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漢籍の再学習:その34 「史記」「大宛列傳」司馬遷が示した史書の規範となった距離概念 - 平井一海

2025/04/03 (Thu) 19:27:16

漢の第7代皇帝の武帝は、北方の匈奴との戦いを進める戦略として、大月氏との同盟を結び匈奴を東西から挟み撃ちすべく、張騫を西域に派遣しました。「大宛列傳」は中国の史書として初めて、張騫による西域遠征をドラマチックに描きました。
「大宛列傳」で注目すべき点は下記の通りです:
1. 司馬遷は「史記」全巻を通じ、その重点を国家の興亡や権力の変遷や因果関係を描くことに置き、「誰が、いつ、どこで、何をしたか」―を書くのが史書では重要であり、地理情報の正確な提供は史書の役割でないという編集方針を貫きました。しかしながら、司馬遷は地理的要素をまったく無視したわけではなく、それが政治や軍事の重要史実に関係する場合には記述しています。「大宛列傳」はその代表例となるもので、漢帝国の初期、それまで中国国内ではあまり知られていなかった中国の西域を、張騫を主人公として、巨大な絵画を描くが如く地誌を記述し、後代の史書の規範となりました。

2.漢の武帝が企てた一大戦略、それは
2.1 最大の敵である匈奴を攻略する為、その右翼に当たる大苑などの西域諸国を調略する。
2.2 河西回廊から西域南道を経るシルクロードを確立し、天馬の血統を引くといわれた良馬や玉石などの珍しい物産を輸入、中国特産の絹を輸出する交易で騎馬戦力の強化と経済発展を図る。
という一石二鳥を狙った気宇壮大な世界戦略でした。司馬遷は張騫を主人公にして武帝の戦略実行をドラマチックに描きました。
この武帝の強烈な対匈奴戦略と西方指向のお陰で、結果的に漢帝国は、朝鮮半島南部と日本(倭)を無視する事となり、魏の時代に至り倭が朝具して平和裏に外交関係を構築し、中国文化を受け入れ学び歴史と伝統を育む事が出来たわけであり、日本にとっては歴史の幸運であったと言えましょう。

3.司馬遷が、この史上初の「大河ドラマ」を描く上で駆使したのが、古代中国の人々が日々の生活で必須な暦や時刻で用いていた十干十二支の12進法を用い、12,000里を最大距離として、漢の都、長安から函谷関(陽関)までの距離であった千里を単位を指数とする距離概念と、山や大河などのランドマークを組み合わせた地理の描写です。それにより、下記(A)から(N)まで14個所を、それが実測では無い事を示しつつも、読者がその世界地図を想起出来る描写力は天才的であったと考えます。
(添付の「大宛列傳」が描いた世界地図を参照願います)
この司馬遷が示した史記の規範は、
范曄の「後漢書」の「東夷列伝」中の「去其國萬二千里」
陳寿の「三国志」の「鮮卑伝」中の「東西萬二千餘里」および「倭人傳」中の「自郡至女王國萬二千餘里」
に継承されました。
下記は、千里を単位とする距離表現です:
(A)「大宛在匈奴西南,在漢正西,去漢可萬里」
大宛(注1)は匈奴の南西、漢の真西に位置し、漢からの距離はおよそ一万里である。
(Google Mapの推定実測距離は 3,334km=6,486里)
(B)「其北則康居,西則大月氏,西南則大夏,東北則烏孫,東則扜穼、于窴。
于窴之西,則水皆西流,注西海;其東水東流,注鹽澤。鹽澤潛行地下,
其南則河源出焉。」
大宛の北には康居(注2)、西には大月氏(注3)、西南には大夏(注4)、東北には烏孫(注5)、東には扜穼(ウシン:注6)と于窴(ウテン:注7)がある。于窴のさらに西では、川の流れはすべて西へ向かい、西海(カスピ海)に注ぐ。しかし、東では川は東へ流れ、塩沢(ロプノール湖)へと注ぐ。塩沢の水は地下を潜って流れ、その南から黄河の源が発している。
(C)鹽澤去長安可五千里
ロプノール(塩沢:注8)から長安までは約五千里の距離である。
(Google Mapの推定実測距離は 1,737km=3,373里)
(D)匈奴右方居鹽澤以東,至隴西長城,南接羌、鬲漢道焉
匈奴の右翼勢力は塩沢の東側に居住し、隴西(注9)の長城まで至る。南は羌(注10)と接し、漢への通路を阻んでいる。
(E)烏孫在大宛東北可二千里
烏孫(注11)は大宛の東北約二千里に位置する遊牧民、弓兵数万人
(Google Mapの推定実測距離は 733km=1,423里)
(F)康居在大宛西北可二千里
康居(注12)は大宛の西北約二千里に位置する遊牧民、弓兵8~9万人
(Google Mapの推定実測距離は 290km=699里)
(G)奄蔡在康居西北可二千里
奄蔡(エンツァイ:注13)は康居の西北約二千里に位置する遊牧民、弓兵10~14万人(Google Mapの推定実測距離は 1,320km=2,563里)
(H)大月氏在大宛西可二三千里居媯水北。其南則大夏,西則安息,北則康居。
大月氏は大宛の西、およそ二~三千里媯水(注14)の北岸に位置し
その南には大夏、西には安息(パルティア)、北には康居がある。弓兵10~20万人
(Google Mapの推定実測距離は 421km=1,.014里)
(I)安息在大月氏西可數千里。地方數千里,最為大國、其西則條枝,北有奄蔡、黎軒。
安息(パルティア:注15)は大月氏の西、数千里の地にある。
その領域は数千里に及び、最も大きな国の一つである。
(J)其西則條枝,北有奄蔡、黎軒。
安息の西には条枝(じょうし:注16)、北には奄蔡(えんさい:注17)、黎軒(不明)がある。
(K)條枝在安息西數千里,臨西海
条枝は安息の西、数千里の地にあり、西海(地中海)のほとりに位置する
(L)大夏在大宛西南二千餘里媯水南
大夏は大宛の南西、約二千里の地にあり、媯水(注14)の南に位置する
(Google Mapの推定実測距離は 386km=930里)
(M)身毒在大夏東南可數千里
身毒は大夏の東南、数千里の地にある
(Google Mapの推定実測距離は 1,267km=3,053里)
(N)大夏去漢萬二千里,居漢西南。
大夏は漢の西南、約一万二千里の地にあります
(Google Mapの推定実測距離は 3,743km=9,019里)

下記の注の出典は総てWikipedia中国版です:
注1:大宛 ウズベキスタンのフェルガナ地方にあった古代国家
注2:康居 南カザフスタンの存在した遊牧民国家
注3:大月氏 ウズベキスタンのサマルカンド周辺に存在した遊牧民国家
注4:大夏 大月氏の属国であった遊牧民国家
注5:烏孫 キルギスから中国の新疆ウイグルにかけて存在した遊牧民国家
注6:扜穼(ウシン) タクラマカン砂漠南部に存在した古代国家
