東アジア討論室 126716


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古代史最大の捏造事件か

1:p君 :

2023/11/13 (Mon) 13:53:53

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1699851234.jpg

伊都国歴史博物館
【 伊都博の展示品紹介④ 着色された銅鏡 】
伊都国王墓である平原王墓から出土した銅鏡群の特徴として、鏡背(文様のある面)を着色した鏡が多いことがあげられます。出土した40面の銅鏡のうち、実に半数以上の22面に着色が確認されています。
展示されている実物をよくみてみると、薄緑色や黄色が確認でき、鏡の縁や銘の部分、鈕などには着色が施されておらず、意図的な塗り分けが行われていることがわかります。
どのようにしてこのような着色がなされたのでしょうのか。その手法は今のところわかっていませんが、色のついた顔料などを直接塗布しての着色とは考えにくく、何らかの化学的な処理により変色させている可能性が考えられます。
元々はとってもカラフルな鏡だったのでしょうね。
写真は、着色されていることがよくわかる平原王墓出土の方格規矩四神鏡(6号鏡・国宝)です。鏡の外側と内側で色が違っているのがわかりますでしょうか。




以下、その答え





https://www.jstage.jst.go.jp › sfj1954 › _pdf › -char

美術鋳物と表面処理の関係   鈴木貫爾 鋳金(ちゅうきん)家・東京芸術大学教授

6-1 金色表面の肌 あらし
鋳造された青銅鋳物を火中(かちゅう)して,焼肌を作り,表面の素地をあらして,
着色剤 の効果を敏 感にさせ,その焼 ムラは金属地肌 の景色(けしき)となって美 しい変化を見せてくれる.
6-2. 素焼(すやき)
鋳放し,または,よく研摩 した青銅を薪(まき)ま たは木炭にておよそ600℃ ~900℃ までに焼 く.
火色は小豆色から次第に淡紅色,紅色と変化 していくが,それぞれの条件の要求に応 じた火色でとどめる.
焼上った金属面を細かい砂,研摩剤を用い,繩タワシまたは水ペーパ ーでどうずり*をなし,表面の黒い酸化層を除去す る.
温度が高けれ ば第一の酸化膜の下層から緋色(ひいろ)の 美しい朱銅(しゅどう)があらわれる.
よく研摩された平滑な素地であれば,この朱銅を広 範囲に得ることができる.
朱銅を厚く美しく助成させるた めには,あ らかじめ青銅の配合比を銅分が多くなるようにしておくこと,
焼硼砂の粉末を水でとかして表面に塗布して焼成することなどである.
*(注)どうずりとは胴摺りの意で鋳肌を研摩する呼称
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※緋色(ひいろ)の 美しい朱銅(しゅどう)があらわれる.
これではないでしょうか。
平原遺跡発掘者の原田大六氏は元研磨工でした。
現代技術を施したものが2世紀後半の古墳から出るはずもありません。
これは旧石器捏造事件を超える日本の歴史上最大の捏造ではないでしょうか。
70:p君 :

2024/04/28 (Sun) 08:31:31

>↑貴方は果実農家ですか。ガーデニングと営農は違います。「大きく逸れている」とは言えません

だからミカンの苗なんて20cmから30cm掘ればいいだけです。
ツルハシでガツンとしてあとはスコップで掘るだけです。
丁寧な大規模農家は平地に耕運機を使ってる例はありますが、それでもやはり点地耕起であり溝なんて掘りません。
またミカンの木は決して大きくなるものではないし、樹間が3m以内で十分です。
平原は樹間が7mですが、この時点でミカンを植えるものではないと分かります。
このトピックの一番最初にそれらを書いています。

>↑「耕運機に“鋤を付け”」ていますから、往復しなくても掘れます。


掘れませんし、普通はそんなものは付けません。
そもそも鋤を付けたのは土を均して遺物を見つけやすくするためでしょう。
これは最初から発掘していたという証拠です。

>↑物証を無視して、捏造と言うのは冒涜ではないんですか。

その物証が捏造だという話をしています。
旧石器捏造事件も、物証が何やらおかしいという疑問から始まりました。

>↑いいえ、曽根遺跡群、平原遺跡です。他にワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が、ほぼ南北に並んでいます。

オオヒルメの末裔にしては偉く規模が小さいですね。
オオヒルメなんて平原にいなかったからでしょう。

>福岡市教育委員会 久住 猛雄 氏ですか。p君さんは福岡の人ですか?

私は大阪ですが、久住さんにはいろいろ教えていただきました。
久住さんはもちろん私の平原捏造説に大反論してこられましたが、私は全然意見が変わりません。
69:p君 :

2024/04/27 (Sat) 16:07:02

>> 原田氏は1月末と嘘を言ってますね。

>↑掘り起こしは昭和40年1月18日ですが、柳田大学生が現地に行った2月25日でも、まだ作業が始まっていなかった。(『伊都国を掘る』)
 原田氏が1月末と言ったのはその頃の意味でしょう。“嘘を言った”は言いすぎでしょう。<


破片発見日の1月18日を末などと言い換えているのは嘘です。

文化財保護法では、井手さんが、本来は市役所か交番に連絡しなければならないのに、
鏡の事なら大六さんがよかろうと原田氏に連絡してることも含め、
破片発見日は極めて重要な要素です。
そこを嘘をついているという事になります。


>↑46.5cmの内行花文鏡の大きさが、八咫(大きい)鏡に相当するだろうと思う話、誰も見た者はいない。


伊勢神宮の内宮が火事になってご神体の八咫鏡が焼けて、
新しいものに作り変えられたなんて話はどこにもありませんね。
原田氏は伊勢神宮内宮のご神体の鏡が焼けて小さい鏡に作り変えられたなんて言ってるわけで、これも嘘ですね。


>平原王墓は素環頭太刀1本だけ」

だから女性墓であろうという推測の意味が分かりません。


>↑ 『伊都国を掘る』の記載から引用
「次に平原出土の当該鏡群現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有りとのことでした。」ですか、
↑この事を言ってるんでしょうが、
↑これには続きがあり、貴方は無視しています。
 「これには実際に耕運機で現場を耕した当人の井出信英氏(地主の長男)の手記が遺されており「深さ80㎝まで掘り返した」と明記されています。」
とあります。⇐つまり、「50cmしか掘れない」を否定しています。いとなさんのレスを捏造した、謝罪するべきです。(←これは言い過ぎ、悪しからず)<


あなたが私のレスを読んでくれてないだけで、
全然無視していませんし捏造もしていません、ちゃんと下に書いてます。
井手信英氏の日記にあるように80cmも掘ったなら、
そもそもミカンを植えるためという最初の話が嘘になります。
80cmも掘るのなら耕運機を何度も往復させたのでしょうから、
これは最初から「塚から何かを見つけようとしていた」行為であろうと言ってるわけです。
また柳田さんのせいぜい50cmというのも推測であり、堆肥の入っていないカチカチの土なら耕運機で20cm~30cmが限度でしょう。
だから本当にミカンを植えようとしていただけなら、決して破片なんて見つからなかったはずなのです。
なぜ見つかったのだろうというのが根本的な疑問なのです。


>これを見ると50センチでも届きます。(赤は見やすくするためにオヤジッチ付加)


それは発掘後の断面図です、発掘前の破片発見日の1月18日にはその上に封土があったはずです。
だからこそ柳田さんは、鏡埋納面に届かないから棺上副葬と言ってたわけです。
68:オヤジッチ :

2024/04/27 (Sat) 10:14:57

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1714180497.jpg 50cmでは鏡埋納面には届かないかどうか、調査報告書(下に何度も記した)の「1号墳全体図」の下半分に断面図があります。
これを見ると50センチでも届きます。(赤は見やすくするためにオヤジッチ付加)
67:オヤジッチ :

2024/04/26 (Fri) 12:32:27

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1714102347.jpg > > > 耕運機で・・・せいぜい50cmしか掘れない・・・
> > > 鏡埋納面には届かないと言っておられるのは、現場を調査した柳田康雄さんです。
> > ↑柳田先生がそんなことをどこで仰ってますか。
> 下の方の、いとなさんのレスですが、
↑ 『伊都国を掘る』の記載から引用
「次に平原出土の当該鏡群現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有りとのことでした。」ですか、
↑この事を言ってるんでしょうが、
↑これには続きがあり、貴方は無視しています。
 「これには実際に耕運機で現場を耕した当人の井出信英氏(地主の長男)の手記が遺されており「深さ80㎝まで掘り返した」と明記されています。」
とあります。⇐つまり、「50cmしか掘れない」を否定しています。いとなさんのレスを捏造した、謝罪するべきです。(←これは言い過ぎ、悪しからず)
66:オヤジッチ :

2024/04/26 (Fri) 11:26:24

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1714098385.jpg > >↑柳田先生がそんなことをどこで仰ってますか。
> 下の方の、いとなさんのレスですが、
「・平原出土の当該鏡群については柳田康雄先生・・・正式報告書が出されていますが・・・『伊都国を掘る・大和書房・2000年』の記載から引用します。
↑私のレスも同書からです。

> また、現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有りとのことでした。」

> ということで、昭和40年の最初の発掘からかなり時間が経過してから再調査されてたはずです。
↑下に引用しました「前原市文化財調査報告書第70集(2000)」です。
 同年に『伊都国を掘る』を柳田先生が出筆しています。

> >井手信英・・・「耕運機に鋤を付け約1メートル幅、“深さ80センチ”、長さ35メートルの溝を掘り起こしていた・・・
> その時点でミカンを植えるという最初の話から大きく逸れていることがわかります。
↑貴方は果実農家ですか。ガーデニングと営農は違います。「大きく逸れている」とは言えません。

> 耕運機で80cm掘るという事は、何度も往復するわけですから、それはミカンの苗を植える行為ではありません。
↑「耕運機に“鋤を付け”」ていますから、往復しなくても掘れます。

> 「塚」から何かを見つける目的であったとしか思えません。
↑畑を「塚畑」と呼んでいただけで、「平原1号墓は、すでに“盛土部分が後世に削平”されていた。」(前原市文化財調査報告書第70集)のですから、「塚」はありませんでした。

> 原田氏は1月末と嘘を言ってますね。
↑掘り起こしは昭和40年1月18日ですが、柳田大学生が現地に行った2月25日でも、まだ作業が始まっていなかった。(『伊都国を掘る』)
 原田氏が1月末と言ったのはその頃の意味でしょう。“嘘を言った”は言いすぎでしょう。

> >> 「伊勢神宮内宮が焼けて・・・有りもしない嘘をつく人、・・・
> 考古学的発言であるかどうか以前に、伊勢神宮の内宮が火事になり、
・・・御神体の八咫鏡の大きさも文様も変えられたと嘘を言って・・・御神体の八咫鏡の大きさも文様も変えられたなんて話はどこにもありません、
↑46.5cmの内行花文鏡の大きさが、八咫(大きい)鏡に相当するだろうと思う話、誰も見た者はいない。

> 日本の歴史に対する冒涜です。
↑物証を無視して、捏造と言うのは冒涜ではないんですか。

>実在論は別にして、神話のなかの「天照大神」に象徴されるようなの人物像が浮かび上がり、

> 平原曽根遺跡群ですね。
↑いいえ、曽根遺跡群、平原遺跡です。他にワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が、ほぼ南北に並んでいます。

> 曽根という名称は「物部」と・・・、物部なら納得できます。
↑私は「平原遺跡は物部と嘘をつく人」とは言いません。
 「面白いことをいう人」とは言いますが。

> >上述のように「耳璫の発見により」ではないし
女性墓である決め手は耳璫の発見によるものと教えてくれたのは久住さんです。
> 福岡市教育委員会 久住 猛雄 氏ですか。p君さんは福岡の人ですか?

