東アジア討論室
紀年論8-加羅王の朝貢と倭の五王朝貢の終わり - 白石南花
2025/01/27 (Mon) 16:05:14
中国王朝への朝貢に関しては、その朝貢路の状況が大きく影響することは、例えば卑弥呼の朝貢が、公孫氏滅亡と関連して理解されていることからも分かります。
倭の五王の朝貢は、このシリーズ最初の投稿で述べたように、先王から外交方針を一変した長寿王による、高句麗との共同朝貢、実質高句麗による嚮導によって始まったものと考えられます。
したがって長寿王が再び方針を強硬なものに変更する、438年の馮弘殺害以降は、百済は大きな圧力を受けたことが、蓋鹵王の北魏への上表文で分かります。
これは百済と結んでいた倭の五王の朝貢に影響を与え、倭王斉の朝貢以降は高句麗回りの安全な朝貢路が塞がれたことが、倭王武の上表文から分かります。
倭王武の上表文には下記のような、朝貢がどのように行われたかの一部を知ることのできる、貴重な記録があります。
道経百済、装治船舫、而句驪無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不己、毎致稽滞、以失良風。雖曰進路、或通或不。
「道百済を経て、船舫を装治す、而るに句麗は無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して己まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むと曰うと雖も、或いは通じ、或いは不ず。」
朝貢路は倭王武の上表文からすると、百済から黄海を渡るものに代わっていたのでしょう。
百済は単なる経由地ではなく、そこで船舫を装治するとなっていますから、百済の援助を得て船旅の準備をするための、必須な拠点であるということです。
だからこそ高句麗が百済に侵攻すると、百済の援助がなく、朝貢が停滞すると言っているわけです。
朝貢路は非常に重要で、例えば新羅は高句麗経由で前秦に朝貢したことはあっても、長く中国に朝貢していません。
南朝に対しての初めての朝貢は、梁の普通二年(521年)に行われたもので、百済に嚮導を受けています。
『梁書』には文字を持たず木に刻んで記憶し、百済人の通訳なしには話ができないと記録されています。
文字がない云々は仲介した百済人の脚色臭いですが、百済の助けなしに朝貢できなかったことは確かでしょう。
そもそもこの時期すでに高句麗から自立していたので、半島東岸の新羅は百済勢力圏を通過せずには、南朝に至れなかったのです。
ここで南斉の建元元年(479年)に行われた、一説に高霊加羅の嘉悉王ともいわれる、加羅王荷知の朝貢について考えてみましょう。
全羅南道の栄山江流域には、五世紀ごろから倭系の文化の流入の形跡があり、四世紀と思われる神功紀の記事には、辟支山、古沙山で倭と百済が盟約を行ったとしています。
辟支山は全羅北道金堤、古沙山は全羅北道古阜とされ、高霊加羅の西方には倭の勢力があったことが分かります。
その北には百済の勢力圏があります。
したがって加羅王荷知が朝貢するためには、この両国の助けが必要です。
この年に百済は朝貢しておらず、倭王武には進号記事があります。
近年発見された愛日吟廬書画続録巻五には、斉建元中奉表貢献とあり、倭国はこの年朝貢したことが知れます。
状況から考えて、倭国の嚮導があったと考えるべきでしょう。
このとき加羅王荷知の得た爵位は、輔国将軍となっており、かって倭隋らの受けた称号と同格です。
このことは倭と加羅の同盟の深まりと、南朝による冊封体制において、倭が上位にあったということを示唆しています。
倭の五王の朝貢が終わった理由について、様々な説がありますが、いまだその理由は判然としません。
その始まった理由については、東晋の南燕征服によって、山東半島が東晋勢力下にはいったことが挙げられています。
