東アジア討論室

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私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 08:50:06

現在の討論室が閉鎖になるので、再スタートです。
今までの投稿の中で私が好きな邪馬台国九州説をここに整理しておきたいと思います。

邪馬台国九州説で是非残して置きたいものは書き込んで結構です。

討論・議論・畿内説は他のスレッドまたは新設スレッドでお願いします。

坂靖ヤマト王権論(20)卑弥呼の墓と台与の時代 当世奇妙

2024/04/05 (Fri) 19:53:21

1.卑弥呼の死後、男王が立ったが再び争乱、台与が立ち国が治まる。倭の諸国は分立しており、特別な女性の力でようやく統治される。倭諸国は分立状態だった。
2。布留式期以降、30年~100年以上を経て、三角縁神獣鏡が、1地域に集中せず、あちこちの古墳から出土する
3.奴碑を殉葬する風習は、弥生~古墳時代の日本には無い。
4.庄内式期に直径150mの円墳は存在しない。
5.卑弥呼の墓は魏志倭人伝によるかぎり、前方後円墳であるとは考えられず、規模もそれほどとは思われない。

坂靖ヤマト王権論(19) 魏志倭人伝の三〇国  当世奇妙

2024/04/04 (Thu) 19:35:57

1.邪馬台国大和説では「それから以北」は以東と読み替えることとなる。
2.伊都国の記載は特別である、
3.伊都国の王都、王墓は遺跡として確認されている。
4。対馬国~投馬黒では王都・王・卑弥呼との関係明示されていない。
5.邪馬台国が倭国の盟主とはなっていない。卑弥呼が倭国の女王となった。
6.女王国が南にあり、北にある諸国を統一。
7.倭においては諸国が分立。

坂靖ヤマト王権論(18)邪馬台国と箸墓の土器 当世奇妙

2024/03/11 (Mon) 19:48:18

1.近畿地方中央部の弥生時代の土器編年は
畿内Ⅰ~Ⅳ様式の弥生土器の時代。
2.弥生後期はⅤ様式の時代。

3.古墳時代以降の素焼きの時は「土師器」と呼ばれる。土師器の甕は丸底で外面「ハケ」、内面「ケズリ」で器璧は薄い。このような土器は布留式と呼ばれる。
4.Ⅴ様式と布留式の中間に「庄内式」土器が位置づけられる。
5.纏向型前方後円墳からは庄内式土器が出る。
6.箸墓は布留式の初期(布留ゼロ)が出る。
7.庄内式土器はカワチが先進地域でヤマトでは古いものが作り続けられた。
8.庄内式土器の年代の中心は三世紀半ば、で邪馬台国の時期にあたる。
9.箸墓は布留ゼロ(当世)





坂靖ヤマト王権論(17):奈良盆地の「クニ」と「オウ」 当世奇妙

2024/03/04 (Mon) 16:46:23

1.弥生時代、奈良盆地には「おおやまと」以外にも拠点集落、大規模集落がある。
2.「さき」地域、「わに」地域、「ふる」地域、
「そが」地域、「かつらぎ」地域である。
3.これらは拠点集落と水田・墓地で構成されている。
4.広域を支配した「王」は未だ登場していない。

坂靖ヤマト王権論(16):「おおやまと」地域 当世奇妙

2024/02/29 (Thu) 16:32:11

弥生時代、
1.唐古・鍵遺跡と周辺の衛星集落を流れる河川の上流、下流には、唐古・鍵遺跡と同様な拠点集落が集積する。
2.唐古・鍵遺跡、多遺跡(田原本町)、芝遺跡(桜井市)、坪井・大福遺跡(桜井市・橿原市)、四分遺跡(橿原市)である。「おおやまと」地域である。
3.個々の遺跡で環濠を形成し、銅鐸祭祀を行い、独自に青銅器・木工・手工業の生産を行っている。遺跡での連携はない。
4.唐古・鍵が「おおやまと」全体を統一してはいない。各集落が個別に「クニ」を形成していた。
5.弥生時代、奈良盆地の「おおやまと」地域は「クニ」としては統一されていなかった。

坂靖ヤマト王権論(15):倭国分立時代のヤマト2 当世奇妙

2024/02/24 (Sat) 19:35:53

唐古・鍵遺跡
1.唐古・鍵遺跡を中心に、その周辺ニキロ程度の範囲に小規模な集落遺跡・墳墓がある。
2。周辺の「衛生集落」は弥生中期に栄えた。
3.これらの集落は、唐古・鍵から出て来た人々である。
4.唐古・鍵の「クニ」は、このニキロ範囲である。

坂靖ヤマト王権論(14):倭国分立時代のヤマト 当世奇妙

2024/02/13 (Tue) 20:14:16

池上曽根遺跡
1.池上曽根遺跡の大型建物の柱の年輪年代は
紀元前52年+アルファ~56年+アルファ
2.柱周辺から発見された土器は弥生時代中期後半
(Ⅳ様式)である。
3.上記から弥生時代中期は紀元後1世紀から2世紀
4.池上曽根遺跡からは漢と直接交渉した痕跡はない
5.北部九州の弥生遺跡では楽浪系土器や前漢鏡など
多数の遺物が出ている。
6.近畿の弥生時代中期にはクニ・オウが存在した。が、中国との直接交渉はしていなかった。

坂靖ヤマト王権論(13):中国史書の倭国 当世奇妙

2024/02/09 (Fri) 20:17:38

伊都国の王都と王墓
1. 伊都国の王都と王墓は、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡にある。東西700m、南北(原文では東西)1km。
2. 初代の王墓は、遺跡内の西よりにある三雲南小路遺跡にある方形周溝墓(周囲に溝)で一辺30m。1号棺から35面の前漢鏡(江戸時代出土・ほとんど失われている)・朱の入った壺・銅剣・銅矛・ガラス製璧・ガラス製管玉・漢代の金銅製四葉座金が出土。2号棺かrたは22面の前漢鏡、翡翠製勾玉、ガラス製垂飾、ガラス製勾玉出土。
3. 三雲南小路遺跡の南100mに王墓と見られる井原ヤリミゾ遺跡。後漢初頭の方格規矩鏡17面他多数の副葬品。王墓の周辺から80基を超える弥生時代後期の墳墓群。伊都国王帥升の墓と推定される。
4. 三雲・井原遺跡の北東部に番上遺跡。弥生時代後期後半の土こうから楽浪系土器破片30点以上出土。中国土器の集中度は日本列島で一番高い。帯方郡使が長期滞在した形跡がある。
5. 三雲・井原遺跡の北西1.5kmに平原遺跡。埋葬施設は木棺直葬。超大型内行花紋鏡をはじめとして40面の銅鏡。漢代に流行した鏡と同類。平原1号墓は伊都国最終期の女王墓。
6. 伊都国では様々な種類の銅鏡が生産された。
7. 漢代の中国と交渉していたのは北部九州。

坂靖ヤマト王権論(12):中国史書の倭国 当世奇妙

2024/02/06 (Tue) 20:04:05

「奴国の王都と王墓」
1. 弥生時代中期から後期の奴国の中心部「王都」は須玖・岡本遺跡である。
2. 弥生時代中期後半から古墳時代前期までは、福岡市博多区の比恵・那須遺跡が奴国の中心である。遺跡の範囲は、御笠川から那珂川に挟まれた南北3km東西700mである。
3. 遺跡の各所からは楽浪・三韓系土器、山陰・近畿地方の土器が出る。
4. 古墳時代前期からは西新町遺跡が対外交渉と交易の一大拠点となる。
5. 那珂八幡古墳は奴国最終末期の古墳で、この時期はヤマト王権と一定の関係があったが、ヤマト王権の麾下にあったわけではない。

坂靖ヤマト王権論(11):中国史書の倭国 当世奇妙

2024/02/03 (Sat) 19:28:11

『後漢書』
1.建武中元二年(57)の倭奴国、永初元年
(107)倭国王師升遣使の記載がある。
2.倭国内は諸国が分立しており、北部九州にある
部族国家の一部が主導的立場に立ち、漢との交渉
を行っていた。
3.奴国の王が、北部九州の三十余国の盟主的存在で
あったが、倭国を統一した支配者ではない。
4.奈良県や滋賀県の遺跡で、後漢と直接交渉してい
たことを証明するような遺跡・遺物は出土してい
ない。
5.奴国・伊都国が倭国の盟主として押し出されてた
が、その支配領域は狭い地域である。

坂靖ヤマト王権論(10):中国史書の倭国 当世奇妙

2024/02/01 (Thu) 16:35:19

『後漢書』
1.成立は漢滅亡後200年以上経過した432年以降の南北朝
2.『隋書』の成立から100年以上後れる
3.倭のなかに部族国家が乱立し、30国に王が存在とする。
4.弥生時代の北部九州の集落遺跡や墳墓と整合する。福岡・佐賀・長崎には王都と考えられる大規模集落と王墓と考えられる墳墓が点々と存在する。
5.弥生時代の近畿中央部には大規模環濠集落は存在するが、王墓と考えられる墳墓は存在しない。

坂靖ヤマト王権論(9):中国史書の倭国 当世奇妙

2024/01/31 (Wed) 20:00:51

1.『漢書』は1世紀の後漢時代に成立した。
2.倭人について書かれた最初の情報だが、倭国や倭国王の名前もない。
3.倭国は統合されていたわけではなく、小さな部族国家が分立し、部族国家を束ねる盟主もいなかった。

坂靖ヤマト王権論(当世コメント4) 当世奇妙

2024/01/22 (Mon) 19:44:27

神武天皇論については議論が難しい。
しかし神武天皇陵は考古なので議論の余地・可能性がある。
坂氏の神武天皇陵論は、決定的ではないが、
現在推定しうる最良の推測・仮説と言える。
壬申の乱で天武天皇のために激戦を勝ち抜いた大伴氏が、天武天皇の了解の元に、自らの本拠地:畝傍山周辺に、神武天皇陵・橿原宮を築いたとする可能性は高い。100%ではないが、他に良い候補・考えが出るまでは、仮説の第一候補として良いと考える。

坂靖ヤマト王権論(8) 当世奇妙

2024/01/20 (Sat) 19:55:03

1.1697年の江戸幕府の山稜調査では「塚山」が他の候補を押しのけて神武天皇陵とされていた。
2.1878年明治政府により「塚山」は第二代綏靖天皇陵に治定された。
3.「塚山」は5~6世紀(古墳時代中期後半から後期前半)に造営された四条古墳群の一基である。
4.天武天皇は682年に新城に都を造ろうとした。藤原宮である。
5.藤原京の造営により四条古墳群の大部分は削り取られたが、「塚山」だけは意図的に残され、初代神武天皇陵として新たにつくりあげられた(今尾)。
6.藤原京を造営した天武天皇は神武天皇の「橿原の宮(畝傍山東南)」・神武天皇陵(畝傍山東北)を意識して、畝傍山一帯を「建国の聖地」とした。
7.神武天皇が橿原宮で即位する。この即位の記事の次に大伴氏の遠祖に係わる記事が記されている。
8.神武天皇は大来目に来目邑(橿原市来目町:畝傍山の西の川のほとり)を賜る。
9.畝傍山周辺は大伴氏の縁の場所だった。
10。壬申の乱の激戦で勝利した天武天皇の将軍、大伴吹負にとって橿原宮は自らの先祖の土地だった。
11.大伴氏は四条古墳群をみずからの先祖の墓と認識していた。
12.神武天皇陵も橿原宮も、天武天皇のもと、大伴氏によってつくりあげられたものである。

坂靖ヤマト王権論(7) 当世奇妙

2024/01/18 (Thu) 19:54:16

1.江戸時代に神武天皇の陵墓の探索がはじまり、畝傍山周辺の「ミサンザイ」「塚山」「丸山」など幾つかの候補があがった。
2.1863年(当世注:高杉晋作が奇兵隊を編制した年)、尊皇攘夷思想が高まるなかなかで、「ミサンザイ」「ツボネガサ」と称される小山をつないで神武天皇陵が新たに造営された。
3.その後周辺部を含めて整備がつづけられ、これを現在宮内庁が神武天皇陵として管理している。

坂靖ヤマト王権論(6) 当世奇妙

2024/01/17 (Wed) 14:43:08

1.『日本書記』は天武天皇十年(681)に天皇が詔して13人に帝紀と旧辞の編纂を命じたと記している。
2.上記は編纂の出発点で持統天皇の時代に編纂が開始され、当初は『日本紀』と言う説もある。
3.『日本書記』の成立時点では「日本国」の始祖は神武天皇とされた。
4.壬申の乱で天武天皇に従い近江軍と激戦し大和を平定したのは大伴吹負。
5.激戦の前に神武天皇陵と大和南部の高市神社、身狭神社で祭祀を行っている。壬申の乱当時に、大和南部の二社の神のもとに神武天皇陵が存在し、祭祀の対象であったことをうかがわせる記事として重要である。ただし、(略)この記事自体が創作であると言う見解もある。(北2018)
6.神武天皇は実在していたとは考えられないが、天武天皇の時代に確かに大和南部に神武天皇陵が存在した。
7.『延喜式』(平安時代中期編纂)にも神武天皇陵の記載がある。

坂靖ヤマト王権論(5) 当世奇妙

2024/01/06 (Sat) 11:26:44

神武天皇が実在したと考えることは出来ないが、なんらかの史実を反映していると言う論も多い。
さまざまの年代での西から東への動きの反映
①三世紀の邪馬台国東遷
②五世紀の阿蘇凝灰岩製の石棺の移動
③六世紀の継体天皇即位。
神武天皇の事績は後の時代の天皇業績の影響
①崇神天皇の業績
②応神天皇の事績
しかしこれらは仮説に過ぎず、証明されていない。これらの諸説の時代がばらばらであることからも明らかである。

坂靖ヤマト王権論(当世コメント)4 当世奇妙

2023/12/30 (Sat) 11:53:46

出雲王墓の西谷2号墓・3号墓からは吉備の特殊器台・特殊壺が出ている。吉備の人々は弥生終末期には日本海勢力との連携を強化している。
ヤマト最大の弥生集落 唐古・鍵遺跡でも弥生終末には瀬戸内の土器は急減し、近江土器が急増する。ヤマト勢力も弥生終末には日本海ルートとの連携をする必要が生じたようである。弥生終末瀬戸内ルートが衰退して、各地が日本海ルートを頼っている。考えられるストーリーは九州邪馬台国連合が伊都国に関所を設け、瀬戸内ルートを押さえ・絞ったのではないか?

