東アジア討論室

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神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2023/11/04 (Sat) 23:03:26

 「日本神話を考える」スレッドでは、力量不足の為、十分な検討も行えず、出雲神話や国譲りなど、全く触れられませんでした。
 このスレッドは、神話伝承に反映・包含された「歴史的事実」の摘出、復元を試みるものですが、随時、積み残しの神話にも、触れます。

 当然ながら、皆さんの解釈と、私の解釈とは、大幅に、異なっていると思われます。そこで、突っ込み大歓迎ですが、先ず、私の解釈を示した後で、突っ込みを入れて戴くように、お願いします。
 先に各自の独自説を主張されると、収拾がつかなくなりますので。

 可能な限り、議論したいと思いますので、とにかく自説の宣伝広報を優先し、意見を交換する気はない、というスタンスの方には、ご遠慮お願いします。

余談:大伴氏と物部氏の起源を考える - 石見介

2025/04/02 (Wed) 19:17:35

 以前にも、物部氏の起源については、このスレや前身の「二五本神話」スレで、饒速日命関連で論じ、付随して、大伴氏についても、触れたことがありました。最近、他トピで、『先代旧事本記』を、十分な資料批判無しに使用する論客の発言が目に触れるようになり、改めて、部民制やそれに関わる氏族について、現時点での私の考えをまとめる必要性を感じましたので、このスレで、「余談」として、書いておきます。
 ニギハヤヒを除けば、必ずしも、神話とは関係ないのすが、新スレッドが討論室に乱立し、読み続けるのが一苦労する状況なので、新スレは立てないことにしました。


 まず確認しておくべき事実は、部民制の成立以前には、部民を管理する氏族、「伴造」やさらにそれらを統括する「物部氏」「大伴氏」のような氏族は、存在しなかった、という事です。
 部民制派、倭の五王の時代の5世紀にはせいりつしていたと考えられ、その前段階に「ヒト(人)製」を考える説も、ほぼ定説と思われますが、これは、5世紀の稲荷山出土鉄剣銘分野江田船山古墳出土の動揺の銘文の「
杖刀人」や「典曹人」或いは後代の「史(ふひと)」等の存在からの類推の側面もあり、詳細は、不明です。

 次に、確認を要するのは「部民制」の根本的な用語の「べ(部)」という言葉についてです。一見すれば判るように、これは、漢語「部」のsから借用されて、古代日本語になった語彙だと思われます。
 漢語「部」の訓は、「大伴氏」が「大部氏」と表記される例があるように、「伴」もあり、これは「伴、朋、友、供、共」という種々の幹事が宛てられ得る言葉ですが、「漢語としては「伴類」の意味の伴、或いは、「お供する」の「供」が、語義的に葉、近いように思われます。
 逆に「部」以外の幹事で、「べ」と読まれ、意味もほぼ同じである語としては、「戸」があり、「飛鳥戸」造氏が、「あすかべ」造と呼称されている例があります。
 





構築中

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2025/03/21 (Fri) 23:47:23

 前スレでは、日本神話の中に、史実の反映があると仮定して、どのような史実から、どのような神話や古伝承が形成されたのかを、考察する為に、先ず、「日本神話」そのものの、検証が、必要でした。
 国家形成の経験を持たない東北アジアやシベリアの民族の、「神話」を中心に日本神話と比較して、「原初の日本神話」がどのようなものであったのかを、考えることが、主眼でした。

 小さくとも、部族国家と呼ばれる段階であれば、その首長は、天神の子孫だと言う「伝承」を持つ首長家を含む支配層が、部族民に君臨する。
 それは、いわば、汎世界的ともいえる現象であり、世界各地に存在し、日本特有のものではない事は、北欧神話や太平洋のトンガ王国他、類例が多い。
 しかし、国家形成に向かう諸民族の神話伝承では、「支配者」のみならず、部族の成員も、基本的に、同じく、天神やその従者、或いは天命を受けた獣祖の子孫です。
 ところが、日本神話では、どうも、「人の起源」は、語られていない。
 国土を含む山川草木の起源譚は、一応存在するが、ヒトや動物の起源説話が、殆ど記紀には、記述されていない。
 その上で、いきなり、天孫が降臨して、国つ神を支配する。なんとなく、国つ神の子孫が、一般の人民のようにも思えますが、明記されてはいない。


 このような天孫降臨神話を、史実の反映とするのであれば、原型となった史実は、一体どのようなものであったのか?

 そこで、中国の史書『漢書』地理志の倭人についての記述と、『後漢書』の光武帝による、建武中元2年,AD57年の倭奴国王への「王号授与」が、神話化された形で、伝承された、という仮説を、立てるに至りました。

 後漢の皇帝は、「天子」であり、それに冊封された属国の王は、君臣関係にあるが、情理的には、親子関係に喩えられる。即ち「天子」の「子」だから、「天孫」である。
 そういう論理だと考えたのです。

 この解釈から、導かれるのは、神武天皇は、AD57年に光武帝に王号を与えられた倭奴国王の、男系子孫である、という次なる仮説、繋がります。

 その補強証拠として、高句麗好太王碑に現れる「倭」の時代の大王として、実在が有力視される応神天皇の活動時代を,AD400年頃として、神武天皇までの世代数から、神武天皇の活動年代を推測すると、AD100年前後になる、という計算でした。

 恣意的な部分もあり、十分な客観性が担保されているとは言えないのですが、「神話」を扱う以上、確率を高めるのは困難なので、このまま、推論を続けます。

 記紀の大王系譜の世代数を信頼して、世代間の個体年数は、25歳(年)°±5年で、資産します。
 応神天皇のは、神武天皇の14世代の後裔なので、14世代前の始祖のかる同年代は、AD400年の、350±70年前となり、AD50年を中央値として、BC20年からAD120年の範囲内に、収まります。
 以前の試算では、1世代20年のみでけいさんし、AD120年という数値に、神武天皇没後に、庶長子タギシミミの時代が存在すると考えて、神武天皇の活動年代をAD100年頃とも、考えたのですが、平均世代交代年数を仮定するうえでは、恣意的だと考え、今回は、よりゃっ感性を高める為、上記のように、25年±5年としました。
 その結果、当初の仮説である,AD57年に、後漢光武帝に王号を授与された倭奴国王の子孫の可能性は、半減しました。起点の応神天皇の活動年代の推定によっては、更に、神武天皇の活動年代が、古くなり、倭奴国王の子孫である確率はより低下します。

 その為、ここでは、神武天皇が,AD57年の倭奴国王ではない場合の、「神武東遷」伝承のもとになった史実の推測を、試みます。


 構築中

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2025/03/03 (Mon) 17:54:14

 推古天皇の没年から、倍暦で、継体欽明皇統の始祖、継体天皇までの諸天皇の在位年の推定を行いました。
 一方、複数大王制を否定し、唯一の大王が君臨して、霊的威圧ではなく、官僚制による支配体制を構築しようと試みた、雄略天皇は、倍暦ではなく、干支や元嘉暦のような、太陰太陽暦を採用したと考えて、雄略天皇以後、武烈天皇までの、在位期間を、前回までに推測しました。
 
 しかし、雄略天皇の「革命」前の諸大王の紀年の決定には、倭の五王が、記紀の諸大王と相関しない可能性や、記紀の応神仁徳皇統の諸天皇の、何処までを、倭暦での在位年数と判断し、何処からを中国風の1年1歳で記録しているのかが、推測困難な事もあり、一旦在位期間の推定は、断念し、その代わりに、記紀の大王系譜に従って、初期天皇の在位年の、推測を、試みることにしました。

 初期天皇については、明治以降の近代歴史学の進展の中で、文献批判や考古学、人類学、言語学等の、隣接諸分野の発展の成果の影響とも、相まって、その実在性や年代等について、多くの議論が、交わされてきました。
 現代でも、特に第9代開化天皇以前については、実在を疑問視するのが、学界の主流のように思われますが、第10代崇神天皇あたりからは、実在が認められることが、多いように思われます。
 勿論、中国史書に登場する「倭国」「倭人」についての記述が、日本列島の王権の存在を、支持していると解釈できることが、大きな根拠でしょう。しかし、崇神以降の記紀の記録でも、個々の天皇や皇后、人物の実像には、疑問が投げかけられているのが、現実です。

 私は、神武天皇以降、諸天皇を、一応、史的存在と考え、神武東征説話を、九州島から大和王権の始祖集団が、移住してきた史実の反映と捉えています。
 神武東征説話には、その兄弟も、名のみでその動向も子孫氏族の存在も記述されていないキスミミのような子の名も、現れます。そのような存在は、かえって神武東遷の史実を、確かなものとする証拠のように、私には、思えます。
 神武天皇兄弟が実在するのであれば、神代系譜上のその祖先の実在も、考えられますが、自然神の神格や天上界の神格は、史的存在足り得ません。
 所謂、日向の天孫3代も、記紀の「万年」「億年」という、寿命の記述からと、山海の神の娘との婚姻説話からは、史上の人物としての扱いは困難で、神武兄弟の出自を考察する上での、参考にとどめざるを得ません。

 まず、記紀の初期天皇系譜を信頼して、その世代数から、大雑把な神武天皇の活動年代推定を、試みます。
 初期天皇の在位期間や、寿命等の推定は、主に、『古事記』の記述を、参照します。
 その理由は、『日本書紀』の后妃記事が、物部氏のような、「部民制」が成立してから生じた氏族出身とするものなので、不自然で信頼性が低く、後代の部民制の整備された時代の、有力者の意図が、働いていると、思われるからです。
 これに対し、『古事記』では、神武天皇という伝説的な始祖王を除けば、欠史八代の前半の天皇の后妃は、大和地域の「県主」級の小豪族であり、欠史八代の後半に至り、複数の后妃の存在や、子孫の大和外への進出が見られるなど、自然な流れのように、思われるからです。
 問題は、干支や太陰太陽暦のような、中国の暦法が、入っているとは思えない時代なので、大歳や干支の記述は、信頼できず、遊牧民の口誦による伝承のように、おおよその系譜以外の信頼性が、担保されないことです。
 その為、実在の確かそうな、応神天皇や崇神天皇の在位年というか、活動年代から、系譜を遡って、世代交代の平均推測値から、試算する事にも、なるのですが。








 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2025/02/17 (Mon) 19:19:34

 雄略天皇とその父兄、允恭、安康両天皇については、稲荷山鉄剣銘等の金石文と、『宋書』の倭の五王の記録から、おおよその在位年を推定可能ですが、それ以前については、記紀の天皇系譜と『宋書』の記す、倭王の続柄の齟齬の為、比定が困難です。
 中国史書の記述を、先験的に、正しいと決めつけて、倭の五王を、畿内大和の大王ではない、とする事は、史料の豊富な近世の明や李氏朝鮮の、倭国倭寇関連の研究を踏まえれば、私には、採用不可能です。
 飽く迄も、個々の事象や記事内容について、個別に検討すべきだと、考えますが、金石文等の史料が無い限り、史実の判定は、困難です。

 倭の五王と、大王系譜の比較については、私のように、複数大王の並立と、最高位の祭祀王の存在を、仮定する説を採る場合には、更に、難しい問題があります。 
 それは、劉宋への遣使の主体が、最高位の祭祀王だったのか、それとも、その下位の世俗王であったのか?という問題です。
 親魏倭王卑弥呼の前例から、最高位の祭祀王だと、早急に決めることは、出来ません。
 時代による外交や交易の主体や名義人の相違は、後の日本の、足利義満や江戸幕府の事例もあり、また、中国側も、倭国の体制とは無関係に、自己都合で、倭国王の認定を、行います。
 明による征西将軍宮懐良親王の冊封は、その一例ですが、列島内の実力者は、列島の中央政権の官職と、中国などの外国の官職や叙爵を、平然と、同時に受けます。
 それが、日本列島の、諸地域や中央政権の有力者の、実態なのです。
  このような状態は、邪馬台国時代にも、存在していた可能性もあります。『魏志倭人伝』の、伊都国の「世有王」の解釈や、或いは、難升米が、張政より受けた「黄幢」も、何らかの新規の叙爵を、伴っていた可能性も、有ります。

 上記のように考えると、記紀の記述から明確に、唯一の大王が君臨する、官僚制の支配体制を目指した、雄略天皇以前の、倭の五王が、果たして、最高位の祭祀王であったのか、それとも、世俗王であったのかも、容易に、決められません。
 私は、安康天皇は、祭祀王ではなく、市辺押磐皇子が、当時の最高位の大王、祭祀王だったと推定しましたが、その場合には、倭王武以外の四人の王の、天皇比定において、記紀と『宋書』の続柄は、必ずしも一致しないことになります。

 実際には、済と世子興は、武との続柄の一致から、允恭、安康と比定して問題はないでしょうが、それ以前は、記紀と中国史書の続柄の一致は、不要かも知れません。

 現時点では、中国史書と、記紀の記述のすりあわせによる、大王系譜の在位年推定は、私には困難なので、一旦、休止し、欠史八代を含む、初期天王について、「神話、伝承から、史実を探る」試みを、行いたいと、思います。



Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2025/02/01 (Sat) 16:15:08

 白石南花さん

 御教示、有難うございます。私事ですが、昨年11月に、視力障害進行の為、介護付き有料老人ホームに入居し、記紀や中国史書等の書籍は、全て寄贈や廃棄しましたので、史料その他の文言等の確認が出来ず、記憶とwiki頼りです。資料等の誤認があれば、よろしく、ご注意お願い申し上げます。

 
①履中、反正、允恭の兄弟関係について

 倭の五王との比定で、『宋書』と記紀の天皇系譜のマッチングというか、対応の問題で、記紀の系譜関係記事を、疑問視する説の存在は、承知していますが、記紀の天皇系譜と中国史書の記述の、何れを、信頼すべきかは、個々に検討すべき問題だと考えています。
 安本美典氏が引用した,『明史日本伝』を思い出せば、中国史書の信頼性を、日本の史書よりも、先験的に、信頼性が高い、と仮定する事は出来ません。
 倭寇の問題でも、明や李氏朝鮮の史書が、自国民の偽倭寇を承知していても、「倭寇」と記述している事実が、存在します。
 一方、琉球の第一尚氏と、第二尚氏のように、実質的に、異なった氏族でも、同姓を称して、朝貢し、中国側も、承認する場合もあります。
 『隋書俀国伝』の場合のように、使節が倭国王と直接面会したと考えられる場合と、倭の五王の朝貢とは、中国史書の信頼性は、異なります。
 済と興・武父子、允恭と安康・雄略父子の対応は、定説で、史実と考えて問題はないと思わtrますが、他は、日中何れが正しいか、双方とも正しいか、双方とも誤りを含んでいるか、容易には決められません。

 私は、複数大王の並立を、想定しており、対中外交の主体が、祭祀王なのか世俗王なのか、も含め、日中双方の系譜記事が、共に正しい場合も含め、検討しています。まだ、倭の五王と記紀の大王との対応関係については、複数の仮説の優先順位も、決めかねています。

②「履中紀」の「つるぎたちのみこ」について

 この言葉には気づきませんでした。
 御教示、有難うございます。
 この言葉が、上代日本語で、「剣太刀の皇子」の語義であれば、「ひつぎのみこ」が、「日嗣ぎの皇子」、太子ではなく、本来「霊/神の皇子」の語義であった可能性を考慮すれば、世俗の政治の中の特に軍事に関与する、皇族を意味すると解せます。
 ただ、「履中紀」にしか見えないのであれば、この時期の、列島平定と関係した、一時的なものだった可能性もあります。
 私としては、上代日本語の「まつりごと」「おほきみ」から、祭政一致の、「霊的威圧による支配体制」時代が、長かった、と考えています。

 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 白石南花

2025/01/27 (Mon) 22:19:50

自分の投稿にかまけていて、お返事が遅くなりました。

>同母兄弟の履中,反正、允恭3兄弟の<

倭の五王の比定に寄りますが、多数派の説によれば、允恭との兄弟関係は怪しくなります。

>白石南花さんは、複数大王制の言葉は、避けておられますが、古代に「摂政」という言葉は、少なくとも、日本語には、存在しなかったでしょう。
執政に関与する王族の名称は、「大臣」「大連」「前津君」とは表現できません。
「おほきみ」としか、表現できないのが、実態です。<

どういう言葉で表されていたかは分かりませんが、例えば履中紀には「つるぎたちのみこ」と言うのが出てきます。
「ひつぎのみこ」と対になるのでしょうか。
履中即位後の話しなのですが興味あります。

>清寧天皇ですが、「白髪部」という名代部の存在からも、実在は、確実だと思われますが、在位五年で、死亡し、記紀に后妃の記載もありません。<

存在感が薄いのに、系図上は重要な存在のように見えるのです。
だから逆に怪しいのです。

雄略天皇の在位期間 石見介

2025/01/27 (Mon) 19:38:44

 雄略天皇の在位期間の推定を、行います。
 記紀では、何れも、在位は、23年と一致しており、『古事記』では、即位年と没年の干支の記載もあります。その現行太陽暦換算では、即位は、丙申年で、崩御は、已未年とされ、AD456年即位、AD479年没、と換算すれば、足かけ24年になります。
 『日本書紀』では、安康天皇3年11月即位、雄略天皇23年8月没までが、在位期間ですが、太陰太陽暦の干支と、現行太陽暦の換算では、このくらいの不整合は、許容範囲でしょう。
 劉宋の元嘉暦と、魏の景初暦の記録の混在や、何よりも、倭暦である、1年2歳の倍暦での史料も混在し、記事の暦法の統一した記述は、困難だったと思われます。
 いずれにしろ、紀での雄略天皇の寿命は、62歳で、記では、124歳、という記述からは、記が1年2歳の倭暦で記述し、紀が中国の暦法に準拠している事を示す、例証ともなり得るでしょう。

 記の干支から推定される、雄略天皇の在位期間は、上記のように,AD456年~479年ですが、稲荷山出土鉄剣銘文の、「獲加多支鹵大王」の「辛亥」年、通説のAD471年を含み、「倭の五王」の最後の「倭王武」であると、考えて、問題はないでしょう。

 雄略天皇と、その子清寧天皇の、在位期間推定は、次のようになります。

①雄略天皇:在位23年、没年,雄略23年8月
在位期間:AD456年~479年、

②清寧天皇:在位5年、没年清寧5年1月、
在位期間:AD480年~484年、

 越年称元法で、計算した在位期間ですが、同様に、飯豊青皇女の「執政代行期間」を推計する際、清寧天皇の没年の現行暦換算の根拠となる没年が、「1月」なので、越年称元で推定しても、旧暦の新年である立春以前になるので、飯豊青皇女の大王代行の初めを、西暦で、同年内とした方が、良いように思われます。
 「代行」なので、厳密に「もがり」や越年の計算は不要かも知れませんが。

⓪飯豊青皇女:大王代行期間、生年、没年不明、
大王代行期間:AD484年?~AD534年???

 飯豊青皇女の、代行期間の終了年は、前に試算した、武烈、仁賢、顕宗3代の在位期間推定から、機械的に、顕宗天皇即位年の数字を、宛てたものですが、大王代行期間が、長くなりすぎ、信頼性は、非常に低くなります。
 『古事記』によれば、紀の記述とは異なって、仁賢、顕宗兄弟の発見は、清寧天皇没後であり、兄弟が、互いに大王位を譲り合っていて、その間に、代行していた飯豊青皇女が、死亡した為、顕宗天皇が即位した、とされています。
 飯豊青皇女や仁賢・顕宗兄弟が、実際に、高齢であったとすれば、飯豊青皇女や顕宗天皇が、短期間に死亡した事や、兄の仁賢が、大王位を避けて、弟に譲ろうとしたことや、或いは、隅田八幡宮画像鏡銘文で、弟王の長寿を祈念した、根拠にもなり得ます。
 しかし、数年ではなく、数十年の大王不在期間は、考え難いように思えます。
 何らかの、紀年推定の過誤が、存在する可能性が、高いと思われますが、それは、倭暦の問題なのか、他の暦法上の問題なのか、私には、現時点で、良い思案がありません。
 同時に、この推測の結果から、他の二つの可能性も、考慮すべきではないか、と考えるようになりました。
 即ち、記紀に記されていない、「大王」が、存在した可能性と、数年ではない、十年以上の、長期間の、畿内の大王の「不在」、「空白の時代」の存在です。
 
 「空白の時代」を想定すれば、半島南部の百済の南下政策や、紀氏の半島南部での自立志向なども、説明が、容易です。

 記紀に記されていない大王の存在の可能性については、記紀の系譜からは、畿内に有力な大王候補者が、発見できないのが、難点です。
 雄略天皇による、有力王族の排除により、彼の直系子孫以外の男性皇族は、ほぼ、存在しません。
 母方に吉備氏系の皇別氏族を持つ、星川皇子も、雄略天皇の遺言??を、口実にした大伴大連室屋等により、母と共に、焼殺されました。
 この経緯から考えると、星川皇子の同母兄の磐城皇子は、既に、父に先立って、死亡していた可能性が、高いと思われます。雄略天皇が、実際に、62歳近くまで、存命していたのであれば、20代前半ぐらいで生まれた子は、死んでいても不思議ではありません。
 磐城皇子の男子の、丘稚子はまだ幼く、大王位継承候補足り得ず、難を逃れ、その後も、畿内での有力な後援者もなく、ひっそりと暮らしていたと思われますが、清寧没後の、大王であった可能性も、有るでしょう。
 私は、現時点では、畿内の豪族の一致した大王が、存在しない、空白の期間の存在の可能性が高く、その間の、畿内の一部豪族の擁立した大王が、丘稚子であったのではないか、と考えています。

 



Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2025/01/20 (Mon) 19:55:40

 白石南花さん、

 コメント、有難うございます。
 『宋書』夷蛮伝の、「世子興」の解釈については、倭国からの遣使の主体者が、「倭国王」とは名乗らずに、先王の子で、且つ、その地位の継承権を有する存在である、という趣旨の説明を行わなければ、あのような表現には、ならないであろう、という推測に因ります。
 勿論、紀の、雄略天皇が、兄の安康天皇が、市辺押磐皇子を重んじ、皇位継承者にするつもりだったのを恨んでいた、という記述は、記紀の系譜を信ずる限り、信頼できません。 どう考えても、同母兄弟の履中,反正、允恭3兄弟の、長子の履中の長子市辺押磐皇子と、末子の允恭の長子の安康天皇の生年の比較では、市辺押磐皇子が年長か、ほぼ同年でしょう。
 允恭天皇没後の、倭国の最高位の大王、祭祀王は、市辺押磐皇子、「天万国万押磐尊」であり、世俗王の序列第一位が、穴穂皇子であったと、考えた方が、良いと思います。

 白石南花さんは、複数大王制の言葉は、避けておられますが、古代に「摂政」という言葉は、少なくとも、日本語には、存在しなかったでしょう。
 執政に関与する王族の名称は、「大臣」「大連」「前津君」とは表現できません。
 「おほきみ」としか、表現できないのが、実態です。石和田秀幸氏の「夜の王」が祭祀王とすれば、世俗王は、「昼の王」ですが、『隋書俀国伝』からは、世俗王は「日神」と見做された存在であったことになります。

 次に、清寧天皇ですが、「白髪部」という名代部の存在からも、実在は、確実だと思われますが、在位五年で、死亡し、記紀に后妃の記載もありません。
 上代日本語の色彩語は、基本的に「シロ、クロ、アカ、アヲ」の4語しかないので、アルビノの身体的特徴の「金髪」~淡色の頭髪の色の表現は、「黄色」という語彙が無い時代には、「白色」にならざるを得ません。
 中国風の皇帝の君臨する、唯一の大王の下、官僚の支配する、世俗優位の祭祀世俗王権の統一を志向したと思われる雄略天皇は、畿内から、大王位継承権を持つと考えられる王族を、ほぼ一掃しましたが、アルビノの我が子の出生に、「霊威」を感じ、末子ではあるが、皇太子にした、と記述されています。
 この段階で、「霊的威圧による支配」の倭国の長い伝統に、屈したのかもしれません。
 私は、清寧天皇に、后妃がいない、という事は、未だ、成年に達せずに死んだ、という事だと、解釈しました。10歳ごろまでに、死んだのでしょう。
 大和、河内を中心とする畿内の豪族たちは、吉備の豪族の勢力拡大を忌避し、星川皇子とその母を殺し、飯豊青皇女を、大王の代行者として、播磨から、島稚子と莱目稚子兄弟を迎え、雄略天皇の娘を配して、畿内王権を維持した、という事ではなかったかと、推測しています。
 

 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 白石南花

2025/01/19 (Sun) 16:36:55

>『宋書』夷蛮伝でも、「世子興」とされているのは<

検討してみたのですが、「讚死,弟珍立」「興死,弟武立」と並べてみると、継承関係を述べているだけのような気もします。

>雄略没後の清寧天皇の後の大王として、仁賢、顕宗兄弟が登場し、しかも、後継ぎのいない清寧の「皇太子」に兄弟が立てられたと言う所伝もある。<

清寧という存在が面白いです。
古事記には顕宗まで物語部分があることが知られていますが、なぜか清寧には在位中の話しも即位の話しもなく、崩年干支も墓所の記録さえもありません。
清寧記というのは、そもそも二皇子の即位前記の様相です。
それなのに日本書記ではシラカベと言うのは後世にまで残り、さらに舎人・膳夫・靫負の三点セットは確かここだけですね。
靫負は大伴氏を象徴する職位で、安閑と葦北国にしかないものです。
葦北では刑部です。
そしてシラカと言えば姫で、欽明以下の血統的正当性の根拠です。
しかも和風諡号が時代を飛び越えて特徴的です。

飯豊青皇女から武烈天皇迄② 石見介

2025/01/18 (Sat) 20:13:27

 前回、武烈天皇の没年を、AD556年と推定しましたので、それから、顕宗、仁賢、武烈3代の大王の在位期間を、推定します。

①武烈天皇:在位8年、没年AD556年12月、
在位期間:AD549年~AD556年、

②仁賢天皇:在位11年、没年AD548年
在位期間:AD538年~AD548年

③顕宗天皇:在位3年、没年AD537年
在位期間:AD535年~AD537年

⓪飯豊青皇女:大王位代行期間、不明、生没年不明、

 この3代、或いは4代?の、諸大王の記紀での記録は、錯綜し、まともに記録があるのは、仁賢天皇だけで、他は、怪しい記述のみで、実在を疑いたくなりますが、仁賢天皇
は、女系を通じて、継体欽明皇統の後代の諸天皇の祖先であり、且つ、継体欽明皇統の皇位継承の正統性の根拠とも、なっている存在です。
 顕宗天皇と武烈天皇は、臣下と女性を巡って争った説話があり、恋敵の名は、どちらも「シビ」です。武烈天皇は、紀では、仁賢天皇2年生で、同11年即位とされ、越年称元を適用して、上記の在位期間推定をしましたが、実際に11年の翌年の即位であれば、数え年11歳で即位し、数え年18歳で死亡した計算になります。
 恋愛関係があってもおかしくない年齢での死亡ですが、母が雄略天皇の娘の「春日大娘皇女」で、皇后が、「春日娘子」という記載もあり、顕宗紀との類似説話と、残虐な事績の記述など、武烈紀の記述内容は、信頼性は、極めて、疑わしいものです。
 しかし、顕宗紀も含め、記事の内容の信頼性は低くとも、この間の、平郡氏氏の没落や大伴氏、物部氏などの動向の記事などは、各氏族の「墓記」などが、資料になっていたと思われ、大王としての、顕宗、仁賢武烈3代と、その前の、飯豊青皇女の存在は、認められてよいと思われます。

 残念ながら、飯豊青皇女の、大王位代行期間が、推測不可能なので、鉄剣銘文等から、実在の確実な、倭王武、雄略天皇と、倭の五王の在位期間の推定を、次に試みたいと思います。

 
 

飯豊皇女から武烈天皇迄 石見介

2025/01/11 (Sat) 21:56:14

 継体欽明皇統の成立前に、倭国の大王であったと記される、顕宗、仁賢、武烈三代と、仁賢、顕宗両天皇の姉とされ、兄弟の出現までの政治を代行したともされる飯豊皇女。これら、履中天皇の子孫とされる、大王等の事績や紀年については、記紀の記述にも矛盾が多く、系譜や在位年の推定が、極めて困難です。

 記紀を読み、私がこの履中系皇孫の諸王族について、感じた疑問は、次のようなものでした。

①履中天皇の子の、市辺押磐(歯)別皇子は、『播磨国風土記』では、天皇と記されており、これは、ヤマトタケルとともに、記紀撰述時に、天皇に認定されなかったが、風土記では、天皇扱いされている、例外的な事例である。

②雄略天皇と履中系の皇族の関係では、履中天皇のもう一人の皇子御馬皇子も、雄略天皇に殺され、御馬皇子は、呪詛の言葉を残し、死んでいるが、飯豊皇女或いは飯豊青皇女は、雄略天皇には、害されていない。
 同母兄も二人殺害している雄略天皇が、皇女を見逃したのは、当時、女性皇族には、大王位継承権が無かったからと考えるか、何らかの事情で、大王位継承権を、喪失又は放棄したと、認められたと、推測できる。

③仁徳天皇の諸皇子の内、履中が長子、允恭が末子とされ、履中系の長子が市辺押磐皇子、允恭系の末子が雄略と考えられるので、両者の年齢差は、当時の親子間の年数程度の相違が、有ったと思われる。
尚、記紀では、履中等兄弟も、安康等兄弟も、何れも、同母兄弟とされている。
 雄略没後の清寧天皇の後の大王として、仁賢、顕宗兄弟が登場し、しかも、後継ぎのいない清寧の「皇太子」に兄弟が立てられたと言う所伝もある。
 これは、仁賢、顕宗兄弟が、市辺押磐皇子の子だとすると、不自然であり、実際に、二人が身元を明かす時には、「御子」ではなく、「御末」と記してある。

 以上の三点が、記紀を読んだ時の疑問点でした。
 ①の疑問については、ヤマトタケルも、市辺押磐皇子も、共に、後代の大王・天皇の、直系の祖先とされ、その為に、天皇扱いを受けた可能性もあります。
 しかし、ヤマトタケルは、ヤマトタケルの五世孫で、「タケル」を襲名し、「ワカタケル」を名乗った、倭王武と考えられる雄略天皇の上表文の「祖彌」の一人と考えられます。
 祭祀王というより、戦闘に従事した世俗王の側面が強く、実際に在世中に、最高位の祭祀王の地位に就いていたとは、考え難いものの、東征の帰途で、父の死などによって、最高位に昇格した可能性は、考えられます。

 其れに比較すれば、市辺押磐皇子は、允恭天皇没時、安康天皇よりも年長であったと考えられ、皇族内の長幼順からは、最高位の祭祀王になった可能性は、高かったと思われます。
 安康天皇が、『宋書』夷蛮伝でも、「世子興」とされているのは、倭国の最高位の大王ではない事の、表現であり、また、雄略天皇の市辺押磐皇子殺害の動機について、安康天皇が市辺押磐皇子を、重んじていたことを、恨んでいた旨の記述があるのも、実際には、安康天皇よりも、市辺押磐皇子の序列が高く,安康天皇は、世俗王として、最高位であっても、祭祀王になる事は、当面、考えていなかったのでしょう。雄略天皇の同母兄の二人も、伝統尊重派であり、葛城氏にかくまわれた眉輪王を、追撃する必要は、感じなかったのでしょう。
 記紀は、雄略天皇が目指した、「霊的威圧による支配から、官僚制による支配へ」の転換と、「複数の大王の並立ではなく、独りの大王の君臨」の理念を、根本としたために、市辺押磐皇子の天皇即位を、否定したのでしょうが、紀の記述には、天皇に相応しい「贈り名」も、記されています(「天万国万押磐尊」)。

 ②については、飯豊皇女が、婚姻せず、性体験を持ったと言う記述があり、皇族外の男性とのそのような事実が、大王位相続権の喪失の原因と見做されます。或いは、雄略天皇の魔手から、逃れるための手段だったのかもしれません。いずれにせよ、3世紀の倭国で、卑弥呼が、女王に共立されている前例がある以上、女性皇族に、大王位継承権が、無かったとは考えられず、独身か、皇族との婚姻が、当時の慣習での大王継承権保持の条件であったか、或いは、記紀の女帝容認の基準だったのでしょう。
 結果的に、記紀では、飯豊青皇女は、女帝、皇后ではなく、その大王代行?の実態も、明確には記述できなかったのでしょう。

 ③については、飯豊(青)皇女について、記紀では履中天皇の皇女説と、市辺押磐皇子の長子、との2説が、記載されています。私は、以前から、市辺押磐皇子の「妹」の「飯豊皇女」と、「娘」の「飯豊青皇女」の二人がいた、という説を、唱えていました。同母兄弟や近しい親族間では、呼称が、同一だったり、長幼や世代差を示す接頭語や接尾語等で、区別されるのが、日本古代や中世の、伝統だからです。
 「アヲ」という上代日本語は、新芽を意味する「ミドリ」の色彩,漢字の「翠」「碧」「緑」をも、包含する基本的な色彩語です。後代の「青二才」という語に、年齢的に幼いことを示す用法が、残っています。飯豊青皇女は、父の死後、叔母のもとで、養育され、その財産等を、継承したのでしょう。
 仁賢、顕宗兄弟は、播磨に逃れ、身を潜めていましたが、「叔母」の飯豊青皇女は、逃亡先を承知しており、雄略天皇没後の清寧天皇が、アルビノで、後継者がいない事から、大和や河内の豪族の了承を得て、甥を迎え入れることに、成功したと思われます。
 身体虚弱な清寧天皇には、反対する気力もなく、大和や河内の豪族たちも、近江、丹波、吉備などの王族よりも、基盤の弱い二人の兄弟の方が、担ぎやすいと、考えたのでしょう。

 市辺押磐「大王」と仁賢、顕宗兄弟の間の王族の名は、失われたと思われますが、或いは,御馬皇子が、市辺押磐大王の「弟」では無く、「子」であったのかもしれません。或いは、飯豊皇子のような、同一の呼称であったため、記録が錯綜して、失われたのかもしれません。
 
 継体天皇登場前の、飯豊青皇女の執政代行期間が、推測不能であり、仁賢天皇が、清寧天皇の「太子」に、立てられたと言う話も、信頼性は薄いですが、兄弟が、雄略天皇の皇女等との婚姻によって、大王位を継承した事は、史実と考えられます。
 以下、武烈天皇から、遡及して、在位期間の推定を、行います。

①武烈天皇:在位8年、没年武烈天皇8年12月
  誕生年が仁賢天皇2年と、紀にあり、即位が仁賢天皇11年で、越年称元ではなく、ゆ年称元の可能性があります。継体欽明皇統の諸大王の、在位期間等は、1年2歳の、倍暦である倭暦を前提に、計算しましたが、それを適用すると、数え年でも5歳か、6歳で、即位し、10歳そこそこで、死亡した事になります。
 実際の執政は、紀に記すように、「大臣」の平群臣真鳥が行なったとしても、5歳の幼児に、祭事は不可能です。まして、大臣の息子と恋人を争う事は不可能です。
 平群シビとの一件は、類似の記事が、顕宗紀にもあるので、大伴金村による平群氏討伐伝承と、関連する説話の混入など、他の要因も考えられますが、倍暦を前提にすると、武烈天皇の即位は、成立し得ません。
 どう考えるべきか?
 
 雄略天皇は、稲荷山古墳出土鉄剣銘他から、実在の確認される大王で、倭の五王の一人、武とされる存在です。紀にもあるように、彼は、南朝へ、身狭村主青等の渡来人を使者として、劉宋に派遣し、文物を輸入し、彼らを、寵愛し、多くの皇族を殺し、唯一の大王、祭祀と世俗を一つにして、おそらく、世俗的な政治を、優先する体制の構築を、求めたと、考えられます。
 南朝からの多くの渡来人は、元嘉暦と干支を使用し、文書の記録も、当然行ったでしょう。
 倭国の王権の中心地域の、河内と大和を含む、畿内では、元嘉暦と干支の時代となり、伝統的な倭暦は、畿内周辺の諸豪族と、渡来系諸氏と接触の少ない一部の畿内の倭人豪族に、伝えられる事になったのでしょう。

 即ち、雄略以降、武烈までの諸大王は、倍暦ではなく,元嘉暦で、在位年等を、推測すべきだと思われます。
①武烈天皇:在位8年、没年武烈天皇8年12月とされるますが、次代の継体天皇の即位年を、前回の倭暦を前提とした推測では、AD558年後半年、としました。
 記紀に記すように、大伴大連金村や、物部大連、巨勢大臣等の群臣が、武烈崩御後に協議して、雄略天皇の粛清を免れた王族男子を、捜して、候補者を決定したのであれば、どのくらいの時間を、要したのか?
 武烈の死が、12月であり、記紀では、翌年に、継体が即位したと記しています。
 しかし、武烈の葬儀の時間も必要です。
 霊的威圧による祭政一致の時代から、中華風の、皇帝の君臨の下、官僚制による支配を目指した雄略が、倭国の大王として、筑紫嶋から、東国までの広範な地域の支配体制の構築を、成し遂げた事は、畿内の諸豪族の権力と権威と利権をも、上昇させましたが、同時に、南朝からの渡来系官人諸氏の登用は、在来の氏族の不満をも、招いたでしょう。
 何よりも、河内、大和、山城、摂津のような畿内地域には、皇位継承資格を持つ、有力な男子皇族が、存在しなくなった、という事と、雄略天皇の男系が、実質、その子の代で途絶えた事は、祭政一致の時代への復帰への、大きな揺り戻しの原因になったと思われます。

 吉備には、或いは、雄略天皇もしくは允恭天皇の男系子孫が、存命していたかもしれませんが、畿内の豪族たちは、それを忌避し、先ず、丹波の仲哀天皇の子孫を、迎えようとして、遁走されます。
 次いで、近江にいた継体を、迎えることになるのですが、継体も、逡巡し、最終的には、河内の馬飼部首荒籠からの情報で、受け容れます。
 この経緯から、継体即位の、太陽暦の1年前よりも、2年前が、武烈天皇没年であると、考えた方が、良いように思われます。
 

 

継体欽明皇統の諸天皇の在位期間 石見介

2025/01/03 (Fri) 22:57:02

 倭暦として、倭人諸部族国家間で、一般的であったと推測される、「一年二歳」の倍暦を、前提として、『日本書紀』の本文を基本資料として、継体欽明皇統の初期の大王、継体天皇から推古天皇までの、諸大王の在位期間を、『隋書俀国伝』等の中国史料と、可能な限り矛盾なく、推測を、試みます。

 推古天皇から、継体天皇迄、遡及して、推測する方法を、採ります。尚、基本的に、越年称元法が、行われたと考えられ、これも前提とします。


⓪推古天皇:在位36年(倭暦)、没年AD628年4月15日?
 在位期間、AD610年後半~AD628年前半

U)上宮聖徳法王?蘇我馬子??蘇我蝦夷?? 
在位期間:AD602年?~AD610年後半?

①崇峻天皇:在位5年、没年AD601年、
在位期間:AD599年前半~AD601年前半年?

②用明天皇:在位2年、没年AD598年後半年?
在位期間:AD598年前半年~同年後半年

③敏達天皇:在位14年、没年AD597年?
?在位期間:AD591年前半年~AD597年後半年?

④欽明天皇:在位32年、没年AD590年後半年?
在位期間:AD575年前半年~AD590年後半年

⑤宣化天皇:在位4年、没年AD574年後半年
在位期間:AD573年前半年~AD574年後半年

⑥安閑天皇:在位4年??没年AD572年後半年??
在位期間:AD571年前半年~AD572年後半年??

