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「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/13 (Tue) 14:35:45

ここのスレは、下記の、続きのスレです。

スレ:「系図」を使って考察してみました。

自称「古代史・図解マニア」が、史料(資料)の
文章を理解するために、図示(年表・系図)をし、
それを使って考察(図解)をしてみました。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/04/29 (Mon) 00:18:13

 神話伝説から当代までを記述したような、各国の「最初の史書(群)」に於いては、特に、初期の神話から伝説的初代国家の始祖王、初期王朝、伝承的な王朝から実在性の高い王朝、現王朝の始祖や初期大王の年代決定は、史書撰述時の近現代史の確実な年代からの遡及に際し、支配層の意図的な虚偽や資料不足による過誤等の無意識的な虚偽の為、困難が伴います。
 王や皇帝の「平均在位年数」や、その系譜の「平均世代交代年数」と言った、統計学的な手法は、年代決定のための、[定点」が、古代に求め難い時の、便法に過ぎません。

 中国の場合、最初の史書司馬遷『史記』で、神話時代の「五帝本紀」の後の、夏、殷(商)、周,そして、当代の漢の歴史が、記述されていますが(「三皇本紀」は後人の追補)、甲骨文や金文(青銅器銘文など)、或いは墓誌等の発見により、殷、周の実在や年代が保証され、記述内容の解釈が、確定しました。
 それでも、西周の滅亡と東周時代への移行は、金文や『竹書紀年』が無ければ、『史記』の記述からは、西周末期の周の東西分裂と、東周による西周の討滅、西周の休王や携王などの名は、不明のままだったでしょう。
 日本の記紀の場合は、稲荷山鉄剣銘など、金石文資料が少なく、その「辛亥年」が、AD471年か,531年かも、定説になっていません。それで、私は、前述のように、応神の活動年代を、仮に、AD400年前後としました。

 半島の史書『三国史記』は、各国の始祖王の出生譚こそ、神話部分がありますが、基本的に、「歴史」としての記述になっています。しかも、編者の金富軾は、十分に、中国の史書を読み込んで、年代等の齟齬を、避けています。
 「最初の史書」としての性格、要件を、明らかに、「欠如」しているのです。王氏高麗の勅撰史書、俗にいう「旧三国史」が存在したのに、建国後十数代を経て、何故か、王朝以前の時代を主に扱う二つ目の勅撰史書の編纂の詔勅が出された。
 胡散臭さは、日本の史書を、遥かに上回り、しかも、引用された原資料や、最初の勅撰史書は、ほとんど失われた。
 12世紀の史料の残存度を、日本と比較して、且つ、時代が写本の時代から刊本の時代へと、移行しつつあったことをも考えると、私は、王氏高麗で故意に、『三国史記』以前の史料を、破棄した可能性が高い、と疑っています。そのような観点から、私は、『三国史記』の記述内容には、日本の記紀以上の史料批判が、前提になると考えています。

 米田さんの系譜復元では、自在に、人物が、国、氏族、時に性別すら、変えてしまいます。
 この部分が、私が、最も拒否反応を起こす部分です。米田さんの、資料批判の過程が、理解できないからです。

 日本の皇族や藤原氏などのY-DNAデータが、公表されてはいませんが、現代人のデータから考えて、縄文系主流のY-D1a2系が、継体欽明皇統の型である蓋然性は、高いと思われます。
 それを考慮に入れて、古代史像を組み立てる時期に、差し掛かっているように、私は、感じています。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 管理人

2024/04/28 (Sun) 05:20:01


│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2)
│- 石見介  2024/04/21 (Sun) 22:37:36

│後、米田さんの思考で気になるのは、日本の史書、記紀に対する
│強い不信と、裏腹の外国史書に対する、無条件とまでは言いませんが、
│史料批判を著しく欠いた「新江合(?)」です。

│人間は、意識的、無意識的に、「ウソをつく」能力を備えた動物です。
│12世紀に成立した『三国史記』の語る新羅史を信用し、
│7~8世紀成立の記紀の語る日本古代史の全面的否定~読み替えは、
│文献批判の常道を、大きく外れていると、私には、思われます。


:新羅本記では、真興王の生年(534/526)が問題になっています。

(新羅本記:真興王:在位:540~576)
:真興王は、540年に即位したとき、年が7歳であった。←(534年生)
:法興王の弟の葛文王立宗の子である。
:王母は、夫人金氏で、法興王の娘である。
:王妃は、朴氏恩道夫人である。
:王が幼少であったので、王の太后(王母)が政治を代わって行った。

(注:)
:『三国遺事』巻九 真興王条では、15歳(526年生)で即位したと
:あるが、王母が摂政となったとあるから、7歳説がよい。


(日本書紀:欽明天皇紀:欽明天皇は509年生。)
:宣化天皇(法興王)の娘「石姫(夫人金氏)」を立てて皇后にした。
:二男一女を生んだ。長子を「箭田珠勝大兄皇子」という。
:次子を敏達天皇という。末子を「笠縫皇女」という。
:皇后の妹で「稚綾姫皇女」という。「石上皇子」を生んだ。
:552年、「箭田珠勝大兄皇子」が薨じた。

宣化天皇─┬┬石姫皇女──箭田珠勝大兄皇子(526年生・552年没)

橘仲皇女─┘└稚綾姫皇女─石上皇子┐「箭田珠勝」が亡くなった。
宣化天皇───日影皇女──倉皇子_┘(真興王534年生・576年没)

:<蔚珍鳳坪碑>__:(抜粋)___想像:盟約を石に刻んで残した。
甲辰年正月十五日
「喙部」_「牟即智寐・錦王」←←←←←「法興王」←←「宣化天皇」
「沙喙部」「従夫智葛文王」←←←←「葛文王立宗」←←「欽明天皇」

「新羅六部」殺斑牛口口口事大人←←←:斑牛を殺して天に誓った。
「喙部」内沙智「奈麻」
「沙喙部」一登智「奈麻」男次邪足智
「喙部」比須婁邪足智居伐牟羅
「喙部」尓夫智「奈麻」節書人牟珍斯利公吉之智
「沙喙部」善文吉之智新人
「喙部」述刀「小烏帝智」
「沙喙部」牟利智「小烏帝智」

_尓(なんじ)__宜(ぎ・むべ)__尸(しかばね)
_貪(むさぼる)__珎(ちん)

:「甲辰年正月十五日」との書き出しによる、元は高句麗領であった
:領域の民への教書的な文言であるところから、
:法興王11年(524年)の建立であることが確実視されている。

<『三国史記』における、ウソの付き方>

:真興王は、元来、526年生の「箭田珠勝大兄皇子」でした。
:それを兄弟争いで、「箭田珠勝大兄皇子」が亡くなったために、
:552年に、534年生の「石上皇子・倉皇子」のどちらかが、
:「王」に即位した。

(『三国史記・列伝』:「居柒夫」)
:真興大王6年乙丑(545年)に、朝廷の命令を受けた〔居柒夫〕は、
:多くの文士を集めて国史を撰修し、云々。

※:「居柒夫」が、国史を撰修していますが、「526年生の真興王」が
_:552年に亡くなったために、「534年生の異母弟」を立てて、
_:(国史を改ざんして)真興王とした、ように見えます。

※:国史の改ざんでは、真興王の生年(534年/526年)は、
_:両方とも正しいことが分かります。

PS
:(また、)仏教の伝来以前の半島(倭国)では、斑牛を殺して誓いを
:立てていたように見えます。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/25 (Thu) 09:57:46


<日本書紀の記述では、(私は)何を信じるか。>

│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 石見介
│2024/04/25 (Thu) 00:58:02

│私は、記紀の諸天皇の在位年代を、特定できず、大雑把に、
│応神天皇の活動年代を,AD400年前後と推定し、そこから、
│1世代20年と推定し、応神の4世代前の第10代崇神の活動年代を,
│AD300年前後、第5代孝昭の活動年代を.AD200年前後、神武天皇は,
│AD100年前後が、活動年代だと言う推定です。

│神武は、所謂東征時に、庶長子タギシミミを同伴し、神武の妻
│ヒメタタライスケヨリヒメ(名に異同あり)は、神武没後、
│タギシミミの妻になっており、記紀の記述からは、神武没後、その
│後継者であったことは明白なので、神武と綏靖は世代的には、間に
│もう1世代挟んだ間隔で計算するのが良いだろう、という考えです。

│米田さんの応神のAD390年は、高句麗好太王碑の碑文の倭のとして、
│都合が良く、私もそうしたいのですが、概算での数字に、恣意的に、
│都合の良い数字を挟むのは、恣意的過ぎると感じ、差し控えています。

>「そこから、1世代20年と推定し」

:系図をいじっていて、記事の何を信じるかを、ずっと考えていました。
:つまり、人間は、都合よく、20年ごとに死ぬのだろうか、と。
:都合よく20年ごとに死んで、20年ごとに次の天皇が即位するという、
:物語は、どう考えても、ウソである、と。
:では、20年ごとに、何があったのか。何かあったはずである。

:私は、訥祇王と允恭天皇を同一人物にしていました。(記述では、)

・訥祇王は、417年に、実聖王(&朴堤上)を殺して、即位しています。
・允恭天皇は、412年に、忍坂大中姫命と結婚して、即位しています。

:ちなみに、允恭7年(418年:日本書紀は、「翌年即位」を採用。)
:皇后の妹(同母妹。朴堤上の娘)衣通郎姫を妃に差し出しています。
:三国史記・列伝では、朴堤上の娘を未斯欣に与えています。
:では、允恭天皇は、皇后の妹を妃にしたのか、していないのか。
:じつは、同母妹ではなくて、異母妹・吉備稚媛を妃にしていたのです。

允恭天皇────────────────────┬─磐城王

若野毛二俣王───────────┬─吉備稚媛─┘──星川皇子
朴堤上───────┬─衣通郎女─┘(未斯欣の娘)___(炤知王)
(↑417年被殺↓)
─実聖王(磐之媛)─┐┘
若野毛二俣王───┴─大中姫命───雄略天皇──星川皇子(炤知王)
(未斯欣)

:朴堤上は、新羅の「そう良州(梁山郡)」の干(長官)でした。
:奈勿王(神功皇后)と実聖王(磐之媛)は、武内宿禰の娘です。

:つまり、
:神功皇后の三韓征伐とは、武内宿禰の二組の「娘&娘婿」の争い。
:「神功皇后&応神・父」と「実聖王&朴堤上」の戦いだったのです。
:ついでに言うと、広開土王(安)は、武内宿禰の子どもでした。
:「広開土王(高麗王)」と「息長日子王(倭王)」の争いで、
:こちらは、広開土王(高麗王)の勝利。

:何をしているのかというと、武内宿禰(成務天皇)が、倭国から
:高句麗まで、(390年頃まで)支配していたのです。
:武内宿禰は、「息長」・「安(あん)」・「安(やす)」なのです。
:武内宿禰は、それなりに長寿でしたが、亡くなったために、
:息子・息子・娘婿・娘婿のあいだで、跡目争いをしていたのです。

:日本書紀の神功皇后紀には、太歳記事がふたつあります。
:辛巳(381年)と、己丑(389年)です。
:武内宿禰の没年は、不明ですが、死亡が太歳の前年とすると、
:もしかすると、388年に亡くなったのかも知れません。

:話が脱線してきました。
:つまり、
:新羅本記は、王の死去・次王の即位を基準に史書を書いています。
:対して、日本書紀は、后の結婚を基準に史書を書いているようです。
:(だから、20年ごとに、天皇が即位しているように見えるのです)

:日本書紀の一番のウソは、天皇の存在であり、天皇の順番なのです。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/04/25 (Thu) 00:58:02

 私は、記紀の諸天皇の在位年代を、特定できず、大雑把に、応神天皇の活動年代を,AD400年前後と推定し、そこから、1世代20年と推定し、応神の4世代前の第10代崇神の活動年代を,AD300年前後、第5代孝昭の活動年代を.AD200年前後、神武天皇は,AD100年前後が、活動年代だと言う推定です。神武は、所謂東征時に、庶長子タギシミミを同伴し、神武の妻ヒメタタライスケヨリヒメ(名に異同あり)は、神武没後、タギシミミの妻になっており、記紀の記述からは、神武没後、その後継者であったことは明白なので、神武と綏靖は世代的には、間にもう1世代挟んだ間隔で計算するのが良いだろう、という考えです。

 米田さんの応神のAD390年は、高句麗好太王碑の碑文の倭のとして、都合が良く、私もそうしたいのですが、概算での数字に、恣意的に、都合の良い数字を挟むのは、恣意的過ぎると感じ、差し控えています。

 古墳時代に、それなりの渡来人流入があった事は、遺伝人類学などでも確認されているので、記紀の秦氏,漢氏などの移住伝承が、史実のある程度の反映である事を、示していると、判断しています。
 ただ、遺伝人類学上は、古墳時代の移住者が、東アジアの広範な地域に由来するとされるのン板石、記紀の記述では、半島系が殆どのようなイメージを与えるのは、記紀撰述時の百済系資料偏重の影響のように思われ、そのあたりは、遺伝人類学データの素直な解釈が、望ましいと考えています。
 大陸南部からの移住者が、過小評価されている可能性が、有ると考えています。
 東鯷人、夷洲、亶洲とされる地域の集団も、倭種だと考えています。

 

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/24 (Wed) 10:39:41


│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2)
│- 石見介  2024/04/21 (Sun) 22:37:36

