な過程が、必要だと思いますが、扶余の言語を、朝鮮語族だとするのは、安本美典氏も採っていました。

 そうでしたか。
 安房守は、この辺りは良く判りません。
 単純に、鬼界カルデラの噴火により、縄文人が朝鮮半島を北上し、渤海、山東半島辺りに広がり、その後の戦乱、他民族からの圧迫で、列島に戻らざるを得なかったと見ています。
 山東半島の現代人で「陳」姓の一部では、日本人のDNAと同じ型が見られると、どこかで読んだ記憶があります。
 朝鮮半島を含めて、古代人のDNAの解析が進むことを期待しています。


>これらの問題の解決を、困難にしているのは、所謂、アルタイ語族、現在の、トランスユーラシア語族に属すると目される、五つの語族~語派、チュルク、モンゴル、ツングース、朝鮮、日琉諸語族(語派)の、古い時代の文献の残存状況にも、影響されています。
>白村江敗戦の時期に近い文献資料は、チュルク語族の東突厥のオルホン碑文などと、日琉語族の、記紀萬葉の上代日本語資料しかほとんどない、と言う状況で、7~8世紀頃の物で、他の3語族(語派)のまとまった言語資料は、それよりも、4~500年程は下がり、朝鮮語族の基本的資料が、日本の室町時代に相当するハングル制定時の「中期朝鮮語」の時代にまで、下がることです。これは、ツングース語族の金の女真文字や、チンギズ汗時代のパスパ文字によるモンゴル文語の記録よりも遅い。

 こういった事実を無視しての論議が出ることが不思議な気がします。
 風間伸次郎氏(言語学者 専門はアルタイ諸言語研究)は、当然、ご存知の事と思うのです・・・・・


>韓流ドラマに騙されて、錯覚してはいけません。
>朝鮮語と済州語の諸方言から、内的再構によって、古い、祖語形を再構する試みも、見えていません。
>「韓族の言語」が、どのようなものだったのか、日本語以上の謎なのです。

 承知しているつもりですので、ご安心願います。
 安房守だけが、疑問と見た訳ではないことを知り、安心出来ました。
 お教え、有難うございました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/01/20 (Fri) 17:25:10


│北條 芳隆
│【纒向学の最前線の全文公開】
│本日、奈良県桜井市の纒向学研究センターから、
│土器編年の表は、
│表題のとおり全文が電子情報として公開されました。

「纒向学研究紀要」の紹介、ありがとうございます。
ダウンロードしている最中に、(たまたま)目に留まりました。

土器編年というものがよく分かっていないのですが、
(以下の区別は)私なりの感覚です。


│「Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」という変化は、同じ部族の中での世代交代による
│マイナーチェンジだろう。

│「○○式」が別の「○○式」に変わる時には、新しい住民(部族)の
│移動・移住・定住による生活環境の変化を伴うものだろう。


私は、東国への阿波忌部の移動(移住)は、150年頃を考えています。
年表の中では、「廻間」に当たるのではないか、そんな事をみています。

*****
『天富命(あめのとみのみこと)』(ウィキペディアより)

天富命は、日本神話に登場する神または人物。神武東征において
橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。

概要
神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部・
紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を
作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・
麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。

そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、
阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。
続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、
麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国と言われ、穀の木の
生育したところをは結城郡と言われ、阿波忌部が住んだところは
安房郡と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てた。
現在の安房神社でありその神戸に斎部氏が在る。また、手置帆負命の
孫は矛竿を造り、その末裔は今別れて讃岐の国に在り讃岐忌部氏と
して年毎に調庸の他に八百竿を奉るのは、その事のしるしである。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2023/01/19 (Thu) 15:13:27

「1月講演会」の紹介

『 検証 狗奴国東海説 』
⇒オンライン(ZOOM)ライブ配信のみ
■日 時 : 1 月 21 日(土) 14 時~16 時半 終了予定
■講 師 : 早野 浩二先生(愛知県埋蔵文化財センター)
■会 場 : なし(オンラインのみ)
■参加料 : ZOOM 視聴代:1000 円
■照会先 : 080-4097-1757 inagaki34214590@yahoo.ne.jp 稲垣
■講師の言葉
赤塚次郎氏による「狗奴国東海説」が提起されて 30 年が経過しました。主に考古学の手法から、邪馬台国に対抗したとされる狗奴国の所在地を
濃尾平野周辺に比定する赤塚説はすでに定着した感すらあるようです
(西本昌弘 2022「邪馬台国」『論点・日本史学』ミネルヴァ書房など)。 
一方、この 30 年の間、発掘調査や研究の進展による新たな知見、
視角の増加には目を見張るものがあります。
東海地方を含めた考古学の研究環境や社会状況も大きく変化しました。
今回この機会に、邪馬台国の問題とも深く関係する「狗奴国東海説」の
内実、定着するまでの過程を点検し、現在の考古学の資料に即した場合、
赤塚説はどのように評価できるのか、赤塚説が提起された
背景とは何であったかを皆さんと考えてみたいと思います。
そこには邪馬台国や狗奴国の所在地問題にとどまらない、
考古学の本質的、今日的な問題も見えてくるように思います。
******
講演会の資料が届きました。

私は、(後漢書における)拘奴国は、ヤマト説です。
ヤマタノオロチは、邪馬台(ヤマタ)国の大蛇(オロチ)だろう。
(国は、拡大縮小したり、移動しますから、どうなるか分かりません。)
(魏志倭人伝での拘奴国は、九州の熊本地方と思っています。)

(独自解読の)系図からみて、「拘・狗」は、「阿波忌部氏」を
表しているとみています。
(後漢書の)拘奴国には、東海がどこまで含まれるかが、
私にとっては、関心があります。

三韓と三国、九韓(『三国遺事』より) 石見介

2023/01/17 (Tue) 23:08:20

 白石南花さんの立てられた新スレ「秦韓は東韓か」の中で、「辰韓」の語義について、「辰」が東南の意味があると書かれており、一方で、「辰韓」自体が、「東韓」の意味だという記述がなかったのが、気にかかりました。
 「辰」は、確かに,十二支を方位に見立てた時には、およそ東南の方向になりますが、私の記憶では、「辰」を朝鮮語の「東」の語義の言葉の音写だとする説を、読んだような、あやふやな記憶があり、確か、『三国史記』の訳注で、触れられていたという怪しげなもの+でした。

 しかし、『三国史記』であれば、私と同じ東洋文庫版の『三国史記』を持つ米田喜彦さんもご存じだろうし、何よりも、白石南花さんがご承知の筈なので、最近ぼけてきた私の記憶違いの可能性が高い、と判断しました。とは言うものの、辰韓は朝鮮語の東韓の意味だ、というのは、何かで読んだ記憶がある、と引っかかり、待てよ、金思焯訳『三国遺事』にあったのかも?と思い付きました。

