東アジア討論室

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スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 管理人

2024/01/02 (Tue) 10:43:26

.
ここは、スレ「(FC2)のロビー・談話室07」の続きのスレです。
レスが50を超えたので、新しいスレを立ち上げました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/03/21 (Thu) 23:26:08


│勇者ロト(HN)さんのHPで、『播磨国風土記』の考察が、
│為されていますが、何故か、リンクできませんでした。
│姫路で大学の同窓会があった時に、会って歓談しました。
│銘菓「桜小径』だったかのHPとリンクして、
│確か「古代出雲王国の謎」というHPだったように思います。


https://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/rotomain.htm

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/index.shtml

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/21 (Thu) 22:44:24


│「邪馬台国」に拘るのであれば、ヤマトを「拘奴国」に
│してしまえばよいものを・・・。(そうすれば、)
│(周防・宇佐・日田辺りを邪馬台国にできたのに。)
│前方後方墳の地域を「狗奴国」にするのは、無理があると思った。


:周防・宇佐・日田辺りを「邪馬台国」と考えた理由を考えてみました。
:「天女(姉)」と「天女の妹」の母親は、豊秋狭太媛と考えました。
:「豊秋狭太媛」の名前から考えると、
:「豊(豊国)」と「秋(安芸の国)」を治めている媛と考えました。
:(「狭太」の地名・地域は、不明です。)

:何らかの理由で、「天女(姉)」から「天女の妹」の方に、
:「天照大神」の「祭祀権」が、移ったように見えます。

:このように見てくると、「絚某姉・絚某弟」の父親が、消されて
:いますが、(この父親こそ)本当の「孝安天皇」だったはずです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/19 (Tue) 19:49:39


│「古代史ミステッリー」の宣伝で、早速、見ました。
│どうも完全に、邪馬台国近畿説の立場で、編集されて
│いるようで、私には、特に違和感はありませんでしたが、
│当世奇妙さんからは、ブーイングがありそうだ、と
│感じました。

テレビは、見ました。(番組を見た時の印象を書きます。)
(録画はしていますが、そちらは、まだ見ていません。)

福永先生が、テレビに出ていました。
講演の時に、TVの話も出るのではないかと期待しています。

番組の感想は、
そろそろ、古代史は、「邪馬台国・狗奴国・拘奴国」の呪縛から、
解放(ときはな)されても良いのではないか。

「邪馬台国」に拘るのであれば、ヤマトを「拘奴国」にしてしまえば
よいものを・・・。
(そうすれば、周防・宇佐・日田辺りを邪馬台国にできたのに。)
前方後方墳の地域を「狗奴国」にするのは、無理があると思った。

学生時代に流行っていた「理論武装」みたいな番組の構成で、
(私としては)あまり面白くはなかった。です。

毎日新聞のコラムに書かれていた、
「~正邪を測る象徴とされたが、古代中国では鏡だった。‥。伝説の
_鏡を高く掲げるという「秦鏡高懸」は公正な裁判を意味する成語だ。」

鏡の話を聞きたくなってきました。

掲載図は、下記
「古代葛城とヤマト政権」(学生社:2003年)より

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 石見介

2024/03/17 (Sun) 23:02:03

大河ドラマを、うんざりしながら観る(というより「聴く」という言葉の方が正しい)べく、スイッチを入れ、「古代史ミステッリー」の宣伝で、早速、見ました。
 どうも完全に、邪馬台国近畿説の立場で、編集されているようで、私には、特に違和感はありませんでしたが、当世奇妙さんからは、ブーイングがありそうだ、と感じました。

 酸素同位体比を利用した名大の中塚武氏の年代測定法、年輪中セルロースの酸素のSI比の精度が、何処まで信頼できるかで、箸墓の築造年代等の推定の精度も、決まるように思われます。
 同じ測定法での、追試者が出ないと、そのあたりの判断が出来ません。

 大河ドラマは、史実と無関係な恋愛物としての、視聴率稼ぎの方向のようですが。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/03/17 (Sun) 08:26:19

.
古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る

初回放送日: 2024年3月17日 (NHK)
午後9:00〜午後9:50

私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!
古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。
謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?
発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。
人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。
「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?
最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?
未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!
日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く!

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/15 (Fri) 08:31:54

「三角縁神獣鏡」を「権威の象徴」とすると、
「三角縁神獣鏡」を配ることが出来る媒体(政権)は、
その「権威」の「代行者」になると思われます。

「鏡の存在」→(鏡自体は)「君臨すれど、統治せず」


:「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」(ウィキペディアより)

:三種の神器(さんしゅのしんき、他の読み方もある)は、
:日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)が
:ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、
:すなわち八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉の総称。
:また、これと同一とされる、日本の歴代天皇が古代より
:レガリアとして伝世してきた三種類の宝物を指す。
:概要
:天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに
:鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しで
:あるとされ、皇位継承と同時に継承される。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/13 (Wed) 22:36:51

「葦原の中つ国」の王権の成立に
_ついての考察(妄想)

:記紀が、神代で主張していることは、
:各地の支配者(あるいは、各部族の族長)は、自分たちの
:アイテム(鏡・剣・勾玉など)を(首長に)ささげることで、
:部族連合の形で、「日本国」は、成立したと、宣言しています。
:と、私は解釈しています。

:これは、楽浪郡(や、扶余・倭・半島南部のバランス)の
:権威のもとで、部族連合が成立していると考えます。
:楽浪郡(後漢)の承認こそが、王権の支えだったと思います。

:公孫氏の台頭で、(後漢・魏の時代)楽浪郡は独自の権威を失った。
:親公孫氏派、反公孫氏派など、倭の国内もバラバラになった。
:(いちおう、反公孫氏派・親魏の卑弥呼でまとまった。)
:(問題は、「独身の卑弥呼」の後の後継者問題・争いだった。)

:ポスト卑弥呼(&楽浪郡、後漢・西晋の崩壊)において、
:倭国は、巨大な軍事権力・権威の後ろ盾を失った。

:はじめ、魏の権威を利用しようとしたが、難升米が死んでしまった。
:台与でまとまったと思ったら、魏という国が滅んでいた。

:それでも、何とか「楽浪郡」の権威を利用して、倭国をまとめようと
:したが、313年、「楽浪郡・帯方郡」も、消滅した。

:各部族内での族長争いを含めた後継者争い、
:倭国統一に向けた、倭国の支配者の権力争い(権威争い)が、
:3世紀から4世紀まで、続いた。

:「三角縁神獣鏡」の配布や、「前方後円墳」の造墓をみると、
:「ポスト卑弥呼」の政権は、内部での争いを含みながら、
:(全国的には)それなりに機能していたように見えます。


「日本の古墳はなぜ巨大なのか」(2020年より)
「古代の鏡と東アジア」(2011年)より

(図は、抜粋したあと、見やすく編集しています。)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 石見介

2024/03/13 (Wed) 18:48:32

 私は、『播磨国風土記』のアシハラノシコヲとアメノヒホコの子の話を読んだ時に、三宅連の祖で、新羅王子とされるアメノヒホコが、実際には、神話上の存在で、『筑前国風土記』怡土郡条の伊都県主の祖先伝承と併せ、神格と考えた方が良いという、結論に至りました。
 問題は、アメノヒホコを、新羅に天降ったスサノヲのような存在と考えるか、それとも『筑前国風土記』の「高麗」を、「高句麗」と考えて、高句麗に、あまくだったとかんがえるべきか?で、現在は、高句麗の「倭山」に天下った露いう神話だろう、という考えに、傾いています。
 
 勇者ロト(HN)さんのHPで、『播磨国風土記』の考察が、為されていますが、何故か、リンクできませんでした。姫路で大学の同窓会があった時に、会って歓談しました。銘菓「桜小径』だったかのHPとリンクして、確か「古代出雲王国の謎」というHPだったように思います。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/12 (Tue) 21:30:37


│(「播磨国風土記」)宍禾郡比治里 奪谷条
│葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合ったので、
│「奪谷(うばいだに)」と称されるという。

│『伊和神社(いわじんじゃ)』(ウィキペディアより)
│伊和神社は、兵庫県宍粟市一宮町須行名にある神社。
│式内社(名神大社)、播磨国一宮。

│祭神・主祭神・大己貴神。『播磨国風土記』の記載では、
│播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命は同神とみなせる。


:風土記の出来事は、250年頃(265年頃)の話だろうと考えています。
:私は、「天日槍命」=「塞曹掾史張政」と考えています。そして、
:「伊和大神」=「葦原志許乎命」=「出雲醜大臣命(物部氏)」と、
:考えています。

:風土記を読んで感じることは、「天日槍命」と「葦原志許乎命」は、
:(各々)支配地を確定しながら、西から畿内に向かって歩いて
:いるということです。
:つまり、この二人は、(おそらくは、難升米が死んだために、)
:西(「半島」または「九州」)から、畿内を支配するために
:(正当な後継者として)畿内にやって来ていると、読めます。
:やって来たのか、帰って来たのか。
:私は、(二人とも)帰って来たと読みたいです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/12 (Tue) 21:00:25

(その2)

「古代の鏡と東アジア」(2011年)より

(図は、見やすく編集しています。)


今は、この図を読むだけで、手一杯です。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/12 (Tue) 20:56:34

(その1)

│結局、これら「紀年銘鏡」を含む
│「三角縁神獣鏡」が、卑弥呼が魏から
│下賜された「銅鏡」100枚+αの一部と
│考えれば、埋葬時まで、「伝世」された
│伝世鏡という事になります。


私も、そのように考えていました。

福永先生の考えは、違ったようです。

「古代の鏡と東アジア」(2011年)より

(図は、見やすく編集しています。)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 石見介

2024/03/12 (Tue) 00:05:10

 米田さん
 3世紀中葉の倭国女王卑弥呼の時代の年号を記す「紀年銘鏡」が、基本的に、「三角縁神獣鏡」で、且つ、出土する古墳群の年代が、1世紀近く後の時代(*)に、築造されたと考えられる、という事実のご確認、ご苦労様です。

 結局、これら「紀年銘鏡」を含む「三角縁神獣鏡」が、卑弥呼が魏から下賜された「銅鏡」100枚+αの一部と考えれば、埋葬時まで、「伝世」された伝世鏡という事になります。
 しかし、森浩一氏のように、考古遺物としては、残存率が高すぎる、という考えもあり、国産鏡で、古墳築造時期とそう(*)時代の変わらない時期のものだと言う考えにも、十分な根拠が、有りそうに思えます。

 私は、それで以前、三角縁神獣鏡は、国産で、邪馬台国「後継勢力」間の「副葬品」として製造され、流通したものだ、という仮説を、出しました。
 原型として、中国から下賜された紀年銘鏡(*)が、存在した可能性は、あり得る、という立場ですが、大和政権が、鏡作り部の前身集団に製作(*)させた可能性が高く、邪馬台国位置論では、邪馬台国近畿説か、九州説では、大和へ東遷したと言う説の支持材料になる、という判断です。

 ただ、この場合、魏の敵国呉の年号を持つ紀年銘鏡の存在の解釈が、問題になります。
 同范鏡の分布などからは、配布~流通の中心が、畿内である事は、間違いないでしょうが。

 編集:令和6年3月3月12日23時、
 誤打鍵、誤変換を、訂正しました。
 (*)で示しています。
 申し訳ありませんでした。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/10 (Sun) 23:12:21

.

※:年表とか表の形にすると、「三国志時代の鏡」は、
_:「4世紀」とか「4世紀後半頃」に、
_:埋葬されていることに気が付きました。


「和泉黄金塚古墳(いずみこがねづかこふん)」(ウィキペディアより)

和泉黄金塚古墳は、大阪府和泉市上代町(うえだいちょう)にある古墳。
形状は前方後円墳。

形状:前方後円墳
規模:墳丘長約94m
出土品:銅鏡、革製漆塗盾、勾玉、鉄鏃など
築造時期:古墳時代前期末(4世紀後半頃)←←←←「4世紀後半頃」
史跡:国の史跡「和泉黄金塚古墳」


「神原神社古墳」(ネット:「しまね観光ナビ」より)

赤川左岸に隣接する微高地に築かれた一辺30~35mの方墳である。

埋葬施設としては板状の割石を小口積(こぐちづ)みにした
全長6mの竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)があり、その内部に
長さ5mの細長い割竹形木管(わりだけがたもっかん)を置く。

副葬品には石室より三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
素環頭大刀、木装大刀、鉄鏃、鍬(くわ)、鎌、斧、ノミ、錐、鉈
(なた)状鉄器、縫針、鉄剣が発見されている。なかでも注目される
のは、鏡に「景初三年陳是作……」の文字が鋳出されている点である。
この「景初(けいしょ)三年(238)」は邪馬台国(やまたいこく)の
女王卑弥呼(ひみこ)が中国の魏(ぎ)王から青銅鏡百枚を下賜された
年であり、その中の1枚である可能性も考えられる。
しかし、墳頂や石室付近から発見されている埋葬儀礼に
使用された土器の時期は1世紀も後の4世紀に下がる。←←←「4世紀」

このように、土の古墳は出雲地方の古墳文化成立を知る上で重要であり、
また、多量の鉄製品はこの地域の鉄生産との関連で注目されている。


「蟹沢古墳出土品(かにさわこふんしゅつどひん)」「e国宝」より

蟹沢古墳は群馬県高崎市柴崎町に所在していた古墳時代前期、すなわち
4世紀ころの古墳で、墳形は円墳と考えられている。←←「4世紀頃」
内部主体は粘土槨と推定されているが、詳細な出土状況は未詳である。
出土品は、銅鏡4面、短冊形鉄斧2個、鉄鑿1本、鉄製刀剣一括、
土師器片9個である。中でも三角縁四神四獣鏡は同向式と呼ばれる
もので、内区の外側に時計回りで「□始元年陳是作鏡…」という銘文が
巡る。
同じ鋳型を用いて鋳造された鏡として、
山口県新南陽市竹島古墳、
兵庫県豊岡市森尾古墳のものがあり、
これらの鏡の銘文解読から中国三国時代の魏の年号である正始元年
(西暦240年)であることが判明した。『魏志倭人伝』によると、‥‥。