⑦継体天皇:在位25年:没年AD570年?AD572年??
在位期間:AD558年年後半年~AD570年後半年

 以上が、継体天皇から推古天皇に至る、継体欽明皇統の初期大王の、序列第一位の祭祀王としての、在位年の推測です。紀の本文の在位年数を、倍暦と考え、且つ、越年称元であると、仮定しての在位期間推定ですが、推測の定点としたのは、『隋書俀国伝』の記述にある、AD600年と、AD607年の「遣隋使」派遣の年次です。辛酉革命説の起点となるAD601年に、崇峻天皇の没年を想定し、『隋書俀国伝』の記述に従って、隋使裴世清の面会した倭国王を、男王とし、その後に、推古天皇の治世を、置いています。推古天皇の没年は、紀本文の没年の現行暦換算年に、合わせています。
 倍暦を前提としたため、通説の、継体欽明皇統の初期大王の在位年と比較すると、在位期間が半減し、時期も、後代にずれていますが、古代や中世の人々の平均寿命を考慮すると、この程度では無かったか、という気もします。歴代天皇の寿命の確認が可能な平安時代以降の、皇族や貴族の寿命をみても、皆が40歳以上まで、生きていた等という事は、有りません。まして、中世より医療技術の低かった古代においては、戦争等の外傷や事故死を除いても、中世以上に、成人後の寿命も、短かったでしょう。

 次回に、仁賢天皇等の大王の在位期間の推定を、試みます。

崇峻天皇の実像を考える④ 石見介

2024/12/29 (Sun) 14:50:48

 崇峻天皇が、実際にどのような大王であったのかを、推測する上で、その諡号、特に和風諡号が、重要な手掛かりになると思われます。記紀撰述後に、一括して付与された、漢風諡号と異なり、和風諡号は、生前もしくは死没直後に、与えられた「贈り名」であると考えられ、霊的威圧による支配の時代、祭政一致の時代の大王であれば、死後の貶称は、新たなモノノケの招来に繋がりかねず、そのような危険は、避けたでしょう。上代日本語の「おくりな」の語義は、漢語の「諡号」と、完全に一致する言葉ではないことに、
留意する必要が、有ります。
 それは、上代日本語の「忌み名」と、漢語「諱」の間の、相違を想起すれば、理解できるでしょう。

 上代日本語「おくりな」に宛てられるべき漢字表記としての「贈り名」には、「死後に贈られる名前」という意味までは、含まれてはいません。
 勿論、中国からの種々の文化的概念の輸入に伴って、中国の「諡号」の概念が、輸入されたと、考えられますが,「忌み名」同様、「な」という上代日本語の基礎語彙には、「もの」の「たたり」をおそれる古代日本人の感性、心理が、反映されていると考えられます。私は、「贈り名」は、生前に、当人が成人後に、どのような人物となる事を、目指すのか、或いは父兄や親族、家臣が、期待するのかを、反映した名称であった可能性が高いと、考えています。


 崇峻天皇の和風諡号は、「ハツセベノワカサザキ」です。これは、養育氏族名と思われる「ハツセベ」即ち、漢字表記では.泊瀬部、長谷部等と書かれる皇子時代の呼称に、「ワカサザキ」、漢字表記では、「スズメ」を意味する語彙に、長幼、世代差を示す「ワカ」を示す語彙が付加され、「若、小、少、稚」+「雀」他の形を、採ります。
 ここで、「サザキ」の諡号を持つ大王が、第16代の仁徳天皇である事に、注目すべきでしょう。

 即ち、崇峻天皇は、仁徳天皇の再来、とは言えずとも、その業績に近い実績を上げた大王、もしくは、それと同じ事績を上げることを意図して、自らの「おくりな」を選んだ、大王だったと思われます。


 中国南朝劉宋に、朝貢を行った、応神仁徳皇統の倭の五王。 その最初の「倭讃」をだれに比定するかは、諸説ありますが、応神天皇か、仁徳天皇が、有力候補です。
 私は、「讃」を決めかねていますが、仁徳天皇であったとすれば、崇峻天皇の「おくりな」が、仁徳天皇の「大雀命」に対して、「少/小・雀命」という、中国新王朝への、最初の遣使をした大王、という、共通性が、その「贈り名」から見えてきます。
 私は、継体欽明皇統の諸天皇の、在位期間については、倭暦としての倍暦の存在を前提にして、推測を試みた事があり、おおよその年代観を持っていましたが、『隋書俀国伝』の記述を踏まえて、現在、再検討中ですが、それ以前の、応神仁徳皇統や崇神皇統、欠史八代や神武天皇の在位年については、記紀の干支、太歳年号、崩年干支等の扱いについて、定見がなく、専門家諸氏の説のいずれにも、従いかねています。
 文献批判では、多く従う事の多い、白石南花さんの、紀年論の投稿に、注目していますが、全容がつかみにくく、質問等のコメントが、出来ない状況です。
 取り合えず、継体欽明皇統の諸天皇の在位年を、算定し、次いで、応神仁徳皇統の諸天皇の在位年の検討を、試みたいと考えていますが、以前から、顕宗仁賢皇統という、応神仁徳皇統と継体欽明皇統の、つなぎ目の諸大王について、記紀の示す系譜と異なって、仁賢天皇兄弟を、履中天皇の孫ではなく、曽孫ではないかという推測を採り、飯豊皇女等の執政期間を、長く見積もる考えに、傾いています。
 正直な所、応神仁徳皇統と継体欽明皇統の諸天皇の在位年推定で、生じる在位空白期間の、穴埋めの都合の側面も、有ります。
 一応、試案を提供して、紀年論に詳しい方のコメントを戴き、修正する方向で、臨みたいと考えています。

追記:仁徳天皇、武烈天皇、崇峻天皇の、和風諡号に共通の「サザキ」は、「ミソサザイ」が、その語義と考えられますが、『古事記』等の漢字表記では、「雀」の字を宛てられており、同じ「スズメ目」でもあり、当用漢字の「雀」の表記で、統一する事にしました。その都合上、「ミソサザイ」ではなく、「スズメ」として、便宜的に扱っていますが、新羅の2代国王「南解次々雄」の「次々雄」或いは「慈充」と「サザキ」を、同源語と考えて、「巫祝」の語義であるとする説の存在は、承知していますが、議論が煩雑になる為、触れませんでした。(R06、1/7)


 

崇峻天皇の実像を考える③ 石見介

2024/12/24 (Tue) 22:47:50

 崇峻天皇が、用明天皇没後の最高位の大王となるのには、記紀の記述とは異なり、大きな異論は、なかったと思われます。
 それは、AD599年の即位後、翌AD600年に、紀に記されない「遣隋使」を、送った事からも、推察できます。即位時に、大きな政争があれば、倭王武=雄略天皇以来となる中国への朝貢使など、到底、派遣できなかったでしょう。中国史書は、劉宋以降も、倭国が南朝に朝貢したと記しますが、記紀を読めば、雄略天皇の「大悪天皇」としての行動により、多くの並立していた大王が殺され、有力な王族が激減し、雄略天皇の子らの身体的な虚弱もあり、大王位継承の不安定化が進行していた状況が、確認出来ます。

 劉宋以後の南朝の記述する倭国使は、中国側の都合による進号か、府官制下で軍郡に叙せられた、畿内以外の地域の、諸王や首長の遣使、或いは、海人族などの「偽使」だったと思わtrます。
 倭人、倭寇、倭王等の「認定」は、中国、半島の史書は、自己都合で、必要があれば、自国民でも、認定するのは、後代の明や李氏朝鮮で、実例があります。

 崇仏派は、欽明天皇の時代に、蘇我氏中心に、形成されていましたが、祭政一致の伝統が優占した状況下で、蘇我本宗家と物部氏本宗家も婚姻し、崇峻天皇は、両者の姻戚でもあり、特に異論なく、「夜の食す国の神、月読尊の化身」として、泊瀬部皇子が、最高位の大王となったのでしょう。

 この時、その下位の大王、「日神」の化身と見做された諸大王は、宣化天皇の皇子宅部皇子、崇峻の同母兄穴穂部皇子のような、崇峻の同世代の王族と、次世代の彦人大兄、竹田皇子、尾張皇子、春日皇子、田眼皇子、厩戸皇子等が、有力であったと思われます。

 崇峻天皇のAD600年の遣隋使は、倭の五王の時代の南朝への遣使同様、朝貢の形態であったと思われますが、漢民族ではない北朝系の王朝への朝貢の形式について、支配層内で、異論があった可能性が、高いと思われます。それが、隋の高祖文帝による、倭国の祭政一致というか、祭祀優先と云っても良い政治形態の、核心部分とも言える、「天を兄、日を弟」とする統治体系、即ち、「月神の顕現、化身」である「アメノタリシヒコ」の統治体系の否定、という、予期しなかった反応に、遭遇します。
 その結果が、翌年、AD601年の辛酉年の、「革命」という大政変になります。『日本書記』では、最終的な編纂時の、藤原不比等の意思が、強く反映していると思われますが、AD601年時点で、どのような勢力が、主導して、どのような形で、決着したのかは、不明です。
 それは、『隋書俀国伝』と、記紀や風土記等の国内の史書等の、記録から、推測するしか、有りません。

 記紀は、崇峻天皇没後の大王として、用明天皇の同母姉妹の推古天皇の即位を記し、また、崇峻天皇の死因として、臣下による暗殺をも、記述していますが、前者は、紀に記されたAD607年の遣隋使の記事に対応する,『隋書俀国伝』の記事で、当時の倭国王が、AD600年と同名の、男王とされ、且つ、隋の煬帝の使節裴世清が面会した倭国王が男王であったことから、明白な虚偽記載だと、判ります。
 尚、『隋書俀j国伝』では、倭王の名について、「姓」を「阿毎」即ち「アメ(天)」とし、「名」「諱」ではなく、「字(あざな)」として、「多利思北孤」と記しています。「北」は、「比」の誤記と考えられ、「タリシヒコ」という、上代日本語の語彙が、再構されますが、中国側が、「タリシヒコ」を、倭国王の「字」と捉えている事は、「アメ/アマ」を、「姓」と記している事と併せ、重要な論点になります。

 もう一つの、崇峻天皇の死因の暗殺の話の真偽は、確認など、不可能ですが、暗殺者が、祭政一致の伝統に縛られた倭人ではなく、渡来系の仏教の信者であれば、霊的威圧を感じることもなく、狂信者として、使命感を持って、暗殺者となった可能性も、考えられます。東漢氏であれば、崇仏派の大王が、倭国王になると考えれば、暗殺も承知した可能性は、有るでしょう。

 

崇峻天皇の実像を考える② 石見介

2024/12/17 (Tue) 23:28:07

 記紀では、欽明天皇没後、その四子、敏達、用明、崇峻、推古諸天皇が、相次いで、即位したと記述しています。しかし、これまでの記紀や上代日本語、世界の古代国家の様相と日本の古代の比較等から、日本の古代でも、汎世界的とも言える、複数王の並立(序列は存在する)や、記紀編纂時の、意図的な年代遡及操作が、確認されました。
 大幅に在位期間が水増しされた推古天皇と、逆に在位期間の短い、用明、崇峻両天皇。
 ここで、用明・崇峻両天皇の「在位期間」の短縮操作が、行われたのかが、検討対象になります。
 私の考えは、それは無かった、というものです。

 神武天皇即位年の大幅な遡及操作の為、架空の大王を認めない前提下では、大王の存在しない空白期間が生じかねない状況下で、そんな余裕は、無かったと思われます。
 即ち、実際に、用明・崇峻両天皇の在位期間は、短かかったのです。
 勿論、大王としての両者の在位期間は、成人後、没するまでの、相応の期間だと思われますが、序列第一位、最高位の大王としての期間は、記紀の記す年数であったと思われます。
 勿論、倭暦での年数なので、現行太陽暦の2倍に、延長操作されています。
 以下、その論拠を、述べます。

 先ず、父の欽明天皇の在位期間は、紀では、32年間とされて居ます。倍暦の1年2歳で、倍化されて記載されているとすれば、現行太陽暦換算で、16年程となり、寿命63歳も、半減して、32歳前後とすれば、数え年15歳ぐらいで、最高位の大王となり、30代前半で死亡した事になります。多少、短命な感じもしますが、古代での平均寿命を考えれば、こんなものでしょう。
  
 欽明天皇の次代の最高位の大王は、異母兄の安閑・宣化両天皇の子も含めた諸王から選択される事になりますが、長兄の安閑天皇の後裔は、おそらく政争で、除かれた可能性もあり、いません。
 宣化天皇の子としては、宅部皇子の名が、有りますが、本来、継体、安閑、宣化3天皇は、応神仁徳皇統の傍系であり、父子3人が,仁賢天皇の皇女を娶る事により、大和の諸豪族に、大王位継承を、認められたと思われ、仁賢天皇の長女と継体天皇の子である欽明天皇の血統の優位性が、認められていたと思われます。
 宅部皇子ではなく、欽明天皇の子の内、誰を最高位の大王に選択するかが、問題であり、母も王族の、敏達天皇が、選択されたのでしょう。

 敏達天皇は、父の没後の翌年、即位したとされますが、蘇我氏の娘を母とする、「大兄皇子」事橘豊日皇子、即ち後の用明天皇と、年齢差は殆どないか、或いは、年下だったかもしれません。
 同母兄の箭田珠勝大兄皇子の死後、大兄的立場であったと思われます。
 敏達天皇は、在位14年で死亡したとされますが、この在位年数は、倍暦だと思われるので、実質現行太陽暦の7年程で、死亡したと思われます。

 敏達天皇没後、用明天皇が即位しますが、在位2年で、死亡します。実際には実質現行暦の1年間にも満たない短期間だったと思われます。
 用明天皇の次代の大王を巡って、蘇我氏と物部氏の争いがあったと,『日本書紀』は、記します。
 この時、大王の候補者として、同母兄弟の、穴穂部皇子と泊瀬部皇子の何れを立てるかで、蘇我馬子と物部守屋が、争って、物部守屋が、中臣連らと共に、斃され、厩戸皇子も参戦した、と紀は記しますが、この辺りの記述は,『隋書俀国伝』の記述から、虚偽だと、確認出来ます。
 実際には、辛酉年のAD601年の、崇峻天皇の失脚という大政変の年次と登場人物の書き換えだと思われます。
 この時、穴穂部皇子支持派排除の巻き添えで、宅部皇子も、除かれたと紀は、記していますが、実際には、辛酉年の革命の犠牲者の一人でしょう。

 崇峻天皇の在位年数は、5年間とされますが、倍暦だと考えられるので、太陽暦の2年半、足かけ3年で、AD599年~601年が在位期間であり、用明天皇の在位は、その前年のAD598年、という推測が出来ます。



 

崇峻天皇の実像を考える① 石見介

2024/12/07 (Sat) 00:02:08

 隋の高祖文帝の開皇20年(AD600年)、紀に記されない「遣隋使」を送り、文帝にその統治体制を、「大いに義理無し」と否定され、その「教示」により、翌601年の辛酉年の「辛酉革命」によって、失脚した倭王、「阿毎多利思比孤」とは、一体、どのような「大王」だったのか?
 このAD601年の辛酉年が、記紀の編纂に、決定的な影響を与えたことを考えると、失脚した倭国王と考えられる「崇峻天皇」が、実際には、どのような大王だったのか、検討が必要です。
 記紀でのその人物像は、大きく歪められていると思われますが、可能な限り、その実像を、探ります。

『日本書紀』の紀年は、辛酉革命説に基づく、初代神武天皇の「即位年」の、大幅な遡及操作の為、大きく歪められていると考えられます。AD607年の紀に記された「遣隋使」は、隋の使節裴世清を、倭国に伴い帰国しており、『隋書俀国伝』は、裴世清の報告が、情報源だと思われ、貴重な同時代資料だと考えられます。
 紀では、AD593年来、ずっと推古天皇の治世とされていますが、『隋書』では、女帝女王の記述は一切なく、同じ男王「阿毎多利思比孤」が登場します。
 しかし、同一呼称でも、AD600年の倭王は、「天を兄、日を弟」とする「夜の食す国」の王、月神の化身であり、AD607~608年の倭王は、熱心な崇仏派で、明らかに別人です。
 このあたりの紀の大王や年次の記述は、全く、信用できません。
 しかし、記紀撰述時の支配層の心理が、鬼神、モノノケを怖れる物であれば、実在の大王の在位年等の「書き換え」は行っても、架空の存在を造作して、新たな物の怪を、招くような、恐ろしい事は、避けたでしょう。
 
 そう考えると、在位期間の長い推古天皇の没年や、元嘉暦採用(公認)時期が、起点として、それ以前の継体欽明皇統の諸大王の、在位年の推定が、可能になると思われます。
 当時の日本の歴史や神話等の伝承の方法は、無文字社会での「口誦」即ち記憶を、祭祀や宴会等で、披露する形態が、基本だと思われます。それに加えて、半島や大陸からの漢文を、種々な水準で記録し得る人々による記録の他に、倭と新羅の文字への前段階の記録法として、「木を刻み、縄を綯う」事により、「しるし」(信)とする段階にあったことが、中国の史書から、窺えます。
 モンゴルなどの遊牧民の,口誦についての記録では、父系制氏族社会の父祖の系譜は、正確に直近の数代の親族を伝え、叙事詩のような形態に達していることが、知られています。
 日本列島の場合は、倭人や渡来系で、歴史、古伝承の伝え方は、さまざまであったと思われますが、部族国家から、部族連合国家、領域国家へと成長する過程で、統治の必要上、何らかの記録法や、計数、管理の必要上、口誦以外の方法の併用が行われたと思われます。
 複数大王制から脱却して、中国風の単独王制を目指したと思われる倭王武、雄略天皇は、その為に、南朝からの渡来人を、偏愛したのでしょう。

 推古天皇は、百済より、書、暦の専門家を得て、元嘉暦を採用したとされますが、史実でないにしても、とりあえず、その没年とされるAD628年4月15日と、辛酉革命説の起点であるAD601年を、定点として、考察せざるを得ません。
 神武天皇即位年遡及操作に伴う書き換えや、又、「月読命の顕現」たる夜の食す国の王の失墜と崇仏派の勝利等の隠蔽や、神話の書き換えは、編年体漢文史書編纂に際し、干支、景初暦、元嘉暦、倭暦などの雑多な暦法の混在する史料群の取り扱い等、極めて、困難な大事業であったと思われます。

 しかし、辛酉革命説で、初代大王の神武天皇の、即位年が決定され,怨霊を怖れる古代人は、架空の大王を造作して、新たなモノノケの発生は、避けたい。
 結果、複数の王中、現皇統に繋がる諸大王と、口誦で認められていた大王の、在位年数や寿命の延長操作が、行われる事になります。

 倭暦の1年2歳は、そのまま2倍にカウントする。
 干支は、一運、或いは二運、ずらす。
 そのような年代の操作の結果が、記紀の年代の基本となります。
 推古天皇の没年は、在位36年で、AD628年4月15日とされます。此処から倍暦で推古天皇即位年を算出すると、推古2年~35年の倭暦34年間は、太陰太陽暦の17年間に相当し、推古元年は,AD610年の後半の年になります。
 記紀で推古天皇の前代とされた崇峻天皇は、AD601年の辛酉年の死亡と考えられるが、前半年か、後半年かは不明です。
 AD601年から、AD610年の後半年の、太陰太陽暦の約10年、倭暦の20年は、推古天皇でも崇峻天皇でもない男王、仏教導入派の、大王の治世になります。
 上宮聖徳法王か、蘇我馬子が、その候補足り得るが、祭祀王、仏法の法王としての「厩戸皇子」と世俗の王蘇我馬子或いは蝦夷、という組み合わせも考えられます。

 いずれにしろ、欽明天皇の娘の推古天皇は、兄弟や甥、息子等の有力な男子王族が悉く死んだあと、当時としては、奇蹟的と思われた長寿で、最高位の祭祀王となり、欽明天皇の曽孫世代への、大王位継承の中継ぎの役目を、果たしたのです。
 


 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/11/26 (Tue) 20:20:17

米田さん 

〉日本書記が、何をもって「立太子」としているか、<

 現在の歴史学界の大勢は、律令制定時まで、「皇太子」は、存在せず、「大兄(おおえ)」制は、存在した、というものだと、私は、認識しています。
 「大兄(オホヱ)」とは、同母兄弟中の最年長者を意味し、大王家の場合は、一夫多妻なので、后妃ごとに、複数の男子がいれば、「大兄」も、当然、複数、存在する事になります。 敏達の場合は、同母兄「箭田珠勝大兄」が居り、成人後に死亡した為、ある時期に、敏達を「大兄」として認めた、という事を、「立太子」」と表現したと、私は、理解しています。
 「大王」を「天皇」と表現するのと同じ、レトリックです。

 まあ、「家産国家」では、国家自体が、王家や氏族の私有財産なので、分割相続や共同で相続すれば、当然、複数の王が、同時に並立することになります。
 中国の史書『宋書』や『南斉書』『梁書』を見れば、百済には、百済王以外に、王侯や同格の「郡太守」が存在し、中国南朝に、承認されていますから、欧州の事例を挙げる必要もないでしょうが、メロヴィンガ朝フランク王国の記録で、修道院長が、「私は王の従姉妹なので、女王である」と言ったと言う記録を見た時に、私は、日本古代に於ける、複数大王の並立の傍証だと感じました。
 上代日本語では、「大王」も鏡「王」も、その娘の鏡「女王」も額田「王」も、皆「おほきみ」です。
 日本語では、所詮、漢字は、「当て字」に過ぎません。人名、地名、官職名などは、皆、上代日本語」に書き換えて、解釈するのが、原則でしょう。
 漢字の「字面」に囚われては、歴史を見誤ります。

 

RE:倍暦とシンメトリック理論 - 米田

2024/11/19 (Tue) 08:01:58


│倍暦については、古田武彦、安本美典、
│貝田禎造諸氏の所説を読んでいましたが、
│米田喜彦さんによれば、宝賀寿男氏も、
│倍暦存在論者だそうです。

:宝賀寿男氏の倍暦論については、
:うろ覚えで書いていたために、
:正確さに欠ける面がありました。(失礼しました。)
:2019年の「邪馬台国新聞」に、投稿記事がありましたので
:抜粋ですが、コピーしました。


│私は、欽明紀と敏達紀という『日本書紀』のおそらく同じ史官が
│担当した可能性の高い本文で、敏達の立太子の年月が、
│一方では、欽明天皇15年正月、他方では欽明天皇29年正月と
│なっている事に気付き、倍暦の存在を、確信しました


欽明15年(554年)、皇子(敏達)を立てて皇太子とした。
(推古天皇の生年は、554年。)
欽明29年(568年)、皇太子に立った。
(推古天皇は、15歳。)

推古天皇紀(前文)←(554年生だとすると、2年のズレがある。)

・18歳(571年)、敏達天皇の皇后になる。
(敏達天皇紀では、敏達天皇の没年は、585年)
・34歳(587年)、敏達天皇が崩じた。
・39歳(592年)、崇峻天皇が殺された。
・39歳(594年)、額田部皇女が天皇位に即いた。
太歳癸丑(593年)、聖徳太子が皇太子に立つ。(聖徳太子20歳)
(593年、推古天皇即位)
(552年生の誰かが、皇后だったとすると、つじつまは合います。)
(その場合、候補は2人です。磐隈皇女と泥部穴穂部皇女になります。)

:「立太子の年月」について
:石見介さんがご指摘の「敏達の立太子の年月」については、
:今回、初めて知りました。

:ただ、日本書紀の「立太子の年月」については、各天皇紀の
:本文の記事と、齟齬があることは、知ってはいました。
:日本書紀が、何をもって「立太子」としているか、については、
:天皇の誕生、成人、結婚の年とか、皇后の誕生、結納、結婚の年とか、
:何かしらの法則性があるとは思っています。
:ただ、これに手を付けると(古事記との比較もしなくてはならず)
:泥沼になりそうなので、触らないようにしてきました。

:その代わり、(匿名の人が発見した)シンメトリック論を
:米田は、利用させていただいている訳ですから、(今は)
:シンメトリック論(を広めることと、)による年代の復元と、
:天皇の系譜の復元を(今は、私の研究の)メインにしております。

:日本書紀の時代には、「天皇制(天皇)」は、なかったので、
:編纂の段階で、誰を天皇にするか、とか、途中で、天皇の差し替えが
:ありました。
:また、ある人物を「死んだことにして、別名で、生きている」とか、
:同時に、複数の名前で登場していたり、とか。
:日本書紀を調べていると、色々出て来ます。

倍暦とシンメトリック理論 石見介

2024/11/16 (Sat) 14:49:17

『日本書紀』に記されない、隋の高祖文帝の開皇20年、AD600年の、初回の遣隋使が持ち帰った隋の皇帝の説諭‽は、既述のように、祭政一致、夜の食す国の支配者の月神の地上界の顕現たる月読命であった倭王アメノタリシヒコに死をもたらし、代わって、仏教導入派の「法王」が、新たに倭王アメノタリシヒコを称し、AD607年に、紀に記された遣隋使を送り、仏教導入と従来の朝貢外交ではない「対等外交]を、志向します。 同時に、史書の編纂も進行しますが、AD600年の辛酉年の「政変」は、その後の記紀編纂時の、建国年―初代大王の即位年の決定に、「辛酉革命説」による「起点」として、決定的な影響を与え、BC660年が、建国年と「決定」されます。

 継体欽明皇統は、建国年の遡及に当たり、架空の大王を創出せず、既存の系譜の大王の寿命や在位年数の「増加」で、対応しました。
 本来祭政一致で、「霊的威圧による支配」の時代が長く続き、モノノケを怖れる心理からは、実在しない架空の大王を造作することは、自ら、新たな「モノ」(物、者、鬼)を招来する恐れがあり、不可能だったのでしょう。

 しかし、大王~天皇たちの、寿命や在位年数の「水増し」を命じられた「史官」達は、大いに困惑したでしょう。可能な限り、資料には従いたいが、それでは与えられた課題が果たせない。
 幸い、倭国には、1年2歳の「倍暦」が、存在した。これを利用して、とりあえず、寿命と在位年数の2倍
化は、可能になった。
 しかし、未だBC660年には届かない。 他にも、蘇我氏の簒奪などの隠ぺい工作などの必要性もある。
 やむを得ず、年数の偽装を担当した史官は、その痕跡を意図的に残すべく、「シンメトリック理論」を、考案したのではないか?
 現時点での私の「倍暦」と「シンメトリック理論についての考えです。

 シンメトリック理論については、私は、昔の2チャンネルで、見た記憶がある程度で、詳細は、米田喜彦さんのスレッドを、ご参照下さい。

 倍暦については、古田武彦、安本美典、貝田禎造諸氏の所説を読んでいましたが、米田喜彦さんによれば、宝賀寿男氏も、倍暦存在論者だそうです。
 私は、欽明紀と敏達紀という『日本書紀』のおそらく同じ史官が担当した可能性の高い本文で、敏達の立太子の年月が、一方では、欽明天皇15年正月、他方では欽明天皇29年正月となっている事に気付き、倍暦の存在を、確信しました。
 明白な撰述者のミスですが、このような見落としの存在こそ、倍暦の実在と、それを利用した、建国年遡及操作の証拠でしょう。



 

霊的威圧による支配から,, 官僚による支配へ―2 石見介

2024/09/12 (Thu) 01:48:28

 談話室での、伊藤雅文さんとの議論を踏まえ、日本神話の体系が、現行の記紀神話の体系に大転換する時期の、諸々の事件や事情について、詳細な討論が必要だと感じました。
 討論室に相応しい、議論となるよう、皆様のコメントを期待しています。

 私の基本的な考えは、表題のように、7世紀前半が、日本国家の統治システムが、祭祀王制から、中華風の官僚支配体制への「転換」の時代と考えますが、中国や半島諸国と異なり、根強い祭祀王制の伝統の為、平安時代以降のような、日本国家、日本社会が、形成される、というものです。

 私の解釈の前提になる、私独自ないし特徴的な考えとして、以下の仮定や解釈があります。
 ①遺伝人類学的に、騎馬民族征服~渡来王朝説は、否定される。現皇室の男系祖先である継体欽明皇統は、Y-D1a2a系の下位の型と、考えられる。
 ②記紀編纂時の、史料類の暦法は、保存する各氏族により、様々で、時期、地域の相違による様々な、中国伝来の、干支、景初暦,元嘉暦の他、倍暦という独自の「倭暦」が、特に倭人系の諸氏族で、広く使用されていた。
 ③大王は、王族内の有力家系の成人男女が、複数名、同時期に並立して存在した。諸大王間に、序列は存在したが、殆ど権力差はなく、通常は最年長者が、最高の祭祀王とされた。災害その他,異常な時代には、霊能のある女王が、最高位の祭祀王となった。
 ④記紀の大王系譜は、初代とされた神武天皇以後は、仁徳天皇までは、父子直系のように記載されているが、これは、記紀編纂時の天皇、大王は、常に一人だけだったと言う、イデオロギーによる記載であり、現実には、並立していた諸大王中、継体欽明皇統に繋がる応神仁徳皇統の直系祖先の大王のみを、唯一の大王のように記載した。
 従って、初期大王の世代数は、信頼性があるが、在位年数などは、信頼性は低い。

 

『竹取物語』は、反記紀神話の書か? 石見介

2024/08/26 (Mon) 00:15:38

『隋書俀国伝』の記事の検討から、7世紀初頭に、倭国の革命的政変があり、継体欽明皇統の「祭祀王制」が崩壊し、紆余曲折後に、7世紀中葉には、おそらく現行の、記紀という史書の成立、唐の律令制の導入などの改革と共に、現在我々が、「日本神話」として認識している「記紀神話」の体系も、確立したと考えられます。
 しかし、大幅に改変された記紀神話以前の日本神話を、中国史書以外に、窺い知る手段は、無いのでしょうか?
 私は、日本最古の「物語」とされる『竹取物語』に、その片鱗を、見て取ることが、可能だと推測しています。
 以下、それについて述べますが、諸般の事情の為、コメントの完成が遅れるので、ご容赦お願いします。


 さて、『竹取物語』は、月の生まれである「女性」の「かぐや姫」に、皇族や公卿5人と、更に、「帝(みかど)」の、計6人が求婚し、何れも叶わず、満月の夜に、かぐや姫は、月に帰還するというお話です。求婚者5人中の公卿3人は、壬申の乱に功績のあった実在の人物の名をそのまま使用しており、他の二人の「皇子」も、藤原不比等などが、モデルとして想定されるなど、極めて政治批判、体制批判の側面が強い「物語」である事は、先学の諸氏の一致した見解です。
 この日本最古の「物語」を、藤原氏批判や天武天皇批判の書としてではなく、もっと根本的な「記紀神話」の体系に対する、石和田秀幸氏の言う「夜の王」、私の仮想する「月神の地上界の顕現、代理者であるツクヨミ命」たる、記紀神話から抹殺された祭祀王「アメノタリシヒコ」の記憶を持つ人々により、作成された物語として、解釈を試みます。

求婚者五人は、文武天皇時の「公卿補任」に、名を連ねますが、壬申の乱の功臣のみならず、石上麻呂のような大友皇子方だった人物や、幼少の為、参加しなかった藤原不比等(車持皇子のモデルとされる)等も含んでいますが、石作皇子のモデルとされる多治比嶋も含め、何れも天武天皇に評価され、持統天皇,文武天皇代の重臣でした。五人中の最年少者藤原不比等が、生き残って、独裁的権力者となり、娘の光明子を、臣下出身の初めての皇后にします(律令制以前に、皇后が皇族に限定される慣習が、存在したかは疑問があり、継体欽明皇統で著明化する近親婚の単なる反映かも)。その際、不比等が天智の皇胤だと言う噂は、他氏族の抵抗感を、多少は軽減したと思われ、この噂自体、或いは、不比等の光明子立后の為の、創作かも知れません。
 日本では、皇室始め、公人その他のY-DNAハプロタイプの公表がありませんが、皇室はY-D1a系、藤原氏はY-O1b2系だと、推測し得るので、兄の定慧と異なり、不比等は、皇胤ではない事は、確実です。

 6人目の求婚者たる「帝」のモデルは、誰か?
奈良時代という時代設定を考えると、そのまま文武天皇でも良さそうですが、天皇としての存在感の薄さを考えると、此処は、天武天皇が相応しく、また、物語の主人公が、本来の月人として,『萬葉集』で、「月読壮士」という「ツクヨミ命」の矮小化した「男性」から性転換した女性の「かぐや姫」になっているので、女帝ながら強烈な存在感のある「持統天皇」が、「帝」のモデルでもあり得るでしょう。
 要するに、『竹取物語』の作者は、記紀神話の体系では、「天」(タカミムスビ)や「日」(女神のオホヒルメ)の子孫である「天皇」は、正統なる祭祀王「アメノタリシヒコ」=「ツクヨミ」と結ばれる事は、あり得ない、という寓意を、籠めていると思わtrます。
 
 更に、この物語には、「満月」の夜に、「かぐや」姫が、月に帰還するという構成ですが、このことにも、古い神話の影が、窺えます。
 上代日本語「かぐ」は、「輝く」という語義であり、この語義をそのまま持った神霊、火神「カグツチ」は、記紀神話で、貶められ、本来の「創世の火」から、加上された南方系の歌垣文化の神イザナギに、斬殺されます。
 しかし、満月の夜に、煌々と「輝く」「かぐや姫」は、暗夜の明かりとしての「火神」の側面の継承者です。
 半島の新羅の初代王として、歴史化された「赫居世」は、「赫」という漢字の音は、上代日本語と同源の「輝く」語義の、「かぐ」の音写と考えられますが、同時に漢字「赫」は、「赤」を二つ重ねた文字であり、字義は「赤々と輝く」様を意味します。
 日本人を含めた古代人にとって、「火」は、天上界では、「日」=太陽になった、と考えられたのです。
 前スレ「日本神話を考える」で、東北アジア、シベリアの日月に関する神話を、いくつか紹介していますので、ご参照ください。

 

霊的威圧による支配から、官僚による支配へ 石見介

2024/07/21 (Sun) 02:22:44

 7世紀前半に起こった、列島の大変革を、表現する言葉に窮していましたが、偶々、平勢(「勢」は異体字)隆郎氏著『よみがえる文字と呪術の帝国ー古代殷周王朝の素顔』(中公新書)が目に留まり、その目次の第3章の表題を、借用しました。
 以前から、日本の古代は、中国の殷周期の様相に、なんとなく似ている、という感覚を、白川静博士の著作ー『呪の思想』、『金文の世界』、『甲骨文の世界』等、や平勢氏の本(『「春秋」と「左傳」』)等を読んで、持っていました。最近では、平井進さんの『倭の原像』(上下2巻)を読んで、平井さんのご主張とは、かなり異なる立場ですが、殷や春秋以前の周の、信仰、祭祀等との、共通性を、再認識した感が、有りました。

 実のところ、「霊的威圧」で、殷のように、王朝が、周囲の異族や人民を「支配する」イメージではなく、倭人の族長を含めた支配層自身も、支配下の人民同様、自身の力など、到底及ばない、自然の猛威や鳥獣、大魚水禽等の、「大害」の襲来を怖れ、とにかく、「祟り」を受けないように、族長⇒王自身も、必死に、お祭りして、祈る、というのが、倭国の古代の政治=「祭り事」の実態だろう、というのが、私の、倭国の古代観でした。
 其れで、「霊的威圧による支配」という言葉には、抵抗がありましたが、倭王も、霊的威圧下で、懸命に神意を探り、読み取って、祭事を施行していたのであれば、この表現でもよいかと思い、平勢氏の章題を、借りました。

 勿論、支配体制の構築は、その時代ごとの変化や、支配者の意向も、影響します。倭王武=雄略天皇に代表される、倭の五王は、どうも、秦・漢以降の中国的な皇帝、官僚の一元的支配を目指し、その為に、敢て、府官制下で、百済王の下位に置かれる屈辱を甘受したように、思われます。
 私は、府官制下で、百済より下位の扱いを受けて、尚且つ、宋に朝貢を続ける、倭国王の意図が、納得できず、倭王権が、後漢光武帝に王号を与えられた倭奴国王の子孫なので、同じ「劉」姓の宋に、こだわったとも、解釈しましたが、そうではなく、「府官制」を採用しての、官僚制導入を、目指していたのであれば、雄略天皇の行動は、説明が、可能です。
 紀に、雄略が、身狭村主青などの南朝からの渡来系人を、偏愛したと言う記事があるのも、理解できます。

 雄略の死後、後継者の清寧は、アルビノのようで、王統が絶え、履中系に戻るなど、不安定化し、伝統的な祭祀王制が、継体欽明皇統で、復活します。
 しかし、同時に、仏教という、外来宗教が、自然災害や祟りに対する、「防御」者として、登場します。
 隋の文帝の「教示」は、政変のきっかけとなり、一旦は、仏法の守護者たる「法王」の時代が来ますが、その後の、紆余曲折を経て、雄略が夢見た、大王⇒天皇の下、官僚が支配する「律令制」の時代になり、記紀という史書と、記紀神話の体系が成立しますが、祭祀王制の伝統も根強く、仏教も絡まって、律令制は、形骸化します。

 活火山が点在し、地震は、どこででも起こり得る、自然災害の脅威に、日常的に晒されている日本列島では、人力の限界は、為政者も、強く認識せざるを得ず、それが、政治=「祭り事」という、祭祀王優先の、日本古代史を決定付け、東アジア古代の商(殷)や周などとの、民族的出自の共通性や列島渡来以前の交流も加わって、殷周期の古代中国との、類似の様相を、呈したのでしょう。
 中国側も、同様に感じていた可能性は、孔子に代表される「東夷」観に、窺う事が出来ます。

 日本の古代について、上述のように考えると、当世奇妙さんが、疑問を呈される、考古学でいう「威信財」等の解釈も、所謂「祭祀具」も含め、単純な解釈が、可能だと思われます。
 銅剣、銅矛,銅戈等の「武器形祭器」は、勿論、害意のある神霊や鳥獣に対する辟邪の為の祭器であり、銅鐸などは、地霊等を祭り、豊穣を祈る祭器、玉類などは、個人的な護身具、護符の類で、銅鏡などは、サイズ的に、鈴。珠玉類と、大型祭器との中間なので、上代日本語「かがみ」<「影見」の語源から考えて、基本的には、個人的な祓除や護身具で、巫覡の霊視、呪術にも使用された、と考えられます。
 珠玉類の大和言葉は、「たま」ですが、「荒魂」「和魂」の「タマ」と、同音です。
 「威信財」よりも、「守護具」「守護財」のような言葉の方が、実態に即しているように、思われます。


月神「月読」命(尊)はどのような神か? 石見介

2024/07/09 (Tue) 00:42:52

 AD600年、隋の文帝の開皇20年の、紀に記されない遣隋使の持ち帰った、文帝の「教示」により、倭国に、革命的政変が生じ、倭王「阿毎多利思比(北?)孤」は、伝統的な「夜の食す国」の支配者、月神の顕現ではなくなり、隋から仏法を導入しようとする、熱心な崇仏派の「法王」に、代わってしまいます。
 それ以前の、「月神」と、その地上の顕現、化身たる祭祀王は、どのような神格、王者だったのでしょうか?

