東アジア討論室

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<伽耶と古代日本:特別研究会> - 米田

2025/03/23 (Sun) 15:45:06

古代の朝鮮半島と倭との関係を考える 2025.3.22
― 仁藤淳史『加耶/任那』(2024)を素材にして
___________________赤尾恭司

このスレでは、3月22日(土)に行われた当会主催の
<伽耶と古代日本:特別研究会>の中で、ここでは、
赤尾さんの発表をたたき台にして、考察をしたいと思います。

私は、仁藤淳史『加耶/任那』を読んではいませんので、
3月22日の発表を中心に考察したいと思います。


│3.赤尾恭司 4;10~5;00
│【『加耶/任那』(仁藤淳史2024)を批判的に読む】

│古代史関係の論考で気になるのは、
│①史書にある「国」「国家」をそのまま用いており
│概念が不明であること、

│②例えば、広開土王碑の「碑文にみえる「倭」がヤマト王権を
│背景とすることは疑いにくい」(本書p45、46など)など、
│古代の日本列島ではヤマト王権が唯一無二と
│論証抜きで議論していることである。

│そこで、この二つの視点を軸に、
│本書の内容を批判的にまとめてみたい。

Re: <伽耶と古代日本:特別研究会> - 米田

2025/03/26 (Wed) 02:13:38



│3.赤尾恭司 4;10~5;00 2025.3.22―
│【『加耶/任那』(仁藤淳史2024)を批判的に読む】

│古代史関係の論考で気になるのは、
│①史書にある「国」「国家」をそのまま用いており
│概念が不明であること、

:発表を聞いていて、気になったことがあります。
:それは、「国の成り立ち」についてです。
:小さな国が集まって、次第に「国(クニ)」は、大きくなる。
:という考え方です。私は、この考え方に疑問を感じています。

│時代や人口の問題もあるが、これらが集団規模の参考に
│なるとすれば、加耶諸国などの実態は村や城で、
│国といっても都市国家的まとまりと思われる。
│問題は彼らの生業である。
│農地主体であれば農民は温存され、徴税権の奪い合いと
│考えられ、領土拡大の動機になる。
│だが、加耶諸国自体は小国のまま推移したとすれば、
│彼らは土地に執着しない集団、つまり「交易の民」と
│考えるのが自然ではないか。
│経済の大動脈であり韓国最長の洛東江流域に点在する由縁である。
│また、呼称としての「王」は政治的自称であり、実態は
│その集団の指導者としての「長者」的存在を想定できよう。
│自立した交易は富の源泉でもある。

***************************
〔三国志・韓伝〕
建安年間(196~220)に、公孫康が、(云々)韓・濊を攻撃した。
この後は、倭も韓も遂に帯方〔郡〕に属するようになったのである。
〔三国時代に入り〕云々。
辰国の八国を〔辰韓から〕分離して、楽浪〔郡〕の領有とした。
云々。〔この戦いで弓〕遵は戦死したが、二郡はとうとう韓〔族〕を
鎮圧したのである。
***************************
「楽浪郡(らくろうぐん)」(ウィキペディアより)
楽浪郡は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年
まで存在した朝鮮半島の郡である。
真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。
東方における中華文明の出先機関であり、
朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。

歴史
前108年(元封3年)、前漢の武帝は朝鮮半島に軍を派遣し、
当時朝鮮半島西部を支配していた衛氏朝鮮を征服した。
その後、真番郡、臨屯郡、玄菟郡、そして楽浪郡が設置され
現地の統治にあたった(漢四郡)。
ただし、漢の支配体制は主要拠点と交通経路を支配する点と線の
支配であり、支配領域の均質な統治は不可能であった。
このため四郡の支配領域は必ずしも隣接しておらず、
特に遠隔地の真番・臨屯郡の支配は困難であったものと見られる。
***************************
(中国から見た、楽浪郡や「韓・倭」について)
・楽浪郡は、中華文明の出先機関である。
・郡の維持には、お金が掛かるので、縮小傾向にある。
_軍隊(騎馬兵・軍船)の維持・周辺地域への外交・懐柔。
・挨拶に来た首長には、官位や褒美を配る。
・使者を時々、都に連れて行く。
_(周辺国を支配していると、都に対して主張している。)