 現在の私の視力では、本を読むのもままならぬ状況で、仮にあったとしても、該当部分を探し当てるのは、困難ですが、目次を見て、ざっとありそうなところを探してみようと思い立ち、やはり、捜せませんでした。
 しかし、数ヶ所さがしたところで、犬も歩けば棒に当たるの喩え通り、半島の史書、正史の『三国史記』と1世紀後の,野史?『三国遺事』の性格というか、特徴や、王氏高麗時代の知識人の「史観」らしきものについて、考える材料が、拾えたように感じ、表題の件について、コメントします。
 雑談用のスレなので、考えをまとめず、思い付いたままに、書くことにしました。

 『三国遺事』は、王氏高麗の時代、国師と尊敬された僧侶一然が、正史『三国史記』に洩れた事などや、異伝等を記載した他、その史論、史観とも言うべき感想、いわば、史書の「評」のようなコメントも多く、到底正史には記載出来ないだろう様な、例えば、「貴妃庫」(延烏郎と細烏女)のような、説話も載せています。
 『三国史記』との大きな相違は、『三国史記』の撰者金富軾が、儒家の徒であり、儒教的史観の束縛から自由ではなかったのに対し、『三国遺事』の著者一然は、僧侶である、という立場の相違が、大きいように思えます。
 日本の五山の禅僧などは、僧侶でありながら、儒学を日本に持ち込み、中華思想に囚われていたように思われますが、一然は、どうも、その類ではないように思われます。
 後、金富軾と一然の大きな相違点には、蒙古の高麗征服という事件の前後での、思想的な衝撃、いわば「華夷変態」という大事件の影響の前後という、大きな分岐点が、有るように思われます。
 それを経験しない金富軾の『三国史記』は、中華思想、華夷秩序が、意識的、無意識的かは別にして、前提になって、撰述されている。
 一然は、どうも違う。中華思想を相対化し、結果的に、日本が相対的に、注目されているようにも.見える。「貴妃庫」の説話や、「九韓」の記事の採録は、『三国史記』では、記載し得ない内容だったと考えられます。

 これからが、表題の話ですが、先ず、王氏高麗は、統一新羅の時代の後、短い後三国の時代を経て、三国時代の高句麗の後継を意識した半島の統一政権であり、この点から、統一新羅の継承国家であり、統一新羅は、「三国時代」の高句麗、百済、新羅の「三国」を、「統一」した存在であり、その三国は、「三韓」の後身である、という「建国の建前」は、金富軾も、一然も、基本的に墨守せざるを得ない事だったと思われます。・
 統一新羅は、地方に九州を置いたが、その3州ずつが、それぞれ、高句麗、百済、新羅の本領であったというのも、その「建前」による。
 結果、伽耶諸国は無視され、その本紀は書かれない。
 さて、表題の本論で言えば、「三国」の前身は、「三韓」という事になる。この三韓も、それぞれ、三国に引き継がれる、という史観になる。ここでも、任那加羅が、4番目の存在として、記述されることは、忌避される。

 新羅の前身は、「辰韓」で問題はない。
 高句麗は、半島南部の弁韓には出来ないから、「馬韓」だあ~という事になる。
 消去法で、百済の前身が、馬韓ではなく、「弁韓」(『三国遺事』では、「卞韓」と書く)という事になり、一然もそう書き、高句麗が馬韓である理由として、「(馬)邑山」が高句麗の地にあるからだと、一然は言う。
 しかし、勿論、これは馬韓の伯済国が前身の百済が、馬韓の国であり、高句麗は、馬韓出自ではない。

 金富軾は、儒学の徒で、中国文献を十二分に読み、基本的にそれに準拠しているが、高句麗よりも新羅の建国を先にするなど、新羅王家の末裔らしく、嘘も混ぜる。
 『三国遺事』の記事からは、辰韓ではなく、高句麗が建国時に馬韓を領有していたとし、その馬韓の建国は、古朝鮮の準王で、辰韓より古いとする。
 公認された正史『三国史記』の本紀の記事には、逆らえないが、崔致遠のような、先人の説を引用して、異説を記す。

 『三国遺事』の巻第一馬韓の項に

 四夷は九夷と九韓,穢と貊のことで、『周礼』に職方氏が四夷と九貊をつかさどったとあるのは、東夷の種族、すなわち九夷のことである。
 『三国史』には、溟州は昔の穢国であるが、(中略)
海東の安弘の記録には、九韓は一日本、二中華、三呉越、四乇蘿、五鷹遊、六靺鞨、七丹国、八女真、九穢貊とある。

 という記載があります。
 先ず、この文に引用された、「海東の安弘」なる人物が、何者なのか、よくわからない。注釈がないので、ここまでのどこかに、この人物の著書からの引用があり、そこに何らかの注釈があるのかもしれませんが、原文は「海東安弘記云。九韓者。一日本」とあり、索引で「安弘」を引くと、この項の後に、もう一か所引用があり、そこにも注釈はないので、不明としか、言い様の無い人物です。もう一か所は「巻第三皇龍寺九層塔」の項に、「また海東の名賢である安弘が作った『東都成立記』に、」と引用があり、この「海東」は、日本や琉球を指すのではなく、どうやら、半島の知識人のようですが、wikiで「安弘」を検索しても、hitしません。「皇龍寺九層塔」の記事に引用されているのは、「九韓」の1~9が、実は、皇龍寺の九層塔の、一階から九階それぞれ対応し、新羅への「九韓」の「侵略」を防ぐ、まさに鎮護国家の宗教施設だという説です。これから見ると、安弘は、統一新羅時代の人で、儒家ではなく、仏教徒のようです。従って、半島周辺の諸民族は、全て「韓」と表現されているのかもしれません。或いは、「韓」が、zルタイ系の父系氏族集団を示す,「カラ、ハラ」即ち,kala.xala,halaで、日本語の「から」(家柄の「柄」、親族を示す上代日本語「うから」「やから」「はらから」「ともがら」など複合語を作り、琉球語でも親族組織「門中」を意味する)と同源で有るという、知識を持っていたのあもしれません。
 ハングル制定以前の、朝鮮語の実態は、全くと言ってよいほど不明であり、もっと日琉語族に近い形態の言語だったのかもしれません。景徳王の地名改定は、従来の地名を、漢風地名に代えたものですが、この時、基礎語彙の多くが、中国語(漢語)に変更された可能性もあります。安弘やもっと遅い高麗時代の一然の時代にも、庶人の口語、俗語として、日琉語族系もしくはそれに近い語形の語彙が、残っていて、安弘や一然は、日本に対する親近感が、あったのかも知れません。勿論、その侵略には、警戒はしていたでしょうが。
 しかし、この「九韓」リストを見ると、半島の新羅や高麗を侵略し得る種族名だと考えると、先ず第一に日本、次いで、中華、即ち前漢以来、半島に進出していた中国北方黄河周辺の王朝、次いで、呉越、中国南朝勢力?というのは、判りますが、4,5がないを意味するのかが、はっきりしません。六の靺鞨、七の丹国は、契丹でしょうが、八女真、九穢貊など、北方の諸種族が、挙げられていますが、四乇(托)蘿と五鷹遊が、謎です。
 王氏高麗の人で、蒙古による高麗侵略と属国化、元寇時の元と高麗の敗退を知る『三国遺事』の著者一然であれば、或いは、王氏高麗が継承したと称する三国時代の高句麗の敵たる「新羅」が「托蘿/乇蘿」で、「鷹遊」は蒙古を暗示しているのかもしれませんが、安弘の時代が新羅だとすると、蒙古はまだ室韋の一部族で、契丹の背後で敵と意識される存在ではないし彼が新羅人であれば、乇蘿が新羅を侵略するのもおかしい。この場合は、乇蘿は、加羅諸国を意味したのかもしれません。
 
