東アジア討論室
倭の五王 - トミー
2023/03/18 (Sat) 18:53:23
私は、富雄丸山古墳と津堂城山古墳に特段の興味を持っております。
富雄丸山円墳については、面白い事実を発見しました。
造り出部、出島場施設に、盾が出て、囲形埴輪-導水施設付きが出ていることです。
後者は伊勢の松坂市宝塚一号墳墳にも出ています。
いずれも、殯に関係します。
楯は、楯伏舞に使います。
この儀式の源流は、古墳時代4世紀とされています。
葬礼の際に演じます。
土師氏は殯宮の葬礼にこの演技をします。
鎮魂の儀式でしょう。
囲形埴輪に導水施設が付いたものは、殯所で遺体を洗うためと考察されているのは米田敏幸氏と穂積裕昌氏です。
隋書倭国伝には、死者を斂むるに棺槨を以てし, 親殯
、屍について歌舞し、貴人は3年外に殯す。葬に及んで屍を船上に置き陸地これを牽く。
富雄丸山の地は、土師氏土師部の住んだ地です。
菅原東遺跡が存在し、秋篠川が流れている。
土師氏は墓を作り、埴輪を作り、葬送儀礼をし、宮廷用の食器を作る氏民です。俗に土師三腹といい秋篠、菅原の二腹は垂仁陵の近くに,毛受(もず:百舌鳥)腹は仁徳陵の近くです。
藤井寺は餌香で土師のムラがあります。
コチラが津堂城山と津堂遺跡が関わります。
⇒トミーの倭の五王のコーナーにも記載し、議論を深めさせていただきます。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/04/04 (Fri) 18:46:09
p君さん
〉一部分のみを切り取ってと言われるが、その一部分であなたが論理破綻していることは、
崇峻天皇が601年まで生きていたなどという発言でも明白です。〈
は、まさに、私の600年前後の史実の堅守過程で、記紀と『隋書俀国伝』の記事の「資料批判」から、論理的の解釈し得る仮説を提案したころを、全く検討されておrzレズに、記紀の記述に従って、崇峻、推古天皇の次代の記事を「丸吞み」されて居られる事を、表しています。
白石皆に花さんの御言葉と同じく、「資料批判がゼロですね」という評価を、下さざるをwませんね。
〉今ここは5世紀の輪の五王の話です。
『隋書俀国伝』の話をする場所ではありません。〈
は、その通りですが、
崇峻天皇の財五年の話を持ち出して、「一部分しか読んでいない」のに、私の仮説や解釈を否定する根拠に去れたのは、pくんさんですよ。
編集未済
Re: 倭の五王 - p君
2025/04/04 (Fri) 10:16:29
讃━━━━━━━珍
(421, 425年) (438年)
421, 425年なら、やはり倭の五王の讃は仁徳と考えます。
そして仁徳の墓が世界最大の大仙陵である理由は、最新編年で5世紀前半頃の須恵器の存在、
そして5世紀前半という同時代に日向で九州最大古墳の男狭穂塚・女狭穂塚が建造されますが、
仁徳に寵愛された諸県君髪長媛か父親の牛諸井しか被葬者が考えられないこと、
同じく吉備の全国4位の大きさの造山古墳もクロヒメかその父親の吉備海部直しか被葬者が考えられないこと、
など仁徳絡みの女性で説明できることです。
これはやはり大仙古墳は仁徳以外に被葬者は考えられないということであり、
ならばその弟である倭王珍は若野毛二派王しかいなくなります。
以降、
済
(443, 451年)
|
興━━━━武
(462年) (478年)
この3人は二派王の末裔である上宮記のオオキミだと思っています。
いわゆる天皇にも応神や仁徳のようなオオキミがいましたが、ほとんどの天皇がオオキミではないという証明になるかどうかわかりませんが、
仁徳の子、履中天皇、反正天皇は、オオキミではないということを証明したいと思います。
履中天皇、反正天皇は5世紀前半の人物と推測されます。
その履中天皇の墓は百舌鳥耳原南陵ですから、大仙陵の南にある全国3位の大きさである上石津ミサンザイ古墳とされていましたが、これは時代が応神天皇陵よりも少し古く、4世紀の末あたりの古墳です、ゆえ仁徳の子の墳墓とするのは無理です。
おそらく仁徳と皇位を譲り合って自死したと伝わる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)でしょう。
また反正天皇陵は百舌鳥耳原北陵ですから、田出井山古墳とされていますが、この古墳は5世紀後半であり時代が合わないのです。
また天皇陵にしては小さすぎるとも言われ、最近の説では、反正天皇陵は大仙陵の東側にある土師ミサンザイ古墳ではないかとされます。最近二重目の濠が発見された大古墳なのですが、ところがこの古墳も5世紀後半であり時代が合わないのです。
つまり履中天皇、反正天皇の墓が全く見当たらないのです。
ここでまた半歩ずらして考えてみます。
我々には天皇の墓だから巨大であるという先入観があり、やれ上石津ミサンザイや土師ミサンザイであろうと思うわけですが、
しかし彼らが7世紀に新称号「天皇」に意図的に組み入れられた人物であり、真のオオキミではないとしたらどうでしょう。
事実、仁徳の次の世代でオオキミと表記されるのは、上宮記に出てくる若野毛二派王の息子である意富富杼王(おおほどのおおきみ)です。
大大迹王とも書かれ、この字はまさにオオキミにふさわしいです。
そしてオオキミではない履中・反正の二人は、伝承通り、父の仁徳の大仙古墳の南北に埋葬されたと考えます。
あれだけの大古墳を作った人物の息子二人の墳墓の場所は後世まで強く伝承されていたでしょう。
だから方位は間違いない、しかしその大きさが我々の先入観を満たす大きさではないのだと考えます。
仁徳の息子、肉親なら極力、父の近くに眠るでしょう。
そして5世紀前半のほどほどの大きさの墳墓であること。
ならば候補がほぼ二つに絞られます。
それは南にある5世紀前半の前方後円墳とは御廟山古墳であり、
北にある5世紀前半の前方後円墳とは永山古墳ではないでしょうか。
履中の墓は百舌鳥耳原南陵。
地元民がゴベイと呼んでる御廟山古墳。
https://maps.app.goo.gl/Q89Zk6n2Z2C2pJnf9
5世紀前半の古墳と言えばこれしかありません。
そして百舌鳥耳原北陵は大仙陵北側にある、父の仁徳と隣接している5世紀前半の永山古墳。
これが反正天皇の墓ではないでしょうか。これ以外には考えられないです。
https://maps.app.goo.gl/KjMgGixQqWrEtYWz6
Re: 倭の五王 - p君
2025/04/03 (Thu) 18:53:49
石見介さん
>討論相手としては、こちらの根拠のごくわずかしか知らないのに、その一部分のみを切り取って、反論されては迷惑です。
もなにも、
興が死んで弟の武が立った、その武を雄略とされるなら、456年か457年と即位が決まっていますので、
興を安康とされるなら、死んだのは456年くらいであり、「世子興は、大明4年(460年)に朝貢使を派遣し」のその興は安康とは合わないことは、死んだ人間が4年も生きてたことになり小学生でもおかしいとわかる話ですので、
色々理屈をいわれたうえに「説明済みです」と言われてもおそらく誰も分からないでしょう。
一部分のみを切り取ってと言われるが、その一部分であなたが論理破綻していることは,
崇峻天皇が601年まで生きていたなどという発言でも明白です。
>取り敢えず、『隋書俀国伝』の解釈を、お示し下さい。
今ここは5世紀の倭の五王の話です。
『隋書俀国伝』の話をする場所ではありません。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/04/03 (Thu) 00:18:40
p君さん
〉そんな時間が合わない言い逃れとして、祭祀王、世俗王複数の並立などという都合の良い説を採用できるわけないですね。〈
は、p君さんの御意見として、承っておきますが、一つ注意喚起しておきたいのは、討論する相手の主張の根拠、言い分は、もう少し真面目に聞いてください。
その気がないなら、無視すれば良いでしょう。
討論相手としては、こちらの根拠のごくわずかしか知らないのに、その一部分のみを切り取って、反論されては迷惑です。
複数大王の並立については、私が日本古代史に深入りし始めた時点からのもので、これはそれ以前の西洋中世史の本に書いて在った、メロヴィンガ朝フランク王国時代の修道院長が、「私は、王の従姉妹なので、女王である」と言ったと言う記述と、欧州の家産制国家での分割相続や、東スラヴの諸公国の「分領公」、遊牧民の帝国の実態、それに、百済が中国南朝に要請した王族や貴族への王侯号、軍号、郡太守号の記事などが、傍証で、直接的には、記紀の解釈と上代日本語語彙の解釈になります。
「祭祀王、世俗王」は、文化人類学的用語としては、以前から使用していましたが、「倭の五王」の時代の考察で,『隋書俀国伝』解釈の過程で、最高位の大王の名称の代用と云うか、代名詞代わりに使用し、その下位の大王たちを、「世俗王」という表現をする様になりました。
>祭祀王、世俗王というのが、もしヒメヒコ制なら〈
については、学史上の意義は別として、違います。
イタコやノロ、或いは「聞得大君」のような、民俗例から、女性の巫女は、卑弥呼のように日本古代でも同様に存在したことは明らかですが、白川静博士の説くように、「祝」と言う文字の起源が、長兄が祭事を司り、群弟が軍事等の俗事を分掌するという、殷代の統治体制に近い概念です。
上代日本語で、漢語「政治」に対応する言葉は、「まつりごと」乃ち「祭り事」であり、政治と祭事は一体化しており、世俗王は、農事や軍事等に伴う祭事も当然、行います。
AD601年の辛酉革命起点についての議論ですが
〉崇峻天皇が601年まで生きていたという事ですか?〈
は、その通りです。
『魏志倭人伝』の想像力豊かなp君さんの解釈よりは、私の『隋書俀国伝』の解釈は、まだ少し足りないでしょう。
取り敢えず、『隋書俀国伝』の解釈を、お示し下さい。
Re: 倭の五王 - p君
2025/04/02 (Wed) 20:45:59
石見介さん
>〉つまり雄略が武なら456年以前に興が死んでたことになります。〈
>については、祭祀王、世俗王複数の並立で、解釈し、矛盾が生じない事は、説明済みです。
その解釈を、採用されるか否かは,p君さんの御自由です。
そんな時間が合わない言い逃れとして、祭祀王、世俗王複数の並立などという都合の良い説を採用できるわけないですね。
それが許されるなら何だって言い逃れができます。
祭祀王、世俗王というのが、もしヒメヒコ制が5世紀まで残っていたのなら、あくまで女性が祭祀王であり、倭の五王の記事はどう読んでも男王でしょう。
>詳細は、神話・伝承スレで論じていますが、説明しておきましょう。
> AD601年の辛酉年に、当時の大王崇峻天皇が、斃され、物部氏、中臣氏などが、粛清された結果、崇仏派の大王が、登場し得たのです。
崇峻天皇が601年まで生きていたという事ですか?
いったい何を言ってるのか分からないですし、妄想の世界の話なら、いいかげんにしていただきたいです。
AD601年には何もありません。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/04/01 (Tue) 16:45:23
p君さん
>済=允恭、興=安康など、それ全く決まっておりません。〈
上表文提出時と稲荷山出土鉄剣銘文の辛亥年の時の大王が、雄略であれば、『宋書』の倭王武も雄略であり、記紀と『宋書』双方の続柄の一致から、当然導かれる推論です。
〉つまり雄略が武なら456年以前に興が死んでたことになります。〈
については、祭祀王、世俗王複数の並立で、解釈し、矛盾が生じない事は、説明済みです。
その解釈を、採用されるか否かは,p君さんの御自由です。
〉あとAD601年の辛酉年に「大革命」が現実に起こってますか?〈
この後の那珂通世の辛酉革命説についての言及も含め,p君さんが、私の「神話伝承」スレを、全く読んでおられないか、忘れられたらしいことは、よくわかります。全部説明済みなのですが。
〉推古9年は平凡な年だと思いますが、何かありましたか?〈
何故、私が推古天皇没年までを「倍暦」だと判断したのかも含め、詳細は、神話・伝承スレで論じていますが、説明しておきましょう。
『隋書俀国伝』には、AD600年、遣隋使が派遣され、時の皇帝高祖文帝が、倭国の状況を問わせます。
そこで、使者が答えた状況は、男王が「天を兄、日を弟」とする存在であり、夜に「まつりごと」を行い、日の出前に、「我が弟に委ねん」と言って、執務を中止する、という状況を、述べます。
文帝は驚いて、「是、大いに義理無し」と言い、使節に教え諭して、改めさせた、と記してあります。
即ち、遣隋使を派遣した倭国王は、女帝ではあり得ず、推古天皇の在位期間は、「引き延ばされて」記紀に記録されていることが判ります。
次に、AD607年の紀に記された「遣隋使」が、「同名の男王」の名で派遣され、天子を自称し、仏教導入を図る熱心な崇仏派ぶりを発揮します。使節は蘇因高即ち小野妹子で、紀にも記録されています。
隋の煬帝は、裴世清を派遣し、彼は「倭王」と面談します。女王だとは記録+されていません。
AD601年の辛酉年に、当時の大王崇峻天皇が、斃され、物部氏、中臣氏などが、粛清された結果、崇仏派の大王が、登場し得たのです。
それ以上に、「弟」であった「日神」が、女神の「オホヒルメ」に変えられたのも、この辛酉革命の結果でしょう。
それまでの太陽神は、「ヒルコ」、記紀では「蛭子」という骨なしの不具者に、変化させられてしまいます。
記紀の崇仏派と排仏派の争いは、実際には、大王家の最高神や太陽神の男女交代を含む「大革命」を、矮小化して記述したものであり、多くの王族がこの時に死亡したのを記さず、崇峻天皇と宅部皇子のみに絞り、彦人大兄、竹田皇子、尾張皇子等は、除かれたと思われます。
Re: 倭の五王 - p君
2025/04/01 (Tue) 05:57:52
石見介さん
>‽??「何時」朝貢したとお考えですか?
失礼、時代を間違えてました。
> 祭祀王は,済=允恭没後、履中嫡子の市辺押磐天皇になっており、世俗王のトップが安康天皇であり、その下位の世俗王の一人が、雄略天皇です。<
祭祀王、世俗王もそうですが、済=允恭、興=安康など、それ全く決まっておりません。
いまだ諸説あるという事自体が何も決まっていない証拠ですから。
「興が死んで弟の武が立った」のが462年以降です。
雄略は百済武寧王(=462年生まれ)の墓誌から逆算すると457年、日本書紀の記述を信用して456年には即位しています。
つまり雄略が武なら456年以前に興が死んでたことになります。
「興が死んで武がすぐ即位」なら興の死はずばり456年ということになります。
ならば「世子興」は、大明4年(460年)に朝貢使を派遣し」と石見介さんが言われてる事と年が合いません。
なんで4年前に死んでた人間が朝貢使を派遣できるのでしょうか。
雄略が456年頃の即位というのは、
眉輪王の変に関わる5世紀前半の極楽寺ヒビキ遺跡の政庁の存続期間が20~30年ですから、
この遺跡年代ともちょうど合いますね。
何より百済武寧王墓誌は金石文です。
だからその年次と合わない石見介さんをはじめとする定説が間違えておられるのです。
なぜ合わないか言いましょうか、もちろんこれは石見介さんだけではないのですけど、
倭の五王を「天皇」にのみ当てはめているから合わないのです。
天皇にもオオキミがいましたが、すべての天皇がオオキミではないのです。
だから上宮記の「オオキミ」を当てはめて考えていかないと倭の五王は解けないのです。
> 記紀の年代遡及操作の原点が、AD601年の辛酉年の「革命」それも「大革命」が現実に起こり、「天を兄、日を弟年、夜の食す国の主たる月神の地上界の化身が治めていた倭国の体制が転覆した事により、その1260年前の建国年とされた事こそが、大王の寿命年代操作の原点です。<
はい、ですからそれらは全然倍暦では説明できないですね。
あとAD601年の辛酉年に「大革命」が現実に起こってますか?
推古9年は平凡な年だと思いますが、何がありましたか?
那珂通世の辛酉革命説はなぜ神武がBC660年なのかの説明はできても、
なぜそんなに古く神武即位を設定しなければならなかったのかの理由の説明にはならないです。
> 尚、私が「朝貢という屈辱的史実を隠蔽する為」と言っていたと言うのは、私には記憶が無く、朝貢を「隠した」「記述しなかった」という史実の指摘を、勘違いされたのではないかと思います。<
朝貢を「隠した」「記述しなかった」という、その理由が「屈辱的史実を隠蔽する為」以外に何があるのでしょうか。
107年の倭国王帥升の渡海しての謁見要請は、外交儀礼上、土下座ですから、これは屈辱以外の言葉が見当たらなかったと思われます。
記紀という新しい国史を編纂するにあたり、当然ながら未来の日本人に対してはそれを隠します。
だから時代をとんでもなく古くして「神代」というカテゴリーを作ったのでしょう。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/31 (Mon) 00:49:09
p君さん
〉興は、元嘉28年(451年)に倭国王済が亡くなった後、世子として宋に朝貢してたけど〈
‽??「何時」朝貢したとお考えですか?