│当然、時代により、その画期を招来する
│「ヒト集団」のサイズは、変動し、一般則と
│しては、古代程、(相対的な)「ヒト集団」の
│サイズは大きく。近現代に向かう程、小さくなります。
│ここで「相対的」と表現したのは、時代による「ヒトの人口規模」、
│絶対数が、大きく異なるからです。
│縄文時代末の推定人口列島で10万人程度、奈良時代の5~7600万人、
│明治維新の3500万人それぞれで、「千人」の異人種の一地域への、
│移住があっても、大きくその意義が、異なります。


────────────────────────────────
 4世紀における年代特定。
<『風土記』(東洋文庫)の干支から見た、即位(太歳)の推測年代>
────────────────────────────────
・P-283_孝霊天皇_伊賀国
_孝霊天皇の時代・癸酉の歳=253年_孝霊天皇元年(辛未)=251年
・P-308_垂仁天皇_陸奥
_垂仁天皇27年(戊午)=358年___垂仁天皇元年(壬辰)=332年
・P-297_応神天皇_伊豆国_____応神天皇5年(甲午)=394年
_応神天皇元年(庚寅)=390年
────────────────────────────────

(応神天皇7年:元年を390年とすると、応神7年は396年。)
・高麗人、百済人、任那人、新羅人が、そろって来朝した。池を作る。

・応神天皇14年(403年):弓月君。臣は、自国の120県の人夫を‥。
・応神天皇20年(409年):阿知使主が、その子とともに17県を‥‥。

────────────────────────────────
『新羅本記』より:(373年)
:百済の禿山城主が300人を率いて来降した。←:仲哀天皇のことか。
『百済本記』より:(373年)
:禿山城主が、300人を率いて新羅に走った。←:仲哀天皇のことか。
『日本書紀』より:(373年)
:仲哀天皇紀2年:従駕した二三の卿大夫と官人数百とで、軽行した。

(応神天皇20年):(409年)
:倭漢直の祖の阿知使主が、その仲間17県をひきいて、来朝した。
『高句麗本記』:(409年)国の東部に禿山城(未詳)など←(禿山城)
: 6城を築城し、平壌の住民を移住させた。王は南方を巡察した。
『風土記』(P-347)_より
:筑紫の風土記にいう。肥後の国、閼宗(あそ)の県。
:県の坤(こん:西南)方20余里に一つの禿山がある。←←←(禿山)
:閼宗(あそ)の岳という。
────────────────────────────────

:仁徳天皇(元年は413年。仁徳11年はおそらく、423年)
・11年:宮の北の野原を掘り、・・・、その水を堀江といった。
・11年:茨田の堤を築いた。
・12年:大きな溝を山背の栗隈県に掘って、田をうるおした。
・13年:和珥池を造った。横野堤を築いた。
・14年:また大溝を作った。開墾して四万余頃(7.28㏊?)の田を得た。
・429年頃(?):仁徳天皇陵を作った。
・______:応神天皇陵を作った。

────────────────────────────────
※:これだけの工事を出来るくらいの人間が、396年から409年に
_:かけて、(大勢の人間が)倭国にやって来たと、考えられます。

_:おそらく、10万人を超える人数がやって来たのではないでしょうか。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/22 (Mon) 08:40:59


│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2)
│- 石見介  2024/04/21 (Sun) 22:37:36

│後、米田さんの思考で気になるのは、日本の史書、記紀に対する
│強い不信と、裏腹の外国史書に対する、無条件とまでは言いませんが、
│史料批判を著しく欠いた「新江合(?)」です。

│人間は、意識的、無意識的に、「ウソをつく」能力を備えた動物です。
│12世紀に成立した『三国史記』の語る新羅史を信用し、
│7~8世紀成立の記紀の語る日本古代史の全面的否定~読み替えは、
│文献批判の常道を、大きく外れていると、私には、思われます。

│古代豪族の系譜も、風土記も、記紀編纂の原史料だったはずです。
│同水準の資料批判が、必要でしょう。


・「史料批判・資料批判」について
:(トンデモ説を除いて)基本的には、系図に書き起こせるものは、
:(矛盾があっても)「すべて正しい」と、判断しています。
:何でも資料として使おうとしている人間にとって、○○(偽書)だから
:使ってはいけない、という制限は、意味(価値)を持ちません。

・正史における「ウソ」とは
:正史は、基本的に、つじつまが合っていなければなりません。
:正史における「ウソ」の大半は、つじつま合わせのためのウソです。

:『三国史記』の年代・人物は、つねに、中国の正史と、つじつまが
:合うように作られています。
:『三国史記』の編者は、中国の正史と比較して、齟齬がないように
:苦労しています。(『三国史記』を読めば分かります。)

:『三国史記』の特徴は、(記紀に比べて)登場人物がものすごく
:少ないことです。
:系図を書いている私の(肌)感覚では、記紀の登場人物は、
:三国史記の100倍くらい登場します。(めまいがしてきます。)

:『三国史記』の年代・人物は、それなりに正しいのが当り前なのです。

:それに比べて、日本書紀を見てみましょう。

:まず、年代。
:BC660年、神武天皇即位。
:神武天皇は、(実際には)2世紀中ごろの人物です。
:つまり、日本書紀の年代は、大ウソなのです。
:ただし、(ある人の発見ですが)各天皇の在位年数を調べると、
:シンメトリックになっていることが分かりました。
:(つまり、復元が可能だということです。)

:次は、登場人物です。
:私は、(昔は、)「系図解読マニア」を名乗っていました。
:(今の)私は、「系図解読復元マニア」を名乗っています。

:履中天皇の皇妃「黒媛」の続柄を調べていて、新羅本記に
:出てくる「烏生夫人」と同一人物であることに気が付きました。
:同一人物を羅列すると下記のようになります。

:新羅本記:奈勿王⇒神功皇后
:新羅本記:訥祇王⇒允恭天皇(古事記:454-78+1=377年生。)
:新羅本記:_卜好⇒大雀皇帝(379年小さな雀が大きな鳥を生んだ。)
:新羅本記:未斯欣⇒若野毛二俣王(380年生。いわゆる「応神天皇」)
:新羅本記:烏生夫人⇒黒媛(カラスのように黒く生まれた。)
:新羅本記:慈悲王⇒雄略天皇
:新羅本記:智證王⇒御馬皇子(継体天皇:437年生。妻は450年生。)
:新羅本記:法興王⇒宣化天皇
:新羅本記:葛文王立宗⇒欽明天皇


│米田さんの思考で気になるのは、
│日本の史書、記紀に対する強い不信と、・・・

:『三国史記』は、あまりウソをつけないので、記述を少なくした。
:『日本書紀』は、ウソをつくために、年代と人物をいじくった。

:『日本書紀』の特徴は、都合の悪いところは、「○○天皇」は
:死んだことにして、あとは豪族○○として、活躍してもらう。
:というパターンです。
:とにかく、(悲惨な)死亡記事の大半は、嘘っぱちです。あの
:臨場感あふれる死亡の記事には、どれだけ、だまされ続けたか。

:私は、記紀を「難解(なパズル)」と、ずっと思ってはいますが、
:記紀に対する「強い不信」という感情は、持ったことはありません。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/04/21 (Sun) 22:37:36

 「時代区分」「画期」として、「ヒト集団」の「交替」(追加による「集団内部構成の変化」も含む)を決定的要因とする私の考えは、基本的に、原始時代から、近現代までを(*)、俯瞰的、統一的に捉えるための基準です。当然、時代により、その画期を招来する「ヒト集団」のサイズは、変動し、一般則としては、古代程、(相対的な)「ヒト集団」のサイズは大きく、近現代に向かう程、小さくなります。
 ここで「相対的」と表現したのは、時代による「ヒトの人口規模」、絶対数が、大きく異なるからです。
 縄文時代末の推定人口列島で10万人程度、奈良時代の5~600万人(*)、明治維新の3500万人それぞれで、「千人」の異人種の一地域への、移住があっても、大きくそ(*)の意義が、異なります。

 古代では、民族(*)や、種族、部族のレベルでの移住、以降時代が、現代に近づくにつれ(*)、部族から氏族のレベル、更に、拡大家族程度のサイズでも、画期になり得、近代国家では、王家のみや、或いは、選挙で当選した大統領や首相とそのスタッフ蚤の交替でも、「画期」となり得ます(フランスのナポレオン3世やナチスドイツを、想起してください)。

 後、米田さんの思考で気になるのは、日本の史書、記紀に対する強い不信と、裏腹の外国史書に対する、無条件と(*)までは言いませんが、史料批判を著しく欠いた「思考法(*)」です。
 人間は、意識的、無意識的に、「鵜ををつく」能力を備えた動物です。12世紀に成立した『三国史記』の語る新羅史を信用し、7~8世紀成立の記紀の語る日本古代史の全面的否定(*)~読み替えは、文献批判の常道を、大きく外れていると、私には、思われます。
 古代豪族の系譜も、風土記も、記紀編纂の原史料だったはずです。同水準の資料批判が、必要でしょう。

 人類学や言語学のような、他分野の知見とも、矛盾しない歴史解釈が、私の目指す所ですが、勿論、考古学、文献史学、他国史との整合性は、当然です。

 現実には、目標通りにはうまく行かず、トンデモ度の高い仮説に、つい入れ込んでしまうので、しょっちゅう修正していますが。

編集;2024年4月23日1時、
 誤打鍵、誤変換が多く、(*)の部分を、訂正しました。引用後で申し訳ありません。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/21 (Sun) 06:55:23

(レス:02)

│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2)
│- 石見介  2024/04/20 (Sat) 00:17:00

│米田さんの系譜について行けない理由の一つは、
│王個人が入れ替わることに対する違和感も、有ります。


:図(抜粋)は、「岩波講座:日本歴史:第1巻」からの抜粋です。
:古代国家としての成立の画期が六世紀にあったとみられることから‥。

:日本書紀・古事記において、「日本の古代国家の成立」を考えます。
:そうすると、私は、「日本の古代国家の成立」は、
:770年の光仁天皇とか、781年の桓武天皇とかの即位からを考えます。
:(本当は、697年の文武天皇からにしたいのですが、・・・)

:つまり、「日本の古代国家の成立」は、「新羅」よりも遅いのです。

:古代国家成立以前の「王」とは、「村長」・「族長」とか「将軍」
:程度の意味だろうと考えています。

:具体的に書くと、「祟神天皇」は、同時に
:「四道将軍」のひとり、「吉備津彦」と同一人物です。
:「五大夫」のひとり、大鹿嶋(国摩大鹿嶋命)と同一人物です。
:また、景行天皇紀に書かれている、日本武尊に従って(東国に)行く、
:「吉備武彦」・「大伴武日連」と同一人物です。

:つまり、一人の人間を、場面場面に応じて、別々の名前を与えて、
:(記紀のなかでは)「一人(1名前)一役」の演技をさせています。

:つまり、日本書紀に書かれている時代(人物)は、
:「日本の古代国家の成立」以前の「時代(人物)」なのです。
:「王(天皇)」と書いてあっても、
:それは、「族長」や「将軍」の一人なのです。

:今年の大河ドラマを見ていて、おもしろいと思ったことのひとつは、
:「道長」が、婿養子に入っていることです。(名前は、藤原ですが、)
:「黒木華」の実家に入り込んで、住んでいるところが面白いです。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/21 (Sun) 05:41:48

(レス:01)

│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2)
│ - 石見介  2024/04/20 (Sat) 00:17:00

│私は、『時代区分、画期というものは、「人の交替」によるべきだ、
│という考えなので、土器の型式の変化や、新しい金属器、
│生業の変化などは、間接的に。「人集団の変化」を、
│見ているに過ぎない、とさえ、判断しています。



│私は、『時代区分、画期というものは、
│「人の交替」によるべきだ、という考えなので、

:「人の交替」という意味が、
:「大量の人の流入・移住」という意味でしたら、
:私も同じ意見だろうと思います。

:「人の交替」という意味が、例えば
:「明治維新(江戸時代→明治時代)」や、
:戦後の「3C(カー・カラーテレビ・クーラー)」
:などの生活の質の変化に、当てはめようとしているとしたら、
:そこには、「人の交替」は、ありません。

:図を見ると、分かると思いますが、
:古墳時代中期に、生活がガラッと変わることが分かります。
:これは、「大量の人の流入・移住」によるものだろうと
:(私は、)考えます。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/20 (Sat) 22:05:27


│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 石見介
│2024/04/20 (Sat) 00:17:00

│私は、『時代区分、画期というものは、「人の交替」によるべきだ、
│という考えなので、土器の型式の変化や、新しい金属器、
│生業の変化などは、間接的に。「人集団の変化」を、
│見ているに過ぎない、とさえ、判断しています。

│米田さんの系譜について行けない理由の一つは、
│王個人が入れ替わることに対する違和感も、有ります。


何かレスを書きたいのですが、まとまりません。
少々時間を下さい。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/04/20 (Sat) 00:17:00

 私は、『時代区分、画期というものは、「人の交替」によるべきだ、という考えなので、土器の型式の変化や、新しい金属器、生業の変化などは、間接的に。「人集団の変化」を、見ているに過ぎない、とさえ、判断しています。
 ヒト集団と言っても、民族、部族、氏族、王家のようなごく小さい家族単位のものが、画期になる事もあります。

 古代では、一般に、時代の画期となるような人集団のサイズは、中世や近現代よりも大きく、部族、種族、民族の水準だろうと考えています。
 米田さんの系譜について行けない理由の一つは、王個人が入れ替わることに対する違和感も、有ります。
 近現代であれば、イギリスの王に、ドイツのハノーヴァーから、王様が一人出来ても、問題はないのですが’(実際には妻帯していたりすれば、妻子やお付きのものもいますが)。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/18 (Thu) 06:24:34