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート - 福島雅彦

2023/12/30 (Sat) 11:51:33

当世奇妙さん、私は初めから畿内の大型古墳は九州皇統の廟ではないか、としています。

橋本輝彦氏にも、その旨の書簡を出しています。

纏向遺跡の大型建物は、土木作業員として全国から徴用された人用の労務宿舎ではないか。

小型の二棟は、九州から派遣された監督員宿舎。

故に、全国から集まった土器は徴用された人の出身地の物。

九州の土器が少ないのは、監督員が少数だったからではないか、と。

用水路は水洗便所兼資材運搬用か、とも。

この書き込みが不当でしたら、削除します。

坂靖ヤマト王権論(当世コメント3) 当世奇妙

2023/12/29 (Fri) 13:45:01

唐古・鍵遺跡の外来土器は弥生前期から東海の土器が多い。中期になると東海よりも瀬戸内の土器が多くなるが、ヤマト政権が出来はじめる弥生終末には瀬戸内の土器は急減し、また東海の土器が多くなる。箸墓建設キャンプと思われる遺跡にも東海の土器が多い。北條会長先生は箸墓建設に東海は建設労働者を提供したと話し、批判を浴びた。纏向遺跡でも初期から東海の土器が多い。北條先生の意見はあながち間違いではないのでは。いずれにしても、邪馬台国畿内説でも東海が狗奴国ではありえない。さすれば畿内説では東海以外に狗奴国を探さなければならない。

坂靖ヤマト王権論(当世コメント2) 当世奇妙

2023/12/28 (Thu) 16:41:27

初期纏向遺跡を作った人々が外来土器をもたらした人達という可能性も全否定は出来ない。纏向1式時期における纏向遺跡の土器は圧倒的(50%程度)に東海である。次いで吉備。もし外来の人とすれば,この二地域の誰かの可能性が高い。弥生終末に勢いがあったのは吉備と思われる。纏向を作ったのはヤマト人と吉備人・東海人も参加した連合かもしれない。唐古・鍵の外来土器を見ると弥生中期は瀬戸内の土器が多いが、後期になると瀬戸内は減り、近江が増える。邪馬台国連合が伊都国を関所にして瀬戸内からの往来を制限したので、唐古・鍵の人は日本海ルートを模索し、近江と結んだのではないか。吉備もヤマトー近江ルートを頼り、吉備がヤマト進出を行い、吉備主導で初期纏向集落を築いた可能性もある。

坂靖ヤマト王権論(当世コメント1) 当世奇妙

2023/12/27 (Wed) 16:47:55

ヤマトの弥生遺跡で最も繁栄していた唐古・鍵遺跡の
上流に出来た小規模遺跡の纏向遺跡。その纏向遺跡が古墳時代幕開け前後に大きくなってヤマト王権の中心となり、徐々に連携地域を広めて行くと言う。
何故唐古・鍵遺跡がヤマト王権の中心にならなかったのだろうか?最初に纏向遺跡を作った人々はどのような人々だったか?纏向遺跡の纏向1式の土器のほとんどはヤマトの土器である。従って纏向遺跡は唐古・鍵からはみ出た人々だったのでは?次第に外来土器が増えるが北九州の土器は無い。1式・2式では外来土器は圧倒的に東海の土器が多い。吉備土器は1式では2番目に多いが、3式では極端に少なくなる。

坂靖ヤマト王権論(4) 当世奇妙

2023/12/26 (Tue) 15:19:22

奈良盆地において古墳群が造営される前段階に、奈良盆地最大の弥生集落の唐古・鍵遺跡の上流に、纏向遺跡が形成される。纏向遺跡は邪馬台国の時代には小さい遺跡だった。古墳群が形成される時期に纏向集落の規模は大きくなり、ヤマト王権が発祥し王都となる。この集団が奈良盆地各地に割拠する他の集団をまとめ、奈良盆地北部の佐紀古墳集団と一体となる。。この二つの集団の王が並立してヤマトを統治し始める。これにより、ヤマト王権の広域支配が確立する。五世紀になるとカワチ・イズミの地域集団と結合し、大きく支配範囲を広める。ヤマト王権の王は,徐々に各地の王に対して影響力を高めていった。ヤマト王権の王が最初から国土統一を成し遂げたのではない。

坂靖ヤマト王権論(3) 当世奇妙

2023/12/13 (Wed) 19:40:58

初期ヤマト王権はオオヤマト古墳群(箸墓古墳群、柳本古墳群、大和”萱生”古墳群)で成立し、大和のなかの「やまと」と呼ばれる範囲である。しかしながら、布留川流域は初期ヤマト王権と異なる集団である。初期ヤマト王権に属さない集団は他にも「かつらぎ地域」、「そが地域」、「わに地域」、「さき地域」など奈良盆地各地に割拠していた。

坂靖ヤマト王権論(2) 当世奇妙

2023/12/07 (Thu) 19:48:29

ヤマト王権が発祥した場所は纏向遺跡の地である。
ただし邪馬台国の時代(庄内式期)では遺跡範囲は狭く、大阪平野や北九州のそれには及ばない。
纏向遺跡は「おおやまと」古墳群が形成される時期(布留式期)に集落規模が大きく拡大する。(当世注:布留ゼロ(箸墓古墳築造時期):寺沢260~280、関川:4世紀)
纏向遺跡においてヤマト王権が発祥しヤマト王権の「王都」となった。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2023/11/21 (Tue) 20:25:00

https://mainichi.jp/reporter/itokazushi/
伊藤記者の無料記事ではこれしかないが、その後有料記事で追加発言ありませんか?

情報偏食 当世奇妙

2023/09/23 (Sat) 15:27:40

情報偏食と言うことが語られている。
一方的な内容のもののみを見聞きすることによって
そのれらの情報を全て信じてしまうこと。
陰謀論もその結果の一つとか?

このスレッドも九州説に限っているので、情報偏食スレッドである。しかし陰謀説とまでは行ってないと考えるが。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート - オヤジッチ

2023/09/14 (Thu) 10:02:28

> そうです。大変立派な成果のある研究者でも、先ずは畿内説ありき、畿内説が前提、のような発言をするのが気になっています。
↑25年ほども前、奴国の丘歴史資料館の歴史講座で、小田富士雄先生(福大・名誉教授)が開口一番「よく質問されますが、邪馬台国の場所は考古学では特定できません」と仰いました。この人は信用できると思ったものです。
写真は、2004年11月23日の岩戸山古墳資料館での歴史講座「筑紫君を考える」のときのものです。

旧石器捏造 当世奇妙

2023/09/13 (Wed) 11:18:36

オヤジッチさん
そうです。大変立派な成果のある研究者でも、
先ずは畿内説ありき、畿内説が前提、
のような発言をするのが気になっています。

大手新聞も、奈良で何が見つかっても邪馬台国
と言うのが通常のようになっていると思われます。

入社直後には九州説を言っていた記者も、今では畿内説一辺倒です。何かどこかの国のようです。
毎日の記者には頑張って欲しいですね。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート - オヤジッチ

2023/09/13 (Wed) 09:08:22

> 毎日は旧石器でもやりましたから、
↑旧石器捏造事件のことですね。(^^)
 2000年(平成12年)11月5日付の「毎日新聞」朝刊に石器を事前に埋めている姿をスクープした。

毎日新聞デジタル 当世奇妙

2023/09/12 (Tue) 16:46:37

毎日は旧石器でもやりましたから、
畿内説も論破して欲しいですね。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート - オヤジッチ

2023/09/12 (Tue) 15:34:15

この記事は毎日新聞の主張ですか?
誰かのコメントですか。
↑毎日新聞社、東京学芸部の伊藤和史記者の月一回の不定期連載シリーズです。
時代も題材も不定です。(旧石器から現代まで)

毎日新聞デジタル 当世奇妙

2023/09/12 (Tue) 13:21:10

その通りですね。これは前から言われていること。
この記事は毎日新聞の主張ですか?
誰かのコメントですか。

毎日新聞デジタル「今どきの歴史」から - オヤジッチ

2023/09/12 (Tue) 11:10:41

九州説にとって面白い?記事がありましたので、紹介します。
   ※“・・・”はオヤジッチの“略”です

再燃?終息? 邪馬台国所在地論争 畿内説への地理的疑問
毎日新聞 2023/8/21有料記事

邪馬台国の候補地
 この夏の初め、邪馬台国所在地論争が突如盛り上がった。佐賀県の吉野ケ里遺跡で「謎のエリア」の発掘が進み、卑弥呼(ひみこ)と同時代という未盗掘の石棺墓(せっかんぼ)の蓋(ふた)が開かれたからだ。しかし、副葬品は見つからず、邪馬台国「九州説」ムードは急速にしぼんでいった。ならば「畿内説」なのかと問われれば、それもどうか。畿内説への引っかかりについて一度触れたい。
・・・
 邪馬台国の位置をめぐり、畿内説では纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)が考古学者を中心に圧倒的に支持されている。九州説にはそこまでの候補はなく、弱点といえる。ただ、筑後川流域が有力とされ、吉野ケ里遺跡もその一つ。今回、焦点の石棺墓が卑弥呼時代に重なるため、「何が出るか」と注目されたのだ。
・・・
 さて、畿内説への引っかかりとは何か。
・・・
 「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、・・・常に伊都(いと)国に治す」・・・・・・伊都国が福岡県糸島市にあったことに異論はない。前代の大遺跡もある。

 畿内説に立つと、この一文がしっくりこないのだ。倭人伝では、朝鮮半島から南に・・・伊都国など九州北部の国々が記され、南進して邪馬台国に至る。

 問題は、一大率の監督範囲だ。畿内説によれば、瀬戸内海沿岸の吉備(岡山県)をはじめ、四国北岸や出雲(島根県)などにも倭国メンバーの有力な国々があった。邪馬台国より北側(畿内説では、このあたりの文脈では北を西と読み替える)というなら、これらの広大な地域も遠方の九州・伊都国から監督することにならないか。

 倭人伝には、「女王国より以北」という表現が他にもある。「女王国より北の国々の戸数や里程はだいたいわかるが、他の国々は遠くてわからない」と記す。「以北」の表現は、倭国領のうち邪馬台国より北側(畿内説では西側)の全体、対馬までの全域を指すとみるのが自然だ。南側には倭国の他の領域があり、倭国領の尽きた先に敵対する狗奴(くな)国があると読める。

・・・纒向遺跡の目と鼻の先の大阪湾沿岸あたりまでわざわざ伊都国から監視していたのなら、ご苦労なことだ。

 九州説に立てば、何の引っかかりもない。・・・玄界灘沿いの中心的存在、伊都国で監督させる政策は十分納得がいく。

 こんな地理的違和感は、畿内説にとってはさまつな問題なのだろうか。だが、次の記事なども併せ読むと、そうは言えない。

 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」(同)

 倭国の領域の東の海を渡ると別の国々がある、同じ倭人だよ、と言っている。
・・・九州説なら、豊後水道の東に卑弥呼の倭国とは別の倭人の国々があるというだけの話だ。吉備でも大和でも何でもいい。しかし、畿内説では渡るべき海がない。

 倭人伝の記述を逐一問題にすると、両説ともあちこち矛盾が出てくる。ただ、当時の中国が持っていた日本列島の地理観は優先順位が高いと思う。

坂靖ヤマト王権論(1) 当世奇妙

2023/09/12 (Tue) 08:42:54

坂さんの最初の本は多分
『古墳時代の遺跡学―ヤマト王権の支配構造と埴輪文化』2009である。
次いで
『葛城の王都・南郷遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」』2011
『蘇我氏の古代学―飛鳥の渡来人』2018
『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』2020
『倭国の古代学』2021
今回は2020年の『ヤマト王権の古代学』の内容を紹介する。立て続けに出版されたのは、何か感じられていたのだろうか。
坂氏の主張・論旨は以下である。
1.古墳・遺跡(考古資料)から、ヤマト王権の出自と伸張過程を考究する。
2.国家がまとめた文献と実態は乖離している。歴史の真実を解明するために文献資料と古墳・遺跡の考古資料を組み合わせて検討する。
3.纏向遺跡こそヤマト王権の王の支配拠点である。
4.王墓古墳と王の支配拠点・生産拠点遺跡をつなげることによって王権の実態を解明する。
5.結果、ヤマト王権と邪馬台国はつながらず、邪馬台国は北九州である。
6.蘇我氏が政権中枢の時代、ヤマト王権は大王・氏族による支配構造を完成」させた。
私の興味は「ヤマト政権(王権ではなく)の成立プロセス」であり、坂氏と全く同じ興味を持っている。
楽しみながら解説したい。私は建築専門誌に毎月連載を記し今は160回「関東大震災100年」を執筆中である。他にも国・県などの多くの会議での資料作成があるので、ゆっくり進める。ご了解いただきたい。

坂靖さん 当世奇妙

2023/08/25 (Fri) 20:17:51

坂靖さんに、当会でのご講演を伺ったら「是非」とのご返事を頂いていた。氏は橿考研の研究部長に就任されたが数ヶ月前にご逝去された。大変残念。
古い話であるが平野邦雄先生にもご講演お願いし
体調が復活したらと了解頂いていたが、ご講演される
前にご逝去された。
平野先生の九州説は今まで紹介したので、これから数回、坂靖氏の邪馬台国=九州説を掲示する。

GOOGLE BARDの畿内説否定論 当世奇妙

2023/05/29 (Mon) 08:17:18

BARDの回答はほとんど役立たなかった。
その旨記したら、素直に謝ってきた!!

魏志倭人伝の邪馬台国=畿内説はありえないと言う主張を記してください。その根拠も示してください。

魏志倭人伝の邪馬台国=畿内説は、邪馬台国が畿内地方にあったとする説です。この説は、邪馬台国が九州地方にあったとする九州説と並んで、邪馬台国の所在地をめぐる2大有力説の1つです。

邪馬台国=畿内説の根拠として、魏志倭人伝に記されている「邪馬台国は東の海に面している」という記述が挙げられます。この記述を畿内説の支持者は、畿内地方が東の海に面していることから、邪馬台国は畿内地方にあったと解釈しています。

しかし、魏志倭人伝は中国の歴史書であり、その記述は中国の視点から書かれています。そのため、魏志倭人伝に記されている「東」は、必ずしも現代の日本地図における東とは一致しない可能性があります。

また、魏志倭人伝には、邪馬台国の位置を特定するような具体的な記述がほとんどありません。そのため、邪馬台国=畿内説は、魏志倭人伝の記述を根拠にしていますが、あくまでも推測の域を出ません。

以上のことから、魏志倭人伝の邪馬台国=畿内説は、根拠に乏しい説であると考えられます。

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残念ながら、あまり参考になりませんでした。
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申し訳ありませんが、私の回答が役に立たなかったことをお聞きして残念です。私はまだ発展途上にあり、常に学んでいます。より役立つ回答をするために、あなたのフィードバックに感謝します。

microsoft BINGの畿内説否定説 当世奇妙

2023/05/23 (Tue) 18:48:49

幾つかは参考になるが、全く意味のないものもあった。この部分は削除して示す

魏志倭人伝の邪馬台国=畿内説はありえないと言う主張を記すとすれば、以下のようになるかもしれません。
・魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』の一部で、3世紀末に陳寿が書いたものです。当時の日本列島にあった倭人の国々や女王の卑弥呼について記述しています1。
• 邪馬台国は、卑弥呼が都を置いたとされる国で、魏志倭人伝によると、朝鮮半島から水行十日、陸行一月の距離にありました1。
• 畿内説とは、邪馬台国の位置を日本列島の中央部、近畿地方に比定する説です。この説は、魏志倭人伝の記述や考古学的な資料から推測するものですが、多くの矛盾や問題点があります2。
• まず、魏志倭人伝の記述は、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に反映しているとは限りません。陳寿は実際に朝鮮半島や日本に訪れたわけではなく、聞き取りや古い文献に基づいて書いたものです。そのため、位置関係や距離などに誤りや曖昧さが多く、信頼性に欠けます3 。
• 例えば、魏志倭人伝では、朝鮮半島から対馬国(対馬)に渡る距離を千余里としていますが、実際は約百里しかありません。また、対馬国から一大国(壱岐)に渡る距離も千余里としていますが、実際は約五十里しかありません。このように、魏志倭人伝の距離は実際よりも大幅に過大評価されており、邪馬台国までの距離も同様に誤っている可能性が高いです。
• 次に、考古学的な資料も畿内説を支持するものではありません。邪馬台国は卑弥呼が都を置いたとされる国ですが、卑弥呼は魏志倭人伝で「鬼道」(シャマニズム)を行って衆民を惑わしたと記されています1。このことから、邪馬台国ではシャマニズム的な信仰や祭祀が行われていたと考えられます。
• しかし、畿内地方では3世紀末から4世紀初頭にかけて、「古墳時代」(古墳文化)が始まっており、大型の墳丘墓(古墳)や副葬品(埴輪・金属製品・玉製品など)が出現しています。これらはシャマニズム的な信仰や祭祀とは相容れないものであり、邪馬台国とは別の文化圏であったことを示しています 。
• また、畿内地方では3世紀末から4世紀初頭にかけて、「ヤマト王権」(ヤマト政権)が成立し始めており、各地の豪族や小国を従属させていました。しかし、魏志倭人伝では邪馬台国以外にも多くの倭人の小国が存在しており、卑弥呼以外にも男王や女王がいました1。これらはヤマト王権の統一的な支配とは矛盾するものであり、邪馬台国とヤマト王権は別々の勢力であったことを示しています 。

