東アジア討論室
安帝永初元年の王は帥升か師升か - 白石南花
2024/09/21 (Sat) 10:47:03
『後漢書』巻八十五東夷列伝倭条には、安帝永初元年に倭の朝貢の記録があり、現行『後漢書』では、「倭国王「倭国王帥升」が生口百六十人を献上して、朝見を求めたとなっています。
この記録の「倭国王」の部分について、いろいろな記録が残っていて、議論されることが多いのですが、「帥升」の部分についても「師升」とする記録が有ります。
私は最近までながらく単なる誤写として軽視していました。
しかしよく見てみると、なかなか面白い事実に気が付きました。
この部分が「帥升」となっているものは、「倭国王帥升」となっていて、国名が「倭面土国王」「倭面上国王」「倭面土地王」「倭国土地王」となっている場合には「師升」となっているのです。
組み合わせの例外は、『冊府元亀』巻九百六十八 外臣部 朝貢第一の「倭国王師升」などがありますが、よく取り上げられる「倭面土国王帥升」などと言う表記は見当たらないのです。
何を言いたいかと言うと、「師」と「帥」の違いは、おそらく誤写によるものと思われますが、現行『後漢書』刊本の「倭国」の表記と連動しているので、系統的に文面の変遷を考えることができるということです。
例えば現存の史料についてみると、最も古いのは『翰苑』の「倭面上国王師升」で、次が北宋版『通典』巻百八十五・辺防一の「倭面土国王師升」次が、現存『後漢書』刊本の「倭国王帥升」なのです。
ここで表記が中間的になっている『冊府元亀』について調べると、成立は十一世紀初頭であり、『後漢書』刊本の成立の九世紀末と近接しています。
どちらも国家事業として取り組まれたもので、『冊府元亀』が『後漢書』刊本の内容とほぼ一致していることから、刊本を利用したとも考えられますが、「師」と「帥」の違いを見ると、『冊府元亀』が独自に写本類から校勘した可能性が残ります。
或いは北宋代の刊本が版木もろとも、金の開封劫掠により失われた後、『後漢書』が覆刻された際に誤刻された可能性も考えられます。
王名と見なされることの多いこの部分については、「師升」が本来の形である可能性が高いように思います。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 石見介
2024/11/15 (Fri) 22:32:19
白石南花さん
現時点での、互いの所説の「再確認」が、出来ました。私の最初の「倭人遼河流域起源説」は、遺伝人類学のHLAハプロタイプを主な根拠とし、これに、欧州と東アジアの民族移動の「同時代性」を組み合わせて、発想したもので、渡来系弥生人≒倭人≒日琉語族という「解釈」も、前提です。
ヤフー掲示板での白石南花さんとの討論を通じて、文献的な面では、ほぼ全面的に、白石南花さんの御説に従う事になり、他方、Y-DNAハプロタイプのデータを、言語とも合わせて、倭人≒日琉語族の形成地を、山東辺りにしたのが、現在の私の仮説です。
従って、文献的には、おおむね白石南花さんの解釈を、受容していますが、遺伝人類学、言語学、民族移動史など、他分野の知見を勘案した部分で、異なってきます。
「倭」は、「委」声で、「越」とも音通とする白川静博士の説や、南アジア語族の「佤」族の名称等からも、私は、范曄、王充は、「倭」を粤、越と同系ではあるが、その分布は、広汎にわたっていたと認識していたと見做しています。
日琉語族は、温暖期に、長江中下流域から山東、黄河南縁迄北上した、水稲農耕民で、黄海、渤海西岸部で、先住のアルタイ系と混血して、形成されたと、考えています。
縄文人は、言語を渡来系弥生人の言語に置換したが、支配層として、子孫を残し得たと、考えています。
倭、和、佤、窩は、kwa,gwaのような音価で、南アジア語族系の部族名として、広汎に使用されていたのでしょう。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 白石南花 URL
2024/11/15 (Fri) 16:21:40
石見さん
>白石南花さんのお考えと似ているようですが、実は基本的な倭人、倭種の居住域についての認識の相違、「朝鮮半島南部の倭人,倭種の国家群」の存在を、前漢代(以前)から6世紀初頭ぐらいまで、想定していますので<
>私は、日本古代史に興味を持つ以前に、欧州の民族移動史に関心があり、日本古代史の諸事象も、常に欧州史等と、比較して考えていますので、<
半島から列島への民族移動などに関しては、今後の科学的調査を待つべきですが、今のところ言われている、日本人には東アジア最古の人々の遺伝情報が残されているとの結果と、ヨーロッパや中国の、大陸での遺伝情報が全く入れ替わった状況を見比べるに、このような大陸周辺部における民族の入れ替わりの状況は、相当に異なるものであったと思います。
さて遠い過去においてどうだったかはともかく、文献的に記録が残る範囲においては、半島と列島の差は明らかです。
以前から論じていたことですが、だいぶたったので再度注意を促します。
漢書地理志燕地
1.樂浪海中有倭人,分為百餘國
三国志東夷伝韓
2.南與倭接
3.其瀆盧國與倭接界
三国志東夷伝倭人
4.倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑,凡百餘國
5.其北岸狗邪韓國
6.參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里
後漢書東夷列伝倭
7.倭在韓東南大海中,依山㠀為居,凡百餘國
8.去其西北界拘邪韓國
晋書諸東夷伝倭人
9.倭人在帶方東南大海中,依山島為國