〉大明6年(462年)に安東将軍、倭国王の爵号を賜与されるわけですから、456年ににはすでに即位している雄略が武ではないですね。〈
祭祀王は,済=允恭没後、履中嫡子の市辺押磐天皇になっており、世俗王のトップが安康天皇であり、その下位の世俗王の一人が、雄略天皇です。
彼が「倭王武」として、上表文を劉宋に提出するのは、安康没後に、同じく世俗王だった同母兄二人を殺し、眉輪王と葛城円大臣をも殺し、最高位の祭祀王の天万国万押磐命を誘殺し、さらにその弟の世俗王御馬皇子も殺して、畿内の唯一の大王となった後ですから、矛盾はありません。
>興が大明6年(462年)に安東将軍、倭国王の爵号を賜与され、「その後、興が死んで弟の武が立った」ですから、〈
「世子興」は、大明4年に朝貢使を派遣し、父の死を報告しましたが、孝武帝は2年後に、彼を「安東将軍倭王」に叙爵しました。倭の五王の内、除正前の自称の称号が判明しているのは、珍、済、武の3人ですが、唯一の大王が君臨する官僚制を志向したと思われる武を除く二人は、自身以外に、配下の王族他の軍郡の叙爵をも求め、武を含む3人は全員が、「都督諸軍事〇〇」をも、求めています。
「興」については、そのような記事もなく、又叙爵も、「都督諸軍事○○」がありません。
これは、大明6年の叙爵が、興の意思とは無関係に、宋の都合で行われたか、或いは興が、他の世俗王の爵号を求めるような立場では無かったこと等、様々な可能性を、示しています。
記紀の年代遡及操作の原点が、AD601年の辛酉年の「革命」それも「大革命」が現実に起こり、「天を兄、日を弟として、夜の食す国の主たる月神の地上界の化身が治めていた倭国の体制が転覆した事により、その1260年前の建国年とされた事こそが、大王の寿命年代操作などの原点です。
〉あと遣唐使の例と朝貢を一緒にしないでください〈
は、現実に区別出来ないのですよ。「国内向け」の記録とは別にしてね。
〉私が言ってるのは日本の王が中華皇帝の臣下であったという意味です。〈
勿論理解していますよ。
しかし、その実例が「帥升、卑弥呼、倭の五王」というのであれば、「建前」と「本音」の「使い分け」は不明であり、やはり、「形式」でしか、判断出来ないのです。
その認識が,p君さんには、欠けています。
室町殿「足利義満」は、明から、日本国王に冊封され、「臣源道義」と称しましたが、貿易の利益目当てが、主目的でした。帥升や卑弥呼、倭の五王の目的は、一般的には、中華皇帝の権威を借りて、国内の統治や、半島の利権の確保を図る為と解釈されていますが、異論もあります。
私は、倭の五王に関しては、半島での軍事管轄権を執拗に要求している事から、ある程度、その半島利権確保政策が動機だと認めていますが、他にも、動機があると考えています。
尚、私が「朝貢という屈辱的史実を隠蔽する為」と言っていたと言うのは、私には記憶が無く、朝貢を「隠した」「記述しなかった」という史実の指摘を、勘違いされたのではないかと思います。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/29 (Sat) 18:55:53
石見介さん
>「倭王」ではなく、「世子」つまり、倭王の世継ぎだと、宋に対して、安康天皇は「正式に告知」しており、少なくともこの時点での倭国の最高位の祭祀王ではないと、自ら証言しています。
興は安康天皇と決まっていません。興は、元嘉28年(451年)に倭国王済が亡くなった後、世子として宋に朝貢してたけど、
大明6年(462年)に安東将軍、倭国王の爵号を賜与されるわけですから、
456年にはすでに即位している雄略が武ではないですね。
興が大明6年(462年)に安東将軍、倭国王の爵号を賜与され、「その後、興が死んで弟の武が王に立った」ですから、
武の即位は462年以降ですから雄略と武は時代が合わないですね。
済(443, 451年)
興(462年)
武(478年)
つまり雄略天皇を武、安康天皇を興としている時点で合わないのです。
そんな事は昔から九州王朝説の人たちに言われてますよ。
倭の五王が河内の天皇に合わないのは当たり前で、合わないようにしてるから合わないのです。
> 私は、最高位の祭祀王の下、多くの世俗王が並立する、という古代史像を考えていますから
並立というのは私も同じです。
が、あくまで二派王の末裔の上宮記のオオキミが本流であり、雄略は大王といっても武力でのし上がった傍流でしょう。
雄略の墓が羽曳野の高鷲という地にある驚くほど小さな円墳でしかないのもその証拠です。
>『日本書紀』では、和風諡号に付される「尊称」が、「天皇」即ち「スメラミコト」であり、『古事記』では、「尊、命」即ち「ミコト」で閼、と前にも言ったと思いますが。
天皇なんて称号が5世紀にあるわけないし、上宮記にオオキミと読める人物が複数いるのなら、
そちらを二派の本流と考えれば、倭の五王に合わない天皇の謎も解けると思います。
事実、仁徳の後の履中、反正は大古墳ではなく、実に小さな墳墓でしか説明できません。
これについては最近気づいたのでまた近いうちに書き込みます。
※彼らがオオキミと読めるという根拠は、
『日本古代氏族人名辞典 普及版』坂本太郎 平野邦雄 監 吉川弘文館、2010年です。
>①7世紀の大和朝廷は、AD107年の「帥升」も、3世紀の卑弥呼も、誰かを「知っていた」という仮説
> 日本列島における金石文や史料からは、文字記録が紀元後2世紀初頭にまで、遡及するとは考えられないので、口誦による記憶がいつ記録化されたかが、問題になるが、倭の五王の時代が上限になると思われる。卑弥呼や帥升について、正確な史実が、伝承されていたと考えることは出来ない。 <
三重や高知という地方でも2世紀にすでに文字は使われてますし、弥生時代の大量の硯の発見は、もはや当時から文字があったとしか理解できません。スサノオ、神武、媛踏鞴五十鈴などは強く伝承され、もう少し後の東漢や西文などの渡来系文官も書き残せたでしょうし、別段、何も問題はないです。
日本書紀神功皇后紀に、魏志倭人伝の卑弥呼の記事をコピー&ペーストしてますね。
これは神功皇后を卑弥呼ですと決定づけたい証拠です。
その神功皇后を100歳にしているわけですから、7世紀の朝廷は卑弥呼がだれなのかを知っていた証拠になります。
結局、石見介さんは倍暦と言いながら、400年ごろの応神が、なぜ西暦270年に設定されているのか、
それを倍暦で全く説明できなかったですね、まぁ予想通りなのですが。
つまり日本書紀は倍暦ではない、ならばなぜ神功皇后が卑弥呼の時代に強引に設定されているのかの謎は、
7世紀の朝廷が真の卑弥呼を知っており、その時代をとんでもなく古い時代に設定し、そのぽっかり空いた穴にに神功皇后を置いたとしか思えません、それ以外に答えはありません。
あなたは推古以前が倍暦だが雄略以前は通常暦だの、いろいろ言っておられたけど、結局説明ができなかったので、つまり日本書紀は倍暦ではないとお認めください。
したがって「中国への朝貢外交の記述を避ける為、記紀の記述を、捻じ曲げたという仮説」以外にないわけです。
あと遣唐使の例と朝貢を一緒にしないでください、私が言ってるのは日本の王が中華皇帝の臣下であったという意味です。帥升、卑弥呼、倭の五王ですね。
というか少し前には石見介さんも「朝貢という屈辱的史実を隠ぺいするため」を言ってたのに、
なんで突然意見を変えられてるのでしょうか。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/28 (Fri) 14:55:57
p君さん
〉上表分の478年と、稲荷山鉄剣の471年は雄略の時代でしょうが、〈
この部分については、共通の認識である事が、確認出来ました。
〉武が雄略かと言えば、決してそうはならず、〈
稲荷山鉄剣銘文の解釈からは、大和にいた「ワカタケル」大王が、東国まで支配下に置いていたことは
、考古学と金石文という資料の解釈から、決定していますね。
そこで
〉同じく武寧王墓誌という金石文から導き出される雄略即位は457年か456年であり〈
については、隅田八幡宮画像鏡銘文の解釈が根拠かと思われるので、従えませんが、『日本書紀』本文の記述からの雄略天皇即位年推定と、ほぼ同じ数字になりますので、即位年については、ほぼ同意して、議論を進めましょう。
〉それは倭王興の時代ですから〈
「倭王」ではなく、「世子」つまり、倭王の世継ぎだと、宋に対して、安康天皇は「正式に告知」しており、少なくともこの時点での倭国の最高位の祭祀王ではないと、自ら証言しています。
〉その部分を「父兄の在位期間と重なると言う難点があり、この点については、修正の可能性を、認めています。〈
という私の発言は、雄略天皇や安康天皇、允恭天皇の在位期間についての意味で、金石文の修正という話ではありません。
>502年まで中国側が日本の王の交代を知らなかったなんて無茶な説も含めて、九州王朝説の人たちが言うように、倭の五王は河内王朝の天皇ではないということを認める方が私は正しいと思います。〈
は、中国史書に対する根本的な資料批判としては、中国の史書も、「日本の史書と同様に」、支配層の意図に反した事は書けないし、「建前」が「史実に優先する」事も原則であり、また、著述者の「史観」も、記述に影響する、という、資料批判の不足を、物語っているとしか、私には思えません。
私は、最高位の祭祀王の下、多くの世俗王が並立する、という古代史像を考えていますから、畿内の最高位の祭祀王以外に、畿内畿外に複数の世俗王が、存在すると考えています。
しかし、雄略天皇は、基本的に唯一の大王が、君臨して、官僚が支配する新体制を志向し、大和と河内から、有力な王族を一掃し、大和の豪族葛城氏と吉備の豪族にも、打撃を与えました。
吉備より近い近江の並立する大王が目立てば、当然討伐の対象になる。
〉河内王朝には和風諡号でオオキミと読める王が一人もいないのに〈
『日本書紀』では、和風諡号に付される「尊称」が、「天皇」即ち「スメラミコト」であり、『古事記』では、「尊、命」即ち「ミコト」である、と前にも言ったと思いますが。
〉上宮記には複数いると言う事実〈
『上宮記』逸文という、記紀萬葉以前に、所謂「推古期遺文」という用字法の異なった文献での、人名の「恣意的な訓読」で、「王」の訓が「キミ」「オホキミ」「ミコ」なのか、それとも音読であったのかも、きちんと検討せずに、近江王朝説を主張されても、従えません。
特に「彦主人王」の「人」字から「ヒト」という「名」を抽出するのは、国語学を含めた言語学上、無理です。
あと、p君さんの解釈の基調となっている二つの根本的なご主張について、述べておきます。
①7世紀の大和朝廷は、AD107年の「帥升」も、3世紀の卑弥呼も、誰かを「知っていた」という仮説
日本列島における金石文や史料からは、文字記録が紀元後2世紀初頭にまで、遡及するとは考えられないので、口誦による記憶がいつ記録化されたかが、問題になるが、倭の五王の時代が上限になると思われる。卑弥呼や帥升について、正確な史実が、伝承されていたと考えることは出来ない。
②中国への朝貢外交の記述を避ける為、記紀の記述を、捻じ曲げた、という仮説
中国への朝貢について、記述しなかったのは、基本的事実であるが、それは、7世紀の天皇家が、日本国統治の正統性の根拠を、中華中原王朝による叙爵ではなく、皇祖神の「神勅」に求めた事による。
朝貢自体は、「遣唐使」自体、朝貢の形式である事は認識されていたので、特に隠すべき最重要事項では無かった、と考えられる。
そもそも、中国統一政権は、儒教国教化後の前漢中期以降、夷蛮諸国との対等の外交は認めず、「朝貢」形式しか、存在しなくなった。
隋の煬帝への遣使以降、対中国対等外交を志向した日本も、それは承知の上で、朝貢形式で、遣唐使を派遣した。
日本側の記録にも、儀式で、「東の一位」の新羅の次の「東の第二位」にされた日本の使節が強く抗議して、「西の第一位」の吐蕃の代わりに「西の第一位」に改められた話が、記述されている。
その後、「不臣の朝貢」という特別待遇を受け、「天皇」の「スメラミコト」も、「主明楽・・」のような「好字」で書かれたりすることになるが、中国との正式な国交を中止する事になる。
「帥升の土下座外交」を隠す為の、記紀の隠蔽工作説は、「帥升」が,倭の小国の王で、大倭王ではないと考える私には、勿論受容できませんが、記紀撰述時に、唐への朝貢使=遣唐使が、現実に派遣されていることまで、隠蔽できないので、成立し得ない仮説です。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/25 (Tue) 20:57:19
石見介さん
> さて、倭王武=雄略天皇説について、私は、p君さんも、「劉宋への上表文」奏上時と「稲荷山鉄剣銘文の辛亥年」
という、二つの時点での大王が、同一人であると言う認識は、共有されておられると、思い込んでいたのですが、それが誤解だと判明しましたので、陳謝します。<
上表分の478年と、稲荷山鉄剣の471年は雄略の時代でしょうが、だから武が雄略かといえば、決してそうはならず、
同じく武寧王墓誌という金石文から導き出される雄略即位は457年か456年であり、それは倭王興の時代ですから、
その部分を「父兄の在位期間と重なると言う難点があり、この点については、修正の可能性を、認めています。」と言われても、金石文に書かれてることを修正なんてできないわけですし、502年まで中国側が日本の王の交代を知らなかったなんて無茶な説も含めて、九州王朝説の人たちが言うように、倭の五王は河内王朝の天皇ではないということを認める方が私は正しいと思います。
しかしながら、河内王朝には和風諡号でオオキミと読める王が一人もいないのに、上宮記には複数いるという事実、そのオオキミたちが二派という不思議な名前の皇子から始まる、つまり本流が上宮記に書かれたこれらのオオキミたちであり、もう一派が雄略に代表される傍流であったということで、その傍流一派に天皇という新称号を与え、まるで本流であったかのような印象操作をした、これは手前味噌ですが、倭の五王を考えるうえで、いずれ最有力になる説だと思います。
> 後、資料批判を含む近代科学の客観性についてのご認識についても、科学史を踏まえた一般的な科学性や客観性の認識とは異なったものなので、通常の教育を受けた私達、おそらく多くのものからは、「宗教的」とも言える「信念」としか、思えませんでしょう。
そのような部分については、科学的議論は無意味です。第三者に、客観性科学性がいずれにあるかを、判断する際の、判断材料の提供という意味は、ありますが、それは白石南花さんにお任せし、私は、p君さんとの議論は、客観性科学性が担保されていると思われる部分についての質問や、情報についてのみ、コメントさせていただきます。<
近代科学の客観性についてのご認識といわれるけど、こちらは考古学の大和盆地における前方後円墳誕生や土師器の誕生などの大変革が2世紀末だという科学的客観性を述べ、神武実在ならその時代しかないと何度も言っているのに、神武と崇神が10世代離れてて帥升の時代であるとか、頑なに言い続ける石見介さんの方が、「宗教的」とも言える「信念」にしか私には思えません。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/25 (Tue) 20:13:11
AIのcopilotに聞いてみました。
:上宮記の継体天皇の系譜にオオキミが複数いますが,倭の五王とは考えられないですか?
「上宮記」に記されている継体天皇の系譜に登場する「オオキミ(大王)」たちと、5世紀に中国の南朝に朝貢した「倭の五王」を結びつける説は、興味深い仮説として議論されています。
倭の五王(讃・珍・済・興・武)は、『宋書』倭国伝などに記録されており、5世紀の倭国(日本)の王たちが中国に朝貢し、官爵を授与されたことが記されています。一方、「上宮記」の系譜に登場する「オオキミ」たちは、継体天皇の祖先やその周辺の人物を指していると考えられます。
これらを結びつける説の根拠としては、以下の点が挙げられます:
時代の一致:倭の五王が活躍した5世紀は、継体天皇の系譜が形成された時期と重なる可能性があります。
外交的背景:倭の五王が中国に朝貢した目的は、国内の権威を高めるためであり、継体天皇の系譜における「オオキミ」たちも同様の目的で活動していた可能性があります。
名前の一致:倭の五王の「武」が雄略天皇に比定されるように、他の王たちも「上宮記」の系譜に登場する人物と関連付けられる可能性があります。
ただし、これらの説は仮説の域を出ておらず、確固たる証拠があるわけではありません。考古学的な発見や文献のさらなる研究が必要です。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/24 (Mon) 20:22:37
石見介さん、了解です、ゆっくり書いてください。
隅田八幡鏡の銘文について考えてました。
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
(大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。
この斯麻はやはり武寧王であり、「二人らを遣わして」というのは、斯麻がいたのは遠く海を隔てた異国であり、そこから二人を日本へ遣わしたという事でしょう。
もし斯麻が畿内にいたなら、二人らを遣わしてとはならず、二人に命じて作らせたとなったと思います。
だから癸未は503年であり、男弟王は継体であり、記紀に書かれるように近江から、あるいは越前から、大王の即位のために嫌々やって来たというのは真っ赤なウソでしょう。記紀でのこれらの記述は、7世紀の天皇にとって直系の祖が中国の臣下であったという屈辱的事実をごまかすためであり、
卑弥呼を隠すことも大事であったけど、むしろこっちを隠す目的の記紀編纂ではなかったのかとも思います。
問題はやはり日十大王です。
平野さん、山尾さんともに仁賢天皇説のようですが、仁賢の仁は「ひと」と読めますので、
もしかしてこの事かとも思ったのですが、仁賢天皇は世代でいえば継体の父親世代であるけれど、
それなら仁賢天皇(日十大王)の時代に継体がすでに桜井の押坂宮にいたというのも変です。
継体と仁賢は親等的にもかなり離れていますし、だいたい武烈の存在が消えてしまいます。
やはり継体の父である彦主人王の「人」ではないでしょうか。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/24 (Mon) 13:41:37
p君さん
コメントを訂正した筈ですが、何故か、訂正前のコメントへのレスを、戴いています。ほぼ同時に投稿したのでしょうね。私は、投稿時、タブレットでコメントを見て、PCで、レスを投稿している状況で、この時点では,PC画面上のレスは、文字が小さく読めません。誤変換は見逃しますし、誤打鍵で意味不明になる事も多いし、訪問診療や訪問看護、介護、食材の宅配等で、中断もしばしばあります。
その為、コメントの完成までに、数日かかる事もありますので、ご迷惑でしょうが、レスを、お待ち願う事になります。
さて、倭王武=雄略天皇説について、私は、p君さんも、「劉宋への上表文」奏上時と「稲荷山鉄剣銘文の辛亥年」
という、二つの時点での大王が、同一人であると言う認識は、共有されておられると、思い込んでいたのですが、それが誤解だと判明しましたので、陳謝します。
p君さんの継体天皇もしくは近江王朝説の大王の誰かが、上表文奏上者の倭王武だ、という最近の新見解が、余りに独創的なので、直ちに理解できなかった為です。
あとのp君さんの
〉倭王武が雄略なら、456年の即位から22年も経過した崩御の1年前に上表文を送ったと言う、普通はあり得ない事になります。〈
は、雄略天皇が朝貢使を派遣したのは、太陰太陽暦での崩御年の前々年ぐらいになりますが、60歳を超えての健康寿命は、個人差が大きく、「普通ではあり得ない」とは言えないでしょう。
ただ、雄略天皇の在位期間推定については、私の『日本書紀』本文からの推定には、即位年を含めた前半の期間が、父兄の在位期間と重なると言う難点があり、この点については、修正の可能性を、認めています。
神話伝承スレでは、最高位の祭祀王の下に、多くの世俗王が並立すると言う、複数大王制の仮説から、雄略天皇の在位は、父の允恭天皇が、最高位の祭祀王だった時代に、既に、世俗王の一人に認められていたと言う解釈を、一応採っていますが、この辺りに付いては、世俗王認定の条件として、「成人」が、身分以外の条件だったと推測していますが、雄略や安康天皇の事績では、木梨軽皇子も含め、皇族間の婚姻に関わる記事が多いので、「娶嫁」、それも皇族女性やそれに匹敵する身分の高い豪族女性との婚姻も、「日神の化身」としての世俗王の「条件」だったのではないか、という考えを、検討中です。
この要件が正しければ、雄略天皇が、太陰太陽暦の64歳で死亡したとして、在位23年で、40歳即位という遅さも、従姉妹の反正天皇の娘たちに拒絶され、叔母を兄の世話で娶った後に、漸く世俗王に認められたが、その時は40歳だった、ということで辻褄が合うように思われます。勿論叔母もそれなりの年で、雄略の子は産めなかった、という話になります。
後、資料批判を含む近代科学の客観性についてのご認識についても、科学史を踏まえた一般的な科学性や客観性の認識とは異なったものなので、通常の教育を受けた私達、おそらく多くのものからは、「宗教的」とも言える「信念」としか、思えませんでしょう。
そのような部分については、科学的議論は無意味です。第三者に、客観性科学性がいずれにあるかを、判断する際の、判断材料の提供という意味は、ありますが、それは白石南花さんにお任せし、私は、p君さんとの議論は、客観性科学性が担保されていると思われる部分についての質問や、情報についてのみ、コメントさせていただきます。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/23 (Sun) 20:02:38
石見介さん
>「倭王武」は、雄略天皇だ」という事と稲荷山鉄剣銘文の新概年をふくむ期間という「期間限定」について、ほぼ確定しており、議論御共通の認識として、一般的に共有されている、という意味で、述べた事は、ご理解できると思うのですが。
一般的に雄略が倭王武の最有力候補だとは分かってますけど、でもそれが正しいなんて全く決まってません。
まるで真実を多数決で決めようみたいな言い草ですね。
倭王武が雄略なら、456年の即位から22年も経過した崩御の1年前に上表文を送ったという、普通はあり得ない事になります。
そして雄略即位の456年がそもそも武の時代ではないし、502年も進号だけではありません。
したがって倭王武は雄略ではありません。
> p君さんは、十分な資料批判無しに、『南斉書』や『梁書』の信号記事から、倭王武の生存や在位期間を、推定しておられますが、これは、まさに『魏志倭人伝』の卑弥呼について、多くの漢文や中国語学者、歴史学者の誰一人、考え付かない様な独創的な「解釈」をされたからです。<
独創的な解釈という表現ありがとうございます。
アマテラスもモモソヒメも卑弥呼とは時代がずれるし、誰一人、径150mの奴婢埋葬痕跡のある場所に辿り着いていない中、
卑弥呼を特定し、その住処である奈良県御所市に径150mの奴婢埋葬痕跡のある場所に辿り着けたのは、
それはおそらく私が正しいからでしょう。
>専門の語学者や史学者が、誰一人考え付かない様な解釈は、先ず誤謬の可能性が、極めて高いと、考えるべきでしょう。
それはすごい発言ですね、じゃぁ未だこの世界は「天動説のままであるべきだ」みたいな話です。
上記、誰一人として径150mの奴婢埋葬痕跡のある場所に辿り着けていないのだから、それは考古学者を含め専門家が間違えてたのであって、辿り着けた私を「誰もそんなこと言ってないのだから誤謬だ」と批判されても困ります。石見介さんの言い草なら「卑弥呼の墓は箸墓古墳だとほぼ確定しており、議論の共通の認識として一般的に共有されている」から新説など言うなという事でしょうか。
卑弥呼と時代も少し違うし、奴婢埋葬痕跡も全く説明できない箸墓古墳が、多数決で卑弥呼墓であるなんて決められたらたまったものじゃありません。あれはイカガノシコオの墓でしょうからね。
>ぼちぼち、中止しましょう。
やめられたらどうですか。
私は倭の五王について、独自の解釈で、
自分なりにほぼ納得できる答えを見つけかけています。
だからこれからもここで発言していきます。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/22 (Sat) 07:50:56
>>彦坐王の末裔の「王」の多さは異常です。<
>ですから「王」が多い以上、それで別王統を主張するのは無理です。
ところがその彦坐王 真若王から続く系譜に、5世紀以降、「オオキミ」と読めるとされる人物が複数いるわけです。
一方、5世紀の河内王朝の天皇たちの和風諡号を見ても「オオキミ」は一人もいません。
継体になって初めて「ヲホドノオオキミ」となるわけです。
>>仁徳も雄略も大王でしょう。<
>大王は大(オホ)王(キミ)です。
>単に王の場合には、かならずしも最高位であるとは言えません。
ならばその王でさえない河内王朝の「天皇」たちは、
もちろん大王ではないということでいいですね?