しかし山東半島は460年代末には北魏の支配下にはいり、これを倭の朝貢が終わった理由とすることはできません。
高句麗の朝貢路妨害により、海を渡らざるを得なくなったのは百済も同じで、百済が南朝最後の陳にまで朝貢していることを考えると、倭の五王の朝貢が終了した理由を、朝貢路に求めることはできないように見えます。
ところがここには思い込みによる盲点があると私は思います。
もしも倭と百済の関係が悪化したら、百済が南朝朝貢のかなめであるとしたら、そこで朝貢は終わることになります。
倭と百済の関係を年代的に追ってみる必要があります。
問題となるのはおよそ480年代以後でしょうが、『三国史記』にはこの時期の倭の記録がないので、『日本書記』によるしかありません。
まず『日本書記』にしたがい、顕宗紀から武烈紀までを見てみます。
1.顕宗三年、紀生磐宿禰が三韓の王になろうとして、任那に依り高麗と通じ百済と戦う。
2.仁賢六年九月、日鷹吉士を高麗に派遣して技術者を呼び寄せる。
3.武烈三年十一月、百済の意多郎が卒し高田丘上に葬むる。
4.武烈四年、百済末多王が倒され、嶋王が立つ。
5.武烈六年十月、百済国は麻那君を遣わすが、長年通交がなかったとして抑留する。
6.武烈七年四月、百済王は期我君を派遣して貢物をささげ、麻那君と交代し期我君は倭君の先祖となる。
もっとも印象的なのは、1.の出来事で、倭系豪族が高麗や任那と結んで、百済と戦っています。
高麗は高句麗、任那は諸説ありますが、朝鮮半島南部を指すものと思われ、この事件は雄略以後のことですので、紀年を信ずれば、加羅王荷知の朝貢後と思われます。
紀生磐宿禰は雄略紀に、対新羅戦に派遣された、紀大磐宿禰と同一の名前で、いずれもキオヒハスクネとなります。
この事件は紀生磐宿禰の独断暴走のように書かれていますが、紀大磐宿禰の父の紀小弓も、祖父ないし曾祖父の紀角宿禰も、朝鮮半島へ派遣されており、そこに基盤を持ち利権があったと考えられます。
倭王権の半島進出は、豪族がかなり勝手なことをやっていた記述があり、倭と百済の戦争ではないともいえるかもしれません。
しかし倭系豪族がこの時期には高句麗と組んで、任那人の扇動を受けて反高句麗の戦いを起こしたことは、百済にとって許容しがたいことであったでしょう。
ここで言う任那が、朝貢の嚮導によって倭国と同盟関係を結んだ、高霊加羅を中心とする半島南部諸国とするならば、倭王権はいやおうなく百済との争いに巻き込まれたことになります。
2.はこの時期倭王権が、高句麗と通じていたことを物語ります。
3.は百済との友好を裏付けるようにも見えますが、長年百済と交流のあった倭国に、百済人がいることは不思議でなく、経緯が説明されていない以上、何とも言えないでしょう。
死亡記事に卒と使われていることから、おそらく王族ではないでしょう。
4.は百済新選の記事によるもので、友好関係を示すものではありません。
5.はまさにこの時期百済との通交が途絶していたことを示すものです。
こう見てゆくと顕宗から武烈までの間、百済と倭国は冷え切っており、倭国はむしろ高句麗と接近していたことになります。
479年の加羅王荷知の朝貢を嚮導したのは、478年の朝貢を行なった身狭村主青や檜隈民使博徳のグループでは、時間的に無理なので別のグループでしょう。
おそらく任那に多くの権益を持っていた紀生磐宿禰もしくは、雄略紀に任那国司に任じられたと言っている、吉備の田狭などのグループでしょう。
倭王権の加羅との接近が、『三国史記』を見れば明らかに南下を目指している、東城王の政策とぶつかっています。
このような倭王権と百済との、任那や半島系倭系豪族を巡る争いが、南朝朝貢を終わらせたのであると思われます。
6.でようやく関係が修復されたようにも見えますが、実は問題はずっと潜伏して、続いてゆきます。
