東アジア討論室
「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/07/25 (Thu) 12:38:36
※文献派・言語考古学を標榜。(謎だの永遠のロマンだとは認識していない)
「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」(福島命名)をツールとして。
*穴掘り考古学は須らく仮定の域を出ていない!=実年代が定かではない。
・著名な古墳の築造暦年と被葬者が誰だか解っていない!
*古今の先哲の論考を悉く批判・否定。(肯定できるのであれば謎ではない筈)
・「畿内説」はありえない。(中国正史の記述をいい加減としてしか成立しない)
・抑々、「邪馬臺國」と「邪馬壹國」は誤写・誤記の問題ではナイ!
①「邪馬臺國」も「邪馬壹國」も中国正史の書記官の脳裏にしか存在しない!
『古事記』『日本書紀』に記載が無い、のが何よりの証拠である。
「太安万侶」、「稗田阿礼」は知っていたが、『記・紀』編纂目的にそぐわないので、天武天皇、藤原不比等らから隠蔽を命じられた、と観る。
・倭王「帥升」、「卑彌呼」、「阿毎多利思比孤」も同伝で記載が無い。
②翻って、中国正史にも「邪馬臺國」「邪馬壹國」の具体的描写が無い。これは郡使(魏使)が現地に行っていない証拠である。郡使(魏使)は「伊都國」に常に留まる、と明記している。「梯儁」も「塞曹掾史張政」も「伊都國」止まりである。
・「邪馬臺國」へ到っていない事を中国正史は隠していない。
*「参問倭地…周旋可五千余里」=実際に郡使が踏査した倭地は延べ五千餘里 。(『三国志(魏志倭人伝)』)
・狗邪韓國(千五百里=逆算)+三海峡横断(三千餘里 )+末盧國~伊都國(五百里)=五千餘里 。
・(七千餘里-韓地方四千里=三千餘里 /郡治と倭地で按分=千五百里づつ)
*「狗邪韓國」が「倭地」である事は明記されている。
・詳らかになる「倭」の九ヶ国=①「狗邪韓國」、②「對海國」、③「一大國」④「末盧國」、⑤「伊都國」、⑥「奴國-1」、⑦「不彌國」、⑧「投馬國」、⑨「邪馬壹國」=「邪馬臺國」(実質「奴國-2」と重なる)。
行程の順路ではない!
行程図へ、つづく
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/06/19 (Thu) 21:53:15
※お待たせしましたッてか、誰も待っていなかったりして…。
『吉備=黍、阿波・安房=粟、紀伊=木』とは、何となく説得力有りそうだが…。
『日本先史古代研究会仮称“きび”考 創刊号寄稿 吉備国の語源「黄蕨」調査報告日本先史古代研究会会員 丸谷 憲二 』の 部分引用。
*丸谷憲二氏は膨大な資料・史料を渉猟されており、感服しました。その中で、下記引用部分に目が留まりました。(丸谷氏の説ではない=丸谷氏が渉猟されたものです)【引用部分】
【天保8年(1837) 『東備郡村志』 松本亮 『寸簸説』 「大成経には、人皇の大祖神武天皇東征して、吉備国に入り給ひ、高島の宮 に在すとき、其行宮の庭に一夜に八の蕨を生ず。其長一条二尺、其太さ二尺 五寸、其色濃黄、国有神人云黄光命。即朝奏曰、此草異艸也。当治八州祥、 是天為端、軍卒競之故、道此国号黄蕨国とみえたり。ここに以て、吉備は黄 蕨の転なるか。然れども其説疑ふらくは正しからず。按に、吉備国を日本記 の釈に寸簸(きび)に作る。然れば吉備は寸簸の転なるべし。寸簸とは当国 に名高き蓑山より起れるか。・・・」】(引用おわり)
※神武天皇東征の途次高嶋宮に八年(古事記)(日本書紀=三年)。
*私は予てより、「神武天皇」東征の出発地を「高天原」=天孫降臨の地=「水縄連山(耳納山地)」としています。現代の地図では「耳納山地」とあるが、これは中世の戦で敵の耳を削ぎ取りその数を「戦功」の証にした後、この山に埋めたとする故事に由来する。然し、中世より以前に「みのやま」の音価があった。この山の別称「高牟礼山」があり古名に「蓑尾山」がある。
・「高牟礼山」=「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」=「“다가-물”(taka-mul)山」=「集る水の山」。「蓑尾山」=雨具の蓑の裾=水が滴る山、でどちらも水源の山の意。私が多用する「水縄連山」は、この連山の中央部に旧・「水縄村」=現・「久留米市田主丸町水縄」が現存し「水縄小学校」も存在していて此方が古来の原義である、との認識による。
※神武天皇東征の出発地と途中の仮宮の高嶋宮に同じ意味の「蓑山」が存在している事に蓋然性を感じる。
※件の『東備郡村志』では「黄蕨」(きわらび)を疑い、「日本記 の釈に寸簸(きび)」の転が吉備であろう、としているが…。
私は、黄蕨(きわらび)⇒日本記 の釈に寸簸(きび)⇒好字二字令の勅令⇒「吉備」の変遷を経たものであろうと思います。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/06/07 (Sat) 18:26:57
石見介さん、コメントを賜り多謝 謝々!
お久し振りです !
お元気なご様子で何よりです。
・今、吉備の地名の資料を渉猟中ですが、歳の所為か眼の所為が根気が続かず停滞しています。
・コスモヘルス(株)という医療機器メーカーの無料体験(電子照射?)に三年位通っていますので、大分好い方ですが…。
・若いころの無理(建築工事で酷使)が祟って満身創痍です。
・耳鳴り、第七頸椎捻挫の古傷=頚肩腕症候群、第五腰椎は変形=腰痛⇒坐骨神経痛誘発。右目は工事用酸素ホースの暴れで打撲=黄斑上皮(直接原因か否かは不明=発症まで期間が空き過ぎ?)。不整脈(狭心症)、前立腺肥大(自尿困難=導尿)
・件の医療機器メーカーの無料体験で、耳鳴り、導尿以外は改善がみられています。
・厚労省の認可は「頭痛・肩凝り・不眠・慢性便秘」の寛解ですが、全身の血行が良くなり、質の良い睡眠が齎されて免疫が向上。此処数年風邪、コロナには罹患していません。腰痛も改善して起床時だけで少し動いていると解消。坐骨神経痛は完治。不整脈も月水金にGymに通っていますが悪化していません。冠動脈の血流を補うバイパスが自然に派生?したかと、自己判断しています。
・初期の癌が見つかり、手術の順番待ちの方が、此処に通っていたら癌が縮小して手術不要になったとの報告も。他に、Ha1cの数値が下がった、白髪が黒くなった、爪の伸びるのが早くなったetc。
・此処は宣伝会場ですが、機器を買ってくれとは言わない。売ってくれと言えば売る、押し売りも帰りに何か買えとも言わない。
※釈迦に説法みたいですが、石見介さんも体験されては如何ですか。此処は「久留米市田主丸町会場」ですが、全国150ヶ所で展開しているそうです。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 石見介
2025/06/05 (Thu) 15:12:44
福島さんのスレなので、御説に直接関係のない話題についてのコメントは、控えていましたが、大宰、総領の話が続いているので、お邪魔します。
大宰、惣領(総領)については、筑紫、吉備、伊予に存在したことは知っていましたが、今回、周防総領、坂東総領も、存在したことを知り、驚きました。
史料に残っていないだけで、他地域にも、後の令制国数ヶ国に相当する地域を管轄する惣領が、設置されていた可能性は、高いように思われます。
令制国設置後、筑紫の大宰府のみが存続したのは、半島諸国や南島との外交、国境防備という、特殊事情が存在した事によると思われます。
陸奥の鎮守府も、奥羽両国を管轄しましたが、前身として、蝦夷惣領の様なものが、置かれていたのかも知れません。
芸予諸島などは、吉備、伊予、安芸等の境界域にあり、時勢により、所属が変わったと思われます。
私は、戦国時代を含む中世史に興味があり、戦国時代に、尾張と三河で、領域が変わり、新郡が設置された例を知り、京の幕府や朝廷の対応がどのようなものか、知りたかったのですが、不明でした。
尚、「吉備」の語源は、そのまま雑穀の黍であり、阿波国は、「粟」であり、「紀伊国」は「木」の国の語義です。
国郡名を、「好字」2字で表記するようにとの朝廷の方針で、「木」の国は「紀伊」、「泉、出水」の国は「和泉」、「三野」国は[美濃]国等に、変えられました。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/06/04 (Wed) 22:39:05
米田さん、P君サン、当世奇妙さん、情報とコメントを賜り多謝 謝々!