> 私は女性が太刀を持つのはおかしいと思うので被葬者は男性だと思います。
↑『伊都国を掘る』で柳田先生は「大王墓陵級古墳に匹敵する副葬品をもちながら、武器が少ない、三雲南小路王墓は青銅武器4本を盛るのに平原王墓は素環頭太刀1本だけ」「超大型内行花文八葉鏡=「八咫鏡」とすると、「大柱」と太陽の門としての「鳥居」(太陽信仰)などを総合すると、・・・卑弥呼直系で直前の三世紀初頭に埋葬された・・・巫女王となるだろう。二世紀末、弥生伊都国最後の巫女王の死によって、その権威はより強大な権威となって卑弥呼に継承され、西日本の弥生時代が終焉を迎えるものと考えられる。」と。
勿論、『超大型内行花文八葉鏡=「八咫鏡」』と言う前提が確定しているわけではありませんが、素環頭太刀1本、鉄鏃10本、以外に、
方格規矩四神鏡37面
内行花文鏡2面
虺龍文鏡1面
計40面

鉄釶1個
鉄ノミ1個
鉄斧1個
鉄刀子
土器多数
砥石2個
ガラス小玉多数
ガラス耳璫2個
などがあります。
65:p君 :

2024/04/25 (Thu) 11:48:50

オヤジッチさん

>↑柳田先生がそんなことをどこで仰ってますか。

下の方の、いとなさんのレスですが、

「次に平原出土の当該鏡群については柳田康雄先生(元福岡県教育庁、元國學院教授)の正式報告書が出されていますが、ここでは『伊都国を掘る・大和書房・2000年』の記載から引用します。鏡は鋳造直後の研磨前に着色されたものであり、渡来系工人の指導の下に現地工房(イト国)で製作されたもの、つまり仿製鏡群であろうと推察されています。 また、現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有りとのことでした。」

ということで、昭和40年の最初の発掘からかなり時間が経過してから再調査されてたはずです。

>井手信英(勇弘氏長男、当時19歳)「耕運機に鋤を付け約1メートル幅、“深さ80センチ”、長さ35メートルの溝を掘り起こしていた・・・

その時点でミカンを植えるという最初の話から大きく逸れていることがわかります。
耕運機で80cm掘るという事は、何度も往復するわけですから、それはミカンの苗を植える行為ではありません。
「塚」から何かを見つける目的であったとしか思えません。

> 上述の掘り起こしは昭和40年1月18日ですが、この時点では「これはなんかいなー」(著書まま)程度です。

「昭和40年1月末、通称をツカバタケといっている場所に、蜜柑の植樹をしようと、井手信英氏が耕運機で開削中に、地下50センチのところから鏡や鉄刀を掘り出した。(『日本古墳文化―奴国王の環境』原田大六著)(1975年)」

原田氏は1月末と嘘を言ってますね。

>> 「伊勢神宮内宮が焼けて・・・有りもしない嘘をつく人、
>> 鏡の発見の通報を・・・実在しない人を創作してまで嘘をつく人、
>> こんな人の考古学的発見はとりあえず疑う事が大事だと思います。」
> これに反論していただきたいのですが。

>↑どちらも、考古学的発言じゃないし、「嘘」と言うのは言いすぎでしょう。
> 何でもかんでも「捏造」と言うのと同じ。(失礼)

考古学的発言であるかどうか以前に、伊勢神宮の内宮が火事になり、
御神体の八咫鏡の大きさも文様も変えられたと嘘を言ってる人です。
これは原田氏が発掘したと主張する46.5cmの内行花文鏡の大きさが、
本物の八咫鏡よりはるかに大きいと気づいてしまってからの弁解です。
伊勢神宮の内宮が火事になり、
御神体の八咫鏡の大きさも文様も変えられたなんて話はどこにもありません、
日本の歴史に対する冒涜です。

>実在論は別にして、神話のなかの「天照大神」に象徴されるようなの人物像が浮かび上がり、

平原曽根遺跡群ですね。
曽根という名称はほぼ「物部」と見て間違いないと私は考えてます。
平原遺跡は筑紫の物部の遺跡ではないでしょうか。
昔、歴史ヒストリアというテレビ番組で柳田さんと寺沢さんが平原には纏向遺跡ともつながる要素があることを話してましたが、
物部なら納得できます。

>上述のように「耳璫の発見により」ではないし

女性墓である決め手は耳璫の発見によるものと教えてくれたのは久住さんです。
私は女性が太刀を持つのはおかしいと思うので被葬者は男性だと思います。
64:オヤジッチ :

2024/04/25 (Thu) 11:09:01

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1714010941.jpg > 耕運機で・・・せいぜい50cmしか掘れない・・・
> 鏡埋納面には届かないと言っておられるのは、現場を調査した柳田康雄さんです。
そこに対する反論を私に言われても困ります。
↑柳田先生がそんなことをどこで仰ってますか。
 以下、柳田先生著「伊都国を掘る」から( p君さんのお陰で再読)、
原田氏から現地で誘われて、調査に参加したのは国学院大学生のとき。
平原王墓の墳丘は、盛り土部分が失われているが、主体部の復元された深さや周溝内に流入している土や石などから、現在より2メートル以上高い規模であったことが想定できる。
(同著より)
井手信英(勇弘氏長男、当時19歳)「耕運機に鋤を付け約1メートル幅、“深さ80センチ”、長さ35メートルの溝を掘り起こしていた・・・軟らかい火山灰のような土で・・・著しい破片が出土しました」※“”はオヤジッチ

> 破片発見日について井手将雪氏は1月18日と言ってますが、原田氏は1月末と言ってます。
> どちらかが嘘をついてるわけですが、どちらでしょう?
↑どちらもウソではありません。
 上述の掘り起こしは昭和40年1月18日ですが、この時点では「これはなんかいなー」(著書まま)程度です。

> 「伊勢神宮内宮が焼けて・・・有りもしない嘘をつく人、
> 鏡の発見の通報を・・・実在しない人を創作してまで嘘をつく人、
> こんな人の考古学的発見はとりあえず疑う事が大事だと思います。」
 これに反論していただきたいのですが。
↑どちらも、考古学的発言じゃないし、「嘘」と言うのは言いすぎでしょう。
 何でもかんでも「捏造」と言うのと同じ。(失礼)

> 遺物については、私は平原遺跡自体を偽物とは言ってません・・・。
> 原田氏による捏造であろうと言ってます。
↑下に挙げた出土品全てにせものですか。(@_@)

> あとは日本で初めての発見だった耳璫はなんとなく疑ってます。
> 太刀だけみれば被葬者は男性・・・
↑仰るように“大刀だけみれば”です。
(上同著より)
平原王基の被葬者としては、超大型内行花文八葉鏡Ⅱ「八咫鏡」とすると、「大柱」と太陽の門としての「鳥居」(太陽信仰)などを総合すると、実在論は別にして、神話のなかの「天照大神」に象徴されるようなの人物像が浮かび上がり、卑弥呼直系で直前の三世紀初頭に埋葬された倭国最高権威にある巫女王となるだろう。二世紀末、弥生伊都国最後の巫女王の死によって、その権威はより強大な権威となって卑弥呼に継承され、西日本の弥生時代が終焉を迎えるものと考えられる。

> この耳璫の発見により平原1号墳墓は女性墓ではないかとなっているようですが
↑?上述のように「耳璫の発見により」ではないし、
> 原田氏は戦争中は中国にいましたから、私は少し疑っています。
↑これが、疑う理由?なんで!?
 平原発見の新聞記事は一九六五年2月18日付、調査メンバーの構成が難航、柳田大学生が現地に行った2月25日でも、まだ作業が始まっていなかった。(上同著)

63:p君 :

2024/04/24 (Wed) 13:26:05

オヤジッチさん
>耕運機は畑を耕すための物、植栽溝植穴は直径80cm位、深さ50~70cm位に堀ります。


繰り返しますが耕運機でミカンを植えるための溝を掘っていたと言ってるのは土地主の井手さんであり、
せいぜい50cmしか掘れないであろうから鏡埋納面には届かないと言っておられるのは、
現場を調査した柳田康雄さんです。
そこに対する反論を私に言われても困ります。

>(-_-;)18日を“末”といってるだけで、こそっとでも2月1日までと強調しているわけでもないと思います。

普通は18日を末なんて言いません、中頃や中旬ですね。
破片発見日について井手将雪氏は1月18日と言ってますが、原田氏は1月末と言ってます。
どちらかが嘘をついてるわけですが、どちらでしょう?

あと私の、
「伊勢神宮内宮が焼けてご神体の鏡が作り変えられたなどと有りもしない嘘をつく人、
鏡の発見の通報を某新聞記者が怠ったなどと実在しない人を創作してまで嘘をつく人、
こんな人の考古学的発見はとりあえず疑う事が大事だと思います。」
これに反論していただきたいのですが。

遺物については、私は平原遺跡自体を偽物とは言ってません。
あの1号墳墓のみに集中してる異常な数の鏡、技法の不明な彩色鏡、あり得ない大きさの鏡、
さっき作ったばかりの様な文様が立ち過ぎの鏡、
それらから、鏡を鋳造することが出来た原田氏による捏造であろうと言ってます。

あとは日本で初めての発見だった耳璫はなんとなく疑ってます。
太刀だけみれば被葬者は男性だと思うのですが、それじゃ原田氏の主張するオオヒルメにはなりませんからね。
この耳璫の発見により平原1号墳墓は女性墓ではないかとなっているようですが、
原田氏は戦争中は中国にいましたから、私は少し疑っています。
62:オヤジッチ :

2024/04/24 (Wed) 11:06:33

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1713924394.jpg 方格規矩四神鏡37面
内行花文鏡2面
虺龍文鏡1面

計40面
素環頭太刀1本
鉄鏃10本
鉄釶1個
鉄ノミ1個
鉄斧1個
鉄刀子
土器多数
砥石2個
ガラス小玉多数
ガラス耳璫2個
↑これらも捏造ですか。(-o-)
61:オヤジッチ :

2024/04/24 (Wed) 10:01:52

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1713920513.jpg > どこでも雑草が生い茂り、毎年冬になれば枯れてそれが腐葉土となり堆積していきます。
↑その雑草は天から降て来たんですか。地面から生えたんでしょう土の養分を吸って。それに、腐葉土は雨に流されやすいです。

> 弥生時代の周溝墓のほとんどは埋没状態で発見されます。
↑“埋没”するのは周溝ですよね。主体部は削平。
 「平原1号墓は、すでに“盛土部分が後世に削平”されて下部の周溝が残されていた。」(前原市文化財調査報告書第70集)

> 耕運機ではせいぜい50㎝まで
↑耕運機は畑を耕すための物、植栽溝植穴は直径80cm位、深さ50~70cm位に堀ります。

> 原田氏は破片発見日の昭和40年1月18日を「1月末」などと著作でこそっと言い変えてます。
↑(-_-;)18日を“末”といってるだけで、こそっとでも2月1日までと強調しているわけでもないと思います。

> 考古学的発見はとりあえず疑う事が大事
↑それは、そうですが、「疑う」の意味をまちがっていませんか。
60:p君 :

2024/04/23 (Tue) 12:04:41

>台地上ですから自然削平されても、土が堆積はしません。逆に浅くなります。例えば、竪穴住居の遺構は発掘当時は30センチでも、造られた当時は1メートル近いでしょう。中東のテルや低地でもない限り土が堆積するはずがないです。<


そんな事はありません、日本は雨の多い植物国ですから、木になっていく植物もありますが、
どこでも雑草が生い茂り、毎年冬になれば枯れてそれが腐葉土となり堆積していきます。

それは丘陵上の塚であろうと同じです。

その堆積がどれくらいかは分かりませんが、仮に1年で1mmだとしても、10年で1cm、100年で1m、1000年で10mも堆積はしないと思いますが、かなり堆積するのは事実でしょう。実際、弥生時代の周溝墓のほとんどは埋没状態で発見されます。
59:p君 :

