東アジア討論室
紀年論最終回―神功紀の編年 - 白石南花
2025/02/04 (Tue) 11:35:57
以下のURLの「紀年論3ー紀年はどのようにたてられたのか」で説明しましたように、『日本書記』紀年と『古事記』註の崩御年干支などは無関係ではありません。
https://e-asia.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16884824
ここからこの問題を紀年論の原点ともいうべき神功紀に展開してゆきます。
私は天皇に関する物語は『日本書紀』に比べて、伝承的に原型に近いものを感じます。
神話に関しては、『日本書紀』のほうが古い形を示していると言われていますが、神代に関して多くの別伝を併記していることで分かるように、『日本書紀』が祭祀に携わってきた氏族などからの伝承を、多く取り入れたためではないかと思います。
私は取り扱う時代範囲には差がありますが、『古事記』は編年される前の、『日本書紀』のプロトタイプ的な評価が可能のように感じます。
さて神功紀の編年に関して考察を始めるにあたって、神功紀には固有の問題があります。
1.『日本書紀』では『古事記』にない、神功皇后のための独立した巻を立てているのはなぜか。
2.通常は即位年にしかない、太歳干支がなぜ三か所もあるのか。
3.『日本書記』と『古事記』では、ほとんどの天皇での宝算が異なるのに、神功皇后と仲哀天皇だけが一致しているのは偶然か。
4.神功皇后と履中天皇の即位した宮の名が、磐余若桜の宮で一致しているのは偶然か。
今回紀年論として、投稿を続けてきたのは、実は上記の問題を解決できたことが発端となります。
まず気づくことは、即位十三年の武内宿祢が応神天皇を連れて角鹿の笥飯大神を参拝する記事から、即位四十六年に斯摩宿祢を卓淳国へ派遣する記事まで、この間に『三国志』からの註が付いた年条はあるものの、本文に記事のない長い期間があることです。
以下この長い無事蹟年を挟んで、その前を前半としそれ以降を後半とします。
神功紀には多くの地方伝承や、氏族伝承を取り入れていると思われ、異なる部分もあるとは言うものの、概ね前半部分が『古事記』仲哀記の仲哀死後の内容に相当します。
そして後半部分には、『百済記』によって干支を決め、二巡引き上げた編年がなされています。
想像するに『日本書記』編纂者にとって問題となったのは、この前半部分をどのように編年するかと言うことだったのではないでしょうか。
後半部分までの編年には、百済系文書や渡来漢人の記録が利用できたのでしょうが、『日本書紀』を信ずる限り、そのような書記者を利用できるようになったのは、王代で言えば応神朝からとなります。
実際にはもっと古くから、漢人商人や楽浪管吏の渡来があったはずですが、国内の出来事の記録として利用できるものは、『百済記』を含めても、百済との接触の始まった神功紀後半からと思われます。
これは金石文の有り様や、『日本書紀』自身の主張によるものです。
百済の場合には、書記が利用できるようになったのは、四世紀後半の近肖古王の時代以降であると、『三国史記』百済本紀に記載があります。
神功紀の編年を行う際に、ほぼ伝説としか言えない前半部分をどのように編年するか、前半部分では百済は登場しないので、新羅系の史料を使うしかありません。
しかし新羅の記録は、『三国史記』の様子を見る限り、あまりあてになるものでは無いようです。
神功紀の前半には、波沙寐錦と言う王名が登場し、これは『三国史記』の婆娑尼師今と思われますが、一世紀終わりから二世紀初めの在位となっています。
また宇流助富利智干と言う王名も出てきて、この人物は『三国史記』の昔于老と考えられますが、王ではなくまた三世紀前半の人物となっています。
昔于老には倭王を侮辱して、焼き殺されその妻が復讐したという話が伝えられており、神功紀の一伝では王名は書かれてないのですが、同様の話しが書かれています。
しかし新羅の文字記録が残るのも、百済と同じころとすると、婆娑尼師今にしても昔于老にしても伝説上の人物で、昔于老に至っては六世紀の出来事をもとにした人物とさえ言われています。