「竹島御家老屋敷古墳(読み:たけしまごかろうやしきこふん)」
(「コトバンク」より)

現在は陸続きですが、徳山湾に浮かぶ竹島[たけしま]にある
前方後円墳[ぜんぽうこうえんふん]です。
石室[せきしつ]の中からは、三角縁神獣鏡]をはじめとした
4枚の銅鏡[どうきょう]と鉄製の武器などが見つかっています。


「鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)」
(ウィキペディアより)

鳥居原狐塚古墳(鳥居原古墳)は、山梨県市川三郷町大塚にある古墳。
形状は円墳。市川三郷町指定史跡に指定され(指定名称は
「狐塚古墳」)、出土神獣鏡は国の重要文化財に指定されている。
赤鳥元年(238年)銘神獣鏡の出土で知られる。

形状:円墳
規模:直径18m(推定)__高さ:3m
埋葬施設:竪穴式石室
出土品:赤烏元年銘神獣鏡・倣製内行花文鏡・鉄刀・陶磁片ほか


「安倉高塚古墳(あくらたかつかこふん)」(ウィキペディアより)

安倉高塚古墳は、兵庫県宝塚市安倉南にある古墳。形状は円墳。宝塚市
指定史跡に指定され、出土品は兵庫県指定重要文化財に指定されている。

形状:円墳
規模:直径17m__高さ2.7m
埋葬施設:竪穴式石室(内部に割竹形木棺?)
出土品:銅鏡・玉類・鉄製品
築造時期:4世紀後半←←←←←←←←←←←←←「4世紀後半」
史跡:宝塚市指定史跡「安倉高塚古墳」 

※:年表は、「古代の鏡と東アジア」より

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/03/09 (Sat) 13:14:32

(FB談話室からの転載です。)

岡嶋 隆司
2日·2024年03月06日(水) 21:09
手前味噌ですがシェア致します。


岡山県古代吉備文化財センター
2023年9月6日 ·
【高尾宮ノ前遺跡の現地説明会を開催します!】
現在古代吉備文化財センターが発掘調査を行っている
津山市高尾宮ノ前遺跡について、9月23日(土曜日)に
現地説明会を開催します。今回の調査では新たに
古墳1基が見つかったほか、同じころに営まれた
集落が見つかっています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/03/09 (Sat) 13:07:10

(FB談話室からの転載です。)

岡嶋 隆司
2日·2024年03月06日(水) 21:09
手前味噌ですがシェア致します。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/03/09 (Sat) 13:05:39

(FB談話室からの転載です。)

岡嶋 隆司 
2日·2024年03月06日(水) 21:04

先月25日に開催された津山市「高尾宮ノ前遺跡」の
現地説明会資料が届きましたのでUPします。
昨年9月23日開催の第一回目の資料も合せてUPします。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/08 (Fri) 23:12:37

<「卑弥呼を継いだ男王」>
『ヤマト政権成立期における畿内の地域関係
-卑弥呼を継いだ「男王」をめぐって-』
■講 師 : 福永 伸哉先生(大阪大学)

│■講師の言葉
│3世紀半ばに成立したヤマト政権は、列島各地から
│見れば畿内地域を拠点とする確固とした中央政権と
│して映ったであろう。しかし、その畿内地域の内部に
│一歩分け入ってみれば、そこでは大和盆地、
│大和川流域、淀川流域の各地域勢力の微妙な合従連衡の関係が展開して
│いたことが、近年の考古学調査からうかがえるようになってきた。
│今回は、ヤマト政権成立期において畿内内部に「主流派」「非主流派」
│が生まれ、それが政権主導勢力の交替を含む古墳時代政治変動の
│遠因となった可能性を示すとともに、
│これと関連付けて『魏志』倭人伝に登場するもののほとんど
│研究対象となっていない「卑弥呼を継いだ男王」の実態についても、
│一つの仮説を披露してみたい。


:「古事記」・「風土記」や「三国史記」を読むと、ポスト卑弥呼の
:時代に、後継者争い(跡目争い)の痕跡が見られます。

:「三国史記」では、倭の将軍が、于老角干を殺して、于老の子ども
:(おそらく、女児)を連れて帰っています。
:昔于老は新羅「于老角干」、高句麗(于漱)「国相明臨於漱」だろう。
:「国相明臨於漱」の没年は、254年頃ですので、
:次の「国相尚婁」が、于老を殺した、「倭の将軍」になるだろう。
:そして、「倭の将軍」が連れて帰った、「女児」が
:「倭迹迹日百襲姫命」ではないだろうか。

:「風土記(播磨国風土記)」を読むと、「葦原志許乎命・天日槍命」と
:「伊和大神・天日槍命」の2種類が登場してきます。

:私には、「葦原志許乎命」=「伊和大神」=「臣知人命」に見えます。

※:『古代豪族系図集覧』P-340、「伊香具(いかご)」

─伊賀津臣命──臣知人命──角弖命──古加斐命(崇神朝奉伊香具神)

:(風土記逸文)より  次女の名は、奈是理比売、
:これは、伊香連(いかごのむらじ)の先祖である。

*****************************
「纒向編年(まきむくへんねん)」(ウィキペディアより)
:纒向編年とは、日本の奈良県桜井市に所在する纒向遺跡において、
:発掘調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所石野博信と、
:豊岡卓之による纒向遺跡出土の弥生土器・土師器を分類・整理して
:得られた編年である。1類から5類に区分される。

暦年代____纒向編年_土器出土遺構_対応する土器型式

180年-210年_纒向1類_北溝北部下層_弥生V様式末
210年-250年_纒向2類_辻地区土坑2_庄内I式(庄内古式)
250年-270年_纒向3類_南溝南部___庄内II式(庄内新式)
270年-290年_纒向4類_辻地区土坑4_庄内III式(新新式)布留0式
290年-350年_纒向5類_辻地区土坑4_布留Ⅰ式

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 当世奇妙

2024/03/05 (Tue) 19:30:19

米田さん
村上先生のセンターのクラウドファンデイングのアップありがとうございます。
先生は世界の鉄使用の始まりが隕鉄にあることを当会で講演されました。今のトルコ地域です。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/03/05 (Tue) 15:36:05

(FB談話室からの転載です。)

東アジアの古代文化を考える会 「新談話室」

藤盛 紀明 · 1日 · · 2024年03月04日(月) 13:43
愛媛大学の村上先生から以下のメールをいただきました。

藤盛紀明様
平素より愛媛大学アジア古代産業考古学研究センターの活動には
ご理解いただき誠に有り難く存じます。
先にお話申し上げましたように、クラウドファンディングで人類が
手にした最古の鉄器、隕鉄製鉄器の復元に取り組むこととなりました。
私の研究テーマの一つですが、コロナ禍のために 
研究費を準備したうえで取り組むことが困難となり、
また復元品を多くの方々にみていただきたいと考え、
クラウドファンディングで挑戦する運びとなりました。

3月7日あるいは8日にはクラウドファンディング会社である
READYFORのホームページで2ヶ月間告知されます。
藤盛様はもちろんのこと、東アジアの古代を考える会の会員の皆様には
鉄の歴史に関心のある方がたくさんいらっしゃることを存じております。
ぜひこの情報を共有いただき、
ご支援を賜ることができましたら幸甚です。
何卒よろしくお願いしもうしあげます。

愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター
センター長  村上恭通
プロジェクトタイトル :「人類・鉄創世記
―宇宙の賜物・隕鉄を素材とする、原始鍛冶の復活へ―」

ページURL : https://readyfor.jp/projects/meteorite 
https://www.facebook.com/AICEhimeUniversity

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/03/01 (Fri) 16:50:16


│箸墓古墳の築造時期は、240年~260年と
│いうことで、絞り込まれてきたように思います。

:風土記によると、孝霊天皇は、(おそらく)253年に、
:(日本書紀でいうところの)天皇として、統治していた。

:倭迹迹日百襲姫命は、孝霊天皇の娘である。
:卑弥呼は、240年代には、老齢である。
:(ゆえに)卑弥呼は、倭迹迹日百襲姫命ではない。

(その1):箸墓古墳の築造時期は、240年~260年である。
(その2):「倭迹迹*姫命」に該当する「姫」は、3人います。
(その3):箸墓古墳の主は、「倭迹迹*姫命」である。
(その4):「倭迹迹日百襲姫命」は、300年頃まで存命である。
(その5):「倭迹迹姫命」は、孝霊天皇の孫であるから、若いです。
(結論)_:箸墓の主「倭迹迹*姫命」は「倭迹迹日稚屋姫命」である。

:(以上のことから、)考えられることを書きます。
:253年に、孝霊天皇は、「倭迹迹日稚屋姫命」を立てて、
:国を治めようとした。しかし、何らかの理由
(出産時の母子死亡/娘婿の反乱(殉死)/病死/・・・)で、
:「倭迹迹日稚屋姫命」が、亡くなった(ため、墓を築造した)。
:そして、「台与=倭迹迹日百襲姫命」を女王に立てた。
:253年に、13歳の台与を立てて王にしたとすると、
:「台与=倭迹迹日百襲姫命」の生年は、241年になります。

:私は、
:「台与=倭迹迹日百襲姫命=欝色謎命」の生年を、
:240年±5年、と考えています。
(別案)
:265年に、台与が13歳だったとすると、253年生になります。
:その場合、「台与」=「倭迹迹姫命」の可能性もあります。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/03/01 (Fri) 09:04:19

本来ならば、きちんと、(出典付きで)
抜粋しなければいけないのですが、・・・。

(図は、抜粋・加工しています。)

箸墓古墳の築造時期は、240年~260年と
いうことで、絞り込まれてきたように思います。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/02/28 (Wed) 09:58:40

(3月の講演会の予習です。)

予習といっても、図書館で、
検索して、本を借りて来たところです。
勉強は、これからです。

*****
『ヤマト政権成立期における畿内の地域関係
-卑弥呼を継いだ「男王」をめぐって-』

⇒会場講演+オンライン(ZOOM)同時配信
■日 時 : 3 月 31 日(日)14 時~16 時半 終了予定
■講 師 : 福永 伸哉先生(大阪大学)
■会 場 : 北とぴあ 1602 号室(王子駅すぐ)

■講師の言葉
3 世紀半ばに成立したヤマト政権は、列島各地から見れば畿内地域を
拠点とする確固とした中央政権として映ったであろう。しかし、
その畿内地域の内部に一歩分け入ってみれば、そこでは大和盆地、
大和川流域、淀川流域の各地域勢力の微妙な合従連衡の関係が展開して
いたことが、近年の考古学調査からうかがえるようになってきた。
今回は、ヤマト政権成立期において畿内内部に「主流派」「非主流派」
が生まれ、それが政権主導勢力の交替を含む古墳時代政治変動の
遠因となった可能性を示すとともに、
これと関連付けて『魏志』倭人伝に登場するもののほとんど
研究対象となっていない「卑弥呼を継いだ男王」の実態についても、
一つの仮説を披露してみたい。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/02/28 (Wed) 09:52:00

(FB談話室からの転載です。)

藤盛 紀明 · 3時間 ·2024年02月26日(月) 18:04

昨日の邪馬台国の会の安本先生の後半(本論)は非常興味深かった。
パスカル的方法とヒルベルトの方法の比較・違いの話である。
話は中途半端で終わったが
「安本先生はヒルベルト式に
_先ずは仮説を立てて検証・立証を進めているとのこと。
_その結果矛盾がなければ一つの答えとして検討してみるとのこと」。

「」の中はもう一度安本先生の資料を見直してみたい。
討論室での石見介さんや米田さんの議論は
安本的発想で見直してみたいと思った。

**********************


│安本先生はヒルベルト式に先ずは仮説を立てて
│検証・立証を進めているとのこと。


<ヒルベルトの方法>
「ダフィット・ヒルベルト」(ウィキペディアより)
:彼の公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画は
:ヒルベルト・プログラムと呼ばれる。その他
:ヒルベルト空間、ヒルベルトの零点定理などに名前が残っている。

<パスカル的方法>
「ブレーズ・パスカル」(ウィキペディアより)
パスカルは、自身が実験物理学者としての側面を持っているから
ということもあるが、個別の事物事象、個別的な事例への観察から
帰納的な思弁を行う哲学者であり、その結果、
「パスカルの賭け」などを含めて実存主義的な思索を残した。
そして、完全に明晰な真理とされるものをも懐疑し続けた。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/02/20 (Tue) 09:12:26

.
(参考年表)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/02/20 (Tue) 09:08:52

「前1200年のカタストロフ」
(ウィキペディアより)

前1200年のカタストロフとは、
地中海東部を席巻した大規模な社会変動のこと。

この社会変動の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた
鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより
青銅器時代は終焉を迎え鉄器時代が始まった。

そしてその原因は諸説あるが、
この社会変動の発生により、分裂と経済衰退が
東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出した。


紀元前1200年ごろ、環東地中海を席巻する大規模な社会変動が発生した。
現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は
古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を
襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については
結論を得ていない。

気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、
農産物が確保できなくなったとする説、
エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接に関連していたが、
ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退したとする説
などが存在する。
地震によって崩壊したとする説は環東地中海全体の崩壊ではなく、
特定の国にのみ考えられており、少なくともミケーネ時代の
ティリンスではドイツ考古学研究所 (en) の調査によれば
激しい地震活動が発生したことが確認されている。

この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば

ヒッタイトの崩壊
エジプトにおける海の民の襲撃
ギリシャのミケーネ文明の崩壊

以上の3項目に分けることができる。
また、このカタストロフを切っ掛けに
東地中海に鉄が広がることになる。


暗黒の時代と復興
地中海東部を襲う暗黒の影と製鉄技術の拡散
前1200年のカタストロフを迎えた環地中海地帯は低迷期を迎える。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/02/20 (Tue) 09:06:52


(FB談話室からの転載です。)

諸岡 かおり · 1日 ·
·2024年02月18日(日) 14:15


番組のお知らせ

フロンティア 古代文明 同時崩壊のミステリー
[NHK BS] 2024年02月21日
午後9:00 ~ 午後10:00 (1時間0分)

今から3千年前、
今のギリシャやトルコにあった
文明が次々と崩壊していった。
陥れたのは「海の民」と呼ばれる謎の集団。
どこから来たのか、目的は何なのかも分からない。

出演者ほか
【語り】蒼井優

詳細
そこで世界中の研究者たちは、古代DNA解析など最新の技術を
利用して遺跡や出土物を再調査。
彼らの真の姿に迫ろうとしている。
すると海の民が着ていたものには統一感がなく、
出身地がバラバラであることが分かってきた。
さらに見えてきたのは当時の環境。干ばつや大地震、疫病が
頻発していたという。
最終的に研究者たちが打ち立てた仮説とは?