・久留米地名研究会に所属している身として、吉備の地名、岡山、福岡と思考を巡らせています。
・今少し、お時間を…
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 当世奇妙
2025/06/03 (Tue) 08:46:47
米田さんへ
吉備国は岡山周辺のみと思ってました。
WIKIの説明はじめて読みました。
ありがとうございます。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - p君
2025/06/02 (Mon) 19:44:13
香川県島嶼部も吉備と呼ばれていたこと初めて知りました、ありがとうございます。
語源の話になると諸説あるのでしょうが、
吉備の語源は古代より食を意味する「ケヒ」が訛ったものかもなどと考えてます。
明石海峡がケヒの海と呼ばれ、
淡路島西部に慶の松原などが今もあります。
和歌山の紀伊もケヒが訛ったものかもなどと考えてます。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 米田
2025/06/01 (Sun) 16:40:17
「吉備国(きびのくに)」(ウィキペディアより)
:吉備国は、古代日本の地方国家である。
:現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部
:(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがる有力な地域の一つで
:あり、大和、筑紫、出雲などと並ぶ古代日本の四大王国(四大王権)
:の一角であった。
:
:『国造本紀』によれば、吉備地方には大伯氏(大伯国造)、
:上道氏(上道国造)、三野氏(三野国造)、下道氏(下道国造)、
:加夜氏(加夜国造)、笠氏(笠国造)があった。
:吉備の国造の場合、多く(上道・三野・下道・加夜・笠)が
:臣(オミ)姓を称している。
:
:吉備国守・吉備大宰・吉備総領は、
:『日本書紀』・『風土記』・『続日本紀』に散見される官職で、
:吉備国分割の前後に設置されたらしい。
:職掌・管轄範囲・存続期間は伝わらない。大宰府の前身とおぼしき
:筑紫大宰とともに、中央から派遣され、管下の複数の国の外交と軍事を
:統括する任務を負ったものと推測される。
:史料に見える最後は、文武天皇4年(700年)の吉備総領任命記事
:である。遅くとも大宝律令制定までに廃止された。
*****
:雄略天皇紀には、吉備上道臣女稚媛(吉備稚媛)がいます。
:はじめ、吉備稚媛は、吉備上道臣田狭の妻でしたが、雄略天皇は、
:田狭を「任那国司」にして、吉備稚媛を召して寵愛します。
:(別本では、吉備稚媛の父は、玉田宿禰になっています。)
:これを系図にすると、下記のようになります。
(吉備上道臣)
─玉田宿禰───吉備稚媛─┐──磐城皇子・星川皇子
────────田狭───┴─兄君・弟君
_____(吉備上道臣→任那国司)
:このように見ると、
:「吉備上道臣」は、世襲ではなく、娘婿に引き継がれています。
:そして、「吉備上道臣」は、「任那国司=任那日本府」と同義のように
:見えて来ます。つまり、「任那国司」は、屯倉として、吉備の国も
:支配していた。(そんな想像をしています。)
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/29 (Thu) 17:57:17
「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」検証の最後は「耳成山」である。
※耳成山の久留米大学大矢野名誉教授の解説<要約抜粋>
「やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に
大御門 始め給ひて 埴安の 堤上に あり立たし 見し給へば
大和の 青香具山は 日の経ての 大御門に 春山と
しみさび立てり 畝火の この端山は 日の緯の 大御門に
端山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大御門に
よろしなべ 神さび立てり 名くはしき 吉野の山は 影面の
大御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天のみかげ
天知るや 日のみかげ 水こそば 常にあらめ 御井の清水」
・「…耳成の 青菅山は 背面の」と詠まれて=北斜面が見えるとは南に在る、と。
奈良の耳成山は北に在り、不整合である。水縄連山(耳納山地)の事である。
・「…吉野の山は 影面の 大御門ゆ 雲居にそ」とも詠まれている。【『万葉集』巻52】「藤原宮御井歌は九州で詠まれたものである。<抜粋終わり>
*「…雲居にそ」=春夏秋冬朝昼晩降っても照っても雲が沸く「水縄山」。
・この詩の結句=「水こそば 常にあらめ 御井の清水」とある。
・「御井の清水」=三井郡御井町=徳間清水・磐井清水・朝妻清水。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/24 (Sat) 18:15:20
米田さん、貴重な情報を賜り多謝 謝々!
1.吉備にも「大宰」が置かれていた、とは存じませんでした。
※然し、奈良は該当しませんし、吉備にも疑問があります。
・【大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そ蜻蛉島大和の国は】
・「蜻蛉島」(あきつしま)の初出は、神武天皇の国見の詩かと。
・前項「畝傍山」でも触れましたが…、
*「蜻蛉の臀呫の如し」は国の地形がハート型(蜻蛉の交尾)の如し=「嗛間の丘」から見下ろして、宝満川と筑後川の合流点とその周りの穀倉地の地形を表現している。
※九州の「天香俱山」からの眺望と合致します。
・筑後川は「水縄連山(耳納山地)」=「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」と並行部では「西流」していますが、久留米の水天宮(全国の水天宮の総本山)辺りから「南流」しています。
・往古は此の水天宮辺りまで有明海が湾入していました。
・朝倉市の「天香俱山」からは此の有明海が眺望出来ます。
・当然ながら鴎(かもめ)の飛翔も観察可能です。
・内陸部なのに鴎が見られる、との強調では?
・吉備の海辺で鴎が見られるのは至極当然で、特筆に当たらないと。
2.>… ということで、舒明天皇が国見の歌を歌ったとすると、その風景は、「吉備国」の「大宰府」に赴任したときの歌、でよろしいかと。つまり、高句麗系の天皇、「乎婆陁(おさだ)天皇」・「等由羅(とゆら)天皇」・「阿須迦(あすか)天皇」は、ヤマトに居て、百済系の天皇「舒明天皇」は、吉備に居た。>
※「吉備国」に舒明天皇が赴任 ? ですか。
・天皇が行幸はしても赴任とは言わないのでは?
※「高句麗系の天皇」? とは、初めて聴きますが…。『記・紀』の記述に登場しますでしょうか?
・私は、常々「高句麗建国王の朱蒙は倭人」だとしています。
・高句麗の古地名に、倭数詞に因むものが知られていますが、倭人が残したものである、と観ています。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/22 (Thu) 21:55:27
当世奇妙さん、適時にご下問賜り多謝 謝々!
>「大和三山(「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」)が、捏造であり元の三山は九州に在ったとして学説・通説・定説がいい加減である」が「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の傍証になると言うことですか?
※いいえ、逆です!「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」は、単なるツールです。
・漢籍の倭語音写(当て字)語句から「記紀」・万葉歌の語句までに適応・対応可能である、としています。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 米田
2025/05/20 (Tue) 22:05:49
┌
│Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
│2025/05/15 (Thu) 18:28:18
│
│※「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」の全てが
│奈良県では不整合である。
│
│・「天香倶山・畝傍山・耳成山」を詠んだ
│『万葉集』にその配置が示されている。
│
│1.「天香俱山」
│*【『万葉集』巻52】
│「藤原宮御井歌」柿本人麻呂作とも違うとする説もある。
└
:52番の歌の話なのに、勘違いをして2番の歌を持ってきました。
:
:(いちおう)こちらは、「香久山」の話です。
:2番の歌では、「海原」と「かまめ(かもめ)」の情景は、
:ヤマトの国の「国見」の風景には、合致しません。
:
:ヤマトでなければ、ではどこか、という話になります。
「大宰府(だざいふ)」(ウィキペディアより)
:吉備国にも大宰が置かれた記録は在るものの、一般的に
:「大宰府」と言えば九州筑紫のそれを指すと考えてよい。
「舒明天皇(じょめいてんのう)」
:舒明天皇(593年?〈推古天皇元年?〉- 641年〈舒明天皇13年〉)は、
:日本の第34代天皇(在位:629年2月2日〈舒明天皇元年1月4日〉-
: 641年11月17日〈舒明天皇13年10月9日〉)。 宮は、飛鳥岡本宮。
────────────────────────────────
※:『船氏王後墓誌』の紹介:船王後墓誌とは
_:7世紀前半の官人船王後(ふねのおうご)の墓誌である。
────────────────────────────────
『船氏王後墓誌』 「・・・首(おびと)之子也生
於乎婆陁(おさだ)宮治天下天皇之世奉仕
於等由羅(とゆら)宮治天下天皇之朝至
於阿須迦(あすか)宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 ・・・
於阿須迦(あすか)天皇之末歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅故
戊辰年(668年)十二月殯葬於松岳山上共婦・・・」
────────────────────────────────
:船王後(ふねのおうご)の墓誌による「阿須迦(あすか)天皇」と
:日本書紀の舒明天皇では、宮も違うし微妙に没年月日も違っています。
:
:ということで、舒明天皇が国見の歌を歌ったとすると、その風景は、
:「吉備国」の「大宰府」に赴任したときの歌、でよろしいかと。
:
:つまり、高句麗系の天皇、「乎婆陁(おさだ)天皇」・
:「等由羅(とゆら)天皇」・「阿須迦(あすか)天皇」は、
:ヤマトに居て、
:百済系の天皇「舒明天皇」は、吉備に居た。
:
:
:「大宰府(だざいふ)」の扱いとしては、九州よりも、吉備の方が
:(何となく)良さそうな気がしています。
:
:考察が、不十分で、失礼しました。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 当世奇妙
2025/05/20 (Tue) 16:19:32
「大和三山(「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」)が、捏造であり元の三山は九州に在ったとして学説・通説・定説がいい加減である」が「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の傍証になると言うことですか?
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/20 (Tue) 11:10:48
当世奇妙さん、ご助言と激励を賜り多謝 謝々!
※私としては、テーマを広げているのではなく傍証を建てて、状況証拠的に持説を固めているつもりです。
・考古学の遺物・遺構は確たる証拠として存在感がありますが…。
・愚説の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の様に認知度の低い論考の場合は、状況証拠的に傍証を積み重ねるほかはないとの認識です。
・大和三山(「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」)が、捏造であり元の三山は九州に在ったとして学説・通説・定説がいい加減である、と説いています。
・捏造の畝傍山の傍らに、日本書紀の記述に合わせて神武天皇即位の地として橿原神宮が明治時代に造営されている現状に誰も異を唱えない、のを訝っています。
橿原神宮へつづく、とした前項は取り下げます。「耳成山」へと続く。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 当世奇妙
2025/05/18 (Sun) 19:25:37
「私は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」を引っ提げて論考しています。本邦唯一無二の手法と自負とていますが、先行論文皆無・指導教官も居ませんので巷間でトンデモ説扱いです」
福島さん
上記の説は古代北九州・朝鮮半島の歴史解明に重要な視点ですよ!
テーマを広げ過ぎて「トンデモ説」と言われないように最初の仮設の証明にもっと力を入れてはどうです」か!!
お互い、老い先短い。100歳まで生きてもあと15年!!私は大いに期待しています。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/18 (Sun) 16:45:16
2.「畝傍山」久留米大学大矢野名誉教授の九州王朝説は「畝傍山」は九州に在る!と説かれている。<要約抜粋>
*「畝傍山」=田の畝の様にくねくねとした尾根を持つ意であるが、奈良の畝傍山は単峰である。朝倉市と小郡市に跨る、「花立山・城山」が本来の畝傍山である。こちらの畝傍山は、くねくねとした尾根がある。両市で呼び名が異なる。
・『日本書紀』「三十一年四月一日、天皇行幸、脇上の嗛間の丘に登られ、国状を見廻して言われた。素晴らしい國を得た。良き哉。蜻蛉の臀呫の如し。是が秋津洲と號(なづけ)る由来である」
*神武天皇は(畝傍山の)脇山の嗛間(ほほま)の丘に登って国見を為されている。
・奈良の畝傍山は単山で、「脇山」は存在しない。
・嗛間の丘=母(祖先)の墓がある丘=奈良の畝傍山には墓は無い!
・こちらの畝傍山(花立山・城山)には三百基以上の古墳が在る。
*「蜻蛉の臀呫の如し」は国の地形がハート型(蜻蛉の交尾)=奈良県にはない!
