東アジア討論室
「三国志」「文帝記」が示した、漢時代の里を含む度量衡の継承 - 平井一海
2025/03/25 (Tue) 08:26:27
「三国志」「文帝記」が示した、漢時代の里を含む度量衡の継承、および「倭人傳」の短里説に関係する妄説のネット上での拡散過程の追跡 (続き)
3月13日の投稿「漢籍の再学習:その26」に引き続く「問題説」探しです、目指すのは、あくまでも、曲解や誤訳の拡散がどのような原因で起きたのかを調べる事にあり、研究者のあら探しでは決して有りません。
敢えて名前を伏せますが、某アマチュア研究者(以下、A氏と略します)は、下記の「文帝紀」と「明帝紀」のを引用した自分の和訳を示し、魏の明帝時代の景初への改元に併せて、皇帝が1里を76mに改定したことを示しているという自説をネットで拡散しています。A氏が勝手な意訳を目的に着眼した個所は下記の2か所です:
(A)文帝紀では、「同律度量」
(B)明帝紀では、「今魏用殷禮,變周之制」
以下、順次説明致します。
1 「文帝紀」についての曲解
1.1 この章は、魏の初代皇帝「文帝」となった曹丕がその施政方針を天下に示したことを記述しています。短里説を信じその根拠を探求していたA氏は、三国志の諸巻を探し回る中、「文帝紀」中の「度量」に着眼し、飛びついたと推測します。(他の研究者の説などをそのまま右から左に引用した可能性もありますが、引用の典拠を示していないので判断不能です)
1.2 曲解の原因は、A氏が「同」という動詞の中国語の意味と文法を全く理解出来ていない事です。この文節は、文帝が、漢帝国からの正当な後継者として皇帝の位につき、正統な王朝を漢から継承した最初の皇帝として、7つの施政方針を天下に示しており、「魏志」の中では重要な位置付けを与えられています。
その施政方針中の一つとして、(漢から継承した)律令と度量衡を統一して利用することを広く人民に命じたことを記しています。
これは実質的に、里については、漢帝国の里の定め(具体的には、1里=約415m(300歩))をそのまま継承し、その統一的利用を命じた。即ち、短里などの勝手な使用を禁じたことを意味しており、A氏の妄説とは真逆の意味を示す文章です。
1.3 なまじ同じ漢字を使っている親近感から、歴史関係では、漢文(=中国語)の文法や字義を無視し、そうした好き勝手な解釈がまかり通っている事例は枚挙に暇がありませんが、これはそうした不合理な曲解の典型例です。
2 「明帝紀」についての曲解
2.1 この章は、第二代皇帝(明帝)曹叡の業績を著しています。その中で最重要として位置付けられた事業は、皇帝の権威を天下に示す為に行った暦の改正です。しかしながら、短里説を信じその根拠を探求していたA氏は、文中の「變周之制」に飛びついたと推察。(これも、他の研究者の説などをそのまま右から左に引用した可能性もありますが、引用の典拠を示していないので判断不能です)
2.2 「今魏用殷禮,變周之制」は、皇帝が、漢から継承した周の制度を一部改め、殷の礼を復活させた事を記述したものです。考古学的に実在が確認されている中国大陸最古の王朝である殷(紀元前16世紀頃 から 紀元前1046年)を、周は継承しましたが、周はその制度の一部を変更、それらは、その後、春秋戦国時代、秦の始皇帝時代を経て漢時代まで継承されました。魏の第2代皇帝、明帝は、皇帝としての正当性と権威を強化する目的で、「青龍」から「景初」への改元を行うにあたり、殷の礼(社会規範)を一部復活させました。そのシンボルとして実行されたのが、下記和訳にある通り、皇帝に拝謁する式で掲げる旗の色を(殷時代の)白に戻し、戦の時に皇軍として掲げる旗の色を赤とした事です。