宋書東夷伝倭国
10.倭國在高驪東南大海中
南斉書東夷伝倭国
11.倭國,在帶方東南大海島中
これらの記事の中で、倭の地が半島に広がっているという誤解を受けたのは、2・3・5・8です。
2と3の接に関しては、三国志に山東半島と遼東半島が接と言う記事があり、また遣唐使が中国南方に漂着するようになってからの史料には、日本が南で越州に接するという記事があることから、地続きでなく接の原義に基づき交流があるという意味であることが分かります。
5の其北岸の其のが倭を指すことから、狗邪韓國が倭であるというのも誤解で、岸と言う語は水に面した陸地のへりであり、其北岸は倭が存在する海中に対して、その北側の陸地を意味し、明らかに狗邪韓國は倭ではないことを意味しています。
また8は後漢書韓伝の内容からして、明らかに五世紀の政治状況による解釈です。
つまり森博達氏の固有名詞の分析と合わせてみるに、五世紀を除いて半島に倭が存在したという記事はありません。
実際には交流があった以上、半島にも倭人はいたでしょうが、漢人の認識では、三世紀以前の倭は明らかに海中の存在です。
他に山海経の「倭屬燕」がありますが、山海経には漢代に下って記述された部分があり、漢代以降において、属するとは中国に臣従する意味ではありますが、ようするにそこを通して互市のような形で交易を許可される意味で、燕と倭が地理的にどういう関係にあったかを意味するものではありません。
さいごに論衡ですが、これは周の成王の時代に、越常と倭が朝貢してきたというものですが、これは紀元前十一世紀の話しで、越常は一世紀、倭は紀元前一世紀に記録され、その間の記録がありません。
千年も前の民族を同定できるわけがなく、越常などは王莽が白雉を持って来いとうわさを流し、やってきた人を越常としてでっち上げて、人事権を持っていた時の太后に取り入ったことが、王莽伝にありいずれも信頼できる話ではありません。
倭人については論衡の中で、一か所宛となっているところがあり、別の民族を倭人に見立てたものと思われます。
なぜそんなことをしたかは下記に記しました。
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/ronkou.htm
私が気に入らないのは、三世紀以前に半島に倭人がいたという根拠に、文献を用いようとすることです。
文献にはそんなことはまったく書いてありません。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 福島雅彦
2024/11/09 (Sat) 12:20:48
石見介さん、再評価を賜り多謝 謝々!
>徐福集団については、私は、日本への直接の渡来は、無かったと考えています。新羅の国号が、「徐伐」「徐羅(那、耶)伐」でもあり、これは、「徐の邑(城)」を意味します。徐福集団は、先ず、他の漢民族集団の移住者同様、辰韓=秦韓を、目指したのです。
※この件に就きましては以前にも反論させて頂きました通り、「倭語」音写の「鉄の国」です。
<当討論室に訪れて下さる方々への為と私の余命を考慮して再掲させて頂きます>
*徐福は秦の始皇帝を欺いて船出している。始皇帝の追討を避ける為に行った先で「徐」姓は名乗らないと存じます。「徐」の「朝鮮語」音価は「ジョ」や「ソ」ではなく“cheon”ですし…。
古朝鮮三国「馬韓、辰韓、弁韓」も「倭語」と無縁ではないと存じます。
・古三韓の呼称に観る「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」。
*[馬韓]=後の「百済」=「朱蒙」の皇子が建国=騎馬習慣を持つ国の意に因む「馬の国」の意か。この「韓」は現代の大韓民国とは無縁である。
①【干・汗・翰・韓】“han”《史》古朝鮮時代の君主。『民衆書林・韓日辞典』。
②「韓」=族長の呼称“khan”。[チンギス・ハーン]等。
③【韓】“han”《中国の王朝名》。古代中国の七雄の一つ。秦の始皇帝に滅ぼされ、馬韓の奥地に入植。単独の「韓国」という国は古今とも存在しない。「大韓民国・大韓帝国」は後世出現した。以下同伝。
*[辰韓]=後の「新羅」=“쇤-라”(sil-la)=「鉄の国」に因む。現代韓国朝鮮語の発音癖では「シㇽラ」であるが、文字面は「シンラ」である。
「素盞嗚尊」が「高天原」を追放になり赴いた曽尸茂梨“쇠씨-머리(soe-ssi-mori)”=製鉄の頭(かしら)が居た「大伽耶國」・「拘邪韓國」・「駕洛國」である。「鉄の国」の首都「徐羅伐」“쇠라벌”(soe-ra-beol)=「鉄国原」、別表記の「徐伐」“쇠벌”(soe-beol)=「鉄原」(直訳)であると愚考いたします。
*[弁韓]=“변-한”(byeo-n-han)の「弁」=“벼”(byeo)は「稗➡稲」の意。
これに“ㄴ”(n)を付けて“변-”(byeo-n)の形は韓国語には無い。
「倭語」の格助詞の「の⇒ン」の形で「稲の国」の意。所在については諸説あるが、栄山江流域の前方後円墳が分布する地域と観る。半島倭人が稲作をしていた所と観ます。因に「稲」(いね)の語は…。
⑤「稲(いね)」=漢音は「とう」。
“잇-따르다”(id-dda-reu-da)=引き続くの語幹“잇-”と“내다”(nae-da)=「生ずる」の合成で“잇-내”(id-nae)=「続けて生える」の意。稲の切り株からは、蘖(ひこばえ)が芽吹く。現代は麦との二毛作の関係で田植えが六月にずれ込んでいるが、四月田植えだと蘖から二期目の収穫が可能。二倍歴はこの年二回の米の収穫と関連すると思われる。
・昨日TVの報道で、「再生二期作」が報じられていた。古代の稲作再現かと。