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/02/19 (Mon) 11:02:35

.
(FB談話室からの転載です。)

諸岡 かおり ·2時間
·2024年02月19日(月) 08:48

実は、スキャンでA4サイズに収まらなくて苦労しました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/02/19 (Mon) 11:01:03

.
(FB談話室からの転載です。)

諸岡 かおり · 19時間
·2024年02月18日(日) 15:34
長鳴鳥の神話 記事img001~005の順にお読みください


藤盛 紀明 ·14時間
·2024年02月18日(日) 20:27
面白い!!


Naoko Urushibara ·14時間
·2024年02月18日(日) 20:03
読みました

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/02/07 (Wed) 21:59:24

<補足:シンメトリックで、何が分かるか。>

│記年論:2005/11/17(木) _←(発表された某掲示板での日付)
│(「16/YXRFBRM」氏が発見したシンメトリック論・第一)
│孝霊紀から壬申紀までのは、
│「133/60/68/99/121」/「121/99/68/60/133」(合計962年=481年×2)
│と区切れて面白い。←(切れ目は、仲哀天皇の即位年とその前年。)


:見ての通り、草稿段階の日本書紀は、孝霊天皇から弘文天皇までです。
:これは、何を意味しているかを、考察してみます、と。

:シンメトリック・第三で考察したように、
:孝霊天皇元年は、251年。干支は辛未です。
:弘文天皇元年は、672年。干支は壬申です。(壬申の乱です。)

:つまり、壬申の乱の後に出来た「天武天皇政権」は、
:新しい国が出来たと、宣言しているのです。そこから想像すると、
:卑弥呼の後に、「新生・倭国(ヤマト朝廷)」が出来た。
:ところが、「壬申の乱」でその国(倭国)は、終わってしまった。
:だから、自分たちは、新しい国「日本」を作りました。
:だから、滅んだ国(倭国)の歴史を(自分たちが)まとめました。
:これが、孝霊天皇から弘文天皇までの意味なのです。

:ところが、現存の「日本書紀」は(神武天皇から)天武天皇・持統天皇
:までの歴史をまとめています。これは、
:神武天皇の即位によって、(倭国ではなく)日本国が誕生した、という
:お話になっているのです。
:これが、(大きな)編集方針の変更だろうと、私は考えています。

:この編集方針の違いが、何を意味しているのかは分かりませんが、
:こちらの方が、日本国を一つにまとめるには、良かったのだろうと
:思います。(持統天皇の意思・遺言のように見えます。)

:壬申の乱に勝った側が、歴史を勝手に作り替えた。は、
:一面では正しいとは思いますが、複数の血を受け継いだ
:持統天皇・文武天皇としては、国内を安定化させることが
:一番大切だったのではないかと思います。

:以上、シンメトリックから、(日本書紀の成立を)考えてみました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/02/07 (Wed) 17:19:02


│Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」
│ - 石見介 2024/02/06 (Tue) 02:08:27

│ 米田喜彦さん


※:シンメトリック論については、説明する必要はないと
_:皆さんの理解力を(私は)過信していたようです。
_:考えてみると、今まで一度も詳しく説明を
_:してこなかったのかも知れません。
_:反省するべきは、(説明してこなかった)私のようでした。


│記年論:2005/11/17(木) _←(発表された某掲示板での日付)
│(「16/YXRFBRM」氏が発見したシンメトリック論・第一)
│孝霊紀から壬申紀までのは、
│「133/60/68/99/121」/「121/99/68/60/133」(合計962年=481年×2)
│と区切れて面白い。←(切れ目は、仲哀天皇の即位年とその前年。)


│marishi氏による、「37倍数論」。←(シンメトリック論・第二)
│「16/YXRFBRM」氏の発表直後に発表されています。

神武天皇:在位076年(空位2年)
綏靖天皇:在位033年
安寧天皇:在位038年_______合計185年=37×5
懿徳天皇:在位035年(空位1年)
孝昭天皇:在位083年
孝安天皇:在位102年_______合計185年=37×5

孝霊天皇~成務天皇(空位1年)→→→481年=37年×13
仲哀天皇~顕宗天皇→→→→→→→→296年=37年×8┐
仁賢天皇~弘文天皇→→→→→→→→185年=37年×5┘計13

(PS:シンメトリック論・第三は、米田の60年水増し論です。)


│古代の大王や豪族の系譜復元は、歴史の解明、解釈には、避けて
│通れない作業ですが、資料不足の為、極めて困難な問題です。
│シンメトリック理論は、おそらく紀の初期天皇記の担当者が、
│どの国の史書でもあり得る建国時期の遡及操作を命じられ、
│半ば遊び心で、行ったものだと思われます。
│紀本文限定で、一書群や記は、別です。


>シンメトリック理論は、おそらく紀の初期天皇記の担当者が、
>どの国の史書でもあり得る建国時期の遡及操作を命じられ

:シンメトリック論・第一は、孝霊天皇紀を起点にしています。
:ですので、日本書紀編纂の初期は、孝霊天皇紀から、日本書紀の
:記述が始められる予定であったことが分かります。

>どの国の史書でもあり得る建国時期の遡及操作を命じられ、
>半ば遊び心で、行ったものだと思われます。

:日本書紀が、神武天皇紀から始めるように、編集方針の変更があった
:ようです。この時、「シンメトリック論・第二」が発動されます。

:神武天皇から孝安天皇までを追加したときに、これを二つに分けて、
:「37×5=185年」ずつにしています。
:よく見たら、「仲哀天皇~顕宗天皇」と「仁賢天皇~弘文天皇」の
:在位年数の和は、「296年=37年×8」と「185年=37年×5」に
:なっています。
:つまり、神武天皇から孝安天皇を追加した時に、今度は「37の倍数」
:を在位年数(の和)の中に仕込んでいるのです。
:シンメトリック・第一と第二を日本書紀に仕組んだ人物が同一人物か
:どうかは分かりませんが、二重に、シンメトリックを仕込んだ人物は
:相当、算術に詳しい官人だったと思われます。


>半ば遊び心で、行ったものだと思われます。
>紀、本文限定で、一書群や記は、別です。

:図表のように、一書群は、神代の時代のものだけです。
:シンメトリックが、(最初)孝霊天皇から始まっていたことを
:見れば、「神代&初期6代」が後に、追加で作られたことが
:分かります。 古事記も、シンメトリックの仕込まれた日本書紀に
:(天皇の名前・順番などを)合わせる形で、(紀と齟齬がないように)
:(気を使いながら、最終的に)作られたことは明白です。

**********************
(2015年に書いた拙文の、考察より)

日本書紀・記年法(シンメトリック論)から分かること。

始点_は、孝霊天皇です。BC290年‥
(推定)AD251年‥(差)540年(60×9)__(期間:481年間)
折返しは、仲哀天皇です。AD192年‥
(推定)AD372年‥(差)180年(60×3)__(期間:481年間)
終点_は、弘文天皇です。AD672年‥(推定)AD672年‥(差)0年


日本書紀は、真実の記述とは、かなり違うものです。
日本書紀には、大きく3回(あるいは、三つの期間において)
ウソが混ざっていると、私(米田)は、考えます。

それは、編さん方針の変更といいますか、分裂のようなものを感じます。
三つの期間とは、
(その1):編さん前・編さん初期(天武10年:681年)
(その2):編さんの頓挫・分裂期(700年から712年にかけて)
(その3):日本書紀完成(720年)後に、誰かが、改ざんした。

日本書紀の編さん初期には、次の3人が大きく関わっていたと思います。

①:「安倍宿奈麻呂(阿倍氏の氏上:720年没)」
_:日本書紀の記年の枠組みは、この人が作ったと思われます。算術に
_:優れ、藤原仲麻呂に算術を教授したという、逸話が残っています。

②:「藤原不比等(720年没)」
_:日本書紀のエピソードや系図について、物部氏や中臣氏のエピソード
_:が多く使われているのは、この人の影響だろうと思います。

③:「山田史御方(沙門となって新羅で学問した)」(人物・系図不明)
_:日本書紀の中に、仏教や中国の古典などの引用が多く使われて
_:います。編さんに、この人も大きく関わっていたと思います。

※:日本書紀は、上記の中の二人が720年に亡くなったのを確認してから
_:(つまり3人とも亡くなってから)完成させた、と考えられます。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/02/06 (Tue) 22:22:44

.
.
【2 月講演会のご案内】
『縄文時代から弥生時代における土偶と石棒
_ー東日本系儀礼の西遷ー』

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/02/06 (Tue) 22:19:49

(FB談話室からの転載です。)

藤盛 紀明
· 19時間 ·2024年02月03日(土) 19:43
【2 月講演会のご案内】
⇒ 会場講演+オンライン(ZOOM)同時配信
『縄文時代から弥生時代における土偶と石棒ー東日本系儀礼の西遷ー』
■日 時 : 2 月 3 日(土) 14 時~16 時半 終了予定
■講 師 : 寺前 直人先生(駒沢大学)
今日の寺前先生の講演は縄文・弥生移行期の話として大変興味深かった。
最後の質疑で、九州文化は一気にキナイに来たのでなく、
数代を経て、吉備などから来たと話されたと記憶しているが。
この説は大変重要と思った。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/02/06 (Tue) 06:54:25


│Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」
│ - 石見介 2024/02/02 (Fri) 22:53:52

│日本の古代の渡来人は、米田さんの系譜を受容出来ない私としては、
│朝鮮語族化の進無半島の残存日琉語族系住民の難民化、同じ言語圏への
│移住が主で、古墳時代の東アジアからの移住も、鮮卑系北朝の圧力から
│の難民が、安定的に王統を維持する日本へ移住した、と考えています。


今度の話は、下記の部分です。

│古墳時代の東アジアからの移住も、鮮卑系北朝の圧力から
│の難民が、安定的に王統を維持する日本へ移住した、と考えています。


*****
「馮弘(ふう こう)」(ウィキペディアより)
:馮 弘(? - 438年)は、五胡十六国時代の北燕の第3代天王。
:南朝宋へ入朝し、燕王に封ぜられた(435年 - 436年)。
:北魏の攻撃を受けて国は滅び、436年(太興6年)に高句麗に亡命した。

:考証
:八王の乱以来、東晋を経て劉宋に至るまで大規模な人口移動が発生した。
:数十万人から百万人と推算される中国人の移住は集団的なものであり、
:華北の戦乱と異民族支配から脱するためのものだった。
:大量の移住を誘発した華北の混乱は北魏の華北統一、
:東魏と西魏の分裂、北周の再統一で一段落するが、
:この時期に多くの中国人が遼河を越えて高句麗に入国した。
:前燕は苻堅の前秦により敗亡するが、この過程で前燕から慕容評が
:高句麗に亡命した。
:385年以前と推定される幽州・冀州の流民の高句麗流入も、
:前秦と後燕の闘争の混乱のなかで高句麗に流入したとみられる。
:また、北燕の馮丕と馮弘が首都の和龍城民を率いて高句麗に亡命した
:ことも注目される。
:高句麗が中国系移民を必要とした理由は、五胡十六国の動乱は(云々)。
:劉宋、柔然、夏、北燕、北涼、氐、吐谷渾は北魏の侵攻を受け、
:巨大な被害を被るが、高句麗は東アジア諸国・諸民族が巻き込まれた
:中国の対立と距離を置くことができた。

:国境を接する華北の安定が高句麗政権安定の礎となった意義は大きく、
:この役割に中国系移民が寄与した。また、華北の動乱による
:中国系移民の流入は、高句麗に新文化をもたらし、高句麗の国政整備
:及び軍備拡張による国家発展に巨大な役割を果たした。

*****
「龍城(りゅうじょう)」(ウィキペディアより)
:龍城(りゅうじょう)は遼寧省西部(遼西)の朝陽市双塔区に
:所在した前燕、後燕、北燕(あわせて三燕という)の都城。

:十六国の混乱のなか遼西、遼東方面に覇を唱えた東部鮮卑の慕容皝は
:337年に燕王を自称したが、(云々)。華北雄飛の根拠地とした。
:(省略)
:370年に前秦の苻堅に滅ぼされる。(←:ここ、注目です。)
:383年には淝水の戦いで敗れた前秦が崩壊するなかで後燕を樹立した
:慕容垂は華北の中山を都とし、龍城を陪都とした。
:397年に北魏の攻勢に押された後燕王慕容宝は龍城に逃げ帰り、
:以後は遼西に留まる。
:407年に後燕を簒奪した北燕も龍城を都城とし、
:436年に北魏に滅ぼされるまで変らなかった。

:この地域の鮮卑系文化は黄金文化や騎馬文化など朝鮮半島や
:日本列島の古代文化に大きな影響を与えた。この地域の墳墓から
:出土した器物と同様のものが日本の墳墓からも出土している。

*****
「馮 跋(ふう ばつ)」(ウィキペディアより)
:馮 跋(ふう ばつ)は、五胡十六国時代の北燕の第2代天王。
:漢族出身の後燕の将軍であったが、慕容熙を殺害して高句麗出身の
:慕容雲(高雲)を擁立し、北燕を立てた。慕容雲が近臣に殺された後、
:馮跋が北燕の天王の位についた。南朝宋へ入朝した。

************************
※:『風土記』より
・垂仁天皇 陸奥国  
垂仁天皇27年戌午=358年    垂仁天皇 元年=332年

・応神天皇 伊豆国  
応神天皇5年(甲午)=394年  応神天皇 元年=390年

『新羅本記』より:(373年)
:百済の禿山城主が300人を率いて来降した。
『百済本記』より:(373年)
:禿山城主が、300人を率いて新羅に走った。←:仲哀天皇のことか。
『日本書紀』より:(373年)
:仲哀天皇紀2年:従駕した二三の卿大夫と官人数百とで、軽行した。

