東アジア討論室
倭の五王 - トミー
2023/01/17 (Tue) 15:32:45
トミーです。
遅まきながら、新年おめでとうございます。
今年は、『倭の五王』時代についてかなり調べましたので議論させていただきます。
従来の『出雲と大和』のスレッドに代わって新しいスレッド『倭の五王』を討論室に起ち上げゆっくり語り始めます。
ご愛顧のほどをお願いします。
系統立てて論じませんので、随時ご参画ください。
まず、新年に霞ケ浦周辺の古墳探求で得た知識の紹介とNHKの新年11日の歴史探偵‐‐津堂遺跡の発見について紹介します。
Re: 倭の五王 - 米田
2025/03/26 (Wed) 15:17:09
┌
│今年は、『倭の五王』時代についてかなり調べ
│ましたので議論させていただきます。(スレ主)
└
:もう一つのスレ「倭の五王」が、投稿数100を超えたので、
:読みづらくなってきました。
:ということで、空いているこちらのスレを活用したいと思い、
:こちらのスレに投稿しました。(米田)
┌
│さて、「倭の五王」の最大の問題は、
│「倭の五王」は、天皇に特定できるか、という問題です。
└
:私の結論を先に書きます。
:結論は、「倭の五王」は、
:天皇に特定できたが、編纂の途中で、天皇から外された、です。
:詳しくは、最後までお読みください
:まず、6世紀以前には、「天皇」は、存在しなかった。
:日本書紀の編纂に当たっては、「日本国」の建国の時から、
:「天皇」は、存在していることにしよう。というのが
:編集の方針でした。(と、推測されます。)
:ところが、700年前後に、日本書紀の編集方針に、大きな
:変更が出て来ました。
:それは、「天皇」の差し替えです。
:700年の遣唐使の段階では、推古天皇は、まだ天皇では
:ありませんでした。
:これは、旧唐書「日本紀」と現存の「日本書紀」を比べると
:分かります。
:それとは別に、いったん、「天皇」に指定したにも関わらず、
:消された「天皇」がいます。
:「風土記」に、名前が残っています。(「東洋文庫」より)
:仮説としてですが、
:消された「天皇」の系譜が「倭の五王」の一部だろう。
:ということです。
:ついでに書くと、聖徳太子に関連して「橘豊日天皇(用明天皇)」
:がいますが、日本書紀を「橘」の文字で全文検索を掛けると、
:「橘豊日天皇(用明天皇)」&「聖徳太子」のご先祖様や
:子孫と思われる「人物」に「橘」の文字が含まれていることに
:気が付きました。
(P-18):「倭武天皇の后の大橘比売命が倭から降ってきて、‥」
(P-67):宇治天皇(菟道稚郎子)のみ世に、(云々。)
(P-91):この子たちの父市辺天皇が近江の国の〇〇で(云々。)
(P-330):法興6年、歳は丙辰の在り。わが法王大王(聖徳太子)
:男大迹天皇は、誉田天皇の五世の孫である。
:
:誉田天皇
: |
:若野毛二俣王(480年生)―倭王「彌」
: |
:宇治天皇(履中天皇)――――倭王「済」←(443年、朝献)
:| |
:|市辺天皇(市辺押磐王)――倭王「興」←(462年)「やまき」
:|___|
:御馬皇子―――――――――倭王「武」←477年、興の弟。
:____|_____________(宣化・欽明の父。継体)
:____|
:___弟橘王―――――――「弟山」(妻は、高向の娘、振媛。)
:____|
:___磐井――――――――「男大迹天皇」←「磐井」
(参考の系図:東漢)
東漢掬──山木(やまき)──弟山──磐井──谷宇志──塩手
:
:結論、「継体天皇」(宣化・欽明の父)と「男大迹天皇」は、
:別人でした。
:つまり、「継体」というのは、二朝並立の時代でした。
:
:その後、「男大迹天皇(磐井)」は、高句麗の王になりました。
:倭国に来た「用明天皇」は、「天智天皇」の祖父に当たります。
:それまで高麗の王だった、「天武天皇」の先祖(安)は、その後、
:任那に移って、「任那日本府」の長になりました。
Re: 倭の五王 - トミー
2023/03/18 (Sat) 22:16:06
私は、富雄丸山古墳と津堂城山古墳に特段の興味を持っております。
富雄丸山円墳については、面白い事実を発見しました。
造り出部、出島場施設に、盾が出て、囲形埴輪-導水施設付きが出ていることです。
後者は伊勢の松坂市宝塚一号墳墳にも出ています。
いずれも、殯に関係します。
楯は、楯伏舞に使います。
この儀式の源流は、古墳時代4世紀とされています。
葬礼の際に演じます。
土師氏は殯宮の葬礼にこの演技をします。
鎮魂の儀式でしょう。
囲形埴輪に導水施設が付いたものは、殯所で遺体を洗うためと考察されているのは米田敏幸氏と穂積裕昌氏です。
隋書倭国伝には、死者を斂むるに棺槨を以てし, 親殯
、屍について歌舞し、貴人は3年外に殯す。葬に及んで屍を船上に置き陸地これを牽く。