 どなたか、朝鮮史に詳しい方が、安弘について、ご教示くだされば、幸いです。


 

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 福島雅彦

2023/01/09 (Mon) 21:21:36

当世奇妙さん、愚説をご高覧、ご助言を賜り多謝 謝々!

*パソコン音痴でもありますが、地図、写真だけパワーポイントにしています。

*以前は、三時間用に削りに削ってレジメを造っていましたが、最近は愚説の総花的に全部取り込んで、講義の流れで、飛ばし(端折り)て読み物として読んでください、としています。アナログですが、メモを取らなくて済みますから…。

福島さんへ 当世奇妙

2023/01/06 (Fri) 17:06:04

久留米大学公開講座資料受領しました。
何時もありがとうございます。
3時間であの資料説明は大変ですね。
講演はパワーポイントにして、
送って頂いた資料は参考資料とされてはと
思いますが。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 石見介

2022/11/27 (Sun) 00:29:31

滑安房守さん

 FBに紹介されていたヤポネシア・ゲノムの、風間伸次郎氏のエッセイ?、興味深く拝読しました。貴重な情報、有難うございました。
 通訳の有無のみで、江上波夫氏の騎馬民族説に全面的に依拠したような、半島南部を、大和朝廷にとって、「取り返すべき(この部分までは、私にも異論はありません)⦅本拠地⦆」というのは、正直、風間氏の言い過ぎだと、感じました。
 東国(東北地方を含まない、上代日本語東国方言の分布域)と、東北地方≒蝦夷の領域という「異種族居住域」とは、当時、境界は曖昧でも、区別されていたと思います。
 半島南部、特に、所謂、任那、加羅地域は、大和政権の「みやけ」(屯倉)として、いわば、直轄領で、江戸時代の天領同様、政治的、経済的に、重要な意味があり、大王家にとっては、東国よりも、重要だったかもしれませんが、それは、必ずしも、風間氏の予想するような、民族的な同種性が、東国よりも、強かったことまでは、意味しない、と私は、考えています。
 
 勿論、渡来系弥生人=倭人=日琉語族だと、私は、考えますので、未だ、弥生化が進展しない、在来縄文系人の世界は、言語が異なり、当然、訳語=通訳は必要であり、半島南部に残存し、未だ、日琉語族系の言語を使用している、或いは、理解する集団とは、通訳は、不要で有るのは、当然でしょう。
 7世紀頃の、倭人/倭種世界の実態を、どう考えるかが、問題であり、短兵急に、騎馬民族征服王朝説と、結び付けて、考えるべきではないと思います。

 バイリンガルなどという状況が、才能ある、或いは特殊な環境での意図的な教育(両親の母語が異なり、家庭内で、それぞれが、自分の母語で会話し、子供が、バイリンガルになった、というような例)以外で、存在するのは、将に、「言語が置換する」過渡的な状況以外では、一般化し難いものではないか?と思われます。
 確か、中国の史書だったかで、突厥やウイグル等の、チュルク系によって、それまでの印欧語族のトカラ語派やインド・イラン語派(のイラン系の諸言語)の言語から、チュルク系言語への置換が生じた時の情景として、家庭外では共通語のチュルク系の言葉を話すが、家庭内では、本来の自分たちの母語を使用する、という状況が、記されていたと記憶しています。
 結局は、2重言語併用の状況は、政治的社会的に優位な、チュルク語に置換してしまう。その過渡期の状況が、種族的、地域的な、バイリンガル状況で、基本的には、優位な言語に、収れん、置換する。
 そう考えるべきでしょう。

 さて、大和朝廷と百済の場合は、どうであったのか?
 政治的に優位であったのは、大和側です。百済は、倭国の援助で、唐や、新羅に対抗しました。
 言語学的には、どうだったのか?
 日本列島の、東北や南島方面を除いた大和政権統治下では、上代日本語には、著明な方言差は認められるが、一部の渡来人など以外、異言語が優越したという地域の存在は、認められません。大和朝廷の言語、上代日本語畿内方言を代表とする日琉語族の言語が、列島内の蝦夷地域などへ、浸透しつつある状況を、示しています。

 一方、半島の状況は、どうか?
 高句麗、百済、新羅、伽耶諸国などの角逐が続き、言語的状況は、明確化できないが、百済については、支配者の言語と、被支配層の言語が、異なっているという、記録には、事欠きません。
 百済の支配層は、自分たちの本来の言語と、被支配層の言語の、2言語を、併用する、将にバイリンガルの状況にあったと考えられ、逆に、被支配層の人々は、その言語(馬韓語?)の他に、百済支配層語の理解や使用が、要求される状況でした。それに加え、被支配層の言語が、同一言語群のみだという保証もありませんでした。百済が併合した「任那4県」の言語、或いは栄山江流域などは、倭種、日琉語族の言語世界であったかもしれません。

 日本側と、百済側の交渉で、「通訳不要」というのは、庶民同士の会話の記録ではなく、おそらく、公的な、官吏、支配層間の交流だと考えられます。

 風間伸次郎氏の説くように、日本と百済(或いは、伽耶や新羅とも?)の上層部の交流に、通訳が不要だったとすれば、風間氏の暗黙の言いたい事と思われる、大和側の支配者の、「バイリンガル」による、通訳不要ではなく、百済側支配層が、「バイリンガル」で、日本側の言語を、理解した、という可能性の方が、高いというのが、私の推測です。

 では、仮に、百済支配層が、日本語を理解したとして、それは、百済支配層語が、日琉語族の言語だったからなのか、それとも、百済民衆語(被支配層語、馬韓語?)が、日琉語族の言語に属していたからなのか?
 どちらも可能性があり、現時点では、私には、判断できません。
 百済支配層は、扶余系とされるが、これが、或いは、中国史書で、扶余系とされながら、河野六郎、伊藤英人氏らが説くような、「濊倭同系説」で、日琉語族の話者の可能性が指摘される「濊」族であり、民衆語は、韓国朝鮮語、朝鮮語族に属していたのか?