※「徐福」渡来の証拠。(講義レジメから転載)
※「徐福得平原廣澤,止王不來」とは…。
中国の秦の時代の方士「徐福」は、秦の始皇帝に、東方の仙山に不老不死の仙薬を探しに行くと進言。
童男童女三千人と百工を連れて、五穀の種を携えて船出。
「平原廣澤を得て王となり帰らず」と司馬遷の史記に記述がある。
*『後漢書』にも、「徐福畏誅不敢還」とある。
*「平原廣澤」とは筑紫平野(筑後平野・佐賀平野)を指している証拠を発見した。
・有明海の干満差6mの満潮時に船を行ける所まで乗り入れ、座礁した処で下船。
干潟の泥濘に「千反」の布を敷いて歩いた故地「千布」の地名が現存する。
※『隋書』「秦王國」の人は「華夏の人に似ている…」とも…。
「秦王國」とは、『三国志(魏志倭人伝)』記載の「倭」の三十ヶ国の中の一つ「華奴蘇奴國」。
・「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖ン(の)國」の意の「倭語」音写である。
魏使に対しての「倭人」の国情説明文言の一部を国名と勘違いしているのである。
秦人の徐福の事を「漢の前(祖)」の人と九州弁で述べた。「奴」は九州弁の格助詞「ン」の音写である。
漢前(さき)郡の字義から好字二字令で「神埼郡」。
① 全国各地の神崎郡(神前郡)が徐福渡来の証拠。
・佐賀県神埼郡(現・神埼市)
・岡山県神崎(福岡も在る)
・兵庫県神崎郡(黒田庄が近くに在る)
・兵庫県尼崎市神崎(額田が…)
・京都府舞鶴市神崎(福井が…)
・岐阜県山県郡美山町神崎(現・山県市)
・滋賀県神崎郡
・茨城県那珂郡神崎村(現・那珂市)(福田が近くに在る)
・三重県三重郡神前村(現・四日市市)
・香川県大川郡神前村(現・さぬき市)
・千葉県香取郡神崎(こうざき)村大字神崎(現・神崎町)
・大分県北海部郡神崎村(現・大分市)
・福岡県金田町神崎
・福岡県鞍手町神崎
※合計14ヶ所
② 「福」が付く地名
*福島=「福氏“마-을”(ma-ul)」=「福氏の村」の意。
・大分県上津江村 ・〃 中津江村 ・長崎県福島町
・長崎県北松浦郡福島町・鹿児島県国分市
・高知県土佐市 ・兵庫県三田市 ・大阪市福島区
・長野県飯山市 ・群馬県甘楽町 ・福島市福島 ・北海道福島町・長野県豊丘村
・富山県八尾町福島
・新潟県福島潟 ・宮崎県福島川 ・福島県福島盆地 ・福岡県八女「福島」
・佐賀県福島 ・大分県中津市福島
※合計20ヶ所
*福岡=「福“오-가”(o-ka)」=「徐福が往来した処」の意。
・岡山県長船町福岡(黒田官兵衛の出た処=福岡県名の由来の地)。
・「串間」も福島の語頭音“ f u”の欠落であろう。串間市からは璧が出土していて、
徐福が始皇帝から授かったものであろう。
・福岡県福間町。 ・福岡県行橋市福原。 ・長野県木曽郡福島町。
・福島県。 ・北海道松前郡福島町。 ・東京都福生市。 ・福井県福井市。
・京都府福知山市。 ・兵庫県神崎郡福崎町。
*「~丸」が付く地名。
先に述べた様に、稲作一等地の河岸段丘、扇状大地は徐福渡来以前から先住者がいた。
次善地は低湿地の荒野しかなかった。
「丸」=単純に“마-를”(ma-eul)=「村・邑」の音写であろう。
その殆どが、低湿地の荒野だった処と思われるところに在る。
・福岡県久留米市田主丸町。 ・福岡県久留米市城島町四郎丸。
・福岡県大川市三ツ丸。 ・福岡県うきは市糸丸。
・福岡県糸島市小金丸・太郎丸。 ・福岡県朝倉市金丸。
・福岡市西区次郎丸。 ・福岡県福間町王丸・松丸。
・福岡県若宮町金丸・福丸。 ・福岡県金田町福丸。
・福岡県赤村数珠丸。 ・福岡県豊津市節丸。・福岡県小倉南区市丸。
・福岡県行橋市福丸。 ・福岡県豊前市小犬丸・四郎丸。
・福岡県築城町袈裟丸・松丸。 ・福岡県椎田町岩丸・野々丸、外丸。
・佐賀県佐賀市金立町薬師丸。
以上、長文になり済みません!
・ハングル表記(文字化け)は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」福島命名。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 石見介
2024/11/07 (Thu) 00:37:15
白石南花さん
改訂版も拝読しました。西嶋定生氏の説に対する白石南花さんの御批判は、正しいように思いましたが、研究史には疎い私なので、寺澤薫氏の「伊都倭国論」等についても、正確な批判というよりも、私の知る範囲の諸分野の知見等と併せて、総合的に判断して、感覚的に、なんとなく否定的に、捉えるのが、現状です。
森岡秀人氏の「原倭国論」は、名前をチラッと聞いた程度の記憶しかなく、天照大神の位置付けの問題で、時代的にもっと後代の神話(ヒルコが先行する)だと考え、否定的に捉えていました。
しかし、2世紀初頭に、出雲と近畿式銅鐸祭祀圏の「同盟」が存在したのであれば、この時に、スサノヲとオホヒルメの「姉弟」関係の成立の可能性を、考慮する必要があり、私の従来の「日本神話」成立の考えを、改める必要が、生じます。
しかし、現時点では、私の「神話伝承と歴史」スレで、『隋書俀国伝』の紀に見えない遣隋使の証言を重視し、AD607年の仏教導入派の倭王との、明瞭な宗教・祭祀に関する相違を根拠に、森岡氏の「原倭国論」は、否定的に捉えています。
私は、日本古代史に興味を持つ以前に、欧州の民族移動史に関心があり、日本古代史の諸事象も、常に欧州史等と、比較して考えていますので、ヤマト王権の原型としての「原倭国」を想定するならば、中北部九州勢力の「東遷」という考えに、傾いています。