(周辺国から見た、楽浪郡)
・郡には、あいさつに出かけて、官位などをもらいつつ、
_地元では、部族ごとに(高句麗は五族)族長を立てて、
_地域ネットワークを確立していた。


(疑問:その1)
:私の理解では、「講演会:片岡宏二先生」の話として、
:筑紫平野の環濠集落は、戦争のために「環濠」を作ったのでは
:なく、害獣対策として、環濠を掘っていた。
:環濠集落同士での争い(戦争)は、ほとんどなかった。
:1世紀~2世紀にかけて、伊都国あたりに、倭王を名乗る
:王が出現した。(王をめぐる争いが続いた。)

:筑紫平野の環濠集落の首長たちは、自給自足的な生活で、
:他地域との戦争をする必要はなかった。
:そこに、自称「倭王」が現れた。
:この「倭王」は、楽浪郡を通して、後漢から「倭王」として
:認証された。以降、楽浪郡(後漢)から認証された「倭王」が
:倭国を治める形になった。

:半島南部は、なぞの「辰国」は、ありますが、
:楽浪郡の影響が強すぎるために、(地域名)馬韓・弁韓・辰韓は、
:小国の集まりとして、楽浪郡との支配・被支配の関係を
:個別に作っていた。

:公孫氏が強くなってくると、帯方郡の独立し、
:韓・倭は、公孫氏の支配下に入った。
:(韓・倭は、それなりに、かなりの自主性が認められていた。)
:238年の公孫氏の滅亡のあと、韓・倭は、公孫氏との関係が、
:亡くなった時に、楽浪郡・帯方郡(二郡)の支配下に入った。

:帯方郡(太守王頎、中国)は、倭国に対して、卑弥呼のあとの
:王として「難升米(梨迹臣命・難斗米)」を指名していた。
:248年頃だとすると、30代半ばの次男坊です。
:これに対して、公孫氏とうまく付き合ってきた、長老グループは
:(この年若い難升米の即位に)反発した。
:そして、何もなくても、後継者争いは起こるのに、親公孫氏派の
:支配者である「菊池彦?」を中心に、内乱が発生した。

:その後、台与が擁立されても、実力者同士の争いは絶えなかった。
:武埴安彦命の反乱のあと、誰を国王にするか、相談した結果、
:「難升米(梨迹臣命・難斗米)」の孫を、王に迎えることにした。
:魏の皇帝から認められた「黄幢」の権威は、大きく、孫である
:祟神天皇(伊香色雄命)が、300年に即位した。

:このあと、400年前後になると、半島・倭の王は、中国の
:冊封の中で、王として内外に認められた。
:この権威の力は大きいです。

:話が少し流れてしまいましたが、
:王は、富よりも、中国から(王として)認められたという
:権威の方が、大切である。という話です。
:(族長は、別にいますが、あくまでも族長は族長です。)
:軍事・外交を取り仕切るのが「王」です。

:話がまとまっていませんが、この話は、ここで終わりです。


Re: <伽耶と古代日本:特別研究会> - 米田

2025/03/23 (Sun) 17:32:45


│【好太王碑】(武内宿禰が391年に死去。)
│「倭」が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・・・ 

:まず、391年頃に、何があったのか、です。

│高句麗・故国嬢王=武内宿禰:384~391
│百済_・辰斯王_=武内宿禰:385~392

:見ての通り、武内宿禰が亡くなっています。
:そして、後継者争いが起こりました。
:それが、【好太王碑】の「倭」の侵攻です。
(倭の代表は、息長日子王だろうと思います。)
:武内宿禰は、311年とか313年頃に生まれています。
:ですので、享年は、81歳くらいになります。
:それなりに長寿でした。

(武内宿禰の子)
・息長日子王(日向国造祖:神功皇后とは同母。)
・広開土王(安:374年生・412年没)

(武内宿禰の孫)
・訥祇王(377年生・允恭天皇)
・卜好_(379年生・仁徳天皇=木羅斤資=蘇我石川=大伴佐彦)
・未斯欣(380年生・若野毛二俣王)
・朴堤上(婆娑王の五世の孫)