 少なくとも2回の、神話・伝承や歴史の書き換えを経て、現存の日本の史書、記紀が成立しています。
 書き換え前の「原像」の推定は、困難ですが、その推定を、試みます。
 我々日本人のご先祖様は、最初の史書編纂時には、未だ、日本語の「正書法」が確立していなかったので、外国語である中国語で、神話古伝承、歴史等を、記述せざるを得ず、それも、純粋な倭人=日本語を母語とする人々ではなく、所謂「帰化人」或いは「渡来人」と称される、漢文を読解・書述できる人々に、委ねざるを得ませんでした。
 彼らが、どの程度、倭人の心性を理解し、その神々や神話・伝承を、理解していたのかも、不明ですが、現代の我々は、残された記紀等の史料と、特に、漢語に翻訳されないで、万葉仮名で表現されている「上代日本語」の「神名その他の事物名」を、手掛かりに、探るしかありません。

 まず、月神の「名」から、検討します。
 月神の名は、上代日本語で、「ツクヨミ」が、一般的で、神社では、「ツキヨミ」と発音するように、表記されている例もありますが、時代的に、記紀よりも後代なので、上代日本語の「月」moonが、「ツキ乙」である事のみ、確認して、此処では、月神の名は、「ツクヨミ」であるとして、以後、検討します。
 これは、上代日本語では、当然、甲乙の区別のある「ツクヨミ」の「ヨ」「ミ」についての議論を、単純化する為です。同じ理由で、尊称の「ミコト」の用字「命」「尊」の相違などについても、検討しません。

 さて、月神の名は、『古事記』では、「月読」、『日本書紀』本文でも、同様の表記(「読」の旧字体「讀」も、議論の単純化の為、含む)が主ですが、紀一書群では、「月夜見」「月弓」の異称~表記が、現れます。これらの表記を、借訓の万葉仮名として解釈し、上代日本語に復元すると、
 ①「月読」⇒「ツクヨ乙ミ甲」(「読む」=ヨ乙ム)
②「月夜見」⇒「ツクヨ甲ミ甲」(「月夜」=「ツクヨ甲」)
 ③「月弓」=「ツクユミ甲」(槻の木で作った弓)

 ③の「ツクユミ」は、『時代別国語大辞典上代編』の「ツクユミ甲」の項目の引用で、紀の「月弓」尊とは、無関係のようにも思われますが、この辞典には、「ツキユミ」が、収載されていません。
 亦、実は、①、②とも、(  )内に記した「よ乙む」「つくよ甲」は、収載されていますが、①②も、「つくよみ甲【月読」)しか、収載しておらず、「月夜見」については、項目内で言及してはいますが、重視していないようです。
 私は、神名が、記紀神話に至る以前の、神話古伝承の手掛かりになると考えるので、①②の相違が、神格や祭祀王の性格に直結する可能性を考え、軽視できないのですが。

 この「月神」の名の意味は、先人の説くように、「月を読む」存在だと言う解釈でよいと、私も、考えます。
 「こよみ(暦)」が、「日(か)読み」の語義であるのと同様に、古代では、太陰暦やそれを修正した太陰太陽暦が、世界的に、太陽暦に先行しました。日月の運行を読んで、季節の到来や農耕などの生業に関わる作業を、何時、開始するかを知る長老や指導者は、「日知り」=「ひじり(聖)」として、尊敬されました。
 しかし、良く考えると、「月神」の名としては、「ツクヨミ=月読み」は、不適切です。月の動きは、月自身が決めるので、それを「読む」必要は、有りません。
 即ち、「ツクヨミ」という名は、「月」の運行を、正確に読み取る巫覡、祭司,神官にこそ、相応しい称号です。日神の名は、「ヒルコ」「ヒルメ」或いは「ハヤヒ」「ホヒ」のように、単純な名でした。
 月神の名称も、本来は、「月子」「月男」「月女」のような、単純な名が、相応しく、それに、長幼や美称が、付される形だったのでしょう。
 「ツクヨミ」は、神格としての月の名ではなく、そのこの世に於ける地上界の代理、顕現、化身としての「夜の王」の尊称だったと思われます。

 ここで、「月夜見」と、借訓の万葉仮名表記された「ツクヨ甲ミ甲」の場合は、神名として、相応しいか否かが、検討の対象になります。「ミ甲」には、多くの同音異義語が、有りますが、その一つに、「神霊」の語義の語があり、海神「綿津見」、山神「大山祇」等の神名の「ミ甲」として、現れます。
 「ツクヨ甲ミ甲」が、「月夜の神霊」の語義であれば、月神の地上界の代理、祭司、巫覡を意味する「ツクヨ乙ミ甲」ではなく、この語こそが、月神の名であると、解釈可能のように、思われます。
 しかし、月神は、日本神話上は、「夜の食す国」の支配者であり、改変前の日本神話では、「弟」の「日神」(複数の可能性あり)と、時間的に、地上界を、二分する大神でした。それが、「月夜」の「神霊」であれば、月の出ない「新月」は、一体どの神の管轄なのか?
 やはり「月夜見」表記は、『時代別国語大辞典』のように、甲乙表記の「揺れ」のような問題と考えた方が、良いように、思われます。
 
 上記のような考察の結果、現在の記紀神話では、既に、「月神」の神名は失われ、月神と同一視されるほど、神格化された祭祀王の尊称が、月神の名として、伝わったと言う結論に至りました。
 これは、極めて重要な「モノ」(者、物、鬼)の名は、「忌み名」として、発音する事すら、憚られ、結果として、その名称が、失われた、という事だと、私は、考えています。
 これまでに、「狼」wolfの、「獣」としての真の名が、失われた、と私は考えていますが、「月神」の名が、その2例目という事になります。

 「月神」の神名や、「夜の王」の尊称から、月神の神格と、祭祀王の王者としての属性を、探ろうと試みた結果は、月神については、殆ど得るところなく、「夜の王」は、将に月神と同一視された、神聖な巫覡王~祭祀王であったと言う、僅かな成果しか、得られませんでした。
 しかし、日本の古代においては、国が乱れ、王位継承が、危機的な状況になると、卑弥呼や臺輿、或いは、夜の王のような、呪術的というか、霊的な要素を、濃く保有する「王」が、選択される傾向が、ある事が、強く確認されました。

 次回は、中国古代とも比較しつつ、記紀神話や記紀という史書の成立について、検討したいと思います。

 

日本神話(記紀神話)の成立過程 石見介

2024/06/25 (Tue) 01:37:45

 AD600年の紀に記載に無い、遣隋使が、隋の文帝の教示を、持ち帰り、その結果、生じたと思われる翌年の辛酉年の、倭国の政変と、日本神話の改変から、現今の日本神話=記紀神話の、成立までに、起こったと思われる政変や、神話の改変について、列記します。
 これまでの書き込みと、多くが重複しますが、ご容赦下さい。

①隋の文帝によって、否定されたAD600年以前の、日本の統治システム
 天:おそらく、タカミムスビ
    アメノミナカヌシは、有力な子孫氏族が、無いので、別系の神話の存在、もしくは、後代の付加の可能性が強い。
 月神:日本神話では、夜や曙の神格化は見られない。「夜の食す国」は、月神ツクヨミの支配下にあり、倭国の祭祀王「夜の王」は、月神と同一視されていたと思われる
 日神:「弟」と明記され、日中、世俗的政治も含めた「祭り事」を行う。現実の世俗王は、多く、夜の王の弟等で、日神ヒルコと同一視されていたと思われる。

 天、月、日の三兄弟の「親神」は、存在しない。
 AD600年当時の月の化身は、崇峻天皇で、日の化身は、その同母兄穴穂部皇子(等?.宅部皇子も)

②初回遣隋使の持ち返った隋の文帝の教示に従って、倭国の「風俗」=夜の王の統治システムの廃止、続行の争いで、蘇我氏を中核として、秦氏、東漢氏などの崇仏派が、反夜の王派(三輪君、推古?)に与し、最終的に主導権を握り、仏法を国教化すべく、「上宮聖徳法王」を皇帝、蘇我馬子を、世俗王とする「帝国」を建国し、AD607年、小野妹子=蘇因高を遣隋使として、送る。倭国の皇帝称号を咎めた、隋の煬帝の国書は、百済で盗難により、紛失した事にして、隋使裴世清と倭王は面談し、留学生を送る実利外交政策を、行う。

③仏法の法皇たる聖徳法王が死亡し、後継者が無く、推古天皇が、初の女帝として即位、祭祀王の伝統を復活させる。
 推古は、その死に際し、暗々裏に、崇仏派の山背大兄ではなく、舒明を推し、仏教の法王ではなく、祭祀王の伝統を、継承させることに、成功する。
 蘇我本宗家は、世俗王的地位を保持していた。

④舒明没後、皇后の皇極が、祭祀王となる。
 中大兄が、蘇我入鹿、次いで、蝦夷を斃し、祭祀、世俗王権の一本化を図り、神話も、現行の記紀神話に近い体系のものになることが、確定する。
 実際の神話伝承や、初期大王の記事や、歴代天皇の扱いは、中大兄=天智の娘の持統と、藤原鎌足の子の不比等が、主導し、『日本書紀』が、完成する。

⑤推古以後、継体欽明皇統では、女帝が、頻出するが、それは、大王⇒天皇の、祭祀王・世俗王複数王制から、中国流の唯一皇帝制(おそらく、かつて雄略が志向した)を目指しつつも、祭祀王優位の伝統が根強く、又,仏教の扱いの問題等もあり、伝統的な巫女王の霊性が、必要とされた為と、思われる。
 結果、祭祀部分を、仏教に依存しようとした聖武天皇や、その娘孝謙/称徳も現れ、後者は、法王(仏法の王)の復活も、試みたが、失敗する。
 弓削道鏡が、天智系の志貴皇子後胤との説が、あった。

辛酉革命説の起点=AD601年 石見介

2024/06/22 (Sat) 00:39:54

 東洋史学者那珂通世は、記紀での、初代天皇の神武天皇の即位が、BC660年だとされたことについての解釈として、唐代の「辛酉革命説」の影響だとする説を、明治時代に発表し、以後、現代に至るまで、ほぼ定説となっています。
 辛酉革命説では、干支で「辛酉」の年に、変革が起こり、更に、干支「一元」(干支が一巡する60年間)が21回経過する、1260年ごとに、革命的大変革が起きるとされます。推古天皇9=AD601年の「辛酉」年の21運前の、辛酉年、明治時代採用の太陽暦換算で、BC660年が、日本国建国、初代神武天皇即位の年、とされた、というのが,那珂通世説の概略です。

 しかし、この説には、大きな抜け穴があります。  それは、通常の変革ではない、革命的な大変革は、干支21運、1260年ごとに起きるとして、では、起点の推古天皇9年にも、革命的事件が、勃発している筈なのですが、記紀からは、そのような大変革が、この辛酉年に,生じた記録は、見当たりません。
 推古天皇は、日本史上初の女性天皇ですが、即位は、辛酉年の10年近く前です。
 漢籍に詳しい那珂通世ですから、『隋書俀国伝』は読んでいて、この辛酉年に、倭国=日本の神官王、「夜の食す国」の支配者月神(の地上の顕現)の失墜と、その弟の世俗王、日神ヒルコの顕現の追放と女神の日神オホヒルメの登場と皇祖神化などの、一連の「革命的大変革」を、察知しつつも、時勢を慮って、発言を、差し控えたのかも知れません。
 ここでは、当面の私の考える、「日本国初代天皇即位」に匹敵する、革命的大変革であった、AD600年に発する一連の、革命的大変革について、列挙します。

 その前に、先ず、これまで特に定義せず使用して来た、「祭祀王」あるいは「神官王」と、「世俗王」について、付言します。
 日本古代の解明には、文献史学や考古学等の他、古代人の心性というか、思想が凝縮された言葉そのもの、「上代日本語」という、漢語等の外来語、借用語ではない、「大和言葉」という、貴重な言語資料が残されています。
 その上代日本語では、「政治」を意味する言葉は、「まつりごと」即ち「祭り事」です。
 これは、古代の日本では、「政治」とは、「祭事」そのものであり、天神地祇を祭り、五穀豊穣や狩猟漁撈の成功、風水害などの天地の災害を避け、傷病を免れ、起きてしまった災厄は、祓除する。
 そのような祭事が、現実の農耕、狩猟、漁撈、運送、工事、軍事などと、一体として、観念されていたことを、意味しています。
 即ち、祭祀王と世俗王との、実質的な境界はなく、いわば、個人の資質やその時期や時代の要請によって、祭祀王と世俗王の、相違が見られる、という関係だったと思われます。

 記紀などの記述と、中国史書の記述から、ある程度の時代によるその変化は、窺われます。
 記紀の倭姫や百襲媛、神功皇后や『魏志倭人伝』の卑弥呼や臺輿等の巫女的存在、倭王武=雄略天皇のような、祭祀者の側面の殆ど見られない大王。

 中国史書の記述から考えると、『隋書俀国伝』のAD600年の、「天を兄、日を弟」とする、「夜の食す国」の支配者たる、月神の化身の祭祀王を中心とする統治システムは、『宋書倭国伝』の倭の五王、倭王武の中国的な強大な世俗王権を目指した体系が破綻した後の、継体欽明皇統の、復古的な統治システムだったと思われます。
 しかし、折角、再構築したその統治システムを、隋の文帝に否定され、倭国は、当時の祭祀王の殺害を含む、厳しい政争や、一時的な法王(仏教の国教化)や蘇我氏による簒奪の危機などの、紆余曲折の後に、再編した神話伝承(記紀神話)と、国史を編纂し、永続的な皇統の確立、日本国の成立を、果たしました。
 其れには、半島の領地、利権の放棄という、高い代償を、支払わなければ、なりませんでしたが。

2024年11月25日編集:
 推古8年,AD600年を、推古9年,AD601年に変更しました。前後お文章の辛酉年も、書き変え予定ですが、推古8年、AD600年となっていry場合は、翌年に読み替えお願いします。単純な計算ミスで、申し訳あろません。

『隋書倭国伝』の記す7世紀初頭の倭国⑤ 石見介

2024/05/30 (Thu) 01:20:25

 『隋書倭国伝』に拠れば、倭国の隋への初めての遣使朝貢であった、隋の文帝の開皇20年(AD600年)から、7年後の煬帝の大業3年(AD607年)、倭国の王多利思比(北)孤は、遣使朝貢します。
 この遣隋使は、紀にも記録があり、使節は、小野妹子で、漢風の名としては、「蘇因高」を称します。
 「因高」が、和名「いもこ」の音写である事は、明らかですが、姓氏の「蘇」が、何に拠ったかは不明です。これは、重要な検討の対象の一つになります。

 この2回目の遣隋使は、隋の皇帝の国書や、その使節裴世清を伴い、翌年のAD608年に帰国し,隋使裴世清は、倭王とも面談し、亦、その送使として、小野妹子が、多くの留学者等を伴って、隋へ派遣されるなど、初回の遣隋使に比し、大きく、変化しています。
 先ず、初回の遣使との比較と、その相違点の持つ、政治的、宗教的その他の意義を、検討したいと思います。
 
①遣使の主体は、『隋書』に拠れば、何れも、倭国王、男王の「タリシヒコ」です。
 記紀では、何れも推古天皇の在位期間ですが、女帝なので、『隋書』の記述に合致せず、隋使は、倭王とも面談していますから、日本側史書の虚偽記載は、明白です。
 特に、初回の遣使時の「夜の王」が、男性であることは明白です。2回目の時は、祭祀王の推古天皇を隠して、世俗の政治を行う厩戸皇子や蘇我馬子が、裴世清と会ったと言う解釈も、可能ですが、初回の使節には、そのような虚偽を言うべき動機は、有りません。
 倭国には、卑弥呼や臺輿という女王の存在があった事は、中国側は、承知しています。
 日本側の使節が、漢籍をどの程度読み込んでいたかは、不明ですが、当然、中国史書の倭国伝の内容ぐらいは、知っていたでしょう。
 因みに、初回の使節も、小野妹子とする説があるようですが、私は、大政変を惹起するような事態を招いた使節は、粛清された可能性が高い、と考えています。
 初回の遣隋使は、倭国の祭政一致、あるいは、祭祀王が世俗王より、完全に上位者であり、おそらくは、月神の地上に於ける顕現、化身と考えられている事などを、正直に、隋側の担当者に伝えていますが、継体欽明皇統で、特に著明になった、異母兄弟姉妹間の婚姻をも許容するような、同氏族内の「近親婚」については、触れていません。父系制氏族で、外婚制の、鮮卑などの遊牧民や、或いは、宗族制を厳守する漢民族の同姓不婚などは、十分、承知して、禁句としたが、「天を兄、日を弟」とする、「夜の王」の、政治体制に、まさか、拒否反応が示されるとは、思ってもいなかったのでしょう。

②遣使の目的が、初回は「朝貢」であり、次回は「仏教(等)の導入」を目的としています。
 初回と、2回目の遣使の間の、6年間に、倭国に政変が起こり、初回時には、「天を兄、日を弟」として、自らは、日の出前の夜に執政した祭祀王の「夜の王」が、隋の文帝の教示に従って?、完全に「昼の王」と化しています。
 しかも、異国の使節と言葉を交わす、世俗的な外交もこなす、「世俗王」の側面を、示しています。
 仏教を導入することは、祭祀王~神官王の立場の放棄を意味する、大宗教改革です。
 記紀には、崇仏派と排仏派の抗争と崇仏派の勝利が、記述され、倭王権の初回と2回目の遣使時の対応の大変化の原因として、自然です。
 しかし、『隋書』では同一の倭王の遣使のように、描かれてはいても、「夜の王」が、宗教的に転向して、崇仏派と化したとは、記紀からは考え難く、初回と2回目の遣使時の倭王が、交替していたと、考えるべきでしょう。

③倭王の、隋の皇帝との「格差」の意識の相違が、明確です。『隋書』では、初回と2回目以降も、同じく「遣使朝貢」ですが、初回は、まさに「朝貢」で、自身は、倭王もしくは倭国王であり、次回は、対等で西の「天子(皇帝)」に、「東」の天子=皇帝が、国書を送る形です。
 仮に、初回に、夜の王が、朝貢ではなく、対等の交流を目指して,そのような言辞の国書を送っていたならば、文帝は、習俗以前に、その称号や章句の方を、先ず、改めさせたでしょう。

④隋の煬帝は、AD607年の遣隋使の国書の、倭国王の「天子」の自称や「東の皇帝」気取りの文章には、怒りましたが、それにも拘わらず、返書としての国書を、小野妹子に託し、遣倭国使として、文林郎の裴世清を、派遣します。
 その重要な国書を、使者の小野妹子は紛失し、百済で盗難に遭ったと、見え透いた嘘の報告をしたと、紀は記しますが、何の処罰も受けず、その後も遣隋使の役目を、こなしています。
 このあたりの事情の解釈は、多くの先人の説く説と同様な解釈を、私も、採ります、
 即ち、高句麗との関係で、『隋書』が記すように、百済、新羅が、倭国を珍物の多い大国として、敬仰し、常に国交を続けている状況があり、倭国を対高句麗包囲網の陣営に、加えようとした、というものです。
 しかし、倭国王が、隋の皇帝と同等だと思い上がっても困るので、国書の方で、それを厳しく咎めて、裴世清は、倭国を懐柔する任務を持つ、という硬軟両様の外交策だったと思われます。
 対する倭国側も、建前は国内向け史書に残し、現実の外交は実利優先で、隋に留学生団を送り、文化導入を果たす政策だったのでしょう。
 私は、『隋書』の編纂が、唐の太宗李世民の時代であったことも考えると、漢化鮮卑の出自の隋や唐は、漢族出自の中原王朝とは異なり、中華意識がそれほど強くはなく、倭国側が、後漢光武帝に冊邦された倭奴国王以来、或いは、周の成王の時の暢草を献じて以来?、代々、同じ宗族のものが、王を継承して来たという、倭国側の主張を受容して、それに対する敬意も、隋や、初唐の人々には、有ったのではないか?とも考えています。
 倭国の側も、それに合わせて、神武天皇や古代の大王の在位期間を操作し、建国時期の遡及という、史書の撰述姿勢が、定まったと思われます。
 勿論、最初の日本の国史編纂は、崇仏派の蘇我馬子が中心であり、もっと仏教色が強く、後に、蘇我氏本宗家滅亡後に、現行の記紀神話体系のものに、置き換えられたと思われます。

⑤小野妹子の、漢風の氏名の、「蘇因高」の内、姓氏として、使用された「蘇」が、何故、使用されたのか?「イモコ」の音写と考えられる「因高」のように、姓氏の部分の音写であるならば、「小野」や、「和珥氏」に因んだ、漢字が、使用されそうなものですが、「和邇」「丸爾」等を含めて検討しても、「蘇」が姓氏に使用される可能性は、有りません。 抑々、和珥氏も,その分枝の小野氏にも、サ行の音は、含まれません。
 従って、「蘇」を姓氏として、使用したのには、何か、他の理由が、有ったと推定されます。

 国使であり、且つ、倭の大王家と同じ宗族に属するのであれば、使節の権威付けの目的で、特に、大王家と同じ「氏」名を、許容する事もあり得るとしても、大王の姓「阿毎」或いは、その漢訳「天」ではありません。「蘇」という漢字を、氏族の表記に用いるのは、「蘇我」氏や地方の「阿蘇」氏がありますが、崇仏派勝利後の遣使なので、蘇我氏の「蘇」を承けて、使用した可能性は、有りそうです。
 この場合、蘇我馬子が、裴世清と面談した「倭王」であった可能性も、考えられます。
 紀には、蘇我氏本宗家の蝦夷・入鹿親子が、「陵」や「皇子」その他、大王家と同様の呼称を使用して、簒奪の色があるのか、もしくは、大王家と同等の存在だと考えていたような記述がありますが、実際に、崇仏、排仏派の抗争後の政治体制が、記紀の記すようなものではなく、祭祀王の代わりに、仏法の祭儀を主宰する「法王」=上宮聖徳法王と、世俗王=蘇我馬子(「下宮」?)のような、変形した、祭祀王―世俗王の政治体制だった可能性も、考えられます。

 その場合、日本史上初の女帝とされる推古天皇の即位は、記紀では、摂政とされる聖徳太子の死後、その世代の適当な男子王族が居らず、また、次世代の男子王族がまだ、適齢でないので、繋ぎの大王に推された、という解釈になります。
 この方が、敏達、用明、崇峻という、同世代の兄弟の大王の後、執政能力がある次世代の聖徳太子が、「摂政」で、叔母の推古天皇を支えた、というよりも、記紀の大王家即位の傾向と、合致します。
 推古天皇は、いわば、飯豊皇女のような、役割を、求められたのかもしれません。

 このあたりの,『隋書俀国伝』の記す、倭国の政治、宗教の大転換と、記紀の記述との「矛盾」を、合理的に解釈するのは、決定的な資料不足により、極めて困難ですが、日本古代史を考える以上、避けては通れず、また、記紀の語る「日本神話」の形成史を論ずる上からも、避けて通れない、重要な過程です。

 私は、例によって、同時並行的に、複数の仮説・解釈を、用意していますが、神武東征について、根本的な変更を要する解釈もあり、どの解釈を、優先すべきか、迷っています。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/05/29 (Wed) 01:27:04

 当世奇妙さん

 私の悪文の文意が、判り難いので、判り易く説明するようにとの、ご助言、有難うございます。
 実は、私自身、『隋書俀国伝』と、記紀等の日本側史書等からの、7世紀初頭前後の、日本の、王権、祭祀宗教・神話伝承の、有り方と変革についての、主要な考えがまとまらず、混乱した状態で、①~④を投稿し、是では、皆さんも、私が何を言おうとしているのか、理解に苦しまれるだろうと思い、重複した内容だとお断りして、書き改めだしたところでした。

 私は、旧世代の内科医としての習性が、身に染みており、自身の臨床診断は、当初は、複数、並列して、用意し、その後の臨床の経過と諸種のデータの、経時的変化と蓄積で、鑑別診断し、最終的な確定診断に、至ります。病人には、当然、その間も、治療しています。仮の診断下で、治療の効果や副作用の出現に注意しながら、観察を続けます。
 重篤な病気や、ややこしい疾患は、そう多くないので、日常が、過ぎて行きました。
 しかし、古代史などは、確定診断がすぐには付かない、難病の可能性のある病人を、診察している感覚で、いくつかの診断名を、同時並行して、疑いつつ、データ(知見)の集積を待つようなものなので、私の癖で、必ず、常時、複数の解釈、仮説を、考えています。その仮説・解釈の、蓋然性の判定基準、トンデモ度判定基準は、以前にも、御紹介したとおりです。

 今回は、まだ、遣隋使の一回目、記紀の黙殺した,AD600年の話しか出ていませんが、記紀に記録のある2回目の遣隋使、隋の煬帝への、AD607年の遣使(小野妹子が使節)の話が、倭国の政変後の推移の手懸りなので、当世奇妙さんも、理解に苦しまれたと思います。申し訳ありませんでした。

 先ず⑤として、隋使裴世清が会った倭王について、紹介し、その後、現時点での私の、7世紀初頭の倭国の神話伝承の改変等について、箇条書きします。

 私事ですが、6月1日、大学の同級の同窓会(卒後56周年)が、徳島であります。全員80才超なので、まともな同窓会は、これが最後だろうから、是非とも出席するように、との幹事の厳命があり、投稿が遅延しますが、ご容赦お願いします。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - 当世奇妙

2024/05/27 (Mon) 20:22:45

石見介さん
会のHP担当者の一人として、また石見介さんの博学を尊敬する者として、
投稿の1から4まで数回読みました。しかし知識不足でなかなか理解できません。
大変お手数ですが(大変失礼ですが)、隋書からよみとれる倭国の情勢のポイントを、私レベルでも理解できるようにポイント箇条書きにして頂けると助かりますが。

「日本神話」の成立と「国史」の制定 石見介

2024/05/27 (Mon) 01:11:00

 AD600年、隋の文帝の開皇20年の、倭国王の隋への遣使朝貢は、使節の文帝の倭国の「風俗」についての問いに対する、正直な?応答により、思いがけない反応を生じ、それまでの倭国の政治、祭祀・宗教、神話伝承などの、革命的大変革をもたらし、結果的に、現在の記紀に記録されているような、日本神話の体系と、記紀という「国史」の制定に、繋がりました。
 前4回の内容と重複しますが、本スレが、本来、日本神話と史実の関連を、考える目的であったことを想起し、ご容赦下さい。

 記紀には,AD600年前後に、天皇家の歴史上,かつて無かった、二つの異常事態が、記されています。
 第一に、崇峻天皇の死因として、日本史上、唯一の、臣下による「殺害」が、明記されています。
 仲哀天皇や、実質的な大王であった可能性の高いその皇子等の死も、神意や謀反扱いです。
 第二の異常事態は、初めての「女帝」推古天皇の即位です。
 中国史書には、卑弥呼や臺輿の記事が在り、亦、記紀にも、神功皇后の記事が在りますが、記紀は、中国史書は無視し、神功皇后は、「胎中天皇」の為の巫覡で、神功皇后紀は、神代紀に戻ったかのような、記述です。
 日本の初めての史書(群)が記す、この2つの異常事態が、『隋書』の記す、文帝の教示により、その「風俗」を「改めた」結果である事は、明らかです。
 日本側史書の記す、この時期の大王の在位等は、虚偽の可能性が強く、亦、現存の日本神話や伝承の体系も、組み替えられた事は、確実ですが、『隋書』の記すような、仏教徒~崇仏派の手になる神話ではありません。
 仏教的神話体系としては、隣国の「檀君神話」があります。檀君王倹は、仏教の守護神とされたた「帝釈天」との関連で、語られますが、記紀神話では、一切、そのような仏教の「護法神」の類は、現れません。
 即ち、日本神話の体系や、それと関連して、大王や倭国の歴史を伝える「国史」は、先ず、崇仏派主導の、天竜八部他の護法神将か登場するような神話伝承に組み替えられ、次いで、全く仏教臭の無い、しかし、日神が男神から女神に、交替した現行神話伝承に近い、或いは同一の系統のものに、改変されたことになります。

 このことは、紀の記述にも合致します。
 蘇我氏の滅亡と、蘇我氏主導で編纂された国史の消滅記事です。
 隋の文帝の教導は、従来の祭祀王、夜の王、おそらくは、月神の顕現と見做された男王に、死をもたらし、日神も性転換し、崇仏派の傀儡としての女帝推古天皇の即位を、生じたと思われます。
 しかし、非崇仏派の結集の核となった推古天皇は、粘り強く長生きし、次世代の有力王族男子全員の死後に、暗々裏に崇仏派の山背大兄ではなく、田村皇子を推して、変容したとは言え、伝統的な神話を、残し得たのでしょう。
 崇仏派との闘いは、その巫女としての資質も、役立ったと思われます。(雨乞いの成功)


 

『隋書倭国伝』の記す7世紀初頭の倭国④ 石見介

2024/05/22 (Wed) 01:11:49

 隋の文帝の開皇二十年(AD600年、紀では推古八年)、遣使朝貢した倭国の使節に、文帝は、所管する官庁の役人(所司)を通じて、倭国の風俗を調べます。
 倭国使の言うところでは、倭王の執務ぶりは、「倭王は、天を兄とし、日を弟とする。日の出前の暗い時刻に出て,政治を行い、日が出ると、「我が弟=日に、委ねよう」と言って、執務を止める」という文言に、文帝は,「これ、大いに義理無し」として、教えてその慣習を、改めさせました。

 この記述から、従来の倭の大王が、祭祀王(神官王)であり、同時に、太陽神(日神)の地上に於ける化身、顕現ではない事が、判明します。
 「夜」を、ギリシャ神話のニュクスのような神格化する神話伝承は、日本では、存在しません。
 従って、祭祀王が、石和田氏の言う「夜の王」であると言う事は、「月」の地上に於ける化身、顕現であると、観念されていたことに,、なります。

 日神=太陽神も、「弟」と明記されていますから、女神のオホヒルメ、ワカヒルメと言った「ヒルメ」ではなく、男性の「ヒルコ」であったことになります。
 以前から、私は、男神の日神「ヒルコ」が、「日子」ではなく、漢字表記で、「水蛭児/子」「蛭子」のような貶字表記に変わったのは、この時期ではないか?と考えていましたが、一方で、速日神群等の、火神カグツチの子神としての太陽神の存在と、どのように関連するのか、折り合いがつかず、そこで、思考停止していました。  
 現在は、太陽神に関する神話も、複数の民族が、日本列島に持ち込んだのだから、本来は、数種の太陽神神話が存在して当然で、渡来系弥生人=倭人の神話が根幹を為しつつも、南方系の洪水型兄妹始祖神話の、イザナギ、イザナミが、加上されたり、スサノヲが闖入したり、縄文人の神話要素が影響したりして、日本人の神話が、形成されたと考えれば、日本語の形成同様、統一された神話体系の完成時までは、並行したいくつかの神話群の並存状況を、想定すればよいと、考えています。
 隋の文帝の教導?は、それまでの太陽神、男神のヒルコを、不具者にしましたが、民衆の支持、敬愛により、ヱビスとして、復活する事になります。

 しかし、この神話の変更の原因が、継体欽明皇統が、確立して、初めて、行った外交での、失敗であり、『隋書倭国伝』に拠れば、倭国は、隋の文帝の意向に従って、その慣習を、改めたのですから、その史実を記載しない日本の史書、記紀などは、神代紀を含めて、当時の現代史も、虚偽を記述したことになります。
 7世紀初頭前後の、大王や王族、執政者等の、行状の記述も、入念な検証と、当時の歴史の再構築が、必要になります。

 石和田秀幸氏や白石南花さんの試みとは異なる、トンデモ度の高い私の考えは、この時に、日本神話が、現行の記紀神話の体系に近い形に、まとめられたと言う推測に、拠ります。
 私の年来の仮説である、複数大王並立制との関連で言えば、「夜の王」は、月神ツクヨミの、地上に於ける顕現、化身であって、基本的に諸大王中の最年長者であり、巫祝としての能力を要する為、時には、若年者や女性が、夜の王となる事もあり得る、というものです。
 この考えは、実は、白川静博士の考え、「祝」という文字の解釈、長兄が祭司,神官であり、神聖な存在であり、群弟が政治、軍事等の俗事を分担する、という商(殷)などの王権のあり方や、漢字の起源、語義解釈を,承けています。ただ、これは、私の白川博士の考えの解釈であり、現実の白川博士の考えとどこまで一致しているかは、判りません。白川博士の漢字解釈には、宗教的過ぎると言う批判がある事も、読んでいますが、私は、商(殷)と倭人に、東夷としての、共通の習俗を、想定しています。

 さて、問題は、隋の文帝の指導?により、倭国がその統治システムを、改めた事です。これは、宗教的にも政治的にも、革命です。素直に、夜の王や昼の王たちが、納得する筈もありません。
 しかし、この革命は、日中何れの史書からも、成功したように思われます。
 即ち、夜の王の信仰とは無関係な信仰を持つ有力な集団が、倭国支配層内に、存在したからです。 記紀を見れば、一目瞭然、蘇我氏とその縁戚を含む「崇仏派」です。
 私は、記紀で、夜の王一派を倒し、政権を掌握したのは、蘇我氏とその縁戚の聖徳太子等、崇仏派王族(実際には、世俗王の一人が聖徳太子?)や秦氏、東漢氏で、夜の王派の物部氏、中臣氏などの、支族を抱き込んで、夜の王派(崇峻天皇、物部大連守屋、中臣連勝海等)を斃し、夜の王に代わる神官王~祭祀王として、「昼の王」(女王)推古天皇を、擁立したと推測します。
 ここで、日神も、ヒルコから、(オホ)ヒルメに入れ替わり、中臣氏の代表も、鹿の肩甲骨で占う卜部氏の統率者の家系に交代する(対馬や壱岐の卜部などは、亀卜なので、古来の太占に関連する卜部?)。
 記紀の大王の在位期間は、延長され、開皇20年時の夜の王だった崇峻天皇の治世は、短縮されたのではないか?
 
 (*)在位期間の極端に短い、用明天皇も、実際は、もっと、永かったのではないか?
 欽明天皇は、仏教の迫害は,行いせんでしたが、積極的な受容派ではなく、いわば、蘇我氏という重要な支持基盤に対する配慮から、仏教の存在を、公認しただけのようにも、見えます。
 その嫡子の敏達天皇も、同様の態度で、崇峻、推古も、崇仏派とは思われません。
 母系で蘇我氏の血を引く、推古、崇峻が、崇仏派ではないのに、推古の同母兄用明天皇が、熱心な崇仏派のように、記紀で語られているのは、事実なのか?
 息子の厩戸皇子は、名前からして、その養育氏族(乳部)は、厩舎等を管理する部で、蘇我氏の配下と思われ、その影響下で、仏教信徒になったとしても、用明天皇が、記紀の記すような、崇仏派の大王であった可能性は、少ないでしょう。
 父親の欽明天皇が、自身の子が、仏教徒にならないよう、養育氏族等を、注意深く選択していたと思われます。
 後に、推古天皇が、後継者指名の際、暗々裏に、田村皇子(舒明)を選択したように見えるのも、仏教徒大王に対する拒否感のように、思えます(*)。

 現時点では、上記のように推測していますが、或いは、世代交代していて、欽明天皇の子の世代の男子ではなく、孫世代、押坂彦人大兄、厩戸、竹田皇子らの時代だったのか?
 後の藤原氏となる、中臣連の系統は、東国の鹿島、香取を重視し、大和にも、「かすが」即ち、「鹿洲処=春日に、氏神を祭り、神使として,鹿を厚遇したが、卜占としては、太占ではなく、大陸半島系の亀卜を重視したので、外来文化受容派の祭祀氏族だったのかもしれません。

 いずれにしろ、記紀で、崇仏派と排仏派の政争.抗争と記述されている政変は、それまでの日本の,統治原理や神話伝承の再形成を伴う、革命的大事件であり、根強かった複数大王の並立体制も、漸く、倭王武の目指した、単独王制の方向へ、向かう事になる契機でもあったと思われます。

追加編集:6月5日午前1時、
 (*)の間の部分を、追加投稿しました。
 申し訳ありません。
 

『隋書倭国伝』の記す七世紀初頭の倭国③ 石見介

2024/05/19 (Sun) 00:39:58

 今回から、『隋書倭国伝』の記す、倭国と隋の外交と、そこから判明する7世紀初頭の倭国の状況を、検討します。
 日本の史書にも対応する記事が見られるので、もう大和朝廷、或いは継体欽明皇統の対応する時期の大王や執政者の推古天皇、聖徳太子(厩戸皇子)、大臣蘇我馬子の大和政権と、断言しても良く、ヤマトと、表現して、先ず、問題はないでしょう。
 九州王朝説を採り、この時代の畿内大和を、九州と読み変える説もありますが、『隋書倭國伝』を素直に読めば、北部九州は、竹斯国であり、そこから遠くにあるヤマトに、都があった事は、明白です。

 最初に、隋の文帝の開皇二十年(AD600年、紀の推古八年)に、「倭国」が遣使したと、記しますが、倭王についての記述が、早くも記紀の記述内容の、日本初の女帝推古天皇のような女性ではなく、男王として記され、日本側史書と矛盾を、示しています。
 これが、先ず検討すべき、最初の重要事項です。
 隋側には、倭国側からの伝聞情報と、後の倭国への使節裴世清の見聞の記録が根拠で、故意に、倭王の性別を偽る動機は、存在しません。従って、この両国史書の異同の原因は、『隋書』撰述者の何らかの誤解でなければ、倭国側が虚偽情報を与えたか、日本側史書の記紀の記述が、虚偽で有ったという事になります。

 隋の記録では、倭王は、姓氏は「阿毎」、名は「多利思比(北)孤」で、「阿輩□彌」(□は異体字で、<奚佳>に類似)と号し、王妻は「□彌」で、後宮に女6~700人、太子を名付けて、「利歌彌多弗利」と言う、と有ります。これらの名称は、明らかに上代日本語の特徴を、有しており、開音節で、語頭に流音(ラ行音)や濁音が立たない、上代日本語の特徴から、太子の名称の最初の文字「利」は、「和」の誤写だと判断されます。
 即ち、倭王の姓氏は、「アメ(天)}で、名は「タリシヒコ」ですが、倭の大王家に、中国流の姓氏が、有ったと考えるべき根拠は、他の内外、古今の資料には、一切、見られないので、この『隋書』の記述のみを根拠として、大王家~天皇家の姓氏が、「アメ/アマ」という、記紀の天津神等の冠称と同じだったとは言えません。倭の五王が、朝貢に際し、国号の「倭」を称したように、外交上の便宜で使用した、当座の対中用語?のようなものであり、旧来の国姓である「倭」を避けたのは、継体欽明皇統の対中対等外交目標或いは隋に対する対等意識或いは優越感の、表出だったように思われます。
 しかし、この時点での倭国の大王は、『隋書倭国伝』からは、明白に男王であり、日本側史書の記すような女性の、推古天皇の可能性は、あり得ません。
 この日中史書の大きな相違は、以前、白石南花さんが紹介された、石和田秀幸氏の論考や、白石南花さんが、論じられた「夜の王(祭祀王)」と「昼の王(世俗王)」の問題が、絡まっていると思われるので、次回に論じます。
 但し、私は、本来、複数王並立(序列はある)、倍暦論(推古朝の儀鳳暦採用まで、独自の倭暦として存在したと考える)であり、また、日本神話の男性の日神(太陽神)ヒルコの運命について、ずっと考えていましたので、隅田八幡宮鏡銘などには、触れずに、論じます。


  

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/05/15 (Wed) 00:15:46

 福島雅彦さん

 レスが遅れ、申し訳ありません。
 実は、投稿失敗が2回あり、その為です。
 最近、視力低下が更に進行し、青色の文字が、読み取りにくくなりました。出来れば、このスレへのご投稿は、赤色~濃色の文字を、ご使用いただければ、有難いです。

 さて、お説の濊貊の、「濊」族も、日琉語族に属し、種族名の「濊」が、1人称の「わ」の方言形だと言うの解釈は、河野六郎氏の「濊倭同系説」や、その現代の継承者伊藤英人氏の説を踏まえれば、十分に、学問的にも成立すると考えられます。
 私が、同意に踏み切れないのは、以前ご紹介した,A.Vovinの最近の説、三韓の韓族が、本来は、日琉語族の話者で、朝鮮語族の扶余系諸族の征服・支配下で、言語を取り換えて、朝鮮語族の話者になった、という説と、河野氏らの濊倭同系説の、何れが正しいか、判断しかねているからです。

 私は、「倭」「倭人」とされる種族以外にも、紀元後5世紀頃までは、朝鮮半島や満州辺りに、日琉語族に属する別名の種族が、存在していた可能性が大きいと考えていますが、『三国志』魏書東夷伝韓条の、辰韓~弁辰の鉄を得ていた、韓、濊、倭3種族が、全て、日琉語族に属していた、というのは、流石に考え難いのです。
 では、扶余が、朝鮮語族であれば、半島に朝鮮語族が当時存在したことになるから、それでも良いではないか?という声も聞こえてきそうですが、福島さんと異なり、私は、扶余buyo、貊bok族は、共に、ツングース語族に属し、族名は、「鹿」を意味し、基本的には、「鹿」を獣祖とする神話伝承を持つ民族だと考えています。
 高句麗のように、「鹿」を「熊」に変えた種族もありますが、現代のツングース語族系の中にも、氏族によっては虎を、獣祖にしていますし、ウデゲ族は、熊が獣祖です。

 韓国朝鮮語の1人称は、日琉語族の本来の1人称除外形だと思われる「わ」と同源の可能性のある「ウ」「ウリ」だと思いますが、韓国語に詳しい福島さんに、韓国語の1人称(複数形)と、「鹿」を意味する語彙を、御教示お願いします。
 果たして、韓国語の「鹿」が、日本語の「か」(「しか」は牡鹿が本義)に類似するか、ツングース系のB*y*(n)<*は母音>や~bog<満州のエヴェンキ語で「鹿」>に、同源の語彙なのか?
 或いは、多くの朝鮮語の語彙のように、漢語に置換されてしまっているのか?
 私は、8世紀の新羅景徳王の地名改定(漢語化)は、或いは、新羅の倭語地名抹消政策であったかもしれない、という以前から感じていたトンデモ説の一つの可能性が、A.Vovinらの説を知って、可能性が増したと感じています。

 尚、「扶桑国」については、中国の中原の東方、日の出の方向にあると想像された地域で、中国の地理世界が拡大するにつれ、最終的に、日本海の東に移った、と考えています。
 日本で、「日のモト(下、本)」や「ひたち(日立)」「日高見」が、時代と共に、東方へ移り、遂に太平洋岸の「常陸」に達し、それ以東に陸地や島が、確認出来ない時点で、倭国の政権は、安心して、「日本」を、国号に採用したと思われますが、その流儀だと、「扶桑」は、朝鮮半島北部から沿海州の沿岸地域の地名や種族名の訛伝の可能性が、考えられます。
 楽浪郡から、確か「夫租濊君」(異体字だったか未確認です)の印が、出土しています。
 「桑」の「現代」中国音は、中国の古代音を、訛ってはいても伝えている漢字日本語音以上の評価は、与えられないと思われます。

 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - 当世奇妙

2024/05/13 (Mon) 08:23:04

石見介さん
投稿文章を私なりに整理したものを、了解頂きありがとうございます。
「日琉語族と中国王朝の接点が在ったかが、次の問題になります。」ですが、
直接の接点がなくとも、西周から始皇帝時代までの争いが中国南部に波及し、越などに騒動を起こし、更には江南沿岸の航海民族へ大きな影響を及ぼした(始皇帝などは南へ領土伸ばした)。その過程で、これらの海洋民族はベトナム、遼東、半島南部、更には後の渤海領域(平井さんを惜しんで証明なしに記述ですが)などへも広がっていた。と憶測しました。これは頭の体操で根拠薄いですが、石見介さんの言語論・民族論を理解するよう努力した結果です。
高田貫太さんは弥生終末から古墳(3~6世紀)の考古学で論じており、古文章・歴史文字はあまり活用していないのでは?

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/05/12 (Sun) 22:51:52

 当世奇妙さん

 私の悪文且つ誤記誤変換だらけの文章の文意を、正しく読み取って頂き、その上、おおむね同意いただき、有難うございます。投稿時のチェックでは、脳が誤変換や誤打鍵による誤記等を、勝手に変換し、ミスを見逃すのと、目の疲労で画面がぼやけるので、投稿後、1日置いて、エラーをチェックしています。

 追加の情報ですが、『月刊日本語論』終刊号特集「日本語の起源をさぐる」収載論文中の早田輝洋「東アジアの言語相と日本語」に、一人称について、「聴き手を含む「我々」と聞き手を含まない「我々」」という項目があり、満州ツングース語族の諸言語では、その区別があり、1人称(複数)包括形と除外形が、別語です。 現代日本語では、その区別はなく、上代日本語でも、「あ(吾)」にも、その形跡は見えませんが、琉球諸語には、その区別が残っており、久米島儀間の例を示しています。包括形はagatta、除外形はwattaです。八丈語では、この区別ははっきりしないが、早田氏は、琉球語に近いか?としています。
 これらを踏まえると、上代日本語の1人称の「あ(吾)」は、複数包括形、「わ(我)」は複数除外形の語彙の区別があったが、衰退して、区別がなくなり、更には、「わ」のみが、残る前段階だったと思われます。
 「わ」が、1人称除外形であれば、除外された他種族の人々が、日琉語族の人々を、「わ」人と呼称するのも、自然でしょう。
 尚、朝鮮語でも、除外形と包括形の区別は衰退しているそうです。

 それにしても、日琉語族には、本土の日本語の他に、琉球諸語や八丈語のような、貴重な姉妹語が残り、亦文献の残りも良く、半島の状況とは、大違いです。高田寛太氏の本は、私も購読していますが、碑文、金石文の類を除けば、史書の『三国史記』は,1145年頃の成立で、まとまった言語資料は、ハングルの出来た中期朝鮮語で、14~15世紀のものです。
 文献や言語で、半島のものは、過大評価は禁物だと、私は、用心しています。
 NHKの大河ドラマの登場人物の日記が、皆残存し,『三国史記』撰述時よりも、数十年は、古いのですから。


 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - 福島雅彦

2024/05/11 (Sat) 18:17:17

石見介さん、当世奇妙さん横レス失礼します。

※「倭」「倭人」「倭國」は、自称一人称「わ」を連発する国名を持たない者への他称だと思います。

*『三国志(魏志倭人伝)』の「倭」の三十ヶ国の国名も、村落程度の場所の国情説明文言の一部を国名と勘違いしています(歴年の福島雅彦の講演レジメ)。

・「濊・貊」の「濊」も、「わ」の方言「わィ」からの他称か、と。

※「扶桑國」≠「ふそうこく」も、漢字識字者の所謂「倭人」が述べた国情説明文言を国名と勘違いしているのでは?