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/03/20 (Thu) 18:30:38
>彦坐王の末裔の「王」の多さは異常です。<
ですから「王」が多い以上、それで別王統を主張するのは無理です。
>仁徳も雄略も大王でしょう。<
大王は大(オホ)王(キミ)です。
単に王の場合には、かならずしも最高位であるとは言えません。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/19 (Wed) 20:23:49
>記紀ではは皇子や皇女にも「王」が使われています。
159人も「王」がいたらもうそれは天皇に匹敵するわけではなく、p君さんの説は崩れます。
ですから天皇は7世紀にできた称号であり、このひとつ前のレスに書いた系図が、佐紀古墳群の充実ぶりからもおおよその日本の王であり、後半、継体の系譜にオオキミと読める複数の人物がいます。
仁徳も雄略も大王でしょう。
当時に即位の儀式の大嘗祭があったわけでもなく、二派あっても別にいいと思います。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/19 (Wed) 20:17:47
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
この伊支馬を活目入彦こと垂仁とし、弥馬升を御間城入彦こと崇神とする説がありますね。
私は正しいのではないかと思います。
崇神と垂仁は父子ではなく、垂仁の方が年上であって、崇神の後に死んだので、
後に崇神の後の「天皇」に組み入れられたのかもしれません。
垂仁が佐紀古墳群の宝来山古墳と言うのは時代的に苦しいのですが、
墓が佐紀にあるという伝承があるのは彦坐王の系統、息長の系統につながるからなのかもしれません。
成務も墓は佐紀にあることが確実なので佐紀グループに入れました。
開化・垂仁
彦坐王 崇神
真若王 景行
迦邇米雷王 ・成務
息長宿禰王
大多牟坂王・神功皇后-仲哀
応神
二派皇子・仁徳
意富富杼王・允恭
乎非王 雄略
倭彦王・彦主人王
継体
仁徳だけが謎ですが、彦坐王の末裔の「王」の多さは異常です。
佐紀古墳群の充実ぶりを考えれば、おおよそこれが4~5世紀の日本の本来の王統ではないでしょうか。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/03/19 (Wed) 19:43:28
>そして繰り返しますが上宮記の王は天皇とされる人物より上だと思っています。<
記紀ではは皇子や皇女にも「王」が使われています。
159人も「王」がいたらもうそれは天皇に匹敵するわけではなく、p君さんの説は崩れます。
>伊理泥王(いりねのみこ)<
大概の「王」は(みこ)あるいは単に(きみ)でしょう。
稲荷山鉄剣などに見える「大王」が文字通り(おほきみ)です。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/19 (Wed) 09:13:49
「4世紀の彦坐王以降、神功皇后にまで至る系譜も、大量の王がいるかなり不思議な系譜で、4世紀当時の実質上の王権はこの系譜ではないかと考えているところです」に続けます。
Wikipedia丸コピーで申し訳ありませんが、
彦坐王
妃:山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ、苅幡戸辨) - 山代県主祖の長溝命の女。
大俣王(おおまたのみこ)
孫:曙立王 - 伊勢之品遅部君祖、伊勢之佐那造の祖。
孫:菟上王 - 比売陀君の祖。
小俣王(おまたのみこ) - 当麻勾君の祖。
志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ) - 佐佐君の祖。
妃:沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ) - 春日建国勝戸売の女。
沙本毘古王(さほびこのみこ、狭穂彦王) - 日下部連祖、甲斐国造の祖。
袁邪本王(おざほのみこ) - 葛野之別祖、近淡海蚊野之別の祖。
沙本毘売命(さほびめのみこと、狭穂姫命/佐波遅比売) - 垂仁天皇の前皇后。
室毘古王(むろびこのみこ) - 若狭之耳別の祖。
妃:息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと) - 天之御影神の女。
丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのみこ、丹波道主命)
孫:比婆須比売命(日葉酢媛命) - 垂仁天皇の後皇后、景行天皇の母。
孫:真砥野比売命(真砥野媛) - 垂仁天皇妃。
孫:弟比売命 - 垂仁天皇妃。
孫:朝廷別王 - 三川之穂別の祖。
水之穂真若王(みずのほまわかのみこ) - 近淡海之安直の祖。
神大根王(かむのおおねのみこ、八瓜入日子王) - 三野国之本巣国造の祖、長幡部連の祖。
水穂五百依比売(みずほのいおよりひめ)
御井津比売(みいつひめ)
妃:袁祁都比売命(おけつひめのみこと) - 彦坐王の母の意祁都比売命の妹。
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
孫:迦邇米雷王 -
息長宿禰王
息長帯比売命(神功皇后)
息長日子王(吉備品遅君祖、針間阿宗君祖)
大多牟坂王(大陀牟夜別、但遅麻国造祖)
比古意須王(ひこおすのみこ)
伊理泥王(いりねのみこ)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息長帯比売命(神功皇后)は五社神古墳で間違いないと思います。
ならば白石太一郎さんの大古墳変遷図です。
https://blog-imgs-70.fc2.com/a/t/a/atamatote/kofun_hensen.jpg
これを見ても五社神古墳のある佐紀古墳群が一番充実していますね。
最近また佐紀池ノ尻古墳という200mの大古墳が見つかってますしね。
実質の王権は息長一族であったともいえると思います。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/19 (Wed) 08:39:31
白石南花さん
>ですからその「オオキミ」と言うのは、いわゆる天皇のような最高位の事を言っているのですか?
そうです。
というか7世紀以前に天皇という称号はなかったので、オオキミと呼ばれる人がいれば当時の最高位の人物であったと考えてます。
それは日本書紀に出てくる大伴金村の手勢を見て恐れて山に逃げたという倭彦王(やまとひこのおおきみ)も、「『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館」や「『新編日本古典文学全集 3 日本書紀 (2)』小学館」でも読まれ方は「オオキミ」のようで、
やはり時代的に倭の五王の一人で興だと思っています。
日本書紀は中国の臣下になりたがる屈辱的な倭の五王を隠す目的で編纂されたわけですから、
このオオキミを矮小的に書くことで、読み手の記憶から消すような方法をとったと考えてます。
>p君さんは、上宮記には多くの「王」が出てくるから、それらは全て古事記などの天皇に匹敵する存在だと思っているのでしょう?
だから王朝が別にあったというわけでしょう?
もし単に「王」とかかれた存在がすべて天皇に相当するのであれば、古事記には159人の、天皇相当の人物がいることになるのですが、それでいいのですか。<
王と表記されるたくさんの人物はオオキミになる資格があり、眉輪王や境之黒日子王などもオオキミになる資格はあったものと思っています。
雄略も古事記に大長谷王ですからその資格はあったのだと思っています。
そして繰り返しますが上宮記の王は天皇とされる人物より上だと思っています。
ただ実質上、天皇でもありオオキミでもあった人物もおり、応神、仁徳、雄略だと思っています。
雄略の場合は武力でその地位を築いたものの、小さな墓しか作れなかったのは、人心を掌握できていなかったからだと思います。
これらは5世紀の話ですが、4世紀の彦坐王以降、神功皇后にまで至る系譜も、大量の王がいるかなり不思議な系譜で、4世紀当時の実質上の王権はこの系譜ではないかと考えているところです。
私が5世紀の倭の五王がいるとする淀川水系近江王朝の前身の王権ではないかと考えてます。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/03/18 (Tue) 21:52:10
>『上宮記』逸文では「汙斯王(うしのおおきみ)」<
ですからその「オオキミ」と言うのは、いわゆる天皇のような最高位の事を言っているのですか?
p君さんは、上宮記には多くの「王」が出てくるから、それらは全て古事記などの天皇に匹敵する存在だと思っているのでしょう?
だから王朝が別にあったというわけでしょう?
もし単に「王」とかかれた存在がすべて天皇に相当するのであれば、古事記には159人の、天皇相当の人物がいることになるのですが、それでいいのですか。
上宮記に多くの「王」が出てきて、それをどう読むかを別にして、その存在が天皇に匹敵する存在なのですか?
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/18 (Tue) 15:33:13
p君さん
私のコメントは、最初は誤変換や誤打鍵による意味不明のものの可能性が高いので、訂正後の完成したコメントをご確認後に,レスをお願いしたいと申し上げたのですが・・・。
一応、前回の投稿の訂正は、行いました。
倭王武=雄略天皇説について
>有力とされるだけで確定していません、いい加減なことを言わないででください。〈
私のこれまでのコメントを、真面目に読んでおられるのであれば、劉宋に「上表文」を、提出した時点の「倭王武」は、雄略天皇だ」という事と稲荷山鉄剣銘文の辛亥年を含む期間という、議論の為の共通の認識として、一般的に共有されている、という意味で、述べた事は、ご理解できると思うのですが。
辛亥年を、60年ずらす井上秀雄氏の説も承知していますが、白石南花さんの反論の方に分があると、私も思います。
p君さんは、十分な資料批判無しに、『南斉書』や『梁書』の進号記事から、倭王武の生存や在位期間を、推定しておられますが、これは、まさに『魏志倭人伝』の卑弥呼について、多くの漢文や中国語学者、歴史学者の誰一人、考え付かない様な独創的な「解釈」をされたのと同様です。
言語というものは、抑々、意思疎通のためのツールです。
私のような古代史愛好家であれば、誤解釈も当然あり得ますが、専門の語学者や史学者が、誰一人考え付かない様な解釈は、先ず誤謬の可能性が、極めて高いと、考えるべきでしょう。
私は、「科学とは、疑う事から始まる」と考えており、それは、専門家の所説にも、自身の仮説や解釈にも、当然、適用されます。
p君さんの史料批判には、自己批判というか、自説への検証が、大きく不足していると感じます。
このような方法論の是非についての議論は、他者に判断するための材料としては、意味がありますが、当事者同士で繰り返しても、生産的ではありません。
ぼちぼち、中止しましょう。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/18 (Tue) 10:18:32
石見介さん
>稲荷山古墳出土鉄剣銘文から、倭王武が、雄略天皇である事は、内外文献と考古学資料双方から、確定しています。
有力とされるだけで確定していません、いい加減なことを言わないでください。
倭王武が雄略で確定するくらいなら九州王朝説の方がよほどまともです。
雄略即位が武寧王墓誌との絡みで456年、あるいは457年となるなら、それは済か興の時代になります。
この時点で倭王武は雄略ではありません。
武が初めてあらわれるのは477年の「興没して弟の武立つ」ですから、478年の上表文はおそらく即位のあいさつでしょう。
どちらにしてもこの時点で倭王武は雄略ではありません。
その武は502年までは在位しています。
ゆえ「天皇」では解けないのです。
>p君さんの、南斉や梁の建国時の「倭王武の生存」説こそが、「証明」を要する仮説です。
それは悪魔の証明です。
中国側がとっくに死んでいる倭王武の事を知らないほどトンマであったなんて新説をそちらが証明することが先ですね。
なんでこっちが先に証明する必要があるのでしょうか。
> 斯麻についても、考古学上の遺物や古文献の残存状況も考えずに、「斯麻」と表記した資料の提示が必須だと強弁されても、無意味です
それは予想通り武寧王以外に「斯麻」を見つけることができないという言い訳ですね。
隅田八幡神社鏡銘文の「斯麻」が武寧王であり、男弟王が継体である事は平野さんも山尾さんも認められており、
残る謎は日十大王だけです。
しかしながらお二人とも日十大王を仁賢天皇だとされてますが、これはもう時代的にも状況的にも全然合わないですね。
合わないのはお二人とも「天皇」という称号に引きずられ過ぎておられるからです。
見るべき称号は天皇ではなくオオキミであり、上宮記にオオキミと書かれている継体天皇の父親だとしたら、あっさり日十大王が解けます。
繰り返しますが、倭の五王は「天皇」では解けないのです。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/18 (Tue) 10:07:48
白石南花さん
たとえば彦主人王を「ひこうしのおおきみ」とするのは、
ソースは『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 のようです。
坂本 太郎 監
平野 邦雄 監
『上宮記』逸文では「汙斯王(うしのおおきみ)」
王を「きみ」「おおきみ」とするのは、
神武の義理兄である「天日方奇日方」を鴨王(かものきみ かものおおきみ)とするのが最初かもしれません。
この場合、神武を受け入れた側の義理兄がオオキミであって、神武という男はただの女王の婿という立場ですが。
Re: 倭の五王 - (管理人)
2025/03/17 (Mon) 23:03:09
┌
│Re: 倭の五王 - p君
│2025/03/17 (Mon) 13:50:11
│
│┣━━━━━┓
│讃 珍
│(421, 425年) (438年)
│
│上宮記逸文に継体天皇をはじめ複数のオオキミがいること、
│そして河内王朝には一人のオオキミもいないこと、
│ゆえ、上宮記逸文の継体天皇の直系祖先の
│オオキミたちが倭の五王ではないかと考えてます。
└
古代史獺祭のサイトから「上宮記逸文」を
コピーすることが出来ました。
下記のところ(スレ「各種資料(翻訳)」)に、
コピペしておきますので、ご利用下さい。
┌
│Re: 各種資料(翻訳) - (管理人)
│2025/03/17 (Mon) 22:42:06
│上宮記(古代史獺祭のサイトより)
└
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/17 (Mon) 19:12:05
米田さん
p君さん
百済武寧王の諱が、『三国史記』百済本紀では、「斯摩」と記述されていることが確認でき、ありがとうございました。私は、視力障碍等で、現在要介護2の認定を受け、高サ賃に入所し、蔵書は無く、PCの
displayの55インチの画面でも、文字が読めない状況で、文字の拡大可能なアンドロイドのタブレットで、何とかコメントを読み、PCで投稿している為、誤記、誤変換、誤打鍵による意味不明のコメントになり、ご迷惑をおかけしています。
訂正には、一旦タブレットをシャットダウンして、読み直す必要がありますが、最初のミスの多い投稿で、目が疲労し、時間を空けて、エラーチェックや追加投稿する事になります。
コメントが完成するまでの途中でのレスは、お待ち願います。
p君さん
>倭王武=雄略説者の悪あがきですね。〈
稲荷山古墳出土鉄剣銘文から、倭王武が、雄略天皇である事は、内外文献と考古学資料双方から、確定しています。
その上で、記紀の雄略の在位期間記事や中国史書の倭王武の記事の解釈上の、「齟齬」との解釈が、問題になります。
倭王武の上表文奏上の記事から、その時点の倭王武、雄略の生存はほぼ確定出すが、以後の朝貢時については、日中双方の史書や考古資料の対応という観点からは、「不確定」です。
進号記事が、朝貢とは無関係であるのは、「史実」であり、先行する研究者説の踏襲でもあります。
p君さんの、南斉や梁の建国時の「倭王武の生存」説こそが、「証明」を要する仮説です。
まあ、厳密な資料解釈からは、進号時の倭王武の生存については、資料不足で、推測しか出来ません、というのが、おそらく専門家の見解でしょうが。
>中国側が、とっくに亡くなって実在していない倭王武に進号したなど、そんなトンマで間抜けな話は到底あり得ません。〈
p君さんは、落ちぶれた南朝の情報収集能力を、過大評価されていますね。前王朝を簒奪した新王朝は、正当性の主張が、なによりも重大であり、朝貢に来ていなくても、前王朝に朝貢した外国は、藩属国として、その国が明確に敵対したりしない限り、建国の大盤振る舞いの一環で、進号します。
明の建国時、南朝の征西将軍宮懐良親王を、日本国王に冊封したり、わざわざ使節を派遣して、琉球の倭寇勢力の頭目を,三山の王に封じ、朝貢用の大船を与えたり、果ては明人の技術者等も送っています。倭寇禁圧が目的ですが、「大義名分」建前とは別に、実利外交を行います。
生きていようがいまいが、懐も痛まない進号など、弱体化した南朝にとっては、当然の政策です。
斯麻についても、考古学上の遺物や古文献の残存状況も考えずに、「斯麻」と表記した資料の提示が必須だと強弁されても、無意味です。
また、史上の人物が容易に特定できると言うのも、大きな勘違いです。特定できないからこそ、諸説が存在しているのであり、どの程度まで、特定できるか、諸説の真偽度の判断も、それぞれ、意見が分かれているのです。
私は、臨床医の経験から、確定診断が、直ちに得られないとか、鑑別すべき疾患が複数存在する事態は、よく経験しています。
そういう時は、診察検査し、データの蓄積を待ちながら、経過観察するか、専門外と感じれば、紹介するとかの手段しかありません。
全てが、解決できない事は、いくらでもあります。
待てずに性急に診断して治療を行えば、誤診しかありません。
趣味の分野なので、多少は自説に甘くても、限界はあり、踏み出せない部分は当然存在します。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/17 (Mon) 13:50:11
┣━━━━━┓
讃 珍
(421, 425年) (438年)
上宮記逸文に継体天皇をはじめ複数のオオキミがいること、
そして河内王朝には一人のオオキミもいないこと、
ゆえ、上宮記逸文の継体天皇の直系祖先のオオキミたちが倭の五王ではないかと考えてます。
そして上の図、421, 425年には実在していた倭王讃を意富富杼王(おおほどのおおきみ)と考えます。
というか考えてみます。
この人物は大郎子(おおいらつこ)、意富々杼王、意富富等王、大大迹王とも書かれるようで、
大大迹王などの表記は、実にオオキミにふさわしい名前だと思われます。
そして珍ですが、讃の弟ということで、允恭天皇ではないかと考えます。
この場合、弟といっても実の弟ではなく、義理の弟になります。
この允恭天皇の生い立ちが、生まれつき病弱で療養を兼ねて
近江の朝妻の稚淳毛二岐王の家に居住したということが事実なら、
忍坂大中姫の夫ですから意富富杼王(おおほどのおおきみ)の義理の弟ということになります。
允恭は実父の仁徳や二人の兄(履中、反正)から冷たくあしらわれてる記述があるようで、
実の親より育ての親とばかり、稚淳毛二岐王の実の息子のようになったのかもしれません。
あと気になるのが仁徳が大仙陵で間違いないと思うのですが、
履中、反正の陵墓が合わないのです。
明治に発掘された大仙陵の前方部の豪華な石棺や遺物が、
仁徳の男子の肉親としか考えられないので、それが履中であり、
前方後円墳の円墳部と後方部を二つの陵ととらえ、
父の仁徳の南の陵、百舌鳥耳原南陵と伝えられたことは考えられると思いますが、
反正は北の田出井山古墳であっても、
最近二重目の濠が見つかった土師ニサンザイ古墳であっても、
両古墳とも5世紀後半ですから時代が合わないのです。
仁徳はオオキミであっても、息子の履中、反正はオオキミではなかったのでしょう。
なぜそうなったのかは分かりませんが、
仁徳が超巨大陵を作った故、造営に疲弊した民衆の心が離れてしまったとか、そういう事があったのかもしれません。
それゆえ仁徳の次のオオキミは倭王讃こと意富富杼王(おおほどのおおきみ)であったのでしょう。
また古市・百舌鳥古墳群の数が天皇と合わないという問題も、
上宮記のオオキミたちが、祖先である応神陵のある古市にも、あるいは百舌鳥にも墳墓を作ったと考えれば、その謎が解けてくるかもしれません。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/15 (Sat) 22:15:04
白石南花さん
>
・彦主人王
・乎非王
・意富富杼王
・倭彦王<
これらは全部「王」としか書いてありませんが、みんなオオキミと読むのですか。<
はい、そこは私も分かりません。
読み方の注釈文があるのかもしれません。
しかしまぁそう読まれているという事実があるので、彼らこそが倭の五王の正体だと思っています。
>例えば古事記には159人も「王」が出てくるのですが、みんなオオキミなのでしょうか。