注7:于窴(ウテン) 新疆ウイグル自治区 ホータン市
注8:塩沢(ロプノール)タクラマカン砂漠に存在した塩湖
注9:隴西 甘粛省定西市
注10:羌 四川省のチベット系少数民族の国家
注11:烏孫 キルギスタンに存在した遊牧民国家
注12:康居 カザフスタン南部に存在した遊牧民国家
注13:奄蔡 アラル海周辺に存在した遊牧民国家
注14:媯水 阿姆河 Amu川
注15:安息 古代イラン、アルケサス朝
注16: 条枝 トルコのアンティオキア
注17: 奄蔡 ジョージアおよびアゼルバイジャン
4.私が「大宛列傳」で最も感銘を受けたのは、和訳の一番最後の下記の記述です。司馬遷は、自らが記述した史実に自信を持ちつつも、中国伝統の神話と言える『禹本紀』や『山海経』を敢えて否定する事無く、読者にその判断を委ねる度量の大きさを示し、後代の歴史研究者に対して、神話を否定する過度な自己主張を戒めたことです。
太史公(司馬遷)は言う。
『禹本紀』には「河は崑崙に発す。崑崙の高さは二千五百余里であり、太陽と月がその影に隠れ、光が生じる。その頂上には醴泉(れいせん)と瑤池(ようち)がある」と記されている。
しかし、張騫(ちょうけん)が大夏(たいか)に使いした後、黄河の源流を探究したが、『本紀』に記されたような崑崙山を見た者はいない。
したがって、九州の山川について語るならば、『尚書』の記述が比較的信頼できる。しかし、『禹本紀』や『山海経』にある奇怪な事物については、私はあえて言及しないことにする。
------------- 生成AI ChagGPTの和訳 -----------------

史記_大宛列傳_和訳
(Part1: 武帝による張騫の西域への派遣)
大宛の存在が明らかになったのは、張騫によってである。張騫は漢中の人で、建元年間に郎官となった。
当時、天子(武帝)が匈奴から降伏した者に尋ねると、彼らは皆こう語った。「匈奴は月氏の王を破り、その首を飲器としました。月氏は逃亡し、常に匈奴を恨んでおりますが、共に匈奴を討つ者はおりません。」
漢はちょうど胡(匈奴)を滅ぼそうと考えており、この話を聞いて使者を通じようとした。しかし、その道は必ず匈奴の中を通らねばならなかったため、使者になれる者を募った。張騫は郎官としてこれに応じ、月氏へ向かうこととなった。堂邑氏の出身で元胡人の奴隷であった甘父と共に隴西を出発した。
しかし、匈奴の領地を通過する際に捕らえられ、単于のもとへ送られた。単于は張騫を引き留めて言った。「月氏は我が北方にいる。漢はどうして使者を送ることができるのか。もし私が越(南方の国)へ使者を送ろうとすれば、漢はそれを許すのか?」こうして張騫は十数年にわたって留め置かれ、その間、妻を与えられ子をもうけたが、それでもなお漢の使節の節を守り続けた。
匈奴の中での扱いは次第に寛容になったため、張騫は配下と共に脱走し、月氏へ向かって西へ数十日進み、大宛に至った。大宛の人々は漢が財を豊かに持つことを聞き及び、通交を望んでいたが、果たせずにいた。そのため、張騫を見て喜び、問うた。「そなたはどこへ行きたいのか?」
張騫は答えた。「私は漢の使者として月氏へ行こうとしていたが、匈奴に道を塞がれた。今こうして逃げてきた。どうか王にお願いし、私を導いて送っていただきたい。もし無事に漢へ帰ることができれば、漢の王は財物を惜しみなく賜ることでしょう。」
大宛の王はこれを聞き入れ、張騫を送るための道案内を用意し、彼を康居へ送り届けた。康居の人々はさらに彼を大月氏へと伝えた。
しかし、大月氏の王はすでに胡(匈奴)によって殺されており、太子が王として立てられていた。彼らはすでに大夏を支配し、その地は肥沃で豊かであり、外敵も少なく、安楽を楽しんでいた。また、漢とは遠く隔たっていたため、匈奴に復讐しようという気持ちはまったくなかった。
張騫は月氏を訪ねたが、ついに彼らを説得することはできなかった。そのまま一年余り留まり、大夏から帰路についた。南山を越え、羌族の地を通って帰国しようとしたが、再び匈奴に捕らえられた。
また一年余りの間捕らえられていたが、その間に単于が死去し、左谷蠡王が太子を攻撃して自立したため、国内が混乱した。この機に乗じ、張騫は匈奴の妻と堂邑父と共に脱出し、ついに漢へ帰還することができた。
漢は張騫を太中大夫に任じ、堂邑父を奉使君とした。
(Part2: 張騫の武帝への帰朝報告)
張騫は剛毅で力強く、寛大で誠実な人柄であったため、蛮夷の民からも慕われた。
堂邑父はもともと胡人で、弓の名手であり、困窮すると獣を射て食料を得ていた。張騫が最初に出発したときには百余人が同行していたが、十三年を経て帰還できたのはわずか二人であった。
張騫が実際に訪れたのは、大宛・大月氏・大夏・康居であり、さらにその周辺にある五、六の大国についても伝え聞き、それを詳しく天子に報告した。
彼は次のように述べた。
「大宛は匈奴の南西、漢の真西に位置し、漢からの距離はおよそ一万里である。その風俗は定住生活を営み、田を耕し、稲や麦を育てている。葡萄から作る酒もある。
良馬が多く、その馬は汗に血が滲むように見える。これは、かつての天馬の子孫であるとされる。
都市には城郭があり、家屋も整っている。大宛には大小合わせて七十余りの属邑があり、総人口は数十万と推定される。
その軍備は弓と槍を主体とし、騎射を得意とする。
大宛の北には康居、西には大月氏、西南には大夏、東北には烏孫、東には扜穼(ウシン)と于窴(ウテン)がある。于窴のさらに西では、川の流れはすべて西へ向かい、西海(カスピ海)に注ぐ。しかし、東では川は東へ流れ、塩沢(ロプノール湖)へと注ぐ。塩沢の水は地下を潜って流れ、その南から黄河の源が発している。
この地には玉石が多く、河川を通じて中国へ運ばれる。
また、楼蘭・姑師の都市には城郭があり、塩沢のほとりに位置する。塩沢から長安までは約五千里の距離である。
匈奴の右翼勢力は塩沢の東側に居住し、隴西の長城まで至る。南は羌と接し、漢への通路を阻んでいる。
烏孫は大宛の東北約二千里に位置し、遊牧国家であり、家畜を追って移動する生活を送る。その風俗は匈奴と同じである。
弓を操る兵は数万人おり、戦闘を恐れぬ勇敢な民である。かつては匈奴に服属していたが、勢力を拡大すると、その支配を脱し、朝貢を拒むようになった。
康居は大宛の西北約二千里に位置する遊牧国家であり、月氏とほぼ同じ風俗を持つ。
弓を操る兵は八~九万人に及ぶ。大宛と隣接し、国力は小さいため、南では月氏に従属し、東では匈奴に従属している。
奄蔡(エンツァイ)は康居の西北約二千里に位置し、遊牧国家であり、康居とほぼ同じ風俗を持つ。