│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 石見介
│2024/04/17 (Wed) 23:55:18

│岩永省三氏は、九州大学の考古学者ですが、
│歴博が、AMS炭素14年代測定法により、弥生時代の開始時期の
│遡及を発表した時に、旧説の弥生時代開始時期を、
│紀元前3世紀とする見解を、墨守しました。

│当時、九州大学の考古学教授連名の批判の本が出版され、
│宮本一夫、田中良之、岩永省三氏らが、著者でした。
│既に、会に寄付して。本は、手元に無いので、
│論旨の確認は、出来ませんが。

│私は、弥生時代の開始時期は、
│殷周革命前後の、東アジアに於ける、民族移動期の一環であるとする
│仮説から。出発しましたので、殷周革命が、紀元前12世紀頃なので、
│歴博の年代見直しは、大歓迎でした。

<弥生時代の開始時期の遡及について>

:20数年前から、系図解読を専門にしてきたものですから、
:時代区分の変更などの、世間の流れは、ほとんど知らずに
:いました。
:弥生時代の開始時期の変更は、「弥生時代という定義」の変更
:ですので、あまり興味はありませんでした。
:(事の重大性が分かっていなかっただけかも知れませんが。)

:私にとっては、坪庭程度の田んぼでの稲作の導入よりも、
:用水路や畔などのかんがい施設などが、初めから作られるような
:稲作の導入、あるいは、(個人・少人数ではなく)米作集団の移住、
:そんなものを弥生時代の開始と考えていました。

:結果的に、それは、弥生時代前期の遠賀川式土器のことだろうと
:(私的には)なりました。

:伝承の人物としては、系図的には、「呉王夫差」、「徐福」
:「蘇伯孫」などは、興味はあります。
:「呉王夫差」は、紀元前5世紀の人物です。
:「徐福」・「蘇伯孫」などは、紀元前3世紀の人物です。

:私にとっての「弥生時代」は、弥生時代の人の流れ
:(時代的には、戦国時代から秦・前漢の時代になります。)
:(遼河文明から陸続きの南下、長江河口・山東半島からの渡航)
:が分かれば良いので、あまり、違和感はありませんでした。

:それよりも、米作りの伝播(人の移住)は、(日本国内においては)
:歩いての伝播もあるけれど、船に乗っての集団移住がメインでは
:ないかと、そちらの方に興味があります。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/04/17 (Wed) 23:55:18

横レス申し訳ありません。
 岩永省三氏は、九州大学の考古学者ですが、歴博が、AMS炭素14年代測定法により、弥生時代の開始時期の遡及を発表した時に、旧説の弥生時代開始時期を、紀元前3世紀とする見解を、墨守しました。
 当時、九州大学の考古学教授連名の批判の本が出版され、宮本一夫、田中良之、岩永省三氏らが、著者でした。
 既に、下位に寄付して。本は、手元に無いので、論旨の確認は、出来ませんが。

 私は、弥生時代の開始時期は、殷周革命前後の、東アジアに於ける、民族移動期の一環であるとする仮説から。出発しましたので、殷周革命が、紀元前12世紀頃なので、歴博の年代見直しは、大歓迎でした。

 宮本一夫氏の東北アジアに於ける農耕の伝播や、田中良之氏の弥生初期の伐採石斧の話など、各氏の所説(きちんと理解しているか怪しいですが)のつまみ食いをしていますが、流石に、岩永氏の所説には、お手上げです。

 余談ですが、私は「石見介」を自称していますが、本籍地の島根県邑智郡に居住していたのは、4歳ごろから小学校3年生の1学期までの約5年間に過ぎず、以後は大阪府下や京都です、
 しかし、訛りは中国地方(出雲弁ではない)のものらしく、岡阿山出身だと言うタクシー運転手に、学生時代、「お客さん、中国地方の人でしょう」と言われました。
 父方の曽祖父は、中国山地の広島側から、養子に入っています。父方親族も、従兄弟や再従兄弟など、広島在住です。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/17 (Wed) 14:46:49

:「弥生後期」を検索していたら、
:「岩永省三」氏にたどり着きました。

*****
弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達
岩永省三  (PDFより)
*****

G.山陰
:石見から丹後にかけて
:中期中葉~後葉に貼り石方形墳丘墓が分布し、
:それを祖形に四隅突出型墳丘墓が成立する。

:四隅突出型は出雲→伯耆→因幡の順で減り、
:伯耆→因幡の順で方形墳丘墓が多くなる。

:但馬・丹後・丹波の近畿北部に多い「台状墓」
:(丘陵尾根を覆う階段状平坦面を持つ墳墓)が因幡に若干及ぶ。

【備後北部・安芸北部】
:江の川上流域は国別では備後・安芸だが
:出雲と関係が深くここで触れておく。

:中期後葉に、最古形式の四隅突出型墳丘墓が登場し、
:出雲市青木遺跡の発見までは四隅突出型墳丘墓
:発祥の地と考えられていた。

****************************
:私の本籍は、今は東京ですが、むかしは
:【備後北部・安芸北部】に、ありました。
:そのため、【備後北部・安芸北部】には、
:何となく、思い入れがあります。

:古事記を見る限り、「葦原中国」は、出雲地方に見えます。そして、
:「葦原中国」は、高天原から、派遣された人が治めています。
:そうすると、「大国主命」は、「王」というよりも
:「征夷大将軍」に近い存在でしょうか。

:そのあとの、「天孫降臨」は、九州の各地に「降臨」したとされて
:います。ニギハヤヒの畿内への降臨もその一つにされています。

:スサノオが、新羅の方からやって来たとすると、
:「八俣(ヤマタ)」→「ヤマト」の国の範囲は、
:半島では「伽耶から濊(新羅)」。列島では「伊都・出雲~越の国」。
:このように、海をはさんだ二つの地域を合わせたものが、
:「ヤマト」ではないか、と考えられます。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/17 (Wed) 13:26:29

<人名で考えると、・・・>

:日本書紀・古事記において、天皇以外で
:「日本(倭)」の名前を貰っているのは、
:(調べてはいませんが)「日本武尊」だけ
:だろうと思います。
:それは、日本書紀の編纂者は、「日本武尊」こそ、
:日本(倭国)の王と考えている証だろうと、考えています。

:古事記の目次(小見出し)を眺めていて、そう思います。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/15 (Mon) 10:30:28


※:ポスト卑弥呼における(3世紀の)
_:「纏向の政権」について(これから)
_:考察したいと思います。

:「風土記」伊賀国に、次のような記述があります。(東洋文庫より)
*****
:伊賀の国風土記。
:伊賀の国は昔は伊勢の国に属していた。
:孝霊天皇の御宇の癸酉の歳に、これを分かって伊賀の国とした。
:(癸酉の歳=253年±60n)
***** 

│「唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)」(ウィキペディアより)
│唐古・鍵遺跡は、奈良県磯城郡田原本町唐古および鍵にある
│弥生時代の環濠集落の遺跡。

:そうすると、孝霊天皇の宮(田原本町黒田)は、纏向というよりも、
:唐古・鍵遺跡(田原本町唐古)や、黒田大塚古墳(田原本町黒田)の
:場所に近いことが分かります。
*****
孝霊天皇(____)・・・・・田原本町黒田。唐古・鍵遺跡

次に、孝霊天皇の子どもたち(の世代)を調べてみます。

孝元天皇(____)・・・・・橿原市大軽町。
彦狭嶋命(景行天皇)・・・・・桜井市穴師
稚武彦命(開化天皇)・・・・・奈良市子守町。(大和古墳群か)


・次の二人の家系は、(場所は不明ですが、)続いています。

彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)──大水口宿禰命
難升米(梨迹臣命)──稚武彦命(開化天皇)

・下記の系譜は、子孫は続いてはいますが、300年頃、没落しています。

臣知人命(梨迹臣命の兄)─角弖命──古加斐命(祟神朝奉斎伊香具神)


:以上から、孝霊天皇の本拠地は、「田原本町黒田。唐古・鍵遺跡」で、
:「纏向政権」は、「臣知人命」の可能性が高いと、予想しています。

:そうすると、孝霊天皇と同時期の集落(纏向政権)を
:三角縁神獣鏡の出土からみて、卑弥呼の後の正統な政権ではあるが、
:(300年頃に)滅んでしまった政権(纏向政権)なのに、
:それを「ヤマト政権」と我々は、名付けて良いのだろうか。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - (管理人)

2024/04/13 (Sat) 22:25:47


│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2)
│ - 石見介2024/04/11 (Thu) 22:47:56
│米田さんは、邪馬台国位置論では、
│北部九州説、畿内説、或いはその他の説の、
│どの説を、支持されておられますか?

│「地名は移る」ので、それも考慮しますが、
│その場合でも、邪馬国は、筑後辺りに在った可能性が高い、
│と考えています。山本郡と山門郡が、有りますので。


<地名で考えると、・・・>

:地名で考えると、「耶馬渓」の一択だろうとは思います。


<人名で考えると、・・・>

:日本書紀において、天皇以外で「日本」の名前を貰っているのは、
:(調べてはいませんが)「日本武尊」だけだろうと思います。
:それは、日本書紀の編纂者は、「日本武尊」こそ、日本の王と
:考えている証だろうと、考えています。

:塞曹掾史張政=金氏味鄒王=孝霊天皇=天日槍、を考えています。

─天日方奇日方命─○─金氏味鄒王──彦狭嶋命(景行天皇)─日本武尊
____________(天日槍)__(天之日矛)


:天之日矛たちは、自分たちは倭国の王にはふさわしくないと考え、
:「難升米」の子孫の「祟神天皇」を探してきて、王に据えています。


<系図解読復元マニアとしては、・・・>

:旧唐書の記述のように、「日本」と「倭国」は、別物と考えています。
:「日本」は、(5世紀に)「任那日本府」として生まれています。
:聖徳太子や押坂彦人大兄皇子に対して(自作の)系図を持ち出すと
:ややこしくなるので、省略して、蘇我氏で説明します。

─蘇我高麗(仁賢天皇)─┬─蘇我稲目──堅塩媛──推古天皇
_____(____)_└─高向塩古──蘇我馬子─‥‥─藤原不比等

:5世紀の倭国は、蘇我稲目(&子:物部守屋)が支配していました。
:その倭国を、馬子(&聖徳太子)が、半島から攻めてきて、
:婿養子の形で支配者になって、倭国を支配しました。
:その後、色々、事件・内紛があって、天智天皇のあとを継ぐ形で、
:高向氏(女性)の血を受け継ぐ、天武天皇と持統天皇が
:日本という国を作りました。

*****

:いろいろと書いてきましたが、以上の事から、
:「邪馬台国」が、どこにあるのかについては、
:(はじめから)興味関心がありませんでした。
:スミマセンでした。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/13 (Sat) 11:04:09

:ポスト卑弥呼の時代の、纏向地方に、「ヤマト政権」があるためには、
:ポスト卑弥呼の時代に、「やまと」という名前が使われていたか
:どうかを調べる必要があると思いました。

:ポスト卑弥呼の時代に、
:地名・国名として「やまと」は、使われた気配はなかったです。
:人名では、孝霊天皇の妃に「倭国香媛(絚某姉)」と、その娘、
:「倭迹迹日百襲姫命」と「倭迹迹稚屋姫命」の3人がいます。
:この3人の名前にしても、日本書紀の編纂時に、名付けられた
:ような気がしています。
:ということは、「邪馬台国」のように、同時代として、「やまと」が
:ポスト卑弥呼の時代に使われた、ということは、なかったと思います。


│「元伊勢(もといせ)」(ウィキペディアより)
│元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する
│伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地へ
│遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所。

│概要
│伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代
│崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。
│すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した
│天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の
│厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、
│さらに理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、
│第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、
│およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる。
│遷座の経緯について、『古事記』ではこれを欠くが、
│『日本書紀』で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、
│そして中世の『神道五部書』の一書である『倭姫命世記』において、
│より詳しく記されている。

:「豊鋤入姫命」の移動を調べようとしたら、「ウィキペディア」
:に記載されていました。さすが「ウィキペディア」です。
:(地図まで付いていました。)
:(時間と気力がある時に)自分なりに調べてみようと思いました。

<日本武尊は、存在したか>
:「両道入姫命」は、垂仁天皇の皇女で、
:日本武尊の妃となって、仲哀天皇を生んでいます。
:「仲哀天皇」が生まれるためには、(どう考えても)
:「垂仁天皇」と「景行天皇」の親子関係は成立しません。

:学者の多くは、「日本武尊・不在論」に傾いているようです。
:日本武尊が存在するためには、下記の系図が成立する必要があります。

:日本武尊が存在すると思われる方は、ぜひ、下図を推して下さるよう
:お願いします。なお、「(カッコ)」は、私の推測ではあります。

(稚武彦命)
─開化天皇──祟神天皇──垂仁天皇──両道入姫命─┐(329年生)

─景行天皇───日本武尊─────────────┴─仲哀天皇
(彦狭嶋命)

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/13 (Sat) 01:20:36



※:二つの史料(資料)から、干支は正しいとすると、
_:カッコ内の年代が浮かび上がってきます。
_:つまり、崇神天皇元年は、300年になります。

│『崇神の壬戌年(302年)春三月、___←:『勘注系図』
│豊鋤入姫命、天照大神を戴(いただ)き、大和国笠縫の里から、
│丹波の余社郡(よさのこおり)久志比之眞名井原匏宮に移る。
├_____________(くしひのまないはら-よさのみや)
│三九年壬戌(302年)。
│但波(たんば)の吉佐宮(よさのみや)に遷し奉る。←:『倭姫世紀』