2024/04/23 (Tue) 11:40:15

オヤジッチさん、書き込みありがとうございます。

>細かいことですが、耕運機ではありません。耕してたのではなく、果樹植栽ようです。

例の植樹溝の話であります。
そして「現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり,遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有り」というのは現場を見てこられ、再調査された柳田康雄さんの発言です。
だから耕運機です。

ただ、堆肥も入っていないカチカチの土ではせいぜい掘れるのは20cmくらいであろうと私は思います。
どちらにしても到底、鏡埋納面には届かないですね。
ではなぜ破片が見つかったのか、実際には井手信英さんの手記にあるように耕運機で80cm掘ったというのが正しいのでしょう。

しかしです、それなら最初のミカンの植樹のためという話から大きくそれてしまいます。
ミカンならせいぜい20cmから30cm掘れればそれでいいからです。

ではなぜ80cmも掘ったのか。
最初から「何かを見つけるため」でしょう。
そしてミカンの植樹としてはあり得ない7m間隔の溝であることも考えれば、
これは通称ツカバタケの塚にトレンチを入れていたとしか思えません。
ミカンの植樹ではなく「塚の発掘」だったのです。

では考古学的な知見のない井手さんがそんなことを発想できたか。
出来ないと思います。
ならば井手さんではなく、そのような事を発想し立案できたのは考古学的知識のあった原田氏しかいませんね。

そして原田氏は破片発見日の昭和40年1月18日を「1月末」などと著作でこそっと言い変えてます。
自分が知らせを受けたのは1月末であり、自分は1月18日から本格的調査開始の2月1日までには「一切関わっていない」という事を強調したかったのでしょう。

このような致命的な嘘をつく人、
伊勢神宮内宮が焼けてご神体の鏡が作り変えられたなどと有りもしない嘘をつく人、
鏡の発見の通報を某新聞記者が怠ったなどと実在しない人を創作してまで嘘をつく人、
こんな人の考古学的発見はとりあえず疑う事が大事だと思います。

私のふるさと福岡の誇る遺物だから疑うなという地域中心主義は止めていただきたいです。
58:オヤジッチ :

2024/04/19 (Fri) 11:07:57

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1713492478.jpg 平原1号墓は、すでに“盛土部分が後世に削平”されて下部の周溝が残されていた。
周溝の横断面形は、全体的にゆるい船底形を呈するが、各所で墳丘裾を示す部分がある。
主体部の深さから考えられる墳丘の高さは、1m以上あればいいことになるが、地元ではこの畑を「ツカバタケ(塚畑)」と呼ぶことから、近世まで墳丘が存在していたことになり、2m以上の高さの墳丘規模も想定できる。

墓壙は、東西幅約4.6m、南北の西側幅3.22m、中央幅3.5m、東側幅3.5m、“深さ約44cm”の規模で、・・・木棺部分のみ掘下げたものと考える。

割竹形木棺は、長さ3 m、西側頭部幅約82 cm、中央幅80 cm、東側幅68 cm、西側深さ約22 cm、東側深さ7 cmの規模で検出された。棺底は丸底であるから棺外形が正円形だとすれば、中央部の直径が約lmとなる。底には、厚さ4 cm程の青粘土が棺床として敷かれ、その上には朱も敷かれており、西側付近では特に多量に出土したらしい。
※“”はオヤジッチ付加
57:オヤジッチ :

2024/04/18 (Thu) 10:50:55

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1713405056.jpg > 「現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり・・・」
↑細かいことですが、耕運機ではありません。耕してたのではなく、果樹植栽ようです。
 50㎝は、当時の地表からですよね。削平されていた墳丘上からは1m~あるでしょう。

> 丸い木棺の上に置いていたという事でしょうが、なんでわざわざそんなことをするのか、
普通に棺の中に置けばいいのに、と思います。
この画像で言えば太刀が宙に浮く変な形で展示されてますが、これが「棺上副葬」ということなのでしょうか。
↑「棺上副葬」はよくある副葬、展示は発掘当時の層位を表しています。
 横向きと言うことも

土は経年で固くなってるでしょうから、棺のあった場所は空洞になってるでしょう。
↑甕棺でもない限り空洞にはなりません。

> ならば棺上にあったものも当然下に落ちますね。
棺が無くなっているのに棺上副葬って何なんでしょう。
↑発掘調査で層位を確認するのは考古学の基本、墳丘土と腐食木棺土を見分けるのは遺構調査の基本中の基本、

> 長年の土の堆積でかなり厚くなっているはずです。
実際には50㎝も掘れない20~30㎝が限度の耕運機では副葬品には届かないですね。
↑台地上ですから自然削平されても、土が堆積はしません。逆に浅くなります。例えば、竪穴住居の遺構は発掘当時は30センチでも、造られた当時は1メートル近いでしょう。中東のテルや低地でもない限り土が堆積するはずがないです。

> この遺跡、まったくおかしいです。
↑おかしいのは何でも捏造と言う、あなたの考古の方じゃないですか。
56:p君 :

2024/04/01 (Mon) 20:15:41

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1711970142.jpg 「現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有り」

柳田さんの言う「棺上副葬」について考えてました。

割竹木棺の上に副葬品を置いていたという事ですね。

それ無理ではないでしょうか。
丸い木棺の上に置いていたという事でしょうが、なんでわざわざそんなことをするのか、
普通に棺の中に置けばいいのに、と思います。

この画像で言えば太刀が宙に浮く変な形で展示されてますが、これが「棺上副葬」ということなのでしょうか。

しかしおかしいですね。
割竹木棺は完全に腐食しています。
土は経年で固くなってるでしょうから、棺のあった場所は空洞になってるでしょう。
ならば棺上にあったものも当然下に落ちますね。
棺が無くなっているのに棺上副葬って何なんでしょう。

それとも棺が腐食した後の空洞がへしゃげたのでしょうか。
そうだとしても棺の上にあったものが下まで落ち込んでいて、
封土+長年の土の堆積でかなり厚くなっているはずです。
実際には50㎝も掘れない20~30㎝が限度の耕運機では副葬品には届かないですね。

この遺跡、まったくおかしいです。
55:p君 :

2024/03/15 (Fri) 06:49:43

facebookで、久住さんは原田氏作のヤフオク模造鏡と「本物」との紐の穴形や研磨状況がどうこうなどズレた話をしておられますが、
一番大きなポイントは、原田大六が自ら精巧な鏡を造れたという事です。
原田氏は発見者(=考古学者)でありながらも鏡の製造ができたという事です。

その原田氏が発見状況に関わる複数の致命的な嘘をついています。
破片発見日という一番肝心なことを10年後にこそっとごまかしてます。
また原田氏が言う通知を怠った謎の新聞記者なんていません。
そして伊勢神宮内宮が火事になってご神体の八咫鏡が焼けたという事実はありません、これは完全な嘘です。

久住さんはこれらの嘘に反論できず、紐の穴形や研磨がどうこうなど専門的な話に持ち込み、論点をずらして話をごまかしておられます。
54:p君 :

2024/03/14 (Thu) 18:47:01

昭和40年1月18日に井手信英氏が塚畑から鏡の破片を発見したという事ですが、
それならばまず「通知義務」が井手信英氏にあるわけで、
何もむつかしくなく、破片の発見を交番に届けるか、役場に電話するかしていれば、
教育委員会、文化財保護課、あるいはどこかの大学に話が行き、
そして調査・発掘ということになったのでしょうが、
以前私が聞いた話ですが、井手将雪氏が「鏡の事なら大六さんが良かろう」ということで、
そして原田大六氏の登場ということになったようです。

つまり井手氏が交番か役場に届けてれば、そもそも原田氏の出番はなかったわけです。
だから2月1日の発掘開始まで、公的機関がこの破片が出た話を知ることがなかったわけで、
久住さんの言う「破片が出たという噂を聞いた近所の人が発掘までに墓を荒らしていた」という話が、
どれほどトンチンカンなのかお分かりいただけると思います。
そして墓を荒らしていたのは原田氏しかなく、
それをごまかすために、当初、「通知義務を怠った謎の新聞記者」の話を捏造していたわけです。

この井手信英・将雪氏と原田氏は最初からグルだったんでしょうね。
井手信英・将雪氏は公的機関に破片の発見を言えない事情があったわけです。

この発見自体が最初から捏造だったからです。
53:p君 :

2024/03/12 (Tue) 20:55:34

大野克浩
投稿者
トップコントリビューター
久住 猛雄 さん だれが荒したんでしょうか?


久住 猛雄
大野克浩 知りませんよ。近所近辺の噂を聴いた別の好事家、興味本位の方でしょう。それ以上の追求はできません。鏡が排土を全部ふるいにかけても不足箇所が生じているのはそのためかもしれません。逆に言うと原田氏の自作自演なら不足箇所が多い鏡が少なくないのが不自然過ぎます。現在だって発掘調査中に遺跡が荒らされたり、ここで遺物がたくさん拾えるという話がマスメディアに出たために遺跡が荒らされたり、そういうことは少なくないです。

大野克浩
投稿者
トップコントリビューター
久住 猛雄 >知りませんよ。近所近辺の噂を聴いた別の好事家、興味本位の方でしょう。<  それはダメでしょう。そんないい加減な見解はありませんね。破片の発見は井手氏と原田氏以外に知る人はいないわけですから。原田氏が破片の発見日をごまかしてる事と言い、墓荒らしは原田氏以外にはいませんが。
52:p君 :

2024/03/12 (Tue) 17:49:10

久住さん

>調査状況記録など)が公開されて、考古学者でそんなことを言う人はもう誰もいません。

旧石器捏造事件でも、F氏の最初の頃の数々の大発見に、考古学者で疑問を唱える人はいませんでした。

>考古学的、科学的に決着がついています。

奈文研も分からない着色方法の鏡の事をトピ題に出しています。
科学的に決着なんてしていません。


・平原遺跡発掘の最初の状況がおかしい。

この話をします。
昭和40年1月18日の破片発見日を、約10年後に、こそっと1月末などとごまかすような、
そんな人物の発掘に疑問を唱える考古学者がなぜいないのでしょうか。
原田氏は、自分が駆けつけた時には「墓はすでに荒らされていた」と言ってますが、
では誰が荒らしたのでしょう。

考えられるのは原田氏以外にいませんね。
51:p君 :

2024/03/12 (Tue) 07:28:22

久住さん 

軍人が陶氏作銘鏡を造ったと?
50:久住猛雄 :

2024/03/11 (Mon) 23:16:59

そういう意見も「あった」とは言いましたけど、資料(遺物だけでなく調査状況記録など)が公開されて、考古学者でそんなことを言う人はもう誰もいません。
科学的分析(鉛同位体比など)も当時のものとして考えるしかありません。
考古学的、科学的に決着がついています。
49:久住猛雄 :

2024/03/11 (Mon) 23:06:31

陶氏後漢代にいますよ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/陶謙
48:p君 :

2024/03/09 (Sat) 20:47:48

この「落款」が本物ならば、昭和49年に知人に模造鏡を配ったという事になります。

すでに平原1号墳墓から出てた大鏡に粘土かなにかで型を取るなんてことはできなかったと思います。

発掘された時点で文化財であり、そんな模造鏡を造るなんて無理であろうし、、
だいたい人にプレゼントなんて、どんな神経をしているんでしょう。

考えられることは【原田氏が鋳型を持っていた】という事ではないでしょうか。

47:p君 :

2024/03/09 (Sat) 20:29:54

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1709983795.png 原田大六氏はこの模造鏡を知人に配ったようです。

それがヤフーオークションに出てたようです。
46:p君 :

2024/03/09 (Sat) 20:28:39

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1709983720.png 裏には

昭和四十九年十一月
伊都国発掘調査記念
原田大六模造

と彫られています。
45:p君 :