弓を操る兵は十数万人おり、大きな湖のほとりに住む。その湖は果てがなく、おそらく北海(アラル海またはバイカル湖)のことと思われる。
大月氏は大宛の西、およそ二~三千里に位置し、媯水の北に居住している。
その南には大夏、西には安息(パルティア)、北には康居がある。
彼らも遊牧国家であり、家畜を追って移動する生活を送り、匈奴と同じ風俗を持つ。
弓を操る兵は十~二十万人に及ぶ。」
その昔、月氏は勢力を誇り、匈奴を軽んじていた。しかし、冒頓単于が即位すると、彼は月氏を攻撃し、これを撃破した。匈奴の老上単于の時代には、ついに月氏の王を殺し、その首を飲器とした。
もともと月氏は敦煌と祁連の間に住んでいたが、匈奴に敗れた後、遠くへ逃れ、大宛を通り過ぎて西へ向かい、大夏を攻撃してこれを臣従させた。そして、媯水の北に都を築き、王庭とした。しかし、逃げることができなかった少数の月氏の民は、南山の羌族の地に留まり、「小月氏」と呼ばれるようになった。
安息(パルティア)は大月氏の西、数千里の地にある。その風俗は定住生活を営み、田を耕し、稲や麦を育て、葡萄酒を作る。都市や町の様子は大宛に似ている。
大小合わせて数百の都市を抱え、その領域は数千里に及び、最も大きな国の一つである。
安息は媯水のほとりにあり、市場が開かれ、人々は商業活動を盛んに行っている。交易には車や船を利用し、周辺の国々へ数千里の距離を移動することもある。
貨幣は銀で作られ、その表面には王の顔が刻まれている。王が亡くなると、新たな貨幣が鋳造され、王の顔が新しく刻まれる。
文字は革(なめし革)に横書きで記される。
安息の西には条枝(シリア地方)、北には奄蔡(カスピ海北岸の遊牧民)、黎軒(未詳)がある。
条枝は安息の西、数千里の地にあり、西海(地中海)のほとりに位置する。気候は暑く湿っている。農耕が行われ、稲を育てている。
この地には巨大な鳥が生息しており、その卵は甕(かめ)のように大きい。
人口は非常に多く、小さな王が各地に存在しているが、安息の支配を受け、属国とされている。この国の人々は幻術を得意とする。
安息の長老の伝えによると、条枝には「弱水」と「西王母」がいるとされるが、実際に見た者はいない。
大夏は大宛の南西、約二千里の地にあり、媯水の南に位置する。その風俗は定住生活を営み、城や家屋があり、大宛とほぼ同じである。
大きな王(君主)はおらず、各都市ごとに小さな長(統治者)を置いている。
兵力は弱く、戦いを恐れる。商業に長け、市場での交易が盛んである。
その後、大月氏が西へ移動し、大夏を攻撃してこれを打ち破り、完全に支配下に置いた。
大夏の人口は多く、百万人を超える。その都は「藍市城」といい、市場が開かれ、さまざまな物資が売買されている。
その東南には「身毒国」(インド)がある。
張騫は言った。
「私が大夏にいたとき、邛竹杖(竹製の杖)や蜀布(蜀地方の布)を見かけました。そこで大夏の人々に『これはどこで手に入れたのか?』と尋ねたところ、彼らはこう答えました。
『我々の商人が身毒(インド)へ行き、市場で買い求めたのだ。身毒は大夏の東南、数千里の地にある。そこでは定住生活が営まれ、風俗は大夏に似ているが、土地は低く湿っており、暑さが厳しいという。また、人々は象に乗って戦う。国は大きな川のほとりにある。』
私はこの情報から推測しました。
大夏は漢の西南、約一万二千里の地にあります。そして、身毒は大夏の東南、さらに数千里の地にあります。もし身毒に蜀の品物があるというのであれば、蜀から身毒まではそれほど遠くないはずです。
現在、大夏へ行くには羌族の地を通る必要がありますが、その道は険しく、羌族は我々を快く思っていません。少し北へ迂回すると、匈奴の支配地域に入り、捕まる危険があります。しかし、蜀から直接行けば、敵の妨害もなく、安全でしょう。」

(Part3: 武帝の壮大な国家戦略: 南方貿易ルート開拓)
天子(武帝)は、大宛・大夏・安息といった国々がいずれも大国であり、珍しい物産に恵まれ、定住生活を営んでおり、中国と似た産業を持つことを知った。さらに、これらの国々は軍事力が弱く、漢の財貨を貴んでいることも理解した。また、北には大月氏や康居といった強大な軍事力を持つ国々があり、彼らには財貨を贈って懐柔し、朝貢を促すことができると考えた。
もし、これらの国々を徳義によって帰属させることができれば、漢の領域は一万里に広がり、多くの異民族と交わることができる。そうなれば、威徳は四海に広がるであろう。
天子は張騫の言葉を喜び、それを正しいと認めた。そして、張騫に命じて蜀(犍為郡)から使者を派遣させ、四つのルートを同時に進ませた。
一つは駹(現在の四川西部)、一つは冉(現在の貴州北部)、一つは徙(現在の雲南東部)、一つは邛・僰(現在の雲南中部)へと向かい、それぞれ千~二千里を進ませた。
しかし、北方は氐族・筰族によって閉ざされ、南方も巂族・昆明族によって封鎖されていた。昆明族には統一された君主がいなかったため、盗賊行為を好み、漢の使者を次々に殺害し、ついに通交することができなかった。しかし、彼らの西には千余里の彼方に「象に乗る国」があり、その名を「滇越」ということを聞いた。
そして、蜀の商人たちの中には密かに交易を行い、滇越に至る者もいることが分かった。これにより、漢は大夏へ通じる道を探るため、まず滇国(現在の雲南省)との関係を開いたのである。
もともと、漢は西南夷との交易を開こうと試みていたが、費用がかかる割に道が通じず、一度は計画を中止した。しかし、張騫の報告によって大夏へ通じる可能性があると分かり、再び西南夷との交渉を開始した。
(Part4: 武帝の匈奴攻略への張騫の貢献)
その後、張騫は校尉として大将軍に従い、匈奴を攻撃した。彼は水や草のある場所をよく知っていたため、軍隊は補給に困ることがなかった。その功績により、張騫は「博望侯」に封じられた。この年は元朔六年(紀元前123年)であった。
その翌年、張騫は衛尉に任命され、李将軍と共に右北平(現在の河北省北部)から出撃し、匈奴を討伐した。しかし、匈奴の軍勢に囲まれ、李将軍の軍は多くの兵を失った。また、張騫は期日に遅れた罪で斬首刑に処されるところだったが、財産を差し出して罪を贖い、庶民に降格された。
その年、漢は驃騎将軍(衛青)を派遣し、匈奴の西方領域に攻め込み、数万人を討ち取り、祁連山まで進軍した。
その翌年、匈奴の渾邪王が部族民を率いて漢に降伏した。その結果、金城(現在の甘粛省蘭州一帯)から河西(現在の甘粛省西部)、さらに南山(祁連山)から塩沢(青海湖)に至る地域は、すべて匈奴の支配から解放された。匈奴の斥候が時折訪れることはあったが、その数は非常に少なくなった。
さらにその二年後、漢の軍は匈奴の単于を漠北(ゴビ砂漠の北)へ追いやった。