│崇神即位六年己丑(305年)。
│秋九月倭笠縫邑に、草薙剣を遷奉(うつしたてまつる):『倭姫世紀』

│丙寅(306年)年秋七月(四年後)に、___←:『勘注系図』
│また大和国伊豆加志本宮(いずかしもとみや)に遷ったとする。』

│四十三年丙寅(306年)。
│倭国伊豆嘉志本宮に遷し,八年齋(いつき)奉る。←:『倭姫世紀』
└(やまとのくにいづかしもとみや)


(日本書紀:祟神天皇紀6年)
:これよりさき天照大神、倭大国魂の二神を、天皇の大殿の内に
:並べ祭った。
:しかし、その神の勢をおそれ、共に住んでも不安であった。
:そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑に祭った。


「笠縫邑」(ウィキペディアより)

笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、
宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、
後に大和神社に祀ったとされる。
笠縫邑は大嘗祭、豊明節会の起源に関係する土地との説もある


比定地については、
檜原神社(桜井市 三輪)、
多神社(磯城郡 田原本町多)、____________←○
笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)、__←○
笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、
志貴御県坐神社(桜井市金屋)、小夫天神社(桜井市小夫)、
穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、飛鳥坐神社(高市郡 明日香村飛鳥)、
長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)、等々。

─────────────────────────────
:以上のことから分かることは、次の通りです。

:国造の表より、摂津の国に、「河内国魂神社」があります。
:この「河内国魂神社」が、祟神天皇紀の「倭大国魂」のことだろうと
:思います。
:そして、天照大神を祭っているのが、豊鍬入姫命(倭姫命)のほうに
:なります。
:そして、祟神天皇の時代には、天照大神を祭るほうが、追い出されて
:いることがわかります。
:そして、おそらく、磯城郡田原本町の「笠縫神社」のほうに移ったと
:思われます。

:せっかく、豊鍬入姫命(倭姫命)が登場してきたのですが、
:「豊鍬入姫命(倭姫命)」は、大殿から追い出されたようです。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/13 (Sat) 00:49:40

<「ヤマト」の名前は、移動したか>

:「ヤマト(政権)」が、ポスト卑弥呼の時代に、畿内に移って
:来たとしたら、畿内に「やまと」の名前があるはずです。

<「氏姓制度」からみた「ヤマト」>
─────────────────────────────
「氏姓制度」(ウィキペディアより)
:氏姓制度の成立
:「氏」および「カバネ」を参照
:原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となった。

:氏姓制度の成立時期は、5 - 6世紀をさかのぼらない。
:同族のなかの特定の者が、臣、連、伴造、国造、百八十部
:(ももあまりやそのとも)、県主などの地位をあたえられ、
:それに応ずる氏姓を賜ったところに特色がある。
:各姓は以下のごとくである。

:臣(おみ)
:葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト
:(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては大王家と並ぶ
:立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。


「国造」(ウィキペディアより)
:国造(くに の みやつこ、こくぞう、こくそう)は、
:古代日本の地方行政機構において、旧来からの氏姓制に基づき
:地方を治める官職の一種。
:また、その官職に就いた人を指す。ヤマト王権が国の範囲を
:行政区分として認定し、その長として国造を認定した。

─────────────────────────────

:「氏姓制度の成立時期は、5 - 6世紀をさかのぼらない。」
:ということから、「大和国」の成立は、5世紀頃だろうと
:推測できます。

:また「倭国造」は、椎根津彦になっていますが、
:倭直の先祖ですから、神武天皇に合わせて、古く見せている
:可能性もあります。

:また、河内国・和泉国・摂津国は、「彦己曾保理命」が初代に
:なっています。

─────────────────────────────
(FB談話室からの転載です。)
(RE)Naoko Urushibara
14分・2024年04月01日(月) 12:25

今回のお話で、一口に「畿内」と言っても淀川水系(摂津、北河内)と
大和川水系(中・南河内)と摂津地域との‟仲違い”があり、
必ずしもまとまった文化的特徴があったわけではない、というお話は
印象的でした。
特に中・南河内には方墳、前方後方墳が多く、前方後円墳が入り込む
のは遅かったというのは、興味深い事です。
─────────────────────────────

│一口に「畿内」と言っても淀川水系(摂津、北河内)と
│大和川水系(中・南河内)と摂津地域との‟仲違い”があり、

:表と系図から、「仲違い」の片方(摂津・北河内)は、
:凡河内氏の先祖であることが分かります。
:私は、凡河内氏の先祖として、ポスト卑弥呼の時代でしたら、
:(自作の系図より)武埴安彦命を、神武天皇の時代でしたら、
:(自作の系図より)御食津臣命を、特定したいと思います。
(PS:「御食津臣命」よりも、12世の孫「宇佐津臣命」に変更。)

─────────────────────────────
「倭の六県」(ウィキペディアより)
:倭の六県(六御縣、やまとのむつのあがた)は、
:古代の大和国にあった大王(皇室)の直轄地である。

:645年(大化元年)8月5日に、東国の国司とともに使者が派遣され、
:造籍(戸籍作成)・校田(田畝調査)が行われた。
:「六県」は『和名類聚抄』での以下の各郡域に相当する。

:曽布(添)県 (そふ) - 添上郡、添下郡
:山辺県(やまのべ)  - 山辺郡
:磯城県(しき、志貴) - 式上郡、式下郡
(wiki):田原本町は、奈良県磯城郡の南端に位置する町。
(孝霊天皇:田原本町黒田、)

:十市県(とおち) - 十市郡
:高市県(たけち) - 高市郡
:葛城県(かつらぎ、葛木) - 葛上郡、葛下郡
─────────────────────────────
:「倭の六県」を眺めていて、(奈良の地理には疎いのですが、)
:「倭の六県」には、「纏向」は、含まれていないような気がします。


│「唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)」(ウィキペディアより)
│唐古・鍵遺跡は、奈良県磯城郡田原本町唐古および鍵にある
│弥生時代の環濠集落の遺跡。

:そうすると、孝霊天皇の宮(田原本町黒田)は、纏向というよりも、
:唐古・鍵遺跡(田原本町唐古)や、黒田大塚古墳(田原本町黒田)の
:場所に近いことが分かります。
─────────────────────────────

:このように見てくると、ポスト卑弥呼の時代、つまり、纏向が
:発達している時代に、「ヤマト」という名前は、使われていない。
:(別の言い方をすると、)纏向が滅んでから、
:「やまと」という言葉が使われ始めた。そんな気がします。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/04/12 (Fri) 23:58:32

--美濃ですか?

 記紀神話では、確かに、オホヒルメやワカヒルメは、機織りに従事していますが、「ヤマト」類似の地名(律令制下の郡水準での)が、見当たらないように思います。

 私は、郡以上の領域の地名が存在しない所は、邪馬台国の候補地型、外して考えますので、筑後と大和が、最有力候補地になり、後は、他の条件で絞り込む、という、まあ、一般的に多い考え方から、出発しました。
 「地名は移る」ので、それも考慮しますが、以前考えていた「邪馬台国東遷説」よりも、最近は、「邪馬国東遷説」の方が、可能性は高そうだ、と考えるようになっています。
 その場合でも、邪馬国は、筑後辺りに在った可能性が高い、と考えています。山本郡と山門郡が、有りますので。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/12 (Fri) 15:38:34


│Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2)
│ - 石見介2024/04/11 (Thu) 22:47:56
│米田さんは、邪馬台国位置論では、
│北部九州説、畿内説、或いはその他の説の、
│どの説を、支持されておられますか?

────────────────────────────────
:『風土記』東洋文庫版から見た、『風土記』に残っている移動の伝承
:<『常陸国風土記』の話>(東洋文庫_P-28)
:「綺日女命(かむはたひめのみこと)」は、神機姫命のことです。
:つまり、「綺日女命」は、「はたおりむすめ」と考えられます。
────────────────────────────────
:古老がいうことには、
:「すめみまの命(皇孫瓊瓊杵命)が天からお降りになったとき、
:御服(みぞ)を織るために従って降った神、み名は、綺日女命は、
:もと筑紫の日向の二所(ふたがみ)の峯より、三野(美濃)の国の
:引津根の丘においでになった。
:後、みまき天皇(崇神天皇)のみ世になって、長幡部の遠祖多弖
:(たて)命は、三野(美濃)を去って、久慈に移り、
:機殿(はたどの)を造り立てて初めてこれを織った。云々。
────────────────────────────────
(ネット、南風 < NANPU >「建国神話」の成立過程を探る)より

:「三野国引津根丘」について、
:「曳常泉」が『続紀』天平12年(740)12月2日条にみえ、
:岐阜県不破郡垂井町の玉泉寺の門前の「垂井の泉」に比定されます。
────────────────────────────────

:「邪馬台国位置論」を狭義の「女王の都」と考えると、
:美濃の国を考えたいです。

:「邪馬台国位置論」を7万戸の範囲で考えると、
:日向から山陰・丹波・近江・美濃の地域でしょうか。

:「綺日女命(かむはたひめのみこと)」の子孫の「弟橘媛」は、
:「日本武尊」と結婚して、「稚武彦王(仲哀天皇)」を生んだ。

:「邪馬台国」を「ヤマト」と考えるとき、
:「ヤマタ(ト)ノオロチ」を倒した「大国主命」が
:「ヤマト国」の王になって、そのあと、混乱があって、
:「日本武尊」の時に、「ヤマト統一」がなされた。

:196年以降の纏向は、女王卑弥呼が、公孫氏の勢力から
:逃げ・隠れて住んだ(隠居としての)宮処の可能性は、ありますが、
:234年に亡くなっており、ヤマトの都とは、考えたくはないです。

:少なくとも、ポスト卑弥呼の「纏向政権」は、「ヤマト」ではない。
:あるいは、「纏向政権」は、300年頃に、滅んでいますから、
:「祟神天皇・日本武尊」が、協力して、「ヤマト政権」が出来た。
:そんなことを考えています。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/04/11 (Thu) 22:47:56

 米田さんは、邪馬台国位置論では、北部九州説、畿内説、或いはその他の説の、どの説を、支持されておられますか?

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/10 (Wed) 21:11:01

「全国古墳編年表」の続きです。
「北部九州(筑前・筑後)」については、
1枚にしました。
300年頃に、一斉に古墳が作られ始めています。

前掲の図ですが、吉野ケ里の古墳は、300年よりも前ですが、
「前方後方墳」であるように見えます。
この吉野ケ里の「前方後方墳」は、(私には)「狗奴国」に見えます。
美濃・尾張の「前方後方墳」は、(私には)「拘奴国」に見えます。

「邪馬台国」の範囲を特定するのは、むつかしいですが、少なくとも、
「北部九州(筑前・筑後・肥前)」の国々は、
「狗奴国」だったような気がしてきました。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/10 (Wed) 20:56:32


│<「卑弥呼を継いだ男王」>
│『ヤマト政権成立期における畿内の地域関係
│-卑弥呼を継いだ「男王」をめぐって-』
│■講 師 : 福永 伸哉先生(大阪大学)


講師の先生のスライドの中に、「全国古墳編年表」が
ありました。
こんな年表があることを知らなかったものですから、
どこにあるのか、色々と調べました。その結果、
「全国古墳編年集成(石野博信編:1995年発行)」
が、出典であることが分かりました。

30年近く前に発表されたものでした。
せっかく見つけた(借りて来た)ので、
気になるところを付け加えて、一枚の表にしてみました。
(画像ソフトの「ペイント」で編集しています。)

この表を見た上で、バージョンアップ(オーバーライト・上書き)
として、福永先生の箸墓古墳(240~260年築造)の話を
聞いていれば、もっと理解が深まったのにと、悔しい思いをしています。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/10 (Wed) 20:38:00

(復習のつもりです。)

<「卑弥呼を継いだ男王」>
『ヤマト政権成立期における畿内の地域関係
-卑弥呼を継いだ「男王」をめぐって-』
■講 師 : 福永 伸哉先生(大阪大学)

│■講師の言葉
│3世紀半ばに成立したヤマト政権は、列島各地から
│見れば畿内地域を拠点とする確固とした中央政権と
│して映ったであろう。しかし、その畿内地域の内部に
│一歩分け入ってみれば、そこでは大和盆地、
│大和川流域、淀川流域の各地域勢力の微妙な合従連衡の関係が展開して
│いたことが、近年の考古学調査からうかがえるようになってきた。
│・・・。


復習として、何をして良いのか、分からない中で、
(一冊、)本を借りていました。
(花粉症・etcのため)ほとんど読んでいないのですが、
返却期限が差し迫っているので、
良いと思ったところを一部抜き書きしました。

*****

倭国乱とは何か(石野博信討論集)
「クニ」への胎動:新泉社

はじめに(P―4)
:弥生時代全時代を通じてヤマトの中核集落であった
:唐子・鍵遺跡と二世紀末に突然出現し、三世紀中葉に
:突然消滅する都市・纏向の関係を、両遺跡を永年に
:わたって調査し、報告してきた二人(藤田三郎・橋本輝彦)
:と両遺跡にかかわってきた石野の討議は、まさに当事者の証言である。

激動の弥生社会

(奇妙な埋葬の状況)(石部:司会:P-16)
:古い銅鐸はたしかに楽器ですが、新しい銅鐸になりますと
:楽器としての役割を果たさない形にかわってきます。
:それと、いまの説明で少し納得できないことは、各地平均に
:出るのではなくて、たとえば畿内でも奈良県にはそんなに多くない。
:一方、徳島県とか滋賀県とか、六甲山中などで集中的に出土するなど、
:出土にアンバランスがある。