2024/03/09 (Sat) 20:25:04

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1709983504.png 画像が1枚ずつしか貼れないので順番に貼ります。
これがヤフオクに出てたという事です。
44:p君 :

2024/03/09 (Sat) 20:19:56

Facebookでお友達の方が見つけてくれました。
これはどういう事なのでしょう。

【希少】伊都国発掘調査記念 原田大六模造「内行花文八葉鏡」八咫鏡 大銅鏡 青銅鏡 平原遺跡 共箱入 後漢代 古美術品 直径45cm

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n1125210124?fbclid=IwAR3Btu0hNtbRsQvVsIWl4sw8GMCIEEw1fHJEu3IDAmELoxEd2a3Z5xC1ZYA
43:p君 :

2024/02/21 (Wed) 21:44:47


「昭和四十年一月十八日、福岡県糸島郡前原町(現前原市)大字有田字平原二番地の通称塚畑を、
同地の所有者で有田字平原七二番地に住む、井出信英氏当時十九歳が、蜜柑の樹を植える為に
耕運機で植樹溝を掘っていたところ、大変な墓の副葬品に掘り当たったのである。」
(井出将雪「倭女王 大日孁の墓p30)


原田大六氏の著書『実在した神話』(1966年)のレビューから。
「原田の著書『実在した神話』によると、平原の蜜柑畑から鏡の破片が発見されてから原田が知らせを受けるまでに二週間が経過していた。その間に畑はむざんに掘り返されていた。発見直後に現場に急行した地元新聞社の記者は、通知を怠っただけでなく、
あろうことか「面倒になるから、隠したがよかろう」と言って帰ったという。破壊が進んだため三十日ですむ発掘作業が百日以上かかった。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やっぱり18日に井手信英氏が破片を発見、2月1日から本格的発掘開始なら、1月は31日までだから、ちょうど2週間ですね。

こんな空白期間があるのなら、いったい井手氏は鏡の発見を、最初に誰に報告したのか。
その疑問をごまかすために、原田氏が「報告を怠った謎の新聞記者」を捏造したのでしょう。
どこの世界に、自社のスクープになる遺跡発見を「面倒になるから、隠したがよかろう」なんていう新聞記者がいるのでしょうか。
また何新聞の誰なのかを全然書いていない、
そして「通知を怠った」というフレーズが原田氏から出てくる事自体、原田氏が文化財保護法での通知義務を知ってた証拠になります。


昭和40年1月末、通称をツカバタケといっている場所に、蜜柑の植樹をしようと、井手信英氏が耕運機で開削中に、地下50センチのところから鏡や鉄刀を掘り出した。
通知を受けた原田(筆者)は急いで現地に行ったが、無残に遺跡は破壊され、いかなる遺構であるかさえ皆目わからなくなっていた。
私は団長となり、遺跡を復元して行くという発掘調査で、やっとそれが方形の溝で囲まれている墳墓であることを知り得た。全国的にはこうした遺構は早く知られていたのであるが、墓地と認定されたのは、この平原遺跡以降のことである。
(『日本古墳文化―奴国王の環境』原田大六著)(1975年)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

普通、日本ではその月の18日は「末」とは言わないですね。
「中頃」「中旬」ですね。
井出将雪氏は著作で、発見の日を1月18日とはっきり書いてます。
しかしながら原田氏は井手信英氏が破片を発見した日を「1月末」と言ってます。
この時点で、井出将雪氏か原田氏のどちらかが嘘をついているということになります。
嘘をついてるのは、18日とはっきり言ってる井手将雪氏ではなく、末などと曖昧なことを言ってる原田氏でしょう。、
だって1966年には「鏡の破片が発見されてから原田が知らせを受けるまでに二週間が経過」、つまり破片の発見日は1月18日だと言ってたのに、
1975年には鏡の発見を1月末などと言い変えてるわけですから、原田氏が嘘をついているということになります。
原田氏は、以前には「通知を怠った新聞記者」を捏造してたものの、何新聞の誰なのか聞かれたら困るし、
発見日をごまかすことに方向を変えたのでしょう。

どちらにしても鏡の発見から2月1日の発掘開始まで
その間に墓を荒らしていたのは井手氏か原田氏のどちらかですね。
ただし井手氏には墓を荒らす動機がありません。
しかし原田氏には考古学者としての名声が欲しいという動機があります。
実際は、井手信英氏による1月18日の鏡の破片の発見から、2月1日の本格的発掘開始までの間に、
原田氏が、自分が鋳造した鏡を平原1号墳墓に仕込んだ、それを原田氏は「すでに荒らされていた」などと言ってごまかしたのでしょう。
42:p君 :

2024/02/18 (Sun) 07:14:28

旧石器捏造事件での教訓は、おかしいと感じたら素直におかしいというべきという事でしょう。

久住さんが、原田氏が発掘した大型内行花文鏡について、さすがにこれは捏造ではないかという意見もあったと言われていました。
しかしやがてそのような疑問も立ち消えになったようです。

・平原遺跡発掘の最初の状況がおかしい。
・その発掘に在野の考古マニアの原田氏が関わっていたことがおかしい。
・その原田氏の経歴がおかしい。
・世界最大の鏡や着色鏡など発掘された遺物がおかしい。
・それに対する原田氏の見解がおかしい。
・21世紀に国宝になる経緯もおかしい。
41:p君 :

2024/01/18 (Thu) 22:04:18

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1705583058.jpg この画像と、5レス前の2023/12/18の私の投稿の平原遺跡発掘時の画像を見比べてみてください。

平原の不自然さが分かると思います。

平原の鏡は緑青もついてないし、破片の隙間に土がないです。



40:p君 :

2023/12/26 (Tue) 19:18:48

米田さん

今、中国の陶氏の話をしていますので、
記紀の中での陶の文字をいくら調べられても意味がないです。

>資料の提供です。好きに使って下さい。

いえ、けっこうです。
39:米田 :

2023/12/26 (Tue) 10:12:57

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1703553178.png
│Re: 古代史最大の捏造事件か
│- p君 2023/12/25 (Mon) 22:30:12

│陶氏が名を成すのは5世紀の陶 弘景(とう こうけい)以降であり、
│平原墳墓の2世紀後半以前に陶氏なる銘文の鏡が存在する事は
│おかしいというご意見をいただきました。


日本書紀と古事記に対して「陶」で検索をしてみました。

資料の提供です。好きに使って下さい。
38:p君 :

2023/12/25 (Mon) 22:30:12

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1703511013.jpg この陶氏作銘鏡にも不自然な穴が開いています。

ちなみに私がfacebookで、平原遺跡出土鏡は原田大六による捏造であるという書き込みをしたところ、賛同して下さる方もおられまして、
陶氏が名を成すのは5世紀の陶 弘景(とう こうけい)以降であり、
平原墳墓の2世紀後半以前に陶氏なる銘文の鏡が存在する事はおかしいというご意見をいただきました。

他にも賛同してくださる方もおられました。

37:p君 :

2023/12/25 (Mon) 20:44:36

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1703504677.jpg 話が前後します。
この方格規矩四神鏡にも不思議な穴が開いています。

画像の上の方と、画像の右下のあたりです。

※画像は物見遊山人 悠々自適さんからお借りしています。
https://pleasure-seeking.jp/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%85%A8%E9%8F%A1/

このような不思議な穴が開いている鏡の例をご存じの方がおられたら教えて下さい。
あちこちの鏡に普通にあるのなら私が間違えていることになります。
しかし私が見た鏡で、このような不思議な穴が開いている例はないのです。

1800年間も土の中にあった、ならばどういう原因でこのような穴が開くのでしょうか.
金属を土中の虫が喰うなんてことはあるわけがないですし。

しかもこの穴、大きさが同じような気がします。

私は鉄のなにか、例えば彫刻刀のようなもので穴を彫ったのではないかと考えてます。



36:p君 :

2023/12/18 (Mon) 19:16:06

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702894567.jpg 「邪馬台国大研究」から写真をお借りします。

この鏡の出方、何かおかしくないですか。

重なっている鏡の破片と破片の間に空間があって土がないような、何か不自然さを感じます。
1800年間も土中にあったら、微細な土が隙間に入り込むと思うのですが。

原田氏が発見した40面の鏡のうち、
緑青が一部分に付いてるのは、このむき出しの部分についているということでしょうか。

どういうことなのでしょう。
35:p君 :

2023/12/16 (Sat) 18:47:37

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702720057.jpg 方格規矩四神鏡の緑青部分ですが、何か不自然な丸い穴が開けられてます。
他の鏡にもその穴が見られます。
1800年間も土中にあって、大部分は模様がすり減りもしてないほど綺麗なのに、
しかしながら何か不自然な穴が開いている。

私は、こんな不思議な現象は自然には起こらないだろうと思いますし、作為的な感じは否めません。
34:p君 :

2023/12/16 (Sat) 18:23:50

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702718630.jpg オヤジッチさん。

>A区鏡群、B区鏡群を横切っているのはトレンチではなく、植樹溝、これで発見されたのだけど、A区、B区などが撹乱された。<

この画像を見る限り、50センチ掘っただけの耕運機では鏡埋納地層に到底届かないと思われます。
この上に封土があったわけですから。

井手信英氏が80㎝掘ったと手記に書かれてると聞きましたが、それでもおそらく届かないであろうし、そもそもミカンを植えるためという最初の証言から大きく逸れた話になります。
33:オヤジッチ :

2023/12/16 (Sat) 10:19:04

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702689544.jpg D区銅鏡出土状況、番号は銅鏡の号数
32:オヤジッチ :

2023/12/16 (Sat) 10:15:25

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702689326.jpg C区銅鏡出土状況、番号は銅鏡の号数
31:オヤジッチ :

2023/12/16 (Sat) 10:10:11

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702689012.jpg 平原1号墳副葬品配置図
A区鏡群、B区鏡群を横切っているのはトレンチではなく、植樹溝、これで発見されたのだけど、A区、B区などが撹乱された。
30:オヤジッチ :

2023/12/15 (Fri) 13:10:55

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702613456.jpg 平原遺跡の発見
 昭和40(1965)年1月18日、井手勇佑、節子夫妻は長男の信英氏と“蜜柑の苗木を植える”ため、曽根丘陵の一角にある通称「ツカバタケ」で植樹溝の掘削中に、大量の銅鏡片が出土した。
発掘調査
“福岡県教育委員会が事業主体”となり、考古学者の“原田大六氏を調査主任”とする平原遺跡調査団が組織され2月1日から調査が開始された。
遺跡の概要
①弥生時代中期初頭の竪穴住居、土壙などの集落遺構、②弥生時代後期の墳丘墓、土壙墓群とこれらに伴う祭祀遺構、③古墳、④鎌倉時代の土壙墓などを確認。
副葬品
棺内では、瑪瑙管玉12個、ガラス管玉30個以上、ガラス小玉約500個、細片を含むガラス連玉多数、ガラス耳璫片3個などが出土している。
鉄素環頭大刀1口、ガラス勾玉3個、ガラス小玉約500個は木棺の上に置かれたとされる。
棺外墓壙内からは総数40面の銅鏡が出土、墓壙の四隅と木棺南側中央部の5個所からまとまって確認された。
2鏡群は、銅鏡の破砕状況などはよく分からないが別の2鏡群では銅鏡が破砕された状態で出土した。墓壙内から出土した銅鏡の鏡種は超大型5面を含む内行花文鏡7面、四神鏡、四螭鏡1面である。
スロープも確認された柱痕跡、大柱とともに墳丘の西部で二対の鳥居状の並び柱列、北部で一対の並び柱列も検出されている。
これら柱群は、明らかに1号墓に対して方向を意識して意図的に配された位置関係を示している。

破砕された状態の大量の銅鏡をパズルを解くようにして復元、確認した。公開したのはその後。
29:p君 :

