東アジア討論室

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「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/05 (Fri) 23:23:43

自称「系図解読・復元マニア」が、
「古代豪族系図集覧」の「系図」を
使って考察をしてみました。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/02/12 (Mon) 19:50:20

石見介さん
鈴木武樹ですか。
と言うことは石見介さんは当会の設立当初から
関心があったと言うことですね。
会の初期の色々な会合で、鈴木武樹と豊田有恒
がいつも何か話会っていたのを思い出します。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 石見介

2024/02/11 (Sun) 21:26:49

 米田さん

 討論室のロビーでの議論より、こちらの方が良いように思うので、米田さんの系譜復元等に関するコメントは、今後、このスレに投稿します。

 米田さんの系譜復元法で、私がどうにも受容できない、国境の壁、氏族の壁、性の壁,の「無視」が、小林恵子氏の所説を、ある程度前提にされて居られることが、理解できました。
 私は,『東アジアの古代文化』誌で、小林氏の、「聖徳太子の正体は、東突厥の達頭可汗」という説を読み、その論旨の飛躍ぶりに、到底ついて行けないと感じ、当時の当会の中心的人物だった鈴木武樹氏の政治的な行動の胡散臭さに対する警戒感と併せて、当会への入会を見送った経緯があります。
 雑誌の方は、その後も、興味ある論考が、載っていれば、購読していました。

 私は、考古学の型式論などが、理解できないので、どうしても文献中心に、古代史を考えますが、小林氏の文献解釈には、どうしても従えません。
 その「従えない部分」が、米田さんの系図復元の手法の、一部に組み込まれているのであれば、その部分は、やはり、私には、受容不可能です。

 日本の古代史の根本史料である記紀は、当然ながら、支配層の意図に従って、撰述されていますが、それは、中国の史書や、半島の正史も、皆同様です・
 何故か、日本の古代史関係者には、中国正史の「政治的中立性」を、過大評価する人がいますが、それは、偶々、そのような環境で撰述されたもので、実際にどうなのかは、厳密な検証が、必要です。

 記紀の虚偽を理由に、記紀以上に日本に関して無責任な記述を行っている可能性のある、外国資料の「解釈」を根拠に、どこまで、記紀の記述を否定し得るのか。この難問に対する解釈の相違が、私と米田さんの古代史像の分岐点であるように、感じています。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/02/10 (Sat) 22:51:18

図は、1972年、私が予備校生の時の
パンフレットです。
(押し入れで)探し物をしていた時に、
出て来ました。
懐かしいので、コピーしました。

「2.現状把握」は、私の苦手なところではあります。
古代史(日本書紀)の研究考察では、史料の読み込みが
大切です。

最近は、小林惠子氏の本は、あまり読まなくなりましたが、
つい2~3年位前に、欽明天皇の辺りを読んで、系図にしようとして
悪戦苦闘している時に、たまたま、女史の本を読み返してみたのですが、
何箇所か、私の見落としている所があって、女史がそれを指摘していて、
女史の読み込み力の凄さ(深さ)に、舌を巻いたことがありました。

「4.構想計画」のところで、(女史は)何か間違えたのでしょう。

「データをして語らしめよ」を座右の銘として、研究をしているので
結論が(自分と)違っていても、何か役に立つ「データ(現状把握)」は
もらえるものは何でももらおう(なんでも使おう)と考えています。

女史の構想計画が、どこで間違えて行ったのかは、分かりませんが、
(数冊読んだあとで途中で、読むのをやめたこともあって、ですが)
利用できるところは、(データとして)しっかりといただきました。

KJ法については、以前、書きました。独学の自己流です。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/02/06 (Tue) 13:47:11

小林恵子さんからの影響ですか。
小林さんは会の会誌から出発した人と
思ったのでかなり以前に「聖徳太子」の
本を購入したことがあります。
しかし、私の常識からは、あまりも飛んだ感じなので
途中で読むのを止めた記憶があります。
大学の東洋史を卒業した人(?)
と思っていましたが、ついて行けませんでした。
しかし、どんな講演・本でもそこからひらめき
を得ることはありますね。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/02/06 (Tue) 08:40:40

<系図解読のきっかけ>

:系図解読を始めたきっかけは、小林惠子氏の「二つの顔の大王」を
:読んだことでした。
:小林惠子氏の話は、面白いのですが、話が跳びすぎていて、
:話についていくには、どうしたら良いかを考えていました。
:(その結果)自分で日本書紀を系図を書いて、その系図をそばに置いて
:(見比べながら)女史の主張を読むと、正誤の判断が出来ることに
:気が付きました。女史の主張には、半島の歴史も出て来ますので、
:ついでに三国史記の系図もですが、系図の解読を始めました。

:「小林惠子氏の主張」と「自作の解読系図」とを見比べると、
:ようやく、女史の主張が見えて来ました。結果的に、(年代が合わず)
:女史の主張の大半は、間違いであることを自分なりに理解しました。
:では、女史の主張で、受け入れた処は、有ったのかという話です。

:女史の本を読んで、まず、慕容氏についての理解は、深まりました。
:また、継体天皇=新羅智證王、欽明天皇=葛文王立宗、の部分は、
:それなりに正しいと思いました。ただし、
:新羅智證王は、437年生。目子媛450年生。振媛は、難波の小野王。
:にしています。
:さらに、天智天皇と天武天皇は、異父同母兄弟である。
:これも、女史の本からの受け売りです。これくらいですね。
:それでも、女史の本のインパクトは大きかったです。
:系図を解読すれば、歴史が見えてくる、という体験は大きかったです。

:とにかく、系図解読を始めたきっかけは、
:小林惠子氏の「二つの顔の大王」を読んだことでした。
:本を理解できなかったので、日本書紀から系図解読を始めました。

:日本書紀からの系図作成のコツは、一夫多妻での「天皇の子ども」では
:なく、一妻多夫での「皇后の子ども(娘婿の実子扱いを含む)」です。

:女性をつなげていくと、系図が作れることが分かりました。
:日本書紀から系図が作れることが分かると、どんどん面白くなって、
:どんどん系図を書いていきました。

:そのあと、古事記に手を出し、先代旧事本紀にも手を出し、・・・。
:「古代豪族系図集覧」を手に入れ、シンメトリックに出会いました。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/02/04 (Sun) 16:16:06

米田さんの系図研究の「基本的考え」はかなり
分ってきた感じです。
虚々実々の中から真実を発見する作業、
系図に秘められたルールを見いだし、
そのルールに基づき真実に迫る。

上記の探求方法は是とするところです。
更にはなんらかの直感・ひらめきも必要でしょうね。

但し発見した系図が「金星か流星か」は誰にも
分らないし(と思うが)、理解させるのも困難と思います。
前にも記しましたが、発見した系図を他の何らかの
方法で確からしさを証明出来れば、第三者からも
賛意得られると思いますが。

余計なことですが、小林女史は以前当会のメンバーで
会誌(昔あったが、いつの間にか個人雑誌に変化)
にも投稿していたと思います。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/02/04 (Sun) 15:00:18

(その3)
:「矛盾の中に真実がある。」

:(その2)での、(問題01・02)の回答に
:なりそうな系図です。
:勘注系図と天孫本紀とでは、「天忍人命」を誰にするかで違いが
:ありそうな気がします。
:「葛木出石姫」は、「長媛(天女の妹)」であることは分かって
:いますが、・・・。
:「天村雲命」を女性の「川津媛」にした時点で、本来でしたら、
:このふたつとも、系図としては、破綻しています。

:これは何かというと、・・・。
:「ニギハヤヒ・宇摩志麻冶」が率いていた部民が、本来の物部氏です。
:これとは別に、400年ころに部民制が成立しています。
:戦国時代に国替えがあったように、この時代も、部民の統率者が
:入れ替わっています。(娘婿の男系にすり替わっています。)
:(この辺は武田信玄の息子勝頼と諏訪一族を考えてみると分かり易い)
:このころ、「天香語山命」が越の国へ、「宇摩志麻冶命」が出雲の国へ
:異動になっています。そして、「伊賀津臣命」(大伴氏)が、この頃、
:物部氏の諸族を率いるようになったようです。
:(源氏の棟梁というニュアンスでいうと、ニギハヤヒから伊賀津臣命の
:_男系に、部族の「棟梁」の地位が移った、となると思います。)


:(その2)での、(問題01・02)の回答としての私の系図が
:どこまで正しいのかは、分かりません。誰か、挑戦してみて下さい。
:(本気で考えると、頭が痛くなります。そのうち狂ってきます。)

:ということで、「系図解読復元マニア」の私は何をしているかという
:一例を紹介しました。

:やっていることは、虫食い算でもあるし、パズルでもあります。
:「続日本紀」の時代になると、自分たちのご先祖様の系図(系譜)が
:日本書紀では、間違えているとの、訴えが増えてきます。

:(男系としての)天皇家という、実在しないものを日本書紀は
:作り上げました。そして、かなり無理をして作っています。
:そろそろ、その呪縛を解いても良いのではないかと思っています。

:2005年に公表されていた「シンメトリック」に、私が出会ったのは、
:2012年でした。割とすぐに「シンメトリック論3部作」に
:まとめましたが、今までの自分の成果の(補強にはなりましたが、)
:矛盾するところは、ありませんでした。

PS
:人間の記憶として、どのくらい覚えていられるか、という問題について

:稗田阿礼の記憶力を問題視するのは分かりますが、
:(その1)楽浪郡が設置された以降の年代については、
:文書での記録がかなり残っていたのだろうと思います。
:(その2)○○が治めていた時代の○年(干支は○○)の時代に、
:○○という出来事があった、という伝承は、残りやすいと思いました。
:(私は昭和28年生・干支は巳です。普通に使っていました。大昔は、
:_60年の干支を使っていたと思います。干支は馴染みがあります。)

:(その3)ですので、風土記に残っている年代の干支表記は、
:(記紀の制約を受けながらも)正しいと思っています。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/02/04 (Sun) 14:11:47

(その2)
:初めのうちは、独自(自力)で、現代訳の「記紀」の
:記述(続柄)をもとに系図にしていました。
:その頃の自分も、「系図解読復元マニア」では
:ありましたが、私の本領発揮は、
:この掲載図のような系図の「解読・復元」です。
:日本書紀からの系図解読だけでは、日本書紀の
:ごく一面しか見えていないことに気が付きました。
:それで、色々な方面から、系図に取り組むことにしました。
:世の中には、色々な系図(&始祖伝承)が伝わって(残って)います。


(問題01):勘注系図では、「建田勢命」の父親は、どちらが正しいか。
(問題02):天孫本紀では、「天忍男命」が二人存在する。

:両方の系図とも、(社会的なバイアスを含んでいるが、)正しい。 
:ただし、(系図として使うには)生物学的に復元する必要がある。

:記紀にしても、先代旧事本紀にしても、風土記にしても、
:真か偽かと問われれば、すべて「偽」に決まっています。

:白か黒かを検討して、白だけを集めれば「白(真)」が見えてくる。
:というのは、仮説としては、間違いだろう、というのが私の立場です。

:たくさんのグレーを集める中で、「すべて正しい」と考えた時に、
:「矛盾の中に真実がある。」と考えると、系図の改ざん(変更)に
:「一定のルール・作法」があることが見えて来ました。

:「娘婿の実子扱い」・「連れ子の実子扱い」・「夫婦同名」など
:が、その系図の改ざん(変更)のルールになります。

:(おまけ)
:どうしても、矛盾が矛盾として残ることがあります。
:それは、記紀の編纂者による、系図の乗っ取り、系図の差替え、
:すり替え、意図的な(大ウソとしての)系図の改ざんなどです。
:あと、もうひとつあるのは、系図の「1世代ずらし」・「1世代抜き」
:です。これも(ほんとうに)厄介です。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/02/04 (Sun) 14:07:46