このなかで注目されるのが微叱己知波珍干岐で、この人物は『三国史記』の未斯欣に相当すると思われます。
それによると402年に倭国に質として送られ、418年に帰国します。
未斯欣は奈勿尼師今の子で、この時代以降新羅の王統は金氏となり、新羅本紀もこのあたりから信頼できる記事が見え始めます。
神功紀即位五年の微叱許智伐旱の新羅帰国は、未斯欣の帰国と考えられていますが、この年が418年とすると、即位十三年の応神天皇が笥飯大神を参拝し、帰って宴を催す話が428年となります。
ここで問題点の4.に注目してみます。
『古事記』では応神の軽島の明の宮は出てきますが、神功は仲哀皇后としてだけ描かれており、その宮は記述されません。
『日本書紀』では神功は摂政として即位し、その宮が磐余の若桜の宮となっていて、応神の宮は行宮として大隅の宮、崩御の宮として大隅と軽が出てくるだけで、即位の宮は出てきません。
「紀年論3ー紀年はどのようにたてられたのか」で説明しましたように、履中の即位年が427年にくる可能性があり、この年はそこに近接しています。
同じく上記の回で説明しましたように、おそらく古い歴によるものと思われますが、新羅・高句麗の事績の干支は、『三国史記』や好太王碑で一年ずれるケースがあります。
そう考えると『日本書紀』が応神の笥飯大神参拝を、編年するために利用した何らかの文献が有って、実はそれは履中の即位前の出来事に関するものだったのではないかと言う疑念がわきます。
履中は大阪湾岸の政争に破れて、石上の神域に逃げ込みますが、歴史に残っていない磐余の有力者が、その倭国王への即位を助けた記録が有って、それを神功紀の記述に利用したのではないでしょうか。
原史料には笥飯大神参拝の簡単な記事があり、それを伝説的な応神のものと取り違えたのではないかと思うのです。
実際『日本書記』や『古事記』には、異なる天皇の出来事が入れ替わっているケースがあります。
問題はこの記事はおそらく口承ではなく、何らかの史料によるものであろうと思われることです。
未斯欣の帰国記事と、笥飯大神参拝の記事の間合いがあっていることからの推定ですが、原史料はこの有力者が、何らかの地位について以降の治績を、その地位についてからの年数で記録したものではないかと思われるのです。
その場合その史料には、イザホワケを特定できる記載はなかったのかと言うことになりますが、そもそも和風諡号として伝わるものの正体が分かっていないと思うのです。
『日本書紀』でもそうですが、『古事記』の応神は笥飯大神と名前を交換しています。
そもそも名前と言うものは、幼名から始まって、成長に従って変わっていくものであったと思われ、応神記の記述は憶測すれば、祭祀王の地位に就く際に、神の名をもらう儀礼だったのかもしれないのです。
そうすると原史料には即位前の名前が、もしくは後世に伝わらない幼名で記録されており、『日本書記』編纂者には理解できなかった可能性があると思うのです。
そもそも『古事記』のイザサワケとの名前の交換の伝承も、本来は履中についての伝承であったものが、応神と混乱して伝えられていた可能性もあります。
つまり履中はオホ[サザ]キの子で、即位前にはイ[ザサ]ワケであったものが、即位儀礼でイザホワケになったということになります。
このように考えると神功紀の前半は即位十三年の記事で終わりますが、元年からこの記事までは、もともとある磐余の有力者が、何らかの地位についてからの年数に対して、その年の治績を残したものであったということになります。
ここで問題の1.に対する回答が得られます。
つまりこのような何らかの地位についてからの記録を、神功の記録であると考えるならば、即位年の記録にとして扱わねばならず、仲哀とは別の即位年記録を展開することになるのです。
このため神功皇后紀を立てる必要が出てきたのではないかと思われます。
一方の後半部分は、およそ四世紀後半の百済との交渉開始について書かれており、時代的には逆転していることが分かります。
前半部分はその後何らかの理由によって、古い時代に繰り上げられ、結果中間に長い無事蹟年ができたと考えられます。
この繰り上げはどのように行われたのでしょうか。
