東アジア討論室
紀年論3ー紀年はどのようにたてられたのか - 白石南花
2024/12/25 (Wed) 15:01:19
『日本書紀』に関する議論には、紀年論と呼ばれる分野があり、その中心的な議論が、神功紀に見られる記事が、『三国史記』の該当する記事に対して、干支が一致していながら、暦年代的には干支の二巡繰り上げられているという問題です。
これはすでに江戸時代に本居宣長が指摘したもので、これに対し伴信友が讖緯思想の辛酉革命説に基づき、推古朝の辛酉の年の一蔀(1260年)前の、辛酉の年を神武天皇の即位年とするため、紀年を意図的に古く遡らせたとしました。
しかし『百済記』などの干支史料のある神功紀を120年繰り上げなくとも、それ以前の十四代の天皇の在位を、九年弱延ばせばよいだけです。
この間の天皇在位は平均で60年を超えていますので、それぐらい延ばしても不自然ではないでしょう。
また神功皇后を卑弥呼に擬するために、神功紀の年代を引き上げたとの説もあります。
神功紀即位三十九年条・四十年条・四十三年条には確かに『三国志』の倭の女王の朝貢に関する記事が註にひかれています。
しかし卑弥呼の名前は書かれていないうえ、三十九年条以外本文には何も書かれていません。
本文がないことからこれらは原註であると思われるうえ、三十九年条には太歳干支が本文にあり、これが即位年以外に書かれるのは異例で、神功紀の編年において重要な意味を持つとは思われます。
しかし神功皇后を卑弥呼に比定するためならば、本文にもそう書くはずだと思われます。
しかも六十六年条には、『晋起居中』の倭の女王の朝貢記事が引かれていますが、『三国志』によればこの時点で卑弥呼は亡くなっており、神功皇后を卑弥呼に擬するために、編年を120年引き上げたとは考え難いと思います。
ここでふたたび阿知使主のケースに戻って、書記編纂者に何が起こったかを見てみましょう。
阿知使主の伝承に相当する史料を見つけて、その干支をもとに編年を行った時、同時にオホサザキに関連した同じ干支をもった史料を見つけてしまったことになります。
天武天皇の定めた連続する二人の天皇に対して、該当する記事に同じ干支が現れることは、非常に不都合であったと思われます。
このような場合にできることは、片方ないし両方の干支を無視して、両者の在位が続いたとするか、双方の干支の解釈を一巡60年ずらすことでしょう。
このことから神功紀と応神紀を二巡引き上げ、仁徳紀がそこと一巡ずれた位置に置かれたのは、編年の際に天皇の在位が重複したためではないかと推察されます。
このことは二巡引き上げたと思われる、神功紀と応神紀を引き下げてみるとよりはっきりします。
引き下げ後の応神の崩御年は430年となり、一方森博達氏の書記区分論で、α群とされ先に完成していたとされる雄略紀は、457年に始まります。
その間わずかに27年で、仁徳・履中・反正・允恭・安康の五代の天皇が在位したことになります。
履中・反正・允恭・安康の四人の在位を重複させないために、仁徳の紀年を一巡60年引き上げ、さらに仁徳と応神の在位を重複させないため、応神・神功の在位を二巡120年引き上げたということです。
ではなぜ在位の重複が起こったのか、それについては幾つか例を挙げて説明できますが、簡単に言うとそもそも天皇名とその順次即位と言うのは、天武朝に整備された歴史観によるもので、実際とは異なり、異伝を伝えてきたという氏族の伝承を集めれば、矛盾が起こるのは当然とも言えます。
編年中に生じた在位重複の原因については追々述べていくことにして、干支を一巡ずつずらさなかった履中・反正・允恭・安康の四人の編年はどのようになっていたかを考察しましょう。
先に『古事記』崩御年については本文でもなく、干支の註の付されていない天皇もあることから、体系的なものではなかったとしました。
実際に用明から推古までは『日本書紀』の崩御年と年月が一致しますが、それ以前に関しては一致しているとは言えず、どの程度信頼できるのか不明です。
しかし一部一致していることからすると、全く根拠のないものでもないでしょう。
なぜ『日本書記』ではほとんど採用されていないのでしょうか。
ここで神功紀の崩御年、六十九年条に註として、神功皇后の崩御時の年齢が百歳とされています。
『古事記』にも註として神功皇后の宝算が百歳とされており、『日本書記』編纂者が『古事記』の註と同様の情報を利用できた可能性が高いことを示唆します。