(その1)

│「系図読解複元マニア」とは?
│1週間 ・2024年01月26日(金) 19:44

:FBの私のところに、こんな(上記の)質問が来ていました。

:私は、「系図解読復元マニア」です。どちらかと云うと、
:虫食い算とかパズル好きをイメージして頂けると分かりやすいです。
:ですので、基本的には、わたしは歴史愛好家ではありません。
:卑弥呼や邪馬台国にも、初めのころは直接、興味はありませんでした。

:最初は、小林惠子氏の本を読んでいました。なかなか面白そうなので、
:はまってきましたが、読んでいる内に、どうにも頭の中が混乱して
:話がつながらなくなってきました。それで、小林惠子氏の主張を
:理解するためには、どうしたら良いかを考えていたら、
:(○○は○○であるを)検証をするためには、系図を書いてみたり、
:比較のための年表を作ってみたら良いことに気が付きました。
:それで、自力で工夫しながら、系図を書き始めました。

:「古代豪族系図集覧」を買ったのが、2001年10月で、
:自費出版で系図解読の本を出したのが、2004年12月でした。
:若干の修正は加えていますが、掲載図の「東アジアの年表」は、
:この見開きの年表は、20年経った今でも、自慢の年表です。
(この時の系図の解読は、今となっては、結構間違えています。)
(20年経って、使えそうなところは、この年表の部分だけです。)
:初めのうちは、独自(自力)で、現代訳の「記紀」の記述(続柄)を
:もとに系図にしていました。メインは日本書紀の続柄記述だけでした。
:後漢書、三国志、三国史記などを加えて、「東アジアの年表」を
:作れたのは、この頃の成果でした。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/28 (Sun) 13:07:29

(「渡来人」について)

:以下、系図マニアの個人的な「渡来」
:についてのこだわりの話です。

:私は、「天日槍」は、274年に帰って来た、という考えでした。
:その考えは、今も変わりませんが、・・・。
:ただ、「氏姓制度の成立時期は、5 - 6世紀をさかのぼらない。」
:とのことです。
:系図の研究は、おもに支配者層の婚姻を見ていました。
:支配者層は、倭国と半島を行き来しています。

:それに比べると、部の民は、移住するとなると、定住を図ります。
:私の予想以上に、応神天皇・仁徳天皇の時代に、移住してきた人々が
:多いことに驚いています。そして信濃を含めた、人々の移動について
:さらに興味が湧いてきました。


「新撰姓氏録」(ウィキペディアより)諸蕃

:「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が
:挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、
:「百済」として104氏、
:「高麗」(高句麗を指す)として41氏、
:「新羅」として9氏、
:「加羅」として9氏、
:「漢」として163氏__それぞれ挙げられる。また、
:これらのどこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。

:諸蕃
:太秦公宿祢、秦忌寸、文宿祢、武生宿祢、桜野首、伊吉連、
:常世連、山代忌寸、大崗忌寸、楊侯忌寸、(以下省略)ほか。

:統計
:三宅利喜男(大阪市)は、論文『「新撰姓氏録」の証言』(1998)で、
:歴代天皇別の氏族数の統計を行った。
:それによると、新撰姓氏録に記される前1182氏族中、
:皇別氏族の最多は第8代孝元天皇118氏族であり、続いて
:第5代孝昭天皇44氏族、
:第10代崇神天皇33氏族、
:第9代開化天皇22氏族、
:初代神武天皇と第12代景行天皇が21氏族、とされる。


「氏姓制度」(ウィキペディアより)
:原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となった。
:氏姓制度の成立時期は、5 - 6世紀をさかのぼらない。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/25 (Thu) 20:27:49

弘中芳男幹事は古地図の調査に没頭し、「混一疆理歴代国都之図」を発見しました。そして『古地図と邪馬台国』を出版し、今でも専門家に引用されています。片肺がダメで何時もボンベを持ってました。
亡くなられて、葬儀の日はアメリカ出張になったので前日お伺いし、お顔を拝見しました。
奥様は東アジアの幹事の時が一番幸せでしたと言ってました。現役時代は、大手電機会社の広報の責任者でした。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/25 (Thu) 20:14:13

この辺りが、(20年超の研究でも)私の限界だろうと思っています。_:三段ロケットの1段目が、「系図集」。2段目が、「語呂合わせ」。3段目の研究は、どなたかに、バトンタッチと思っています。

個人の趣味ですから、ゴロ合わせを楽しむのもありですね。でも、何か世間を騒がせるような発見、50%程度の人が認めるような発見期待したいですね。
東アジアの古代文化を考える会の幹事には、自己満足から出発し、何かで世に認められた人は結構います!

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/25 (Thu) 16:54:37


│そこで見つけた系図を、更に他の何かで正しさを保証出来れば、
│かなり真実に近づいた可能性があると思います。
│更なる発見を期待します。


※:神武天皇(新大王)や天日方奇日方命(国相)の存在が薄いのは、
_:165年以降、半島の方で活躍したからと、考えています。

※:神武天皇を初代天皇にした理由は、この辺りかと思います。
_:もしかしたら、壬申の乱のときに、没落した忌部氏の子孫(伊勢)
_:に、天武天皇・持統天皇が、助けてもらったから、かも知れません。


神武天皇___(新大王:165~179)
天日方奇日方命(国相明臨答夫:179年没)

※:掲載図の「鮮卑・濊貊の侵攻」は、168年です。
_:楽浪郡の住民のほとんどは、高句麗(温祚王・沸流王)の部族です。
_:濊貊は、この「温祚王・沸流王」の部族だろうと考えています。

※:この辺りから、突破出来ればと、思ってはいますが・・・。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/25 (Thu) 16:48:02


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│ - 当世奇妙
│2024/01/25 (Thu) 14:07:47

│何か解決するにはヒントが必要です。
│古代の人物名でゴロ合わせしてみるのは
│何かを見つけるチャンスと思います。
│百に一つでも宝に合えばLUCKY!と思います。
│そこで見つけた系図を、更に他の何かで正しさを保証出来れば、
│かなり真実に近づいた可能性があると思います。
│ゴロ合わせ全てOKと言い過ぎると疑いを持たれるのではと
│危惧します。更なる発見を期待します。


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│- 米田 2024/01/20 (Sat) 14:05:20 (掲載図)

※:掲載図(自作系図)は、上記(01/20)の掲載図(系図)に、
_:新羅・高句麗の王族を重ね合わせたものです。
_:系図としては、出来上がっているのです。 けれども、
_:「他の何かで正しさを保証・・・」が、不足しているようです。

※:この辺りが、(20年超の研究でも)私の限界だろうと思っています。
_:三段ロケットの1段目が、「系図集」。2段目が、「語呂合わせ」。
_:3段目の研究は、どなたかに、バトンタッチと思っています。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/25 (Thu) 14:07:47

何か解決するにはヒントが必要です。
古代の人物名でゴロ合わせしてみるのは
何かを見つけるチャンスと思います。
百に一つでも宝に合えばLUCKY!と思います。
そこで見つけた系図を、更に他の何かで正しさを保証出来れば、かなり真実に近づいた可能性があると思います。ゴロ合わせ全てOKと言い過ぎると疑いを持たれるのではと危惧します。更なる発見を期待します。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/25 (Thu) 13:06:13


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│ - 当世奇妙 2024/01/24 (Wed) 15:41:39

│系図を作ってみる基本操作は何か教えてください。
│*代を重ね合わせて見るですか?
│*朝鮮半島の人々の系図と合わせて見るの時の 
│ 根拠は何ですか?

>*代を重ね合わせて見るですか?

:日本書紀の年代は、(算術的に)うまく作られています。ですので、
:大本営発表の年代を、実際の年代に、作り直す作業が必要でした。
:この年代の絞り込みには、干支と系図の復元を同時進行で行いました。
:(後年、)シンメトリック論との照合は、確認作業として使いました。

(その1)
:基本的には、(複数の系図の)世代を重ね合わせることが多いです。

(その2)
:日本書紀の天皇の続柄(子)は、女王(皇后)の子どもと娘婿が
:各天皇紀の最初に書かれていると、考えました。

(その3)
:男性は、15~70歳まで子を生すことが出来ます。それに比べて、
:女性は、13~30歳の間に、子どもを産みます。

(その4)
:継体天皇紀の「くらまち・きみ」の問題では、「きみ」を「妻」と
:考え、(系図を考えるときには、)「家康の妻、お万」を想定して、
:今まで否定されてきたことに対しても、疑問を持つようにしました。

>*朝鮮半島の人々の系図と合わせて見るの時の根拠は何ですか?

:私は、系図屋ですので、基本は系図(婚姻関係)しか見ていません。

(01):新羅の始祖は、赫居世で倭国の出身らしい。(即位:BC57年)
(02):脱解王は、多婆那(たんば?)国の生まれである。母は王女。

(03)
:新羅本記:173年、卑弥呼は、阿達羅王を来訪させた。
:阿達羅王の「和名」は、何だろうか。妻や子どもは誰だろうか。

(04):年代の一致。(東川王は、もしかして、いわゆる「卑弥呼」?)
:高句麗本記、248年東川王は薨去した。殉死したものが甚だ多かった。

(05)
:昔于老は、倭の将軍に殺された。(253年頃)
:倭の将軍が連れて帰った「于老の子」は、誰だろう。「台与」か?

(04):人名の語呂合わせです。

:高句麗の「発歧」は、○○の「抜奇」、新羅伐休王(在位:184~)。
:昔于老は新羅「于老角干」、高句麗(于漱)「国相明臨於漱」だろう。
:「国相明臨於漱」の没年は、254年頃ですので、
:次の「国相尚婁」が、于老を殺した、「倭の将軍」になるだろう。

(05)年代の一致(翌年即位/同年即位。似ていると思います。)

:祟神天皇(在位:300~331)←美川王_(在位:300~331)
:垂仁天皇(在位:332~370)←故国原王(在位:331~371)

(06)
:新羅本記312年、倭国が王子の花嫁を求めてきたので、送った。(誰)

(07)
:百済本記428年、倭国の使者がやってきた。50人もいた。
(仁徳天皇の没年を427年とすると、誰だろうか。)

(08)
:日本書紀562年、新羅の遣使(皇子金庭興之後)は、倭国に留まった。
:いま河内の更荒(さらら)郡のうの邑の新羅人の先〔祖〕である。
:持統天皇の幼名は、うのの讃良皇女です。新羅と関係がありそう。

(09)
:蘇我稲目が妻にした高麗の美人の媛と侍女吾田子は、どこに消えた。

(10):「山田史御形」は、「藤原不比等」と同一人物か、別人か?

「山田 三方(やまだ の みかた)」(ウィキペディアより)
:山田 三方は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族・学者。
:名は御方、御形とも記される。姓は史。官位は従五位上・周防守。

(私を含め、誰の考察か不明です。)
:「(持統)六年(692年)冬十月壬戌朔壬申。授山田史御形務廣肆。
: 前爲沙門學問新羅。」
:というものであり、「山田史御形」という人物を「還俗」させ
:冠位を与えたことが書かれています。
:「国家」の命によりその知識と経験を生かすという意味で、
:「還俗」させているわけですが、彼は「八世紀」に入って
:「文章博士」なども歴任することとなっており、(云々)、
:それは『日本紀』の執筆・編纂を行うための準備作業であったと
:考えられます。
:これ以降この三人で(「山田史御形」は助手か)「原・日本紀」を
:編纂(執筆)し始めたというわけです。

(想像)
:私は、蘇我氏の「倉山田石川麻呂(号:山田大臣)」を
:「藤原鎌足」だろうと考えています。(「山田」)ですので、
:「山田史御形」は、「倉山田石川麻呂」の子と考えています。

*****

※:思いつくままに、書き出してみました。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/25 (Thu) 11:33:05

ゴロ合わせもひょっとしてですね。
ゴロ合わせだけですか?