 それとも、百済支配層語は、ツングース語族の扶余系であり、民衆語の、馬韓語などの韓族の言語が、まだ、朝鮮語族の言語に置換していない、日琉語族の言語だったのか?

 未確認ですが、考古学者の九州大学教授宮本一夫氏は、韓族の言語は、本来、日琉語族に属し、後に扶余、高句麗他の朝鮮語族の言語によって、置換された、という説だと、wikiにありました。
 私は、扶余族は、基本的にツングース語族と考えるので、韓族の言語を、朝鮮語族化したとすれば、別な過程が、必要だと思いますが、扶余の言語を、朝鮮語族だとするのは、安本美典氏も採っていました。

 これらの問題の解決を、困難にしているのは、所謂、アルタイ語族、現在の、トランスユーラシア語族に属すると目される、五つの語族~語派、チュルク、モンゴル、ツングース、朝鮮、日琉諸語族(語派)の、古い時代の文献の残存状況にも、影響されています。
 白村江敗戦の時期に近い文献資料は、チュルク語族の東突厥のオルホン碑文などと、日琉語族の、記紀萬葉の上代日本語資料しかほとんどない、と言う状況で、7~8世紀頃の物で、他の3語族(語派)のまとまった言語資料は、それよりも、4~500年程は下がり、朝鮮語族の基本的資料が、日本の室町時代に相当するハングル制定時の「中期朝鮮語」の時代にまで、下がることです。これは、ツングース語族の金の女真文字や、チンギズ汗時代のパスパ文字によるモンゴル文語の記録よりも遅い。
 韓流ドラマに騙されて、錯覚してはいけません。
 朝鮮語と済州語の諸方言から、内的再構によって、古い、祖語形を再構する試みも、見えていません。
 「韓族の言語」が、どのようなものだったのか、日本語以上の謎なのです。

スレ「談話室04」 - 米田

2022/11/25 (Fri) 17:03:31

「バイリンガル」よりも「トリリンガル」か。


│百済とのやりとりは全く通訳不要だった - 滑安房守
│2022/11/25 (Fri) 09:37:26

│通訳不要とは、百済語と当時の倭語が、ほぼ同一であったか、
│大和朝廷の官僚の多くが、バイリンガルに近かったか、
│どちらかの様に思えます。

│「朝鮮半島は取り返すべき本拠地」この可能性も
│あり得ると思っていました。
│安房守はこれと言った根拠なしに、
│可能性としては有り得るとは思いますが・・・・

│双方とも、何を根拠として、そこまで言えそうなのか、
│みなさまのお教えを賜わりたいと存じます。

│宜しくお願い致します。


:滑安房守さん、論文の紹介ありがとうございます。

:系図を調べていると、同じ読みのはずなのに、漢字表記が
:違うことがよくあります。例えば、「宇治」を調べると、

:「菟道彦」「宇豆比古」「宇遅比古」(系図集覧P-388)
:「(大国)_不避命」(系図集覧P-215)
:「(山代大国之)淵」(古事記:垂仁天皇記)
:「(山背大国)不遲」(日本書紀:垂仁天皇紀)

「和系」・・・「宇豆」「宇治」
「華系」・・・「淵」
「韓系」・・・(分類は出来ませんが、何かしら、入ると思います。)

;文字の使い方を見ると、「トリリンガル」ではないかと思います。

:「東夷伝」を読んでいますが、「通訳をつれた使者が云々。」は、
:東夷の国の中でも、「倭人伝」だけで、他の国は、通訳を連れて
:いないような気がします。(私の勘違いかも知れませんが。)

:「天照大神」=「正見母主」、と見て、(支配者層の)
:出自を半島(出身)に見ることは出来ます。また、
:百済「武寧王」と「仁賢天皇」は、同一人物だろうと見ています。

:「梁書倭伝」によると、倭〔人〕は〔春秋戦国時代の呉国の始祖〕
:太白(たいはく)の後裔と自称している。とあります。
:私は、(支配者層でも)藤原氏の先祖は、太白の後裔ではないかと
:(勝手に)想像しています。

:「P15~」(ことばめぐり__言語学は何ができるのか?)は、
:さほど違和感なく、パラパラと読むことが出来ました。
:ありがとうございました

50周年寄付 当世奇妙

2022/11/25 (Fri) 13:13:53

石見介さん
ありがとうございます。
50周年事業にとって5万円は大変な額です。
感謝致します。

百済とのやりとりは全く通訳不要だった - 滑安房守

2022/11/25 (Fri) 09:37:26

http://www.yaponesian.jp/kikan_list.php
「百済とのやりとりは全く通訳不要だった。」と、ありました。
FaceBookにもほぼ同じ様な投稿を致しております。

Yaponesian_vol4_summer_29sep_online.pdfのP15~に、紹介と言う形で載っていました。
安房守にとっては驚きの内容でした。

「日本語の類型」風間伸次郎氏著(言語学者 専門はアルタイ諸言語研究)という本の紹介の中に次の様にありました。

「蝦夷征伐の時代、(アイヌだったのかもしれないが)蝦夷の人々とは通訳が必要だったのに、百済とのやりとりは全く通訳不要だった。白村江以前、朝廷にとって朝鮮半島は取り返すべき本拠地で、他方東国は全くの異国の世界だった。そういうことを考慮に入れていない日本語研究者の方がほとんどであると思う。」

「百済とのやりとりは全く通訳不要だった。」この可能性はあり得ると思っていましたが。
安房守から見れば684ページの「立派な学術書」に、それが書かれているような紹介に驚きを持ちました。

「ここまで、言えるのだろうか」と疑問を持ち、そう言える根拠を知りたいと、思いました。

通訳不要とは、百済語と当時の倭語が、ほぼ同一であったか、大和朝廷の官僚の多くが、バイリンガルに近かったか、どちらかの様に思えます。

「朝鮮半島は取り返すべき本拠地」この可能性もあり得ると思っていました。
安房守はこれと言った根拠なしに、可能性としては有り得るとは思いますが・・・・

双方とも、何を根拠として、そこまで言えそうなのか、みなさまのお教えを賜わりたいと存じます。

宜しくお願い致します。

石見介さんへ 当世奇妙

2022/11/22 (Tue) 19:43:07

50周年記念シンポに多額の寄付頂きありがとう
ございました。(本名のご寄付なので不確かですが、
多分石見介さんと思っています)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/22 (Tue) 12:36:15