ChatGPTに畿内説を否定する論を書いてもらいました 当世奇妙

2023/05/20 (Sat) 09:01:34

魏志倭人伝の邪馬台国=畿内説はありえないと言う主張を記してください。その根拠も示してください。

ChatGPT
魏志倭人伝における邪馬台国=畿内説はありえないと主張する根拠は以下の通りです:

歴史的文脈からの逸脱:魏志倭人伝は、3世紀の中国の書物であり、倭人(日本人)に関する記述が含まれています。しかし、邪馬台国=畿内説は、現代の研究者によって提唱された後の理論です。この説は、魏志倭人伝の文脈からは大きく逸脱しており、当時の記録や考古学的証拠と一致していません。

魏志倭人伝の描写との不一致:魏志倭人伝では、倭人(日本人)の王権が邪馬台国にあるとされています。しかし、邪馬台国=畿内説では、畿内地域(現在の大阪府付近)に邪馬台国が存在したと主張しています。しかし、魏志倭人伝の描写からは、畿内地域が特に強調されたり、そのような地理的な位置が示されたりしていないことがわかります。

考古学的証拠の不足:邪馬台国=畿内説を支持するための考古学的な証拠は限定的です。畿内地域での大規模な古代遺跡の発見はなく、その地域での邪馬台国の存在を確証するものはありません。一方、他の地域(例:九州や近畿地方)での考古学的発掘調査からは、倭人の存在や活動が確認されています。

文化的・政治的背景の不一致:邪馬台国=畿内説は、当時の畿内地域の文化的・政治的背景と一致していないと主張されています。畿内地域は当時、ヤマト王権の成立前の諸国家や連邦体の中心地であり、倭人の政治的組織や社会的構造とは異なっていました。邪馬台国=畿内説は、この歴史的な文脈を無視しており、矛盾が生じています。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2023/05/17 (Wed) 16:51:54

CHAT GPTに3回目の質問したが、使い物にならない。
BINGの3回目は少しまし。
邪馬台国論の生成AIは向いてない。

邪馬台国九州説を書いてくださいというご依頼ですね。邪馬台国九州説とは、古代日本の女王国である邪馬台国が九州地方にあったとする学説です。その根拠として、以下のようなものが挙げられます12。

魏志倭人伝に記された帯方郡から女王国までの距離が、直線距離ではなく行程だと考えれば、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っており、残り1,500里では九州地方を出ないと考えられること。
邪馬台国と対立した狗奴国を熊本県の球磨郡の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。
魏志倭人伝には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。
邪馬台国の埋葬方法を記述した「有棺無槨」を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していることや、石棺無槨の墳丘墓が多数出現していること。
福岡県糸島市の平原遺跡出土の大型内行花文鏡が伊勢神宮の神道五部書に伝わる八咫鏡と同型・同規模であり、天照大御神といった太陽神信仰との関係が考えられること。
以上のように、邪馬台国九州説は、魏志倭人伝や考古学的資料をもとに、邪馬台国が九州地方にあった可能性を示唆する学説です。ただし、この学説は畿内説や東北説など他の学説とも論争があり、決定的な証拠はまだ見つかっていません。邪馬台国の正確な位置や性質は、今後の研究に期待されます

BARD 当世奇妙

2023/05/12 (Fri) 08:28:07

GOOGLEが生成AI BARDの日本語を発表した。
早速試したみた。邪馬台国九州説とその論拠を質問したら、回答は一瞬うちに出された。
興味深いのは回答案が3案まで示されたことだ。
3番目の回答は以下。

邪馬台国が九州にあったとする説は、古くから存在しています。この説には、いくつかの根拠があります。

魏志倭人伝には、邪馬台国は「伊都国より南」に位置すると記されています。伊都国は現在の福岡県に比定されており、この記述から邪馬台国も九州にあったと推測されます。
邪馬台国は「狗奴国より南」に位置するとも記されています。狗奴国は現在の熊本県に比定されており、この記述からも邪馬台国は九州にあったと推測されます。
邪馬台国は「会稽東冶の東」に位置するとも記されています。会稽東冶は現在の浙江省に位置しており、この記述から邪馬台国は九州にあったと推測されます。
ただし、邪馬台国が九州にあったとする説には、いくつかの反論もあります。

魏志倭人伝の記述は不正確であり、邪馬台国が九州にあったとは限らないという反論があります。
魏志倭人伝に記されている地名は、現在の九州の地名と一致しないという反論もあります。
邪馬台国が九州にあったとする説は、他の説と比べて根拠が薄いという反論もあります。
このように、邪馬台国が九州にあったとする説には、いくつかの根拠がありますが、反論もあります。邪馬台国がどこにあったのかは、まだ完全には分かっていません。

BING 当世奇妙

2023/05/01 (Mon) 19:23:35

BINGの回答は42P
凄い量になる。
回答は検索できる論文のコピペだがチャットGPT
よりもましかな!

BING 当世奇妙

2023/05/01 (Mon) 19:20:29

論文を続けるとしたら、以下のような内容になるかもしれません。

考古学的根拠(続き)
福岡県糸島市の平原遺跡出土の大型内行花文鏡が伊勢神宮の神道五部書に伝わる八咫鏡と同型・同規模であり、天照大御神といった太陽神信仰との関係が考えられること1。
福岡県久留米市には、宝賀寿男が、規模や副葬品、石棺無槨、主体部および周囲の集団墓(宝賀は殉葬墓ではないかとする)などの状況が『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓記載とよく一致するとする2祇園山古墳がある。
奈良県桜井市所在で最古の定型化した前方後円墳といわれる箸墓古墳を、3世紀後半の築造とし、卑弥呼の冢とする説があるが、卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が大混乱していた時期に当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは不可能に近い。また古墳周囲には記録にある殉葬の跡も見られない。また、当時の朝鮮半島など周辺国の墳墓はいずれも一辺30メートル前後の墳丘墓で、倭国だけが飛び抜けて巨大な墳丘墓(箸墓古墳)を築造したとするのは無理がある。また箸墓古墳に年代的に先行するとされるホケノ山古墳の発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の同古墳の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ3、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため4、3世紀中頃とする年代に疑問を呈する意見がある5。
三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面を遥かに上回っている。逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

microsoft bingの回答 当世奇妙

2023/05/01 (Mon) 19:18:57

microsoft bingに聞いてみました。
全部で42Pですが先ず1P目

邪馬台国九州説の立場で論文を書くとしたら、以下のような内容になるかもしれません。

邪馬台国は九州にあったと考えられる根拠
はじめに
邪馬台国は、3世紀に中国の魏に使者を送った倭国の女王卑弥呼が治めた国である。その所在地については、古くから畿内説や九州説など様々な学説が唱えられてきたが、現在でも決定的な結論は出ていない。本論文では、邪馬台国九州説の主な根拠を紹介し、その妥当性を検討する。

邪馬台国九州説の主な根拠
邪馬台国九州説の主な根拠は、以下のように分類できる。

文献史料に基づく根拠
魏志倭人伝によると、帯方郡から女王国までの距離は12,000里であるが、これを直線距離ではなく行程と考えれば、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること1。
邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること1。
魏志倭人伝には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていること1。
魏志倭人伝の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの有力な阿岐国(安芸国)、吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が完全に欠けている1。
考古学的根拠

チャットGPT2 当世奇妙

2023/04/29 (Sat) 09:04:28

チャットGPTに数日前と同じ質問を今朝してみました。異なる回答が出ましたが、学習したと言えるか疑問ですね

「邪馬台国九州説の立場で論文を書いてください。その根拠も示してください」

ChatGPTの回答
邪馬台国九州説は、日本古代史の中で邪馬台国が現在の九州地域にあったという説です。この説は、邪馬台国の実在や存在場所について、史料の解釈や考古学的発掘調査の結果などから推定されたものです。

まず、邪馬台国の存在については、『魏志倭人伝』や『日本書紀』などの古代中国・日本の史書に記述があります。これらの史書によれば、邪馬台国は倭(日本)の東方に位置し、女王が治めていたとされています。また、朝鮮半島との交流もあったとされています。

一方、邪馬台国の存在場所については、長く論争がありました。しかし、最近の考古学的発掘調査の結果、九州地域に邪馬台国があった可能性が高いことが示唆されています。例えば、福岡県糸島市にある「志賀島遺跡」や、佐賀県唐津市にある「白石塚古墳」からは、邪馬台国と関連する遺物や遺跡が発見されています。また、九州地域が朝鮮半島との交流に適していたことも考慮されます。

以上のように、邪馬台国九州説は、史料や考古学的発掘調査の結果から推定されたものであり、その根拠は比較的信頼性の高いものです。ただし、完全に確定された証拠ではないため、今後も新たな研究が進むことが期待されます。

チャットGPTの邪馬台国九州説 当世奇妙

2023/04/28 (Fri) 08:19:10

チャットGPTに以下のような設問しました。
「邪馬台国九州説の立場で論文を書いてください。その根拠も示してください。」
答えは以下です。
(この回答は未だ未だ力不足ですね)

はい、邪馬台国が九州にあったとする説について論文を書きたいと思います。

邪馬台国は古代日本の国家であり、その存在や所在地については未だに謎が多いとされています。一説には、邪馬台国は九州に存在したとされる説があります。以下、その根拠を示し、邪馬台国が九州にあった可能性を論じたいと思います。

まず、邪馬台国が九州にあったとする最も大きな根拠は、『日本書紀』や『風土記』に記された地名の記述です。これらの文献には、邪馬台国があったとされる地名が九州に多く見られます。例えば、『風土記』には、肥後国の南の国に「邪馬台国という国があった」という記述があります。また、『日本書紀』には、邪馬台国が倭国の南方に位置していたという記述があります。これらの文献からは、邪馬台国が九州に存在したという可能性が高いと言えます。

次に、考古学的な発掘調査結果も邪馬台国が九州にあったという説を補強しています。例えば、福岡県糟屋郡粕屋町の石原遺跡からは、邪馬台国に関する遺物が発掘されています。また、熊本県球磨郡山江村の小祝遺跡からは、古代中国との交易品とされる銅鏡や、倭人と思われる剣が発掘されています。これらの発掘調査結果からも、邪馬台国が九州に存在した可能性が示唆されます。

しかしながら、邪馬台国が九州にあったとする説には、一部の研究者から異論が出されています。彼らは、邪馬台国の存在自体が伝説的なものであり、実際には存在しなかったとする見解を持っています。また、邪馬台国が九州にあったとしても、それがどの程度の規模であったのか、また、九州にいた倭人たちとの関係がどのようなものであったのか、という点についてはまだ不明な点が多いとされています。

片岡宏二(11)不弥国について 当世奇妙

2023/01/13 (Fri) 09:19:34

片岡宏二(11)不弥国について
奴国から不弥国までの距離は伊都国から奴国までの距離「百里」と同程度の距離である。クニの規模は「千餘家」で奴国の二十分の一、ほぼ220m四方の集落でしかない。どこにでもある集落だが、奴国から投馬国への中継地・オアシス的集落であったから記されたかもしれない。奴国にも投馬国にも属さず、小規模ながら政治的・経済的に独立した体制を持っていた。『魏志』倭人伝では「多摸、卑奴母離」と言う支配官がいたことを記している。不弥国は太宰府南部から筑紫野市あたりと考える。その中心地は立明寺遺跡で南北500m、東西400mのおよそ20ヘクタールである。この遺跡は小さいながら、山陰・瀬戸内・近畿の土器、朝鮮半島の楽浪の土器が出土する。この地は南に行くにはどうしても通らなければいけない交通の要衝(二日市地峡帶)である。この地域は弥生時代前半までにも集落が営まれるが、後期後半になると急激に遺跡数を増加させる。二日市地峡帶の環濠内地域5ヘクタールが「不弥国千餘家」と記された場所である。
従来不弥国に比定されていた「宇美・飯塚」の遺跡は時代が違うし、飯塚市を含む遠賀川流域では、弥生後期後半には脚端に集落が減少し、中期集落が断絶する。主要交通路も東西方向で、南には山々が立ちはだかっている。両地域を不弥国に相当させることは難しいと考える。

片岡さん講演会 当世奇妙

2022/12/18 (Sun) 19:41:30

当会の来年2月の講演会は片岡さんの
『続続邪馬台国論争の新視点』に決定しました。26日(日) 日曜日です。
最後に北九州の最新の発掘成果を踏まえた
片岡「邪馬台国九州説」の総論も話して頂けます。
是非参加ください。

片岡宏二(10) 当世奇妙

2022/12/07 (Wed) 19:43:11

奴国  100ヘクタール 二万余戸

邪馬台国の時代、北九州でもキナイその他の倭国各地にこの大きさを超える遺跡群は存在しない。
投馬国5万戸=190~250ヘクタール、邪馬台国7万戸=260~350ヘクタールの大きさになる。
北部九州、東瀬戸内、近畿地方の弥生後期の遺跡
にはこの規模の遺跡を見つけることは出来ない。

片岡宏二(9) - 当世奇妙

2022/11/30 (Wed) 19:42:30

(弥生時代後期の九州・キナイの集落規模と倭人伝戸数)
環濠集落を持つ点と規模で比較すれば、弥生後期の九州の環濠集落は畿内のそれを凌駕する。
(九州)
    環濠内規模  倭人伝戸数
一支国 16ヘクタール 三千余の家
末廬国 15ヘクタール 四千餘戸
伊都国 47ヘクタール 万余戸
奴国  100ヘクタール 二万余戸
(大和盆地)
唐古・鍵   12.5ヘクタール
池上曽根   6.4 ヘクタール
平等坊岩室  7ヘクタール(当世記述より計算)
兵庫加茂遺跡 7ヘクタール(当世記述より計算)

片岡宏二(8) 当世奇妙

2022/11/18 (Fri) 20:28:20

魏志倭人伝では隣接したクニどうしの境にについての認識の確認が必要である。狗邪韓国ー対馬、対馬ー一支、一支ー末廬の間は海があってクニどうしが切り離されている。末廬ー伊都国、伊都国ー奴国の間には山が横たわっていて境となっている。筑紫平野は大きな平野で、この平野にクニグニが連なっていた。平野なので、クニ隔てるものがなくクニグニは接していた。クニの中心は環濠集落で、クニグニの中心となる環濠はネットワークで結ばれていた。クニグニの方角はクニの中心同志の方角が記された。末廬ー伊都国のように山で隔たっていたクニの場合、方角は最初の道の途中までの方角が記された。