継体紀を見てゆきましょう。
7.継体二年十二月、南海中の耽羅人が初めて百済国に通う。
8.継体三年二月、百済に遣使。任那の日本県にいる、三・四世代経過した百済の逃民を、百済にもどす。
9.継体六年四月穂積臣押山を百済に遣わし、筑紫の馬四十匹を賜う。
10.継体六年十二月、百済が使いを遣わし、任那四県を要求する。任那四県を渡す。
11.継体七年六月、百済が使者を遣わし、五経博士の段楊爾を献じた。伴跛国の侵略を止めるよう要求。
12.継体七年八月、百済の太子の淳陀が薨じた。
13.継体七年十一月、百済に己[シ文]帯沙を与える。
14.継体八年三月、伴跛が帯沙などに進出し、日本に備え新羅を攻撃。
15.継体九年二月、百済の文貴將軍は帰国のため新羅に寄る。物部連は帯沙に行き、文貴將軍は新羅から去る。
16.継体九年四月、物部連が帯沙にいると、伴跛が攻撃してきて、物部連は逃げる。
17.継体十年五月、百済は己[シ文]で物部連をねぎらう。
18.継体十年九月、百済の使者が物部連をつれて訪れ、己[シ文]の地を与えられたことを感謝し、五経博士の段楊爾に代えて、漢高安茂を献じた。その月に百済と日本の使者が高麗の使者をつれて友好を結んだ。
19.継体十七年五月、百済国王武寧薨。
20.継体十八年正月、百済太子明即位。
21.継体二十三年三月、百済王が加羅多沙津を要求、加羅が渋り中止。また新羅と南加羅・喙己呑を巡って安羅で交渉。百済将軍がいたが、関与できず。
22.継体二十三年四月、加羅・任那を巡って、百済・新羅と協議。
23.継体二十四年九月、背評で毛野臣が百済と戦う。
7.は百済の南下を示すもので、『百済本記』からの転記でしょう。
8.はこの時代領民は生産財であり、これを返すことは譲歩になります。
9.や11.の五経博士のように、関係改善を示すものもありますが、10.13.のように、全体に倭国が百済に対して譲歩を続けています。
11.では伴跛の侵略を止めるように要求していますが、これは伴跛は加羅諸国であり、加羅の抵抗をやめさせようとしているのでしょう。
あたかも倭国が主体的に行っているような書きぶりですが、任那四県の割譲に際して、倭国内に異論が多かったこと、また穂積臣押山は割譲の理由として、いずれ保持することは難しいと言っていることからも、実際には百済の南下が抑えきれなくなっているという事態が想像されます。
14.15.16.は伴跛の叛乱で、記事を見ると激しい暴力が、朝鮮南部を覆ったことが分かります。
17.18.はようやく反乱を抑えたのでしょうが、平和協定に高句麗が噛んでいることは、この反乱が半島規模のもので、収束には高句麗さえも絡んでいたことを思わせます。
既存の秩序の崩壊で、敵も味方もなく諸国が鎮圧に協力したのでしょう。
19.20.は百済王の代替わりを、『百済本記』から転載したものでしょう。
これと12.の記事を見比べると、これも『百済本記』からの転載で、淳陀が倭国に来ていたとはいえません。
雄略紀に武寧王の父の軍君がやってきた記事が最後で、百済の太子がやってくることはなくなっていました。
さて伴跛の乱の結果、加羅は弱体化し、南朝鮮を巡る争いにおいて、新羅が主導権を握ります。
21.22.は加羅をめぐっての、交渉が行われているようですが、23.に見るように百済と倭は争うこともあり、到底同盟関係とは言えません。
したがって南朝朝貢も再開できなかった訳です。
隅田八幡宮人物画像鏡の銘文により、百済と倭国は蜜月だったとする説がありますが、銘文の斯麻を武寧王とする根拠は薄弱です。
そもそも百済王が倭王に贈り物をするのに、使者に銅を持たせて鏡を作らせることが不自然です。
かって銘文中の男弟王をヲホドと読ませて、継体にあてる説がありましたが、国語学的に不成立で、男弟王の文字も予弟王であるとの説もありますし、大和入りの遅れた継体が、即位前に大和の意柴沙加宮にいたというのも不審です。