(半島と倭国の船による移動の件:その2)

:会場での回答は、「準構造船」のようなものという回答でした。
:私の記憶では、質問は「どんな船で、対馬海峡を渡れたか?」
:のような気がしています。

:私としては、質問の意図は、下記のような気がしています。

「半島と倭国の間は、島伝いで、川船/楼船による渡海は可能か」

:本当は「準構造船」と「川船」の違いがよく分からないのですが・・・。

:巻向遺跡には、運河が作られていて、大和川を通って船で
:ものを運んでいたとか。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/22 (Tue) 12:08:07

<シンポジウムの感想>

:(ZOOMから離れて、)久しぶりに、対面式の講演会に参加しました。
:(ZOOMと比べて、)良かった点・不満だった点を書こうと思います。

(感謝すること)
:きれいに製本された資料。大きい会場の確保からの準備。
:講師の先生方一人一人のパソコンを切り替えての講演発表。
:会場とZOOMを交えての講演会の大変さ。
:会場に着いて、幹事の皆さまの下準備の大変さ・ご苦労を感じました。

(良かったこと)
:質問票への記入(回収)を見ていて、参加者の(知りたいという)
:熱意を強く感じました。
:プロの先生方が複数集まると、いろいろな話が出てきて、
:臨場感を味わうことが出来ました。

(不満が残ったこと)
:講師の先生方の講演よりも、質疑応答の方が楽しかった。
:質疑応答だけの「講演会」というものがあっても良かった。
:北条先生の講演がなかった。
:ZOOM会員でありながら、資料が当日の朝に届いたこと。
:「読書会」のように、事前に、公表された(ネットで手に入る)資料を
:もとに、質疑応答を中心とした、講演会は、出来ないだろうか。
:ということは、
(北条先生と講師の先生による「読書会」のような講演会を希望。)

**********

(半島と倭国の船による移動の件:その1)


前漢時代の船に関する記述

『史記朝鮮伝』
:(朝鮮王の満、孝恵帝・高后の時:BC195~BC180)
:そこで満は、〔漢から〕兵威や財物を得て〔朝鮮国の〕
:近傍の小邑を侵し、降伏させた。
:真番・臨屯は、みなやって来て服属し、
:〔その支配地は〕数千里四方におよんだ。

:元封2年(BC109年)帝は、
:〔渉〕何を拝して遼東〔郡の〕東部都尉とした。
:朝鮮〔王〕は、〔渉〕何を怨んで出兵し、〔渉〕何を攻め殺した。
:天子は、罪人〔から兵〕を募って朝鮮を撃とうとした。
:その(BC109年)秋、〔天子は〕楼船(ろうせん)将軍の
:楊僕(ようぼく)を派遣し、
:斉より渤海〔湾〕を渡航させ、〔一方〕兵5万〔を率いた〕
:左将軍の荀彘(じゅんてい)に、遼東を出発させ、
:〔陸海から〕右渠(ゆうきょ)を討伐させた。(云々。)
:楼船将軍は、斉兵7千人を率いて、まず王険に至った。


『屋形船(やかたぶね)』(ウィキペディアより)
:屋形船とは、和船の一種で、主に船上で宴会や食事をして楽しむ、
:屋根と座敷が備えられた船のこと。
:楼船(ろうせん)ともいう。
:現在の屋形船
:全長20m前後、定員は15~100名程度。
:若干の業務用空間を除いて、大半が客用空間となっている。

(つづく)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 滑安房守

2022/11/22 (Tue) 07:45:06

米田さん

ご丁寧にお教え下され有難うございます。

>滑安房守さん、投稿ありがとうございます。

>┌
>│FaceBookを使っていますと、この掲示板(このFC2)に、
>│一操作で戻れないため、こちらを見るのが億劫になっております。
>│一気に戻れる仕掛けが有れば助かります。 
>└
>:たしかにFBからFC2への移動は、やりづらいです。
>:その代わり、FC2から「ホーム画面」に戻るのは、簡単です。
>:ですので、私は、
>:「ホーム」→「討論室(FC2)」→「ホーム」→「談話室(FB)」
>:の順番で見ています。

>:また、図のようなやり方でしたら、二操作で、見ることは出来ます。
>:また、「お気に入り」の設定をすれば、一操作で、移動出来そうです。

 安房守が不勉強で、早トチリであるため、余計なご苦労をお掛け致しました。

 FaceBook東アジアの古代文化を考える会「新談話室」のグループ情報にリンク先として「東アジアの古代文化を考える会」のHP (http://e-asiahomepage3.la.coocan.jp/)が有る事に気付きました。
 「もっと見る」を開かないと気付かない位置に有り、慌て者の安房守のミスでした。
 お詫び申し上げます。


>┌
>│また、討論室がタイトル(主題?)により別れている構造は、
>│深く討論が出来て良い面もありますが、安房守は滑った論ですから、
>│思い付いたことを書き込もうと思った時に、討論室のどのタイトルに
>│投稿すべきかを、容易に知ることが出来ません。
>└
>:思い付いたことを書き込むときには、
>この、スレ「FC2のロビー・談話室04」を(ぜひ)ご利用下さい。

 あ、なるほど、そう言った趣旨として「FC2のロビー・談話室」を用意されていたのですね。
 これにも、気付きませんでした。
 申し訳ありませんでした。

これからも、お教え下さる様、お願い致します。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/22 (Tue) 01:12:37


滑安房守さん、投稿ありがとうございます。


│FaceBookを使っていますと、この掲示板(このFC2)に、
│一操作で戻れないため、こちらを見るのが億劫になっております。
│一気に戻れる仕掛けが有れば助かります。 

:たしかにFBからFC2への移動は、やりづらいです。
:その代わり、FC2から「ホーム画面」に戻るのは、簡単です。
:ですので、私は、
:「ホーム」→「討論室(FC2)」→「ホーム」→「談話室(FB)」
:の順番で見ています。

:また、図のようなやり方でしたら、二操作で、見ることは出来ます。
:また、「お気に入り」の設定をすれば、一操作で、移動出来そうです。


│また、討論室がタイトル(主題?)により別れている構造は、
│深く討論が出来て良い面もありますが、安房守は滑った論ですから、
│思い付いたことを書き込もうと思った時に、討論室のどのタイトルに
│投稿すべきかを、容易に知ることが出来ません。