2023/12/14 (Thu) 18:56:52

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702547812.jpg 三雲南小路遺跡の甕棺に入っていた鏡です。
平原のような土中ではなく、甕棺に入っていた鏡がこれです。
全体に緑青がかかり模様が劣化しています。

これに比べ、前レスの「1800年間土中にあった鏡」がどれほど不自然なのか、お分かりいただけると思います。
28:p君 :

2023/12/14 (Thu) 18:47:11

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1702547231.jpg これなど何かおかしい感じがしませんでしょうか。

何か薬品を塗っているかのような感じもします。

この鏡を紹介するサイトでも、この緑青部分を「着色」としていたり、
そのように間違えるほど、これは緑青には見えないという事でしょう。

だいたい緑青って、こんな一部分に付くものでしょうか。
近くの三雲南小路遺跡で出た銅鏡などは全体に緑青がかかり、自然な劣化が見れます。
この鏡とは全然違います。

この鏡の緑青が付いていない部分は黒くなってますが、模様が立ちすぎてるし、綺麗すぎます。

日本全国の遺跡から発掘された保存状態の良い鏡はたくさんありますが、それでもやはり経年劣化で模様が寝ています。
しかしながらこの鏡など、さっき作りましたと言わんばかりの模様の立ち方です。
立ち方とは鋭角が強すぎると言えばいいのでしょうか。
とてもじゃないけど、この鏡が1800年間も土中にあったとは、私には思えません。

私はこの鏡を見たときに、直感で、これは捏造ではないかと感じました。

この鏡も国宝になっています。
27:p君 :

2023/12/13 (Wed) 19:51:43

久住さんによりますと、原田氏は、平原墳墓から出た鏡を自宅に持ち帰り、誰にも見せない時期があったそうです。

これ自体、文化財保護法的にどうなのか、
発掘された時点で文化財なのだから、一個人が自宅に持ち帰ってはいけないと思うのですが、
原田氏はなぜそんな事をしたのか、
おそらく原田氏には、鏡が公共のものという感覚はなかったと推測してます。
原田氏にとって鏡は私財だった、だから俺が持ち帰ってなにが悪い、という感覚だったのではないでしょうか。

これなども、原田氏が鏡を自ら造った証拠になるのではないかと思えます。
そして鏡を誰にも見せないその時期に原田氏は何をしていたのか。

その時にトピ題の彩色という事も考えられますが、私は古さの演出をしていたのではないかと考えてます。
原田氏が発掘した鏡には緑青が付いてはいますが、その付き方が不自然です。
またおいおいと写真で説明していきたいと思います。
26:p君 :

2023/12/05 (Tue) 19:51:01

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1701773461.gif 「耕運機で50cm掘りました」
「いや50cmなら鏡の埋納地層に届かない」
「実は80cmでした」
「それでも鏡の埋納地層に届かないし、そもそも最初のミカンを植えるという話は何だったんだ」

そして、なぜどう考えてもトレンチとしか思えない溝をミカンの植樹溝などと言ってるのか。

私は文化財保護法と関係するのではないかと考えてます。

文化財保護法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E6%B3%95
>昭和25年(1950年)5月30日法律第214号)は、文化財の保存・活用と、国民の文化的向上を目的とする、日本の法律である。

平原遺跡発掘は昭和40年ですから、当然、この法律が施行された後ですね。

通称「ツカバタケ」といわれるくらいだから、その場所には、明らかな塚があったはず。

画像は平原2号ですが、ここも、1号墳と同じく、ど真ん中にトレンチが掘られてます、棺の場所に通っている部分です。
これは、掘る前から塚がどこなのかわかっていた証拠でしょう。

その塚を、在野の考古学マニアの原田氏が発掘するなどと言う行為は、
おそらく文化財保護法に抵触したのではないでしょうか。
そんな事が許されるなら、日本のあっちこっちの古墳が、
マニアによって掘られていくでしょう。
だから、原田氏は、畑の持ち主の井手氏に「ミカンを植える」という口実で、
掘ってもらったのではないかと考えてます。
自分の土地にミカンを植えるぐらいなら、たとえそこが塚であっても、
おそらく問題はないはずです。
実際、古墳に果樹が植えられている例はあります。

そういう事ではなかったか、と考えてます。
25:p君 :

2023/12/04 (Mon) 20:14:34

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1701688474.jpg ごく普通のミカンの苗です。
温暖な土地であれば、どこのホームセンターでも売っている普通の苗です。


私は、このトピの最初の書き込みで、

>蜜柑はせいぜいスコップで30cmも掘れば十分

と言いましたが、画像を見ても納得いただけると思います。

それが井手さんの深さ50㎝の植樹帯を掘ったという話になりました、が、耕運機のスペックで深さ50㎝掘れるとなっていても、実際には土に耕運機の歯がバウンドしますので、せいぜい掘れるのは30㎝ほどでしょう。、
本当にミカンを植えるのならそれで十分なのです。

それなら鏡の埋納地層に届かないと指摘されると、深さ80㎝掘りました、となったようですが、
ミカンの苗を植えるのに80㎝など、ありえないことが分かっていただけると思います。

ミカンを植えるために植樹溝を掘ったという話、これは嘘です。
24:p君 :

2023/12/02 (Sat) 20:36:30

https://www.jssscp.org/files/backnumbers/AandS70_4.pdf

前原市報告書のなかで,柳田康雄は詳細な観察結果を
もとに注目すべき論考を書いている(柳田:2000)。そ
の結論は,従来から倣製鏡と見なされている鏡(たとえ
ば表1の岡村編年の欄にある内行花文鏡6面)のほかに,
方格規矩四神鏡のほとんどすべてが倣製鏡で,舶載鏡は
16号「口宜子孫」銘内行花文鏡と17号魑龍文鏡だけ,
というものである。その根拠として,柳田は,中国鏡に
見られない銘文・紋様や製作時の細かい痕跡が多くの方
格規矩四神鏡に見られることを述べている。なかでも,
最も有力な痕跡は鏡面の一部分に「意図的に施された薄
緑色の着色」だという。
薄緑色の「着色」は奈良文化財研究所の分析によると
顔料の塗布によるものではないもようだが,倣製鏡とさ
れる「大宜子孫」銘内行花文鏡に明らかに存在し,多く
の方格規矩四神鏡にも観察されるので,後者の鏡群も倣
製鏡だろうという論理である。柳田は中国鏡に無い要素
を倣製鏡の根拠としていくつも挙げているが,この論法
は,「まったく無い」ことを証明するのが不可能なため,
100%の説得力はない。しかし,中国鏡にほとんどみら
れない(柳田は無いと言っている)薄緑色の「着色」が,
同じ遺跡から出土した複数の鏡特に確実な倣製鏡に存
在するならば,それらが同じ工房で作られたとする主張
は納得できる。
薄緑色は,顔料塗布でなければ,表層にCu(n)の化
合物ができているためと考えられるが,それらが意図的
によるとするにはいくつかの疑問が残る3)。しかし,他
の証拠がいくつも挙げられているので,柳田説を前提に
して考察を進める価値はあるように思われる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

柳田さんの説は、倣製鏡であり、同じ工房で作られたという事ですね。

作られたのは弥生時代とは限らないと思います。
23:p君 :

2023/12/02 (Sat) 20:07:03

原田大六氏の著書『実在した神話』のレビューからです。

原田の著書『実在した神話』によると、平原の蜜柑畑から鏡の破片が発見され
てから原田が知らせを受けるまでに二週間が経過していた。その間に畑はむざんに掘り返
されていた。発見直後に現場に急行した地元新聞社の記者は、通知を怠っただけでなく、
あろうことか「面倒になるから、隠したがよかろう」と言って帰ったという。破壊が進ん
だため三十日ですむ発掘作業が百日以上かかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

じゃ、畑を荒らしたのは井手氏でしょうか。
井手氏は何のために自分の土地を荒らしたのでしょうか。
井手氏は溝を掘っていただけということなので、ならばだれが荒らしたのでしょうか。

「発見直後に現場に急行した地元新聞社の記者は、通知を怠っただけでなく、
あろうことか「面倒になるから、隠したがよかろう」と言って帰ったという」

またまた変な人物が登場してきました。
何新聞の誰なのか、せめてイニシャルくらい書いてほしいものです。

この鏡の破片の発見の最初の話が、きわめて捏造臭いと感じるのは私だけでしょうか。
22:p君 :

2023/11/30 (Thu) 12:12:53

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1701313974.jpg >もし七宝(しっぽう)なら、これは面白い話になりそうです。

七宝と仮定して話を続けます。

もし七宝なら、7世紀中葉-8世紀初頭の奈良県明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)から
棺金具の七宝亀甲形座金具が出てるようです(画像)

しかしご覧いただけるように、経年劣化しています。

平原1号墳を2世紀後半として、500年後に牽牛子塚古墳のこの七宝金具が見つかったという事は、
500年間の空白があります、その間に七宝は見つかっておりません。

さらに牽牛子塚古墳は八角墳という最上級の人物の墓制であり、斉明天皇陵である可能性が高くなっているようです。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/220311_Kengoshiduka_1.jpg/280px-220311_Kengoshiduka_1.jpg


そしてその内部は2重の漆喰で覆われ、副葬品を劣化から守られるようになっているようです、
にもかかわらず2世紀後半の、しかも1800年間も土中にあった平原の方格規矩四神鏡(6号鏡・国宝)の方が、
はるかに美しいという事はどういう事でしょう、あり得ません。

方格規矩四神鏡の彩色について、いやこれは七宝ではないと言われるかもしれません。
ならば何なんでしょうか。
おそらく誰も答えられない。
答えられないようなものが平原から出ていた、つまり、どっちに転んでも捏造としか思えなくなるわけです。
21:p君 :

2023/11/28 (Tue) 21:18:20

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1701173900.jpg
改めて方格規矩四神鏡(6号鏡・国宝)を見ますと、
「緋色(ひいろ)の 美しい朱銅(しゅどう)があらわれて」(鈴木貫爾氏)
その上に「薄緑色や黄色が確認でき」(伊都国歴史博物館)ですから、
そこで気になるのは、
鈴木貫爾さんの、
「朱銅を厚く美しく助成させるた めには,あらかじめ青銅の配合比を銅分が多くなるようにしておくこと,
焼硼砂の粉末を水でとかして表面に塗布して焼成することなどである.」
これです。

【硼砂】

ホウ砂(読み)ほうしゃ(英語表記)borax

https://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%82%A6%E7%A0%82-132036
(抜粋します)
・ホウ酸塩鉱物の一種。硼砂とも表記される。
・加熱すると無水物になり、731℃で融解する。また種々の金属を溶かし込んで特有の色を与える。
・350~400 ℃ に加熱すると無水物となり,これをさらに878 ℃ まで加熱すると融解して無色透明なガラスとなる。
 融解したものはよく金属酸化物を溶かし,ほう砂球反応に用いられる.
 四水和物は天然にカーン石として産出する.ホウ素,ホウ酸塩の主要原料である.
 金属ろう付けの融剤,ガラス,うわぐすり,ほうろう,食品貯蔵用などの原料として用いられる.

※種々の金属を溶かし込んで特有の色を与える。
※金属ろう付けの融剤,ガラス,うわぐすり,ほうろう,食品貯蔵用などの原料として用いられる.