:このほかに、「垂仁天皇=多遅摩比多訶」の子や、
:「多遅摩毛理=巨狭山命=大水口宿禰命」の子もいます。
:彼らが、高句麗王の地位を狙って、争ったと思います。


│(408年)
│高句麗本記:使者を北燕に派遣し、そして
│宗族であることを述べた。北燕王の「雲」は、云々。

:仁徳天皇は、こなべ媛(394年生:日向の髪長媛)を
:妻にしています。408年の使者は、こなべ媛だろうと思います。
:こなべ媛(日向の髪長媛)は:「百済腆支王:405~420」
:ですから、仁徳天皇は、408年に、百済女王の王配になったと
:考えられます。(少なくとも、百済の記録では。)


:赤尾さんは、任那を専門に研究しておられるようですので、
:かなり、詳しく、書かれていますが、私には、
:任那をそこまで、調べてはいません。


:奈勿王の子である「卜好」は、(379年生で)
:仁徳天皇=木羅斤資=蘇我石川=大伴佐彦、だろう。


│「沙至比こ」は、妹(磐之媛)が皇宮で〔寵〕幸されていた。
│云々。ひこは、免れることはないと知り、石穴に入って死んだ。

:この「沙至比こ(さちひこ)」は、息長日子王のことだろう。

:そのほか、何人かは、系図の中で、人物の特定をしています。
:自作のオリジナルの系図ですので、
:どこまで正しいかは分かりませんが、いつまでも、
:不明のままで、放置していても、しょうがないと思いますので、
:公表しておきます。

:なお、日本書紀には、系図上、ウソがいくつかあります。

:(その1):
:大足彦尊(景行天皇)は、日葉酢媛の子では、ありません。

:(その2)
:景行天皇は、彦狭嶋命です。

:(その3)
:「迦具漏比売命」は、めとり皇女です。
:もう一人の「迦具漏比売命」を同一人物にすると、
:系図は、無限ループに入って、抜け出せなくなります。

:(その4)
:応神天皇について
:応神天皇は、神功皇后の夫の一人です。
:380年生の子は、「若野毛二俣王=未斯欣、433年死去」です。

:これらを認めることが、4世紀の解読につながると考えます。

Re: <伽耶と古代日本:特別研究会> - 米田

2025/03/23 (Sun) 16:22:13


:「多遅摩毛理=巨狭山命=大水口宿禰命」
:「垂仁天皇=比多訶」が、亡くなって、
:371年以降、権力争いが、はげしくなりました。

:まず、動いたのは、仲哀天皇です。
*****
<「仲哀天皇の即位年と生没年」についての考察>
:仲哀天皇元年:372年

(記紀の定点):(景行─日本武尊─仲哀)
仲哀天皇_329年生_380年没(享年52歳)

『新羅本記』より:(373年)
:百済の禿山城主が300人を率いて来降した。
『百済本記』より:(373年)
:禿山城主が、300人を率いて新羅に走った。←:仲哀天皇のことか。
『日本書紀』より:(373年)
:仲哀天皇紀2年:従駕した二三の卿大夫と官人数百とで、軽行した。
*****

:ここに、出てくる「百済の禿山城主」とは、仲哀天皇のことです。

:そして、380年に、神功皇后の「三韓征伐」です。
:この時、高句麗まで、降伏しています。

:私の系図では、下記のように、しています

:高句麗・故国嬢王=武内宿禰:384~391
:百済_・辰斯王_=武内宿禰:385~392
:新羅_・奈勿王_=神功皇后:356~402(武内宿禰の娘)

:なお、朴堤上は、武内宿禰の孫にあたります。
:朴堤上の父親は、そう良州の干なので、実質的には
:(日本書紀での)新羅王に近いと思います。

──────────────────────────────
 ○:4世紀における年代特定。(補足説明)
──────────────────────────────
※:『風土記』より
孝霊天皇 伊賀国  
孝霊天皇の時代・癸酉の歳=253年_伊賀津姫の領していた郡

垂仁天皇 陸奥国  
垂仁天皇27年戌午=358年_垂仁天皇 元年=332年

応神天皇 伊豆国  
応神天皇5年(甲午)=394年_応神天皇 元年=390年

***************************


(応神天皇20年):(409年)
:倭漢直の祖の阿知使主が、その仲間17県をひきいて、来朝した。
『高句麗本記』:(409年)
:国の東部に禿山城(未詳)など6城を築城し、
:平壌の住民を移住させた。王は南方を巡察した。
『風土記』_より
:筑紫の風土記にいう。肥後の国、閼宗(あそ)の県。
:県の坤(こん:西南)方20余里に一つの禿山がある。
:閼宗(あそ)の岳という。
──────────────────────────────