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/25 (Thu) 10:58:15

※:系図(史料)の解読は、人名の「語呂合わせ」。

:自称「系図解読復元マニア」の私は、系図を勝手に復元してきました。

:その手法は、「夫婦同名」「娘婿の実子扱い」「連れ子の実子扱い」等
:です。場合によっては、「夫婦入れ替え」も「OK」にしています。
:そして今回の話である、「人名の語呂合わせ」も、結構やっています。

:映画のタイトルに「のぼうの城」というのがありました。タイトルの
:「のぼう」は、昼行燈のような城代の息子を城下の人たちが、
:「でくのぼう」→「のぼう」と呼んでいたからです。

:これと同じようなことが、記紀の時代にもあったのではないか、
:というのが、私の系図復元に対するスタンス(向き合い方)でした。
:たとえば、「津守(住吉神社神主家)」の系譜があります。

(系図からの抜粋)

諸石宿禰─大御日足尼─五十狩宿禰─塩手宿禰─度美媛命(巨狭山命妻)

(古事記:天之日矛の系譜)

母呂須玖─斐泥(ひね)─比那良岐─清日子─菅竈由良度見(比多訶妻)

もろいしのすくね→㋲㋺いしの㋜㋗ね→もろすく
おおひ_のすくね→おお㋪のすく㋧_→ひね

:「度美媛命(巨狭山命妻)」=「菅竈由良度見(比多訶妻)」
:(これは、度美媛には、夫が複数いたことを表しています。)

:人名を見ていて「語呂合わせ」に気が付くと、楽しいものです。
:系図解読復元作業を20年以上続けていても、私が、飽きないのは、
:この発見が面白いからなのだと思います。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/24 (Wed) 15:41:39

系図を作ってみる基本操作は何か教えてください。
*代を重ね合わせて見るですか?
*朝鮮半島の人々の系図と合わせて見るの時の 
 根拠は何ですか?

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/24 (Wed) 11:51:23

(つづき)です。

│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│- 米田 2024/01/23 (Tue) 14:45:59_____の、
つづきです。

※:「神代」の時代の「神様の系図」を、一頁の枠に収まるように
_:作れるはずである、という仮説というか、執念で、作ってみました。

_:そもそも、この神様の系譜の原型は、何だろうと考えてみました。
_:「三国史記」や「加耶の君主一覧」をもとにして作ってみました。


「朝鮮の君主一覧」(ウィキペディアより)

伽耶
駕洛(本加耶・金官伽耶)
_0. 加耶世主正見母主
_1. 首露王(太祖・正見母主三子)←AD42年生
_2. 居登王(道王)
_3. 麻品王(成王)
大加耶(高霊伽耶)
_0. 加耶世主正見母主
_1. 加耶阿豉今悩窒朱日(伊珍阿豉・正見母主次子)←あこ=天児屋根
_2. 加耶君阿修
_3. 加耶女主毗可(阿修妻・金官駕洛主居登妹)
_4. 加耶女君美理神
_5. 加耶女君河理

(日本書紀・神代の一書より)
:諸神は、中臣連の遠祖の「興台産霊(コゴトムスヒ)」の子、
:「天児屋命(アマノコヤネ)」をやって祈らせた。

※:ここで、ハタと思い付きました。
_:「伊珍阿豉(あこ)」は、「天児屋命(アマノコヤネ)」だろう。
_:「居登王」は、「興台産霊(コゴトムスヒ)」だろう、と。


_(猿田彦)
─市千魂命──居登王─┬─伊珍阿豉「天児屋命(アマノコヤネ)」

──────正見母主─┘┐──女──天細女命──女主毗可(居登妹)

─○○─────────┴─首露王(正見母主三子)←AD42年生
─○○───────────首露王────加耶君阿修(毗可の夫)


(条件01)
:人名の音(オン)から見て、伊珍阿豉は「天児屋命」である。

(条件02)
:系図集より、天細女命は、天太玉命の娘である。

(条件03)
:伽耶の君主から、女主毗可(居登妹)の父親は、市千魂命である。
:ゆえに、「猿田彦」は、市千魂命である。

(蛇足ですが)
:「市千魂命(猿田彦)」の父親を、私は、新羅の始祖王、「赫居世」に
:想定しています。(BC69年生:在位:BC57~AD4年)

:今回、系図を作っていて、猿田彦が、ようやく確定しました。

*****

:ということで、掲載図が、今回作った系図になります。
:(人物Xについては、ややこしくなるので、今回は伏せておきます。)

:さて、系図を作っては、みたものの、・・・。

:実を云うと、作っている本人から見ても、系図は未完成です。

(その1)
:系図の中の「皇太后B」が、「ワカヒルメ」なのか「天照大神」なのか
:それとも、両者は、同一人物なのか、未確定なのです。

(その2)
:「許婁葛文王」や「金閼智」の父親は、「金首露」なのですが、
:「許黄玉」を誰にするか、迷っています。
:「許婁葛文王」の生年は、AD75頃生と見ていますので、
:「許黄玉」の生年は、AD55年頃と考えています。

(その3)
:「ニギハヤヒ(婆娑王・黒速)」の系譜がよく分かりません。
:「婆娑王」の母親は、「許婁葛文王」の娘らしいのですが、
:この系譜は、保留にしておきます。

(その4)
「ニギハヤヒ」(ウィキペディアより)
:『先代旧事本紀』では、天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは
:同一神とされる。 他方、『新撰姓氏録』においては
:ニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、
:天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の孫)とし
:両者を別とする。


:今回の新発見は、「猿田彦」の確定出来たことです。
:「ニギハヤヒ」を「猿田彦」の子孫と考えると、「天神」になります。
:「ニギハヤヒ」を「天照大神」の子孫と考えると「天孫」になります。
:「始祖」を誰にするかで、(微妙に)変わってくると思いますが、
:天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは同一神で良いと思います。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/24 (Wed) 10:49:47


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│ - 当世奇妙 2024/01/23 (Tue) 19:56:05

│:「彦ホホデミ」は神武天皇説
│:は『日本書記』では?
│:祖父と同じ名前ですが。



│天照大神──オシホ耳──ニニギ──彦ホホデミ──彦ナギサ──神武

:そもそも、この神様の系譜の原型は、何だろうと考えてみました。
:「三国史記」や「加耶の君主一覧」をもとにして当てはめてみました。


※:まずは、「阿波忌部氏」の先祖で、系譜にしてみました。

─天照大神──オシホ耳──ニニギ──彦ホホデミ──彦ナギサ──神武
(河神の娘)(高麗王)
─柳花────①朱蒙───温祚王──多婁王───脱解王──新大王
─────┬五十狭布魂命─天底立命─天背男命──天日鷲─大麻比古
神魂命─○┘


:「彦ナギサ」も「綏靖天皇」も、「母と妻は、姉妹である。」です。
:けれども、「大麻比古=神武天皇」を「大麻比古=彦ホホデミ」とする
:ような系譜を考えてみましたが、納得のいく系譜は作れませんでした。


※:次は、「天武天皇」の先祖の系譜で、合わせてみました。

─天照大神──オシホ耳──ニニギ──彦ホホデミ──彦ナギサ──神武
─正見母主──金首露王──許婁葛文王──○○──仇道葛文王─味鄒

─スサノオ──大国主命──事代主命─天日方奇日方命─建飯勝─天日槍
─天太玉命──天櫛耳命──天富命───彌麻爾支─和謌富奴─佐久耳


※:最後は、「中臣氏」の先祖の系譜で、合わせてみました。

(A案:大日孁貴を天照大神にしたときの系譜)

─天照大神──オシホ耳──ニニギ──彦ホホデミ──彦ナギサ──神武
─正見母主──天児屋根──天押雲命─天種子命──宇佐津臣─御食津


(B案:「ワカヒルメの娘」を天照大神にしたときの系譜)
  
─天照大神──オシホ耳──ニニギ──彦ホホデミ──彦ナギサ──神武
_天万
─栲幡千幡──天押雲命──天種子命──宇佐津臣──御食津─伊賀津
__________________(12世の孫)

:風土記「伊勢国」によると、伊勢の国は、「天御中主尊の12世の孫」の
:「天日別命」が平定した所である。「天日別命」は、云々。
:「12世の孫」は、「宇佐津臣命」です。


(C案:難升米=梨迹臣命を神武天皇にしたときの系譜)

─天照大神──オシホ耳──ニニギ──彦ホホデミ──彦ナギサ──神武
─菟狭津媛───────宇佐津臣──御食津臣──伊香津──難升米



※:一枚の系図に作ってみた処、「彦ホホデミ」を「娘婿の実子扱い」と
_:いう形にすると、「火明・火照・火遠理」の3兄弟の形を作ることが
_:出来ました。(掲載図のご覧ください。)

PS
:「海彦」・「山彦」の話は、常陸国風土記に書かれている
:「倭建天皇」のエピソードが、原型だろうと考えています。


※:このように並べてみると、
_:「阿波忌部氏」の先祖の系譜で、「神武天皇=大麻比古」で、
_:確定させていることが分かります。けれども、
_:風土記に書かれてあるように、(B案)12世の孫である「宇佐津臣」
_:を「彦ホホデミ」とする、系譜も混入させていることが分かります。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/23 (Tue) 19:56:05

:「彦ホホデミ」は神武天皇説
は『日本書記』では?
祖父と同じ名前ですが。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/23 (Tue) 14:45:59



│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│ - 当世奇妙  2024/01/23 (Tue) 10:41:42

│単純な質問ですが「彦ホホデミ」は神武天皇説もありますね。
│そうすると米田さんが示した系図には神武天皇が二人になりますね。
│「彦ホホデミ」は誰と言うことですか?
│私の系図の見間違いかな?


>:「彦ホホデミ」は神武天皇説もありますね。

:「ニギハヤヒ」と「彦ホホデミ」は、同母兄弟です。
:「ニギハヤヒ」と「彦ホホデミの孫(←成人)」が、
:「同じ時代に存在する」のは、難しいです。
:ですので、「彦ホホデミ=神武天皇」である、という説は、
:(どこかで)読んだことがあるような気がします。

:この説の問題点は、以下の神様の系図は、いったい何なのか、です。

天照大神──男──ニニギ──彦ホホデミ──彦ナギサ──神武天皇

:つまり、「彦ホホデミ=神武天皇」説を採ると、この系図が
:存在出来なくなるのです。存在できない神様の系図を認めようと
:すると、あとは、「どうやって系図を捏造・追加したか」という、
:犯人捜し・トリック探しになってきます。(これは、迷路です。)

:系図集では、「天照大神」と「大日孁貴」は、同一人物にしています。
:私としては、「天照大神」と「大日孁貴」は、別人にしています。この
:系図は、正しいとして、もう少しこだわってみたいと思っています。

*****

:私の系図の問題点は、「菟狭津媛」を「天照大神」に当てはめると、
:系図では、1世代不足するのです。

─天照大神──男──ニニギ──彦ホホデミ──彦ナギサ──神武天皇

─菟狭津媛──宇佐津臣命──御食津臣命──伊香津臣命──梨迹臣命

:この(1世代不足するという)問題を解決出来ないため、今まで、
:この系図(自説)は、未発表にしてきました。

(つづく)

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/23 (Tue) 10:41:42

『古代豪族系図集覧』は系図プロのバイブルのようなものですね。了解です。
単純な質問ですが「彦ホホデミ」は神武天皇説もありますね。そうすると米田さんが示した系図には神武天皇が二人になりますね。「彦ホホデミ」は誰と言うことですか?私の系図の見間違いかな?