(新しい銅鐸の範囲は、阿波忌部氏の先祖の「天背男命(イザナキ)」)
(の子孫たちが進出した範囲と、重なると思います。)

(こわれた銅鐸破片の出現)(佐原:P-22)
:とにかく九州では、第3様式の時期、つまり、須玖(すぐ)式土器の
:時期(中期中頃)に朝鮮製の細型銅剣が墓に入っている。
:だから国産品の鋳造は一時期おくれるだろう、(云々)

(農耕社会の独特の始まり方)(春成:P-37)
:板付遺跡その他、最近の調査によっていよいよはっきりしてきた
:ことは、弥生時代は原始農耕の段階から始まったのではないと
:いうことです。
:水田にせよ農耕具にせよ、完成され体系化されたものからいきなり
:始まることがはっきりしてきました。
:かつての唐子遺跡の調査では、農耕、木工具に関しては
:用途に応じて多様に分化したもの、完成したもがあったが、水田に
:関しては用排水しなくていいような低湿地での低水準の水田を
:考えていましたね。しかし、弥生時代の開始の時点から水田も
:完成したものから始まっている。
:日本における農耕社会は非常に独特な始まり方をしていることが 
:わかってきた。
:そういう点では金関丈夫先生の提言以来、通説化している朝鮮半島
:南部からの人びとの集団的渡来という問題を考えないことには
:説明できないだろうと思うのです。

(この朝鮮半島南部の人びとの大半は、縄文人と同種になります。)

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/05 (Fri) 09:26:47

(前掲の補足です。)


│(その6)
│:宇佐津臣命の母親は、
│:神武天皇紀より、菟狭津媛(九州出身)です。
│:神武天皇の妃の五十鈴依媛命は、丹波国出身と考えています。
│:神武天皇の后の媛蹈鞴五十鈴媛命は、九州出身で橿原の宮の主です。
│:神武天皇は、「イザナキ(阿波忌部氏)」の一族の出身です。


:孝霊天皇の母親は、出雲臣の娘でした。(出雲系)

:ですので、「孝霊天皇」の母は出雲系です。
:九州出身の「絚某弟」を妃に、
:淡路在住の后は、畿内系、あるいは、吉備系/近江系になります。
:その(奈是理姫の)娘の「絚某姉」は、畿内系の妃になります。

:そして、孝霊天皇の宮は、黒田盧戸宮(磯城郡田原本町黒田)
:に在ります。


│「唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)」(ウィキペディアより)
│唐古・鍵遺跡は、奈良県磯城郡田原本町唐古および鍵にある
│弥生時代の環濠集落の遺跡。

:そうすると、孝霊天皇の宮(田原本町黒田)は、纏向というよりも、
:唐古・鍵遺跡(田原本町唐古)や、黒田大塚古墳(田原本町黒田)の
:場所に近いことが分かります。


│「黒田大塚古墳(くろだおおつかこふん)」(ウィキペディアより)
│黒田大塚古墳は、奈良県磯城郡田原本町黒田にある古墳。
│形状は前方後円墳。この黒田大塚古墳は、
│古墳時代後期の6世紀初頭頃の築造と推定される。

:孝霊天皇の都は、田原本町黒田。
:孝元天皇の都は、橿原市大軽町。(懿徳天皇の都と同じ。)
:媛蹈鞴五十鈴媛命に近い(子孫の)都は、橿原に在ります。
:そうすると、纏向の場所は、三輪山を背景とした、五十鈴依媛命に
:近い(子孫の)都と思われます。
:このように見てくると、纏向に在った「ポスト卑弥呼」の都の主は、
:歴史から消されているのではないか、という疑問が湧いてきます。

:系図からみると、「倭迹迹稚屋姫命」という人物がいます。
:「倭迹迹**姫命」を名乗る(3人の)女性のうちの一人です。

:詳しくは分かりませんが、「倭迹迹日百襲姫命」の姉妹である
:「倭迹迹稚屋姫命」を后とする都が数代にわたって、この地を
:支配していたのではないかと、想像しています。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/04/05 (Fri) 09:25:04

Re: スレ「FC2のロビー・談話室09」からの転送。

│Re: スレ「FC2のロビー・談話室09」 - (管理人)
│2024/04/03 (Wed) 01:47:33

│Re: スレ「FC2のロビー・談話室09」
│- 当世奇妙2024/04/01 (Mon) 19:34:52 

│米田「纏向の政権は、(2世紀、あるいは、3世紀に)
│よそ者がやって来て住み着いた、との話の方を、
│私は、推しています。」
│この意見には多分99%が賛成と思いますが。


※:ポスト卑弥呼における(3世紀の)
_:「纏向の政権」について(これから)考察したいと思います。
_:(2世紀の、よそ者云々は、考察から外しました。)

:「風土記」伊賀国に、次のような記述があります。
:(東洋文庫P-283より)
*****
:伊賀の国風土記。
:伊賀の国は昔は伊勢の国に属していた。
:孝霊天皇の御宇の癸酉の歳に、これを分かって伊賀の国とした。
:(癸酉の歳=253年±60n)
*****

:日本書紀では、孝霊天皇元年は、辛未(251年±60n)になります。
(その1)この即位の歳の干支が正しいとすると、
(その2)日本書紀の在位年数は、シンメトリックになっていること。

│2005/11/17(木)(「16/YXRFBRM」氏が発見したシンメトリック論)
│記年論:孝霊紀から壬申紀までの(在位年数の合計962年)は、
│「133/60/68/99/121」/「121/99/68/60/133」と区切れて面白い。


*****

:魏志倭人伝には、次のような記述があります。
*****
:卑弥呼についで男王を立てたが、国中が服従せず、云々。
:そこでふたたび卑弥呼の宗女である壹与(台与)という13歳の
:女子を立てて王としたところ、国中はやっと治まったのである。

*****

:「台与」が、13歳の歳は、何年かを考えてみました。

(その1):孝霊天皇の即位の年に13歳だとすると、239年生。
(その2):伊賀国分離独立の年に13歳だとすると、241年生。

:つまり、台与の生年は、239年か241年と考えることが出来ます。
:ここからは、
:自作の系図を使って、ポスト卑弥呼の時代を考えてみます。

:「天豊津媛命」が、248年に亡くなった後、男王(難升米)が
:立ったが、国中が服従しなかった。

:この後のことは、正確には、分かりません。

:ですので、系図から分かることを書きます。

(その1)
:絚某弟には、娘がいませんでした。

(その2)
:梨迹臣命(難升米)に、娘の記録はありませんが、息子は5人います。
:梨迹臣命(難升米)の嫡子は、神聞勝命(稚武彦命=大綜杵命)です。

(その3)
:ポスト卑弥呼の時代に、名を残している男性は、系図の中では
:右側で、緑色の四角の枠で囲まれている人物たちです。

(その4)
:ポスト卑弥呼の時代に、名を残している女性は、系図の中では
:右側で、オレンジ色の四角の枠で囲まれている人物たちです。
:倭迹迹稚稚屋姫命は、名前だけ伝わっています。そうすると、
:歴代の皇后は、台与(欝色謎命)の女系で繋がっています。

(孝霊天皇妃)_(孝元天皇后)__(開化天皇后)__(祟神天皇后)
─絚某姉──倭迹迹日百襲姫命──伊香色謎命───御間城姫─
______(台与=欝色謎命)

(その5)
:垂仁天皇3年(274年)新羅王の子天日槍が帰って来た。
:孝霊天皇=天日槍=味鄒王、と考えています。そうすると、
:新羅王(天日槍)の子は、彦狭嶋命(景行天皇)になります。
:(景行天皇から日本武尊の系図については、特に改ざんが多いです。)
:そうすると、景行天皇は、274年に半島からやって来て、
:九州一周を支配してから、畿内に来ていることが分かります。
:(宮は、纏向日代宮→滋賀・志賀高穴穂宮になります。)
:彦狭嶋命(景行天皇)は、265年に一度、半島に行っています。
:ですので、274年(垂仁3年)は、「帰って来た」に、なります。
(そうすると、下記のように考えています。)
(事代主命の子孫は、いつ半島に行ったのかという事になります。)
(私は、138年生の天日方奇日方命は、濊に行ったと考えています。)
(国相明臨答夫:166~179、掾那部の皂衣として半島で活躍したと。)


(その6)
:宇佐津臣命の母親は、神武天皇紀より、菟狭津媛(九州出身)です。
:神武天皇の妃の五十鈴依媛命は、丹波国出身と考えています。
:神武天皇の后の媛蹈鞴五十鈴媛命は、九州出身で、橿原の宮の主です。
:神武天皇は、「イザナキ(阿波忌部氏)」の一族の出身です。

:吉備の特殊器台については、地域性は、よく分かりませんが、
:戦国時代の堺港のように、中立的な国際港の役目をしたのではないかと
:思います。


PS:
:自作の系図は、記紀先代旧事本紀の続柄・古代豪族系図集覧の
:系図を独自に解読して、1枚の系図に作ったものです。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/18 (Sun) 11:36:55

石見介さんへ

愚説の「思索の旅」に、お付き合い下さり、ありがとうございました。
今までとは違った、考察が出来たように思います。感謝です。

私事ですが、義兄(昭和20年生)が、3年前に亡くなったのですが、
一般企業を早期退職して、地元(島根)で神主をしていました。
(小さいですが)トトロに出てくる神社のような、感じの神社でした。
15年位前に、1か月くらい滞在させていただきました。
体育館のような所で、地元の神楽の鑑賞にも連れていってもらいました。
今は、甥が神主の資格を取って、(兼業ですが、)跡を継ぐみたいです。

私と島根との関りは、これくらいです。
(島根は、いい処ですね、という話でした。)
帰りに、出雲大社に行きたいと、私が言ったので、
近くの(少し遠い)駅まで車で送っていただきましたが、
川の中に白い鳥(サギ)が片足で立っていて、それがところどころに、
川の中に普通にいて、神話の里に居るような感じを受けました。

松江には、高校時代、一度だけ(父の赴任先へ)行きました。
冬休みでしたが、高校生が、みな外套を着ていました。当時、
広島の実家にいた私は、学生服のままで冬でも通学していましたので、
冬の寒さの違いに、驚いたことを覚えています。

高校の(同期の)同窓会を3月に開催というお知らせが来ていたので、
どうしようか迷っていたのですが、ついでに、義兄の墓参りも、との話も
出てきて、話が大きくなって、結局、体力的理由で中止にしました。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/02/18 (Sun) 01:08:07

 米田さんの復元される系譜は、どうも、国境や民族、種族の壁が、「太古」から存在しない、という、到底、私の受容し得ない、高いハードルが、存在する事を、痛感しました。
 私は、神話には興味があるので、火神共工、水神祝融などは、中国古代の神話の登場者として、認識していますが、米田さんの復元系譜では、日本神話の神格同様、実在の人物として、容易に、日中韓の古代氏族の系譜を、王画愛しています。

 私の理解力の限界を超えていますので、向後、コメントは、差し控えさせて戴きます。 
 申し訳ありませんでした。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/17 (Sat) 22:34:27


│旧唐書 倭国日本伝
│(岩波文庫 旧唐書倭国日本伝)
│を私の言葉で抜き書きしました。

│「日本国は、倭国の別種なり。あるいは云う。
│ 日本は もと小国、倭国の地を併せたりと。」


:任那(加羅を含む)を中心にした「日本国」は、倭国とは別種である。
:と、私は理解しています。

:掲載の「任那支配」論に対しても、何か違和感を感じています。
:いわゆる「大和王権」は、列島の「倭国」のはずです。

(日本書紀:531年)
:高麗、その王「安」を殺した。
:また聞く、日本の天皇および太子、皇子、ともに崩薨す、と。

(三国史記・新羅本紀:532年)
:金官国王の金仇亥が、王妃および3王子(云々。新羅に)来降した。
:末子の武力は〔新羅王朝に〕仕えて、角干まで昇進した。

(三国史記・列伝:金庾信)
:金仇亥──武力──舒玄──金庾信

(自作の想像図)
:金仇亥──武力──舒玄(百済:武王)──百済:義慈王──天武天皇
________(押坂彦人大兄皇子)__(舒明天皇)

:天武天皇が、日本国の初代の天皇になるはずだった。
:というのが、私の想像です。

*****************
「任那日本府(みまなにほんふ)」
(ウィキペディアより)

任那日本府は、古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の
出先機関ないし外交使節、またその学説。
『日本書紀』を中心に、複数の古文書にそれらの存在を示唆する
記述がある。2010年(平成22年)に日韓歴史共同研究委員会は、
任那日本府(原表記「在安羅諸倭臣等」)に関しては、
史料を無視してでも、その存在を極小化したい韓国側と、
史料に基づいて大和王権への臣従関係が認められるとする
日本側と対立し共通見解の確定には至らなかった。

任那日本府の実態
『日本書紀』にみえる「日本府」
説話的要素の強い雄略8年紀をのぞくと、任那日本府は
欽明2 - 15年紀すなわち西暦541年から554年の間のみにみられる。
すでに金官地方は新羅に併合されていた時期なので、
任那日本府に関する史料は安羅日本府についてのものだけである。

安羅日本府に関する記事は、『日本書紀』のなかでは史実性の高い
部分であるので虚構のものとは考えがたい。以下、当該記事の分析結果
によって、任那日本府(安羅日本府)の性格が明らかにされる。