2.3 そもそも殷の時代には国の制度としての度量衡は存在せず(*)、当然の話、存在しなかった制度を変えたという事は有り得ない話です。
(*)出典:「中国古代度量衡史の概説」中国国家技術監督局管理研究所 丘光明氏& 楊平氏
2.4 3月23日の投稿「漢籍の再学習:その29 「禮記」の 「王制」が示した「周尺」および「方千里」」でご説明した通り周時代に使われていた里の定めは、漢の時代には、1里=約415mになっていました。上記の1.2の通り、それを魏の初代皇帝「文帝」は継承し、度量衡の統一政策を進めました。第2代皇帝の明帝が、初代皇帝だった文帝の度量衡の統一政策を変更したと言う記述は無く、その政策を引き継いだという事が合理的な解釈です。
2.5 要するに、皇帝政治の根幹である統治の思想(正当性や大義名分の尊重など)や律令制の歴史についてきちんと学習せずに、且つ、前後の文章をまともに読まずに、「變周之制」を自分勝手に短理への変更を意味すると思い込んだ、或いは曲解したと推定されます。
3 このA氏の不合理な情報拡散の教訓
ネットへの投稿(=情報拡散)は、所詮、個人の趣味領域であり、言論の自由の下で、学会論文と同等な厳密性を求めるつもりはさらさら有りません。
しかし、その一方で、令和の今、虚偽の情報拡散によって複数の自殺が発生した事は、無責任な情報の拡散に対して、我々がどう対処し、如何に行動すべきかについて重たい課題を突きつけています。
下記は、こうした過ちを繰り返さないための提言です。
3.1 他者の説や論文を引用した場合は、典拠(氏名と論文の表題など)を明示し、第3者の検証を可能にする。
3.2 先入観を捨てて、文章全体を熟読し、その意味を語源や文脈から正しく理解するという外国語を理解する上での鉄則を守る事。
3.3 読み慣れた漢字が使われていても、漢文はあくまでも中国語であり、日本語ではない事を知り、古代中国語(=漢文)を基礎(特に、動詞や助詞の使い方)からしっかり学習すべき事。
3.4 不明な漢字の意味を勝手に憶測・想像せず、必ず辞書を引き、古代中国の歴史、文化、思想史の再学習を行い、正しい意味の理解に努めるべき事。
3.5 今後については、生成AIを補助的手段として適切に使うことで、誤訳のリスクを減らす事を推奨しますが、その場合、原文とその出典、および使用したAIサービスを明示し、第三者による再検証を可能にする事が大切です。
(理由)生成AIの翻訳が常に正しいという過信は禁物です。
4 和訳
4.1 例により、生成AIの助けを借り、恣意的な翻訳を避けたものをご紹介します。下記をお読み頂けば、A氏がいかに根拠のない自説をネットで広めたのかがお判りいただけると思います。
4.2 今回の和訳も、使用したのは生成AI ChatGPTです。原文は、今回もChinese Text Projectのダウンロード。その底本は「武英殿二十四史」本「三国志」です。
4.3 「文帝紀」第14節(抜粋) 日本語訳:
(注意:注記は総て小生の注です。)
献帝伝
辛未(かのとひつじ)の日、魏王は壇上に登り、禅譲を受けた。 公卿・列侯・諸将・匈奴の単于、四方の異民族の朝貢者、数万人が陪席し、天地・五嶽(注1)・四瀆(注2)に燎祭(注3)を捧げた。
魏王はこう誓った。
「皇帝の臣・丕(ひ)、敢えて玄牡を用い、皇の皇たる天帝に昭告す。
漢は二十四代を経て、四百二十六年の長きにわたり続いたが、天下は疲弊し、王道は廃れた。五緯(五星)は乱れ、瑞祥と凶兆が入り混じって現れている。