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/22 (Mon) 22:52:50


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│ - 当世奇妙 2024/01/22 (Mon) 16:04:06

│米田さん
│理解がなかなかできません。
│2024/01/21 (Sun) 15:13:50投稿の系図の
│出典は何ですか?
│日本書紀の神話から読み取れる系図とは
│かなり異なるように思いますが。

※:系図の出典は、「古代豪族系図集覧」です。

※:自作の復元系図では、この「古代豪族系図集覧」のほかに、
_:記紀、先代旧事本紀、神社の伝承など、ほかに、伽耶の伝承や
_:三国史記を独自に解読したものなども、利用しています。

※:「天の岩戸」の場面に出てくる人物を、それぞれの系図で
_:調べてみると、ちゃんと存在していることが分かります。
_:「一書:玉作の遠祖でイザナギの子=天明玉」から、
_:櫛明玉命(玉祖命)の父親である
_:「天背男命」が「イザナギ」であることが分かります。

※:系図からは、(少なくとも)親子関係(続柄)は、分かります。

※:「天孫降臨」の場面に出てくる、「五部」は、そのうち「2部」の
_:人名が「女性」になっています。
_:これは、何らかの理由で「氏」を隠していることが分かります。
_:名前を隠しているという事は、正しいということです。


│(五部について)
│:天児屋命は___中臣連(なかとみのむらじ)らの、(天児屋根)
│:布刀玉命は___忌部首(いむべのおびと)_らの、(天太玉命)
│:天宇受売命は__猿女君(さるめのきみ)__らの、(天太玉の娘)
│:伊斯許理度売命は作鏡連(かがみつくりの_)らの、(天抜戸の娘)
│:玉祖命は____玉祖連(たまのおやの-_)らの、_(櫛明玉命)
│:それぞれ祖神である。(一書:玉作の遠祖でイザナギの子=天明玉)


※:人名は、「職種」や「地名」を含んでいることが多いです。

※:系図は、つなぎ合わせただけでは、ひとつの系図にはなりません。
_:「娘婿の実子扱い」、「連れ子の実子扱い」、「別名で登場する」等
_:再構成して、系図を復元して、ストーリーを想像して見るのです。

※:そうすると「天の岩戸」の場面では、「天細女命」は、
_:1歳前後の赤ん坊にしか(計算上、)ならないのです。
_:そうすると、胸をはだけて踊ったのではなくて、泣きじゃくって
_:バタバタしていたら、胸がはだけた、になったのです。
_:そうすると、猿田彦は、色気のお姉ちゃんを連れて行ったのでは
_:なくて、引き取り手のいない赤子を引き取って、嫁さんにした。
_:これが、正しい解釈になるのです。

※:「天の岩戸」の中で、死んでいるのは「大日孁貴」です。←(訂正)
_:「天細女命」は、「稚日女尊&天太玉命」の娘です。「天の岩戸」
_:は、○○の第一夫人(皇太后)「大日孁貴」が亡くなったので、
_:「天つ国」の「次の皇太后」に、(↑訂正)
_:第二夫人の「天照大神」を、(5部が)迎えたというお話です。

※:系図をいじっていると、女性の出産可能年齢を「13歳~30歳」に、
_:制限出来ますから、みなさんの生没年が大まかに見えてくるのです。

*****

(風土記:伊勢国)
:やがて(天皇は)天日別命(宇佐津臣)にその国の統治をまかせ、
:宅地は大倭(やまと)の耳梨の村に賜った。
:≪ある本には云々。そうしてから、橿原の宮に復命した。≫

「天富命(あめのとみのみこと)」(ウィキペディアより)
:天富命は、日本神話に登場する神または人物。
:神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部
:・紀伊忌部を率い、(云々)、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。


<「橿原の宮殿」の主(女性)は、誰か。>

(風土記):(天富命は、)畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。

※:橿原の宮殿の主(女性)は、誰かですが、自作の系図では、
_:「川津媛」が、御食津臣命(彦ホホデミ)の妻になります。
_:「事代主命(天富命)」が宮殿を作ったとすると、やはり、
_:宮殿の主は、「媛蹈鞴五十鈴媛命」だろうと考えられます。
_:第二案としては、「長髄彦の妹」も候補になると思います。

※:一案・二案どちらにしても、(いわゆる)「神武天皇」の時代に、
_:(風土記)天日別命(宇佐津臣)にその国の統治をまかせ、云々。
_:とありますから、支配者と宮殿は、在ったと考えられます。


_(天富命)__(大麻比古命)
__↓_____神武天皇───┬─綏靖天皇(手研耳命)
__↓
─事代主命─媛蹈鞴五十鈴媛命─┘─長髄彦の娘─┬─川津媛──┐

_______ニギハヤヒ(黒速)─┬─葉江───┘
_________長髄彦の妹──┘_______彦ホホデミ─┴─○


PS:「忌部(いんべ)氏」について

※:「忌部氏」は、本来、「天背男命」の男系子孫のはずでした。
_:実際には、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部や
:「阿波忌部」を名乗っています。

※:ところが、(系図を見ると)「天太玉命」の子孫が
_:「斎部(いんべ)宿禰」を名乗っています。

※:これは、「氏(うじ)」の乗っ取りが行われたと、考えています。
_:もちろん、「○○忌部」の諸部族は、没落したのだと思います。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/22 (Mon) 16:04:06

米田さん
理解がなかなかできません。
2024/01/21 (Sun) 15:13:50投稿の系図の
出典は何ですか?
日本書紀の神話から読み取れる系図とは
かなり異なるように思いますが。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/21 (Sun) 15:23:02


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│-当世奇妙 2024/01/21 (Sun) 11:31:44

│文献・考古・系図・海外動向などを活用した東遷説は幾つか
│ありますが、東遷説(邪馬台国に限らず、九州地方の勢力の東遷)
│の最大の弱点は纏向遺跡に九州の土器がほとんど出ていない
│(土器片1つかな?)ことです。

│数代かけて纏向に到達した系図を持つ人物はいないだろうか?
│それならば九州の土器が出なくとも良いが。



「天富命(あめのとみのみこと)」(ウィキペディアより)
:天富命は、日本神話に登場する神または人物。神武東征において
:橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。
:概要
:神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部・
:紀伊忌部を率い、(云々)、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。
:また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を
:作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。

:そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、
:阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。
:続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、
:麻・穀を播き殖え、云々。また、
:手置帆負命の孫は矛竿を造り、その末裔は今別れて讃岐の国に在り、
:讃岐忌部氏として(云々)を奉るのは、その事のしるしである。


___________┌─天羽雷雄命(倭文連祖)
天照大神┬─天日鷲命─┼─天白羽鳥命(伊勢麻績遠祖←伊勢津彦か?)
       
天背男命┘_(50年頃生)└───大麻比古命(神武天皇:103年頃生)
(一書)
(イザナギ)

:「イザナギ」は、淡路で亡くなったといわれています。ですので、
:「イザナギ」の「阿波忌部氏」の先祖の集団は、1世紀の後半頃に
:(吉備から)阿波(讃岐)にかけて、(出雲から)進出しています。
:橿原の宮殿(150年頃)も、「天富命(事代主命)」の下で、
:阿波忌部氏の先祖の一族(讃岐忌部・紀伊忌部)が、作っています。

:また、系図の解釈から、「由布津主命(手研耳命)」は、
:(「天富命(事代主命)」といっしょに、)
:東国(房総)に向かったようです。


PS:吉備の地方は、1世紀の後半から2世紀にかけては、
_:天背男命(イザナギ)の子孫が支配していたが、
_:ポスト卑弥呼の時代になると、争いの場所になり、
_:4世紀以降になると、吉備氏(中臣氏)の支配になったようです。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/21 (Sun) 15:19:38


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│- 当世奇妙 2024/01/20 (Sat) 16:15:25

│「難升米は奴国の人」と言う説の人もいます。
│その仮説に従えば、石見介さんの説
│(倭奴国王の子孫が大和の王:神武天皇になった)
│とも近くなりますね!


(想像図)

天照大神┬─天日鷲命┬─帥升(90年頃生)←AD107年、漢の皇帝に接見
       
天背男命┘(50年頃生)└───大麻比古命(神武天皇:103年頃生)


※:私は、兄の命令で、神武天皇は、東国(畿内)の遠征に出かけた、と
_:考えています。その後、兄を倒して、倭国の王になった。
_:というストーリーを考えています。


※:「難升米((梨迹臣命))」は、「宇佐津臣命」の
_:男系子孫と考えています。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/21 (Sun) 15:13:50


※:追加です。(忘れていました。)

記紀に書かれなかった「神武天皇」は、
「難升米(梨迹臣命)」でした。
記紀に書かれている「神武天皇」は、系図上では、
「大麻比古命」です。

PS:「天富命」は、「事代主命(味鉏高彦根命)」です。

*******************************

「天富命(あめのとみのみこと)」(ウィキペディアより)
:天富命は、日本神話に登場する神または人物。神武東征において
:橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。
:概要
:神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部・
:紀伊忌部を率い、(云々)、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。
:また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を
:作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。

:そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、云々。

*******************************
(日本書紀:神武天皇紀より)
:私は、「皇太后」が、国のトップと考えています。ですので、
:玉依姫が、「皇太后」になります。(仮に、AD89年生とします。)
:(太子の意味を、神武の誕生と考えてみますと、)
:15歳で太子とは、玉依姫が15歳の時に、神武天皇が誕生となります。
:89+14=103年になります。

:45歳で、云々。←玉依姫が45歳だと、AD133年の時になります。
:(これは、宇佐津臣命の誕生の話・エピソードでしょう。)
*****

:新羅本記173年:卑弥呼が、「阿達羅王」を来訪させた。
:太歳は、甲寅ですから、AD174年でしょう。←(彦ナギサの誕生。)
:前紀2年:乙卯(175年)、吉備の国に移り入り、云々。
:前紀5年:戊午(178年)、皇軍はついに東した。

(私は、「阿達羅王=御食津臣命=彦ホホデミ」と、考えています。)
(この辺りは、エピソードの混入と見ています。)

*****
(風土記:伊勢国)
:やがて(天皇は)天日別命(宇佐津臣)にその国の統治をまかせ、
:宅地は大倭(やまと)の耳梨の村に賜った。
:≪ある本には云々。そうしてから、橿原の宮に復命した。≫

(日本書紀・神武天皇紀)
:己未(179年)、庚申(180年)、辛酉(181年)
:畝傍山の東南の橿原の地は、云々。帝宅〔宮殿〕を作り始めた。
:(玉櫛媛の娘、)媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃に迎えた。

:神武31年(151年)、(神武)天皇は(大倭を)巡幸した。
(この時に、つまり152年頃に、卑弥呼が生まれた、と考えました。)

────神武天皇(大麻比古命)───┬─綏靖天皇(卑弥呼)
─事代主命(天富命)──五十鈴依媛─┘←(記:三輪山の山麓)


<「橿原の宮殿」の主(女性)は、誰か。>

(風土記):(天富命は、)畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。

※:橿原の宮殿の主(女性)は、誰かということです。自作の系図で
_:すが、「川津媛」が、御食津臣命(彦ホホデミ)の妻になります
_:から、宮殿の主は、「媛蹈鞴五十鈴媛命」だろうと考えられます。


───────神武天皇(大麻比古命)───┬─綏靖天皇(手研耳命)
─事代主命(天富命)──媛蹈鞴五十鈴媛命─┘─長髄彦の娘──川津媛


「天富命(あめのとみのみこと)」(ウィキペディアより)
:天富命は、日本神話に登場する神または人物。
:神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部・
:紀伊忌部を率い、(云々)、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。

(風土記:伊勢国)
:やがて(天皇は)天日別命(宇佐津臣)にその国の統治をまかせ、
:宅地は大倭(やまと)の耳梨の村に賜った。
:≪ある本には云々。そうしてから、橿原の宮に復命した。≫

※:「復命」と、ありますから、神武の母親の「玉依姫」の可能性も
_:ありますが、ここでは、「媛蹈鞴五十鈴媛命」としておきます。

(自作の系図では、媛蹈鞴五十鈴媛命と神武天皇は同母にしています。)


PS:日本書紀の「神武天皇紀」は、表題は、「神武天皇」ですが、
_:年代表記は、あくまでも、「彦ホホデミ(御食津臣命)」の
_:エピソードを使っているようです。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/21 (Sun) 11:31:44

文献・考古・系図・海外動向などを活用した東遷説は幾つかありますが、東遷説(邪馬台国に限らず、九州地方の勢力の東遷)の最大の弱点は纏向遺跡に九州の土器がほとんど出ていない(土器片1つかな?)ことです。福島さんのように建設現場監督程度しか来なかった(だったかな?)とする説もありますが。
数代かけて纏向に到達した系図を持つ人物はいないだろうか?それならば九州の土器が出なくとも良いが。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/20 (Sat) 16:15:25

米田さん
「難升米は奴国の人」と言う説の人もいます。
その仮説に従えば、石見介さんの説(倭奴国王の子孫が大和の王:神武天皇になった)とも近くなりますね!