また宝算は敏達以下では凡そあっていますが、それ以前では両者で大きく異なります。
ところが神功皇后と仲哀天皇は完全に一致しています。
先に述べた神功紀六十九年条には、本文で太歳干支が振られており、同じく太歳干支を振られ『三国志』を註にひいている三十九年条同様、紀年の重要な根拠としていることが分かります。
すなわち神功紀と仲哀紀は、『古事記』と同じ宝算を編年根拠としようとした痕跡が認められるのです。
『日本書記』の編纂者は、『古事記』の崩年干支などの情報も利用できた可能性が高いものと思われます。
にもかかわらずなぜ、『古事記』と『日本書紀』の崩御年はかくも一致しないのでしょうか。
ここで注目されるのが、『古事記』の允恭崩年干支の甲午を五世紀に納めた場合の、西暦454年が『日本書紀』紀年の崩御年453年に近接していることです。
これは雄略紀より前のいわゆるβ群で、新しいほうから遡っていくとしたら、利用できる最初の崩年干支情報なのです。
干支が一年ずれていることに懸念を感じるかもしれませんが、『古事記』崩年干支と『日本書紀』の対応が一年ずれる例は、推古朝に近い敏達でも見える例です。
このような干支の一年ずれは、『三国史記』内部にもみられます。
例えば高句麗長寿王が、百済漢城を落としたのは、新羅本記では甲寅の年ですが、高句麗本記と百済本記では一年遅い乙卯の年、『日本書紀』ではさらに一年遅い丙辰となっています。
それぞれ事情があると思われますが、このような例は一例ではなく、非常に古い歴が混入しているという指摘もあります。
有名なところでは広開土王の即位年が、好太王碑では辛卯年、『三国史記』では一年遅い壬辰年となっています。
『古事記』崩年干支については、その正体が分かっていないので、王の崩御をどこで決定したのかが問われます。
これに関して非常に面白い例が、『日本書記』允恭五年七月の記事に見える反正の殯の記事です。
なぜ先帝の崩御と殯の記事が即位五年に現れるのか謎なのですが、『日本書紀』の殯の記事の五年秋七月に対して、『古事記』の反正の崩年干支が丁丑の年の七月と、月が一致しています。
このことは二つのことを示唆しています。
ひとつめは『日本書紀』允恭紀は、先帝在位中の記事を即位後の記事にしているということです。
後の天智朝や持統朝でも、皇位に即かず皇太子のまま称制し、即位年を数えたケースがあります。
天智紀では即位七年に即位記事があり、それまでは皇太子です。
持統紀でも即位は即位四年です。
矛盾しているようですが、この時代には政府の実録があったはずで、このようなことが古い時代にもあったとして不思議はありません。
あるいはこのような報告史料に対する誤解が、見かけ上の在位の並列を引き起こしている可能性があります。
実際允恭紀本文には、反正が允恭即位五年に亡くなったとしているにもかかわらず、紀年の上では允恭即位元年を、反正没後に置いています。
そのほかある出来事の起こった時代の天皇名が、複数の史料や伝承で異なっていた可能性もあります。
例を挙げると、欽明紀にある狭手彦の帰還に関する記事に対して、『三代実録』清和天皇貞観三年八月十九日条 に引かれた、狭手彦の子孫と言われる伴大田宿禰の家諜に、狭手彦の帰還を「珠敷天皇世環来」と、敏達天皇の時代としています。
王の在位が重複した原因の一つが、このような氏族からの情報をもとにしたために起こったのでしょう。
ふたつめは『古事記』の反正の崩年干支が、殯の期間のある出来事の記録をもとにしていたと思われることです。
つまり崩御年の記録が、王の死の時点の記録ではなく、その後の祭事の中のある出来事を記録したものである可能性があるということです。
そうすると実際の崩年は、その前三年程度までの幅を考える必要があるということになります。
さてここで実際に『日本書記』編纂者が、一部に伝承された崩年干支を横目で見ながら、どのように編年していったかを見ていきます。
古いほうへ向けて干支を一巡ずつずらしているところから、α群の雄略紀から編年を積み上げていったのではないでしょうか。
『古事記』註に残されている崩年干支で、雄略記から遡って最初に現れるのが允恭のものです。
『日本書紀』允恭崩御年の干支とは、一年ずれているものの、暦年が近いのでこれをもとに、それ以前の編年も基本『古事記』の崩年干支で追いかけてみます。
允恭に続いて現れる反正の崩年干支は丁丑で、五世紀に納めるとすれば437年となります。