術数(学問)を推し量る者たちが古の道を鑑みるに、皆、天の暦数(運命)は今この時代にて終わると論ずる。
これまでの数々の祥瑞や民神の意向を顧みるに、まさしく漢の数(寿命)は尽き、魏が天命を受ける証である。
漢帝は神器を私に授けるべきものとし、虞舜(しゅん:注4)のごとき憲章に則り、帝位を私に譲った。
私・丕は天命を畏れ、重責に震えているが、休むべきではないことも知っている。
公卿、庶民、六官の臣、外には将士、さらには蛮夷の君長に至るまで、皆、口を揃えてこう言う。
「天命は拒むべきものではなく、神器は長く空位にしてはならない。群臣は主を持たずに済むものではなく、萬機(注5)は統率者なくしてはならない。」
私はこれを畏み承り、慎んで受けるものなり。
龜卜を行うと、大いなる横の兆しが現れ、筮を三度行うと、革(変革)の兆しが示された。
そこで吉日を慎重に選び、群臣と共に壇上に登り、帝の璽綬を受け、大神に告げる。
汝(なんじ)、禅譲を司る神よ、これを受け入れ、永遠の吉祥をもたらせ。
兆民(民衆)の願いに応え、魏の世が続くよう祈るものである。」
こうして、魏王は詔を発し、三公に命じた。
「上古において君主が世に出るとき、まず恩徳を広めて風俗を美しくし、民が教化に従えば、刑罰を緩和した。
いま、朕は帝王の系統を承け、これより 延康元年を黄初元年と改め、
暦を改正し、服色を変え、徽号(尊号)を改め、律令・度量衡を統一する。
土徳(注6)を受け継ぎ、天下に大赦を施す。死罪に処される者を除き、すべての罪を赦免するものとする。」
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魏氏春秋
魏王(曹丕)が壇上で即位の礼を終えると、群臣を振り返り、こう言った。
「舜や禹の事績は、朕も理解している。」
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干竇搜神記
宋の大夫・邢史子臣は天道に通じていた。周の敬王三十七年、景公が彼に問うた。
「天道の祥瑞とは何か?」
邢史はこう答えた。
「五年後の五月、丁亥の日に私は死ぬ。その五年後の五月、丁卯の日に呉が滅ぶ。さらに五年後、君は亡くなる。
そして、その四百年後、邾王が天下を取る。」
やがて、すべての予言はその通りに実現した。
邾王天下とは、すなわち魏の興りを指す。
邾(ちゅう)の国は曹姓であり、魏もまた曹姓である。いずれも邾の末裔である。
ただし、年数に誤りがあるため、これは邢史が数を誤ったのか、あるいは長い年月のうちに注記が誤って伝わったのかは定かではない。
注1:五山、泰山、崋山、嵩山、恆山、衡山の総称
(出典;Wikipedia中国版)
注2:三河、黃河、淮河、長江、濟水の総称(同上)
注3:柴を焼いて天地五山三河を祭る(同上)
注4:古代中国の神話上の君主(同上)
注5:天下の政治(Wiktionary)
注6:五行終始説の下で、木火土金水の五行の内、漢が火徳を有したとし、それを次ぐ王朝は土徳を有するとの思想。魏王朝を正当化する方便。(ChatGPTとの追加的Q&Aの回答より)
4.4 「文帝紀」第14節(抜粋) 原文:
獻帝傳曰:辛未,魏王登壇受禪,公卿、列侯、諸將、匈奴單于、四夷朝者數萬人陪位,燎祭天地、五嶽、四瀆,
曰:「皇帝臣丕敢用玄牡昭告于皇皇后帝:漢歷世二十有四,踐年四百二十有六,四海困窮,王綱不立,五緯錯行,靈祥並見,推術數者,慮之古道,咸以為天之歷數,運終茲世,凡諸嘉祥民神之意,比昭有漢數終之極,魏家受命之符。漢主以神器宜授於臣,憲章有虞,致位于丕。丕震畏天命,雖休勿休。羣公庶尹六事之人,外及將士,洎于蠻夷君長,