ほうろう=エナメル、または七宝(しっぽう)

これではないでしょうか。
分かりませんが、もし七宝(しっぽう)なら、これは面白い話になりそうです。
20:p君 :

2023/11/28 (Tue) 13:44:49

九州の顔 平原王墓は国家の起原 井手將雪

https://www.youtube.com/watch?v=1mwzGC9exj4

(1分35秒あたり)

井手将雪
「最初に原田先生にお会いしたのは、私が拾っていた遺物を、発掘中の原田先生に「ここにありました」と言って渡した時からです。」


植樹溝を掘っているときに鏡の破片を見つけたから、原田氏を呼んだのなら、原田氏がやってきて発掘を開始する前にその鏡を見せてたでしょう。
それとも原田氏は鏡を見せてもらってないのに「すでに発掘を始めてた」という事ですか。
井手氏の証言からはそう受け取れますね。
何なんでしょうこれ。

「昭和40年1月末、通称をツカバタケといっている場所に、蜜柑の植樹をしようと、井手信英氏が耕運機で開削中に、地下50センチのところから鏡や鉄刀を掘り出した。

通知を受けた原田(筆者)は急いで現地に行ったが、無残に遺跡は破壊され、いかなる遺構であるかさえ皆目わからなくなっていた。(『日本古墳文化―奴国王の環境』原田大六著)」

この話と矛盾しますね。

それとも井手信英氏が鏡の破片を発見し原田氏を呼ぶ以前に、
井手将雪氏は別の鏡の破片を見つけていたという事でしょうか。
ならばなんでその時に、市役所の文化財課なり、鏡に詳しい原田氏に報告しなかったのだろうか。

私は、植樹溝がじつはトレンチであったことも含め、原田氏が、この話の最初からすでに発掘を始めてたと思っています。
前記の平原1号墳墓の真ん中と両端を突き抜けてるトレンチから考えてもそう思います。

原田氏は最初から、井手氏の土地にある「塚」に目を付け、そこをオオヒルメの墓にしたかったのでしょう。

なんだか登場人物の証言がほころび始め、矛盾がどんどん浮き彫りになってきていますね。
19:p君 :

2023/11/28 (Tue) 13:28:05

いとなさん
> ⇒11月26日付けで紹介した柳田論考によれば何ら矛盾は生じません。奈文研での分析方法の詳細は分かりませんが、この結果を金科玉条とするのではなく、再度詳しく調査すればよいでしょう。<

これですか。
[平原出土の当該鏡群については柳田康雄先生(元福岡県教育庁、元國學院教授)の正式報告書が出されていますが、ここでは『伊都国を掘る・大和書房・2000年』の記載から引用します。鏡は鋳造直後の研磨前に着色されたものであり、渡来系工人の指導の下に現地工房(イト国)で製作されたもの、つまり仿製鏡群であろうと推察されています。]

これはあくまで「そうではないか」という柳田さんの推論ですね。そうであったという証拠はないと思います。
「鏡は鋳造直後の研磨前に着色されたものであり」というのは、技術的にその通りなのかもしれませんが、今はその着色の方法や技法の話をしています。
このような着色鏡は中国にも朝鮮半島にも出ていないようなので、
渡来系工人が教えるなどという事はなかったかと思われます。
鏡への着色など、弥生時代には顔料の塗布以外にはないと思われますし、この方格規矩四神鏡(6号鏡・国宝)が、顔料の塗布ではない時点で、現代技法か、あるいは弥生時代からかなり後世の技法としか考えられないと思うわけです。例えば今私が考えているのは「七宝(しっぽう)」です。これについてはまた近いうちに書きこみます。


>>前述の「現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり,遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有り」という事を、柳田さんは述べられているという事ですね。
 >⇒この問題提起は柳田先生では無く、貴方のお考えを述べたものです。


  耕運機ではせいぜい50㎝までであり,遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有り」と言われたのは柳田さんですね?  
いとなさんが言われた、 「次に平原出土の当該鏡群については柳田康雄先生(元福岡県教育庁、元國學院教授)の正式報告書が出されていますが、ここでは『伊都国を掘る・大和書房・2000年』の記載から引用します。
(略)
また、現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有りとのことでした。これには実際に耕運機で現場を耕した当人の井出信英氏(地主の長男)の手記が遺されており「深さ80㎝まで掘り返した」と明記されています。」という事ですからね。


そして、久住 猛雄氏
「鏡群の大半は、墓坑の祭祀儀礼面の四隅にあり、その一部が耕作溝で撹乱され失われました。写真だと奥の方。耕作溝は木棺跡小口部の上部も破壊してますが、完全に下部までは及んでいません。また、前原市報告の柳田康雄先生の考察では、長宜子孫と大宜子孫の内行花文鏡だけは完形で木棺小口側にあった可能性(ただし状況的に棺内ではなく棺上副葬の落ち込み)が説明されています。いずれにしても、耕作溝は墓坑四隅の鏡群配置レベル(棺外副葬祭祀儀礼面)までは及びましたが、木棺そのものを下部まで破壊するに至らず、棺部にあった可能性がある2面も棺上副葬の落ち込みで棺内底面にはなかったので、大野さんの指摘は当たりません。」

そりゃせいぜい耕運機で50cmしか掘れないのなら、柳田さんの言われるように、「棺上副葬」になりますよね。
柳田さんは井手信英氏が80cm掘ったという証言を知らなかったか、無視されてたのか分かりませんが、仮に本当に80cm掘ったのでであったら、割竹木棺70cm+封土10cmという事でしょうか。しかし封土が10cmという事はないと思います。だから80cm掘っても遺物収納地層には届かなかったと思われます。
何度も言ってるミカンの苗を植えようとしたとは思えない事も含め、この話自体が嘘だと思っています。
18:いとな:

2023/11/28 (Tue) 11:14:34

P君さん

>トピ題に書いてある通り、弥生後期当時の技法とは到底考えられない鏡が平原遺跡から出たわけです。
 ⇒11月26日付けで紹介した柳田論考によれば何ら矛盾は生じません。奈文研での分析方法の詳細は分かりませんが、この結果を金科玉条とするのではなく、再度詳しく調査すればよいでしょう。

>前述の「現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり,遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有り」という事を、柳田さんは述べられているという事ですね。
 ⇒この問題提起は柳田先生では無く、貴方のお考えを述べたものです。

いずれにしても、どうも論点が噛み合いません。
この辺りで私は打ち止めと致します。
17:p君 :

2023/11/27 (Mon) 20:26:06

いとなさん

>先ず、彼は軍隊生活(8年)前に東京の津上製作所でゲージのラッピング(琢磨)工として
働いていました。旧制中学卒でしたから一職工という身分であり、研磨技術はともかく当時の冶金学全般の知識などは習得していませんでした。
 その彼が問題の着色鏡や大型内行花文鏡など数十面もの青銅鏡を鋳造したとは、到底考えられません。><

トピ題に書いてある通り、弥生後期当時の技法とは到底考えられない鏡が平原遺跡から出たわけです。
最初、鏡と太刀が出た時、井手氏が「鏡の事なら大六さんが良かろう」ということで原田氏を呼んだという事ですね。
この着色鏡が弥生後期当時に当たり前の鏡なら何も問題ないわけですが、前述のごとく、こんな鏡はどこにもないわけで、
しかも現代技術としか考えられないものが出ているのなら、それは原田氏が研磨技術の技量的にどうなのか、金銭的にはどうなのか、という問題を置いといても、
深く関わっているのは原田氏としか考えられないと言ってるわけです。

「小林(※考古学者の小林行雄)が主張していた銅鏡の手づれ(摩滅)による「伝世鏡論」も、研磨工としての経験から否定し、鋳造時の不完全さからなる「湯冷え」(鋳型に金属が完全に回る前に固まってしまう事)であると敢然と主張した」(Wikipedia)

これが本当なら、【鋳造時】の不完全さからなる湯冷えについて述べてる時点で、
原田氏に鏡の鋳造経験があったと考えるべきではないでしょうか。

柳田康雄さんの件です、
>もし一連の捏造疑惑に繋がるような出来事があれば、当然直ぐに分かるはずです。

前述の「現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり,遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有り」という事を、柳田さんは述べられているという事ですね。
それに対して「実際に耕運機で現場を耕した当人の井出信英氏(地主の長男)の手記が遺されており「深さ80㎝まで掘り返した」という主張に、柳田さんは納得されたのでしょうか。
私なら、繰り返しになりますが、「80㎝も掘ったのならば、そもそもミカンの苗を植えようとしていたという話は何だったんだ」という疑問が湧いてきます。さらにミカンを植えるのに何で無意味な溝を掘るのだという疑問もありますので、それはこのトピの最初の方を読んでいただければ、お分かりいただけると思います。

そして直経46.5㎝の世界最大の鏡が出たという不思議な件も含め、決して陰謀論ではありません。
16:いとな:

2023/11/27 (Mon) 13:34:37

P君さん
26日付けのコメント、拝見しました。
変な言い方になりますが、どうも原田大六を「買いかぶり過ぎ」だと思われます。
先ず、彼は軍隊生活(8年)前に東京の津上製作所でゲージのラッピング(琢磨)工として
働いていました。旧制中学卒でしたから一職工という身分であり、研磨技術はともかく当時の冶金学全般の知識などは習得していませんでした。
 その彼が問題の着色鏡や大型内行花文鏡など数十面もの青銅鏡を鋳造したとは、到底考えられません。仮に捏造賛同者のグループがあったとしても、レベルの高い鋳物技術者、作業員の確保、原材料の入手、工房(設備)などの手当はどうするのでしょうか。まして金銭的工面や世間の眼からの隠匿などを考えるだけで、とうてい不可能だと断言出来ます。

 私が最後に紹介した柳田康雄氏は、その意味で「生き証人」としての価値があります。
氏は当時、國學院の学生でしたが、郷里の福岡・甘木に帰省中偶然に平原遺跡発見のニュースが流れ、現場へ直行し原田大六に直談判して調査員の一員に加えて貰った、と言う経緯があります。謂わば彼はそれまで原田との面識は無く外部の人間でした。そして発掘調査、その後の調査報告などにも関わり続けました。
その間、もし一連の捏造疑惑に繋がるような出来事があれば、当然直ぐに分かるはずです。

 この捏造問題提起は、世界的に最近流行の「陰謀論」の匂いがしてなりません。
15:p君 :

2023/11/26 (Sun) 19:17:29

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700993850.jpg いとなさん、返信ありがとうございます。

 >先ず古代鏡の着色については中国古代(戦国時代~漢代)に四色の顔料(赤、青、白、緑)を用いた鏡が現在35面ほど発見されています。彩画(文)鏡と称されて、大変希少な物ですが、平原に近い三雲南小路一号墳から破片数点が出土しています。(畏るべきイト国) そのほか、九州国立博物館には中国出土とされる詳細不明の漢鏡が収められています。<

知っております。このような鏡の破片もある様ですね。(画像)
ただし、平原の着色鏡「方格規矩四神鏡(6号鏡・国宝)」は、全然違うようです。
それはトピ題の伊都国歴史博物館の「色のついた顔料などを直接塗布しての着色とは考えにくく、何らかの化学的な処理により変色させている可能性」という発言でも分かるように、どうも古代技術ではなさそうなのです。
もし顔料を用いた鏡なら、奈良文化財研究所も簡単にその原料を特定できたでしょう。
つまり古代技術ではない時点で、元研磨工で鏡の鋳造経験もある原田氏自身の捏造ということになると思い、このトピを建てました。

>また、現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有りとのことでした。これには実際に耕運機で現場を耕した当人の井出信英氏(地主の長男)の手記が遺されており「深さ80㎝まで掘り返した」と明記されています。<

※「(柳田さんの)現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり,遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有り」
この情報、本当にありがとうございます。
私も不審に思っていたのはまさにここであります。
そして井手氏が「深さ80㎝まで掘り返した」という時点で、耕運機を何度か往復させたという事でしょうから、せいぜい30~40cm掘るだけで良いミカンの苗を植えようとしたという最初の話が嘘であることになります。
井手氏は通称ツカバタケで、80㎝も土を掘って、何かを見つけようとしていた、そう思っています。
それは何者かによる指示ではなかったかと思っていますし、原田氏ではないかと思います。