(Part5: 匈奴攻略の為に烏孫を調略する事を張騫は武帝に進言)
この後、天子(武帝)はたびたび張騫に大夏などの国々について尋ねた。
しかし、張騫はすでに侯の位を失っていたため、次のように進言した。
「私は匈奴に滞在していた際、烏孫王の昆莫(こんばく)について聞きました。昆莫の父は匈奴の西方の小国の王でしたが、匈奴の攻撃を受けて殺されました。
その時、昆莫はまだ赤子で、野に捨てられました。しかし、烏(カラス)が肉をくわえてきて彼に与え、狼がやってきて乳を与えたのです。単于(匈奴の王)はこれを不思議に思い、『神の子に違いない』と考え、昆莫を拾い上げて育てました。
やがて昆莫が成長すると、軍を率いて何度も功績を挙げました。そこで単于は、昆莫の父の旧民を彼に与え、西方の領地を治めさせました。
昆莫は民を集め、小国を攻め取り、弓を引く兵(騎馬弓兵)を数万人擁し、戦闘にも熟達しました。単于が死ぬと、昆莫は部族を率いて遠くに移り、中立を保ち、匈奴の朝会に参じることを拒みました。
匈奴は精鋭部隊を送って攻撃しましたが、勝てませんでした。彼を『神の子』と恐れ、遠ざけるようになり、最終的には形式的に従属する関係となりました。しかし、本格的に攻撃することはありませんでした。
今、単于は漢の軍に大敗を喫し、かつて渾邪王(こんやおう)の支配していた土地は無人のままです。異民族は漢の財貨を貪る習性があります。そこで今こそ、大量の贈り物をもって烏孫を懐柔し、彼らを東方に移住させて、旧渾邪王の地に住まわせ、漢と兄弟の契りを結ぶのがよいでしょう。
もし烏孫がこれを受け入れれば、匈奴の右腕を切断することになります。さらに烏孫と結べば、その西の大夏などの国々も誘い寄せて、漢に朝貢する属国とすることができるでしょう。」
(Part6: 武帝は、張騫に烏孫の調略を命じた)
天子はこの意見をもっともだと考え、張騫を中郎将に任命し、総勢三百人を率いさせた。それぞれの者に馬二匹を与え、さらに牛や羊は数万頭、金・宝・絹織物などを数千巨万の価値に相当するほど持たせた。また、節(皇帝の使者の証)を多く持たせ、副使を随行させ、道中の諸国にも使者を派遣できるようにした。
張騫が烏孫に到着すると、烏孫王の昆莫は漢の使者を単于に対するのと同じ礼で迎えた。張騫はこれを大いに恥じ、蛮夷(異民族)が貪欲であることを悟り、
「天子からの贈り物を受け取るのであれば、王は必ず拝礼をしなければなりません。もし拝礼しないのであれば、贈り物を持ち帰ります。」
と言った。昆莫は仕方なく拝礼を行い、贈り物を受け取ったが、それ以外の対応は従来通りであった。
張騫は彼に説得を試みた。
「烏孫が東へ移り、旧渾邪王の地に住むならば、漢は翁主(皇帝の娘)を昆莫の妃とします。」
しかし、烏孫の国は分裂していた。王はすでに老齢であり、漢の勢力から遠く離れていたため、漢の国力がどれほどのものか判断できなかった。また、彼らは長年にわたり匈奴に服属しており、匈奴の近隣に住んでいたこともあり、その大臣たちは皆、匈奴を恐れていた。そのため、彼らは移住を望まず、王も独断で決めることができなかった。
張騫は彼らの要点を掴むことができなかった。
昆莫には十数人の子がいた。そのうちの一人、大祿(たいろく)は勇敢で軍を統率するのが得意であり、一万人以上の騎馬兵を率いて別の場所に住んでいた。
大祿の兄は太子であり、彼の子に岑娶(しんしゅ)がいた。しかし、太子は早世してしまった。
太子の岑娶(しんしゅ)の父(先代の太子)は臨終の際、父の昆莫(こんばく)にこう言い残した。
「必ず岑娶を太子にしてください。他の者に取って代わらせてはなりません。」
昆莫は悲しみながらもこれを承諾し、結局、岑娶を太子とした。
しかし、大祿(たいろく)は、自分が太子になれなかったことを怒り、兄弟たちを集め、兵を率いて反乱を企て、岑娶や昆莫を攻撃しようとした。
昆莫は老いており、常に大祿が岑娶を殺すのではないかと恐れていた。そこで、岑娶に1万騎を与え、別の場所に居住させ、自らも1万騎を率いて備えた。こうして烏孫の民は三派に分裂したが、大半の勢力は依然として昆莫を盟主としていた。そのため、昆莫も張騫(ちょうけん)と単独で盟約を結ぶことはできなかった。
そこで張騫は、副使を分遣し、大宛(フェルガナ)、康居(サカ王国)、大月氏(バクトリア地方)、大夏(バクトリア)、安息(パルティア)、身毒(インド)、于窴(ホータン)、扜穼(未詳)および周辺諸国に派遣した。
烏孫は案内人と通訳を派遣し、張騫を護送して漢へ帰らせた。張騫はまた、烏孫の使者数十人と馬数十匹を伴い、謝礼として漢へ送り返した。そして烏孫の使者に漢の広大さを探らせた。
(Part7: 張騫の死去、その後の漢の西方外交)
張騫が帰国すると、天子(武帝)は彼を「大行」(外交を司る官)に任命し、九卿(最高位の官職)の列に加えた。しかし、その翌年、張騫は死去した。
烏孫の使者が帰国し、漢の人々の多さと富裕ぶりを報告すると、烏孫の国はさらに漢を重視するようになった。
その後、約一年が経ち、張騫が派遣した使者たちが、大夏などの国々と交易を結び、現地の人々と共に帰国した。こうして、西北の国々は初めて漢と正式に通交することとなった。
張騫が道を開いたことを「鑿空」(さくくう、「空を切り開く」の意)と称し、それ以降、漢の使者が諸国に赴くたびに、「博望侯」(張騫の封号)を名乗り、外交の場での信用を得るようになった。これにより、外国も漢の使者を信頼するようになった。
博望侯・張騫の死後、匈奴は漢と烏孫が通交したことを知り、怒って攻撃しようとした。しかし、漢の使者が烏孫へ赴き、もし南へ進めば大宛や大月氏と直接連携できることを示すと、烏孫は恐れを抱き、使者を送り、良馬を献上し、漢の皇女(翁主)を娶りたいと申し出て、兄弟の契りを結ぼうとした。
天子が群臣に意見を求めると、皆が「まず婚姻の準備を整え、その後に皇女を送るべきです」と答えた。
かつて、天子(武帝)が書経を解いた際、「神馬は西北から来る」との文言があった。そして烏孫の良馬を得た際、それを「天馬」と名付けた。
さらに後に大宛(フェルガナ)の「汗血馬」(血のような汗をかく馬)を得ると、これをさらに優れたものと考え、烏孫の馬を「西極馬」と改称し、大宛の馬を「天馬」とした。
この時、漢は西方との通交を強化するため、令居(現在の寧夏回族自治区の一部)の西方に城を築き、酒泉郡を設置し、西北の国々との往来を開いた。
こうして漢はさらに使者を派遣し、安息(パルティア)、奄蔡(カンガイ)、黎軒(不明)、條枝(シリア地方)、身毒(インド)へと至らせた。