・「嗛間の丘」から見下ろして、宝満川と筑後川の合流点とその周りの穀倉地の地形を表現している。<要約抜粋終わり>
*所在地の「四三嶋」=「始祖島」=神武天皇の事を「始祖」と観ている。
*奈良へ東征する以前の、九州平定の事が、東征後の事として紛れ込んでいる!
・末子の神武は父と兄をアンカーとして宮崎に残して、一家全滅の回避をした!
≪宮崎とは…・「宮」=「神武天皇」の意。
・「﨑」=(前=祖先)の意=「鵜葺草葺不合命」の意。
∴鵜戸神宮の主祭神=鵜葺草葺不合命≫
*神武東征の出発地=「高天原」(筑後川左岸)を発ち現・高千穂町に暫く居て、五瀬川を越え(避けて)耳川を下り美々津港(海軍発祥)の地から豊予海峡へ出る。
・宇佐の一つ上がりの宮に入り、関門海峡を岡湊へ廻り込む。東征であれば瀬戸内海へ直行しそうなものである。畿内へ東征する前に筑後川右岸の平定をした記録である。
・畝火の この端山は 日の緯の」と詠まれて=北緯で北である。
・奈良の「畝傍山」は西に在り、不整合である。
*橿原神宮は何もないところに『日本書紀』の記述に合わせて、捏造の畝傍山の東南に創建されている。
・九州の畝傍山は、当然ながら名前を消されている。
・「畝傍山」とは、田の畝の様にくねくねとした尾根を持つ山の意だが、奈良の畝傍山は単峰である。
・朝倉市と小郡市に跨る「花立山・城山」が本来の畝傍山である。
こちらの畝傍山には、くねくねとした尾根がある。
橿原神宮へとつづく。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/17 (Sat) 12:36:45
>福島さんへ 何か、意見や感想をお聞かせください。
※米田さん、適時にご下問賜り多謝 謝々!
・考古学的遺物・遺跡は其処に過去に何かが存在した、と言う証拠になります。
・然し、何も出土しない(しなかった)空白域は、無かったと言う証拠たりえません。未発掘なのか、国家権力的大きな力が抹殺した可能性を否定できません。
・逆説的には、それら権力者に不都合なものの存在を隠ぺいした証拠になりえます。
*前項で再掲した物への補足説明です。
・「天香俱山」の「天(あま・あめ)」=東の山の意=筑後平野の東端にあります。
・「香具山」=川刺す山=筑後川に突き刺さるように河岸に山裾が迫っています。
*「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」に就いて論述の途中ですが、考古学的論考ではなく、『万葉集』の歌詞に、奈良県では其の存在性が不整合としています。
・九州が舞台であることを隠ぺいしていても「記紀」の記述が、隠ぺいを暴露しています。
*先の当世奇妙さんへの回答に、「祇園山古墳」の発掘調査報告書を書いた人が「邪馬台国畿内説」の人で、卑弥呼の存在に係る部分が不記載ではないか、と疑われています。
※考古学的知見だけでの考察には限界があると存じます。
・従って、私は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」を引っ提げて論考しています。本邦唯一無二の手法と自負とていますが、先行論文皆無・指導教官も居ませんので巷間でトンデモ説扱いです。
残念無念! ! !
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 米田
2025/05/16 (Fri) 19:39:20
┌
│Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 当世奇妙
│2025/05/09 (Fri) 16:08:44
│
│福島さん
│1~3月の片岡さんの講演聞きましたか?
│あの講演内容を福島説のなんとか結び付けられないかと、
│ふと考えました!
└
┌
│Re: スレ「縄文・弥生・古墳時代」 - 米田
│2025/05/16 (Fri) 07:37:46
│
│「耶馬日田英彦山国定公園」wikiより
│(やば・ひた・ひこさん・こくていこうえん)
├
│Re: スレ「縄文・弥生・古墳時代」 - 米田
│2025/05/15 (Thu) 22:36:17
│
│:図は、片岡先生の講演の資料を
│:一部編集したものです。
│:「筑紫神社」と「高良大社」は、両方とも、
│:「天孫降臨」や「神武東征」には、
│:関わりはなさそうです。
└
福島さんへ
何か、意見や感想をお聞かせください。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/16 (Fri) 18:15:04
【長年、方々で説いてきたので説明が疎かになっていました。再掲いたします。】
※「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」の全てが奈良県では不整合である。
・「天香倶山・畝傍山・耳成山」を詠んだ『万葉集』にその配置が示されている。
1.「天香俱山」
*【『万葉集』巻52】「藤原宮御井歌」柿本人麻呂作とも違うとする説もある。題が「藤原京」でなく「藤原宮」である事にも注視して頂きたい。
・「藤原宮」からの位置関係として詠まれている。
*「青香具山は 日の経ての」と詠まれて=東経で東と、此れは奈良も九州も合致している。が、語源からは不整合である。
・「天香具山」の「天(あま・あめ)」とは。
(他の神名や神話の地名にも該当する「天(あま・あめ)」)
・“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。東(あ・詰)=東の端。朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。朝鮮語の朝の意も“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
・“메-”(me-)=山の意の古語(『民衆書林・韓日辞典』)。母音は“a”と“e”を合わせた発音記号で「ま・め」の中間音である。故に「天(あま・あめ)」の両方の読みがある。
・「香具山」=“강-꿰”(gang-ggwe)山=「河刺す山」である。
“강-”(gang)=江、川、河 (『民衆書林・韓日辞典』)(語頭清音)
“-꿰”(-ggwe)=「グッと刺す」の意の擬音(オノマトペ)。
朝倉市杷木町の「高山(こうやま)」の事である。標高190.3mと高くない。
・「高山(こうやま)」←「香山(こうやま)」←「香具山(かぐやま)」の時代変遷か。
2.畝傍山へと続く。
ハングル表記は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/15 (Thu) 18:28:18
※「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」の全てが奈良県では不整合である。
・「天香倶山・畝傍山・耳成山」を詠んだ『万葉集』にその配置が示されている。
1.「天香俱山」
*【『万葉集』巻52】「藤原宮御井歌」柿本人麻呂作とも違うとする説もある。題が「藤原京」でなく「藤原宮」である事にも注視して頂きたい。
・「藤原宮」からの位置関係として詠まれている。
*「青香具山は 日の経ての」と詠まれて=東経で東と、此れは奈良も九州も合致している。が、語源からは不整合である。
・「天香具山」の「天(あま・あめ)」とは。
(他の神名や神話の地名にも該当する「天(あま・あめ)」)
・“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。東(あ・詰)=東の端。朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。朝鮮語の朝の意も“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
・“메-”(me-)の母音は“a”と“e”を合わせた発音記号で「ま・め」の中間音である。故に「天(あま・あめ)」の両方の読みが。
・「香具山」=“강-꿰”(kang-ggwe)山=「河刺す山」である。
朝倉市杷木町の「高山(こうやま)」の事である。標高190.3mと高くない。
・「高山(こうやま)」←「香山(こうやま)」←「香具山(かぐやま)」の時代変遷か。
2.畝傍山へと続く
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/11 (Sun) 13:07:52
>>卑弥呼の墓は案外ひっそりしたもので、耳納山の麓の何処かにあった可能性はゼロではない。古代から三角山は崇拝のやま、耳納のような特徴的な山も崇拝されてたかも。このやまに登ると、見晴らしはどうですか?>
※「水縄連山(耳納山地)」の西の端に「祇園山古墳」があります。九州自動車道の建設で削られそうになったが、道路が迂回することで残存。この古墳の発掘調査報告書が問題視されています。発掘に立ち会った人が見たものと異なる部分があるとか。卑弥呼を匂わせる事柄が削除されている、と。報告書を作成した人が邪馬台国畿内説の人だった、とか。
*見晴らしは、筑紫平野が一望できて絶景です。「水縄連山(耳納山地)」の西の端(祇園山古墳)からは、筑後川の西流部分の筑後平野と南流れ部分の佐賀平野が見渡せます。
・この次、大和三山の立地が『万葉集』の歌の内容と不整合で、「水縄連山(耳納山地)」=「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」他の方が整合する、とする書き込みの予定です。
Re: Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 当世奇妙
2025/05/11 (Sun) 09:50:33
卑弥呼の墓は案外ひっそりしたもので、耳納山の麓の何処かにあった可能性はゼロではない。古代から三角山は崇拝のやま、耳納のような特徴的な山も崇拝されてたかも。このやまに登ると、見晴らしはどうですか?
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/10 (Sat) 23:01:41
>水縄連山(耳納山地)には邪馬台国の何があったのでしょうか?明らかな考古学的遺跡は発掘されていませんね>
※邪馬台国が存在した証拠が有ると困る勢力が抹殺した、と思います。
・大宰府に派遣された畿内の歴代権帥(ごんのそち)は、任期明けに帰京するとき、古墳の?財宝を持ち帰った、と。
【大江匡房は『古今著聞集』に、「匡房中納言は任あけて帰るとき、道理によって得た財宝を船一艘、非道に得た財宝を別の船一艘に積んで上京したが、途中、道理の船は沈み、非道の船のみ無事都に着いた。世も末じゃ」と言う話が載せられている】『大宰府発見』森 弘子著より抜粋。
・これは、一人の権帥だけに留まる事ではない、と思います。一事が万事でしょう。
・「水縄連山(耳納山地)」北麓の古墳について、久留米藩の記録に「余りに多くて数える能わず」とありますが、今は数える程しか残っていません。
・文化財保護法制定前は、個人の宅内の古墳は石材として勝手に壊されていました。個人所有の山林も然り。
∴遺物の存在の有無は証拠にはなりません。寧ろ、何も無いことの方が、国家権力による抹殺・隠滅の証拠か、と。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 当世奇妙
2025/05/10 (Sat) 19:43:48
水縄連山(耳納山地)には邪馬台国の何があったのでしょうか?明らかな考古学的遺跡は発掘されていませんね。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/10 (Sat) 13:30:14
〉…片岡さんの講演から借用した図を見ると、耳納山に邪馬台国の何かがあってもおかしくないですね。〈
※仰る通りです !
