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紀年論最終回―神功紀の編年 白石南花

2025/02/04 (Tue) 11:35:57

以下のURLの「紀年論3ー紀年はどのようにたてられたのか」で説明しましたように、『日本書記』紀年と『古事記』註の崩御年干支などは無関係ではありません。

https://e-asia.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16884824

ここからこの問題を紀年論の原点ともいうべき神功紀に展開してゆきます。
私は天皇に関する物語は『日本書紀』に比べて、伝承的に原型に近いものを感じます。
神話に関しては、『日本書紀』のほうが古い形を示していると言われていますが、神代に関して多くの別伝を併記していることで分かるように、『日本書紀』が祭祀に携わってきた氏族などからの伝承を、多く取り入れたためではないかと思います。
私は取り扱う時代範囲には差がありますが、『古事記』は編年される前の、『日本書紀』のプロトタイプ的な評価が可能のように感じます。
さて神功紀の編年に関して考察を始めるにあたって、神功紀には固有の問題があります。

1.『日本書紀』では『古事記』にない、神功皇后のための独立した巻を立てているのはなぜか。
2.通常は即位年にしかない、太歳干支がなぜ三か所もあるのか。
3.『日本書記』と『古事記』では、ほとんどの天皇での宝算が異なるのに、神功皇后と仲哀天皇だけが一致しているのは偶然か。
4.神功皇后と履中天皇の即位した宮の名が、磐余若桜の宮で一致しているのは偶然か。

今回紀年論として、投稿を続けてきたのは、実は上記の問題を解決できたことが発端となります。
まず気づくことは、即位十三年の武内宿祢が応神天皇を連れて角鹿の笥飯大神を参拝する記事から、即位四十六年に斯摩宿祢を卓淳国へ派遣する記事まで、この間に『三国志』からの註が付いた年条はあるものの、本文に記事のない長い期間があることです。
以下この長い無事蹟年を挟んで、その前を前半としそれ以降を後半とします。
神功紀には多くの地方伝承や、氏族伝承を取り入れていると思われ、異なる部分もあるとは言うものの、概ね前半部分が『古事記』仲哀記の仲哀死後の内容に相当します。
そして後半部分には、『百済記』によって干支を決め、二巡引き上げた編年がなされています。
想像するに『日本書記』編纂者にとって問題となったのは、この前半部分をどのように編年するかと言うことだったのではないでしょうか。
後半部分までの編年には、百済系文書や渡来漢人の記録が利用できたのでしょうが、『日本書紀』を信ずる限り、そのような書記者を利用できるようになったのは、王代で言えば応神朝からとなります。
実際にはもっと古くから、漢人商人や楽浪管吏の渡来があったはずですが、国内の出来事の記録として利用できるものは、『百済記』を含めても、百済との接触の始まった神功紀後半からと思われます。
これは金石文の有り様や、『日本書紀』自身の主張によるものです。
百済の場合には、書記が利用できるようになったのは、四世紀後半の近肖古王の時代以降であると、『三国史記』百済本紀に記載があります。