いま即位十三年が、本来427年であるとすると、現紀年の333年との間の差は、干支の一巡60年の倍数から、大きく外れています。
つまり神功紀でみられる、干支の一巡の倍数の繰り上げではないということになります。
ここで注目されるのが、問題の2.と3.となります。
神功紀ではなぜ崩御年にも、太歳干支が記されているのか、なぜそこに註として『古事記』註の宝算と同じ百歳が記載されているのか。
私はこれは編年根拠のない前半部分に対して、編年を行うためにその根拠として用いられた形跡であると思います。
すなわち件の有力者の崩御年の干支として、現行神功紀の崩御年と同じ己丑年の記録があったのであろうと思うのです。
そして神功の即位年を決めるために、宝算を用いたのではないでしょうか。
まず干支を二巡引き上げた、応神紀の崩御年の310年との整合性をとるために、この己丑年を269年にとります。
そこを神功の百歳にとり、年齢的に妥当なところに即位年を設定したのでしょう。
しかし現記述での即位時の年齢は三十二歳、応神誕生時に三十一歳、立皇后時の年齢は二十四歳で、やや年齢が高すぎるようです。
例えば持統天皇と比べると、天武天皇に嫁いだ時には十三歳、草壁皇子を生んだ年齢が十七歳です。
神功皇后の摂政即位が、なぜこんな年齢になったかについて、村井康彦氏の面白い論文があります。
天武天皇が崩御した時、草壁は二十七歳ですでに立太子しており、すぐに即位できたはずが、即位できずに持統天皇が称制して、天皇権を行使します。
持統天皇は決して草壁皇子を疎んでいたわけではなく、むしろ即位できないまま亡くなったことを悔やんでいたようで、その後自ら即位し、譲位して十五歳の文武天皇を即位させます。
草壁がなぜ即位できなかったのか、謎めいていますが、持統朝にとって現実的な祖先ともいうべき、継体以下の天皇は、いずれも即位時の年齢が三十歳を超えており、最も若い欽明でも三十一歳となります。
つまりこの時代、天皇権を行使するには、三十歳を超えている必要があるという、不文律があったのではないかと言うことです。
持統天皇はその不文律を破って、文武天皇を十五歳で即位させるために、譲位して強引に天皇位を譲ったというのです。
欽明は『日本書記』で即位年が若干とされており、実際にはもっと若くして即位したと思いますが、少なくとも神功紀が書かれる前に完成していたと思われる欽明紀では、三十一歳で即位したことになっています。
このような理由で、神功の摂政即位年は三十二歳に決められたのではないかと思うのです。
そしてこの結果、神功紀は三世紀の『三国志』が倭の女王の時代とする時代と重なってしまいました。
『日本書記』編纂者は意図的にそうしようとしたのではなく、編年根拠をもとめて悪戦苦闘した末にそうなったのです。
何らかの仮説を駆使して立てた仮説が、不十分であっても独立した事実を説明出来た時、仮説を立てた人物には、大きな感動と満足感が訪れます。
『日本書記』編纂者が『三国志』を註に引き、そこに異例の太歳干支を付したのは、それが彼らにとって、いわば『日本書記』編年学とでもいうべきものの金字塔であると考えたからでしょう。
これに力を得た編纂者は、さらに仲哀紀にも同様の編年を行なおうと考えたのでしょう。
仲哀の宝算は『古事記』本文に五十二歳とあります。
即位年を求めるには、即位時の年齢が必要になります。
ここで彼らは、仲哀記の記す騒乱と、壬申の乱を重ねてみたと思われます。
壬申の乱は天智天皇が亡くなった後の、継承争いです。
それと仲哀天皇が亡くなった後の、騒乱を重ねて、仲哀の即位時の年齢を、天智天皇と同じ四十三歳に設定したのだと思います。
すると偶然にも仲哀即位年の干支は、壬申となったのです。
彼らはおそらくこれを天啓と考えたのでしょう。
ではそれ以前はどうだったのでしょうか。
成務天皇紀と仲哀天皇紀の間には、一年の空位期間があり、この空位年を算入すると、仲哀の宝算が一年合わなくなります。
このことは成務以前の編年が独立に行われ、接合時に不具合が生じた可能性を示します。
近年のテキスト分析においても、仲哀紀以降と成務以前では、別グループがかかわっていたとの分析があり、成務以前の編年をどう行ったか、なぜ『古事記』宝算とのずれが発生したのか、その理由は今も分かりません。