いわゆる河内王朝には一人のオオキミもいないのです。
これは特筆すべきことだと思います。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/03/13 (Thu) 22:23:33
>・彦主人王
・乎非王
・意富富杼王
・倭彦王<
これらは全部「王」としか書いてありませんが、みんなオオキミと読むのですか。
例えば古事記には159人も「王」が出てくるのですが、みんなオオキミなのでしょうか。
Re: 倭の五王 - 米田
2025/03/13 (Thu) 12:19:17
┌
│Re: 倭の五王 - 石見介
│2025/03/11 (Tue) 14:26:06
│
│「斯麻」は、古代日本語「シマ(島)」の漢字音写表記で
│あり、偶々、武寧王が日本の島で生まれた為に、
│その諱となりましたが、
│私の記憶では,『三国史記』百済本紀では、「斯麻」ではなく、
│「斯摩」と表記されていたと思います。
│
│東洋文庫版『三国史記』をお持ちの、米田喜彦さんに、
│ご確認いただければと、思います。
│
│東洋文庫版の解説には、『三国史記』が、既に同じ王氏高麗時代の
│勅撰史書,通称『旧三国史』が存在するにもかかわらず、何故、
│同じ時代を扱う『三国史記』が、わざわざ撰述されたのかを、
│疑った朝鮮の大文人の名も、挙げてありましたが、
│私にはその名の記憶はありません。
│
│『三国史記』の信頼性は、十分な資料批判が、必要なのです。記紀
│以上に、信頼性が高いとは、先験的に言える代物ではないのです。
│
│記紀同様、他の資料がないので、使用する、という事を、
│忘れては駄目です。
└
┌
│東洋文庫版『三国史記』をお持ちの、米田喜彦さんに、
│ご確認いただければと、思います。
└
:ご指名がありましたので、調べました。
:掲載図を参照して下さい。
PS:
:なお、私の立場は、「仁賢天皇」=「武寧王」=「しま」です。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/13 (Thu) 07:12:54
石見介さん
>南斉や梁の建国時の「進号」については、中国側の建前で、前王朝の藩臣をそっくり引き継いだ事を示すためであり、現実の朝貢とは無関係です。
> 倭王武の生存を示す証拠足り得ません。
それは倭王武を雄略としたいが、502年なら時代が合わないので、あれは「進号」のみであろうという、倭王武=雄略説者の悪あがきですね。
502年なら上表文の478年から24年も経過しています。
中国側が、とっくに亡くなって実在しない倭王武に進号したなど、そんなトンマで間抜けな話は到底あり得ないです。
478年から502年までは、倭王武はしっかり生きていたと考えるのが自然であり、その時点で倭王武は雄略でも武烈でもありません。
> 「斯麻」については、古代日本語の人名、地名、官職名その他の語彙の「漢字音写」であると言う認識が必要ですが,p君さんには、その認識が薄弱か欠如察れておられますね。
ですから日本人で「斯麻」と明記されている人物を提示していただいたらそれでいいわけです。
ただしこれは表記の問題であり、「島」が「斯麻」にも成りえたのではないかなどのあいまいな推測話ではダメです。
なぜなら武寧王は墓誌にはっきりと「斯麻」と書かれていますからね。
石見介さんがその「斯麻」と明記されている人物を提示できた時に初めてその人物が日十大王の時代に鏡を贈った「斯麻」なのか、
それとも山尾さんや平野さんや、僭越ながら私も唱える武寧王が「斯麻」なのかの議論ができるわけですが、
あなたはトヨや卑弥呼についてもそうですが、自分はそれらが誰なのか一切提示できず、
そして提示している私の説にイチャモンばかりつけてこられるわけで、大変卑怯な人です。
ぜひ日本人で「斯麻」と明記されている人物を提示していただきたい。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/12 (Wed) 15:20:33
p君さん
>7世紀の朝廷にとって、たかだか200年前の話が混乱しているのなら、それはわざと意図的に混乱させたのであり、〈
p君さんは、歴史記録のあり方について、独自のお考えをお持ちで、日本列島での文字記録が、通説や定説、或いは私などと異なり、ずいぶん早期から整備されていたとされていますが、日本の史料類の整備が遅いのは、『隋書』等の、唐代史書の夷蛮伝に記述されている様に、高句麗や百済に遥かに遅れ、新羅並みだと考えられます。
倭の五王時代には、南朝劉宋に朝貢し、文字資料も整いつつありましたが、雄略天皇死後の大王位継承の混乱などで、記録が散逸し、また、中断もあったでしょう。
〉とりあえず倭王武は、478年の上表文の時代から502年の梁の武帝に「征東将軍」に進号された時代まで実在したということでいいですね。〈
南斉や梁の建国時の「進号」については、中国側の建前で、前王朝の藩臣をそっくり引き継いだ事を示すためであり、現実の朝貢とは無関係です。
倭王武の生存を示す証拠足り得ません。
繰り返し注意喚起していますが、中国も半島諸国も、自己都合で、倭国王、倭人、倭寇の認定は、実態とは無関係に、行います。
『梁職貢図』の、あの裸足の倭国使の服装からは、累代の倭国使が「大夫」を自称したとする記録とは程遠く、「偽使」にしか、見えません。
明代の「福建新倭」の例もあります。
武烈天皇の漢風諡号は、後に淡海三船によって、一括付与されたもので、記紀成立時には、存在しませんでした。
「斯麻」については、古代日本語の人名、地名、官職名その他の語彙の「漢字音写」であると言う認識が必要ですが,p君さんには、その認識が薄弱か欠如されておられますね。
「オホ」氏に宛てられる漢字は、借音と借訓双方があり得まます。「多」「大」「太」は借訓で、「飯富」や「意冨」などは、借音です。
「オホトモ」氏は、「大伴」「大友」「大部」とも、表記されます。全部借訓ですが。
墓誌が出たので、オホノヤスマロという人物の漢字表記を、日本の歴史学界が統一表記することにしただけです。
同様に、上代日本語「シマ〔島}]を、どのように表記するかも、多様です。日本では、借音の「斯麻」「志摩」や借訓の「島」「嶋」が使用され、おそらく百済支配層語にはないので、百済では,用字が借音で新羅人が「斯摩」と記し、それが史書に残ったのでしょう。馬韓語に、sjemaの様な語彙があったようですが、百済支配層は扶余系で、ツングース語族の言語だったのでしょう。馬韓語のsjema?は、「島」の語義と少し意味がずれて、「山」のような語義に、変化していたのかも知れません。
〉私はオオキミという称号が倭の五王の時代の日本書記や上宮記逸文に複数見られることを指摘し、継体天皇の父君である日本書記の彦主人王(ひこうしのおう/ひこうしのおおきみ)または『上宮記』逸文では「汙斯王(うしのおおきみ)」が日十大王であり、時代的に倭王武であり、〈
『上宮記』他、所謂「推古期遺文」と称される史料群が、その用字法から見て、記紀編纂時よりも古いものである事は、定説で、私もそれには異論はありません。又、複数大王の並立制を採る立場からも、「おほきみ(大君、王、女王、大公王)」の一人である可能性は高い、と考えています。但し、畿外の近江在住なので、最高位の祭祀王ではなく、多数存在する世俗王の一人で、近江の「息長系皇族」の中の最有力者だったと考えています。
ただし「日十大王」ではあり得ない。雄略天皇は、畿内の有力王族を、自身の同母兄弟を含め、皆殺し、最高位の祭祀王の「天万国万押磐尊(あめよろづくによろすおしいはのみこと)」即ち市辺押磐天皇も殺し、大伴氏と物部氏を爪牙として、大和の葛城氏、畿外の吉備氏にも、打撃を与えました。吉備を打つのであれば、近江の対抗者も撃つでしょう。
即ち、彦主人王がp君さんの御説のように、有力であれば、雄略天皇の討伐対象になります。
継体天皇は、父の死後、母の里の越前で育てられています。或いは、雄略天皇の同族殺しのうわさにおびえ、越前に逃れたのかもしれません。
〉天皇という漢字の「字面(字ずら)」に騙されてるのはあなたです。〈
「彦主人王」即ち「ヒコウシ」という「名」の何処にも「ヒト」という「大和言葉」が入っていないのに、「うし」という大和言葉の当て字の「主人」という「漢字」の中の「人」字に、目がくらまされていると、ご注意申しあげたのですが。
「うし」という上代日本語に宛てられた漢字は、「主人」「大人」という漢語と、借音では、「汙斯」がありますが、記憶では後代に「主」一字でも、「うし」と読んでいます。
「主」という漢字は、大国主、大物主等の神名や、県主のような官職名にも使用され、訓としては「ヌシ」の他に、「アルジ」という後代の物も有りますが、本来、古代日本語では、「ウシ」と同義同源の語彙であったのだろうと思われます。
>河内王朝の各天皇には和風諡号で一人のオオキミもいません。〈
『日本書紀』での和風諡号の敬称は、「天皇」で、『古事記』での和風諡号の敬称は、全て「ミコト」です。
「日十大王」についてですが、山尾氏や平野氏らを含め、専門家の所説も、「日十」という漢字自体の「読み方」というか、文字自体が、どのような漢字であるかという、問題を含めての、「釈読」を、論じています。
「日」という漢字が、刻字されているという、学界の統一見解が、存在しているわけではないのです。
「十」という字形に関しては、私は、異説を目にしたことはありませんが、漢字「十」そのものだったとすれば、、音読では「ジュウ」に近似する範囲内で考察し、訓であれば、「トヲ」に宛てるのが原則になります。訓読で「ト」に宛てるのは、上代日本語の数詞tenの語義の言葉の読みとしては、私には不自然に感じられます。「ト」の子音交替形の「ソ」であれば、「三十」「四十」という複合語での訓なので、未だ、可能性が高いと思われますが。
「十」が、銘文での「省画」であれば、「計」「汁」「什」などが、考察の対象になります。
字形自体には殆ど異論がない「十」に対し、「日」字は、「日」「臼」「曰」という類似の字形が存在し、容易には決定できず、各文字の音訓の発音も異なります。「ヒ」「ウス」「イフ/ノル」等の訓の相違や、「ニチ」「キュウ」と言った音の相違があり、2字合わせて、仁賢天皇、顕宗天皇どちらにも、解釈が可能になるのです。
「穢人」の解釈は、「あやひと」なのか、「わい人」なのかは決め難いのですが、「開中費直」を「河内のあたひ」即ち「河内直」と読むのであれば、「ワイ(穢)人」の方が、合うでしょう。
「穢」を「アヤ」と読めば、「文」氏でも「漢」氏でも、「直」「史」のような「姓(カバネ)」があるのが、常識的でしょう。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/12 (Wed) 09:50:10
>この辺りの記事は、年次を含め、継体欽明皇統と前代の皇統との断絶で、記録が混乱しています。
7世紀の朝廷にとって、たかだか200年前の話が混乱しているのなら、
それはわざと意図的に混乱させたのであり、
とりあえず倭王武は、478年の上表文の時代から502年の梁の武帝に「征東将軍」に進号された時代まで実在したということでいいですね。
ならばまず雄略は502年まで生きているわけはないので候補から脱落ですね。
倭王武が梁の武帝に「征東将軍」に進号された502年が武烈天皇4年になりますから、
武烈は倭王武に該当しますし、何よりその漢風諡号の武烈が武を意識しているのは明白です。
しかし上表分の478年は武烈の時代ではなく、雄略の晩年である。
だから結局は誰も武に該当しないということですね。
これは7世紀の朝廷がわざと意図的に混乱させたのでしょう。
>斯麻
『三国史記』百済本記は斯摩ですが、武寧王墓誌という金石文では武寧王は斯麻王です。
かつて太安万侶の表記も複数あったけれど、墓誌が発見されて太安万侶と統一されたように、武寧王は斯麻です。
だから隅田八幡神社鏡銘文に戻りますと、503年に武寧王が工人を差し向け鏡を作った時は日十大王の年であり、
男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時に「斯麻が長寿を念じて」というのは日十大王の長寿を念じて工人に作らせたという意味でしょうね。
>どうもp君さんは、漢字の「字面(字ずら)」に騙されるようですね。
私はオオキミという称号が倭の五王の時代の日本書紀や上宮記逸文に複数見られることを指摘し、
継体天皇の父君である日本書紀の彦主人王(ひこうしのおう/ひこうしのおおきみ)
または『上宮記』逸文では「汙斯王(うしのおおきみ)」が日十大王であり、時代的に倭王武であり、
天皇という漢字の「字面(字ずら)」に騙されてるのはあなたです。
河内王朝の各天皇には和風諡号で一人のオオキミもいません。
もう一度前のレスに戻ります。
>仁賢天皇は、「島稚子」「島郎子」と呼ばれており、「斯麻」と自称して、当然の存在であり、顕宗天皇は、大王であるとともに、仁賢天皇の「男弟」です。
すると「島稚子」であった仁賢天皇が、日十大王の長寿を念じて、となりますが、山尾さんや平野さんは日十大王を仁賢天皇とされておられるし、話が全然合わなくなります。また斯麻が仁賢など日本の天皇なら、「穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして」というのは不自然ですね。
まとめますと502年に斯麻(武寧王)が、男弟王(継体)が意柴沙加(おしさか)の宮(おそらく桜井)におられる時に、日十大王の長寿を念じて鏡を作ったということですね。
だから問題は日十大王です。
ここで「記紀より古い上宮記」を見るべきではないでしょうか。
そこには天皇なんて称号は出てこず、オオキミという称号が複数出てきます。
そのオオキミで考えるべきではないでしょうか。
7世紀の朝廷が、7世紀の天皇の直系の祖である継体、先帝とは4親等以上離れているその継体が、
子のいない先帝・武烈の後に、近江からあるいは越前から、嫌々渋々大王位を継ぐことになった、
つまり478年に、中国皇帝にヘリ下り、自ら臣下になりたがる情けない上表分を送った倭王武の直系ではありませんという事を強調する説話を意図的に創作したことが分かります。
実際には継体は503年には大和に居たということでしょう。
記紀編纂の意図は、かつて日本が中国に【冊封】を受け、朝貢していた屈辱の歴史を隠すことであり、
107年の倭国王帥升や、238年に親魏倭王にされた卑弥呼の時代は大きくずらして隠し、
7世紀の天皇の直系の祖である倭王武こと日十大王は、大王ではなかった傍系の人物たちをことごとく新称号「天皇」にする事によって隠す、これこそが記紀編纂の真髄であり、真実を書いていたゆえ都合の悪い帝紀や旧辞などは散逸したという理由で焚書にしたのでしょう。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/11 (Tue) 14:26:06
p君さん
〉503年なら武烈の時代であり、仁賢天皇は生きていないと思われますが、〈
ご承知のように、武烈天皇と顕宗天皇には、「シビ」という名の男と、女を争った記事が共通するなど、この辺りの記事は、年次を含め、継体欽明皇統と前代の皇統との断絶で、記録が混乱しています。
倍暦、干支、元嘉暦や景初暦、口誦等の中から、記紀の撰述者が、どのように組み立てたのかは、又、別な議論になりますが、『古事記』に比し、『日本書紀』は原資料が多く、辛酉革命説による神武天皇即位年遡及操作により、干支自体も正確に、1運とか2運とかの遡及操作のみであったと言う「前提」自体、疑う必要もあります。
「斯麻」は、古代日本語「シマ(島)」の漢字音写表記であり、偶々、武寧王が日本の島で生まれた為に、その諱となりましたが、私の記憶では,『三国史記』百済本紀では、「斯麻」ではなく、「斯摩」と表記されていたと思います。
東洋文庫版『三国史記』をお持ちの、米田喜彦さんに、ご確認いただければと、思います。
東洋文庫版の解説には、『三国史記』が、既に同じ王氏高麗時代の勅撰史書,通称『旧三国史』が存在するにもかかわらず、何故、同じ時代を扱う『三国史記』が、わざわざ撰述されたのかを、疑った朝鮮の大文人の名も、挙げてありましたが、私にはその名の記憶はありません。
『三国史記』の信頼性は、十分な資料批判が、必要なのです。記紀以上に、信頼性が高いとは、先験的に言える代物ではないのです。
記紀同様、他の資料がないので、使用する、という事を、忘れては駄目です。
〉「天皇」と言う称号にだまされてたら心理が見えなくなると考えます。〈
全く同感であり、これまで私が、「天皇」という語彙は、人物の特定の意味で大王名に付加している事は、ご理解いただいている、と思っていましたが、どうもp君さんは、漢字の「字面(字ずら)」に騙されるようですね。
複数大王並立を採る私は、「天皇」号は、前段階の「天王」も含め、継体欽明皇統の確立後、早くてもAD600年前後だと、考えていますが。
尚、画像鏡の出来が悪いので、国産説の根拠の一つとしたことに対する反論と思われる「武寧王が工人を派遣」したと言うのは、技術の未熟な工人だと言う事にもなり、返って倭国王を、怒らせる可能性もあり、考えられいと思われます。
もう一つご指摘の、顕宗、仁賢兄弟の墳墓のあやふやさですが、最近TVで話題になったように、平城京建設に伴い、巨大前方後円墳が、複数破壊されていることが判明しており、伝承が失われたか、或いは何らかの理由があれば、巨大古墳と言えども、破却をためらわない大和の権力者たちの存在も、7世紀には確認できます。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/11 (Tue) 08:13:20
石見介さん
> 仁賢天皇は、「島稚子」「島郎子」と呼ばれており、「斯麻」と自称して、当然の存在であり、顕宗天皇は、大王であるとともに、仁賢天皇の「男弟」です。
503年なら武烈の時代であり、仁賢天皇は生きていないと思われますが。
「斯麻」は武寧王墓誌にも「斯麻」というそのままがあるようなので武寧王以外にいないと思われます。
502年即位ですから、即位の挨拶もかねて工人を派遣、この鏡を作らせたのでしょう。
あと仁賢天皇であれ顕宗天皇であれ、墓の治定が極めて弱く、おそらくオオキミではないと思われます。
「天皇」と言う称号にだまされてたら真理が見えなくなると考えます。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/09 (Sun) 19:08:24
上宮記
西條勉は、『逸文上宮記』に「一云」として載せられている「継体天皇出自系譜」は、その用字法から推古朝ないし大化前代の遺文である可能性が強いとし、作成主体についても蘇我氏の関与を重視する見解を支持した。また、これらに関しては幾つかの異見もあるが、この系譜が用字の面で記紀以前の古態をとどめている点は否定しがたく、加えて、天皇号が用いられていないということも勘案すべきとし、『上宮記』を推古朝修史圏内で捉えておくのが基本であろうとした。
黛弘道は、『上宮記』の文章は、記紀以後に述作されたというような新しいものでないことは、その用字法からして明瞭であり、用字法はどうしても時代の趨勢に拘束されるため、後から古めかして造るのは技術的にかなり難しく、用字法からいえば、継体天皇の世系は記紀編纂以前から『上宮記』やその原文によって判明していたと考えることができるとし、記紀が継体の系図を記さなかったのは、 天皇の5世孫という疎遠な皇親が皇統を継承した例はないから、5世代を克明に挙げる煩を避けたためであるとし、また、『日本書紀』に系図一巻が添えられた事実を忘れてはならず、継体天皇の世系は必ずこの系図の中に示されたに違いないのであり、『上宮記』はむしろその参考に供された資料とみるべきである、と主張した。
--------------------
[記紀が継体の系図を記さなかったのは、 天皇の5世孫という疎遠な皇親が皇統を継承した例はないから、5世代を克明に挙げる煩を避けたためであるとし]
私は全く異なる説です。
この継体の系統こそ「倭の五王の正体」であったからというものです。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/09 (Sun) 19:01:53
>具体的に誰のことですか?
・継体天皇
『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)
『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)
・彦主人王
継体天皇の父で『上宮記』逸文では「汙斯王(うしのおおきみ)」と表記される
・乎非王
(おいのおおきみ・おいのみこ、生没年不詳)は、「上宮記」逸文に記される5世紀頃の皇族(王族)
・意富富杼王
(おおほどのおおきみ、生没年不詳)は、『古事記』・「上宮記」に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。大郎子(おおいらつこ)、意富々杼王、意富富等王、大大迹王とも。
・倭彦王
(やまとひこのおおきみ) この人物は上宮記には登場せず、日本書紀に出てきます。大伴金村の手勢を見て怖がって逃げたとされてますが、日本書紀でオオキミとされている点は極めて重要だと思います。この人物が仲哀天皇5世孫という記述を信用すれば継体天皇の1世代上、彦主人王と同世代だと思われます。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/09 (Sun) 07:45:37
白石南花さん
>だれを大王と読んでいますか?