神功紀の編年を行う際に、ほぼ伝説としか言えない前半部分をどのように編年するか、前半部分では百済は登場しないので、新羅系の史料を使うしかありません。
しかし新羅の記録は、『三国史記』の様子を見る限り、あまりあてになるものでは無いようです。
神功紀の前半には、波沙寐錦と言う王名が登場し、これは『三国史記』の婆娑尼師今と思われますが、一世紀終わりから二世紀初めの在位となっています。
また宇流助富利智干と言う王名も出てきて、この人物は『三国史記』の昔于老と考えられますが、王ではなくまた三世紀前半の人物となっています。
昔于老には倭王を侮辱して、焼き殺されその妻が復讐したという話が伝えられており、神功紀の一伝では王名は書かれてないのですが、同様の話しが書かれています。
しかし新羅の文字記録が残るのも、百済と同じころとすると、婆娑尼師今にしても昔于老にしても伝説上の人物で、昔于老に至っては六世紀の出来事をもとにした人物とさえ言われています。
このなかで注目されるのが微叱己知波珍干岐で、この人物は『三国史記』の未斯欣に相当すると思われます。
それによると402年に倭国に質として送られ、418年に帰国します。
未斯欣は奈勿尼師今の子で、この時代以降新羅の王統は金氏となり、新羅本紀もこのあたりから信頼できる記事が見え始めます。
神功紀即位五年の微叱許智伐旱の新羅帰国は、未斯欣の帰国と考えられていますが、この年が418年とすると、即位十三年の応神天皇が笥飯大神を参拝し、帰って宴を催す話が428年となります。
ここで問題点の4.に注目してみます。
『古事記』では応神の軽島の明の宮は出てきますが、神功は仲哀皇后としてだけ描かれており、その宮は記述されません。
『日本書紀』では神功は摂政として即位し、その宮が磐余の若桜の宮となっていて、応神の宮は行宮として大隅の宮、崩御の宮として大隅と軽が出てくるだけで、即位の宮は出てきません。
「紀年論3ー紀年はどのようにたてられたのか」で説明しましたように、履中の即位年が427年にくる可能性があり、この年はそこに近接しています。
同じく上記の回で説明しましたように、おそらく古い歴によるものと思われますが、新羅・高句麗の事績の干支は、『三国史記』や好太王碑で一年ずれるケースがあります。
そう考えると『日本書紀』が応神の笥飯大神参拝を、編年するために利用した何らかの文献が有って、実はそれは履中の即位前の出来事に関するものだったのではないかと言う疑念がわきます。
履中は大阪湾岸の政争に破れて、石上の神域に逃げ込みますが、歴史に残っていない磐余の有力者が、その倭国王への即位を助けた記録が有って、それを神功紀の記述に利用したのではないでしょうか。
原史料には笥飯大神参拝の簡単な記事があり、それを伝説的な応神のものと取り違えたのではないかと思うのです。
実際『日本書記』や『古事記』には、異なる天皇の出来事が入れ替わっているケースがあります。
問題はこの記事はおそらく口承ではなく、何らかの史料によるものであろうと思われることです。
未斯欣の帰国記事と、笥飯大神参拝の記事の間合いがあっていることからの推定ですが、原史料はこの有力者が、何らかの地位について以降の治績を、その地位についてからの年数で記録したものではないかと思われるのです。
その場合その史料には、イザホワケを特定できる記載はなかったのかと言うことになりますが、そもそも和風諡号として伝わるものの正体が分かっていないと思うのです。
『日本書紀』でもそうですが、『古事記』の応神は笥飯大神と名前を交換しています。
そもそも名前と言うものは、幼名から始まって、成長に従って変わっていくものであったと思われ、応神記の記述は憶測すれば、祭祀王の地位に就く際に、神の名をもらう儀礼だったのかもしれないのです。
そうすると原史料には即位前の名前が、もしくは後世に伝わらない幼名で記録されており、『日本書記』編纂者には理解できなかった可能性があると思うのです。
そもそも『古事記』のイザサワケとの名前の交換の伝承も、本来は履中についての伝承であったものが、応神と混乱して伝えられていた可能性もあります。
つまり履中はオホ[サザ]キの子で、即位前にはイ[ザサ]ワケであったものが、即位儀礼でイザホワケになったということになります。

このように考えると神功紀の前半は即位十三年の記事で終わりますが、元年からこの記事までは、もともとある磐余の有力者が、何らかの地位についてからの年数に対して、その年の治績を残したものであったということになります。
ここで問題の1.に対する回答が得られます。
つまりこのような何らかの地位についてからの記録を、神功の記録であると考えるならば、即位年の記録にとして扱わねばならず、仲哀とは別の即位年記録を展開することになるのです。
このため神功皇后紀を立てる必要が出てきたのではないかと思われます。