いわば、「原倭国」は、AD57年に後漢光武帝により、王号を倭人倭種諸国中で、初めて与えられた「倭奴国」を中心に形成されたものであり、その一部もしくは中核的勢力が、畿内大和に東遷し、後の大和王権に成長した可能性が高い、と判断しています。
記紀の受け売りの「皇国史観」そのものではないか?と批判されそうですが、内外の史書との矛盾が、最も少ない解釈を採れば、そうならざるを得ない、と判断しています。
欧州の事例では、民族移動などは、地名の移動も伴いますが、令制の「筑前国」の「那珂郡」「怡土郡」は、それぞれ、『魏志倭人伝』の「奴国」と「伊都国」の中心地域と思われる地名ですが、同じく令制下の「紀伊国」には、「那賀郡」と「伊都郡」があります。「海部郡」も共通していますが。
以前は、「邪馬臺国東遷」を考えていましたが、現在は、「邪馬国」の「東遷」の可能性が高い、と考えています。
いずれにしろ、AD57年の後漢光武帝の王号授与により、倭人諸国中で権威を付与された「奴国王」の男系子孫が、奴国中心の「原倭国」内の諸国の王となり、その中の一国の「王」が、畿内に移住した、という考えです。
中国史書の中にも、AD57年とAD107年の朝貢を、共に「倭奴国」であると解釈した書があったと記憶していますが。
おそらく范曄も、この2回の遣使の主体は、同一王家に属する「大倭王」であると、判断していた、と私は推測しています。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 石見介
2024/11/05 (Tue) 00:48:21
福島雅彦さん
〉彼らの説は「朝鮮語」が日本語に取り込まれているかのような論調ですが・・・。<
私も、半島全域に、倭人=日琉語族が、朝鮮語族に「先行」して、居住していたと考えています。
これは、日韓の「国旗を背負った」、或いは、贖罪意識から?半島に遠慮しているように見える一部日本人朝鮮語学者を除く、欧米の朝鮮語学者の見解とも、一致していると思われます。
福島説の評価が、李寧煕、朴炳植両氏より、高くなる理由です。
徐福集団については、私は、日本への直接の渡来は、無かったと考えています。
新羅の国号が、「徐伐」「徐羅(那、耶)伐」でもあり、これは、「徐の邑(城)」を意味します。
徐福集団は、先ず、他の漢民族集団の移住者同様、辰韓=秦韓を、目指したのです。
言語学の方法論については、実績のある既存の方法論に加え、新しい方法論も、当然、試されるべきです。既存の比較言語学の手法でも、北米先住民ナ・デネ大語族と、シベリア中西部のイェニセイ語族という、距離と時間の相違の大きい言語間の、同源関係が、ほぼ証明されています。
私の現在の日琉語族の形成についての仮説は、オーストロアジア(南アジア)語族系のY-O1b2系集団が、温暖期に長江中下流域から、水稲農耕技術と共に、北上し、渤海西岸域で、先住のアルタイ系集団と接触混血し、それまでの閉音節、単音節、声調言語、孤立語から、「アルタイ化」により、開音節、複音節、膠着語となり、「日琉語族」が成立した、というものです。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 福島雅彦
2024/11/02 (Sat) 16:43:22
石見介さん、重ね重ね丁重な論考を賜り多謝 謝々!
>…。従って、福島さんが評価されている李寧煕女史や、或いは朴炳植氏の所説は、参照はしていますが、言語学の専門家ではないので、その内容から、最下位の「可能性が低い」に分類し、福島さんのお説への評価「可能性がある」よりも、低い評価になっています。
※評価が得られないのは、著名学者の説の引用がない先駆け(魁)的独創説の宿命か、と。
コペルニクスの地動説、其れを擁護したガリレオガリレイが観た憂き目と同伝である。
*私は、李寧熙女史や朴炳植氏他の方の説は参考にはしていますが、愚説とは真逆です。彼らの説は「朝鮮語」が日本語に取り込まれているかのような論調ですが…。
私の説は、朝鮮半島に遍く居た「倭人」の言語が「朝鮮語」に生き残っている、とするものです。
漢字の訓読みは、「倭語」を理解する為に「徐福」一派が「倭語」に意味が合う漢字を当て振ったからである、と観ます。「倭人」自らがあの膨大な文字数の訓読みを編み出したとは到底考えられません!アカデミックな論証は出来ないので、体力勝負です。例えば…。
*「頭」は何故「あたま」で、「頭」(かしら・おさ・かみ)は何故“머리”(mori)かとか。「足」は何故「あし」で、「たり・たらし」=「足・垂・帯・照」の原義はなど、「天(あま・あめ)」は、「山」=「邪馬・邪靡」は、「河・川」は、「桜」は、「橘」は、「松」は、「杉」は、「椿」は、「山茶花」は、「稲」は、「七夕」は、「月」は、「鉄」は……、etc。手当たり次第に辞書と首っ引きで調べました。
*「倭数詞」=漢数字の書き方説明を「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」でしたものであると閃いたり…。
即ち、著名な言語学者が思い至らない領域を埋めていると自負しています。低い評しか得られないのは前人未到の分野に分け入っているからか、と自分を慰めています。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 白石南花 URL
2024/11/02 (Sat) 09:49:03
面沼神社に行ってきました。
https://ameblo.jp/shiroi-shakunage/entry-12873299404.html
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 石見介