*「桑」の中国語音は”sang”ですから…。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - 当世奇妙

2024/05/11 (Sat) 13:19:17

石見介さんの主張を私なりに箇条書きにしてみました。
1.日本人の起源・形成、日本語~日本民族の起源・形成(に興味があった)。
2.並行して、欧州のゲルマン民族の大移動(と欧州諸国の起源)に、興味があった。
3.更に、源平時代、戦国時代、印欧語族の大移動の関心が広がりました。
4.民族・言語の起源・形成上、国家の成立が重要。
5.原始古代に遡れば遡る程、言語、人種(遺伝的特質)、集団(部族、種族、民族)は、その集団内で一致する。
6.集約すると云うか、分散~拡散しない傾向がある。
7.種々の特質の組み合わせが、集団内や,近縁集団間で、一致或いは類似する。
8.古代の日本人の名称としての「倭」「倭人」は、(自称?)ではなく、他者、特に中国中原地域の王朝などに拠って、与えられた「他称」としての、民族名~種族名だと思われます。
9.「倭」という漢字は、「委」という発音の種族名を意味する文字のようです。
10.その文字が出来た時点には、この種族の存在が、中国側に認識されていた。
11.即ち「倭」字の出来る以前に、中国側は「倭」という種族と接触、認識していた
12.「ワ」という一人称が、日琉語族の言語の担い手に属する物であれば、何処で、日琉語族と中国王朝の接点が在ったかが、次の問題になります。
13.将来、「倭」「委」等を記した金文の出土は、可能性があると私は考えています。
私の要約:
1)言語の起源が国家の成立に重要
2)古代の日本人の名称:倭・倭人は、中国中原地域の王朝などに拠って、与えられた「他称」
3)倭」字の出来る以前に、中国側は「倭」という種族と接触
4)「ワ」という一人称が日琉語族の言語の担い手に属する物
5)何処で、日琉語族と中国王朝の接点が在ったかが、次の問題になる
上記はかなり納得出来る。
*日本列島への弥生形成の渡来人は紀元前7~8世紀
*中国で西周が活躍したころ
*私は初期弥生渡来人は江南の沿岸海洋民族と思っている。
*彼らが朝鮮半島経由で北九州に渡来してきた。
*彼らの言語が日琉語の祖
*以後始皇帝などの戦いで半島から渡来人がきたが、彼らも日琉語系の言語を話していた。
*日本列島に渡来した日琉語系言語話者は、以前朝鮮半島から後の渤海領域まで拡大した時期があった。
どうでしょうか?

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/05/11 (Sat) 01:21:41

 当世奇妙さん
 
 私は、日本古代史、特に邪馬台国問題に興味を持つ以前の中学生時代から、日本人の起源・形成、日本語~日本民族の起源・形成、それに並行して、欧州のゲルマン民族の大移動(と欧州諸国の起源)に、興味を持ち、更に、源平時代、戦国時代、印欧語族の大移動に、関心が広がりました。

 邪馬台国問題は、偶々、大学卒業時の古田武彦氏のベストセラーをんだことがきっかけで、古代史に興味を持つ導火線になりましたが、民族・言語の起源・形成上、国家の成立が、重要だと言う、当然の認識にも、達していた時期でもあったのです。

 当然、私の邪馬台国や古代史に関する関心は、日本語、日本民族の形成という問題と常に不即不離で、セットで、考え続け、それは、今も同様です。
 医学部入学後、医学を学ぶ過程で、民族と人種、分子遺伝学的観点も、同様に常に参照して、考えるようになり、現在に至っています。

 はっきり言えば、原始古代に遡れば遡る程、言語、人種(正確には、遺伝的特質)、集団(部族、種族、民族)は、その集団内で、一致すると言うか、集約すると言うか、分散~拡散しない傾向が、ある、と考えるようになりました。
 勿論、個々の特徴が狭い範囲で、均質的に、一致~類似する、という単純なものではなく、種々の特質の組み合わせが、集団内や,近縁集団間で、一致或いは類似する、という意味です。

 古代の日本人の名称としての「倭」「倭人」は、自称ではなく、他者、特に中国中原地域の王朝などに拠って、与えられた「他称」としての、民族名~種族名だと思われます。
 自称の民族名は、おそらく存在しなかったように思われます。
 欧州のゲルマン民族の汎称の「ゲルマン」や、英語の「チュートン」は、何れもローマ帝国と接触した、ゲルマン民族の㈠部族名(「チュートン」の語源のテウトニ族は、ケルト系の可能性あり)が、後に、同系の諸部族全部を含んだ汎称になった、とされています。
 他に,民俗例では,一人称複数形が、種族名になる事も、よく知られています。
 日本語の一人称「ワ/ワレ(吾,我)」が、「倭」の語源と考える人が多いのは、この民俗例を、根拠とします。勿論、他者、中華中原王朝による命名か、或いは既に、近隣の族にその様に呼称されていたのを、中国の王朝が、そのまま使用したのでしょう。

 「倭」という漢字は、どうも「委」という発音の種族名を意味する文字のようで、その文字が出来た時点には、この種族の存在が、中国側に認識されていたことになります。『詩経』小雅の「周道倭遅」の倭字の解釈は、「曲がりくねった」とするにしても、他に類例がなく、同じく倭字の初出の可能性のある、魯の宣公倭(俀)」も、神人でもない通常の君主の諱の為に、文字をわざわざ作る可能性もないでしょう。
 即ち、「倭」字の出来る以前に、中国側は、「倭」という種族と接触、認識していたことになります。

 「ワ」という一人称が、日琉語族の言語の担い手に属する物であれば、何処で、日琉語族と中国王朝の接点が在ったかが、次の問題になります。

 青銅器銘文や甲骨文のような、考古学的資料の裏付けがなく、史料からの推定になるのは、現時点では止むを得ませんが、将来「倭」「委」等を記した金文の出土は、可能性があると、私は、考えています。

 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - 当世奇妙

2024/05/09 (Thu) 16:54:17

石見介さんの認識として、最も古い倭は
西周(紀元前1000年頃)になると言うことですね。
*「倭」の伝承は、春秋時代以前の、西周時代には、確実に遡及し、東夷の一種族として、その存在を認められていたと思われます。

しかし、この結論に到る推敲は、推論の積み重ねのように思われますが、如何でしょうか。

『隋書倭国伝』の記す7世紀初頭の倭国② 石見介

2024/05/09 (Thu) 00:31:57

 『隋書倭国伝』は、倭国と中国の王朝との外交関係等の歴史の記載も、有ります。先行史書の内容の引用が、基本ですが、それは同時に、先行史書の倭国、倭人記事を、『隋書』撰述時の唐初の史家が、どのように読み取ったかを、示しています。
 これまでに、何回も私が繰り返し述べているように、中国の史書は、近現代の日本人を、読者として想定してはいません。飽く迄も、後代の中国人支配層や読書人を、読者と想定しています。勿論、史書撰述時の支配層や存命者に対する配慮は、当然存在し、そのあたりは、史料批判の対象でもあります。
 近現代日本人歴史研究者や日本古代史愛好家諸氏の、「独自」な解釈との相違点が、自ずと浮き彫りされます。
 『隋書倭国伝』の倭国と中国王朝との交渉史は、必ずしも年代順になっていないので、此処では、年代順に,『隋書倭国伝』の記述を、検討します。

 中国の史書の倭国、倭人関連記事で、最初に『隋書倭国伝』に引用されるのは、後漢代の記事で、おそらくは范曄『後漢書』かと思われますが、『東観漢記』や七家後漢書も散逸していなかった時期なので、完全には特定できませんが、北朝でも范曄『後漢書』が、早くから拡がっていたとされるので、「東夷列伝」のある范曄著が、引用元だと、私は、推定しています. 
 本来の正史である『東観漢記』には、「東夷列伝」が存在しなかったことは、陳寿が、『三国志』魏書東夷伝で、証言していますから。
 尚、前漢代の倭人情報を記述している『漢書』からの引用が無いのは、本紀、列伝の記事ではなく、「地理志」の記載なので、無視したと思われます。

 さて、後漢代の記事は、後漢光武帝と安帝時の倭国の遣使朝貢記事なのですが、朝貢したのは、「倭奴国」だと記しています。現行范曄『後漢書』のAD107年の「倭国王帥升等」や、唐代類書等の引用からの「倭面土国王」他の異同の何れにも、「倭奴国王帥升等」の遣使朝貢と記したものは、一切存在しません。
 即ち、このAD107年の朝貢を、AD57年に朝貢した倭奴国王の遣使朝貢だと、「解釈」したのは、まさに『隋書』の撰述者であったことになります。
 彼の見た『後漢書』の文面が、「倭国王帥升等」であったのであれば、後漢光武帝に王号を与えられた倭奴国王(の継承者)が、その「帥」の「升」等を、使節として、派遣したと釈読し、文面が「倭面土国王帥升等」のようなものだった場合には、面土国王は、倭国王=大倭王配下の小国の王だと、釈読したことになります。
 日本の古代史愛好家諸氏の、「帥升」=スサノヲ説は、都合よく「帥升等」の「等」を無視し、また、生口160人を献上するという、倭国内の戦時状態を無視した大倭王自らの渡海朝貢という、砂上の楼閣に過ぎません。

 次に引用されたのは、陳寿『魏志倭人伝』で、倭国の地理説明の都合から、『後漢書』よりも先に引用されていますが、見逃せないのは、大倭王の都を、「邪靡堆」と記し、「魏志の所謂邪馬臺」だとしている事です。明白な邪馬臺国大和説ですが、九州説の方からは、范曄の5世紀初頭の情報の影響だと、反論されるでしょう。

 その後、倭国が、魏への朝貢後も 、歴代、中国に朝貢を続け、南斉、梁と、中国への朝貢を、欠かさなかったと記しますが、私は、南斉、梁への「倭国使」は、正規の倭国使ではない可能性が高い、と推測しています。(既述)

 もう一つ、後漢代の倭国との交渉史記述で、見逃せないのは、おそらく范曄『後漢書』からの引用と思われる内容でありながら、AD107年の倭国朝貢を、倭奴国の朝貢とし、他方、范曄『後漢書倭伝』が記す、「大倭王は邪馬臺に居る」という情報と、矛盾を感じなかたのか?という問題が、有ります。
 ①矛盾に気付かなかったか、気付いていたが、判断を保留した。
 ②「倭奴国」を、「倭の諸国の中の一国の「奴国」と解釈せずに、「倭国」の語義だと解釈した。この場合は、「奴」は国名ではなく、所謂「卑字」で、倭国、倭人への蔑視の為に、後漢代に付されたという解釈になりますが、范曄は、「倭奴国」を、「倭の奴国」と読み、「倭国の極南界」にある、としています。
 後漢初から安帝即位前後までは、奴国が、倭人諸国の盟主=大倭王で、その後、邪馬臺国が、倭人諸国の盟主になったと考えたのか?
 ③倭奴国王の子孫が、邪馬台国王になり、血統的には、後漢光武帝から、王号を与えられた倭奴国王の宗族が、大倭王として、継続している、という解釈なのか?
 この解釈に至ったとすると、倭国の使節による、倭国王の万世一系説の影響も、考えられます。

 唐の皇帝にも、日本国の統治者は、ずっと同一宗族だという日本側の主張は、伝わっていますから、③の可能性が高いと、私は、判断しています。

『隋書倭国伝』の記す7世紀初頭の倭国① 石見介

2024/04/30 (Tue) 00:03:21

 倭の五王の南朝劉宋への朝貢が記録された『宋書倭国伝』の5世紀の後、進号記事などを含む倭国の記事が、劉宋の後の斉(南斉)や梁の史書に見え、倭王武やその後継者が、劉宋滅亡後も、南朝に朝貢していたかのように見え、また、そのように解釈する研究者等もいますが、私は、劉宋滅亡後、倭国の中央政権、ヤマトの王権は、中国への朝貢は、中止したと考えています。『南斉書』や『梁書』の倭国伝の内容も、進号記事以外、内容もなく、有名な『梁職貢図』のあの裸足の倭国使の図からは、倭奴国以来、倭国の使節が、自ら「大夫」を称していた、という歴代の中国史書の記載とは大きく、異なっています。
 日本史上、特に、倭寇の時代に、しばしば横行した「偽使」であれば、あの「職貢図」の倭国使に、相応しいと思われます。
 九州辺りの海人族の仕組んだ偽使か、或いは府官制下で、九州辺りの軍郡に叙せられた地方豪族や半島等に派遣された中央豪族の支族が、倭国使を僭称した物だろうと、考えています。
 倭王武=雄略天皇の後、大和の王権は、王位継承が不安定化し、半島南部より遠方の、利害関係の少ない中国南朝との外交の余力が、失われていた状況だと、判断しています。

 そのような状況から脱して、安定的な大王位継承権を確立したのが、継体天皇の末子欽明天皇の子孫であり、異母兄妹婚をも許容する近親婚を特徴とし、蘇我氏を外戚、執政者として、南北朝を統一した漢化鮮卑の王朝、隋に遣使し、朝貢ではない、対等の外交を、模索します。
 その状況を、日中の史書から、探ります。
 尚、『隋書』では、「倭国」ではなく、「俀国」のように、「倭」字の代わりに。「俀」字を使用していますが、「俀」が「倭」の異体字である事は、校勘、考証上、確定しており、『隋書東夷伝』の俀国条の「俀奴国」を、『後漢書倭伝』の「倭奴国」の表現に合わせる必要もあり、『隋書』のこの部分も『隋書倭国伝』とし、文中の「俀」字も、全て、「倭」字に代えて表記し、論じます。

 さて、『隋書倭国伝』は、中国史書の夷蛮伝の体裁に習い、まず、中国から見た地理的記載から始まります。しかし、後に勅使の裴世清派遣記事にあるように、使節が倭国の王都を見、「倭王」と直接、会見して、言葉を交わしています。3世紀の親魏倭王卑弥呼の時代には、女王との会見はおろか、王都のある邪馬台国には入らず、北部九州の伊都国までしか、直接の見聞はしていませんでした。
 「倭王」とカッコ書きした理由は、勿論、記紀の当時の大王が、女性の推古天皇であり、『隋書』の記す男王ではないので、後に、検討を要するからです。
 いずれにしろ、『隋書』倭国伝は、外国史書で最初の、倭国主要部の実地見聞記録として、高い価値が、有ります。

 


 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/04/08 (Mon) 22:59:28

記紀神話は、継体欽明皇統に属する大王、天皇の時代になって、編纂されました。継体欽明皇統の諸大王の外交政策、特に対中国外交は、前漢時の倭人諸国、後漢代の倭奴国や、その後の3世紀の女王卑弥呼、5世紀の倭の五王のような倭国の統一政権のいずれとも異なった「対等外交」を、目指しているように思われます。中華帝国の冊封を受け、その権威で他の倭人諸国や国内統治、或いは、半島等の地域での軍事、行政権限の正当化や強化を図る、という姿勢は、全く見られません。
 即ち、列島の倭人、倭種支配には、一切、他者の権威などを必要としない、強靭な国家意思の存在を、示しています。
 客観的には、南北の分裂を統一し、倭の五王時代の南朝より遥かに強力な、隋,唐に対し、倭の五王の時代よりも、半島の支配領域は、縮小しており、列島の政権が、その実際の国力よりも、相対的に高姿勢のように、見えます。

 そのような状況で、中国への朝貢を基本的に否定し、列島支配の正当性を、皇祖神(タカミムスビ、オホヒルメ)の神勅に求めた、神代を含む史書が、撰述されました。当然、神代を含めた記録された歴史の真偽の検証には、継体欽明皇統を含めた列島の支配層の思考その他の検討が、必要です。

 先ず、継体欽明皇統が、大和の王権の継承者となった経緯を、見ましょう。
 倭の五王の最後、倭王武であると考えられる雄略天皇が、それまでの倭の大王とは異なり、近親の王族を多数殺害し、その没後の星川皇子の叛乱?などもあり、畿内に於ける王族不在の状況に陥入り、大王位継承者を、畿内周辺の播磨、丹波、近江等に求めざるを得ない事態が、生じました。
 最初の危機は、女性なので、おそらく雄略天皇の粛清を免れたと思われる履中天皇系の飯豊皇女が、大王の代行者を勤め、その兄の子(或いは孫)の仁賢、顕宗兄弟を播磨から迎え、大王位断絶を何とか、乗り越えました。
 しかし、それも次世代に武烈天皇一人しか男性皇族が成人せず、且つ武烈天皇に、子がいないと言う状況下で、大王位断絶の危機が、再来します。
 大連大伴金村は、先ず、丹波にいた仲哀天皇五世の孫というギリギリ皇族の範囲に入る人物を迎えに行きますが、害意を疑った王族は、遁走します。
 そこで次の候補に挙がったのが、古志(越前)育ちで、尾張連出身の妻との間に、二人の健康な男子を持つ、生殖能力証明済みの近江に本拠を有する継体天皇でした。
 このような記紀の伝える、皇位継承説話が、おおむね史実を伝えているとすれば、この時代の皇位~大王位継承権を有する倭国の「王族(皇族)」の範囲が、どのようなものであったのかが、判ります。
 記紀の大王系譜の初代神武の子孫で、2代綏靖の同母兄の子孫多臣、五代孝昭の子孫和珥臣、8代孝元の子孫阿部臣等の大彦命子孫を称する氏族群、大臣を多く出した武内宿禰後裔を称する葛城臣、平群臣、蘇我臣等の、初期の大王から分出した皇別氏族群は、大和など畿内に本拠があっても、大王位継承資格はなく、大臣や前津君など執政権関与権しか、有りません。
 大王位継承資格は、所謂、応神皇統のみか?というと、そうではなく、崇神皇統の仲哀の子孫、直近の大王との血縁がより近い継体天皇よりも前に、仲哀天皇の子孫が、先に候補に挙がっています。
 これは、稲荷山鉄剣銘のように、倭王武=雄略天皇=ワカタケル大王の祖先として、「ヤマトタケル」が、認識されていた史実が、存在していたからだと思われます。即ち、大和の諸豪族は、大王継承権は、伝説的なヤマトタケルの男系子孫にあると認識し、その中で畿内に候補者がいない場合、周辺諸国から、自分達に都合の良い候補者を、選択する方針で一致していたと思われます。
 常識的に考えれば、前王に血縁の近い王族が選択されるべきですが、近江、越前、尾張に、強力な支持勢力を持つ継体よりも、無力な丹波の王族の方が、大和の諸豪族には、好都合だったのでしょう。
 しかし、その有力候補は、遁走し、大伴金村は、継体擁立に踏み切った。河内の馬飼部からの情報で、大和の情勢を知った継体は、大王位は継承したが、早急な大和入りは避けて、慎重に仁賢の3皇女を、自身と二子の妻として迎え、最終的に大和の諸豪族に、大王位継承を、承認させた。
 その条件の一つが、倭王権の半島利権の確保であり、所謂「任那の貢」の確保だった。

 以上のように、現時点では、私は、継体欽明皇統の登場を、考えていますが、では、隋との対等外交等の開始の動機は、何か?
 これは、中国南朝の府官制下での半島での失敗の反動だと、私は、考えています。
 南朝劉宋との関係は、本来、倭国が積極的に求めたものではなく、高句麗好太王碑にあるように、高句麗の半島中南部への進出の脅威下で、百済や新羅を含む諸韓国や貊族諸国、半島残存倭種諸国が、列島の倭人諸国の統合を果たしつつあった大和王権の介入を求めたのが契機となり、おそらく、百済の嚮導により、南朝に朝貢する事になったと思われます。
 倭国の王権が、私の想像するように、後漢光武帝に初めて王号を与えられた、倭奴国王の子孫であれば、南朝宋の王家が、「劉」氏であったことも、影響していると思われます。

 しかし、南朝劉宋の府官制は、百済の利益にはなっても、倭国の利益にはなりませんでした。
 劉宋は、北朝諸国との対抗上、慕容鮮卑の後背に位置し、三燕をけん制し得る高句麗や百済を、倭国よりも重視し、常に官位では、高句麗>百済>倭国の順で、倭国は敵国の高句麗に大きく官位で差を付けられ、属国視する百済にも劣り、最低限の要求である百済の軍事管轄権も、認められませんでした。
 日本の研究者は、5世紀の倭の五王政権が、中国南朝の府官制を利用して、列島内の倭人諸国の統合や半島進出を有利に運んだかのように、考える傾向があるように思われます。
 私は、その見解には、疑問を感じています。

 高句麗好太王碑文にあるように、倭国は中国の王朝の了承など必要とせず、独自に介入し、安蘿のような積極的な協力者も、存在していました。

 亦、倭の五王の一人の武の上表文にあるように、倭の大王や王族の親征によって、東日本の毛人、九州などの衆夷、半島南部の海北の諸国を、版図に加えたと自負していました。この倭王権の大王の上表文の文体が、類書等の漢文の章句を借用した物なので、その内容を宣伝のみで、史実とは考えない向きもあるようですが、『宋書』の東夷伝の他国、特に百済と比較すれば、その相違点、共通点から、倭王権の性格や国内の統合度も推測できます。
 記紀の崇神紀の「四道将軍」やヤマトタケルのような王族将軍、或いは、大王~天皇の「親征」も、史実として、存在し得たことが、倭王武の上表文から、確認し得ます。

 倭国内で,府官制がどのように機能したのか、不明ですが、扶余系で北朝にも朝貢し、単于号も得ていた百済のような騎馬民族系とは異なった農耕民の王朝の倭国で、軍郡に叙せられた倭の王族や豪族と倭王の官位の等級差は、倭王の与えられた官位が要求よりも低い為に、殆ど同格に近く、倭王にはメリットは、あまりなく、更に、半島に出兵した倭の王族豪族や在地倭種の小王たちにとっては、百済王やその配下の王族や貴族の官位が、常に倭国側司令官より上位にある、という状況になります。
 このような状況では、倭国が、半島の権益を守るのも困難で、半島に大きな利害関係を持たない大和の豪族は、半島放棄、撤退論に、傾くのは、必然的でしょう。
 更に、そのような状況に倭国を導いた百済に対する反感も、当然、生じます。
 安閑天皇が皇太子?の時に、反百済派であったと、日蘿の記事絡みで記述されているのも、府官制に拒否感を持つ継体天皇一族の感情を、物語っています。

 では、継体欽明皇統が、何故、「任那の御調/貢」の確保にこだわったのか?
 それは、おそらく半島に大きな利権を有する大和の豪族群、主に武内宿禰後裔を称する紀氏、葛城氏、蘇我氏などに、継体天皇の大王位継承を、承認させるための「代償」であったと思われます。
 紀氏、物部氏など、在半島倭種や他族との間に、子を儲け,支族が半島に存在し、その中から出た、倭系百済官人も、記録されています。大伴氏や穂積氏も、半島に出兵或いは、赴任者が記述されていますが、倭系百済官人には、名はありません。大和の諸豪族(や他地域の豪族も含め)にも、半島の利権関与の程度は、当然大きな相違があり、半島政策の異同の原因となっていたと思われます。

 継体天皇は、最終的に大和の諸豪族と妥協し、安定的に大王位継承を果たしましたが、半島政策の矛盾は、最大の支持勢力だった大伴連の失脚や、長子安閑の子孫断絶など、いくつかの問題を残しました。
 しかし、欽明天皇の子孫が、大王位を保持し得た事に因り、記紀神話を含むあの史書群を、後世に残すことになります。

倭国、倭人、倭種の相違について 石見介

2024/03/14 (Thu) 01:04:31

 主に、中国史書に現れる、倭、倭人,倭国、倭種などと表現される言葉の意味や、その種族的実態について、本スレッドの主題とはややずれすが、今後の議論に必要なので、検討しておきます。
 実は、平井進氏『倭の原像』下巻を、2週間ほど前から読み始め、最初の1章(第5章)を、読み終わりました。上巻は昨年中に読みましたが、万葉歌等の引用が多く、理解できず、所謂「中世日本紀」という「偽史」「偽書」を、信じておられるのか?という誤解を、して居ました。
 下巻を読み始めて、平井さんが、7世紀以前の倭国が、渤海湾沿岸に在ったと言う話をしているとやっと気付き、その日本(及び中国の)神話観の提示に、注目するというお粗末な読者である事に、恥じ入っています。
 もともと、私は、倭人遼河流域起源説を、最初の掲示板デビュー(井上筑前守さんの「邪馬台国大研究]HP掲示板)で展開し、同地域から日本への倭人の渡来時期=弥生時代の開始時期を、当時の弥生時代開始時期の定説だった紀元前3世紀~紀元前5世紀ではなく、殷周革命前後の東夷諸種族の民族移動の一環であると捉え、弥生時代の開始時期は、もっと早い筈で、紀元前12世紀から、遅く見積もっても、前7~8世紀には、遡ると主張していました。その後半年ぐらいして、歴博の発表があり、私の仮説が、一部裏付けられました。
 その後、私は、倭人の起源地を、山東省あたりに下げ、遼河流域へは、その一部が、廟島群島沿い、又は同時に、渤海湾西岸沿いに、遼東半島に入った、と修正しています。
 そういう経緯があったので、平井さんの所説を、私の当初の倭人(西)遼河流域起源説と類似した、渤海湾西北海岸地域起源説かと思い込み、6~7世紀の倭国の話だとは思わなかったのです。

 范曄『後漢書』には、鮮卑伝で、檀石槐が「倭人国」を撃ち、倭人を捕虜として、河川湖沼での漁撈に従事させ、鮮卑の食糧不足対策としたと言う記事が在ります。
 まだ、平井さんの御本では、この話は出てきていないようですが(見落としの可能性あり)、この記事は、范曄が「汙人」を、「倭人」と改めたとされています。
 ここで、もう一度、「倭」「倭人」「倭種」「倭国」という言葉の使用について、中国史書の表現と、その種族的というか、民族的実態の検討を、すべきだと感じました。
 本来は、独立したスレッドが必要な、大命題ですがとりあえず、最低限の議論は、しておくべきかと思います。
 「倭」「倭人」の定義は、当然ながら個人差もあり、平井さんは、前記著書では、渤海湾西北岸の航海交易勢力で、同地域中心に、内蒙古草原部から日本列島に至る交易ネットワークの保持運営者とされ、私は、日琉語族の話者で、渡来系弥生人の主力、実態であり、その後の半島残存、列島移住の子孫に、列島などで同化して、日琉語族の話者になった人々も、倭、倭人であると、考えています。
 私の定義は、主に、言語の帰属を重視した「民族」という概念に、近いものですが、同時に、史書に現れる「倭」「倭人」認定は、その史書の撰述者(と背後の支配者)による、いわば主観的、恣意的とも言えるもので、当の支配者、撰述者が、客観的に倭人ではないと認識していても、文書には、「倭」「倭人」と記述する事例も、存在する、という事実も、以前から、指摘しています。
 何故か、日本の記紀など、日本側の史書の類は、偽書同然の、虚偽に満ちた書だと批判する一方、中国や半島の史書は、まともな資料批判もせず(ご本人は,されたと錯覚)、信用される方が多いので、資料が豊富で、裏が取れる中世以降の、倭寇関連の中国、半島の史書の例を挙げて、注意喚起もしていますが、馬耳東風の場合が多いようです。
 もう一度、明代の「福建新倭」や半島の史書に現れる「倭使」を称する倭寇の偽使などの記録を、想起して欲しいものです。


 中国の文献で、最初に「倭」に触れたのは、『詩経』で、小雅の「周道倭遅」という字句ですが、この「倭」は、春秋時代の魯の君主「宣公倭(俀と記すものあり)」の名に使用された「倭」と、何れかが「倭」字の文献中の初出とされますが、何れも、種族としての「倭」の語義であるとは決め難いです。後に儒家が、周初の周公旦と関連して、明白に、「倭人」或いは種族としての「倭」を、明記しますが、魯の公室の祖が、周公旦の長子伯禽である事を考えると、宣公の諱の為に、わざわざ「倭」という字を作ったとも考えられないので、既に、周公旦と倭人の朝貢の記憶~伝承が存在し、それに因んで、宣公の諱として、選ばれた文字だと思われます。 そのように考えると、既に、周初の周公旦の徳治を称えた、代表的な遠夷朝貢の事例としての「倭」の伝承は、春秋時代以前の、西周時代には、確実に遡及し、東夷の一種族として、その存在を認められていたと思われます。
 「周道倭遅」の字句解釈は、周の(王)道は、曲がりくねって遅い、のように、「倭」字を含む「委」声の文字と音通とされる「于」声の文字の「迂」の語義を、採る説が、有力のようで、前記平井進氏のように、種族名と関連させる解釈は、少数派のようです。

 次いで、前漢代の引用で、『山海経』の有名な、「蓋国は<金巨>燕の南、倭の北に有り。倭は燕に属す」という文で、明らかに種族もしくは部族国家としての「倭」の東周期(春秋戦国時代)の一時期の位置情報ですが、弥生時代の開始時期が、紀元前10世紀以前に遡及した現時点では、日琉語族の列島進出後の満州~朝鮮半島残存部族の情報と考えるか、後の「倭国」王権の担い手を、渡来系弥生人とは、別な集団(扶余系。倭人の一派その他)と考えるか、という議論になります。私は、『三国史記』高句麗本紀の旧高句麗領の日琉語族の残存地名の存在から、列島に入らずに、半島に残った日琉語族の残存部族の情報だと、解釈します。尚、この文の解釈には、松下見林の「南倭北倭燕に属す」と読む解釈もあり、一般に誤読とされていますが、最近、范曄の『後漢書』鮮卑伝での「倭人国」改訂の根拠の一つとして、范曄も同様の釈読をした可能性があると、考えるようになり、再検討中です。「<金巨>燕」という語の意味、解釈が、春秋戦国期の燕国の、属国を含めた領域を、広汎に捉えた概念であり得るか否か、調べる必要を感じています。
 長田夏樹氏は、その『邪馬台国の言語』の中で、この語を、燕の遼東地域の領域を意味する語としていますが、その根拠は、示していません。
 「<金巨>燕」の語句の「燕」の解釈には、召公奭の子孫たる姞姓(姫姓ではない)春秋12列国、戦国七雄の燕(匽)を意味する事は、何処からも異論はないと考えられるが、<金巨>字で修飾された「<金巨>燕」が、何を意味するか、例えば「全燕」のような語彙や、或いは「金」偏の無い「巨」のみの「巨燕」のような語と、どのような意味の相違が、有り得るのか?
 白川静『字通』では、<金巨>字は、13画で、語義は、「おおきい、かたい、つよい、尊い」などで、他に強調的表現で「何ぞ」「いわんや」などの用法があるようです、これらからは、長田夏樹氏の言うような、「遼東地域」のような、燕の特定地域を意味すると言う解釈は、困難で、「<金巨>燕」は、燕の美称尊称と捉えるか、全燕のように、燕の全領域を意味するかになりますが、時期により、燕の領域は、伸縮する為、『山海経』の当該記事の成立時期という、難問により、結論は出せません。

 次に倭人情報が記録されるのは、後漢初期で、班固『漢書』地理志と、班固の父班彪の門下の王充『論衡』です。班固は、後漢の史官として、史書編纂所である蘭台の令史を勤めました。史書編纂が後に、「東観」に移り、編纂された公認の史書『漢記』が、『東観漢記』と通称されるようになりますが、その初めの「光武帝紀」は、班固が中心になって、撰述されたとされます。王充は、班固より5歳程、年長ですが、これらの事情から、二人や班氏の先人と交遊のあった新の王莽も含め、周初の成王の時代、周公旦摂政時の、倭人朝貢については、これら儒者の共有の知識、認識であったと思われます。
 班固は、「楽浪海中倭人有り。分かれて百余国を為す」と記し、前漢時には、倭人が既に、日本列島に在り、100余の国々に分かれ、且つ、楽浪郡に献見している事を記しています。王莽は、おそらく簒奪準備のために、益州郡に工作して、越人に白雉献上させ、倭人と思しき東夷の王に、大海を渡って方物を献上させています。王充は、『論衡』に、越裳氏の白雉献上と倭人の暢草献上を記述しています。
 この一連の流れから考えると、王莽執政時の、大海を渡って方物を献上した「東夷の王」とは、列島の倭人諸国の王のように思われますが、何故か、『漢書』は、倭人とは明記していません。これは、『漢書』の著者班固が、光武帝紀に記述したであろう「倭奴国」の朝貢が、まさに後漢の開祖光武帝の徳を称える、「倭人の遠夷朝貢」である事を意識して、簒奪者王莽への倭人朝貢は、明記しなかったと思われます。
 後漢光武帝の死の直前の、この「倭人の朝貢」は、どうも王莽同様、おそらく光武帝の側近が仕組んだもののようで、『東観漢記』を原資料として、『後漢書』を書いた范曄は、そのあたりの事情を、察知したか、或いは、知っていて(范氏の本貫地は、光武帝の属した南陽劉氏と同じ南陽郡)、その本紀、列伝に、倭奴国王に王号が、与えられた事を、明記しなかったのは、そのような側近たちの追従を、良しとしなかった批判の意が、籠っていた、と私は、判断します。
 また、王充は、文献によっては、鬱人となっているのを、「倭人」としたのは、「鬱」と「倭」が音通だとする説もありますが、或いは、鬱林郡あたりに、倭人と習俗の類似した南アジア語族系の佤族など、広義の越人と見做された人々と、同種と判断したのかもしれません。
 亦、班固は、『漢書』地理志で、会稽郡に献見していた「東鯷人」について、記述していますが、楽浪郡に献見していた倭人についての記述と、ほとんど同じ文章であり、相違点は、「海中」と「海外」、国数の「百余」と「二十余」です。班固が、倭人と東鯷人の関係をどのように考えていたのかは、不明です。この東鯷人については、益州の楊雄も『法言』でそれを指すと思われる文言を記しており、先述の王莽時の、大海を渡って方物を献上した「東夷」の王の「東夷」とは、鮧海(東シナ海)の東方の島に住む種族、即ち、東鮧人だとする解釈にも、繋がります。この時期の倭人についての認識は、越人との習俗等の類似性や、東鯷人や会稽郡に現れる亶洲の民などとの種族的境界も、明確では無いように思われ、そのあたりが、後漢代の通史である『後漢書』を書いた范曄が、その東夷列伝倭条に続けて、東鯷人、夷洲、亶洲について記述じた原因だと考えられます。

 次に、倭人の情報が記録されるのは、書物ではなく、墓室の中の煉瓦、後漢末の安徽省亳県の曹操一族の墳墓から出土した、所謂「倭人字磚」です。それを日本に紹介した森浩一氏は、李燦氏の説を支持しているようですが、当時の中国で、煉瓦に占いの内容を記して判断するようなことがあったとも思えないので、私は、李燦氏の説、会稽郡大守曹胤(曹操の養祖父の兄の孫)が、列島の倭人の桓霊末の大乱を、盟約によって収めようとした、という説は採らず、墓室築造に動員された黄巾道の信者で、識字能力のある者が、倭国乱で、大陸に逃れて定住していた倭人集団が、黄巾道集団と、同盟できるかを、磚に刻んだ、と判断しています。安徽省は豫洲なので、会稽郡とは離れていますが、この倭人集団は、東鯷人とされる九州中南部の人々では無かったか、と考えています。

 次の三国時代の倭、の情報は、当然、魏や呉の情報になりますが、記録としては、西晋代の陳寿『三国志』の裴松之註で、引用された魚拳『魏略』逸文等になるので、陳寿『魏志倭人伝』を含む『三国志』や、左思『三都賦』の『魏都賦』の話になります。
 ここで注目すべき新規情報は、魏による倭の女王卑弥呼に対する「親魏倭王」叙爵と列島の倭人諸国30ヶ国の国名を含む、3世紀中葉の列島の情報です。
 ここで、左思『魏都賦』の文言にある「於時東鯷即序、西傾順軌」の前半の解釈を、森博達氏の解釈(『月刊日本語論』終刊号収載論考)に従って、卑弥呼の朝貢を指すとすれば、まさに倭人諸国と東鯷人諸国が、一部重なることになります。
 森博達氏の上記論考中の主張は、多岐にわたり、私の従えない解釈も多いのですが、『魏都賦』の上記文言が、卑弥呼の朝貢を意味していると言う解釈には、従います。そもそも、会稽郡は三国時代には、魏ではなく呉の領域に属していました。『三国志』呉書には、東鯷人や倭人の朝貢記事は無く、黄龍年間の諸葛直、衛温による夷洲、亶洲征伐記事が、有るのみです。西晋代に、倭人と東鯷人の実態が、同じ民族であると言う、魏以来の通念が、存在したからこそ、左思は、詩文で、倭の代わりに、東鮧を使用したと思われます。
 尚、『魏略』逸文として、倭人の祖として、『魏志倭人伝』他の「夏后少康」ではなく、「呉の太伯」の名が、出ます。後代史書での倭人が、自ら謂うとの表現から、倭人、東鯷人、夷洲、或いは亶洲などから、中国に赴いたこれら倭種の人々が、それぞれ、中国の古代や神話上の有名人の子孫を称して、商売?していた様子が、窺われるように、思われます。
 ある者は、会稽山に因んで、禹の子孫打と言い、ある者は、呉の太伯の子孫だと言い、ある者は、秦の徐福集団の子孫だと言う。
 倭人の情報を集めた范曄も、どうまとめたらよいのか、迷ったでしょう。

 その次の時代が、高句麗好太王碑と『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」の時代です。倭国は強力な軍を持つ国家として、半島で高句麗と争います。
 しかし、劉宋の府官制下では、常に高句麗、百済より下位で、結局は、半島の利権は、縮小して行きます。
 劉宋の後、南朝に朝貢した可能性はありますが、私は、中国側の国内事情による進号と倭の中央正統政権ではない九州辺りの海人族の小国等の偽使を、疑っています。

 大陸に統一国家が成立した時、日本国内の混乱を収束せしめた倭人は、国号を変え、しかも、中華中原王朝たる鮮卑系隋、唐に、対等外交を志向して、遣使します。
 それ方間もなく、日本の有史時代に入ります。

 以上、駆け足で、中国や半島の資料に現れる倭、倭人,倭国について、検討しましたが、それらが、「倭」と形容されるのみならず、東鯷人、或いは、夷洲、亶洲などと関連して、半島の楽浪郡のみならず、会稽郡を中心とした東シナ海、黄海沿岸部にも、交易や亡命の為に、大陸に現れ、亦、倭以外の多様な呼称で、記されていたことを、窺い知る事が出来ます。
 倭人の情報を集め、亦、若年時から、経史を好んで読み、亦、琴の名手で、おそらく韻律にも関心が深く、四声の発見者でもあったと思われる(歴史的には、『宋書』の著者沈約とされる)天才范曄は、更に、倭人の存在を、渤海湾沿岸部や遼河流域にも見出したと確信し、『後漢書』鮮卑伝で、「倭人国」と記述したのでしょう。
 現代の言語学者は、8世紀の地名資料から、日琉語族の地名が、半島全域と、場所の特定は出来ませんが、鴨緑江以北の満州の地に、数ヶ所存在する事を、示しています。

 尚、半島の史書『三国史記』は、上記地名資料以外には、検討を控えましたが、それは,資料批判上、12世紀成立の後代資料なので、扱いが難しいためです。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/03/10 (Sun) 12:05:35

詳しい説明ありがとうございます。
勉強になります。
『後漢書』には他にない情報があり、
もっと読みこみたいですね。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/03/10 (Sun) 00:44:59

 当世奇妙さん

 返信が遅れ申し訳ありません。
 実は、何度かレスを試みたのですが、視力障碍の進行で、画面の上下にある多くのアイコンの識別が困難になり、繰り返されるヴァージョンアップにも対応できず、投稿失敗の回数が増加し、また、投稿に必要な事実確認のための読書なども進展せず、投稿回数自体が、減少している状況で、米田さん等へのレスも、失敗して、断念する状態になっています。
 結局、読書での確認操作は、中止し,wikiでの検索で代用し、記憶頼りで投稿する事態になり、亦、誤打鍵や誤変換のミスの見落としも増え、訂正作業で、更にレスが遅れる悪循環に、陥っています。
 施設入所も覚悟しなければならない状況になりつつあり、その為の本の処分を含めた準備にも、時間が必要になってきています。
 ギリギリまで、当会の議論に参加するつもりですが、突然の中断等もあり得ますので、その節は、ご容赦お願いします。

 さて、范曄『後漢書』倭伝に言う、「大倭王」と倭(ヤマト、倭)王権という言葉についてですが、范曄は、『後漢書』では、基本的に後漢代の倭人の状況を、記述する姿勢であり、飽く迄も、5世紀初頭の倭の五王の最初の倭讃の時代の状況の記述は、行わない姿勢であり、仮に記述する場合は、「案ずるに今」とか「今」云々と、誤解せぬよう、記述するだろうと思われます。 勿論、しかし、積極的な情報収集の結果、現在の情報などが、紛れ込むことはあり、十分に資料批判は行うべきですが。
 范曄は、後漢代の倭國~列島の状況として、倭人諸国それぞれに、「王」と見做し得る首長がいて、それらを束ねる上位の「大倭王」という存在も、認めています。

 後漢最初の皇帝光武帝の死の直前に、王号を与えられた倭奴国王、その50年後の生口160人を献上し、安帝に謁見を求めた帥升等の倭国王使節団、その時期を含む、安定的な男王支配下の’7~80年。桓霊期という後漢衰退期の倭国乱と女王卑弥呼の登場。
 明快に、時系列での倭人諸国の変化を、追って、記述しています。

 范曄は、『春秋穀梁伝』を家学としたと吉川忠夫氏が評した范氏出身で、范氏の本貫地は、後漢光武帝劉秀の出自した南陽郡であり、彼自身は、会稽郡で生まれています。
 幼少時から経史を好み、史才を高く評価され、『後漢書』撰述に際しては、多くの「学徒」が、左遷された范曄の下に集まっています。
 范曄が、倭人諸国の統合状況について、経時的に捉えていたことは、間違いなく、当然、「大倭王」の出現や、その権力の大きさというか、王権についても、経時的変化で、理解していると思われます。

 『後漢書』倭伝での,AD107年の倭面土国王?帥升等の朝貢は、安帝紀では「倭国奉献」となっています。
 范曄は、倭人諸国の中の一国面土‽国の王「等」が、倭国の使節として派遣されたと解釈したのであり、それを派遣したのは、倭人諸国を束ねる「大倭王」≒倭国王だと判断したので、本紀のあの記述になっています。

 陳寿の『魏志倭人伝』と范曄の『後漢書倭伝』というか,両書の東夷伝の評価については、岩波文庫『正史中国日本伝』の注釈者石原道博氏は、范曄は『魏志』に拠りながら、極めて巧妙な改竄をしていると言う酷評で、一方、中央公論社『日本の古代Ⅰ倭人の登場』で、『魏志倭人伝』を釈読した杉本憲司、森博達氏は、陳寿は、原資料をそのまま載せ、范曄は達意の文章で、齟齬が無いように記した、としています。
 どちらの判断が正しいのかは、明らかに後者です。