片岡宏二(7) 当世奇妙

2022/10/27 (Thu) 20:10:22

醍醐天皇の延喜元年(901)に制定された延喜式主形式においても距離は日数で記されている。橋本増吉は「当時倭人は距離を図るに常に日数による慣習であったとしている。喜田貞も魏倭人伝の著者陳寿が、九州にあった邪馬台国と近畿のヤマトを混同した
と書いている。『翰苑』が引いている『廣志』には「水行十日、陸行一月」がなく、距離の記述がなかったのではないか。陳寿は司馬炎につかえた官吏である。『魏志』倭人伝の核となる邪馬台国までの行程は書かざるを得なかった。そこで当時倭の中心となっていた大和盆地までの距離として、倭人伝当時の倭人の情報らしく日数表記をしたのではないか。
西晋時代にはマトが倭の中心となっていたので、陳寿が「水行十日、陸行一月」「水行二十日」を書き加えたと言うのが片岡氏の見解。
九州説としては難題と思われる「水行十日、陸行一月」についてはいささか歯切れが悪い見解となっているが、まあ可能性は大ではないか。

片岡宏二(6) 当世奇妙

2022/09/09 (Fri) 11:35:50

(5)で記した、倭人伝の方向は橋本増吉が1956年に示している。『東洋史上より見たる日本上古史研究』に「末廬より伊都を経て、奴国即ち今の那珂地方に至る通路は、何れもまず東南に向かい、(略)」としている。今日、発掘調査が進んで、クニ周辺の同時代の集落事情も分かってきた。クニを構成する主要なムラの位置も明らかになってきた。(略)筆者の見解は、橋本増吉によって見通せられていた見解を今日の考古学的知見の中で証明しようとしただけである。

片岡宏二(5) 当世奇妙

2022/09/03 (Sat) 15:07:19

倭人伝の示す方角はクニとクニの地図上の
方向ではない。クニの中心から次のクニへ行く
道の方向である。末廬国の起点は桜馬場遺跡
周辺と考えられ、そこから伊都国へ行くには
松浦川を越えて対岸の中原遺跡、次に柏崎遺跡、
更に宇木遺跡へと行く。これは東南の方向である。
宇木遺跡から伊都国へとなる。
伊都国の中心は三雲・井原遺跡で、ここから奴国に行くには日向峠越えが近くて一般的である。
井原遺跡群から東よりやや南の方向を見ると
山々の切れ目には日向峠が見える。東南部である。

片岡宏二(4) 当世奇妙

2022/08/15 (Mon) 19:55:53

北部九州、特に筑紫平野の弥生時代後期遺跡が急激に発達する現象にいつも驚いている。
しかしながらその前後の遺跡が「吉野ヶ里遺跡ほどの規模ではない」として保存から外れている。そのような遺跡も多い。


当世奇妙(1) 当世奇妙

2022/06/20 (Mon) 16:30:08

2022年6月18日 歴博上野先生のご講演
に連係したものなので取り敢えず記録する。

三角縁神獣鏡紀年銘鏡4面のうち2面は日本海傍、
更に日本海から高崎へ、山口の瀬戸内海沿の古墳で
発見された。景初四年の鏡も日本海に近い古墳から。
キナイ中心からは出ていない。

上野先生はキナイ中枢から出ない理由について
これらの年号に意味を認めなかったからではないかと
されたと話された記憶。
三角縁神獣鏡は明らかにヤマト政権と大きな関係がある鏡である。上野見解に従えば、ヤマト政権を形成する人々は卑弥呼遣使の年号に興味を持たなかったことになる。従って邪馬台国はヤマト政権とは関係ない
確率が高くなる。
(参考 紀年銘を持つ三角縁神獣鏡)
群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳、兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳、山口県周南市竹島御家老屋敷古墳の3古墳から出土した同型の「正始元年」鏡3面、島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡1面。
広峯15号墳出土景初四年銘盤龍鏡(福知山市、若狭湾に近い)

古代史連続講座 - オヤジッチ

2022/06/13 (Mon) 14:43:12

> 9回の報告宜しく!!
↑全九回です。上のは第1回、
 第2回古代史講座は25日に高倉洋彰氏が「不彌(ふみ)国と金印国家群」と題して講演。
続いて高島氏が話した後、両氏が対談する予定。
 高倉先生(西南学院大学・名誉教授)の「金印国家群の時代」は私が真面目に考古学を始めた切っ掛けとなった本です。
 

片岡宏二(3) 当世奇妙

2022/06/11 (Sat) 16:59:05

纏向遺跡建物群の主軸方向は二上山北麓がである。
纏向の大型建物の正面方向と二上山と箸墓の方向
は一致する。
箸墓築造には大阪山(二上山)の石を使ったと
『日本書記』にある。
箸墓後円部墳頂には二上山の石が積まれている。
結論として、
纏向遺跡型建物群は箸墓造営に関係し、
纏向遺跡の建物は箸墓と同じ時期のものである。

郭公さん 当世奇妙

2022/06/08 (Wed) 15:02:17

懐かしい名前ですね。
9回の報告宜しく!!

西日本新聞から - オヤジッチ

2022/06/08 (Wed) 12:53:58

高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」(全9回)が3年ぶりに始まりました。
邪馬台国九州説お二人の、発言要旨です。

「九州から近畿へ集団移住」 元産業能率大教授 安本美典氏

 卑弥呼と天照大神は、ともに女性であることや活躍した年代が重なることから同一人物と考える。その2人の墓とする説があるのが、糸島市の平原遺跡だ。
 出土品を見ると、青銅鏡は、国内で出土した大きさの上位5位を平原遺跡が占める。鏡の副葬品の数も全国2位と極めて特異だ。邪馬台国期の鏡とされる「方格規矩(きく)四神鏡」はこの遺跡を含め大半が福岡、佐賀両県から出土している。
 九州と近畿には、山門と大和など似た地名が多い。それらは互いに「ヤマト」を中心に、山側に耳納(みのう)と美濃、日田と飛騨、海側に伊都と伊勢など位置も重なる。伊都は日本書紀で「伊蘇」のなまりと記され、「和名抄」によると三重県伊勢市には「伊蘇郡」があった。九州から近畿へ大きな集団移住があり、邪馬台国は東遷したのだろう。
 古代には不明なことが多い。世界では神話や伝承も活用して調査が進むが、日本では「虚構」と排される傾向がある。国内でも、伝承などを頼りに発掘を進めていくべきではないか。


「卑弥呼 伊都出身の可能性」 考古学者 高島忠平氏

 魏志倭人伝からは、邪馬台国は九州内にあり、女王が国を治めた都のある場所だったことが読み解ける。
 三国志によると、女王卑弥呼は独立性を持つおよそ30の国によって共立された。霊力に秀でた巫女で、実際の政治は男子が担った。国には官制が導入され、氏族などでも身分が生じ、租税や労役を課すなど未熟ながら統治組織があった。
 一方、ヤマト王権は5世紀になっても官僚機構を形成していない。権力構造が全く別のものと言え、歴史的に連続しているとは考えられない。
 卑弥呼は中国の動静に通じ、支配者が変わるとすぐに魏王朝に使者を送っている。当時の国際動向の情報に明るく、それに沿った政治判断ができる者が倭国(わこく)の王にふさわしかった。
 このため大陸に面し、港が置かれた伊都国が卑弥呼の出身地だと考える。卑弥呼の墓は必ずしも邪馬台国にあるとは限らない。古代の王は死後、出自の国に埋葬されており、糸島市の平原遺跡が墓である可能性が大きいと思う。
お二人とも、平原1号墳が卑弥呼の墓と言うお考え、郭公さんが大喜びしそうですネ。

片岡宏二(2) 当世奇妙

2022/05/27 (Fri) 13:53:57

3世紀末、北部九州に急激に近畿系の土器、布留ゼロ式土器の流入が始り、この土器を伴う古墳や住居が見られるようになる。一方、北部九州弥生文化を象徴する銅矛祭祀も終わる。北部九州が近畿地方の政権の
強い影響を受けるのは、この時期からである。
(3世紀後半に、東瀬戸内を巻き込んで北部九州と
近畿地方勢力との戦いがあった。266年の
倭女王(多分壱与)の晋への朝貢はこれに備えるもの
ではなかったか)

片岡宏二(1) 当世奇妙

2022/05/23 (Mon) 14:47:37

私と片岡さんの関係は邪馬台国とは関係ない、
歴史建築の調査・保全関係である。

その関係で過日『邪馬台国論争の新視点 増補板』
2019
を寄贈頂いた。熟読してはいないが、ざっと読んで
気が付いた氏の説を記載しておく。
(1)邪馬台国時代は庄内式土器平行期である。
この段階では九州では大型銅矛・銅戈を用いた
祭祀が行われていて、北部勢力がヤマトに追随
している様子はない。この地域で完結した政治体制
を有していた。

高島忠平(4) 当世奇妙

2022/05/19 (Thu) 15:07:12

卑弥呼は、三十国によって共立され、優れた霊能力をもったシャーマン(呪術者)の王。北部九州では、弥生時代も中盤にさしかかるころに一定の社会的地位をもった巫女が現れることが墓の埋葬品などからわかっている。そのようすは、佐賀県唐津市の宇木汲田(うきんでん)遺跡などから分かる。
北部九州では弥生中期以降、強大な権力を持った巫女王・卑弥呼が生まれるまでの歴史的過程を遺跡や埋葬品などから確認することができる。近畿地区で見つかっている巨大遺跡などは、周辺にこうした歴史的過程がたどれず「突発発生的」である印象がある。

高島忠平(3) 当世奇妙

2022/05/19 (Thu) 15:01:33

邪馬台国連合では国際的交流が行われていた。福岡県志賀島の「金印」は国際交流の証拠。九州内では多くの遺跡で大陸の文物が出土している。特に最近硯、木簡の文字を削る削刀が出土。当時、通貨として用いられていた政治・経済の戦略的物資である「鉄器」の出土が、九州では極めて多い。

高島忠平(2) 当世奇妙

2022/05/19 (Thu) 14:55:16

魏志倭人伝の中には、女王卑弥呼の居館は「宮室、楼観、城柵、厳しく設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と記されている。「城柵」は「環濠集落」。敵の襲撃に備えて、周囲に堀を巡らした集落である。

環壕集落は「邪馬台国がある」とされる年代に、佐賀県の吉野ケ里など九州内では遺跡が見つかっている。しかし、近畿では同年代のものとされるものが見つかっていない。

高島忠平(1) 当世奇妙

2022/05/19 (Thu) 14:51:57

九州には「末盧(まつろ)国」「伊都(いと)国」「奴(な)国」など、魏志倭人伝の中に記載のあるクニの具体的な名前が出ており、そのクニの場所も九州で特定されている。そうしたクニは近畿では確認されていない。 

難升米(9) 藤盛紀明

2022/05/12 (Thu) 19:41:01

邪馬台国は絶対に九州北部 投稿者:難升米 投稿日:2022年 5月12日(木)12時26分35秒 211.130.161.33 返信・引用 編集済
邪馬台国の位置は最初から、論理的に決まっており、これは学問です。

もし「討論室」が「邪馬台国の位置」の討論でしたら、「討論室」なんて元々必要ありませんよ。

なにしろ、『魏志倭人伝』には邪馬台国の位置が明確に記されています。


【邪馬台国は帯方郡から萬二千余里の位置にある。】


ところが、帯方郡から末魯国迄が壱萬余里なので、末魯国ー邪馬台国間は残り二千余里しかない。

それに対し、各島間の渡海距離がすべて一千余里(70㎞程)。

つまり、末魯国(松浦)ー邪馬台国間の二千余里は140㎞程。
これは対馬国ー末魯国間の距離と同じだから、畿内に届くはずがありませんよね。

そうなると、松浦から140㎞南の位置に在るのは筑後山門辺りなので、邪馬台国は筑後山門となる。
仮に、邪馬台国が筑後山門ではないとしても、邪馬台国を許容できる位置に在る範囲はせいぜい吉野ケ里から、甘木朝倉、日田辺りまで。宇佐では既にダメそうです。



玉枕(7)狗奴国の動向 当世奇妙

2022/05/08 (Sun) 13:06:11

<狗奴国の動向>

畿内大和説の論者でも「狗奴国」を熊本地域とみる見解は研究史からも窺える。

『倭人伝』では、「狗奴国」は「女王国」に属さず、しかも「王」がいると書かれている。
「伊都国」の代々「王」の存在の他に、「狗奴国」にも中国から「王」と認められた人物がいたことになる。

それは女王国連合の「南」とされ、菊池川流域の拠点集落を治める「肥後」がその候補地と見る研究者は多い。
それを考古資料で説明している熊本県立装飾博物館の木崎康弘氏の論は説得力があると評価されている。

木崎氏は「狗古智卑狗」は菊池川上流の山鹿市“方保田東原遺跡”の首長とされ、「王」は緑川流域で、
古代の「球磨駅」が近い“城南町新堂遺跡”とされている。

この地の免田式土器の分布は、最後に肥後南部の球磨盆地に収斂する様相をみせているが、
北部九州の女王国連合の圧力で、南に遷都したと木崎氏は説明している。

免田土器は弥生時代を通じて、これほど素晴らしい土器はないというほど美しい土器である。
『魏志倭人伝』が南北軸で書かれているように、北と南の文化の境界を、この免田土器の分布でも見ることができる。

肥後の地域は「中九州の遺跡巡り」でも注目されたのは、阿蘇外輪山の周辺に広がる鉄器遺構で、北部九州に匹敵している。
鉄素材も韓半島や中国王朝から独自に入手しており、阿蘇の褐鉄鋼を用いた小規模製鉄の可能性まで指摘されている。(村上2007)

さらに肥後北部や中部の大型拠点集落では、漢鏡や中国銭貨など中国系文物が意外に多いという指摘である。(木崎2014)
中国の文献史料には見えないが「狗奴国王」の称号は、独自に中国王朝との交渉があったことを知らせている。

「肥後」は弥生時代より、有明海沿岸部や不知火海沿岸部から南九州の先端部に拠点を置き、沖縄などの南海産の貝交易で、海人集団の存在が窺える。
ゴボウラやイモガイなどの貝輪製作に、これらの貝を北部九州沿岸部や山口県の土井ケ浜などへと運んでいた。

伝統的に海上航行に長けた集団の存在は、古墳時代には“阿蘇のピンク石”が畿内の大王墓に使用されていることからも窺える。

九州島を南北で語っている『魏志倭人伝』の文献史料に整合するように、考古資料でも九州島を南北に分断する異文化圏を免田土器の分布域は示している。

北部九州の鉄器保有と肩を並べる保有量を示す「狗奴国」は、当時の社会では拮抗した勢力を保っていたことが窺える。

『魏志倭人伝』に記された「女王国連合」と「狗奴国連合」は九州島で理解することができる。

玉枕(6)「伊都国」の対外交易 当世奇妙

2022/05/08 (Sun) 13:03:00

<「伊都国」の対外交易>

「伊都国」の“三雲・井原遺跡群”は、60ha前後の集落域を維持しながら、ⅠA期に楽浪土器の搬入がピークに達している。楽浪土器が多種多様出土した「番上地区」からは、楽浪系の「石硯」が2点出土している。楽浪土器が多く含まれる上層出土なので、ⅠA期前後の可能性が高く、暦年代では公孫氏の時代の時期幅(190年~239年)を含むとされている。