2024/10/24 (Thu) 13:37:25
福島雅彦さん
コメント有難うございます。
私は、韓国朝鮮語が全く理解できないので、言語学の専門家の著書や論考を読み、日本語を母語としている人間にとって、理解が容易な「上代日本語」や「琉球諸語」や、学習した英語、ドイツ語の貧弱な知識などから得た、言語についての「感覚」を基礎に、自分なりの解釈、仮説を、組み立てているのが、実態です。
従って、自説への評価は、辛うじて「可能性がある」possibleという、5段階評価の下位2段階目が精一杯で、上位3段階の評価をしているのは、言語学その他の専門家の所説中の、私が信頼できる、と判断したものです。
従って、福島さんが評価されている李寧煕女史や、或いは朴炳植氏の所説は、参照はしていますが、言語学の専門家ではないので、その内容から、最下位の「可能性が低い」に分類し、福島さんのお説への評価「可能性がある」よりも、低い評価になっています。
さて、中期朝鮮語等から、上代日本語やそれ以前の古代日本語に時代的に対応する「古代朝鮮語」が再構できるかについてですが、私は、極めて困難だと考えます。容易であるならば、内外の韓国朝鮮語を専門とする言語学者が、とっくにそれを果たしている筈ですが、現実には、素人のトンデモ説以外、何処にも存在しません。
また、福島さんは、漢字音写資料が残っていたとしても、子音は音写し得ても、母音の音写は、極めて困難なので、却って混乱する、とされますが、これは、蓄積された比較言語学の経験を、軽視されておられると思います。
韓国語の母音の多さや複雑さを、仰っておられるのだと思いますが、言語類型論で、世界の言語の母音数について読んだ時、母音数(重母音含む。語彙の弁別に使用される)は、3母音から確か、14母音まで分布し、5~6母音が最多で、13母音と14母音が,各2言語(総数600~数千言語)とあり、その13母音と14母音という母音数の多い言語に、英語とフランス語が含まれて居ました。
英語の祖語のゲルマン語系や、フランス語の祖語のラテン語では、そこまで母音数が多くはなく、ラテン語表記の為作られたローマ字では、母音字は、a、i、u、e、oの5文字で、半母音(半子音)もv、w、yです。英語やフランス語の母音数の多さは、征服者の言語が、被征服者の言語と接触、混淆、同化吸収し、言語の置換が成立するまでの過程で、増加したとされています。
ハングルの母音その他の複雑さも、先住の日琉語族の言語(倭語)や後続のツングース諸語、漢語などとの言語接触の結果であり、古代韓国語の母音数は、もっと単純だった可能性が、高いと考えています。
倭人の起源地については、私の旧説の「遼河流域」説も、福島さんの「鴨緑江流域」説も、そう大差はないように、思われます。
私の掲示板デビュー時(井上筑前守さんの『邪馬台国大研究』HP掲示板)の説で、根拠は、モンゴロイド・プロジェクトの成果を,NHKが放映し、NHK出版から『日本人遥かな旅』シリーズ中の,東大の徳永勝士氏のHLAハプログループのデータで、日本人最多の型が、外モンゴルでも、おそらく最多頻度だという事実でした。当時、Y-DNAのデータの公表は無く、mtDNAは可変領域が主で、同型でも同祖を、担保できないと判断したからです。
その後、考古学者宮本一夫氏(九大)の、東アジアに於ける農耕の伝播論等で、一時的に補強された感がありましたが、遺伝人類学でのY-DNAハプログループのデータ、栽培イネの起源、言語学の知識の更新に加え、文献上も、倭人~日琉語族の起源地は、山東省あたりに、下げた方が良い、と考えるようになりました。
私は、「科学とは、疑う事から始まる」と教育され、当然、自説もその対象です。
理系と称される分野でも、生物学、生命科学分野は、物性科学や工学分野に比し、進歩が遅かったので、自説やその方法論に確信を持つことが少ないので、建築学のような確固とした工学系の方法論の確立した分野のご出身の福島さんと、「科学」や「データ」「方法論」等に対する「感覚」「姿勢」は、当然、相違してくるのでしょう。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 福島雅彦
2024/10/22 (Tue) 21:48:55
亀レス失礼します。
本題から逸れますが、音価の揺らぎに係わりますのでご容赦下さい。
石見介さん、再度詳細なご解説を賜り多謝 謝々!
私は、「朝鮮語」の古い記録が少ないことを以って、古語の再現が困難とする先哲の考えに疑問を持っています。縦しんば豊富に史料が在ったとしても、ハングル文字以前の「朝鮮語」は漢字の音価を借りて表記しています。字義ではないので、その音の子音部分だけ借りて母音は省略して居たり、別字をくっ付けたりしていますので、却って混乱して解読は覚束ないと存じます。
ハングル文字は完全に表音文字ですから、古語の音を訛の範囲で想定できます。「倭語」と語幹を同じくする語彙も多数ありますので、或る程度復元可能だと存じます。拙著や講演レジメに羅列しているハングル表記語彙はその様な考えで記載しています。これ等の語彙はハングル創設後に突然派生したものではない筈です。近頃の若者言葉の様に時代と共に新しい語彙が誕生する事はありますが、古代から連綿として伝わった語彙が根絶することはないと存じます。
>私は、最初は、倭人遼河流域起源説でしたが、今は、山東半島辺りだと、考えています。
※私は、鴨緑江流域ではないかと想定しています。
*「天(あま・あめ)」の語源からです。
・「天(あま・あめ)」=「国の東の聖なる山」とする愚説が根拠です。
・鴨緑江流域の沃野にとって「白頭山」は国の東の水源の山です。