「水縄連山(耳納山地)」=「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」の中央に在る「水分」は「田主丸」に…。
・「水分」は現代では「みずわけ」と呼んでいますが、「みくまり」が本来だと思います。
・「尊・命」(みこと)=「水事・米事」の意。
・「田主丸」=“당신-마을”(dang-sin-ma-eul)=「貴女(卑弥呼)の村」の意。
・「卑彌呼」=“힘(him)尊”=最高位の尊(みこと)の意。
※「水分」(みくまり)から、神話の舞台まで引き出せます。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 当世奇妙
2025/05/10 (Sat) 08:53:50
片岡さんの反応はどうでも良いです。
例えば添付した片岡さんの講演から借用した図を見ると、耳納山に邪馬台国の何かがあってもおかしくない
ですね。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/09 (Fri) 22:14:44
当世奇妙さん、片岡さんの公演は聴きそびれました。
以前、片岡さんに愚説を開陳しましたが、無反応でした。歯牙にもかけていないと思います。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 当世奇妙
2025/05/09 (Fri) 16:08:44
福島さん
1~3月の片岡さんの講演聞きましたか?
あの講演内容を福島説のなんとか結び付けられないかと、ふと考えました!
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/05/08 (Thu) 22:10:50
私は『所謂「邪馬臺國」問題は文献から解明できる』と、半世紀も前に看破した! 四半世紀前には『卑彌呼が都した所』を上梓。
Why ?Japanese historian諸氏よ!!!!何故、何ゆえ気付かないのか!。
弁辰「彌烏邪馬國」=「大伽耶國」⇒「水縄山(みのやま)」
「大伽耶國」建国王「伊珍阿岐王」=「伊奘諾尊」である。
※両方に似た地名が在る。即ち、移転地名。
*「彌烏邪馬國」=「大伽耶國」 ⇔ *「水縄山(みのやま)」
・「楮田里 新里 内上里」 ⇔ ・「楮原 新川 内ヶ原」
(三か所の配置の方位も同じに…)
・「玉山」 ⇔ ・「玉山」
・「高霊」 ⇔ ・「高良」
・「御井」 ⇔ ・「御井」
・「耳山」 ⇔ ・「耳納山」(水縄山)
※「水縄連山(耳納山地)」は山頂がノコギリノ歯状を呈している。
・万葉集歌第25の「耳我嶺」も「水縄連山(耳納山地)」が舞台。
≪天武天皇御製歌≫【三吉野之 耳我嶺尓 時無曾 雪者落家留 間無曾 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙來 其山道乎】
・「吉野」=“여신논”(yeo-sin-nun)=「女神の野(棚田)」であり、各地に在る「吉野」は、歴代「卑彌呼」を排出した土地。
・「三吉野」とは、高天原で初代「卑彌呼」が即位した所=所謂「邪馬臺國」=「水縄連山(耳納山地)」北麓の事と閃いた。各地の「吉野」と区別するために「み吉野」と美称を附した、と。
※「耳我嶺」=「水縄連山(耳納山地)」の意に他ならない。
・「耳」=かさなる=仍。『大漢語林』(大修館書店)
・「我」象形。もと、刃先がぎざぎざした矛の形に象り、借りて、「われ」の意味を表す。『大漢語林』(大修館書店)
*「我」=鋸刃の刃物の象形で、鋸の初文。白川静著『字通』
即ち、山頂がノコギリの歯状を呈し下り尾根が幾条にも連なる「水縄連山(耳納山地)」の山容・山態を表現している。
≪天武天皇御製歌≫の内容は、「天武天皇が「水縄連山(耳納山地)」北麓の道(県道151=やまづとの道)を唐の進駐将軍・郭務悰に逢いに行く道中歌」である。
・「時となく雪は降り、間断なく雨は降りしきる山道を辿っている」情景である。
※春夏秋冬朝昼晩降っても照っても雲がわく「水縄連山(耳納山地)」ならではの情景である。
・弁辰「彌烏邪馬國」と「水縄連山(耳納山地)」の区別のため、「水縄連山(耳納山地)」に附けた定冠詞=“구름의”(kulm-e)=「雲の…」が「久留米」の語源であろう。難解な長い地名を好字二文字に改める勅令を潜り抜けての三文字地名である。二文字にすると原意が損なわれる為か。
※大和三山(「天香俱山」・「畝傍山」・「耳成山」)の「耳成山」が舞台との通説は不整合である事の説明へと、つづく
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/04/29 (Tue) 17:38:25
※漢籍の『韓傳』に登場の弁辰「彌烏邪馬國」の「邪馬」も「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」でなければ、前項の書き込みと整合性が採れない事になる。この弁辰「彌烏邪馬國」とは、弁韓と辰韓に跨っている意か。「大伽耶國」が浮上する。「大伽耶國」の建国王「伊珍阿岐王」=「伊奘諾尊」の事である。
「伊奘諾尊」は列島に渡り、「水縄連山(耳納山地)」に降立った。
※「彌烏邪馬國」=「水縄連山(耳納山地)」と同義が成立する。
*「水縄連山(耳納山地)」=「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触る嶽」=水源の山である。
水縄=水が滴る縄=山腹が千本の櫛の歯で梳った様な谷沢を言い表している。この山の異称に「高牟礼山」「蓑尾山」がある。
・「高」=前述の“다가-”(taka-)傍へ寄り付く、寄り添う、近づく、詰め寄る(『民衆書林・韓日辞典』)。
・「牟礼」=“물”(mul)=「水」。子音止まり(閉音節)の語尾に母音“e”を付して倭語の開母音形に発音して「たかむれ」である。
∴「高牟礼」=水が寄って集っている=水源の山である。
・「彌烏邪馬國」と「水縄連山(耳納山地)」とは同じ様な意味が有る事になる。従って「彌烏」=「水生」の意の倭語が浮上する。
「水縄(みのう)」=箕面、美濃、水野も水が豊かな土地である。
・「三輪山」も「水(み)“와”(wa)山」=「水来る山」(直訳)で、
筑前町の大神神社(おおみわじんじゃ)のご神体が本家。
奈良の三輪山は移転地名か? 麓に遥拝所が在るのも同じである。
「三輪山」=「神奈備」とも称される。
*「神奈備」=「神“납입”(nab-ib)」。
・「神」=神聖なもの=鉄器。
・「奈備」=“납입”(nab-ib)=納める、収納の意。
※畿内からは鉄器や鉄製品の遺物(埋蔵)が少ない、とは。
・貴重な鉄製品は官営倉庫に保管されて必要時に貸し出し、用済み後は再び収納したからではないか、愚考します。
・それが「神奈備」であろう、と。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/04/28 (Mon) 18:10:26
米田さん、お久し振りです!
愚説にご反応賜り、多謝 謝々!
色々お調べくださり、有難うございます。
稗田阿礼が何者か、不明のまま、下級官吏としたことは撤回します。
詳述は避けましたが、稗田阿礼は九州弁就中筑後弁に精通していたのではないか、との含みを匂わせた積りでした。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 米田
2025/04/28 (Mon) 14:25:01
┌
│※此処で「稗田阿礼」が浮かび上がってくる。
│
│ж『古事記』の内容を暗唱していたのを太安万侶が聞き取り
│成文化したことになっているが、下級官吏の舎人が
│あの膨大な『古事記』全三巻の全文を暗記できる筈がない。
│誰も不思議に思わないのが不可思議である。
│
│ж「稗田阿礼」は漢籍に音写の
│「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」就中、
│筑後弁を太安万侶に通訳したと思われる。
└
:どこに話の焦点を合わせようか、と思いましたが、
:まずは、「下級官吏の舎人」について、考えてみました。
<「下級官吏の舎人」の地位や身分について>
┌
│「舎人(とねり/しゃじん)」(ウィキペディアより)
│舎人とは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。
│その役職。
│原則的に三位以上の公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し、
│同様に五位以上の貴族の子弟は中務省での選考の上、
│容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、云々。
└
:「舎人」とは、「三位以上の公卿の子弟」や「五位以上の貴族の子弟」
:であることが分かります。
*****
「藤原道長(ふじわら の みちなが)」(ウィキペディアより)
生誕:康保3年(966年)
死没:万寿4年12月4日(1028年1月3日)
青年期
天元3年(980年)道長(15歳)は従五位下に初叙。・・・、道長も
同年中(986年:21歳)に三度の叙位を受けて従四位下・左近衛少将に、
翌永延元年(987年:22歳)9月には従三位に叙せられ公卿に列した。
*****
:藤原道長は、兼家(従一位)の公卿の子どもです。
:「公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し」とありますから、
:道長も最初は、「舎人」のようなものです。(従五位下→従四位下)
┌
│「太安万侶(おおのやすまろ)」(ウィキペディアより)
│太安万侶は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。
│名は安麻呂とも記される。
│文武朝の大宝4年(704年)正六位下から二階昇進して
│従五位下に叙爵する。(古事記序文:712年、正五位上。49歳頃。)
│元正朝末の養老7年(723年)7月6日卒去。
│最終官位は民部卿従四位下。遺骨などの調査により
│享年は60才程度と推定されている。(60歳とすると、664年頃生。)
└
:それに対して、「太安万侶」は、古事記の序文の時、
:49歳頃で、正五位上です。(ほぼ人生の双六の「あがり」です。)
:片や、28歳の「稗田阿礼」は、舎人です。まだまだこれからです。
:もしかしたら、28歳の「稗田阿礼」の方が、公卿の子として、
:「太安万侶」よりも、位が上だったかも知れません。
:
:「下級官吏の舎人」の地位を、低く見すぎているように感じました。
****************************
:次は、「稗田(ひえだ)」についてです。
:案外「稗田阿礼」は、天皇クラスの人物ではないか、という話です。
*****
「日吉大社(ひよしたいしゃ)」(ウィキペディアより)
日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。
式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。
かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていた。