僉曰:『天命不可以辭拒,神器不可以久曠,羣臣不可以無主,萬機不可以無統。』
丕祇承皇象,敢不欽承。卜之守龜,兆有大橫,筮之三易,兆有革兆,謹擇元日,與羣寮登壇受帝璽綬,告類于爾大神;唯爾有禪,尚饗永吉,兆民之望,祚于有魏世享。」
遂制詔三公:「上古之始有君也,必崇恩化以美風俗,然百姓順教而刑辟厝焉。今朕承帝王之緒,其以延康元年為黃初元年,議改正朔,易服色,殊徽號,同律度量,承土行,大赦天下;自殊死以下,諸不當得赦,皆赦除之。」
魏氏春秋曰:帝升壇禮畢,顧謂羣臣曰:「舜、禹之事,吾知之矣。」
干竇搜神記曰:宋大夫邢史子臣明於天道,周敬王之三十七年,
景公問曰:「天道其何祥?」
對曰:「後五年五月丁亥,臣將死;死後五年五月丁卯,吳將亡;亡後五年,君將終;終後四百年,邾王天下。」
俄而皆如其言。所云邾王天下者,謂魏之興也。邾,曹姓,魏亦曹姓,皆邾之後。
其年數則錯,未知邢史失其數邪,將年代久遠,注記者傳而有謬也
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4.5 「明帝紀」第33節 日本語訳
景初元年春正月壬辰、山茌県にて黄龍が現れたと報告があった。(「茌」の音は「仕狸反」に通じる。)
そこで、官僚たちは上奏し、「魏は大地の統治を得たので、建丑の月を正月とするのがふさわしい」と提案した。
三月に改暦が行われ、新しい年は孟夏(四月)から始まることとなった。
『魏書』に曰く——
もともと、文皇帝(曹丕)が即位した際、漢から禅譲を受けたため、漢の正朔(暦)をそのまま踏襲し、改めなかった。
しかし、皇太子の頃から、帝は論文を著し、「五帝・三王(注6)は同じ祖先を持つが、その礼制は互いに継承しなかった。ゆえに、正朔もまた改めるべきであり、新たな天命のもとでの王朝交代を明示すべきだ」と主張していた。
即位後、しばらくの間は暦の改定を行わなかったが、史官が再び改暦を上奏した。そこで、三公・特進・九卿・中郎将・大夫・博士・議郎・千石・六百石の官僚たちを集めて議論を行わせた。意見は一致しなかった。
帝は古典に基づき、甲子の日に詔を発した——
「太極は天の三辰(注7)・五星(注8)を運行させ、元気は地の三統・五行を循環させる。これらは盛衰を繰り返し、一つの時代が終われば、新たな時代が始まる。
だからこそ、孔子は『春秋』を編纂し、三微の月(異なる暦が交代する月)にはそれぞれ王の称号を記し、三正が交互に正月となる道理を示した。
今、三統の順序を推し量るに、魏は地統(大地の統治)を得た。ゆえに、建丑の月を正月とするべきである(注9)。
古典を考察すれば、その理義は明らかである。
よって、青龍五年三月を、景初元年四月に改める。(注10)」
この改暦に伴い、帝国の服色は黄色とし、祭祀の犠牲には白色の生き物を用い、軍事では黒首白身の馬を使うこととした。
戦争では「大赤の旗」を掲げ、朝廷では「大白の旗」を用いることとした。
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臣・裴松之の注釈:
魏は「土行」(五行における土の属性)を持つため、服色を黄色と定めた。また、殷(商)王朝と同じく建丑の月を正月としたため、祭祀の犠牲や旗を殷の制度に倣ったのである。
『礼記』に曰く——
「夏王朝は黒を尊び、軍事には黒馬を用い、祭祀には黒色の生き物を捧げた。
殷(商)は白を尊び、軍事には白馬を用い、祭祀には白色の生き物を捧げた。
周は赤を尊び、軍事には赤毛の馬を用い、祭祀には赤色の生き物を捧げた。」
鄭玄はこれについて次のように解釈している——