・東明祭に繋がり、「高天原」へと受け継がれたと観ます。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 白石南花
2024/10/14 (Mon) 10:32:38
石見介さん
内容を変更しました。
変更分は西嶋さんの論文批判です。
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/wamenjyoukoku.htm
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 石見介
2024/10/12 (Sat) 23:20:09
白石南花さん
10月3日ご投稿に対するレスです。
akaosaさんのスレでの、コメントに時間を取られ、御紹介された森岡秀人氏の「原倭国論」の消化に手間取り、レスが遅れ、申し訳ありません。
最初に、安帝永初元年(AD107年)の倭国朝貢の50年前の、後漢初代皇帝光武帝の建武中元2年(AD57年)の、「倭奴国」の朝貢との「相違」、比較の検討が、必要です。
この問題については、白石南花さんのお考えは、倭奴国の朝貢は、「奴国」という倭人諸国の中の「一つの国」が朝貢したもので、50年後の「倭国」朝貢は、倭人諸国が、「倭国」という「まとまり」を持っており、その総意?というか、個別の国単位ではないことに、注目されています。
私の認識は、倭奴国の朝貢は、奴国単独の朝貢であり、AD107年の朝貢は、大倭王=倭人諸国の盟主が、配下の小国の王もしくはその下位の「師」(最高級の軍官?倭人諸国に漢語方借用された官職の可能性あり)もしくは「帥」(「師」と同様に、軍事字関連?倭人諸国の首長の呼称の一つか。蕃夷の首長層に、「渠帥」「大帥」「小帥」等の使用例あり)を、後漢に派遣したというものです。
白石南花さんのお考えと似ているようですが、実は基本的な倭人、倭種の居住域についての認識の相違、「朝鮮半島南部の倭人,倭種の国家群」の存在を、前漢代(以前)から6世紀初頭ぐらいまで、想定していますので、「奴国の朝貢と王号獲得」の意義を、重視し、范曄が列伝で、後漢代を通じて、倭人諸国の盟主、大倭王が存在したと記した根拠であろう、と推測します。後漢初代皇帝の死の直前、王号を与えられた倭奴国王の子孫が、「大倭王」を世襲し、邪馬台国に遷都して、後漢代の大半と以後も、列島(や半島)の倭人諸国を、束ねていた、という范曄の認識を、『後漢書』東夷列伝倭条から、解釈します。
勿論、范曄の解釈には、范曄の積極的な情報蒐集により、紛れ込んだ倭讃使節団からの種々の、後代や誤情報が、影響した可能性は、有ります。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 白石南花
2024/10/03 (Thu) 17:22:38
石見介さん
>本紀と列伝の双方の記事からは、范曄は、列伝の「倭面土国王師升等」は、倭(国)王=大倭王の「使節」であると、判断した事を示しています。<
現行後漢書では、帝紀に倭国が使者を遣わしたとなっていて、列伝の倭国王がやってきたに矛盾します。
この問題は、実は西嶋定生氏も三木太郎氏の「主帥」説に触れた折に、現行後漢書の文面の矛盾として、『倭国の出現』の22pにおいて触れておられます。
しかし矛盾をどう解釈するかについては、まったく触れておられません。
中傷するつもりはないですが、西嶋さんは晩年やや変調をきたしていたようで、『倭国の出現』に掲載された「倭面土国」に関する論文は、いずれもひどく不出来です。
すでに山尾幸久氏や、依藤勝彦の反論もありますが、あそこに書かれた、後漢書東夷列伝には当初から、「倭国」とあったとする論拠は、全てひっくり返すことができます。
これについては後日まとめる予定です。
私の推定では、後漢書の北宋代の古写本には、安帝永初元年の朝貢国について、帝紀に「倭国」列伝に「倭面上国」となっていたと思われます。
日本側の史料では、帝紀の国名が「倭面国」になっているものが有るのですが、帝紀の「倭国遣使奉献」は、後漢紀も同文なので、固いところではないでしょうか。
朝貢国のような鍵になるワードが、食い違っていることが、校勘により朝貢国名の揺れを引き起こしたものと思います。
おそらく中国では、多くの写本で帝紀の「倭国」に校勘され、日本の特定の写本では、列伝の「倭面上国」を「倭面」の「上国」と理解して、帝紀の「倭国」に脱字があると校勘の上、「倭面国」としたのでしょう。
ですから石見介さんのおっしゃるように、107年に「倭国」の使者として「倭面上国王師升」が来朝したと考えます。
宋書に見える倭の五王の朝貢などでは、帝紀の記録と列伝の記録が食い違い、片方に有ってもう一方にない朝貢記録があります。
一般論として、帝紀と列伝はもとになる史料がことなり、帝紀は皇帝周辺で記録された実録史料がもとになり、列伝はその他雑多な史料も参照します。
後漢書安帝永初元年の倭に関連する記事も、帝紀は皇帝周辺での記録、列伝は例えば楽浪郡などでの記録がもとになっているのではないでしょうか。
もちろん東観漢記や七家後漢書を経由しての話しですが。
列伝の記録は、秋の請見を求めたところで記録が終わっており、実際に都まで行けたのかも分かりません。
このときはまだ朝廷に至っていないので、このときの王号は僭号であると思います。
実際には帝紀に、倭国が使者を遣わして献上品を奉じたとなっているので、少なくとも朝廷は遣使を受け入れたと思われます。
しかしその認識は、「倭面上国王師升」は「倭国」という朝貢主体の使者であるというものだったのでしょう。
よろしければ下記をご参照ください。