全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。
通称として山王権現とも呼ばれる。猿が神使で神猿(まさる)とする。
西本宮と東本宮を中心とする400,000平方メートルの境内は国の史跡に
指定されている。
社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、(云々)。
文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。
此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見で、これは、
日吉社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである。
日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉社は、
崇神天皇7年に日枝の山の山頂から現在の地に移されたという。
*****
(古事記の原文を検索)古事記 上-4 大国主命
:次大山上咋神、亦名、山末之大主神、此神者、
:坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也、
*****
「比叡山(ひえいざん)」(ウィキペディアより)
延暦寺が日枝山に開かれて以降、大比叡を大物主神とし
小比叡を大山咋神とし地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、
大山咋神に対する山王信仰が広まった。
*****
:「日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。」
:神社からお寺に代わっていますが、これは、
:平安京を守護する山です。
:
:(ここでは考察は書きませんが、)
:「稗田阿礼」とは、574年生の「聖徳太子」ではないか、というのが
:私の空想です。
:つまり、「舎人」は、案外、位が高い人物の、青年期の呼称だろうと
:考えています。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 米田
2025/04/28 (Mon) 13:47:39
┌
│・天孫降臨の地
│「筑紫の日向(ひむき)の襲(そ)の高千穂の槵触る嶽」
│を彷彿とさせる。
│即ち、「(髪が)靡く様な堆(うずたか)い小山」と合致する。
├
│ж「筑紫の日向(ひむき)の」=うきは市妹川地区の「日向(ひむき)」
│である。妹川小学校前の旧・バス停留所=「日向(ひむき)」で、
│盆地状の朝日が当たる側に現存する。
│「水縄連山(耳納山地)」の東の端。
│うきは市には他に「〇〇日向」の地名が12ヶ所現存。
├
│・『三国遺事』の『駕洛國記』には、この地への首露王降臨神話に
│「亀旨峰に集う「九干」の上空から降臨」とある。
│「九干」=九人の部族長の意。
└
:「堆(うずたか)い小山」というのは、赴任したときの「国見」の
:場所ではないか、そして、「国見」の時に、うたを読んだのだろうと
:考えました。
┌
│(ネットの記事より)
│亀旨峰(クジボン)は慶尚南道金海市亀山洞にある小さな峰で、
│1983年8月6日に慶尚南道記念物に指定され、
│2001年3月7日に史跡に変更されました。
│伽倻の始祖である首露王が降りてきたと伝えられているところです。
│以前はカメの頭の形をしていることから亀首峰といわれていましたが、
│現在は亀旨峰と呼ばれています。
└
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/04/19 (Sat) 21:14:36
私は『所謂「邪馬臺國」問題は文献から解明できる』と、半世紀も前に看破した! 四半世紀前には『卑彌呼が都した所』を上梓。
Why ?Japanese historian諸氏よ!!!!何故、何ゆえ気付かないのか!。
※「邪馬・邪靡」は「天(あま)」の筑後弁訛りの音写である。
∵筑後弁では「蟻(あり)」=「ぃあり・やり」と訛る。
ж『古事記』の冒頭、太安万侶は「天」を「あま」と読め、と註をしているが、理由を述べていない。
・「高天原」の所在地を隠ぺいする為である、と容易に想像が附く。地上に在っては不都合な事情があった。主眼目は「邪馬臺國」隠しである。太安万侶は漢籍に倭国の事が「邪馬臺國」と「邪馬壹國」と「邪靡堆」と記述されていることを知って居たはずである。太安万侶が個人的発想で隠蔽した訳ではない。古事記編纂を命じた天武天皇や藤原不比等の命令に拠るのは明白である。その証拠は、『古事記』に「邪馬臺國」も「邪馬壹國」も「邪靡堆」も倭王「帥升」も「卑彌呼」も「阿毎多利思比孤」も登場しない事である。即ち「倭國」の歴史は畿内皇統一元である、を主眼目にでっちあげるためである。然し、太安万侶は反骨精神から、後世の賢者が隠ぺいを見破るための布石を仕込んでいる。
※此処で「稗田阿礼」が浮かび上がってくる。
ж『古事記』の内容を暗唱していたのを太安万侶が聞き取り成文化したことになっているが、下級官吏の舎人があの膨大な『古事記』全三巻の全文を暗記できる筈がない。誰も不思議に思わないのが不可思議である。
ж「稗田阿礼」は漢籍に音写の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」就中、筑後弁を太安万侶に通訳したと思われる。
・「水縄連山(耳納山地)」の山麓に、旧・水縄村(現・久留米市田主丸町)があり「稗田」姓が数件現存する。
・太安万侶は『古事記』の冒頭で註を入れている。
曰く「高天原の高の下の「天」はアマと読め」としているが、何故であるかには触れていない。これは「稗田阿礼」が漢籍の「邪馬・邪靡(やま)」は「天(あま・あめ)」の筑後弁訛りの音写である、と進言した事を伏せているからであろう。後世の賢者が「邪馬・邪靡」=「天(あま・あめ)」にたどり着けるための伏線だと観る。
「高天原」を天上界に隠蔽、朝鮮半島由来と水縄連山(耳納山地)が故地であることも隠した。
ж大倭王・卑弥呼の居所説明の「邪馬・邪靡(やま)」が「天(あま・あめ)」=「高天原」である事は不自然ではない!!!!
・裴世清が現地踏査をしてその地は「邪靡堆」である、としたのは絶妙な文字遣いであり間違いではない。
・天孫降臨の地「筑紫の日向(ひむき)の襲(そ)の高千穂の槵触る嶽」を彷彿とさせる。即ち、「(髪が)靡く様な堆(うずたか)い小山」と合致する。
※「筑紫の日向(ひむき)の襲(そ)の高千穂の槵触る嶽」=「水縄連山(耳納山地)」の描写其の物である。
ж「筑紫の日向(ひむき)の」=うきは市妹川地区の「日向(ひむき)」である。妹川小学校前の旧・バス停留所=「日向(ひむき)」で、盆地状の朝日が当たる側に現存する。「水縄連山(耳納山地)」の東の端。うきは市には他に「〇〇日向」の地名が12ヶ所現存。
ж「襲の」=“서”(seo)の=「西の」。即ち「日向」の西の意の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」。(ハングル表記は全て)
ж「高千穂の」=「高」=「集(たか)る」の当て字。
“다가-”(taka-)傍へ寄り付く、寄り添う、近づく、詰め寄る(『民衆書林・韓日辞典』)。
「千穂」は、水縄連山(耳納山地)の山頂がノコギリの歯状を呈しているのを「千の穂」と描写。
ж「槵触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、千本の櫛の歯で梳った様相をしている描写である。「触る」⇒“훑”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)=髪の毛を梳く、と同義でもある。
※天津彦彦火瓊瓊杵尊は「膂宍(そじし)の胸副(むなそう)國」を丘続きに歩いた、とある。
・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と肋骨が浮き出た(櫛触る)様、のことである。水縄連山(耳納山地)の稜線描写に他ならない。
※天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。
・ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國(からくに)が真正面になると強調。
・韓國(からくに)とは「駕洛國」「狗邪韓國」の半島倭人の故地(同胞=はらから)の意。大韓民国の意ではない。
・「狗邪韓國」=「九倭韓国」=九倭韓國(九人の「倭」の部族長)の意の国情説明文言の一部。
「韓」とは、騎馬民族の「王や君主」の意の“haan・khan”の事。
・『三国遺事』の『駕洛國記』には、この地への首露王降臨神話に「亀旨峰に集う「九干」の上空から降臨」とある。「九干」=九人の部族長の意。
私は『所謂「邪馬臺國」問題は文献から解明できる』と、半世紀も前に看破した! 四半世紀前には『卑彌呼が都した所』を上梓。
Why ?Japanese historian諸氏よ!!!!何故、何ゆえ気付かないのか。
※「邪馬・邪靡」は「天(あま)」の筑後弁訛りの音写である。
∵筑後弁では「蟻(あり)」=「ぃあり・やり」と訛る。
ж『古事記』の冒頭、太安万侶は「天」を「あま」と読め、と註をしているが、理由を述べていない。
・「高天原」の所在地を隠ぺいする為である、と容易に想像が附く。地上に在っては不都合な事情があった。
主眼目は「邪馬臺國」隠しである。太安万侶は漢籍に倭国の事が「邪馬臺國」と「邪馬壹國」と「邪靡堆」と記述されていることを知って居たはずである。太安万侶が個人的発想で隠蔽した訳ではない。古事記編纂を命じた天武天皇や藤原不比等の命令に拠るのは明白である。その証拠は、『古事記』に「邪馬臺國」も「邪馬壹國」も「邪靡堆」も倭王「帥升」も「卑彌呼」も「阿毎多利思比孤」も登場しない事である。即ち「倭國」の歴史は畿内皇統一元である、を主眼目にでっちあげるためである。然し、太安万侶は反骨精神から、後世の賢者が隠ぺいを見破るための布石を仕込んでいる。
※此処で「稗田阿礼」が浮かび上がってくる。
ж『古事記』の内容を暗唱していたのを太安万侶が聞き取り成文化したことになっているが、下級官吏の舎人があの膨大な『古事記』全三巻の全文を暗記できる筈がない。誰も不思議に思わないのが不可思議である。
ж「稗田阿礼」は漢籍に音写の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」就中、筑後弁を太安万侶に通訳したと思われる。
・「水縄連山(耳納山地)」の山麓に、旧・水縄村(現・久留米市田主丸町)があり「稗田」姓が数件現存する。
・太安万侶は『古事記』の冒頭で註を入れている。
曰く「高天原の高の下の「天」はアマと読め」としているが、何故であるかには触れていない。これは「稗田阿礼」が漢籍の「邪馬・邪靡(やま)」は「天(あま・あめ)」の筑後弁訛りの音写である、と進言した事を伏せているからであろう。後世の賢者が「邪馬・邪靡」=「天(あま・あめ)」にたどり着けるための伏線だと観る。
「高天原」を天上界に隠蔽、朝鮮半島由来と水縄連山(耳納山地)が故地であることも隠した。
ж大倭王・卑弥呼の居所説明の「邪馬・邪靡(やま)」が「天(あま・あめ)」=「高天原」である事は不自然ではない!!!!