一方の後半部分は、およそ四世紀後半の百済との交渉開始について書かれており、時代的には逆転していることが分かります。
前半部分はその後何らかの理由によって、古い時代に繰り上げられ、結果中間に長い無事蹟年ができたと考えられます。
この繰り上げはどのように行われたのでしょうか。
いま即位十三年が、本来427年であるとすると、現紀年の333年との間の差は、干支の一巡60年の倍数から、大きく外れています。
つまり神功紀でみられる、干支の一巡の倍数の繰り上げではないということになります。
ここで注目されるのが、問題の2.と3.となります。
神功紀ではなぜ崩御年にも、太歳干支が記されているのか、なぜそこに註として『古事記』註の宝算と同じ百歳が記載されているのか。
私はこれは編年根拠のない前半部分に対して、編年を行うためにその根拠として用いられた形跡であると思います。
すなわち件の有力者の崩御年の干支として、現行神功紀の崩御年と同じ己丑年の記録があったのであろうと思うのです。
そして神功の即位年を決めるために、宝算を用いたのではないでしょうか。
まず干支を二巡引き上げた、応神紀の崩御年の310年との整合性をとるために、この己丑年を269年にとります。
そこを神功の百歳にとり、年齢的に妥当なところに即位年を設定したのでしょう。
しかし現記述での即位時の年齢は三十二歳、応神誕生時に三十一歳、立皇后時の年齢は二十四歳で、やや年齢が高すぎるようです。
例えば持統天皇と比べると、天武天皇に嫁いだ時には十三歳、草壁皇子を生んだ年齢が十七歳です。
神功皇后の摂政即位が、なぜこんな年齢になったかについて、村井康彦氏の面白い論文があります。
天武天皇が崩御した時、草壁は二十七歳ですでに立太子しており、すぐに即位できたはずが、即位できずに持統天皇が称制して、天皇権を行使します。
持統天皇は決して草壁皇子を疎んでいたわけではなく、むしろ即位できないまま亡くなったことを悔やんでいたようで、その後自ら即位し、譲位して十五歳の文武天皇を即位させます。
草壁がなぜ即位できなかったのか、謎めいていますが、持統朝にとって現実的な祖先ともいうべき、継体以下の天皇は、いずれも即位時の年齢が三十歳を超えており、最も若い欽明でも三十一歳となります。
つまりこの時代、天皇権を行使するには、三十歳を超えている必要があるという、不文律があったのではないかと言うことです。
持統天皇はその不文律を破って、文武天皇を十五歳で即位させるために、譲位して強引に天皇位を譲ったというのです。
欽明は『日本書記』で即位年が若干とされており、実際にはもっと若くして即位したと思いますが、少なくとも神功紀が書かれる前に完成していたと思われる欽明紀では、三十一歳で即位したことになっています。
このような理由で、神功の摂政即位年は三十二歳に決められたのではないかと思うのです。

そしてこの結果、神功紀は三世紀の『三国志』が倭の女王の時代とする時代と重なってしまいました。
『日本書記』編纂者は意図的にそうしようとしたのではなく、編年根拠をもとめて悪戦苦闘した末にそうなったのです。
何らかの仮説を駆使して立てた仮説が、不十分であっても独立した事実を説明出来た時、仮説を立てた人物には、大きな感動と満足感が訪れます。
『日本書記』編纂者が『三国志』を註に引き、そこに異例の太歳干支を付したのは、それが彼らにとって、いわば『日本書記』編年学とでもいうべきものの金字塔であると考えたからでしょう。

これに力を得た編纂者は、さらに仲哀紀にも同様の編年を行なおうと考えたのでしょう。
仲哀の宝算は『古事記』本文に五十二歳とあります。
即位年を求めるには、即位時の年齢が必要になります。
ここで彼らは、仲哀記の記す騒乱と、壬申の乱を重ねてみたと思われます。
壬申の乱は天智天皇が亡くなった後の、継承争いです。
それと仲哀天皇が亡くなった後の、騒乱を重ねて、仲哀の即位時の年齢を、天智天皇と同じ四十三歳に設定したのだと思います。
すると偶然にも仲哀即位年の干支は、壬申となったのです。
彼らはおそらくこれを天啓と考えたのでしょう。

ではそれ以前はどうだったのでしょうか。
成務天皇紀と仲哀天皇紀の間には、一年の空位期間があり、この空位年を算入すると、仲哀の宝算が一年合わなくなります。
このことは成務以前の編年が独立に行われ、接合時に不具合が生じた可能性を示します。
近年のテキスト分析においても、仲哀紀以降と成務以前では、別グループがかかわっていたとの分析があり、成務以前の編年をどう行ったか、なぜ『古事記』宝算とのずれが発生したのか、その理由は今も分かりません。

神功紀編年訂正と追加の考察 白石南花

2025/03/08 (Sat) 17:02:16

前回投稿では、仲哀の即位年はその時の年齢が、天智の即位時年齢と同じになるように、設定されたとしていましたが、誤りがありました。
そうなるためには、仲哀の即位年の干支は、壬申ではなく一年前の辛未でなければなりませんでした。
そうすると仲哀の治世は九年ではなく、十年になります。
現状のままでは、仲哀の即位時の年齢は四十四歳になります。
また即位時年齢を四十三歳に合わせると、宝算は五十一歳になり矛盾します。
これは仲哀紀編纂者が、本文確定後に何らかの理由で変更したものと思われます。