当時の倭国の外交は、卑弥呼がどこにいても、畿内であろうが、北部九州であろうが、「伊都国」の三雲を経由しており、この時代に“平原Ⅰ号墓”が造営されている。

「伊都国」の様相を具体的にみていくと、伊都国西側の古深江湾沿いの“深江井牟田遺跡”や“御松原遺跡”に楽浪土器の多器種が出土し、こちらが楽浪郡や中国王朝との正式外交・公的交易ルートであったとみられている。一大卒率が置かれていたのも、この辺りであろうか。

一方、伊都国東側の“今宿五郎江”には後期以来、列島各地の土器と終末期に三韓土器、楽浪土器が集中して出土を見せている。東西に機能分担して配置しれた外港という見方が指摘されている。

しかし、西側の“深江井牟田”もⅡA期(250年頃~)には衰退し、“御床松原”は港津集落として存続する。卑弥呼の死をもって、一大率を置いた伊都国の外交としての窓口は終焉したのだろう。

東側の“今宿五郎江”もⅠB期からⅡA期をもって交易拠点としては終焉している。しかし、最近の資料では金官伽耶の“金海鳳凰臺遺跡”や“釜山市東莱貝塚”ではⅠB期~ⅡB期前後(220年~260年)の北部九州在来土器が出土し、その特徴は糸島地域の物が多いという。そのことは、北部九州の主要対外窓口が博多湾に遷った後も、「伊都国」は弁辰韓との間に独自の交易ルートを維持していた可能性があると指摘されている。(久住2014)

弥生時代後期から終末期において、「伊都国」は外交の窓口として、沿岸部や中枢部に楽浪土器がもたらされていたが、相対的に三韓土器は少ないという傾向がみられた。

一方、壱岐には楽浪土器と三韓土器、双方が“原の辻遺跡”や“カラカミ遺跡”に集中している。このことは、三韓の人々は壱岐止まりの交易だったことを示している。

三韓土器が壱岐を越えて列島本土に大量に搬入されるのはⅡA期以降(250年~)であり、それが博多湾に集中しているのは、「博多湾貿易」の成立を意味しているのだろう。

ⅡA期以降という年代は、卑弥呼が亡くなった以降であり、畿内の布留0式以降、3世紀後半以降、鉄器の普及がこれまでとは違うスピードをもって列島各地に伝播して行った時代と符合している。

玉枕(5)世紀~3世紀の北部九州の墓制 当世奇妙

2022/05/08 (Sun) 12:59:46

<2世紀~3世紀の北部九州の墓制>

素晴らしい副葬品に対して平原1号墳は、周溝で囲まれる範囲が9.5×13mと小規模である。

「北部九州の社会では、弥生時代の墳丘墓は中期後半をピークとし、後期に入ると墳丘の大型化を階層制や首長の威信の表徴としない社会となっていた」と久住氏は指摘している。

以前に久住氏に「何故、先進文化の窓口で、鉄器も潤沢に潤っていた北部九州社会が大型前方後円墳築造には冷淡なのか、むしろ当時、後進地域とみなされていた南部の宮崎県に九州で一番大きい前方後円墳が築かれているのか」を質問したことがある。

「北部九州地域は先進文物を手にすることのできる地域で、墓で威信を示す必要がなかった」という答えだったと記憶している。

この時の教示は、その後の九州以東に広がる前方後円墳を権力の象徴とする一元的な見方に対して大きな示唆となった。

大型の墳墓がないからと言って北部九州社会が、後退し、衰退したわけではないことを、その後の「伊都国」や「奴国」の発展で説明されている。

オヤジッチ(4) 纏向が邪馬壹國でない根拠 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 14:33:39

05月24日のNHK奈良 NEWS WEBに以下の記事がありました。
『桜井市纒向学研究センターの橋本輝彦統括研究員が出土したおよそ2000点の土器を詳しく調べたところ、少なくとも10%が10の地域で作られたとみられることがわかりました。
具体的には、東海地方が43%と最も多く、次いで大阪・河内地方や、いまの香川と徳島にあたる阿讃地方がそれぞれ13%、山陰地方が11%などとなっています。
関東地方や朝鮮半島のものも含まれているということです。
これほど多様な地域の土器が出土する例は、この時代は纒向遺跡以外にはないということで、橋本統括研究員は「広範囲な交流が行われていたことが改めて分かった。古代都市と言われる纒向遺跡の状況を考える貴重な資料だ」と話しています。』

以上のように、纏向は広範囲との交流がある拠点都市、一女子を共立しなければ纏まることのできないような状況だったとは思えない、まして、卑弥呼が亡くなったとたんに『國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與』のようになる訳がない。
また、「外来土器10%の内、東海地方が43%、大阪・河内地方や、阿讃地方が13%、山陰地方が11%とあるが、倭人伝ではっきりしている國、「對馬國,一大國,末盧國,伊都國,奴國」のある“九州の土器”はない。

難升米(8)伊都国・邪馬台国陸続き 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 14:28:54

九州説と関係無い文章一部削除
「及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯」
この文は、
「及び(帯方)郡の倭國に使者を送るや、皆津に臨みて捜露(荷を点検)し、…つまりこの津=港は税関の役割、文書(詔書)・賜遣之物(下賜品)を伝送して、 女王に詣り(女王の住む邪馬台国へ詣で)、 差錯を得ず(間違いがなかった)」

つまり、伊都国は外国との貿易港の役割を果たしていて、一大率は税関です。
一度税関を通った輸入品をもう一度船に積みなおして、他の港へ水行して持っていき、もう一度難波辺りの別の港で、税関を通しなおすなんて話は聞いたことがありません。
つまり、邪馬台国は伊都国から、陸行で行くことが可能は範囲内にあった。
これが、放射説の成り立つ大きな理由です。

難升米(7)倭国の戸数 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 14:21:03

九州説に関係無い文章一部削除

奈良時代の北海道、琉球を除いた日本列島の人口推計は、700万人前後でしょう。
3世紀の列島内倭人・倭種世界は、先島諸島を除く琉球圏を含めても、半島の倭種世界を除き、200~300満員(万人?)まででしょう。
 東北南部まで含めて、倭種世界は、一戸4~5人で、倭人・倭種世界は、4~60万戸。
 実際には、一戸当たりの人口が一夫多妻制を反映して、もっと多いかも知れない。
 九州島内の南部などは、女王国連合に入らない倭種世界の可能性を考えれば、九州党内に戸数記載の
「行程8ヶ国」を収容するのは無理になる。

 結果、九州説では、戸数を無視し、松本清張氏のように、架空の数字(聖和説)や誇張だと知る虚数説になる。
私は、3世紀の列島内倭人・倭種世界の人口は、200万人ぐらいと考えています。
 仮に弥生時代の倭の戸数が合計で60万戸程度だったとしましょう。

ところが、人口分布なんて言うものは、当然の如く、濃密度に違いがあります。都会は多く、田舎は少ない。

大陸と交易をおこなっていた九州北部が当時日本の最先端の都会であり、出雲や畿内を含む本州、四国は田舎と云うことになります。

邪馬台国が七万余戸、奴国の二万戸などを足して、その他の小国は田舎だから、千余戸から四千余戸程度となり、倭国の構成国三十国を全て合わせて、十五万戸程度となります。

また、五万余戸の投馬国を含む狗奴国同盟も倭国といい勝負をしているから、狗奴国が邪馬台国と同等の戸数があり、その他南九州の国々をすべて合わせて、やはり計十五万戸あたりが適当な数となるでしょう。

 すると九州内の戸数が三十万戸程となり、当時九州に比べ文明の遅れていた本州、四国辺りの戸数はかなり密度が低かったと思われ、合わせてやはり三十万戸程度と思われ、弥生時代の日本の総戸数は計六十万戸程で、倭国の王都邪馬台国が単独で七万余戸あったことが成り立つことになります。

難升米(6)筑後山門の戸数は七万余戸 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 14:11:46

筑後山門が戸数七万余戸が不可能なのでしょうか?
これは単なる現地を知らない人の思い込みに過ぎません。

 山門郡瀬高町の市井の考古学者「村山健司」は、30数年間にわたり、自転車で廃品回収業を続けながら、故郷の遺跡研究を続け、『誰も書けなかった邪馬台国』を著作しています。

 その本の中で村山氏は、筑後山門の地は、どこを掘っても縄文時代から、古墳時代にかけての遺物が出土するそうであり、「このような土地こそが古代の大都市・邪馬台国に違いない」と述べています。

 邪馬台国の領域は現代の柳川市から、みやま市、筑後市、八女市の一部、大牟田市、荒尾市にかけての広大な領域であり、これらの土地にはすべて遺跡があり、それらをすべて合わせると七万余戸の邪馬台国が完成します。

難升米(5)放射説 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 14:04:17

(九州説と関係ない文章一部削除)
大率の置かれた役目の重要目的:伊都国などの荷の「中抜き」防止の為。

金印や詔書・賜遺の物は伊都国の港で陸揚げされると、一大率によって捜露されている。
荷揚げした賜遺の物は倭国の税関を通っているわけで、これを再び荷造りして、船に乗せ、水行を再開すると云う道程は明らかに間違い。

 賜遺の物は伊都国の港で捜露された後、当然、王都邪馬台国に陸行されたはず。
 このことからも、連続説は成り立たず、伊都国以降の道程は放射説が正しい。

難升米(4) 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 13:56:30

(九州説に関係ない文章一部削除)
戸数を問題としますが、これ等の小国が連合して、女王国連合を形成していたわけです。
仮に伊都国の千余戸と、邪馬台国の七万余戸が差が大きくても、そんなことは関係ありません。邪馬台国の七万戸と投馬国五万戸の戸数が異様に多いから混乱しているだけで、この二国はそれだけの大国だったと考えるべきです。

「及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯」
この文は邪馬台国が伊都国から、陸行で行けるような近い距離にあることを明記しており、決して、畿内のような遠隔地にあるはずがない。

難升米(3) 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 13:50:42

(九州説に関係ない文章1部削除)
『魏志倭人伝』には「(帯方)郡の使するや、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書・賜遺(ようい)の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯(ささく)し得ず。」と書いてあります。

 金印や詔書・賜遺の物は伊都国の港で陸揚げされると、一大率によって捜露され、王都邪馬台国へ(陸行で)、差錯し得ずに伝送された。
 畿内に伝送するのは無理。もう一度水行するなら、税関が伊都国に有るはずがない。

難升米(2) 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 13:45:08

(九州説と無関係な文章一部削除)
私の説は、対馬国から不彌国迄の六か国と同じく、連続して記される二十一国も共に北部九州の倭国=女王国連合の構成国だとする説であり、倭国は王都邪馬台国も含めて、約三十国の連合国を形成していたわけです。

伊都国は、これ等の三十国を当地から、南向きに監察していました。当然倭国=女王国連合は近畿地方の国々とは、畿内大和も含め、全く関係ありません。

基本、邪馬台国は小国30国の女王国連合=倭国の王都(首都)に過ぎない。
倭国=女王国連合と邪馬台国や投馬国、或いは狗奴国を同等に考えてはなりません。

狗奴国は倭国とは異なる別の連合国と思われますが、投馬国は南九州にあった一つの大きな都市と思われます。たぶん、狗奴国連合に属する国と思われます。

難升米説(1) 当世奇妙

2022/05/06 (Fri) 13:36:36

伊都国で搜露した文書賜遺之物が機内に持ち込まれるはずはない

上記理論を最初に提示したのは私でした。
https://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12223479606.html

畿内に詔書印綬や賜遺の品を持ち込むためには難波あたりで船から荷揚げせねばなりません。

伊都国で一旦荷揚げされ、入国審査を通った陽遺の物を、もう一度荷造りして、
船に積み込み、水行を再開するなんてことが、現実的にあり得るでしょうか?
普通このようなことはほぼあり得ませんね。

玉枕(4)九州遺跡巡り幹事 当世奇妙

2022/05/05 (Thu) 07:02:08

玉枕(4)
「北部九州の遺跡巡り」は私が幹事になって、最初の企画の遺跡巡りでした。当世さまは参加されていませんでした。当時はこの旅の募集をHPで見て、韓国から参加された孫女史、日向峠を越えて伽耶山がみえてきたら、孫さんがマイクを握り、解説を始めました! 韓国では日本語ガイドをされているとかで、日本語はペラペラ。しかもスケッチブックを抱えて、遺跡の写生をしていました。思い出多い、伊都の地です。

平原遺跡を卑弥呼の故郷と感じているのは、超大型46.5㎝の内行花文鏡、4面(5面)以って行われた葬送、
しかもそれらを破砕して遺体の周りに置かれていた。その光景は強烈です。

径と書かれており、円墳ではないとか、年代が合わないとか、色々齟齬することはありますが、そういう視点に重きを感じないほど、方格規矩神獣鏡などを含めて40面の鏡をもって行われた葬送。これだけ呪術性の強い、葬送を行った女性の墓は平原1号墳しかない。と言うのが私の結論です。

卑弥呼は北部九州では弥生時代終末期を生きた、古墳時代との境界に位置付けられる。平原の埋葬部の割竹式木棺も弥生時代終末期と古墳時代を画する埋葬施設である

玉枕(3)つぶやき 当世奇妙

2022/05/05 (Thu) 06:55:54

玉枕(3)
<「伊都国」の平原遺跡>

公孫氏の時代にあたる遺構に、北部九州には「伊都国」の“平原1号墳”がある。方格規矩鏡群と超大型内行花文鏡など40面の鏡は当時として破格の副葬で、この鏡群に多い「陶氏作」鏡は、山東省陶懸出身の氏族の鏡師とされる。公孫氏は190年~207年頃まで山東半島の一部を支配していたので、平原鏡群は公孫氏政権下の192年~207年の製作の可能性が指摘されている。

又、平原の副葬品には漢文化の女性専用のガラス管玉ピアス「耳璫」が存在し、被葬者は女性であろうとされている。

平原1号墳の年代は、これらの鏡群の評価で議論もあるが、周溝底面出土の“鉄鏃”からⅠA期新相の可能性が想定されている。鉄鏃の年代とも合わせて、平原の鏡群は2世紀後半~220年の所産とされている。

又、鏡の年代が即、墓の年代にならないことは畿内でも239年、240年の紀年銘を持つ鏡が3世紀後半や4世紀初頭の古墳から出土している例を考えるなら、平原1号墳は248年(以って死す=以前に)亡くなった卑弥呼の墓とみることも可能かと思われる。

これは大方の考古学者からは否定されるであろうが、「卑弥呼」を「巫女」と呼称として「初代の巫女の墓」とみることには賛同があるようだ。それほど、呪術性の強い、膨大な鏡の力が期待された平原1号墳の被葬者は、私は女王=卑弥呼の墓にふさわしいと感じている。

初めて平原遺跡を訪れたのはNHKのスクーリングで、高島忠平先生の説明を聞いたのが最初だった。ここから日向峠を眺めた。

その後、「北部九州の遺跡巡り」を企画する機会があったので、今度は博多から一般道を使って日向峠を越えて伊都国の領域に入る計画を立てた。伊都国博物館で学芸員の江野氏の説明をお願いしていたが、急遽、平原遺跡へもご案内下さることになった。

最初の訪問では感じることのできなかった伊都国の中枢部から平原遺跡までの位置関係が理解でき、そこは曽根丘陵を登り、中枢部からは見えない空間であることが分かった。太陽が照り付け、やはり日向峠への眺望は素晴らしかった。ここが卑弥呼の故郷かなぁ?(あくまで個人的!)