銘文から開中費直穢人と読み取って、河内のアタイエヒトとする説もありましたが、開中を河内と読むことに無理があり、帰中であるとの有力説があります。
帰中費直なら帰中の中はこの時代の漢籍に見える、地名に対する用例で、帰は紀などの乙類のキを表すので、紀に関わる人物となり、この鏡が紀の川流域にあったこととの関わりが注目されます。
費直については、『日本書記』の唯一の例が、欽明紀『百済本記』註の加不至費直で、この人物は本文では安羅日本府河内直とされ、任那にいて新羅と結んで反百済的な動きをした人物です。
そして穢人は半島東岸に居た民族で、西岸の百済の使者に現れることも不自然です。
この鏡の送り主を百済の武寧王とする唯一の理由は、名前の斯麻と言うことになりますが、これは『日本書記』『三国史記』とは同じではありますが、『三国遺事』の斯摩とは異なります。
この王の名は『日本書紀』雄略紀によれば嶋君となっており、嶋にちなんでつけられた名で、字義ではなく音でシマであるだけの事であり、『日本書記』にはシマに関連する名前は多くあり、結局百済王であるという根拠は全くないと思われます。
継体紀には、五経博士の記事のように、交流を示すものもありますが、倭が半島南部の権益に関して、後退を続けており、軍事同盟のような、緊密な関係があったとは信じがたいところです。
次に欽明紀を途中までみてみましょう。
24.安閑一年五月、百済が使者を遣し貢物を献上。
25.宣化二年十月、新羅が任那に侵した。狭手彦は任那を鎮め百済を助けた。
26.欽明元年二月、百済人己知部が帰化。
27.欽明元年八月、高麗・百済・新羅・任那が遣使。
28.欽明元年九月、任那四県割譲の責任を問われ大伴金村失脚。
29.欽明二年四月、百済の聖明王に「任那復興」を命じる。以下五年十一月条まで、任那復興会議の記事で、移那斯・麻都の反百済的行動が問題視されている。
30.欽明六年三月、膳臣巴提便を百済に派遣。
31.欽明六年五月、百済が使者を派遣して、呉の財などを持ってきた。
32.欽明六年九月、百済が使者を任那に派遣、百済が六丈の仏像を造る。
33.欽明六年十一月、膳臣巴提便が帰国。
34.欽明七年一月、百済の使者が帰国に際し良馬七十匹と船十隻を与た。
35.欽明七年六月、百済が使者を派遣して貢ぎ物を献上。
36.欽明八年四月、百済が援軍を請う。以下十年六月まで、援軍の交渉。延那斯・麻都が高麗に通じたため問いただす話が出てくる。
37.欽明十一年二月、百済に弓を三十あたえる。
38.欽明十一年四月、百済が延那斯・麻都の問題を保留して、高麗の奴隷を送ってくる。
39.欽明十二年三月、百済が漢城奪還。
24.から35.まで百済との関係は順調に見えます。
しかし29.に見える、任那復興会議の内容が、百済と倭の間にあった問題を明らかにします。
百済復興会議は、伴跛の叛乱以後有力になった、新羅による加羅諸国併合の動きに対して、百済と倭国が連合して対抗して行こうとするものです。
聖明王の出した三つの策は、一が新羅との境界に城を築くこと、二が郡令と城主を南加羅に置くこと、三が移那斯・麻都などの反百済的人物を任那から退去させることです。
ここで出てきた三つの策の内、最初の二つは軍事的政治的な新羅対抗策なのですが、三つめは任那にいた反百済的な倭系官僚の河内直、『百済本記』によれば加不至費直と佐魯麻都、おそらく加羅人と思われる阿賢移那斯とを任那から追い出すことです。
聖明王は河内直に対して、彼の先祖の那干陀甲背たちが、悪だくみを説いて爲哥可君をだましたと言っています。
これは顕宗紀において、紀生磐宿禰が任那の左魯・那奇他甲背の策を用いたことを言っていると思われます。
為哥可君は最古の北野本では、可君が追記の註になっており、本来は為哥であったと思われます。