前回それ以前の編年がどう行われたか、まだわかっていないとしましたが、『日本書記』の宝算が、編年作業の過程でどのように決まったか、大まかな様相が見えてきました。
添付の表1は仲哀以前の各天皇の、即位と崩御の干支、在位年、宝算、太子を立てた年、その時の太子の年齢、などをまとめたものです。
『日本書記』について、水色に着色した部分が、本文に記載のあるもので、各天皇代の立太子(1)はその時の太子の年齢が即位後の天皇紀にあるもの、立太子(2)は太子を立てた天皇の天皇紀に、その時の太子の年齢が書かれているもので、表では分かりにくいですが次の代の天皇に関するものです。
即位年齢1は、本文中の前代天皇立太子年とその時の年齢から計算した即位時の年齢、同じく即位年齢2は崩御年齢と在位年数から計算したもの、さらに崩御年齢1は即位年齢1と在位年数から計算したものとなります。

これをみると、記載内容にばらつきと矛盾があり、一貫して書かれたものでなく、恐らく何度も手直ししながら試行錯誤で書かれたものであろうと思われます。
又目立つのが、崩御年の干支が庚午とするものが、十四人中四人もおり、六十通りもある中では明らかに偏りがあります。
また関連して在位年数が60年の天皇も三人もおり、これが干支の一巡であることを考えると、造作と考えてよいと思われます。
全体を見回すと、在位年が60年の天皇も、崩御年の干支が庚午となる天皇も、第六代の孝安以降であることに気づきます。
また『日本書紀』の在位年は、『古事記』の宝算よりも少ないことが分かります。
表の一番端には、『古事記』宝算から『日本書紀』在位年を引いたものを載せましたが、第五代孝昭以前には、神武を除いてその差が約10年程度となっています。
ざっくり言って第六代孝安もしくは、第八代孝元以降とそれ以前で、編年の在り方に差があるように見えます。

ここまで見てきたように、『日本書記』編纂者は『古事記』の情報を共有し、とくに神功紀や仲哀紀ではその宝算を、編年のために用いたと思われますので、仲哀以前の編年に於いても、『古事記』宝算は重要な史料として扱われたであろうと思います。
しかし宝算では編年はできません。
もしも最後の天皇、例えばこの表で成務の崩御年が確定でき、それ以前の天皇の在位年が決まれば、単に在位年を積み上げることで、編年が可能になります。
記事は確定した在位年の中に割り振ればよい訳です。
ここで那珂通世の辛酉年仮説が正しいとして、『日本書紀』編纂者が画期の年として、神武天皇の即位年を紀元前660年とし、仲哀の即位年が改変前は辛未年であったとすると、成務の崩御年の干支は庚午の西暦190年であり、その間850年です。
我々はある量を何個かに分けようとするとき、まず全体を等分して割り振りの目安にすると思います。
成務崩御年から辛酉年までを十三代で割ると、平均65年ほどになり、干支の一巡60年に近いことが分かります。
後半部分の天皇には、崇神以下治世中の伝承が伝わっているものが含まれます。
記事の編年を行うためには、各出来事が即位何年に起こったのか、決める必要がありますが、おそらくそれを決める記録などは無かったでしょうから、手掛かりは干支しかなかったと思われます。
記事の配当は、干支に何かの理屈を無理やりつけて、即位何年に何があったと決めていくしかなかったと思われます。
各天皇の在位年と干支のめぐりが同じになれば、作業は楽になります。
同じ干支に同じような出来事を合わせなかったとしても、天皇紀毎の比較もやりやすく、編年の素案を立てやすかったと思われます。

まず各天皇に60年ずつを割り当てたとすると、全部で780年となり、残りの70年を分配する必要があります。
その際一旦『古事記』の宝算が参照され、在位年をそれ以内に抑えようとしたのでしょう。
表2に最初にどのような素案が行われたかを推定しました。
水色の部分は現行『日本書紀』の通り、紫の部分は推定素案で異なっていたと思われる部分です。
孝安の崩御年の干支が庚午となることから、まず全体が二分され、孝霊以下に60年の在位をあてがい、前半部分の在位を『古事記』宝算から神武は61年、それ以外は11年を引いたものとなっています。
この素案においては、すでに即位年齢が30歳以上と言う、持統天皇時代の不文律が反映されています。
その結果『日本書紀』宝算は、結果的に『古事記』宝算とずれてしまったのでしょう。
この素案に対して、神武の即位年の干支が辛酉年になるように、調整を加えていったのが、現行の『日本書紀』編年となったと思われます。
この素案の段階で決められた宝算や立太子年などが、そのまま一部本文に残されたため、様々な不一致が起こっているのでしょう。
素案について、安寧の即位年と宝算に10年の不一致があらわれていますが、これはおそらく素案段階での計算ミスであると思われます。
現行『日本書紀』でもその影響が残っており、安寧の即位年が29歳となって、即位不文律を破っています。
また崇神が垂仁を立太子したのが、即位前になっていますが、これは『日本書紀』に、御間城姫は即位の時には皇后で、垂仁は即位前に生まれていると書いてあることから、そもそも四十八年の夢見の説話は後発伝承であり、皇太子は最初から垂仁だったとしてよいと思います。