天子(武帝)は大宛の良馬を好んだため、使者たちが道中で次々と入れ替わるほど頻繁に派遣された。外国へ派遣される使節団は、一行の規模が大きい場合は数百人、小さい場合でも百余人に達し、彼らが携える金銀財宝は、かつて博望侯(張騫)が持参したものよりもはるかに多かった。
しかし、次第にこのような派遣は慣例化し、次第に使者の規模は縮小していった。漢の使節派遣の頻度は、多い年で十回以上、少ない年でも五、六回であり、遠方へ赴いた使者は八、九年を経て帰還し、近い国への使者でも数年かかった。
(Part8: 漢による南方貿易ルート戦略)
この時期、漢はすでに南越を滅ぼしており、その影響で蜀(現在の四川省)や西南夷(雲南・貴州地方の少数民族)も震え上がり、漢に対して臣従を願い出て、官吏を朝廷に派遣した。
これを受けて、漢は益州(現在の四川省南部)、越巂(現在の雲南省)、牂柯(現在の貴州省)、沈黎(現在の四川省)、汶山(現在の四川省)に郡を設置し、大夏(バクトリア)への道をつなぐことを目的とした。
そこで柏始昌(はくししょう)、呂越人(りょえつじん)らを使者として、毎年十回以上派遣し、新たに設置した郡を経由して大夏へ到達させようとした。
しかし、彼らはことごとく昆明(雲南地方の部族)によって阻まれ、使者は殺され、贈り物や財物を奪われ、ついに大夏に到達することはできなかった。
そこで漢は三輔(長安周辺)の罪人を徴発し、さらに巴蜀(四川地方)の兵士数万人を動員し、郭昌(かくしょう)・衛広(えいこう)ら二人の将軍を派遣して、漢の使者を阻む昆明を討伐させた。その結果、数万人の首を斬り、捕虜を得て帰還した。
しかし、その後も使者を派遣したものの、昆明は再び侵略と略奪を繰り返し、結局、大夏への南方ルートを開通させることはできなかった。
(Part9: シルクロード交易の実態)
一方で、北方ルートである酒泉(現在の甘粛省)を経由して大夏へ向かう使者は次第に増加したが、外国の諸国は次第に漢の財物に飽き、もはやそれを珍重しなくなっていった。
博望侯(張騫)が最初に道を開いた時には、異国との交流が貴ばれた。しかし、その後は随行する役人や兵士たちが競って「外国には珍しい物があり、利益を得られる」と上書し、使者としての任命を求めるようになった。
しかし、天子(武帝)はこれらの国々が極めて遠く、人々が好んで赴く場所ではないことを知っていたため、彼らの上奏を聞き入れ、正式な使者として派遣する際に、特に出身や身分を問わず志願者を募ることとした。そして、十分な物資と人員を整え、各国との往来を促進した。
しかし、派遣された者たちは帰還後、財宝を盗む者が多く、また任務を失敗する者もいた。天子は、このような事態が続けば、使節派遣が形骸化してしまうと憂慮し、彼らの過失を厳しく追及し、重罪に処した。このため、使者たちは身代金を払って罪を赦されることを望み、再び使者に志願する者が絶えなかった。
こうして、使節派遣は無限に繰り返されるようになり、法を軽んじて財物を盗むことが日常茶飯事となった。さらに、役人や兵士たちは競って外国の富を誇張して報告し、規模の大きな報告をする者には正式な使節の資格(節)を与え、小規模な報告をする者には副使の役職を与えた。
そのため、根拠のない誇張や虚偽の情報を流布する者が続出し、皆が競って使者として任命されようとする状況が生まれた。
こうした使者たちは皆、貧しい家の出身であり、官から支給された物資を私的に横領し、安価に売り払って外国との私的な取引で利益を得ようとしていた。
外国側もまた、漢の使者がそれぞれ好き勝手に誇張したり軽視したりすることに飽き飽きしていた。そして、漢の軍隊が遠方にあり、すぐには到達できないと見て、食料の供給を禁止し、漢の使者を苦しめた。そのため、漢の使者たちは食糧不足に陥り、怨恨が積もり、ついには互いに攻撃し合う事態にまで発展した。
楼蘭・姑師のような小国は、通商路の要所に位置していたため、漢の使者である王恢らを襲撃することが特にひどかった。また、匈奴の奇襲部隊がしばしば西方へ向かう漢の使者を攻撃した。
(Part10: 楼蘭の攻略)
このような状況下で、漢の使者たちは競って外国の災害や弱点を誇張し、「それぞれの国は城を持ち、軍は弱く、攻めやすい」と報告した。

そこで、天子(武帝)は驃騎将軍(騎兵の司令官)の属官である破奴を派遣し、属国の騎兵と郡の兵士数万人を率いて匈河水(現在の新疆付近)に進軍させ、匈奴を討とうとした。しかし、匈奴は逃げ去った。
翌年、漢軍は姑師を攻撃し、破奴は七百余騎の軽騎兵を率いて先鋒を務め、楼蘭王を捕らえ、さらに姑師を撃破した。そして、軍の威光を示し、烏孫・大宛などの国々を圧倒した。帰国後、破奴は「浞野侯」に封ぜられた。
王恢はたびたび使者として派遣され、楼蘭による襲撃を受けていたため、天子に訴えた。そこで、天子は軍を発し、王恢を破奴の補佐として派遣し、楼蘭を討伐させた。その功績により、王恢は「浩侯」に封ぜられた。
こうして、酒泉から玉門に至る道に関所が設置されることとなった。
(Part10: 烏孫との政略結婚による外交)
その後、烏孫は千匹の馬を献じ、漢の皇族の娘である江都翁主(こうとおうしゅ)を王妃として迎えたいと申し出た。漢はこれに応じ、江都翁主を烏孫に嫁がせた。烏孫王・昆莫は彼女を「右夫人」とした。
一方、匈奴もまた、自国の娘を昆莫に嫁がせ、彼女を「左夫人」とした。
昆莫は「私は老いた」と言い、自らではなく孫の岑娶(しんしゅ)に江都翁主を娶らせた。
烏孫は馬の産地として知られ、富裕層は四千〜五千匹の馬を所有していた。
(Part11: 安息との外交)
当初、漢の使者が安息(パルティア)に到着すると、安息王は二万騎を率い、東の国境まで出迎えに来た。
東の国境から王都までは数千里も離れていた。
漢の使者が進むにつれて、幾十もの城を通過し、至るところで人々が連なり、人口が非常に多いことがわかった。
漢の使者が帰還すると、安息王は改めて使者を派遣し、漢の国の広大さを視察させた。そして、大鳥の卵や、黎軒(れいけん、未知の国)の幻術師を献上した。
さらに、大宛の西の小国である驩潛(かんせん)、大益(たいえき)、大宛の東の国である姑師(こし)、扜穼(うしん)、蘇薤(そかい)などの諸国も、漢の使者に随行し、天子に貢ぎ物を献上した。
天子はこれを大いに喜んだ。
(Part12: 黄河源流の探査と西域諸国との外交)
また、漢の使者は黄河の源流を探査し、その水源が于窴(うてん)にあることを突き止めた。その地の山には多くの玉石があり、これを採掘して持ち帰った。天子は古代の地図を調べ、この山を「崑崙山」と名付けた。
この頃、天子は頻繁に東方の海辺を巡幸していた。そして、外国の使節が来るたびに、多くの人々を集めて宴を開き、金銀財宝を惜しみなく分配した。また、膨大な物資を提供し、漢の豊かさを誇示した。