『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある継体天皇をはじめ4人です。
河内王朝の各天皇の和風諡号を見ても、雄略が古事記で大長谷王(おおはつせのみこ) ですが、
通常、即位前の天皇に「命」(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、「王」(みこ)の称号が用いられているのは異例である。とのことですから、雄略は稲荷山鉄剣の銘文からも大王になったと言えますので、この時期は「二派」になっていたのではないかと考えます。
があくまで応神の本流直系はオオキミが連発する淀川水系近江王朝(仮称)ではないかと考えます。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/08 (Sat) 17:12:03
p君さん
隅田八幡宮人物画像鏡銘文の解釈については、私も当初は、「斯麻」を百済武寧王、「男弟王」を継体天皇と考え、「日十大王」は不明、として、解釈していました。
しかし、「男弟王」を「ヲホド」とは読めないので、「ヲオト」の訓をヲホド、継体天皇に宛てる通説に、当初から違和感があり、謎の「ヒト大王」と併せ、そう高い可能性は無いが、「忍坂大中津媛」の関連地名で、当面の仮説としては、こんなものか、という評価でした。
転向のきっかけは、白石南花さんご紹介の、「日十大王」の解釈で、「コケ」即ち顕宗天皇とする説を、知ったからです。 銘文の「漢字」が、実際にどのような文字であるのかは、刻字の摩滅により、説が分れ、根本的な解釈の相違に、直結します。
「男弟王」を、継体天皇の呼称である「ヲホド」と読むことに無理を感じていたので、「日十」を、「曰十」とし、「十」を「計」の省画とする説の提示には、「十」の省画説には疑問が残りますが、「男弟王」を、「ヲホド」にこじつけるよりはまだ、可能性が高い、と判断しました。
仁賢天皇は、「島稚子」「島郎子」と呼ばれており、「斯麻」と自称して、当然の存在であり、顕宗天皇は、大王であるとともに、仁賢天皇の「男弟」です。
考古学的にも、この画像鏡が、百済製にしては出来が悪いと評価される事も、重要でしょう。
最終編集:3月11日午前7時
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/08 (Sat) 10:11:33
>隅田八幡宮の、人物画像鏡銘文の解釈
「癸未年」を503年とする説wiki
・「日十大王」をヲシ大王と読んで『書紀』がその名を「大石」「大脚」とする仁賢天皇であるとし、孚弟王をフト王あるいはホド王と訓じ、「袁本杼(おほど)」「彦太(びこふと)」とある継体天皇に比定する説がある。(平野邦雄「継体朝の諸問題」「大化前代政治過程の研究」吉川弘文館 1985年、山尾幸久「日本古代王権形成史論」岩波書店 1983年)。
・山尾幸久は「日十大王」が仁賢天皇、「男(孚)弟王」が「男大迹王」すなわち継体天皇、「斯麻王」が百済の武寧王であるとしている(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』文藝春秋〈文春新書〉)。
諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王(在位:502年 - 523年)とする解釈が有力である。百済は当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出しており、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する。*1971年に発見された百済武寧王の墓誌にも「斯麻王」と確認されている[「継体天皇と即位の謎」新装版 吉川弘文館]。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「斯麻」は斯麻、武寧王墓誌からも確実でしょうから、「癸未年」443年説は有りえないので無視します。
だから鏡が作られた503年は武寧王即位(502年)の翌年ですね。
即位したあいさつ代わりに日本の大王に贈呈したのではないでしょうか。
そして銘文の「男弟王」が、袁本杼(おほど)(=平野)、「男(孚)弟王」(=山尾)と、
継体天皇であることも確実で、継体がまだ大王ではない若き王の時代ということでしょう。
あとは日十大王だけで、山尾さんも平野さんも仁賢天皇とされ、平野さんは日十をヲシと読んでおられますが、
日十をヲシと読むのは正直苦しいでしょうし、仁賢天皇は武烈天皇の父親ですから、そもそも時代が合わないですね。
日十は普通に読んでヒトでしょうし、それは継体天皇の実の父親の彦主人王(ひこうしのおおきみ)ではないでしょうか。
日十=ヒト=人です。
石見介さんは複数大王といっておられるのだから、
上宮記のオオキミたちの祖である稚野毛二派(わかぬけふたまた)皇子が、読んでそのまま「若く抜けた二派」という私の説に賛同いただきたいですし、こっちが応神の本流直系であり、だからオオキミが4人と日本書紀の1人の計5人もいるわけです。
一方、河内王朝には和風諡号で一人のオオキミもいないですね。
Re: 倭の五王 - 石見介
2025/03/07 (Fri) 15:53:26
p君さん
雄略天皇については、ご指摘のように、記の干支からの在位年推定の、AD456年~479年ですが、『宋書倭国伝』の倭の五王の朝貢年次の記事との対照では、済と興の遣使の時期も、含みます。
倍暦の可能性も、考えたのですが、その場合、継体欽明皇統との接続で、「文に記されざる大王」や、空位の時代が、長大になり過ぎ、考古学的に、巨大古墳を築造した大王たちの時代が、成立し得なくなります。
あのような巨大古墳を築造するための、人的、物的資源、時間を考慮すれば、大王個人の力量は別としても、当時の畿内王権が、弱体だったと評価する事は、出来ません。
一方で、『隋書俀国伝』という信頼性の高い史書からは、推古天皇を含む継体欽明皇統の諸大王は、倍暦で、在位や寿命を、記述されていると考えざるを得ません。しかし、雄略天皇は、従来の倭国の伝統に従わない「大悪天皇」であり、同族殺しも平然と行い、渡来人を「偏愛」する、革命的な存在でした。
そこで、暦法も、中国流の元嘉暦や干支を導入したと、考えました。
しかし、済と興の時代も、雄略の在位期間に入ってしまう。
その矛盾があり、雄略以前の年代推定は、中断しましたが、そもそも、中国史書と日本の記紀の双方が、異なった支配層の意図の下で記述されている以上、完全に対応する解釈は、困難であるのが、当然であり、個々の記述事項の検証や考察での解釈が、行われるべきだと考えられます。
そこで、私の本来の仮説である、最高位の祭祀王は唯一の存在であるが、世俗的な統治をおこなう世俗王(政治=祭り事の時代なので、世俗王と言っても、祭事は当然行う)の複数並立、という観点に立って、済、興の劉宋への遣使時、雄略天皇は、世俗王の一人であり、その中の序列は、畿内の諸王中でも、低い存在であったと、考えられるので、矛盾しない、という判断に至りました。
允恭天皇の子の同母兄弟中の末子であり、長兄の木梨軽皇子,姉、安康、更に二人の兄、そして雄略の順です。嫁取りにも苦労し、反正天皇の娘たちに、拒否される。兄の世話でやっと皇族出身の妻を貰うが、そのごたごたで、安康天皇も死ぬ。
記紀の記述からは、本来の雄略の立場が、窺い知れます。その境遇に対する反発が、雄略を、旧来の祭祀王を最高位とする複数王の並立を脱して、唯一の世俗的な大王が君臨する、官僚制支配体制の構築に、向かわせた原動力だったのでしょう。
尚、南斉や梁の建国時の進号記事は、武の存命や遣使とは無関係な、中国側の都合による記述で、仮に、倭国からの遣使があったとしても、それは、府官制下で平西、輔国、冠軍、征虜将軍その他に任ぜられた畿外の王族や豪族の使節か、或いは、海人族などの「偽使」だったと思われます。
隅田八幡宮の、人物画像鏡銘文の解釈については、私も種々、考えましたが、現時点では、白石南花さんの解釈が、最も可能性が高い、と考えて居ます。
p君さんの解釈については、どうも記紀の「漢字」の「字面」に囚われ過ぎで、日本古代史を考える際には、先ず、「古代日本語」の音写である語彙は、上代日本語のような「大和言葉」で、考えなければならない、という視点が、欠如しているとしか、思えません。
結果、「王」という漢字に、目をくらまされてしまう事になったりするのだと思われます。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/06 (Thu) 19:44:59
雄略天皇の在位期間 - 石見介
2025/01/27 (Mon) 19:38:44
>記の干支から推定される、雄略天皇の在位期間は、上記のように,AD456年~479年ですが、稲荷山出土鉄剣銘文の、「獲加多支鹵大王」の「辛亥」年、通説のAD471年を含み、「倭の五王」の最後の「倭王武」であると、考えて、問題はないでしょう。<
思いっきり問題ありです。
雄略在位AD456年~479年には賛成ですが、456年なら興か、その前の済の時代ですね。
また502年の「梁の武帝が王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。」にも合わないです。
倭王武は478年と502年には実在したのであり、479年に亡くなった雄略ではないでしょう。
「天皇」で考えるから合わなくなるのです。
上宮記逸文の「オオキミ」で考えたら武は一人のオオキミと合います。
それは隅田八幡神社人物画像鏡銘文にある日十大王です。
日十(ひと)は人(ひと)。
倭王武は継体天皇(をほどのおおきみ)の父君である彦主人王(ひこうしのおおきみ)でしょう。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/04 (Tue) 12:24:13
日本書紀は、『梁書』502年の鎮東大将軍 倭王武は武烈であるとし、同時に478年の上表分の時代を雄略にしていますね。
これは意図的に混乱させる為にそうしたのでしょう。
478年と502年が同じ大王ならば、その人物が倭王武に決定してしまいます。
決定するとそれは「嘘=偽」になります。
7世紀の朝廷は本当は未来の日本人のために真実を書きたかった。
しかしそれはできなかった。
かと言ってまるっきり嘘も書けない。
ではどうしたか。
7世紀の朝廷は、親魏倭王という臣下の称号をもらった卑弥呼、
その100年前の自ら渡海し土下座謁見要請を行った倭国王をごまかすために時代を大きく変え、
その卑弥呼から200年後、自ら臣下になりたがった倭王武を隠すために新称号「天皇」を採用し、大王ではなかった傍系の人物たちをことごとく天皇にした。
これが記紀の編纂時期の7世紀の朝廷の手法ではないでしょうか。
卑弥呼を隠した手法ですが、まずAとBの二人を卑弥呼候補とする。
Aは独身で弟がいるオオヒルメという別名のアマテラス
Bは殉葬があったとする時代に昼は人が造り夜は神が造った径百余歩の円墳部に眠るモモソ媛
アマテラスの記述も、モモソ媛の記述ももちろん創作です。
これらはわざと「卑弥呼を連想させるようにした」創作です。
しかし本当の卑弥呼はこの両者ではなく、その間にいる別の人物であった。
その人物を神武東征紀という女王国とは程遠い武勇伝で隠す。
上記の雄略と武烈の話も同じく「わざと倭王武を連想させるようにした」創作でしょう。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/03 (Mon) 21:12:26
隅田八幡神社人物画像鏡の銘文
「癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じ・・・」
この癸未=503年説を採用すれば、男弟王は若かりし継体だとして、斯麻が502年即位の百済の武寧王であり、
日十大王とは、普通に読んで「日十(ヒト)」。つまり人、継体の父君の彦主「人」王ではないでしょうか。<<
に続けます。
wiki武烈天皇
梁書による同年代の記述
中国の史書『梁書』武帝紀では、武烈天皇4年にあたる壬午年(502年)4月、(天監元年4月戊辰条)に「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」を進号されたと記載されている(正しくは「征東大将軍」か)。
三国史記による同年代の記述
朝鮮の史書『三国史記』の記述によれば、武烈天皇2年にあたる庚辰年(500年)3月、倭軍が新羅の長嶺鎮を攻めて陥落させた。その結果、新羅の第21代の王炤知麻立干が薨去している。
やはり日本書紀は、『梁書』502年の鎮東大将軍 倭王武は武烈であるとしたかったのでしょう。
倭王「武」と「武」烈を意図的に同一視するのが狙いかと思われます。
その武烈の後に、近江から、あるいは越前から、武烈の直系ではない新しい血筋、リフレッシュされた血筋である継体天皇に変わったのだ、
したがって、7世紀の天皇たちの祖は継体であるから、中華皇帝にへりくだり、自ら臣下になりたがった屈辱的で情けない人物の血筋ではないという事にしたかったのでしょう。
実際には、7世紀の天皇は、その屈辱的で情けない日十大王という倭王武の直系血筋であったという大オチですね。
とんでもない変態のように書かれ、ダシにされ続けてきた武烈に少し同情に似た気持ちが湧いてきました。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/01 (Sat) 20:44:18
白石太一郎さんの古墳変遷図です。
https://blog-imgs-70.fc2.com/a/t/a/atamatote/kofun_hensen.jpg
この中に倭の五王がいると考えて良いのではないでしょうか。
仲哀天皇が津堂城山
神功皇后が五社神
応神が誉田御廟山
仁徳が大仙
継体が今城塚
このあたりはまず確実だと思われます。
だから仁徳が倭王讃だとして、大仙陵以降に4人の倭王がいることになります。
上宮記にある4人のオオキミが、祖である応神天皇の傍に墓を造ってもおかしくはないと思われます。
だから古市古墳群でもいいし、神功皇后の五社神古墳の後の佐紀盾列古墳群の中にあっても私はおかしくないと思います。
また三島古墳群の太田茶臼山は今城塚の継体の2世代ほど前の祖先と言えますので、意富富杼王(おおほどのおおきみ)あたりでしょうか。
ならばその前後の墳墓が三島にないので、やはり他のオオキミは河内に墳墓を造った可能性が高いと思われます。
ならばこの図を見る限り、5世紀後半の巨大墓として岡ミサンザイあたりが倭王武の墓である可能性が高いかもしれません。
宮内庁はこの墓を仲哀天皇陵と治定していますが、仲哀天皇より100年近く後の古墳です。
Re: 倭の五王 - p君
2025/03/01 (Sat) 09:25:35
7世紀の朝廷にとって、たかだか200年前の倭の五王が誰なのか分からなかったなど、ちょっと考えられないので、
倭の五王が河内王朝の各天皇と合わないのなら、それは7世紀の朝廷が意図的にわざと合わないようにしたのであって、
「オオキミ」とは別の「天皇」なる新称号を仁徳の末裔に与えることで、真の倭の五王をごまかしたのでしょう。
特に倭王武の上表分の最後の「忠節を勧める」は、未来永劫隠したいと思わせる痛恨の一節であったであろうこと、
容易に想像できます。
上宮記(じょうぐうき、かみつみやのふみ)に仁徳の末裔ではない4人のオオキミがいること、
また日本書紀にも仁徳の末裔ではない一人のオオキミがいること、計5人のオオキミがいる。
これは見過ごせないわけです。日本書紀に出てくる倭彦王(やまとひこのおおきみ)が仲哀天皇5世孫というのなら、それを信用して、継体の一世代上として考えてみました。
応神
┣━━━━━┓
仁徳(賛)二派皇子(珍)
┃
おおほどのおおきみ
┃
おいのおおきみ(済)
┃
やまとひこのおおきみ(興)━ひこうしのおおきみ(武)
┃
オオドオオキミ(継体)
継体を武とせず、継体の父君の彦主人王(ひこうしのおおきみ)を武とすれば、
隅田八幡神社人物画像鏡の銘文
「癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じ・・・」
この癸未=503年説を採用すれば、男弟王は若かりし継体だとして、斯麻が502年即位の百済の武寧王であり、
日十大王とは、普通に読んで「日(ヒ)十(ト」。つまりヒト、継体の父君の彦主「人」王ではないでしょうか。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/26 (Wed) 22:44:26
雄略天皇は稲荷山鉄剣銘文からも実在だし、大王であったのでしょう。
しかしもう一つ、大王(オオキミ)を輩出する一派が、琵琶湖淀川水系にあった、という話です。
そして仁徳の末裔は雄略までは大王であったとしても、その後の天皇が極めて影が薄く、墓も特定されません。
琵琶湖淀川水系の王こそ応神の直系本流であり、河内王朝は傍系ではなかったのか、と考えてしまいます。
大阪高槻市の阿武山古墳は、ほぼ藤原鎌足の墓とみて間違いなさそうです。
では鎌足はなぜここに墓を造ったのか。
琵琶湖淀川水系こそ本流の王系だと知っていたからではないでしょうか。
そして、今城塚などを見下ろす位置に鎌足の阿武山古墳はあります。
古市百舌鳥古墳群を見下ろす位置、大阪府河南町に巨大双円墳があり、おそらく蘇我蝦夷・入鹿の双墓(ナラビノハカ)であろうこと、
この時代の天皇とは何なのか。考えさせられる話だと思います。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/23 (Sun) 20:43:04
ですから、「上宮記」にある継体天皇の系譜にオオキミが4人もいること、これは看過できないと思いますので、淀川水系近江王朝というべき王統が、河内王朝と併行して存在したという仮説を立ててます。
倭王武の478年の上表分も、河内王朝で言えば雄略の年代になろうかと思いますが、雄略が亡くなる1年前に上表分を送ったと考えるよりも、普通は、即位した挨拶代わりに送るものと考えたら、継体が即位と同時に送ったのではないかと考えます。
継体の年齢的に考えても、決して突飛な話ではないと考えます。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/23 (Sun) 20:09:15
>そして雄略の墓自体が高鷲という今も羽曳野に残る地名であり、<
継体の即位年を五世紀後半まで上げるような見解ならば、陵墓地伝承も確定できませんよ。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/23 (Sun) 18:52:46
>雄略治世が501年まであっても矛盾しないわけです。
失礼ながらとんでもないです。
雄略は実在であり、その根拠は眉輪王の変が極楽寺ヒビキ遺跡として発見されている事、そして雄略の墓自体が高鷲という今も羽曳野に残る地名であり、そこには出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半とされる島泉丸山古墳しか存在しない事、などから雄略治世が6世紀初頭まで下ることはないと思われます。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/23 (Sun) 13:46:21
>雄略は502年の梁の武帝に認められた倭王武ではないという事で何も矛盾していません。
継体でしょう。<
ご存じでしょうが、502年は進号のみで朝貢はなかったという議論があります。
そもそも479年の次の定点となるのが、武寧王即位なのですから、紀年を信じられないのなら、別に雄略治世が501年まであっても矛盾しないわけです。
継体治世を武寧王即位と東城王即位の定点を無視して、478年までさかのぼらせるなら、そういう仮定もありうるわけです。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/22 (Sat) 22:24:55
雄略は502年の梁の武帝に認められた倭王武ではないという事で何も矛盾していません。
継体でしょう。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/22 (Sat) 20:58:17
>そうすると478年の倭王武の上表分は雄略の時代になりますが、
「502年の4月の梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する」
には全く合わないので、雄略は倭王武ではないということになります。<
矛盾してませんか?
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/21 (Fri) 17:29:02
>雄略紀に東城王即位の記事が有って、武烈紀に武寧王即位の記事があるのに、それを無視して継体の即位年を478年までさかのぼらせることができるなら、<
雄略ですが、武寧王陵墓誌から逆算し456年、あるいは457年の即位、稲荷山鉄剣の「辛亥年」の471年を経て、東城王即位の479年までが在位でいいのではないのでしょうか。
そうすると478年の倭王武の上表分は雄略の時代になりますが、
「502年の4月の梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する」
には全く合わないので、雄略は倭王武ではないということになります。
>継体即位何年で編年されている記事は無視することになりますから、雄略の即位年だって動かせますね。
ですから継体は、河内王朝と併存両立していた淀川水系【近江王朝の五人のオオキミ】の最後の王、
それが倭王武であり、現天皇家はもちろん、記紀編纂時の7世紀の朝廷にとっても、
「天皇の直系の祖」であったわけで、
その人物が中国にヘリ下り自ら臣下になりたがる情けない上表分を送った事、
これは後世に残せない屈辱的史実でありますから、
継体の即位年を河内王朝最後の武烈の死後に設定し、
しぶしぶ王位に就いた説話でごまかしたのではないかというのが、
粗いですが、今のところの私の説です。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/21 (Fri) 15:35:08
>「502年4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する」の記事を意図的に避けた感があります。<
雄略紀に東城王即位の記事が有って、武烈紀に武寧王即位の記事があるのに、それを無視して継体の即位年を478年までさかのぼらせることができるなら、継体
即位何年で編年されている記事は無視することになりますから、雄略の即位年だって動かせますね。
嶋君の出来事を雄略時代としても、462年の使者が461年の出発なら、その使者は先代の使者なわけですよね。
それなら雄略五年以前の記事は誤って雄略時代に編年されたとして、462年の使者は雄略の先代として、それ以降の使者は雄略のものとすることも可能ですよね。
東城王即位の次の定点は、武寧王即位の502年な訳ですから、別に雄略紀を502年までもっていってもいいことになります。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/21 (Fri) 11:51:45
白石南花さん
>462年朝貢使はその前年出発と思われますから、雄略が462年即位で問題ないのではなりませんか。
wikiで申し訳ないですが、
■日本書紀における武寧王の誕生
雄略期の即位5年、百済から昆支王が倭国に派遣された回にて筑紫の各羅嶋(かからのしま)にて武寧王が生まれたことが記されている。父親については日本書紀の雄略紀では蓋鹵王の子とされる。一方、武烈紀では昆支王とするものの最終的にはわからないと記されている。
■武寧王陵墓誌
宋山里古墳群から出土した武寧王陵墓誌よれば武寧王の名前と生年が判明した。
武寧王の名前は斯麻王。
生年は462年。
この年は雄略天皇6年、蓋鹵王8年にあたるとされる。
よって武寧王の生没年は462年~523年。
在位は502年~523年。
没年時の年齢は62歳にあたる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雄略が462年即位で問題ないとはどういうことでしょうか。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/21 (Fri) 11:41:51
継体天皇は507年即位となっています。
「502年4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する」の記事を意図的に避けた感があります。
507年即位なら、その前年に崩御した武烈天皇が倭王武ということになります。
武烈は仁賢天皇2年というよくわからない年の即位となりますが、
日本書紀では上表分の478年は翌年に亡くなる雄略の治世としてますから、
上表分は雄略が送ったものと思わせてます。
合わないですね。
合わないから九州王朝だなどとする短絡的な話ではなく、
せっかく近江王朝にオオキミが4人もいるわけですから、
5世紀の天皇系譜を横にスライドさせてみるのが良いと思われます。
さらに気になるのが、継体天皇の前に推挙されかけた、
丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)です、
迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまったという人物です。
この人物の墳墓として有力なのが千歳車塚古墳(京都府亀岡市千歳町)で、
場所は今城塚古墳のある高槻に近いです。
この人物は継体天皇と同族ではなかったでしょうか。
気になるのが倭王武の兄、興です。
記録にないだけで、普通に考えて継体には兄弟はいたでしょう。
千歳車塚古墳は今城塚古墳と同時代の6世紀前半です。
興とはこの人物、倭彦王ではないでしょうか。
「興が死んで弟の武が王に立った」という話と、「倭彦王が逃げて継体が立った」という話がオーバ-ラップしてきます。
そしてこの人物もオオキミです。
つまり近江王朝には5人のオオキミがいたことになります。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/21 (Fri) 11:10:58
>雄略も、百済の武寧王が、その墓誌から462年生まれと決定していますので、日本書紀雄略天皇紀5年の嶋君の話と1年違いですが整合し、<
462年朝貢使はその前年出発と思われますから、雄略が462年即位で問題ないのではなりませんか。
479年の東城王即位に関連する記事が、雄略紀にありますが、そっちは見ないことになっていますか?
武寧王即位の話しが、武烈紀にあるのも見ないことにしますか?