(応神天皇20年):(409年)
:倭漢直の祖の阿知使主が、その仲間17県をひきいて、来朝した。

『高句麗本記』_:(409年)
:国の東部に禿山城(未詳)など6城を築城し、
:平壌の住民を移住させた。(高句麗)王は南方を巡察した。

『風土記』_より
:筑紫の風土記にいう。肥後の国、閼宗(あそ)の県。
:県の坤(こん:西南)方20余里に一つの禿山がある。
:閼宗(あそ)の岳という。

**********************


│古墳時代の東アジアからの移住も、鮮卑系北朝の圧力から
│の難民が、安定的に王統を維持する日本へ移住した、と考えています。


:ここまで読んできたら、
:高句麗に流入したのは、中国系移民の流入になります。
:そして、その「中国系移民」を、倭国に移住させたのは、
:高句麗王なのか、それとも、応神天皇・仁徳天皇なのか、です。

:ここで、思い浮かぶのは、「垂仁天皇99年の翌年」の記事です。
:まず、「垂仁天皇99年の翌年」は、辛未で、371年に相当します。
:田道間守は、常世の国から帰ってきます。
:この「常世の国」とは、「龍城」のことではないだろうか。です。
:(つまり、田道間守は、倭国からの人質だったのではないか、です。)

:話(討論)の中心は、「倭国への移民の中心」は、
:「鮮卑系北朝の圧力からの難民」なのか、それとも、
:「華北の戦乱と異民族支配から脱する(大量の)中国人の移住」
:だったのか、という問題です。
:(ちなみに、徒民政策では、移住の3年間は、課税されなかった。)
:(仁徳天皇の国見での「民の煙」の話は、徒民政策のことだろう。)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/02/06 (Tue) 05:20:40


│『古代豪族系譜集覧』自体は、二次的、三次的資料になり、その中の
│個々の豪族の「氏族系譜」などが、まず、批判の対象になります。


:その通りです。(異論はありません。)
:ただし、
:日本書紀(天皇制)も、史料(資料)批判の対象ですよね。

:そして、「続日本紀」は、一次資料でよろしいですね。


│:「米田さんの系譜を受容出来ない」は、
│:(2)の独自解釈に対しての言葉とすると、(独自の第一歩ですが)
│:ここまでを受容できるか・受容できないか。(1)と(2)
│:(どこまでなら、受容できるか‥‥)それをお伺いしたいところです。


:仁徳天皇は、5世紀前半の人間である。&
:仁徳天皇陵の主は、仁徳天皇の可能性が高い。
:「続日本紀」が1次資料であるならば、検証として成り立つでしょう。

(1次資料)
「続日本紀」→→→→→→→仁徳天皇は、5世紀前半の人間である。
______(「系図集」)
______(2次資料)


Q:
:「仁徳天皇は、5世紀前半の人間である」を、認めますか?
:「仁徳天皇陵の主は、仁徳天皇の可能性が高い。」を認めますか?
:(たとえ、正確な没年が、解明・検証出来なくても、です。)

:私の意見は、概算で、OKならば、その歴史を認めませんか?です。
:だって、天皇制が無い時代に、天皇を名乗らせていること自体
:ウソなのですから。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 石見介

2024/02/06 (Tue) 02:08:27

 米田喜彦さん

  詳細なご説明、大変、有り難く感じました。
 その上で、私の、特に古代豪族の系譜に関する考えを、述べさせて戴きます。

 先ず、宝賀寿男氏らの労作である、再建された古代豪族の系譜そのものについて、資料批判の観点から、「個々の氏族」単位、「その氏族内の個々の家系単位」「当該人物の系譜上の位置付け」それぞれ、個別的に検討し、その上で、氏族系譜の全体像を、再構成する、というのが、正しい方法論ではないか?というのが、私の考えです。
 その観点からすると、大王家を含めた古代豪族の全氏族の、相互関係まで含む全体像の、「再構」は、極めて野心的で、その作業に挑まれて、それなりの成果を出された宝賀氏らのお仕事には、敬意を表しますが、『古代豪族系譜集覧』自体は、二次的、三次的資料になり、その中の個々の豪族の「氏族系譜」などが、まず、批判の対象になります。
 この点については、何度か触れたので、私としては、米田さんが、私が「その1」を、議論の前提にしていない事は、当然、ご承知のことと、思っていました。

 その上で、米田さんの系譜復元について、「基本的に」ハードルが高すぎて、「受容できない」と、申し上げていたのです。
 その意味についても、私なりに、説明は何度か、したつもりでした。
 時々、触れているように、私は、日本古代史に本格的に興味を持つ様になったのは、大学卒業時の昭和43年頃で、古田武彦氏『邪馬台国はなかった』ガ、ベストセラーになってからです。
 それまでは、日本民族や日本語の起源・形成、欧州のゲルマン民族の大移動とその後の国家形成、日本中世の源平盛衰、戦国時代が、興味の対象で、その関連で、中世や戦国の武家系譜や欧州のゲルマン系国家の王家の系図などにも、関心を持っていました。
 日本の平安時代中期以降は、豊富に公家や寺社の資料が存在し、同時に、寺社の縁起物や家格上昇を目論み、系譜を偽造する偽家系図も、横行していた時代です。
 早くからキリスト教が浸透し、一夫一妻制が支配者にまで浸透し、ゲルマンの部族国家が滅亡しても、教会や修道院に、滅亡した王家の記録が、残されている欧州と、一夫多妻制の支配者で、寺社や諸家が、競って古代大王家や支配者に、系譜や開基の淵源を求める偽造古文書、偽造系譜の横行する日本の中近世。
 しかし、豊富な公家の日記や寺社家の記録で、真偽も判定しやすい、という感覚も得られました。

 古代史に興味を持つ様になってから、先ず気付いたのが、当然ながら、古代史では資料不足で、系譜を含む史料群の「裏が取れない」つまり、記録を残した当事者以外の他者の「証言」が無く、事実か否かが、判断出来ない事でした。
 それを補うには、関連他分野からの情報を正しく評価して、判断するほかはない。
 そこで、私の日本古代史へのスタンスが、決まりました。
 従って、大王家を含む古代豪族の紀年や系譜に関しての判断、真偽の評価についても、当然ながら、文献からのみの評価ではなく、遺伝人類学、文化人類学、言語学、考古学、他国史との比較など、関連が直接的に想定されないような分野の知見も、系譜や実年代の判断に、影響します。
 まあ、この部分は、いわば「心証」の形成、という部分になり、なんとなく、真偽判定に影響する、明示的でない部分とも言えます。

 私もそれなりの系図マニアなので、中世史以降の系図の直接的な判定基準があり、それ自体は、米田さんの古代豪族等の系譜復元の方法論の多くと、矛盾しません。
 例えば①夫婦同一呼称などは、勝幡織田家の信秀の娘が、同族の岩倉織田家に嫁した時に、系譜上「岩倉殿」と記されており、一方、夫の岩倉織田家当主は、当然、当時の資料では、「岩倉殿」として、現れます。
 日本中世史では、古代の「氏の時代」から、「家の時代」に移行し、家付き娘の権利、権力が上昇します。また、武家政権下での女子の相続権も認められ、「女地頭」も誕生します。
 これらの中世以降の現象の一部は、古代にも遡及して存在し得た、と私は、考えますが、古代の「氏の時代」と中世以降の「家の時代」の相違は、過渡期を除き、厳然と存在した、と私は、考えています。
 米田さんの系譜復元への疑問点の一つは、どうも中世以降の家の時代の系譜と、古代の「氏の時代」の系譜の区別が無く、全て、「家の時代」の論理で作業されているように,思われる事です。

 米田さんの系譜復元方法中で、どうしてもついて行けないのは、以前から述べているように、「国境の壁」「氏族の壁」「男女の壁」を乗り越えた復元です。
 欧州では、同一人が、離れた2カ国以上の王や領主を勤める例は存在しますが、日本の場合と異なり、それを可能にする条件が、整っています。
 史書に、女王も明記しているのに、系譜復元で、史書の男王を、女王にしてしまうのは、どうしても納得できません。

 更に、やはり史書に無く、文化人類学でもまれな、一妻多夫や多夫多妻制の受容も不可能です。

 個々の系譜復元については、中世史での系図との比較から、「近縁の同族内の同一名の同時期の存在」(いとこ同士の新田義兼と足利義兼、同時期の3人の松平家忠など)や、通称(仮名や官途)の世襲(織田弾正忠や松平次郎三郎の世襲)の古代での事例は、排除できるのか?という疑問があります。
 前にも書きましたが、「葛城皇子、葛城王」などは,記紀に16人存在したそうです。
 日本古代での「忌み名」は、中国の「諱」とは、同義ではなく、容易に失われる可能性があります。

 古代でも、同一呼称の大王と王族が存在した場合、王族の子孫氏族は、大王の子孫に系譜を繋げたい欲求にかられるでしょう。

 古代の大王や豪族の系譜復元は、歴史の解明、解釈には、避けて通れない作業ですが、資料不足の為、極めて困難な問題です。
 シンメトリック理論は、おそらく紀の初期天皇記の担当者が、どの国の史書でもあり得る建国時期の遡及操作を命じられ、半ば遊び心で、行ったものだと思われます。紀本文限定で、一書群や記は、別です。

 尚、今回ご提示の百済系氏族の系譜については、真偽は不明で、その言い分は、国に認められた、という事が結論になります。
 白か黒か、全て結論が得られることなど、古代史ではあり得ない事だと、観念するしかありません。

 

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/02/05 (Mon) 20:23:44

**********************

:ここからは(2)の独自の解釈についてです。 

:(米田)独自の系図の考え方。男性の享年を75歳と考えます。
:貴須王の没年は、384年。享年75歳として、310年生。
:かぞえの21歳で、子どもが生まれたとすると、孫は350年生。
:親が21歳の時に、太阿郎王が生まれたとすると、370年生。ですが、

:辰孫王が384年に、生きているとしたら、0歳から35歳くらいです。

: 384年の時点で、辰孫王が0歳から35歳くらい、と考えると、
:太阿郎王の生年は、380年頃生から404年生の間になります。


_(近仇首王)(在位:385年~392年)
─百済王貴須王────辰斯王──辰孫王(智宗王)─太阿郎王
(在位:375年~384年)______(応神朝来朝)(仁徳天皇近侍)
____________________↑
_________384年の時点で、0歳から35歳。


:細かい話は抜きにして、仁徳天皇の時代は、5世紀前半になります。
(ほかの天皇との兼ね合いは抜きにしています。)
:ということを、『続日本紀』で、桓武天皇は認めているのです。

:つまり、桓武天皇は、(百済王貴須王の子孫に対して)
:「応神天皇即位AD270年、在位41年(~310年)」が、
:うそであることを認めているのです。
:そして、(百済王貴須王の子孫に対して)「○○朝臣」という姓と、
:「従三位」などという高い「くらい」を授けているのです。
:少なくとも、ここまでは分かります。

:ここまでは、(2)の独自解釈の第一歩です。

:「米田さんの系譜を受容出来ない」は、
:(2)の独自解釈に対しての言葉とすると、(独自の第一歩ですが)
:ここまでを受容できるか・受容できないか。(1)と(2)
:(どこまでなら、受容できるか‥‥)それをお伺いしたいところです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/02/05 (Mon) 19:55:49


│Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」
│ - 石見介 2024/02/02 (Fri) 22:53:52

│日本の古代の渡来人は、
│米田さんの系譜を受容出来ない私としては、
│朝鮮語族化の進無半島の残存日琉語族系住民の
│難民化、同じ言語圏への移住が主で、
│古墳時代の東アジアからの移住も、鮮卑系北朝の圧力から
│の難民が、安定的に王統を維持する日本へ移住した、と考えています。


:「米田さんの系譜を受容出来ない」には、二つの意味があります。
(1)宝賀先生をはじめとする、系図研究の成果を認めるかどうか。
(2)系図集をもとに、米田が独自解釈した系図を認めるかどうか。

:「米田さんの系譜を受容出来ない」は、(2)の独自解釈に対しての
:言葉とすると、それは、見解の相違として、受け入れます。が、

:私が受け取った印象では、(1)に近いような気がしています。
:(1)を否定(受容出来ないと)されると、話が進みません。
:ですので、(仁徳天皇の年代に関わる問題として)
:「続日本紀」に書いてある話をしたいと思います。

:『続日本紀』《延暦九年(790年)七月辛巳》に、
:次のような記述があります。
:まずは、読んでいただきましょう。(下記は、そのうえでの話です。)

・応神天皇は、云々。国主の貴須王は、孫の辰孫王を派遣して云々。
・仁徳天皇は、辰孫王の長男「太阿郎王」を近侍とされました。
・敏達天皇は詔して、「汝らは云々。このことは、それぞれ
_国史や家伝に詳しく書き留めておくように」ともいわれました。


:この記述を系図(年表としても良いのですが)にすると、
:下図のようになります。

_(近仇首王)(在位:385年~392年)
─百済王貴須王─────辰斯王──辰孫王(智宗王)─太阿郎王
(在位:375年~384年)______(応神朝来朝)(仁徳天皇近侍)



:ここで、大本営発表としての、日本書紀の即位(在位)年を書きます。

応神天皇即位AD270年、在位41年(~310年)
AD311年・312年(空位)
仁徳天皇即位AD313年、在位87年(~399年)


:もう一度、『続日本紀』のおさらい(確認)をします。

・百済王貴須王の孫(辰孫王)の来朝は、375年~384年の間である事。
・百済王貴須王のひ孫である太阿郎王は、仁徳天皇に近侍していること。
・太阿郎王のひ孫である「王辰爾」は、敏達天皇の朝廷(572~585)
・東や西の史(ふひと)は、国史や家伝に書き留めることが出来た。