そこで、「觳抵(こくてい)」という異国の奇妙な芸能や幻術を披露し、観衆を驚かせた。そして、賓客に対して莫大な賞賜を与え、酒池肉林の宴を催し、外国の使者たちに漢の倉庫や宝庫に積まれた財宝を見せつけた。これを見た外国の使者たちは、漢の国力に驚嘆した。
さらに、幻術の技を磨き、新たな演目を次々と追加し、その奇観は年々盛んになり、この時をもって始まった。
こうして、西北の外国との交流は活発になり、使節団が往来を繰り返すようになった。
しかし、大宛より西の諸国は距離が遠いため、なおも傲慢で気ままであり、漢の礼による統制に服することはなかった。
烏孫より西、安息(パルティア)に至る地域は、匈奴に近い。匈奴はかつて大月氏を圧迫していたため、匈奴の使者が単于の命令を持って各国を訪れると、どの国も食糧を提供し、単于の使者を厚遇した。各国は匈奴を恐れ、使者を苦しめることなく、無事に通過させたのである。
しかし、漢の使者が訪れると、彼らは布帛(絹織物)を差し出さなければ食料を得られず、家畜を購入しなければ馬に乗ることもできなかった。
その理由は、漢が遠方にありながら豊富な財物を持っていたため、各国が必ず交易を通じて利益を得ようとしたからである。ただし、彼らは匈奴を恐れていたため、漢の使者に対しても一定の敬意を払っていた。
大宛の周辺では、葡萄を使って酒を醸造していた。富裕層は一万石以上の酒を貯蔵し、数十年が経過しても腐敗しなかった。彼らの風習として酒を好み、馬は苜蓿(マメ科の牧草)を好んで食べた。
漢の使者はこれらを持ち帰ったため、天子(武帝)は初めて苜蓿と葡萄を肥沃な土地に植えさせた。やがて、天馬(汗血馬)が増え、外国の使者が頻繁に訪れるようになると、離宮や別館の周辺には見渡す限り葡萄と苜蓿が栽培されるようになった。
大宛から西の安息に至る諸国は、言語に違いがあるものの、習俗はおおむね似通っており、相互に意思疎通が可能であった。
この地方の人々は皆、目が深く落ちくぼみ、多くは髭を蓄えていた。商業に優れ、細かな計算を競い合っていた。
彼らの習俗では女性が尊ばれ、女性の発言が重視され、最終的な決定を下すのは男性であった。
また、この地域では絹や漆が産出されず、貨幣鋳造の技術もなかった。しかし、漢の使者に随行した兵士のうち、逃亡して現地に降伏した者が、貨幣鋳造や武器製造の技術を教えた。そのため、彼らは漢の金(黄金・白金)を手に入れると、すぐに器物として加工したが、貨幣としては用いなかった。
漢の使者がこの地方を訪れることが多くなると、天子に取り立てられる者も増えた。
ある時、彼らは天子にこう報告した。
「大宛の貳師城には優れた名馬がいるが、現地の者たちはそれを隠し、漢の使者に与えようとしません。」
天子はもともと大宛の馬を好んでいたため、この話を聞いて強く興味を持ち、壮士・車令(しゃれい)らに千金と黄金の馬を持たせ、貳師城の名馬を求めるよう命じた。
大宛の国はすでに多くの漢の物資を得ていたため、国王と重臣たちは協議し、こう語り合った。
「漢は我々から遠く離れている。塩水のある道では何度も敗北しており、北へ進めば匈奴の賊がおり、南へ向かえば水草が不足している。また、道中には廃墟となった村々が点在し、食料が欠乏するため、漢の使者たちは数百人の規模で来ても、いつも飢え、途中で半数以上が死んでしまう。どうして大軍を派遣できるだろうか。我々に何ができるというのか。そもそも貳師の馬は、大宛にとっての宝馬である。」
こうして、大宛の国は漢の使者に馬を与えることを拒んだ。
漢の使者は怒り、激しい言葉を投げつけ、黄金の馬を地面に叩きつけて立ち去った。
これを見た大宛の貴族たちは憤慨し、「漢の使者は我々を侮辱した!」と叫んだ。
そこで、漢の使者を国外へ追放し、東方の国境にある郁成(いくせい)に命じて待ち伏せし、漢の使者を襲撃し、その財物を奪った。
(Part13: 大苑の攻略)
この報告を受けた天子は大いに怒った。
過去に大宛を訪れたことのある使者・姚定漢(ようていかん)らは、「大宛の軍勢は弱く、漢の兵士が三千人もいれば、強力な弩(弓)を用いて簡単に彼らを捕らえ、滅ぼすことができるでしょう」と進言した。
天子(武帝)はかつて浞野侯を派遣して楼蘭を攻めさせ、七百騎を率いて先に到着し、その王を捕虜とした。
これを聞いた天子は、姚定漢らの意見を妥当だと判断した。また、寵愛していた妃の李氏を喜ばせるため、李氏の兄である李広利を「貳師将軍」に任じ、六千騎の属国騎兵と、郡国のならず者数万人を動員し、大宛を討伐することを決めた。
目標は貳師城の名馬を手に入れることだったため、李広利の軍は「貳師将軍」と名付けられた。
趙始成が軍正(軍の監督役)となり、浩侯・王恢が軍を導く役割を担い、李哆(りた)が校尉として軍事を統率した。この年は太初元年(紀元前104年)である。
しかし、その頃、関東では大規模な蝗害が発生し、飛蝗は西へ飛び、敦煌にまで達していた。
貳師将軍の軍は西へ進み、塩水を越えたが、道中の小国は恐れて城を堅守し、食糧を提供しようとしなかった。攻めても陥落させることができず、降伏した国からのみ食料を得ることができた。
抵抗する国は数日間包囲した後、兵糧不足のため撤退せざるを得なかった。
郁成(いくせい)に到着した時、漢軍の兵力はわずか数千に減り、兵士たちは飢えと疲労に苦しんでいた。
郁成を攻撃したものの、大敗を喫し、多くの兵が戦死・負傷した。
貳師将軍の李広利は李哆、趙始成らと協議し、「郁成すら攻略できないのに、まして大宛の王都を攻めることなどできるのか」と判断し、兵を引き返した。
遠征は二年に及び、敦煌へ戻った時、兵士は出発時の10~20%しか生き残っていなかった。
使者を派遣し、天子に報告した。
「道は遠く、食糧の補給が困難です。兵士たちは戦うことを恐れているのではなく、飢えに苦しんでいます。人手が足りず、大宛を攻略することはできません。一度軍を撤収し、増援を得て再出発するのがよいでしょう。」
これを聞いた天子は激怒し、使者を玉門関で待ち伏せさせ、「軍が戻ってきたら、その場で斬れ!」と命じた。
貳師将軍は恐れをなし、敦煌に留まることになった。
その夏、漢軍は匈奴との戦いで浞野侯の兵二万余を失った。
(Part14: 大苑の攻略、第二陣)
朝廷の公卿や諸議官は、「大宛遠征を中止し、匈奴討伐に専念すべきだ」と主張した。
しかし天子はすでに大宛征討を決めており、「大宛のような小国を征服できなければ、大夏などの諸国が漢を軽んじるだろう。さらに、大宛の名馬が手に入らず、烏孫や侖頭の国々も漢の使者を侮るようになれば、他国からも笑われる」と考えた。