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/20 (Thu) 20:48:32
例えば応神天皇も、もちろん270年元年ではなく、考古学との整合性からも390年元年であり、
以下は倉西裕子さんの説ですが、阿花王擁立が日本書紀応神3年ですから、それは392年で三国史記と一致しますのでこれは確かであろうと思います。
雄略も、百済の武寧王が、その墓誌から462年生まれと決定していますので、日本書紀雄略天皇紀5年の嶋君の話と1年違いですが整合し、
だからその時期は倭の五王では興の時代であるから、雄略は倭王武ではないという事です。
継体は今城塚古墳で間違いはないでしょうから、6世紀前半、日本書紀で崩御年531年、古事記で崩御年527年、
まぁどっちでも考古学と整合するわけでどっちでもいいわけですが、倭王武が雄略ではない以上、もしかして継体ではないかと逆算したら、
478年の上表文の時代を20歳と仮定して、日本書紀の崩御年では73歳、古事記では69歳で十分説明できますし、
大事なことを忘れてましたが、「502年の4月の梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する」ですから、雄略が武ならこれは説明できないでしょうし、継体が武ならそのまま時代を説明できますね。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/20 (Thu) 19:17:39
>雄略即位年が武寧王陵の墓誌からも457年、あるいは456年で確定した<
雄略では『日本書紀』の編年を信用し
>継体天皇(をほどのおおきみ)(武478年)<
継体では信用しないのはなぜですか?
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/20 (Thu) 19:09:25
白石南花さん
リンク先、参考になりました、ありがとうございます。
宿禰は太郎次郎の郎のような意味合いという事ですね。
ただ正直、そうではないかという仮定ですからね、私はしつこい男ですから納得はできません。
私の言いたいことはお分かりかと思いますが、
応神、仁徳はもちろん大王、反正も大王である、それはあの圧倒的な大墳墓でも分かる、
しかしその後、近江王朝に移ったのではないかと考えます。
允恭 (宿禰)< 意富富杼王(おおほどのおおきみ)
|
乎非王(おいのおおきみ)(済443, 451年)
|
彦主人王(ひこうしのおおきみ)(興462年)━━継体天皇(をほどのおおきみ)(武478年)
この「おおきみ」4連発はただ事ではないです。
もちろん、これは粗いにもほどがある試案なのですが、
雄略即位年が武寧王陵の墓誌からも457年、あるいは456年で確定した以上、
雄略は倭王武ではありえないので、この倭の五王は、記紀に書かれた5世紀の通常の大王譜ではないと考えます。
つまり卑弥呼の話と同じく、7世紀後半の朝廷は、倭王武が誰なのか分かっていて、意図的に隠したというのが私の説です。
卑弥呼の場合は時代を大きく動かして隠したけれど、倭王武は系譜を「ずらした」というものです。
へりくだり、自ら中華皇帝の臣下になりたがる倭王武の上表分は、7世紀の朝廷にとっては屈辱極まりないものであった、
特に、それが継体という「天皇」の直接の祖である。
これはごまかすしかなかったのではないかと考えます。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/20 (Thu) 11:59:28
允恭と忍坂大中姫との出会いは近江の朝妻であったと考えられませんか。
体の弱い允恭が奈良の御所の朝妻で療養していたとして、
奈良の御所から近江の忍坂大中姫の元まで通うとは考えられないことから、
先に紹介した、近江の朝妻の稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)宅に療養していた時に二人は結ばれたと考える方が自然だと思います。<
妃ならともかく皇后になるのはほぼ政略でしょうから、そもそもどこで出会ったとか考えなくてよいと思います。
男浅津間若子宿禰の宿祢が姓となったのは天武朝で、それ以前は太郎次郎の郎みたいな、単なる名前のパタンだったと見ています。
https://shiroi.shakunage.net/zatsuron/owake.htm
男浅津間の男はヲで、小泊瀬稚鷦鷯の小とおなじ。そうぞうですが、大浅津間のような名前が既存であったのではないかと思います。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/20 (Thu) 09:12:49
白石南花さん
>坂田郡志では、大和の朝妻造の移住によるものとなっています。
地名としては万葉集に出てくる、御所市の朝妻が最古です。
そもそも允恭は葛城曽都毘古の娘である石之日売の子ですから、もしも母の伝承が正しいなら、葛城と縁が深いことになります。<
允恭と忍坂大中姫との出会いは近江の朝妻であったと考えられませんか。
体の弱い允恭が奈良の御所の朝妻で療養していたとして、
奈良の御所から近江の忍坂大中姫の元まで通うとは考えられないことから、
先に紹介した、近江の朝妻の稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)宅に療養していた時に二人は結ばれたと考える方が自然だと思います。
多分、近江の朝妻という地名も、母親の磐之媛命が体の強くないわが子のために多数の従者と、
葛城襲津彦が連れ帰ってきた捕虜も一緒に付けて、御所の朝妻から移住させ、それが朝妻という地名になったのではないでしょうか。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/19 (Wed) 20:17:26
>それより、允恭の妻(あえて妻と書きます。允恭が本当に大王であったか疑問でありますので)の忍坂大中姫が、<
皇后の話を天皇に当てはめても意味ないでしょう。
それより朝妻と言う地名は各地にあります。
坂田郡志では、大和の朝妻造の移住によるものとなっています。
地名としては万葉集に出てくる、御所市の朝妻が最古です。
そもそも允恭は葛城曽都毘古の娘である石之日売の子ですから、もしも母の伝承が正しいなら、葛城と縁が深いことになります。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/19 (Wed) 15:07:54
あと隅田八幡神社人物画像鏡の
「癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。」
癸未=443年説を採用したら、意柴沙加(おしさか)は允恭の妻の忍坂大中姫の忍坂であるとしても、日十大王や男弟王も、意富富杼王(おおほどのおおきみ)などと関わってきそうな気もしています。
なにしろ允恭は宿禰であり、意富富杼王から継体天皇まで「おおきみ」ですから。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/19 (Wed) 15:05:05
白石南花さん
レスありがとうございます。
御所市の朝妻、そういえば何度も通ってるのに忘れていました。
が、御所の朝妻と允恭に何か縁があるかといえば、そのようなものは見つけられなかったです。
もし見つけられたらご教示お願いします。
それより、允恭の妻(あえて妻と書きます。允恭が本当に大王であったか疑問でありますので)の忍坂大中姫が、
「『日本書紀』の允恭二年紀によれば、はじめ母と共に家に在ったというから、息長地方にいたと考えられる。このことは、允恭紀七年条によれば、妹の弟姫が「随母以在於近江坂田」とあるので、一層明らかである(息長は後の坂田郡内にあった)]。wiki」
ですからこちらの朝妻の可能性のほうが高いかと思います。
また、允恭は、
・雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
・雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさつまわくごのすくねのみこ) - 『日本書紀』
・男浅津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと) - 『古事記』
三つとも朝津間の前に「男」「雄」が入ってますが、これは「大小」の「小」、「父子」の「子」、「兄弟」の「弟」を意味するようで、「朝妻」に父や兄にあたる人物がいた可能性があるようなので、どうもこの允恭はほぼ婿養子のような存在であり、
父は稚野毛二派皇子で、兄は意富富杼王(おおほどのおおきみ)であった可能性もあるのではないかと思います。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/02/19 (Wed) 10:11:35
>[その療養地は近江坂田にある稚淳毛二岐王の家で「朝妻津(米原町)」にあり、<
その朝妻には、やまとから移住してきたという伝承があり、大和の葛城に、万葉集にもある朝妻があります。
允恭の朝妻はこちらのほうではないかと思います。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/18 (Tue) 14:01:17
允恭天皇が稚淳毛二岐王の家で療養していたという話、
雄朝津間(アサツマ)稚子宿禰という名前は、かなり長く滞在し、もはや息子のように扱われていたのかもしれません。
稚野毛二派皇子
|
允恭(讃421, 425年)━━意富富杼王(珍 438年 )
|
乎非王(済443, 451年)
|
彦主人王(興462年)━━継体天皇(武478年)
こういうことも考えられなくはないですが、これはキツいでしょうか。
ところで雄朝津間(アサツマ)稚子宿禰とはどういうことでしょう。
允恭天皇
・雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
・雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさつまわくごのすくねのみこ) - 『日本書紀』
・男浅津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと) - 『古事記』
天皇という称号は7世紀に創作されたから差し引くとして、允恭は、武人や行政官を表す称号「宿禰」ですね。
これはどういう事でしょうか。
一方、意富富杼王以後は「おおきみ」です。
この時期、もはや仁徳の末裔は傍流となり、本流の大王は継体天皇に至る稚野毛二派皇子の末裔であったのではないでしょうか。
それこそが倭の五王の正体ではないでしょうか。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/17 (Mon) 20:51:15
倭王武が雄略であるという説が定説のようになっていますが、
雄略即位は456年あるいは457年。
その時代は五王でいえば興の時代だから合わないですね。
興は済の子・武の兄ですから、日本書紀の系図の彦主人王を継体の兄として動かしてみました。
崇神以前、神武までも父子継承ではないと思われるし、この彦主人王と継体の関係も父子ではなく兄弟と仮定してみました。
応神
┣━━━━━━━━━━━━┓
仁徳(讃421, 425年) 稚野毛二派皇子(珍?438年 )
|
意富富杼王(珍?438年 )
|
乎非王(済443, 451年)
|
彦主人王(興462年)━━継体天皇(武478年)
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/17 (Mon) 20:34:12
日本書紀の説話(武烈のあとにしぶしぶ即位)を無視して、478年の上表分を送った年を継体天皇20歳くらいと仮定し、531年崩御として、寿命は73歳。当時としてはかなりの長寿ですが、十分あり得ると思います。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/17 (Mon) 14:57:59
facebookでお友達になってくれている方の投稿です。
済 アサツマ
允恭天皇(在位442~461)は病弱で歩くことも不自由で、少年期から親元を離れ療養に努められた。そこで献身的な看護を受ける女性(忍坂大中姫)と出会い、妻(ツマ)にした。
その療養地は近江坂田にある稚淳毛二岐王の家で「朝妻津(米原町)」にあり、允恭天皇の倭名の雄朝津間(アサツマ)稚子宿禰は、この朝妻の津の地名から採られた。
以上のキーワードである妻(ツマ)は、そろって並ぶという原義があり、その同族で音(tsei)も近い「済」が王名として選ばれた。
(東アジアの古代文化111号,112号 「倭の五王の命名法について」 入谷宰平参考
------------------------------
[その療養地は近江坂田にある稚淳毛二岐王の家で「朝妻津(米原町)」にあり、允恭天皇の倭名の雄朝津間(アサツマ)稚子宿禰は、この朝妻の津の地名から採られた]
稚淳毛二岐王と結びついてきますね。
Re: 倭の五王 - p君
2025/02/17 (Mon) 14:05:39
思い付きなのですが、倭王武について、ひょっとして継体天皇ではないかという気がしてきました。
応神
┣━━━━━━━━━━━━━━┓
仁徳(賛421, 425年) 稚野毛二派皇子(珍?438年 )
|
意富富杼王(珍?438年 )
|
乎非王(済443, 451年)
|
彦主人王(興462年)
|
継体天皇(武478年)
もちろん粗い系図ですが、これからゆっくりといろいろ考えていきます。
王と書かれた「おおきみ」が3人、継体天皇を入れれば4人もいます。
これは尋常なことではないと考えます。
Re: 倭の五王 - p君
2025/01/05 (Sun) 07:02:11
>途方もない信じられない年齢を示して、卑弥呼が途方もない昔だと信じさせるのですか?
信じさせるというか、7世紀の朝廷が、だれなのか分かっていた真の卑弥呼を、途方もない昔に追いやってごまかしたということです。
>散逸して存在しない書物に何が書いて有ったかどうしてわかるのですか?
記紀はその前に存在した帝紀や旧辞をベースにしているといわれますね。
では記紀と、帝紀や旧辞とは何が一番違うか、それは時系列でしょう。
また帝紀や旧辞が散逸して存在しないということ自体がおかしいです、今でいえば国立国会図書館にあるようなものですから。
つまり焚書したということではないでしょうか。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2025/01/03 (Fri) 11:35:29
>我々は卑弥呼はだれなのか分かりませんね。
同時に我々は、古代天皇の途方もない年齢もおかしいと思いますね。<
途方もない信じられない年齢を示して、卑弥呼が途方もない昔だと信じさせるのですか?
>散逸して存在しない「帝紀」「旧辞」、蘇我馬子の「天皇記」「国記」などなど、普通の年齢・干支で書かれてたのでしょう。ならば神功皇后の本当の時代も知っていたでしょう。<
散逸して存在しない書物に何が書いて有ったかどうしてわかるのですか?
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/28 (Sat) 18:53:19
白石南花さん
>>卑弥呼がだれかわからない人=我々のような現代人は、神功皇后100歳をはじめ、古代天皇の途方もない年齢を、これはどういうことなのだろうと普通は思います。<
>そうすると卑弥呼がだれかわからない人に、これはどういうことなのだろうかと思ような信じられない話をして、卑弥呼は遠い昔の人だと信じさせるのですか。<
我々は卑弥呼はだれなのか分かりませんね。
同時に我々は、古代天皇の途方もない年齢もおかしいと思いますね。
その話です。
>>考古学的にも息子の応神が5世紀前後である時点で、母君の神功皇后は4世紀後半の人物であるのだから、
日本書紀ではその神功皇后を、3世紀初頭に設定している時点で、真の卑弥呼は、記紀では「遠い昔に設定されている」と思うでしょう。<
>誰がそう思うのですか。
七世紀の人ですか。
その人は考古学を知っていたのですか。<
散逸して存在しない「帝紀」「旧辞」、蘇我馬子の「天皇記」「国記」などなど、普通の年齢・干支で書かれてたのでしょう。ならば神功皇后の本当の時代も知っていたでしょう。
>私は文章を読み解くには、どのような人物が、どのような情報をもとに、どのような目的で、どのような想定の読者に書いたのかを考えることが重要だと思っています。
7世紀の朝廷が
帥升、卑弥呼、千人が死ぬ騒乱の男王、トヨを知っていながら、みごとにスルーした歴史を新構築し、遣唐使がわざわざそれを述べに行ってますね。これは中国側の史書に載せてもらい、新構築した日本の歴史を完結させるためだと思っています。
「初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。」
これですね。
キーになる4人を除いて日本の歴史を構築していますね。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2024/12/28 (Sat) 15:54:47
>卑弥呼がだれかわからない人=我々のような現代人は、神功皇后100歳をはじめ、古代天皇の途方もない年齢を、これはどういうことなのだろうと普通は思います。<
そうすると卑弥呼がだれかわからない人に、これはどういうことなのだろうかと思ような信じられない話をして、卑弥呼は遠い昔の人だと信じさせるのですか。
>考古学的にも息子の応神が5世紀前後である時点で、母君の神功皇后は4世紀後半の人物であるのだから、
日本書紀ではその神功皇后を、3世紀初頭に設定している時点で、真の卑弥呼は、記紀では「遠い昔に設定されている」と思うでしょう。<
誰がそう思うのですか。
七世紀の人ですか。
その人は考古学を知っていたのですか。
私は文章を読み解くには、どのような人物が、どのような情報をもとに、どのような目的で、どのような想定の読者に書いたのかを考えることが重要だと思っています。
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/27 (Fri) 18:31:01
白石南花さん
>4世紀後半の神功皇后に卑弥呼朝貢に該当する註を付けたら、卑弥呼がだれかわからない人がそれを読んだ人は、ふつうは卑弥呼=神功皇后と言ってるんだなと思ってしまいますが、
卑弥呼がだれかわからない人=我々のような現代人は、神功皇后100歳をはじめ、古代天皇の途方もない年齢を、これはどういうことなのだろうと普通は思います。
>誰が途方もない遠い時代の人だと思うのですか。
考古学的にも息子の応神が5世紀前後である時点で、母君の神功皇后は4世紀後半の人物であるのだから、
日本書紀ではその神功皇后を、3世紀初頭に設定している時点で、真の卑弥呼は、記紀では「遠い昔に設定されている」と思うでしょう。
実際、アマテラス説、モモソヒメ説もそうですが、神功皇后より後の時代の女性を卑弥呼とする説は皆無ですね。
>逆に読む人が全部卑弥呼は神功でないと分かっていたのなら、なんでそんな細工をする必要があるのですか。
そこの話をずっとしてきたわけで、記紀の編纂はかつて中国に朝貢していた屈辱的事実、
その中でも、107年に自ら渡海し謁見要請をした倭国王帥升、
そして5世紀に自ら臣下になることを願い出る上表文を書いた倭王武、
この二人は特に「隠すべき対象」であったと思います。
ですから帥升を隠すためには、帥升から100年後の卑弥呼を隠したし、
倭王武を隠すためには継体天皇以前の記紀の崩御年干支をずらす、
このような事が行われたのではないでしょうか。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2024/12/27 (Fri) 16:08:16
>4世紀後半の神功皇后を、干支2運早めて、強引に卑弥呼の時代に持ってきたので、
7世紀の朝廷が知っていた真の卑弥呼は、
途方もない遠い時代に設定されたということです。<
4世紀後半の神功皇后に卑弥呼朝貢に該当する註を付けたら、卑弥呼がだれかわからない人がそれを読んだ人は、ふつうは卑弥呼=神功皇后と言ってるんだなと思ってしまいますが、誰が途方もない遠い時代の人だと思うのですか。
逆に読む人が全部卑弥呼は神功でないと分かっていたのなら、なんでそんな細工をする必要があるのですか。
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/27 (Fri) 06:53:07
白石南花さん
>神功皇后が卑弥呼になってしまったら、卑弥呼を遠い昔に追いやったことにならないのでは?
どうしてでしょうか?
4世紀後半の神功皇后を、干支2運早めて、強引に卑弥呼の時代に持ってきたので、
7世紀の朝廷が知っていた真の卑弥呼は、
途方もない遠い時代に設定されたということです。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2024/12/26 (Thu) 20:34:12
>真の卑弥呼を遠い昔に追いやり、なおかつスルーして、<
神功皇后が卑弥呼になってしまったら、卑弥呼を遠い昔に追いやったことにならないのでは?