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/wamenjyoukoku.htm
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 石見介
2024/09/30 (Mon) 02:11:25
福島雅彦さん
引用した上代日本語の「サ行音」の音価推定は、アルタイ言語学者長田夏樹氏の『邪馬台国の言語』(旧版、新版「(副題:弥生語復元) の 、主に、旧版に
因ったものです。長田氏は、モンゴル語などの諸方言の分類に、サ行音の相違が、利用される事から、上代日本語3方言のサ行音に、注目されました。
韓国朝鮮語は、ハングル制定時の14世紀末の中期朝鮮語(中世韓国語)まで、まとまった言語資料が無く、郷歌や仏足跡歌数十首と日中の史書の記録ぐらいしかなく、日韓両国語同源論の証明も、韓国語側の資料不足で,困難な状況(A.Vovin)ですが、幸い、日本には、記紀萬葉の時代の「上代五本語」と云う、万葉仮名資料(7世紀後半)が、残っています。
ただ、実際には、中央方言である畿内(近畿)方言の資料が多く、次いで、東歌や防人歌が『萬葉集』に収載されている東国方言(日野資成氏によれば、3方言に細分される)で、九州方言は、最も資料が少ないのです。後代の琉球諸語ろ含め、肥薩方言等、九州方言内の下位諸方言間の方言差も大きいと、思われますが、残存資料は、正倉院文書中の、戸籍ぐらいで、その人名のサ行に使用された漢字の音価から、長田氏は、推定、復元されたのです。筑紫方言になりますから、現代の筑後弁にも、繋がると思われます。
但し、長田氏によれば、サ行音の変化は、ts方言から、t∫方言、s・∫方言には、変化しやすいが、その逆方向は、殆どないそうです。
『時代別国語大辞典上代篇』の解説では、担当の執筆者は、弥生時代の九州が、日本語の起源地としていますが、長田氏は、朝鮮半島で、既に、方言分化していたとしています。但し、歴博の弥生時代遡及以前の旧説の年代観に従っています。
朝鮮半島に,あまねく倭人がいた、という福島さんのお説には、私も同意しますが、満州方面に関しては、朝鮮語系の地名が広く分布し、日琉語族系の地名は、存在するが、場所の特定が困難で、希薄です。
私は、最初は、倭人遼河流域起源説でしたが、今は、山東半島辺りだと、考えています。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 石見介
2024/09/29 (Sun) 23:27:14
白石南花さん
私は、日本古代史に興味を持つ様になる前から、神話には興味があり、ギリシャ、北欧、日本、中国、インド,新大陸等の神話物語を、系統的にではなく、雑多に目に付いたものから、読んでいました。
当然、類似、同系の神話の存在には気づきましたが、比較神話学や、各民族の系統や歴史と関連付けて、考えるようになったのは、日本古代史に関心が移ってからで、大林太良、吉田敦彦、荻原眞子氏などの、著書を、読むようになりました。
近現代の歴史学に基づくものを除き、どの国、どの民族の『史書』も、歴史の叙述は、神話から、始まります。特に民族の形成や言語の形成、系統論に、関心のあった私としては、当然、日本の古代史の解明には、日本神話の検討は、必須なので、「日本神話」スレッドが無いので、文系の文化人類学を学んだ方が、スレ主に適任だと思いつつも、浅学の身を顧みず、スレを立ち上げました。
しかし、閑古鳥が鳴いている状態です。
范曄『後漢書』の、AD107年の朝貢については、范曄は、本紀と列伝で、朝貢の主体というか、誰が朝貢したのかを、異なって書いているように見えます。
しかし、森博達氏のいように、原史料を、そのまま、字句を変えずに引用する陳寿と異なり、范曄は、「齟齬の無いように」、即ち、『後漢書』内で記事に矛盾の無いように、自身の解釈を加えて、書いています。 その部分は、以前、白石南花さんが、確か「油断がならない」と表現される部分ですが、同時に、「多くの学徒を集めて」資料蒐集や校勘、考証を、十分に行った「結果」の部分でも、有ります。
本紀と列伝の双方の記事からは、范曄は、列伝の「倭面土国王師升等」は、倭(国)王=大倭王の「使節」であると、判断した事を示しています。
その50年前の、AD57年に朝貢した「倭奴国」を、「倭国の極南界」にある、旁国の「奴国」であり、博多湾岸の「行程」8ヶ国の「奴国」ではない、という范曄の解釈と相応し、後漢代の初めから、倭の小国群を束ねる盟主としての「大倭王」が存在し、それが、邪馬台国に居る、と『魏志倭人伝』を解釈した范曄の姿勢は、一貫しています。
この范曄の解釈は、金印から、少なくとも、AD57年の倭奴国の位置については、明白な誤謬ですが、AD107年については、別に検討を、要する問題です(『魏志倭人伝』の解釈で、二つの奴国について,〇奴国の〇脱漏説と、重出説は、不利になります)。
「彌馬」については、私も白石南花さんとほぼ同じで、「日本神話」スレで、「ミマ」クエストを行い、大和の地名を、捜しています。
尚、この時に、『魏志倭人伝』所載の諸国の「官」と、記紀の神代や欠史八代の、神名・王名と、何らかの関連はありそうに見える事にも、気付きました。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 福島雅彦
2024/09/28 (Sat) 10:43:01
> …おそらく、上代日本語九州方言のサ行音の音価「s」「∫」で、畿内方言「ts」、東国方言「t∫」の系統の古形には、ならないと思われます。
※石見介さん、愚説をアカデミックにホロー賜り多謝 謝々!