ヲワケ臣(8) 当世奇妙

2022/04/27 (Wed) 19:37:44

関口宏の「一番新しい古代史」を見てのヲワケ臣説

①邪馬台国の国制と首都の構造
 これまでの邪馬台国論では、国制と首都の構造に関して、あまり議論されて来なかった気がします。畿内説の首都、纒向遺跡に引きずられて、邪馬台国の首都は、大がかりな都市型の構造を持つとの前提で、その位置を探してきたように思います。今回、『魏志倭人伝』に立ち帰って国制を読取ることにします。

 先ず、外交、国防、治安機能は伊都国にて「大率」が担ったことが知れる。外交は、言うまでもないでしょう。又、治安は、刺史に準えられた通りです。国防は、対馬国、一支国、奴国、不弥国に置かれた卑奴母離を統轄して、伊都国が制海権を有した。因みに、この制海権は、誰に対してか考えるに、敷かれた制海ラインからみて、半島、及び、不弥国以東の九州島外の地域と考えます。外交、国防、治安の機能として、時に魏や西晋の軍事力の利用も念頭にあり、又、期待していたと考えます。この期待は、大陸に近接していた、北部九州ならではのことと思います。遠い畿内は、魏や西晋の軍事力を利用しようにも利用出来ないと考えます。

 次に、『魏志倭人伝』は、「国国に市有り。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。」と記す。「大倭」は、邪馬台国が派遣した大官で、重要物資の鉄、銅鏡等を対象に管理交易を行ったとされる。考古学は、この時期、伊都国の今宿・今山、奴国の博多を交易拠点とした「博多湾貿易」が展開され、広く列島西半部の交易があったことを明らかにした。このように交易機能は、伊都国、奴国を中心に諸国の「大倭」が担ったことが判ります。

 次に、国制の重要な機能の一つである祭祀機能は、邪馬台国の宗教施設を拠点とし、卑弥呼が担った。婢1000人ほどの宗教拠点であり、鬼道を厳かに行う様が覗われます。

 最後に、政治の機能ですが、これは、各国の談合であり、卑弥呼の男弟が議事進行を担ったと考えられ、この例が卑弥呼の共立です。『魏志倭人伝』は、国々の談合で卑弥呼を共立して倭国乱を収束させたことを記す。このように、国益に係る重大事は、主要国の談合で決定したと思われます。主要国は、卑弥呼を共立した建国9ヶ国で狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬國、邪馬台国である。通信手段のない、この時代、広域に渡ると考えられる30ヵ国の談合は困難と考えます。談合の場所は、利便性がある伊都国や奴国と思われます。

 以上、邪馬台国の国制は、機能分担型であり、纒向遺跡にみられるような大規模な都市構造の「首都」を特に持つ必要がなかったと考えます。そして、これらの機能は、主に、伊都国、奴国、邪馬台国が担ったように観られます。国制から視た邪馬台国の位置は、博多湾岸の北部九州説を支持します。

②纒向遺跡出土の土器
 この放送の中で纒向遺跡から出土した搬入土器の地域別分布が示されました。色々な地域からの行き交いがあるとされ、又、北部九州系の土器がない(少ない?)ことから、纒向遺跡が、邪馬台国の首都である可能性が高いとの通説が示されました。
 しかし、邪馬台国の中心地、首都であるなら、北部九州系土器の出土が、相当量あるはずです。又、北部九州勢力と纒向を中心とする畿内勢力が没交渉的であり、分立していたとする違った解釈もできます。この北部九州系の土器の出土状況から言えることは、単に北部九州の邪馬台国が纒向に東征や東遷した事実がなかったことを示すだけであると考えます。武力支配や遷都に伴う入植があったなら、日常生活に関連する北部九州系の土器が多量に出土するはずです。
 ところで、自説は、北部九州の邪馬台国が、纒向の初期大和王権を支配していたと考えています。支配は、武力によるものでなく、鉄や銅鏡など重要物資の管理交易、及び、鉄器製造や土木などの先進的な生産技術の供与を通じたものであり、北部九州の邪馬台国が優位に立っていたとするものです。
 この場合、人の移動は、管理交易官の「大倭」や技術者などに限定され少数であり、労働者は現地採用であったと考えます。このため、日常生活用の北部九州系土器の使用量は少く、発掘し難いと思います。又、重要物資の鉄素材や鉄器は、輸送船内に直に置くか、搬入容器は木箱だった可能性があると考えます。因みに、ウワナベ古墳陪塚から木箱に収納された鉄挺が出土している。又、もう一つの重要物資の銅鏡は貴重品であり、搬入容器として土器が使用されることはなかったでしょう。
 以上、自説にあっても、北部九州系土器の出土は限りなく0に近くなります。纒向遺跡出土土器の地域別分布に関しては、色々な解釈ができるため、邪馬台国の位置決めの論拠にならないと考えます。

玉枕(2)鏡データ 当世奇妙

2022/04/26 (Tue) 16:46:01

玉枕(2)
<魏の紀年銘を持つ鏡>

魏の紀年銘を持つ鏡を資料に基づいてまとめてみました。いろいろなことが読みとれると思います。(〇数字は同型鏡)

黄初二年(221) 同向式神獣鏡①   大谷大学資料館         鈕孔 円
黄初二年(221) 同向式神獣鏡①  (伝)湖南省長沙            円
黄初二年(221) 同向式神獣鏡②   湖北省                半円
黄初二年(221) 同向式神獣鏡②   湖北省                円
黄初三年(222) 同向式神獣鏡③  (伝)浙江省紹興            半円
黄初三年(222) 同向式神獣鏡③   スウェ―デン王立博物館        半円 
黄初三年(222) 同向亜式神獣鏡   日本文化資料センター         円
黄初四年(223) 対置式神獣鏡④   五島美術館              円
黄初四年(223) 対置式神獣鏡④   東京国立博物館            円
黄初四年(223) 対置式神獣鏡④   湖北省                半円
太和元年(227) 対置式神獣鏡    ロイヤルオリエンタル博物館      円
太和元年(227) 対置式神獣鏡    木村貞蔵旧蔵             円

青龍三年(235) 方格規矩四神獣鏡⑤  京都府 大田南5号墳  4世紀  鈕孔長方形
青龍三年(235) 方格規矩四神獣鏡⑤  大阪府 安満宮山古墳  3世紀後半  長方
青龍三年(235) 方格規矩四神獣鏡⑤  関東地方 出土            長方

景初三年(239) 三角縁神獣鏡   島根県 神原神社古墳 4世紀    鈕孔 長方
景初三年(239) 画文帯神獣鏡   大阪府 和泉黄金塚古墳 4世紀後半 鈕孔 長方

景初四年(240) 盤龍鏡⑥      京都府 広峯15号墳       鈕孔  長方
景初四年(240) 盤龍鏡⑥      辰巳考古資料館          鈕孔  長方

正始元年(240) 三角縁神獣鏡⑦   群馬県 柴崎古墳  小型古墳 4世紀後半  長方
正始元年(240) 三角縁神獣鏡⑦   兵庫県 森尾古墳  方墳 4世紀末     長方
正始元年(240) 三角縁神獣鏡⑦   山口県 竹島古墳  前方後円墳 4世紀前半 長方
正始元年(240) 三角縁神獣鏡⑦   奈良県 桜井茶臼山古墳  4世紀初頭   鈕無し
正始五年(244) 画文帯神獣鏡    五島美術館                半円

甘露四年(259) 獣首鏡 右尚方銘  五島美術館      鈕孔 半円
甘露五年(260) 獣首鏡 右尚方銘⑧ 黒川古文化研究所   鈕孔 長方形
甘露五年(260) 獣首鏡 右尚方銘⑧ 書道博物館      鈕孔 半円
甘露五年(260) 獣首鏡 右尚方銘  河北省           長方
景元四年(263) 規矩鏡 右尚方銘  五島美術館         長方

ヲワケ臣(7) 当世奇妙

2022/04/26 (Tue) 16:44:03

まとめ
邪馬台国北部九州説の論拠とした神武伝承の存在、「中平刀」の伝来過程は、一つに括れば、大和の纏向への「大倭」設置となる。考古学は、古墳時代開始期、北部九州から纏向への高度鍛治技術移転、供与、鉄素材供給体制の整備があったとする。纏向一帯には、「大倭」設置の痕跡が多い。大市郷名、大市の墨書土器片出土、運河の遺構、広範囲な地域の土器出土等である。このことから、北部九州の邪馬台国が、古墳時代開始期に纏向へ「大倭」を設置し、交易、生産拠点としたと考えたい。「大倭」は、祟神朝に設置された。ちなみに祟神の崩年は、258年となる。卑弥呼は、「節刀」として「中平刀」を与え丸邇氏を「大倭」に派遣した。神武伝承は、祟神の王権創業である「大倭」設置、タケハニヤスヒコの反逆平定を粗型とした。
邪馬台国は、三世紀中葉、初期大和王権を支配下に置き、四世紀初頭に分裂、解体した。四世紀後半、応神朝の大和王権が成立した。この大和王権の母体は、邪馬台国から分立した北九州東部、近畿両勢力であり、連合王権であった。近畿勢力は、祟神の王統、及び、邪馬台国を出自とする丸邇氏を中心としていた。この連合王権は、王宮を丸邇氏の勢力が及ぶ北大和の春日の地に、又、王墓も周辺の佐紀の地に移した。王位は、引き続き祟神の王統が継いだ。四世紀後半、大和王権は、「金海貿易」を興し管理交易権を得、半島へ軍事介入し、軍事指揮権を得、更には五世紀前葉、中国南朝への遣使により外交権を得た。ここに大和王権は、公的権力としての外交権、軍事指揮権、管理交易権を得て王権を確立したと考える。
 白鳥は、日数記事の解釈を課題とした。日数記事からみた代表説の類型表を作成したので、以下に記します。日数記事解釈の進め方の参考になればと思います。
1.里数日数一体自明説
  北部九州説 榎一雄(放射式)
畿内説   内藤湖南
2.日数不使用解釈説
  北部九州説 白鳥庫吉
        橋本増吉
        大和岩雄
  畿内説  渡邊義浩
3.里数日数不使用説
  位置不定 岡田英弘
     
Re: 邪馬台国九州説の論拠 ( No.39 )



Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート ヲワケ臣(6)

2022/04/26 (Tue) 16:41:25

5.「中平刀」の伝来過程
古事記、日本書紀は、祟神の命で丸邇氏の遠祖ヒコクニフク命が、オオヒコと伴に北大和、南山城、南河内を舞台に、反逆者のタケハニヤスヒコを討ち取る古事を特記している。これが神武伝承を構成するもう一つの事績、畿内平定に当たると考える。丸邇氏は、系図学者の分析に基づく氏族の有り様から、奴国末裔の海神族の主流であり、安曇氏を配下に持った氏族とされる。丸邇氏が築造した東大寺山古墳出土の「中平刀」は、後漢から直接か、又は、公孫氏経由で邪馬台国の卑弥呼に下賜されたとされる。卑弥呼は、丸邇氏の功に報い、又は、功を期待して「中平刀」を下賜したと考える。卑弥呼は、丸邇氏を「大倭」に任命し、「節刀」として「中平刀」を与え大和の纏向に派遣した。タケハニヤスヒコの反逆は、畿内勢力が邪馬台国に加盟し、「大倭」を設置したことに伴い発生した争乱であった。開国し新政策を進める祟神勢力と守旧勢力による争乱は、画期的な大事件であった。このため人々の記憶に長く留められ、古事となり、神武伝承の粗型となったと考える。大和の「大倭」設置以降、邪馬台国は、「大倭」の丸邇氏を通じて先進技術を用い、主導的に纏向の地を開発していった。この結果、纏向は、商都として、一大物流センターとして栄えた。又、乱に介入し収束させたことから、その後、畿内に大きな力を及ぼした。
何故、祟神は、邪馬台国へ加盟したのか考えてみたい。近畿では、三世紀前半、銅鐸祭祀に代わって神仙思想が急速に広まっており、人々は、神獣鏡を神仙思想に欠かせない宝器として望求したとされる。しかし、220年以降公孫氏を討滅すべく魏の南下策が、展開され、半島の情勢は、急速に悪化した。このため畿内勢力は、鉄、神獣鏡を安定的に確保するために、邪馬台国へ加盟したと考えたい。一方、邪馬台国が、纏向の「大倭」に期待したことは、近畿、東国への鉄の供給を通じて得られる、穀物貨幣の稲束、稲籾の獲得であったと思われる。伊都国、奴国等、可耕地に制約がある北部九州の国々にとって、交易で安定的に得られる稲束、稲籾は、魅力的な商品であった。239年の卑弥呼の魏への遣使に祟神は、邪馬台国の加盟国として参画したと考えたい。
 尚、3.節で課題とした邪馬台国と大和王権の関係に関しては、次回、まとめとして節を設け記したい。


ヲワケ臣(5) 当世奇妙

2022/04/26 (Tue) 16:37:41

4.神武伝承の存在
神武伝承は、津田の机上の造作説、直木等の後代の史実反映説、和辻の史実の記憶を核とした説に分かれる。先ずは、和辻の立場に立ち王権創業当時の史実に眼を向け解釈すべきと考える。古事記、日本書紀は、祟神朝に王権創業の事績を記す。祟神は、おおやまと地域の王墓、王宮の伝承と結びつけられ、初期大和王権の初代大王として比定されてきた。近年、考古学の世界では、古墳時代の始まりは、従来の四世紀初頭でなく三世紀中葉から後半とする見方が主流となった。この結果、古事記の記す祟神の崩年干支は、318年から258年に上がると考えたい。祟神は、三世紀中葉に在位し卑弥呼と近接していた。和辻は、「国家を統一する力が九州から来た」とし、卑弥呼の邪馬台国が所在する西方からの風に注視した。神武伝承は、西方からの働きかけ、大和入りの動きと畿内平定の事績から構成されている。卑弥呼の邪馬台国から祟神の大和王権への働きかけの一つに、鉄生産、流通、交易の産業開発、育成がある。考古学は、古代日本の鉄の生産、流通の実態を明らかにした。これによれば、古墳時代に博多遺跡は、革新的な鉄の鍛治技術を用い鉄素材、鉄製品を大量生産していた。古墳時代開始期、北部九州から大和の纏向へ、この高度な鍛治技術が移転、供与され、加えて鉄素材を北部九州から纏向へ供給する体制が整えられたとする。このことから、北部九州の邪馬台国が、古墳時代開始期に纏向へ「大倭」を設置し、交易、生産拠点としたと考えたい。纏向一体は、古代の大市郷であり、大市と書かれた墨書土器が出土し、運河の遺溝があり、広範囲の地域の土器が出土している点等々「大倭」設置の痕跡が多い。神武伝承は、卑弥呼の邪馬台国から祟神の大和王権への「大倭」設置等の働きかけを祖型としていると考えたい。次節「中平刀」の伝来過程で、神武伝承を構成する、もう一つの事績、畿内平定に関して記したい。
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ヲワケ臣(4) 当世奇妙