 「倭王権」という言葉の定義に問題もありますが、私は、史家范曄は、倭人諸国の王を、使節として派遣し得るような「大倭王」は、春秋時代の諸国の覇者、
「盟主」としての邪馬台国王というよりは、「倭国王」と言うべき存在だと、判断したと考えています。だからこそ、安帝紀の文言は「倭国奉献」であり、「倭面土国等奉献」になっていないと解釈します。
 この文脈で、大倭王の翼下に入らない倭人諸国は、「倭国」ではなく、「倭種」と規定される事になります。 

 尚、髙川博さんの、「魏は、倭国に半島出兵し、魏の諸韓国統治の円滑化に協力することを期待したのではないか?」というお説を、検討しているうちに、陳寿の撰述姿勢への疑問が膨らみ、それとともに、卑弥呼の朝貢自体、自発的ではなく、魏の対呉、対公孫氏政策として、魏の方から、倭国側に接近したのではないか?という仮説、解釈に、辿り着きました。
 この解釈だと、明帝曹叡と曹爽が、大戦略を立て、司馬懿は、単なる公孫氏討伐軍総司令官の立場に過ぎず、陳寿が、東夷伝序で述べた司馬懿の功績は、半減します。
 王沈『魏書』、魚拳『魏略』には、東夷に対する司馬懿の功績は、過大評価されていなかったのでしょう。従って、夷蛮伝としての「東夷伝」は、陳寿『三国志』魏書が、史書として、初めて記述したと言う事自体、『三国志』の特にその「魏書」の編纂目的が、晋の帝室の祖で、その基礎を築いた司馬懿やその子等、司馬氏の宣揚、正当化に在ったと思われます。

 そう考えると、陳寿の編纂姿勢の、「原資料に、手を加えず、そのまま引用する」、その結果、資料間の矛盾」による「文章の齟齬」が生じても。放置する、矛盾の無いように、史家として、調査し、事実を確認し、正しいと解釈した事を、記す、という行為が、見られない原因は、私の以前考えたような、陳寿の金銭的、人的資源不足の為ではなく、むしろ、史家の良心の発露だったのかもしれません。
 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/03/05 (Tue) 19:44:29

倭王権(范曄『後漢書』倭伝で言う「大倭王」)
が石見介論文に何度か出てきますね。
『後漢書』には「倭王権」と言う表現は無いのでは?
三十余の国に王を称するものがおり、その
大倭王が邪馬台国に居る ですね。
各国に王がおり、その代表として大倭王ですね。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/03/05 (Tue) 00:05:57

 スレッドの題名とは真逆に、ここ数回は、中国史書『魏志倭人伝』記載の古代日本語の語彙を、記紀神話・古伝承に現れる、神や天孫、初代~第11代天皇までの呼称(の一部)との対応・関連を、かなり強引に(『かなり』ではなく、もっと強い形容詞が必要だと言う声が聞こえそうですが、実のところは、『魏志倭人伝』の「官」等の解釈は、専門家諸氏も、私と大同小異の水準としか思えません)、解釈するにとどまっています。
 その最大の原因は、我々の知る「日本神話」や古伝承が、まさに、記紀という史書を編纂した、当時の支配層の記録した物しかない、という「歴史的事実」が有るからです。
 日本神話を、中国や半島の史書や、何らかの日本の支配層と直接的利害関係の無い他者が、記録した、という資料は、一切、有りません。
 世界宗教たる外来の仏教の寺院が、日本の支配層とは無関係に、日本神話の記録を残した、というようなこともなく、神仏混淆の「中世日本紀」の世界という、記紀神話以上に変容した、怪しい説話群を残しただけです。
 このような状態なので、「日本神話」の存在を、基本的に無視し、史実の反映、投影と考え、天照大神=卑弥呼と考える古代史愛好家や古代史探究者が、溢れることになります。
 それを善しとしない文献史学者や考古学者等の専門家の多くは、逆に、記紀の神代紀や初期の天皇紀の全否定、抹殺に走ります。

 私は、日本人も、世界の多くの他民族同様、神話、伝説を当然有したと考えます。また、有文字社会段階に入った多くの民族同様、歴史の記録を開始する時に、神話・古伝説と歴史を、混然融和させ、繋げたとも考えています。
 即ち、神話の歴史化、史実の神話・伝説化の双方とも、存在した、という立場を、採ります。
 その観点から、神話・古伝承の中からの「史実の復元」も可能だと考え、汎世界的、汎人類的に共通な神話、日本近隣の諸民族の神話・伝説の比較から、先ず、「神話」部分を抽出し、残った部分が、史実の投影だとする仮説の下で、前スレッドを立ち上げました。
 しかし、国家形成の経験の無い、東北アジア、シベリアの、古アジア語族系や一部のツングース語族系の民族の神話・伝説とは異なり、日本の記紀神話は、完全に、継体欽明皇統という大王家の時代の編纂になるものしか、記録されていません。
 他に在るのは、もっと悪質な偽書、偽史の類です。
 
 記紀神話から、史実を復元するためには、まず、継体欽明皇統の歴史観、神話観を、探る必要があると思われます。
 これまでも、折に触れて、その点について、言及してきましたが、今後の議論の為、再確認しておきます。

 継体欽明皇統は、彼ら自身の主導下に編纂した史書記紀で、「万世一系」を主張し、亦、日本列島統治権の淵源、根拠を、中華皇帝の冊封にではなく、皇祖神の「神勅」に因る、としています。
 中国史書の倭国、日本国伝等からは、AD57年の後漢光武帝による倭奴国王への王号授与から始まり、その後も、後漢、三国時代の魏、西晋、南朝劉宋による倭の五王迄、倭国の王への叙爵記事が記録されており、記紀の主張の内、中国への朝貢否定部分は、明白な虚偽です。記紀の内、正史『日本書紀』は、原註で、中国への卑弥呼の朝貢を引用していますが、本文では、完全に無視し、原註は、いわば、紀撰述に当たった渡来系史官が、ちゃんと中国の史書も読んでいますよ、というアリバイ作りの口実の意味しかありません。
 中国の史書からは、南北朝の分裂を統一した北朝系、鮮卑系の(自称漢人系の)隋や唐の史書に至って、初めて「日本」の国号を称し、同時に、中華の王朝と対等の意識で、外交を求める継体欽明皇統の姿が、現れます。もっとも、移行期の混乱なのか、他に原因があるのか、倭~俀国伝も、隋、唐の史書にありますが。

 長い間、中国との交渉では、朝貢国であった列島の王権が、何故、継体欽明皇統になって、尊大な対等外交を志向するようになったのか?
 客観的には、倭の五王時代の中国南朝よりも、南北朝の分裂を克服した統一中華王朝は、圧倒的に強大であり、これに比し、倭の五王の時代よりも半島の支配地域を大幅に失った日本国は、より弱小化したと言うべき状況でした。
 にもかかわらず、継体欽明皇統は、朝貢ではなく、対等の外交を志向したのです。
 即ち、従来の「華夷意識」を、脱却していたことになります。その意識、自己認識と中国王朝への意識の変化こそが、外交路線の変化となって、顕現したのです。
 以前、私は、この状況を、江戸時代前期の明・清交替を、「華夷変態」と捉えた儒学者の言葉を採用し、日本側が、中華世界の統一を、本来の中華世界の継承者の漢民族の王朝の南朝を、五胡の鮮卑系の隋(普六茹氏)、唐(大野氏)が併呑した状況を、「華夷変態」と捉え、同じ夷蛮出自の自分達と、同等だと感じたからだと、解釈しました。
 それどころか、拓跋鮮卑内の王統ではない他氏に代わった中国に比し、後漢光武帝に叙爵された倭奴国王の子孫、万世一系の自分達の方が、由緒があり、上位だとさえ、感じたのではないか?
 継体欽明皇統の外交は、逆に言えば、倭の五王の最後の「大悪」天皇とも評された雄略天皇の専制政治、対立皇族の大粛清の結果、不安定化した大王位を、地方から出た継体欽明皇統が、継承しましたが、その為に、大和中心の畿内大豪族に対する、自己の正当性主張の大きな柱、というかスローガンの一つにされたと思われます。
 もう一つの継体欽明皇統の畿内大豪族への正当性主張の柱が、「任那の御調(貢)」の確保、だったのでしょう。

 継体欽明皇統で開始された日本の史書編纂事業は、上記の二つの対外主張を根幹として、中国への朝貢否定、皇祖神の神勅による列島支配権の正当化が、行われ、それには、蘇我氏が大きく関わっていたと思われます。

 

補説:「伊都国」の謎 石見介

2024/02/25 (Sun) 23:18:35

 『魏志倭人伝』に記されている伊都国には、同伝中の他の倭人諸国には無い、多くの特徴が、見られます。それらを列記し、伊都国の他の倭人諸国と異なる「異質性」と、その由来、原因について、検討します。

①国名が、多くの倭人諸国の国名と異なり、「奴」「邪」のような、所謂「卑字」を含まず、好字(佳字)で表記されている。単なる発音上の音写での選択の結果かもしれない(旁国の「伊邪国」)が、日本側で、後に、伊都国の地を、律令制下の筑前国「怡土郡」という漢字表記を選択し、同音の紀伊国には、「伊都郡」の表記を許容した事を考えると、中国側の意図は別として、大和朝廷を含む倭人諸国側が、卑字,好字を意識し、北部九州の「伊都国」について,好字表記と感じ、且つ、それを問題視した事が、窺われる。
 倭人諸国の国名表記は、前漢時の楽浪郡の官吏が担当したと思われるが、倭国乱後等に国名が倭人側で変わった可能性,新国名の国家の誕生等の命名時期の相違(音写に使用される漢字の発音が変化する)、漢字知識のある渡来者による文字選択等の影響が、考えられる。伊都国王の子孫と考えられる伊都県主が、新羅王族アメノヒホコの子孫を称し、『古事記』で筑紫島の四面の一つ「筑紫国」の名が「白日別」=斯蘿日別であることなど、半島中南部の倭種、特に辰韓、新羅地域の倭種と深い関連があり、記紀神話での天孫降臨地であったのかもしれない。

②千戸の小国なのに、隣国の2万戸の大国奴国の2官制に比し、独自の3官制で、尚且つ、倭王権の「大率」が特置され、更に、代々、王がいると記されている。私は、戸数は1万戸の誤記と昔考えたが、儺の津が奴国の港湾だと考えると、狭い博多湾岸に、万戸以上の大国2ヶ国を想定するのは難しく、むしろ、『魏志韓伝』に記されている諸韓国の別邑やアジール的な蘇途、と言った、存在に近く、奴国内にあって、別な国家として、存在する可能性を、思案中である。
 いわば、イタリア王国内のローマ教皇領やサン・マリノ共和国のようなイメージである。 ヴァチカン市国と歴史上の教皇領の中間的で、宗教的色彩は、それほど強くない小国だが、政治的に重要な立地を占める、そのような国家だったのではないか-?

 伊都国王は、いち早く邪馬臺国の保護下に入り、その便宜を図る事に因って、奴国からの独立を図ったのではないか?
 范曄『後漢書』倭伝では、倭人諸国には、皆,王がいて、大倭王は、邪馬臺に居る、とする。伊都国にも、中国公認の王がいた、という理解ではない。
 僅か千余戸の小国に、大率の他に、爾支以下、三官が置かれ、でも代々、大倭王に従属する伊都国の王がいる、というのが、陳寿の文意ではないか?

③独自の「官」の「爾支」を、「ニキ/ニギ」の音写で、上代日本語「ニギ」(和)の語義の古代日本語と考えれば、記紀神話等の「ホノニニギ」「ニギハヤヒ」というまさに天孫降臨、天神降臨と関わる地域であるが、記紀、風土記その他、日本側資料では、そのような重要な扱いは受けていない。
 僅かに「播磨国風土記」では、アメノヒホコが、大国主に習合した神格と対等に渡り合う大神である神格であった事をうかがわせるが。

 記紀でのアメノヒホコは、三宅連という氏族の祖として、新羅王家の出ではあるが、矮小化された存在のように思われる。
 『風土記』逸文からは、筑前、播磨の例のように、本来は、天神で、半島の高山に降臨した伝承を持つ、半島倭種の祖神、記紀神話のニニギに相応する存在、或いは、大伽耶山に降臨し、地神(山神)正見母主との間に六伽耶の祖を儲けた、夷比訶の原型かも知れない。
 半島の資料は、日本の資料に比し、時代が著しく下がり、それを日本神話の原型と見做すのは、史料批判上問題が多く、むしろ、日本側資料の方が、より古い時相の伝承を残している、と考えるべきであろう。
 意呂山も、大伽耶山も、「倭山」であったと考えたい。

 

『魏志倭人伝』と記紀神話・古伝承④ 石見介

2024/02/21 (Wed) 19:48:23

 今回は、『魏志倭人伝』記載の列島の倭人諸国の「官」とされる倭人伝語(『魏志倭人伝』等記載の古代日琉語族の言語の語彙群の仮称)と、記紀萬葉の上代日本語で記された、記紀神話・古伝承に現れる神格、天孫、初期大王等の呼称との関連を、検討します。
 『魏志倭人伝』の倭人伝語の正しい解釈には、日本語、中国語双方の、音韻や字義、語義等の解釈が、必須で、素人の手に余る難問ですが、私は、『三国志』の著者陳寿の想定した読者―裴松之、范曄等ーが、陳寿の撰述した文章、文言を、どのように読み込んだのかを参照して、解読したいと考えています。
 古代以降の現代に至る倭人~日本人は、陳寿の想定する読者ではあり得ないので、その漢文解釈は、日本語の語彙音写等を除き、著者陳寿の意図を、大きく外している可能性が、あるからです。

 『魏志倭人伝』で、「官」が記されているのは、狗邪韓国以外の30ヶ国から、旁国(遠絶)21ヶ国を除いた、邪馬臺国に至る道里、戸数を略載し得た行程八ヶ国と女王国連合に属さない狗奴国です。
 この内、狗奴国の官「狗古智卑狗」については、上代日本語「ヒコ(彦、日子)」という、美称~尊称に対応すると考えられる「卑狗」の部分以外は、記紀神話・古伝承に対応しそうな呼称、地名は、直接的なものは、見当たりません。

 次に,行程八ヶ国の「官」(「副」記述を含む)を見ると、複数国で共通する官と各国独自の「官」の2種類が、存在する事に、気付きます。
 共通する「官」は、「卑狗」と、常に「副」と表記されている「卑奴母離」の二つです。
 「卑狗」の「官」のある対馬国と一支国両国には、「副」として、「卑奴母離」も、存在しますが、他に奴国と不彌國の独自の「官」の「副」としても存在し、行程八ヶ国中の半数の4ヶ国に、この「卑奴母離」という「官」が存在します。 
 他の行程八ヶ国と比較すると、何故か、「官」の記載の無い「末盧国」と三官制の伊都国も含めた6カ国は、皆、北部九州に、所在しています。
 そのあたりを考えると、末盧国も、二官制の国家で、「副」に「卑奴母離」が、置かれていた可能性は、高いように思われます。
 「卑狗」は、上代日本語の「ヒコ(彦。日子)」に対応する語彙で、「卑奴母離」も通説通り、後代の「夷守」と対応する古代日本語と、一応考えて、特に問題はないと思われます。但し「ヒナモリ」は、上代日本語で、「モリ」の部分のモの甲乙が合わないという問題があり、亦、森博達氏のように、「奴」の音価が、「ナ」ではないとすれば、「ヒノモリ」「ヒヌモリ」のような、別な複合語の音写かも知れません。
 しかし、『魏志倭人伝』中の「官」の「卑奴母離」は、後代の大和朝廷が、辺境防備の為に置いた「夷守」同様、北部九州諸国防衛を任務とする「官」であったと解釈して、特に問題は無いように思われます。
 もう一つの諸国共通の「官」である「卑狗」は、上代日本語の「ヒコ(彦、日子)」の古代日本語形の音写である事は、定説で、私も異議有りませんが、記紀神話や古伝承での「ヒコ」の使用例から、「ヒコ○○」や「○○ヒコ」は、単なる美称、尊称というよりも、「○○」という地域の支配者への美称、尊称もしくは支配者である事を意味することが、多い事実が、有ります。
 3世紀中葉に於いても、「卑狗」が同様の意味合いで使用されたのであれば、対馬国と一支国の統治者は、対馬や壱岐の自生的勢力ではなく、女王やそれ以前の男王が任命した統治者になります。勿論、現地有力者を、倭王権が対馬や壱岐の統治者として、任命する形式もあり得ます。 

 『魏志倭人伝』で、「官」と表記されている存在が、果たして、漢語の「官職」と同様のものであるのか、それとも、倭人諸国特有の政治的地位、身分、呼称のようなものであるのかは、『魏志倭人伝』からは、読み取れません。史註を付した裴松之も、多くの学徒を動員して、倭人の情報を蒐集した范曄も、回答は提示していません。
 やむを得ず、現時点では、私は、「卑奴母離」は、倭王権(范曄『後漢書』倭伝で言う「大倭王」)が派遣もしくは関与した辺境要地守備司令官で、「卑狗」及び各国独自の諸種の「官」は、匈奴などの遊牧民で見られるような、左右賢王、左右骨都侯、日逐王など、単于~最高君主の同族や姻族、支配下種族の族長等の称号と同様で、大倭王の同族や姻戚、支配下の部族国家の君主達の「称号」であり、大倭王の任命し得る物、本人が生得的に称し得る物など、種々様々な雑多な称号を、「官」として、記載している、と考えています。
 そのような理解の下で、次に、各国独自の「官」とされる語彙が、記紀神話、古伝承に現れる神人の呼称と、関連しているかを、検討します。

 先ず、伊都国について、検討します。
 『魏志倭人伝』中では、伊都国は、他の諸国と異なった記載がなされており、その部分については、補説として、次回にコメントし、此処では、その「官」が、記紀神話、古伝承と関連するか否かを、検討します。
 伊都国の「官」は、「爾支」と「副」の「泄模<角瓜>」「柄渠<角瓜>」の三官で、その音価の決定が困難ですが、私は、「爾支」は「ニキ」と読み、濁音便で上代日本語「ニギ(和、ニギミタマのニギ)」と解釈します。これは記紀神話の降臨した天孫「ホノニニギ」や物部氏の降臨した祖神「ニギハヤヒ」の「ニギ」と共通します。残念ながら、副の二官「セ(ツ)モコ」「ヘキョコ」?に対応する記紀神話・古伝承の呼称を共有する神人は、有りません。

 奴国の「官」の「□(シ/ジ)馬<角瓜>」は、「シマコ」と一応読み、律令制下の筑前国志摩郡あたりの地域の有力者か、その地域に倭王権によって、配置された人物と、一応、現時点では、解釈しておきます。
 伊都国の領域を、旧筑前国怡土郡あたりの狭い範囲に、想定するからです。
 「シマコ」は、語義としては、「島子」と解釈し、上記のように、令制下の志摩郡に対応する奴国の一定地域の統治者であると言う、解釈を採ります。

 次に,不彌国の「官」の「多模」ですが、「タモ」と読むと、日本側資料に、対応する呼称の神人がありません。「たま」と無理に読めば、天孫第2世代の山幸彦の妻豊玉姫、妹で始祖王神武の母玉依姫、姉妹の父海神大綿津見神の名とされる豊玉彦などの「タマ」と対応します。

 次に、五万戸の大国、投馬国の「官」を見ます。
 「彌彌」と「副」の「彌彌那利」で、この読みは、異説も少なく、「ミミ」と「ミミナリ」です。
 後者は大和三山の「耳成山」にも通じますが、何よりも、記紀や古伝承に現れる「○○耳」と表記される多くの王族や氏族の始祖的存在の呼称です。
 しかし、此処では、記紀で大王家の始祖王たる神武天皇の庶子「タギシミミ」「キスミミ」、第2代綏靖天皇<神「ヌナカハミミ」>、同母兄<神「ヤヰミミ」>、の名を、挙げれば、十分でしょう・

 最後に、7万戸の大国で、女王の居る邪馬臺国の四等官を、見ましょう。
 「伊支馬」、「彌馬升」、「彌馬獲支」、「奴佳鞮」です。
 最初の[伊支馬」は、「支」字の読みを、「一支國」で、当時の中国音の音価では「シ」の音写と考えられるのを、「壱岐」国という島名の音写と考え、「キ」と読み、以後も「爾支」を「ニキ(ニギ)」と読んだので、ここでも「キ」と読み、「イキマ」と読むことになります。
 以前、紹介したように、これを、「生駒」という地名の音写とする先人の説が、有りますが、私は、やや無理読みかと感じますが、敢て、「イクメ」と読み、第11代垂仁天皇<「イクメ」イリヒコイサチ>に、対応すると、考えます。ここで、上代日本語では、「目」の語彙は、「メ乙」の他、被覆形の「マ」(マツゲ、マナコ、マナジリ、マユ等の「マ」)もある事を想起すれば、イキマ≒イクメも、何とか受容可能ではないか?と思います。勿論、「木」を意味する上代日本語形が、「キ乙」の他に、「コ」(コノハ、コノミ、コダマ)、「ク」(クダモノ、木の神の名ククノチ)のように、母音交替形が多い上代日本語の特質から、古代日本語でもあり得ただろうという推測が、根底にあります。

 次の「彌馬升」と「彌馬獲支」は、「ミマス」「ミマワキ」と読み、それぞれ、第五代孝昭天皇<「ミマツ」ヒコカヱシネ>、第10代崇神天皇<「ミマキ」イリヒコイニヱ〉に、対応すると考えます。
 「ミマス」と「ミマツ」の異同については、サ行音とタ行音の交替は、言語学的にかなり多く観察されるという事と、長田夏樹氏の上代日本語のサ行音の音価が、中央(畿内)方言では,ts、東国方言では、「t∫」、筑紫方言では「s、∫」で、この場合、ts方言から他方言形に変化するが、その逆は無い、という説も、参考にしています。ts⇒sの他に、ts⇒tという方言なり、変化もあり得たのではないか?という、憶測というか、希望的観測です。
 「ミマワキ」⇒「ミマキ」も、崇神の名が、「水間脇」「水間別」のような呼称だったのが、「ワ」が、脱落した可能性を、考えています。「任那」の語源譚が生じた時に、「○○別」の呼称が、変容した可能性を、考えています。

 最後の「奴佳鞮」は、難問です。
「奴」の音価が、「ナ」なのか、「ヌ・ノ」なのかが、まず問題で、この語の音写の時期が、3世紀であれば、後者のヌ・ナの可能性が高く、それより前だと「ナ」もあり得ます。「ナカテ」と読めば、「中」というごくありふれた呼称の一部となり、神話・古伝承の神人との特定の対応は、困難です。中臣氏との関連も、考えられます。
 「ヌカテ」と読めば、意味が取り難く、「ヌカタ」であれば、「額田」のような上代語の呼称の古形と解釈できますが、神代や初期大王の呼称には、対応例がありません。

 以上、ざっと諸国の「官」の解釈と、記紀神話・古伝承の主に、後代の天皇家に繋がる、神代、初期天皇紀の神格、天孫、大王の「呼称」(に含まれる語彙の部分)とが、何らかの関連を示すか否かを、検討しました。
 牽強付会と評されれば、そう認めざるを得ない、語も多いですが、私は、それでも、一定の傾向が、見て取れると、考えています。
 即ち、大王家≒天皇家の始祖王として、特別扱いの初代神武天皇を除けば、おおむね、天孫は北部九州の諸国の「官」(ニニギ=伊都国の「爾支」、山幸彦の妻他=不彌國の「多模」)、第2代天皇の世代は、投馬国の「官」(「彌爾」「彌彌那莉」=タギシ耳、キス耳、綏靖・ヌナカハ耳、ヤヰ耳)、第5代孝昭、第10代崇神、第11代垂仁は.邪馬臺国の「官」(「伊支馬」=イクメイリヒコ、「彌馬升」=ミマツヒコ、「彌馬獲支」=ミマキイリヒコ)と、大雑把な系譜が、『魏志倭人伝』の倭人諸国の「位置」と、対応しているように、見えることです。
 
 更に、「国名」とも関連する地名との関連でも、やはり始祖王の神武以外の「ヤマト」ネコヒコ等の「邪馬臺」を呼称の一部に持つ主に欠史八代の諸大王も、矛盾なく、投馬国の「ミミ」呼称王族世代の後の世代に、収まります。「官」の順序で、第10代崇神と第11代垂仁の順序が、逆転していますが(第五代孝昭とも)、神武を除き、北部九州⇒投馬国⇒邪馬臺国という倭人諸国の位置関係と、天孫⇒神武天皇の子の世代⇒第4代以降(第11代迄)と、系譜上の逆転は無いように、見えます。

 これが偶然でないとすれば、実は、記紀や古伝承の大王は、倭人諸国の盟主=大倭王が、同じ氏族内(後漢光武帝に叙爵された倭奴国王の男系子孫)で、各地の小王や統治者として迎えられた者が、順次、大倭王に推され、同時に、倭人諸国の地政学的中心が、東遷する状況を、示しているのかもしれません。

 追記:
 諸国の「官」の漢語の読みの解釈で、かなり強引な読み方をしたように思われるかもしれませんが、実は、専門家諸氏の解釈も、私と同程度の恣意的な読みというか、解釈だと思います。
 岩波文庫版『中国正史日本伝(Ⅰ)』所収『魏志倭人伝』の訳注(石原道博)でも、「多模」は「タマ」と読み、「魂」か?としていますし、引用された専門家の解釈も「爾支」を「ヌシ」と読み、「主」と解するなど、同様に恣意的です。
 私の解釈も、許容範囲だと判断した次第です。

『魏志倭人伝』と記紀神話・古伝承③ 石見介

2024/02/16 (Fri) 23:45:31

 『魏志倭人伝』に現れる古代日本語の語彙群中、倭人諸国の「国名」及び、それらの諸国の「国名の一部」として、記述されている古代日本語の語彙について、記紀萬葉の時代の「上代日本語」で記録されている、神格や天孫、初期大王や王族の、呼称との関連の有無を、探ります。
 前コメントでも触れたように、特に、初期大王などは、その呼称の一部に、「地名」を含んでいることが多く、やはり地名に起源を持つことの多い、「国名」との対応が、先ず、注目されます。

 国名、或いは国名の一部に含まれる倭人伝語の語彙に類似した、上代日本語表記の、記紀の神格、天孫、初期大王、王族、豪族の呼称に含まれる地名等の対比については、一目瞭然で、倭人伝語で、「邪馬」と表記され、上代日本語では、「ヤマ」(山)の語義の語彙及びそれを含む複合語や呼称が、明確に現れます。
 即ち、倭人伝語国名の「邪馬」国、「邪馬臺」国、『魏志韓伝』中の<弥烏「邪馬」>国と、記紀の神代紀の山神の名<大「山」祇>神等の諸山神名、初期天皇紀の、初代神武<神「ヤマ・ト」イハレヒコ〉、第4代懿徳<大「ヤマ・ト」ヒコスキトモ〉、第6代孝安<「ヤマ・ト」タラシヒコクニオシヒト>、第7代孝霊<大「ヤマ・ト」ネコヒコフトニ>、第8代孝元<大「ヤマ・ト」ネコヒコクニクル、第9代開化<推「ヤマ・ト」ネコヒコフトニ>、と初代~第9代の9名中、神話的始祖王の初代神武以外に、5人を占め、特に、第6~第9代は、4代連続です。
 これを、記紀撰述時の史官の造作と考えるのか、或いは、何らかの古伝承に拠っていたと考えるべきか、難問ですが、私は、後述する倭人伝語の「官」名との関連から、史実を踏まえた古伝承が存在したと、考えています。

 これらの倭人伝語の国名からは、上代日本語「ヤマ(山)」や複合語「ヤマ・ト」、韓条の「ミ・ヲ・ヤマ」が抽出され、「ヤマ・ト」の解釈は、ト甲乙を、3世紀中葉以前の何時まで遡及して弁別し得たのか?という、更なる超難問がありますが、トの甲乙を遡及させれば、私は、「ヤマ・ト」は、「ヤマ(山)・ト(人)」の複合語で、「ヤマト」の語義は、ヤマ国、やま族の人々の国、という意味だと考えています。
 倭人には、本来、アルタイ系の山岳信仰があり、祖先が天命によって、聖なる山岳に降臨したと言う信仰により、諸部族がその高山を霊山として、祭祀同盟を結成するろいう、東北アジアではありふれた形態を採っていたと、考えています。
 倭人の祭る山は、当然「倭山」と、自他諸種族から、呼称される。鮮卑は鮮卑山に拠り、烏桓は烏桓山に拠って、その種族名とする。扶余は鹿山に拠り、buyoは、ツングース語の「鹿」の同源語(白鳥庫吉、村山七郎)。「倭山」の名は、『三国史記』高句麗本紀に見え、「弁辰彌烏邪馬国」の名は、『魏志韓伝』に見え、大伽耶山を抱える高霊伽耶国、紀の「意富加羅国」とされる。「弥(彌)烏邪馬」は、倭語の「御倭山」の音写で、半島南部倭種倭人諸部族国家の祭祀の中心地、倭山だった。
 記紀の神代紀を見れば、大王家は、山神の加護を受けた火神の直系という、本来の神話が、見えてきます。
 3世紀中葉の、列島の倭人について記す『魏志倭人伝』の記事には、太陽神ㇸの信仰や祭祀を窺わせる記事は無く、「鬼道」なる漢語で表現された。祭祀‣振興の存在が、描かれています。
 鬼道野実態は、hy名ですが、上代日本語で、「鬼」に宛てられた訓は、「おに」と「者」の二語で、後者は、「モノノケ」の「もの」です。神霊の霊異を憚り、祟りを避ける祭祀体系だったと思われます。

 次回は、倭人諸国の「官」と、記紀神話・古伝承との関連を、検討します。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - p君

2024/02/05 (Mon) 22:25:22

石見介さん

>記紀編纂以前に、『隋書』などが伝える様に、日本は、中国の朝貢国意識から脱して、中華帝国と対等の意識を持つ様になり、自国史の撰述は、中国への朝貢の史実を、否定する流れになったと考えています。<

それはもう大賛成です。
が、


> 卑弥呼が誰かも、その結果、不明となり、記紀編纂では、基本的に、一切、朝貢の記事はありません。

なんで卑弥呼が誰なのか「不明になり」となるのかが分からないのです。
そこがいつも石見介さんとは決定的に違う見解になります。
7世紀の朝廷は、卑弥呼が誰なのか分かっていたからこそ、
神功皇后の時代を干支2運120年早め、卑弥呼の時代にあてがい、
神功皇后紀に魏志の卑弥呼の記事をわざと挿入してるのだと思ってます。

>「スサノヲ」という、私が。いわば、日本神話の異質な闖入者とも考える神格を、「高天原神話の主役」と捉えるような演題名なので、或いは、神仏混淆の「中世日本紀」の晋倭館を、古代にも援用されているのかもしれません。

スサノオは高天原神話の主役であるのだし、石見介さんは私と同じく神武実在派なのだから、
そのたかだか神武から5世代前のスサノオも実在であるとみなしても良いではないですか、
なぜそんなに頑なに否定されるのかが分からないのです。

また高天原も実在の場所と見なしてそれで良いと思うし、
それこそ「神功皇后を干支2運120年早め、卑弥呼の時代にあてがい」の、
その理由になるわけです。
私は福島さんと同じく、スサノオ=帥升という説ですから、
スサノオ自ら楽浪にまで渡って後漢皇帝に謁見要請という、
7世紀の記紀編纂時の日本の朝廷にとっては「永遠に隠さなければならない屈辱」なわけですから、
だから「中国への朝貢の史実を、否定するため」に時代を大きくずらしたという石見介さんの最初の話に戻るわけです。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/02/05 (Mon) 20:02:34

保立先生は東大資料編纂所にいらしたころ
講演数回お願いしました。確かに平安時代が
中心です。
最近は当会の北條会長先生と神話で交流・討論
しているようです。
今回は二人で神話や神武東遷について語りそうです。
紹介は軽い気持ちでしたもので、気にされないで
結構です。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/02/05 (Mon) 17:24:59

 当世奇妙さん
 

 2月2日ご紹介の講演会の、講演者とその演題名は、判りますが、内容が不明で、見当がつきません。
 長文の記事は、最近では、読めない状況なので、Abstractを探しましたが、アクセスできませんでした。
 神話関係では、大林太良、吉田敦彦、萩原眞子氏の著書は、読んでいますが(*)、前記講演会の諸氏の名前は、保立氏以外、見覚えもなく、保立氏の経歴を,wijiで確認した限りでは、日本中世史の専門家と有りました。
 「スサノヲ」という、私が。いわば、日本神話の異質な闖入者とも考える神格を、「高天原神話の主役」と捉えるような演題名なので、或いは、神仏混淆の「中世日本紀」の神話観(*)を、古代にも援用されているのかもしれません。 私は、日本中世史関係では、院政期の元木泰雄、野口実、高橋昌明氏らや、武士団関連のものが興味の対象で、保立氏などの著作には触れていません。
 どうも、スサノヲに関しては、保立氏とは、違う立場のようです。

編集:2月7日23時、
(*)の部分を、訂正しました。
 引用後で申し訳ありません。

『魏志倭人伝』と記紀神話・古伝承② 石見介

2024/02/04 (Sun) 22:39:07

 3世紀中葉の倭女王卑弥呼との交渉を、主に記述している『魏志倭人伝』は、同時にその時代の、倭人の言語の資料として、極めて、重要な文献です。
 7~8世紀の記紀萬葉に記録される「上代日本語」以前の、3世紀以前(倭語音写の時期が、一部、前漢代にまで遡及する可能性がある)の日本語の語彙や音韻体系を、伝えているからです。
 残念ながら、文法については、何の情報も得られませんが、語彙の音韻体系が、開音節(単語が、母音終り)で、語頭に流音(ラ行音,r/l)や濁音が立たない事等、後の上代日本語と共通の特徴を持ち、日琉語族に属する言語である事が、確認されています。

 音写されている語彙は、倭人諸国の国名(主に、地名と関係していると考えられる)、人名、「官:と表現されている倭人諸国の官職名の、3種類に属する語彙群に、大別されます。
 そこで、これらのいわば「倭人伝語」と仮称する3世紀以前の古代日本語が、記紀などの上代日本語資料に現れる、神格や初期大王名などの人名と、関連するかを、検討します。
 記紀の古伝承に現れる大王や豪族その他の人名は、その呼称の一部に、地名を含んでいる事も多い事に、留意する必要があります。

 先ず、「人名」について、検討します。
 人名と目される語彙は、倭女王「卑弥呼」、宗女「臺輿/壹輿」、狗奴国王「卑弥弓呼」、女王の魏への遣使の使節「難升米」、「都市牛利」、「載斯烏越」「伊声耆」「掖邪狗」の8名で、「載斯烏越」を、「載斯」と「烏越」の二人と解釈した場合、9名になります。
 これらの人名の倭人語への復元には、音写した時期の中国漢字音と日琉古代語の、それぞれの音価が、推定によらざるを得ない為、諸説が乱立し、決定が困難です。
 例示すれば、「卑弥呼」は、倭語の「ヒミコ」「ヒミヲ」「ヒムカ」などの音写だとされます。長田夏樹氏の復元案である「ヒムカ」が、「日向」という地名と関連しそうなことを除けば、「ヒミコ」という主流的復元案が、「日御子」「日巫女」のような倭語の音写で、個人名とは考え難く、「卑弥弓呼」を、「卑弓弥呼」の誤写として、「ヒコミコ」と読み、「彦御子」と解釈し、共に、祭祀王、神官王の呼称として、個人名ではない、とする見解があります。
 「臺輿」であった場合のみ、これを「トヨ」と読み、後代の王族や神代の神格の美称「豊」とする以外、他の人名群は、古代の神格や人名に宛てる有力説は、無い状況です。

 その中で、「難升米」については、紀原註所引『魏志』では、「難斗米」となっており、米田喜彦さんのように、中臣氏系譜上の類似名「ナシトミ」に宛てる説があります。中国語学者森博達氏は、「奴国」の国名等は前漢代の音写と考え、3世紀中葉には、「奴」の音価が中国側で変化し、「ナ」のような音韻の音写には不適となり、「難」で音写したのではないか?として、「難升米は奴国の人か?」としています。
 私は、倭国の使者は、漢風に姓氏を名乗った可能性は高く、その場合は、姓は、「国姓」として、国号(の一部)を採る半島諸国の事例から見て、難升米は奴国の王族出自で、後の中臣氏も、或いは、「奴の国の臣」=ナ(中)ツ(の)臣」の語義である可能性も考えています。上代日本語の「中」の語義の「な」は、後に場所を示す「か(処)」と複合して、「なか」という語彙を生成します。「なかつおみ」であれば、母音の連接を嫌う上代日本語では、容易に「なかとみ」に変化します。

 この「難升米」もしくは「難斗米」の「難」が、奴国王族の「姓」であるならば、難升米と同じく、率善中郎将の官を受けた使節「伊声耆」の「伊」は、伊都国の王族の漢姓と考え得、彼の名は「セキ」で、関のような倭語であったかもしれません。
 そのように考えると、他の倭の使節の名も、漢風の「姓」+倭語の名、の合成と解釈できます。
 「都市牛利」は、「都市」という、国々にある「市」の管理官の「牛莉」という人物、という解釈をかつて採っていましたが、「伊都国」の王族ではない有力な豪族で、漢姓として「都」を称した「市牛利」、「しこり」というような名の人物だったのかもしれません。
 「掖邪狗」「載斯烏越」の漢姓たる「載」「掖」は、国名に使用されていませんが、7万戸や5万戸の大国の邪馬臺国や投馬国には、王族以外の有力豪族も、当然、複数存在しているので、それらの氏族の出身者だと解釈も可能です。

 次に、国名リストに含まれる地名と、記紀の神代紀や初期大王の名前との関連を、検討します。
国名は、列島内の30ヶ国に、韓条に現れる倭人語の国名「弥烏邪馬国」、韓条と倭条に現れ、「弁辰狗邪国」熱いは倭の北岸とも表現される「狗邪韓国」の半島側2ヶ国も含めた、合計32ヶ国ですが、行程8ヶ国の博多湾岸の「奴国」と、旁国或いは「遠絶」と表記されるもう一つの「奴国」があり、この二つの「奴国」については、古来から、同じ国が、2度出たとする「重出説」と、「〇奴国」の「〇」字の脱落とする「脱漏説」があります。
 森博達氏は、これら「遠絶21ヶ国のリストは、前漢代の会稽郡に献見した東鯷人20余国で、博多湾岸から有明湾岸に順じ、国名を挙げ、反転して、亦、博多湾岸に向けて、順次、国名を挙げたもので、最後の奴国は、博多湾岸の奴国その物だと、首長されました。『月刊日本語論』終刊号に寄稿されたその論考は、左思の『三都賦』の解釈や「鯷」
=「鮧」字であることなど、示唆に富むもので、私の考えに、大きな影響を及ぼしましたが、「奴国」については、重出説,脱漏説とも、范曄『後漢書』の記述から、范曄が、倭奴国朝貢記事に関して、「倭国の極南界」と解釈して居ることから、「同一国名の二つの奴国」の存在を、確信しています。
 欧州の民族移動期の例から、民族移動期の部族国家名は、しばしば、2か所以上に同時に出現し、本来は、一つの部族civitusであったものが、ふくすう存在し、王制の部族では、同じ王家の出身者を、それぞれ、王に推戴している事例もあります。
 『魏志韓伝』が、当時の半島のそのような、ダイナミックな民族移動期の状況を、記している(「辰韓と弁辰雑居」)にもかかわらず、半島中南部から、列島の西半部にかけての、倭韓諸部族国家の状況を、余りにも、スタチック(静態的)に皆さんが、捉え過ぎている、という不満が、私にはあり、もっと動態的に、考えるべきだ、という主張を、しています。
 この場合、考古学は、必ずしも解釈には、役立ちません。文字資料の解釈が、優先します。
移動途中の部族の遺物、遺跡が、何処に残るかは、指導者の死亡時期と場所,先住或いは後続の部族との関係が、大きく影響するからです。
 欧州の場合は、キリスト教世界で、教会や修道院が、記録を残しましたが、無文字社会の東夷世界では、、あさに、「神話」「古伝承」の形でしか、残り得ません。交易、朝貢、亡命等の結果、伝聞記事が、邑文字社会に、僅かに残りますが、その解釈には、十分な資料批判を。日知用とします。
 『魏志倭人伝』の記事は、まさにそのような記事の典型であり、それが古代史愛好家の関心を、惹きつけるのでしょう。

 『魏志倭人伝』中の、倭人諸国の国名や「官」名と、記紀の神代紀や初期天皇紀中の、神や大王などが。どう関係するのかの、具体的な検討は、次回に、コメントします。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 福島雅彦

2024/02/03 (Sat) 21:44:12

石見介さん、応答が遅くなり申し訳ありません!
以下の中に私の名前を挙げて頂いているのには気付きましたが…。 

>Re: 神話・伝承から、歴史を考える - 石見介

2024/01/31 (Wed) 23:52:29

 p君さん

 コメント有難うございます。
 実は、AD107年の後漢安帝の永初年間の、倭国王帥升等の生口160人献上と安帝への拝謁申し込みについての私の投稿に、帥升=スサノヲ説のお二方,p君さんと福島雅彦さんのコメントがあると予期して、投稿したのですが、反応がありませんでした。
 帥升が、倭国王ではなく、倭国内の小国の王であるという私のコメントの内容は、予想される論争の為の資料でした。>

※私の見解は以下のレスで述べていますが、石見介さんの反応が得られなかったので、話がかみ合っていないと感じました。

>Re: 神話・伝承から、歴史を考える - 福島雅彦

2024/01/11 (Thu) 16:30:28

石見介さん、当世奇妙さん、横レス失礼します。

お二方の交信を拝読して感じた事があります。
彼方此方に書き込みをしている愚説ですが…。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/02/02 (Fri) 20:17:07

https://www.nara-wu.ac.jp/nwu/news/2023news/pdf/20240125_1.pdf
は石見介さんも興味ありそうですね。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/01/31 (Wed) 23:52:29

 p君さん

 コメント有難うございます。
 実は、AD107年の後漢安帝の永初年間の、倭国王帥升等の生口160人献上と安帝への拝謁申し込みについての私の投稿に、帥升=スサノヲ説のお二方,p君さんと福島雅彦さんのコメントがあると予期して、投稿したのですが、反応がありませんでした。
 帥升が、倭国王ではなく、倭国内の小国の王であるという私のコメントの内容は、予想される論争の為の資料でした。