*私は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」に「朝鮮語」を取り込んでいますが、此れは「倭語」と語幹を同じくする語彙を取り上げています。
・即ち、「倭語」借用ではないかとし、方言の範疇の意識です。
∵朝鮮半島に古来遍く「倭人」が居たからではないか、と。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 白石南花
2024/09/27 (Fri) 16:02:14
福島さん
>私は何方も「倭語」音写の音価の揺らぎ、と愚考いたします。
文面として固定されたのは一回でしょうから、音写の音価の揺らぎということはないと思います。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 白石南花
2024/09/27 (Fri) 15:58:26
石見介さんレスありがとうございます。
石見さんの神話のスレは、ここ何年も神話から遠ざかっているので、レスできませんでした。
隋書の記録と神話を結びつけたあたり面白いと思っていましたが、あらためて読み返してみると、安帝永初元年の問題に関しても論じられているのですね。
私がこの投稿を行ったのは、私自身つい最近まで、「帥」と「師」の違いは単なる誤写誤刻と見なしてきましたが、文献を再度見直してみたところ、文面に系統的な差があると気づきました。
このたかが一字の差は、しかし解釈においてなかなか大きな差を生むようです。
たとえば王がやってきたという記録に、疑問を感じた三木太郎氏は、「倭国王帥升」を「倭国主帥升」であるとしましたが、「師」の可能性が高いとこの説は苦しくなります。
また「帥升」とスサノオを結びつける説も、音価が遠くなります。
一方「倭国 王師 升」説や「師升」を中国名とする説には好都合となります。
私見では倭人伝に、邪馬台国の官名として「弥馬升」、人名として「難升米」があり、後漢書の「師升」を合わせると、当時の日本語を当時の漢字で表した場合、「升」の発音で何らかの意味を持っている可能性が考えられると思います。
邪馬台国の官名として「弥馬升」に続いて「弥馬獲支」があることから、この二官は「弥馬」に関するもので、「獲支」(ワキ)が平安期の日本語で傍・側の意味があることから、「弥馬升」をその上位のいわば「弥馬」の長ととることができると思います。
「升」は森博達氏によると、上代日本語の(ソ)の乙類とのことで、これと日本書紀を見比べると、葛城襲津彦・日向襲津彦・熊襲などの襲が(ソ)の乙類で、熊襲を除いて地名+襲になっていること、熊襲も熊を地名として捉えることが可能で、ある種の類形が見えてきます。
「弥馬升」の「弥馬」(ミマ)は地名としてよくあるもので、奈良盆地東南部でもミマツヒコ、ミマセ、ミマの君などミマという地名の存在を示唆する記述があります。
難升米については、やはり森博達氏が難を地名と見なす説を出していて、地名+(ソ)の乙類という類型があるのではないかと思います。
すると「師升」の「師」は、どこかの地名の音表示ではないかと疑われます。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 石見介
2024/09/25 (Wed) 01:31:12
討論室が、私のスレを含め、殆ど、討論の無い「独白室」や「講演その他の催し物紹介室」と化しているのが、どうにも納得できないので、活性化の為、コメントさせていただきます。
他スレッドの多くは、対話拒否方針を示すか、議論の基盤となる,方法論や史実・データなどが、私には理解できないので、私には、コメントが、極めて困難ですので。
尚、私事ですが、急速な視力障害の進行の為、来月には施設入所予定の為、蔵書全てを、寄贈・廃棄すべく、梱包中で、その為、文献その他の真偽確認は,wiki頼りか、記憶頼りなので、誤謬が多くなりますが、ご容赦、ご訂正を、宜しくお願いします。
「帥升」と「師升」の何れが正しいかは、これを、「倭人の名(人名、官職名、その他の呼称)」の音写と考えれば、通説通り、一方が正しく、他方は誤写、誤刻と考えられ、今回の白石南花さんの校勘から、「師升」が、本来の表記だった可能性が、高くなります。ただ、「師」も「帥」も、倭語のサ行音の音写なので、対応する倭人語は、似たような語彙になると思われます。
おそらく、上代日本語九州方言のサ行音の音価「s」「∫」で、畿内方言「ts」、東国方言「t∫」の系統の古形には、ならないと思われます。
もう一つの可能性としては、「師」「帥」或いは、「升」も、本来の倭語ではなく、漢語からの倭語の借用語であった場合で、この場合は、漢語の原義を、倭人からの情報で、記録した可能性があります。
後漢光武帝の建武中元2年の倭奴国の使節は、自ら「大夫]を自称したので、その五十年後の倭国の官職に、漢語系の語彙が、多く存在しても、不思議ではありません。
私は、上代日本語の「くに(国)」「かみ(紙)」「きみ(君)」は、それぞれ、漢語「郡」「簡」「君」の借用語起源を、疑っています。
Re: 安帝永初元年の王は帥升か師升か - 福島雅彦
2024/09/22 (Sun) 22:03:47
乱入ご免ください。
※白石楠花さんは、「帥升」と「師升」の文字が酷似しているのを以って誤記(誤刻)ではないかとのご見解ですが、私は何方も「倭語」音写の音価の揺らぎ、と愚考いたします。
※ 「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」の事とする自論を持っています。
*「さ・し・す・せ・そ」の音価は全て「鉄」“쇠”(soe)の意に関係。
・“쇠”(soe)=「①鉄;真金<雅>②金属の総称」『民衆書林・韓日辞典』
・須恵器=“쇠-기”(soe-gi)=鉄の様に硬い器、鉄色した器。
・指し(さ)規矩(がね)=金属製の曲尺(大工道具=元来は木製だった?)
・サバ虫= “쇠-바”(soe-ba)虫(ウジ虫)=鉄の釣り針用の餌の意。
骨の針には刺さらない。幼少の頃、何故サバ虫と言うのか訝
っていた。魚の鯖にウジ虫をわかせるからか、とか。
・注連縄=“쇠-메”(soe-me)縄=鉄山縄(直訳)=製鉄の聖域表示か。
玄関に飾る正月の縁起物は、下記の「蘇民将来」の故事と無関係ではないと思われる。即ち、この家は「素盞嗚尊」の息が掛かった家である、の意。門松の「松」も7頁記載の②山の木の意で、製鉄用の木炭に関係している、と観る。
・倭王「帥升」=“shuai-sheng”=“쇠상”(soe-sang)=鉄上=
製鉄王=「素盞嗚尊」(『後漢書』後述)。
・曽尸茂梨“쇠씨-머리”(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)。「素盞嗚尊」が「高天原」を追放になり、新羅の曽尸茂梨の処へ行く。(後述)
・諏訪=“쇠-와”(soe-wa)=「鉄・来る」(直訳)。
長野県の諏訪地方は古代から黒曜石の産地である。
黒曜石の「古代倭語」が“쇠”(soe)では無いか、と閃いた。であれば、8頁の④龍=辰(※派生語「手」「鉄」)の説明が俄然信憑性を増す。
・「蘇民将来」=「素盞嗚尊」が出てくる物語が本題であれば、この「蘇」
は“쇠-”で「鉄」の事と成る。(帥升の項参照)
「素盞嗚尊」が「高天原」を追放になり、新羅の曽尸茂梨の処へ行く。
・「さしすせそ」=“쇠”(soe)の発音に対応する。
∴「師升」= 「帥升」の音価の揺らぎでしょう。
彼方此方の愚説のレジメからの転載で重複書き込み、ご免ください。