上で述べたように允恭即位五年が、反正の崩御年となっていると思われるため、允恭五年の暦年を437年に置いてみます。
允恭の崩御年は崩年干支から求めると、454年ですから允恭即位二十二年となるはずです。
『日本書紀』における允恭の在位年は42年ですから、後半20年はなんらかの操作がされている可能性があります。
そこで允恭紀即位二十三年以降を見てみると、崩御年を除いて皇子の木梨軽と皇女の話しだけです。
ところが『古事記』では木梨軽の問題は、すべて允恭死後の問題として、安康との継承争いの話しが、すぐに続きます。
『日本書紀』では在位中に発覚して、死後に安康との継承争いになりますが、不自然さがあります。
つまり『古事記』允恭崩御後の話を、在位中の即位二十三年以後に持ってきているわけです。
允恭紀は何らかの理由で20年引き延ばされているということです。
次に反正の前の履中の崩年干支をみると、壬申となっており、五世紀に納めると432年となります。
越年称元法では433年が反正の即位年となって、反正在位年5年で『日本書記』と一致します。
『日本書紀』履中の在位年は6年なので、これをあえて『古事記』崩年干支に当てはめると、即位年は427年となって、この年は丁卯年で仁徳の崩年干支と一致します。
これは越年称元法では一年ずれていますが、前述のように崩年干支をある程度幅をもってとらえるとすれば、一致しているとも言えます。
『日本書記』の履中の庚子年の400年の即位年は、このように『古事記』崩御年をもとにした積み上げに比べて27年も繰り上がっていることが分かります。
この原因の内5年は允恭と反正の在位年の重複を嫌ったためであり、一年は允恭即位年の前に設けた空位1年、もう一年は『日本書紀』が利用した允恭崩御年が543年で、『古事記』崩年干支によるものより一年古くとっているためです。
残りの20年は允恭の紀年を二十年引き延ばしたためでしょう。
この20年は、これら天皇の在位を仁徳の後に入れるために、干支の解釈を一巡60年繰り上げた時、年数のつじつまを合わせるため行ったと思われます。
紀年論としては紀年を引き上げるために、無事蹟年を挿入したという説がありましたが、逆に紀年を引き上げざるを得なかったために、無事蹟年を挿入しなければならなかったということが分かります。
しかもこの例では、繰り上げられた20年には、木梨軽の話題も挿入されており、無事蹟年だけではないことが分かります。
そもそも無事蹟年がもとから無事蹟年だったのか、後から挿入されたのか、どのように判定するかの客観的な基準はないと思います。
追記 - 白石南花
2024/12/25 (Wed) 20:15:04
追記
雄略紀以降にこのような干支の読み替えがなく、仁徳紀以前にこのような大胆な方法が取られた大きな理由は、雄略紀以降が書記区分論でのα群に属し、安康紀以前が同じくβ群に属し、編纂集団に違いがあったことでしょう。
しかし同時に参照した百済系史書の状況にも原因があったと思われます。
継体紀以降で参照されたのは『百済本記』で、編年体の史書であったというのが大勢の意見ですが、継体紀以前で参照された『百済新選』や『百済記』については、完全な編年体になっていなかった可能性が指摘されています。
例えば応神三十九年戊辰の年には、百済の直支王が新斉都媛を遣わした話が有りますが、応神紀ではすでに二十五年に直支王は亡くなっています。
さらに雄略二年戊戌の年には、『百済新選』に曰くとして、百済の蓋鹵王が己巳年に即位し、適稽女郎を遣わす話が有りますが、己巳年に即位した百済王はいません。
そして『日本書紀』には一切[田比]有王が出てきません。
応神三十九年戊辰の年は、[田比]有王の二年に当たり、倭国から使者が来たと『三国史記』百済本紀にはあります。
また[田比]有王の三年は己巳年に当たります。
おそらくこれらの女性がやってきた話は、[田比]有王の二年に起こった出来事の記録が原型となっているのでしょう。
これらのことから、『百済記』や『百済新選』のもとになった、この時代の史書は、完全な編年体ではなく、各王に対する伝を繋げたものだったのではないでしょうか。
おそらくそこに[田比]有王の伝はなく、[田比]有王時代の出来事が、他の王代の出来事として異伝がいくつかあったのでしょう。
また現『三国史記』には、肖古即位と近肖古即位、仇首王と近仇首王のように、よく似た王名が異なる時代に現れており、原史料にも時代の混乱があった可能性があります。