これに対する『百済本記』からの註では、為哥岐弥となっていて、名は有非岐とされています。
有非岐は最古の北野本では、有非跛となっていて、おそらくウヒハと読むのでしょう。
百済系文書の仮名遣いでは、イウオの区別があいまいなことを考慮すると、これはオヒハと考えられ、紀生磐宿禰(キオヒハスクネ)の事であろうと思われます。
為哥岐弥の為は上古音で歌部と言うグループに属し、これは移や委と同じグループです。
継体紀で穗積臣押山に対する、『百済本記』からの註では、委意斯移麻岐彌となっていて、これをワオシヤマキミと読むならば、このグループの委や移が、ワやヤのようにア列に読まれていることを示します。
一方で為の子音は、切韻では和とおなじになりますから、為哥岐弥はワカキミと読むべきであることになります。
ということは本文ワカ、『百済本記』からの引用ではワカキミ・ウヒハと言うことになります。
一つの可能性は、君姓と言うのがいつまでさかのぼるかの問題はありますが、何々君と言う場合には、しばしば地名が先に来ていますので、その土地の首長ととれるというものです。
和歌山の語源となった、和歌の浦は万葉集に遡る古い地名で、かって紀の川は現在より南に蛇行し、和歌の浦で海に入っていました。
この場合の為哥岐弥は、紀の川下流域を根拠地とする首長となり、君姓とするならば、紀臣とするよりは紀国造の一族であったかもしれません。
もう一つの可能性は、本文がワカとなっていることより、例えば天皇の和風諡号に、オホとワカの組が多く表れることから分かるように、二代目をあらわしていると考えるものです。
紀生磐宿禰は紀小弓の死に伴って、若くして朝鮮半島に派遣されたのですから、ワカのように呼びならわされていたということになります。
いずれにしても、為哥岐弥有非跛を紀生磐宿禰とすることに矛盾ありません。
つまり顕宗紀に見える百済と任那の戦いの残党は、任那にずっと残っていて、しばしば高句麗や新羅と通じて、反百済的行為を行っていたことが分かるのです。
継体紀では見かけ上は、百済と倭国は関係を修復したようでも、前代からの確執はずっと続いていたことが分かるのです。
倭王権は属国的扱いをして後ろ盾となった加羅と、加羅を北から浸食しようとする百済の間に立って、外交上の問題を解決できないままにいたのです。
そして任那復興会議の重要な目的のひとつは、百済から見ればこれら反百済勢力を追い出すことにあり、これがようやく欽明朝で成し遂げられたことで、軍事同盟が回復し、36.に見えるような百済の援軍要請が出てくるのです。
欽明二十三年八月、大伴狹手彦が高麗を破り、王宮に侵入した話が有り、これがある本では欽明十一年とあるので、これが倭の援軍に当たるのでしょう。
そして援軍を得た百済は、一時漢城を奪還することに成功するのです。
ではなぜこの時期に、倭の南朝朝貢は再開できなかったのでしょう。
実は欽明十年(549年)に百済は南朝梁に使者を出しています。
しかしその時には、梁は滅亡寸前で都は荒廃し、都に着いた百済使は声を上げて泣き嘆いたと言います。
このとき都を占拠していた侯景は怒り、彼らを捕らえて監禁してしまいます。
混乱の内に侯景が倒れて、使者は百済に還ることができましたが、このことはすぐに倭国にも伝わったでしょう。
やがて陳王朝が立ちますが分裂状態が続き、ようやく南朝の形を成したのは、560年代に入ってからです。
高句麗と百済は563年、新羅は568年に朝貢します。
一方562年には、加羅は新羅に滅ぼされ、倭国の朝鮮半島における権益は完全に失われました。
倭の五王の朝貢が、朝鮮半島諸国に対する軍事権などを求めて行われていたことを考えると、もはや多大な労力を払って、あまり強大とは言えない南朝に朝貢する意味が無くなったのです。
倭国の中国朝貢が再開されるのは、隋による統一がなされるまで行われないことになります。