注意すべきは、ある天皇の在位年や立太子年を修正すると、次の天皇の即位年や宝算に影響することです。
現行『日本書紀』の景行天皇の即位年や宝算に、大きま矛盾が発生しているのは、前代垂仁の在位年が大きく伸ばされたためであると思われます。
神武の即位年の干支を辛酉年にするために、在位年を伸ばそうとしたところ、前半部分の天皇の『古事記』宝算が短く、あまり調整がつかなかったため、後半部分の天皇の在位年に負担がかかったものと思われます。
垂仁紀では三十九年冬十月の五十瓊敷命が、剣一千ロを石上神宮に納めた説話と、八十七年春二月五日、五十瓊敷命が妹の大中姫に、神宝を司る事を依頼する説話までに、長い無事蹟年があちます。
ここは現行の48年間ではなく、最初はもっと短かったのでしょうが、たとえば垂仁紀が60年から99年に39年延ばされる前に、この間隔が9年であったとすると、五十瓊敷命が年を取ったという話の中身とうまく合いません。
そこで紀年延長が必要となった際に、ここに目がつけられたものと思います。

ここまでで『日本書紀』編纂時に、『古事記』宝算が無視されたわけではないのに、結果的に大きく変えられたことが理解できると思います。
では『古事記』宝算とはいったい何なのか、これが残された問題となります。
近年弥生期の漢字資料や硯の発見が相次ぎ、すでに古くから列島に漢字文化が入り込んでいたと考えられるようになりました。
また卑弥呼は朝貢に際して、上表文を書いています。(註)
しかしその倭人社会での位置付けはどのようなものだったかを、考えてみる必要があります。
この問題は東アジア社会への漢字文化の定着の歴史の中で、評価する必要があります。

まず高句麗の漢字文化ですが、『三国史記』高句麗本紀の高句麗王統譜をみると、『三国志』や『魏書』・好太王碑との不整合や、大祖大王・次大王・新大王、そして美川王以前には川の付く王名が多く見られ、如何にも不自然です。
武田幸男氏や井上直樹氏による、高句麗王統の研究によれば、高句麗王統は美川王の時代に整備されたとします。
四世紀の初頭美川王の時代に、高句麗は楽浪・帯方郡を滅ぼします。
しかし四世紀中葉ともいわれる、張撫夷墓の存在からは、帯方郡が高句麗の支配下にはいったという、一面があることもあることが分かります。
つまり美川王は旧楽浪・帯方の漢人集団の一部を支配下に組み入れた可能性があり、歴史記録が文字として残されるようになったのは、それ以降の可能性が疑われるのです。
高句麗は紀元前から中国と接触しており、当然漢字を使う人々との接触はあったはずですが、それが歴史史料の形に残るのは、漢人集団を支配下に置き、読み書きさせるようになってからと考えられます。
さらに『三国史記』百済本紀によれば、百済が文字による記録を行なえるようになったのは、近肖古王の時代からとなっています。
近肖古王の時代には、故國原王を平壌に破ったのですが、この平壌とは後の平壌とは違い、現在の中朝国境に近い位置にあり、当然その南にある旧楽浪・帯方は、百済勢力圏に入ったことになります。
おそらくこの時漢人集団が百済に流れ込み、百済の文字史料を残すようになったのでしょう。
もちろん百済もそれ以前の伯済時代から、漢人との接触はあったはずで、それにもかかわらず史料化の始まったのは、漢人集団の被官化の後であるということになります。
日本の『新選氏姓録』に、旧郡の人々が高句麗と百済に分かれることになったとの、祖先伝承が残されていることには、歴史的背景があったことになります。