・裴世清が現地踏査をしてその地は「邪靡堆」である、としたのは絶妙な文字遣いであり間違いではない。
・天孫降臨の地「筑紫の日向(ひむき)の襲(そ)の高千穂の槵触る嶽」を彷彿とさせる。即ち、「(髪が)靡く様な堆(うずたか)い小山」と合致する。
※「筑紫の日向(ひむき)の襲(そ)の高千穂の槵触る嶽」=「水縄連山(耳納山地)」の描写其の物である。
ж「筑紫の日向(ひむき)の」=うきは市妹川地区の「日向(ひむき)」である。妹川小学校前の旧・バス停留所=「日向(ひむき)」で、盆地状の朝日が当たる側に現存する。「水縄連山(耳納山地)」の東の端。うきは市には他に「〇〇日向」の地名が12ヶ所現存。
ж「襲の」=“서”(seo)の=「西の」。即ち「日向」の西の意の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」。(ハングル表記は全て)
ж「高千穂の」=「高」=「集(たか)る」の当て字。
“다가-”(taka-)傍へ寄り付く、寄り添う、近づく、詰め寄る(『民衆書林・韓日辞典』)。
「千穂」は、水縄連山(耳納山地)の山頂がノコギリの歯状を呈しているのを「千の穂」と描写。
ж「槵触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、千本の櫛の歯で梳った様相をしている描写である。「触る」⇒“훑”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)=髪の毛を梳く、と同義でもある。
※天津彦彦火瓊瓊杵尊は「膂宍(そじし)の胸副(むなそう)國」を丘続きに歩いた、とある。
・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と肋骨が浮き出た(櫛触る)様、のことである。水縄連山(耳納山地)の稜線描写に他ならない。
※天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。
・ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國(からくに)が真正面になると強調。
・韓國(からくに)とは「駕洛國」「狗邪韓國」の半島倭人の故地(同胞=はらから)の意。大韓民国の意ではない。
・「狗邪韓國」=「九倭韓国」=九倭韓國(九人の「倭」の部族長)の意の国情説明文言の一部。
「韓」とは、騎馬民族の「王や君主」の意の“haan・khan”の事。
・『三国遺事』の『駕洛國記』には、この地への首露王降臨神話に「亀旨峰に集う「九干」の上空から降臨」とある。「九干」=九人の部族長の意。
誰か!気付いてくれ! この説の真意を!!!!!!!!
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/03/20 (Thu) 16:58:32
裴世清は『隋書』で前史の誤謬を指摘している。
・「古の「邪馬臺」は来てみたら「邪靡堆」だった」と。
・「臺」は、「卑彌呼」の宮殿の意味かと来てみたら…
*中国の皇帝に拝謁するときは、宮殿の階(きざはし)=「基台」の前で拝礼してから昇殿する⇒「臺に詣でる」と。
※「邪靡堆」の文字撰びでそれを表していて、絶妙である。
*「水縄連山(耳納山地)」の山容を表現している。
・東西≒25Kmの一重の単山の山頂は鋸の歯状に成っており、各山頂から下り尾根と谷沢が山腹を刻んでいる。
・斜めからの眺望は将に「黒髪が靡いている」様を呈している。
・この山は高山名峰ではなく、「堆(うずたか)いだけの小山」である。
※即ち、大倭王や卑弥呼の居所は「邪馬臺」ではなく「邪靡堆」だった、と。
つづく
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/03/16 (Sun) 13:10:46
漢籍は前史の誤謬には触れていないが、例外が一つ存在する。
『後漢書』の「邪馬臺國」は大倭王の居所として登場するが…。
・『隋書』では「邪馬臺」として「國」の文字を外して、国名ではなかった、と明記している。
・裴世清は現地踏査して具体的に記述している。
*曰く、その地勢は「東高西下」と、一望できる範囲である。
・「水縄連山(耳納山地)」の山容と筑後川の西流を指しているのは明白である。
つづく
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/03/03 (Mon) 15:38:26
私は『所謂「邪馬臺國」問題は文献から解明できる』と、半世紀も前に看破した! 四半世紀前には『卑彌呼が都した所』を上梓。
Why ?Japanese historian諸氏よ!!!!何故、何ゆえ気付かないのか。
新井白石、本居宣長らから三百余年、東京帝国大学・白鳥倉吉VS京都帝国大学・内藤虎次郎からでも百年以上も論争してきて、未だにその所在に結論が出ていない。巷間の好事家や作家から一応intelligentsiaと目される見識家らが入り乱れ、百花繚乱の状態。
漢籍を渉猟して恰も科学的論考をしているかの如くに自認しているが、的外れであるものが多い。曰く、記述が好い加減である、と結論付けている。自説に不都合なものは無視か自説に沿うように読み替える。それらを読み替える以前の認識の問題であると看破。
*方位が好い加減とするもの。
(1)「狗邪韓國」から対馬海峡の横断記述がそれである。
・「對馬國」は「狗邪韓國」から南とあるが、現代の地図では東南であるから間違いとするもの。「對馬國」から「一大國」も然り。
※【コンパスも地図も無い当時の認識は、夏の日の出の方位を東と認識している】=現代の地図上の真東より約(28°30″)北へ振れるから記述は整合しているのである。
∴「伊都國」は「末盧國」の東南陸行五百里も整合。
※【「狗邪韓國」から「對馬國」から「一大國」から陸地の最短地(呼子)の距離を全部「千余里」】=実際は夫々5:3:1.5であるから良い加減であるとするが、一日で漕ぎ渡れるのを「千余里」としている。
この三区間を漕ぎ渡る所要時間に大差が無かったのである。漕ぎ手は疲労困憊していて、後の区間が短いが所要時間が一日であった。
*文脈や行間を読み取れていない。
(2)「伊都國」の南「水行二十日」で「投馬國」を「不彌國」の南と誤認識。
・「伊都國」から東至「奴國―1」東行「不彌國」の二か国へは郡使は行っていない。「伊都國」は郡使の常に留まるとの記述が物語っている。「末盧國」~「伊都國」の陸行の続きで至れる、である。
・「投馬國」へは陸行困難で「伊都國」から「水行二十日」で至れる、記述への段落の為に挿入されているのである。
・「梯儁」も「塞曹掾史張政」も「邪馬臺國」=「邪馬壹國」に至っていない。最終目的地としての情報が何も記述されていない。
∴「水行十日陸行一月」は郡庁から伊都国までの所要日数である。
『三国志(魏志倭人伝)』はそれを否定していない。郡使が実際に踏査した延べ日数が明記されている。
・「参問倭地…周旋可五千余里」=「狗邪韓國」領域千五百里(逆算)+対馬海峡横断三千餘里+「末盧國」~「伊都國」陸行五百里。
∴郡庁~「邪馬臺國」=「邪馬壹國」の総延長の所要日数=「水行十日陸行一月」+「水行二十日」である。
∵「邪馬臺國」=「邪馬壹國」と「投馬國」は「伊都國」の南に等距離である。其の事も文脈で明記されている。「邪馬壹國」以北の詳らかになる「倭國」の九か国が北から順次南下する記述がそれである。
九ヶ国=「狗邪韓國」、「對海國」、「一大國」、「末盧國」、「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」。以北の最後「投馬國」は東西に並んでいて「伊都國」から等距離であると物語っている。文脈・行間を読むとはこの様な事であ~る。チャンチャン!!!!!!
つづく…。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2025/02/06 (Thu) 18:21:03
漢籍には、倭国のトップを人名では無く職掌名で記載している。
1.倭国王「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」の意の倭語発音の音写である。
・曾尸茂梨“쇠씨-머리”(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)=牛頭天王と同義である。
∵「鉄」と「牛」=“쇠”(soe)で同音である。
「頭」=“머리”(mori)で共通である。
つづく
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/12/05 (Thu) 13:23:35
(その9) 未だに、宮崎説が登場するとは驚きである。
・「邪馬臺國」は、「九州説」以外ではあり得ないと結論付ける。
・「邪馬臺國」の位置=神話の舞台(「高天原」)と重なる。
・「邪馬・邪靡」=「天(あま・あめ)」の筑後弁訛りの音写である。
∵筑後弁で「蟻」=「ィあり・やり」と訛る。
・「山がやま」なのは、「水縄連山(耳納山地)」こと「水縄山」限定である。例外は「霊峰富士のおやま」と霊験・聖なる山限定である。
*「邪馬臺國」とは大倭王の居所説明文言を国名と勘違いしたものである。
・「倭人」は居所を問われて「天(あま・あめ)てェ!」と答えている。
・「てぇ」=筑後弁の強調の語尾“tai”の二重母音。愛媛県の“ai”=「ゑ」。
*「邪馬壹國」も「卑彌呼」の居所説明文言の音写である。
・「天(あま・あめ)ン(の)上(うィ)」と一本指を立てて上方を指した、から。
・「壹」=“yi”を「倭人」が“wi”と訛っていると取られた。
※「天(あま・あめ)」は謂わずと知れた「高天原」の意である。
(1).「高天原」
『古事記』書き出しでは神話の舞台で神々がいる天上界の事を思わせる記述。
「天地初発之時 於高天原成神 名天御中主神<訓高下天云阿麻下效此>次高御産巣日神次神産巣日神 此三柱神者 …」に、<訓高下天云阿麻下效此>と註がある。
即ち「高天原」の「高」の下の「天」は「あま」と読み以下は此れに效く(倣う)、と。何故「天」を「あま」と読むかには触れていない。これは、時の権力者(藤原不比等)から隠蔽を命じられた太安万侶が反骨精神から、後世の賢者が読み解ける様に仕込んだ「鍵」と観る。私はそれに応えて解読した。
*「高」=高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字で 朝鮮語“다가-”(taka=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る]と同じ語幹。
水縄連山(耳納山地)の東西≒25㎞の山頂かノコギリ歯状を呈している様を表現している。
*「天(あま・あめ)」とは…。
(イ)“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。
東(あづま)(あ・詰(つま))=東の端。朝(あした)、明日 (あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。
朝鮮語の朝=“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号。
[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ。≪一部抜粋≫
(ロ)“메-”(mæ-)の母音は現代朝鮮語では“e”となっているが、本来は「ま・め」の中間音。故に「天(あま・あめ)」の両方に詠める。
“메”=「山」の古語的表現(民衆書林・韓日辞典)。<前述>
「山」が(やま)なのは「天(あま)」の九州弁訛り。「蟻」を「やり」と訛る。
「山」は「(国の)東の聖なる山」=「高天原」限定用語だったのが他に敷衍。