:思い付いたことを書き込むときには、
この、スレ「FC2のロビー・談話室04」を(ぜひ)ご利用下さい。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/20 (Sun) 22:52:25

「黒塚古墳」の被葬者を「難升米」とすると、
「箸墓」の主は誰だろう。


「黒塚古墳」(ウィキペディアより)
:黒塚古墳(くろつかこふん/くろづかこふん)は、
:奈良県天理市柳本町にある前方後円墳。 
:33面の三角縁神獣鏡が、ほぼ埋葬時の配置で
:出土したことで知られ、国の史跡に指定されている。

:発掘調査とその後
:1997年(平成9年)から(云々)。
:北東隅に大小2本の鉄棒をU字形に曲げた用途不明の鉄製品が
:立てかけられていた。大小2本の棒の間にはV字形の鉄製の管が、
:複数、付着または崩落し、この管で鋸歯状に大小の
:U字形鉄棒を結び付けていた形跡がある[注釈 1]。

:これを難升米が魏から授与された黄幢だとの説を唱える研究者もいる。
:(東潮『倭と加耶の国際環境』吉川弘文館 2006年)

*****

「難升米」(ウィキペディアより)
:正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために
:帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、
:その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している。

*****

※:「難升米」は、247年のあと、名前が出て来ません。
_:また、孝霊天皇の即位を、紀の干支(太歳:辛未:251年)と
_:風土記(東洋文庫P-283:癸酉:253年)と、
_:シンメトリック論の解釈より、251年と、想定しています。

※:本来ならば、251年に、「難升米」が、倭国の王になるはずです。
_:ですが、王になれなかったのは、251年より前に「難升米」は、
_:亡くなったのだろうと考えてみました。

※:「三角縁神獣鏡」は、難升米や塞曹掾史張政が倭国に持ち込んだと
_:考えています。
_:箸墓古墳には、「三角縁神獣鏡」は、ないみたいですので、
_:箸墓の主は、251年よりも前に亡くなったと考えられます。

_:日本書紀には、「倭迹迹~姫命」は、3人います。3人の中で
_:一番存在が薄く、一番早く亡くなった可能性の高いのは、
_:(孝霊天皇の娘)倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)です。
_:日本書紀は、箸墓の主は「倭迹迹~姫命」だと主張しています。

※:「箸墓」の時期が、300年頃でしたら、別の人物もありますが、
:「箸墓」の時期が、240年代後半でしたら、(卑弥呼ではなく、)
:箸墓の主は、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)だろうと思います。


<自作の系図より>

─伊賀津臣命──梨迹臣命(難升米)─神聞勝命(開化天皇・大綜杵命)

─和知都美命────倭国香媛──(孝霊天皇の娘)倭迹迹稚屋姫命
(淡路の御井宮)(おおやまと-くにあれ-びめ)(倭飛羽矢若屋比売)


PS:
:シンポジウムの時に、誰かが、「U字形鉄棒」は、黄幢の一部だろうと
:発表していたのですが、誰が発言したのか、よく覚えていません。

:黄幢と難升米と「黒塚古墳」の話から、
:「三角縁神獣鏡」の入っていない「箸墓古墳」を
:「三角縁神獣鏡」の入っている古墳が取り囲むように配置されて
:いることから、以上のようなことを妄想してみました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/20 (Sun) 15:43:57

<呉の「赤烏2年」と魏の「景初3(239)年」の違い>

:「中華暦(ちゅうかれき)」で、239年を調べると、
:景初3年と書いてありますが、実際には、
:呉の赤烏2年の暦が書かれています。
:正確な景初3年の暦を探していたところ、
:(ようやく)見つけたので、紹介します。


│「今日も三国志日和」(史実と創作からみる三国志の世界)

│ホーム>参考データ>ユリウス暦・230年代

│ユリウス暦と魏の景初3(239)年・蜀の延熙2年・呉の赤烏2年
│(対照表)

https://sangokushi-biyori.com/reference-julian-calendar-239


Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/19 (Sat) 19:56:09

:今日の講演会は、勉強になりました。
:古代史に対する興味関心(意欲)に少し火が付きました。
:明日以降、(整理しつつ)思いつくままに書こうと思います。
:(講演の時間が長いのと、久しぶりの外出で、疲れました。)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/19 (Sat) 09:01:52

「景初暦」問題について、「ウィキペディア」の説の紹介

│「曹芳」(ウィキペディアより)
│曹芳(そう ほう)は、三国時代の魏の第3代皇帝。

│在位期間 景初3年1月1日 - 嘉平6年9月19日
│(239年1月22日 - 254年10月17日)


:ウィキペディアの説が、面白そうなので、紹介します。
:ちなみに、「239年1月22日」というのは、ユリウス暦表示です。

上代日本語の「色彩語」 石見介

2022/11/10 (Thu) 00:48:48

 以前にもコメントしていますが、上代日本語では、色彩を表わす語彙は、基本的には、僅か、4語だとされ、それは、「しろ(白)」「くろ(黒)」「あを(青)」「あか(赤)}であり、「き(黄)}は、本来の日本語にあった語彙か、疑問があります。


 「あを」は、[淡し」の「淡」と同源で、「あか」は、「明ける」「あけぼの(曙)」の「明け」と同源と考えられ、何れもその色彩の示す範囲は広く、その為、「みどり」「むらさき」「だいだい」「あゐ」「はな(だ)」など、主に、周辺の植物の色を、色彩の表現に使用する状況が、有りました。
 「みどり(緑)」は、植物の「新芽」の色彩の色であり、その為、ヒトの新生児は、「みどりご」とも「あかご」とも呼ばれますが、「みどりご」は、新生児が、植物の新芽のような存在だという観念に基づく言葉です。赤ちゃんの皮膚は、上代日本語的には、「あか」に属する、というのが、もう一方の「あかご」という複合語に、現れています。

 「むらさき(紫)」もムラサキ科の花の色調が、語源です。「あゐ(藍)」は、説明するまでもないでしょう。

 古代中国の色彩語と、同時代の日本語の色彩語の対応関係は、日本語側の色彩語の基本的な少なさから、簡単ではありません。
 中国語の「青」「蒼」「緑」[碧」「翠」「紫」「藍」「縹」は、実際に、3世紀には、どのような色彩で、あったのか?
 日本語では、皆「あを」色だったのでしょうが。

 実は、私が、古代日本語の色彩語に関心を持つ理由の一つは、「五部」との絡みです。
 匈奴や、扶余系高句麗の「五部」などは、方向語や色彩語が、部の名称となっています。
 日本神話の「五部神」は、方向も色彩も、見えない。インチキな代物だ、としか、思えない。
 唯一、「中臣」氏のみ、氏族名に、方向語「中」が入っている。
 この怪しさが、記紀神話の骨格を、中臣、藤原氏の主張だとすれば、かなり多くの、古代史の謎が、解ける。
 