・以上のことを、延暦9年(790年)に桓武天皇は、訴えを認めた。
・菅野真道は、「菅野朝臣」という姓を賜った。

・(古代豪族系図集覧によると)菅野真道は、常陸守従三位、享年74歳。
・ちなみに、桓武天皇の母は、(百済武寧王の子孫)高野新笠です。
・高野新笠(生年不詳 - 延暦8年12月28日(790年1月17日))は、
_光仁天皇の宮人、後に夫人。
・そうすると、高野新笠死亡による、百済系の影響力低下のどさくさで、
_または、何らかの理由で、駆け込みによる姓の変更をしています。
・ちなみに、「従三位」ですが、高麗王族の子孫「高麗福信」は、
_天平勝宝2年(750年)「高麗朝臣」の姓を賜り、従三位・非参議。

・これは、百済王貴須王の子孫というだけで、大出世ということに
_なります。(子孫云々のほかにも理由はありそうですが・・・。)

**********************

:以上、ここまでは、(2)の独自の解釈(系図の変更・復元作業)は、
:していないつもりです。

:ですので、以上の事柄については、受容して頂けると思っています。
:ここから先は、少し、私の考察が入ります。

:百済王貴須王のひ孫である太阿郎王は、5世紀前半の活躍が考え
:られます。ですので、仁徳天皇に近侍している時期は、5世紀前半と
:考えられます。
:ちなみに、宝賀先生の考える「仁徳天皇」の時代は、知りませんが、
:先生は、2倍暦を主張しています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 石見介

2024/02/02 (Fri) 22:53:52

米田喜彦さん

 古代、中世、近代と、現代の、移民、難民問題の、決定的な相違は、現代が、情報化社会であり、瞬時に移民・難民の出身地を含む、世界各地域の情報が、原則的に、移民・難民側と受け入れ国側~移住先地域の住民に、伝播する事にあります。
 例外的に、「強権国家」と称される一群の国家では、強い情報統制により、そのような情報の遮断が、存在しますが、多くの場合、移民・難問の送り出し国家となっています。
 一部の強権国家が、意図的に、反対者を難民化させて、いわば「棄民」として、送り出している現状もあります。

 近現代の移民でも、情報化社会以前の移民・難民と、以後の移民・難民とは、移住の動機や移住後の同化についても、大きく相違し、一概には、論じられません。

 「徙民政策」は、特に、遊牧民出自の支配者を持つ国家では、通常の政策と言えるものですが、USSRの得意技でした。ロシア帝国が、モンゴル帝国の一枝デアル、キプチャック汗国の継承国家の一つであり、正式に、ジュチ・ウルスの分裂国家の汗位を継承している事実ウィ考えれば、遊牧国家流の手法の多用も、納得できますが。

 ハワイの日本移民は、ハワイ王国時代、日本の援助を期待して、アメリカの圧力を避けて、独立を維持しようとした王家の思惑もありました。
 明治天皇と会見したハワイ王が、出迎えた皇族小松宮(東伏見宮)を姪の婿に迎えようとして,明治天皇に断られた話は、有名です。顧問のアメリカ人が王の行動を監視していたのですが。
 ハワイ王国を実効支配していたアメリカ人は、南北戦争後の黒人奴隷廃止を受けて、その代わりの労働力として、日本人を受け入れましたが、その側面は、米本国でも同じでした。

 日本の古代の渡来人は、米田さんの系譜を受容出来ない私としては、朝鮮語族化の進無半島の残存日琉語族系住民の難民化、同じ言語圏への移住が主で、古墳字Φの東アジアからの移住も、鮮卑系北朝の圧力からの難民が、安定的に王統を維持する日本へ移住した、と考えています。
 どうも、弥生時代に渡来した人々も、移住自体は、在来縄文系の海人族や在来系弥生人のコントロール下で、移住しているように思われます。弥生時代に入っても、木材伐採用の石斧は、従来の石斧が使用されてうる、という考古学者の指摘が、有ります。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/02/02 (Fri) 16:19:48


│『縄文時代から弥生時代における土偶と石棒ー東日本系儀礼の西遷ー』
│⇒会場講演+オンライン(ZOOM)同時配信
│■日 時 : 2 月 3 日(土)14 時~16 時半 終了予定
│■講 師 : 寺前 直人先生(駒沢大学)
│■会 場 : としま区民センター601/602 号室(池袋駅徒歩5分) └

「石棒(せきぼう)」(ウィキペディアより)
:石棒(せきぼう)は、縄文時代の磨製石器の一つである。

:最大の石棒は長野県佐久穂町にある北沢大石棒で、
:長さは223cm、直径は25cmである。

:概要
:○○を模した石製品としては、千葉県大網白里市升形遺跡出土の
:旧石器時代後期(約24000年前)のものまで遡れる。
:いわゆる大型石棒は、縄文時代中期に中部高地で出現したと考えられ、
:その後近畿地方以東を中心に広がったと考えられる。
:ただし、岐阜県の塩屋金清神社遺跡や島遺跡など、いくつかの
:石棒製作遺跡が東日本を中心に確認されている一方で、
:西日本でも兵庫県見蔵岡遺跡や京都府上里遺跡などの
:石棒製作遺跡が確認されている。
:これは決して東日本で製作された製品を西日本の人間が手にした
:だけではなく、1つの祭祀形態として受容していたことを示している。


│③小形石棒類の変遷
│・縄文時代早期末に関東地方で登場、前期後葉に東北地方北部
│・縄文時代中期・・・大形品の盛行に反比例し、低調
│・縄文時代後期・・・東日本中心に増加。西日本へ拡大
│・縄文時代晩期・・・最盛期

※:届いたレジメを読んでも、地名や時間軸などあまり頭に入っては
_:来ませんでしたが、なんとか、あしたの予習にはなったかな、
_:というところです。

※:旧石器時代後期(約24000年前)のもの(文化)が、
_:(或る意味)現代にも、つながっていることを考えると、
_:なかなか興味のあるところです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/01/31 (Wed) 11:52:41


│Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」
│ - 石見介 2024/01/29 (Mon) 22:58:06

│移民、難民の問題は、古代から現代まで常に、継続する難問であり、
│移民、難民側と、彼らの移住先の地域の国民、住民双方の、「論理」
│「利害」の対立が当然予想され、牧歌的なというか、理想主義的な、
│「博愛主義」による、いわゆる「人道主義」的対応では、
│結果的に、受け入れ国側に、大きな負担があります。

│ざっくり言って、移民、難民側が、移住先の国や地域の文化や伝統に、
│「同化」するのであれば、それなりに歓迎されますが、(云々。)


「ハワイにおける日本人移民」(ウィキペディアより)
:ハワイにおける日本人移民(ハワイにおけるにほんじんいみん)とは、
:1868年以降、労働者として日本からハワイ王国(1893年-1897年
:ハワイ共和国、1898年のハワイ併合後はアメリカ合衆国ハワイ準州)へ
:移住していった人びとを指す。
:1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民、
:以降1908年までの移民を自由移民と呼称する。


「移民」(ウィキペディアより)
:移民統合と多文化主義の問題
:異郷の地において同郷の者たちが一つの地区に居住することによって
:コミュニティが形成される場合もある。日系人による日本人街
:・リトルトーキョーや中国人による中華街(チャイナタウン)、
:朝鮮半島(主に韓国)出身者によるコリア・タウンなどがある。
:これらは数ブロック程度の「一区画」であることが多いが、
:規模が大きくなって村や市がまるごと移民によるコミュニティになって
:いる場合も、しばしばある。例えば、ボリビアにおけるサンフアン・
:デ・ヤパカニ市は集団移民した日本人が作り上げた市である。

:日本における移民_(「日系人」も参照)
:7~8世紀、倭国/日本国は蝦夷支配と開拓を目的に
:陸奥国・出羽国、越国に強制的な移民政策を行った。



│移民、難民の問題は、古代から現代まで常に、継続する難問であり、


│「帝国主義」(ウィキペディアより)
│帝国主義(ていこくしゅぎ)またはインペリアリズムとは、
│一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して、
│政治的・経済的・軍事的に他国や他民族を侵略・支配・抑圧し、
│強大な国家をつくろうとする運動・思想・政策。


│「植民地主義(しょくみんちしゅぎ)」
│植民地主義とは、国境外の領域を植民地として獲得し支配する
│政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す。
│大航海時代から20世紀後半にかけては強国が盛んに植民地を獲得し、
│たがいに覇を競っていた。


:(テレビを見ていて)ロシア・アラブ諸国・韓国・英国などでの
:(現代の)出稼ぎ労働者の現状を見ていると、(使い捨ての)安い
:労働力としてしか見ていない、社会の構造があるように感じます。
:これは、「植民地主義」が廃れている中で、「帝国主義(自国優先)」
:的な感覚が、根強く残っている感じを受けます。

:ハワイ・ブラジルなどの「日本人移民」の現地への在地化には、
:100年単位の時間が掛かっています。

:日本への「他国民の移住」の「在地化」にも、100年、200年の
:時間が掛かると思います。
:単なる「出稼ぎ労働者の受け入れ」ではなく、
:「移住者の受け入れ」であるならば、100年、200年掛ければ
:(彼らを含めた)新しい「日本国」が出来ると思います。



│「徒民政策」(ネットより)
│徒民政策とは 中国、三国~五胡十六国に見られる政策で、支配地の
│民を政策的に他地区へ移動、移民させて支配しやすくする政策。

:応神天皇・仁徳天皇の時代の、大量の移民は、
:仁徳天皇(慕容佐=大伴佐彦)を「後燕」の皇帝「高雲」の息子と
:考えると、(この大量の移民は、)「徒民政策」によるものである、
:と、考えられます。

:彼らが、(日本に)移住・定住して、(おそらく仏教を中心にして)
:新旧混在の住民が(794年頃まで掛かって)どのように、日本という
:統一国家を作り上げたのか、または統一国家が出来上がったのか、

:歴史に興味関心を持つ人間として、
:こんな視点で、歴史を見て(調べて)みたいな、と思っています。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 石見介

2024/01/29 (Mon) 22:58:06

 移民、難民の問題は、古代から現代まで常に、継続する難問であり、移民、難民側と、彼らの移住先の地域の国民、住民双方の、「論理」「利害」の対立が当然予想され、牧歌的なというか、理想主義的な、「博愛主義」による、いわゆる「人道主義」的対応では、結果的に、受け入れ国側に、大きな負担がぁぁります。
 ざっくり言って、移民、難民側が、移住先の国や地域の文化や伝統に、「同化」するのであれば、それなりに歓迎されますが、現実には、特に難民の場合、本国での宗教や文化の異質性が、難民化の原因である事が多く、その異質性が、移住先の国、地域でも、異質であれば、同じ問題が、移住先で再燃、再現され、社会不安やテロの温床になりかねません。
 その為、私は、移民については、受け容れ国が、求めている条件で、マッチングをチェックできるので、ある程度、許容可能ですが、「難民」については、同化可能性のチェックが、必要だと考えています。

 戦前の大日本帝国の統治下にあり、所謂、「同文同種」と称される地域の出身者とその子孫たる在日コリアンや在日台湾人の同化も、成功しているとは言えません。情報化社会で、出身国からの働きかけも強化され、同化を阻止する力として、作用しています。
 彼らの組織化する団体も、それら出身国側の働きかけで、「同化を拒む論理」を教育し、組織の一部役員の利益の為に、その論理(歴史的事実と虚偽の複合物)を、次世代へと継承させています。
 これに、日本の旧態依然のメディアや政治的集団が、加担する。
 結果、同化せずに,首領様や反日種族主義に帰依する第三世代以降も、少数民族化してしまう。

 迂遠なようでも、人口問題の解決には、日本の政治を含めた解決策を、捜す他ない、と私は、考えています。
 東京一極集中は、第二次世界大戦中の戦時体制強化が、未だに持続していると言う、日本の政治の劣化を、如実に、示しています。
 首都移転、道州制移行と地方の権限、財政の強化、それに必要な憲法改正など、我々の世代は、皆、先送りしてきました。
 海溝殻巨大地震三連発とその後の,富士山噴火は、歴史のサイクルです。現在の東京一極集中の日本では、対応できません。
 関東大震災の時は、大阪の経済力が、東京よりも大きく、大阪市の人口が、東京市よりも多かった時代であり、震災からの復興が、可能でした。
 現在の日本では、東京圏が被災すれば、どの地域も巻き添えで、共倒れになります。
 取り敢えず各地域が自立して、相互に扶助できるような政治システムを、一刻も早く、作る必要があります。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/29 (Mon) 14:09:08


(FB談話室からの転載です。)

土屋 幸子 · 2日 ·
· 2024年01月26日(金) 15:44

十数年ぶりに投稿します。
同じ時期によく投稿された「花筏さん」が介護施設に入って話し相手が
いないので、東アジアの古代文化の会の談話室に投稿して欲しい。
そしたら、スマホで読めるからと申し出がありましたので、投稿します。
1月21日にアジア考古学合同講演会に行ってきました。
内容はアジアの窯業でした。
その中で、木立先生の講演の中で、
気になることが幾つかありましたので、箇条書きます。

_1.日本のお茶は抹茶法であるが、中国では点茶法と呼ばれていた。
_日本でも元々は点茶法と呼んでいたが、国際的に日本を意識した時、
_中国の呼び方でなく、日本独自の抹茶法になった。

_2.中国のお茶は明代に洪武帝の命令で点茶法から淹茶法になったと
_言われているが、それ以前にも淹茶法があった。

_3.茶筅は南宋代の物が確認されているが、それ以前はないと
_いわれているが、茶碗の傷跡からもう少し遡るだろう。

以上です。何かこの件につてご存じでしたら、ご教示ください。



藤盛 紀明
2日· 2024年01月27日(土) 11:27
土屋さん 花筏さんは見ましたか?