*「原=ばル」とは、“벌”(beol)=[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」。
※従って、「高天原」=「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」。
水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇(ひしめ)いている。此地に「日向」の地名が現存。朝日に向いた地の意で「筑紫の日向」(国生み神話の舞台)である。「○○日向」の地名が他に十二ヶ所。
「浮羽」の地名も[旭日原] =“욱일벌”(u-kil-beol)の語尾子音欠落発音である。漢字音由来なのは、「徐福」渡来後の影響か。「高天原」=「阿斯達」とも同義。旧・浮羽町役場の地名は「朝田」=「阿斯達」と同義=「朝日に輝く」の意。
≪「水縄連山(耳納山地)」は谷沢に刻まれた東西25㎞の保水力のある水源の山である。水耕稲作に必要な水量を必要な期間供給、棚田稲作の穀倉を潤した。『記・紀』神話は弥生文化を背景に語られている。今の平野部は未だ低湿地の荒野である。『記・紀』が古く見せたがっても馬脚を現している=太安万侶の仕込んだ鍵≫
*「高天原」の東西の入り口に「三春原(うらせばる)」と「牛鳴(うしなき)峠(とうげ)」がある。
・「三春原」は「うらせばる」と読む。東側にあるが普通では読めない。
“울쇠-벌”(ul-soe-beol)=「鳴く鉄・原」(直訳)=鉄が唸る原(意訳)。
・「牛鳴峠」=(soe-ul)峠=「鉄鳴く峠」=鉄が唸る峠。鉄⇔牛は同音。
・“울쇠”(ul-soe)=「五月蝿い」の語源か。製鉄の音は「ウルセェ!」。
・「高天原」には、東多々羅、南多々羅、西多々羅と製鉄地名がある。
方位から見て北風自然送風の製鉄炉か。「素盞嗚尊」追放前の製鉄集団跡か。
・「高天原」には「諏訪神社」=「“쇠-와”(soe-wa)鉄来る神社」がある。
古代に在っては、鉄を制する者が国を制した。「高天原」の東西の入り口が製鉄絡みの地名である。韓国の首都“서울”(seo-ul)は語源が諸説有って定まっていない。“쇠울”(soe-ul) の訛りを疑う。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/11/22 (Fri) 20:41:57
談話室に投稿を試みましたが不成就でしたので、此処へ投稿します。
土田章夫さん、ご上梓おめでとうございます。
此処は討論室ではないので投稿を逡巡しましたが、已むに已まれず…。
『魏志倭人傳』の解釈に誤謬が在ると存じます。其れは下記の項目です。
<・不弥国から南水行20日で投馬国に至る。 投馬国から南水行10日陸行1月で邪馬台国に至る>
*「不彌國」の次に記載されていますが、文脈から「投馬國」水行記述の段落の為です。
・「末盧國」から「伊都國」へ陸行の続きで行ける、の意。郡使は「伊都國」から先へは行っていません。従って「南至水行二十日投馬國」の起点は「伊都國」です。
・「水行十日陸行一月」は「投馬國」「邪馬壹國」間の事ではありません。此れも文脈から読み解けます。「邪馬壹國」以北の九ヶ国は、北から順次南下しています。「狗邪韓國」「對海(馬)國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」です。以北の最後が「投馬國」とは「邪馬壹國」と東西に並んでいる、と述べているのです。
・「伊都國」~「投馬國」を距離ではなく、日数表記をしたので、郡庁~「伊都國」までの所要日数を記述して「萬二千餘里」の所要が判る様にしています。即ち、「水行十日陸行一月」の「水行」は外洋、「投馬國」への「水行二十日」は内陸と区別までしているのです。
・里数値を安易に現代地図の上に換算値で解釈するのも如何なものかと存じます。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/09/23 (Mon) 18:49:57
(その8)
その他も国情説明文言の一部を国名と勘違いしている。
⑩「斯馬国」=志摩郡=“쇠메”(soe-meo)郡=鉄山國。九州大学キャンパス開発で、製鉄遺構出土。
⑬「伊都國」=「伊奘諾尊以来の国都」の意の縮約か。
現在「糸島」として、⑬+⑩が一つの地名となっている。
⑳「呼邑國」=大分県?宮崎県?児湯郡。「女王國」から「狗奴國」を越えた飛び地の意。
・因に、鹿児島は土地の人は「かごンま」と発音。”가건-마을”(kagon-maul)=「行った者の村」(直訳)。
・「薩摩」=“사”(sa)「投馬(つま)國」=「狗奴國」を挟んだ南の飛び地。薩摩の北端に接する「阿久根」=“아”(a)狗奴=「狗奴國」の端の意。
つづく、かも…
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/09/06 (Fri) 22:11:34
(その7)
21.「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖ン(の)國」=徐福(秦人)が興した国の意。
・漢の前(さき=祖)郡=神崎郡(好字二字令)=現・神埼市=吉野ヶ里がある所。
・吉野の語源は、以前から歴代「卑彌呼」を輩出した土地の意としてきた。
・「吉野」=“여신-논”(yeo-sin-nun)=「女神の野(棚田)」。
・「田主丸」=“당신-마을”(dang-sin- ma-eul)=「貴女(卑彌呼)の村」。
・「吉野ヶ里」も「女神の里」と何代目かの卑弥呼を輩出した土地の意かと。
※『隋書』で裴世清は「秦王國」の存在を認識している。『三国志(魏志倭人伝)』の華奴蘇奴國が京筑地区へ発展展開したか、と。京都郡の現地名は「秦王國」の都が在ったからか。
*「裴世清」は「又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又経十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀(倭)」=「(竹斯國に居て)又東すれば秦王國(京筑)に至れる、其の人は華夏(中華)に同じで夷洲と為すも疑わしく明らかにする能わざるなり。
・又(竹斯國の東に)十餘國経ると海岸(別府湾)に達する。竹斯國より東は皆(秦王國と十餘國は)倭に附庸する」=伝聞記述で、裴世清は行っていない。
・即ち、裴世清は「竹斯國」から一歩も出ていない=畿内には行っていない。
※前項と「竹斯國」が二回登場するのは、最終目的地に居る事を意味している。
※「竹斯國」とは前史の国名の「末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺(壹)國、(彌奴國)」を包括しているというか、それらが国情説明文言の一部であって国名で はなかった、と看破しての表記である。
※俀(倭)國には、都斯麻國、一支國、竹斯國、秦王國、十餘國とあるが、「阿毎多利思比孤」の他には王は居ないのである。
*「狗奴国」=「くな國」ではナイ!
・其(女王境界所盡)南有「狗奴國」とは。
・「高(氏)ン國」で、「女王境界所盡」とは、熊本県菊池郡。
・「女王國」との境界に幾多の「山口」地名。「山口」=「邪馬“끝”(ggeud)」。
・“끝”(ggeud)=端、ふち、先、終わり、しまい、果て、『民衆書林・韓日辞典』。
*「女王國東渡海千里拘奴國」=高知県。此れをして漢籍の記述が良い加減であるとする、「畿内説」論者が居るが、的外れである。此方は高知県の事である。熊本県とは別に存在しているのである。
※その証拠は…。
・「肥後モッコス」=“목곧이”(mog-goji)=一徹な人『民衆書林・韓日辞典』。
※この「高氏」は高句麗建国王「朱蒙」の姓の「高氏」まで遡及する、かと。
・土佐イゴッソ=“외-고집”(oe-go-jib)=意地っ張り、依怙地、頑固一徹。
この両県は県民性が共通していて同族である。
つづく、かも…
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/09/01 (Sun) 15:20:41
(その5)の追記。
*「奴國」は「なこく」ではナイ!
倭人が「なこく」と発音しても、中国正史の書記官は金輪際「奴國」とはしない!
(その6)
※此れ以降の「奴」は、格助詞の「の⇒ン」音便変化の音写である。
⑭「彌奴國」=三井郡御井町が疑われる。「彌」=「御」の高貴な方の意。
三井=徳間清水・磐井清水・朝妻清水、三泉の意。
御井=「卑彌呼」の井戸の意。
「味水御井神社」=「高良山」高良大社の麓にある。
・主祭神「玉垂尊」=“다-아-메-딸리”(ta-ama-ddal-li)尊=「全・天照大神」=歴代「天照大神」。左右に「八幡神と住吉神」を従える神格。
・「天照大神」=「天(あま・あめ)出自の大神」の意。「阿毎多利思比孤」も同伝。「卑彌呼」と重なる、「倭」の最高位の称号。固有名詞ではナイ!
17.姐奴國=「“서”(seo)ン國」=「西の國」=「邪馬壹國」の西に在る國。
19.蘇奴国=「“서”(seo)ン国」=「西の國」=「邪馬壹國」の西に在る國。
*上記「17.」と「19.」=「邪馬壹國」の西に在る國と倭人が國情説明した。
・同じ「西の国」の意が別の漢字が当てられたのは、発音の揺らぎを書き分けたからであろう。
18.對蘇国=「“두”(tu) “서”(seo)國」=「二つの西の國」と17.19の事を追加説明したものが、個別の国名として採られた。この項を纏めている最中に急に閃いた。今までは「土佐」の事かと考えていたが、隣接していないので違うのでは、と。17.と19.は東彼杵郡と西彼杵郡の事である。
・「邪馬壹國」の西の國=夕方の国=“저녁-이”(jeo-nyeog-i)=東・西彼 杵郡=長ノ﨑⇒好字二字令で訓読みし「長崎」の語源か。
・「邪馬壹國」の東の国=朝の國=“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。安心院(大分県宇佐市)は、朝がくる方位。(蛇足)
※(その7)「奴」=格助詞の「の⇒ン」の極め付け「華奴蘇奴國」へつづく
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/08/24 (Sat) 18:05:36
(その5)
>*「奴國-1」「奴國-2」と「烏奴國」の「奴」はこの「野國」の意であるが、他の国名の「奴」は格助詞の「の⇒ン」の音写で性質を異にする。
>⑥「奴國-1」=“논”(non → nun)國=野(棚田)國と説明した。
旧・筑紫郡=那珂川市から春日市に亘る、背振北麓一帯。
30.「奴國-2」=“논”(non → nun)國=野(棚田)國と説明した。
重出は一回りして元に戻ったのではないことを指している。「此女王境界所盡」。
水縄連山(耳納山地)北麓=北野・草野・竹野郡・大野原・星野である。
29.「烏奴國(うぅぬこく)」の「烏(うぅ)」=筑後弁で「大きい」の意。
・「大川」=「うぅかわ」=筑後川の意。
・「大風」=「うぅかぜ」=台風の意。
*大分県の「大野郡」が疑われる。
※「大野郡」と言えば、岐阜県と福井県に跨り、夫々の県より広大な面積の「大野郡」が在る。こちらも山の北斜面と無縁ではない。冬の積雪と用水の関係が存在する。
・現代の平野が穀倉地化する以前は、低湿地の荒野であった。毎年繰り返される大洪水で貴重な稲作は出来なかった名残である。
・筑後平野は低湿地の葦原で低平地は筑後川の氾濫原野である。徐福の「平原廣澤を得て王と為り不帰」とは、伴ってきた百官の中に低湿地の灌漑排水土木技術者が居たから、穀倉地化が出来た。その低湿地の争奪戦が倭国大乱であろう。
もう一つの「奴」(格助詞の「の⇒ン」)へ、つづく。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/08/11 (Sun) 18:08:24
その他の国名に続くとしていたが(その4)の補足
>※「旧・竹野郡」=竹野(たかの)の「竹」は何故「たか」と訓じられているのか?