2022/04/26 (Tue) 16:35:05

3.大倭の記事、「博多湾貿易」変遷との整合性
邪馬台国の力の源は、公的権力としての外国権、管理交易権であり、外交は大率、交易は大倭がになった。邪馬台国は、国々の市に大倭を設置し、鉄、神獣鏡等の半島、大陸産の文物を管理対象として管理交易を行った。三、四世紀の交易の実態は、「博多湾貿易」の変遷よって明らかにされた。この交易は、四世紀中葉に全盛期を向かえ、西新町への土器の搬入地域は、列島全域に拡大したとする。この現象を考えるに、313年高句麗により二郡が、316年西普が滅亡する。弁辰は、二郡に代わる鉄の輸出先として倭を最重要視したため、鉄の需給は大幅に緩和され、倭の交易は、邪馬台国の管理交易から、奴国主体の自由交易へ移行したと考えたい。自由交易であるがために全国的な交易が、行われた。四世紀初頭の大陸、半島の動乱下、邪馬台国は、公的権力としての外交権、管理交易権を失い、分裂、解体したと考えたい。
「博多湾貿易」は、四世紀後半、大和王権による金管加羅との直接外交、交易の開始により、交易機構が瓦解し衰退したとする。大和王権は、北九州東部-沖ノ島-対馬から半島へ至る新たな航路を開発したと考えたい。邪馬台国畿内説が成立しない理由は、第一に大和王権=邪馬台国が、二世紀末に大率を設置し、北部九州を支配していたにも拘わらず、100年後に管理交易から奴国主体の自由交易へ移行し支配を解かれたことである。第二に伝統的な伊都、末羅-一支-投馬から半島に至る「魏志倭人伝」航路とは別に、新たに沖ノ島経由の航路を開発したことである。このプロセスは現実的でなく畿内説は成立しない。大和王権は、四世紀後半の応神朝に北部九州を初めて支配した。大和王権=邪馬台国でないとすれば、邪馬台国と大和王権の関係が、どういうものだったのか、位置論でなく古代国家形成論としての大きな課題となろう。、
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ヲワケ臣(3) 当世奇妙

2022/04/26 (Tue) 16:32:19

2.卑弥呼共立の記事
共立時の二世紀末の社会は、王.大人、下戸、奴婢の階層があったが、五世紀の三ッ寺Ⅰ遺跡の豪族居館に見られる隔絶した階級は、未だ発生していない。邪馬台国は、初原期の国家に当たり、統治組織としては、大率、大倭に依存するのみで、五、六世紀の県主、国造、部のような広域を安定して統べる統治組織を有していない。従って、邪馬台国は、いくつかの国々の連合体であり、共立も伊都国、奴国、投馬国等の北部九州の国々を中心に談合によって為された。遠絶とされる其の余の21国は、共立時、連合体に加盟していない。邪馬台国の時代は、100年強続いており、いくつかの発展段階を想定すべきである。其の余の21国は、連合の拡大、拡充期に新たに加わったと考える。尚、開発されていない二世紀末の纏向の大和は、弱小勢力であり、共立された邪馬台国の盟主には、なり得ない。

ヲワケ臣(2) 当世奇妙

2022/04/26 (Tue) 16:29:57

1.白鳥の道程記事解読
万二千余里は、五倍長(短里)で記されており、邪馬台国は、伊都国から千五百里伊都国周辺にあったとする。又、邪馬台国は、伊都国、奴国を北に、狗奴国を南に、倭種の国を東の海上に置く位置にあり、筑前地方の南方にあったとする。
その上で、日数記事の解釈を試みるが成功していない。白鳥以降、日数記事の解釈を巡って論が展開されて来た。東遷説もその一つで有力説であるが、大事な出来事であるにも拘わらず魏志倭人伝は、何も記さず不自然である。未だ日数記事の解釈に成功していないようだ。

ヲワケ臣(1)目次 当世奇妙

2022/04/26 (Tue) 16:26:29

邪馬台国の謎、さきたま稲荷山鉄剣の謎を研究しています。北部九州の邪馬台国が大和を支配したとする立場、説です。以下が論拠です。詳細は、添付資料を参照下さい。
1.白鳥の道程記事解読
2.卑弥呼゛共立゛の記事
3.゛大倭゛の記事、考古学゛博多湾貿易゛変遷との整合性
4.神武伝承の存在
5.゛中平刀゛の伝来過程

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート i石見介

2022/04/25 (Mon) 23:20:35

 玉枕さんは、邪馬台国位置論では、近畿説を採用されている、と
解釈してよいのでしょうか?

玉枕 女王国九州説(0) 当世奇妙

2022/04/25 (Mon) 09:31:14

玉枕さんの投稿はこちらが先でした。

「邪馬台国問題」は第一義的に『魏志倭人伝』の解釈によるべきである。という指摘に再度読み直してみると、大きな誤解をしていたことに気が付きます。

「邪馬台国」はその音でも「ヤマト」で畿内の大和地域のことを指していたことで間違いないのでしょう。それは「水行十日陸行一月」で表され、距離的にも合うと言うことです。

しかし、かつて、指摘されていたことですが、その「邪馬台国」は『魏志倭人伝』の中で一か所しか記されていないのです。

『魏志倭人伝』は、ほとんど「女王国」のことを説明している。これを安易に「邪馬台国」=「女王国」として定着させてきてしまっていた。それが「邪馬台国問題」を永遠に謎にした。それは「南至邪馬台国女王之都・・・」の一文の為です。

「邪馬台国」が「女王の都とする所」という一文が頭の中にインプットされ、大きな比重をかけて魏志倭人伝を解釈してきた気がします。

魏志倭人伝は「邪馬台国」ではなくて「女王国」のことを説明していたことに改めて気づかされます。

ここで改めて、注目されるのが、文献史学の分析から『魏志倭人伝』は、いくつかの史料を挿入して陳寿が編纂したものであるという指摘が思い出されます。

その具体的な例が“里数表記”と“日数表記”となる文章の違いで、「不弥国」までの里数表記の後に日数表記の「投馬国」や「邪馬台国」への行程文を陳寿が挿入して説明していると言う指摘です。

その挿入された一文が「南至投馬国水行二十日・・・南至邪馬台国女王之都水行十日陸行一月・・・七萬余戸」

この日数表記の一文に唯一「邪馬台国」が出てくる。別の史料からの「挿入文」とされる部分に「邪馬台国」が出てくることに注目されます。

当世さまが紹介する平野邦雄氏の論のように、『魏志』『魏略』ともに「帯方の東南の海中にある倭」と「この倭から東、海を渡ること千余里にある倭」=を区別し、倭人伝は前者を述べている。と言う指摘にも通じるように思います。

我々はこれから「女王国九州説」か「女王国畿内説」というのが正しく、この認識が迷路に入り込まない道であると思います。

玉枕さん(1) 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:25:36

玉枕さん (1)
玉枕さんは 邪馬台国ではなく女王(連合)国九州説 と思うが。

1.『魏志倭人伝』が記載する時代──「女王国」より以北の「伊都国」に“一大率”が置かれ、ここが倭の交易の窓口で、大率によって諸国を検察され、諸国はこれを畏憚していた。大率を置いた主体は「帯方郡」か「卑弥呼」か、議論がある。朝鮮半島の交易も「伊都国」を通した統制の中あった時代に卑弥呼の「女王国」のことが説明されている。

2.「伊都国」の比定地──「伊都国」は北部九州にあったことは、楽浪土器の集積が見られることで傍証されている。「奴国」、「不弥国」も北部九州に比定することに異論がない。卑弥呼の居所だけが、文化圏の異なる遠方の「邪馬台国」にあると理解することは不自然である。卑弥呼は共立されているのだから、周辺諸国の人々からよく知られた人物であっただろう。末羅国、伊都国、奴国、不弥国などが北部九州でよいのなら、女王国連合は北部九州の諸国の連合体であっただろう。

3.「伊都国」の監視システム──「卑弥呼の都」を畿内に考えると、そのような遠くから重要拠点の「伊都国」を制御できない。

4.「女王国」のネットワーク──副官の卑奴母離(連絡網)が対馬・壱岐から伊都国へ、伊都国から奴国、不弥国に置かれ、伊都国を中心に女王の居所までのネットワークが九州島で完結している。

5.魏使の行程──郡を出発して、朝鮮半島南岸の「狗邪韓国」に「到」着。対馬・壱岐を介して、「伊都国」に「到」着。「伊都国」で上陸している。ここが郡使のとどまる所とされている。女王卑弥呼が居所する場所は「伊都国」から陸行できる所にあったことを示している。

6.「女王国連合」の位置──女王国の北に伊都国・一大率が置かれていた。津に面した前原を中心とした糸島平野に「伊都国」は存在していただろう。ここには楽浪土器が集中して出土する遺跡がある。一大率は帯方郡が置いたのか卑弥呼が置いたのか議論があるが、女王国連合は糸島平野から福岡平野、筑紫平野にわたって展開していたのだろう。

7.女王国に属さない「狗奴国」──「狗奴国」は「女王国連合」の領域の「南」にある。筑紫平野の南にある熊本県(球磨)の菊池川流域の菊池平野は、狗奴国の「狗古知卑狗」はククチ、キクチの音訳と考えられ、「狗奴国」に比定できる。

8.『魏志倭人伝』に書かれている内容は九州島内で理解できる──この地は、弥生時代の始まりを知らせた地域であり、常に大陸や半島からの先進文化が真っ先に受容できる地勢にある。朝鮮半島の南部の勒島貿易の時代から壱岐─伊都国の交易時代に至り、対馬・壱岐を介した海人専門集団の存在があり、大陸や半島の動向をいち早くキャッチすることのできる場所でもあった。

9.「女王国連合」の軋み──卑弥呼の死後は女王国連合も緩み、伊都国の独占交易拠点も解体され、博多湾に新たに自由貿易拠点が形成され、半島からも人々が一時定住して交易が行われ、列島各地の人々は博多湾に行けば、先進技術を直接ここで学ぶ機会ができた。時は3世紀後半以降のことである。この時代背景は魏王朝の滅亡により伊都国に置かれていた一大率の権限も薄れ、その関係が消滅したこととも連動しているだろう。

オヤジッチさん(4) 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:23:42

オヤジッチさん(4)
私が「邪馬台国九州説」の論拠とすべきと思う文献 投稿者:オヤジッチ 投稿日:2022年 3月11日(金)14時23分35秒 dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp 返信
墓碑などが出土しない限り決定的なことは言えないし、たとえ「親魏倭王」金印が出土しても金印は簡単に持ち運べるわけで、考古学的には「邪馬壹國」は未だ不明と言わざるを得ないと思い、文献の中から探すことにして、
漢籍は中華からの使者が倭国に来て見聞した記事を含むもの、倭からの使者が詳しい説明をしたもの。何らかの史実を含むであろう「記紀」から5件の記事を抽出、吟味しました。
私の結論はここでは述べません。皆さんのご意見を拝読したいと思います。

・魏書東夷傳倭人条
『倭人在帶方東南大海之中依山?爲國邑』
『“女王國東”渡海千餘里復有國皆倭種』景初二年~正始元年(238年~240年)

・隋書東夷傳
『倭國在百濟新羅東南・・・於大海之中依山島而居魏時譯通中國三十餘國・・・都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』
『開皇二十年(600年)倭王姓阿毎字多利思北孤・・・遣使詣闕』
『有阿蘇山其石無故火起接天者』
『大業三年(607年)其王多利思北孤遣使朝貢・・其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」』
『自“竹斯國以東”皆附庸於倭・・・・有阿蘇山其石無故火起接天者』

・舊唐書東夷傳
『“倭國”者古倭奴國也・・・在新羅東南大海中依山島而居・・・四面小島』貞觀五年(631年)
『“日本國”者倭國之別種也・・・・西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國』長安三年(703年)

・古事記(712年)
次に筑紫島を生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫国は白日別と謂ひ、豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曽国は建日別と謂ふ。


・日本書記(720年)・磐井乱(527-8年:『古事記』では「竺紫君石井(ちくしのきみ いわい))
『“磐井掩據火豊”二国勿使修職』(磐井は火(ヒノクニ=肥前・肥後)・豊(トヨノクニ=豊前・豊後)に勢力を張り朝廷に仕えなかった)

「記紀」批判
《古事記》《日本書紀》の史料的性格を検証・確定する学問手続。記紀の記載内容がどのあたりから信じられるかという点について,すでに江戸時代の山片蟠桃が〈神功皇后ノ三韓退治ハ妄説多シ。応神ヨリハ確実トスベシ〉〈神武ヨリ千年ホドノ間ハ神代ノ名残(なごり)ニテ,史ニハイカニ載タリトモ,ミナコシラヘゴトナリ〉とする。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:21:04

オヤジッチさんの投稿(3)

倭人伝関連の書は3つ
魏書(王沈)(250~260)
魏略(魚拳)(265~270)
魏志(陳寿)(285)

*『漢書』 地理志第八下に魏略が引用されている。
魏略云倭在帯方東南大海中、依山島為國、度海千里、復有國、皆倭種

魏略は倭と渡海千里の倭種を区別している。
その上で前者のみ扱うとしている。
その前者とは倭人伝の邪馬台国。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:18:59

オヤジッチさん(2)
今思いつくものを纏めて見ました。
地理的根拠
・『伊都國・・・・・・南至邪馬壹國女王之所都』
・『自女王國以北特置一大率檢察諸國・・・常治伊都國』
↑糸島市前原周辺に比定される伊都国から、邪馬台国への方角が「南」である。
・『其南有狗奴國・・・・官有狗古智卑狗』 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられ、女王国(≒倭国)と狗奴國の国境(最前線)が菊池山地と考えられる。
・『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』「女王国(≒倭國)の東に倭と同じ人種の国がある」(≒後の大和)
・『舊唐書』東夷傳に倭國と日本國が併記してある。
 『倭國者・・・・・新羅東南大海中』「倭国は新羅(≒半島)の東南、海に囲まれている」(=九州島)
 『日本國者倭國之別種也・・・・・西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國』「日本國は倭国とは別の“倭種”である。その国の西と南は大海で、東と北は大山であり、山の向こうには倭種以外の人種(≒蝦夷)の国がある」(=関西地方)

民俗文化的根拠
・『共立一女子爲王』(共に一女子を王となした)
↑そのためには、民族文化的共通性が必要。
 祭祀において、武器型青銅製祭具及び青銅鏡、甕棺墓を用いた範囲が女王国の範囲と考えられる。
 民族文化的共通性のない近畿と北部九州が共に一女子を立てるのはありえない。(尤も、地理的に“共立するための話合い”すら不可能)
・『銅鏡百枚・・・・・故鄭重賜汝好物也』(汝の好むもの・・・鏡などを下賜する)
↑倭人は鏡を好むということが魏に知られていたと言うことは、漢の時代から倭人が銅鏡の入手に熱心だったということ。(女王国≒前漢や後漢鏡を副葬している國々)

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:17:35

オヤジッチさんの投稿 (1)
・『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』「女王国(≒倭國)の東に倭と同じ人種の国がある」(≒後の大和)
・『舊唐書』東夷傳に倭國と日本國が併記してある。
 『倭國者・・・・・新羅東南大海中』「倭国は新羅(≒半島)の東南、海に囲まれている」(=九州島)
 『日本國者倭國之別種也・・・・・西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國』「日本國は倭国とは別の“倭種”である。その国の西と南は大海で、東と北は大山であり、山の向こうには倭種以外の人種の国がある」(=関西地方)

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:16:09

関川さんの記述(3)
奈良盆地東南部の弥生集落は相互に4km以内にあり密接な交流関係を保つ。微高地上あり弥生中期末には河川の氾濫で埋没し、絶えず水害に見舞われた。

弥生前期から後期まで長期に継続し、纏向成立後も
規模縮小しながら古墳前期まで続く。
集落としての安定性が特徴である。

唐子・鍵遺跡では弥生中期に二棟の大型があらわれるが、大和盆地東南部全体として、弥生後期の大型建物、首長居住の建物は不明である。

この見解からは大和地域に邪馬台国に繋がる集落は
想定が難しいと言うことであろうか?