 部民制が、何時発足したのかは、不明ですが、前段階の「ヒト制」を含めても、卑弥呼時代以前に、遡及することはないでしょう。
 さて、初期大和政権の有力豪族は、在地名を名乗る、「臣」姓の中央及び地方の諸氏族(尾張連のみ例外的に「連」)に、各地の品部を統率する、中央の「連」等の姓を称する、私の言う「伴造宰領氏族」で、構成される。「君」は、やや特殊な感じがあるが、三輪君にしても、大豪族というわけではない。

 軍事では、大伴氏=大部氏と物部氏、祭祀では、中臣氏と忌部氏⇒斎部氏が、それぞれ、基本的に、自氏族名と同じ、地方の品部を、統率して、大王家に奉仕する。
 大伴氏の部民は、後に、丈部や佐伯部も関わるが、佐伯部は、同名の大伴氏の分枝佐伯連が管掌し、基本的に、大伴氏は、大伴部を支配する。
 物部氏は、各地の「○○物部」を、管掌した。
 忌部氏は、阿波、讃岐、紀伊、出雲などの地方の忌部の管掌者だった。
 唯一、各地の「卜部」を、管掌した氏族の名称のみ、その品部と異なる「中臣」連。
 基本的には、各地の卜部を、管掌する中央の氏族の名称は、同じく「卜部」連であるべきだろう。

 「中臣」氏という氏族名には「臣」という「かばね」が、入っている。古い時代には、複数の姓を持った氏族の存在の可能性が、指摘されている(「連公」)。
 その可能性もあるが、「中津臣」氏だったという説も、昔あった。確か、豊後中津を、「うぢ(氏)な(名)」発祥の地とした説だったと思うが、記憶は、確かではない。
 私は、「な(中)か(処、複合語「なか」=「中」)つ(助詞「の」)おみ(臣)」で、「な」「なか」即ち、奴国も含めた、ありふれた、地域の「中心地」を意味するどこかの地名を、氏族名とした豪族で、九州方面から、大和に移住し、穂積氏から出自した「物部氏」同様、地方の卜部を統率する、「中央の卜部氏」が、中臣氏(『中つ臣』では、末尾でつ・お、と、母音が連接する為、「なかとみ」氏となった)から出自したが、本宗家の滅亡時に、中央の卜部氏も滅亡し、;代わって、東国から、中臣、卜部氏の職掌を継承した、支族の後の藤原氏となる家系が、記紀神代の歴史化を、行った、と想定できるのではないか?と考えている。あるいは、物部守屋と同時に滅んだとされる中臣氏本宗家去年が、実は、中央の「卜部氏」そのものでだったのを、記紀編纂時に、書き変えたのかもしれない。(*)

 おそらく、藤原氏に繋がる系統は、「鹿島」「香取」「春日」と、「か(鹿)」のついた神社を、尊崇している点から、卜骨に、亀卜ではなく、鹿卜を行っていたのではないか?とか、「鹿」を氏族の「獣祖」とする、扶余系に近い伝承を、持っていた可能性もある様にも、思える。

編集;R04,11./11、23時
 誤変換、誤記訂正と、(*)部分を、加筆しました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/09 (Wed) 10:42:48


│私の知る範囲では、ガラス製品が、「玉」として、珍重された、という
│記憶がないので、「青大句珠」は、翡翠か、緑色凝灰岩の碧色に
│見えるものではなかったのか?と思うのですが・・・。

:「青」についての認識は、下記の通りで良いと思いますが・・・。

『青』(ウィキペディアより)
:色名としての青
:青という基本色名は、その他多くの固有色名を総称として含んでいる。
:(省略)
:日本語の「青春」「青葉」「青信号」と同じく、現代の中国語でも、
:「青」という字は「緑」と同義語である(青菜(チンツァイ)、
:青草(チンツァオ)、青椒(チンジャオ)など)。
:そして、ブルーを「藍」、グリーンを「緑」、インディゴを「靛」と
:表記して区別する。でも、「青色」はシアンの意味。

:現代の青に相当する色として、日本では伝統的には藍(あい)や
:縹(はなだ)を用いてきた。
:これは、日本において青を表現するための染料が古来はツユクサで
:あり、その色を花色と呼んだことに由来すると思われる。

『シアン』(ウィキペディアより)
:シアンは色のひとつで、やや緑みの明るい青。水色に近い青緑色。
:色の三原色のひとつで、寒色に含まれる。

ガラス玉 石見介

2022/11/08 (Tue) 23:08:52

 当世奇妙さん
 米田喜彦さん
 管理人さん

 いろいろとご助言、有難うございます。
 FB登録は、PCから行いましたが、最初、選択した覚えもないのに、「スペイン語」で投稿するのか何かになり、書き込んだ携帯に、スペイン語のメッセージが、入っていました。勿論、スペイン語など、全く学習していませんので、無視し、PCのメールアドレスを、連絡先にして、一応何とか、会員になり、談話室も、チェックしています。 投稿には苦労していますが、米田さんご指摘の(02)が今回の投稿失敗の原因の様に思われます。
 投稿失敗の原因は、毎回、違うような気が、しています。
 尚、携帯の方に,FB(を名乗る)から日本語で、パスワード送信があり、それを送れば、携帯で,FBを見る事が出来そうですが、現時点で、PCのメールチェックの処理が,FBからの送信の為、消去作業が面倒なので、携帯は、FBに使用しないことにしました。

 米田さんの仰る友達の人数は、最初は多ければ良いのかと思っていましたが、大学の同級生(NPO法人設立)、旧ヤフー日本史掲示板オフ会幹事の,HN大和緑狸さん(ブログをFBに飛ばしているとの事)それと米田さんの3人だけにしました。
 それでも、米田さん以外の二人のFBと、当のFBからのメッセージ投稿が頻繁で、対応しきれない為、友達は増やさないことにしていますが、外国人(風)の男女も含め、友達リクエストが、数件あり、放置して、消失したものもありますが、ずっと残っている者もあります。
 現在は、友達4人になっていますが、4人目は、リクエスト承認した記憶はないのですが、おそらく、なんらかの誤操作で、友達になったのだと思います。
 相手のProfileを見ると、日本人で米国在住の医師ということなので、そのまま、友達にしていますが、余りFBのメッセージがないので、助かります。