 それはともかく、邪馬台国時代の倭の女王卑弥呼については、私は神代紀ではなく、人代の3世紀の大王=初期の天皇の紀の中に、該当者を求めるべきだと考えています。
 ご承知の通り、私は、倍暦と複数大王並立説という、やや風変わりな考えを持っていますが、そのような事例自体は、世界史上は、家産国家や遊牧民の国々では、そう珍しい事ではありません。勿論、複数の同一氏族に属する並存の王侯には、序列は存在していますが、各首長の権力自体は、そう変わらない水準であることが、多いように思われます。
その様な観点から、日本古代史を考えるので、他の古代史愛好家諸氏と、異なった古代史像になることがありま 

 3世紀中心の邪馬台国時代の日本については、倭国王~大倭王と諸小国の王という、范曄の『後漢書』の示す倭国像を想定し、倭国王と邪馬台国王は、別個の存在と考え、更に、邪馬台国や投馬国などの大国には、複数の王が存在し得た、と考えています。
 
 記紀編纂以前に、『隋書』などが伝える様に、日本は、中国の朝貢国意識から脱して、中華帝国と対等の意識を持つ様になり、自国史の撰述は、中国への朝貢の史実を、否定する流れになったと考えています。
 卑弥呼が誰かも、その結果、不明となり、記紀編纂では、基本的に、一切、朝貢の記事はありません。
 神功紀の記事も、史官が、ちゃんと中国の史書も読んでいますよ、という証拠として、本文ではなく、「原註」に記しただけで、深い意味は、無いと思われます。
 
 江戸時代初期に、明と清の交替を、「華夷変態」と江戸幕府のお抱え儒者達は捉えましたが、中国の南北朝時代が、五胡16国時代の蕃夷の出自の北朝の隋や唐が、南朝を征服して、中華の皇帝になった時点で、倭の五王以前から、ほぼ一系で大和に在った王統の子孫として、継体欽明皇統の諸大王は、まさに「華夷変態」だと認識し、隋、唐帝国の皇帝と、自分たちは、同じ夷蛮出自で、同格だ、いや後漢光武帝以来の王統を継ぐ自分達こそが、優位だとさえ、感じていらと思われます。
 記紀は、そのような意識下で、撰述されており、卑弥呼がだれかなど,史官個人の興味以外の対象ではなかった、と私は考えます。

 記紀撰述時以前の倭国の支配者は、現代の知識人が容易に、日中韓の古文献に接し、その内容を知悉できるような環境中にいたわけではありません。
 代々、文筆を家業とする、渡来系の官吏以外は、自分の名が書ける程度ぐらいだったと、考えた方が、良いでしょう。
 日本語と文法、音韻が全く異なる「外国語」である中国語の文章を、日本語の書字体系の存在しない時代に、「皆が習得できた」という、近現代の教育事情と同様な環境だと言う、無意識の錯覚に陥って、思考している人が,多いように、私は、感じています。
 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/01/31 (Wed) 22:09:29

 当世奇妙さん

激励のお言葉、有難うございます。

 古代史愛好家諸氏の、卑弥呼=天照大神説には、日本古代史上、親魏倭王卑弥呼という、中華中原王朝の一分裂国家の叙爵よりも、半島中南部、列島西半部の倭人/倭種世界の100を超す諸小国群及び、韓族の100近い諸小国群にとって、突然、後漢皇帝に王号を与えられた国と首長の出現の衝撃は、女王を仲間内の談合で「共立」し、それが、中華分裂国家の一つの皇帝によって、王に叙せられた衝撃より,はるかに大きかったと思われます。
 卑弥呼の叙爵が、神話に残るのであれば、倭奴国王の叙爵が、それ以前に、もっと大きな事件として、神話化される筈だ、という考えから、記紀神代紀で該当する記事を探せば、「天孫降臨」しかありません。
 その後の卑弥呼の王号獲得は、当然、天孫降臨後の、初期大王の記録の中に残る神話や古伝承に、求めることになります。
 そのような基本的考えで、『魏志倭人伝』を読めば、倭人諸国の「官」として、記載されている、倭人語の音写語が、神代紀の天孫や初期大王の「名」の一部(初期大王は、地名をその名の一部としている事も多く、従って、地名とも見做せる)と重なっていると言うか、類似が見られる事が、判ります。
 そのあたりから、史実と神話・古伝承との関連が、見えて来ないか、試行錯誤中です。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - p君

2024/01/31 (Wed) 18:46:35

「多くの古代史愛好家諸氏は、(略)性急に歴史の反映と考えて、(略)あっさり、天照大神は、卑弥呼だ!と決め付けたりする。(略)もう少し、慎重に、議論しましょうよ」

自分も賛成です。

日本書記は、明らかに卑弥呼ではない、4世紀後半の神功皇后を、
干支2運120年早めて卑弥呼の時代に強引にあてはめています。
そして神功皇后紀に魏志の卑弥呼の記事を載せ、神功皇后=卑弥呼であるかのような印象操作までしています。

さらにアマテラスが別名・オオヒルメであり、独身、弟がいるという、
これまた読み手に卑弥呼を連想させるようなキャラクターに意図的に仕上げています。
この時点で卑弥呼が誰なのかという問いかけに、神功皇后とアマテラスという2者を選ばせる工作を施しているのでしょう。

さらにモモソヒメを円墳部が経百余歩の箸墓古墳の主と記して、
箸墓古墳を「昼は人が造り、夜は神が造った」などとの意味深な記述を載せ、
また後の垂仁の時代まで奴婢の殉葬が有ったとし、
これも読み手に卑弥呼を連想させる工作を施しています。

つまり神功皇后、アマテラス、モモソヒメという3者の卑弥呼候補を意図的に登場させています。
日本書記はものすごく手の込んだ編集になっていると考えます。

そして本当の卑弥呼は、神武東征紀という武勇伝で、女王国とは程遠いイメージに仕上げ、
神武を新称号「天皇」にし、その神武東征紀の記述の中に隠しているのでしょう。

私には神武東征紀はどう読んでも、大和の王家への「壮大な婿入り」としか読めません。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/01/26 (Fri) 16:55:41

「多くの古代史愛好家諸氏は、(略)性急に歴史の反映と考えて、(略)あっさり、天照大神は、卑弥呼だ!と決め付けたりする。(略)もう少し、慎重に、議論しましょうよ」
大いに賛成です。
投稿期待します!

『魏志倭人伝』と記紀神話・古伝承① 石見介

2024/01/26 (Fri) 00:04:32

 今回は、『魏志倭人伝』の記事内容と、日本の史書に記されている神代や、初期天皇についての、神話伝承が、対応、相関するのか否か、検討します 
 勿論、神話や伝説を、歴史の反映と考える多くの古代史愛好家諸氏は、私から見ると、日本の古代人にも、世界の多くの民族同様、神話や古伝承は、当然あってしかるべきなのに、性急に歴史の反映と考えて、神話部分の摘除の操作も行わず、あっさり、天照大神は、卑弥呼だ!と決め付けたりする、という不満があり、その為、前スレを立ち上げたので、もう少し、慎重に、議論しましょうよ、と言うのが、本音です。
それともう一つ、基本資料たる『魏志倭人伝』についての、「史料批判」が、どうも、不足しているように感じます。『魏志倭人伝』を、いわば、「聖典」視し、陳寿への批判も許さない。
 『後漢書倭伝』やその著者范曄に対する、例えば、石原道博氏の批判などとは、雲泥の差です。
 両書、両者を、同様に批判する必要があります。

 敢て、一言で評すれば、范曄は、倭関連情報の集め過ぎ?による誤解釈に注意を要し、逆に、陳寿は、倭人を含めた東夷に関する基礎知識の不足と情報入手への資源不足と熱意欠如による、本来はもっと多く得られた筈の、倭国、倭人情報の不足について、一言触れる必要があるでしょう。
 陳寿は、倭人・倭種と、歴史的、地理的に接触の無い、蜀の出身ですが、益州の大儒,『法言』の著者揚雄や『漢書地理志』或いは、同じ西晋の『三都賦』の作者左思等が伝えた、東鯷人が、倭種であると言う重大な情報を、その『魏志倭人伝』に、記述し得たと思われます。或いは、司馬懿の政敵だった曹爽の功績顕彰に繋がりかねないので、敢て触れなかったのかもしれませんが。曹爽の父曹眞は、魏の文帝曹丕と兄弟同然に育てられた(本来は他姓であった)人物で、曹氏と倭人の関係を、十分承知していたと思われます。
 根本史料の『魏志倭人伝』と陳寿については、司馬懿顕彰のための著述が、この資料の「目的」である、という基本を忘れずに、『魏志倭人伝』と記紀などの日本神話、伝承との関連を、探ります。

 習俗記事は、当時の倭人社会の状態を知るための貴重な資料ですが、特に、記紀神話との関連等はないので、「大人」と「下戸」「奴婢」の存在が知られると言う、身分についてのみ、言及します。
 この「大人」は、支配層の人々の「総称」ではなく、部族国家の指導者、支配者、首長その人を指す言葉であるのは、『後漢書』等で、朝貢した鮮卑の大人が、後漢光武帝によって、王や侯に封じられている事から、判ります。「下戸」は一般の庶民ではなく、支配層の一員、あるいは大人一族以外の支配層の総称と思われます。他ならぬ『魏志韓伝』に、下戸も郡に詣でて、云々という記述があり、「大夫」と中国側が呼ぶ倭使等と同等か、下なのか、不明です。
 戦闘などでの捕虜を示す「生口」は。おそらく「奴婢」身分だと思われますが、[良民」のような一般民を示す語彙が,習俗記事に無く、亦『後漢書倭伝』にもないので、正確には不明ですが、記紀の律令期前に、支配層の豪族の下に「良民」と「奴婢」の区別があり、後者は、「公奴婢」と「私奴婢」の区別がありました。「公奴婢」と「私奴婢」の相違が、単に所有者の相違で、両者間に身分差は無いのか,それとも、西欧のゲルマン系ザクセン族で、「貴族」「自由民」「解放奴隷」が、それぞれ議会(三部会)を持っていたように、「奴隷」身分の上位の「解放奴隷」という階層、身分なのかは、不明です。
 尚、一夫多妻が、支配層の常態であり、父系制氏族社会であったことは、その刑罰に関する連座規定を記した「宗族」や「門戸」という中国での父系制を示す用語を、何らの注釈なしに使用している事から、明白です。この事実は、特に記紀の神代や初期大王や豪族の系譜記述と、矛盾はありません。
 母系制社会のような、中国と異質の習俗であれば、見聞していれば、特記すると思われます。

 次に、倭人の起源について、会稽郡との関わりを示す、「夏后少康」という越地との関わりの深い伝説的存在を取り上げています。何故か、日本では、呉の太伯という『魏志倭人伝』に「記載の無い」話の方が、有名ですが、それは、陳寿の書の余りの不足ぶりを補う、「史註」を付した裴松之引用の『魏略』の記述です。陳寿は、会稽郡や越地、或いは、周代の「越」などと、倭の関連を記すのが,本意だったと思われます。
 これは、安徽省亳県の曹氏一族墓群出土の「倭人字磚」など、半島の楽浪郡経由以外の、大陸沿海部にも、倭人/倭種関連の情報源があり、魏の宗室曹氏には、半島中南部の倭人/倭種以外に、列島の倭人/倭種の情報も、後漢末から存在していたことを、示していると思われます。 
 「倭」字と「越」字が、音通だとする説もあり、倭地が、会稽郡の東方海上まで、存在すると言う観念は、古くからあり、一部の論者が言うような、呉の孫氏に対する牽制目的の偽造では無かったと考えられます。
 勿論、魏の明帝や曹爽などが、西方の大国大月氏と同等の「親魏倭王」という称号を授与した背景には、彼らが、列島の倭に対して、半島中南部の倭種韓族居住地域の安定化への寄与の他に、呉へのけん制効果をも、当然、考慮していたと思われます。
 従来の卑弥呼の景初2~3年の対魏外交を、倭国側からの一方的、積極的な、機敏な外交であるとの評価については、魏の宗室曹氏一族の、倭人に関する豊富な知識を前提にすれば、むしろ、公孫氏討伐計画策定時に、既に、倭国との連携を、予定していたと考えた方が、良いようにも思えます。

 尚、この考えは、髙川博さんの倭国軍の半島出兵を、魏が期待したのではないか?というお考えに、触発されて、出てきた考えです。
 余談ですが、このコメントを書いている時に、高校時代の漢文の教科書に、明帝曹叡の逸話が載っていたことを、思い出しました。
 「月と長安の何れが、当時の魏都より遠いのか?」と言う父の文帝曹丕の問いに、幼かった明帝曹叡は、「月は見えるけれど、長安は見えないから、長安の方が、遠い」と答え、感心した曹丕は、群臣の前で、曹叡に同じ質問をしたところ、今度は、「月の方が遠い」と答えたので、慌てた曹丕が理由を尋ねたところ、「長安から来たと言う人はいるが、月から来たと言う人はいないから」と答えた、という話だったと思います。

 難升米等に限らず、掖邪狗等も、率善中郎将など、銀印青授の官に任ぜられるなど、大夫と思しき層にも、魏は官爵を大盤振る舞いし、厚遇しています。
 卑弥呼の献上物の貧困さとは、対照的とも見える、魏の倭国への対応は、明らかに、魏の戦略的意図が、存在した事を、物語っています。
 それは、司馬懿や、曹芳の考えではなく、明帝曹叡と曹爽の倭国、倭人に関する知識や期待の反映のようにも、思われます。
 

「大倭王」の起源と「邪馬臺国」の起源 石見介

2024/01/18 (Thu) 01:05:30

 范曄『後漢書倭伝』は、陳寿『魏志倭人伝』より、前の時代を扱っていますが、史書の成立は、陳寿撰が先行し、范曄は後漢代の史書で根本史料たる『東観漢記』には無かった「東夷列伝倭条」略記して『後漢書倭伝』編纂に際し、『東観漢記』以外に、当然、後漢末と時代の重なる陳寿の『魏志倭人伝』も参照し、更に多くの学徒の協力によって集め得た独自資料群を加え、その『後漢書倭伝』を、完成させました。
 『後漢書倭伝』は、『魏志倭人伝』の記述しない、独自の後漢代の倭国側の朝貢記事建武中元2年(AD57年)正月の倭奴国、永初元年10月の倭面土国王帥升等、の2件の他に、桓霊の間という後漢末期の倭国大乱後に、女王卑弥呼の共立を記しています。
 この部分は,『魏志倭人伝』の記載と重なる部分ですが、『後漢書倭伝』では、倭人諸国について、各国に王が居り、更に、それらを束ねる「大倭王」が、「邪馬臺」に居る、としています。

 『後漢書倭伝』には明記していませんが、AD57年に朝貢した倭奴国王は、後漢光武帝に王号を授与されており、志賀島出土金印から、どの地域の倭人国家の首長であったかが、判明しています。
 即ち、『魏志倭人伝』に行程、戸数、その国の「官」の記述のある八ヶ国の一つ、博多湾岸の「奴国」の王が、王号を与えられた「倭奴国王」である事は、間違いないと思われます。

 では、後漢皇帝に正式に、王に叙せられた奴国王と、范曄の言う「大倭王」、そして、大倭王のいる邪馬台国とは、どのような関係にあったのでしょうか?
 また、後漢末に、倭国乱後に、「共立」された「倭女王」卑弥呼は、その都を邪馬臺国に置いたと、『魏志倭人伝』で、記されています。倭人諸国が、攻伐し合った乱後に、共立されたのですから、卑弥呼は、范曄の言う「大倭王」になった女性と解して、間違いないでしょう。
 范曄の『後漢書倭伝』では、大倭王は、邪馬臺に居る、と断定されており、倭国乱(『魏志倭人伝』の表現)~大乱(『後漢書倭伝』の表現)以前の安定的に男王が倭国を統治していた期間、7~80年は、後漢桓帝の在位期間(AD146~168)から、永初元年(AD107年)を、含むと考えられます。それで、以前コメントしましたが、范曄は、永初元年(AD107年)の帥升等の生口160人献上と安帝への拝謁申し込みの記述の際に、遣使の主体は、「大倭王」だと解釈したのでしょう。
 しかし、その50年前の建武中元2年正月の倭奴国の奉賀朝貢は、大倭王とは無関係で、未だ、倭人諸国を統合し、代表するような「大倭王」は、誕生していなかったと考えられます。
 このAD57年からAD107年までの時期に、范曄の言う「大倭王」が誕生した事になりますが、既に永初元年には、大倭王が、倭人諸国の一国の王とも考えられる帥升等を、使節として、半島や大陸に派遣したと考えると、倭人諸国の盟主としての「大倭王」は、紀元後1世紀末までには、誕生していたと思われます。

 『漢書』地理志では、楽浪郡に献見する100余国の倭人諸国と、会稽郡に献見する20余国の東鯷人諸国が、存在し、それらを束ねるような倭国王、倭王或いは大倭王と称されるような存在は、有りませんでした。
 倭人諸国の統合は、後漢光武帝の倭奴国王への王号授与が契機になったと思われますが、『魏志倭人伝』にも、『後漢書倭伝』にも、そのようには記されていません。3世紀中葉の倭女王卑弥呼の時代の30ヶ国ほどの倭人諸国の国名と、その一部の「行程八ヶ国」の戸数等の記載が,『魏志倭人伝』に見えるだけで、AD57年に王号を授与された奴国は、戸数こそ、邪馬臺国7万戸、投馬国5万戸に次ぐ、2万戸の大国ですが、他に特徴の無い国に見えます。

 しかし、倭人諸国100余国、倭種と考えられる会稽郡に献見していたおそらく九州中南部中心の東鯷人20余国、それに、半島中南部の三韓78ヶ国?という、漢代に朝貢していて、郡が対応するのみの諸小国群にとって、これまで存在しなかった中華中原王朝の皇帝によって、王号を正式に与えられた者が、仲間内から突然、現れた事は、将に、歴史的な大事件であり、その記憶が神話伝承に残り、また、実際に、小国群の統合を促す契機となったと考えられます。現に半島の王氏高麗時代に成立した正史『三国史記』新羅本紀では、建武中元2年は、列島出身の新羅第4代王昔脱解の「即位」年とされています。『三国史記』は、新羅中心史観で貫かれており、その為、新羅が半島三国中、最も建国が早いという、虚構があり、建国時期を遡及させています。初代王である朴赫居世やその分身と見られる倭人のコ(瓢箪)公も、或いは、脱解とも重なり、実際には、新羅の建国は、辰韓六部~新羅六村の韓族が、後漢光武帝に王号を与えられた倭人の王を、「蘇伐」~「徐伐」国の王として、推戴したのが、建国だったという伝承が、有ったとも考えられます。

 半島中南部の、倭韓両種族混住地域でさえ、そのような状況であったのであれば、倭人の部族国家群が殆どの北部九州やその周辺では、それ以上に、倭奴国王への求心力が高まり、数千戸の奴国は、周辺諸国を吸収して、2万戸の大国に成長し、また、王家を残したままの諸小国の小王たちからも、盟主と仰がれ、「大倭王」と表現されるような存在に、成長したと思われます。
 しかし、范曄は『後漢書倭伝』内では、奴国については、特記するどころか、『魏志倭人伝』に有る、同名の旁国(遠絶)21ヶ国中の「奴国」が、光武帝に印綬を賜った国だと、誤解しています.志賀島出土金印から、行程八ヶ国の博多湾岸の奴国が、王号を与えられた倭奴国であることは明白なので、范曄は、おそらく倭讃使節団経由その他の情報の結果、解釈を誤ったと思われますが、そこから5世紀初頭の倭の五王政権や、劉宋地域に伝承されていた倭人情報の、推測も、可能になります。
 トンデモ度は上昇しますが、『後漢書』の記述と、日本側の記紀の記述等を併せ、范曄がどのように、その解釈に至ったかを、推理してみます。

①范曄は、倭奴国王が、王に叙せられたことを承知していたと思われるので、当然倭奴国王の後、倭国王~大倭王が、どうなったのか、倭讃使節団の倭人の情報を入手しようとし、彼等から、倭の王統は、ずっと一系で、筑紫島の南部から、東征して、ヤマトに遷都した大倭王が、倭人諸国を支配していた、という話を聞き、AD57年の倭奴国王は、「倭国の極南界」にある旁国の奴国だと言う、印象を受けたと思われます。 或いは、倭使が何処にでもあるありふれた地名の「な(中)」を、大和の南、紀伊の紀ノ川流域としたのかもしれません。何れも、少し先は海になります。
 私は、5世紀初頭のこの時点で、既に、奴国王の子孫の神武が、九州島の南隅から、大和へ東征したと言う伝承があり、范曄が、奴国の位置について、二つあるうちの旁国~遠絶の「奴国」だと、誤解釈したと考えますが。
紀伊国に、北部九州の伊都国や奴国からの移住者を、配置したと考えらえる、同名の郡、伊都郡と那賀郡が紀ノ川沿いにあり、その情報が倭讃使節団から入り、范曄の誤解ー邪馬臺国の南に奴国がある、という認識から、倭奴国極南界説という誤解が、生じた可能性も、否定は出来ません。

②後漢光武帝の王号授与は、奴国にも権威を与え、戸数2万戸という、北部九州一の大国に成長させたが、奴国自体よりも、奴国王の権威をより以上に高め、その子孫の王族が各地の王に迎えられ、「大倭王」となる資格が認められた。この時点で、倭人諸国の盟主=大倭王は、後漢光武帝に王号を与えられた最初の奴国王の男系子孫中の年長者や人望のある者が、就いた。ある時点から、東日本との地政学的中心地の畿内大和が急成長し、その諸王が大倭王となったが、諸小国との並存が困難で、各国が、相攻伐する倭国大乱状態となった。
 『魏志倭人伝』『後漢書倭伝』とも、「倭国(大)乱」であって、「邪馬臺国(大)乱」とは記述していない。即ち、邪馬台国の「内乱」ではなく、邪馬臺国は、四道将軍等を派遣して、攻伐する国々の最有力国家だった。それを抑える為、諸国が連帯して、卑弥呼を「大倭王」に共立し、邪馬臺国の諸王(版図の拡大に伴い、邪馬臺国や投馬国などは、複数の王が並立する複数王制となるが、本来、家産国家的形態では、聖俗王権や、複数の俗王が、存在するのは、むしろ、自然である)も共立に参加した。
 卑弥呼も、その鬼道の能力で、祭祀王として君臨したが、世俗王としての側面は、弟が「佐治」した。即ち、卑弥呼姉弟も、奴国王の血胤であるが、邪馬臺国の王族であったか否かは、議論の余地が残る(卑弥呼は北部九州出身で、畿内大和で倭女王に即位したという、専門家がいた)。

④范曄は、『後漢書』本紀、倭伝ともに、倭奴国王の得た爵号が、「王」である事を記載していない。
 これは、それを知らなかったからではなく、建武中元2年正月の倭奴国の「奉賀朝貢」が、前漢末の王莽執政時の簒奪準備としての、益州郡を通じての、「越常氏、白雉献上」や、おそらく楽浪郡を通じての「東夷の王、大海を渡りて方物を献」じたのと同様の、死期の迫った光武帝に、儒教で聖人視される周公旦の徳治を讃える故事「倭人、暢草を献じる」故事の類を周囲の者が、仕組んだことへの史家としての批判として、敢て、王号授与の事実を記載しなかったのではないか。
 光武帝劉秀は、建武中元2年2月に、崩御する。

 范曄は、陳寿に比し、史書撰述について、恵まれた環境にあり、関心のあった倭人について、多くの情報を集めた結果、かえって情報不足の陳寿よりも、誤った解釈を重ねる結果も、招きましたが、その誤解を、いわば誘導した可能性のある、5世紀初頭の倭讃使節団や後漢末以来の倭人/倭種からの華中華南沿海部との交流で得られた情報は、それなりに重要だと思われます。 勿論、陳寿は、その『魏志倭人伝』を、「現代日本人読者」を想定して書いたわけではありません。
 将に、范曄のような、中国の読書人、知識人、政治家、官僚を想定して、書くように、後援者の張華や杜預に求められ、その責務を果たしたのです。
 王沈の様な同時代人で、深く政治に関与し、自身の弁護も混じるような人物の撰述した史書は、想定読者層には、唾棄され、無視される。東夷と全く無関係な蜀の出身の陳寿に、司馬懿(宣帝)の功績を、顕彰させる。司馬懿の政敵だった曹爽の手柄にはさせない。そういう政治的背景が、『魏志倭人伝』にはある事は、認識する必要があります。

 以上の考察から、范曄が『後漢書』でのべた「大倭王」、陳寿『ご楚倭人伝』での「倭王」(女性であれば、「倭女王」)の起源は、後漢光武帝の死の直前の建武中元2年正月に、奉賀朝貢し、王号を与えられた倭人諸国の一国、博多湾岸の「奴国」の王統が、後漢皇帝の権威を背景に、急速に倭人,倭種、更には半島中南部の倭韓混住地域の倭種や韓族にも、聖別される特殊な血統として確立し、その中から、特に選ばれた一人が、「大倭王」~「倭王」となったものだと、推定されます。
 即ち、「大倭王」の起源は、後漢光武帝に初めて叙爵されて王号を得た「奴国王の血統=男系子孫(女性を含む)」にあり、「奴国王位」では無かったと考えられます。
 奴国、投馬国、邪馬臺国、或いは、狗奴国、邪馬国、旁国の奴国、ひょっとすると、半島南部の倭人の部族国家の王であっても、後漢から金印紫綬を与えられた初代の王の子孫であれば、諸王が認めれば、「大倭王」足り得たのかもしれません。『三国史記』新羅本紀の赫居世、脱解の逸話や『三国遺事』の延烏郎・細烏女の伝説は、その可能性を示し、倭国の半島進出の一因になったとも考えられます。

 では、范曄が、その『後漢書倭伝』で、大倭王の居る国とした「邪馬臺国」の起源は、どのように考えられるのか?
 『漢書』地理志に言う楽浪郡に献見していた、倭人諸国100余国の一国として、既に倭奴国王号獲得以前から、存在していたのか?
 その可能性は、十分にありますが、大倭王になり得る有資格者の奴国王族を、九州島から迎える必要があるので、その王族が迎え入れられた時期が、いわば新生邪馬臺国の「起源」と、捉えるべきでしょう。
 それは、邪馬臺国位置論では、近畿説の私としては、神話伝承の「神武東征」にその歴史的記憶が、反映されていると考え、起源後2世紀初頭の,AD107年の、前後だったと考えています。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/01/11 (Thu) 21:54:26

福島雅彦さん

 コメント有難うございます。
 ご恵贈戴いた『邪馬台国‣うきは市説考察』、なんとか読み終わりました。視力障碍が進行し、再読、精読は無理ですが、邪馬台国位置論では、近畿説の私には、お三方のお説の受容は困難ですが、例えば、大矢野氏の、山頂というか、高所の双方中円墳が、国譲りの象徴という説など、大いに裨益するところがありました。出雲大社のあの壮大な高さを、何故、大和朝廷が許容したのか。色々思案し、結局、紀の一書の大和朝廷側が、国譲りの代償として,建造に協力し、古墳同様、大和朝廷の権力の視覚化と出雲勢力への妥協の意思表示という、二面性を、兼ね備えていたと言う、記紀の皇国史観的イデオロギーに、絡め取られたような解釈なので、再考しようと、出雲神話には触れずに、天孫降臨に話を進めました。そういう経緯があり、邪馬台国九州説、九州王朝説的な、いわば、私と真逆な立場の方の、同様な発想をお聞きし、心強くかんじました。
 以前,『記紀九州』もご恵贈戴いており、私は記憶していませんが、或いは、出雲大社の壮大な建造自体が、国譲りの象徴というアイデア自体、大矢野氏のアイデアが私の意識に、残されていたのかも知れません。
 紀一書のタカミムスビの発言として、記述されているので、同様の解釈をした先人は、他にもあるかとも思われますが、山頂、高所の双方中円墳の意義も含め、国譲り、敗者の天上他界(への通路)という、考えのプライオリティは、取りあえず、大矢野氏にあると、私には思えます。
 まあ、私は、冥界は、根の国、地下界にあると考えていたので、海上他界は兎も角、天上他界について、死後の世界とは想定していませんでしたが、神格であれば、「神去り」後に、天上界に行く場合も、あるのかも知れません。あるいは、死後に、輪廻で天上界に転生し得る仏教等の、日本の古神道に与えた影響かも知れませんが。尚、此処での「他界」という言葉の意味は、「死後の世界」という意味で、使用しています。

 さて、福島さんの今回のコメントですが、「王」の定義を、中華中原王朝の皇帝から、公認=冊封されたものと定義するか、華夷、大小、文明の成熟度等に関わらず、一定の集団に相応の権力者がいれば、それを、「王」と認める、という「王の定義」の問題で、『後漢書』の著者范曄は、中国との関係などは無視し、倭人諸国というか部族国家それぞれの、支配者を、「王」と記述し、それら諸小国の「小王」を束ねる、盟主的存在を、「大倭王」と記述したと思われます。
 建武中元2年,AD57年の場合は、将に、中華中原王朝の後漢光武帝が、正式に、倭人諸国の中の一国、「奴国」の王に、「王号」を授与したもので、上記の范曄の倭人諸国の小王と盟主の「大倭王」とは、次元も定義も、異なります。
 しかし、范曄は、倭奴国王への、「王号授与」を、記していません。范曄は、陳寿と異なり、史書編纂に必要な、金銭的資源も、人的資源にも、不自由はなく、また、陳寿のような、後援者(張華、杜預)への迎合も不要でした。范曄は、東晋時代に生まれ、劉裕が、宋を建国した時は、20歳を超えていました。扱う時代も、後漢時代で、同時代史のように、その時代の重要人物がまだ生きていて、気を遣う、という必要もないし、何より、范曄は,皇帝の文帝の,琴の名手范曄の演奏を聴きたいと言う希望すら、平然と無視する様な、自由人でした。
 その范曄は、『後漢書倭伝』内で、倭奴国王に、光武帝が、「王号を授与した」とは記載していません。 「印綬を賜った」とは記しても、それが、王侯号なのか、将軍号や太守号のような「軍郡」なのか、邑君や邑長なのかも、書いていません。
 名文家として知られる范曄が、東夷列伝倭条で、「王」という言葉を、中華皇帝の叙爵する、権威ある王侯号の「王」と、それとは無関係な、夷蛮の部族国家の君長を意味する「王」とを、平然と併用することなど、無いのです。
 即ち,『後漢書』東夷列伝倭条での「王」という言葉は、飽く迄も、倭人諸国の各国の支配者の意味での「王」であり、これらの諸国の「小王「をまとめた倭国の盟主としての「大倭王」の二種類が、「王」という言葉で、表現されているのです。
 それら倭人諸国の、王や盟主の大倭王が、中国の皇帝によって、王号を与えられているか否かは、また、別な話です。

 AD57年の倭奴国王への王号授与は、おそらく、范曄は知悉していたでしょう。范曄の属する范氏は、本来、後漢皇室の出自した南陽郡が、本貫地です。多くの学徒も協力している范曄の資料蒐集は、倭讃の使節団を経由しての倭人側の操作した誤情報も、紛れ込んだ可能性もありますが、倭奴国王の王号獲得も漏れる筈はないでしょう。

 そのように考えると、AD107年の、帥升等の生口160人献上と、安帝への「願請見」の解釈も、大倭王の使節としての、「倭面土王」という倭人諸国の「小王」もしくは、その「帥」の拝謁申し込みであり、大倭王自身の渡海朝貢という、あり得ないような事件ではない事が、判然とします。

 後漢光武帝は、倭人諸国の中の一国、「奴国」の王に、王号を与えましたが、「倭王」もしくは「倭国王」に封じたのか、倭人諸国内の奴国の王に封じたのかは、不明ですが、以前は、私は、倭人諸国の王に封じたと解釈していました。
 しかし、現在では、どちらとも断言出来ないと、感じています。
 それは、おそらく倭奴国王への王号授与を、承知していると考えられる范曄が、現行の本紀と列伝のどこにも、倭奴国王への王号授与を、「書いていない」からです。或いは、謝儼によって失われた、范曄『後漢書』本来の十志の「地理志」あたりには、記してあったのかも知れません。
 光武帝紀にも、東夷列伝倭条にも、倭奴国王への王号授与を、「書かなかった」范曄の、史家としての見識が、或いは、そこに現れているのかも?と、私は、想像しています。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 福島雅彦

2024/01/11 (Thu) 16:30:28

石見介さん、当世奇妙さん、横レス失礼します。

お二方の交信を拝読して感じた事があります。
彼方此方に書き込みをしている愚説ですが…。

※『後漢書』倭伝には、倭國内に「奴國」があるとは記載が無い、と思います。

*従って「奴國王」なる物は存在しないのでは?

・『後漢書』倭伝の中の文章なのに「倭の奴國」等としたら、正史記述者としては余りに稚拙な表現だと思います。

・「奴國」が『三国志(魏志倭人伝)』に在るのに惑わされていませんか?

・『後漢書』では、大倭王は「邪馬臺國」に居す、と倭王「帥升」とあります。

※「倭奴國」とは、倭人が自国の事を「我ン(の)国」と発音するのに当て字しただけだと愚考いたします。

・倭人の発音「我ン」は"wang"で、中国語の「王」にとられ、「國皆称王」と採られていますが、国中に王が居る筈がありません。

※『三国志(魏志倭人伝)』の三十ヶ國の国名の殆どが、国情説明文言の一部を国名と勘違いしています。

*「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖ン(の)國」=秦人の徐福を漢の祖(漢の前の時代の人)が興した国。

・『隋書』で現地踏査した「裴世清」は「都斯麻國」、「一支國」、「竹斯國」、「秦王國」(徐福の興した国)に収斂していますが、時代が下って消滅したのではなく、前史の勘違いを糺している、と観ます。

・そして、倭王は「阿毎多利思比孤」だけです。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/01/10 (Wed) 20:20:34

石見介さん
倭奴国を何とするかですね。
伊都国か倭の奴の国王か?
私は奴の国王と読みます。

根拠薄弱ですが私は石見介説と同じ(時期は異なっていますが)と内心思っています。今のところ推察です。
邪馬台国時代、かって繁栄を誇っていた奴国は伊都国
、邪馬台国に押さえられてしまいました。商業・交易王国の奴国は吉備・出雲など列島各地と交易をしていました。主は瀬戸内ルートでした(日本海ルートもあった)。奴国の交易集団の一部は、畿内・吉備・東海などと組んで、纏向に交易拠点を設置していました。この集団がヤマト王権の発祥でした。主体は吉備か奴国の一部かは不明。また奴国の王の一族か否かも不明。と思っているので石見介説に興味大です!!
頑張ってください!”

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/01/10 (Wed) 17:52:31

 当世奇妙さんの御下問、
 <「倭奴国王の子孫が大和の王になった」と言う説の論拠は何ですか>について

 私の推論の根拠は、多くの古代史愛好家の方々が、『魏志倭人伝』の卑弥呼を、日本神話上の「天照大
神」と考えるのと同様の、中国史書に記述された日本古代の史実が、日本側の正史、記紀の神代紀や初期天皇記等に、神話伝説として、「歴史の記憶」が残されている、という解釈に、基づいています。
 当然、多くの古代史愛好家諸氏の所説同様、トンデモ度は、高くならざるを得ませんが、少しでも、可能性を高める為に、史料批判以外に、比較神話学を含む文化人類学、遺伝人類学、考古学、西洋史を含む世界史の事例などとの比較など、可能な限りの多分野の知見を、中国史書や日本の記紀神話の解釈の際に、考慮するよう心掛けています。
 実際にどのような推論の過程を、採っているかを、次に、例示します。

①日本の古代の記述のある中国史料、特に、正史の記述内容の解釈については、中国史書のバイアス(「実与不文与」)の存在を考慮し、また、史書編纂時の環境、撰述編纂者の編纂姿勢等による誤解や故意の歪曲の可能性も存在し得る為、編著者の情報も考慮し、また、後漢代史書群が残っていた唐代の史家の史書やその著者への評価も、参考にする。
 現在、残存している史書の文面のみの比較では、異なった記載がある場合の史実の評価や解釈を、誤る可能性があると考える。

5世紀の倭の五王の時代は、南朝劉宋の府官制下で、軍郡の府には、文官の長史が文筆を主管し、既に日本も歴史記録の時代に入っていたと思われる。3世紀半ばの『魏志倭人伝』の時代にも、ある程度の記録はあったでしょう。しかし、大王名や氏族系譜の記録程度までで、日常的に官庁で、漢文を使用するのは、律令期まで、待たねばならず、日本や新羅は、「木を刻み、縄を綯う」段階だったのでしょう。

 初めて、中国正史に、列島の倭人や倭種の記述が現れるのは、『漢書』の地理志で、楽浪郡に献見する倭人諸国100余国と、倭種と考えられる会稽郡に献見する東鯷人20余国です。
 次の後漢代は、現在は范曄『後漢書』と編年体の袁宏『後漢紀』しか残っていませんが、前者も志、表は、范曄の物ではありません。次代の陳寿『三国志』の東夷傳が先に成立し、その結果、日本の古代史愛好家は、後漢代のAD57年の倭奴国王への王号授与,AD107年の倭国王?帥升等の生口献上記事を飛ばして、AD246~247年の邪馬台国女王卑弥呼の魏への朝貢とその後の親魏倭王叙爵に注目し、日本神話の天照大神ことオホヒルメと、同一視する古代史愛好家が、輩出する事になります。
 実際には、陳寿は、蜀の出身者で、魏や呉の地理や歴史には暗く、正史で初めての「東夷伝」を書いたものの、熱意もなく、まともに東夷について調べたのかも,疑わしいのが、実情です。王沈『魏書』や魚拳『魏略』に、東夷伝があったのかは不明ですが、おそらくはなく、陳寿のスポンサーだった張華あたりの提供した資料と,『魏略』の記事の丸写しで、東夷伝執筆も、司馬懿の功績顕彰の為であり、このあたりが、唐代の史論家劉知畿によって、王沈ともども、虎の餌にでもしてしまえ!と罵倒される原因だと思われます。陳寿が、真面目に東夷伝を書く気ならば、「三史」の一つ『東観漢記』から、AD57年とAD107年の倭国関連記事は、捜せたはずです。私は、陳寿には、門下生や同門の協力者もなく、金銭と人的資源の不足から、見落としたのではないか?と思いますが。それにしても、「倭人/倭種」に対する無関心さは、范曄に比し、明確です。
 『史記』の著者司馬遷は、宮刑を受け、『漢書』の編纂を父から継承した班固は獄死し、『後漢書』著者范曄は誅殺されました。史家も政治家、官僚であれば,その信念や行動によって、刑罰を受けます。陳寿のみ、左遷程度で済んでいるのは、政治的信念がその史書に反映されていなかったのか、それとも強い信念がなかったのか、運が良かったのか。おそらくは、政治家、官僚として、高位に就くことなく、政争の修羅場の体験が無い事が、幸いしたのであり、陳寿は、真面目な学者であったと思われます。しかし、史書編纂に必要な、金銭的、人的資源を欠き、司馬遷や、班彪・班固・班昭一族、或いは、『春秋穀梁伝』を家学とし、自らも六朝貴族の一員でもあった范曄のような、史学や儒学の蓄積のある家門の出自でもないハンデキャップは、極めて大きいものだったことは、認識しておく必要があります。印刷術の無い、当然、刊本の無い、写本頼りの時代、一家伝来の蔵書や家譜、家伝の類もなく、史書編纂の公務にも就けず、張華、杜預のような、後援者、理解者がいるのみ。現代のようなIT次代では無い。陳寿の集め得た情報の質と量を考えると、やはり、優れた史家だったと、改めて敬服しますが、欠陥を無視しては駄目です。史註を付した裴松之が存在しなければ,『三国志』の評価は、低かったでしょう。

 『後漢書』を書いた范曄は、明らかに倭人/倭種に関心があり、多くの学徒と称される協力者もいましたが、逆に、おそらく5世紀初頭の情報や、或いは、倭讃使節団などの倭人側の操作された情報の入手などで、誤解釈に導かれた部分も、有ると考えられます。
 范曄の誤解の一つは、後漢光武帝に叙爵された、倭奴国王が、博多湾岸の「奴国」ではなく、同名の旁国の一つ、「極南界」の奴国としたことと、後漢代を通じて、倭人諸国の盟主たる「大倭王」が存在し、それが、邪馬台国にいるとしたことでしょう。

 しかし、私は、范曄のこの二つの誤解こそ、邪馬台国の王家が、奴国国王の子孫である事と、邪馬台国近畿説の根拠の一つになり得ると、考えています。
 その理由は、范曄のこの誤解は、二つとも、倭讃使節団からの意図的な情報やそれ以前の大陸に移住したり、交流していた倭人/倭種からの情報に拠っていると思われるからです。