今後の発掘で何か出る可能性もあるので、関川氏の
文章は控え目である。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:14:51

関川論再録2
関川氏の本『考古学から見た 邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』の「はじめに」に氏の心情が記されている。

本では大和地域の弥生遺跡、纏向遺跡、箸古墳についての
氏の見解が記されているが、それらを踏まえての心情吐露
である。約半世紀・50年当地の発掘を担当した人の思いには
先ずは耳を傾けたいと思った。

「大和は、四周を山に囲まれた適当な広さの盆地、まとまりのある
平穏な地域である。中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との
抗争もあるような外に開かれた活発な地域(邪馬台国のような古代国家)
のような実感はない。それを証明する遺物も見当らない」

この部分はあまり印象がなく、読み飛ばしていたが、読み終わって
見ると、関川氏の心情は理解できるように思った。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:12:38

関川論採録1
関川氏の論は邪馬台国九州説と言うより
畿内邪馬台国不可能説と言うものである。
具体的証拠による論と言うよりも間接的推論
に近いと思われる。
しかしながら、それなりに説得力はあると感ずる。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:08:44

平野邦雄 邪馬台国九州説(8)最終―畿内ヤマト政権の地方組織

平野先生は畿内ヤマト政権の地方組織の県には
『倭人伝』以来の原始的な国名を引き継いでいるものが
あるとされている。対馬、壱岐、筑紫の怡土・儺などが
それであろう。九州の県には他にも倭人伝が詳細不明とする国々に、なんとなく似ている県もある。
ところが一方倭の高市・葛城・十市、志貴、山辺、
曽布の「倭六県」には、倭人伝の語る邪馬台国連合の国
の名残は見当たらないのでは?

面白いので誰か追及してもらえないかな!

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:07:36

平野邦雄 邪馬台国九州説(7)統一的行政組織

4世紀の初め、楽浪郡・帯方郡が滅び、
百済・新羅が王国を形成する。
しかし、弁辰の地域は統合されず「加羅諸国」
として連合体制で推移した。
連合の中心は『史記』『日本書記』からみると
金官―安羅―大伽耶と変化したらしい。
『日本書記』によれば新羅に併合された
「任那」(加羅)再興のため大伽耶、
ついで百済王が中心となり会議を招集した。
『日本書記』の文言によれば「?に詔書を承る」
「相通わして、厚く親交を結べり」「?にはかり、
同じく計りて」「共に任那の政を議り定め」
とあり、『史記』の「浦上八国」時代の
「謀を同じくし」「力を併せ」と共通する。
会議に加わったメンバーは王の国もあるが、
王の兄弟・王子などの国もある。各国の関係は”
連盟“”同盟“には遠く、各国の王権の自立性は低い。
加羅復興会議で百済王が述べた言葉に
「上下ともに貳心あり、国王自ら新羅に内応す」
「諸国の内心、貳心ある人によりて」とあり
、諸国間の連帯による拘束力も、強固でなかった。

加羅諸国のこのような連合関係は、3世紀の倭の
”諸国連合“を考えるのに十分参照するに足る。
このような”諸国連合“が可能なのは、
比較的勢力の均衡した小国間である。”合議制“
によって政策が決定されるのは一定の政治領域内
においてである。畿内ヤマト王権と、北部九州の
諸国の間で、このような、”合議制“が可能で
あったか。
加羅復興会議で畿内ヤマトの王とならぶ百済王が主導権を握る段階になると、百済が、加羅の「下韓」や「南韓」に、「郡令、城主」を置き、地方組織をおいた。統一的な王権が各地方を統治するには、このような統一的な行政組織がなければならない。畿内ヤマト王権が九州を統治するには、このような統一的な行政組織がなければならない。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:06:19

平野邦雄 邪馬台国九州説(6)諸国連合
倭人伝の女王国は“女王共立”で見るように
諸国連合体制であることは畿内ヤマト説論者
もしばし用いている。

弁辰の「浦上八国」の反乱について以下の
記事がある。1)『三国史記』:「浦上八国」
が「謀りて」加羅を侵した
2)『史記』:「浦上上国」が「謀りを同じ
くして」阿羅国を打った
3)『三国遺事』:「八国」が「力を併せて」
新羅に来侵した。これらは諸国連合体制を良く
示すものである。

『三国志』にあるように卑弥呼も「諸韓国」
とも通行したのは事実である。3世紀の倭の
女王国の政治段階と「浦上八国」の政治段階
は共通するものがあるというべきであろう。

「浦上」とは“海浜の水門(みなと)のほとり”
で「浦上八国」は自由な航海と貿易を求める
航海民の沿海国で、国々の境界をこえ、
政治力権力による統制を求めない。
「浦上八国」とは2・3世紀の弁辰の国々で、
4世紀以降の「加羅諸国」である。

倭の対馬・一支は「南北市糴す」、
また弁辰の鉄を「韓・濊・倭従ひてこれをとり、」
と言われた時代の、倭の沿海諸国の相手国
としてふさわしい。

このような航海民としての沿海国は、弁辰における
「臣智」「邑長」、倭における「大官」「副」と
言う統率者はいても王というよりも酋師に近いも
のである。国々は比較的平等な政治的連合を形成し、
これを超える巨大な王権を成立せしめるには至って
いなかったとみとめられよう。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:04:50

平野邦雄 邪馬台国九州説(5)東夷諸国の政治情勢・現象
白鳥庫吉・橋本増吉の邪馬台国九州説は、「3世紀に、朝鮮半島における韓族が、小国分立状態にあったとき、倭のみが、畿内ヤマトによる統合を遂げたはずがない」とする学説で、現代でも古代史学の中枢にある。『魏志』『史記』における東夷諸国の政治現象は、楽浪・帯方の興亡と深く関わっている。313年に高句麗によって楽浪郡が、ついで韓続によって帯方郡がほろぼされ、高句麗が自立し、百済・新羅の二王国が誕生した。倭の統一的なヤマト王権の成立も、これと同じく四世紀初頭にあったとみることは自然である。しかるに最近は古墳の成立と畿内ヤマト王権の成立を連動させ、邪馬台国ヤマト説に短絡させている。白鳥・橋本の学説のよってくるところを、再検証する必要がある。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:03:50

平野邦雄 邪馬台国九州説(4)一卑奴母守(ヒナモリ、夷守)―
倭人伝の大官・副の中で、統一性のある官名は卑奴母守(ヒナモリ、夷守)のみである。女王は“一大卒―夷守(対馬・一支・奴・不弥)のライン”で外交・軍事を掌握していた。古代ヤマトで夷(ヒナ)とは、もともと王畿に接する四方国、つまり畿内の外側の外国をさす概念。大化改新詔の畿内国は大化前代からの伝統的なウチツクニ(ヤマト王権の基盤)の概念をうけつぐもので、東は伊賀の名張、南は紀伊の兄山、西は播磨の明石、北は近江の逢坂山の四至範囲。畿内のヤマト王権の夷守設定は倭王武以降。3世紀の畿内ヤマト王権(多分存在)の支配領域は、のちの「畿内」範囲が主で、それに隣接する「四方国」が「夷」として把握されていた。「夷」がさほど遠隔地までおよんだ形跡はない。三世紀のヤマト王権が「対馬」「一支」「奴」「不弥」のように北部九州にこれほどの「密度」をもって、一大卒と夷守を配置できたとは到底思われない。四世紀以降のヤマト王権は倭の統治を広げ、五世紀後半に東国の「東夷」・越の「蝦夷」・球磨・曽於の「熊襲」に支配領域がおよび、これらとの境界に「夷守」をおいた。四世紀以後の畿内ヤマト王権は、北部九州の五か所に、一大卒と夷守を配置したという形跡はない。女王国とヤマト王権の設立した夷守には性格の差が認められる

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:02:33

平野邦雄 邪馬台国九州説(3)一大率と大倭― 投
一大率:女王の使が洛陽や帯方郡・諸韓国へ至る時や帯方郡からの魏使・郡使が倭へ至る時、一大率は使者の身分・人数・携行品(船の積み荷)を点検した。女王権力の代行者で外交・軍事を司った。 諸国の卑奴母離(夷守)も直接その支配下。ただし女王の支配下の国々も使訳を通じており、帯方郡・諸韓国との通行・交易は諸国も行っていた。大和朝廷が九州に太宰率を置いたのは早くとも七世紀なかばでこれは遡りえない
大倭:国々の市で交易がおこなわれ、その交易を女王の派遣する大倭が監察する。吉田孝は景初3年の「太夫難升米、次使都市牛利」の「都市」は漢・魏の水利や船を掌り、官の不法を検する官名で“市を総管する官”とする。そうならば「大倭」は「都市」にあたる。
栗原朋信は「大倭」を畿内ヤマトの王とするが、大倭の称を畿内ヤマトにあてるのはわが国では七世紀末からである。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 09:01:15

平野邦雄 邪馬台国九州説(2)―范曄『後漢書』について
『後漢書』:5世紀の宋代に成立したので、5世紀の倭との外交が反映された内容となっている。『魏志』を踏襲しつつも5世紀の実状と合わせる会編を加えた。『後漢書』は三十国全てに「王」がおり、その上に「大倭王」がいて邪馬台国に都したと解した。魏志倭人伝の記述とは異なりこの相違は重要である。『後漢書』は魏略、魏志の倭を根本的に変えている。帯方郡に一言も触れず事実を差し替えている。1)「倭の北岸」を「倭の西北界句拘邪韓国」に変え、九州基準の方位を、本州からの方位に変えている。2)「女王国の南」の狗奴国を「女王国より東」に改めた。3)「倭国乱れ」を「倭国大いに乱る」にあらためた。魏志、魏略からは「倭国大乱」のような認識は生じない。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 08:59:31

平野邦雄『邪馬台国の原像』(1)

平野邦夫氏の『邪馬台国の原像』が説く「邪馬台国九州説」を順次紹介する。
平野邦雄氏は主として大化以前の古代史を研究し「畿内」についてもその発展史を追及している。以下のように国内外の歴史書を総合的に研究した「邪馬台国論」である。
―平野邦雄 邪馬台国論研究の前提―
『魏志』の倭人伝以外の東夷伝との比較、『魏志』と同時代を扱った『魏略』『魏書』『後漢書』の間に生じた偏差・偏差の発生した経緯の追及、『魏志』をつぐ中国正史『晋書』『宋書』『北史』隋書』『旧唐書』『新唐書』が『魏志』をどう理解し、自ら倭人・倭・倭国伝をどう位置付けたかを読み解く。更に『日本書記』『古事記』から我が古代王権と地方組織、『三国志』『三国遺事』から辰韓・弁辰の政治組織を推定。更に弥生時代から古墳時代の遺跡・遺物とも比較する。
――平野邦雄 邪馬台国九州説(1)―
『魏志』『魏略』ともに「帯方の東南の海中にある倭」と「この倭から東、海を渡ること千余里にある倭」を区別し、倭人伝は前者をのべている。倭人伝の倭は北から南に展開する認識が出発点である。
東西に展開する倭(初期ヤマト政権連合の源流となる集団群)と南北に展開する倭(邪馬台国連合)と言う認識である。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 08:58:10

] 2001年シルクロードの会 当世講演
11.魏志倭人伝私見
 長く論争が続いている邪馬台国問題は『魏志倭人伝』の奴国以降に記載されている国々の方向と距離である。素直に読めば邪馬台国は太平洋の海中となる。そこでこの決着のつかない部分を除いた『魏志倭人伝』の記載を考えて見るのが良い。
1) 倭は山島によっている。倭は四方を海に囲まれたところである。
2) 倭地は温暖。人々は裸足である。
3) 墓は棺があるが郭は無い。(近畿は郭あり)
4) 矛を使っている。(九州がこれ)
5) 女王国の北に伊都国がある。(邪馬台国は伊都国の南)
6) 東に海を渡るとまた倭人の国がある。(近畿など)
7) 女王国の南に敵対する狗奴国がある。(東海は狗奴国ではない)
8) 正始八年(247)に列島に来た張政の列島滞在中(2,3年か)に箸墓は作られた。この間は狗奴国や卑弥呼死後の乱の最中。(箸墓のような大きな古墳は到底築造出きる状況では無い)
9) 卑弥呼の墓には殉死者が多数いた。(箸墓他ヤマトでは認められない。九州でも
ないかな?)
10) 倭は絹が出る。(近畿にはこの時代無い)
11) 習俗は中国南部の島に似ている。
12) 杉は無い。(当時近畿にはあったかな?)

結論)以上を見ればどれをとっても邪馬台国は近畿とは思われない。北部九州としか思われない

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 08:56:55

WIKIPEDIA(2)
九州北部に比定される伊都国から、邪馬台国への行程において、投馬国や邪馬台国への旅程日数を合算しても「2カ月」であり、方角が「南」であるため。(北史倭国伝[]においては、倭国の領域が東西に五カ月行で、南北が三か月行と記述されている。そのため、南へ3か月の内の2か月であるので、九州内に収まる。)
? 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられる。
? 「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていること。
? 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの有力な阿岐国(安芸国)、吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が完全に欠けている。
? 「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる。またそれに伴って、3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる。また同時代の朝鮮半島は小国並立状態であり、倭国が先行して北部九州から畿内までの広域連合政権を生み出したとは考え難い。
? 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なしている。北九州地方に甕棺が多数出土している。石棺無槨の墳丘墓が多数出現している。また「無槨」の記述から、槨を持つ畿内の古墳は当てはまらない。
? 福岡県糸島市の平原遺跡出土の大型内行花文鏡が伊勢神宮の神道五部書に伝わる八咫鏡と同型・同規模であり、天照大御神といった太陽神信仰との関係が考えられること。
? 奈良県桜井市所在で最古の定型化した前方後円墳といわれる箸墓古墳を、3世紀後半の築造とし、卑弥呼の冢とする説があるが、卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が大混乱していた時期に当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは不可能に近い。また古墳周囲には記録にある殉葬の跡も見られない。また、当時の朝鮮半島など周辺国の墳墓はいずれも一辺30メートル前後の墳丘墓で、倭国だけが飛び抜けて巨大な墳丘墓(箸墓古墳)を築造したとするのは無理がある。また箸墓古墳に年代的に先行するとされるホケノ山古墳の発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の同古墳の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であり、3世紀中頃とする年代に疑問がある[10]。
? 三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面を遥かに上回っている。

Re: 私の好きな邪馬台国九州説:再スタート 当世奇妙

2022/04/17 (Sun) 08:55:37

WIKIPEDIA(1)

1.邪馬台国は伊都国の南にあると三回書かれている。
2.帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の位置は九州地方北部にかぎられる。
3.邪馬台国は海中の島の上にあり、一周が五千餘里(短里でおおよそ300-500km)とあることから、九州に近い。
4.邪馬台国と対立した狗奴国を、魏志・魏略共に女王国の南にあると書かれているので、熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古智卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられる
5.福岡県久留米市には『魏志倭人伝』に記載される「卑弥呼の塚」と規模や副葬品、主体部の内容がよく一致するとする祇園山古墳がある。
6.『魏略』には投馬国も水行陸行の記事も存在せず、また里数記事において末廬国から伊都国への行程記事が不自然であることから、水行陸行の記事が後世の加筆と見られる。

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