『日本書紀』によれば、応神朝に百済から漢字が伝来したとなっていますが、これは識字漢人集団が、大和王権の被官になったという記録であり、それが日本列島における歴史の史料化の始まりであるということであると思われます。
それは稲荷山鉄剣に残された、倭語の漢字表現の有り様が、『日本書紀』百済系文書と共通するという事実とも整合的です。
それ以前の漢字文化は、一部漢人とそこから感化を受けた特殊な倭人の間の中だけの、閉じたものであったと思われます。
『日本書紀』によれば、履中紀に四年秋八月八日、初めて諸国に国史を置いたとの記録があり、これは記録に残る史料化の始まりに関するものであるとみなせます。
『日本書紀』の天皇系図においても、仁徳までは父子継承ばかりで、在位年も仁徳が八十七年など、異常に長く信憑性に欠けますが、履中以降は兄弟継承で、在位年も常識の範囲に収まってきます。
まさに五世紀こそが、日本の歴史に関する史料が残り始めた時代であると思われます。
応神紀や神功紀には、それ以前四世紀後半までの、記録が利用されているようですが、それは恐らく百済側史料である『百済記』によるものでしょう。
それも百済が倭国と接触する以前については、倭国に関する史料として利用できるものは無かったと考えられます。
実際のところ四世紀後半より前には、その百済にもまともな歴史記録はなかったと考えられます。

では『古事記』に残された、宝算や崩年干支はどのようなものだったのでしょうか。
干支については、史料化されないものは考えられないと思います。
崩年干支は四世紀以前の物は考えられないということです。
したがって那珂通世氏の年代解釈が間違っていて、四世紀中に位置付けられた、崇神・成務・仲哀・応神の崩年干支は、五世紀中の別人の葬送儀礼記録を錯誤したものと考えてよいと思われます。
一方宝算に関しては、別の可能性があります。

文字は声が届かないような距離の通信のためには便利なものですが、広がりのある領域を統治するには、伝令に加えて数字を記録する手段が有ればよいようです。
例えば南北四千キロに及ぶインカ帝国は、文字を持たなかったのですが、数値と品目などを記録できる、キープと呼ばれる縄文字が用いられました。
どこにどの程度の人員がおり、どの拠点にどの程度の物資があるかの情報が有れば、領域統治は可能です。
文字の始まりも、そのような数字と品目をあらわす記号であったと思われます。
漢籍において、無文字の民族に関する形容として、縄を結び木に刻むと言うような定型文があります。
これは定型文で、そのまま事実とすることはできませんが、数字を記録することは、文字が使用される前から行われていた可能性が高いです。
『古事記』宝算が何を意味しているのかは分かりませんが、伝承されてきた何らかの数字であると考えてよいと思います。
したがって古代天皇の宝算に関して考察する場合には、『日本書紀』ではなく『古事記』の宝算に関して行うほうが良いと思います。

(註)
卑弥呼は上表文を書いていますが、これは帯方郡ないし、その出張所である伊都国で書かれたものでしょう。
伊都国には郡使のとどまるところがあったわけですが、郡使と言うのは印や詔書を持ってくるような存在ではありません。
郡のつかいっぱしりに過ぎず、相手の身分証明書である印や、皇帝の言を直接伝える詔書は、異民族の使者などには渡さず、直接相手に渡すために勅使をたてます。
たとえ郡太守が選任しても、魏の卑弥呼への使者は勅使であり、かならず卑弥呼のもとに行っています。
さて『三国志』には倭が帯方に属したとありますが、この属するという意味は、魏の役人が来て支配するということではなく、自分たちの人口や地理に関する情報を出して、臣属するということです。
郡に属すると、その郡内の通行が許され、互市という場で取引ができるようになります。
経済的先進地である中国との取引は、周辺民族にとって大いにメリットがあるものだったでしょう。
さらに郡は異民族が、中央へ朝貢を求めた際には、その取次ぎを行いました。
朝貢もまた権威と高価な下賜品を入手できる機会であり、異民族は求めて郡に属しようとしたのです。
高句麗の伯固は、高句麗が遼東に属していたのを、玄菟に属することを求めたのは、どの郡に属するかが、利権に関わるからです。
また『三国志』に魏が辰韓八か国を楽浪に属させようとして反乱が起きますが、この属するも直接の支配を意味するものではなく、中国に対する窓口の変更を意味するだけものですが、これは韓族にとって直接的な利権に関係するものだったので、反乱となるのです。
卑弥呼が朝貢するとなったら、その属する帯方は、それを朝廷に取り次ぐ役割を担っているのですから、どこで書かせたかはともかく、上表文を整えるのは帯方郡の務めです。
五世紀の倭の五王の上表文とは異なり、倭人が書いたもしくは、倭王が漢人に書かせたものでは無いでしょう。

Re: 紀年論最終回―神功紀の編年 - (管理人)

2025/02/16 (Sun) 16:37:03

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