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/26 (Thu) 19:49:02
白石南花さん
>ならなぜ日本書記では、三国志を註につけてにおわせているのでしょうか。
神功皇后紀の卑弥呼の記事ですね。
いや、だからこそ、7世紀の朝廷が卑弥呼を分かっていた証拠だと思います。
中国側が読む読まないは置いといても、神功皇后を卑弥呼とトヨの時代に置き、
真の卑弥呼を遠い昔に追いやり、なおかつスルーして、
中国側に説明できる新しい歴史を再構築したのでしょう。
また蘇我馬子の「天皇記」「国記」もさることながら、「帝紀」「旧辞」までもことごとく散逸して不明になっていること、これは乙巳の変(いっしのへん)において焚書が行われたとみています。
記紀での古代天皇の途方もない年齢は、魏志倭人伝の「其俗不知正歳四節、但記春耕秋收為年紀」にかこつけて、つまりこのように書かれてるのだから古代天皇が100歳超えてもいいだろうという思惑のもとに、
真の卑弥呼を隠したのだろうと思います。
また、真の卑弥呼を遠い昔に設定し、隠したとして、その時代を「女王国」とはしませんね。
そんな事をしたら隠した意味がありません。
むしろ女王国とは正反対の描写をしたであろうと考えます。
それが神武東征紀という武勇伝であり、先立つ女王の婿に新称号「天皇」を創作することで、
魏志倭人伝に書かれた女王を覆い隠したのでしょう。
神武東征紀は、私には「九州からの壮大な婿入り」としか読めません。
婿入り先の大和にその女王がいたからでしょう。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2024/12/26 (Thu) 14:46:09
>記紀編纂時の7世紀後半の朝廷は、卑弥呼が誰なのか分かっていたかどうか、という問題はどうでしょう。<
不明だったと思います。
>7世紀の朝廷が分かっていた真の卑弥呼を途方もない昔に追いやったというものです。<
ならなぜ日本書記では、三国志を註につけてにおわせているのでしょうか。
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/25 (Wed) 20:29:19
石見介さん、白石南花さん、レスありがとうございます。
私には博識のお二人のような難しいことは分からないのですが、
結論として、
記紀編纂時の7世紀後半の朝廷は、卑弥呼が誰なのか分かっていたかどうか、という問題はどうでしょう。
私は何度も言ってるように「分かっていた」と思います。
根拠は、古代天皇の不自然な長寿、
これは倍歴で説明ができないし、
7世紀の朝廷が分かっていた真の卑弥呼を途方もない昔に追いやったというものです。
Re: 倭の五王 - 白石南花
2024/12/23 (Mon) 17:40:41
>「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読む可能性が高いということですので、
なんだかすでに手慣れた感じがして、私にはこの時期に「誕生した」とはとても思えません。<
万葉仮名的用法はすでに稲荷山鉄剣などに見られるものですが、固有名詞の表現として始まったものです。
そのころにはまだ百済系渡来人がかかわっていた可能性が強いことが、仮名遣いから見てとれます。
後期難波朝のあたりから、本格的な文書行政が開始されたようで、下級官吏までが手習いを始めた形跡があるようです。
しかも都だけではなく四国でもその痕跡があります。
歌謡の音写は、固有名詞の音写の線上にあるので、はやくても不審はありません。
問題は散文で、奈良朝の文書はまだ書き言葉が成立していないことを示します。
漢文の発想で書かれ、漢文を日本語に直訳したような不自然な文章になっています。
ちなみにこの歌は、あまり高位の人間が書いたものでは無いようで、甲乙の区別がついていません。
おそらく上代特殊仮名遣いは、下級官吏の間で先に崩れていったのでしょう。
言葉の乱れが下級階層から始まることは、ありそうな話です。
例えば現代語でも接続詞の「わ」は、発音は同じでも「は」を使います。
高学歴者は間違いませんが、巷では混同するケースがあります。
「お」と「を」も同じくです。
Re: 倭の五王 - 石見介
2024/12/23 (Mon) 14:38:32
p君さん
情報、有難うございます。
ただ、「文」ではなく、やはり、「万葉歌」の音写であると確認できましたので、早急な自説の訂正は、現時点では、不要のように、感じました。
やはり、万葉仮名が、日本語文章表現の為に、耐えられるようになる段階の、一過程の時期が、従来の定説~通説より、30年程、早まったという認識で、良いように、思いました。
実は、私は、日琉語族の言語の、漢語音写自体は、半島の、日琉語族話者で、漢語との、バイリンガルの可能性のある集団によって、もっと早い時期から、行われていた可能性をも、想定していました。
河野六郎、伊藤英人氏らの、「穢倭同系説」等の、半島倭種の可能性や、半島中南部倭種の存在を、考慮しての、仮説の一つです。
日本語の文章を、漢字という、全く文法・音韻体系の異なる言語の、文字を使用して、形成するのは、既に正書法の定まった2言語間の、「翻訳」とは異なり、試行錯誤と長時間の人、コストを要する、大事業です。
そのような作業のモデルがあれば、時間もコストも節約できますが、当時、そのような先例は無く、漢文で、地名、人名、官職名等の語彙を、「音写」するのが、中国周辺の諸民族の文化圏の実態でした。
日琉語族の言語の、地名、人名、官職名の様な語彙の、漢語での「音写」という、第一段階と、次の、漢語のような「孤立語」(姉妹語を持たないと言う意味の「孤立言語」の意味ではなく、格変化や前置詞・後置詞の無い言語という意味)にはない、膠着語である日琉語族の「助詞」、特に連体助詞のような語彙の「音写と表記」法の確立は、半島内で、確立していたと、推測しています。
第3段階は、動詞などの活用や助動詞の表記法の成立で、おそらく、列島内で、国家の支配層の意思が関与して、実行されるべき、段階ではないかと、推測しています。
この第3段階の後が、「万葉歌」のような、定型的な歌謡の表記が、可能となる段階でしょう。
万葉仮名で、万葉歌が表記可能になれば、日本語文章は、直ぐ書けるように思われるかもしれませんが、その前に、漢語からの多くの政治的文化的借用語の表記と、倭人語の語義の弁別、意味のすり合わせ、翻訳、と言った難関が、有ります。
このハードルを越えて、やっと、万葉仮名を交えた変態漢文の、文書が可能となります。
その為には、従来の「借音」の万葉仮名のみならず、借訓の万葉仮名、という奇妙な存在が、必要です。それを利用して、何とか、7世紀末に、『古事記』が、成立し得たのでしょう。
現時点では、私は、日本語の文章が未だ、「書けない」段階での、記紀の成立を、上記のように考えています。
万葉仮名の簡略化で、ひらかな、カタカナの成立する平安時代まで、日本語の文章表記法が確立しなかったのは、日琉語族のような言語では、語彙の形成が複合語のような形で、どんどん、音節数が長くなる、という特徴があり、それを、漢語を大量に借用する事により、防いだ、という要素も、大きかったと考えています。
日本語はその代わりに、漢語の「同音異義語」を、大量に抱え込むことになりましたが、常に、文章語を意識することで、上代日本語以来の大和言葉をも、守ったのです。
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/22 (Sun) 20:35:14
石見介さん
>今回の難波宮址出土万葉仮名文木簡ですが、検索しても、木簡の「時代」が、つかめません。
https://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200610200258.html
「木簡は一緒に出土した土器や地層の状況から、大化の改新後に飛鳥京から遷都した前期難波宮の完成(652年)直前のものとみられる。」
予想通り、土器の編年という事ですから、
本当に「前期難波宮の完成(652年)直前のもの」かどうかは、
これは考古学者の聖域のようなものですから、部外者には立ち入れないと思いますし、
やはり「652年直前のもの」なのでしょう。
「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読む可能性が高いということですので、
なんだかすでに手慣れた感じがして、私にはこの時期に「誕生した」とはとても思えません。
考えてみれば、5世紀後半と言われる東漢や西文の時代から、
日本において漢字文化は熟成されてきたでしょうから、
木片が見つかっていないだけで、6世紀頃には仮名文は完成していたのではないでしょうか。
ならば漢文で書かれた記紀とは何なのか、という大きな問題に直面します。
中国側に対して、あなた方の史書にでてくる卑弥呼とは神功皇后であると、説明するために漢文を使ったとしか思えません。
つまり7世紀の朝廷は、卑弥呼が誰なのか分っていたという事になると思いますが、いかがでしょうか。
Re: 倭の五王 - 石見介
2024/12/21 (Sat) 20:39:35
p君さん
情報、有難うございます。
私は、自説が正しいか否か、常に疑っているので、新しい解釈・仮説や、データが提示されれば、従来の解釈や仮説、データなどとの比較で、自説を変えることには躊躇しません。
ただし、新説や新資料、新データなどは、当初、真偽確認が困難なことがあり、その見極めの為、時間が要する事もあります。
以前の、天皇家のY-DNAハプロタイプについても、受容するのに、1年ほどかかりました。
今回の難波宮址出土万葉仮名文木簡ですが、検索しても、木簡の「時代」が、つかめません。
ご承知の通り、記紀は、天武天皇の時代の『古事記』撰述の詔勅??と、藤原不比等の影響が考えられる『日本書紀』で、いずれにしろ、7世紀末までの成立が、想定されます。
難波宮は、河内王朝の時代は別として、前期は孝徳天皇や天武天皇の時期、後期は、8世紀の前葉の聖武天皇の時期です。
聖武天皇の時代であれば、『萬葉集』は成立しており、万葉仮名木簡は、それ以前から、出土していますが、いわば、日本語文章成立への移行期が、万葉歌表記木簡の時代であり、未だ、日本語の文章表現の確立には、至っていない時期だと考えられます。
聖武天皇の後期難波宮は,AD724年開始と思いますが、当然記紀は成立しているでしょう。
御紹介の難波宮跡出土万葉仮名文木簡の時代が、8世紀なのか、7世紀中葉・後半のものなのか、私の検索の範囲内では、不明です。
宜しく、御教示お願いします。
なお、私は、難波宮跡出土木簡については、万葉歌木簡と考えていたので、「文」への移行前で、且つ、平安遷都以前なので、日本語文の確立以前の時期であると、推定していました。
今回「文」が、入っているので、私の思い違いの可能性に気付き、時期の確認の必要を感じ、御教示お願いする次第です。
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/21 (Sat) 15:06:25
石見介さん
> 記紀編纂時の7世紀中葉には、未だ、日本語の表記法が完成しておらず、大和言葉の「単語」を、音写する段階であり、文章を書こうと思えば、漢文を、渡来系の読書人に、依頼せざるを得なかったのです。
万葉仮名から、カタカナ、ひらかなが出来て、漢字仮名混じりの日本語の文体が確立するのは、平安時代になります。日本や新羅は、「木を刻み、縄を綯って」「しるしと為す」状況でした。 <
失礼ながらその認識は少し古いのではないでしょうか。
2006年に、難波宮跡から7世紀中頃のものとみられる「万葉仮名文の木簡」が出土しています。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/207675
これは役人たちの間では万葉仮名文で意思疎通ができたという事であるし、
石見介さんが言うような大和言葉の「単語」を音写する段階ではなく、「文章を書いていた」という事になります。
それが7世紀中頃には「できていた」ということですから、実際にはそれ以前の6世紀には万葉仮名文は存在していたのでしょう。
ですから記紀編纂の7世紀後半には、万葉仮名文で記紀を書くこともできたのに、
それをせず、あえて漢文で書かれているという事は、
記紀は日本の国内向けの史書ではなく、対外的(=対中的)な意味があったという事ではないでしょうか。
スサノオの話にも関わりますが、その記紀で、強引に神功皇后を卑弥呼の時期に持って行き、
記と紀がともに、間延びさせてる天皇の年齢の「基点」とするかのようにキリの良い100歳としている事、
そして日本書紀の神功皇后紀に魏志倭人伝の卑弥呼の記事をコピー&ペーストしていることは、
対外的(=対中的)に、「あなた方の史書にある卑弥呼とは神功皇后なのですよ」とアピールしているわけで、
これは7世紀の朝廷が、真の卑弥呼が誰なのかを知っていたという証拠になると思われます。
もちろん、その100年前の帥升も誰なのかが分かっていたでしょう。
その分っていた帥升、卑弥呼、千人が死ぬの騒乱の男王、トヨをごまかすための記紀編纂だったわけです。
Re: 倭の五王 - 石見介
2024/12/21 (Sat) 00:29:15
p君さん
『日本書紀』について、根本的に、誤解されておられる様に思われます。
〉中国人などの外国人に読ませるというのではなく、「読むことを想定している」という意味です。<
記紀の編纂時は、「刊本」の時代では無く、「写本」の時代です。史書の閲覧、筆写は、管理され、外国人には、天皇と認定された大王の系譜と続柄等、日本側が知らせても良いと決めた事しか、記述していない様な、外国向けの特注本?の『王年代記』や『日本帝記』のような書名が、中国や半島の史書に、現れています。
〉日本国内向けの史書ならヤマト言葉で書けばいいのだし、漢文である必要はないと思います。<
記紀編纂時の7世紀中葉には、未だ、日本語の表記法が完成しておらず、大和言葉の「単語」を、音写する段階であり、文章を書こうと思えば、漢文を、渡来系の読書人に、依頼せざるを得なかったのです。
万葉仮名から、カタカナ、ひらかなが出来て、漢字仮名混じりの日本語の文体が確立するのは、平安時代になります。日本や新羅は、「木を刻み、縄を綯って」「しるしと為す」状況でした。
尚、スサノヲ云々についていえば、『隋書俀国伝』に記された,AD600年の倭王は、「天を兄、日を弟」とする、存在でぁり、そもそも、太陽神も、後の天照大神とされる「オホヒルメ」という女神ではなく、「ヒルコ」という「男神」でした。
記紀神話も、AD601年の辛酉年の「辛酉革命」によって、大幅に改変されたのであり、スサノヲのような風神が、日神や月神と兄弟になったのも、7世紀でしょう。
記憶頼りですが、確か、中国の史書に、AD57年とAD107年の遣使を、ともに、「倭奴国」と記述したものがあったと、思います。『梁書』『南斉書』『南史』の何れかの記事だと思います。
勿論、中国の史書も、誤謬が多いのは、安本美典氏が紹介した『明史日本伝』の例がありますし、自己都合で、勝手に、自国民を「倭人」や「倭寇」と書き変えている事例も、半島、大陸の事例で、証明されています。
思い込みを排して、可能な限り、客観的に、文献批判し、他分野の成果と突き合わせて、総合的に、判断するしか、無いと思われます。
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/19 (Thu) 21:41:42
石見介さん
>『日本書紀』が、漢文で書かれているので、中国人などの外国人に読ませるための史書だとかいう、人がいますが、同姓不婚、宗族制の中国人に見せれば、異母兄弟姉妹婚をも、許容する日本の当時の支配層の実態は、「禽獣の国」と、見做されます。
記紀は、あくまでも、日本の国内向けの史書です。<
中国人などの外国人に読ませるというのではなく、「読むことを想定している」という意味です。
日本国内向けの史書ならヤマト言葉で書けばいいのだし、漢文である必要はないと思います。
> 雄略天皇は、倭王武でしょうが、「帥升」は、北部九州の王でしょう。
雄略が武であるかないか、正直分かりませんが、帥升が北部九州の王であるなど全く根拠がありません。
7世紀の朝廷は卑弥呼がだれなのか分かっていたであろうし、それなら卑弥呼の100年前の帥升がだれなのかも分かっていたはずです。
石見介さんは「絶対」認められないと思いますが、スサノオは実在であり、帥升はスサノオです。
帥升がスサノオなら、卑弥呼がだれなのかも含めて、日本の古代史は一気に解けます。
Re: 倭の五王 - p君
2024/12/19 (Thu) 05:47:42
akaosaさん
> 正史とされ、平安時代にも講書が繰り返される『日本書紀』には、天皇家による謀略や殺人が赤裸々に綴られており、編纂者が筆を曲げる(史実をごまかす)とはどうも考えにくいです。むしろ、史料にないから書かなかった、ヤマトの天皇家と関係ないから除外した、と私は見ています。
はい、もちろんその通りだと思います。帝紀や旧辞に書かれてたことを、
極力そのままにして子孫に伝えようとしたことは疑いないと思われます。
しかしながら古事記でも日本書紀でも、そこに記述される古代天皇のとんでもない年齢は、
どうしても隠さなければならない最後の一線のようなもの、それがあり、
それを隠したとしか思えないし、
4世紀後半の神功皇后を干支2運120年遡らせてまで卑弥呼の時代に強引に持ってきている事は、
これは7世紀の朝廷が、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼がだれなのかを知っていた、
そしてその真の卑弥呼をとんでもない遠い昔に設定した、
その意図は、卑弥呼から100年前の帥升を知られる事、
わざわざ倭国王みずからが渡海し、後漢皇帝・安帝に謁見要請した、
その時には外交儀礼として楽浪で土下座をしたでしょうし、
またその謁見が認められなかった史実は、
白村江の敗戦の傷がいえない7世紀の朝廷には、耐えられない屈辱であり、
その帥升が誰なのかを知られることを未来永劫にわたって避けようとした、
そしてその帥升を「神代」なる時代に設定したとしか私には思えません。
倭の五王の関連記録は、413年にはじまり、502年まで一世紀近くにわたるものですね。
この図はネットサーフィンで拾ってきた物なのですが、
古事記と日本書紀の崩御年の違いが分かります。
安閑天皇以降はほぼ一致、継体天皇以前はズレがあります。
私はこのズレこそが、倭の五王をごまかすためのものと思うわけです。
また神武から履中まで父子継承が続き、それ以降は兄弟継承もあるわけですが、
誰と誰が兄弟であるとか、それが倭の五王の記述とは合わないわけですね。
合わないのは、合う事を避けたからであり、その理由が、倭王武の上表文という、
これまた屈辱の象徴のような代物であり、7世紀の朝廷にとっては、倭王武が誰なのかを知られることを未来永劫にわたって避けようとしたと思うわけです。
私が倭王武が本当に雄略なのか、と疑問に思うのは、
日本書紀では雄略が479年に崩御という、478年の上表文の翌年にしてることに、
何となく「わざとらしさ」を感じてしまうからなのです。
7世紀の朝廷が、かつて朝貢していた歴史をさっぱり洗い流したいと願っても、
すでに中国史書に書かれてしまっている人物、
これをどうごまかすかが記紀編纂の主題であったでしょうから、
上記の帥升ことスサノオを暴れん坊キャラにし、
朝貢していた卑弥呼もトヨも三韓征伐という勇猛な神功皇后に設定し、
倭王武という情けない人物を雄略に置き換え、暴虐なキャラにしているのは、
朝貢という屈辱的な史実に対する、本当は猛々しい人物であったのだという、
せめてもの小さな抵抗であったとみています。
Re: 倭の五王 - 石見介
2024/12/09 (Mon) 20:47:00
p君さんと、akaosaさんの、『日本書紀』の編纂・撰述の「目的」と、実際の撰述の姿勢についてのお考えを拝読し、私の考えと異なる部分について、コメントさせていただきます。
先ず、「史書」というものは、近現代の歴史学発達以前の時代では、中国や日本の正史は、全て、史書編纂を命じた、史書撰述時の「支配者」の「意図」が、「史官」によって、実行されるものであり、その意味で「曲筆」は、避けられない部分が、存在するのが、一般的だと、思われます。
勿論、中国の史書では、当初は「勅撰」の史書ではありませんでしたから、司馬遷『史記』や、班固等の『漢書』も、それなりの著者の「史観」で描かれ、それは、范曄『後漢書』も同じです。
しかし陳寿『三国志』、沈約『宋書』は、著者の自発性よりも、「書かせた」支配層の意図が、優先します。
日本の記紀は、将に、国家支配層の意図が貫かれた史書であり、当然ながら、「支配層の望まない事」は、避けられます。
ここで、古代人と現代人の「感性」が、同じだ、とか、道徳観が同一とか、そういう事は、全く保証されていない事を、想起してください。
『日本書紀』が、漢文で書かれているので、中国人などの外国人に読ませるための史書だとかいう、人がいますが、同姓不婚、宗族制の中国人に見せれば、異母兄弟姉妹婚をも、許容する日本の当時の支配層の実態は、「禽獣の国」と、見做されます。
記紀は、あくまでも、日本の国内向けの史書です。
AD607年の遣隋使以降、日本は、中国への朝貢国ではなく、対等の外交を目指す姿勢が、鮮明になっています。
中国への朝貢の史実は、史書には記載しない。
その姿勢は一貫しています。
雄略天皇は、倭王武でしょうが、「帥升」は、北部九州の王でしょう。
Re: 倭の五王 - akaosa
2024/12/09 (Mon) 17:47:49
p君さん
>そもそも記紀編纂の目的は、中華に服属し朝貢していた屈辱の史実を綺麗さっぱり洗い流しごまかす事にあったと思います…
正史とされ、平安時代にも講書が繰り返される『日本書紀』には、天皇家による謀略や殺人が赤裸々に綴られており、編纂者が筆を曲げる(史実をごまかす)とはどうも考えにくいです。むしろ、史料にないから書かなかった、ヤマトの天皇家と関係ないから除外した、と私は見ています。
たとえば、倭王武の上表文の後半は
「道逕百濟 裝治船舫 而句驪無道 圖欲見吞 掠抄邊隸 虔劉不已…壅塞天路 控弦百萬 義聲感激 方欲大舉」(道は百済を逕て、船舫を装治す。而しかして[高]句麗は無道に見吞せむと図り辺隸を掠抄し、虔劉〔殺害〕やまず…天路を壅塞ふさぎ、弓弦を百万控へれば、義声に感激し、方まさに大挙せんと欲す)とあり、敵は高句麗と名指ししています。
続いて、「奄喪父兄」(奄にわかに父兄を喪うしない)「居在諒闇不動兵甲」(居、諒暗〔喪中に住む小屋〕に在り、兵甲を動かさず)「至今 欲練甲治兵 申父兄之志」(今に至り甲を練り兵を治めんと欲し、父兄之志を申のべ)とあり、上表の年(478年)に父と兄の喪が明けたという。服喪三年とすれば、倭王武の父と兄は475 年の漢城を中心とした高句麗戦で死亡した可能性が高い。
これらの王が天皇であるとすれば、もはや「日本書紀」は正史とはいえないでしょう。
可能性が高いのは、筑紫を根拠地とする倭国の王でしょう。
西嶋定生氏が解説文を書いた、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)「冊封体制」に次のようにあります。便宜的に項目区分をし、( )書きを加えました。
1 周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立。
2 冊封された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担する。
職約とは、①定期的に中国に朝貢すること(定期朝貢)、
②中国皇帝の要請に応じて出兵すること(出兵応諾義務)、
③その隣国が中国に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと(使者の通交保障)、
④中国の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること(臣下礼節)、などである。
3 これに対して中国の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる。
中国史書によれば、少なくとも倭国の「不定期の朝貢」記録しかなく、実態は「朝貢貿易」と考えられます。
今の日本の現状に比べれば、自律性を維持した外交を展開していたと思います。
>倭王武は雄略なのでしょうか、最近疑問に思えてきました。
同感です。
Re: 倭の五王 - p君
2024/10/26 (Sat) 22:28:13
倭の五王
そもそも記紀編纂の目的は、中華に服属し朝貢していた屈辱の史実を綺麗さっぱり洗い流しごまかす事にあったと思いますので、
その中でも特に107年の倭国王帥升と478年の倭王武の上表文は、
これが誰なのかを知られることは屈辱極まりないわけで、未来永劫に渡って隠し通さねばならない事ですから、
だから日本書記では帥升の100年後の卑弥呼の時代に強引に干支2運繰り上げてまで神功皇后を当てがい、
107年に自ら渡海し楽浪で後漢皇帝安帝へ謁見要請するもどうやら断わられた帥升を「神代」に持っていき、
倭王武の上表文も、これは自ら中華皇帝の臣下になりたがる屈辱的人物ですから、これも当然ながら隠した、隠したから日本書記と合わないのは当たり前であって、そもそも日本書記と合ってはいけない人物であったという事でしょう。
倭王武は雄略なのでしょうか、最近疑問に思えてきました。
Re: 倭の五王 - 滑安房守
2024/10/25 (Fri) 19:23:12
考察の途上と言うか、単なる思い付きのレベルなのですが、安房守の現在の思い付きを述べさせて戴きたいと存じます。
倭の武王は、後の百済の武寧王である。
倭の興王は、後の百済の蓋鹵王である。
倭王と倭国王が同一であると誤解が、中國側、日本国側でなされ、混乱を招いたと考え始めています。
現在の安房守の考えは、倭国王は本来、日本列島に在る倭国の王である。
倭王は、日本列島外、つまり、朝鮮半島と、中国大陸の一部に住んでいた倭族全体の王である。
倭王を名乗れるのは、百済王を名乗る前まであり、倭国王が倭王を名乗ることを承認(黙認?)した時である。
大倭王は、倭国王であり、倭王の承認者であった。
倭国王家と百済王家はかなり近しい関係にあった。
百済王の王妃が倭人であったとされる記録が見うけられ、倭国に百済の女性を求める例も見いだせる。
即位前の継体帝が斯麻(武寧王)から隅田八幡宮人物画像鏡が(503年?)に送られたとされている。
これは、両者が強い関係を持っていたと考えるのが、妥当であろう。
どこで、その強い関係を築いたのか興味深い。
安房守は、武寧王が倭国に居たであろう時期に、その関係が出来たと妄想しています。
・・・訂正の可能性は大です。
Re: 倭の五王 - 当世奇妙
2023/08/21 (Mon) 19:54:01
トミーさん
「倭の五王について,大分理解が深まりました。 佐紀盾列⇒馬見⇒河内古市・百舌鳥への移行です」
失礼ですが、これで倭の五王の何が分かったのでしょうか?これに続く文章は倭の五王の解明とはどのような関係があるのですか?