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/20 (Sat) 14:05:20

以下、腹をくくって書きます。
「神武天皇」の結論は出ています。


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│- 当世奇妙 2024/01/20 (Sat) 11:27:58

│結局のところ、神武天皇のモデルは、どのような人物であるのかは、
│歴史学や神話学において、今後も議論の対象となると考えられます。


「高忍日賣神社」(wikiより)←(詳しくは、wikiをお読み下さい)

祭神
:主祭神:高忍日賣大神(たかおしひめ-の-おおかみ)
:配祀
天忍男命(あめのおしおのみこと)
天忍女命(あめのおしひめのみこと)
天忍人命(あめのおしひとのみこと)

神話
当社には固有の神話がいくつか残る。初代神武天皇の父君
日子波限建鵜葺草葺不合命が生まれる際の伝承である。日子穂穂手見命
と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡る際に、妻神が急に産気づき
近くの海岸で産屋を建てて、出産することになった。

豊玉毘売命が「高忍日賣大神」と一心に唱えると
高忍日賣大神が顕現し、天忍日女命と天忍人命と天忍男命を遣わされ、
天忍人命と天忍男命には箒を作って蟹を掃き飛し、
天忍日女命には産屋に入って産婆の役目をした。

*******************************

※:神社の伝承と、各種系図を組み合わせると、結論は出ています。

※:「神武天皇」は、「難升米(梨迹臣命)」です。(確定です。)

※:理由としては、彼は「卑弥呼」の名代(みょうだい)であり、
_:本人(難升米)も魏の皇帝から、官位を貰っているからです。
_:倭の国王という権威は、中国の皇帝から認められる必要があります。

※:系図を見ると分かる通り、「伊香津臣命」の母と妻は、姉妹です。
_:これは、日本書紀の一書に合致します。

※:また、シンメトリック論では、起点は孝霊天皇から始まっています。
_:けれども、初めは、「難升米(梨迹臣命)」を起点にするはず
_:だったが、日本書紀の編集方針の変更に伴って、
_:孝霊天皇に変更されたと、読むことが出来ます。

※:とにかく、「尾張氏」の系図の、「天火明命=ニギハヤヒ」と
_:「忍日女命」の位置関係から、「神武天皇」は、確定されます。

※:さて、系図を見ると、「菟狭津媛」は「天照大神」に該当します。
(いま、机の上で、日本書紀が行方不明になっていて、困っています。)

_:たしか700年頃、持統天皇が、伊勢に行幸されるのを、
_:臣下が必死に止めようとしている話があります。
_:つまり、「天照大神」は、「宇佐」から「伊勢」に変更された。
_:つまり、この頃、日本書紀の編集方針に変更があったようです。

(その1)
:「難升米(梨迹臣命)」は、記紀に登場しない所をみると、
:250年頃(ポスト卑弥呼)の混乱の中で、亡くなったと考えられます。
:ですので、「難升米(梨迹臣命)」を排除し、代わりに、「天之日矛」
:を「孝霊天皇」として、系図を組み替えた。(改ざんした。)

(その2)
:その結果、日本書紀の「天照大神」の孫の一人である「人物」を
:「神武天皇」に仕立て上げた。この人物は、「卑弥呼」の父親です。

:「大日孁貴・稚日女尊」の子孫が治める国から、「天照大神」の子孫
:が治める国への、「国譲り」の話も重要になってきます。
:このあたりの、神話の解釈は、「天照大神」を「皇太后」として
:見ていくと、理解がしやすいと思います。

(その3)
:風土記「伊勢国」によると、伊勢の国は、「天御中主尊の12世の孫」の
:「天日別命」が平定した所である。「天日別命」は、云々。
:「12世の孫」は、「宇佐津臣命」です。

:風土記の時点で、ウソの「神武東征物語」は、出来上がっています。

(その4)
:「高忍日賣神社」の伝承は、記紀の記述とは合わなくなったため、
:しだいに、世の中から、忘れ去られてしまいました。

(その5)
:ニギハヤヒの「天の岩船」が、「天孫降臨」になるかどうか、とか。
:「神武天皇」は、何故、初代天皇なのか、とか。
:神武天皇は、天照大神の孫で正しいか、とか、色々ありますが、
:それは、また、後日に・・・。(要望があれば・・・。)

PS:「高忍日賣大神」が、自作の系図上で、誰になるか、未解決です。

PS:「尾張氏」の系図にも、色々と問題はあります。
_:(少なくとも、私は、「天村雲命」を女性にしています。)
_:(系図の吟味をしていると、切りがないので、腹をくくりました。)

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/20 (Sat) 11:27:58

Google BARDの回答です。
2回聞きましたが、回答は異なってました。
AIはどうですかね~?この分野は弱いのでは!

神武天皇」のモデルは、誰ですか?(複数回答を求む)2回目の回答!

神武天皇のモデルは、複数の説があります。

継体天皇 : 4世紀末から5世紀初頭にかけて、九州から大和に移住した継体天皇が、神武天皇のモデルであるとする説です。継体天皇は、大和に新しい政治勢力を築き、天皇号を称しました。その様子は、神武天皇の東征伝説と重なる部分があります。
邪馬台国王 : 3世紀から4世紀にかけて、九州北部に栄えた邪馬台国を統治した王が、神武天皇のモデルであるとする説です。邪馬台国の王は、大陸との交流が盛んで、強力な軍事力を持っていたと考えられています。その様子は、神武天皇の東征伝説と重なる部分があります。
ヤマト王権の始祖 : ヤマト王権の始祖である人物が、神武天皇のモデルであるとする説です。ヤマト王権は、紀元前後から紀元後3世紀頃にかけて、大和地方で形成された王権です。その始祖は、何人かの人物の中から選ばれた可能性もあります。
この他にも、神武天皇のモデルは、弥生時代の豪族、神話上の人物など、さまざまな説があります。神武天皇は、日本の初代天皇として、古くから人々に崇敬されてきました。そのモデルは、日本人の歴史観や国家観を反映したものであると考えられます。

これらの説を、歴史的史実の観点から評価すると、継体天皇説と邪馬台国王説が最も有力であると考えられます。継体天皇は、神武天皇の東征伝説と重なる部分が多い人物であり、また、邪馬台国王も、大陸との交流が盛んで、強力な軍事力を持っていたと考えられることから、神武天皇のモデルとしてふさわしいと考えられます。

しかし、神武天皇は、日本神話の中心人物であり、そのモデルは、神話的な要素も含んでいると考えられます。そのため、弥生時代の豪族や、神話上の人物がモデルである可能性も否定できません。

結局のところ、神武天皇のモデルは、どのような人物であるのかは、歴史学や神話学において、今後も議論の対象となると考えられます。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/20 (Sat) 09:40:23

Microsft Bingの回答です。
「神武天皇」のモデルについては、諸説がありますが、一般的には以下の人物が有力視されています。

1.天武天皇:日本書紀や古事記を編纂させた天皇で、神武天皇と名前が似ている。壬申の乱の際に神武天皇と同じように日の昇る方角から攻め込まなかった。
2.オホタタネコ(トヨミケヌシ):古代日本の豪族で、神武天皇と同じく日向国から東征し、大和国に都を開いたとされる。
3.饒速日命:天照大神の孫で、天磐船に乗って天降りしたという伝説がある。神武天皇の祖先ともされる。
これらの人物は、神話と歴史の間にある伝承的な存在であり、実在性や関係性は確定されていません。神武天皇の物語は、これらの人物の事績や信仰をもとに、後世に創作された可能性が高いと考えられています。
以上が、Bingで検索した結果です。参考になれば幸いです。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/19 (Fri) 17:07:35

米田さん
CHATGPTは冷たい返事でした。残念!
User(私の質問)
「神武天皇」のモデルは、誰ですか?(複数回答を求む)
ChatGPT
「神武天皇」は、日本の伝説や神話に登場する伝説上の天皇であり、歴史的な証拠は存在しません。神話において神武天皇は日本の最初の天皇とされていますが、歴史的な事実としてではなく、神話や信仰の領域に位置づけられています。そのため、神武天皇のモデルとなる具体的な個人や歴史的な存在は特定されていません。





Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/19 (Fri) 01:06:18


│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│ - 当世奇妙  2024/01/18 (Thu) 19:43:49
│米田さんのAIに対する考えは理解できないところが
│ありましたが、以下が基礎的考えと理解しました。


(その1)
:AIは、「真偽とか、信憑性を検証する」は、得意だろうと思います。

(その2):「AI」が蓄積している情報について。

│日本古代の系図は、主に『古事記』『日本書紀』などの
│古典文献や、古墳時代の古墳出土品などに記されています。

:生成AIにとっては、(今のところ)日本の歴史研究における系図は、
:主に『古事記』『日本書紀』などの古典文献を指しているようです。
:宝賀先生の「古代氏族系譜集成」や、近藤敏喬の「古代豪族系図集覧」
:等は、(今の処、)学問の対象としては、認識されていないようです。

(その3)
:同様に、「シンメトリック論」も、まだ認識されてはいないようです。

(その4):「生成AI」への質問のしかた。

Q:「歴史研究において、系図はどう扱えば良いですか?
Q:「神武天皇」は、実在しますか?
Q:「神武天皇」のモデルは、誰ですか?(複数回答を求む)

(その5):「AI」が蓄積している情報について。
:日本書紀や古事記、各種学術論文などは、AIに読込ませてあるだろう。
:けれども、「古代氏族系譜集成」や、「古代豪族系図集覧」の系図は、
:文章ではなくて、系図という「画像」になっているので、
:AIが読込んで理解出来るようになるには、まだ時間が掛かりそう。

(その6)
:記紀や先代旧事本紀などから、系図を合成する作業などは苦手だろう。
:また、掲載図のような考察は、「生成AI」は、苦手だろうと思います。

(掲載図からの考察は、「工事中」です。)

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/18 (Thu) 19:43:49

米田さんのAIに対する考えは理解できないところがありましたが、以下が基礎的考えと理解しました。
「「系図」を(間違っているとして)否定したり・切り捨てたりしてはいけないのです。(それが、たとえ改ざんであったとしても・・・。)(略)
系図は、矛盾だらけです。(たとえ、改ざんでも)「矛盾の中に、真実は隠れている」のです」
先ずは現存する系図を素直に認める。そこから何か真実が見つけよう とする考えですね。
確かに一つの考えですね。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/17 (Wed) 16:40:39


<「天皇制」についての考察>

:(だいたい)天武天皇の頃より以前には、
:「天皇制」は、なかった。

:では、どんな「政治体制」があったか。

:私は、「大王制」ではなかった、と考えています。
:私が考えるのは、「皇太后制」です。
:「大王」と「皇后」とで、政治を行う。
:「大王」が亡くなると、
:「皇太后」と息子たちと、「皇太后」の弟(大連:男弟王)と、
:娘の夫(大臣:次期大王)とで、政治を行なった。