そこで、遠征に反対した鄧光らの意見を退け、囚人兵や罪人を赦免し、ならず者や辺境の騎兵を大量に徴集した。
一年以上の準備を経て、敦煌から出発した軍勢は六万人に及んだ。ただし、個人的な事情で同行を希望した者は許されなかった。
また、十万頭の牛、三万頭以上の馬、さらに驢馬やラバ、ラクダが数万頭も動員された。
兵糧は大量に運ばれ、弩兵(弓兵)も十分に配置された。
この大遠征により、天下は騒然となり、全国の兵士が交代で従軍し、最終的に五十余人の校尉が指揮を執ることになった。
大宛の王城には井戸がなく、人々は城外の流水を汲んでいた。
そこで、漢軍は水利技術者を派遣し、水路を変更して城内への給水を断った。
さらに、酒泉・張掖の北方には十八万の戍兵(駐屯軍)を増派し、新たに居延・休屠の拠点を設け、酒泉を防衛させた。
全国から選ばれた七科適(精鋭兵士)を集め、貳師将軍の補給を支援した。
物資輸送のための車列と人夫が連なり、敦煌にまで達していた。
また、優れた馬の選別を目的として、馬の専門家二人が「執驅校尉」に任命され、大宛の優れた馬を確保することになった。
こうして貳師将軍は再び遠征に出発した。
今回は大軍を擁していたため、道中の小国はすべて降伏し、兵糧を提供した。
しかし、侖頭の国は降伏しなかったため、数日間攻撃を加え、遂にこれを滅ぼした。
そこから先は順調に進軍し、大宛の王城に到着した。
この時、漢軍は三万人に減っていたが、大宛軍は迎え撃った。
漢軍は弓を射てこれを撃退し、大宛軍は城内に逃げ込んだ。
貳師将軍は郁成を攻撃することも考えたが、これを攻める間に大宛がさらに策を巡らせることを恐れ、まず大宛の城の水源を断つことを決定した。
水路を変更したことで、大宛の城内は深刻な水不足に陥り、困窮した。
そこで城を包囲し、四十日以上攻撃を続けた。
ついに外城が陥落し、大宛の貴族や勇将である煎靡(せんび)を捕虜とした。
大宛の王とその側近たちは恐怖し、中城へと逃げ込んだ。
大宛の貴族たちは相談し、こう言った。
「漢軍が大宛を攻めているのは、王・毋寡(ぶか)が優れた馬を隠し、漢の使者を殺したためである。今、王・毋寡を殺してその首を差し出し、善馬を提供すれば、漢軍は撤退するだろう。もしそれでも撤退しなければ、そのときこそ力を尽くして戦い、死ぬ覚悟を決めれば遅くはない。」
貴族たちはこの意見に賛同し、王・毋寡を殺してその首を取り、貴族の使者を派遣して貳師将軍(李広利)に伝えた。
彼らは次のように申し出た。
「漢軍は我々を攻撃しないでほしい。我々はすべての善馬を差し出し、漢軍の望むままに取らせ、さらに食糧を提供する。もし受け入れないのであれば、我々はすべての善馬を殺し、さらに康居(こうきょ)の援軍が到着するまで持ちこたえるつもりだ。康居軍が到着すれば、我々は城内、康居軍は城外から漢軍を挟み撃ちにする。漢軍はそれを考えたうえで、どうするか決断せよ。」
この時、康居の偵察隊は漢軍の様子をうかがっていたが、まだ兵力が強大だったため、攻撃を仕掛けることはできなかった。
貳師将軍は趙始成や李哆(りた)らと協議し、
「聞くところによれば、大宛の城内には新たに秦人(漢人)が流入し、彼らは井戸を掘る技術を持っているという。また、まだ十分な食糧が残っている。我々が遠征した目的は、悪事の首謀者・毋寡を討つことだったが、彼の首はすでに届けられた。ここで和議を受け入れなければ、彼らは城を固守し、やがて康居の軍が漢軍の疲弊を待って援軍として参戦し、我々は大敗することになるだろう。」と述べた。
軍の役人たちもこれに同意し、大宛との和議を受け入れた。
大宛は約束通り、優れた馬を提供し、漢軍に選ばせた。また、多くの食糧を出して漢軍を支援した。
漢軍は優れた馬数十匹、中等以下の馬・牡牝合わせて三千匹余りを得た。
さらに、以前から漢の使者を手厚くもてなしていた大宛の貴族・昧蔡(まいさい)を新たな王として擁立し、盟約を結び、漢軍は撤退した。
しかし、漢軍はついに大宛の中城には入ることができなかった。
(Part15:  郁成攻略)
当初、貳師将軍は敦煌を出発した際、「兵士が多すぎると道中の小国が食糧を供給できなくなる」と考え、軍を南北の二路に分けて進軍していた。
その中で、校尉・王申生(おうしんせい)や、かつての鴻臚(外交官)・壺充国(ここうこく)ら千余人は別動隊として郁成に向かった。
しかし、郁成は城を固く守り、漢軍に食糧を提供しなかった。
王申生は本隊から二百里も離れており、郁成を侮っていた。
郁成側は漢軍の兵糧が少なくなっているのを察知し、夜明けに三千人の兵で襲撃をかけた。
王申生らは討ち取られ、軍は壊滅。わずか数人が逃れ、貳師将軍のもとへ戻った。
貳師将軍はこれを受け、搜粟都尉(食糧補給を担当する役職)・上官桀(じょうかんけつ)に郁成を攻撃させた。
郁成王は康居へと逃亡したが、上官桀は追撃し、康居にまで到達した。
康居は、すでに大宛が漢に降伏したと聞くと、郁成王を引き渡した。
上官桀は郁成王を捕縛し、四人の騎士に護送を命じた。
ところが、その四人は相談し、
「郁成王は漢にとって害悪な存在であり、生かして連れて行けば大事を失うことになる。」と考えた。
しかし、誰も最初に手を下そうとはしなかった。
そのとき、上邽(じょうけい)の騎士・趙弟(ちょうてい)、最年少の者が剣を抜いて郁成王を斬り、その首を持ち帰った。
趙弟と上官桀らは大将軍(貳師将軍)と合流した。
(Part16: 遠征の終結)
貳師将軍が進軍していた頃、天子(武帝)は使者を烏孫に派遣し、共に大宛を攻撃するよう要請した。
烏孫は二千騎を派遣したが、情勢を見極めようとし、積極的に戦うことはなかった。
貳師将軍が東へ帰還する際、途中の小国は大宛が敗れたと聞き、皆、貢物を携えて従い、天子に謁見を願い出て人質を差し出した。
この戦役では、軍正・趙始成は勇猛に戦い、最大の戦功を挙げた。
また、上官桀は果敢に深入りし、李哆は戦略面で活躍した。
玉門関へ帰還した兵は一万人余り、軍馬は千匹余りだった。
貳師将軍の軍は、食糧不足には陥らなかったものの、戦死者は少なく、むしろ将官が兵士を酷使し、私利を貪ったため、多くの者が疲弊して死んだ。
天子は、この万里の遠征を実行し、その結果を評価し、李広利を海西侯に封じた。
また、郁成王を斬った騎士・趙弟を新畤侯に封じた。
さらに、趙始成は光禄大夫、上官桀は少府、李哆は上党太守となった。
この遠征では、三人の者が九卿(最高官職)に任じられ、諸侯相・郡守・二千石級の高官が百余人、千石以下の官職を得た者が千余人に及んだ。
功績を挙げた者は望外の昇進を遂げたが、逆に期待を裏切った者は降格された。
兵士たちには総額四万金が与えられた。