富雄丸山の地は、土師氏土師部の住んだ地です。
菅原東遺跡が存在し、秋篠川が流れている。
土師氏は墓を作り、埴輪を作り、葬送儀礼をし、宮廷用の食器を作る氏民です。俗に土師三腹といい秋篠、菅原の二腹は垂仁陵の近くに,毛受(もず:百舌鳥)腹は仁徳陵の近くです。
藤井寺は餌香で土師のムラがあります。
コチラが津堂城山と津堂遺跡が関わります。
⇒トミーの倭の五王のコーナーにも記載し、議論を深めさせていただきます。
Re: 倭の五王 富雄丸山古墳で国宝級鏡と蛇行剣 - トミー
2023/01/26 (Thu) 12:41:55
昨夜,NHKニュースで、奈良市の富雄丸山古墳から国宝級の鏡と蛇行鉄剣が出土したことが発表された。4世紀後半の大きな古墳です。この近くの遺跡から石製模造品が出ることに興味を持っていました。
年初に、霞ケ浦周辺の古墳を巡り調べました。
その際、茨城県大洗海岸の近くにある鏡塚古墳に、富雄丸山遺跡にある石製模造品が伝わっていて周辺に広がっています。
石製模造品に関する情報のネットワークが大和―常陸にありここを介して下総などに拡大し、古墳時代中期になるとさらに上野、下野、陸奥に拡張される。
先般報告しました様に、藤井寺市の津堂城山古墳が4世紀後半にでき、津堂遺跡に東日本の土器が入っていることと関連があるように推測しております。
Re: 倭の五王 - 当世奇妙
2023/01/20 (Fri) 19:49:45
新納先生のは当会でもご講演いただきましたね!
先生は理解していただくにはリアルと言うことで
ようやく実現したものでした。
Re: 倭の五王 - トミー
2023/01/19 (Thu) 22:36:52
>当世さん
じっくり勉強を重ねております。
参考書は近著にウエイトを置いております。
①直木考次郎 古代を語る6 古代国家の形成ー雄略朝から継体・欽明朝へ
吉川弘文館 2009年
⓶ 新納泉
日本書紀 紀年の再検討2021年秋号
考古学研究68-2 2021年9月
⓷坂靖 倭国の古代学 新泉社 2021年11月
⓸ 東潮 倭と伽耶 朝日新聞出版 2022年
10月
⑤加藤謙吉 吉士と西漢氏 白水社 2001年
その他図録:倭の五王 巨大古墳は国内統一と国際化のモニュメントーー藤井寺市生涯学習センター 1995年
南九州とヤマト王権:日向・大隅の古墳 近つ飛鳥博物館2012年
フィールド調査:各地古墳見学 郷土史研究家の情報収集。。。
霞ケ浦周辺。香取海周辺、下野那須周辺 など
Re: 倭の五王 - トミー
2023/01/17 (Tue) 18:44:42
NHKの1月11日の歴史探偵の番組で。藤井寺市津堂遺跡発掘調査について大阪府の文化財担当原田昌浩氏から解説があった。
津堂遺跡から東へ1kmの近距離に津堂城山古墳があるので注目した。
この古墳は4世紀後半の前方後円墳であり仲津山古墳の前の時代の古墳である。
2022年に発掘され、遺跡は建物の特徴から4棟の倉庫とされている。
そこには小型丸底の壺が出ており、同じものが津堂城山古墳上にも存在する。これは畿内の人が関与していることを示している。近辺には東日本の平底の壺や甕も存在する。
これは古墳作りに参加した人が畿内だけでなく東日本の労働者もいたことを推定できる。
埴輪はこの段階では野焼きの低温度の土器である。
私は、藤井寺近辺は葛井で土師の村があり、5世紀近くになって、原野を開拓した土地であることに注目している。土師氏は古墳の設計、測量、管理に携わる階層の技術者で、多くの労働者が関与していたと考えている。
埴輪工房も近在にたくさん存在する。
さらに言えば、仲津山古墳は日向の西都原にある女狭穂塚と形が似ていることに興味を持っている。
仲津山段階の次に誉田御廟山古墳がある。応神陵とされているが、、、
Re: 倭の五王 - トミー
2023/01/17 (Tue) 17:49:53
新春に霞ケ浦周辺の古墳を巡りました。
①常磐線土浦駅から東へ、石岡市へココは常陸の国の国府がある土地です。高浜入りという入り江にあるのが舟塚山古墳です。
関東圏第二位の全長186m前方後円墳です。
群馬県太田市太田天神山古墳です。
4世紀末から5世紀初頭の古墳とされています。
大和の古墳で似ているのは、、
奈良市北部にある佐紀盾列のウワナベ古墳とする説。
奈良県葛城の馬見古墳群の巣山古墳とする説があります。
興味のあるのは、5世紀中頃の千葉県富津市の内裏塚古墳に継承されるということです。
⓶茨城県行方郡三昧塚古墳は。5世紀後半の前方後円墳です。
明治大の後藤守一先生の指示で、学生時代の大塚初重
先生が発掘された古墳です。
若い軍人の古墳です。
金銅製馬形飾りの冠は百済の様式で、
江田船山の馬形に似ているとのことです。
横矧式短甲は、津市の大垣内の古墳のものと似ているて伊勢湾との繋がりも推測できます。
金銅垂れ飾りも注目されます。