②民族移動に興味を持っていた私は、倭国王権の成長過程を、倭人/倭種世界の消長と、常に関連付けて考えるので、倭人/倭種世界の「地政学的中心」を常に考えており、それが、半島南部⇒北部九州⇒近畿へと移動した、と考えています。
 AD57年頃は、北部九州が中心で、海峡の両側、半島南部と西日本の地政学的中心は、まさに、行程8ヶ国の「奴国」にあったが、半島では、韓族の南下で、倭種世界は縮小し、一方、列島では、日琉語族の東進で、倭人/倭種世界は、東日本に拡大し、地政学的中心は、北部九州から次第に畿内に移る。
 日琉語族の移住は、半島から、北部九州を経て、南方や東方に向かう。民族移動時には、部族の移動は、地名の移動も伴う。同時期に、同じ種族の名称に起因する地名や国名の存在などごくありふれた現象に過ぎない。
 奴国が二つあっても、三つあっても、不思議はない。
 更に、民族移動時には、一つの部族の移動と歴史教科書上記述されていても、実際には、他部族や途中通過した地域の住民が、多数含まれていることが多い。例えば、イタリア北部ロンバルデイア平原に名を遺すゲルマン系ランゴバルド族は、イタリアに入る前に、ローマ帝国の旧属州だったパンノニアで、ゴート系ゲピード族の王国を倒し、イタリアに入ったが、本来、ランゴバルド族が少数部族だったこともあり、その部族には、ゲピード族、ローマの属州パンオニア、ノリクムの出身者、それに3万人近いザクセン族(サクソン族)も含まれていた。
 北部九州から、邪馬台国或いは邪馬国の人々を中心に、東遷して来た神武集団は、ハヤヒト(隼人)、クマヒト(久米部、肥人)の他に、伊都国や奴国等の人も加え、吉備の集団も加えて、大和入りしたと考えられる。後に、伊都国や奴国の人は、紀ノ川沿いに移住し、その地に、伊都、中(那賀)の地名を遺した。
 因みに、上代日本語「な」には、「中」「名」「地」など、同音異義語が多く、「中」の語義の「な」は、場所を意味する「か(処)」と複合し、「なか(中)」という複合語を作りこの語が、もっぱら使用されるようになる。
 さて、「奴国」が複数存在しても、5世紀初頭の畿内邪馬台国の倭人は、奴国の場所を聞かれて、大和の南、紀ノ川沿いの那賀町辺りの「極南界」の奴国の情報を与える。その南の熊野は、「狗奴国」の地域で、大和と神武後の王権を巡って、争ったのではないか?
 まあ、欠史八代南北朝説というトンデモ説です。
 勿論、狗奴国の人々も、人口が増加すれば、移住する。より南方へ、また、九州中南部の東海岸や南海岸からは、四国南部、紀伊半島南部、東海地方など、太平洋岸沿いに、移住する。HLAハプロタイプの一つが、そのような分布を示している。

③「倭奴国」を、「伊都国」と読むことは、言語学的、国語学的に、困難である。「倭」という漢字は「委」声であるが、史書に「倭」と記載されている場合には、「倭人」「倭種」「倭国」と解釈すべきであり、『後漢書』の光武帝紀下建武中元2年条と東夷列伝倭条記事の2カ所のみ、例外的に、「倭」字を「伊都国」の音写として、「委奴国」と解釈するのは、恣意的である。おそらく志賀島の金印の、「倭」の省画の「委」に惹かれた解釈で有ろうが、そもそも、日本語の旧仮名遣いでは、「伊都」は「イト」であり、「委」は、「ヰ」ワ行であって、ア行の「イ」とは音価が違う。
 また、「奴」の音価も、後漢代始めは、頭子音はまだ、「n」に近く、「t/d」には、移行していなかったと思われる。この点から、「倭奴国」は、「倭の奴国」と読むか、「倭国」を貶めて、「奴」字を付したと解釈するかの何れかになる。張莉氏のように、匈奴は胸に、倭人は顔面その他に、入れ墨をしていたので、「奴」字を付した、という解釈もあり得る。
 私は、志賀島の金印が真印だと思うので、「倭の奴国」でもよいと考える。
 以前は、後漢が確立した光武帝晩年なので、建国途中の時期のように、夷蛮にいわば王侯号を、乱発した時期ではないので、倭人には、一国のみに、倭人全体の王として。王号を与えた、と解釈していたが、福島雅彦さんへのレスで触れたように、范曄の東夷列伝倭条、光武帝紀には、一切、「王号授与」が記述されていない事を想起し、これが、范曄の意図、春秋の筆法的な、遠回しの批判を含んでいる可能性を、考えるようになり、倭奴国の実態が、奴国である事は、金印から認めるが、倭人諸国を代表~総称しての「倭奴国」なのかは、現在、判断出来ない。

 范曄が、AD57年の正月の倭奴国の奉賀朝貢を、倭奴国の自発的なものではなく、晩年の光武帝劉秀に対する周囲の阿諛追従の画策の結果、と考え、それに批判的だったので、敢て、本紀、列伝にも、「王号授与」を明記しなかったのではないか?とも考える。

④昨年11月16日投稿のコメントで述べたように、中国正史に記述された、倭と中国王朝の交渉は、前漢の楽浪郡設置後から、始まるが、倭人の記憶に残り、且つ、神話伝説化されるような大事件は、諸部族国家の中の一国、「奴国」に後漢光武帝から、「王号」を与えられたAD57年、建武中元2年正月の倭奴国の奉賀朝貢であり、2世紀中葉の卑弥呼の朝貢や親魏倭王叙爵の、200年前の出来事である。
 この歴史的大事件の記憶としての、「神話伝承化」を記紀から探すと、「葦原中津国」=日本列島西半部≒倭人諸国+東鯷人諸国+夷洲?・澶洲?の「支配権」を、「皇祖神の神勅」で、与えられて、筑紫島=九州島に天孫降臨したと言う神話以外に、該当する伝承が無い。
 天照大神は、天上界の存在で、倭地の支配は、その天孫~皇孫にある。

 日本神話は、日本列島の支配権を与えられた天孫=皇孫が、筑紫島という辺地に降臨し、その子孫の神武天皇に至って、九州島から大和に東遷/東征したと記す。考古学的に、漢委奴国王印が志賀島に出土し、奴国が『魏志倭人伝』に現れる行程八ヶ国の博多湾岸の「奴国」であると考えられる以上、AD57年叙爵の倭奴国王、即ち神話での降臨した天孫とは、この「奴国王」を指し、神武天皇は、その子孫と解釈される。

 降臨地は、記紀では、「日向国」とされるが、紀元後1世紀中葉では、『古事記』で言う「熊曽国」で、日向国は存在しない。「韓国に迎いて」の文言や、国生み神話での「筑紫島の四面」記事からは、「白日別」と記される筑紫國が降臨地で、その子孫の一人である神武兄弟は、九州を見限って、倭人倭種世界の地政学的中心地へとなりつつある畿内大和への移住を、決断し。結果的に、これが「東征」になったと考えられます。

 最初の奴国王の王号獲得時には、まだ、半島中南部の倭種倭人の諸部族国家も多く、倭人倭種世界の結節点というか、地政学的中心地は、筑紫、北部九州沿岸部にあり、後漢によって権威づけられた奴国の王族は、半島や列島の倭人諸国の王に迎えられて、いくつかの家系に分岐したと考えられます。
 慶州盆地に進出した辰韓の六部は、先住の倭人と提携し、三韓を支配する扶余系馬韓王≒辰王から自立する、倭韓連合王国の形成を目指し、敢て、倭人の王を推戴し、それが、朴赫居世、倭人の重臣「コ(瓢箪の語義)公」や第4代新羅王のAD57年即位と伝える脱解の伝承や、日本側の新良貴氏の伝承とも、なったのでしょう。畿内へは、穂積氏、物部氏、尾張氏などの饒速日、火明命の降臨伝説が、神武以前の奴国王族の拡散を示す伝承として、残されたのでしょう。

 新羅からの倭人と韓族の筑紫への移住が。筑紫島の四面の筑紫国の異称「白日別」=斯蘿日別であり、伊都国王家の子孫伊都県主の祖アメノヒホコの伝承になったのでしょう。
 3世紀の『魏志韓伝』では、「辰韓と弁辰雑居」とも記載されており、その200年前の半島中南部の民族、部族の分布状況は、倭人が優位だったことを示します。
 もっとも、A.Vovinのように、韓族を「日琉語族」と見做し、後に朝鮮語族の扶余諸族により、朝鮮語族化された、と考えれば、馬韓を含めた三韓全てが、ある時期まで、倭種だったことになりますが、私は。扶余はツングース語族と考えるので、その説は採りません。


 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/01/05 (Fri) 09:18:31

「神武天皇は、(略)九州島からの畿内大和への移住者で、(略)九州島中心に倭人諸国の盟主としての大倭王を与えることになったAD57年の倭奴国王の子孫という「血統」が、その子孫に、大和の王権をもたらすことになった人物だった(略)」
上記は興味深い推論ですが、「倭奴国王の子孫が大和の王になった」と言う論拠は何ですか?

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/01/05 (Fri) 08:56:09

1月4日の投稿内容は読みやすく、良く理解でき、かつ納得のいくものです。ありがとうございました。
余計な一言:とは言え、石見介論文は私が理解・評論するレベルを凌駕しています。しかし、石見介さんの古代史論は愛好家のレベルを超えて専門家の領域と言うレベルとの感覚はあります。
どこかから出版など期待しています。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/01/04 (Thu) 23:18:35

当世奇妙さん

神話伝承から史実を復元する、という基本的な立場からは、当然、記紀神話と史書が、議論の中心に、ならざるを得ません。

 実際には、記紀神話は、撰述時の支配層の都合の良い神話に、また、日本側史書も、同様の操作が、入っているので、そのチェックのために、神話伝承については、比較神話学を含む文化人類学的観点が欠かせず、史書のチェックには、他国の史書や考古学的知見が、必要です。
 
 日本側史書が、中国への朝貢を全面的に否認している事と、神話伝承化されたと思しき時代の日本側記録が、そもそも、歴史として記録されていない以上、特に、3世紀以前は、中国史書の倭伝等を、利用せざるを得ませんが、中国史書にも、当然ながら、バイアスが存在します。
 中国史書のバイアスの発見や修正には、西洋史等との比較や中国の考古学などが、大きな手掛かりになります。他に、中国側の後代資料に見える史書の編纂状況や、編著者の執筆姿勢も参考になります。
 外国史書では特に問題になりますが、古代日本の人名や事物名の解釈には、上代日本語等の国語学や中国語学などの言語学の観点からの、チェックも必要です。
 「穂積」氏を、「ホズミ」と読んで、漢字の字義通り、「穂」即ち稲作農耕関係の氏族名などと考えるのでは、どうしようもありません。「ホアカリ(火明)」の「ホ」で「火」の語義ですが、上代日本語は兎も角、中国漢字音の時代の変遷は、私には理解困難で、難渋しています。

 日本の史書で、遡及困難な時代で、且つ、中国史書で記述されている時代の幅が広いのが、范曄『後漢書』なので、陳寿『三国志』とともに、基本資料として、使用せざるを得ませんが、范曄『後漢書倭伝』には、范曄の積極的な倭国情報蒐集と解釈の結果、5世紀初頭の倭国情報や誤情報が、紛れ込んでいる可能性があり、そのあたりのチェックが、難問です。
 会稽曹君墓出土の「倭人字磚」や、各種後漢書群が残存していた唐代の史家の評価も,無視できません。

 史料批判を、文献のみに限定せず、可能な限り、他分野の情報と突き合わせて、総合的に判断する、という事を、心掛けています。
 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/01/04 (Thu) 19:56:49

11月6日の投稿
「比較神話学を含む文人類学に、遺伝人類学、言語学・国語学、考古学、文献史学、西洋史などとの比較など、従来通り、全部総合して、判断する基本姿勢は、変わりません」
とありますが、基本的には『後漢書』と記紀の比較から議論したと言うことですか?


Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2024/01/03 (Wed) 21:05:58

 当世奇妙さん、

 コメント有難うございます。
 私の悪文の為、趣旨が理解し難く、レス困難とのご指摘には、常々、自覚していますが、なかなか対応出ません。
 まして、理解できない考古学分野の知見を,混ぜての検討は、不可能です。

 邪馬台国は、基本的に、陳寿の『魏志倭人伝』が根本史料で、考古学的議論をあまりせずに済むので、このスレでも扱いやすい、という思惑があり、その前段階の同じく中国賜与の范曄『後漢書倭伝』の記事とも併せ、大いに議論したいと、考えています。

 この会の論客は、記紀の神代期部分を含めて、即、史実の反映と見做す方が多いので、近隣諸民族、特に国家形成の経験の無い古アジア語族やシベリアのツングース系の民族の神話を、紹介しました。
 その部分が一応終わったので、記紀の神代紀や神武紀、欠史八代等の、神話伝説部分と史実の混在した部分の話に移り、皆さんとの討論をしたいと考えています。

 当世奇妙さんが、邪馬台国位置論では、九州説を採られているので、その立場からの、日本神話≒記紀神話についてコメントされれば、レスを返したいと思います。
 
 当面、AD57年の後漢光武帝による、倭奴国王への王号叙爵が、どのように北部九州邪馬台国説と関係するのかについての、コメントだけでも、OKです。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2024/01/03 (Wed) 09:46:58

石見介さんの討論室の内容は、文献知識の少ない私にはレスがなかなか困難です。また長い文章は石見介さの主張が多数詰まっていて、なかなかレスが困難です。文章の一部は石見介さん自身の見解・理解を前提として議論が進んでいますが、これに疑問があれば、その先にはなかなかついていけません。考古学的事実との関係で解説頂くとかされれば、反応出来るのではと思いますが。

神武東征伝承の中の史実を探る 石見介

2023/12/24 (Sun) 22:44:15

 今回から、神武東征伝承と、史実の関係について、検討します。
 前回の、范曄『後漢書』倭伝に記述された、安帝永初元年(AD107年)の後漢と倭国の交渉から、神武一族は、当時の九州中心の倭人諸国連合の盟主、大倭王と同じく、後漢光武帝の建武中元2年(AD57年)に、倭奴国王に叙爵された人物の、直系の子孫であり、政治的路線の相違から、大倭王と訣別し、九州島を去って、畿内大和に東遷(移住)を、図ったという、史実が、存在した可能性が、浮上しました。
 それを、もう少し、詳細に検討します。

 基本的な文献資料としては、7世紀編纂の記紀しか存在せず、その撰述時の支配層の考える「望ましい歴史」に沿った記事しか、有りません。考古学も、記事に対応する金石文や木簡、竹簡等の遺物の出土もない為、確認の仕様がありません。
 正しい資料批判上は、神代の神話同様、基本的に無視すべき部類の神話・伝説に属しますが、神話伝承中に反映された史実を掘り起こし、その中から、史実を復元しようと言う、当スレッドの趣旨から、史実の反映の「可能性」という、極めてあやふやなものを、何とか、探り当てようと言う、試みであり、客観的には、トンデモ度は、高くならざるを得ません。

 それらのいくつかの可能性の中で、ギリシャ神話の「ヘラクレスの子らの帰還」という神話伝説群が、歴史上の、「ドーリア人のギリシャへの移住(前13世紀頃)」という「史実の反映」である、というような、確実な歴史の反映部分、復元は、「神武東征伝説」では、可能でしょうか?

 この問いには、確信をもって、肯定できます。
 即ち、「九州島」(筑紫島)から、東方の、本州島や四国島へ、日琉語族の移住の波が、何度もあり、その内、大和朝廷の原像となる畿内大和の原初的王権の担い手が、九州島からの移住者集団の一波であったと言う「歴史」、史実の「神話伝承化」であると、ほぼ断言できるからです。

 この点について、応神天皇、或いは神功皇后の神話伝承が、大和王権の起源であり、神武東征伝承は、飽く迄も神話に過ぎず、史実の反映ではない、という反論が、あり得ますが、記紀の伝承では、神武東征は、九州島から畿内大和への移住と律令制下の大和国の全域どころか、その一部の、いわゆる「国中」への移住定着を示し、一方、神功皇后~応神の東征は、確立した大和王権の再征服~簒奪として、語られており、時代、次元の異なった史実の反映と捉えるべきで、むしろ神話的な神秘性については、神功/応神の説話が、神武の伝承より、上回るとさえ、言い得る事実が、存在します。神武東征伝承は、やはり、大和王権の原初的起源が、九州島からの移住者によって、築かれたという、「史実」の神話伝承化として、捉えて間違いはないと思われます。

 では、神武東征伝承中の記事の、どの部分が、どの程度、史実の反映であり得るのか、もう少し、細部について、検討します。
 記紀の、特に紀の「神武即位前紀」を、一読すれば、容易に理解できますが、神武集団は、九州島の根拠地から、一気に、畿内大和を目指して進んだと言うイメージではなく、九州島や本州島瀬戸内海沿岸部のあちこちに、数年単位で滞在しながら、ゆっくりと畿内に向かい。河内上陸後は、現地勢力と、急戦している感があります。勿論、近畿在地勢力も、抗戦派と随従派に分裂していますが、畿内に上陸するまでの、九州や本州島瀬戸内海沿岸勢力は、概して、神武集団に協力的です。
 これは、当時、東方への移住集団が、移住先ではない、途中の経由地では、反発されず、在地の住民からも移住者が加わり、近畿以東へ移住するのを、容認する風潮が、存在している事を、示していると思われます。勿論、移住先では、先住集団が、主導権を奪われる事を怖れ、当然、反発も起こりますが、同程度の歓迎派も存在する状況が、窺えます。
 このあたりは、実際に、日本列島の日本語列島化時代の、史実と考えて良いと思われます。
 朝鮮半島経由の、所謂、「渡来系弥生人」による、「日本列島の日本語列島化(正確には、日琉語族列島化)は、紀元前10世紀以前、縄文時代後晩期後半から開始され、長期間を要し、正史の『日本書紀』が編纂された時期でも、尚、本州島東北部の日本語列島化は、完了していませんでした。7~8世紀の言語資料である記紀萬葉の「上代日本語」からは、九州方言、中央(近畿)方言、東国方言という、大きな言語差のある3大方言の存在が、認められています。先住の縄文系の人々は、その言語を新来の日琉語族の言語に、徐々に取り換えて、「倭人」或いは「倭種」と言われる日琉語族の話者になりますが、一気に征服王朝が、広汎な地域を征服し、その言語を被支配層に強制した、というようなものでは、無かったと考えられます。
 いわば、縄文系の人々が、渡来人をコントロールして、自ら弥生人化=倭人化した側面が、近年の人類学や考古学、或いは言語学から、想定されます。
 記紀の神武後の、所謂「欠史八代」も、征服王朝型ではない自生型の王権発生と考えれば、史実ではないと全否定すべきものとも、断言はできません。

 始祖王として、神武天皇は、神話伝承上、肥大化して描写されていても、その部分を排除した、九州島からの畿内大和への移住者で、倭人諸国に衝撃を与え、九州島中心に倭人諸国の盟主としての大倭王を与えることになったAD57年の倭奴国王の子孫という「血統」が、その子孫に、大和の王権をもたらすことになった、という人物だったと思われます。

 中国の史書『宋書』に現れる倭の五王、半島の高句麗好太王碑文、日本の記紀等から、AD400年頃が、応神天皇の活動年代と想定すれば、一世代20年で,AD300年頃が、第10代崇神天皇、AD200年頃が第五代孝昭天皇となり、神武天皇は、AD120年頃が、活動年代になります。しかし、第2代綏靖天皇の母は、神武の庶長子タギシミミの妻になっています。神武と綏靖の年齢差は、20年ではなく、30年以上あったと思われ、AD100年~110年頃が、神武の主たる活動期になります。
 以上のように、日本側の正史の大王‣天皇系譜の世代数を信頼すれば、神武東征伝承は、『後漢書倭伝』に記される、日本と後漢の交渉記事の二番目の、安帝永初元年,AD107年の帥升等の生口160人献上、安帝への謁見申し込みの時代前後の、事件であった可能性が、高い事が判ります。

後漢安帝の永初元年(AD107年)の倭国遣使の謎 石見介

2023/12/16 (Sat) 23:04:08

 後漢安帝の永初元年(AD107年)の、倭国の使節について、范曄『後漢書』東夷列伝倭条の、原文を推定し、この事件が、果たして、日本神話に記憶されたか否かの、検討を、続けます。
スレッドの名称とは逆に、中国史料に記述された、歴史的事件が、日本神話に反映されているかを、検討するという状況ですが、前スレ「日本神話を考える」の続編という性格から、神話の歴史化、伝承化と、歴史や伝承中の神話の摘出の、双方が、スレの目的であり、中国史上最初の「倭国」(倭人ではない)が登場し、倭王が出現した大事件の50年後の、AD107年の事件は、日本神話と歴史の関係を考える上で、外せない問題です。
 前回の考察で、范曄『後漢書』倭伝(東夷列伝倭条の通称)の原文を推定しましたが、仮に異なっていたとしても、范曄の拠った原資料では、「倭国王帥升等」ではなく、「倭面土国王帥升等」に近い文面であった蓋然性は高く、それを前提として、日本神話との関連を、考えます。

 再掲します。
 范曄『後漢書倭伝』の記事(推定される原文)

 安帝永初元年(AD107年)倭面土国王帥升等献生口百六十人願請見

 上記の推定原文では、「帥」が「師」である可能性と、「面土国王」の部分の諸書の異同が大きいですが、おおむね、国名は、「面土」かそれに類似した音価と思われます。「面」の字が、「回」の異体字で、「囘土国」を「ヰト国」と読む説、「面土国」を「末盧国」と考える説、「倭面土国」を「ヤマト」と読ませる説などが、以前からありますが、「倭」を同じ史書の同じ列伝内の同じ条の中で、注釈もなく、「ワ」と「ヤ」両様に読ませるのは、流石にあり得ないでしょう。最近では、「面土」を、「米多」の音写とし、帥升は、吉野ケ里の王だとする七田忠昭氏の説もあります。

 さて、この大倭王の使者は、何の目的で、後漢皇帝に、生口を献上し、拝謁を申し込んだのでしょうか?
 その解明には、先ず、献上品の「生口」についての検討が、必要です。

 生口の原義は、「戦闘行為」での「捕虜」であり、転じて、戦闘や略奪された捕虜を出自とする事の多い奴隷、奴婢を意味します。何らかの有用な技術を持っていたとしても、「技術者」や、まして技術や学芸を習得するための留学生などと言った、存在ではあり得ません。
 その生口が、百六十人も一度に、献上されたのです。これが、中国と陸続きの遊牧民や半島の諸韓国等ならば、移送等にそれほどの支障はないでしょうが、島国で、構造船を使用していたかも疑わしい、二世紀初頭の日本列島から、献上されたのです。
 この事実からだけでも、私は、構造船が無いとしても、アウトリガーや双胴船、平安座舟の類は、当時、存在した可能性を、考えてしまいます。
 160人の生口の監視要員、船の漕ぎ手等をも考えると、帥升等の使節団の総人員は、少なく見積もっても、五百人、ほぼ千人規模の大集団が、倭国から、渡海して、半島を経由して、陸行し、長安まで行く。
 事の成否にかかわらず、史書に記述すべき大事件という事で、中国側も、倭国側の要求は認めなかったが、史書には、記した、という事なのでしょう。

 そのような大事業をしての、生口献上は、現実的に極めて困難なので、実際には、窓口の楽浪郡に届けて、少人数の使節団を、漢都に送り、皇帝の謁見を賜りたいと希望したと思われます。それでも、郡に生口百六十人届けるだけでも、大変な手間とコストが、必要になります。
 大倭王或いは、倭国側には、それでも、後漢皇帝の了承を得たい事情が、存在したことになります。
 
 その事情とは、将に、「生口」が発生したと言う現象、原因にあり、倭国内で、生口百六十人を、簡単に?調達できるような、戦闘行為が、起こった事を意味し、その釈明と結果を、後漢皇帝に、承認してもらう必要が、倭国~大倭王には、有った事になります。
 前漢時、楽浪郡に献見していた倭人諸国、100余国間の戦闘や、倭奴国内の内戦であれば、後漢光武帝に叙爵・公認された倭奴国王の血統ではない、異姓の新たな王が覇者、倭人諸国=倭国の新たな「盟主」となり、その承認を後漢に求めた可能性が、有りますが、この場合は、先ず、楽浪郡への根回しとその了解が、必要でしょうが、献上品に、生口160人ではなく、倭の特産品、「方物」と史書に表現されるような、もっと運搬しやすい物で良いと思われますし、王統交代後時間が経過して、倭漢交易に関与する漢人商人等の支持を受けた後で、良いと思われます。
 しかし、実際には、膨大なコストのかかる、生口160人の輸送、献上と、倭の一国の国王という大物の使節「等」の派遣を、倭人諸国の盟主=大倭王は、行っています。即ち、そうせざるを得ない状況に、追い詰められていたと思われます。

 倭国=倭人諸国が、そのような立場に陥ったのは、生口を生ずるような戦闘が、倭人諸国間のみで完結せず、倭人担当の楽浪郡の権限を越えた地域にまで、及んだためと考えられます。
 ここで、「倭人字磚」の話を、想起してください。
 前漢時、会稽郡に朝貢した東鯷人20余国は、倭種であったと思われます。魏の武帝曹操の一族は、後漢末、会稽郡の太守曹胤などを、輩出しました。
 後漢末、倭人字磚からは、倭人の集団が、おそらく中国大陸沿海部に、移住している状況が、窺えます。
 この「倭人」は、会稽郡に献見していた東鯷人で、楽浪郡に献見していた倭人諸国と抗争し、敗れて大陸に逃れ、会稽郡に訴えたのではないでしょうか?
 倭人諸国間の問題であれば、楽浪郡で何とか処理できても、会稽郡が関与すれば、解決は、漢都での決裁にゆだねられます。

 倭国が送った生口は、倭国側の正統性を主張する証人のような役割も、担っていたと思われます。 3世紀の『魏志倭人伝』では、支配者の「大人」と、支配層の末端と思われる「下戸」の大きな身分差が、描かれています。奴婢の存在も描かれています。
 2世紀初頭の倭人/倭種世界でも、多くの奴婢が存在する厳しい身分社会だったのでしょう。
 
 帥升等の使節団は、『後漢書』からは、皇帝の謁見も爵号の授与も、記述されておらず、使命は、失敗に終わったと思われます。
 この史実の、神話・伝承化と思われるものは、私には、思い浮かびません。
 しかし、50年前の倭奴国王への後漢光武帝の王号授与が、「天孫降臨」の神話として、記憶されたのであれば、時代的には、「神武東征」伝承が、帥升等の遣使と関連している可能性は、有ると思われます。
 ただ、神武東征伝承からは、筑紫島の倭人,倭種を、軍事行動で統合しようとした、大倭王の面影はなく、九州の南での閉塞的状況の打開のために、同族の移住先の、畿内大和へ、東遷=移住を決意する、いわば、九州島での競争の敗者の姿としか、私には捉えられません。
 即ち、神武東征伝承が、AD107年の帥升等の後漢への朝貢と関連しているのであれば、神武一族は、九州島内での、帥升等らの東鯷人との交戦派に反対する派閥で、政治的にはその主張が通らず、九州島を去らざるを得なかった「負け組」だったと言う事になります。
 従って、勝ち組の帥升やその支持する当時の大倭王は、記紀には、姿が現れないのでしょう。

 九州島からの、神武兄弟やその一派を、攻撃せずに平穏里に、島外に去らせるなど、あり得ないと言う反論については、大倭王も神武兄弟も、同じく、50年前の初代大倭王=後漢光武帝に叙爵された倭奴国王の、直系子孫という同族で、政治的立場は異なっても、同族内で、戦闘行為は避けると言う、共通の思いがあり、妥協策として、神武兄弟らの東鯷人征討反対派の移住を、承認すると言う政治的取引が、成立し、神武一家とその与党が、島内各地で、移民団を募集し、島
を去るのを,むしろ、後援した可能性も、有ります

 尚、范曄は、後漢代の初期から、倭人諸国を統合支配する「大倭王」が存在し、その居所は、邪馬臺国だと、考えているように思われますが、これは、おそらく、倭讃使節団或いは、当時の何らかの情報を基にした、彼の「解釈」だと考えられます。
 後漢光武帝の、倭奴国王への王号授与は、九州のみならず、半島を含む広範な。倭人/倭種世界に、衝撃的な大事件で有った事は、『三国史記』新羅本紀で、第4代新羅王とされる、倭地出身の「昔脱解」の即位年が、AD57年に設定されている事からも、判ります。
 倭の五王の政権は、大和の王権と思われますが、その出自を、AD57年叙爵の倭奴国王にあるとする情報を、范曄の「学徒」に、与えたのでしょう。。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2023/12/06 (Wed) 20:18:02

 p君さん。

 AD107年の、所謂「倭国王帥升等の生口160人献上と、後漢安帝への拝謁お願い」について、帥升=スサノヲ説を採る方々、p君さんや福島雅彦さんなどからの、コメントは期待していますが、一応、私の范曄『後漢書』倭伝当該記事の解釈後に、お願いします。

 天孫降臨地については、「からくに(韓国、或いは加羅国)」との「距離感」の問題です。
 現実に、半島が目視できるか否かという、物理的というか、身体的な、視覚的な問題ではなく、「神話伝承」上、全能ではない日本神話の神格の能力を以てしても、熊襲國、日向国からは、「からくににむかひて」の表現は、不可能だと言う意味です。
 まあ、心理的距離と言い換えたほうが、適切かもしれませんが。
 
 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - p君

2023/12/06 (Wed) 11:36:33

> かくて、天孫は、「からくに(韓国)」が見える筑紫の日向に降臨します。記紀では、律令制下の「日向国」と見做されるように、記述していますが、いくら頑張っても、宮崎県から、韓国は見えません。
 「天から降臨したので、朝鮮半島を鳥瞰出来た、というのも、無理でしょう。
 現実に,王号を授与されたのは、後代の博多湾岸の儺の津のある地域の「奴国王」だと考えられ、志賀島出土の「漢委奴国王」の金印も、これを支持します。
 ここは素直に、博多湾岸の「奴国王」に金印が与えられたのだから、天孫降臨の地は、この地域であると考えましょう。<


失礼ながら無茶な論理です。
宮崎県から韓国は見えませんが、博多湾岸からも見えません。
晴れた日の視界が良い対馬からなら、何とか見えるようです。

天孫降臨を韓国が見える場所とするなら、宮崎も福岡も無理なのです。
天孫降臨神話は、
なぜ天皇家がスサノオの刀を持っているのか、その理由づけのための創作神話でしょう。
アマテラスからニニギに託されたというのは創作でしょうし、
スサノオの刀は、スサノオの直系子孫が持っていたのが事実でしょう。
その直系子孫こそがいわゆる「大物主」といわれる王統であり、
最後の大物主こそスサノオ8世孫で阿田賀田須命といい、この人物こそがモモソヒメの亭主であり、
どうやらミマキイリヒコこと崇神に殺害されたゆえ、
その殺害場所である血原(現・茅原)に大物主を祀る大神神社が建ち、
その摂社の狭井神社では大物主の荒魂が祀られているわけです。

後漢安帝永初元年(AD107年)の倭人の朝貢の神話伝承化 石見介

2023/12/06 (Wed) 01:11:13

 范曄『後漢書』の孝安帝紀と、東夷列伝倭条に、記された列島の倭と、後漢との交渉は、東夷列伝に、中国史料上、初めて、倭人の名前と思われる「帥升(師升)」が現れる為、古来から、注目されていますが、史料批判上、種々、問題があり、軽々に日本側の神話や歴史と繋げて、考察する事は、困難です。
 しかし、50年前の、突然、倭人や倭種に、後漢光武帝の、いわば、「天の声」で、王が与えられた歴史的大事件の後の、重大事件である事は間違いないので、やはり、倭人に記憶されて、神話伝承化された可能性があり、先ず、史実を確認してから、神話伝承化の可能性を検討し、それらしき神話伝承があれば、復元して、歴史像を組み立てる試みを、行いたいと思います。

 まずは、『後漢書』の記事の確認です。

①本紀第五 孝安帝紀第五
 冬十月、倭国遣使奉献

②列伝七十五 東夷列伝第七十五倭条
 安帝永初元年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見

  現行范曄『後漢書』では、僅か、是だけの文章です。①は、前年鄧氏に推戴擁立されて即位した安帝に、倭国から遣使があり、献上物を奉った、という記事で、何を献上したのかは不明ですが、②の記事で、「生口」だと判明します。50年前の倭奴国の朝貢記事に続いて、記述されていますが、「印綬」を与えられたとか、拝謁が許されたとかいう記述はなく、皇帝への拝謁も、許可されたとは思えません。

 上記②の文章については、唐代の類書や日本側資料の『後漢書』の引用文と異同があり、それは、「帥升」が「師升」となっている、誤写と思われるもの、「帥升等」の「等」が脱落している物も有りますが、「等」の脱落は、一例のみで、校勘上は、「等」が、有ったと判断できます。「帥」と「師」の何れが正しいかは、微妙ですが、この「帥/師」を、倭人の人名の音写の第一音節と考えれば、「スイ/シ」何れも、サ行音になります。この「帥・師」を、漢語と考えれば、後の「升」、もしくは「升等」が、倭人名となりますが、「等」を通常の解釈のように、複数を示す漢語と考えれば、「升」の解釈が、人名なのか、それとも倭国の官職や称号なのかなど、複雑になります。
 この場合、「帥」「師」は、倭国の官職の説明文とも解釈できますが、その場合は、范曄がその旨、注釈するだろうと言うのが、現時点での私の考えです。

 それよりも、②で問題になるのは、「倭国王」の部分の、諸書の異同の多さ、大きさです。その部分を、列挙します。

 A:倭国王帥升等(現行『後漢書』刊本)
 B:倭面上国王師升至(『翰苑』所引『後漢書』)
 C:倭面土国王師升等(北宋版『通典』)
 D:倭面土地王師升等(『唐類函』蕃夷部所引『通典』)
 E:倭面国(『日本書紀簒疎』)
 F:倭面国(『釈日本紀』)

 他に『後漢書』を引用した書(『異称日本伝』他)もありますが、要するに,現行の刊本范曄『後漢書』以外は、帥升もしくは師升等の前の部分が、「倭国王」とは、記されていない事が、判ります。
 范曄『後漢書』安帝紀で、「倭国遣使奉献」となっているので、私は、類書等の『後漢書』が、范曄著ではない、他の七家後漢書や『東観漢記』からの引用か?と考えた事もありました。
 范曄が、『東観漢記』や先行する七家後漢書を、「珊欠」して、その『後漢書』を完成させたことは、史書にもあり、余分な部分を削り、足らざるを補ったと言う、評価が、為されているからです。
 しかし、平安時代の日本の書籍にも、「面」の字が「倭」と「国」の間に入っている事と、抑々、「東夷列伝」が、他の後漢書群にはなかった可能性が高い事も考えると、平安時代9世紀の『日本国見在書目録』に七家後漢書が確認できないことなどを併せ、范曄の『後漢書』東夷列伝倭条の原文が、「面」を含む「倭面土国王帥升等」のような、文面だったと判断するに至りました。
 陳寿がその『三国志』魏書東夷伝に記しているように、東夷の列伝は,『三国志』が最初であり、即ち、陳寿の時代に先行して「三史」の一つとされた『東観漢記』には東夷列伝は、無かったのです。『東観漢記』の煩雑さその他に反発して、その後現れた七家後漢書群にも、東夷傳は、無かった可能性は極めて高く、范曄の『後漢書』の高評価の一因は、或いは、范曄自身が自賛した「六夷」と称する東夷列伝を含めた夷蛮伝の存在に、有ったと思われます。

 では、范曄『後漢書』の本紀では「倭国」と書き、列伝では「倭面土国王帥升等」という文面に、何故、なったのか?
 それは、おそらく、范曄が、遣使の主体は、「面土国王」のような、倭の国々の一国の王ではなく、彼が,大胆にも、「その大倭王は、邪馬臺に居る」と書いた、その「大倭王」であり、「倭面土国王帥升等」は、その大倭王の使節にすぎない、と判断したからでしょう。
 范曄の『後漢書』編纂の態度を、先行史書の「珊欠」のみで、巧妙な文章力で、虚名?を得たと考える古代史愛好家や専門家もいるようですが、その『後漢』編纂には、「多くの学徒を集め」「諸書を窮覧し」と史書に記されています。
 范曄本人は「少(わか)くして、経史を好」んだ人物なので、「四史」(『史記』『漢書』『東観漢記』『三国志』)は勿論、『春秋』、その三伝、七家後漢書なども、当然、読んでいたでしょう。
 では、集めた「学徒」達は、范曄の何に協力したのか?『後漢書』を書くのに必要な資料集め、情報蒐集が、主眼だったと思われます。
 范曄は、地方の太守に左遷されて、その暇つぶし?に、決定版後漢史を書こうと思ったわけですが、それに、謝儼他、多くの「学徒」と称される人々が、自発的に参加した事になります。
 皇帝の文帝とはどうも肌が合わず、その弟の権力者劉義康の怒りを買った人物に、多くの協力者が、現れる。范曄の史才、文才に対する、当時の絶大な評価が、判ります。

 范曄は、当然、倭讃の使節団にも情報を、求めたでしょう。陳寿『三国志』に、史註を付けた裴松之の集めた史料の一覧を見れば、范曄の集めた史料の見当もつきます。
 家譜、伝記の類が、目につきますが、他にも、范曄は,『漢書』に習って、「十志」を悉く、備えることにしていました。当然「地理志」も入りますが、無神論者の范曄は、神秘的な要素を排した、可能な限り客観的な、情報を求めたと思われます。本紀と列伝を書き終えた時点で、謝儼を責任者とする「十志」は、一応、完成していたらしいことは判明しています。時間が残されていれば、范曄は、志や表にも、自ら手を入れたと思われますが、謀反に関与したため、逮捕され、范氏は連座して、殆ど、族誅され、謝儼は、十志を悉く廃棄し、范曄の参考にした志の内容は、不明となり、現行范曄『後漢書』の「志」「表」は、先行七家後漢書の一つ、司馬彪『続漢書』のもので、代替されていますが、七志しかありません。尚、謝儼が廃棄した筈の、范曄の志の一つ「輿服志」が、その後記録にある事から、謝儼は、十志のまとめ役ではあるが、各志それぞれは、学徒たちが、分担協力して、編纂されたと思われます。それらの学徒たちは、当然、自分の担当した部分の最終稿は、書写していたでしょう。輿服志が残ったのは、その部分の責任者の学徒が、謀反の連座の疑いを,招かない様な立場にあった為で、他の九志については、そのような幸運は、得られなかったのでしょう。

 さて、范曄は、後漢末と時代が重なる陳寿の『魏志倭人伝』は、当然、知悉しており、卑弥呼以前の男王の、安定的な統治期間(7~80年)後の倭国(大)乱の時期は、桓霊の間としています。
 で、卑弥呼以前の男王も、邪馬臺国にいるとしていますが、この部分は、中国側資料によるものか、倭讃の使節団に接触した人物を経由した当時の倭国情報の影響なのかは、不明です。
 AD57年の倭奴国について、「倭国の極南界」と記したのは、おそらく、倭人使節団経由情報でしょう。
 蜀出身で、倭関連の地域との接点も全く無い陳寿と異なり、范曄は、三国呉の名族謝氏とは姻戚で、倭人にも関心があり、東鯷人や夷洲、亶洲も、倭種の可能性を、考えていたようにも、思われます。
 『倭人字磚』の内容から、江南や安徽省沿海部の人々は、倭人や倭種の情報を、ある程度、保有していたと思われます。

 范曄のAD107年前後も、「大倭王」が存在した、という考えは,AD57年の奴国の位置情報と併せ、倭讃使節団に接触した学徒からの情報に基づいた、范曄の解釈だと思われます。また、陳寿の『魏志倭人伝』では、邪馬臺国の南に、狗奴国があり、海を渡った東にも、倭種の国があるとされていますが、范曄『後漢書倭伝』では、海の東の倭種の国が、「拘奴国」となっており、これも、倭讃使節団の倭人情報による、『魏志倭人伝』情報の訂正と思われます。石原道博氏などは、范曄の根拠のない巧妙な『魏志倭人伝』の改竄のように、解釈しておられるように、私には思えますが、陳寿のいわば、倭人に関する無関心さ、基礎的知識の欠乏、先行史書、王沈の『魏書』と魚拳の『魏略』に対する全面的依存という執筆態度を考えると、范曄の倭人に対する関心、倭人と接触した地域への知識、多くの学徒を通じての情報入手経路の多様性など、倭国に対する独自情報が、存在したことは、断言出来、『魏志倭人伝』の情報と異なる部分は、全て、范曄の「創作」などと、言える筈もありません。
 問題は、范曄の得た情報の、かなり多くの部分を占めると考えられる、倭讃使節団や倭種接触地域の倭人や倭地に関する情報が、『後漢書』の扱う時代の情報のみならず、范曄の生きた時代の情報であったり、倭讃使節団他の、倭人による、情報操作が、どの程度、范曄の記事に、反映されたのかが、識別困難な事です。

 『魏志倭人伝』で言う、卑弥呼共立で収束した「倭国乱」は、『後漢書倭伝』では、「桓霊の間、倭国大いに乱れ」と時期を特定しており、桓帝の治世の前の、7~80年間が、安定した男王の統治期間という事になり、これは,AD107年の帥升等の生口160人献上と安帝への拝謁申し出の時期を、完全に含みます。従って、范曄が、帥升を「大倭王」の使節となった倭の小国「面土国」?の王と解釈したのは、倭国大乱の時期が、正確であれば、正しい解釈という事になります。
 倭国大乱の時期その物は、他の史料、『倭人字磚』が、後漢末の「会稽曹君墓」出土で、倭人が大陸にこの時期、集団移住していたらしい状況を窺わせ、正しいと思われます。
 そうすると、AD57年後漢光武帝の倭奴国王への「王号授与」が契機となり、一気に倭人諸国の統合機運が高まり,後代の大和政権のような中央政権とは言えないにしても、倭人諸国の諸王の「盟主」としての「大倭王」が誕生した事になります。当然、倭人諸国の盟主は、後漢から王号を与えられた「倭奴国王」の子孫が、推されるでしょう。

 その「大倭王」は、奴国にではなく、邪馬臺国に、代々,居ると言うのが、范曄『後漢書』倭伝の記述だと考えられます。

 しかし、AD107年の面土国王?帥升を正使とし、他にも副使等からなる大倭王の使節は、生口160人という、前後の倭国の献上品に見られない特徴を、示しています。しかも、後漢朝廷は、使者に王侯号や率善中郎将や校尉なども与える事なく、皇帝への謁見も許されず、何らかの倭国、或いは大倭王の要望は、何も受け入れられなかったと思われます。
 
 倭国、或いは、大倭王の後漢への要望とは、一体、何だったのでしょうか?
 それは、献上品たる「生口160人」に、隠されているよ思われます。
 長くなったので、論点を整理して、次回に、検討します。