> さらに、もし捏造事件ということであれば、主導者たる原田大六の意図が最大の問題です。
考古学者としての名誉欲や功名心といったものを念頭に置かれているのでしょうか。

その通りです。
「突如として「おれは考古学をやる」と親族に宣言。林子平の六無斎に因んで、土地・家・金・学歴・資料・書物・妻・職を持たない八無斎を名乗る。」という事のようですが、私の拙い人生経験から言わせてもらえれば、このような事を名乗る人ほど、逆に、土地・家・金・学歴・資料・書物・妻・職に強く拘っていたのではないかと、そう思ってます。事実、現地には原田大六氏の銅像が建っているようですね。

>そのような欲望が人間にあることは否定しませんが、あのような条件下で、彼が彩色を企図する必然性やメリットは全く考えがたく認められません。<


彩色鏡は、何か研摩工としての自分の技量を誇りたかったかのように感じます,しかし自分が一番問題にしたいのは、あの直系46.5cmの八咫鏡と同型とする世界最大の鏡です。
自分がオオヒルメの墓を発見したのだ、という原田氏の主張は、未来にまで名を残す考古学者としての地位を認めてほしいという強い意図があったと考えてます。



> 最後に、原田大六という人間を知り、平原発掘調査に当たった柳田康雄氏から直接私が聴いたその人物評は「お付き合いはなかなか難しくて骨が折れたが、仕事に対する情熱には並々ならぬものを感じていた」とのことでした。
 「捏造」批判は、人格の全否定に繋がります。故人とは言え、このような言葉を用いての批判は十二分に慎重であるべきだと考えます。

情熱があった人だから、その人物への「捏造」批判は「人格の全否定に繋がる」というのはいかがなものでしょう。
この世でお金があろうがなかろうが、地位があろうがなかろうが、人に好かれてようが嫌われてようが、
その人物の言ってることが正しいかどうか、私はそれだけだと思います。
極端に言えば、殺人者で刑務所に入っていようが、その人物が言ってることが正しければ、私にはそれでいいのです。
14:いとな:

2023/11/26 (Sun) 13:15:49

P君さん
「古代史上最大の捏造事件か」という表題と、それが平原遺跡と原田大六に関するものであることが分かり大変驚きました。
 その趣旨は、平原から出た彩色鏡の顔料分析が奈良文化財研究所で検出出来なかったことと、東京芸大の鈴木教授による冶金と着色の現代技法論文が、この発想の元になり、原田が、地主等を巻き込んで着色工作に及んだのではないか、との指摘のようです。

 先ず古代鏡の着色については中国古代(戦国時代~漢代)に四色の顔料(赤、青、白、緑)を用いた鏡が現在35面ほど発見されています。彩画(文)鏡と称されて、大変希少な物ですが、平原に近い三雲南小路一号墳から破片数点が出土しています。(畏るべきイト国) そのほか、九州国立博物館には中国出土とされる詳細不明の漢鏡が収められています。
《宮本一夫・九大学術情報リポジトリ・彩画鏡の変遷とその意義・2000年より》

 次に平原出土の当該鏡群については柳田康雄先生(元福岡県教育庁、元國學院教授)の正式報告書が出されていますが、ここでは『伊都国を掘る・大和書房・2000年』の記載から引用します。鏡は鋳造直後の研磨前に着色されたものであり、渡来系工人の指導の下に現地工房(イト国)で製作されたもの、つまり仿製鏡群であろうと推察されています。 また、現場を掘り返した耕運機ではせいぜい50㎝までであり遺物収納地層には届かなかったはずで、整合性に疑問有りとのことでした。これには実際に耕運機で現場を耕した当人の井出信英氏(地主の長男)の手記が遺されており「深さ80㎝まで掘り返した」と明記されています。
 
 さらに、もし捏造事件ということであれば、主導者たる原田大六の意図が最大の問題です。
考古学者としての名誉欲や功名心といったものを念頭に置かれているのでしょうか。
そのような欲望が人間にあることは否定しませんが、あのような条件下で、彼が彩色を企図する必然性やメリットは全く考えがたく認められません。
原田は、責任者としてこの遺跡の発掘・保存に全精力を傾けていたことは間違いありません。彼の死後、地元有志が発起人となって『原田大六論』という大著が出されましたが、「ケンカ大六」という異名を持ち、何かと物議を呼んだこともありながら、彼の真摯な人柄が愛されていた証左だと思われます。

 最後に、原田大六という人間を知り、平原発掘調査に当たった柳田康雄氏から直接私が聴いたその人物評は「お付き合いはなかなか難しくて骨が折れたが、仕事に対する情熱には並々ならぬものを感じていた」とのことでした。
 「捏造」批判は、人格の全否定に繋がります。故人とは言え、このような言葉を用いての批判は十二分に慎重であるべきだと考えます。
13:p君 :

2023/11/25 (Sat) 09:14:11

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700871251.jpg 考古学におけるトレンチ(Trench,試掘坑,en:trial[test] trench )とは、遺跡の有無や遺構の分布状況を迅速かつ安価に把握して、発掘調査や遺跡の性質を判断するために掘られる溝のことをいい、試掘調査(trial excavations)の方法のひとつである。具体的には表面の耕作土などを除去するために掘られる溝である。元々トレンチとは塹壕という意味での溝のことを指す。(Wikipedia)


画像はトレンチの様子です。
もう一度、前記の平原1号墳全体図をご覧ください。
https://bbs1-imgs.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700191863.jpg

そっくりですね。
深さが50cmというのもほぼ同じではないでしょうか。
もはや植樹のための溝ではないという事がお分りいただけると思います。
平原1号墳には、そのトレンチが真ん中に1本、両端に2本、見事に古墳をとらえてます。
これはもう意図的としか思えません。

通称「ツカバタケ」では、おおよその古墳の場所が分かっていたのではないでしょうか。
それを原田氏が井手氏に頼んだのか、自ら行ったのかは分かりませんが、トレンチを入れたのでしょう。

鏡の鋳造経験がある原田氏は、その時にはすでに、例の40面近い鏡を完成させ「用意」していたと推測しています。
そして復元という名の発掘調査で、それらが出たことにした、と考えてます。
12:p君 :

2023/11/23 (Thu) 13:30:16

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700713817.jpg ミカン農家が苗を植えた画像です。横が2.75mで縦が2mだそうです。一部、作業性を重視し、軽トラが入れるよう幅を広げて植えるケースもある様ですが、それでも5mもあれば充分でしょう。どちらにしましても耕運機で「植樹溝」を造るなんてことはない様です。原田・井手両氏の話がいかに不自然なのか、お分かりいただけると思います。
11:p君 :

2023/11/22 (Wed) 12:16:56

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700623016.png 伊勢神宮内宮の御神体である八咫鏡ですが、13世紀の内宮遷宮沙汰文では、鏡を入れる樋代の具体的な大きさが判明しており、その内径は23㎝ですね。
という事は八咫鏡の大きさは20cm程度という事でしょう。

画像は安本美典さんのHPからです。

伊勢神宮の御神体の八咫鏡がまったく別の鏡に入れ変わったとは考えられず、
元々、八咫鏡は20cmくらいの大きさであった事をこれらは示していると思います。

おそらく原田氏は13世紀の「内宮遷宮沙汰文」の文永樋代が内径23cmである事、
19世紀の「書紀通釈」樋代内黄金箱が内径27.3㎝であることを知らなかった。
つまり原田氏が発掘したという平原の直径46.5㎝という大きな鏡は、
皇太神宮儀式帳や延喜式に「一尺六寸三分」と書かれてる事を根拠とし、
原田氏がそれに合わせて作ったのでしょう。

ところが原田氏は、

(wiki「八咫鏡」より)

「原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、その時に新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」という。また、「図象も実際に見て模写するべくもないであろうから、これも変化しているだろう」という]。
※原田大六『平原弥生古墳 大日孁貴の墓』

伊勢神宮が火事になったかどうか、検索しますとこういうのが出てきました。

1434年、伊勢神宮内宮に盗賊が侵入。神殿内の金物等が賊に盗まれる
1442年、外宮に盗賊侵入。荒らされる
1486年、内宮と外宮の神人が武力衝突、外宮正殿が放火され完全焼失。
1559年、内宮本殿が火事で焼失。
この時期内宮120年、外宮129年に渡って式年遷宮できず

この「1559年、内宮本殿が火事で焼失」の事でしょうか。
詳しく調べてないので、これが正しいかどうかは分かりませんが、式年遷宮が行われなかった時期があるのは間違いないようなので、おそらくこれのことでしょう。
しかし八咫鏡が焼けたという記事はありません。
また火事があったとしても、それは1559年の事であり、13世紀の内宮遷宮沙汰文の後です。

原田氏は、平原遺跡の発掘の際、直系46.5cmの大型内行花文鏡が伊勢神宮の御神体の八咫鏡と同型の鏡であると主張していたものの、
13世紀の「内宮遷宮沙汰文」の文永樋代が内径23cmである事、
19世紀の「書紀通釈」樋代内黄金箱が内径27.3㎝であることを、
「後から知った」のでしょう。
だから慌てて「約三回ほど内宮の火災があり」とか、
「直径46.5cmの大きさではなくなっている」とか、
「図象も実際に見て模写するべくもないであろう」とか言ってごまかしているわけです。
万が一、火災で八咫鏡が紛失したことがあるとしても(そんな話はどこにも出てきませんが)、
そして八咫鏡を作り直したとしても(そんな話もどこにも出てきませんが)、
46.5cmから20cmにと、大きさが半分以下に替わるなんて事はありえないです。
元の大きさのまま作り直したでしょう。

そういう原田氏の見解に対して、火災の記録があるのは、

「宮中三殿の賢所では、八咫鏡の形代としての神体の鏡が祀られるが、これは天徳4年(960年)9月23日(『日本紀略』『小右記』)、天元5年(982年)11月17日(『愚管抄』 「焼タル金ヲトリアツメテマイラセタリ」)、寛弘2年(1005年)11月15日(『御堂関白記』)、長暦4年(1040年)9月9日(『春記』藤原資房)等に火災の記録があり、それらの記述によると数多の火災によって鏡の形状を残しておらずわずかな灰となって器の中に保管されているようである. [大村拓生 「一〇〜一三世紀における火災と公家社会」 (『日本史研究』第412号. 1996年. 3頁以下)

ですから、あくまで宮中、賢所の形代の鏡の事であり、伊勢神宮の御神体の八咫鏡の事ではありませんね。


自分が吐いた嘘がばれそうなので慌てて話を捏造しながら訂正してる原田氏の姿が見えます。

原田氏は歴史の捏造者です。
10:p君 :

2023/11/20 (Mon) 12:56:55

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700452616.jpg ここにあった割竹木棺は、直径70㎝だそうです。
槨の深さが50cmくらいでしょうか、ならばその割竹木棺の最上部がちょうど槨の頂点に達しますね。

しかしです、封土があったはずです。
その封土は50cmはあったとして、墳墓の頂点までは、
割竹木棺の底からは70㎝+50㎝で120㎝。
棺外副葬祭祀儀礼面からは50㎝+50㎝で1m。

井手氏が耕作機で植樹溝を掘ったら、鉄刀と鏡を拾ったというのは、棺上副葬なら一応は分かります。
しかしどう考えても、鏡が沢山ある副葬祭祀儀礼面に達するには1m掘らないと到達しません。
ミカンを植えるための50cm掘れる耕作機では無理だったという事です。

画像の棺外副葬祭祀儀礼面の手前に少し黒い土が斜めに入っていますが、ここを耕作機が通ったという意味でしょうか。
副葬祭祀儀礼面を耕作機が通るわけがないのに、このような「復元」をしたのは原田氏でしょうね。

これも平原遺跡が捏造である証拠だと思います。
9:p君 :