「任那日本府」の古訓は「ミマナノヤマトノミコトモチ」すなわち
「任那倭宰」であり、統治機構として整備されたというよりは、
欽明15年紀の「在安羅諸倭臣等」(アラニハベル-モロモロノ
-ヤマトノ-マエツギミタチ)が実態と考えられる。
日本府に関する記事のほとんどは百済王が主催し、加羅諸国の
首長層と任那日本府の官人たちとが参画し、加羅諸国のあり方に
ついて協議する、いわゆる「任那復興会議」にかかわるものである。
日本府は強大な指導権をもっておらず、
「任那復興会議」も百済王が主導する。
日本府の官人たちは、場合によってはヤマト王権の意向を
無視して独自に行動する場合がある。
日本府の構成メンバーにはヤマト王権から派遣された人びとのほかに、
在地の日韓混血の人物も多くみられる。

日本府に関する諸説
上述の1. - 5.の性格から帰納法的に推論して、「任那日本府」はヤマト
王権のものではなく、別の存在であるという説もあらわれている。

井上秀雄…日本府はヤマト王権のものではなく、
_____加羅諸国の在地豪族の合議体であるという説。
金鉉球 …百済が加羅諸国を支配するために置いた機関とする説。
奥田尚 …加羅諸国が対倭外交のために設置した機関とする説。
大山誠一…ヤマト王権の代表と加羅諸国の首長層の
_____合議体であるとする説。

これらはいずれも、日本府がヤマト王権とは直接関係のない機関で
あったのに、『日本書紀』がヤマト王権の機関であるかのように
書き換えたものだという理解の上に立ったものだということができる。
言い換えれば、
『日本書紀』の記述のうち、3.4.5.をきわめて重視する立場であり、
1.は無視した結果であるとみなすことができる。
ただし、ここでは「任那復興会議」そのものと「日本府」とが同一視
され、「任那復興会議」への参加者をそのまま「日本府」の構成員と
みなしているのであり、それが妥当であるかは検討を要する。

「任那復興会議」は百済王や加羅諸国の代表者たち、
それに「日本府」の官人によって構成されているのであり、
『日本書紀』の論法では加羅諸国はすでに日本府の統制下にあるので、
加羅諸国の首長を中心に構成される復興会議はいきおい
日本府の下部機構とならざるをえない。

***********************

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/17 (Sat) 12:42:29


│金氏などは、金海金氏
│(金官伽耶国王家、首露王子孫)と
│慶州金氏(新羅3王姓の金閼智の子孫)
│のような太族だと、各々、
│100万人以上の男性が、所属します。
│まあ、族譜が正しければ、という前提が、付きますが。

:自説というか、私の想像では、下記のように考えています。

<慶州金氏(新羅3王姓の金閼智の子孫)>

金首露─┬─閼智─勢漢─阿道(女)─首留(女)─郁甫(女)─┐
____└─許婁(事代主命)─天日方奇日方命(明臨答夫)─┴─仇道


<金海金氏(金官伽耶国王家、首露王子孫)>

金首露──○___(上記、「仇道葛文王の子孫」以外のすべて。)

:この違いは、徳川家をモデルにすると分かりやすいと思います。
:「徳川家」以外は、「松平家」を名乗る。

*****

<「松野連」の先祖について>

【松野氏】
呉王太伯の舎弟仲雍の後裔「夫差」は子「慶父忌」と共に筑紫に
来たり、肥後国菊池郡山門里に住する。
西暦213年魏王となった曹操は、文王の子「叔振鐸」の後裔であり
遠祖は同じ。
西暦238年(曹操の孫明帝の治世)、倭の卑弥呼は魏に使者を送り
親魏倭王に封ぜられる。

*****

:孝昭天皇3年来朝←(BC473年に、来朝したらしい。)
:(日本書紀では、孝昭天皇元年は、丙寅BC475年。)

:呉王太伯の舎弟仲雍の後裔「夫差」は、日本書紀の「天背男命」
:(一書:イザナキ)だろうと思われます。

*****
:日本書紀に、「蘇因高(小野妹子)」が登場します。
:この人物を「蘇我氏(中臣氏)」の一人と考えています。
:下記の「蘇伯孫」を「天御中主神」だろうと想像しています。


「晋州蘇氏(チンジュソし、)」(ウィキペディアより)
:晋州蘇氏は、朝鮮の氏族の一つ。
:本貫は慶尚南道晋州市である。2015年の調査では、
:48,836人である(同系列の晋陽蘇氏は1,521人)。

:紀元前4241年に中国の祝融が都にムクゲ(蘇)を植えたことから
:蘇氏が創られた。

:紀元前209年に祝融の130代子孫の「蘇伯孫」が辰韓を建国し、
:「蘇伯孫」の29代子孫の「蘇慶」が新羅時代に上大等を任官し、
:晋州蘇氏を創始した。


│○○は、列島自生の氏族であった可能性が高くなります。


:「夫差」の子「慶父忌」が、BC473年、来朝(移住)。
:「天御中主神」と思われる「蘇伯孫」は、BC209年に辰韓を建国。
:倭人と思われる朴氏「赫居世」は、BC57年に徐那伐で13歳・即位。
:金首露(大国主命)は、AD42年頃生。(金官加羅国の始祖)

:「列島自生の氏族」という定義は、難しいですが、現代につながる、
:約2千年前からの氏族ということで、どうでしょうか。
:(途中、半島と列島を行ったり来たりしていてもOK。)

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/02/14 (Wed) 21:12:01

 米田さん

 匈奴や扶余に、Y-D系があるとしても、それは、日本の縄文系の旧D2⇒D1b⇒現D1a2と改称を繰り返したハプログループではなく、チベット系の旧D1⇒D1a⇒現D1a1であると思われます。
 裏が取れない、昔の「王家のハプログループ」や「有名人のハプログループ」では、皇室も出雲国造家の千家氏も、現在のY-D1a2の異なったsubcladeとされ、高句麗や百済の王家は、旧Y-C3(現在は,Y-C2系の下位系統)とされ、日本の高句麗王氏の子孫から、判定しているように書かれていたと。記憶しています。
 天皇家のY-DNAの判定は、東山天皇の男系子孫複数人と桓武平氏鎌倉党の大庭景義の同じく男系子孫複数人で、確認したとされていました。

 以前は、韓国の各氏族のY-DNAも、載っていましたが、現在は、そのようなサイトには、アクセスできませんでした。私は、渡来系弥生人=倭人=日琉語族と考え、そのY^DNAは、Y-O1b2と考えるので、諸氏のY-DNAをチェックしましたが、申氏がそれだと分かった以外は、本貫地の区別が難解で、朴氏や金氏については、よくわかりませんでした。

 金氏などは、金海金氏(金官伽耶国王家、首露王子孫)と慶州金氏(新羅3王姓の金閼智の子孫)のような太族だと、各々,100万人以上の男性が、所属します。まあ、族譜が正しければ、という前提が、付きますが。
 話によれば、族譜を管理している宗家に、賄賂を出して、系譜の末端に祖先の名を、書き込んでもらうと言うような話もあり、多数いる兄弟の末の方や庶子の一部は、付加された可能性が、高いとも聞きました。
 どこの国でも、どの時代でも、家格に身分差があれば、偽系図作りは、必然です。
 まあ、現代韓国朝鮮人男性のY-DNAでは、Y-O1b2の比率も高く、Y-O2諸系統合計の半数近いらしいので、その集団を、半島に残存した倭人/倭種の男系子孫と仮定すれば、1/4ぐらいには、なると思われます。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/14 (Wed) 15:03:40


│記紀のイデオロギーが、記紀撰述時の天皇家たる
│継体欽明皇統の列島支配権を、
│天或いは天神からの所与のものとする史観で
│貫かれている、という事であるならば、
│私も異議無く、諸手を挙げて,賛同します。

:「記紀撰述時の天皇家」という部分は、賛成です。けれども、
:「記紀撰述時の天皇家」が、「継体欽明皇統」であるかというと、
:私は、NOです。継体欽明皇統は、推古天皇の頃に没落しています。

・景行天皇──日本武尊──武内宿禰──‥─舒明天皇─天武天皇
・五百城入彦皇子──応神天皇─‥‥─顕宗天皇─‥‥─天智天皇



│後、米田さんは、遺伝人類学の成果を、系譜復元に、
│反映させていないのではないか?
│皇太后や多妻多夫の系譜は、公表されていない日本の大王家や
│豪族の遺伝的データが公開されれば、雲散霧消する可能性が
│高いように思われます。

│現代日本人男性のY-DNAハプログループでは、縄文系主流のY-D1a2が、
│35%前後です。
│大王家の型であるならば、継体欽明皇統は、列島自生の氏族であった
│可能性が高くなります。



│皇太后や多妻多夫の系譜は、遺伝的データが公開されれば、
│雲散霧消する可能性が高いように思われます。

:紀元前後の「五部族」が、神功皇后の頃には、「二部族(金・朴)」
:に絞られてきています。
:藤原氏(朴)が、「南家・北家・式家・京家」に分かれたように、
:大国主命の子孫(金・許)も、いくつもの家に分かれていきます。
:ですので、大きな意味では、天皇家は、「近親相姦」に近い関係
:ですので、遺伝的データが公開されても、雲散霧消することはないと
:思っています。

:現在の天皇家の(男系)祖先(始祖)を、「桓武天皇」としてみます。
:この天皇家の祖先を(系図的に)探してみました。
:そうすると、下記の記述に、たどり着きました。


│(三国史記・高句麗本紀:AD22年)
│秋7月、夫餘王〔帯素〕の従弟(いとこ)が〔夫餘の〕国人に、云々。
│といって、1万余人をひきつれて〔高句麗に〕来降してきた。
│(大武神)王は、彼に王の称号を与え、掾那部の支配下においた。
│云々。絡氏という姓を賜った。


:この人物の子孫が、大国主命になり、さらに、塞曹掾史張政となって、
:彼が、記紀では「天之日矛・天日槍」となったと、考えています。
:そして、彼らの男系子孫が、「桓武天皇」につながるとみています。

:夫餘王〔帯素〕の従弟(いとこ)は、大きな意味では「匈奴」に
:なると思ったのですが、ハプロの系統で、「D系統」であっても
:匈奴の大部族に属していたのだろうと思えば、違和感はないです。


PS:源氏は、天皇家と同じ(ハプロ)と考えました。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/14 (Wed) 14:58:41

***********************
DeNAがDNA解析!
日本人の祖先のルーツをたどる
DATE : 2016.08.19

DeNAがDeNAライフサイエンスを設立し、遺伝子検査サービス
「MYCODE」を提供開始したときには、複数のマスメディアが
よし来たと言わんばかりに「DeNAがDNA解析」と報じました。


遺伝子には「祖先にどのような特徴があったのか」という情報が
刻まれており、多くの日本人は祖先の系統ごとに大きく以下10種の
「ハプログループ(ミトコンドリアハプログループ)」に
分類されています。

お米党が多い!?「稲作の民」
(ハプログループD/遠い血縁:中国中部の人々)
中国中部が起源とされるハプログループDは、
35%以上の日本人が該当する最大のグループです。

日本以外では中国や朝鮮半島にも多く、東アジア集団を特徴づける
グループといえます。
「稲作の民」の祖先は、中国中部で原始的な稲作を開始し、
その技術とともに日本へやって来ることで 弥生時代の到来に
貢献したと考えられています。


冒険大好き!?「海の覇者」
(ハプログループB/遠い血縁:ハワイの原住民)
中国南部が起源とされるハプログループBは、ハワイを含む太平洋の
島々から南米大陸まで、全世界に分布を拡げた開拓精神あふれる
グループで、 日本人の約13%が該当します。

日本には比較的古い時代に南方からやってきて、縄文人になったと
考えられています。(トップの絵はこのグループのイメージです)
東南アジアの島々に郷愁を感じる?