:よく「例(たとえ)」に出てくる、「推古天皇」と
:遣隋使での「あめたりしひこ」との関係を考えてみます。

:正確に書くと、新唐書「日本伝」では、「推古天皇」の代わりに
:欽明の孫である「椎古」という女性になっています。

:私の推測では、「あめたりしひこ」=「彦人大兄皇子」です。
:ですので、皇太后は、「彦人大兄皇子」の母親になります。
:敏達天皇紀によると、「息長の真手王の娘の広姫」になっています。
:ところが、「広姫」は、敏達天皇4年11月に薨じています。

:ですので、スライド登板で、「推古天皇」が「皇太后」になった、
:というのが、日本書紀の主張です。
:皇太后の命令で、遣隋使の「彦人大兄皇子」が「大王」を名乗った、
:という立て付けです。(これが、日本書紀の主張です。)

ここからは、マニアックな考察です。

第一回遣隋使(600年):俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤
__________:「広姫」は、敏達天皇4年(575年)薨じた。
第三回遣隋使(608年):高向玄理
__________:603年、当麻皇子の妻の舎人姫王が薨じた。
第四回遣唐使(659年):東漢長阿利麻(ありま)
___有間皇子(ありまのみこ、 640年生・658年没)
________:左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)の娘、阿倍小足媛

:掲載図に出てくる、「吉備姫王」は、643年没で、「嶋皇祖母命」と
:尊称されています。
:本当は、「吉備姫王」こそ、欽明の孫である「椎古」だった。
:何らかの理由で、日本書紀は「椎古」から「推古天皇」にすり替えた。

:次期大王候補の「皇子」は、大王即位の前に、実母が薨去すると、
:大王候補から外されて、遣隋使や遣唐使などの危険な任務を任される。

:「彦人大兄皇子」は、大王になる資格が無くなったにもかかわらず、
:(遣隋使で、)「大王」を自称した。(なので、記録から外された。)

:「皇太后制」の考察も不十分なのに、こんなことを考えていました。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/17 (Wed) 15:30:23

(つづき)

(その3)
:以上のことから、日本書紀の「紀年論」としては、
:(自称)「シンメトリック論3部作」を提示します。

:日本書紀は、どのような手立てを使って、BC660年即位などという
:大ウソをついたのか、という疑問に対して、
:日本書紀は、「シンメトリック論3部作」という手立てを使って、
:年代をごまかしていた。

:つまり、「年代」は、絞り込むもの・ウソの手立てを見つける
:ことであって、真偽を問うものではないと思います。

:少なくとも、「平均在位年数論」や「2倍暦論」よりも、
:シンメトリック論の方が、(紀年論として)蓋然性は高いと思います。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/17 (Wed) 15:28:42

※:「シンメトリック論」から、何が分かるか。

:「シンメトリック論」は、(おそらく)私の「造語」です。
:「シンメトリック論」は、3つ(以上)の発見から成り立っています。

(その1)

│16 :日本@名無史さん:2005/11/17(木) 09:14:42_
│(「16/YXRFBRM」氏が発見したシンメトリック論)
│「孝霊紀から壬申紀までは、(:在位年数が)
│133/60/68/99/121/121/99/68/60/133 と区切れて面白い。」


:2012年に、ある人から、日本書紀の在位年数における
:「シンメトリック」現象を紹介されました。(それが、上記です。)
:その後、同掲示板で、marishi氏による、「37倍数論」を知りました。
:つまり在位年数のまとまりが、きれいに37の倍数になっているのです。
:これが、シンメトリック論の「2番目」です。

(marishi氏による37倍数論)在位年数のまとまりは、37の倍数になる。


孝霊天皇 BC290年─┐37×13=481年
成務天皇 AD191年─┘

仲哀天皇 AD192年─┐37×8=296年
顕宗天皇 AD487年─┘

仁賢天皇 AD488年─┐37×5=185年
弘文天皇 AD672年─┘

:上記を表にしてみると、神武天皇から孝安天皇までの、在位年数にも
:同様の法則性が見つかりました。

神武天皇 076年+2年┐(370年)
綏靖天皇 033年__│
安寧天皇 038年__│37×5=185
懿徳天皇 035年+1年┘
孝昭天皇 083年──┐37×5=185
孝安天皇 102年──┘

:すごい処は、シンメトリックと、37の倍数で、
:区切れ目が違うところもあるということです。


(その2)
:風土記を見ると、○○天皇の〇年、干支は○○と書いてあります。

P-283_孝霊天皇_伊賀国__孝霊天皇の時代・癸酉の歳
P-308_垂仁天皇_陸奥___垂仁天皇27年(戊午)
P-297_応神天皇_伊豆国__応神天皇5年(甲午)

:それで、これらの、「○○天皇○○年」と干支○○は、正しいと
:仮説を立てて、祟神天皇を300年頃として、応神天皇の誕生を380年
:として、実際の年代を計算しました。

P-283_孝霊天皇_伊賀国__孝霊天皇の時代・癸酉の歳=253年
____孝霊天皇元年(辛未)=251年

P-308_垂仁天皇_陸奥___垂仁天皇27年(戊午)=358年
____垂仁天皇元年(壬辰)=332年

P-297_応神天皇_伊豆国__応神天皇5年(甲午)=394年
____応神天皇元年(庚寅)=390年


:この時代には、天皇制はありませんから、即位という年代は、
:見かけ上の年代になります。
:(BC660年即位に比べると、少し真実に近い、大本営発表です。)

:シンメトリック論と、37倍論を見ながら、風土記の年代を組み合わ
:せると、何か(年代を改ざんする)法則性は、ないかと思案しました。
:すると、
:孝霊天皇から応神天皇まで、即位の基準年を、古い時代になるほど、
:60年ずつ、広げていることに気が付きました。

:そうすると、何人かの天皇は、併存するということになりました。
:これは、天皇制をこの時代に当てはめたら、天皇を併存させることに
:なった、ということです。(ここで、2倍暦論は、消え去ります。)

(つづく)

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/17 (Wed) 15:16:06

※:「系図」から何が分かるか。
_:(系図は、情報の宝庫である。)


│「伊香具神社(いかぐじんじゃ)」
│(ウィキペディアより)
│:伊香具神社は、滋賀県長浜市木之本町大音にある神社。
│:式内社(名神大社)で、旧社格は県社。神紋は「上藤」。
│:
│:祭神_伊香津臣命
│:『近江国風土記』逸文中の羽衣伝説に登場する「伊香刀美」と
│:同一であるといい、五穀豊穣の神徳を有すという。
│:歴史
│:上古、当地が未開の湖沼地であった頃、祭神が来て開拓し、
│:その後子孫を守護するために鎮座したといい(『近江輿地志略』)、
│:天武天皇の白鳳10年(:681年?)以前に子孫である伊香宿祢豊厚が
│:社殿を建立したという(『神社由緒記』)。


│「白鳳(はくほう)」(ウィキペディアより)
│白鳳は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号
│(逸年号とも。『日本書紀』に現れない元号をいう)の一つである。
│通説では白雉(650年〜654年)の別称、美称であるとされている
│(坂本太郎等の説)。

│『二中歴』等では661年〜683年。また、
│中世以降の寺社縁起等では672年〜685年の期間を指すものもある。


<「系図」を読む。>

(その1):「古代豪族系図集覧」での「位置」
:「伊香具」は、第三(古代地方豪族と主要社家P-133~437)の
:P-340に掲載されています。どちらかというと、終わりに近い方に
:載っています。「伊香具」は、その程度の豪族ということになります。

(その2):
:「真人」や「大連・大臣」などの(姓の)身分は、天武天皇の時代に
:確定され、(姓の)身分は、固定化されていきます。

:「伊香具」は、「伊香豊厚」の時に、改賜「伊香宿禰」とあります。
:嘉祥元年は848年ですから、「宿禰」を賜ったのは、あとの時代です。

(その3)
:「wiki」では、天武天皇の白鳳10年(681年?)以前に、社殿を建てた
:と、ありますから、「壬申功臣」の本人か、その親の世代になります。
:系図では、「伊香稲主」は、奉斎「伊香具大神」とありますから、
:社殿を建てたのは、「伊香稲主」と考えらえます。

(その4)
:「wiki」では、祭神は「伊香津臣命」となっています。しかし、
:系図では、「古加斐命」の処に「祟神朝、奉祭伊香具神」とあります。
:これは、落ちぶれていった豪族にとっては、
:誰を初代(始祖)にするかという問題です。
:「伊香具(いかご)大神」は、権力争いをする資格があったけれども、
:その権力争いに、敗れた人物だということが想像できます。そして、
:その人物(分家の氏上)こそ、「古加斐命」であるという事です。

:しかも「古加斐命」は、祟神朝の人物であるという事まで分かります。
:「梨迹臣命」は、難升米(難斗米)ですから、魏志倭人伝の人物です。
:そうすると、自動的に、祟神朝の「古加斐命」は、300年頃の人物で
:ある、という事まで分かってきます。


(余談):「神武東征」に出てくる、「宇佐津臣命」の年代。

:(系図)宇佐津臣命──御食津臣命──伊賀津臣命──「梨迹臣命」

:「梨迹臣命」は、難升米(難斗米)と考えられますから、
:「梨迹臣命」の曾祖父にあたる「宇佐津臣命」は、
:2世紀の人物だと考えられます。
:そうすると、「神武天皇」の年代や「神武東征」という年代は、
:人物(神武天皇)の有無に関わらず、「神武東征」の有無に関わらず、
:「神武天皇」の時代設定を、2世紀頃にしていることが分かります。
:つまり、(たとえ)「神武天皇」が、存在していなくても、2世紀頃に
:神武天皇(紀/記)に登場する人物たちは、実在しているのです。

:つまり、「年代」は、絞り込むものであって、真偽を問うものでは
:ないという事です。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/17 (Wed) 15:06:57


│米田さん
│歴史研究における系図の扱いを幾つかの生成AIに聞いたことが
│あります。
│GOOGLEのBARDのコメントは以下でした。
│結構まともと思いましたが、米田さんはどう思いますか。

│学術的には、系図は歴史資料の一つとして扱われます。
│系図は、ある人物の親族関係を記録したものであり、その人物の出生や
│死亡、また、その人物が他の人物とどのような関係にあったのかを示す
│ことができます。そのため、系図は、古代日本の社会構造や家族制度、
│さらには政治史や外交史などを研究する上で重要な資料となります。

│また、系図は、その記述内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、
│他の史料や考古資料などと照合しながら、
│その信憑性を検証する必要があります。


※:(まず、)結論を書きます。

:系図は、社会性を伴った「親族関係を記録したもの」であって、
:生物学的(血統的)な続柄を記録したものではない、ということです。

:大河ドラマで「篤姫(あつひめ)」が、「島津の殿様の娘」でしたら、
:それは、正しいのです。(それが、たとえ養女であってとしても。)
:それが、正しい「系図」なのです。

:「系図は、その記述内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、‥‥
:_その信憑性を検証する必要があります。」
:そうやって、信憑性を検証して、×(バツ)だったら、
:その系図を否定する。
:(これを、世の中の人は、科学的検証だと思っているらしい。)
:「系図」を(間違っているとして)否定したり・切り捨てたりしては
:いけないのです。(それが、たとえ改ざんであったとしても・・・。)

