東アジア討論室
「系図・年表」での考察(図解)(4) - 米田
2024/12/06 (Fri) 08:35:04
「系図・年表」での考察(図解)(4) - 米田
ここのスレは、自称「系図解読復元マニア」による
<「系図・年表」での考察(図解)(3)>
の、続きのスレです。
自称「古代史・図解マニア」が、史料(資料)の
文章を理解するために、図示(年表・系図)をし、
それを使って考察(図解)をしてみました。
Re: 「系図・年表」での考察(図解)(4) - (管理人)
2024/12/10 (Tue) 11:39:11
┌
│Re: 「系図・年表」での考察(図解)
│(4) - 石見介 2024/12/09 (Mon) 20:59:34
│
│「天照大神」は、『隋書俀国伝』に記す、
│「天を兄、日を弟」とした、倭王のAD600年の、
│遣隋使の帰国後のAD601年の「辛酉革命」後の、
│倭国の「新体制」での「太陽の女神」です。
│
│それ以前の「日神」は、「オホヒルメ」(←:女)ではなく、
│「ヒルコ」(←:男)だと思われます。
└
┌
│Re: 倭の五王 - 石見介 2024/12/09 (Mon) 20:47:00
│
│日本の記紀は、将に、国家支配層の意図が貫かれた史書であり、
│当然ながら、「支配層の望まない事」は、避けられます。
└
:「国家支配層の意図」は、自らの「支配権の正統性」の主張です。
:この「支配権の正統性(権力の移譲の流れ)」は、高句麗本紀を
:見る(調べる)のが一番良いと思っています。
:
:高句麗本紀を自作の系図で見ると、
:朱蒙(于氏)→(解氏)→(于氏:新大王=神武天皇)と、
:「高句麗の支配権」が移っていきます。
:女性を男性のように見せたり、親子2代を1代に見せかけたり‥。
:それでも、それを正統だと主張しています。
:この「支配権」の「移動の法則」を知りたいと思っています。
:「ヒルコ」は、百済の温祚王から支配権の流れを見ています。
:「天明玉命」は、「出雲玉作氏」の先祖になりますから、
:「支配権争い」からは、脱落しています。
:「高麗④閔中王」の第一夫人(皇后)は、「正見母主」です。
:44年に、出産の後、亡くなっています。
:高句麗は、その後、「第二夫人(天照大神)」の子を
:高句麗王にしています。
:記紀は、系図の上で、第一夫人(正見母主)の場所に、
:「第二夫人(天照大神)」を「すげ替え」ています。
:そして、国の始まりを「天照大神」にしています。
PS:
:「71年生の女」と「89年生の女」は、
:「慕本王(解憂・わかひるめ・33年生)」や
:「天照大神(30±5年生)」の子孫(孫orひ孫)です。
PS:
:「大国主の国譲り」は、「正見母主」の「息子(大国主命)」に
:対して、国の統治権は、「私(天照大神)」の子孫のものである。
:と主張し、実行しています。
Re: 「系図・年表」での考察(図解)(4) - 石見介
2024/12/09 (Mon) 20:59:34
米田さん
「天照大神」は、『隋書俀国伝』に記す、「天を兄、日を弟」とした、倭王のAD600年の、遣隋使の帰国後のAD601年の「辛酉革命」後の、倭国の「新体制」での「太陽の女神」です。
それ以前の「日神」は、「オホヒルメ」ではなく、「ヒルコ」だと思われます。
編集未済
Re: 「系図・年表」での考察(図解)(4) - 米田
2024/12/08 (Sun) 14:42:32
<「日継ぎの御子」について(続)>
(「立皇太子」と「立太子」の違いについて)
:ここでは、仲哀天皇の「立太子」について書きます。
<「日継ぎの御子」について>
:(原則01:)「伊勢大神」に関連する女性を系図にすると、
:だいたい女系でつながっていることが分かりました。
:つまり、
:「伊勢大神」を祀る女性は、「天照大神」の女系の子孫であり、
:夫である、大王が亡くなった時に、「〇〇大神」を祀る女性で
:皇后であった女性が「国母(王太后)」になります。そして、
:自分の息子を「日継ぎの御子」として、次の大王に指名します。
:その時に、自分の娘を次の「〇〇大神を祀る女性」にします。
:
:この時の「国母(王太后)」が「日嗣ぎ」になります。そして、
:「国母(王太后)」の息子が、「日嗣ぎの皇子」になります。
:「日嗣ぎの皇子」は、「皇太子」と、定義しているようです。
:そうすると、この原則01は、下記の条件の時に、原則が崩れます。
・(01)皇后(狭穂姫)が大王(垂仁)よりも先に亡くなった場合。
:第一夫人(皇后)&娘が、大王よりも早く亡くなった場合、
:第二夫人の娘が(結婚して)「国母(王太后・日継ぎ)」となって
:第二夫人の孫娘に「日継ぎ」の役が引き継がれます。
:垂仁25年(356年)、
_天照大神を豊鍬入姫命から離し、倭姫命(大中姫命)に託した。
_(ヌナキ稚姫命(狭穂姫)は、弱まり、云々。)
─豊鍬入姫命─狭穂姫×─┬─〇〇
─垂仁天皇───────┘─────┐
─豊鍬入姫命─狭穂姫×──日葉酢媛─┴─倭姫命(大中姫命)
:垂仁26年(357年)、
_倭大神が、大水口宿禰にのりうつって、云々。
_↑(大水口宿禰が大中姫命と結婚した。)
:垂仁87年(=27年:358年)、