Re: 倭の五王 - トミー
2023/07/27 (Thu) 21:24:11
昨夜7月26日NHK歴史探偵という番組を観ました。話題の奈良の富雄丸山古墳を取り上げていました。蛇行剣を橿原考古研究所の奥山誠義研究員が顕微鏡を使用して精密に調べておられ、木製の鞘の痕跡を見つけられ,柄付近から漆や赤色顔料を検出されたようです。柄に漆を使った剣の装飾があるようです。 そこで、刀剣の鞘に黒色顔料を使った事例を、金沢大学考古学研究所78号に掲載された例から参考引用します。 金官伽耶の4世紀後半の大成洞88号に漆の塗膜の革楯がありました。これに先行して、漆塗膜を使った盾形埴輪が4世紀前葉の大阪府茨木の紫金山古墳にあるようです。マエ塚の碧玉製石製合子については、日本列島にありますが、これは芳香剤入れ或いは化粧箱に使われるようです。漆は何処が産地であるか興味を持っております。日本では弥生時代後期~古墳時代には出雲が漆の産地として取引も多いようですが、中国では長江上流域の蜀が産地として有名です。
Re: 倭の五王 - 石見介
2023/07/21 (Fri) 21:34:14
倭の五王について、文献的に問題になるのは、南朝の「府官制」が、倭の五王にとって、どんな意味が有ったのかが、重要だと思われます。
私には、どう考えても、列島内統治には、あまり意味が無いように感じられますし、半島では、むしろ、負の側面が露呈し、結果的に、百済に利用されて、半島の「ミヤケ」を、喪失する事態を招いたようにも、思われます(根本的には、倭王武≒雄略天皇没後の、倭国王権の動揺(継承者減少による不安定化)が原因)。
皆様のお考えは、どうでしょうか?
Re: 倭の五王 - トミー
2023/07/20 (Thu) 19:27:03
倭の五王について,大分理解が深まりました。 佐紀盾列⇒馬見⇒河内古市・百舌鳥への移行です。 生駒山麓は馬飼集団―百済馬韓勢力の入植。大和川と石川が合流する地点である、藤井寺=餌香は長野邑でその荒野が4世紀末に開拓されます。石川流域を開いたのは、多氏でしょう。石川の西の古市地域で大乗川流域を開拓したのは、半島伽耶の西方や全羅道からやってきた民でしょう。土師氏はゼネコンです。墓作りと埴輪作りに関係するのでしょう。4世紀末から5世紀前葉は画期で渡来鉄鍛冶工人が河内平野に入ってきます。以上は、関西大学 井上主税教授の考察です。列島の石製品が半島に伝わるのは金官伽耶の大成洞です。それも4世紀末に、終了して、その後は技術者は河内に入植します。すなわち、4世紀末に大きな変動があり、5世紀前葉には大きな画期が起こります。
Re: 倭の五王 - トミー
2023/06/13 (Tue) 16:39:52
土師氏の研究・・・・ 土木建築・造墓、埴輪、葬送儀礼、雄略時代473年、贄器(宮廷貴族や王の祭祀儀礼用清浄な食器)作り始まる。 土師氏の分布は、大和の菅原と秋篠。河内の志紀、丹比、古市に多い。 百済からの渡来民 高野新笠=大枝土師氏。和乙継と土師真妹の娘。大枝氏は和泉の百舌鳥に割拠。
□大阪府の藤井寺は大和川が流れ河内湖の河口に流れ下る地。(今は江戸時代の河川流路変更で堺に向かって流れる)。餌香長野邑で
道明寺は、土師ムラがある。
菅原氏の出身地である。菅原道真の伯母が住んでいました。
菅原氏は土師氏である。天穂日命の末裔,野見宿祢を祖とする。
野見宿祢は、出雲―特に東出雲の出身である。
天皇から土師部(陵墓の造営と埴輪の製作に従事する人々)を統率する土師氏の姓を与えられます。菅原氏は土師氏である。道明寺は彼が亡くなってから名つけられた氏寺(土師寺)と氏神(土師神社)
菅原道真は、配流された。
大宰府に入る前に防府市に、土師氏の国司を頼っています、土師系の係累だったからでしょう。今は防府天満宮―佐波川に沿ってあります。
□土師四腹・・・・大和の菅原、秋篠、 河内の毛受=百舌鳥系 ⇒大枝朝臣⇒高野新笠
◆土師氏の葬送儀礼 ・・・楯伏舞 富雄丸山円墳の造り出し部で、楯と蛇行剣が出ているのは、葬送儀礼に使われる道具であると推測する。(私案)
殯宮で捧げられる厳粛な舞である。
富雄丸山古墳は、4世紀後半の円墳である。
富雄丸山は、奈良市の西部にある地名で、近くに秋篠と菅原の土師氏・土師部が住み、土師の巷をなしている。埴輪を作る窯が連なっている。河内と大和を繋ぐ、近くに日下直越=暗峠があり交通の要衝でもある。
□埴輪のルーツは、円筒埴輪は吉備から大和に伝わった特殊器台や特殊壺がそのルーツであろう。
中井正幸氏の考古学的な研究では、器財埴輪特に蓋形(キヌガサ:貴人にさしかける傘をかたどった)埴輪の工房のルーツは、4世紀後半。奈良市の山陵町遺跡つまり五社神古墳(神功皇后陵)と佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)近くにあり、これが東海道及び東山道に沿って広がる。
以降、河内に広がり全国に広がると思われる。
■埴輪の地方伝播について。特に関東に注目する。土師氏の東国移動
*木簡、瓦刻銘文 ・・・ 土師部の存在。
出雲,下総,常陸,武蔵に多い
*和名類聚抄 ・・・ 土師郷,埴土郷
に拠れば、河内国、和泉国、上野国、下野の国に多い。
関東圏では,武蔵に多い。
(北)武蔵国造が土師民であるなど、出雲と武蔵は関係が深い。
武蔵国土師氏は、埴輪製作集団
吾妻鏡(1251年)には、土師の舞:鷲宮神社は出雲族の創建とされる。
東京の浅草神社の宮司の姓は土師です。漁民が隅田川で拾った観音像
を土地の有力者である土師氏に渡し、土師氏が寺を作り礼拝供養したという由緒があります。
往古、利根川も荒川も・隅田川も東京湾に注ぎ、隅田川は武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡との境界でした。下総国の浅草寺はその境界に建てられた。
東海道からは河内→東国へ。すなわち下総国-武蔵国の境に位置する浅草から元荒川や古利根川を上るケースも考えられる。
浅草寺はからの船便は、これらの河川を経て、武蔵国北部(埼玉県)、上野国(群馬県)、下総国(千葉県)、常陸国(茨城県)を通ることも可能であったのであろう。
或いは、土師氏は、西から東山道を経て、上野国(群馬県)に入ったと見るのが妥当かもしれない。
□武蔵で一番大きな東日本最大の埴輪工房は、埼玉県鴻巣の生出塚埴輪窯跡で5世紀末-6世紀末のものである。埼玉県の古墳だけでなく千葉県市原市の山倉古墳や神奈川県川崎市の塚越古墳などに荒川や元荒川の水運によって運ばれています。
♣埴輪には円筒埴輪、器財・形象埴輪、人物埴輪、動物埴輪,馬形埴輪など多様である。
♣埴輪は、畿内の大和や河内に窯元が分布している。河内には藤井寺の道明寺土師の里(ムラ)には登窯形式で埴輪を焼いた窯がある。
仲津山古墳の南東側の窯では、誉田御廟山古墳(応神陵)や市野山古墳(允恭陵)に供給されたと推定されている。近くに、三ツ塚古墳がありここには修羅=重量物運搬用の木製そりが出土し、古墳築造との関係を物語っている。
三ツ塚は、仲津山古墳(応神の妃、仲姫命)の陪陵とされ、そこにある家形埴輪が、日向・西都原 の女沙穂古墳の陪陵と思われる,西都原171号の埴輪と似ており、南九州にも近畿の埴輪工人が関わっていると考えられる。
因みに、仲津山古墳と女沙穂塚古墳は墳形が似ていることとも、関係があるのであろうか。
日本書紀、応神紀には、日向国の髪長媛が仁徳天皇の妃になり大草香皇子と若日下王(幡梭姫皇女)を産んだとされている。
Re: 倭の五王 - トミー
2023/06/05 (Mon) 18:19:33
倭の五王について、探求を重ねております。
先般担当した鮮卑拓跋氏の研究は、倭の五王時代に対応する、中国の北部(北朝)と南(南朝)の勢力の消長がテーマでした。
南宋は、310年に山東半島を支配していた南燕を東晋の劉裕が滅ぼして禅譲された劉裕が建てた南朝です。南宋は北魏に450年以降は蹂躙され、下剋上の時代になって衰えて行きました。
一方、倭の五王時代の畿内河内の古墳の探求も続け、4世紀末~5世紀についての首長族の勢力と朝鮮半島渡来民の関係を調べております。大和檜前の東漢氏・阿知使主、河内・餌香の王仁―西文氏、山城・秦氏・弓月君などが入植します。
河内を開拓して造墓・埴輪・祭祀に係わったのは、土師氏であろうか。
さらに、北関東圏の古墳時代の勢力を調べ始めました。
茨城県、常陸国と栃木県、那須国と下野国を探訪しております。
本年2月には霞ケ浦北辺の常陸国府のある石岡市で、5世紀初頭の舟塚前方後円墳を訪れ、さらに東へ、東辺の行方郡にある5世紀後半の三昧塚前方後円墳を見学しました。
副葬品を比較すると・・・・
なかなか興味深いことが分かってきました。
以下はその報告です。河川の位置の考察が大切です。
交通は河川で上下するし、また稲も川沿いの平野に作られるからです。
本年6月にはJR宇都宮線で栃木県の古墳を探索しました。
一番北は、那珂川です。東山道沿いの栃木県那須から発して、茨城県の水戸を経て、太平洋=東海道の大洗海岸に流れ込みます。ここには、富雄丸山の工房にある滑石製の石製品セットが運ばれていることに注目しております。
その那珂川の西は、鬼怒川です。その西が、姿川と思川で、渡良瀬川に合流します。
特に、桑57号墳について、小山市の博物館で副葬品を見学し、さらに発掘調査報告書で
調べましたので、紹介させていただきます。
蛇行剣と王冠と埴輪に注目です。
奈良市の富雄丸山の円墳で、盾形鏡と最古級で大きな、蛇行剣が出て、桑57号の帆立貝形古墳副葬の蛇行剣との関連の有無が俄然、面白くなりました。
立地場所は、小山市にあり姿川と思川の合流点です。
ゴルフ場を建設していた時に、発見されました。
この墓は、円墳に後で、造り出し部位に基壇を設けた、いわゆる帆立貝形古墳とされています。5世紀後半のものです。
鏡の下に歯が出て、30台の女性と判定されています。
この女性は呪術的特徴を持っっており、巫女でしょうか。
蛇行剣を手に持って、呪術を行ったのでしょうか。木棺直葬です。
墳頂部の埴輪列が、方形で、且つ蛇行剣を出した大阪河内の七観古墳と似ているとされています。
盾形埴輪やひざまづく人物埴輪や馬形埴輪も出ています。
冠も出ています。冠には百済形、新羅形、大伽耶形などがあります。
何となく、越前の松岡―二本松古墳出土のものに似ている感じでした(不確かです)。
6世紀になると、この合流点の北に、大きな前方後円墳が現れます。摩利支天古墳と
琵琶塚古墳です。近くに原東山道らしき道が走り、下野国国府ができます。
那珂川沿いの古墳は侍塚古墳が有名ですが、4世紀末に始まりますね。こちらは前方後方墳です。
那珂川沿いには、駒形大塚古墳は3世紀末の前方後方墳です。
開拓民が入ったようです。
一つ、不思議なことが分かりました。
桑57墳は姿川と思川の合流点です。その近くで、姿川から東南へ5・5km離れ、鬼怒川から西に5・5km離れたところに、田間遺跡という土師氏の集落があることです。
ここは古墳後期の遺跡です。土師氏なら土師器である埴輪を作り出しそうだし、墓も作ったのかもしれません。
しかも、この地には小銅鐸が出ております。これは弥生時代のものでしょうか?
Re: 倭の五王 - トミー
2023/06/05 (Mon) 18:11:13
倭の五王について、探求を重ねております。
先般担当した鮮卑拓跋氏の研究は、倭の五王時代に対応する、中国の北部(北朝)と南(南朝)の勢力の消長がテーマでした。
南宋は、310年に山東半島を支配していた南燕を東晋の劉裕が滅ぼして禅譲された劉裕が建てた南朝です。南宋は北魏に450年以降は蹂躙され、下剋上の時代になって衰えて行きました。
一方、倭の五王時代の畿内河内の古墳の探求も続け、4世紀末~5世紀についての首長族の勢力と朝鮮半島渡来民の関係を調べております。大和檜前の東漢氏・阿知使主、河内・餌香の王仁―西文氏、山城・秦氏・弓月君などが入植します。
河内を開拓して造墓・埴輪・祭祀に係わったのは、土師氏であろうか。
さらに、北関東圏の古墳時代の勢力を調べ始めました。
茨城県、常陸国と栃木県、那須国と下野国を探訪しております。
本年2月には霞ケ浦北辺の常陸国府のある石岡市で、5世紀初頭の舟塚前方後円墳を訪れ、さらに東へ、東辺の行方郡にある5世紀後半の三昧塚前方後円墳を見学しました。
副葬品を比較すると・・・・
なかなか興味深いことが分かってきました。
以下はその報告です。河川の位置の考察が大切です。
交通は河川で上下するし、また稲も川沿いの平野に作られるからです。
本年6月にはJR宇都宮線で栃木県の古墳を探索しました。
一番北は、那珂川です。東山道沿いの栃木県那須から発して、茨城県の水戸を経て、太平洋=東海道の大洗海岸に流れ込みます。ここには、富雄丸山の工房にある滑石製の石製品セットが運ばれていることに注目しております。
その那珂川の西は、鬼怒川です。その西が、姿川と思川で、渡良瀬川に合流します。
特に、桑57号墳について、小山市の博物館で副葬品を見学し、さらに発掘調査報告書で
調べましたので、紹介させていただきます。
蛇行剣と王冠と埴輪に注目です。
奈良市の富雄丸山の円墳で、盾形鏡と最古級で大きな、蛇行剣が出て、桑57号の帆立貝形古墳副葬の蛇行剣との関連の有無が俄然、面白くなりました。
立地場所は、小山市にあり姿川と思川の合流点です。
ゴルフ場を建設していた時に、発見されました。
この墓は、円墳に後で、造り出し部位に基壇を設けた、いわゆる帆立貝形古墳とされています。5世紀後半のものです。
鏡の下に歯が出て、30台の女性と判定されています。
この女性は呪術的特徴を持っっており、巫女でしょうか。
蛇行剣を手に持って、呪術を行ったのでしょうか。木棺直葬です。
墳頂部の埴輪列が、方形で、且つ蛇行剣を出した大阪河内の七観古墳と似ているとされています。
盾形埴輪やひざまづく人物埴輪や馬形埴輪も出ています。
冠も出ています。冠には百済形、新羅形、大伽耶形などがあります。
何となく、越前の松岡―二本松古墳出土のものに似ている感じでした(不確かです)。
6世紀になると、この合流点の北に、大きな前方後円墳が現れます。摩利支天古墳と
琵琶塚古墳です。近くに原東山道らしき道が走り、下野国国府ができます。
那珂川沿いの古墳は侍塚古墳が有名ですが、4世紀末に始まりますね。こちらは前方後方墳です。
那珂川沿いには、駒形大塚古墳は3世紀末の前方後方墳です。
開拓民が入ったようです。
一つ、不思議なことが分かりました。
桑57墳は姿川と思川の合流点です。その近くで、姿川から東南へ5・5km離れ、鬼怒川から西に5・5km離れたところに、田間遺跡という土師氏の集落があることです。
ここは古墳後期の遺跡です。土師氏なら土師器である埴輪をつ造り出思想だし、墓も作ったのかもしれません。
しかも、この地には小銅鐸が出ております。これは弥生時代のものでしょうか?
Re: 倭の五王 - 滑安房守
2023/04/30 (Sun) 11:38:46
倭、武 (倭王)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6_(%E5%80%AD%E7%8E%8B)による。
武(ぶ)または倭 武(わぶ、生没年不詳)は、5世紀後半(古墳時代中期)の倭王。「倭王武」とも述べられている。
済の子、興の弟で、「倭の五王」の最後の1人。第21代雄略天皇に比定する説が有力視される。
『宋書』列伝
夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の興が死んで弟の武が王に立った。
武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称したとある。
順帝の昇明2年(478年)には、武は宋に遣使して上表文を奉った。
順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除すことを詔した。
『宋書』本紀
順帝紀 昇明元年(477年)11月己酉条、倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(興または武の遣使か)。
順帝紀 昇明2年(478年)5月戊午条、倭国王の武が遣使して方物を献上したので、武を「安東大将軍」となしたとする。
『南斉書』列伝
東南夷伝 倭国の条(南斉書倭国伝)
南斉の建元(479年)に太祖高帝は、新たに任命した「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・<慕韓>意補六国諸軍事 安東大将軍 倭王」の武の将軍号を「鎮東大将軍」に進めたとする。
『梁書』列伝
諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)
興の死後に弟の武が立ったとし、南斉の建元年中(479-482年)に武は「<使>意補持節 <都>意補督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 鎮東大将軍」に除されたとする。
梁の高祖(武帝)が即位した際に、武は「征東将軍」に進号されたとする(正しくは「征東大将軍」か)。
『梁書』本紀
武帝紀 天監元年(502年)4月戊辰条、「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」に進号されたとする(正しくは「征東大将軍」か)。
『南史』夷貊伝 倭国の条(南史倭国伝)
上記三書の内容がまとめて記述されている。
その他
『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢図巻」題記では、斉(南斉)の建元年中に倭が表を持ってきたとする。
中國の書から武が王を名のっていたと確認できるのは以下のとおりである。
『宋書』本紀
順帝紀 昇明2年(478年)5月戊午条、倭国王の武が遣使して方物を献上したので、武を「安東大将軍」となしたとする。
『宋書』列伝
順帝の昇明2年(478年)には、武は宋に遣使して上表文を奉った。
順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除すことを詔した。
『南斉書』列伝
東南夷伝 倭国の条(南斉書倭国伝)
南斉の建元(479年)に太祖高帝は、新たに任命した「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・<慕韓>意補六国諸軍事 安東大将軍 倭王」の武の将軍号を「鎮東大将軍」に進めたとする。
『梁書』本紀
武帝紀 天監元年(502年)4月戊辰条、「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」に進号されたとする。
『梁書』列伝
諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)
興の死後に弟の武が立ったとし、南斉の建元年中(479-482年)に武は「<使>意補持節 <都>意補督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 鎮東大将軍」に除されたとする。
梁の高祖(武帝)が即位した際に、武は「征東将軍」に進号されたとする(正しくは「征東大将軍」か)
以上が正しいとすると、倭王武の即位は478年か、それ以前、502年までは倭王であったとなる。
続く・・・
Re: 倭の五王 - 滑安房守
2023/04/19 (Wed) 08:43:11
「倭の五王」が二箇所ありますので、こちらに、お目汚しになるとは存じますが、倭の五王とは、誰で有ったのか、安房守の、空想と妄想を述べさせて戴きたいと存じます。
誰であるかのレベルに、辿り着けるか、判りませんが、ご支援、ご鞭撻、ご教授下され、お付き合い下されます様お願い致します。