:系図は、(基本的に、)すべて(社会的には)正しいのです。でも、
:系図は、矛盾だらけです。
:(たとえ、改ざんでも)「矛盾の中に、真実は隠れている」のです。

*****

:私事を書きます。私は、「米田家」の(たしか)8代目です。
:10年位前に、初代から4代目までの、墓を見て来ました。
:(うろ覚えですが、)5代目は、娘になって、
:6代目(祖父)は、養子のはずです。
:(米田家は、純粋な男系の家系ではないです。)ついでにいうと、
:父の弟(ふたり)は、養子に出ています。私(二男)は、高校時代、
:祖父母と同居し、養子に出るはずでしたが、兄が、養子に出ました。
:そして、甥っ子は、また「養子」となって、米田を名乗っています。

:私は、「姓(苗字)」は、「屋号」のようなものだと思っています。
:私が「系図」に、こだわる理由は、家系が影響していると思います。


│系図は、(基本的に、)すべて(社会的には)正しいのです。
│系図は、矛盾だらけです。矛盾の中に、真実が隠れているのです。

:私は、「系図解読・復元マニア」を自称しています。
:矛盾する複数の系図(続柄)から、生物学的な「系図(血統書)」を
:復元する作業をしています。

生成AI BARDの系図に関する意見 当世奇妙

2024/01/16 (Tue) 20:05:21

米田さん
歴史研究における系図の扱いを幾つかの生成AIに聞いたことがあります。
GOOGLEのBARDのコメントは以下でした。
結構まともと思いましたが、米田さんはどう思いますか。

学術的には、系図は歴史資料の一つとして扱われます。系図は、ある人物の親族関係を記録したものであり、その人物の出生や死亡、また、その人物が他の人物とどのような関係にあったのかを示すことができます。そのため、系図は、古代日本の社会構造や家族制度、さらには政治史や外交史などを研究する上で重要な資料となります。

日本古代の系図は、主に『古事記』『日本書紀』などの古典文献や、古墳時代の古墳出土品などに記されています。これらの系図は、いずれも作成された時代や目的によって、その内容に偏りや不正確な部分があることに注意が必要です。そのため、系図を学術的に扱うためには、まず、その系図がどのような目的で作成されたのか、また、その作成年代や作成者について、考察する必要があります。

また、系図は、その記述内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、他の史料や考古資料などと照合しながら、その信憑性を検証する必要があります。例えば、ある系図で、ある人物が特定の人物の子孫であると記されている場合、その記述を裏付ける他の史料や考古資料が存在するかどうかを調べる必要があります。

このように、日本古代の系図を学術的に扱うためには、その系図の作成背景や信憑性を十分に考慮する必要があります。その上で、系図が示す情報を、他の史料や考古資料などと組み合わせながら、古代日本の社会や歴史を解明する上で活用していくことが重要です。

具体的には、以下の点に留意して、系図を学術的に扱う必要があります。

系図の作成目的や作成年代を明らかにする。
系図の記述内容を他の史料や考古資料などと照合する。
系図の記述内容を批判的に検証する。
これらの点に留意することで、日本古代の系図をより正確に理解し、その歴史的意義をより深く理解することができるでしょう。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/16 (Tue) 08:02:52

:「古代豪族系図集覧」は、「系図集」と、以後、表記します。

:話の発端は、<ふたつの「伊香連祖」の解釈>と、
:<「伊世理命」は、男か女か>という論争でした。

:片方は、「姓氏録」・「系図集」です。そして
:もう片方は、「風土記」です。

:記紀・風土記の成立を考えてみると、次のように考えています。
:まず、「原:古事記」があって、それをもとにして、「原:日本書紀」
:が、作られました。(この時には、倭武天皇や市辺天皇は、あった。)
:(700年前後のこのころ、風土記が文書化された。)
:700年頃を境にして、急に、日本書紀の編集方針が変更された。
:「新:日本書紀」が作られ始めた。
:締め出された連中が、作られ始めた「新:日本書紀」を参考にしつつ、
:712年、新しい(矛盾に満ちた)「新:古事記」を完成させた。
:720年、「新:日本書紀」が、完成した。

:「系図集」は、社会的な(養子を含む)系図です。ですので、そもそも
:「系図集」や「記紀」に、生物学的・血統書的な続柄を求めるのは
:間違っているのです。
:(古代においては、)系図の付け替えは、ごく普通のことです。
:ただ、その系図の付け替えには、規則性があります。
:「連れ子の実子扱い」「娘婿の実子扱い」「夫婦同名(すり替え)」
:などです。


│「近江国・風土記」
│:伊香刀美(いかとみ)は、天女の妹とともに夫婦となって、云々。
│:男2人女2人。
│:兄の名は、意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、
│:女は伊是理比売(いぜり)、次女の名は奈是理比売(なぜり)、
│:これは、伊香連の先祖である。(云々)


│「古代豪族系図集覧」より、「伊賀津臣命」の子ども3人。
│┌─梨迹臣命
│┼─臣知人命(伊香連祖)
│└─伊是理命(畝尾連祖)


│「伊世理命」(畝尾連祖)
│姓氏録-和泉国神別は、畝尾連を天児屋根の後とする。


伊賀津臣命
伊香刀美─┐┌─意美志留(おみしる)←臣知人命(伊香連祖)
(いかとみ)├┼─那志登美(なしとみ)←梨迹臣命
_____│├─伊是理比売(いぜり)←伊是理命(畝尾連祖)
天女の妹─┘└─奈是理比売(なぜり)
________(伊香連の先祖)


※:このほかには、下記の系図があります。

─伊賀津臣命──臣知人命──○──古加斐命(祟神朝奉祭伊香具神)

┬─日子刺肩別命──意加都彦命(一作鴨別弟)
├─彦五十狭芹彦命(又名吉備津彦命)
├─彦狭嶋命
└─稚武吉備津彦命(又名稚武彦命)─御鉏友耳建彦命(又名吉備津彦命)

※:この場合には、私は、生物学的には、風土記の続柄表記が、
_:いちばん正確だろうと考えています。


│:話の発端は、<ふたつの「伊香連祖」の解釈>と、
│:<「伊世理命」は、男か女か>という論争でした。

:さて、これらの条件から、系図をどう復元できるでしょうか。です。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/15 (Mon) 16:28:59

.
<「系図解読」物語>


│自称「系図解読・復元マニア」が、
│「系図」を使って考察をしてみました。

普段「系図」に慣れ親しんでいない人にとっては、
「系図」で、何が分かるんだろう、と思うことでしょう。

さらに、『古代豪族系図集覧』に書かれた「系図」は、
どこまで信じられるのだろうか、特に、米田は、勝手に
自作の系図を使って、何か変なことを主張しているし‥‥。

学問というのは、何かの「仮説や主張」は、多くの人による
「再検証(追認)」という作業によって、定説になっていくはずである。
それなのに、米田は、自分勝手なことをしているだけである。・・・。

いったい、米田は、何を見、何を比較し、何を考えているのだろうか。

そんな(みなさんの)疑問に応えようと思って、
(つまり、「再検証(追認)」という作業をしてもらうために)
これから、思いつくままに書いていこうと思います。


│Re: 「系図」を使って考察してみました。 2024/01/05 (Fri) 23:27:18
│仮説:「意加都彦命」は、「伊香津」氏の系図に重なるはずである。


系図(記紀)の世界では、「いかつ**」は、複数の人物の名前として
登場しています。(私は、4~5人に区別しています。)
(これは、似ているけれど「別人」という話です。)

「いかつ**」→「伊賀津-臣」
「いかつ**」→「迦邇米(カニメ)雷王」←(古事記:開化天皇記)
「いかつ**」→「雷(いかずち)大臣命」←(「古代豪族系図集覧」)
「いかつ**」→「伊香具:いかご」←←←←「伊香津」は、不明。
「いかつ**」→「意加都彦命」←←←←←←(「古代豪族系図集覧」)

(「いかが**」→「伊香色雄命」・「伊香色謎命」)

PS(01月17日、追記)
:「いが**」→「大伊賀彦命」←(「古代豪族系図集覧」安倍氏)


<名前についての考察>

:神武天皇紀と「古代豪族系図集覧」より、「母子同名」と考えます。

天種子命─┬─宇佐津臣命
菟狭津媛─┘

:祟神天皇と后は、「御間城**」で「夫婦同名」と考えます。

開化天皇──┬─「御間城-入彦」五十瓊殖天皇─┬─(垂仁天皇)
伊香色謎命─┘______「御間城-姫」命──┘

:「伊香色謎命」と「伊香色雄命」は、「兄弟姉妹で同名」です。

──大綜杵命────────────────伊香色雄命
┬─大綜杵命────────伊香色謎命─┬─御間城入彦(祟神天皇)
└───────欝色謎命─┐_開化天皇─┘
──孝元天皇───────┴─大彦命────御間城姫命


<「建借馬命」と「国摩-大鹿嶋命」は、同一人物だろうか。>

:景行紀:吉備武彦と大伴武日連とに命じて、日本武尊に従わせた。
:常陸風土記:祟神天皇のみ世に、(云々)建借間命を遣わした。
:同上・注記:『旧事記』には成務朝に「建借馬命」を云々。
:「系図」_:神聞勝命──○○──国摩大鹿嶋命(一作神聞勝命子)

:私は、「一作、神聞勝命子」を正しいと考えました。


<大胆な「系図復元案」>(ここからが、本題です。)

(元の系図)

──大綜杵命───────────────伊香色雄命
┬─大綜杵命───────伊香色謎命─┬─御間城入彦(祟神天皇)
└──────欝色謎命─┐_開化天皇─┘
──孝元天皇──────┴─大彦命────御間城姫命


(大胆に復元した系図・案)

_(稚武彦命=大伴豊日命)________(吉備武彦命=大伴武日連)
_(大綜杵命=神聞勝命)_________(御鉏友耳建彦命=彦坐王)
──開化天皇──────────────┐(伊香色雄命=建借馬命)

──大綜杵命────┬─伊香色謎命──┐┴─御間城入彦(祟神天皇)
───欝色謎命──┐┘(播磨稲日大郎姫)───日本武尊(倭武天皇)

──孝元天皇───┴──大彦命────┴──御間城姫命

__孝元天皇后_____開化天皇后_____祟神天皇后
(倭迹迹日百襲姫命)


(系図復元の根拠・理由)

(その1:「箸墓古墳」)
:箸墓古墳の主は、女性です。女性の死を悼んで、神様(男たち)は、
:働いています。(この時代の女性は、男よりも偉かった。)

(その2:「常陸国風土記」と「宮の主」)

│(「風土記」ウィキペディアより)
│『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年)の条が
│風土記編纂の官命であると見られている。

:(風土記)斯貴端垣宮に大八洲をお治めになった天皇(祟神天皇)の
:み世に(云々、)建借間命を遣わした。

:天皇という称号が無かった時代(3世紀ころ)に、倭国の支配者と
:思える人物を考えると、「卑弥呼」「台与」「箸墓の主」である。
:みな女性です。
:ですので、后(きさき)の夫(王配)を、天皇と名付けたと考えて
:みました。
:そうすると、太后(后)が、息子たち(日本武尊・祟神天皇)を
:関東に遣わした。と、読むことが出来ます。つまり、
:関東に遣わしたのは、「伊香色謎命」である、と考えました。


(その3:吉備氏の系図・中臣氏の系図)
:吉備氏の系図では、景行天皇は、孝霊天皇の子どもたちと同世代です。
:「建借間命」と「国摩大鹿嶋命」は、同一人物と考えられます。

(その4:記紀の「大ウソ」)
:記紀では、景行天皇は、垂仁天皇の子どもです。
:実際は、景行天皇(彦狭嶋命)は、孝霊天皇の子どもでした。
:(これが、記紀では、一番の大ウソ・改ざんでした。)
:景行天皇紀55年、彦狭嶋王が云々、薨じた。(311+54-60=305年)

(その5:先代旧事本紀=『旧事記』との整合性)