土屋 幸子
2日· 2024年01月27日(土) 12:22

花筏さんの介護施設には、昨年行きました。ソグドの研究をして、
東アジアの談話室にもよく投稿していました。
彼女は話し相手がいないので淋しいと言っていて、施設に来るのは
大変だから、談話室に投稿したら、読めるから嬉しいと言ってましたが、
まだ連絡がありません。
彼女が好きそうなテーマの講演の資料をプリントアウトして、
又施設に行ってみようを思ってます。


藤盛 紀明
2日· 2024年01月27日(土) 12:49
土屋 幸子 さん 情報ありがとうございます。
ソグドですか。ペルシャにも興味がありましたね。
日本古代ではどんなテーマが好きでしたか?
それに沿った話題投稿します。別途討論室もありますが。


土屋 幸子
1日· 2024年01月27日(土) 20:46
、7772「「「「「「「「「「「32w3・・・

土屋 幸子
1日· 2024年01月27日(土) 20:51

ごめんなさい。花筏さんに渡した朴天秀氏の
「ガラス器から見たシルクロードの変遷」を探していたら、
猫が私のパソコンに乗っていて、先の文章を打って、なおかつ投稿して

土屋 幸子
1日· 2024年01月27日(土) 20:54
してしまいました。怪しげな投稿でごめんなさい。
花筏さんは朴天秀氏が大好きだとも言ってました。  

土屋 幸子
1日· 2024年01月27日(土) 21:40

朴天秀氏は新羅にの5世紀前半はローマガラス器が移入されるが。
5世紀後半に突然ペルシャガラス器に代わる。
これはHun帝国の崩壊と関係があると考えると言っています。
こんな事が彼女の興味を引いたのかしら?

土屋 幸子
19時間· 2024年01月28日(日) 17:51
ありがとうございます。
朴天秀さんの「長野の渡来文化」を探してみます。

土屋 幸子
19時間· 2024年01月28日(日) 17:59
今、大学の聴講生なので、授業があります。

土屋 幸子
19時間· 2024年01月28日(日) 18:01
少し時間かかります。投稿が慣れなくてすみません。


藤盛 紀明
1日· 2024年01月28日(日) 08:34
昨日長野の川崎先生から「錯綜する渡来文化―古代信濃の北と南―」の
ご講演がありましたが、朴天秀さんも「長野の渡来文化」の講演を
日本でされてましたね。

*****

藤盛 紀明
2日· 2024年01月26日(金) 19:44
土屋さん お久しぶりです。
考古学を科学する会も再開します。
花筏さんは介護施設で、この談話室が社会性確保になれば良いですね。
花筏さんはスマホがあれば、ここには投稿できますね。

藤盛 紀明
2日· 2024年01月26日(金) 20:10
土屋さんが会の幹事を退任されたのは2010年3月の総会ですね。
あれから随分時間が経過しましたね。

藤盛 紀明
2日· 2024年01月26日(金) 20:12
土屋さんが幹事当時の幹事で今も健在なのは、小原さん、稲垣さん、
下山さん、私です。高川さんは本年退任されました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/29 (Mon) 13:29:46

(FB談話室からの転載です。)

小原理一郎
4日· 2024年01月24日(水) 23:04

岩波書店の岩波講座【世界歴史】第24巻
(最終号2023年11月発行)<21世紀の国際秩序>を
図書館から借りてきて一気に読了しました。
この最後の第24巻は良い論文が揃っていて読み甲斐があります。
コロナ禍とウクライナ戦争までの最新歴史情報が取り込まれています。
岩波の世界史講座はこの講座は第3回目編集講座です。
正直言って玉石混淆という感じですが、
この最終巻は良い論文が揃っています。
極端に言えばこの号だけでも最新歴史情報が入手できる感じです。
あと16巻と2巻を読めば全巻読破できます!!!

酒井啓子<グローバルサウス>
栗田禎子<アラブの春の世界史的意義>
川島真<中国と世界>
大串和雄<ラテンアメリカの模索>
森千香子<移民、難民>
ご参考まで。


藤盛 紀明
4日· 2024年01月25日(木) 11:05

移民・難民はどのような内容ですか?
前にも書いたことがありますが、日本の人口減少対策として、
もう少し移民・難民受け入れを容易にすべきと思っています。
日本人とはそもそも弥生時代から近年まで渡来人が継続した、
渡来人の国です。本来の日本原住民、縄文人のDNAは
かなり薄くなっています。
北東北・南九州・沖縄・アイヌに本来の日本列島の原住民・縄文人の
DNAが少し色濃く残っているようですね。
平安時代まで続いた北東北の「エミシ」と呼ばれた人々
(アテルイなど)は縄文系のDNAがかなり残っていたと思います。
そのため私は故郷秋田県のエミシの歴史に興味があります。


小原理一郎
3日· 2024年01月25日(木) 21:35
岩波書店の最終号第24巻の世界歴史講座の
森千香子論文<移民、難民>は20pの小論文です。


小原理一郎
3日· 2024年01月25日(木) 21:51

21世紀においての国境をこえた移民は増大数が多いこと、
2億8千万人が特徴で、2000年に比べて65%増加です。
移民、難民の問題を受け入れ国からではなく出国側から分析する
ことが重要である。
旅券の国別の格差の拡大と非正規移民の増大が顕著。移民の女性化
(女性の就労を補助するの家事労働の増大)が世界的に顕著となった。
かつての風俗業への女性サービス産業から比重が変化している。

*****

小原理一郎
3日· 2024年01月25日(木) 20:55
例えば小生が住んでいる杉並区では人口58万人で外国人居住者19,058人
で中国人、韓国人。朝鮮人、ネパール人、ベトナム人という順位で
外国人の社会的増加で杉並区住民はかろうじて増加となっている。
アメリカ人、台湾人、フィリッピン人という状態である。


藤盛 紀明
3日· 2024年01月26日(金) 11:21
小原理一郎 さん 東京は地方からの人で人口増化していると
思ってましたが、外国人でしたか。びっくりです。


小原理一郎
2日· 2024年01月26日(金) 22:33

我らのかつての常識は外国人とは在日朝鮮、韓国人でしたが、
全くの様変わりです。
中国、東南アジアの経済成長で高学歴化して日本の大学に留学して
日本で就職する傾向、大学院は中国人が多くなっています。
新宿区あたりは外国人人口が1割を超えているようです。
かつてのイラン人の居住者は減りました。
自宅の書棚の書籍は其のままですが、図書館、新刊本屋の書籍は
ドンドン新しくなります。


小原理一郎
2日· 2024年01月26日(金) 22:40

新しい知識をいれないと駄目ですね。
すくなくとも世界史については岩波書店でも3サイクルを経ています。
今回の著者はほとんど知らない人ばかりです。
文化人類学会、考古学会でもしかりです。もしかするとわが会は
かなり学会の流れから2サイクル位遅れている感じです。
遅れいるから悪いとは思いませんが、もう少し大胆に講師を
選別すべきでしょう。幹事が若返る必要があります。


藤盛 紀明
2日· 2024年01月27日(土) 08:51
小原理一郎 さん 幹事若返り大賛成!!
絶対必要です。今度の幹事会で主張期待します。

*****

小原理一郎
3日· 2024年01月25日(木) 22:12

中国。東南アジアの経済成長により住みやすい国と高学歴化により
移民者の構成が変化している。
今では人が住みやすい国へと居住国を、居住地を選択する時代に
替わっている。
人口減少の日本は地方の過疎化の対策はもうすでに世界の趨勢から
遅れており、外国人でも人手不足はできなくなってきている。
観光には良いが住むには適正であるかこれからグローバル視点で
選別される時代のようだ。


藤盛 紀明
3日· 2024年01月26日(金) 11:23

小原理一郎 さん 秋田県を応援している者としては耳の痛い話です。
秋田は全国でも人口減少が特に激しい県です。岩手もそうですね。

*****

小原理一郎
3日· 2024年01月25日(木) 22:18

杉並区の地域の解体業者(クルジスタンという会社名で)は
大宮地域居住のクルド系トルコ人(政治難民)が多く担当している。
池袋地域のコンビニ店でも活躍している。
ミャンマー難民の活躍も目立つ。
散歩している善福寺川公園の子供広場でネパール人の児童が
クリケット競技をしているのには驚いた。
身なりはすこぶる良いのである。
難民ではない。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/29 (Mon) 13:05:57


(FB談話室からの転載です。)

小原理一郎6日 ·
· 2024年01月22日(月) 22:30

第13回アジア考古学合同講演会が1月21日(日)
早稲田大学の戸山キャンパスで午後1時から開催されました。
このキャンパスは文学部校舎のあった所で久しぶりに
訪れて其の変わりように驚きました。
【アジアの窯業】というテーマで悪天候にも拘わらずほぼ満員の
大盛況でした。とにかく若い参加者が多く勇気づけられました。

_1.木立雅朗、【窯の機能論】
_2.徳留大輔、【中国の窯業 中国陶磁に見る外国の影響】
_3、田畑幸嗣、【東南アジアの窯業】
_4.齋藤正憲、【土器ズクリの中心と周縁 文化人類学的アプローチ】

この4人の講演をたっぷりと聴講できました。
_1、の登り窯の実際の分析を写真で説明され色々と
_具体的な状態が理解できました。

_2、の中国の窯業は歴史的にオリエントの影響を受けたことが
_良く理解できました。
_このような中国の陶磁器についての概説で理解できたことが
_今日の最大の成果でした。さすが出光美術館の学芸員です。

_3.東南アジア、カンボジア、ベトナム、タイの窯業について初めて学ぶことが出来ました。周辺の国の窯業の紹介でした。

_4.文化人類学的窯の映像による紹介でした。
_良く取材されました。ご苦労さんです。

本当に実りある講演会が500円会費で聴講できました。
中国考古学会、東南アジア考古学会、西アジア考古学会の
三学会の合同講演会でした。
雨の中出かけましたが満足できる一日でした。
やはりオンラインの場合と全く迫力が違います。
久しぶりに大満足の講演会でした。若い人にも魅力あるテーマでした。
当会にも参考になりました。
佐々木憲一先生(明治大学)も主催者の一人です。
難聴者にも配慮され補聴器は全く補助的に使用で何とか聴講できました。下山さんとあと一人の女性会員が参加されていました。


土屋 幸子
4日· 2024年01月24日(水) 20:42
ツチノコです。10数年ぶりの投稿です。同じ時期に投稿された「花筏」さんが介護施設に入居されたので、私の投稿があったら施設で読めるから投稿して欲しいと言われたので、投稿を再開しました。


土屋 幸子
4日· 2024年01月24日(水) 20:44
小原さんが投稿されたアジア考古学合同講演会に私も参加しました。


土屋 幸子
4日· 2024年01月24日(水) 20:55
木立先生の講演は私の興味と一致する部分があります。
お茶に関するものでしたが、
_①中国では点茶と言いますが、日本で抹茶と言うのは、
_「日本を全面に意識しだした時」である。
_②淹茶は今までは明代が通説でしたが、北宋時代にもあった。
_③茶筅は南宋時代と言われていましたが、もう少し早い。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/29 (Mon) 11:27:57


(FB談話室からの転載です。)

藤盛 紀明
· 2024年01月19日(金) 08:17


西村 淳
1週間· 2024年01月19日(金) 08:24
さっそくKindle版購入しました

藤盛 紀明
1週間· 2024年01月19日(金) 08:48
西村 淳 さん 測量の最新論出版されますか。


西村 淳
1週間· 2024年01月19日(金) 08:58

藤盛 紀明 さん、昨年の春、やっとのことで、さまざま考えられる
設計&造営尺の代替案をジャッジする統計手法を確立しました。
それですら日本情報考古学会発表のみで、
学会誌にはまだ投稿出来ていません。
今年、定年になり、時間が出来るのでまとめることが出来ます。

百舌鳥・古市古墳群の測量図が公表されてから、ざっくりした
判断基準ではなく、統計学的に確立されたオーソドックスな
方法を確立したいと思ってました。

また、百舌鳥・古市古墳群の3Dデータを入手したので、
先の分析手法で工人と築造年を振分けることが出来るのではないかと
期待しています。


藤盛 紀明
1週間· 2024年01月19日(金) 09:12
もう定年ですか。あっと言う間ですね。
研究成果は素晴らしいですね。
発表、出版期待します。


西村 淳
1週間· 2024年01月19日(金) 10:32
藤盛 紀明 さん、定年ですが1年ごとの更新で現在の大学で
仕事を勤めさせてもらえることになっています。


藤盛 紀明
1週間· 2024年01月20日(土) 11:15
西村 淳 さん それは素晴らしい。
纏まったら、また当会で講演(ZOOM)如何ですか!


西村 淳
1週間· 2024年01月20日(土) 11:50
藤盛 紀明 さん
承知しました

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/29 (Mon) 11:13:19


(FB談話室からの転載です。)

藤盛 紀明
· 2024年01月19日(金) 08:17

歴博の高田貫太氏の主張は、日本の外から見た
本格的な日朝関係史と思っているが、どうだろうか。
私は東アジアの古代文化を考える会的視点と思って愛読している。
しかし友人の中には必ずしもしっくりきていない人もいる。
従来の日本的視点とはかなり異質だからと思う。
討論室で高田史論を考えてみたい。


槌田 鉄男
1週間· 2024年01月19日(金) 10:32

この本はだいぶ前に買って読みました。
3世紀に騎馬民族が来たとする自説にとって何か参考に
なるものがないかと言う観点で読んでみましたが、
あまり参考にならなかったように記憶しています。
改めて再度読んでみたいと思います。


藤盛 紀明
1週間· 2024年01月19日(金) 16:50

槌田 鉄男 さん 
私は2度目、3度目と読んで、納得する部分が多々あります。
騎馬民族と言う話ではありませんが。古い時期(弥生時代後半)から
倭人が韓半島南部で本格的に活躍する様子が書かれています。
今月の信濃の講演では、韓半島に定着した倭人の子孫が渡来人として
信濃に戻り、定着する話も出る予定で、興味深々です!