 先程、二日分の談話室を覗きましたが、問題の西谷3号墳の物は、竹本雅昭さんのコメントから、やはり、ガラス製品だと判りました。
 これで、私の疑問の一つ、「材質」については、判明しました。
 後は、中華世界の玉を尊ぶ文化の中で、鉱物性の貴石や、或いは珊瑚などと異なった、人工的な製造物である、「ガラス玉」が、貴石で製作された「玉」類と同様に、珍重され得たのか?という疑問に対する、学界の見解が、どうなのか、知りたいのです。
 私の知る範囲では、ガラス製品が、「玉」として、珍重された、という記憶がないので、「青大句珠」は、翡翠か、緑色凝灰岩の碧色に見えるものではなかったのか?と思うのですが・・・。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - (管理人)

2022/11/07 (Mon) 23:25:04

石見介さんへ -   2022/11/07 (Mon) 19:07:31

石見介さんへ、
参考になるかどうかわかりませんが、FACEBOOKのグループに
書きこめないのは、プロフィールに問題あるのかもしれません。
自分は大阪狭山という小さな市に住んでますが、プロフィールに
いくら大阪狭山と日本語で入れても、なぜかOSAKA SAYAMAと
英語になってしまい、この時には外国からのアクセスと判断されたのか、
古代史関連のグループに書き込めなかったのですが、以前住んでいた堺
市にしてから書き込めるようになりました。
ほんのちょっとした事なのですがFACEBOOKはすごくややこしいです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/07 (Mon) 08:38:34

石見介さんの(FB)投稿失敗の原因を考えてみました。

(予想01):友人登録数が少ない場合。
(対応01)
:「いいね」ボタンを押すことで、名前を残すと、友達が増えるかも。

(予想02):直接入力で、改行(確定)を押したつもりが終了(投稿)。
(対応02):ワープロに一度書き込んでから、コピー(貼付け)をする。

:私の予想では、(02)ではないかと、想像しています。

PS:大野克浩さんの返信がFBの方に書き込まれています。

石見介さんへ 当世奇妙

2022/11/07 (Mon) 06:00:31

FB談話室のメンバーリストに石見介さんの名前が無いように思います。メンバー申請してますか?FBそのもののメンバーになっていますか?

fjtoshiaki@ybb.ne.jp
にメールしてFB登録の名前教えていただければ
メンバー招待しますが。

初歩的質問 石見介

2022/11/06 (Sun) 22:09:32

 新談話室の内容は読めますが、投稿はうまく行かず、先程、失敗したので、こちらの方に、質問します。


 大野克浩さんご提示、の西谷3号墳出土の、勾玉様の青いものですが、ガラス製品の様に、見えます。
 材質が何なのか。又、ガラス製品だとすると、玉を尊ぶ中華世界で、鉱物性でないガラス玉が、日本や半島の様に、3世紀代に、貴石のような扱いを受けていたのか否かを、ご教示お願いします。

 臺與の献上した「青大句珠」は、中国に産しない碧玉の硬玉である、「翡翠」の剝片のような物ではないか?と考えていたので、ガラス玉の位置付けと、実際の出土品の材質が何か、気になります。
 緑色凝灰岩とかでも、あり得るのか。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/11/02 (Wed) 16:34:07

*****************************
藤盛さん

昨日の朝、突然マウスのポインターがくるくる回って止まらなく
なった。そしてマウスの左クリックが一部で作用しなくなった。
ウィンドウズアイコンの左クリック、sptrifyでの右下の音量調整、
外付けデバイスの検索枠への記入、ウインドーズの検索記入など。
他は何時もと同じように使える。NETで調べて色々対策したがダメ。
ところが夕方、WINDOWS11へのアップデート案内が出た。
10へアップデートした際大変苦労したので、11は嫌っていたが、
思い切ってアップデートした。問題は解消した。
外付け保存を「縄文」検索したら、さっと出てきた。はて、ひょっと
して11へのアップデートを促す仕組みではなかったかと疑った。
何か情報ありますか。

*****************************

:「くるくる回って止まらなくなった。」というのは、
:おそらく、パソコン内部(裏側)で、アップデートの準備作業を
:していたのだと思います。
:電源を入れると、ウィルスソフトが、パソコン内部のチェックを
:始めます。これと、アップデートの作業が重なると、メインメモリが
:足りなくなって、「ほかの作業は、受付られません。」という意味で
:「くるくる回って止まらなくなった。」という現象になると思います。
:最近は、ネットを開こうとすると、背景が動画になっていて、
:(これは)かなりメモリを食うはずです。(動作が重くなります。)

:私の(古い)ノートパソコンは、アップデートの作業をすると、
:背面が熱くなって、触れないくらいです。(メモリは、4GB。)

:メインのパソコンは、Win8.1を自力でwin10にアップデートした
:ものですから、規格が古すぎて、win11には、移行出来ません。
:作業をするにも、PC(の動作)が重くて、ストレスが溜まります。
:メインメモリは、8GBを16GBに増やしたので、今は普通の作業は
:こなせますが、タスクマネージャー(画面下部を右クリック)で
:調べてみると、メインメモリは、(常時)6GB使われていますので、
:メインメモリ(数千円)を増設してよかった、というところです。

HPカウンター 当世奇妙

2022/10/31 (Mon) 06:19:00

米田さん
ありがとうございます。
10月HP動向に利用させていただきます。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室04」 - 米田

2022/10/30 (Sun) 23:06:06

.
<シンメトリック論の紹介>

:私は、2012年に、「16/YXRFBRM」氏の
:「シンメトリック論」に出会いました。
:埋もれたままになっているのは、
:もったいないので、紹介します。
:座右の銘「データをして語らしめよ」


「記年論」
:孝霊紀(辛未=BC290年)から
:壬申紀(AD672年)までの「962年間」の秘密です。
:(962年は、481年と481年に分けることが出来ます。)


:「16/YXRFBRM」氏(当時:日本@名無史さん)
:が、発見(発表)した、シンメトリック論と
:marishi氏が見つけた 37倍数論


│16 :日本@名無史さん:2005/11/17(木) 09:14:42
│(在位年数において)孝霊紀から壬申紀までは
│133/60/68/99/121/121/99/68/60/133 と区切れて面白い


:「16/YXRFBRM」氏の投稿(発表)は、たったこれだけです。
:シンメトリック論というのは、(作られた在位年数が)
:上下(左右)で対称になっていることを指しています。
:合計481年というのは、①:上下それぞれの和です。
:②:37×13=481、という分け方もできます。
:②の方は、marishi氏が見つけた 37倍数論になります。



:この「962年間」の秘密を目の前にして、私は考えます。
:「2倍歴論」、「平均在位論」、そしてこの「シンメトリー論」と
:(比べてみて)、どれが「記年論」として通用するだろうか、と。

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.