_イニシキは、〔同母〕妹の大中姫命に神宝を授けて治めさせた。
_↑物部トオチネに云々。
:垂仁28年(359年)、
_仲哀天皇は、13歳の大中姫命(日嗣ぎ)と結婚した。(立太子)。
_(結婚したことを「立太子」と言っているように見えます。)
:垂仁32年(363年)、皇后日葉酢媛が死去した(薨去ではない)。
(この時点で、日葉酢媛は、「日嗣ぎ」ではないので、死去。)
:同様に、ヌナキ稚姫命(狭穂姫)は、「日嗣ぎ」ではありません。
:つまり、仲哀天皇は「日嗣ぎの皇子(皇太子)」ではありません。
_(狭穂姫)
─ヌナキ稚姫命──仲哀天皇───────┬┬─かご坂皇子
───────両道入姫皇女──大中姫命─┘└─忍熊皇子
追加:
「彦人大兄」=「酢鹿之諸男」=「垂仁天皇」に、なるようです。
Re: 「系図・年表」での考察(図解)(4) - 米田
2024/12/08 (Sun) 13:14:55
<「日継ぎの御子」について(続)>
:「立皇太子」と「立太子」の違いについて書こうと
:思っていたら、現代訳の誤訳に気が付きました。
※:日本書紀・仲哀天皇紀(前文)
・稚足彦天皇48年、立爲太子。時年31。(原文__:岩波文庫)
・48年に、立ちて太子と為りたまふ。(大野晋_訳:岩波文庫)
・48年に、皇太子に立った。____(山田宗睦訳:ニュートン‥)
・48年に、皇太子にお立ちになった。(井上光貞訳:中央公論社)
※:誤訳繋がりで、「来帰」も(注意喚起の為に)書いておきます。
(天日槍は、266年頃に一度帰ったが、垂仁3年:274年、来帰。)
・三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉。_(原文__:岩波文庫)
・新羅の王の子_天日槍来帰(まうけ)り。(大野晋訳:岩波文庫)
・新羅王の子__天日槍が帰化した。(山田宗睦訳:ニュートン‥)
・新羅の王の子_天日槍が来帰した。(井上光貞訳:中央公論社)
※:おまけのついでに、気になるところです。(天智天皇紀前文)
(661年、日本の軍勢は、高麗を救うために、百済の‥‥)
・又日本救高麗軍將等、泊于百済加巴利濱、云々。(岩波文庫)
・又、日本の高麗を救う将軍等・・・。(大野晋訳:岩波文庫)
・また日本の高麗を救〔援〕する軍将たちが、(山田宗睦訳:‥)
・また、日本の高麗救援軍の将軍たちが(井上光貞訳:中央公論社)
(系図の考察は、別に書きます。)
Re: 「系図・年表」での考察(図解)(4) - 米田
2024/12/06 (Fri) 09:16:07
RE< ③「立太子」「立皇太子」について>
*****
Re: 「系図・年表」での考察(図解)(3)
- 石見介 2024/12/01 (Sun) 22:01:20
「天皇」や「天子」を自称する以前には、
勿論、「皇太子」は、存在しません。
「大王」も「漢字表記」であり、上代日本語では、
「おほきみ」であり、この語彙に宛てられる「漢字表記」は、
「大君」「大王」「王」「女王」と多様であり、倭国に、
唯一の「King」が存在したと言う、証拠にはなり得ません。
では、その「大王」の世継ぎとしての「太子」とは、
一体、何なのか?
「太子」の「上代日本語」の検討が、必要です。
「ひつぎのみこ」即ち、別な漢字表記では、「日嗣の皇子」
ですが、「日継ぎの御子」や、日と同じヒ甲類の「霊」「神」
の字を宛てられる語彙とも、互換性があるでしょう。
とすれば、日本語の「ひつぎのみこ」は、「大王」や「王」
の「神霊」もしくは「霊性」「霊魂」の「継承者」が、
本義であり、古代の「祭政一致時代」には、「まつりごと」
=「祭事」=「政治」を行っていた、「おほきみ」の
「霊性」「霊魂」の継承者、という意味が、
漢語の「太子」の表現になった事になります。
まあ、時代が下れば、霊性とは無関係な、世襲に移行するに
しても、『隋書俀国伝』や『萬葉集』等の歌謡からも、
「大君は神」だと言う観念の存在は、確認出来ます。
*****
<「日継ぎの御子」について>
(その1):〇〇は、伊勢の大神に侍した。(祀った。)
(その2):酢香手姫皇女をもって、日神の祀りに仕えた。
:(原則01:)「伊勢大神」に関連する女性を系図にすると、
:だいたい女系でつながっていることが分かりました。
:つまり、
:「伊勢大神」を祀る女性は、「天照大神」の女系の子孫であり、
:夫である、大王が亡くなった時に、「〇〇大神」を祀る女性で
:皇后であった女性が「国母(王太后)」になります。そして、
:自分の息子を「日継ぎの御子」として、次の大王に指名します。
:その時に、自分の娘を次の「〇〇大神を祀る女性」にします。
:
:この結果、次の大王は、「国母(王太后)」の(女系でつながる)
:孫娘・ひ孫娘を皇后にして、一家を構えます。
:そうすると、この原則01は、下記の条件の時に、原則が崩れます。
・(01)皇后が大王よりも先に亡くなった場合。
・(02)皇后に、男子が生まれなかった場合。
・(03)皇后に、女子が生まれなかった場合。
・(04)皇后に子どもが生まれなかった場合。
・(05)そもそも、男系の王統が代わる場合。
:そうすると、これらの困難の中で、先人たちは、
:どうやって、「日継ぎの御子」を守って来たのか、です。
:
:(つづく)