この大宛遠征は二度にわたり、四年間を費やしてようやく終結した。
(Part17:遠征後の大宛)
漢軍が去った後、大宛では昧蔡が王となったが、貴族たちは「昧蔡は媚びへつらい、大宛を滅亡の危機に陥れた」と考え、彼を殺し、毋寡の兄弟・蟬封を新たな王とした。
そして、その子を人質として漢に送った。
漢はこれを受け、使者を派遣して恩賞を与え、大宛を鎮撫した。
また、漢は使者を十数組派遣し、大宛の西方にある諸外国に赴かせ、珍しい品々を求めさせた。そして、その機会を利用して、大宛遠征の威光を広く伝えた。
さらに、敦煌に酒泉都尉を設置し、西は塩水(えんすい)までの各地に驛亭を整備した。また、侖頭(ろんとう)には数百人の田卒(農業従事者)がいたため、漢はそこに使者を派遣して彼らを監督させ、穀物を蓄え、国外への使者に供給させた。
(Part18: Epilogue - -司馬遷の考察)
太史公(司馬遷)は言う。
『禹本紀』には「河は崑崙に発す。崑崙の高さは二千五百余里であり、太陽と月がその影に隠れ、光が生じる。その頂上には醴泉(れいせん)と瑤池(ようち)がある」と記されている。
しかし、張騫(ちょうけん)が大夏(たいか)に使いした後、黄河の源流を探究したが、『本紀』に記されたような崑崙山を見た者はいない。
したがって、九州の山川について語るならば、『尚書』の記述が比較的信頼できる。しかし、『禹本紀』や『山海経』にある奇怪な事物については、私はあえて言及しないことにする。
------------------ 史記 大宛列傳 原文 --------------------
底本は、Chinese Text Project の《武英殿二十四史》本「史記」です。
大宛之跡,見自張騫。張騫,漢中人。建元中為郎。
是時天子問匈奴降者,皆言匈奴破月氏王,以其頭為飲器,月氏遁逃而常怨仇匈奴,無與共擊之。
漢方欲事滅胡,聞此言,因欲通使。
道必更匈奴中,乃募能使者。騫以郎應募,使月氏,與堂邑氏(故)胡奴甘父俱出隴西。經匈奴,匈奴得之,傳詣單于。單于留之,曰:「月氏在吾北,漢何以得往使?吾欲使越,漢肯聽我乎?」留騫十餘歲,與妻,有子,然騫持漢節不失。
居匈奴中,益寬,騫因與其屬亡鄉月氏,西走數十日至大宛。
大宛聞漢之饒財,欲通不得,見騫,喜,問曰:「若欲何之?」騫曰:「為漢使月氏,而為匈奴所閉道。
今亡,唯王使人導送我。誠得至,反漢,漢之賂遺王財物不可勝言。」大宛以為然,遣騫,為發導繹,抵康居,康居傳致大月氏。
大月氏王已為胡所殺,立其太子為王。既臣大夏而居,地肥饒,少寇,志安樂,又自以遠漢,殊無報胡之心。
騫從月氏至大夏,竟不能得月氏要領。
留歲餘,還,并南山,欲從羌中歸,復為匈奴所得。留歲餘,單于死,左谷蠡王攻其太子自立,國內亂,騫與胡妻及堂邑父俱亡歸漢。
漢拜騫為太中大夫,堂邑父為奉使君。
騫為人彊力,寬大信人,蠻夷愛之。
堂邑父故胡人,善射,窮急射禽獸給食。初,騫行時百餘人,去十三歲,唯二人得還。
騫身所至者大宛、大月氏、大夏、康居,而傳聞其旁大國五六,具為天子言之。
曰:大宛在匈奴西南,在漢正西,去漢可萬里。其俗土著,耕田,田稻麥。有蒲陶酒。
多善馬,馬汗血,其先天馬子也。
有城郭屋室。其屬邑大小七十餘城,眾可數十萬。
其兵弓矛騎射。
其北則康居,西則大月氏,西南則大夏,東北則烏孫,東則扜穼、于窴。于窴之西,則水皆西流,注西海;其東水東流,注鹽澤。鹽澤潛行地下,其南則河源出焉。
多玉石,河注中國。
而樓蘭、姑師邑有城郭,臨鹽澤。鹽澤去長安可五千里。
匈奴右方居鹽澤以東,至隴西長城,南接羌,鬲漢道焉。
烏孫在大宛東北可二千里,行國,隨畜,與匈奴同俗。
控弦者數萬,敢戰。故服匈奴,及盛,取其羈屬,不肯往朝會焉。
康居在大宛西北可二千里,行國,與月氏大同俗。控弦者八九萬人。
與大宛鄰國。國小,南羈事月氏,東羈事匈奴。
奄蔡在康居西北可二千里,行國,與康居大同俗。
控弦者十餘萬。臨大澤,無崖,蓋乃北海云。
大月氏在大宛西可二三千里,居媯水北。
其南則大夏,西則安息,北則康居。
行國也,隨畜移徙,與匈奴同俗。
控弦者可一二十萬。
故時彊,輕匈奴,及冒頓立,攻破月氏,至匈奴老上單于,殺月氏王,以其頭為飲器。始月氏居敦煌、祁連閒,及為匈奴所敗,乃遠去,過宛,西擊大夏而臣之,遂都媯水北,為王庭。其餘小眾不能去者,保南山羌,號小月氏。
安息在大月氏西可數千里。
其俗土著,耕田,田稻麥,蒲陶酒。城邑如大宛。
其屬小大數百城,地方數千里,最為大國。
臨媯水,有市,民商賈用車及船,行旁國或數千里。
以銀為錢,錢如其王面,王死輒更錢,效王面焉。畫革旁行以為書記。
其西則條枝,北有奄蔡、黎軒。
條枝在安息西數千里,臨西海。暑溼。耕田,田稻。
有大鳥,卵如甕。人眾甚多,往往有小君長,而安息役屬之,以為外國。國善眩。
安息長老傳聞條枝有弱水、西王母,而未嘗見。
大夏在大宛西南二千餘里媯水南。
其俗土著,有城屋,與大宛同俗。無大(王)[君]長,往往城邑置小長。
其兵弱,畏戰。善賈市。及大月氏西徙,攻敗之,皆臣畜大夏。大夏民多,可百餘萬。其都曰藍市城,有市販賈諸物。其東南有身毒國。
騫曰:「臣在大夏時,見邛竹杖、蜀布。
問曰:『安得此?』
大夏國人曰:『吾賈人往市之身毒。身毒在大夏東南可數千里。
其俗土著,大與大夏同,而卑溼暑熱云。
其人民乘象以戰。其國臨大水焉。』以騫度之,
大夏去漢萬二千里,居漢西南。
今身毒國又居大夏東南數千里,有蜀物,此其去蜀不遠矣。
今使大夏,從羌中,險,羌人惡之;少北,則為匈奴所得;從蜀宜徑,又無寇。」
天子既聞大宛及大夏、安息之屬皆大國,多奇物,土著,頗與中國同業,而兵弱,貴漢財物;其北有大月氏、康居之屬,兵彊,可以賂遺設利朝也。
且誠得而以義屬之,則廣地萬里,重九譯,致殊俗,威德遍於四海。
天子欣然,以騫言為然,乃令騫因蜀犍為發閒使,四道并出:出駹,出冉,出徙,出邛、僰,皆各行一二千里。
其北方閉氐、筰,南方閉巂、昆明。
昆明之屬無君長,善寇盜,輒殺略漢使,終莫得通。
然聞其西可千餘里有乘象國,名曰滇越,而蜀賈姦出物者或至焉,於是漢以求大夏道始通滇國。
初,漢欲通西南夷,費多,道不通,罷之。
及張騫言可以通大夏,乃復事西南夷。
騫以校尉從大將軍擊匈奴,知水草處,軍得以不乏,乃封騫為博望侯。
是歲元朔六年也。其明年,騫為衛尉,與李將軍俱出右北平擊匈奴。
匈奴圍李將軍,軍失亡多;而騫後期當斬,贖為庶人。
是歲漢遣驃騎破匈奴西(城)[域]數萬

Re: 漢籍の再学習:その34 「史記」「大宛列傳」司馬遷が示した史書の規範となった距離概念 当世奇妙

2025/04/04 (Fri) 10:00:20

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