(407年):「後燕」漢人の武将「馮跋」は慕容煕を廃して
____:「慕容雲(高雲)」を立てて云々。
(408年):高句麗本記:使者を北燕に派遣し、そして
____:宗族であることを述べた。北燕王の「雲」は、云々。
____:「雲」の祖父の高和は、高句麗の分家の一族で、云々。
____:慕容宝は「雲」を云々、
____:〔のちに〕養子とし、慕容氏の姓を賜わった。

(5世紀前半)仁徳天皇の大仙山古墳(427年没か)(河内の開拓)


※:「慕容雲(高雲)」は、慕容氏の養子に入って、
_:「慕容氏」を名乗っています。
_:そして、407年に、後燕の皇帝に即位しています。
_:この「慕容雲(高雲)」を「中臣烏賊津使主(仁徳の父)」と
_:考えています。
_:そうすると、「慕容雲(高雲)」は、409年に、
_:殺されていますから、
_:仁徳天皇は、住民を連れて、河内にやって来た、
_:と考えられます。

※:小林惠子氏の影響を(部分的に)受けて、
_:こんなことを考えました。

***************************

Re: <伽耶と古代日本:特別研究会> - 米田

2025/03/23 (Sun) 15:51:07


│(4)見解3にいう「恒常的な領土支配」
│   の意味するもの

について。


│領土支配といえば、現地政府の樹立とか植民地などが思い浮かぶ。
│古代国家に関する歴史地図をみると領域国家的に国境線があるが、
│これは近代の国家観の影響ではないか。

│「加耶とは、三世紀から六世紀にかけて、朝鮮半島南部にある
│洛東江の流域に存在した十数か国の小国群」という認識が実態を
│反映しているとすれば、韓国史料や広開土王碑文に見るように、
│高句麗・百済・新羅でも、散在する城・邑・ムラなどを抜いたり
│抜かれたりは常のことで、朝鮮半島における
│「恒常的な領土支配」は統一新羅からではないか。

*****

〔三国志・韓伝〕
建安年間(196~220)に、公孫康が、(云々)韓・濊を攻撃した。
この後は、倭も韓も遂に帯方〔郡〕に属するようになったのである。
〔三国時代に入り〕云々。
辰国の八国を〔辰韓から〕分離して、楽浪〔郡〕の領有とした。
云々。〔この戦いで弓〕遵は戦死したが、二郡はとうとう韓〔族〕を
鎮圧したのである。

*****

│(赤尾さんの主張)
│朝鮮半島における「恒常的な領土支配」は統一新羅からではないか。

:私の見る限り、韓・倭は、2世紀後半、(名目的には)
:楽浪郡の支配下に入ったと、読めます。高句麗や夫余は、
:2世紀後半、慕容氏の攻撃を受けます。
:313年には、楽浪郡の消滅があって、その支配下にあった韓は、
:楽浪郡を滅ぼした高句麗に、そのまま引き継がれていきます。

:といいますか、そもそも、楽浪郡の郡治(朝鮮県)以外は、
:高句麗(夫余)の各部族が、住み着いていました。
:ですので、「楽浪郡の消滅」というのは、楽浪郡の太守が
:いなくなって、高句麗(夫余)の王が、そのまま太守の役を
:引き継いだだけです。
:慕容氏の支配力拡大に伴って、楽浪郡が中国からの支配から
:離れたということだと思います。

:ただ、その時に、楽浪郡に住んでいた高句麗の民の中に
:力のある人物がいなかったために、
:高句麗王としては、倭国出身者が選ばれた可能性が高いと
:思います。
:王名に「川」の字が付く王は、女性(女王)です。
:この「女王」と「女王の夫」と「女王の弟」で、国の運営を
:分担して国を治めていたと思います。