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/29 (Mon) 11:02:37


(FB談話室からの転載です。)

藤盛 紀明
· 2024年01月11日(木) 10:45

古い資料を整理していたら、古参幹事の矢部さんからの資料が
入っていて、捨てる前に読んで見た。会の創立以来の
古い事実が書かれていて、昔のことが思い出され、1997年に
作成された会の歴史『市民が拓く東アジアの世界』を眺めてみた。
私は当会創立の1972年から参加したが、仕事が多忙のため
一般会員で楽しんでいた。
会は1993年に分裂騒動があり、会の存続を希望したため、
1994年の総会に出席した。大勢の参加があった。
一番後ろの席で発言したら、傍の女性が、
「では貴方が幹事やりなさい」と言って、私を幹事に推薦した。
矢部女史である。確かイタリア大使館勤務。
辞退したが無理矢理幹事にさせられた。
会員になって52年、幹事になって30年。
会のこのHPもWGとして2000年に立ち上げたのも私。
HPは今は5人の集団管理体制で、私は脇役。
私や他の幾人かの幹事も、かなりの高齢になったので、
是非新しい幹事の参加を期待したい。
皆さんどうですか?
但し、会の目的の「広く東アジアの視点で日本古代史を見直すこと」に
賛同された方が期待される。(詳しくはHPのトップ参照)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/29 (Mon) 10:54:52

(FB談話室からの転載です。)

小林 一夫
2024年01月05日(金) 13:20

謹賀新年
今年は辰年ですので、山幸彦と海神神話ゆかりの若狭彦姫神社と
その御子を祀る宇波西(うわせ)社、日向(ひるが)湖の先に
ある元宮をお参りしました。
記紀によりますと、

_⑴アマテラスの孫 ニニギが日向に降臨し、木花開耶姫と結婚して
__海幸彦と山幸彦(ヒコホホデミ)兄弟をもうける。
_⑵兄の海幸彦と山幸彦は、互いに獲物を獲る道具を交換する。
__しかし、山幸彦は兄の釣り針をなくしてしまい強く叱責され、
__海宮(わたつみのみや)にさがしに行く。
__そこで海神やその娘の豊玉姫と出会い釣り針を探してもらう。
_⑶豊玉姫を娶り、三年暮らした山幸彦は望郷の念に耐えかねて故郷に
__帰り、釣り針を兄に返す。しかし頑なに許さない兄に対して
__海神から教示された呪文を唱え、遂に兄を屈服させる。
_⑷時に、海宮で山幸彦の子を身ごもっていた豊玉姫が、
__妹の「玉依姫」と共に追いかけてきて海辺の渚で竜に化け出産。
__それを見られた豊玉姫は恥じて海に帰る。
_⑸この御子が「ウガヤフキアエズ」で、彼は母の妹の「玉依姫」を
__妃とし、四人の男子をもうける。その末子が神武天皇である。

つまり、神武天皇の父がウガヤフキアエズであり、
母(豊玉姫)の妹である叔母「玉依姫」と結ばれています。
ウガヤフキアエズの父は山幸彦(ヒコホホデミ)ですが、
神武天皇も別名ヒコホホデミと云います。
この山幸彦と海神神話は系譜的に不自然で、
記紀に加上されたという説があります。


小林 一夫 2週間 2024年01月08日(月) 13:17

彦坐王(ひこいますおう)もウガヤフキアエズと同様、
母(意祁都比売オケツヒメ)の妹(袁祁都比売命)と結婚しています。
また、四道将軍 丹波道主の父でもあり、椿井大塚山古墳の被葬者と
云われる山城南部を総べた大首長です。
さらに、但馬一ノ宮「粟鹿神社」は、何と、「彦坐王」と山幸彦が
揃って祭神となっていました。

→山幸彦(ヒコホホデミ)とその御子ウガヤフキアエズは、
実在した彦坐王がモデルだった。
海幸山幸彦の神話は、もともと若狭湾の日向湖畔が発祥の伝承だった。
このように思えてきました。


竹本雅昭 2週間 2024年01月08日(月) 13:47

難問が氷解した思いです。
椿井大塚山の被葬者が彦坐王という見解には初めて接しました。
ありがとうございます。
では、海幸彦を祀る神社は何処に設定する必要があるのでしょうか?、
やはり南九州でしょうか。


竹本雅昭 2週間 2024年01月08日(月) 15:55

了解いたしました。
山ノ口や免田の土器が、あるいは吉備の中期末の土器が、
器台と壺が合体した形の土器が出土しています。
いわゆる大山津見尊の系統だと勝手に思っていますが、
いかがでしょうか?いずれにしろありがとうございます。
悩みが晴れた心境です。


小林 一夫 2週間 2024年01月14日(日) 15:30

竹本雅昭 さん、海幸彦は隼人の阿多君!
(「山幸彦と海幸彦」Wikipedia)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/01/29 (Mon) 07:02:20

「笠」氏(若狭彦神社)の系図を見ていたら、
「壬申の乱」の時代の「笠麻呂」という人の処に
「木曽路開通功労者」と書かれていました。

ヤマトタケルの東征のルートを見ていて
頭が混乱してきました。
地名だけでなく、道の名前まで、混乱してきました。

東山道
中山道
木曽路(吉蘇路)
伊那路

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/01/28 (Sun) 09:41:25


│『錯綜する渡来文化―古代信濃の北と南―』
│■日 時 : 1 月 27 日(土)
│■講 師 : 川崎 保先生
│(長野県埋蔵文化財センター)

きのうの講演会の話は、
広義の意味での「渡来人」の話でした。
切り口が新鮮で、楽しめました。

長野(信濃)には、ほとんど行ったことがないので、
土地勘がなく、分かりやすく説明されているにもかかわらず、
ヤマトタケルの東国遠征のルートなども、勉強不足が露呈して
しています。

古代信濃の北と南(の話)では、
北は、高句麗系。(オンドルの遺構が見られる。)
南は、百済系。(オンドルの遺構は、見られない。)
「諏訪」は、やや独自色がある。
という、話だったような気がします。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/01/24 (Wed) 20:14:19


(予習です。系図も確認しました。)

『錯綜する渡来文化―古代信濃の北と南―』
■日 時 : 1 月 27 日(土)
■講 師 : 川崎 保先生
(長野県埋蔵文化財センター)

「吉 大尚(きち だいじょう、)」(ウィキペディアより)
:吉 大尚(生没年不詳)は、百済の官吏。官位は達卒。
:故国の滅亡に伴い倭国(日本)へ亡命した。
:吉田(きった/きちだ)連(吉田宿禰)氏の祖。

:記録
:『懐風藻』によれば、大友皇子の学士の一人で、沙宅紹明
:・答(火+本)春初・許率母・木素貴子らとともに賓客とされた。
:薬学に詳しく、671年(天智天皇10年1月)、許率母・角福牟と
:ともに小山上の冠位を授与された、とある。

:『続日本後紀』巻第六、承和4年(837年)6月の記事によると、
:吉大尚の祖先は塩垂津(しおだれつ)といい、倭人であったが、
:国命にしたがい任那の三己汶(さんこもん)の地に移住したという。
:三己汶はのちに百済領になり、8世の子孫である大尚は弟の少尚と
:ともに日本を慕う気持ちから来朝し、代々医術を伝えた、とある。
:同様の記述が『新撰姓氏録』「左京皇別」吉田連の項目にも見られ、
:孝昭天皇の王子、天帯彦国押人命の4世の孫、彦国葺命の孫が塩垂津彦
:にあたるとし、神亀元年(724年)に吉田連に改氏姓したと
:されている。改氏姓のことは、『続日本紀』巻第九にも見える。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/15 (Mon) 01:52:45

.

(FB談話室からの転載です。)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/15 (Mon) 01:39:21

.
(FB談話室からの転載です。)

藤盛 紀明
9時間· 2024年01月14日(日) 15:30
立派な古墳群ですね。
この集団に関する何か文献ありますか?


岡嶋 隆司
9時間· 2024年01月14日(日) 16:17
藤盛 紀明さん、町史等で消滅とされていましたから文献は無いです。
昨日帰宅してこの様なものは作成しました。
青写真・設計図、テキストの画像のようです


岡嶋 隆司
テキストの画像のようです
9時間· 2024年01月14日(日) 16:17


藤盛 紀明
8時間· 2024年01月14日(日) 16:37
池田さんは考古の方ですか?


岡嶋 隆司
7時間· 2024年01月14日(日) 17:37
藤盛 紀明 さん、いいえ地元の愛好家の方で、
この古墳群を再発見したメンバーです。
案内して頂きました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/15 (Mon) 01:36:53

.
(FB談話室からの転載です。)

岡嶋 隆司古墳から歴史を学ぶ会
16時間 · 2024年01月14日(日) 09:21
岡山県矢掛町宇山古墳群、この古墳群は
『矢掛町史』や『岡山県遺跡地図』に消滅と記載されているものである。
近年地元有志の方々によりこの地区に古墳が残っていることが確認され、
看板設置や環境整備を行う計画が立ち上がった。

今回、実見してほしいとの依頼があり、昨日踏査を行った次第である。
古墳は7基確認されており、盛り土が流失しているものもあるが全て
円墳と考えられる。
また、古墳の可能性があるもの2箇所を確認する事が出来た。
古墳は全てが横穴式石室で盗掘を受けており、幾つかは石室石材を
抜き取られている。
石室形状から古墳時代後期6世紀後半の所産と考えられる。

その他、途中で矢穴を伴う石材を確認、鑿穴の大きさから江戸時代
前期頃のものであろうか、近接する蓮華寺に関わるものかも知れない。
『矢掛町史』には、地元の方の話として
「かつて古墳があったが消滅した」との内容か書かれており、
今回踏査した古墳の事なのかは不明であるが、机上の作業ではなく
フィールド調査が如何に重要であるかと再認識した。
ご案内頂いた池田篤史氏さんに感謝したい。


岡嶋 隆司
16時間 · 2024年01月14日(日) 09:22
手前味噌ですがシェア致します。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/01/14 (Sun) 10:43:34

(近況)
年末年始に、(講演会の)予習・復習を兼ねて読書の
予定でしたが、なかなかページが進んでいません。
(気力・体力が落ちて来たせいにしておきます。)
その中で、「ゲノムでたどる古代の日本列島」と
いう本は、大変読みやすかったです。
(まだ、あと、50頁残っていますが・・・。)
(ゲノム解析の結果の分析・公表によって)これから、5年~10年で、
縄文時代の風景は、かなり変わりそうな予感がしました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『錯綜する渡来文化―古代信濃の北と南―』
■日 時 : 1 月 27 日(土)
■講 師 : 川崎 保先生(長野県埋蔵文化財センター)
■講師の言葉
信濃は日本列島の北と南(東と西)の歴史的かつ地理的境界が交錯する。
(省略)
信濃の北(日本海側)と南(太平洋側)の差が、単なる地域性の問題に
とどまらず、国家形成期の担い手あるいは受容側の紆余曲折のかかわり
があったことがうかがえるが、なるべく双方向的な観点からお話したい。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『縄文時代から弥生時代における土偶と石棒ー東日本系儀礼の西遷ー』
■日 時 : 2 月 3 日(土)
■講 師 : 寺前 直人先生(駒沢大学)
■会 場 : としま区民センター601/602 号室(池袋駅徒歩5分)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『ヤマト政権成立期における畿内の地域関係
-卑弥呼を継いだ「男王」をめぐって-』
■日 時 : 3 月 31 日(日)
■講 師 : 福永 伸哉先生(大阪大学)
■会 場 : 北とぴあ 1602 号室(王子駅すぐ)

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 石見介

2024/01/09 (Tue) 00:42:54

 岡嶋隆司さんのコメント中で、考古学がどうも理解できい私に、一番印象に残ったのは、「吉備」という地名~国名は、大和側の命名で、本来の地名は不明だと言われた事です。

 私も、以前から、「吉備」は穀物の黍、阿波は穀物の粟、木の国は文字通り、「木材」の木で、大和の(畿内を除く)近隣諸国の国名~地域名が、地形などの自然に基づく地名ではなく、その地域の特産品に基づく命名で、どうも大和王権が、故意にこれらの地域に、そのような名を与えた、としか思えない、と感じていました。
 本来は、地形やその地に移住して来た種族、部族名などが、国名、地域名になるのが、一般的で、畿内の旧国名、大和、山城、河内などは、皆そうです。
 播磨、丹波、安芸、出雲など、語源というか、語義が不明になっているものも、自然です。
 最近、その地の特産品が、国名~大地域名になっているのは、一種の大和王権による「差別待遇」で、何らかの懲罰、或いはその土地に対する呪詛のような観念が、古代の「言霊」信仰に基づいて、行われた結果では、ないだろうか?と考えるに至りました。

 吉備の場合は、例の星川皇子の反乱に関係して、国名が、穀物名に変更されたのではないか?
 それ以前の国名は、考古学的に初期大和と深いつながりを示す「ト乙モ乙」(伴,友、朋、供)もしくは「ト乙モ」(鞆、モは甲乙無し)、「ト乙モ」(船の後方部、モは甲乙無し)の様な地名で、『魏志倭人伝』に言う「投馬国」ではないか?と妄想したりしていました。
 『魏志倭人伝』で、投馬国の「官」と記されている「ミミ」「ミミナリ」は、「タギシミミ」「ヤヰミミ」など、大和の大王や初期王族などの名にも、現れます。邪馬台国の「官」の「ミマ(升、獲支)」も孝昭、崇神の名の一部に使用されていますが、神武の子の綏靖兄弟の「ミミ」がより系譜上は古く、神武東征時の吉備滞在時に、キスミミが生まれたとか、何らかの伝承があったが、抹消されたのかもしれません。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/08 (Mon) 10:47:02

.
(FB談話室からの転載です。) 

藤盛 紀明_7時間_2024年01月06日(土) 13:43

岡嶋さん 幾つか教えていただけませんか。
_1.吉備地域と日本海地域(出雲など)の弥生時代の交流の時期的変遷
(どの時期が一番交流が活発化?など)は資料ありませんか?
_2.古代史論義で神社を持ちだすケースが多々ありますが、
神社の由来を読むと本当かなあと思うケースが多々あります。
神社はかなり研究しないと歴史解釈には活用が難しいと思いますが、
如何でしょうか?
今度廻る神社はどうですか?