「夏王朝は建寅を正月としたため(注11)、万物が生じる色は黒であった。
殷は建丑を正月としたため(注12)、万物の芽が白かった。
周は建子を正月としたため(注13)、万物の萌え出る色は赤であった。
『易経』には『白馬翰如』とあり、翰とは白馬を指す。」
また、『周礼』の巾車職には、
「朝廷では大赤の旗を掲げ、軍事には大白の旗を用いる」
とある。
これは、周王朝は「正色(伝統の五色のうち適切なもの)」の旗を朝廷で用い、先の王朝の旗は軍事に使用したことを示す。
---------------- 注釈終わり --------------
今回、魏は殷の礼(社会規範)を採用し、周の制度を変えたため、朝廷では「大白の旗」を掲げ、軍事では「大赤の旗」を使用することになった。
また、大和暦は「景初暦」に改暦された。
この改暦によって、春夏秋冬の「孟(最初)・仲(中間)・季(最後)」の月名は従来の暦とは異なるものとなった。
しかし、「郊祀(天地の祭祀)、迎気(季節の到来儀礼)、礿祠(祖先祭祀)、蒸甞(皇帝の味見の儀)、巡狩(皇帝の巡幸)、蒐田(狩猟)、分至啟閉(昼夜の長短による節気)、班宣時令(暦の布告)、中気の早晩(暦の節気調整)、敬授民事(農事暦)」などの行事は、正歳(正統な暦の基準)および北斗七星の位置に従って決定された。
(注6:司馬遷の「史書」「五帝本紀」の記載で、五帝は、黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜。三王は天皇、地皇、泰皇、但し諸説有り。
(注7)三辰は、日、月、星の総称。(出典;Wikipedia中国版)
(注8)五星は、水星、金星、火星、木星、土星の総称。(出典;Wikipedia中国版)
(注9)旧暦12月を旧暦1月とする意味。
(注10)西暦237年(青龍5年)旧暦3月を景初元年旧暦4月とする(ChatGPTとの追加的Q&A)。
(注11)寅、旧暦2月を正月とすることを意味する(同上)
(注12)丑、旧暦1月を正月とすることを意味する(同上)。
(注13)子、旧暦12月を正月とすることを意味する(同上)。
5 「明帝紀」第33節 原文:
景初元年春正月壬辰,山茌縣言黃龍見。茌音仕狸反。
於是有司奏,以為魏得地統,宜以建丑之月為正。
三月,定歷改年為孟夏四月。
魏書曰:初,文皇帝即位,以受禪于漢,因循漢正朔弗改。
帝在東宮著論,以為五帝三王雖同氣共祖,禮不相襲,正朔自宜改變,以明受命之運。及即位,優游者久之,史官復著言宜改,乃詔三公、特進、九卿、中郎將、大夫、博士、議郎、千石、六百石博議,議者或不同。
帝據古典,甲子詔曰:「夫太極運三辰五星於上,元氣轉三統五行於下,登降周旋,終則又始。
故仲尼作春秋,於三微之月,每月稱王,以明三正迭相為首。
今推三統之次,魏得地統,當以建丑之月為正月。
考之羣藝,厥義章矣。
其改青龍五年三月為景初元年四月。」
服色尚黃,犧牲用白,戎事乘黑首白馬,建大赤之旂,朝會建大白之旗。
臣松之桉:魏為土行,故服色尚黃。行殷之時,以建丑為正,故犧牲旂旗一用殷禮。
禮記云:「夏后氏尚黑,故戎事乘驪,牲用玄;殷人尚白,戎事乘翰,牲用白;周人尚赤,戎事乘騵,牲用騂。」
鄭玄云:「夏后氏以建寅為正,物生色黑;殷以建丑為正,物牙色白;周以建子為正,物萌色赤。翰,白色馬也,易曰『白馬翰如』。」
周禮巾車職「建大赤以朝」,大白以即戎,此則周以正色之旗以朝,先代之旗即戎。
今魏用殷禮,變周之制,故建大白以朝,大赤即戎。
改大和歷曰景初歷。
其春夏秋冬孟仲季月雖與正歲不同,至於郊祀、迎氣、礿祠、蒸甞、巡狩、蒐田、分至啟閉、班宣時令、中氣早晚、敬授民事,皆以正歲斗建為歷數之序。