:この「女王」を中心とした、集団指導体制の中で、
:高句麗や倭国が支配されていたので、その間にある
:伽耶諸国・百済・新羅なども、支配下にあったと考えられます。

:この支配体制は、(高句麗:故国原王:331~371)まで
:続きました。
:「故国原王」は、2案あって、
:「A案:垂仁天皇=多遅摩比多訶」
:「B案:多遅摩毛理=巨狭山命=大水口宿禰命」です。

│(高句麗本紀)
│343年:高句麗王は王弟を派遣し、〔燕の〕臣と称して、云々。

:ここを読むと、王が「垂仁天皇」で、王弟が「多遅摩毛理」の
:ように読めます。
:「多遅摩毛理=巨狭山命」の子は、雷大臣命(五十日足彦命)で、
:慕容氏に人質に行って、そのまま養子になって、「慕容雲」を
:名乗っています。

│(高句麗本紀)
│355年:高句麗王(故国原王)は、母を前燕から返してもらった。

:私の人物特定では、垂仁天皇(291年生:65歳)の
:母親(273年生)だと355年には、83歳になります。
:普通に考えると高句麗王の母は、とっくに死んでいます。
:ですので、おそらく、妻の母(清日子)を還してもらったのでは
:ないかと思います。

:高句麗の支配は、371年(王の死去)までは、それなりに
:つづきました。

Re: <伽耶と古代日本:特別研究会> - 米田

2025/03/23 (Sun) 15:46:34


│(4)見解3にいう「恒常的な領土支配」の意味するもの

と、

・「広開土王碑」の主な内容

について。
***************************

│(4)見解3にいう「恒常的な領土支配」の意味するもの
│領土支配といえば、現地政府の樹立とか植民地などが思い浮かぶ。
│古代国家に関する歴史地図をみると領域国家的に国境線があるが、
│これは近代の国家観の影響ではないか。

│「加耶とは、三世紀から六世紀にかけて、朝鮮半島南部にある
│洛東江の流域に存在した十数か国の小国群」という認識が実態を
│反映しているとすれば、韓国史料や広開土王碑文に見るように、
│高句麗・百済・新羅でも、散在する城・邑・ムラなどを抜いたり
│抜かれたりは常のことで、朝鮮半島における
│「恒常的な領土支配」は統一新羅からではないか。


*****
・「広開土王碑」の主な内容


│百残(百済)・新羅は舊(もと)これ屬民なり。由來朝貢す。
│而(しか)るに倭は辛卯の年を以って渡海して來り百残(百済)
│・■■(加羅?)・■羅(新羅?)を破り以って臣民と爲す。


(2)武勲記事に占める倭の記事
「倭」は、22.5行ある武勲記事の判読可能分だけで
9回3記されている。
武勲記事2行目に「百殘新羅」、3行目に「倭」が登場する。

「永樂五年歳在乙未(395)」
百済新羅はもとは(高句麗の)属民にして、いままで朝貢す。
しかして、倭、辛卯年に海を渡り来て百済[東□新羅]を破り、
もって(百済新羅を)臣民とす、とある。

武勲記事11行目から、「九年己亥(399)」

百済が誓に違い、倭と和通す。王は平壌を巡下す。
そこに新羅が使者を遣わし王に訴える。
「倭人、その国境に満ち、城や池をつぶし破り、奴客(百済臣民)
をもって民となす。(新羅は)王に帰順し、王命を請う」とある。


│5 「誓」とは、六年丙申に百済は男女生口一千人・細布千匹を
│王に献じ「跪いて自ら誓う。従今以後、永く奴客と爲す」とある。
│従って、奴客は百済臣民と指すと考えられる。


武勲記事13行目以降に「任那」が刻まれている。
「(永楽)十(400)年庚子 教遣歩騎五萬往救新羅

男居城から新羅城まで倭が満ちていたが、高句麗に追われ、
任那加羅の従抜城に至って帰服する間に、安羅人戍兵が
新羅城などを奪い返し、倭は六十九の城を潰し、
安羅人戍兵が□に満ちたと読める。


武勲記事19~20行目に、

「十四(404)年甲辰 而倭不軌侵入」

404年には、無軌道にも倭が船を連ねて帯方界に侵入した。
王は平壌(城)より(出撃して倭軍と)遭遇し、
倭寇を潰敗させて無数の倭人を斬殺したと読める。

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