常陸国風土記:「建借間命」は、祟神天皇の時代です。
日本書紀__:「日本武尊」「吉備武彦」は、景行天皇の時代です。
先代旧事本紀:「建借馬命」は、成務朝の人物です。

:シンメトリック論から各天皇の(見かけの)在位を計算すると、
:下記のようになります。

祟神天皇:300~331年
景行天皇:311~371年(彦狭嶋王は、景行55年:305年、薨じた。)
成務天皇:311~371年

:シンメトリック論により、祟神天皇(建借間命)は、成務天皇の
:(見かけの)時代にも生きていることが分かります。

(その6:系図書き換えの法則)
:夫婦同名、兄弟姉妹の同名、親子の同名など。
:連れ子の実子扱い。娘婿(入り婿)の実子扱い。

:「矛盾の中に真実がある」を座右の銘にして復元作業をしてきました。
:「系図復元」には「系図書き換えの法則」があることが分かりました。


※:自称「系図解読・復元マニア」の「系図復元」作業は、
_:(20年以上、)今も続いています。


│自称「系図解読・復元マニア」が、「古代豪族系図集覧」を使って
│記紀の「系図」を使えるように、復元しました。そして、その
│「系図」を使って(「伊香連祖」の謎を)考察してみました。

(つづく)

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/15 (Mon) 15:58:16

.
<掲載図の説明(解説)>

(仮説:吉備地方の支配者には、名前に「吉備」が付いているだろう。)

・名前に「吉備」が付く人物は、父らしい「大吉備諸進命」と
_その子二人と孫ひとりに、「吉備」が付いています。
・支配者は、単純に親子の世襲で、繋がっている訳ではないようです


(仮説:「意加都彦命」は、「伊香津」氏の系図に重なるはずである。)

・そうすると、「大吉備諸進命=臣知人命(伊香連祖)」になります。

・また、風土記(P-301)では、奈是理比売が「伊香連」の先祖に
_なっていますが、この条件も同時にクリアしています。

(以下、中断)

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/10 (Wed) 13:18:19


│坂靖ヤマト王権論(当世コメント3) - 当世奇妙
│2023/12/29 (Fri) 13:45:01

│いずれにしても、邪馬台国畿内説でも東海が狗奴国ではありえない。
│さすれば畿内説では東海以外に狗奴国を探さなければならない。


┌────┐┌───┐←(卑弥呼の父方の部族による国家)
│邪馬台国││拘奴国│←(後漢書:独身の卑弥呼の死によって消滅)
└────┘└───┘
_││
┌───┐(魏志倭人伝)
│狗奴国│(魏書:卑弥呼と敵対する、卑弥呼の父方部族の残存勢力)
└───┘(景行天皇・日本武尊によって、鎮圧された。)

※:国は「地域国家」の要素が大きいですが、支配者の氏(うじ)に
_:よっては、簡単に、国名(狗氏の国家)は変更されると、考えます。

※:もともと「ヤマタイ国」は、地域国家「ヤマタ国」だったかも‥‥。

※:卑弥呼の亡くなった畿内は、「邪馬台国」に看板を掛けかえた。
_:そんなことを、考えています。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/08 (Mon) 17:29:28

.

│「纒向編年(まきむくへんねん)」
│(ウィキペディアより)
│:奈良盆地南東の三輪山のふもとに広がる
│:纒向遺跡は、2世紀末葉に突如出現して、
│: 4世紀中葉ころに突然消滅した大集落遺跡である。

(:○○)は、<ウィキペディア>/米田の、年代推測です。

│坂靖ヤマト王権論(当世コメント2) - 当世奇妙
│2023/12/28 (Thu) 16:41:27

│初期纏向遺跡を作った人々が
│外来土器をもたらした人達という可能性も全否定は出来ない。

│(:180年-210年_纒向1類_北溝北部下層__弥生V様式末)
│纏向1式時期における纏向遺跡の土器は圧倒的(50%程度)に
│東海である。次いで吉備。
│もし外来の人とすれば、この二地域の誰かの可能性が高い。
│弥生終末(:3世紀)に勢いがあったのは吉備と思われる。纏向を
│作ったのはヤマト人と吉備人・東海人も参加した連合かもしれない。

│唐古・鍵の外来土器を見ると
│弥生中期は瀬戸内の土器が多いが、(:BC200年頃~AD50年頃)
│後期になると瀬戸内は減り、近江が増える。(:AD50年頃以降)

│邪馬台国連合が伊都国を関所にして瀬戸内からの往来を制限したので、
│唐古・鍵の人は日本海ルートを模索し、近江と結んだのではないか。

│吉備もヤマトー近江ルートを頼り、吉備がヤマト進出を行い、
│吉備主導で初期纏向集落を築いた可能性もある。

*********************
「彌彦神社」御由緒 より

彌彦神社の御創建について、社伝によると
天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に
越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、
御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。

<シンメトリック論からの年代考察>

_天皇__大本営発表_(修正)_(補正後の見かけの即位年)

神武天皇_BC660年←780年差→AD121年(60×13=780)
(風土記、孝霊天皇の御宇:みよ:253年=癸酉)(AD251年・辛未)
孝霊天皇_BC290年←540年差→AD251年(60×9)
孝元天皇_BC214年←480年差→AD267年(60×8)
開化天皇_BC157年←420年差→AD264年(60×7)

※:孝安天皇の即位年を、計算してみます。

孝安天皇元年(西暦紀元前392年:太歳:己丑:つちのと・うし)

孝安天皇_BC392年←600年差→AD209年(60×10)

※:「天香山命」の伝承と、風土記近江国「伊香刀美(伊賀津臣命)」の
_:伝承を組み合わせると、次のようになります。


│190年代:「天香山命」は、越の国に赴任する。(近江国を通る。)
│____:伊香の郡で、娘の「天女の妹」は「伊香刀美」の妻になる。
│209年_:「天香山命(葉江)」は、越の国で、亡くなる。

│190年代?:「猪手」は、出雲の国に赴任しているようです。


*********************

│「纒向編年(まきむくへんねん)」(ウィキペディアより)
│:奈良盆地南東の三輪山のふもとに広がる纒向遺跡は、2世紀末葉に
│:突如出現して、4世紀中葉ころに突然消滅した大集落遺跡である。


垂仁天皇_BC29年←300年差→AD272年(60×5)(AD332年・壬辰)

:垂仁天皇紀25年(332+24=356年)3月10日、
:天照大神を豊鍬入姫命から離し、倭姫命に託した。
:(おそらく、356年に、豊鍬入姫命は、亡くなったのだろう。)
:(そして、この時点で、纏向集落は、消滅したと思われます。)

Re: 「系図」を使って考察してみました。 当世奇妙

2024/01/06 (Sat) 11:09:04

米田さん
纏向編年の情報ありがとうございます。
系図の方はもう少し勉強します。
私が言いたかったのは「当世コメント2」の方です。
纏向遺跡への外来土器の入り方から、纏向の主導者は吉備などの外来者の可能性を考えました。
「初期纏向遺跡を作った人々が外来土器をもたらした人達という可能性も全否定は出来ない。纏向1式時期における纏向遺跡の土器は圧倒的(50%程度)に東海である。次いで吉備。もし外来の人とすれば,この二地域の誰かの可能性が高い。弥生終末に勢いがあったのは吉備と思われる。纏向を作ったのはヤマト人と吉備人・東海人も参加した連合かもしれない。唐古・鍵の外来土器を見ると弥生中期は瀬戸内の土器が多いが、後期になると瀬戸内は減り、近江が増える。邪馬台国連合が伊都国を関所にして瀬戸内からの往来を制限したので、唐古・鍵の人は日本海ルートを模索し、近江と結んだのではないか。吉備もヤマトー近江ルートを頼り、吉備がヤマト進出を行い、吉備主導で初期纏向集落を築いた可能性もある」
追記:吉備は日本海ルートを求めて出雲勢力とも結んでいる様子が、特殊器台や他の土器からも見える。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/05 (Fri) 23:35:11

.
.
.
.
**********************
*******
「纒向編年(まきむくへんねん)」(ウィキペディアより)
:纒向編年とは、日本の奈良県桜井市に所在する纒向遺跡において、
:発掘調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所石野博信と、
:豊岡卓之による纒向遺跡出土の弥生土器・土師器を分類・整理して
:得られた編年である。1類から5類に区分される。


暦年代____纒向編年_土器出土遺構__対応する土器型式

180年-210年_纒向1類_北溝北部下層__弥生V様式末
210年-250年_纒向2類_辻地区土坑2__庄内I式(庄内古式)
250年-270年_纒向3類_南溝南部____庄内II式(庄内新式)
270年-290年_纒向4類_辻地区土坑4_庄内III式(新新式)布留0式
290年-350年_纒向5類_辻地区土坑4__布留Ⅰ式

*****************************

(常陸国風土記:P-028)
:綺日女命・常陸国_筑紫の日向→三野(美濃)
:綺(日女)=神機(姫)=かむはた(ひめ)

(常陸国風土記:P-028)
:古老がいうことには、
:「すめみまの命(皇孫瓊瓊杵命)が天からお降りになったとき、
:御服(みぞ)を織るために従って降った神、み名は、綺日女命は、
:もと筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯より、
:三野(美濃)の国の引津根の丘においでになった。
:後、みまき天皇(崇神天皇)のみ世になって、長幡部の遠祖多弖
:(たて)命は、三野(美濃)を去って、久慈に移り、
:機殿(はたどの)を造り立てて初めてこれを織った。
:その織るところの布はひとりでに衣裳(きもの)となり、
:あらためて裁ち縫う必要がなく、これを内幡(うつはた)
:(完全な服:はた)といっている。」
:あるひとはこうもいう、
:「絁(あしぎぬ:太絹)を織るときにあたって、容易に人に見られて
:しまうので、家のとびらを閉じきって暗闇のなかで織った。云々。」

*****

系図を見ていて、気が付くこと。

・景行天皇は、(時期的にも)彦狭嶋命と同一人物だろう。
・綺日女命は、筑紫の日向から、(纏向をスル―して)三野(美濃)に
_たどり着いています。
_「纏向のスル―」には、何か意味がありそうな気がしています。

Re: 「系図」を使って考察してみました。 - 米田

2024/01/05 (Fri) 23:27:18


│坂靖ヤマト王権論(当世コメント1)
│- 当世奇妙2023/12/27 (Wed) 16:47:55

│ヤマトの弥生遺跡で最も繁栄していた唐古・鍵遺跡の
│上流に出来た小規模遺跡の纏向遺跡。
│その纏向遺跡が古墳時代幕開け前後に大きくなって
│ヤマト王権の中心となり、徐々に連携地域を広めて行くと言う。

│何故唐古・鍵遺跡がヤマト王権の中心にならなかったのだろうか?
│最初に纏向遺跡を作った人々はどのような人々だったか?
│纏向遺跡の纏向1式の土器のほとんどはヤマトの土器である。
│従って纏向遺跡は唐古・鍵からはみ出た人々だったのでは?
│次第に外来土器が増えるが北九州の土器は無い。
│(:庄内)1式・2式では外来土器は圧倒的に東海の土器が多い。
│吉備土器は1式では2番目に多いが、3式では極端に少なくなる。

*****************************

<掲載図の説明(解説)>

(仮説:吉備地方の支配者には、名前に「吉備」が付いているだろう。)

・名前に「吉備」が付く人物は、父らしい「大吉備諸進命」と
_その子二人と孫ひとりに、「吉備」が付いています。
・支配者は、単純に親子の世襲で、繋がっている訳ではないようです


(仮説:「意加都彦命」は、「伊香津」氏の系図に重なるはずである。)

・そうすると、「大吉備諸進命=臣知人命(伊香連祖)」になります。

・また、風土記(P-301)では、奈是理比売が「伊香連」の先祖に
_なっていますが、この条件も同時にクリアしています。

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