「日本最古の定住者」(ハプログループM7)
海底に沈んだ「スンダランド」と呼ばれる大陸が起源とされる
ハプログループM7は、日本人の約13%が該当します。

日本人独特の集団で、日本列島に最も古くから居住している
グループだと考えられおり、数万年前に南方から日本へやってきて、
縄文人として繁栄したとされています。

*************************

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) 石見介

2024/02/14 (Wed) 00:19:13

米田さん
 詳細なご説明、有難うございます。
 挙げられた文献から、基本的には、私とほぼ同じ資料群を根拠にしていることが、理解できました。
 相違点は、「史料批判」「文献批判」についての、観点が主で、結論が異なって来ていることが、よく理解できました。

 文中の「天皇制」なる言葉の意味が、どのような文脈で巣擁されているのかが、もう一つ,理解し難いのですが、これは、或いは、世代差かも知れません。
 記紀のイデオロギーが、記紀撰述時の天皇家たる継体欽明皇統の列島支配権を、天或いは天神からの所与のものとする史観で貫かれている、という事であるならば、私も異議無く、諸手を挙げて,賛同します。
 ただ、このような王権神授説は、一神教の西洋社会以前の、古ゲルマンや印欧語族、或いは、アフリカやトンガ諸島などでも、普遍的に存在する者であり、日本だけの特殊事象ではない事は、確認して置く必要があります。
 その意味で、米田さんが、小林氏を高く評価するのは、「天皇制」という言葉を、戦前の帝国主義時代の皇国史観への「過度」あるいは政治的な意図の下での、「天皇制」批判、という文脈なのか、鈴木武樹氏の史観に警戒心を抱いた私の、不安が、杞憂でないことを、願っています。

 日本史は、我々の歴史で史が、世界史の中で、相対化して、判断したいと、私は、常に考えています。
 他国史を、常に引き合いに出すのは、その為です。

 米田さんは、史書、文献、系譜の「矛盾」に中に、真実がある、というかんてんとのことですが、私は、文献批判の基礎は、極めて困難ではあっても、真偽を見極めることにあり、その為には、その文献の時代背景、執筆者の編纂姿勢、特にその動機の見極めは、重要だと考えています。
 『先代旧事本紀』の作者の動機が、物部氏の顕彰であるならば、その部分は,疑う必要があります。
『桓檀古記』等は、まともに扱ってよいかも、疑問です。
 中国史書が、皇帝の「起居注」に部分的によっているとしても、それは史書全体の信頼性とは、無関係です。
 隋が普六茹氏、唐が大野氏のような、「鮮卑姓」を、漢姓以外に保有していれば、彼らは実は漢化鮮卑であるという疑惑は、当然あります。そういう根本的な事実は記さない。どのような資料も、批判の対象です。

 後、米田さんは、遺伝人類学の成果を、系譜復元に、反映させていないのではないか?
 皇太后や多妻多夫の系譜は、公表されていない日本の大王家や豪族の遺伝的データが公開されれば、雲散霧消する可能性が高いように思われます。
 grン台日本人男性のY-DNAハプログループでは、縄文系主流のY-D1a2が、35%前後です。
 核ゲノムでの縄文系遺伝子の比率は、10~20%です。他にもY-C1a1など、縄文系のハプログループがあります。
 核ゲノムとの比率の大きな相違は、社会的選択として、性選択DET-D1a2系の男性が、選択されたことを、示しています。
 大王家の型であるならば、継体欽明皇統は、列島自生の氏族であった可能性が高くなります。

 余談ですが、「殺牛祭」は、中国北方より、むしろ、雲南や東南アジアなどで盛んで、オーストロアジア(南アジア)語族の「ワ(佤)」族で、大小の「窩郎(ウォラン)」が主催し、北米先住民の「ポトラッチ」に似た側面が、有るそうです。
 私は、倭人の起源は、長江中流域型下流域にかけて、水稲農耕を拡散させた南アジア語族系の一集団が、温暖期に山東方面辺りで、先住のアルタイ系集団と混血融和して、アルタイ系の文法と音韻体系(開音節)に南方英の基礎語彙を持つ「日琉語族」が形成された、という仮説を、持っていますが、それには、南アジア語族のY-DNAが、主に,Y-O1b1で、その兄弟ハプロのY-O1b2もそれなりに存在し、これが、渡来系弥生人の主要Y^DNAと考えられる事にありますが、同時に、言語学的に、「倭」「和」「佤」が、「ワ」「kwa.gwa」のような、近い音価であった可能性が高い事も、根拠です。
 まあ、佤族は、殺牛祭の他、首狩りの風習でも、有名だそうですが。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/13 (Tue) 22:04:49

(その5)

│Re: 「系図」を使って考察してみました。
│ - 石見介 2024/02/11 (Sun) 21:26:49

│私は、『東アジアの古代文化』誌で、小林氏の、
│「聖徳太子の正体は、東突厥の達頭可汗」という説を読み、
│その論旨の飛躍ぶりに、到底ついて行けないと感じ、当時の当会の
│中心的人物だった鈴木武樹氏の政治的な行動の胡散臭さに対する
│警戒感と併せて、当会への入会を見送った経緯があります。


:「聖徳太子の正体は、東突厥の達頭可汗」という説を米田がどう
:思うか、について、少し書こうと思います。

:まず、ウィキペディアで、調べてみましょう。

*****
「達頭可汗」(ウィキペディアより)
:達頭可汗(漢音:たつとうかがん、生没年不詳)は、突厥の西面可汗。
:生涯
:576年頃、父の室點蜜(イステミ)が亡くなると、
:突厥の西面可汗に任ぜられる。
:598年、達頭可汗はエフタルを征服し、都藍可汗と同盟しアヴァールを
:討ったことを、東ローマ皇帝のマウリキウスに報告した。
:599年、東突厥で都藍可汗と突利可汗が敵対関係になったので、
:達頭可汗は都藍可汗と手を組んで突利可汗(テリス・カガン)を
:攻撃し、その兄弟子姪を殺した。
:601年、歩迦可汗はふたたび大挙するが、隋軍により敗退し、
:吐谷渾に奔走した。

:子:莫賀咄侯屈利俟毗可汗

「莫賀咄侯屈利俟毘可汗」(ウィキペディアより)
:莫賀咄侯屈利俟毘可汗(ばくかとつこうくつりしひかがん、? - 630年)
:は、西突厥の可汗。統葉護可汗の伯父。


「聖徳太子(しょうとくたいし」(ウィキペディアより)
:聖徳太子は、飛鳥時代の皇族・政治家。
:用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
:生誕 敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)
:死没 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)

*****

聖徳太子の正体 第五巻(現代思潮新社)←(女史の本の要約・紹介文)
七世紀〈一〉・隋から唐へ←←(隋:581年~618年)

:突厥の大可汗達頭は巨大帝国随との戦いに敗れ列島に逃れ倭王タリシ
:ヒコとなった。後に聖徳太子として信仰の対象になった人である。
:内容説明
:東ローマにもその名を知られた突厥大可汗の達頭は勃興する大帝国の隋
:に追われ、600年に共闘する高句麗から百済を経て倭国に亡命した。
:そこで倭国の実力者蘇我氏の協力を得て倭王タリシヒコになった。
:607年にタリシヒコは小野妹子を隋に派遣して隋との講和に成功した。
:隋は対高句麗戦を計画していたのでタリシヒコとの講和に応じたので
:ある。隋の煬帝は612年より高句麗征伐を実行するが、
:はかばかしい戦績を挙げる事なく撤退した。
:タリシヒコは隋を救援したかったが、蘇我氏が倭国からの派兵に
:慎重だったので実行されなかった。
:隋が弱体になると次なる勢力の唐が618年に隋を滅ぼした。
:隋が滅亡するとタリシヒコ政権に暗雲が漂いはじめる。

*****
┌(米田)
│それを、蘇我馬子(塩古のこども)や、聖徳太子(実は、用明天皇)
│が半島からやって(戻って)来て、物部守屋たちを殺した。

│「飛鳥寺(あすかでら)」(ウィキペディアより)
│『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)
│に蘇我馬子が建立を発願したものである。

│三国史記・新羅本記:587年秋7月、
│:大世と仇柒との二人が海へ乗り出していった。
│:大世は、奈勿王の7世の孫で、伊飡の冬台の子である。
│:・・・。いっしょに南山の寺を訪れた。云々。

:大可汗達頭の生年を、550年頃とすると、
:用明天皇(551年頃生)と、だいたい生年は同じくらいである。

:奈勿王の7世の孫というと、だいたい聖徳太子(574年生)の世代で
:ある。(大世と仇柒の情報は、少なすぎてよく分かりませんでした。)

:倭王タリシヒコは、(私は、)用明天皇ではなく、
:押坂彦人大兄皇子に特定しています。

:だいたい、この辺まで「大可汗達頭」を調べてみて、用明天皇とは
:似ていますが、やはり、別人だろうという結論になりました。

:用明天皇や蘇我馬子(高向塩古の子)は、崇仏派です。
:(呉の松江の出身の子孫)高向の娘、「振媛」の影響から
:(男大迹天皇とは異父同母兄弟の子孫で)南朝系の崇仏になったと
:考えています。


│〔新羅の〕国人は、始祖赫居世より真徳にいたる28王を聖骨といい、
│武烈より末王にいたるまでを真骨という。
│○○の『新羅記』には、「新羅国では、王族を第一骨といい、
│その他の貴族を第二骨という」とある。

:新羅の「聖骨」に対するこだわりは、強いものがあります。
:新羅本紀の記述から、新羅の王族(朴・金など)の血縁関係は、
:狭い範囲の中で、婚姻が繰り返されてきたことが分かります。
:ですので、智証王のあたりで、部外者の血が混ざることは
:ないだろう、というのが、私の考えです。


PS:
:「糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)」(ウィキペディアより)
:糠手姫皇女(生年不詳 - 天智天皇3年(664年)6月)
:『古事記』では宝王、糠代比売王と表記されている。
:押坂彦人大兄皇子の妃。舒明天皇の母。父は第30代敏達天皇、
:母は伊勢大鹿首小熊の女。同母姉妹には太姫皇女がいる。

PS:太姫皇女は、物部守屋の妹です。
:図解すると、下記のようになります。(ひとつ、謎が解けました。)

守屋の父─┬─物部守屋
_____└─────────┬──太姫皇女(桜井皇女・祟峻夫人)
伊勢大鹿首小熊──菟名子夫人─┘┐
敏達天皇────────────┴─糠手姫皇女(田村皇女)

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/13 (Tue) 17:39:44


(その4)
・昔の投稿を、若干加筆修正して、再掲します。

* Re: 「王年代記について」 ( No.54 ) 
日時:2018/07/03(火) 11:14:13 名前:米田

ある会で、聖徳太子についての発表の機会をいただきました。
何とか「小論」(A4で7頁)の形に、まとめる事が出来ました。
(古代史の)基礎知識の不足を痛感しております。
「小見出し(キャッチコピー)」を迷っていますが、
これが、現時点の私の力量だろうと、思っています。
以下、冒頭部分の紹介です。

◎:「於等由羅(とゆら)宮治天下天皇」と「豊浦宮帝」についての考察
(副題:「二人の聖徳太子」__米田:2018-07-03)
(「推古天皇」による、両親と「母方の祖母」の再評価と勢力拡大)
───────────────────────────────
※:「元興寺伽藍縁起并流記資財帳(ならびに-るきしざいちょう)」
:楷井等由羅(とゆら)宮で天下を治めた豊御食炊屋姫命の生誕百年、
:癸酉(613年)正月九日に云々。
*****
:「炊屋姫命(513年生)の生誕百年」という記述は、
:正しいと(私は、)考えて考察しました。

Q:では、「楷井等由羅(とゆら)宮で天下を治めた豊御食炊屋姫命」
_:とは、いったい誰でしょうか。
A:「豊御食炊屋姫命」を「大神の祠を祀って、食事を捧げる
_:(祭祀権を持つ高齢の)女性」、つまり、仮に「皇太后の母」と
_:と定義すると、堅塩媛の母親(の世代)が、
_:「513年頃生」に該当します。

:楷井等由羅宮(桜井豊浦宮)で天下を治めた豊御食炊屋姫命
:(麻績娘子)の生誕百年(513年頃生)、
:癸酉(613年)正月九日に、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)が
:天皇の命を受け、元興寺などのいわれと、豊御食炊屋姫命(推古天皇)
:の発願、ならびに諸臣たちの発願を記すものである。

(補足:日本書紀)
:推古20年(612年)、堅塩媛を、(埋葬されていた○○の墓から)
:檜前の大陵〔欽明の墓〕に改葬した。
:つまり、堅塩媛には、夫が二人いたことになります。

───────────────────────────────
(『日本書紀』によると、桜井屯倉は、534年設置。)


* Re: 「王年代記について」 ( No.56 ) 
日時:2018/07/29(日) 13:09:59 名前:米田喜彦

(追記1:私にとっての、プロローグ)

※:「○○宮治天下○○」とか「天皇」というと、『白村江』
_:(講談社現代新書:遠山美都男)のプロローグに書かれている
_:一文を、私は思い出します。

:遣唐執節使(遣唐使の長官)、粟田朝臣真人の話
:(「続日本紀」より:『白村江』P-12・13)
:刀良(とら:白村江などの捕虜・奴)たちは副使である巨勢朝臣
:邑治の船に乗り、無事故国に帰ることになった。
:慶雲4(707)年のことだ。
:後で聞いた話によると、彼らが唐土にいる数十年の間に
:倭国が日本国となり、治天下大王の称号が天皇に変じたことを
:随員のひとりが教えてやった時のかれらの茫然(ぼうぜん)とした
:顔といったらなかったということだ。

※:この一文を読む限り、「倭国」と「日本国」が、(完全には)
_:一致しないように、「○○宮治天下○○」と「天皇」の概念も、
_:そのまま読み替えることが出来ない何かを、持っていると、
_:私は、感じました。

(追記2)
:(成立年代を気にしつつ)各種資料・史料を並べると、
:下記のようになります。

○:『船氏王後墓誌』・・・・・(未確認)成立年代
:「戊辰年(668年)十二月殯葬於松岳山上共婦‥」「おさだ天皇」と
:「あすか天皇」の間に、於等由羅(とゆら)宮治天下天皇が存在した。

○:『日本書紀』・・・720年成立。
:安閑天皇紀によると、桜井屯倉は、534年設置。
:(岩波文庫)
:「桜井の屯倉」・・河内郡桜井郷//「豊浦の宮」・・明日香村豊浦

○:元興寺伽藍縁起并流記資財帳・・・天平19年(747)頃に成立。
:楷井等由羅宮(桜井豊浦宮)で天下を治めた豊御食炊屋姫命
:(麻績娘子)の生誕百年(513年頃生)。

○:『日本帝皇年代記』・・・・(未確認)成立年代
:『正親町天皇(在位弘治三~天正一四、1557~86)』

『日本帝皇年代記』・・・壬子(592年)「豊浦宮帝(みかど)」即位
『船氏王後墓誌』・・・「於等由羅(とゆら)」宮治天下天皇に仕えた。
『日本書紀』・・崇峻5年(592年)、皇后(推古天皇:額田部皇女)
________は、豊浦の宮で天皇位に即いた。
『古事記・推古天皇記』・・妹「豊御食炊屋比売命」は、
________小治田宮に座、天下治めたまふこと37歳なりき。
(隋書俀国伝):開皇20年(600年)、俀王は、姓は阿毎(あま)、
________字は多利思比孤である。
『新唐書』(日本伝)_600年以降は、崇峻である。