岡嶋 隆司_7時間_2024年01月06日(土) 14:12

藤盛 紀明 さん、
_1、出雲では四隅突出型墳丘墓の時期に吉備の特殊器台・特殊壺、
壺形土器などが墳墓遺跡などから出土しています。
また、吉備の集落遺跡からは出雲より器台などが搬入されています。
共に弥生時代後期です。
_2、神社については、私は考古系ですので資料としては扱えません。
ただ、歴史学では、神社・仏閣の縁起や家系図などについては疑って
扱うのが鉄則とは存じております。コース中にある
幸利神社は神社そのものより参道の延長が近接する未検出の津寺廃寺の
伽藍配置を考える上で参考になる可能性があるものです。
これは、寺院廃絶後に前に存在した遺構(地割りなど)を後世に
利用する事例があるからです。鯉喰神社は、
弥生墳丘墓の上にある為、この様な遺跡名が付いた次第です。


藤盛 紀明_7時間_2024年01月06日(土) 14:32

岡嶋 隆司 さん ありがとうございました。納得しました。
_1.の部分は他の投稿でも使いたいと思います。
「岡嶋」さんからの情報などとして良いですか?



藤盛 紀明_7時間_2024年01月06日(土) 14:39

随分昔ですが、討論室に良く投稿されるオヤジッチさん、福島さんなどと
九州の遺跡を廻っていたときの仲間に神社を研究している人がいました。
彼は神社の由来は怪しいものが多い、あちこち移動していたりしている。
気安く使わない方が良いと話していました。
これは歴史研究の基本なのですね。


岡嶋 隆司_5時間_2024年01月06日(土) 16:18
藤盛 紀明 さん、事実ですので私の名前を出しても構いません。


岡嶋 隆司_1時間_2024年01月06日(土) 19:51

藤盛 紀明 さん、昨年3月にこの様な文献が刊行されています。
「島根県古代文化センター研究論集 第30集
 古代出雲と吉備の交流 2023 年3月 島根県古代文化センター」
というテキストの画像のようです


岡嶋 隆司_1時間_2024年01月06日(土) 19:52
青写真・設計図、テキストの画像のようです


藤盛 紀明_5時間_2024年01月07日(日) 10:03
岡嶋 隆司 さん ありがとうございます。
島根県古代文化センターに在庫問い合わせました。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/08 (Mon) 10:42:15


.
(FB談話室からの転載です。) 

竹本雅昭_3日_2024年01月03日(水) 03:44

追加ですが、先日寺澤薫氏の弥生4分冊(吉川弘文館)を
読んでいたところ楯築墳丘墓は、
「前方後円墳が二つ重なっている形態」と書かれていました。

そこで想起したのは、細頸壺のことです。
この壺を縦に二分すると、切り口は前方後円形となり、
それを平面的に重ねると楯築の形となります。。
私はもとは「天文」由来と考え、ずれているのは回転を表現している。
と思っていましたが、一応白紙にしたいと現在では考えています。

また中国の考古学雑誌に「神霊壺」のことが掲載されていました。
北方系の学者は、投げ矢を細頸に入れる遊具であるとされていましたが、
南方系の学者は「神霊壺」と言っていました。
そうであれば、吉備の細頸壺は何処から、発見されたのか? 
墓であれば被葬者のどのあたりにあったのか? 
という点です。楯築は、謎めいた墳丘墓だと思っています。


岡嶋 隆司_3日_2024年01月03日(水) 07:33

吉備で最も古い細頸壺は黒宮大塚墳丘墓だったと思います。
たしか楯築からは細頸壺は出ていなかったはずです。
私は、吉備での細頸壺は楯築以降の所産と考えています。
寺澤さんの言う意味は突出部が二方向にあるところからの
ものと思いますが、あくまでも仮説止まりです。


竹本雅昭_3日_2024年01月03日(水) 10:20

わざわざありがとうございます。国会図書館のサーチで調べてみると、
長頸壺は中期後半の文化として各地にあるようです。
先日歴博で入手した岡山大学の「楯築墳丘墓」宇垣氏 が手元にあり、
271頁に詳報されていました。多出しているようです。
また南九州に、山之口、免田の長頸壺もあり、台湾の南部に福建省
あたりから渡来したものと、相関しているようです。

また吉村作治先生の古希記念論集「永遠に生きる」に、山尾和弘氏の
「ナイル川流域出土の台付長頸壺」を見つけました。
読んでないのでよくわかりませんが、原点は、つまり前方後円墳の
デザインの起点は、弥生時代中期後半に吉備へ渡来した人々の、
壺に神霊が籠るという観念に起因しそうです。

いずれにしても、勉強不足ですので、国会図書館で調べてみたいと
考えております。ご指導ありがとうございます。
岡嶋さんの提示された長頸壺の図が、非常に、参考になりました。
感謝申し上げます。


岡嶋 隆司_3日_2024年01月03日(水) 19:10

竹本雅昭 さん、宇垣さんの報告は長頸壺で
私が作成した編年図の細頸壺とは違うものです。
楯築の長頸壺は、吉備の編年で鬼川市Ⅲ式ですが
黒宮大塚よりやや先行するものと考えています。


竹本雅昭_2日_2024年01月03日(水) 23:08

国型分直一先生に『壺を祀る村』南方台湾民俗考があり、
辰巳先生も「壺型」と前方後円墳を関連されて論じられています。
この機会に読んでみようと思います。また、楯築の長頸壺は、
写真が見つかり、器台などとの関連も重要と考えています。ただ私が
知りたいことは、中期後半に移住してきた人々の観念を、支えた
もと越人である楽浪王氏の存在があったことも重要だと考察しています。

同様に、足守川流域から発見された手焙り型土器の課題も、私が住んで
いる木更津市の高部古墳群からも見つかっており、興味を持っています。

楯築の長頸壺は、写真が掲載されていましたので、参考にしたいと
思います。長頸壺を巡る課題は、箸墓のデザインとも直結しています
ので重要だと思っています。いろいろとありがとうございました。


蓮尾尚信_1週間_2023年12月30日(土) 19:14

吉備と出雲、吉備と丹後は、街道があります。
岡山から出雲、丹後には、双方に行けます。
神武天皇が岡山に2年間、滞在した理由は、
出雲と天野橋籠神社と繋がりがあったからです。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - 米田

2024/01/08 (Mon) 10:39:16



│竹本雅昭_1週間_2023年12月30日(土) 19:29

│ありがとうございます。
│私の現在の研究は、弥生時代後期の楽浪系の列島への広がりです。

│一般的には、楽浪王氏は、弥生時代後期には「王系集団」ではない
│ので、在地の王に代わって王となることはないと、考えています。

│王であることよりも経済的にあるいは文化的に在地の首長を支えたと
│考えていますが、論拠は不十分です。


*****

<楽浪王氏について:米田>(2024-01-08)

(玄菟郡→帯方郡→天水郡)太守の「王頎」は、「楽浪王氏」だろう。
「帯方郡太守」の時代には、(期間は短いですが、)太守として、
韓半島・倭国に、それなりに影響があったと思いますがどうでしょうか。

*****

『三国志魏書夫余伝』:正始年間(240-249年)、幽州刺史の
母丘儉が高句麗を討つため、玄菟太守の王頎を扶余に訪問させた。

『高句麗本記』(246年)魏は、(毌丘倹を派遣し、)
玄菟〔郡〕から出発し、〔わが国に〕侵入してきた。
(高句麗東川)王は、これを撃破した。〔毌丘〕倹は、必死に戦った。
〔そのため〕わが軍は大敗し、王は逃げた。
(246年)冬10月、〔毌丘〕倹は、丸都城を攻めおとした。
そして、将軍王頎に追撃させた。

『三国志東沃沮伝』
高句麗王の宮は、沃沮に逃れた。
〔高句麗王〕宮は〔沃沮から〕北沃沮に逃れた。
王頎は別に軍隊を派遣して、〔北沃沮に逃れた高句麗王〕宮を追討した。
〔その軍隊は〕すすんで、東の果てに至った。

『三国志韓伝』
(247年頃)〔帯方〕太守弓遵と楽浪太守劉茂は、軍隊を率いて
〔韓諸国の臣智たち〕を伐った。〔この戦いで弓〕遵は
戦死したが、二郡はとうとう韓〔族〕を鎮圧したのである。

『三国志東夷伝』(公孫氏滅亡の)その後、
高句麗が叛いたので、また少数の軍隊を派遣して征伐し、云々。
こうして諸国を周(あまね)く観てまわったので、国々の掟や習俗、
国の大小、その相違などを(云々、)
詳しく記載することができる〔ようになった〕。
(東洋文庫:注)
(毌丘倹は、)逃げる東川王を玄菟太守の王頎に追わせた。

『魏志倭人伝』(正始8年=247年、)
〔帯方郡の〕太守王頎が新たに任官されると、倭の女王卑弥呼は、云々。
〔そこで太守王頎は〕塞曹掾史張政らを遣わして、云々。

『三国志濊伝』その(正始)8年(247年)
〔不耐候の遣わした使者が〕魏の朝廷に朝貢したので、云々。

「My三国志百科事典」その後(王頎は)、天水太守となり、
姜維による北伐に対して鍾会に従軍し参戦している。

「姜維(きょう い)」:出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
姜維(202~264年)は、中国三国時代の人物。魏・蜀漢に仕えた。
涼州天水郡冀県の出身。
253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、
姜維は、数万の兵を率いて北伐を敢行した。

「毌丘倹」(かんきゅうけん、? ~255年)は、三国時代の魏の武将。

「司馬懿」(しば い、179年~251年)は、
後漢末期から三国時代曹魏にかけての武将・政治家。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/08 (Mon) 10:36:18

.
(FB談話室からの転載です。) 

竹本雅昭1週間_2023年12月30日(土) 10:27

吉備から出土する分銅型土製品はよく知られていますが、
丹後や出雲からもこの土製品は出ています。以前、「中国文物報」
という考古学・文物の中国で発行された週刊新聞に、山東半島から、
分銅型土製品が大量に出土したという記事を読んだことがあります。

残念ながら、データを採っていなくて追跡できませんが、
埋め戻されたと報じられていたと記憶しています。
吉備・出雲・丹後には何らかの相関関係がありそうです。
いずれも弥生時代中期の文化と考察しています。
同様に、吉備の中期後半の土器に、細頸のものがありますが、
これらもインド・南方系だと思っています。


岡嶋 隆司_1週間_2023年12月30日(土) 17:05

竹本雅昭 さん、分銅形土製品は、中期中葉から後期にかけてのもの
ですが全国の出土例の75%が吉備から出土しています。
約180個出土していますが、その中心は、赤磐市の東高月遺跡群の
55個が最も多く、岡山平野から足守川流域にかけて約160個が
確認されており、この地域が分銅形土製品の中心でした。
ちなみに全土的には約240個です。
細頸壺とは図のようなもので良いですか?
最近ではこの様に呼称しますが以前は長頸壺や直口壺など
研究者により違った呼称で呼ばれていました。

青写真・設計図、テキストの画像のようです


竹本雅昭_1週間_2023年12月30日(土) 17:14

わざわざありがとうございます。
吉備の文化は、中期後半と後期後半に分けて考えています。
時間をかけて、研究したいと思っています。
今後ともよろしくご指導いただければ幸いです。


岡嶋 隆司_1週間_2023年12月30日(土) 17:27

竹本雅昭 さん、ちなみに吉備の中枢地である当時の足守川下流域では
中期に集落の拡大化が始まり、後期になると更に進んで
後期後葉に楯築弥生墳丘墓・女男岩墳丘墓・鯉喰神社墳丘墓・
雲山鳥打墳丘墓群・その他の弥生墳丘墓が築造されます。
勿論、旭川東岸流域の百間川遺跡群や西岸流域の南方遺跡なども
規模の大きな集落遺跡で中期~後期にかけてのものです。


竹本雅昭_1週間_2023年12月30日(土) 19:29

ありがとうございます。
私の現在の研究は、弥生時代後期の楽浪系の列島への広がりです。
吉備に楯築木槨墓がありますが、出雲に西谷3号木槨墓、
更には丹後にも黒田古墳が木槨墓です。
また、吉備の楽浪系土器の出土は、楯築南方の上東遺跡が最初で、
その先進文化は、足守川流域に広がり、手焙式土器や、弧帯文、
さらには卜占文化に広がり、やがて楯築が構築されますが、
この墓の被葬者の性格は、どのようなものだったのでしょうか。

一般的には、楽浪王氏は、弥生時代後期には「王系集団」ではない
ので、在地の王に代わって王となることはないと、考えています。

王であることよりも経済的にあるいは文化的に在地の首長を支えたと
考えていますが、論拠は不十分です。

王を支えた集落の状況、後代の鯉喰い神社古墳などの研究も必要と
思っています。
長くなりましたので、この辺でやめますが、
一点だけ述べると、細頸土器は、免田式土器や台湾南部の
国分先生が発掘されたものと似ていることをつけ添えます。

Re: スレ「FC2のロビー・談話室08」 - (管理人)

2024/01/08 (Mon) 10:25:51

.
(FB談話室からの転載です。) 

岡嶋 隆司_2023年12月21日(木) 21:32 ·

第324回古代吉備国を語る会の案内です。テーマは、
前回例会の続編「吉備の津を廻る遺跡群Ⅱ」です。
今回のコースには古墳はありませんが、
墳丘墓を2箇所廻ります。


蓮尾尚信_1週間_2023年12月28日(木) 22:34

吉備国は、出雲と天野橋籠神社との繋がりが考えられますが、
その点をどのように考えられているのかをお伝えください。


岡嶋 隆司_1週間_2023年12月30日(土) 17:17

蓮尾尚信 さん、個人的には出雲や吉備などの名称は八世紀の文献に
出てくるものですから、それ以前にそう呼ばれていたものかは確証が
ないと考えていますが、説明する際に判りやすいので使用しています。
神社の起源についてもどの時代まで遡るのかが重要と考えています。
年代を押さえる事が歴史学の前提と考えています。


蓮尾尚信_1週間_2023年12月30日(土) 19:20

岡嶋 隆司 さん、吉備は、今、私が住んでいる長野県下伊那郡
阿智村とも繋がりがあります。調べてみてください。


岡嶋 隆司_6日_2023年12月31日(日) 08:14

蓮尾尚信 さん、 繋がりは地名の事でしょうか?

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