2023/11/18 (Sat) 22:19:16

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700313557.jpg 昭和40年1月末、通称をツカバタケといっている場所に、蜜柑の植樹をしようと、井手信英氏が耕運機で開削中に、地下50センチのところから鏡や鉄刀を掘り出した。

通知を受けた原田(筆者)は急いで現地に行ったが、無残に遺跡は破壊され、いかなる遺構であるかさえ皆目わからなくなっていた。

私は団長となり、遺跡を復元して行くという発掘調査で、やっとそれが方形の溝で囲まれている墳墓であることを知り得た。全国的にはこうした遺構は早く知られていたのであるが、墓地と認定されたのは、この平原遺跡以降のことである。
(『日本古墳文化―奴国王の環境』原田大六著)

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>地下50センチのところから鏡や鉄刀を掘り出した

これは久住さんの言われた、
「前原市報告の柳田康雄先生の考察では、長宜子孫と大宜子孫の内行花文鏡だけは完形で木棺小口側にあった可能性(ただし状況的に棺内ではなく棺上副葬の落ち込み)が説明されています」というこれの事でしょうか。

しかし地下50センチのところから鉄刀と鏡を掘り出したのなら、
久住さんの言われる、
「いずれにしても、耕作溝は墓坑四隅の鏡群配置レベル(棺外副葬祭祀儀礼面)までは及びましたが、」とは矛盾しますね。
地下50センチのところにあった棺上副葬の鏡や鉄刀は耕作機が拾ったわけで、「棺外副葬祭祀儀礼面」までは到底達していないわけですから。

>通知を受けた原田(筆者)は急いで現地に行ったが、無残に遺跡は破壊され、

いやいやおかしいですね、平原1号墳墓には3本の植樹帯が通っていますが、無残に遺跡は破壊されてはいませんね。
じゃ破壊が本当なら誰がそんなことしたのでしょうか。
ただミカンを植えたかっただけという井手さんは破壊はしないでしょう。

>遺跡を復元して行くという発掘調査

なんですかこれは。
原田氏がしなければならなかったのは植樹帯以外の場所の土を丁重に取り除いていくことですね。
それとも遺跡を破壊したのは原田氏本人なのでしょうか。
そしてそれを自分なりに「復元」したのでしょうか。

またその無残に破壊されていた状況の写真はないのでしょうか。
当然カメラで写真を撮っているはずですけどね。
調査報告書にはそれがないのでしょうか。
色々調べていますがそんなもの見たことありません。

やはりこの平原遺跡、とんでもない話になりそうです。
8:p君 :

2023/11/17 (Fri) 12:31:03

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700191863.jpg もう一度、平原1号墳墓全体図です。

斜めに3本の植樹帯が入っています。
平原1号は「14メートル×12メートル」ということですから、
斜めの線をまっすぐにしてみると、おおよそ奇麗に3本の植樹帯が平原1号墳に収納します。
ということは、この3本の植樹帯は、中心点の距離で約7m間隔で掘られたことが分かります。

しかしです、ミカンの植樹列の間隔に7mなどありえません。
普通は3m間隔です。
農家がミカンを収入にするのなら、ギリギリ効率良く植えるのは当たり前です。
うちの近くもミカンの産地ですが、3mにも満たないような間隔で植えられています。
もしミカンの列が7mの間隔なら、木と木の間に差し込んだ日差しで雑草も生い茂るし、何一つ有益な事がありません。

そして繰り返しますが、ミカンの苗を植えるのに耕運機を使い植樹帯を造るなんて話もあり得ませんし、
つまり「植樹帯を造り、ミカンの木を植えようとした」というこの最初の話自体が嘘です。

では7m間隔のこの溝は何なのか。

考古学でいうトレンチではないでしょうか。
ここに塚があることが分かっていたので、トレンチという「試掘」、あるいは「おおよその当たり」を付けるために7m間隔の溝を掘ったのでしょう。

これらは畑の持ち主の井手氏の発案とは思えません、考古学者になりたかった、あるいは考古学者として有名になりたがっていた原田氏の入れ知恵としか思えません。
7:p君 :

2023/11/17 (Fri) 11:56:41

石見介さん、レスありがとうございます。

>銅鏡そのものは、他から入手されたものではなく、現地出土の可能性が、高いと思われます。

そうなんですけど、出土の仕方が極めておかしいのです。

>ざっくり言えば、近現代の技術処理が、行われた可能性を、検討せざるを得ないと思います。

そうだと思います、ありがとうございます。
この着色は、奈良文化財研究所でも手法が分からなかったそうです。
古代の着色は顔料の塗布以外にないと思うわけです、
そして顔料の塗布なら、その顔料は何か、奈良文化財研究所なら科学的に判明させたでしょう。
それが分からない時点で、これは古代の技法ではないと思われます。

>銅鏡の、他からの入手の情報が無ければ、銅鏡自体は、同墳墓出土したが、出土後に、近代的冶金技術に精通したじんぶつによって、加工処理された可能性が高い、という結論になります

私は、加工処理された鏡を、人知れず埋めた、あるいは発見されたことにした、などと今のところ考えてます。
仮に「出土後に、近代的冶金技術」を何者かが施したにしても、どちらにしてもそんなものを「国宝」などに認定してはいけないと思います。
これは古代史への冒涜であり、とんでもない話です。
6:石見介:

2023/11/16 (Thu) 21:44:02

 平原1号墳出土の,銅鏡そのものは、他から入手されたものではなく、現地出土の可能性が、高いと思われます。他から入手した場合、関係者が増加し、経緯がが露見する確率が、高くなるからです。

 しかし、銅鏡の化学的処理による着色というか、輝きは、同時代以前の、中国を含む東アジア圏で、「類例がない」、平原1号墳のみの、「特徴」であるならば、これは、所謂、「オーパーツ」で、後代の技術、ざっくり言えば、近現代の技術処理が、行われた可能性を、検討せざるを得ないと思います。

 銅鏡の、他からの入手の情報が無ければ、銅鏡自体は、同墳墓出土したが、出土後に、近代的冶金技術に精通した人物によって、加工処理された可能性が高い、という結論になります。

 平原2号墳出土銅鏡と同じ処理を受けた銅鏡が、有り、中国その他、半島や列島から、同時代以前に、出土していれば、その疑いは、晴れますが。
 日本国内の同時代以前或いは、ごく近い時代の出土で、発掘に、同じ人物が、関与していない事は、必要条件です。
5:p君 :

2023/11/16 (Thu) 14:16:12

話が前後します、すいません。

井手さんがたくさん登場しますので、本を書かれた井手さんと,畑の耕作をしていた井手さんの関係について分からなかったので、久住さんに、言葉が悪いですがカマかけて見ました。

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大野克浩
通常,ミカンを植えるのなら20~30センチの穴をスコップで掘るだけで済みます。なんでわざわざ耕運機を掛けているのだという疑問もあります。しかも

●井手将雪『倭女王大日孁貴の墓 : 日神・天照大御神に仕える巫女・太陽の妻が証明された』近代文芸社、1996年。
● 井手將雪『日本国家の起原と天孫降臨 : 天孫は奴国から伊都国へ降臨した』海鳥社、2014年. 

この井手さんと畑の持ち主で最初の発見者の井手さんの関係も気になります。

久住 猛雄
土地所有者が後からその重要性を理解しただけてすけど。アホらしいですね。


大野克浩
久住 猛雄 先生 >土地所有者が後からその重要性を理解しただけてすけど。< 

という事は同じ井手さんなんですねw
「あとから理解」って、最初からグルという事も考えられますね。

久住 猛雄
妄想妄想

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やはり本を書いた井手將雪氏が土地の所有者という事ですね。
鏡の破片が出た時、「鏡の事なら大六さんがよかろう」という事で、原田氏を呼んだと聞きました。
普通は市役所なりにまず電話をすると思うのですが。

つまり井手將雪氏と原田大六氏は昔からの知り合いだったという事ですね。

私はグルだと思っています。

4:p君 :

2023/11/16 (Thu) 12:04:58

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700103898.jpg 平原1号墳墓全体図




久住 猛雄
鏡群の大半は、墓坑の祭祀儀礼面の四隅にあり、その一部が耕作溝で撹乱され失われました。写真だと奥の方。耕作溝は木棺跡小口部の上部も破壊してますが、完全に下部までは及んでいません。また、前原市報告の柳田康雄先生の考察では、長宜子孫と大宜子孫の内行花文鏡だけは完形で木棺小口側にあった可能性(ただし状況的に棺内ではなく棺上副葬の落ち込み)が説明されています。いずれにしても、耕作溝は墓坑四隅の鏡群配置レベル(棺外副葬祭祀儀礼面)までは及びましたが、木棺そのものを下部まで破壊するに至らず、棺部にあった可能性がある2面も棺上副葬の落ち込みで棺内底面にはなかったので、大野さんの指摘は当たりません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

耕運機で真ん中の植樹帯(耕作溝)を作っているときに、耕運機が鏡の破片を拾ったという事のようです。

しかしおかしいですね。
下のレスの昭和40年の発掘風景の写真を見る限り、植樹帯などありません。

久住さんの言う「墓坑の祭祀儀礼面」は確認できます。
しかし、そこまで達している植樹帯などありません。
発掘風景の写真からは全く確認できません。

これはどういうことでしょうか。
3:p君 :

2023/11/15 (Wed) 14:00:44

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1700024445.jpg 「昭和四十年一月十八日、福岡県糸島郡前原町(現前原市)大字有田字平原二番地の通称塚畑を、
同地の所有者で有田字平原七二番地に住む、井出信英氏当時十九歳が、蜜柑の樹を植える為に
耕運機で植樹溝を掘っていたところ、大変な墓の副葬品に掘り当たったのである。」
(井出将雪「倭女王 大日孁の墓p30)

井手 將雪
イデ・マサユキ
1933年、福岡県に生まれる。平原遺跡の調査を行う原田大六氏と出会い、考古学を学ぶ。原田大六氏が亡くなったのち、平原弥生古墳調査報告編集委員として平原弥生古墳調査報告編集委員として『平原弥生古墳大日孁』(原田大六著)の製作に携わる。著書に『倭女王 大日孁墓』(近代文芸社)『日本国家の起源と銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸の謎』(日本図書刊行会)がある。


とてもじゃないけど、この画像を見る限り、封土もあったわけで、50cm掘れる耕運機で、鏡が出た層まで到達したのはおかしいです、ありえません。

2:p君 :

2023/11/14 (Tue) 17:34:51

https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1699950892.jpg 1965年(昭和40年)1月に前原市有田の井手勇祐、セツ子、信英氏ら土地の所有者がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、農作業中に偶然、平原遺跡1号墓が偶然発見された。福岡県教育委員会を調査主体として平原遺跡調査団が結成され、前原在住の考古学者原田大六を中心に多くの市民の協力を得ながら約3ヶ月半に及ぶ調査が行われた。
遺跡の主体は周溝墓群である。中心となる遺跡は、幅2m前後の周溝が18m×14mの長方形上にめぐる周溝墓群である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

根本的な疑問なのですが、蜜柑を植えるために「溝」を掘るというのはおかしいです。
蜜柑はせいぜいスコップで30cmも掘れば十分です。
50cm掘れる耕運機を使ったと聞きました。
なぜわざわざ耕運機を使うのか。
「新しく購入したので使ってみたかった」としても、耕運機はニュートラルでハンドルを持ち上げて進めますので、
3m間隔に蜜柑の苗を植えるとして、

(■が耕起ポイント)

■・・・・■・・・・■・・・・■

と、こんな感じならわかります。

何故わざわざ溝を掘るという手間や労力がかかることをしたのか。
ここは地名がたしか塚畑だったか、そう聞きました。
昔から「塚」が有るのはわかっていたでしょう。

だから耕運機を使って溝を掘った理由は、最初から「何かを見つけたかった」からではないでしょうか。

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