(追記3)
:『船氏王後墓誌』(668年成立)の記述を正しいと考えました。

:すると、「治天下大王」の称号は、一時期(668年、特殊な使い方
:として墓誌に)「治天下天皇」が、使われ、その後、702年の遣唐使
:の頃には、「天皇」という称号が定着していたことが分かります。

:すべての史料・資料をすべて正しいと考えると、どんな世界が
:見えてくるでしょう。
:座右の銘は、「矛盾の中に、真実が見えてくる」です。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/13 (Tue) 16:17:38

(その3)

右図は、『船氏王後墓誌』の時代の図解です。

:私は、「矛盾の中に真実がある」と考えています。
:ですから、扱う対象は主に文献ですが、
:思考の手法は、「考古学」に近いです。
:小林女史のしたことは、文献史学における「(大前提)天皇制の存在」
:を壊したことです。そして、(2番目に)これでもかというぐらいに、
:いろいろな文献の中から「不都合な真実」を集めてきたことです。
:そして、3番目は、(自力で)独自のアイデアを構築したことです。
:ここで大事なことは、天皇制という大前提(仮説)を外したことです。

:私が、女史の本から学んだこと・実践し始めたことは、
:(1)記紀の解読には、天皇制を大前提(仮説)を外して良いこと。
:(2)評価・論評を気にせずに、記紀・外国の史料を自分の目で読む。
:(3)たくさんの史料(資料)を集めて、とにかく並べること。
:(4)集めた資料から導き出される結論(新しい仮説)を大切にする。
*****

:文献史学にも、色々な史料(資料)があります。
:私が、これまでに使ってきた史料(資料)は、次のようなものです。
(順不同・主にネットから得た資料が多いため、現物は見ていません。)

・まず、「風土記」と「先代旧事本紀」を史料(資料)として挙げます。
・あとは、細かいパズルのピースのような扱いです。

────────────────
:『船氏王後墓誌』の紹介
「・・・首(おびと)之子也生
_於乎婆陁(おさだ)宮治天下天皇之世奉仕
_於等由羅(とゆら)宮治天下天皇之朝至
_於阿須迦(あすか)宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲
_於阿須迦(あすか)天皇之末歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅故
_戊辰年(668年)十二月殯葬於松岳山上共婦・・・」

────────────────
:「元興寺伽藍縁起并流記資財帳
:_(がんごうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)」
:楷井等由羅(とゆら)宮で天下を治めた「豊御食炊屋姫命」の
:生誕百年、癸酉(613年:みずのと-とり)正月九日に云々。

────────────────
「天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)」(ウィキペディアより)
天寿国繡帳は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、
飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。
天寿国曼荼羅繡帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれる。
銘文によれば、聖徳太子の薨去を悼んで妃の橘大郎女が作らせたという。

───:「天寿國繍帳」の銘文(訳文)の登場人物:───

:磯城嶋宮に天の下治らしめしし天皇(すめらみこと)、
:名は 天国排開廣庭尊(=欽明天皇)、蘇我の大臣稲目の足尼
:(すくね/宿禰)が娘、名は 「堅塩媛命」を娶りて大后
:(おおきさき)となし、名は 橘豊日尊(=用明天皇)の妹(いも)
:名は 豊御食炊屋姫尊(=推古天皇)を生みたまいき。
:また大后が弟(おと)名は 小姉命(おあねのみこと)を后となし、
:名は穴穂部泥部皇女(あなほべはしひとのひめみこ)を生みたまいき。
(以下、省略)

────────────────
:『新唐書』_卷二百二十_列傳第一百四十五_東夷_日本(抜粋)
:①欽明の十一年は、梁の承聖元年に直(あた)る。 
:次は②海達、次は③A用明、または③B目多利思比孤と曰い、
:隋の開皇末(600年頃)に直り、始めて中國と通ず。
:次は④崇峻。 崇峻死し、欽明の孫女の⑤雄古立つ。 
:次は⑥舒明、次は⑦皇極。

────────────────
<蔚珍鳳坪碑>(ウルチン・ポンピョンひ):(抜粋)
甲辰年(524年)正月十五日
「喙部」_「牟即智寐・錦王」
「沙喙部」「従夫智葛文王」
「新羅六部」殺斑牛口口口事大人←←←「殺斑牛」


「東アジアにおける殺牛祭祀の系譜」←(今日ネットで見つけました。)
│:新羅と日本古代の事例の位置づけ←←(___2024-02-13:火曜日)
│:門 田 誠 一

│f漢民族以外の殺牛祭祀
│異民族のなかでは夫余の殺牛祭祀が、あまねく知られている。
│すなわち、『後漢書』夫余国伝には、戦争の時に天を祭り、
│牛を殺してその蹄で吉凶を占う、とみえる。
│また、『三国志』夫余伝でも、同じ記載があるが、(云々)。


(少し、脱線です。)
:物部守屋は、廃仏派です。これは、私の想像ですが、
:物部守屋たち、廃仏派の宗教儀式は、「殺牛祭祀」に近いものだったと
:想像しています。
:欽明天皇のあと、畿内を支配していたのは、物部守屋たちだった。
:それを、蘇我馬子(塩古のこども)や、聖徳太子(実は、用明天皇)が
:半島からやって(戻って)来て、物部守屋たちを殺した。
:そして、仏教を広めようとした。
:(物部守屋が支配者だったことを、記紀は隠蔽・改ざんして、
:_用明が死んだことにした。)
:天智天皇が青年時代に、「鷹狩りのようなもの」が「薬狩り」に
:変更されていることから、殺生禁止の風習が広まっている。
:白村江の敗戦の前後に、半島から大勢の人間がやって来たことで、
:仏教に慣れていない人間が多くなり、その結果、「殺牛祭祀」が、
:一時的に、増えてしまった。

:「山田史御方(沙門となって新羅で学問した)」(人物・系図不明)
:日本書紀の中に、仏教や中国の古典などの引用が多く使われて
:います。編さんに、この人も大きく関わっていたと思います。
:この、還俗したお坊さんが、日本書紀の編纂に深く関わっているために
:仏教の導入・浸透(聖徳太子の活躍)が、大きく扱われた。
:その結果、仏教以前の「廃仏派」の宗教観などが、見えづらくなった。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/13 (Tue) 15:48:20

(その2)

右図は、「前稿の仁徳天皇陵」に関連する図です。

│その「従えない部分」が、米田さんの系図復元の
│手法の、一部に組み込まれているのであれば、
│その部分は、やはり、私には、受容不可能です。

│日本の古代史の根本史料である記紀は、当然ながら、支配層の意図に
│従って、撰述されていますが、それは、中国の史書や、半島の正史も、
│皆同様です・
│何故か、日本の古代史関係者には、中国正史の「政治的中立性」を、
│過大評価する人がいますが、それは、偶々、そのような環境で
│撰述されたもので、実際にどうなのかは、厳密な検証が、必要です。

│記紀の虚偽を理由に、記紀以上に日本に関して無責任な記述を行って
│いる可能性のある、外国資料の「解釈」を根拠に、どこまで、
│記紀の記述を否定し得るのか。この難問に対する解釈の相違が、
│私と米田さんの古代史像の分岐点であるように、感じています。

*****

│何故か、日本の古代史関係者には、中国正史の「政治的中立性」を、
│過大評価する人がいますが、それは、偶々、そのような環境で
│撰述されたもので、実際にどうなのかは、厳密な検証が、必要です。

:「中国正史が、正しいかどうか。」という問いかけは、無意味です。
:中国の書記官は、宮廷の目の前でのやり取りを、目と耳で確かめて、
:それを紙に残しています。書記官は、その職務に命を懸けています。
:その記録が、(歴史的に)真実かどうかは、関係ないのです。
:遣使が、ウソを言っていれば、その通り記録し、間違えたことを
:いえば、その通りに書き残すのです。それが書記官の仕事です。
:では、遣使がウソを言っているかどうか、ですが、そんなことは
:分かりません。分かることは、遣使がそう主張したということです。

:半島の歴史は、どうでしょうか。
:金富軾は、可哀そうなくらいです。自分のまとめた史書が
:中国の史書の部分と、齟齬が発生しているのですから。
:金富軾は、熟慮した結果、自分のまとめた歴史の方が正しくて、
:中国の記述の方が間違えている、と結論しています。残念でした。
:中国の記述の方が正しかったです。それから、金富軾は、史書の中で
:日本に関する記述も、それなりにしっかりと書き残してくれています。

:図解(系図解読・復元)すると分かりますが、おおむね、中国の史書
:の方が正しいです。矛盾する場合には、両方とも正しいと考えます。
:しょうがないのです。(人の作った歴史ですから)歴史というのは、
:「大本営発表」なのです。そんなもんです。図解すると、
:どんな事実があって、どの様に改ざんしたのか、見えて来ます。


│記紀の虚偽を理由に、記紀以上に日本に関して無責任な記述を行って
│いる可能性のある、・・・、記紀の記述を否定し得るのか。

:図解してみると、想像以上に、「記紀の記述」は、正確です。
:「記紀の記述」の正確さには、私の方が一番驚いています。

:神功皇后(実際は、息長宿禰王=武内宿禰たち)が、三韓征伐をした。
:これは、正しい。(少なくとも、高句麗までは、支配した。)
:高句麗までを支配しているからこそ、仁徳天皇は「皇帝」で
:なければならないのです。
:(その後、皇帝や天王は、どうなったのか・・・。謎が残ります。)

:私が、否定しているのは、天皇制であり、BC660年という年代と、
:垂仁天皇と景行天皇の親子関係のウソが、メインです。

:日本書紀は、神武天皇以来、ずっと天皇がこの国を治めて来た、という
:壮大な(創作)ドラマです。
:でも、書かれている内容のほとんどは、正しいのです。(この矛盾)
:この矛盾があるから、記紀の図解は、楽しいのです。

Re: 「系図・年表」での考察(図解)(2) - 米田

2024/02/13 (Tue) 14:53:42

(その1)
:私の自称を「系図解読・復元マニア」から
:「古代史・図解マニア」に変更します。


│私は、考古学の型式論などが、理解できないので、
│どうしても文献中心に、古代史を考えますが、
│小林氏の文献解釈には、どうしても従えません。

:「考古学」を私がどう見ているかを(これから)書きます。

:考古学は、細かい現象を事実として認め、それを積み重ねていき、
:大きな考察(仮説)を考えます。そして、「不都合な真実」が
:出来てきた時には、今まで通用したきた「通説(仮説)」を
:捨てて、「不都合な真実」を内包する新しい「通説(仮説)」を
:求めます。
:それに対して、文献史学は、「天皇制」(天皇を大前提)として、
:歴史を俯瞰しようとしています。そして、「不都合な真実」が
:出てきた時には、全力で、偽書になりそうな根拠を探し出して、
:「不都合な真実」を排除(切り捨てることを)してきました。

:この約10年前、全邪馬連に参加すると同時に、
:多くの講演会・学習会に参加してきました。
:その中で、文献派の先生方の講演を聞いていると、武内宿禰は、
:○○年も生きていることになっている。そんなに、長生き出来る
:はずはない。だから、武内宿禰は、存在しない。と、いうような
:歴史上の人物の存在否定の話ばかり、聞かされてきました。
:発想を逆転させるとどうなるか。

:武内宿禰が多くの天皇に仕えているとすると、どうなるか。
:多くの天皇は、①併存するか、②天皇が赤ん坊の時に武内宿禰と
:同時に存在しているか、③その天皇の時代には、武内宿禰の方が
:本当は、生きていないのに、生きているとウソをついているか。

:例えば、仁徳天皇陵です。

:「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)」(ウィキペディアより)
:実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により百舌鳥耳原中陵
:(もずのみみはらのなかのみささぎ)として仁徳天皇の陵墓に治定
:されている。
:仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)や仁徳陵古墳とも言う。

:考古学上は仁徳天皇の陵であるとすることに否定的な見解が唱えられ
:ているが、築造時期が5世紀前半~中頃との見方が確定することに
:よって、むしろ文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づく
:とする見解もある。ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めて
:いない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定する
:ことは不可能となっていることから、現在では、(云々)
*****

:この仁徳天皇陵などは、「大雀皇帝(仁徳天皇)」の墓として、
:(認めて)仮説を立てればよいのです。

:仁徳天皇だけは、古事記で、「大雀皇帝」と「皇帝」という名前が
:使われています。「皇帝」は、いくつかの国を支配する存在です。
:「仁徳天皇」という表現は、日本書紀に出てくる、「日本」という
:一つの国を治める存在です。(ほかの天皇と、同列です。)
:それに比べて、「大雀皇帝」という名称は、他の
:いくつかの国王を従えた、「皇帝」という立場です。
:これは、日本書紀の建前である「天皇制」とは、相容れません。
:日本書紀の中でも、異質です。また、考古学的にも、埋葬の年代で、
:当然、他の天皇陵とも矛盾が出て来ます。
:ですから、仁徳天皇陵だけは、正しい、とするのです。そうしたら、
:(学者も本気で)日本書紀(&古事記)の見直しが始まるのです。
:おそらく、天皇制の見直しも始まることでしょう。

:そうしたら、年代論(紀年論)として、「シンメトリック論」も
:使わざるを得なくなると思います。

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