東アジア討論室
紀年論2ー日本書記と古事記 - 白石南花
2024/12/16 (Mon) 21:06:22
前稿の阿知使主の呉への朝貢に関する考察から、『日本書紀』の編年の在り方に関する、一つの仮説が提示できます。
すなはち口承による伝承を、残された文献から該当するものを見出し、そこに書かれた干支等の年代を指定する情報をもとに編年していくという方法です。
もちろんもともとの口承伝承に干支が含まれていた可能性は指摘できますが、ここで『古事記』の存在が非常に重要な示唆を与えてくれます。
『古事記』には崩御年の干支が付されていますが、これは註であって本文ではありません。
また干支が付された王と付されていない王があり、そもそも体系的な記録ではないと思われます。
崩年干支はその根拠が不明であるため、利用には警戒が必要なものであり、これを除くと『古事記』には時制がありません。
『古事記』の歴史は各王代の時代の伝承の繋ぎ合わせに過ぎないものです。
そして非常に重要な点は、序文によると稗田阿礼に記憶させた内容をもとにしたものと言うことです。
ここで口承伝承が歴史記録にどのような役割を果たしたのかを、考察してみたいと思います。
最古級の文字の一つ、楔形文字は『ギルガメシュ叙事詩』のような文学作品も残していますが、最初は粘土板に押される印象であり、始まりは記号としての利用で、言葉を表すものではなかったようです。
記号が言葉を表すまでには、かなりの段階が必要であり、最初は数字などをあらわす事務的な用途であったようです。
漢字も最初は記号であり、やがて占いの結果を記録させるために用いられ、やがて言葉を表すものに変容してゆきます。
文字を用いることと、それを用いて言葉で語られていた物語を記録することとの間には、大きなギャップがあるのです。
現在正倉院文書と知られている、漢字を万葉仮名的に用いて、日本語を記録されたものが存在しますが、文章としての背景説明がないうえ、方々が漢文の発想で書かれているため、非常に難解なものとなっています。
奈良朝に至っても、日本語の書き言葉が確立しておらず、文章を書くという作業は、漢文を書くことと同義だったことが分かります。
先祖から伝わった伝承を文書にすることは、まず伝承を中国語である漢文に翻訳することが必要であったわけです。
そうやって漢文に翻訳することで、失われる要素も多い上に、出来上がった史書は中国語の理解できないものには意味不明なものになったことでしょう。
天武朝のような文書行政が行われ、下級官吏にまで漢字が普及しはじめた時代になっても、なお語り部に記憶させたのは、そのような背景があったと思われます。
さて『日本書紀』が『古事記』と大きく異なっているのは、編年されていることです。
それは王代の物語として伝承されてきた出来事を、即位元年の干支と即位年を、時系列的に綴り合せたものでした。
そのために多くの史料が用いられたことが、『日本書紀』に記録されています。
(持統紀五年より抜粋)八月己亥朔辛亥、詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穂積・阿曇、上進其祖等墓記。(中略)九月己巳朔壬申、賜音博士大唐続守言・薩弘恪・書博士百斉末士善信、銀人二十両。
「八月十三日。十八の氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穂積・阿曇に詔して、その祖先たちの墓記を献上させました。(中略)九月四日。音博士の大唐の続守言・薩弘恪・書博士の百済の末士の善信に銀を一人に二十両与えました。」
十八氏に渡来系氏族は含まれていないようですが、ほどなく大唐の音博士・百済の書博士に銀二十両を与えた記事があり、関連する可能性があります。
推古朝以前の金石文や伝承された推古期文献に残された文字使いが、『日本書紀』に見える百済系文書と共通することから、五六世紀の文書が、百済系渡来人を中心とした人々によったことはほぼ間違いないと思われ、この十八氏の記録も百済系渡来人を中心とした人々によったと考えてよいと思われます。
阿知使主の朝貢のところで述べたように、これら渡来系の人々が残した文書は、即物的な事実を伝え、記録された人名も王朝の人々にはなじみのないもので、それらを綴った史書は、王朝人の望むものではなかったでしょう。
望まれたのは、『古事記』にまとめられたような伝承を、『百済本記』や中国史書のように編年体にすることで、その要求はたとえて言えば、昔々あるところにで始まる昔話の年代を決めるような、絶望的に困難なものであったと思われます。
『古事記』序文にはその困難をさらに深めたと思われる事情が記されています。
(古事記序文より天武天皇の言葉)朕聞、諸家之所齎帝紀及本辭、既違正実、多加虚偽。当今之時不改其失、未経幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之経緯、王化之鴻基基為。故惟、撰録帝紀、討覈旧辞、削為す定実、欲流後葉。
「朕聞く、諸家のもてる帝紀および本辭、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと、今の時にあたり、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨、滅びなむとす。これすなわち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定めて、後の葉に流へむと欲ふ
そこには天武天皇が、各氏族に伝わる記録には誤りがあるので正すとあります。
つまり伝承は天武朝において、標準化が行われたということです。
そこでは少なくとも即位した天皇とその即位順は定められたと思われます。
しかし『古事記』と同時代の和銅風土記には、『古事記』が天皇とされています。
『日本書紀』では即位した天皇と、その即順は『古事記』と一致していますが、周辺の系図には異説が載せられています。
おそらく即位した天皇についても、本来多くの異伝があったはずですが、それが『古事記』と一致しているということは、『日本書紀』編纂において、それが守るべき条件となっていたことが分かります。
しかし編年のために利用された史料には、それとは異なる事実が残されていた可能性が高く、編年をさらに困難なものにしたでしょう。
さて『古事記』序文はその内容が、帝紀および本辭と呼ばれる記録に基づいているとしている。
『古事記』本文が全く編年されていないことを考えると、帝紀および本辭がどのようなものであったかは分かりませんが、編年体になっていなかったと考えるのが妥当でしょう。
また『日本書紀』には推古朝において編纂された、『天皇記』および『国記』と呼ばれる書物があったことを述べていますが、『古事記』が推古天皇に関する記録で終わっていることを考えると、これらの書物と『古事記』との間に、何らかの関連があることを暗示していると思われます。
つまり『古事記』以前に何らかの史書があったとしても、編年体の史書にはなっていなかったと考えるのが妥当であると思われます。
つまり『日本書紀』は日本の歴史に関して書かれた、編年体の史書としての嚆矢であったと考えられます。
そのような史書が試みられた理由は、遣唐使などによって知られた中国史書や、編年体であった思われる『百済本記』などをみて、自国の歴史書をそれらに並ぶものにしたかったのでしょう。
決して天皇礼賛だけが目的ではなく、また中国や百済に見せるための物でもなく、むしろ国内にいる渡来系を中心とする、識字人に対しての矜持のためであったと思われます。