倭奴国王の叙爵の神話伝承化 石見介

2023/11/16 (Thu) 23:49:11

 11月6日投稿した、列島の倭人の記憶に残るであろう歴史的大事件を、7つ程列挙しました。何れも、無文字社会でも、神話伝説として、記憶されても不思議はないものですが、中国史書に倭国との交渉として、記述されている、④AD57年の、後漢光武帝による、倭奴国王への王号授与、⑤AD107年の倭国王?帥升等の生口160人献上と後漢安帝への拝謁申し込み、⑥AD246~247年の卑弥呼の朝貢と親魏倭王叙爵、⑦倭の五王の劉宋への朝貢の内、⑦は、府官制下で、文字使用の時代に入っており、亦,⑥の時代も、漢字使用には、かなり習熟していたと思われます。
 古代史愛好家の皆さんは、⑥の時代の卑弥呼が、神話の天照大神と考える向きが、多いように思われますが、倭人に与えた歴史的衝撃としては、前漢時代、楽浪郡に献見していた、西日本の倭人諸国100余国、会稽郡に献見していた九州中南部の東鯷人20余国の人々にとって、突然、後漢皇帝から、仲間内から、王号を授与された者が、現れた事こそ、神話に反映されるような、大事件であったと思われます。更に、朝鮮半島中南部に、この時代、広く分布していたことが確実視される倭種の国々や韓族諸部族国家の支配下に組み込まれたであろう倭種、倭系の人々、そして、彼等を支配していた扶余系や韓族支配層にも、「倭人の王」の出現は、神話にも反映されかねない、大事件であり、実際に、辰韓の慶州盆地に移住した辰韓六部の人々が形成した新羅六村の神話には、建国時の倭人の関与と、倭地出身の王家昔氏の伝承があり、昔氏の始祖王で、新羅第4代の王とされる脱解の即位年が、AD57年に、設定されています。

 この後漢光武帝の建武中元2年,AD57年の、倭奴国王の王号授与こそは、日本神話上の最大の事件、将に、倭人、東鯷人120余国の人々に、「天の声」として、王が、与えられた大事件であり、日本神話上では、「天孫降臨」神話として、遠い僻地のヤマトや、或いは、日本海航路を牛耳っていたイヅモにも、筑紫島の一隅に、突然、倭王が降臨した大事件として、記憶された事でしょう。

 ここでは、AD57年の倭奴国王の王号獲得が、日本神話の「天孫降臨」伝承のもとになった「史実」であると、解釈して、「歴史の神話化」の過程を、追います。

 当然ながら、降臨した天孫、ホノニニギの原像は、後漢光武帝に,依怙贔屓された(と他の有力倭人国家の王たちは、恨み、そねむ)倭奴国王、即ち、「奴国王」で、奴国王を贔屓して、王号を与えた後漢光武帝は、本来はムスビの神(産霊神)で、天上界高天原の創造神であったタカミムスビに、重ね合わされます。

 後漢皇帝は、「天子」であり、それに冊封された夷蛮の諸王は、「天子の子」即ち「天孫」と見做されます。 一方で、「タカミムスビ」に、『日本書紀』では、「高皇産霊」とどう読んでも「ミ」とは読めない「皇」の字を宛てて、天孫を、「皇孫」「スメミマ」と表記、訓読させています。
 で、この神は、外祖父として、孫を偏愛し、葦原中つ国の「主」にしようとした、と神話は告げます。

 かくて、天孫は、「からくに(韓国)」が見える筑紫の日向に降臨します。記紀では、律令制下の「日向国」と見做されるように、記述していますが、いくら頑張っても、宮崎県から、韓国は見えません。
 「天から降臨したので、朝鮮半島を鳥瞰出来た、というのも、無理でしょう。
 現実に,王号を授与されたのは、後代の博多湾岸の儺の津のある地域の「奴国王」だと考えられ、志賀島出土の「漢委奴国王」の金印も、これを支持します。
 ここは素直に、博多湾岸の「奴国王」に金印が与えられたのだから、天孫降臨の地は、この地域であると考えましょう。

 では、何故、「筑紫の日向の襲の高千穂の峰」と、福岡平野や海岸、港ではなく、わざわざ、「高山」に降臨したのか?
 それは、半島から日琉語族の言語を持ち込んだ、渡来系弥生人=倭人の、「山岳信仰」というか、倭人が北方の諸民族、所謂、アルタイ系のモンゴル語族、ツングース語族、朝鮮語族などとの接触・交流を通じて、獲得した「山岳信仰」、祖先が天より降臨した「聖なる山」、多くは「獣祖」で、鹿や狼ですが、その信仰が、神話に反映されたと思われます。
 獣祖は、部族、氏族単位で、種々ありますが、一般的には、チュルク語族では狼、ツングース語族と考えられる扶余族では鹿、間のモンゴル部では、有名な「蒼き(牡)狼と惨(なま)白(じろ)き牝鹿」です。
 
 北方の遊牧民鮮卑は、「鮮卑山」に、烏桓は「烏桓山」に、それぞれ拠ったので、その「種族名」となったとされますが、司馬光『資治通鑑』晋記に「扶余は鹿山に出づ」という文があり、ツングース諸語では、「鹿」を意味する語が、b*y*(n)という語形で、「扶余」は,buyoの音写と考えられる事から(*は母音を示す)、扶余はツングース語族で、「扶余山」=「鹿山」を獣祖の降臨した山として、神聖視し、種族名としたと思われます。
 尚、扶余の支族とも考えられる高句麗は、日本側の呼称「こま」が、熊の語義なので、熊を獣祖とした伝承を有したと思われますが、中国史書に見える「貊」は、東突厥のオルホン碑文では、bokの音で表記され、満州のツングース系エヴェンキ族の「鹿」を意味する語彙bogにもつながります。先の「鹿」を意味するb*y*(n)ですが、南方群の諸言語では、本来の「鹿」の語義の他に、「熊」をも意味するようにもなります。更に『,三国遺事』では、高句麗の始祖の朱蒙の母である河伯の娘と父の天神の息子は、川の傍の「熊津山」と河の間で、結ばれます。
 このような、扶余系諸族を含む東北アジアの諸種族の山岳信仰は、種族名の起源となる「山名」が、始祖の降臨地であったという神話伝承と、深く結びついています。
 列島に、日琉語族の言語を持ち込んだ「渡来系弥生人」=「倭人」については、獣祖伝承は欠きますが、「倭山」に始祖が天命によって、降臨したという「神話」は、無視出来ないものであり、いわば,identityでもあったのでしょう。聖なる山は、基本的には、地域での最高峰が望ましく、倭人が移住する先々に、諸部族が集まって祭祀する「倭山」が、設定されたと思われます。

 『三国史記』高句麗本紀に、次代王遂成の兄太祖大王宮に対する謀反謀議で、「倭山で田猟」したと言う記事が、有ります。『三国志』魏書東夷伝韓条には、「弁辰彌烏邪馬国」の国名が現れ、大伽耶山のある高霊伽耶国、記紀にいう「オホカラ」国に比定されますが、「彌烏邪馬」は、倭語で「みをやま」で、「烏」は「倭」の音通と解釈し、「御倭山」国という倭人語の国名で、大伽耶山が、半島南部の倭人倭種の「倭山」であり、且つ、弁辰部族連合の一国でもあったと言う、倭韓両種族への両屬状態を示し、将に、半島南部での日琉語族=倭種/倭人の、韓族=朝鮮語族化、言語の置換状況が、生じている移行過程が、窺えます。

 さて、海峡を渡って、九州島に移住した日琉語族=倭種/倭人は、当然この地域に、諸部族の信仰祭祀の中心となる「倭山」を、求めます。
 九州北部が居住域だった時代には、背振山地辺りから、九州中央部の火山でない山地が、まず、「倭山」に選ばれたでしょう。福島雅彦さんの「耳納」「水縄」という高天原に比定される地域は、「御倭山」、「みわ・やま」に音が類似しており、北部九州地域の「倭山」であった可能性は、高いように思われます。
 九州島から、畿内大和に移住すれば、「倭山」は、「三輪山」が選ばれたのでしょう。尚、「三輪山」と「彌烏邪馬」を、音通としたのは、私より福島さんが先で、更に、河野六郎氏もそれ以前に、指摘していたようです。但し、「倭山」の種族名との関わりや倭人の移動についての考察は、誰か先人が考察しているかも知れませんが、私の独自説だと思います。

 倭種が筑紫島全域に拡大した時点では、当然、在来系弥生人=旧縄文人の子孫の「日琉語族化」=倭人化も完了し、倭山の比定地も、南下したと思われます。
 後漢により、王号を授与された奴国の王や王族の地位は高まり、奴国自体も3世紀中葉には、2万戸の北部九州では突出した大国となり、王族も、他国の王に迎えられたと思われます。
 神武東遷や、饒速日降臨伝承は、そのような、奴国王族の移住建国の神話伝承化でしょうが、神武大王の家系の、隼人との同族伝承は、神武の家系が、奴国から、隼人、火の国(肥後?)と接する地域の国の王に迎えられた史実が、存在するのかもしれません。
 後漢光武帝による、この建武中元2年=AD57年の、倭奴国王叙爵は、奴国王家を、いわば「聖別」し、多くの倭人,倭種の人々や、その諸国の王を含む支配層に、自部族、自国の王、あるいは、部族連合の大王に、擁立推戴したいという考えをも、招いたのでしょう。そのような族長や小王の神話伝承への投影が、猿田彦や塩土翁だと思われます。

 次回は、AD107年の倭国王帥升等の後漢との交渉が、神話伝承に反映されたか否かを、検討したいと思います。
 

 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2023/11/16 (Thu) 22:35:20

 米田さん

 コメント有難うございます。
 ただ、私には、米田さんの系譜復元の方法論が、どうしても受容できないので、論点がずれて、議論が噛み合わないと思われるので、詳細な議論は、差し控えさせて戴きます。

 新良貴氏の皇別扱いと、同じく、異国の国号を背負った、百済王氏や高麗王氏の諸蕃扱いの相違を、私は、日本と新羅王家の、何らかの、歴史上の「血縁関係」を反映した結果、と捉えるのに対し、米田さんは、高麗王氏、百済王氏と日本大王家の血縁関係が、むしろ時代が、近いから、諸蕃扱いになったとされます。
 しかし、その根拠が、米田さんの「復元した系譜」が根拠では、私には、受容不可能です。
 米田さんの系譜復元手法の問題点と考える、「多夫多妻制」に対する文化人類学的な反論は、米田さんのスレに、記しましたが、もう一つの、半島や倭国の王が、自在に入れ替わり、それも王家のみならず、各国の豪族や.漢人の太守や郡使迄、入り込むような復元系譜の根拠は、明示されておらず、全て、「系図をして語らしめる」のでは、私にとっては、将に、循環論法で、米田さんの所説の理解は、全く不可能です。
 文献を引用しての、入れ替わりへの反論も、無益のように思えます(御承知の通り、『三国史記』では、新羅の建国を、高句麗や百済より、前にしています。通常、これは、嘘とされています。他に、神話学的に、反論も可能ですが、正直、米田さんには通じないように思いますので、やる気が起こりません)。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - 米田

2023/11/12 (Sun) 13:55:03

<皇別に分類された「新良貴」氏の扱いについて>

**********
Re: 神話・伝承から、歴史を考える
- 石見介 2023/11/12 (Sun) 02:05:39

私も、『新撰姓氏録』の、右京皇別に分類された「新良貴」氏の、
実際の出自は異なっており、史実である可能性は、低いと考えています。 
しかし、問題は、二つあり、

_①
「後代に天皇号を与えられた大王の、直系の子孫ではない、
初代大王の神武大王の「兄弟の子孫」が、、
「天孫」ではなく「皇別」氏族と、認定された事、
_②
「新羅」と「新良貴」という、宛てられた漢字こそ違いますが、
発音は、「しらき」であり、即ち、「新良貴」氏が,祖の姓氏として、
現実に高句麗や百済の王族出自の「高麗王」氏や「百済王」氏と同じく、
異国の国号を「氏(うぢ)名(な)」、即ち、氏族の名称とする事が、
認められている事です。

**********

:「皇別(こうべつ)」(ウィキペディアより)
:皇別とは、日本の皇室から、神武天皇以降に臣籍降下した
:分流・庶流の氏族を分類した用語。
:弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』
:で、天津神・国津神の子孫を指す神別、朝鮮半島から
:渡来した人々の子孫を指す諸蕃とともに用いられた。

※:ここで云う渡来の「諸藩」とは、7世紀の王族の中で、渡来した
_:王族の子孫を指します。
_:ですので、2世紀頃の王族の子孫は、「諸藩」には入れません。

※:日本書紀には「一書」が存在します。
_:ですから、神武天皇の兄が、(神武東征に参加していて)それが
_:「一書」の「綏靖天皇」に該当し、なおかつ、「新羅の王」で
_:あれば、皇別「新良貴」氏は、存在可能になります。
(「一書」の綏靖天皇は、不比等の先祖で、天神系になります。)



_____(新羅:逸聖王:在位期間の記述は、怪しいです。)
──男───┬─宇佐津臣命──阿達羅王(新羅:154~184)

─菟狭津媛─┘┐(↓仇鄒角干)_(↑御食津臣命)
(玉依姫)
──男────┴─神武天皇──手研耳命(伐休王:184~196)


(その1)
:新羅本記では、阿達羅王の子孫は、いないことになっています。
(その2)
:宇佐津臣命は、「一書」において、「綏靖天皇」の可能性があります。
(その3)
:「風土記」において、
:想定する大雑把な生年は、110年生。
:宇佐津臣命は、(古代豪族系図集覧によると)12世の孫です。
:(風土記:伊勢国:東洋文庫P-284より)
:伊勢の国は、天御中主尊の12世の孫の天日別が平定した所である。
:神倭磐余彦の天皇が、あの西の宮(日向)からこの東の洲(くに)
:を征討された時、云々。
(その4)
:自作の系図では、神武と宇佐津臣の兄弟関係は、不明にしていました。
:けれども、年代的には、十分に可能です。
(その5)
:新羅本記では、阿達羅王は、卑弥呼に呼ばれて、173年に、倭国に
:来ています。


(つまり:「矛盾の中に真実がある。」)
:弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』
:において、皇別「新良貴」氏が(公式に)認められたということは、
:上記のような「可能性」を、朝廷が認めたことになります。


仮説:「宇佐津臣命」は、「一書」の「綏靖天皇」である。
検証
:今のところ、これを明確に否定する証拠は、見当たりません。
:ただし、『新撰姓氏録』が「皇別」を認めた以外に、正しいとする
:証拠も見当たりません。
結論
:結論としては、不明で保留になると思います。けれども、
:このような矛盾を集めていくと、日本書紀の真実の姿に
:近づいていけそうな気がしています。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2023/11/12 (Sun) 02:05:39

 p君さん

 コメント有難うございます。
 私も、『新撰姓氏録』の、右京皇別に分類された「新良貴」氏の、実際の出自は異なっており、史実である可能性は、低いと考えています。 
 しかし、問題は、二つあり、
 ①「後代に天皇号を与えられた大王の、直系の子孫ではない、初代大王の神武大王の「兄弟の子孫」が、「天孫」ではなく、「皇別」氏族と、認定された事、
 ②「新羅」と「新良貴」という、宛てられた漢字こそ違いますが、発音は、「しらき」(濁音便で「しらぎ」)であり、即ち、「新良貴」氏が,その姓氏として、現実に高句麗や百済の王族出自の「高麗王」氏や「百済王」氏と同じく、異国の国号を「氏(うぢ)名(な)」、即ち、氏族の名称とする事が、認められている事です。
 出身国名を、氏族名にしただけ、という解釈は、高句麗や百済出自の多くの渡来系氏族の中で、高麗王氏と百済王氏のみが、国号を背負った氏族名を持ち、他は、「倭(やまと)」という、一時の日本の国号と重なる氏族名を、与えられても、高麗君、百済臣等を称することは、許されなかった事実があります。(*)

 即ち、「新良貴」氏は、「王」(こにきし)という部分を欠いていますが、逆に,諸蕃ではなく、「皇別」に分類されるという、栄誉を与えられており、これは、天孫に分類された「火明命」の子孫氏族よりも、大王家に近い分枝だと、公認されている事を示します。

 白村江の敗戦は、唐の水軍によるもので、新羅に敗れたとは、天智天皇も考えていなかったでしょう。
 現実には、新羅の半島統一政策の為、唐新羅両国の関係は、白村江戦後、必ずしも良好ではなく、それぞれの思惑から、日本への接近も、図られています。
 新良貴氏の主張が、容認された背後には、実際に、大王家の筑紫島在住中に、辰韓新羅地域の倭種/倭人の王家と、何らかの姻戚関係が存在したと言う、「史実」が、存在したと、私は、考えています。
 三韓征伐を行ったと言う伝承を持つ神功皇后自身、新羅からの渡来神~民の、アメノヒホコの子孫です。

 p君さんご提示の、新羅王南解次次雄と昔脱解を、住吉三神の名と、結び付ける着想は、私も、初めて拝見しました。
 初期朴氏と昔氏が、倭種であるならば、その名を、倭語で解釈するのは当然であり、私も、「南解」を「なか(中)」「脱解」を「たか(高、鷹)」と、以前、解釈し、確か、ヤフー掲示板で、論じたように記憶しています。
 しかし、「次々雄」の部分については、先人の仁徳天皇の諱の「大雀」の「さざき」<「ささき」の「ささ」との比較で、「スズメ」の「スズ」即ち、巫覡(次次雄は巫覡の意という)の呪具の「鈴」の事かな?という程度しか、思い付きませんでした。
 尚、脱解は、『三国遺事』では、金官国に流れ着いた時に、首露王と呪術合戦をし、その時に,「鷹」に変身し、首露王は鷲に変身しています。

 住吉三神も、外来神のように思えますが、「次々雄」を「ツツノヲ」と訓読するのは、「次」の音価が、ziではなく,diである必要があり、それがクリアできれば、可能性があると思われます。
 ただ、「昔脱解」の「昔」を「そこ(底)」と訓読したり、「脱解」の部分を、「ツツノヲ」に読みかえるのは、無理筋でしょう。

(*):桓武天皇の母族、「和(倭)史」氏。

 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える - p君

2023/11/09 (Thu) 20:39:52

石見介さん

稲氷命ですが、『新撰姓氏録』では新羅王の祖のように書かれていますが、
三国史記のタバナ国(おそらく丹波)の記事や、古事記で神功皇后が屈服した新羅王の門に住之江大神を祀るとあることから、
新羅2代目王・南解次次雄がナカツツノオと読め、その娘婿の4代目王・昔脱解が韓国語でソコタレと読めますので、
中筒男→底筒男という新羅統治者としての住吉神の華麗なリレーがあったと考えてます。
そういうわけで神武の兄の稲氷命が新羅王であることはなかろうと思われます。

ではなぜ『新撰姓氏録』では稲氷命が新羅王の祖のように書かれているのか。
私は白村江の【敗戦】がその原因だと考えてます。

天皇を戴く日本が、住吉・丹波尾張という一豪族の末裔の国に敗れた。
それはもう悔しくてならないわけです。
日本人としての自尊心がズタズタなわけです。
その自尊心を満たすには「新羅というのは神武のお兄さんの国である、だから負けたとしても悔しがることはない」という嘘で埋めるしかなかったのではないかと考えてます。

一方、勝った側の同族の海部氏などは、同族の国・新羅が勝ったという優越感から、
「勘注系図」に日女命や弟彦など、卑弥呼と男弟を思わせる系図を差し込み、
魏志に書かれた王権は我が一族にあったと言わんばかりの嘘を堂々とのたまった、などと考えてます。

倭と新羅の初代王の伝承の比較 石見介

2023/11/08 (Wed) 00:41:00

 倭国の史書で、初代大王とされる彦火火出見は、祖父と同じ諱であり、混同を避ける為、便宜的に、神武大王と表記します。ここでは、前スレの最後で、その母系の祖先(祖父、曽祖父)である海神ワタツミが、韓国語の海を意味する語彙,pataとの関連から、韓系の神格である可能性を考え、半島の正史『三国史記』で、唯一、建国に倭人の関与を明記している「新羅」の建国神話を、日本の神話と比較しつつ、隠された史実を、探ります。

 『三国史記』は、王氏高麗の12世紀中葉に成立し、高句麗、百済、新羅三国の歴史を、それぞれ、各国の「本紀」として、記述していますが、成立年代が,日本の記紀より400年以上遅れ,且つ、王氏高麗初期に、旧『三国史』が、先に撰述されていたのに、新たに勅撰史書として、旧新羅王家慶州金氏の末裔金富軾が、編纂した物であり、その経緯から、王室の王氏と慶州金氏に不都合な何かを、隠蔽抹消した可能性が、示唆されます。
 しかし、それ以前の史書は、失われ、『三国史記』編纂後1世紀近く過ぎて,僧一然の著『三国遺事』が、現れます。基本的な資料が、一部金石文と外国の史書しかないので、十分な史料批判を前提に、使用せざるを得ません。

 『三国史記』では、三国の何れの本紀にも、『日本書紀』神代紀に相当する物は無く、いきなり、各国の初代王の本紀から、始まります。その結果、始祖王=初代王の事績には、必然的に、神話伝承が紛れ込み、それが、歴史として、語られます。
 更に、金富軾は、中国の史書を良く読み込んで、天文記事なども記しており、批判能力の低い人は、安易に、日本の史書より、信頼性が高いと誤解しがちです。 
 どの国の史書も、撰述時の支配層の政治的意図とは無縁ではあり得ません。それを忘れずに、『三国史記』を、検討します。

 まず、高句麗、百済の建国神話は、扶余系で、一切、倭人/倭種は、登場しません。深読みすれば、倭種かもしれない「烏」姓の人物は、登場します。
 其れに比し、新羅本紀では、初代王の時代から、「倭人」と明記された重臣「コ(<奈瓜>)公」が登場します。12世紀中葉の王氏高麗の支配層中枢部が、新羅の建国時には、腰に瓢箪をぶら下げて、倭国から渡ってきた、という倭人の重臣コ公(<奈瓜>は瓢箪のこと)のことを、記述せざるを得ないと言う、「歴史的事実」が、存在したのです。
 このコ公は、新羅三王家の始祖とざれる、朴赫居世、昔脱解、金閼智全員と、関わりを持つ唯一の人物です。脱解も日本列島出自の倭人と推測される存在であり、半島三国中、唯一、新羅のみが、建国に際し、倭人/倭種が、深く関わっている事を示し、日本側の史書のスサノヲの新羅ソシモリへの降臨や、アメノヒホコ渡来伝承とも、相い対応して、古代の日本‣辰韓/新羅間の親密な、交流を物語っています。
 日本側の記紀が、白村江敗戦後、大量移住した百済系渡来人や、新羅を敵視した?天智天皇の影響下に、敢て、新羅との交流を矮小化して、記述したのでしょう。
 その中で、神武東征時、その兄稲氷命が、母の国に赴いた記事と、彼が新羅の王となり、その子孫が日本に渡来して、『新撰姓氏録』での、右京「皇別」新良貴氏となった伝承は、海神ワタツミが、辰韓新羅地域の、海人族の奉斎した神格であった可能性を、示していると思われます。

 さて、『三国史記』新羅本紀の初代、赫居世について、検討します。その出生~出現譚は、完全に神話です。
 古朝鮮領域からの移住者集団の、辰韓或いは新羅六部或いは六村の村長の一人「蘇伐都利」が、馬のいななきを聞いて、発見した「卵」から、生まれたのが、赫居世であり、その卵の形状が、「瓢箪」のようだったので、古語で「瓢箪」のことを、「朴」と言ったので、姓を「朴」氏とした、というものです。
 ここで、先に触れた、新羅建国時から初期の重臣である、倭人の「コ(<奈爪>)公」のことを、想起してください。彼は、腰に瓢箪をぶら下げて、倭国から来たので、「コ」=瓢箪なので、「コ公」と呼ばれたのですが、辰韓語?の古語で、「瓢箪」が、「朴」であるならば、漢語の瓢箪の語義の字<奈瓜>の、字音で呼ばれたのではなく、実際には、辰韓語古語の「朴」の音で、呼称されたはずです。
 即ち、「朴公」が,その呼称であり、朴王である赫居世と、本来は、同一人物(神格)であったと考えられます。確かに、卵生の赫居世の「卵の形状が、瓢箪様だったから、瓢箪の古語の「朴」を、姓にした」と言うのは、かなり苦しい説明です。
 尚、『三国遺事』では、赫居世が発見されたのが、「瓢岩峰」という山だとされていて、是だと、瓢箪山や瓢箪岩という地名から、「朴」姓となったと解釈できます。

 新羅六村の村長に推戴されて、13才(当然数え年)で、王となった赫居世は、やはり神秘的出生した「閼英」を、王妃とし、善政を布き、妻と共に「二聖」とたたえられ、国号を、「徐那伐」と称します。『三国遺事』など、他資料からは、「徐伐」「徐羅伐」「徐耶伐」、或いは、「斯蘿」「斯盧」とも称したとあり、他に、新羅の国号、別称とされる「始林」「鶏林」以外は、建国時からの国号、国名で有ったとされています。「始林」「鶏林」は、慶州金氏始祖の金閼智に因んだ国号とされ、閼智が、第4代王昔脱解の時に、例の倭人<奈瓜>公に、林間で発見された事に因り、国号となったので、当然、建国時には、存在しない国名です。
 建国時の国号の内、「徐〇伐」形式の国号は、「那、蘿、耶」が、連体助詞なので、語義は、「徐伐」と同じで、辰韓語の国号と、考えられます。一方、「斯蘿」「斯盧」は、「しら」「しろ」即ち、上代日本語の色彩語「白」の語義と考えられ、後の国号「始林」「鶏林」が、漢語なので、新羅の国民の種族構成は、当初は、辰韓人と倭人の混成であったことがわかります。
 
 ここで、新羅六村の村長の筆頭「蘇伐都利」、亦「蘇伐公」とも称される人物のことを、想起してください。「蘇伐」と「徐伐」とは、音通であり、実際には、赫居世は、蘇伐国の王位を養父‽から、譲られたか、辰韓の蘇伐国等の六つの小国の連合体の「王」に、共立されたという、史実の存在が、窺えます。
 慶州盆地に移住した六部の人々は、先住の在地の朴氏、或いは、倭国から渡来した倭人の朴氏を、自分達の王に推戴したのです。
 わざわざ、他民族の王を、何故、共立したのか?
 それは、「馬韓」の支配から、自立するためでした。『三国史記』新羅本紀は、赫居世が,コ公を馬韓王のもとに派遣し、独立を宣言した事を、記しています。
 『三国史記』に言う「馬韓王」とは、馬韓の王で、辰韓と弁韓をも、支配する存在で、『三国志』魏書韓条で言う「辰王」もしくは、その前身だと思われます。
 新羅は、辰韓人と倭人・倭種が連合する事に因り、馬韓系の支配者から、自立したのです。
 少なくとも、そのように新羅では、考えられており、「新羅本紀」赫居世居西干紀では、神秘的な赫居世と閼英(竜から生まれた)の誕生譚と、六部の部長達による王の推戴以外は、外敵、外国関連記事(倭人、楽浪の侵略意図が、赫居世の徳により、中止される。弁韓は、徳を慕って、自ら帰服。東沃祖は、良馬を献上)以外は、天文記事で埋められ、即位後38年に、<奈瓜>公を派遣して、馬韓王とのやり取りの中で、独立を宣言させています。他には、高句麗と百済の始祖王の即位記事を挟み、三国中、新羅が、最初に建国したと言う主張をしています。
 赫居世は、完全無欠の聖王で、その徳により、侵略は無く、外征もなく、統治が終了し、死後、第2代の南解次々雄の代になると、忽ち、外寇が始まります。
 このように、始祖王赫居世は、完全に神話上の存在ですが、何らかの歴史の反映である事は、間違いありません。

 3世紀中葉、馬韓に居り、辰韓、弁辰各12ヶ国の、半数ずつを支配していた「辰王」とは、本来、扶余系の、三韓全域の支配者で、馬韓諸国の諸首長(部族国家の王)によって,選挙される王だったと思われますが、倭人や倭種と連合した辰韓、弁辰諸国が離反し、3世紀中葉の状況に至ったと思われます。
 半島中南部には、三韓に属さない倭人,倭種の諸小国があり、九州の倭人の支援もあって、南下する扶余、馬韓勢力と、対抗したのでしょう。
 日本と新羅の史書に見られる神話には、その歴史的事象の投影が、有ると思われます。

 もう一つ、赫居世が、本來、倭種の奉じた神格であったと思われるのは、その名です。「居世」の部分の解釈は、未だ、良い考えが浮かびませんが、「赫」は、文字通り「赤々と輝く」という漢字の語義通りで、且つ、上代日本語の、火神「カグツチ」の「かぐ」であり、基底に、同源の神話を有していた可能性を、示しています。
 火神カグツチやその子神の、日神(おそらく月神も)の子孫の倭人/倭種の支配者(部族の王)は、新羅でも倭国でも、本来は、卵生(日光に感精した王女や水神=河伯や海神でもある=の娘が、孕んだ卵)だったが、倭国では南方系の洪水型兄妹始祖神話の、イザナギ(誘う男)、イザナミ(誘う女)兄妹が、加上されて、日月山海の諸神の「親神」となったのではないか?
 私の記憶では、甲元眞之氏『東夷世界の考古学』に、日本のイザナギ、イザナミ神話に似た、兄妹始祖神話が紹介されており、兄妹始祖神話がアムール川流域まで、拡がっているとされるが、これは、日琉語族が、南方から西遼河流域に持ち込んだ神話が、伝播した可能性が高い、と考えています。
 また、イザナギ、イザナミの名は、長江流域など、所謂、「照葉樹林帯」の「歌垣」に於ける、男女の掛け合いを行う風習が日本でも、存在した事実の反映でもあり、半島南部の伽耶諸国の王名との、表面的な音の類似(伊珍阿鼓王)から、イザナミが歴史上の人物と考えるのは、誤りです。勿論、華南の兄妹始祖神話や歌垣文化の神話上の存在が、伽耶地域の「神話伝承の歴史化」で、伊珍阿鼓王に投影された可能性は、あり得ます。

 神武大王とその兄弟は、或いは、九州中南部に移住したにせよ、天孫降臨自体は、筑紫、記に言う「筑紫島の四面」の一つ、「白日別」=筑紫国で行われた、と私は、考えています。何度も繰り返して、主張しているように、上代日本語表記上、漢字は、所詮、「当て字」で、語義は別途、考える必要があります。
 九州島四面の一つ、筑紫国の別名、神格名とでもいうべき名は、「シラヒワケ」で、記では「白日別」と表記しますが、当て字を変えれば、「斯蘿日別」であり、記の「肥」の国の別称「建日向日豊久士比泥別」と、「日」ヒ甲類、「別」ワケ以外は共有せず、対して、記の「豊」国の「豊日別」、「熊曽」国の「建日別」は、肥の国の別称に、含まれています。
 即ち、九州島の四面は、筑紫国=シラヒ別と、肥の国に代表される他の3面、肥、豊、熊曽三国の、神話上の相違、歴史的には、おそらく、辰韓新羅地域の倭種/倭人との、交流の相違を、反映していると思われます。

 『三国史記』で、倭国の東北1千里の地にある、「多婆那国」の出身と伝えられる、昔氏の祖脱解の出身地を、方角を無視して、肥後の玉名に宛てる説がありますが、新羅との交流を考えれば、山陰や北陸に、求めるべきで、九州中南部とは、筑紫国を介しての、交流と考えざるを得ず、神話もそれを支持しています。『三国遺事』では、龍城国,花厦国、正明国等の異説が、記され、仏説的な国名を除くと、「かか」国が残り、これは、倭国の位置比定が、九州北部の場合は、出雲国加賀郷が、倭国が畿内の場合は、北陸の加賀が、想定されます。
 脱解は、例の<奈瓜>公の屋敷を、幸運の地と見立て。詐取しますが、王位に就くと、彼を,大輔という、自身が就いていた重職に、任じます。

 実在の王家慶州金氏の祖、閼智は、<奈瓜>公に金の小箱に入った卵として発見され、それに因んで、「金氏」を称したとされますが、これは勿論虚偽で、金官国の国姓を背負った金海金氏の姻戚となった事から、金氏を称したと考えられます。
 百済の嚮導により、初めて、中国南朝に朝貢した、法興王は、「慕(募)泰(秦)」とその名を記され、実は慶州金氏の出自が、慕韓出自であったことを示し、これは、范曄『後漢書』韓伝の、辰韓諸国の王が、馬韓人だとする記述とも,合います。
 『三国史記』の、新羅初期の王統が、倭種/倭人のように思わせる記述とは、矛盾しますが、辰王時代の斯盧国は、辰王の支配に服さない辰韓半数の諸国の一つと思われるので、蘇伐公らが,倭種の王を共立する以前の、王家であり、閼智と閼英という夫婦(で、おそらく兄妹)が、建国の始祖という伝承が、馬韓からの自立時に、改変され、閼英と離婚させられ、兄妹の縁も切られたが、氏族は生き延びて、王位に復帰したのでしょう。おそらくは、高句麗の「属民」となった時に。

 『三国史記』新羅本紀の、新羅建国年は、勿論、高句麗や百済よりも、先に建国したと言う、主張の為の虚構であり、民族移動期の移住集団の建国年などは、定住して、その地の先住者(この場合は、倭種/倭人)を支配するか、何らかの妥協によって、住み分けが成立するまで、決定などできません。
 ゲルマン民族の大移動時の小部族群の例では、王制のの部族では、定住時が建国時だと見做せますが、いずれにしろ、辰韓六部のような、首長制というか、数個の氏族~支族~部族の連合体では、その地の支配体制の完成が、必要です。
 『三国志』東夷伝韓条の状況ですら、「辰韓と弁辰が雑居」と記載されている状況下で、各部族が入り乱れ、おまけに、「別邑」が存在する、という記述からは、安定的な定住状態が、3世紀中葉ですら、確保されているとは、言い難い状況です。
 半島中南部は、広く、日琉語族の地名が残り、倭種/倭人が先住者でした。
 三韓の地は、南下する韓族、扶余族、前漢の崩壊で、倭地、韓地へ流入する漢族、北方から同族のもとへ避難する倭人が、入り混じり、混沌とした状況でしたが、運よく慶州盆地に辿り着き、何とか、先住の倭人とも折り合った、新羅六村の人々は、移住の主導権を掌握する馬韓の扶余系支配者からの自立を、倭人との提携に求めましたが、その時期は、神話的始祖の朴赫居世ではなく、前漢末の混乱が終息した、後漢代初期で、その契機は、建武中元2年,,AD57年の、後漢光武帝による、倭奴国王への、王号授与であったと思われます。
 倭人に、後漢皇帝公認の王が、与えられた衝撃は、列島の倭人諸国のみならず、半島の倭人諸国や、倭種の人々、更には、倭人と雑居しているとも言える諸韓国にも、大きな衝撃を与え、その中で、慶州盆地で、比較的円滑に、倭人と折り合っていた蘇伐公ら、辰韓六部の人々は、遂に、倭種の王を擁立する、倭館連合王国の形成の道を、選択したのでしょう。
 その史実の、神話伝種化こそが、始祖王朴赫居世であり、倭国から渡来した<奈瓜>公であり、多婆那国もしくは花厦国の王子昔脱解でした。
 脱解の即位は、後漢の建武中元2年、即ち,AD57年と、『三国史記』新羅本紀は、記しています。
 この年は、まさに、後漢光武帝に、倭奴国王が朝貢し、王号を与えられた年です。

 11/21(火)編集:
 

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2023/11/06 (Mon) 23:20:11

 当世奇妙さん

 早速のコメント、有難うございます。
 最近。討論室が、その名に反して、殆ど討論や意見交換が無く、独自説の宣伝広報の場と化している感があり、私の「日本神話」スレも、その一因では?と思い、新スレに移行し、大いに意見交換し、議論したいと思った次第です。

 御下問の、神話のどの水準までを許容するかは、投稿者個々人の考えに、任せるしか、有りません。
 意見交換や議論の結果、自説に微修正でも加える心積りさえあれば、有意義だと考えています。

 私個人は、多くの方が、直接的に、神話伝承を即、史実と結びつけるのに対し、比較神話学を含む文人類学に、遺伝人類学、言語学・国語学、考古学、文献史学、西洋史などとの比較など、従来通り、全部総合して、判断する基本姿勢は、変わりません。
 ただ、その場合、民族、種族、部族、氏族などと言った、大きな集団の挙動しか、見ない事になりがちで、皆さんとの実りある議論にはならないと思われますので、今回は、SF小説や推理小説、ファンタジーの
大ファンとして、多々あるトンデモ度の高い仮説も,披露します。

 天照大神は、太陽神の形容詞で有り、男女を問わない、神格の尊称で、仮に、実在の人物を、神話化したとすれば、複数、数世代でも、問題はありません。
 同様に、「卑弥呼」も、多くの先人が説くように、「日(霊)ミコ(巫女、御子)」或いは「ヒメミコ」の語義と、考えられ、特定の個人を指した語でも、有りません。
 スサノヲについては、上記2例のような、一般化は難しいのですが、神話の検討上は、個人的な歴史上の人物の反映というよりも、辰韓、新羅地域からの列島への移住者集団の古層と解釈したほうが、良いと思われます。
 このあたりは、福島雅彦さんやp君さんとの議論の対象となると思います。

 
 個人的には、ギリシャ神話の「ヘラクレスの子らの帰還」が、先住のアケーア人の地への、ドーリア人の進出と解釈されるような、大状況として、解明できないか、模索していますが、上手くゆきません。
 歴博の弥生時代開始年代の遡及が、発表される前に、ユーラシア大陸の民族移動の時期との一致から、列島への渡来系弥生人の移住時期を、紀元前12世紀の、殷周革命から、500年以内、遅くとも、紀元前7~8世紀と主張し、ヤマが当たった成功体験も、有りますので、総合的に諸分野の知見を、組み合わせて、考える方法論は、維持します。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 当世奇妙

2023/11/06 (Mon) 20:14:42

「神話伝承に反映・包含された「歴史的事実」の摘出、復元」 大賛成です。
この場合神話はどのレベルまでを良しとして議論するかが重要と考えます。
例えばスサノオは一人の人物とするか、集団とするか、文化とするか、何かの例えとするか?
神話の語るスサノオは何か?
石見介さんの基本的考えを教えてください。

Re: 神話・伝承から、歴史を考える 石見介

2023/11/06 (Mon) 00:12:40

 『日本書紀』巻三の冒頭で、後に神武天皇とされるヒコホホデミ(祖父と同じ諱)は、東征前の一族との会議の席上で、天孫降臨以来、「179万2470余歳」が、過ぎたと述べています。
 倍暦だとしても、ヒト属がまだ,現生種サピエンスを生み出していない時代を含み、これは、紀撰述者が、紀巻一、巻二の「神代紀」部分に記した神話伝承が、「歴史ではありませんよ。ご先祖からの言い伝えですから、間違えないように。」と、親切に教えているのだと思われます。

 しかし、不遜な子孫は、その忠告を無視して、勝手に、神話、伝承を切り取って、歴史の断面として、解釈しています。私もその一人ですが、先ず、神話に反映されそうな、重要な「歴史的大事件」、ご先祖たる日琉語族、倭種・倭人の記憶に残るような、史実を挙げて、神話伝承中の、その痕跡を探りたいと思います。

 ①倭人の形成:
  これはそもそも、日本神話では、まともに語られていません。中国の女媧のように、泥をこねて、ヒトを作った、とか、一神教のように、神の似姿をかたどったとかの、話もありません。
 日本神話にあるのは、支配層が、神の子孫だと言う記事のみです。

 ②支配層の祖先としての「天津神」「国津神」或いは「天神」「地祇」、更に、「天孫」「皇孫」の、区別の歴史的な意味は、何か?
 これは、比較神話学的に、解釈すべきか、或いは、歴史的な文脈で、支配・被支配種族、部族、民族との関連で、捉えるべきか、議論になり得ますが、結論が、見えているようにも、思えます。
 
 ③日本神話で、唯一、外国もしくは異種族との交流が語られているのが、半島の、それも、辰韓・新羅地域です。スサノヲとその子孫の神々が、代表的です。
 他にも、歴史化して記紀では人代に語られ、『播磨国風土記』等で、外来神として現れる、アメノヒホコが、います。

 以上は、神話や先史時代の、歴史的大事件ですが、次に、中国の史書に記された大事件が、有ります。

 ④AD57年、後漢光武帝に、倭奴国王が、王号を与えられる。(范曄『後漢書』)

 ⑤AD107年,後漢安帝に、倭国王帥升等が、生口160人献上と皇帝への拝謁を希望。(范曄『後漢書』)

 ⑥AD246又は247年に、倭女王卑弥呼が、曹魏明帝に遣使、後、親魏倭王に叙爵される。(陳寿『三国志』)

 ⑦5世紀、中国南朝劉宋に、倭の五王が朝貢。(沈約『宋書』)

 この④〰⑦の歴史的大事件が、神話伝承化されて、史実の名残を、留めていないか?
 記紀は、明確に、中国への朝貢を否定し、一切、記述しない姿勢で、一貫しているだけに、逆に、史実が、神話化されている可能性が。高いように思われます。

 以上、ざっと思い付いた、歴史的大事件で、神話化されそうな7件中、①「倭人の形成」は、大き過ぎるテーマで、単独どころか、複数のスレッドを、必要とするものなので、基本的に、このスレッドでは、議論しないことにします。しかし、国家と言語、民族の形成は、不即不離の関係なので、他の事件の議論中に、言及されるのは、必然的で、それは、許容範囲とします。
 次に、②「天津神、国津神」或いは、「天神、地祇、天孫、皇孫」も。①とも関連し、議論が拡散しそうなので、このスレッドでは、議論しない予定ですが、なにしろ、神話その物と直結したテーマなので、ご希望があれば、議論の叩き台となる「解釈・仮説」を提示されたうえで、コメントされれば、私の考えを述べます。

 私としては、先ず、③「新羅との関連」について、前スレッドの最終回の補足も兼ねて、検討したいと考えています。

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