*上記の項で、「水縄連山(耳納山)」北麓の“논”(non → nun)國=野(棚田)國である。北野、草野、竹野(たかの)、大野原(古墳群)、星野と野(棚田)國地帯である。
と説明したが、山の北麓が鍵である。
冬の降雪が北斜面に降り積もる。この雪解け水が棚田水耕稲作の必要な用水を必要期間供給(ダムの役目)する。
・丹後半島の北斜面にも「竹野(たかの)郡」が存在している。同伝である。
*「奴國-1」「奴國-2」と「烏奴國」の「奴」はこの「野國」の意であるが、他の国名の「奴」は格助詞の「の⇒ン」の音写で性質を異にする。
その他の国名(その5)で詳述する。
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/08/06 (Tue) 18:03:21
(その4)
「倭國」の国名は、倭人が国情説明をした文言の一部を国名と勘違したものである。
※先ず、詳らかになる「邪馬壹國」以北の九ヶ国に就いて以下に示す。
①「狗邪韓國」、②「對海(馬)國」、③「一大國」、④「末盧國」、⑤「伊都國」、⑥「奴國-1」、⑦「不彌國」、⑧「投馬國」、⑨「邪馬壹國」=(「奴國-2」)。
①「狗邪韓國」=九人の倭の族長が治める國。「韓」=騎馬民族の「王や君主」の意の“haan・khan”の事である。蒙古の王=チンギス・はァん=ジンギスカン。
②「對馬國」=“두메”(tu-mæ)國=双山國(上・下県郡)=水縄連山(耳納山地)と筑肥山地の間の國の意=八女郡=「上・下妻(つま)郡」(倭名類聚鈔)と同義。
③「一大國」=「いってぇ國」「對馬國」が峻嶮な地形で良田が無いのに対比、島中「一帯國邑」を為す、との説明文言の「倭語」音写。
④「末盧國=「倭」の遣使や郡使(魏使)の渡航往来の無事を祀る処の説明文言の一部。官不在は伊都國直轄。本文の『…及郡使倭國皆臨津捜露伝送…』⇒郡使の到着地点を捜す。遭難漂着に備える⇒無事を祈念する処の意。
⑤「伊都國」=「伊奘諾尊」(伊珍阿岐王)が都した所の意の縮約形。
⑥「奴國-1.」=“논”(non → nun)國=野(棚田)國と説明した。背振山北麓の現・那珂川市から春日市に跨る棚田地帯。
⑦「不彌國」=徐福の一派の國?=尊不在の意か。
⑧「投馬國=“두메”(tu-mæ)國=双山國(對馬と同義)=水縄連山(耳納山地)と筑肥山地の間の國の意=八女郡=「上・下妻(つま)郡」(倭名類聚鈔)。
⑨「邪馬壹國=北から順次南下してきて最後が「投馬國」である。以北の最後であるとは、東西に並んでいる事を意味する。そして「奴國-2」と重なる。其処は「水縄連山(耳納山)」北麓の“논”(non → nun)國=野(棚田)國である。北野、草野、竹野(たかの)、大野原(古墳群)、星野と野(棚田)國地帯である。
※「旧・竹野郡」=竹野(たかの)の「竹」は何故「たか」と訓じられているのか?
*「高天原・高千穂」の「高」と同伝の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」。
である
(1).「高天原」
『古事記』書き出し、神話の舞台で神々がいる天上界の事を思わせる記述。
「天地初発之時 於高天原成神 名天御中主神<訓高下天云阿麻下效此>次高御産巣日神次神産巣日神 此三柱神者 …」に、<訓高下天云阿麻下效此>と註がある。
即ち「高天原」の「高」の下の「天」は「あま」と読み以下は此れに效く(倣う)、と。何故「天」を「あま」と読むかには触れていない。これは、時の権力者(藤原不比等)から隠蔽を命じられた太安万侶が反骨精神から、後世の賢者が読み解ける様に仕込んだ「鍵」と観る。私は、それを以下の通りに解読した。
≪ハングル=「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」≫
*「高」=高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字で 朝鮮語“다가-”(taka=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る]と同じ語幹。
水縄連山(耳納山地)の東西≒25㎞の山頂かノコギリ歯状を呈している様を表現している。
*「天(あま・あめ)」とは…。
(イ)“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。
東(あづま)(あ・詰(つま))=東の端。朝(あした)、明日 (あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。
朝鮮語の朝=“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号。
[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ。≪一部抜粋≫
(ロ)“메-”(mæ-)の母音は現代朝鮮語では“e”となっているが、本来は「ま・め」の中間音。故に「天(あま・あめ)」の両方に読める。
“메”=「山」の古語的表現(民衆書林・韓日辞典)。<前述>
「山」が(やま)なのは「天(あま)」の九州弁訛り。「蟻」を「やり」と訛る。
「山」は「(国の)東の聖なる山」=「高天原」限定用語だったのが他に敷衍した。
*「原=ばル」とは、“벌”(beol)=[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」。
※従って、「高天原」=「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」。
水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇(ひしめ)いている。此地に「日向」の地名が現存。朝日に向いた地の意で「筑紫の日向」(国生み神話の舞台)である。「○○日向」の地名が他に十二ヶ所。
「浮羽」の地名も[旭日原] =“욱일벌”(u-kil-beol)の語尾子音欠落発音である。漢字音由来なのは、「徐福」渡来後の影響か。「高天原」=「阿斯達」とも同義。旧・浮羽町役場の地名は「朝田」=「阿斯達」と同義=「朝日に輝く」の意。
・「高千穂」
*「筑紫の日向の襲の高千穂の槵触嶽」
・「筑紫の日向の」=妹川地区の日向。(うきは市立小学校前の元・日向バス停)
・「襲の」=“서”(seo)の=「西の」(10頁④方位)。
・「高千穂の」=「高」は前述「集(たか)る」の当て字。「千穂」は、水縄連山(耳納山地)の山頂がノコギリの歯状を呈しているのを「千の穂」と描写。
・「槵触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、千本の櫛の歯で梳った様相をしている描写である。「触る」⇒“훑”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)でもある。火瓊瓊杵尊は「膂宍(そじし)の胸副(むなそう)國」を丘続きに歩いた、ともある。
・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と肋骨が浮き出た(櫛触る)様、のことである。水縄連山(耳納山地)の稜線描写であろう。
※其処で、天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。
ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國(からくに)が真正面になると強調。韓國(からくに)とは「駕洛國」「狗邪韓國」の半島倭人の故地(同胞=はらから)の意である。大韓民国の意ではない。
その他の国名に続く
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/08/01 (Thu) 21:13:09
(その3)
※郡使(魏使)は「伊都國」から先へは行っていない。
何故「伊都國」の次に「東南至奴國百里…東行至不彌國百里」と記述しているのか。
・「郡使往来常所駐」=郡使が來倭し常に留まる所=単に「滞在する」だけの意味ではなく、「駐」の旁の「主」は「とどまる意味。馬が立ちどまる意味を表す」『大漢語林』(大修館書店)。
・「東南至奴國百里…東行至不彌國百里」の解釈=行程の書き順が「方位+距離+国名」から「国名+距離」に変わり「又」の記述が無い。
・「東南に百里で奴國に至れる、更に東に行けば百里で不彌國に至れる」の意。
・「行」が不彌國にだけ使われている。郡使は伊都國から先へは行っていないが、陸行の続きで行ける、と。=投馬國水行への段落の為の表現である。
*「從郡至倭海岸水行…東行至不彌國百里」の「從」と「行」が連続行程の始
点と終点を意味している。
・≪【説文解字】「从彳亍。彳,小步也。亍,步止也。」より抜粋≫
・行人偏の「彳」は、「∴=歩き始め」で「亍」は「步止也=歩みを止める」と。この解釈から重要な事が判った。「水行十日陸行一月」=帯方郡~伊都國まで、だと。
・「参問倭地…周旋可五千余里」=「郡使が踏査した倭地は延べ五千餘里」と明記されていて「奴國-1」と「不彌國」は其の範囲外である。
「倭國」の国名は、倭人が国情説明をした文言の一部を国名と勘違したものである。へつづく
Re: 「邪馬臺國」オタクの呟き - 福島雅彦
2024/07/27 (Sat) 21:36:49
(その2)
郡庁(楽浪郡徼=帯方郡)から「邪馬壹國」への行程図
楽浪郡徼=帯方郡郡庁
↓從郡至倭海岸水行(郡治の海岸・千五百里=六日)
↓ 歴韓國乍南乍東 (陸行)
↓(韓地+狗邪韓國=五千五百餘里=二十七日半)≒二百里/日
狗邪韓國=倭地まで(七千餘里)
↓ (洛東江沖巨済島経由・水行二日)
「對海(馬)國」(千餘里)
↓ (水行一日)
一大國(千餘里)
↓ (水行一日)
末盧國(千餘里)
↓ (東南陸行五百里=二日半)累計=萬五百餘里
↓ (從郡至倭(郡使常駐の倭地)……水行十日陸行一月)
伊都國 → 奴國 → 不彌國
↓ (東南至百里) (東行至百里)
↓≪郡使往来常所駐≫=伊都國より先へは行っていない。
↓(千五百餘里 )
↓(水行二十日=瑞梅寺川→今津湾・博多湾→御笠川
↓ →宝満川→筑後川→有明海→矢部川⇒投馬國)
↓ ↓→巨瀬川→筑紫の日向↓
以北が成立する⇒投馬國(西) ⇔ (東)邪馬壹國
郡庁より萬二千餘里女王之所都
※倭(伊都國=郡使常所駐)に至るには水行十日陸行一月。
※参問倭地…周旋可五千余里=実際に郡使が観て廻った倭地は延べ五千餘里 。
狗邪韓國(千五百里=逆算)+三海峡横断(三千餘里 )+末盧國~伊都國(五百里)=五千餘里 。韓地は方四千里《陸行六千餘里÷一月 ≒二百里/日》
原稿の作図通りには転載できなかった。
「東行不彌國」につづく